『氷の星、人食いの凍月』(Ver 24.1.18)

 私は吐息した。死ねば私の意識はたしかに無となるに違いないが、肉体はこの宇宙という大物質に溶け込んで、存在するのを止めないであろう。私はいつまでも生きるであろう。

大岡昇平『野火』

 

 

 氷。
 固体の水。H₂O。
 六方晶系に属する結晶。
 無色透明。密度は一気圧〇℃において九一七キログラム毎立方メートル。水より軽いため水に浮き、水が凍ると体積は増える。氷結点及び融解点は通常〇℃だが、一気圧増えるごとにおよそ〇.〇一℃下がる。
 地球上の通常の条件では通常の氷しか発生しないが、圧力や温度を変えると違う種類の氷が生まれる。現在のところ確認されているのは、氷Ⅱ、氷Ⅲ、氷Ⅳ、氷Ⅴ、氷Ⅵ、氷Ⅶ、氷Ⅷ、氷Ⅸ、氷Ⅹ、氷Ⅻ。
 地球上の氷は、合計でおよそ二.四×一〇の一九乗キログラムとされている。

 

 これは、僕と、少女と、氷と、人食いと、世界の終わりの物語だ。

 

1 I'm Only Sleeping

 

 机に突っ伏した僕は首をすこし屈め、四限特有の空気を吸いながら、校庭を走る人々を眺めていた。ジャージの色からすると二年だろうか、どうやら体育はサッカーのようで、何人かがボールを追いかけている。窓越しに聞こえるセミの声。
 三年目の夏の始まり。下級生の元気そうな一団は、授業を終えた昼休みも運動して遊ぶのかもしれない。
 耳は右から左に授業の声をすりぬけていく。
「はい、この傍線部を復唱。……『けふのうちに とほくへ いってしまふ わたくしの いもうとよ みぞれがふって おもては へんに あかるいのだ』」
 音読が始まっていたが、誰も僕を気に留めはしない。順番に当てられるときも、ペアを組むときも、僕は綺麗に飛ばされ、無視される。
 入学してからこんなふうに快適になるまで、毎年そんなに時間はかからなかった。最初は教師に小突かれたり、近くの生徒にからかわれたりしたが、やがて誰も注意してこなくなった。それぐらい適当な学校といえば、そうなのかもしれないが。
 しかし僕だって、眠いから授業中に寝ているわけではない。退屈な授業も多いがそのせいで眠いわけでもない。進学の意欲があるかは微妙だが、それでもなんとなく何かやらなきゃいけないような気だってする。何かは分からないけれど。
 でも僕には、眠らなければいけない事情がある。
 ――窓の向こうを眺めているうちに、それは現れた。
 セミの叫びが止む。地面が突然真っ白に染まって光を放ち始めると、遠景の街並みが輪郭からゆっくりと変化していく。
 凍り始めているのだ。
 視界の一点から始まったそれはどんどん世界を侵食して、家々を、ビルを、高架線を、電柱と街灯を、表面から次々に凍結させていく。
 そして、世界のすべてを覆いつくして――
 瞬きの一瞬で、氷はすべて消えていた。何事もなく、見下ろす世界は僕に気づかず回転を続けていた。
 息をつく。額を拭うと、冷や汗。学校に来るなんて自殺行為だ。もちろん可能な限り休むようにはしているが、単位に必要な出席はしなければならない。
 あのとき――一〇年前からつきまとう、氷の幻。終末の幻。
 白昼の悪夢。
 もちろん僕は薬物を摂取しているわけではないし、医学的には精神病とも違うらしい。ただ、理由は分からないが見える。それだけ。
 だから僕は眠りを愛する。眠っている間は、絶対に幻覚を見ない。夢をほとんど見ないので、最高の気絶法なのだ。
 目の調子からして、やっぱり眠った方がいいらしい。そう判断してもう一度目を閉じた。
 いや、サボりたいって訳じゃないんだ。誰に言うでもなく、心の隅で言い訳をしながら眠りを待つ。
 でも、今日はまだ、睡魔はやってこなかった。

 

 座ったまま寝るのはあまり好きではない。必ず身体が痛くなっているからだ。
 おまけに最近はまともに眠れないので精神的にも休むことができず、苦痛だけが残ることになる。
 残念ながら今日も同じで、意識が残ったまま必死になっているうち時間が経ってしまった。必死になればなるほど眠れないのが世の常である。
 我に返って、今は何時なのだろうかと考えた。周囲に喧騒はない。眠ろうと集中していて気づかなかったが、とっくに授業も休み時間も終わったらしい。
 どうしたものか。
 眼を擦ってあたりを見回して――人影がわっと横から現れる。覗きこまれているのが分かった瞬間、網膜で像が結ばれた。
 よく知った顔の女子だ。 弓良扇(ゆら おうぎ)。同じクラスの学級委員。そして僕に話しかける唯一の生徒。
「……弓良さん」
 はいこれ、とまとめて紙束を渡される。いつからか僕のプリントはすべて彼女が一旦回収して渡すという仕組みになっていた。
「あっ、伊澄(いずみ)くん起きたんだね。おはよっ。もうホームルームまで全部終わったよ」
 弓良扇(ゆら おうぎ)。同じクラスの学級委員。そして僕に話しかける唯一の生徒。
「……弓良さん」
「はいこれ」とまとめて紙束を渡される。いつからか僕のプリントはすべて彼女が一旦回収して渡すという仕組みになっていた。「これ。明日は小テストが被ってるから気をつけて。現国で漢字、英語で英単語。英語はノー勉厳しいよ。範囲は単語帳セクション4の頭から。もう三年生。夏休みも近いし、受験に向けて期末も一種模試みたいな感じで――」
「……弓良さん、いつもありがたいんだけど、大丈夫?」
「ん? 何が?」
「だって、僕にかかりっきりで」
「私の勉強ってこと? ふふん、学級委員を舐めないで。よゆーよゆー」
「そうじゃなくて」言いにくいな、これ。「なんか、変な誤解? されないことも」
「なき世もおもしろく」
「それが座右の銘の人だいたい面白くないよね」
「たしかに」
 弓良さんは「誤解っていうのが何かよく分からないけど」と首を傾げる。
「いや、でも僕は男子で弓良さんは女子じゃないですか」
「家父長制」どういうボケだよ。「あー、そういうことね」
「気にしないの?」
「私は伊澄くんとどういう仲って思われても嫌じゃないよ。伊澄くんは嫌?」
 弓良さんは素でこういう女子なのだ。心配である。
「いやいやいやそんなことはない」「ならいいじゃん」「でもたとえば僕が弓良さんに……その、なんといいますか」「ガチ恋」「あの」「彼氏面」「ええとですね」「まだしてなかったの?」「してないです」「してないんだ。ふーん」「なんで落ち込むの?」
 放っておくと一日中こんな掛け合いが続きそう。
「ていうか、伊澄くんこそ心配だよ。ほんとにいっつも寝てるけど、大丈夫?」
「……だったら、いいんだけどね」
 なるほど確かに見当違いな方向で健康を心配されるわけだ。周囲からはそういった病気だと合点されるのかもしれない。少なくともクラスの何人かはそう思っているだろう。彼女のほかは話しかけてこないから分からないけれど。
「ま、ちょっと特殊な体質ってだけだから」
「そっか」
 でも彼女は僕の秘密に深く触れようとしない。それが不思議な関係の維持に繋がっているのかもしれない。
「ほら、寝る子は育つっていうし」
「末は右大臣か、左大臣か」
「あれってどっちが上なんだっけ?」
「忘れた」
 弓良さんを見ると、人生は奇妙だなと思う。
 ほのかに明色を帯びた髪を肩で揃え、男子の平均ほどの丈をまっすぐに伸ばし、いつでも笑みを絶やさず、ノリがよく、真面目で一生懸命だけど助けてあげたいぐらい絶妙に抜けている。それでいて、誰の視点にも感情の焦点を合わせられる、ついでにこの街の名家の生まれとおまけつき、生まれついて信頼されるリーダーとはこんな人なんだと思わせられる。まさに、僕と正反対だ。
 そんな人とこうやって話すようになるなんて不思議なものだ。……まぁ、そんな人だからこそ僕を気にしてくれるのかもしれないけど。
 最初に話しかけてくれたのがいつだったか、詳しく思い出せないけれど、クラス委員としてその日の課題や次の小テストの範囲などを教えてくれるうちに、いつからか、その時間で僕たちはとりとめもない話をするようになった。
「そういえばさ。寝てて知らなかったかもだけど、クラスの空気ヤバかったよ」
「何かあったの?」
 おもむろにスマホを取り出すと、鼻先で見せられる。「知らないの?」
 画面には、ニュースサイトが映っている。どちらかといえばゴシップ的な路線の記事で『住民震撼! 閑静な街に食人少女?』という頭の悪そうな見出しでセンセーショナルに報道されていた。
 それによると既に事件は五件を数え、大きな騒ぎになっている様子だ。
 記事によると、最初に事件が起きたのは先月の頭。今が七月の半ばだからまだ梅雨ごろだったことになる。
 深夜、あるマンションで中年の男性が殺されて見つかった。監視カメラには制服姿でキャリーバッグを持った少女を連れ込んだ男の姿が映っていたが、少女はひとりで帰ってきて、消えた(当の映像は報道規制されて公開されていないようだが)。
 これだけなら淫行のもつれで殺害されたということになりそうだが、問題は殺され方。警察は曖昧な表現ではぐらかしているが、遺体はまるで獣のような何かに食い荒らされた形跡があったのだ。しかしここは平地のド真ん中にある住宅街や繁華街、当たり前だが野生生物がうろつくはずがない。
 翌週にはラブホテルでまた男が殺された。ここにも少女と男が訪れたようだ(堂々と制服で入れるわが街の治安はすごい)。遺体の惨状は同様。
 その後も殺人は続く。時間は必ず深夜、一週に一度ぐらいのペースだ。
 どのケースでも基本的には一定の年齢の男性が狙われていて、夜間に少女を二人だけの空間に上げたところで殺害されている。上げる側もこんな騒ぎでよくやめないなと呆れるが、欲望とはそういうものなのかもしれない。すごい。
「……全然知らなかった」
「ニュースとか見ない感じ? みんなビクビクしてるよ」
 曖昧に頷いておく。言われてみればなんとなく最近街中で警察が目立っていたし、空気も変だったように思えてくる。言われてみればだけど。
「正直、泊める方も泊める方だよね。自業自得って言ったら炎上しそうだけど……」
「でも警察って防げないほど無能なのかな……。何か掴んでいそうなのに」
「そこはほら、なんかトリックがあるんじゃない?」
「どんな感じ」
「うーん。目撃者含めて全員共犯で、食人カルトのサークルとか」
「どっかで見たバカミスだね……」
「そっちはどう?」
「実は食人じゃなく飼ってる動物に食わせているから男性が抵抗できない、とか」
「五十歩百歩じゃん。どうやって連れてきてるの」
「それはですね、先に別の場所で食べてから投げ入れてるとか。逆に女の子が全員まったく関係ないってパターン。死亡推定時刻の幅の中なら大丈夫じゃない?」
「こういうトリックって出尽くしてるんだろうね」
「まぁね」
「伊澄くんも犯人やれるんじゃない? 童顔だし」
「いや無理でしょ。もしできるなら女装演奏動画でも上げて再生数を稼いでるよ」
「そしたら私とバンド組もう」
 しょうもない推理から話題が逸れたところで、弓良さんはふと真面目な調子で訊いた。
「人を食べたいとは思わないけどさ、その犯人は、何かの欲望を満たしたかったのかなって思うんだけど……目的のために人を殺すのって得だと思う?」
「……だとしても、リスクが大きすぎるんじゃないかな」
「でも、その瞬間満足すればいいとしたら?」
「それは……」急に難しい話になった。「衝動の殺人と、区別できるのかな。たまに『思い余って殺しちゃった』って動機を聞くけど、感情のぶつけ先が必要だったなら、自覚してるか分かんないけど、それは目的になるんじゃないかな」
「なるほど。……たとえば、好奇心で人を食べたとかなら話は早いけど、おなかがすいて人を食べたかったら、本人の意思なのか、生理的欲求なのか」
「それで無罪にはならないと思うけどね……」
 ほどほどで煮詰まったところで、「あー、だるっ」と弓良さんはあくびをした。「最近なんか疲れてるんだよね。寝ても全然取れないや。伊澄先生を見習いたいものですなぁ」
「伊澄スリープってアプリを作って儲けるよ」
「それ、共同開発者にしてね。……じゃ、私も休むよ。またね」と言い残し、帰った。
 殺人。
 食人。
 紐づいて頭にちらつく、いくつかの記憶。
 ……縁起でもない話。
 よし、今度は寝るそ。

 

 しかし結局、陽が落ちきるまで粘っても寝ることはできなかった。
 ……まぁいい、その間に暗くなったから結果オーライと考えよう。涼しくなるし。
 不思議なことだが、夜になると氷の幻覚はほとんど見えなくなる。おそらく光の量が圧倒的に少ないせいだと僕は考えている。
 どこかで聞いたが、太陽光は人間が生み出す光とは比較にならないほど明るいらしい。それが物体に反射する様子が幻覚を促しているのだと思う。だから照明器具などの人工の光が照らす空間では幻覚を見ることはない。
 この性質を利用して、対策として最近まで年齢を偽ってある伝手から夜勤のバイトをしていた。活動できる夜間に身体を疲れさせ、昼間はできるだけ寝ることができるからだ。
 まぁその仕事は数日前に諸事情で辞めてしまったのだが――そうすると、今度は不眠になってしまった。昼夜逆転のせいだろう。なんという自業自得。
 悩んだ末、やむなくある人の助けを借りることにした。
 ……できれば行きたくないんだけどなぁ。

 

 土曜日、夕方まで待ってから、僕はある診療所に向かった。大昔にかかりつけだった医者に、睡眠薬を出してもらうためだ。
 不眠という決死の訴えを聞いたその女医は「なるほど」と頷いて、棒付きキャンディーを口に放り込んだ。
 バリバリバリバリ。
 このまま粉砕ASMRを聞かされ続けて診療時間が終わるかと危惧したが、やがて完全に噛み尽くしたようだ。手にはもう一本ストックしているとはいえ。
 先生は――倉坂媛(くらさか ひめ)先生は、棒を咥えたまま喋り出した。
「言いたいことは分かった」
「出してくれますか」
「ダメ」
「……こういうシーン、なんかの映画にありましたよね」
「さぁ。私、アメリカンニューシネマしか観ないから」
「それ、最後に人が死ぬから好きってだけですよね」
「スカッとするじゃん。スカッとUSA」
 こういう人である。
「にしても、バイトをバックレた話を聞いて、二度と来ないと思ってた」
 そう、辞めた仕事を紹介してくれたのは彼女だった。
 返答に困ると「気にしないで。ま、明るいうちは働けないつっても、やっぱ夜勤なんてやっちゃダメだったよアンタ」と笑われる。「しかし、律儀に来てくれるんだからたいしたもんだ。おかげでまたちっこい姿を見れたよ」
「『医者がショタコンです』ってグーグルレビューに書きますよ」
「違う。私は二次性徴の捕まえ役になりたいだけ」意味が分からない。「こんな反抗的になるなんて、お姉さん悲しいぞ」
 お姉さん。その言葉に、しげしげと改めて媛先生の姿を眺めてみた。僕が出会ってから一〇年間、(悔しいが高校生男子として認めるほかない)麗しい外見は一切変貌していない。こちらの背が伸びてなお僕を見下ろせるほどの身長も、ぶっきらぼうなウルフカットも、禁煙してから悪化したという甘味狂いも、飴をバリバリと噛む癖も。
「ん? そんなに見つめて、やっぱり初恋の人に会いに来たのか」
「人間の年齢で何歳ですか?」
「一〇〇万歳だにゃん」
「化け猫」
「……思春期男子、難しいよ」
「親御さんも泣くでしょうね」
 頭をはたかれた。
「そういうブラックユーモアは、感心しない」
 僕は一〇年前に、ある事故で家族全員を失った。
 不幸な不幸な、雪山の遭難事故。よくある話だ。
 発見されたとき、生きていたのは僕だけ。これまたよくある話だ。
 媛先生はその事故からずっと僕の主治医を担当していた。心的外傷のエキスパートであり、僕のような生き残った子供に関心を向け続けているらしい。やましい意味でないことを願おう。
「……で、まだ幻覚は続いていると」
 彼女は、僕の症状を知る数少ない人物だ。隠しているわけではなく、明かす必要もないうちに秘密のようになってしまっただけなのだが。
「氷、か」
 駄菓子屋のように机に並んだ甘味たちから、氷砂糖の瓶に目を向ける。
「幻覚っていっても、そんな分かりやすい症状は医学的にはないんだけど。……もちろん幻覚が発生する疾病はある。でも、そこにはそこのルールがある。ミステリに出てくる多重人格と解離性同一性障害は違う。統合失調症双極性障害の幻聴とかだって、幻が世界のすべてを呑み込むわけじゃない。LSDでもキメたならともかく」
「でも、現に僕は幻を見ています」
「嘘だとは思っていないよ。ただ、私が見ていないんだから確かめることもできない。脳の機能を抑制する薬を出したことがあるけど、あんまり効かなかったんでしょ?」
 僕は頷く。
「だから眠剤が必要なんです。寝れば何も見えなくなるので」
睡眠薬はそういう目的の薬じゃない。それに昔出したとき、飲み過ぎて倒れたでしょ」
「それは、効かなかったから」
「分かってる。そういうつもりじゃなかったことは」
 手元で弄っていた棒切れを捨て、彼女は息を吐く。
「でも、私としてはそれを見過ごすことはできない。……精神科医って、英語でヘッドシュリンカーって呼ばれるんだけど、どういう意味だか分かる?」
「英語は得意科目じゃないです」
「首狩り族」と彼女は自分の首元を指で切った。「蔑称だけど、意外に的を射ていると私は思っている。だって、私たちが扱っているのは心とか精神みたいな抽象語じゃなく、生物の頭だから」
「脳ですか」
「そう。アンタの脳はあの時、ダメージを受けた。物理的に」心の風邪などどこ吹く風、というしょうもない駄洒落が浮かんだが黙る。「トラウマ、心的外傷、PTSD。呼び名は多々あれ、すべて怪我なんだよ。哲学の領分じゃない。……そして残念ながら、一定の損壊を受けた身体は治癒されない。切れた手足は生えてこない。アンタは生えてくる?」
「爬虫人に見えますかね」
「でもトカゲに残機あるの知ってる? 三回切れると死ぬ」
「マジですか」
「あとでっかい餌を食べると無敵になって敵を食べられる」
「真に受けちゃったじゃないですか。あの頃『紙を一〇〇回折ったら月まで届く』って言われたから折り紙をテープで貼って超でっかい紙を作ろうとしたのを忘れてませんからね」
「それはそっちが悪い」
 だってやってみたくなるじゃん。
「……あの頃から、一〇年か」
 感慨深そうに、媛先生は言う。
 なんとなく居心地が悪くなる。
「でも、トラウマっていっても、何があったのかはほとんど憶えてないっすよ」
「巨大な事件事故に遭遇した人がよく言うことだよ、それは」
 媛先生は鋭く切り返した。
「一九四五年二月一三日から一五日、連合国軍はドイツ東部のドレスデンを無差別爆撃し、二五〇〇〇人が命を落とした。地下の食肉倉庫に連れ込まれた捕虜の一人だった二二才の米兵は生き残り、地上に上がると、美しい街は月面のようにまっ平らになっていた。彼は捕虜たちとともに焦げて骨だけになったチキンのような大量の死体を運ばされた。数十年後、彼は作家になり、その一部をSF小説の題材にしたが、爆撃の様子は一切書かれていないし、インタビューで訊かれると必ず『よく憶えていない』と答えた」
 その作家の本なら、僕も読んだことがある。氷ひとつで世界が滅ぶ話とか。
「耐えがたい苦痛に遭遇した人間の脳は、輪郭を残して体験を切り抜くという生存手段を持っている。しかし、切り離した場所が、なぜか痛む。失った四肢のあった場所が、疼くように」
「幻肢」
「そう。それと同じ。アンタの幻は、そこで目にした壮絶な体験の輪郭だと思う」
 僕が目にしたこと。それは。
「大袈裟ですよ。未確認飛行物体に攫われたでもなし、単なる遭難事故なんて八甲田山からあることです。家族を失った人だって世の中無数にいる。僕が特別むごい体験をしたなんてことはないでしょう」
「昔からだけど、アンタには一般化の癖がある。一般論ラブコメの主人公になれるよ」
「ぜひ一般論異世界に転生してみたいですね」
「戯言の癖もある」
 返す言葉もない。
「そういう一つ一つが、アンタが生きるために必要だった方法なんだろうね」
「……そうですか」
「ま、わーったわーった。しゃーない。せっかく来てくれたんだ。気休めに出しとくよ」
 そう言って、結局媛先生は処方箋を作ってくれた。なんやかんや、頑固に見えて甘い人なのだ。
 去り際、「客なんてめったに来ないから」と、僕を建物の外まで見送ってくれた。そういえば昔から他の患者の姿をめったに見ないけど、どうやって経営しているんだろう。この人、七不思議ぐらい持っていそうだ。
「女が信じられなくなったらまた来なさい」
「……善処します」
 最後に一つだけ訊いた。
「あのとき、僕はそうしたと思いますか?」
 彼女は僕に近づくと、取り出した棒付きキャンディーを僕の口に突っ込んだ。
「ふぁひゃ、にす、で」
「もっと甘いものを食べなさい」
 さんざん口腔を弄ばれて、ようやく僕は解放された。

 

 その夜。診療所を出て、薬局に寄ったあと帰宅し、さっさと食事を済ませてすぐ布団を被ったが、目が覚めたとき、まだ日付は変わっていなかった。
 最悪だ。こういうとき、時間の使い方に困ってしまう。処方された薬を使うべきだろうか? でも起きたばかりでまったく眠くないので効かないかもしれない。とっておくか、と忘れないようシートをひとつポケットに入れた。アイテムを最後まで温存したままゲームクリアしてしまうタイプなので飲まない可能性もあるけれど。本末転倒じゃん。
 僕は休日の過ごし方が下手だ。バイトをしていた頃は気絶するように寝ているだけでよかったが、今では睡魔とめっきりご無沙汰になってしまった。
 寝転がったまま見回す、わが部屋。
 家族を失ってから、遠戚のおばさんにお世話になっていたが、進学と同時に彼女が大家のこのアパートで、一室を貸してもらっている。といっても、他の部屋は大半が彼女とその家族の物置のようなもので、入居者も僕以外に見たことがない。
 仕方なく用事を探した末、忘れていたゴミ出しを思い出し部屋を出て、片手に袋を吊り下げてアパート裏の置き場に向かった。いよいよ夜でも蒸し暑い。
 ――そこで目にしたのは、鈍い街灯の光の下、蓋から両足の出た生ゴミのバケツ。
 本当に、見たまま、一本の脚が飛び出していた。生足。裸足。つるりとした肌で、女性ではないかと思う。
 もちろん僕がそれを遺棄した猟奇殺人鬼だったみたいな叙述トリックはない。その証拠を示そう。
 目の前で脚が揺れ、ゴミバケツがガタゴトと動いたのだ。
 生きている?
 僕はそれを呆然と眺め――いや突っ立っている場合じゃない。この状況を考えろ。
 よほど食うものに困っている人という線もなくはないが、そういった生活をしている人間をこの街で見たことはなく……間違いない。新しい幻覚だ。
 ああ、ちょっと疲れてるんだな。眼を何度か擦って、ガタゴト、ゴミを投げ、振り向いて、ガタゴト、さぁ帰路にガタゴトガタゴト! ガシャン! うっさい!
 突っ込むように振り向くと、脚はもう見えなかった。幻覚はマシに――なっていない。
 今度は二本の脚が飛び出ていた。
 八つ墓村を連想している場合ではなく、いよいよ僕の脳も限界か、と頭を抱えそうになって――ガタン! ゴトン!
 脚が動き出してバケツの中に引っ込んだと思うと、今度はその衝撃で傾いたバケツがバランスを失い、傾いて倒れる。
「っ、たたたた……」
 痛そうな、くぐもった音が内側から漏れてきた声。どこかを打ったらしい。
 生きている。
 間違いなく、これは現実の生きた人間だ。
 ……どうする。
 決断次第で、何かが変わる予感があった。
 無視するか、しないか――そう己に問いかけてから、僕の答えはとうに決まっていることに気づく。それこそ、出会った瞬間から。
 案の定というかなんというか、我ながら呆れたものだと思う。
 足を踏み出してバケツに近づいたのだから。

 

 しかし問題はそれからだった。
 ――無視しない。それしか決めていなかったことに、一歩進んでから気づいたのだ。
 情けなくも、発作のような後悔が浮かんできて、それが喉元でつかえる錯覚がした。しかし、時すでに遅し。
 確実に、この一歩ですべては決まってしまった。
 強引にこれから引き返したとしても、僕はどうせまた戻ってくるという確信があった。自分のことならうんざりするほど分かっている。僕はそういう人間だ。
 ため息一つ、そして同じだけ息を吸って、喉を震わせる。
「……大丈夫ですか」
 我ながらどうなんだという言葉選びだったが、他に思いつかなかったのだから仕方ない。
 反応はといえば――なし。
 一秒、二秒、三秒。空白が脈を打つたび、浮かんでくる冷や汗を額に感じる。
 ここまできて、やっぱり錯覚だったとでもいうのか。
 だとしても、幻に責任を持ってしまった。それは覆らない。だからもう一度、むなしく僕は呼びかけた。
「あの」
 しかし、今度は違う反応が返ってきた。バケツが震えたのだ。
 ……まぁ、急に話しかけられたんだ。向こうも困惑しているのかもしれない。いや、そんな生易しいものじゃない。警戒するだろう。
 そう考えたらなんか申し訳なくなってきたが、今更どうすることもできない。
 何か答えてくれ。祈るように辛抱し続け、どれだけ経っただろう。
 それは叶えられた。
「私を」
 かぼそく、やわらかい――いや、衰弱した声。さきほどは注意を向けられなかったが、やはり女の人だろう。
「見てるんですか?」
 岩戸のようにかすかに動いた、蓋の向こう。
 影の中に薄く見えたのは、みすぼらしい身なりをした、少女だったなずだ。

 

「あ、いや」
「……見てますよね」
 見てるも何もないだろいやそういう意味じゃないけどそう表現するしかないだろという逡巡が邪魔をして、言葉が渋滞してしまう。
「ごっ、ごめ――そうじゃないだろ! 何やってんだよ!」
 反射的に目を閉じて、叫んでしまった。
「おなかすいて」声が投げ返される。「でもぜんぜんなかったです」
 そりゃあまだ回収日は先だからだが問題はそこではない。
 横目で薄く瞼を開けると、隙間から肌色がのぞいている。……まさか何も着ていないってことはないと思うけど、まともな格好ではなさそうだ。
 この状況、誰かに見つかったらとんでもないことになる。
「……とりあえず、出てきてくれると助かる」
 バケツを再び起こしてから、頼む。早く事態を解決しないと。
 向こうは戸惑ったようだが、まもなく蓋がずれるように開き、その向こうから這い出して――外界に現れた。

 

 少女。
 僕より頭半分ほど低い背、細い身体。整っているが、無防備で、しかし感情をこちらからは伺いづらい、ひょっとしたら何も考えていないのかもしれない、ただ美しいともかわいらしいともつかぬ、表現の難しい不思議な顔つき。身にまとうのはシャツとプリーツスカート。制服の一部だろう。しかし上着がないのでどこの学校か識別できない。うちはブレザーではないので、同学ではないことは分かるけれど。
 僕と同い年か、ひとつぐらい下か。
 しかし何よりも目を惹いたのは、絹糸のように伸びた、銀色の髪。つやのある、糸ではなく針金でもない、長い髪。それが、街灯の、切れかけて点滅する蛍光灯のみすぼらしい舞台照明に照らされている。
 でも一見して外国の人ではなさそうで、銀髪を無視すれば(容姿のせいで、いたとしたら、それでも目立つかもしれないが)うちの学校にいてもおかしくない気がした。だからこそ、その一点だけが異様に目立つ。
 これほど印象に残るのなら、なぜ人目のつかないこんな場所にいるんだろうか。
 そんな僕の混乱をよそに、彼女は何も言わず、へたりこんだままこちらをきょとんと見つめている。そこでやっと我に返る。
「あの、家は」
「ない、です」
「ない、って」
「ないんです」
 否定。答えはそれだけ。それ以上必要ないという表情。それが生ごみを漁っていたことと関連があるかは分からないが、説明をする気もなさそうだった。
 どうする?
 短い躊躇いの後、ついに言った。
「……とりあえず、うちに上がる?」
 こんな格好の少女を家に連れこむのだと考えると、相当きつい申し出だった。
 断られるか、軽蔑されるか、何も言わずに逃げるか――言った瞬間に頭の中で可能性がフライングして暴れたが、「はい」と彼女はあっさりと頷いた。
「よし、じゃあ立ち上がって、こっち。見つからないように気をつけて――」
「うごけないです」
 こうして僕は女の子を背負い、家に上げることになる。

 

 ことの起こりは、こうだ。

 

2 飼育

 

 で、上げたはいいけれど。
「……ええと」
 なにから話せばいいんだ、これ。
 とりあえず座らせた女の子は、きょろきょろとこの狭いワンルームを見回している。
 部屋がそこまで散らかっていないのは幸いなのかもしれないがそういう問題じゃない気がする。
「訊きたいことはいろいろあるけど……」
 勇気を出し、僕が喋り出した瞬間――
 女の子は、うつぶせにばたりと倒れた。
 ……は? 何が起きたんだ?
 慌てて肩を抱く。背負ったときも軽さに驚いたが、見ているよりずっと華奢な身体は、同じ人間とは思えないほどがらんどうを思わせた。中に骨しか入っていないんじゃないか。
「おい!」
 細心の注意を払って、声をかけながら軽くゆする。意識を失う寸前らしく、かすかな呼吸の音と薄く開かれた瞼だけが己の存在をかろうじて主張していた。
 それでも、まだ生きている。
 どうすれば、どうすれば――と頭だけが空転しているうちに、彼女の口がかすかに動いたことに気づく。
 何かを言おうとしている。
「――か――た」
 ようやく聞き取れたのは、一言。
「おなか、すいた」

 

 ちょっと待ってくれと言い残し、僕は朝に作ってラップしておいた味噌汁の鍋にもう一度火を入れて温め、彼女に出すことにした。まるで炊き出しである。
 湯気の立った椀を薄目で見るなり、彼女は目の色を変え起き上がり、僕から受け取るなりごくごくと飲み干し、「もう一杯」とかすれた声で言った。
 注ぎ渡す。
 受け取る。
 飲み干す。
 反復三回。
 その頃になると、もう目は焦点を取り戻し、喉も潤ったようで、「ありがとうございます」という一言をはっきりと聞き取れた。
「これで、ちょっとは動けるかも」
「……ほんとに何も食べてなかったんだね」
「二日ぶりぐらいですね。飲まず食わずで」
「そりゃヤバいな……お金もなかったの?」
「なくはないけど、警戒が厳しくなったから。人目につくと危ないなって、本能的に」
「え?」
「あ、こっちの話でした。……ありがとうございました」
 それだけ言って立ち上がり、出て行こうとする。
「ちょっ、待ってよ!」
 そのまま廊下を歩いて――また倒れた。ああもう。手を貸して起き上がらせる。
「足、うごかないです」女の子は呻いた。「……力が、抜けて」
「ほんと、何があったの」
 女の子は答えない。僕に詳しく説明する気はない様子だった。まぁ、僕としても詮索するほど無礼ではない。ただ、実際何も知らないと助けようがないわけで。
 うまい落としどころを探す。
「違ってもいいけど、家出みたいなものだと考えればいいのかな。家に帰るという選択肢はないみたいだから」
「そうですね。そういうことにしてくれますか」
 不審さはぬぐえないが、一応はその前提で話を進めようと思った。
「まぁ、その。僕は伊澄真(いずみ まこと)。高校三年なんだけど、見てのとおり一人暮らしで。だからとりあえず家に上げることにしたんだ」
「……伊澄さん、とかがいいですか」
「そんな堅苦しくなくていいけど。下の名前でも、なんでも」
「じゃあ、真さんで」
 まことさん、ともう一度言ってみてから、彼女は頷いた。「そうですね。真さんは真さんです。真さん以外ありえません」どういう意味だよ。
 そんな感じで手短に自己紹介を済ませ、向こうにも訊くきっかけをつくる。
「今度はそっちの名前、聞いていいかな」
 どうせ答えてくれないと思っての問いだったが、返ってきたのは、再び不気味な一言。
「ないです」
 ああもう、またかよ。
「いや、そんなことないでしょ」と突っ込んでから、ちょっと距離感を見失っているかもと反省し、問いを変える。
「僕が信頼できないのは分かる。ただ、このまま放り出すわけにもいかないし、安全な対処ができるまでは君に関わるつもりだから、仮にでも呼び名がほしいんだ。だからでまかせの偽名でいい。どう呼んだらいいか教えてくれ」
 女の子は、今度は即答できない問いのせいかしばらく黙っていたが、やがて答えた。
 またしても、予想できない方向で。
「あなたがつけてください」
「は?」
「偽名はいっぱいありますけど、その場でつくだけだから忘れちゃいます」
 その場って、どの場ですか。
「いま、思いつかないので」
「……僕が?」
「はい」
 なんだこれ。
 しかし呼び名がないというのはこちらにとっても不便だ。なんとかするしかないよなぁ。
 ……とはいっても僕にそんなセンスも引き出しもあるはずもなく。
 こんな形で人生で人に名前をつける機会が来るとは、と途方に暮れてしまう。
 せめてなにか参考になりそうなものでもあれば……と、苦し紛れにむなしく辺りを見回してみる。でも当たり前なことに、そこにあるのは見慣れたものが堆積したつまらない僕の部屋だけで――いや。
 そのとき目に入ったのは、机に置いてあった一枚のCD。それは好きなバンドのアルバムで、サブスクにない作品だったので、最近わざわざ探して買ったものだ。
 なんとなしに手に取って、曲目を見ると、『シャロン』という曲名が目に留まった。
 シャロンカロン。どこで知ったか忘れたけれど、冥王星の衛星の名前だっけ。
 冥王星。太陽系の果て、氷で覆われた寒い星。冬の星。
 その周りを回る月。
「……つき……つき」
 とくに意味があったわけでもないけれど、自分でも不思議なぐらい、言葉がすっと出てきた。『――月』という名でなければいけないような、そんな気がした。
 凍る月。
「いつき」
「字は?」
「凍るって字に、月で」
 い、つ、き、と電話番号を復唱するように、音節を切りながら繰り返し、転がす。
「凍月、ですか」
「……ごめん。やっぱり気に入らないよね」
 やっぱりなしで――と取り消そうとして、
「いいですね」
「えっ?」
「いい名前です!」
 いきなり飛びつかれて両手を握られた。
 心臓が破裂するかと思った。
 さっきから距離感がおかしい、いや最初からすべてがおかしいけどこれは健全性という意味であんまりよろしくないのではいやそう考える僕が気持ち悪いのかこれはああもう調子が狂う!
「ありがとうございます」
 握ったままぶんぶんと腕を振られこっちまで付き合わされてしまう。どうやら本当にお気に召したようで、それはよかった……のか?
「寒そうなのが、とくにいいです」
「よくわかんないけど……気に入ったならよかった」
「気に入ったどころじゃないです、生まれたときの名前みたいですっ」
「……生まれたときの名前?」
 奇妙な言い回しが引っかかったが、僕の困惑が伝わらないのか、彼女は平然と「生まれたときの名前、ないですから」と言った。
 いやいやいやこの国でそんなことあるのか? 僕が世間知らずなだけなのか? しかしだとしたらどうやってこの子は生きてきたのか――って、そんなことを考えていても仕方ないか、もう。
 今するべきことを考えよう。
「凍月。具合は?」
「だいぶ、よくなった気がします」足を何度か揉んでから、立ち上がる。「あ、大丈夫だ」
 それなら、えーっと、えーっと、そうだ。まず。
「とりあえず、シャワー浴びる?」
「においますか」
「いや、そうじゃないけど。ただ……服とか、肌とか、ボロボロだから」
「……あ」
 気づいたらしい。
 ボロ布同然に汚れたシャツをとスカートをまとう彼女の手足に目をやると、白い肌の表面には派手な怪我こそないものの、どこかで擦ったのかそこかしこに黒い汚れがついていた。僕はそれに何の責任もないというのになんとなく自分が卑しい人間になった気がして目を逸らす。
「服はどうしようか……だいぶ汚れてるから、洗っても着れるかは分からないけど……とりあえず、あがったら余ってる部屋着があるから着ていいよ。男物だけど、家にいるぶんには困らないはずだから」
「えっと、それって……」
「泊まってもらっていいってこと。こんな部屋で嫌じゃなければだけど」
「嫌ではないです、けど」
 ためらいに戸惑ってから、僕は浅慮に気づく。当たり前だ、着ているのは目に見えるものだけじゃないんだから。己のデリカシーのなさに死にたくなったが死んでも仕方がないだろまったくどれだけ無能なのかいや待て――空気が気まずくなる臨界点の前、幸運にも思い当たったのは、大家のおばさんのことだ。
 彼女には、僕と同じ高校に通っていた娘がいたはずだ。僕とは入れ違いで卒業してしまったから会ったことはなかったけれど、親子の折り合いが悪かったのか夜逃げ同然に出て行ってしまったせいで、おばさんはルーズだから気にしていなそうだったけど、まだ彼女の荷物は残っているはずだ。
 写真で見た娘さんの姿を思い出す。多少無理はあるかもしれないが、この子と絶望的に背丈や身体つきが違うことはない……はず。
 そこまで考えると、意を決して合鍵の束を取り出した。この中には他の部屋の鍵もある。当然詳しく調べたことはないが、探せば娘さんの衣類もあるはずだ。
 事情を説明すると、少女は「不思議です」と訝しげに僕を詰問した。
「……そんなこと、よく知ってますね」
「なんか勘違いしている気がするけど」
「だってそうじゃないですか。親戚の女の子の服がここにあるのをなんで男子のあなたが知っているんですか」
「だってときどき掃除させられてるし……管理だって半分任されてるようなものだから」
「つまり、利用して家探しすることができる立場だと」
「人聞きが悪いって。性善説性善説
「善じゃなくて欲に一文字変えたらどうですか」辛辣だった。
 しかし、他にいい案があるわけでもなく、結局、非難と監視の視線を傍で向けられながら、僕たちは物置部屋に向かうことになる。

 

 三部屋目(おそらくここを娘さんは借りていたのだろう)に下着を含めた女子用の衣類がいくつか残っていて、一応問題は解決された。本当はサイズとかで女子にはいろいろあるんだろうけど諦めてもらうしかない。シャンプーや石鹸も仕方がない。いざとなってみると、誰かの家で湯を浴びると言うのは相当にややこしいことだと思う。
 探す間僕は後ろを向き、彼女に見てもらうほど配慮したというのに、高校時代の女子制服が出てきたとき、僕への疑義の目は最高まで上がってしまったようだった。いや下着とかの方がよっぽどまずいと思うんだけど。
 そんなこんなで服の問題は解決(?)し、自室に戻ると、あとは凍月が入浴するだけになったが――
「あのー、すみません」
 入浴に必要な布たちとともに出て行った凍月を見送り、することなく部屋で待つ僕の耳に、しばらくして呼ぶ声が届いた。
 カーテンを開けると、身体の前をタオル一枚で隠しただけの凍月が立っていた。
 目を疑った。
「入らないんですか」
 耳を疑った。
 熱いヤカンに触れたように、慌てて扉を閉める。てっきりお湯が出ないみたいなトラブルを想定していたので、真後ろから刃をつきたてられたみたいだった。
「さっきから思ってたんですけど、何もしないから」
「入るっていうのは」
「真さんが私と入ることです」
「それはそうなんですけどなんでそうなるのかを訊きたい」
「貸し借りです」
 ……んー? いや待てああそういうことかと納得はしなかったが腑に落ちなくはなく。
 というか、むしろ察するに遅かったぐらいなのか。
 保護とそれに対する対価。
 その場、という表現の理由が像を結んだ気がした。
 彼女はこういったことを今まで経験していて、きっとこうやって生きてきたのだろう。そしてそのうちに、貸借関係で物事を考える癖がついてしまったのかもしれない。
 さて、僕はといえば。
 どれほど醜くとも、その契約が他人同士のものであるならば、法はともかく僕はなんとも思わない。それをいちいち糾弾する粘ついた倫理の肌触りには生理的嫌悪しか抱けない。
 人間は一皮むけば血と骨と欲望の塊だ。
 食べるためなら、生き残るためなら、なんだって殺す。
 その醜悪な極限を僕は見たことがある。
 だから人間など信頼しないし、義憤など抱かない。勝手にすればいいと思う。
 しかし、僕が当事者の場合、話は別だ。
 たしかに僕も例外でなくそんな愚かな生き物だけれど――自己嫌悪はしない。それはすぐに開き直ることと直結するからだ。僕は繊細に、逸脱を避けているのだ。
 だから、この状況において思春期男子たる僕の結論は――
「……一人でゆっくりするといいよ」
 それだけ言い残すと、僕は浴室の前から出て行き、脱衣所のカーテンを下ろした。
「怖いです」
 去り際に聞こえた一言が、耳に入らなかったふりをしながら。

 

 凍月が戻ってきて、寝る準備が整った頃には、もう深夜二時ほどになっていた。すっかり夜も更けてしまったが、こんないろいろなことが起きたのに二時間しか経っていないことに驚くべきなのか。
 ベッドを凍月に使ってもらい床で寝ようかと思ったが(どうせ眠れないだろうけど)、さすがに申し訳ないと言われ、ちょっと手狭だが二人で横になることに落ち着いた。
 しかし、添い寝か。そう呼んでみるとちょっとセンシティブだ。
 その背徳的な響きを振り払うように、灯りを消し、背を向けて横たわった。一応布団をかけてみたが季節は夏、二人で寝ると暑くなってきて「しまっていいですか」と言われたのでそれに従うことに――
 背に当たる感触が、なんとなく柔らかい。
 後ろから身体をくっつけられている、というか半分抱き締められているのに気づいた瞬間、身体中の血が沸騰したかと思った。いやいや、いくらなんでも……。
「ええと、これは」
「分かりませんか」
 凍月はぽつりと呟いた。その言葉だけが、この部屋でただひとつ冷たく感じられた。
「やっぱり、何もしないつもりですか」
 またそういうことになるか。落ち着け落ち着け。心頭滅却
「……近代において人間は基本的に自由」
「しないんですか」
「こだわるんだね」
「真さんは、怖いです」
 そこまで言われるか。まぁ、自覚がなくはない。
「これは、自己防衛なんです。……何の意味もなく家に女の子を上げて寝食を提供する慈善事業がしたいとは思えませんし、そうであってほしくないです。理解できないですから」
 理解できないから怖い。
 貸借や対価の関係は、それ以上相手に踏みこまないし踏みこまれもしないという安心がある。線を引いて、自分の理解できる範囲でしか理解しないでいい。
 そこから先は知ったことではないと。
 軽蔑でも憎悪でも何をしてもいいと。
 そうですかそうですか。それで結構ですか。
「その通りだ」
「え?」
「好きにするといいよ。ここにいたければいていい。出て行きたければ出て行けばいいし。別に取って食ったりなんてしない」
「だから、真さんになんの得が」
「ただし」話を遮る。「そうやって僕を値踏みしないのだけが、条件だ」
「……それは」
「そして、僕も君におせっかいしない。何があったのか詮索しないし、不利益があっても、守ってあげることはできないかもしれない。それでどうかな?」
 僕に一ミリたりとも踏みこまない。
 これが対価だと言えば、ギリギリ納得してくれるか。
川端康成は晩年、一等のホテルで女を買うと、その場に立たせたまま凝視し続け、それ以外一切のことをしなかったらしい。で、何が言いたいかと言うと」
「何もしないプレイが好きな変態」
「えーっと、話が間違った方向に」
「しかも女子制服を持っています」
 ……まぁ、まったくよくないがそれはいいとして。
「とにかく、今日はゆっくり寝ていきなよ。明日からは……」言葉の落ち着けどころを探してから、僕はごまかした。「これから考えればいい」
「……はい」
 それで会話は終わり、やがて、街の遠くからかろうじて聞こえる音楽のように、微かな呼吸の音が聞こえてきた。眠ったのだろう。疲れていたに決まっている。
 それを確認して、僕も目を閉じた。
 訳の分からない出会いだったが、とにかくこうして収まったのだ。安堵のせいか、ひさしぶりに眠気が現れた。この調子なら薬を飲まなくてもいいだろう。
 きっと明日からもなんとかなる。
 そんな見通しは、あっけなく裏切られていく。

 

 夢を見た。
 普段夢を見ない僕にとって、異常事態といってよかった。
 そこは薄暗く、冷たい空気で満ちていた。
 一瞬なら熱気と錯覚しそうなほど鋭利で、しかし澱み沈んだ液体のように息の詰まる、霊廟のような、驚くほど広い空間は、霜のついた青白い照明が照らし、すべてを透かしている。その床を駐車場のように埋めているものは。
 すべて。
 床に整然と並べられた、ジッパー付きで不透明な無数の細長い袋。
 人の形。
 ドラマで見たことがある、鑑識が扱うような袋詰めのヒトガタ。
 霊安室。いや、そんな美しい名前のはずがない。ここで霊魂は許されていない。ただ、物体が、肉だけがそこにある。二元論の入る余地など欠片もない。
 解剖、という二文字が浮かんだ。ここにあるものは死体という点でカエルやネズミとさして違わないのだ。少なくとも、ここに集めた何者かにとっては。
 僕はここを知っている。
 この場所を知っている。
 その現実を、僕は見た。

 

 気がかりな夢から起きると人は虫になっているそうだがそんなことはなく僕は目覚めた。
 起きている方が夢を見ているようなものなので、寝入りから寝起きまではもっとも地に足がついているというか、いや全身がついているのだがとにかく気を緩める時間だ。
 決してつかめない、意識の消滅の瞬間。
 面白い経験だ。
 眠りが死の親戚ならば、僕はその血縁に親しみを覚える人間になるだろうか。
 ……何が言いたいかというと、そのときの僕には警戒心が一切欠けていたということだ。
「起きたんですね」
 まだぼやけた視界の隅、ひょっこりと現れたのは、昨日家に引き入れた女の子――凍月の顔。何回か瞬きをすると、焦点が合う。
 彼女は横たわる僕を上から覗き込んでいる。窓から差し込んだ光を反射して、銀の髪が熱を帯びたように光っている。顔には相変わらず何を考えているのか読み取れない表情が浮かんでいて、首から下は――寝る前と、着ているものが違った。
 例の娘さんの寝間着ではなく、僕がハンガーにかけっぱなしにしていたぶかぶかのワイシャツ、一枚。たぶんその下は――考えない。考えないからな。
 しかし、これが彼シャツ的なアレか。なかなかに破壊力があるがそんなことを言ったら彼女の言うとおりの変態になってしまうので、とっさに目を逸らす。
 察してか、凍月は「なんか、着ごこちが合わなかったので、借りちゃいました」と釈明した。起きて早々に眩暈がしてくる。なんなんだ。
 僕の前に現れてから、凍月はいくらなんでも無防備にすぎると思う。もちろん、今までこうやって男性の家に泊まっていたからというのは分かっているが……それはそれでなんか居心地が悪くなる。
 それこそ、僕はそういう連中と違うのだろうか? と思ってしまいそうだし。
「おはようございます、真さん」
 凍月が挨拶とともに身体を離し、やっと現実感が戻ってきた。先が思いやられるが、ベッドが手狭だったせいか、肩から背にかけてが鈍く痛んだ。まず伸びをしようと力を入れて――みたが、腕は開かなかった。
 かちゃかちゃ、と金属が擦れる音がした。
 目の前の腕を、手を見る。
 手錠がかけてあった。
 見間違えるはずがない。おもちゃには見えない、おそらく本物の、金属製の手錠。
「ごめんなさい。暴れると面倒ですから」
 ではこちらならばと咄嗟に脚を動かして立とうとすると――やはり何かが引っかかり、起き上がれない。首を曲げて見ると、白いロープで縛ってあった。
 拘束。
「縛るときスマホも見つけたので、没収させてもらいました。中身は見ないのでご安心を」
「これは――」
 やっと気づいたのか、という、なにか愚かしいものを眺めているときの冷淡な目。そこで、ようやく立場が逆転したのを悟った。
 今更になって、これまでずっと失念していたはずの弓良さんとの会話を思い出す。
 忘れかけていたとはいえ。
 それを知っていたというのに、僕はなんてお人よしだったのだろう。
「私、人を食べて回ってるんです」
 いつのまにか少女の手に、ナイフがあった。

 

 こうして、少女と僕の、監禁生活が始まる。

 

3 空腹の背景は不服

 

「ニュースもありますし、これだけ言えば説明はもういらないですよね」
 凍月はナイフを胸ポケットに入れると立ち上がり、重力にうちつけられたこちらを見下ろした。角度のせいで生足がきわどいがそんなどうでもいいことを考えているうちに僕は食べられるのだろうか。バカすぎる。
 しかしジェンダーに配慮したうえで言ってもやはり男はバカなので殺されて喜ぶ輩はいたかもな、とその佇まいに正直思う。そのぐらいナイフは凍月と調和して様になっていた。
 とはいえ当然それだけなら何の証明にもなっていない。
 とりあえず、確認。
「じゃあ……あの事件は」
「そうです。私は殺人鬼……または食人鬼? なんですかね……。とにかく、犯人です」
 あっさりと認められて、拍子抜け……はしない。彼女の言うことを信じるわけにはいかなかった。
 それは人食いのせいではなく。
 いま目の前にいる、先ほどまで路傍で衰弱し倒れていた少女が成人男性を殺せるとは物理的に考えにくいというだけのことだったし、それにたとえ殺せたとしてもすぐに捕まるはずだからだ。もし事実なら何か仕掛けがあるはずで……しかし、どこからどう見ても、目の前にいるのは一人の少女だ。
「納得いかない、って顔してますね」
「……まぁね」
「事件のことはどれだけ知っていますか?」
 ナイフを弄りながら、世間話のように訊いてくる。
「成人の男性が狙われている。男が油断し、二人きりの空間ができたところで――殺す」
「あるいは、食べる。……続けてください」
「問題は、こんなに白昼堂々事件を起こしていて、なぜ捕まらないのか。犯人の特徴さえ報道されていない。警察はそこをはぐらかしている」
「ああ、そこまで知ってるんですね。じゃあ話は早いと思います。……あなたは、どんな理屈で犯人がこのトリックを成立させているか、分かりますか」
「さっぱり。大勢による複数犯ぐらいしか」
「単独犯なのは、私が保証します」
 一体それが保証になるのかと思ったが、とにかく少女は否定した。
「女子高生だと分かっているのに、犯人が捕まえられない理由、知りたいですか?」
 ここが違うんです、と凍月は自分の顔を指さした。
「警察は隠しているけれど、目撃者の証言も監視カメラの映像も、一致していないはずです。なぜでしょう。……答えは、犯人が姿形を自由に変えられるからです」
「まさか。毎回整形してるんじゃあるまいし、そんなことができるのは――」
 見つめられる。真剣な、眼を潰しそうほど尖った視線で。
 人を食べた。
 人を食べるのは人間じゃない。お前は人間じゃない。オマエハニンゲンジャナイ。
 それは、人間じゃなく、
「――化物って言いたいんですよね」
 息を呑む。
 この子は、本気だ。
「証明してあげましょうか」と言って、彼女は制服の袖をめくる。白い、つるりとした腕が見える。
 凍月は肌の表面にナイフの刃を当てた。
「面白いものが見れます」
 待て、と叫ぼうとしたが間に合わず、止めようにも両手が塞がっている。万事休すと悟った身体が反射的に視界から外そうとした瞬間、襟首を掴まれる。
「逃げないで、見てください」
 そして、僕は見た。
 始まってから、眼を閉じることもなく、目の前で起きたことを見た。
 肩側から胸元に、一本線を引くように、
 刃が皮膚を滑り、
 糸のように肌に引いた赤い血が、表面で小さな球をいくつか作って、それから、
 何も起きなかった。
「あれ、ダメだな。戻りませんね」
「何やってんだ!」
 咄嗟に立ち上がってどこかにあったはずの救急箱を探そうとしたが当然四肢を拘束されているので殺虫剤を浴びた芋虫のようにバタバタと惨めに悶えるだけになってしまった。
「ちょっ、暴れないでくださいよ」
 なんでお前の方が冷静なんだよと突っ込みたかったが場所を思い出したのでそんな余裕はなく「棚! 隅のいちばん上!」と叫んだ。
 凍月は一瞬面食らった様子だったが、すぐに「ああ、そういうことですか……」と得心すると「すみません」と謝りながら、血をこぼさないよう体勢を保ったまま立ち上がる。
 そして僕の言葉どおり、傷つけていない片手で棚のいちばん上で埃を被った箱に手を伸ばした。彼女が背伸びをしてなんとか届くほどの高さだった。
 凍月が下ろした箱を僕は繋がったままの手で強引に引き取り、開ける。中からガーゼと消毒液を取り出して「見せて」と言った。
「あの、そこまでしなくても」
「見せろ」
 心苦しいが命令形が功を奏したようで、手首が差し出された。
 偶然思い出したからよかったもののこれもおばさんが放置したものなので中身が清潔か不安になったが、今から買いに行くわけにもいかない。ためらいを振り切った。
 傷口を消毒する。
「沁みるかも」と前置きしたが、まったく動じなかったので逆に怖かった。
 軽く当てて血を吸い取ると、ガーゼには赤い痕が絵具のように残った。
「ほんと、やめてくれよ……」
「そうでしたね……。すみません、床を汚すかもしれませんでした」
「……そうじゃないんだけど」
 ズレた返答に呆れながら、絆創膏を貼る。こんな簡単なことでも、手錠を掛けたままだったので普段の何倍も疲れてしまった。
「ありがとうございます。たぶん、意味はないですけど」
「あるよ」
「ないです」
「僕にはある」
「……真さん、強情ですね」
 根負けしたのか、凍月は「じゃあ、気持ちを受け取っておきます」と塞がった傷口を眺めて言った。だから、噛み合ってないなぁ。
 場が収まったのを確認すると、安堵と疲労がどっと襲ってきた。まったく、なんで僕は殺されるかもしれない相手の怪我を心配しているんだ。ほとんどボランティアじゃないか。
 いや。下手したらボランティアより性質が悪いな、これは。
「で、何がしたかったの」
「治るはずだったんです」
「……治る?」
「はい。傷が治るんです」
 こちらの困惑に、凍月は慌てて釈明する。
「なんですその目! ほんとです! 待ってれば塞がるんです!」「人間には免疫があるからいつか塞がります」「からかってますよね! もっとすごいんです! 一瞬で!」「塞がらなかったよね」「それは……お腹空いてたから体力が戻ってないんです! たぶん!」
 ……こうも締まりがないと、いろいろと疑ってしまうな。
 彼女は本当に殺人犯なのだろうか。シリアルキラーの人外に憧れている、ちょっと頭のズレた女の子だったというオチの方がまだ納得がいくのだけれど。
 でもこの場でそれを証明する方法は一つしかないわけで。
「僕を殺せば、簡単に証明することになると思うけど」
「まぁ、そうですね。殺そうと思えばできますけど。弱そうだし」一言多い。「でも、私困っていることがあって」
 それはですね――と、凍月は告白した。
「人を殺して食べるうち、飽きちゃったんですよ」
 すごいパワーワードだ。
「でも分かってくれますよね? いくらおいしくても毎日三食ハンバーガーやフライドチキンを食べろって強要されたら拷問じゃないですか」
「……人肉にも飽きてきたと」
「そんなところです。新しい刺激がほしくなりました。そんなとき、好都合なことに、あなたが引っかかった。で、そこでちょっと思いついたことがあって。……与える餌によって肉が影響を受けるって話、聞いたことあります? 牛にワインを飲ませたりとか」
 ……話のオチがもう分かってしまった。
「ようは、僕を飼い育てて、よりおいしい人肉にしたいと」
「そう! それですっ。名案だと思いませんか?」
 えっへん、と言わんばかりの笑顔。
 露悪や嗜虐心の欠片もなく、純粋に楽しんでいる様子にこっちまで拍子抜けしてくる。これから食われるのに。
 それにしても。
 人生いろいろあったが、まさか自分の肉を運ぶ焼き鳥屋のマスコットみたいな立場になるとは思っていなかったな。
「でも初めてのことなので、どんな味になるかは分からないです。試行錯誤が必要かもしれないですけど」
「好みの味とかあるの?」
「うーん。あるんですけど、説明できそうにないというか。いや、味覚はヒトのみなさんとそんなに変わんないんですけど……斜め四十五度にバグった味なので」
「日本人向けの海外料理店に慣れてから、本場の味に触れたときのショックみたいな?」
「たとえ上手いですね」
 褒められている場合ではない。さっきからいまひとつ緊張感に欠けるなぁ。
「……ということで、これから三食、真さんのご飯を作ってあげます」
 ひとつも嬉しくないヒモ宣言だった。
 それにしても、僕が食べられるのか。
 逆ではなく。
「これからあなたを私ごのみの味にしますね」
 まったく因果な人生だな、人食い。

 

 まずは朝食から、ということで意気込んだ凍月。
「そういえば、さっき冷蔵庫を確認したら卵がありましたね。じゃあまずは、スクランブルエッグでも作りますか。スーパーカーみたいに和製英語なんですかね」
 昨晩大半の洗い物を済ませていたことは、結果的に彼女を手助けしてしまったらしい。
 フライパンをコンロに乗せ、深皿を持ってきて、冷蔵庫を開けて卵を取り出す。そしてまな板に乗せ、包丁を手に持つと、刃を殻に当てて丁寧に切れ目を入れようと――
「ちょっと待ってくれ」
 さすがに突っ込んでしまった。
「何をするつもりなんだ」
「真さんこそ何を言ってるんですか……」凍月は眉をひそめて、そんなことも分からないのかと呆れる。「卵を割るに決まっているじゃないですか」
 刃物に異常に慣れているのか、料理という行為を知らないのか、どっちなんだ。
「それを普段から包丁でやっていると」「いえ、やったことないですが。卵なんて割るほど豪奢な生活してないです私」「……そこは詮索しないが、じゃあなぜスクランブルエッグを作ろうと思ったか訊いていい?」「面接官みたいになりますね急に。よく知らないけど語感がシャレオツだからです」
 スクランブルエッグの発明者に謝れ。
「細かいことは分かりませんけど卵を溶いて焼けばいいんでしょ。楽勝っす楽勝。……殻が黄身に入らないようにするには、これが一番じゃないですか」
「果たして、そうやったほうが潰れるという発想には至らないだろうか」
「失敬な。私の刃物捌きを見れば、きっとそんなこと言えなくなります。……まさか、手で粉々にしろとでも? 真さん、そんな野蛮な方法はダメです。食べ物を粗末にする資本主義社会はいつか滅びます」
「人間を食べる人が警鐘を鳴らすと説得力があるね」
「まったくです」
 ボケもツッコミもいまひとつ噛み合わない。
 ……仕方ない。無駄になるが、失敗から学習してもらうしかないだろう。今から養鶏場の名もなき親鶏に懺悔しておくか。
「しっかり見ててくださいね」
 凍月はそのまま美しい手さばきで殻に刃を滑らせ――
 ぐしゃりと潰れた。
「……もう一回! もう一回チャンスをっ」「ダメ」
 諦めが悪いのはときに美徳だが、値上がりが激しい昨今に勉強料をこれ以上出すわけにはいかなかった。
 蛇腹のように強引に身体を起こす。さっき暴れた拍子にロープがほどけ、脚の自由が利くようになったのだ。「ちょ、ダメじゃないですか動いちゃ」そのまま後ろから近づいて手から包丁を取り上げようとしたのが失策で、咄嗟に凍月は包丁をコンバットスタイルに握り直してしまい、手錠とひっかかった末に、「……あ」
 僕の指に、赤い一本線が引かれた。
「ごっ、ごめんなさいそんなつもりじゃなくていつもの反応でついっ」
 痛みがなかったせいで、それがどんなことか呑み込むのに一瞬が必要だった。
「あー……」
 労災二号、晴れて発生。
 認識が追い付くと、時系列が逆転したように痛みの埋め合わせがやってきた。
 痛みにも種類がある。それほど多くは知らないが、切り傷の痛みは寒さに似ていると思う。いや、逆か。外気に触れる血が熱を奪われるイメージのせいだ。切断と凍傷。連想での安易な結合。しかしそれは痛みを冷気に錬金する魔法でもある。
 寒さにだけは、慣れている。
「いったたた……また救急箱、取りにいかないと」
 取ってきてもらうほどではないと思って、戻ろうとする、その前に。
「ちょっと沁みますから、気をつけて」
 手短にそれだけ言い、何をするのと訊くより早く凍月は舌を出して、
 僕の傷口に当てると。
 舐めた。
「っ、ふ」粘膜と粘膜が絡み敏感になった傷口から伝わる痛みと似て非なる快とも不快ともつかぬ信号がたちまち身体中に流れ痺れが筋肉を痙攣させたかと思うとすぐに弛緩して力が抜けそのまま意識まで持っていかれ、「ゃ、あ」
「終わりました」
 唇が離れ、艶めかしく、だるく粘った指が現れ――
 傷はなくなっていた。
 塞がった、のではない。最初から何も起きなかったように、映像を逆再生したように、痕ひとつ残っていなかった。
「もう痛くありませんか」
 魂が抜けたように頷いている自分が滑稽だった。
「よかったです。さっきはダメだったけど、元気が戻ってきたかも。あと、誰かにやると力を入れやすいのかもしれないですね。ヒーラー適性というか」
「……これは」
「分かりましたか? 私が化物だってこと」
 脳が目の前で起きたことを呑み込むのには、タイムラグがある。その衝撃が大きければ大きいほど、その容積の器を用意できず、体験はこぼれ落ちてしまう。
 目の前で起きたのは、そんな御業だった。
「今はまだ弱っているから、これぐらいが限界なんですけどね。でも、もうすこしエネルギーがあれば、もっと自分から身体を変化させることもできます。それこそ、顔なんていくらでも変えられる。これで、解決しましたか?」
 先ほどまで、この女の子は完全に狂っているのではないかと思った。
 いや、狂気というこちらの常識の範疇に引き入れることで、ことでなんとか今までの世界に留まっていようとしたのかもしれない。
「って……それは置いといて、ほんとにごめんなさい! 不慮で人を傷つけるなんて、刃物を扱う者として失格ですよね……」
 慮があれば許されるのかよ。
 ……奇跡を目撃しながらも、僕の頭の半分は逆回りしてバランスを取ろうとしていた。
 確かにこの少女は(少なくとも、僕と同じ)人間ではないかもしれないが、だからといって論理的には犯人である証明にはなっていない。
 もしもこの場で本当に証明するならば。
 既に言ったとおり、方法は一つだけだ。
 そしてそうなった頃にはいまさら遅い。タイトルにすると『食人少女を拾ったら物理的に食べられてしまったけどもう遅い』になる。普通のバカだ。お前はこんな場面でもしょうもないことしか考えられないのか?
 落ち着こう。
 食べられたいかと訊かれたらたいていの動物は嫌がるわけで、それは僕にしても同じ、一寸にも五分の魂あり(?)ということで、できれば避けたい結末である。
 とりあえず彼女の言い分が正しい――巷を騒がす猟奇事件の犯人だとした上で、やんわり穏便な方向に進むよう交渉してみることにした。けっして保身ではない。けっして!
「……落ち着いて考えてほしいんだけど、『飼う』って言っても、そううまくいかないんじゃないかな。僕はそんなに積極的に他者と関わって生きている人間じゃないけど――」
「それはなんとなくわかります」
 なんか地味に屈辱的なことを言われている気がするんだけど。
「――とにかく、高校生だから学校に通わないといけない。っていうか、君も制服だよね」
 よし、親戚の圧力的一般常識に訴えるぞ。
「学校は行っておいた方がいいんじゃないかな」
「これは変装です」
 作戦失敗。
「それに、あなたが学校に行きたいようには見えません。……なんとなくですけど」
 失礼だなぁと思いつつ、確かに眠りに行っている人間が教育の重要性を説けるわけがなかった。
「でもいつか怪しまれるよ。ここは文明社会なんだから、誰かしらが僕の不在に気づく」
 誰でも替えが効くように見える世の中、誰にも気づかれずに消えるのは、逃げるのは、意外に難しい。でなければ今よりずっと失踪者は多く、自殺者は少ないだろう。
 なんとも親切な社会だと思う。
「何日かなら学校を休んでも気にされないだろうけど、さすがに退学寸前になったら怪しまれるよ。滅多に来ないけど、ここは賃貸だから一応は大家さんもいるし……。それにここに暮らしているのにもお金がかかる。それをどうごまかすの?」
「身体があればお金ならいくらでも稼げます。食事だって迷惑はかけません」
「いきなり生々しく飛躍しすぎでは」
「なんです、私の資本がダメなんですか。大きいのがいいんですか小さいのがいいんですか上がいいんですか下がいいんですか右がいいんですか左がいいんですか」何の話だよ。
「お願いだから落ち着いてくれ」
「でも昨日だって」
「だからそうじゃないんだって」
「じゃあ我慢したんですか。そういうプレイだったんですか」
「話が進まないよ!」
 しかし、マジな話。
 自分は貞操の説教をする中年男性のような偉大な高潔さこそ持っていないが、見過ごせないものだってある。
 見知らぬ誰かであっても。殺されて文句が言えないほど卑しくても。
 人を殺すならともかく、食べるというなら他人事ではない。
「お金の話は置いておくけど。人を食べない、別の食べ物で我慢する方向はないの?」
「うーん。食べる意味がなくはないですが。言ったとおり、私にとって人の肉はもっとも適したエネルギー源です。上手い例えあるかな……エンジンには種類ごとに使う油が違いますよね? 違う油でも見た感じ動かないことはないですが、故障や火災の原因になったりします。だから私はけっこうな偏食家ですね」
 話を聞いていて、昨日のことを思い出した。『おなかすいた』というから何も考えず食べさせてしまったが……。
「じゃあ、ご飯も出すべきじゃなかったかな」
「いえいえ、そんなことないですよ! 別腹ってやつがありまして。普通の方でもお腹はすくし、それで倒れちゃってたんです。人間の使う食品だって多くは食べられますし、好きな食べ物もあります。ただ……残念ながら、人肉と比べてエネルギー効率で天と地の差があるんです。人間を食べていれば基本飲まず食わずでもなんとかはなりますから。化物としての能力を使うと消費が激しくなってはしまうんですが……」
 そこまで言うと、彼女は「でも、人間のお腹がすくとそれはそれで元気なくなるし、治癒力も錯覚を受けちゃうみたいですね。だから普通の食事でも十分ありがたかったです」と付け足した。ふーん。複雑なんだな。
 いろいろと言いたいことはあるが、まず思ったこととして。
「君って、どうやって生きてきたの?」
「……えーと、どういう意味ですか」
「だって、生きるために人を食べないといけないなら、この事件が起きる前にも食べていたはずだ。それがどれだけの間隔かは分からないけど……そんな報道は見たことがない」
 僕はニュースに疎いほうだが、それは関係ない。なぜなら今回のことが起きたときに過去の事件だってとっくに蒸し返されているはずだから。
 でも、学校で見せてもらった記事にはそんなことは書いていなかった。
 そんな僕の疑問はあっけなく解消した。
「私、これまでの――この街に来るまでの記憶がぜんぜんなくて。気がついたらこうなってたんです。それで、今話した自分の体質や能力も経験しながら知ってきたんです」
「記憶喪失設定」
「ほんとですよ! 心外な! もっと人を信じることを学ぶべきです」「信じた結果食い殺されそうになっているね」「疑うことも学ぶべきです」「だから疑っている」「あー。これって何て言うんでしたっけ。パラドッグス?」「ワンワン」「バカにしてますよね! ニャンニャン!」なんで張り合ってるんだよ。
「まぁ、とにかく信じるよ。……でも、今の状況は悪循環だよね」
「なんでですか?」
「だって、警察から逃げるのに能力を使っているんでしょ?」
「そうです」
「それを続けるにはエネルギーが必要で、人を食べなければ維持できない」
「そのとおり」
「だからずっと人を食べ続けなければいけない」
「ふむふむ」
「で、人を食べ続ければ、監視はますます強まる。だからループしながら、どんどん危険が増えるんじゃないかな」
「……あー、頭いいです」
 考えたこともなかったと言わんばかりに感心された。この反応だと、本当に何も考えずに殺していたのかもしれない。被害者なのに怖くなってきたぞ。
「たしかに、それはまずいです」
「でしょ? だから、一旦事件を起こすのをやめてくれないか」
 長考。その秒数、四五。
 その末に、彼女は首を傾げて言った。
「でも、そうしたら私が飢え死にしますよ」
「それは……」僕の論の、そこが弱点なのは分かっている。「……でも、記憶を失う前にも君が生きていたなら、何か方法があるはずだ。それを見つけられれば……」
「それまで、耐えろってことですか」
「……僕が、それに協力するっていうのはどうかな」ああ、またやっちゃったよ。そう自分で思う。「だから、僕を食べるのもちょっと待ってくれ」
 凍月の目がいつになく真剣さを帯びた。これが重要な交渉であることに気づいたようだ。
「うーん。実現性に難がある提案ですが、まぁ私がやってみて損はないですね」
「分かってくれた?」
「条件があります」そう言って、こちらを一瞥する。「あなたの身体を差し出してください。人質として――いや」
「非常食として、ってか」
 そうだ。こう返されることも既に分かっていた。
「今はまだ大丈夫ですが、もし私が命にかかわる空腹を覚えたら、時間切れとみなして、あなたを食べます。……これでどうですか」
 はぁ、なんでこうなったんだか。女の子を家に上げただけなのに。いや、そりゃダメだけど。でもこんな展開になるなんて先に知っていたら……。
 まぁ、それでも同じことをしたのか。そして今と同じく――
「……オーケー。交渉、成立だ」
 こうやって受け入れていただろうな。
「じゃ、これからよろしく」と(手錠のかかった)手を差し出し、握手――のはずが。
「こちらこそ、ふつつかものですが」
 三つ指ついて土下座されてしまった。
「……あの」
「えっ、なんですかその目。床を同じくするならこれが礼儀だって読みましたけど」
 何を読んだんだよ。

 

 しかし一時停戦したとはいえ、凍月はしぶとかった。
「あ、でも今食べるかはともかく飼育計画も続けさせてもらいますね」「……それは別なんだ」「別腹ってやつです、ふふ」うまいこと言ったぜ的な顔してて腹立つな。
 ということで今度こそ朝食作り――になるには、時間が回りすぎていた。
「お昼になっちゃいましたね」
 そこでようやく、この場を収める思いついた。
「とりあえず、歓迎も兼ねて出前でも取らない?」
 ウーバーで頼むのもアリだが、そういえば玄関のポストにピザの宅配チラシが入っていた憶えがあった。クーポンもついていたしちょうどいい。
 そして、こうすれば凍月を料理から一旦離せる。
「うーん……私がコントロールしたものを食べさせたいので、腑に落ちないのですが」
「開店記念にピザもう一枚サービスだって」
「……二枚も?」
「しかもクーポンを使えばWチーズ無料だって」
「ダブル……チーズ……」
「どうする?」
「じゃあ……あ、私が好きなものを食べさせれば真さんがおいしくなるかもってことですからね。私が食べたいってことじゃないので、恩を売ったと勘違いしないでください」
 斬新なツンデレだ。というかこっちが餌付けする側になってるな。
 ネットで注文すると(凍月はいちいち細かいトッピングにも拘って面倒だった)、まもなくチャイムが鳴った。
 玄関まで行って「あ」とまずいことに気づく。自分には手錠がかかっているのだ。
 慌ててとことこと凍月がついてくる。
「隠れてください。私が取ります」「いや、それはそれで危険だ」「そうですね。真さんの家に何者かがいるとバレてしまう……どうしましょう……」
 ぴんぽーん。ぴんぽーん。ぴんぽーん。
「時間がないよ」
「真さんが言い出したんじゃないですかっ」
『そこにいらっしゃいますか?』
 ドアの向こうから声。まずい、内輪揉めしている場合ではなかった。
「……ああ、はーい。今開けますねー」と言いつつ、扉に手をかけた。必死に下がらせようとジェスチャーを送るが手錠のせいで伝わらない。というか向こうも聞く気がない。
「待ってください! なんで開けるんですか!」
 揉み合っているうちにドアが開く。
「……あの、お取込み中ですか」
 人のよさそうな宅配のお兄さんが目撃したのは、手錠姿の男と、その横の少女。
「………………えーっとですね、すみません! いま親戚の子が遊びにきてて。おもちゃの手錠つけられたら取れなくなっちゃったんです。ってことで、お支払いしますねー」
 しかし誤算があった。凍月がすかさず僕に抗議したのだ。
「真さん何言ってるんですか! おもちゃの手錠で遊ぶって、エクストリームすぎます! 人様に言っちゃダメです!」「何を聞いてたらそうなるんだよ!」「親戚の子とそんなことしたいんですか! やっぱり異常性癖じゃないですか!」「うるせぇ脳内ピンク!」
 醜態を晒す僕らに、お兄さんは「……どうもー」と笑顔を貼りつかせたまま帰っていった。さすが、その道のプロ。

 

 そんなドタバタ劇はともかくピザを受け取ると、昼食と相成った。
 手が不自由なので僕の分は凍月が渡してくれた(それはそれで食べづらい)が、チーズの乗った生地を見つけると僕に渡さず、独占に走った。
「いやー、チーズってやっぱりいいですねー。人肉の次に好きです」
 あまりにも嬉しそうに食べるので、僕に食べさせるんじゃなかったのかというツッコミは、二枚のほとんどをたいらげられても入れないでおいた。
「眠くなってきます……」
 食べ終えると、凍月は座ったまま、うとうととしはじめた。
「食後なのもあるけど、昨日は眠れなかったですからね……」
「そうなの? 昨日はけっこう寝てた記憶があるけど」
「寝たふりです。いつもああやって油断させておいてガブっといきます」こわっ。「だから、真さんはもっと疑うってことを覚えた方がいいんですよ……んっ……」
 まもなく近くの壁にもたれかかると、そのまま凍月は眠ってしまった。
 ……立ち上がる。起きない。一歩。起きない。そのまま、ゆっくり玄関まで向かう。
 鍵はひとつだけ、しかも内側にある扉なので、簡単に出て行くことができる。だから何か(チェーン等で)対策をしているかと思ったが、何もなかった。
 扉のノブに手をかけると、当然開く。
 僕を脱出から妨げるものは何もない。
 ……そっと振り向くと、凍月が壁に肩を預けたまま今も眠っているのが見えた。
 あまりにもあっさりした監禁生活の幕切れだ。
 音を立てないよう慎重に扉を開け、外界に出て、また慎重にドアを閉め、早足でしかし細心の注意を払いつつアパートから離れて身を隠し、近くの電話ボックスに入ると緊急通報のボタンを押して巷を騒がす食人鬼少女を告発し僕は晴れて自由の身しかも凶悪犯を捕まえたヒーローとして世間に報道され気をよくした僕はさらに承認欲求を肥大化させ自らこの街の悪を成敗しようと暴走を始め――ている間も妄想の僕にはずっと手錠がかかっていた。だれか開けてやれよ。
 ……戯言、終了。
 音を立てないように慎重に扉を元に戻し、部屋に戻り、ゆっくり廊下を歩き、キッチンを過ぎ、居間に入り、そのまま今も眠っている食人鬼少女の近くに寄るとそのまま身体を下ろして傍に座り、痛そうな角度で壁にもたれる彼女の重心を自分の肩に移してやった。本当はベッドに寝かせてあげたかったけれど手錠のせいでそれは無理だった。
 身体の半分にかかる重さは、その外見からすればあまりにも軽い。
 そして横目で流し見る顔立ちは、初めて見るまったく無防備な――
「おなか……すいた……」
 衝撃で振り落としそうになって慌てて体勢を戻す。凍月は変わらず眠ったままだ。寝言かよ。人を飼い殺しにしておいていい気なもんだ。夢でも何を食っているんだか。
「まこ……とさん……、おいし……ですか……やったぁ……」
 ……先が思いやられる、一日目だ。

 

4 ミナソコ

 

 凍月が目を覚ました頃にはもう日は暮れて、日曜の余命もいくばくかになってしまった。
「なんか損した気分ですね……」
「そう? こんな週末が普通だから気にしてないな。もうすぐ夏休みだけど、それも同じ」
「暇人ですね」剛速球だなぁ。「バイトとかしないんですか?」
「……前はしてたけど」と言いかけ、しまったと軌道修正した。「まぁ、なんかあって」
「やめたってことですか?」
 なんかということは文字通り何かのっぴきならぬことが起きたのを指しているのだが深掘りはされずひと安心。ということで適当に「バックレた」とはぐらかした。
「……ダメダメですね」「やかましい」「まぁ真さんは働くのに向いてなさそうですもんね」「さっき学校にも向いてないって言ってたよね。何なら向いてると思うの?」「凍月式性格診断によると扶養されることに適性がありそうですね」「ヒモってことじゃん」「監禁してる女の子が言うんだから間違いありません」何がだよ。
 しかし実際に凍月を物理的に養う――つまり食わせるのは早々に僕の役割になりそうである。同時に自分がおいしい供物になるよう僕も味わって食べるわけですが。
 ということで夕食はやはりチーズ料理――グラタンになった。入れる具が冷蔵庫にぜんぜんなかったが凍月が刃物を使いたがらないので好都合だ。一時手錠を外してもらい、マカロニを茹でてホワイトソースを作って和えてチーズをかけオーブンで焼いて、はい終了。
「もっと私のスキルが生きる料理がいいんですけど」と手伝えることが一切なかった凍月は不満げだったが、ぺろりとたいらげる頃には機嫌も戻っていた。
 その後は交代で浴室を使いあとは寝るだけ……という段になって、シャワーを浴びながら気づく。そう、明日は月曜日ということに。
 もうじき終わるにしても、学校、やっぱり無理だよなぁ。休んでも心配する人なんて弓良さんくらいだと思うけど。
 そんなことを思いながら戻ると、凍月は僕の学生鞄を開けて、中から出てきた本を読んでいた。勝手に触るな、とは言えない立場なのが悔しい。
「この『氷』ってやつ、授業で使うんですか?」と、読んでいた本を見せる。カバーが掛かった文庫本。
「それは僕が学校で読む小説」
「なんで学校に教科書以外の本を持っていくんですか?」
 地味にクリティカルな質問だな。
 正直に「暇だから。あと本読んでると話しかけられない」と答えた。入学当初はライトノベルでも読んでいたら晒し上げてやろうと見え見えの魂胆で話しかけてくるバカがいたが無視していたら絡んでこなくなった。よっしゃ。
「なるほど。真さんに友達がいなかったのを忘れていました!」
 こいつ、やっぱり天然の煽りスキルの持ち主だ。いちばん性質が悪いやつじゃん。
「学校かぁ。面白そうなところですね」
「やっぱり行ったことないんだ」
「行く意味ないですから。制服はかわいいと思いますけど。ちょっと興味はあるかも」
 意外な発言に思えた。
「もし転校できるなら、監視しながら学校も行けるのになぁ」
「監禁設定は崩さないんだ。……まぁ、明日からはしばらく諦めるよ」
「うーん。そうですね……」
 何かが引っかかった微妙な反応だが、その時は気にせず就寝の準備に入った。さすがに痛そうだからと手錠もなしになり……と思いきや「こうすれば逃げられません」と羽交い絞めされたまま無理やり眠らされたのはともかく、最終的には今日も眠ることができた。
 先の会話が、翌日の混乱を引き起こすとはいざ知らず。

 

 獏に食わせる手持ちを欠いたまま夢もなく目を覚ますと、まだ爆睡中の凍月は羽交い締めをほどいていた。よっぽど眠かったと見える。おかげでこっちは晴れて一日ぶりに自由の身というわけだけれど。
 さて、時刻はまもなく登校時間。
 凍月から逃げる発想はなかったが、一方で僕は学校に行きたかった。
 毎週続いた連続殺人が起きなくなったタイミングで急に僕が二度と学校に行かなくなるのは危険に思えたのだ。夏休みまでせめて一週、特に週後半の期末は受けたい。
 凍月に指摘すれば一笑に付されるかもしれない。確かに、塵芥のように大勢いるこの街の住人から砂粒のような僕を針でつつく人間は、相当に奇特な奴だ。
 しかし、万一因果関係を嗅ぎつける、そんな奇特な人間が警察にいたならば?
 ……僕は「凍月を守らない」と彼女に約束した。だから、これは殺人犯をかくまった僕の保身だ。その結果が凍月の安全に繋がるうちは、同じ船に乗るというだけのこと。
 そのために、僕はある程度のアリバイを作っておく必要がある。それも、凍月に無断で。そう判断し、制服に袖を通した。
 ――それが杞憂でなかったことは、この後に証明される。
 しかし、今のところそれより僕が気にしていたのは、白昼の悪夢だった。
 慣習的に何かを恐れる人には「もしそれが起きたらどうしよう」という予期不安と呼ばれる症状が見られる。僕も普段なら幻覚を恐れて陽の下に出るのを尻込みするものだが、今日はなぜかそのためらいが薄かった。
 そういえば凍月が現れてから不眠もよくなっている。因果関係は分からないが、よい兆候かもしれない。ひょっとしたら幻覚も――
『学校に行ってきます。必ず戻る』と書き置きをし、扉を開いた。

 

 失敗した。そう思った頃には、もう世界は凍り付いていた。
 視界の建物すべてを氷河が覆い、襲い、押し流し、歩く人も通る車もすべて破壊し、粉砕し、迫ってくる。
 できるだけ目を閉じ、早足で学校に向かった。屋内は外より暗いから、多少は症状も和らぐはずだ。あとは外を見なければいいだけ。
 しかし今日はいつもより酷く、なんとか校舎に入ってからもそれは続いた。じわじわと
 接近してくる校舎の何倍も高い氷河。息せき切って階段を上がり、自分のクラスに近づいたところで、窓ガラスが割れ、何ひとつ気づかず談笑する生徒たちをぐしゃりと潰し、血を滴らせたまま氷はひとたまりもなく教室を――
「真さん」
 耳馴染みのある、いや強制的に馴染まされてきた、声がした。
 振り向くと――現れたのは、制服姿の凍月だった。

 

 その背景には普段通りの学校の廊下。学校の風景。朝の日常。
 まるで氷河を支配するように、たった一声で、幻覚は去った。
「あれ? そんな顔して、どうしました?」
 あまりに一瞬のことに、彼女に釘付けになったまま固まっていたが――ようやく状況を把握すると、慌てて廊下と階段とが繋がる壁、物陰に引っ張った。僕の症状には気づかなかったようで安堵しつつ、苦言。
「なんでここまで来たんだよ」
「そっちこそ勝手に出て行くなんて許した覚えはありません」すかさず反論。「ですから来るのは当然です。学校でも真さんの監視を続けるなら生徒のふりをするしかありませんから、狸寝入りで一旦行かせておいて、あの制服を着て後をつけてきました、が――」
 二度も引っかかる僕の迂闊さに呆れるのも一瞬、すぐ凍月は機嫌を戻した。
「そんなことよりどうですか? 玄関にお姉さんのローファーもあったし、ぜんぶ借りちゃったんですけど。この高校の制服、初めて着るんです」と、一回転。
 目に見えてめちゃめちゃテンションが上がっている。
 うむ、しかし他人のとはいえ、うちの女子制服は昨今少ない(のか?)セーラー服。
 確かにこれを目当てに志望する女子も少数いるとかいないとかで、こちらもつい血迷ってかわ――いいって言いそうになったけど言ったらどうせ犯罪認定されるからうまくこらえて見せた。「ちゃんと高校生には見えるよ」
「何ですかその反応。せっかく着てあげたっていうのに不満ですか」
「いやそういうことではなく……」と視線を彼女の髪に向ける。
 高校生に見えるといっても、どんな高校生かは話が別だ。彼女は誰よりも目立つであろう長い銀髪で、この平凡な地方の教育機関では圧倒的に浮いてしまうからだ。おまけに顔立ちと合わせるとまさに学校を転々とする転校生のアイドルヒロイン(?)的非日常が制服を着て出歩いているようなものだ。
 凍月もそれは自覚していたらしい。
「しょうがないじゃないですか。それこそ黒に染めるわけにもいかないし、この長さじゃウィッグも使えないし」「それはそうだけど」「そういえば、ひょっとして反応の薄さは黒髪フェチゆえですか? あーはいはい、私が地元の良家出身で姉にコンプレックスを持ち高校生的恋愛ノリを侮蔑していたくせに最終的に健気なギャルヒロインを押さえてくっつく箱入り毒舌美少女じゃなくて悪かったですね。私はしょせん殺人鬼の化け物でーす」
「なんで勝手にやさぐれてるんだよ」
「だって真さんってたぶん処女厨じゃないですか」
「それ青森の人が三食リンゴ食べてると思ってる外国人みたいな差別発言だから。……っていうか、そういう言葉を公共の場で使うから余計に目立つんだぞ」
「……そうですね。喜んでくれないからちょっとイラっときて。すみません」
 うーん。相変わらずよく分からないが、反省はしたらしい。
「やっぱり帰った方がいいですかね。今後はGPSとかで対処して」
 最後に物騒な発言がくっついている気がしたが、しょげている様子を見るに、ちょっと申し訳なくなった。凍月は凍月なりに学校に興味があるのは僕にも理解できる。それを追い返すのは忍びなく、しかし実際、校内をうろつかれたら目立ってしまうわけで――
「あれ、どした? 伊澄くんと……お嬢さん?」
 ほら、言わんこっちゃない……って、まさか。
「……ゆ、弓良さん」
 なんでよりによって、唯一の顔見知りにぶつかるのか。
「見たことない子だけど、綺麗だね。その銀髪って地毛だよね? えー見せて見せて。うわ、超サラサラ」「あの、弓良さんちょっと」「何組? 何年生? どこ住み? ラインやってる? そんな無防備に出歩くの、おじさん感心しないなぁ」
「う、その」ああもう。凍月さんめっちゃ困惑してるじゃん。「わ、私は」
「冗談冗談。制服にも着慣れてないし、転校してきたとかってことかな」
 一目で分かるんだ。女子恐るべし。……って、感心してる場合じゃない。好機だぞ。
「そう! 校舎を紹介してたんだ」適当に名前を考えるか。「えー、やまも――」
「いずみ、いつきです」おい! 勝手に名字を使うな!
 言ってから、いずみ、いずみ……と名字をブツブツ呟く凍月。不穏なものを感じたが無視してアドリブで誤魔化す。
「しっ、親戚なんだ! ハーフの子なんだよ。お母さんが北欧系でね」
「えーマジで! 冬戦争じゃん」感想がニッチすぎる。「そういえばあのへんの挨拶ってなんだっけ」「え、ええと」乗らんでいいから。「……ハ、ハラショー?」それは敵国だろ。
 転校設定にするとこれから来なかったら不自然だし、面倒だな。どうしよう。
「日本で暮らしててね! 外国語はあんまり。それで、えーっと、こっちに越してきたんだ。でもまだ学校決まってなくて、じゃあ僕んとこ見てみる? って感じだからここに来るかもしれないし、来ないかもしれない。春樹風に言うと」「来るとも言えるし、来ないとも言える」「そう。それは対極ではなく、その一部として存在している」漫才やってる場合ちゃうぞ、自分。
 ふーむ、と弓良さんは考え込む。
「見学に制服を着てくるなんて、なかなかニッチですなぁ。お似合いで」
「え……ほんとですか! ありがとう!」
 凍月は素で喜んでから「……あ、いえ」と我に返った。
 学校見学で制服を着てるのは確かにちょっと変だな、やらかしたか……と今更気づいたが、凍月の反応でうやむやにできた。……できたよね?
 にしても、すごい嬉しそうだったな。そんなに気に入ったのか。
「で、それは彼氏さんの趣味で?」
「かかかっ、彼氏って……それは……まだ早いっていうか」
 なんだその取り乱し方。何が早いんだよ。
「なるほど。友達圏外恋人付近、湿った関係ですね。承知しました」
 なんか分からんけど勝手に納得したらしい。一安心……なのかな。
「で、それにしても一緒にお住まいなんて、ずいぶん古典派ラブコメしてるね」
 えっ? なんで。今までにそんな手がかりを喋ったか? そんなはずは――
「なーんて、これも冗談」
 悪戯っぽく笑われて、胸をなでおろした。ほんと、こういう人だなぁ。
「ま、取って食べちゃわないでね。じゃ、学級委員の仕事あるんで!」
 最大のブラックジョークを残し、弓良さんは嵐のように去っていった。
「……あの人、仲いいんですね。ぜんぜんぼっちじゃなくて、がっかりです」
 なんでちょっと不機嫌なんだ。
 それにしても、最後の冗談は、どっちに向けた言葉だったのか。……なんてね。

 

 僕らはしばらく一階の階段下、備品置場に身を隠した。
 ホームルームが始まると校内は静まり、安堵して廊下に出て歩く。あとは教員ないし用務員に見つからなければいい。今日は授業で試験じゃないから、サボっても傷は浅い。
「あ、これ」と凍月は急に足を止めた。そこにはパンの自販機。
「こんなの、学校にあるんですね。しかも見たことないパンばっかり」
「ああ、それは学食の人が作ったやつ。仕事を越えて趣味の人がいてね。完全オリジナル」
 いろいろな商品が並ぶ中、凍月はあるパンに目を留めた。
「チーズ蒸しケーキ、ですか……」
 やっぱりそれか。
「そんなに気になるなら、買ってあげようか?」
「ほんとですか? やったー!」
 少し早いが、飯にするか。朝何も食べてないし。ということで、僕もパンを買った。
 しかし、どこで食べるか――と思案したとき、凍月が窓の外を見た。
「あれって何ですか?」
 校舎から少し離れたところに、白い壁に囲まれた土地。
 プールだった。

 

 目隠しに増設された壁に一面覆われたそのスペースに侵入するのは一見容易ではないように見えたけれど、もともと無理のある増築だったのか、入口の門(『設備点検中、使用不可』と貼り出されている)との接合部に隙間があり、足をかければそのまま乗り越えられた。真正面から侵入する奴などいないという慢心が学校側にあったのかもしれない。
 そう、僕たちのような。
 先に入り、人気がないのを確認してから、凍月に鞄を投げ込ませ、バランスを崩さぬよう手助けして、屋根の腐食した更衣室や錆びたシャワーを通り過ぎ、プールサイドに出る。
「わぁ、綺麗です」
 果たして感想のとおり、澄んだ水が張ってあった。『漂白』の二文字を想起させる匂い。これが塩素だろうか。最後に嗅いだのはいつか、そもそも嗅いだことがあるのか。
「使用不可って書いてあったのに、不思議ですね」
 入口の掲示を思い出す。「水を入れて水質のテストをしているのかも」
「だとしたら人が動かしているんですよね。長居しない方がいいですかね」
「……ま、授業中は大丈夫でしょ。この壁の高さなら、校舎の上の階からも見えないよ」
「真さん詳しそうですね。何か理由がありそうです。不穏です」
「入ったことどころか気にしたこともねぇよ……」
 そんなもう慣れてきた掛け合いはともかく。
「水ですね」「水だね」「水がめっちゃあるとなんか面白いです」「それはよく分からない」
 まぁ、喜んでくれるならいいか。
 壁の日陰になっていたので、二人してプールサイドの飛込台横に腰を下ろした。凍月はテンションが上がったのか、わー、と靴も靴下も脱ぐなり、生足で水面を弾いてみせる。
「汚いかもよ」
「こんなディストピアみたいな匂いしてるんだから大丈夫ですよ」
 なるほど。全然なるほどではないけれど自己責任ということにしておこう。
 パンを取り出して食べる。これめっちゃおいしいです一口食べてみてくださいよやっぱもったいないからダメですという監禁のコンセプトを損なう一幕を挟みつつ。
「涼しいですね。水場だからかな」
「うん……」と空返事しつつ、塩素にあてられた頭は今頃弓良さんは教室にいるだろうな、僕の席が空いているのを見て何がしかの邪推をしないだろうかなんて考えて――
「ちょっと。何ぼーっとしてるんですか。変なこと考えてたら突き落としちゃいますよ」
 背中を軽く叩かれて慌てて我に返った。本当にやりそうだから洒落にならない。
 水は七月の鋭い光を反射しながらも、水底まで透きとおり、幻のように揺れている。
「こんなところに来るなんて、想像したこともありませんでした」
 水面には、ビデオテープの画面のように波が崩す、凍月の顔が映る。真横に目を移すと、そこには横顔がある。同じ存在から現れるイメージなのに、何かが違って見える。
「ここにいる子たちには、いろんな可能性がある。誰と出会い、何を学び、どこに行くのか、たくさんの未来がある。でも私には、人を食べて生きる選択肢しかなかった……。だから、やっぱりここは私の居場所じゃないですね」
 でも、と凍月は手で水を撫で、呟く。
「一日だけなら、月の上を歩くのも悪くないかもしれませんね」
 そのまま水を掬ったところで手首にかかり「……いて」と手を払った。
「あのとき絆創膏貼ってたとこです。ほら、ここに薄く」
 手首を近づけてくる。そこに細い線が一筋、肌の上に走っていた。
「ん? そんなに面白いですかね?」
「……あっ、いや」
 言われてから、じっと見つめていたことに気づく。
 凍月は訝しんだようだが、ふと思いついたように悪戯っぽく笑った。
「舐めてみます?」
「……遠慮しとく」
 いくじなし、とばしゃばしゃ水をかけられた。やかましいわ。

 

5 「おかえりなさい」

 

「……分かりました。学校に行ってもいいことにします。試験もあるみたいですし」
 次の日から、凍月は監禁のレベルを軟化させた。アリバイを作るという理由を説明したとはいえ、こんなに軽く認めてくれるとは思わなかった。しかも、譲歩は続く。
「監視もしないことにします。昨日みたいなトラブルになると余計に困りますし」
「……そこまでしたらもはや監禁じゃないんじゃ」
「最後に私のもとに戻ってくればいいんです。信じてますから」
 本妻みたいなこと言ってるけどこいつは犯罪者なんだよな。
 しかし凍月の見込みどおり逃げる気はなかったので、それから相変わらず奇妙な生活が、一週間も続くことになる。と、いうことで。
 平均的な朝として、期末終了後、学期締めの金曜日を引用しよう。
 起床後、モーニング・ルーティーンの乱入者にされるがまま、準備が進む。
「……それから、しっかり歯磨きして、髪も整えて、制服の埃も落としました。これで真さんをどこに出しても恥ずかしくありませんね」
「そこまでしなくても」
「これぐらい男子の振る舞いとして当然です。あと……お礼も、兼ねて」
 お礼。その発想はまだ凍月から離れていないらしい。
 でも、現在の対象は以前よりもたぶん穏当なものだ。
「……今日も、ピザパン、おいしかったですから」
「パンとケチャップとチーズがあればオーブンで焼くだけなんだけど。やってみたら?」
「真さんに作ってもらうのがいいんです。いや勘違いしないでください真の料理が食べたいんじゃないんですっ」そんなところでツンデレを発揮すな。
「……そっ、そう! 食材に自分の餌を調理させるのがいちばんいいですからね。養殖業の人が考えなかったのが不思議です」
「せめてもうちょっと倫理を学べ」ミートイズマーダーな過激思想だった。
 そんな玄関先の無駄話も、ちょうどいい時間には収まる。
「時間だし、行くよ。いつも言ってるけど、火元には気を付けて。今日も家にあるゲームなんでもやってていいから、チャイムには絶対に出るな」
「ラジャー、自宅警備任されました。今日も一日ドッグファイト三昧してます」
 敬礼を返される。アパートには誰かが残したレトロゲームがたくさんあったが、その中で凍月は最近やたらフライトシューティングにハマっているのだ。ゲーム脳じゃん。
 これでは死地に赴く上官だけど、いいや。
「いってらっしゃい、真さん」
 手を振り返し、一歩を踏み出す。ドアが閉まる音がする。そこまでを頭の中で確認してから、眼をきつく閉じ、また開ける。……大丈夫。世界は今日も平和だ。
 凍月が送り出してくれるようになってから、幻を見る頻度は急激に減った。正確には、『うっすらと見えることもあるが前ほど怖くない』という感じ。
 それは初めて人生に他者の目が入りこんだからかもしれないし、非日常の象徴が一人に集中したからかもしれないし、逆にその非日常に慣れた結果、幻とのつきあい方も変わったのか。それとも単に毎朝通うようになったから? ……どれでもいいことだけど。
 そう。僕は火曜以降、毎朝学校に通っている。
 これは伊澄真の人生史からして、異常事態だ。

 

 教室にたどり着くと、周囲の視線が変わっているのに気づく。補習で期末を受けていた奴が突然毎日朝から来るようになったんだから、そりゃ驚くだろう。
 カクテルパーティー効果とはこれなのか、喧騒から聞こえてくるのは僕の話ばかり。
「伊澄、変わったよな」「急に真面目になってさ」「女のせいだな」「そういえば月曜、あいつが銀髪の子と一緒にいたの、チラッと見てさ」「お前の妄想だろ」「いや、見たんだって! しかもめっちゃ顔ええんよ。モデルかと思った」「まぁ伊澄ならあるんじゃね」「ああいう奴がモテるの、バグだろ」「殺人鬼と付き合ってたりして」「じゃその子が犯人だったり?」「あー、なら俺だって殺されてぇよー、ぜってぇ死ぬ前にワンチャンあるだろ」「お前童貞捨てるなら死んでもいいのかよ」「いーや食われるね。二重の意味で」
 ……ほんと、力が抜けてくる。この有様じゃ、二度と凍月を学校には呼べないな。
 自席に腰を下ろして、ホームルームを待った。

 

 一週間通してほとんど試験だったが、真面目に受けてみると意外に時間が短く感じたのは驚きだった。普段寝ようとしているとなかなか時間が経たずもどかしかったものだが、プリントと格闘するだけで時間がみるみる溶けていく。
 期末試験自体も、弓良さんが今まで手助けしてくれたおかげでまったく分からないことはなかったし、一夜漬けとはいえ対策もしていたので(凍月はいつも「応援します!」と意気込むが毎回すぐ退屈して寝た)、特に影響なく終えられた。
 唯一心配なのは、教室に目立つ、ぽっかりとあいた空席。
 当の弓良さんは火曜から今日まで、よりによって期末を丸ごと休んでいたことだ。風邪らしい。季節の変わり目とはいえ、あんな人でもこのタイミングで体調を崩すんだという驚きがあった。そりゃそうか、人間だし。
 食べられていませんようにと、不謹慎にも祈った。

 

 最終日までには試験の採点も終わり、うちの学校では締めにまとめて返却される。夏休みが始まろうとしている。僕の試験結果は悪くなかったけれど、出席の問題で目をつけられているらしく、なんかの教科で休み中の補習の呼び出しを食らった。
 ま、行かないけどね。
 一学期最後は半ドンで、ホームルームが終わった。クラスの浮ついた空気が好きではなかった。周囲はやかましく眠れないし、仕方なく本を読んでも集中できない。
 帰る前に、朝のうち買ってみたパンを頬張る。なんとなく凍月が食べていたやつだ。チーズの味がした。当然だ。……なんでそんなに好きなんだろうな。
 凍月。
 学校にいるのに、やたら彼女のことを考える。
 おもむろにスマホを取り出して(返された)、ラインを起動する。我が校はもともと生徒の電子機器の使用に厳しかったが、災害の経験もあり、今は休み時間であれば使用を咎められることはない。
『いつき』のトークルームを開く。ひらがなだと一瞬『いっき』にみえるが当然凍月は武装蜂起した農民ではない。おにぎりではなくチーズ派である。
 画面を開くと『全ルートクリアしました!』のキャプションと共に写真が貼ってあった。直撮りのゲーム画面なので見づらいことこの上ないが、相当楽しかったのだろう。
 ……僕が学校に通うことになってから、凍月に携帯を買った。
 もともと(おそらくよからぬ方法で)持っていたが、僕と出会う前に失くしたらしく、さすがに連絡手段があった方がいいだろうと思い、携帯ショップに連れて行った。デタラメなことを書いて契約できる会社だったのにはちょっと世の中怖くなったけれど。
 僕の財力では型落ちの新古品スマホしかあげられなかったが、凍月はいたく喜び「見てください! ラインに真さんしかいません! 貞淑ですね!」と盛り上がった。
「……僕も普段使わないから同じだけど」
 弓良さんとも学校外では会わないので交換していない。媛先生は電話しか知らないし。
「これからは増えないか日々監視しないといけないですね」監禁というよりDVだろ。
 それからいつでもおかまいなくメッセージが飛んでくるのだが……。
 もうすぐ帰る、と送ると一瞬で既読がついた。
『おつかれさまです』
『これ見てください』
『さっき、窓の外!』
 貼られた画像には、毛むくじゃらの塊が塀の上に座っている。猫か。
『窓開けたら入ってきて、めっちゃ人に慣れてます』
『何あげていいか分からなくてお水しかあげられなくて、でも飲んでくれました』
『チーズが猫ちゃんに悪かったら大変ですからね』
『あと、チーズを食べさせていいのはこれから食べる生き物だけですし!』
 ……返答が思いつかなかったがスタンプなぞないので『バッド』のリアクションを押しておいた。一週間ずっとこんな感じでよく飽きないなぁと感心する。
『学校、お疲れさまでした。夏休みですね!』
 とはいえ、最後のそんな一行で、ほんの少しだけ頬をほころばせる僕もいて――
『ご褒美に元気が出る写真ほしいですか?(バカっぽい性的な絵文字の羅列)』
 すぐに電源を切った。

 

 これまでは陽が落ちるまで学校から出るのを待っていたけれど、凍月と暮らすようになってから、できるだけ早く帰るようにした。幻覚は今も不安だったが、それでも凍月を待たせるわけにはいかないと思ったから。
 アパートのドアのカギを回すと、バタバタと音が響き、開く頃には目の前に顔がある。
「真さん! 無事ちゃんとお留守番できましたよ! 褒めてほしいです」
 帰りの挨拶をすればいいところを、僕は黙って手を振り返した。
「素直じゃないですね。そんなんだから人殺しの子ぐらいしか構ってくれないんですよ」
 それでいいよ、と、これもまた、そのとき言葉にならなかった。
 だから凍月は呆れたように、いや――困ったように笑って、僕を迎えた。
「おかえりなさい」

 

6 いちばん眩しいあの星の涙は

 

「――で、全人類の電脳化を目的に武装蜂起するんですよ。でもこのゲームってどの陣営につくか自分で選べるから、周回していくとその度に新しい情報が出てきて、真相に一歩ずつ近づいていくんです。いやー、戦闘機で戦うだけかと思ったらこんな面白いなんて……」
 夕食の席、シチューを平らげながら凍月は今日クリアしたゲームのことをたくさん話してくれた。よほど気に入ったらしい。暇潰しになってくれたならいいのだけれど。
「……そういえば、明日から夏休みですね。なんだか一週間早かったなぁ」
 その言葉で思い出す。凍月がやってきてから、それぐらい経ったのか。
「真さん、今年の夏休みはどう過ごします?」
「普段どおりなら、一日中寝るかなぁ」
「ダメですっ」がちゃん、と凍月はテーブルから立ち上がった。「せっかくの高校生の夏休み、もったいないです。しかも私が暇です」
「それ、後者がメインの理由だよね」
「だって人を食べるなって言われてますし、暇なんですもん」
 社会にとってはそれでいいだろというのはともかく、たしかにこの一週間、こちらの都合に凍月を引っ張りすぎていた気はする。一切外出もさせてもらえなかったんだからそりゃあ不満だろう。とはいっても、僕もアウトドアな人間じゃないし、行く場所なんて……。
「あ」急に思い出した。「図書館に本を返さないと」
「図書館って……本があるところですよね」「本があればすべて図書館とは限らないけれど本がない場所は図書館とは言わないね」「行ったことないです! 行ってみたい!」「本がいっぱいあるだけだけど」「本がいっぱいあるなんてそれだけで絶対面白いです!」
 こいつ、なんでもデカければ面白いと思っている疑惑がある。小学生か。
「でも、本当に借りた本を返すだけだし。っていうか本読むの?」
「本っていってもいろいろありますけど……あ、漫画好きです! お金があったときは漫画喫茶に一晩中いたりしました」それで人格形成されてこうなったのね。「でも図書館かぁ。その発想はなかったです」
「ちょっと待って」何か誤解しているようなので慌てて訂正する。「歴史的に重要なものを除けば、市立の図書館に漫画はほとんど置いていないと思うぞ」
「えー。じゃあ文字でいっぱいの本ばっかりなんですか。それはつまんなそうだなぁ」
 こいつ、本当に世間知らずなんだな……というのはともかく、本を返すのは一人で行くことになった。帰ってきて暇そうだったらどこかに連れ出すか。
 つまり、僕は油断していたのだ。

 

 翌朝、冷房の効いた部屋の中、凍月は今日も爆睡していたので、起こさないようゆっくりとベッドから降りた。
 とっくに拘束はない。信頼されたということか。いいのか? そんな益体のない自問自答をしつつ、借りてきたベケットという人の小説を、次は二度と借りないぞと確信しながら忘れないよう鞄に入れた。だって意味不明なんだもん。
 趣味というほどではないが、小説を読むのは好きだ。ジャンルに拘りはないが、特に海外の作家をよく読む。しかし翻訳書は値が張ることが多いので、そういうとき僕は図書館で借りるようにしている。出版関係者に言っちゃいけないアレだ。
 またしても『図書館に行ってきます。すぐ帰る』と書き残し、凍月を置いて外に出た。

 

 夏の始まり、日差しは鋭さを増し、街には半袖の人が目立つ。図書館への道は木々が多いが、葉は青々とし、セミが引っ付いて喚き散らす。しかしそれもやがて死に、朽ちていくだろう。みな灰になり、それは雪のように積もり――
 突然、クラクションが耳をつんざいた。
 振り向くと、トラックが轟然と目前に近づいてくる。無意識に僕は車道に接近していたのだ。だが、状況を理解しても僕の足は動かない。
 それがトラックではなく、雪崩に見えたからだ。
 避ける、という発想はとうに消えていた。そうだ。やっぱり僕の悪夢は去っていなかった。やがて僕はそれに呑み込まれていくのだろう。そう、こんなふうに――
 立ち止まったままの僕に、雪崩はどんどん近づく。セミの声はとうに聞こえない。そして、ついにひとたまりもなく呑み込み――その寸前で、トラックは急旋回して僕を避けた。
 鼻先を掠めた轟音に、僕はへたり込み、ようやくここが車道であることに気づき、這うように道の隅に逃げ、ガードレールを飛び越え、歩道にうずくまった。鳥肌が収まらない。
 僕は死にたいのか?
 あの日、あの時から、あらゆるイメージが僕を追い詰める。僕を氷の冥府に導こうと、破滅の幻を見せ。苛み続ける。オマエガイキテイルノハフシゼンだと。オマエハアノトキシヌハズダッタと。そして、オマエハズルヲシテイキノビタのだと。
 ズル?
 そのトオリだ。ダレも助かるはずがナかった。ナノニ僕だけがセイゾンした。
 ソレハオマエガヒトヲ××タカラ。
 ソレヲシタ者ハ人間デハナク――
「ちょっと! そこどけよ!」
 僕につっかえて、自転車が通れなくなっていた。立ち上がって、道を開けようとして、相手の顔を見た。ソコニハ、

 

 ……。
 …………。
 ………………。 
 ここはどこだろう? 確かに僕は座っている。記憶がない。今はいつか。どうしてここにいるか。そもそもここはどこか。
 僕はベンチに腰を下ろしていた。顔中が汗にまみれ、なのに身体の芯まで冷たく、頭は外気の熱との温度差でズキズキと痛む。どうしよう。どうしよう。帰りたい。帰れるかな。
 凍月のいる、家。
 そう考えたとき、突然頭の中がクリアになった。
 ポケットに入った物体に気づく。これはスマートフォンといって、距離の離れた誰かに電話をかけられる、電話というのは同じ端末を持つ遠くの人と会話ができるということで、つまり僕は凍月に電話をかけることができる。そして、助けを呼ぶことができる。
 ……ためらいはあった。けれど、結局僕は凍月を呼びだした。
『もしもし。真さん? また急にいなくなって。書き置きすればいいってもんじゃ――』
「たす、けてく、れ」
『……え?』
 それ以上言葉が出なかったので、地図アプリを起動し、ラインにスクリーンショットを貼った。「こ、こにいる」
 そう言い残して、通話を切った。
 会話を終えた瞬間、身体に重さを覚え、ぐったりとベンチに横たわった。凍月には申し訳ないことをしたが、限界だった。もし来なかったら。暗い予感が頭を掠める。……考えるな。今できるのは待つことだけ。

 しかしその気力もやがて空費し尽くされ、顔を覆ったまま蹲る不審者でありつづけるのも限界に達した。
 何も見たくない。もうこの目を潰してしまいたい。そうすれば――
「真さん! 大丈夫ですか!」
 意識の今際、目を開くと、覗き込む凍月。
 手近なお姉さんの古着を着た姿は、若干のちぐはぐさを容姿で無視させる着こなしだった。そんなこと考えてる場合じゃないのに。
「そんな青い顔して……。熱中症ですか? 警戒しなきゃダメです。それにただでさえ真さんは貧弱な身体なんですから。どうしようどうしよう……」
 まずい、凍月は慌てている。しかも仕方ないとはいえ状況を誤解している。
 僕からすれば、こいつが来てくれたおかげで、それだけで、助かったというのに。
「……大丈夫。もう大丈夫だから」と強調したくて立ち上がり、でもやっぱりふらついて凍月はバランスを支える。凍月の顔にはかつてなく真剣な感情が浮かんでいた。
「今の真さん、ちょっとおかしいです」
「……それは」
「何かあるなら、隠さないでほしいです」
 どうにかバレないように説明を――と考えかけて、もう、隠すことでもない気がした。だって、なぜ彼女がいると幻覚が見えないのか、原因は分からないけれど、僕の人生をこんなにも楽にしてくれたのは彼女のおかげなんだから。
 それに、一緒に暮らしていればいつか言わないといけないことなんだ。だから今が――
「凍月。今まで言っていなかったことがあるんだ」
「……えっ?」
「それをずっと僕は隠していたんだ。ごめん。でも、今言わないとって。聞いてくれる?」
 一呼吸おいて、頷きが返ってきた。
 僕は幻覚のことを話した。できるだけ嘘も誇張もなく、誠実に説明するよう努めた。
 ただ一点、その幻覚を起こした原因にだけは……深く触れなかった。触れられなかった。どうしても。人生でいちばん身近に生活している相手にさえ、喉につかえて出てこなかった。それには凍月も不自然に思ったはずだ。でも、それ以上訊いてはこなかった。
「……そんな病気を、ずっと抱えていたんですか」
「病気かは分からないけど。でも、もう一〇年も見ているから慣れたもんで……」
「だったら私を呼ぶわけないじゃないですかっ」身を乗り出される。「暗くなってからじゃないと外も歩けない……そんなにも外に出るのがつらかったのに、私は学校に行くことに疑問もなかったですし、それどころか軽々しく出かけたいとか言って……」
「それは僕がずっと隠していたせいだよ。だから、バレるようなことをして、ごめん」
「なんでそういう謝り方をするんですかっ……ひぐっ、すっ……」次第に凍月は涙目になっていった。「言ってくれたなら。私、真さんができないこと、なんだって……」
 ああ、これもまた誤解だ。
 僕にとって、凍月は隣にいてくれるだけで、十二分に役立っているというのに。
「凍月に幻覚の話をしなかったのは――お前がいると、症状が和らぐからだったんだ」
「私と、いると?」
「そう。幻が、見えなくなる。凍月が近くにいると、そんな症状は起きないんだ」
 だから自分を責めるのは間違っている――と言おうとする前に、凍月は涙声を出して僕を抱き締めた。えっ、何これ。いろいろと複雑な気持ちになるんだが。
「私がそんなことできるなんて、思ってなかったです」
「だから、泣かないでって……」
「違うんです。これは嬉し涙です。私にもできることあったんだって――」
 継ぐ言葉の代わりに、凍月は両腕に力を入れ、僕を抱く。
「絶対、離しません」
「……凍月」
「死ぬまで、私に監禁されてください。させてください」
 一見プロポーズだけどお前が殺すんだからなとは、涙に免じて突っ込まないでおいた。

 

「でも、今日は暑いですし、熱中症もあったのかもしれませんよ」
 凍月の指摘は正しかった。今は正午だけれど、随分と日差しが強い。
「どこかで休むのがいいと思うけど。図書館も近いし」
「そうですね……。で、提案があるんですが」元気を取り戻した凍月が手を上げる。「今日、これからデートしませんか?」
「デート、とは」「日付、あるいはカップルが交際を行うことです」「イツペディアどうも」「どういたしまして。イツペディアは皆様の寄付で成り立っています」「感謝風圧迫だ」
 ひとまず、いつものノリが戻ってきて安心というか。
「実はですね、図書館に通りがかったときこんなものを見つけたんです」と紙を見せられる。併設された公民館のチラシだ。そこには『プラネタリウム』と書かれていた。そういえば、公民館の建物は屋根がドーム状になっていたが、あれがプラネタリウムだったのか。
「土日で一日三回投影をしているそうで、私たち市民は二〇〇円で見られるみたいです。今はちょうど一二時なので、三〇分後の二回目の投影に間に合いますよ!」
 プラネタリウムか……。近所に住んでいたのに、まったく知らなかったな。凍月が市民と定義されるかはとりあえず置いておこう。
私見たことないんです。ちょー見たいですっ。真さんは見たことありますか?」
「……僕もないかなぁ」そもそもこの一〇年出かけなかったしね。「いいかもね。安いし、近いし、館内も涼しそう。図書館が隣だから用事もすぐ終わるし」
「決まりですね。待ってろ宇宙!」ほんと、やっぱり小学生みたいなはしゃぎようだ。
 でも、それに救われている自分がいることも、自覚している。

 

 プラネタリウムのある三階、扉の前のベンチに座ったとき、他に待っている人は誰もいなかった。それは一五分後に受付開始時間になっても変わらず、結局お客さんは僕たち二人だけになってしまった。
 心配になった僕に「夏休みになったばっかりですからね。もうちょっとすると家族連れも来るんですけど」と職員のお姉さんは笑った。「ま、今日はお二人の貸し切りということで。ラッキーですね。そして男女でいらっしゃった方への耳寄りな話なんですが」
「詳しく聞かせてください」
 凍月は急に神妙な顔をした。なんかそういう話好きそうだな。
「はい。オフレコでお願いしたいのですが、こちらのプラネタリウムを見たカップルは結ばれ……」「るんですか!」「る、という噂を流してくれた方には次回無料とさせていただきます」サクラの勧誘かよ。涙ぐましい営業努力だ。
 綺麗にオチがついたところで「じゃあ、お好きな席に座ってください。中央の投影機よりちょっと後ろがおススメです。シートも倒してくださって構わないので」とキュートなお姉さんは去っていった。
 アドバイスどおり並んで座ると、確かに背にもたれれば天球が一望できた。
 やがて開演の時刻になると、映画館のように周囲の照明が絞られた。
プラネタリウムにようこそ』
 おっ、さっきのお姉さんの声。ナレーションもやるのか。
『まずは皆で手を振って挨拶しましょう。わー』
 うわ子供を舐めているめんどくさいやつだと思ったら『お姉さん元気にありがとう。お兄さん、元気ないですねー。昨晩はしゃぎ過ぎたせいかなー?』と煽られた。おっさんかお前。『はい、もう一度』
 わー。やけくそで手を振る。
『はい、OKです』
 まさかこの調子が続くのかと恐怖したが、お姉さんはちゃんと説明役になってくれた。
『はい。今、部屋は暗いですが、天球には何も映っていませんね。私たちが街で暮らす夜と同じです。今も星を映していますが、この暗さでも光の量がまだ多いので何も見えないんですね。でも――これからお二人に、星空をプレゼントしましょう』
 言葉と同時に、周囲が完全に真っ暗になった。すると――
 真っ黒のキャンバスに、星の砂がばらまかれた。本気で、そんな比喩が浮かんだ。
「わぁ……」
 隣から零れる、感嘆の声。僕もまた、呆然と眺めていることしかできなかった。
『毎年、季節に合わせたプログラムを組んでいるのですが、今は夏バージョンでお届けしますね。さぁ、まずは今夜星を見に行く曲で話題の三角形、見つけられますか?』どっち? 『ほら、歌詞大喜利で有名なあの曲ですよ』だからどっちだ?
 お姉さんはレーザーポインターで三つの星を示してくれた。デネブ、アルタイル、ベガ。太陽のように燃えている星です、との解説。
 そのまま空に星座が投影される。はくちょう座、てんびん座、いて座。ちょっと無理がある繋げ方もなくはなかったが、それは古来の知恵ってことにしておくか。
 さそり座の紹介になったとき、お姉さんは『特別に、ある物語を教えてあげましょう』と、神話のようなものを紹介してくれた。こんな話。
『むかしむかし、ある平原にさそりが暮らしていました。さそりの尾にはおそろしい毒があります。さそりはそれを使って小さな虫を殺して細々と生きていました。
 ところがある日、さそりはいたちに見つかってしまい、食べられそうになります。必死に逃げたさそりでしたが、追いつめられたところで井戸に落ちてしまいました。井戸は深く、どうしても登ることはできず、さそりは溺れ始めます。
 そんなとき、さそりはこう思い、祈りました。「私は今までどれだけの命を奪っただろう。そして私が食べられる番になったときは、あんなに逃げた。それでもとうとうこんなことになってしまった。どうして私は自分の身体をいたちにあげなかったのだろう。そうすればいたちは一日でも長く生きられたのに。……どうか神様、もし次があるのなら、誰かの幸せのために私の身体を使ってください」と。
 ……さそりが気がつくと、いつしか自分の身体は真っ赤な炎になって、夜空の闇を照らしていたのでした』お姉さんは物語を締める。『そして、その心臓が、星座の中央にある、アンタレスという赤い星なんですねー』
 ふむふむ身につまされる話だ、と聞きながら凍月の方を見ると、横顔の目の下にかすかに水がたまっているのが見えた。泣くのをこらえているのか。変なところで純粋というか。
 そんなことを考えていたらふいに目が合ってしまった。暗闇だから気づかなかったはずが、涙の反射で光る眼を僕がじっくり見すぎていたのだ。
 凍月は照れ隠しのように笑ってみせる。
 僕は黙ったまま、視線を天球に戻した。

 

「すっごく楽しい一日でした」
 一日が終わり、帰路に凍月は満面の笑みを浮かべた。
 プラネタリウムが終わり、図書館で本を戻すついでに凍月がおすすめの小説をねだるので、何冊か選んで借りてやった。『ある島の可能性』とか『結晶世界』とか。海外文学初心者には向いていないかもしれないがイメージでSFに決めた。そう、凍月って名前の宇宙っぽさで。
「ありがとうございます。大切にしますね。神棚に飾って」読めよ。しかもちゃんと返せ。
「真さんも大切にしてくださいね、それ」
 僕は荷物入れを提げたのと反対の腕で目つきの悪いデフォルメされた猫のぬいぐるみを抱えている。名前は『ベベール』らしい。凍月が見た猫と似ていなくもない。
「私の形見だと思って存分に涙を拭ってくださいね。あ、でもアブノーマルな使用はやめてほしいです。私ならともかく劣情をぶつけられる布の塊がかわいそうです」
「九割意味不明だけどアニミズムを信奉していることは分かった」
 午後の残りはハンバーガーチェーンでチーズバーガ―を食べ、街を散策。
 この『ベベール』くん又はちゃん又はその他かは普段ならやかましくて幻覚を呼ぶので絶対寄らないゲーセンのクレーンゲームで発見した。
 凍月が気に入ったので僕が挑戦して一〇〇〇円があぶくのように消え、ところが選手交代したら一発でゲットできてしまった。健闘を称えて(?)、欲しがっていた凍月は僕にプレゼントし、渋ると「なら二人で育てるんですか? 決して意味を生まなくても」などとポエミックに認知を求められたので仕方なく受け取った。
 凍月がまだ遊びたそうだったので戦車ゲームをやった。対戦機能があったので横の筐体に乗ってバカスカと砲弾を撃ち合った。
「これどうやるんですかっ」「右のレバーで右のキャタピラ、左のレバーで左のキャタピラ」「嘘です、フェイントには乗りませんっ。いててて! 撃たないで!」
 完全にバカ試合になり、僕が負けた。
 戦利品(?)として公園の出店で大量のシロップが掛かったかき氷を買ってあげた。ついでに買い出しをし、二人で荷物をたくさんぶら下げて帰った。
 しかしこういうのがデートなのか。
「人生で、誰かと遊ぶのを経験するとは思わなかった」
「……そうでしたか」凍月がいくらか繊細に言う。「それなら……じゃあ! これから私といっぱい遊びましょう。できなかったぶん、飽きるぐらい楽しいことをしましょう」
 それが――と、凍月が笑いかける。明るいとも暗いともつかぬ、底抜けの感情で。
「いつか真さんを食べる、私にできることです」

 

 凍月が隣で眠っているのを、今度こそ眠っているのを確認すると、部屋の隅の固定電話に向かった。スマホを持っているので普段は使わない、据え付けの壁掛けプッシュホン。着信があったときだけスリープから起動する設定だ。無論履歴は皆無。
 その画面が点灯していたのに、眠るまで凍月は気づかなかった。
 着信履歴。時間は本日一五時。ちょうど僕らが出払っていた頃だ。メッセージあり。
 音量を最小にし、耳に当てて再生する。女性の声だった。
『伊澄真さん』
 ……なるほど。
『あなたがひとりでこのメッセージを聞くことを、私は確信していました』
 ……なるほどなるほど。
『あなたと同居人さんについて、お訊きしたいことがあります』
 ……なるほどなるほどなるほど。
『場所は本日二三時。場所はいちばん近いファミレス。麗しいお姉さんが待っていると店員さんに伝えてください。……ただし、刑事の、とは言っちゃダメですよ。警察はテレビで離れて観ましょう。お姉さんとのお約束。では、ロトン・デジャ』
 消去ボタンを押し、メッセージを削除。
 間違いない。こいつは、相当に曲者だ。

 

 しかし待ち合わせを伝える必要はなかった。店内に入るなり、ぶんぶん手を振る異常な女性が見えたからだ。
 席につく。
「やっほー。待ちました?」
「……おあとがよろしいようで」
 立ち上がって出て行こうとしたら「お姉さん、キミにいくら払ったのか憶えてるけどなー」とデカい声で言われ、凍り付く店内を憐れみつつ、仕方なく舞い戻った。
「お代は私が持つので、存分に年上女性に奢られてくださいね」
 向かいの席、黒髪を肩に揃えた女性はスーツを着ている以外まったく僕と同年代に見えた。高校生料金で美術館でも展望台でも通れるだろう。どうして僕の周りは年齢不詳女性ばかりなんだ。
 ナプキンをつけ、食しているのはリブステーキ。
 ナイフとフォークを置き「はい」と差し出された名刺には、『七野(ななつの) 戒子(かいこ)』とだけルビ付きで氏名が書かれていた。下に小さいハイフンで結合した数字列。その他プロフィール一切なし。
「シンボリックな名前をお持ちで」「よく言われます」「七野さんでいいですか」「略してななこさん、を推奨しております」「後ろ向きに考慮します。で、戒子さんはどなたですか」「年下男子の下の名前呼びにときめくOL、つまりオフィサーレディ」「刑事さんですね」
 沈黙。
 夜のファミレスというのはこうも静かなのか。こんな時間に初めてだったが今もやっているというだけのことになんとなく感動。真夜中、コンビニに訳もなく行きたくなるのも同じ理由かもしれない。
「どうぞ、お話を始めてください」
「あれ? 注文はいいんですか?」
 ……はぁ、と呆れる。本当に食えない相手だ。
 呼び出しボタンを押して、店員さんに「フライドポテト」とだけ告げた。
「ポテトを食べ終えたら帰るので、その間にどうぞ」
「そうですね。こんな時間に私とする話題は一つしか考えられません。何か分かりますか」
 最初の問い。「さぁ」とはぐらかした。
「猥談です」「考えろ」この人、凍月と違うタイプのボケだ。「残念です。では世間話にしましょう。知らない人との話題には三の『キ』がありますね。天気、景気」
「殺人鬼」
「ビンゴ」戒子さんは手を叩いた。「食人鬼でもいいですね。どこまでご存知ですか」
 第二の問い。「何がですか?」とは言わず、ここは「ニュースは見ました」と答えた。「詳しくは知りません。嫌でも耳に入る、って程度です」
「では、犯人は女子制服を着ていたという話もご存知ですね」
 頷いておく。こういうの、苦手だ。
「制服を着ている理由は、対象をおびき出すため。つまり曖昧三センチ」「世代がバレますよ」「で、二人きりになったところで殺す――いや、名誉のため食べると言ってあげましょう。監視カメラの映像は見たことがありますか?」
報道規制で流されていなかったので、見ていません」
「それ、私が止めたんです」衝撃の一言だったが、次の行動はその比じゃなかった。「はい。これです」
 戒子さんは横に置いた鞄からタブレットを取り出すと、映像を再生した。
 ……見た動画は二つ。被害者と建物に入っていく少女、一人で出て行く少女。マンションなので、一件目の事件だろうか。どちらも犯行の様子でないことにはさすがに安堵した。
 犯人の顔にはモザイクが掛かっている。
『顔が違うんです』
『警察は隠しているけれど、目撃者の証言も監視カメラの映像も一致していないはずです』
『……答えは、犯人が姿形を自由に変えられるからです』
 あのモザイクの下。一瞬。その顔を想像する。誰かの顔を想像してみる。
 でもそれに戒子さんは触れなかった。代わりに注目したのは、ちょっと変なポイントだ。
「私、気になりますんですが」「そんな日本語はありません」「この子、荷物を持っていますよね」そう言いつつ画面を拡大。
「女子が荷物を持たないで外出する描写をしたら作者が男だって騒がれたりしますよね」
「とはいえ、いくらなんでも女子高生が持ち歩くには大きすぎませんか?」
 手元を見ずにステーキを切る技術はどこで手に入れたのだろう。
「……急に問いかけられても、困ります」
「そして、何が入っているのでしょうか?」無視か。「これだけ大きいなら、生活必需品には余計なサイズに見えます。まさか海外旅行にでも行ってきたわけではないでしょう。ではやはり家出? しかし、こんなものを持っていたら職質してくれと自己主張しているようなものですね」
「……続けてください、なんなりと」
「ところで、ここで私の天才性が発揮されるのですが」絶対ナチュラルに言ってるよこの人。「私としては材質が気になりました」
「材質? 普通の布製に見えますけど」
「そう、布。ある程度柔らかくなければいけない理由があるのではないか――そう直感したのです。プラスチックとかだと困るようなものを入れる必要があったのです」
 さらっと断定口調にする。さすが。
「何かにぶつけたらいけないんですかね」
「私としては、むしろ内側の問題かなー、って疑ってみたいんですが」
 内側。
 その言葉で、彼女の言わんとすることが一瞬見えた気がした。……いや、でも、それこそバカミスになるぞ。まさかそんなわけ。
「中に入っている人が痛いからとかですかね」
「ご明察」
「……なるほどね」
「子供、女性、ないし小柄の男性が入れるか、監視カメラから推定したサイズのバッグで有志一同に実際に試させました」鬼だ。「ちょっと無理がありましたが、折りたたみ方を工夫すれば一六〇センチ前半程度ならギリギリ入りますね」
 一六〇センチ前半。反復しなくても自分の身長は知ってますよ。
「それ、本気で言っているんですか?」
「マジマジです。まぁ、バッグの外見が変形するので緩衝材等で対策が必要ですが……この状態にすることは不可能ではありませんでした」
 そう言って、もう一度映像をリピート再生する。大きなバッグを持った女の子。
「天才刑事さん、質問です」
「はい? スリーサイズですか?」
「不動産なら間に合ってます。いいですか、仮に人間をこのサイズに収納できたとしても、証明にはなりません。人間の身体が重いのは嫌というほどご存知でしょう。少女が運んで回るのは難しい。それにどうやって呼吸するんですか」
「それはその、女子高生パワーとかで」何のパワーだ。
「ミステリの読みすぎですよ」
「ありがとうございます」褒めてないです。「もちろんそれは十分承知しています。しかし、私たちにとっては、ミステリでいいんです。言いたいことは分かりますか?」
 見せつけるように、肉片を口に放り込む。
「実現性はいくらでもこじつけられます。犯人がどんな方法を取ったかなんて、捕まえてから探せばいい。世は大・ハードボイルド時代です」
「つまり公権力ってことですね」
「善良な市民の皆様を守る使命に燃えているので。燃え燃えきゅん」さすが暴力装置の一員、欠片も思っていないことを言える才能がある。
 戒子さんは知らぬ間に置かれたポテトを勝手に食べ始めていた。塩を振りまくって。
「さて。腹ごしらえもしたので」お前だけな。「本題に入ろうかと――」
 そう言いかけたとき、着メロと思しき甘いバラードが流れた。ポリスの『見つめていたい』。ウケる。
 人情派刑事さんはスマホを取り出すと電源ボタンを長押しし「うるせー無能ども」と呟いた。おい、ちょっと本性が見えたぞ。「失礼。田舎の両親です。で、ですね」
「何の話でしたっけ」と仕返しにコピー技ですっとぼけてみた。
「不幸な事故でした、という話です」嘘つけ。
「なんですか、急に」
「おぼろげに浮かんできたんです。あなたが巻き込まれた事故のことが」
 そんな言葉とかみ合わない満面の笑みで哀れまれてもなぁ。
「雪山、家族五人で遭難。食料も水もごくわずか。苦難は察するに余りあります。一人さえ、生存は絶望的でした」
 まるで助かったのが不自然だと言わんばかりに。
「天からパンでも降ってきたんじゃないですかね」
「あるいは、ワイン」
 視界がゆっくり冷凍されていく。
 床が、壁が、きらりと光り出す。
 この人はあの事故を、事件を、疑惑を、完全に知っている。あの時。僕が救助される前に何があったのか、知った上ですっとぼけている。
 ……そりゃ、疑いますわな。
「憶えていませんね」
「そうですか。まぁ、私も無神経でしたね」
 僕の反応はさほど気にしていないようだった。あるいは、僕がポーカーフェイスを守れているのか。
「脱線しました。……私の説が正しければ、犯人は二人。片方は女子。もう片方は仮に男子ということにしておきましょう。彼女が囮として男性を誘い出し、そしてもう一人が被害者のもとに侵入、殺害、二人のどちらかが食べた。ですから私は二人組、カップルに絞ろうと思いました」
「それは賭けじゃないですか。二人、しかも男女だと断定できる情報はない」
「常人では考えつかない、天才のなせる技ですね」それ、思いつきってことだよね。「ところで少年、最近辞めるまで、年齢を偽って夜勤をしていましたよね」
 あーあ。バレちゃった。
「大丈夫大丈夫。それぐらいの非行、お姉さんの国家権力でもみ消せます」
 問題発言が飛び出した。
「でも、不思議なんですよね。あなたはそこまでして働く理由がなかったはず。両親は亡くなられましたが、親戚の方が親切にも仕送りをしてくださっているようです。なのに自分から勤労に励む、涙ぐましい自己責任です」
「いいじゃないですか、新自由主義男子」
「思想と野球の話はしないでおきましょう。しかしプロテスタントやマゾでもない限り、お金を稼ぐということにはお金が必要なことと等しいと思っています。つまり、あなたにはお金が必要だった時期がある。まるで誰かを養いでもすると言わんばかりに。……では、なぜ辞めたのか。それも、毎週起きていた事件がピタリと止む前後に。……ところで、腐り果ててもギリギリ法治国家。街の目も厳しくなり、警察も愚かではないと――いや九割九分は愚かですがこの国には私という天才美少女刑事がいるので――誰かさんも慌てているかもしれませんね」
 ……あ、この人ミスった。めっちゃ自信満々に間違えてワロタ。
 いや、そうなのか? でもこれは完全に深読みだ。僕が働いているのは幻覚を見ないためだった。凍月とは関係ない。
 ましてや、仕事を突き止めたのまでは大したものだが(媛先生が口を割るとは思えないので尾行だろうか、やられた。ただ口ぶりでは凍月までは見つかっていないようなのが幸いか)、それを辞めた経緯まではこの人は気づいていない。その上で、凍月が転がりこんだのをもっと前からだと思いこみ、バイトを辞めた理由を捜査逃れと勘違いし、経済的に追いつめたと考えている。
 超天才美少女刑事さん、やっぱりミステリの読みすぎですよ、とは言わない。
 でもそれで有利になるかと言われれば……逆だよなぁ。
「さて、私は井戸端的好奇心でアパートに突撃し、大家さんにも話を伺いました」
「今時の刑事さんはストーカーも兼業するんですね」
「ストーカーがこんな顔のいい女の子なんて、一人前の主人公ですね」本気で言ってるんだろうな、この人。「しかしジャンルはラブコメではなくホラーです。実はですね、怪現象を見つけてしまいました。あなたが学校で不在の間に、水道のメーターが回っていたんです」
「……へぇ」
「もしあなたに心当たりがなければ、幽霊かストーカー二号さんの仕業になってしまいます。妬いちゃいますね」うるせぇよ。「弟なんて言い張らなくていいんですよ。高校生の交際は自由です。……で」
 僕と、その同棲相手が。
 犯人だと。
 それが、あなたの答えですか。
「これ以上、語る必要はありませんかね」「ええ」
 最後の一口を終え、首元のナプキンを取り、優雅に畳んで。
「ということで、私、真さんの四号に立候補できますか」
「……バッターボックスの方がお似合いですよ」
 僕たちは会計に向かった。

 

 ドアを押し店を出る。結局ポテトは戒子さんが全部食べてしまった。無銭無食だ……。
「良心が痛んだら電話してください。次はカツ丼でないといいですね」
 あれって自費なのか確かめればよかったと思う頃には、戒子さんは去っていた。残されたのは、生ぬるい夜風と息の詰まる自分。
 ……しばらくは、何も食べたくないな。
 たった今も、すべての元凶のくせ、何も知らない少女は、深く眠っているだろう。
 帰ろう、と思った。

 

7 ぼくらのからだはひとつの海

 

 日曜朝。食事を終えた凍月は、僕が勧めた本を開きながら「真さんの病気ですけど」と訊いてきた。やっぱりそこ気になるか。
「一〇年前から見えているってことは、物心ついたころからずっと、それを避ける生活をしてたんですよね。だとしたら……」
 ああ、そういうことね。
「そんなことも知らないで、変な生活だなぁって思って、ごめんなさい」
「気にしないでいいよ。引きこもりは性に合ってるから、そんなに苦じゃない」
「それは知ってます」お前反省してるのか?「でも……陽の出てるうちは外を出歩けないなんて、不自由じゃないわけないです」
 改めて言われると、確かにそうかもしれない。
 ……でも、それならば、凍月にはむしろこっちが感謝したいぐらいなのだ。
「言ったけど、凍月が来てから見えなくなってるんだから、悪いなんて思わなくていいよ」
「そういやそうでした。感謝してほしいですね、えっへん」反応が極端すぎる。「私が言いたいのは、だからですね……真さんを、いろんなところに連れていってあげたいんです」
「って言っても、そんなに行きたいところなんてないけどなぁ」
「でも、今まで遠くに行ったことないんですよね? ぜったい楽しいですよ、保証します」
「でも凍月だって、そんなに出かけたことないでしょ」
「そうです。私もこの街の外をほとんど知りません。だから楽しいに決まってます」
 ものすごい論理だ。っていうか、自分が楽しみなだけだろうなぁ。
 まぁ、それも悪くないかも。そういうの、僕にはないものだから。
「なんならこれから行きましょうよ」と凍月は誘う。「まだ日曜も始まったばかりですし」
「……めんどくさ」
「そんなこと言ってると一生行かないですよ」
「いいじゃん。グーグルマップで時間潰すのも楽しいよ」
「ザ・ぼっち趣味だ……」トラベルプランニングなめんな。めっちゃ楽しいからな?
 しかし凍月は本気のようで、結局次の一言で、僕も折れてしまうことになる。
「お供しますよ、この世の果てまで」

 

 とはいえ果ては果てでも、日帰りでは電車で三時間半が限界だった。まぁ、海まで行けばどこでも陸地の果てだと言えなくはないよね。
 一八歳、本当は春休みに運転免許を取ったのだが、自分の技術に自信がなかったので凍月には言わないでおいた。レンタカーとかも面倒くさそうだし。
 着の身着のままたどり着いたのは東の端の海街。
 ローカル線に乗り(車掌さんから車内で切符を買うなんて初めてだった)、ホームに降り立った僕たちを待っていたのは、木造の駅舎、むせかえる日差しの熱気、無人の待合室には風鈴の音、黒板手書きの運賃表、二元号前の看板やポスター。もうすこし気温を概念化してくれればいい感じにノスタルジックなんだけど。
「あっつ……真さん幻覚召喚して涼しくしてくださいよ」結界ちゃうぞ。「誰がこんなとこ来たいって言い出したんですか」お前だよ。
 しかしこの暑さ、なんとなく検索した程度で行ってしまったのは間違いだったかも。
 とりあえず駅を離れる。ワンピース姿の凍月は僕の一歩前をすいすいと進んでいく。これに麦わら帽子がつけば立派な夏の魔物少女だったかもしれないが、残念ながらアパートには某球団の野球帽しかなく、銀髪とまったく不釣り合いに見えた。
 ちっとも車の通らない車道の真ん中を歩いてみる。道路には草むら、畑、自然に呑まれる廃屋、無骨な団地。振り返ればかげろうに逃げ水。白昼夢のようだ。
 まもなく言葉も尽き、直進するだけなので迷いようもなく、黙々と歩くだけになる。景色は変わらず、空間が歪んで無限ループしているのではと疑いたくなる。
 しかしそれも、いつかは終わる、
 灯台横の海岸に出て、目の前に青い水たまりが開けると、凍月が「海……!」と叫んだ。それはもう、それまで暑さにぐったりしていたのが嘘のような勢いだった。
「見てください! ほんとに海です! めっちゃ海です!」
 めっちゃ海ってどういう海だよと思ったが、はしゃぎたくなる気持ちも分からなくはない。僕だってちょっと違う意味だけど内心は驚いていた。……もし海を肉眼で見るとしたら、氷河で凍りついたようにしか見えないと思っていたから。
 夏の海は水平線まで光をたたえ、抽象画みたいに一本の線で二つの青を境界づけている。
「おーい、真さん。そこで突っ立ってても暑いだけですよ。ほら、早く行きましょ」
 促され、足を止めていたことに気づく。そうだ。灯台に行かなくちゃ。
 ……今朝はこんなところに来るなんて、思ってもみなかったな。

 

 灯台は観光名所らしく、車と人で賑わっていた。売店、料理屋、ホテルと、いろいろな手段でお金を落としてもらおうと躍起になっているようだ。
 観覧料を払うと灯台を登ることもできるらしいので「行く?」と訊いたが「ここで満足です」と言われたので、周りを囲っている遊歩道を歩いた。木も葉も岩も海も、すべてが鮮やかで、色調をきつくしたフィルム映像のようだった。頭がくらくらと酔う。
 くしゅん、と凍月はくしゃみをした。慌てて涙目を拭う。
「なんか、しょっぱい香りがします」
「海だからね」
「そういえば、しょっぱいといえば、涙もですよね。なんでだろう」
「人間が海にいたころの名残だって小説で読んだことがある」
 本当かは知らんけど、適当に喋ってみる。
「『ぞっとする』とか『むずむずする』とか、人間の感情って体表の感覚と結びついてるでしょ? 粘膜というか。それは陸地に上がった人間が、空気から海を保存しようとする本能」
「さすが真さん、難しくてエモえっちぃですね」お前の発想がさすがだよ。「……だとしたら、涙も海なんでしょうか。ひょっとしたら、世界でいちばん小さい海」
「凍月の方が詩的だね」
「ロマンチストなんです。人食いロマンチスト」
 そんなどうでもいいことを話しながら灯台を一周すると、ふもとの砂浜まで歩いた。

 

 そのまま駅に戻ったが、一時間に一本なので、近くのアットホームな喫茶店に退避。
 地元のおばあちゃん二人が世間話をしている横で、ハンバーガー、焼きそばなどを注文し、昼食にした。凍月はついでにちゃっかりクリームソーダもねだり、写真を撮った。
「なんでみんな喫茶店に行くと緑色の液体を頼むの?」
 デビュー曲がクリームソーダって名前のバンドもいるし。そこまでおいしいかなぁ。
「ノルマ達成です」
「舌が緑色になりそうだけどね」
「真さん、東京が沈むファンタジーに『天気って科学現象だし』って言いそうです」
 無礼極まる発言だったが、確かに言うかもしれない。
 東京が凍りつくなら別だけど。

 

 帰りの電車、凍月は僕に肩を預けてうとうとし始めた。子供か、と言いたかったけれど、さすがにこちらも疲れた。お互いこんなに出かけるのは初めてだし。
「真さん」三割ほど夢うつつの様子で呟く。「幻、見えませんでしたか?」
 頷く。嘘ではなく、幻覚は現れなかった。
「そっちこそ、人間らしいことをした感想は?」
 軽く言ってみたところ、思いのほか真面目に凍月は考えて、言った。
「デートって、こんな感じなんですね」
 答えないでいると、「……もう」と言い残し、そのまま眠ってしまった。

 

 家に帰るまでが遠足とはよく言ったもので、確かに旅路は帰りがいちばんハードだ。目を覚ました凍月は空元気なほどリフレッシュしていたけれど、隣によりかかられて眠れなかった僕はくたくたで、これは家に入った瞬間気絶するとさえ思った。しなかったけど。
 玄関に入りかけたところで、凍月が僕を呼び止めて、言った。
「帰ってきたんですから、ちゃんと挨拶しましょう」
「……なんでまた」
「同棲始まって一週間ですよ。カップルならどこまで行ってると思いますか」食人趣味の人と同棲するなら先に進まないでほしいものだけれど。
「ほら、言ってくださいよ。ただい――」
 言い終えることはなかった。
 突然、凍月はその場に崩れ落ちた。
「凍月! おい!」
 呼びかけても反応はない。まるで一瞬のうち魂が抜け去ったようだった。
 それから丸三日、凍月は死んだように目を覚まさなかった。

 

8 凍

 

 何も起きないとき、人生はただ待つという行為に等しくなる。
 倒れた凍月をベッドに運び込んでから、僕は彼女が目覚めるのを待った。他にできることはなかった。人間と同じつくりになっているかも分からない奴なのだ。
 脈を測る。動きはある。かすかに呼吸もしている。しかし悪いことに、時が経つにつれ凍月は目に見えて衰弱をし始めた。顔色は悪くなり、それは出会ったときの姿にどんどん接近しているようだった。何か食べさせた方がいいのかとお粥を作ってみたが、意識のない人間に流し込んで窒息させる危険に思い当たり、食べさせられなかった。彼女の言葉を信じるならば、普通の食事に大きな意味がないとはいえ。
 混乱してはいなかった。感情はほとんど抱かなかった。助けないと約束したからだ。
 ただ、意識のない凍月の表情が、美しく感じられる瞬間もあった。
 どこか遠い国の教会の地下で亡くなった人間のミイラが展示されている映像を見たことがある。今の状況は、近い感慨を抱かせるものだった。
 解剖台に乗っている姿も連想した。
 食べてみたいと思ってみた。
 もちろん思ってみただけのことだ。

 

 三日目の昼、目を覚ます瞬間はあっけなく訪れた。
 僕の見ている前でゆっくりと口が開き、いよいよ死の徴候かと身構えたが「っ……あ、あ」と意味もなく声帯が震え、やがて目が開かれ、人間という機械が起動した。
「……あれ、真さん。私、眠ってたんですかね」
 ほんの数分間意識が飛んでうたた寝していたとでも言わんばかりの言葉だった。
 帰宅早々に倒れてそれからずっと意識を失っていたことを話すと「ああ……そうだったんですね」と答えた。その妙に納得しているような調子が引っかかった。
「何か、具合が悪くなることでもあったんじゃないのか」
「……そんな、大したことじゃないです。ただちょっと疲れていただけで……真さん、心配なんてガラじゃないですよ。ほら、凍月ちゃんはこんなに元気で――」
 そう言って起き上がろうとして、全身の力が抜けたように凍月はまた倒れた。
「いてて……もう歳ですかねぇ。あはは」
 どう繕おうとも、限界だった。
 だから僕はそのことを言った。
「凍月。ひょっとして、本当は一人も、」
「バレちゃいましたか」
 そうですよ、と凍月はあっさり認めた。
「私、犯人じゃないです。嘘をつきました。……いつ気づいたんですか?」
 とっくのとうに。
「たった今」
「そうですか。勘がいいです」と凍月はぼやいた。自分が与えたヒントに気づかずに。
 プールサイドで見た手首の傷。
 凍月の言ったことがすべて真実だと仮定して、僕の指の怪我を一瞬で治せたなら、なぜ出会って数日経ち、人間としての腹を満たしても、自分の身体から傷を消せなかったのだろう?
 そんな自然治癒の遅さへの疑問が、何かへの違和感を教えてくれた。
 しかし察していてもどうしようもなかったので黙っていたし、今もすっとぼけておく。
「誰かさんが起こしている事件に乗って脅しただけです。種明かしするとあっけないですね。やっと無理しなくて済むけど」
「本当に犯人は分からないの?」
「ええ。こちらからはさっぱり。私がやっていると考えた方がよっぽど自然だし、初めてこの街にいるのに気づいたときのように、殺した記憶がないだけかもしれないとは疑っているんですけど。もしそうでも、私は驚きません。というか、自分が犯人だと納得させるために、ナイフも手錠も手に入れたのかもしれないです。護身用も兼ねてますけど」
 そうして凍月は、目覚めたときの話を始めた。
「不思議なものです。最初から、私は人間を食べないと死ぬことを理解していました。これは伝わらないと思いますが、自分が存在している時点で、そういうふうにできていることが分かるんですよね。電車はレールの上を走っていることに驚かない。船は海に浮かんでいることに怯えない。それと同じです」
 生まれた瞬間から決定づけられていたこと。それは決して特別な話ではないと思う。どんな人間も酸素を吸って吐き食べ排泄する。構造として、機能を伴って、ただそうなっている。それが彼女の場合、人を食べるということだっただけ。
 では、なぜ凍月はそれを受け入れなかったのか? 誰も食べなかったのか?
 そう問うと、凍月は困ったように「たぶん、食べる対象として見るには私は人間が好きすぎるんだと思います」と笑った。「無人島にペットと漂着して極限まで飢えても、私は食べられないタイプの人間です、きっと」
 これまで僕は、そんな人間はいないと思っていた。いや、経験的に知っていた。そのように綺麗ごとを吐いていても、自分が追い込まれれば哀れにも生き延びようとするのが生物なのだと確信していた。
 しかし、今この言葉は、嘘ではないような気がした。なんとなくだけれど。
「まぁ、好きというわりにはそんなに交流したことはなかったんですけどね。人の家に泊めてもらうのも本当は初めてでした。それにしてはうまく演技できたと思いますかね?」
「たぶん、上手いほうだと思うよ」
「そうですか。だとしたら、それはきっと人間に興味が薄いからだと思いますね。矛盾して聞こえますかね? ……好きだけど、自分から積極的に仲良くしようとは思わないんです。触れられない、まったく違うものだから、好感を覚える。冷淡な好意」
 それならば、あの時『自己防衛』と呼んだのは、案外本音が出たのかもしれない。
「だからこそ、真さんと関わっているうちに、自分で自分に驚いたんですけどね。普段とは別種の意味で、食べたくなくなっちゃいました」
「それはどうも、助かる」
「……ふふ、こんなときも、真さんは変わりませんね」どれだけ弱っても、笑顔を崩そうとしない。「何ヶ月か前に目覚めて、それから一人も食べていないので、いつまで持つかは分からないです。感覚的に、だんだんまずいことになっているのは感じますけど」
 だとしたら、今まで忘れかけていた取引が、緊急の課題になってくる。
「どうしても、僕を食べたくない?」
「ええ。死ぬかどうかは究極の選択です」そこまで言ってもらえるのは嬉しいというか、僕の命におこがましいというか。「だから、なんとかして方法があればいいんですが……」
 さて、どうするか。
 実を言えば、一枚だけ、隠しているカードがあった。しかしそれはできるだけ使いたくない。できれば最後の非常手段にしておきたかった。
 だが、今この瞬間にも、凍月は死に近づいている。
 与えるか、奪うのか。見捨てるか、見捨てないか。決断が近づいていた。
「凍月」決心して、口火を切る。「ひとつ、可能性があるんだが――」
 言いかけた瞬間、玄関からチャイムが鳴った。
「誰ですかね」警戒して、顔を見合わせる。「思い当たりますか」
「さぁ……」
 普段誰も来ないのに、こんな時に限り用事のある人間がいるとは思えないが、しかし。
「警察、ということはある」
 その一言で、凍月の表情がこわばるのが分かる。
「たとえ犯人じゃなくても、疑われているかもしれない」本当はかもしれないどころではないのだが、そこはぼかしておいた。「様子を見てくるよ」
「私も行きます」
「何言ってるんだよ。隠れた方がいいぐらいなのに」
「真さんじゃ戦力になりません」
 壁に手をついて「いたた……」と言いながら凍月は立ち上がる。手にはもうナイフ。
「真さんだけ足音を立ててください。私は先に行きます。合図で、呼びかけて」
 そう言って、すり足で廊下に向かう。緊張ゆえか、足取りは健康な頃に戻っていた。従って僕も歩き出す。
 ドアの壁まで寄ると、もう一度チャイム。逃がすつもりはなさそうだ。
 手を上げて、合図。応じて呼びかける。
「どちらさまですか」
 アパートのドアは薄い。ここからでも声は届くだろう。
 ……短い沈黙のあとで、ついに声がした。
「伊澄くんですか? 補習の件で、呼び出しがかかってて――」
 弓良さん。
 ドア越しでも間違いない。聞き違えようがなかった。
 しかし武者震いのせいか、瞬間、凍月は憑りつかれたようにノブに手をかけていた。
「凍月やめろ! 怪しいやつじゃない――」
 だが間に合わなかった。凍月はそのまま飛び出し、そのままナイフを突き出して、
 咄嗟に向こうが避けた。
 そして、凍月に飛びつく。揉み合いになって、玄関にもつれ込んで、ついに凍月は突き飛ばされ、倒れた。そして――
「いずみくん」弓良さんは言った。「わたし、人を殺したんだ」
 弓良さんは、拳銃を手に、凍月に銃口を向けながら、そう僕に言った。

 

9 醜いやつらを皆殺し

 

 弓良扇への虐待は、ある意味で生まれた瞬間から始まっていた。
 この街の名家である某家の三世代が暮らす閉鎖的な屋敷、彼女は当主が使用人を姦通して生まれた存在だったため、最初から誰かに蔑まれる理由があった。
 まだ一〇代だった母親は彼女を生んだ直後に首を吊った。生物学上の親が人間として扱われなかったのだから、娘もそうして然るべきだというのが一族の見解だった。
 こうして本家の人間は彼女を奴隷とみなし、あらゆる暴力を向けた。毎日のように犯され、嬲られるうちに、このまま行けば母親と同じ運命が待っているのだと、彼女は確信して疑わなかった。どうすればこの状況を壊せるか考えた。四六時中考えた。
 一八年目、彼女は復讐を成し遂げた。

 

 「……二人とも、ごめん。自分でカタをつけたかったのに、最後に会いたくなっちゃって」
 銃を下ろした弓良さんは、僕に会いたくてここにやって来たことを説明した。本当ならすべてが終わった後には自分も死ぬつもりだったが、補習の伝言を思い出したのがきっかけだったと。律儀というか、この人らしいというか。
「それに、死ぬのが怖くなっちゃったから」と弓良さんは自嘲した。「でも、きっと捕まれば、それはそれで二度と会えなくなるし。死刑かな? 少年法って中学生までだよね」
「そんなに殺したの?」
 弓良さんは指を折って数え始めた。
「えーっと、おじいちゃんおばあちゃんと、当主のお父さんと今結婚してるお母さん、おじさんおばさん、これで六。でその子供、いとこのお姉ちゃん一人とお兄さん二人。執事さん夫婦で二。これで一一かな? あ、あと運転手で一二。すごい。ぴったり一ダースだ。……あれ、死刑って二人以上? だとしたら六倍も殺してるじゃん。ヤバすぎ」「死刑も六倍になるね」「クアドラブル……? いや、ヘキサなんとか死刑ってこと? やだなー、六回も首絞められるの」「電気椅子なら電流を六倍にすればよさそうだけど」「六倍もビリビリするのもなぁ。骨とか外から見えそうで恥ずかしいよー」
「……二人っていつもこんな感じで話すんですか?」
 すごい、凍月がちょっと引いているぞ。
「ほんと、真さんと仲いいんですね、ほんっっっとに」
 あれ? 機嫌悪い? と思ったら、弓良さんもなんとなく刺々しい目。
「それにしても『真さん』ってすごい呼び方だね。本妻面っていうか。でも親戚だったっけ。ふぅん、ずいぶんイノセントにインセストなんだね」
「そっちこそ突然現れて何ですか? 愛人アピールですか? まぁ、真さんに現地の女がいるぐらい許しますが、郷に入っては郷に従ってほしいです」
 ……訳が分からないが、相性が良くないみたいだ。
「二人とも、とりあえず落ち着こう」と仲裁に入ったら「伊澄くんに発言権はない」「真さんは黙ってて」と挟み撃ちにされてしまった。挟むつもりが挟まれた、なんつって。
 ……締まりがなくなってしまったが、とりあえず弓良さんに訊かないといけない。
「まだニュースになってないけど、本当に殺したんだよね?」
「そうだよ。確かに、これで」
 手元の拳銃。九ミリのオートマチック。カートリッジの銃弾まで見せてもらった。一ダースは人を殺しておいてまだ弾があるのだから、もっと持っているのだろう。
「どうやって手に入れたのか、訊いていいかな」
「えーっと、それは恥ずかしいんだけど……あれは先月か。死のうと思ってたんだ。首を吊る木を探して、うちの裏山の中をさ迷ってて、でもなかなか決心できなくて。いざ決めて、枝にロープを張って首を吊ったら、枝は折れて、そのまま頭打っちゃって。で――目が覚めたら、死体を見つけたんだ。なんか……スパイ? みたいな変な格好で、服を漁ったら銃と弾をいっぱい持っていた。見たくないものも見ちゃったけど……」
「死体、何かおかしなところがあった?」
「うん。胸から下が、何かにかじられたみたいにごっそりなくなってた。で、怖くなって。銃だけ持って逃げた」
 ……ここでも、食人鬼の陰か。
「まぁ、それは置いておいて。銃を見て、死ぬのを思いとどまったんだ。これなら、仕返しできるかもしれないって。思い立ってからは早かったよ。周りを伺っても人の気配はなかったし、そのまま持ち帰った。で、しばらくは様子を見てたんだけど、今まで従順だったぶん、ちょっと態度に出てたのかな。学校、休んだでしょ? ――あのとき、『反抗的だ』って閉じ込められて。今まででいちばんひどいことされて、頭の中が真っ白になって、それで、落ち着いたら、全部終わってた」
 なるほど。だから試験に来られなかったのか。
 遺体の件は当然気になるところだが、それは本筋とは関係ないか。
「殺した家族の方の遺体はどうしたの?」
「ああ、それは全部裏山に埋めた。さっき言ったとこ。一族の所有地で、めちゃくちゃ広いし、しばらくは見つからないはず。人と滅多に仲良くしない家族だったから、一週間ぐらいはバレないと思う」
 そこまで話し終えて、ようやく凍月が口を挟んだ。
「それで、あなたはこれからどうするんですか?」
「さぁね」
 引きつった笑い。平静を装っているが、やはり普段の彼女ではないことが伺える。
「自殺するか捕まるか、どうしよっか。だから言ったでしょ、お別れに来ただけ――」
「嘘ですね」
 しかし凍月は言い放った。
「真さんに助けを呼びに来た。そうじゃないですか?」
「……何を言ってるのかな」
「私がいなければ、真さんに助けを乞うたはずです。私という女がいなかったら」
 睨み合い。僕は言葉を失ってしまった。なにこの修羅場?
「……自分を買いかぶりすぎじゃない?」
「だったら今すぐ帰ってそこらへんで銃口でも一人しゃぶって死んでください」
 辛辣で、野卑な挑発。
 弓良さんは一瞬ぽかんとしたが、意味を理解した瞬間、銃口を凍月の鼻先に向けた。だが、凍月は怯まない。
「どうぞ、撃ってください。私を殺して真さんと愛の逃避行でも行っていいです。そして、男に泣きつかないと復讐ひとつできない馬鹿女なのを証明してくだされば」
 引鉄の指が、震えている。あとほんの少し後ろに引けば、目の前で凍月の顔は吹き飛ぶ。そこまでのダメージを受けて彼女が再生できるのか、僕はまだ知らない。
 はぁ、潮時か。私のために争わないで的戦闘能力なしヒロインとして物申すぞ。
「……ヤンデレ殺人容疑者×二に愛されすぎて眠れない音声作品、次のトラックでルート分岐」「……は?」「クラウドファンディングでハーレムボートラを付け、賛否両論に」
 二人の脱力した表情に、一安心。
「……なんでこんな奴、好きになったんだろ」
「ほんとそれ。めっちゃ分かります」
 共感意識が芽生えちゃったよ。
「凍月のやり方は極端だけど、ようは、助けてほしいなら協力できるって誘導したかったんだよね? ただし、ある条件を呑んでくれれば――合ってる?」
 そう訊くと、凍月は「……分かってるなら早く止めてくださいよ」と口を尖らせた。
「条件、って」
「僕たちに遺体を渡してほしい。――正確に言うと、おすそ分けしてほしい」
 いよいよ本気で、弓良さんは目を丸くした。

 

 凍月が自分を撃たせて人外証明をするつもりなのは読めていたので、なんとかして避けることができたはいいものの、自傷なしで信じてもらえるか不安はあった。
 しかし、弓良さんは説明を聞き終えて「……そうなんだ」と呑み込んでくれた。
「思ったより、驚かないんですね」
「……信じられない事件がいっぱい起きているし、私も起こしたし……もう驚けないよ」
 まぁ、受け入れてくれるならいいんだけど。
「で、私が殺した遺体を食べさせてほしい、その代わりに事件を食人鬼に押しつけられる――って理解でいいんだよね」
 凍月は頷いた。なるほど、確かに上手い取引だ。僕たちは人を殺さずに食料を手に入れられるし、(凍月がここまで考えているかは分からないが)これまでと違うパターンの事件になるので、変人刑事さんの僕たちへの嫌疑も再考を余儀なくされるだろう。
「一応訊くけど、本当に君が犯人じゃないんだよね?」
「んー、たぶんです」
「……深入りしないでおくよ」
 さて、あとは本人次第だ。
 手元の凶器を見つめ、弓良さんは何かを考えたようだった。
 そして言った。
「……二人とも、助けてほしい」
「やっと、言えましたね」
 凍月は初めて、弓良さんに向かって微笑んだ。

 

 目立たないよう、陽が沈んでから行動を始めた。
 街道を逸れ、某家所有の土地への道に入る。暗い二車線の車道で、車通りは滅多にない。こんな場所があったなんて、暮らしていて気づきもしなかった。
 足下をかすかに照らす街灯が長い間隔で立っているほかは光もなく、暗色の服を選んで着替えると、闇に紛れることができた。聞こえるのは鈴虫の声、それだけ。
 やがて目の前に林が現れる。道と隔てているのは、錆びた低いガードレールだけ。
「こっち」
 それを乗り越えて、弓良さんが手招く。
「迷わない?」
「広いし、暗いけど、ひどい目に遭ったらよくここに逃げてきたから、慣れてる」
 あまりにもヘビーな自負だった。
 しかし確かに足取りに迷いはなかったので、こちらも信じるしかない。石なのか木なのか、彼女なりの目印はあるようで、ときどき立ち止まってスマホのライトで地面を照らすと、方向を決めて進んでいく。
 夏だというのに、林の中はおそろしく涼しく、寒気がした。なのに汗は止まらない。
 ……どれだけ歩いただろう。弓良さんは足を止めた。
 そこはすこし開けた場所で、枝葉で空も見えないほどだった頭の上に夜空が広がった。地面には草もなく、剥き出しの土に白い線が何本か引いてあった。建設予定地だろうか?
 一歩進もうとして「気をつけて」と弓良さんが止める。
「ここ、あいつらが悪さのために何かを建てようと取っておいた場所なんだ。でも、地盤が不安定みたいで諦めたっぽいんだよね。で、ほら、あそこ」
 指さした暗闇、林のある窪んだ場所、木々に紛れるように黒い影がある。目が慣れてきたのか、見つめると輪郭が見えるようになった。……ショベルカーだ。傍の通れる幅のスペースも含め、巧妙に隠されている。
「重機で掘り返したの。で、上からビニールシートを張って、土をかけて、隠せばできあがり。この街であいつらに逆らえる奴なんていないから、タイヤの痕を見つけても怖がって近寄らない。……落ちないように、私の後ろから離れないで」
 言葉に従い、慎重に歩いていく。
 そして、ある場所で、ついに弓良さんが立ち止まった。
「この下。持ってくるの、死ぬほど大変だったよ」
 全員が息を呑む。ここに、一二の亡骸が。
 弓良さんは一度深呼吸をして、それから「行くよ」と言い、屈んだ。そして、ブルーシートの端を掘り起こし、僕に見せる。それからゆっくりと離れ、また反対の端を見つける。
「手伝って」
「分かった。ここ、持てばいい?」
「うん。私が向こうからシートをめくるから、伊澄くんはそっちからバランスを取って。落ちないように、いつきちゃんは気をつけてあげて」
 凍月も応じて、その場に膝立ちをする。さすがに緊張している声だ。
 二人で確認すると、準備ができたのを知らせる。
「それじゃ――行くよ」
 そして、ゆっくりと地面は捲られ――真っ暗な洞が現れた。どれくらいの深さなのか、中は見えない。地球の裏まで続いていると言われても疑わないほどだ。
「待って、今ライト点けるから」
 弓良さんがスマホで光を当てて、中を照らす。ぼんやりと浮かび上がる、闇の奥――
 遺体と思しき、ビニールシートにガムテープで巻かれた縦長の物体が、隅に現れた。
「……どうして」
 なのに、弓良さんはそう呟いた。
 僕たちも異常に気づく。
 大きな穴の中、遺体はそのひとつだけだった。

 

「なんで……嘘……嘘……」
 うつろな声のまま、照明を震えさせて、弓良さんは穴に近づく。
「弓良さん! 危ない! 落ちる!」
 呼びかけたが、聞こえていない。そのまま足を踏み外し、弓良さんは滑り落ちる。慌てて僕たちも穴に降りた。上から見るよりずっと深く、ぶつけた脚が嫌な痛みを発した。
 這いつくばって、弓良さんは遺体に近寄る。
 そして、ビニールに手をかけ強引に引き剥がす。荒い息で、憑りつかれたように乱暴に。
 中に人間の身体があった。
 身体を食いちぎられた少女の遺体だった。
 首にはロープで絞められた傷痕があった。
 その顔は、弓良さんと同じ姿をしていた。

 

 食べられた弓良さんの死体。縊死した弓良さんの死体。それを見つめている弓良さん。
「くっ、ふふ」
 痙攣のような震え。それが笑いだったことに、最初は気がつかなかった。
「あははははは! そうだったんだ! 私、あのとき死んでたんだ! じゃあ、私は誰? もう私は私じゃないの? 私、私――あ、そっか」
 その目。その声。その笑顔。
 弓良さんは何かに気づいた。
「……私、人食いだったんだ」
 人食いは顔を変える。
 彼女が首を吊ったのは先月。事件が起きたのも先月。
 弓良さんは、眠っても疲れが取れないと言っていた。事件が起きるのは深夜。
 多重人格? いや――乗っ取り。入れ替わり。
「やっと、気づいたか」
 弓良さんは言った。いや、弓良さんの身体が言った。きょとんとした顔。自分で言った言葉が、信じられないという顔。それを無視して、そいつは喋る。
「オレに普段気づかれないように、食う時に人格もコピーして残してあげたんだけど、もういらないよな。消えてもらうよ。ま、最初からお前は死んでるけどね」
 瞬間、恐怖に弓良さんの顔が歪んだ。
「やだ、やめて、こないで、わたし、たすけて、たすけて、なにもみえないよ、いずみくんどこ、いずみくんたすけて、いずみくんいずみくんいずみくん……」
 助けを求める、呪詛のような声。やがてそれは金切り声の錯乱に変わっていく。
 僕も凍月も、呆然と見ていることしかできない。
 その末に、絶叫。
「――いやあああああああ!」
 それを最後に、完全な虚無が弓良さんの顔に現れ――邪悪に口元が歪んだ。ようやく僕たちの存在に意識が向いたようだ。
「……で、そこの二人、まだちゃんと挨拶してなかったな。どうも、人食いでーす」
「弓良さんは」
「いま消したよ。まだちょっと混ざってるかもしれないけど。かわいそーに、最後まで男の名前呼んでたね。ばいばーい」
「……あなたが、事件を起こしていたんですね」
「んー、そうだよ。同類ちゃん」凍月に向かって笑う。「オレ以外にもうひとつ、逃げたのは最初から感じてたけど、見つけたときはマジで匂ったよね。オレと同じだって」
「私に気づいていたんですね」
「そーそー。男の家に転がり込んだのまでは知ってたが、まさかガッコにノコノコ出てくるとは思わんかったよ、チョーハツかと思った」
 あの時、弓良さんは『一緒に住んでいるなんて』と確かに言った。
 あの頃には、とうに成り代わっていたのだ。
「さんざん逃げたのにまた襲われてさ。こりゃないわ、ヒトを食うには入れ替わった方がええと思ったとき、目の前で死んでる奴がいた。で、食ってみたらわりと気に入って使えたんだ。五人食っても見つからない。こいつは殺した記憶がないから、人食いとして使うモノは持ち運びしないといけなかったけどな」
 それが、大きな荷物を持ち運んでいた理由か。
「しばらくはいい目くらましになったよ。……最後に酷い目にあったけどね。まさかあんなアブノーマルな家だとは思わんでしょ。普段はマズイとこ残すけど、ムカついて全部食っちまったわ。ゲーって感じ」
 そのゴタゴタがあったから、外でヒトを食わなかった。だから事件が止んだ。ちょうど凍月がうちに来たのと偶然一致していたというわけか。「……『逃げた』って、誰からですか」
「はぁ? オマエそんなことも分からないの? なんも知らないんだな。それとも途中で頭パァになったか。それでよく生きてきたな」
「意味が分かりません」
「教えてやる義理もねぇよ」退屈そうに目を細める。「なんだ。せっかく同類なのに、話してみたらつまんない奴だな。ま、ヒト食ってねぇとそんなもんか……で、どうするよ?」
 弓良さんは――いや、人食いは立ち上がって銃を弄ぶ。
「オマエ、このままだと死ぬよね。だとしたら、今ここで死ぬのと違わないよな。ってことで、オレに食われない? 同類の味、ちょっと気になるし」
 見逃してはくれないと思ったが、やはりこうなるか。
「断ります。少なくとも、あなたにだけは食べられたくないです。……気持ち悪い」
「なーに自己嫌悪してんだ。お互い様だろ。そーやって自分だけ綺麗なふりをしてるオマエの方がよっぽど気持ちわりーよ。それとも男の前でえーかっこか?」
「黙ってください」
「決裂だな」銃口が凍月に向けられる。「狩りだ」
 そのまま、軽い動きで、引き金に指が掛かった。
 咄嗟に庇い――銃弾が、僕の身体を貫いた。

 

 銃で撃たれる感覚は、不思議だった。
 左の肩か首元を鉄パイプで殴られたような衝撃のあと、そこから自分の服に血が流れ出すのをぼんやり見ている。まるで現実のことに思えない。
 しかしそれも一瞬のこと、すぐに激痛が襲い、その場に倒れこんだ。
「真さん!」
 遠い声。抱きかかえる手。
 人食いは、ぽかんとした表情を浮かべた。
 隙をついて、凍月は僕を背負い穴から這い出すと、林の中に駆け入っていく。 

 

「……真さん、大丈夫ですか!」
 太い木の陰に隠れ、凍月は僕を横にした。身体に僕から流れた血がべっとりついている。
「私、死なないのに、なんで助けるんですかっ」
「凍月が……苦しむのを……見たくない、から」
「ばか、ばかじゃないですか、信じられません」
 軽口を叩いてみせたはいいものの正直痛い。めちゃくちゃ痛い。あまりの痛みで、うがぁ、とか、ぐごっ、とか呻いてしまった。
「喋らないでください。すぐ治しますから」
 慌てて止めた。これだけの傷では、治すのにとても時間がかかるだろう。凍月の力が追いつくかも分からない。必死に声を出して止める。
「ダメだ、追いつかれる」
「でも! こんな傷、すぐ死んじゃいます!」
「僕を置いて逃げるんだ」
「そんなのできるわけないじゃないですか!」
 まずい。冷静さを失っている。言い争っている場合じゃないのに。
 何か、方法はないか。そう考えたところで、戒子さんのことを思い出した。
「……助けを、呼ぼう」
 痛みに耐え、必死に手で財布をポケットから引き出し、財布から名刺を取り出した。
「言ってなかったけど……警察の人と会ったんだ。電話すれば、いける」
「でも間に合わないかもしれません! それに、もし捕まったら……」
「その時はその時、だから」説得する余裕がない。受け入れてくれ。「……僕のこと、大事なら、聞いてほしい」
 その一言が効いたか、凍月は短い逡巡の後に「……分かりました」と従った。スマホを取り出して、確認する。
「電波、通じます。掛けますね」
 凍月は番号を入力し、スマホを耳に当てる。頼む、繋がってくれ。
「――もしもし!」
 遠ざかる意識の中、凍月の声がする。どうやら掛かったようだ。しばらく話し声がする。やがて会話が終わった。
「警察の人、来てくれるみたいです。場所が分からないんですけど、林って言ったら通じました。周りを囲ってくれるそうです」
「じゃあ、道路に出ればいいか……迷わないでいけるかな……」
 凍月が不安そうな顔をする。僕たちには地の利がない。人食いが弓良さんの人格を知っているなら、この土地を熟知しているはずだ。
 でも仕方がない。少なくとも、ここにいたら可能性はゼロだ。
 ナイフで服を裂き、血が止まるよう応急処置をしてもらう。凍月は肩を借し立ち上がり、僕を背負うようにして走る。すごい力だった。今まで見せなかったけれど、やはり身体能力も人間離れしているのか。
「真さんを、絶対に助けます」
 そんな呟きが、聞こえた気がした。

 

 だが、まもなく絶望的なものが目の前に現れた。
 行きの道で見た、ショベルカーだ。
「……そんな」
 まっすぐ進んだつもりだったのに、元の場所に戻ってしまったのだ。
 その場に座りこむと、凍月は荒い息で、泣きそうな顔をした。さすがに走るのも限界か。
「もう、ダメなんでしょうか」
 ……絶望的な表情を見ていると、こちらの心も折れそうになる。
 でも、落ち着いて考えれば、距離を稼いでも意味はないことに気づく。相手は拳銃を持っている。遠距離から直線攻撃できるのだ。それなら林の中にいても状況はさして変わらない。もちろん気休めではあるけれど。
 ふと地面を見ると、走行の痕。これで掘ったって言ってたな。
 ちょっと待てよ。
「ショベルカー、調べてみてくれ」
「……急にどうしたんですか」
「いいから、運転席を」
 困惑しながらも、凍月は運転席に登る。
「鍵、刺さってる……」ありがとう弓良さん。ズボラさに感謝。
「捻ってみて」
 かちゃり、と音がして――瞬間、車体が音を立てて震えた。動いた!
「それに乗って逃げよう。道をまっすぐ行けば道路に出られるはず」
「でも、動かし方が……」
 運転席には、隣り合って二本のレバーがある。
「右のレバーで右のキャタピラ、左のレバーで左のキャタピラ」
「えっ?」
「ゲームと同じだ!」
 僕の一言で凍月も思い出したようだ。動かすと、確かに間違っていなかった。運転席まで登らせてもらうと、ぎゅうぎゅう詰めになったがなんとか収まった。いざ、前進。
 めちゃくちゃ遅い。
「これ、歩くのと変わんないかもですね……しかも、音で場所を教えているんじゃ……」
 しかしその感想が、新しいひらめきをくれた。
「それでいい。……絶対に止まらないで」

 

 車道に近づいたのか、かすかな光が前方に開け――果たして、ついに影が目の前に現れた。人食い。鬼の形相で、銃を構えている。
 狙い通りだ。
「……やっぱり先回りしたな」
「真さん、撃ってきますよ!」
「伏せて!」
 操縦席めがけ、発砲してくる。ガラスに穴が開く。それでも凍月は言ったとおり、レバーを戻さない。ありがとう。……そして、ごめん。
 ぎりぎりまで位置を測ってから――僕は、移動する車の目の前に飛び降りた。
 レバーにしがみついているから、凍月には止めることができない。
 衝撃と痛みの中で、回転する輪がぐんぐんと近づいてきて――
 弓良さんは僕を突き飛ばした。
 そして、履帯はその身体を踏みつぶし、巻きこんで、停止した。

 

「いずみ、くん」
 弓良さんは、下半身を潰されたまま、まだ目を開けていた。
「助けてくれると思ったよ」
 サブリマトゥムの運動能力なら、僕を助けられるというのは、前提。
 そして僕に銃弾が当たった瞬間の表情で、まだ彼女は消えていないと信じていた。だから怖くはなかった。だって、友達だったから。
「ごめん、ね」
 口元から囁きがこぼれる。
「こちらこそ、助けられなくて、悪かった」
「……いい、んだ。さいしょから、たすからなかった、から。だから……おねがい」
 僕は頷く。そして、手元から銃を受け取った。血でグリップが滑り、両手で力を入れて持つ。その先を弓良さんの頭に向ける。力が出ないので、外さないように肘を固定する。
「弓良さん、仲良くしてくれてありがとう」
 最後に一言だけ、弓良さんは訊いた。
「いずみくん、さいきん……ねむれる?」
「うん」
「そっか」
 引き金を引いた。
 いつのまにか地面に降りた凍月は、黙ったまま、それを眺めていた。

 

 次の瞬間、動かなくなった弓良さんは、目の前で氷の塊に変わった。
 凍月の驚いた反応で、それが幻覚でないことを悟って――僕は、気絶した。

 

10 幻によろしく

 

 目が覚めると、傍に屈みこんだ凍月の顔があった。
「起きましたね」安堵の表情が浮かぶ。「無茶ばっかりして。このまま起きなかったら、どうしようかと……」
「立場、昨日までと逆になっちゃったね」
「まったくですよ」
 撃たれた傷口を手で探ってみる。服から出た首の下部、左の肩上を銃弾が掠めたようだった。あともう少しズレていたら首のド真ん中に入っていたのか。
 出血は収まり、傷も塞がっているらしい。そしてなんとあれほどべったりしていた血の跡も消えていた。そこまで巻き戻せるのか。凍月パワーすごい。
 驚いて凍月を見ると、反応で、彼女が治してくれたのだと悟る、
「ありがとう」
「どうやったと思います?」
 凍月は変なことを訊いた。目を逸らして、妙なしなを作っているのが不思議だった。
 言われてみて、包丁の傷を治したときを思い出す。
 あんな風に何か自分の粘膜ないし体液を接触させたのだろうか。しかしあの時と怪我が段違いだ。ものすごく大変だっただろうな。あと、服の血まで吸い取れるのは知らなかったが、きっとそれも似た方法か――などと考えていたら「……やっぱり想像しちゃダメです。センシティブすぎます」とストップが入った。自分で訊いてきたくせになんなんだ。
「……彼女、ほんとに死んじゃいましたね」
「死んだ、って言えるのかな。あんな姿になって」
「不思議なことばかりで、頭が追いつきません」同類が氷になったことは、凍月にとっても見当のつかない事態だったようだ。「私も、ああなっちゃうのかな」
 不穏な一言に、一瞬、お互い何も言えなくなる。
「……とにかく、ここから動こう。早く戒子さんたちに合流して、帰ろう」
「それなんですけど」凍月は困ったように笑った。「脚、動かなくなっちゃいました」
「……えっ?」
「真さんを運んだときに無茶しちゃったのかな……。急に力が抜けてしまって」
 そりゃそうだろう。ちょっと前まで寝込んでいたのに、突然馬鹿力で重い物体を持って走り回ったんだから。申し訳ないことをさせてしまった。
「なんか、困ったときに限って動かなくなっちゃうんですよね。真さんと出会ったときもそうでした。乙女の早疲れってやつですかね」
 冗談を言って情けなそうに笑う。そういえばそうだった。海からの帰りでも足下から倒れてしまったし、そんなに負荷がかかるのだろうか。
 ……いや、本当にそうだろうか?
「それ、何か原因があったりしないかな」
「……どういうことですか」
「脚、触らせてくれないか」と言ってみてからとんでもない失言をしたのに気づく。「いや変な意味じゃなくてですね触診っていうか」「それ変な意味を追加してますよ」「えーっと、じゃあマッサージだと思って」「さらに変態的になってます」逃げ場なしかよ。「死の淵でもリビドーに正直なところに免じて触らせてあげますが」瀕死の兵士にしてほしいことはあるかって訊く女上官みたいなこと言わないでほしい。
 凍月は生脚を僕の前に露にする。遠くの夜行灯か月の光か、薄明かりが死んだように白い皮膚を照らす。恐る恐る触ると「ひゃ」とか「わわっ」みたいな嬌声が上がる。
「どどど、どこ触ってるんですか!」「脚です」「そりゃそうですよ私が触らせてるんですから当たり前じゃないですか」いったい何にキレてるのか。
 しかし丁寧に押していくうち、こちらの真剣さに気づいたのか静かに応じてくれるようになった。熱心な変態だと思われている可能性もあるけれど。
 ……しばらくして、発見。
 しこりのような、硬い何かが腿の中に入っている触覚が、左右両方に見つかった。これまで本人も気づかなかったようで「よく気づきましたね」と驚いていた。
「なんだろう。身に覚えはない?」
「まったく分かりませんでした。これが原因なんですかね」
「かもしれない。ただ、これ以上調べる方法がないな……」
「あ、それなら問題ナッシングスです」なんで複数形。「ててててん! ナイフ!」
 どこぞの秘密道具みたいに凍月は凶器を持ち出した。
 ……嫌な予感がして、目を逸らす。
 ぐさっともみしっともつかぬ肉の裂ける音。くちゅくちゅと何かを漁る音。耐えきれなくなって耳まで塞ごうとして「あ、これだ!」と声がした。
「……これ」手のひらをこちらに見せる。小さな物体が乗っている。僕に配慮して服で拭き取ったのか、血は見えなかった。「銃弾、ですか?」
 それを見た瞬間、何かに気づく。慌ててあるものを探した。それは弓良さんの持っていた拳銃。放り出して地面に転がったそれからサブカル知識だけで弾倉を取り出す。そこには鉛玉がずらりと縦に挿入されている。
 凍月の身体から出てきたものと近づけ、比べてみる。
 結果は予想通り。間違いなく、同じ口径で同じ形をした銃弾だ。
「どういうことですか……これ……」
「弓良さんの言葉が正しいなら、この銃は食われた怪しい男の死体が持っていた。……ひょっとして、そいつが人食いが逃げていた相手なのかもしれない。そして、あいつは凍月もどこかから逃げてきたのではないかと仄めかしていた。……だとすれば」
「私も、記憶がないうちに同じ敵に撃たれたってことですか」
「そして、同じところから逃げてきたのかもしれない」
 ……しかし、推理できるのはここまでだ。真相に非常に近い手がかりなのは分かるけれど、その真相を僕たちは理解できず、素通りしてしまう、そんなもどかしさがある。
 とはいえ、弾丸を抜いたことは事態を好転させた。摘出した傷が癒えてみると(怖くて様子は見られなかったが)、凍月の脚の具合は確かに改善したからだ。
「さっきより、動けるようになりました」と、凍月は立ち上がった。
 まだふらついているところがあるが、それは衰弱ゆえか、どうしようもなさそうだ。
 こちらも肩を貸して、二人三脚のように歩き出す。

 

 しばらく歩くと、赤い光がカーブの角から漏れているのが見えた。
 一瞬、身体がこわばる。しかし意を決して近づいた。
 ランプを屋根に出した真っ赤な覆面パトカーが車道を遮るように斜めに停車してある。凄まじい通行の迷惑だ……。
 運転席にはサングラス姿の女性。暴力警官が様になっている。
「……戒子さん」
「ああ。真さんですか。こちらは夜の四番バッター、絶賛敬遠中です。で、この方は」
「知人女性です」
「大変つつましい呼び方ですね。しかしお二人にお伝えしなければならない喫緊の問題があります」
 サングラスを取って、こちらを一瞥。それから話を始める。
「出動した警官隊が、さきほどこの付近の林内で遺体を発見しました。まだ特定はされていませんが、一〇代の女性。首には絞められた痕があり、身体は獣のような何らかの動物に食い荒らされたように損壊していました」
「それは――」
「電話口の説明は正直よく理解できませんでしたが、とにかく言い分がおありになるのは分かっています。しかしこの状況では、私はお二方を事情聴取しなければなりません。それも、連続殺人事件に関する、非常に重要な参考人として」
 失敗した。
 僕の誤算は、相手を友好的な勢力だと甘く見積もったことだった。そこに助けを求めた結果、これでは僕たちは自分で自分が犯人だと証明してしまったようなものだ。
「私たちは、何もやってません」
「何をやったか、とはまだ訊いていませんよ」
 戒子さんはいつもの態度を崩さない。
「ただ、現在の状況から鑑みて、あなたたちは事件に大きな関連があると疑わざるをえないだけのことです」
「詭弁ですね」
「それが公権力なもので」
 それでも凍月は強気を崩さないが、虚勢であることも見え隠れしてしまっている。こちらに目配せをするが、僕は首を振った。抵抗すれば、今度こそ完全に終わりだ。
 ……ここまでか。
「それでは、異存がなければここで手錠を失敬いたします」
 戒子さんは鉄の輪を取り出し、僕たちの前に見せると――
 それを自分の手首にはめた。
「……はい?」
「ぎゃー、警官殺しー」
 まったく感情のない声でわざとらしく言うと、そのまま席を降り、道路に寝転がる。そして財布を取り出し、五桁のお札を次々と並べ始めた。……ほんとなんなんだこの人。
「わー、捕まった上に手錠を掛けられて車と金を奪われちゃいましたー、刑事生命の終わりですー、もう恥ずかしくて現場に出られませんー」
「……あの」
「ということで、今すぐ車とこのお金で逃げてください。真さんは運転できますよね?」
 そういうことか。いや、どうして彼女が僕たちの逃走を助けるんだ?
「僕たちを……疑っていたんじゃないんですか」
「もちろん容疑者でした」横になったまま答える。「しかし、いちお姉さんとしては少年少女の逃避行を助けるのが道理ではないでしょうか。ですからそんな警察ドラマめいた葛藤の弱みに付け込まれて捕えられ、車を奪われてしまったわけです。やられたー」
 あくまで芝居を崩さないつもりらしい。
 しかし遠回しにも助けてくれているなら乗らない手はない。恐縮しつつ運転席に乗り込む。大丈夫。なんとか運転できそうだ。それにしても、ひょっとして戒子さん、僕が免許を持っているのを知っていて車を渡したのだろうか。したたかすぎる。
「凍月、そっち乗って」
「……う、うん」
 状況に圧され気味だった凍月も、ここは素直に従って車内に入る。
「真さんを助けてくれて、ありがとうございます」
「いえいえ。きっと、犯人はお二人が倒してくれると確信していましたから」
「えっ?」
 戒子さんは疑問に答えず、手錠のついた手をこちらに振り、言った。
「逃げることです。ボーン・トゥ・ラン、ラン、ラン」
 振り返って、思う。
 僕が命に関わる怪我をしていたことを、電話で戒子さんは聞かされたはずだ。
 なのに彼女は、僕に運転ができると確信していた。
 まぁ……なんならそもそも、僕をいつでも尾行できるとして、何も考えず無神経に出歩く凍月を見つけられないはずがなかったな(閉じ込めるのはかわいそうだし、既にこいつはシロだと察していたから見つかってもそんときはそんときかと途中から思って許したけれども)。となると、わざわざ僕と接点を持ったのも、まさかこの展開を……なんつって、やっぱからかいたかっただけかもしれんこの人。
 ともかく、果たして彼女は、どこまで真相を知って、どこまで計算していたのだろうか。
 ……きっとこの人は「真相? 何の話ですか?」とすっとぼけるに違いない。

 

 パトランプを隠すのに手間取ったりおぼつかない運転で幾度となく事故を起こしかけて「殺すつもりですか! 私がやったほうがマシです!」と凍月が交代したがるのを必死に止めたりいろいろあったが、大きな道に出るととりあえず流れに乗ることができて一息。
 同時にしばらく会話もなくなって、黙ったままステアリングを保つ。
 それにしても、まさか映画のように警察に追われる身になるとはね。
「……真さん。これから、どうするんですか」
 おもむろに、呟きが聞こえた。
 車窓に映る、二重の幻。暗闇に溶けて消えてしまいそうな、銀色の髪。その前髪の下に、不安そうなまなざしが浮かんでいる。
 今が潮時だ、と思った。
 だから今度こそ、最後のカードを切る。
「死体が置かれた場所を、僕は知っている」
 凍月の目が見開かれた。
「……どういうことか、訊いていいですか」
「昔やってたバイト先で、見つけたんだ。そこにはたくさん死体が隠されていた。そのときは怖くなってやめたんだけど、まだ場所を覚えている」
 そう。それがあの、媛先生から紹介されたバイトだった。
「そこに忍び込めば、凍月の食料を確保できる」

 

 そのバイトを紹介されたとき、媛先生は『知り合いの研究所の管理・警備業務』というだけで、管理し警備するものが何なのか、まったく知らなかった。
 僕にしても、詳しく知る必要などないと思っていた。たしかに若干変だなとは思ったけれど、それほど長期でない仕事だったし、万一問題が起きても逃げ出せると踏んでいた。
 とにかく不安はなかった。

 

 最寄り駅から小さな山に入って一五分、大きな病院を改装したらしいその敷地は、地図を何度見ても迷子になるほど大きく、夜勤で真っ暗だったこともあって、採用されたばかりの頃は何度も迷った。おまけに自分でさえ立入禁止の区域が多いのも厄介だった。
 僕は警備員という扱いではなく、管理者の代行として点検、見回りをする。本当の警備員は別の詰所にいて。僕の入れない場所を担当する。顔は合わせないし無線で業務連絡する以外コミュニケーションもなかったから、何者かは知らない。記憶は、スピーカー越しの無感情な声だけ。
 いま考えてみれば非効率な上に不自然だ。名目上一般人を雇っているだけで、見せたくないところがあると、暗黙に示しているようなものだからだ。
 その夜も懐中電灯を持って、無邪気にも建物の外をうろついていた。
 僕に任された巡回経路を終え、あくびを何匹も狩っているうち、窓の一つがなぜか目に留まった。よく見ると建て付けが不自然だった。
 触れてみると、窓は建物の内側に倒れてしまった。割れこそしなかったが、大変なことになったと思った。
 無線機で助けを求めることもできたが、そんなことをすれば今後に響くのではないかという邪心が働いたし、今までのように今度だってなんとかなるという根拠なき冷静さが僕をなおさら惑わせたのは、すべてが終わったから振り返れる話。
 咄嗟に窓から建物に入ってしまったのだ。
 窓を持ち上げてみると、あっさりと元に戻った。
 ここはどこだろう?
 ……もし引き返せば、この物語は違う結末を迎えただろう。
 しかし僕はそうしなかった。見つかるのを恐れていたし、そもそも好奇心というものが欠如していたはずの、この僕が。
 なぜだ?
 その心理は思い出せない。
 気まぐれな偶然か、仕組まれた必然か。
 そんな詮索は無意味だと分かっている。

 

 無線機を切り、壁に手を当てっぱなしで歩く古典的な方法で廊下を移動しているうち、僕は迷ってしまった。慣れたつもりだったが、構内図を見てもさっぱり分からない。入り直したらダンジョンが変形してしまったような、そんな混乱状態。
 どれぐらい経っただろうか。行き止まりに突き当たった。
 そこは何も書かれていない、分厚いドアだった。『○○室』という表記も、お決まりの『関係者以外の立入禁止』ラベルもない。
 ドアはかすかに開いたまま、隙間から冷たい風を吹き出していた。
 僕は中に入った。

 

 そこは冷たい空気で満ちていた。
 一瞬なら熱気と錯覚しそうなほど鋭利で、しかし澱み沈んだ液体のように息の詰まる、霊廟のような、驚くほど広い空間は、霜のついた青白い照明が照らし、すべてを透かしている。
 床に整然と並べられた、ジッパー付きで不透明な無数の細長い袋。
 ドラマで見たことがある、鑑識が扱うような、袋詰めのヒトガタ。
 その一つに、爪先が当たる。
 その一体は、ジッパーが閉め切っておらず、隙間から中身がかすかに見えた。
 女性の脚だった。
 細長く、青白い肌の、見るからに冷たそうな、血の通わない脚。
 今にして思えば、それは――出会った少女の脚に、似ていた気がした。

 

 凍月は、僕の話を黙って聞くと「……そこまでして、生きる意味があるんでしょうか」と答えた。疲れが滲んでいた。
「だいたい、私を助けないって約束したじゃないですか」
「そう。これは助けるんじゃない。あえて言えば、罪滅ぼし。償い。そんなところ」
「……分かりません。真さんの言ってることは、いつも」
「そうだろうね」
 車はスピードを上げて、今も目的地に近づいている。しかし、引き返すこともできる。
「一つだけ、選んでほしいね。人を食べて生きるか、食べないで死ぬか」
 凍月は答えない。
「僕としては後者をおすすめしたいけどね。僕が選ばなかった道だから」
「真さん、あなたは――」
「しばらく時間をあげる。その時までに、決めてほしい」
 それだけ言うと、僕はフロントガラスに意識を戻した。
 何かを食べて生きるのは、それだけで罪深い。その上で狂わないでいられるのは、それだけ無神経か、逆に意識し続けているかのどちらかだ。
 少なくとも、僕は前者にはなれなかった。
 では、凍月は?

 

 高台にある研究所、そのふもとの位置に車を止めた。まだ夜で、照明のほとんど消えた建物は斜面の上に輪郭しか映らず、遠目では真っ黒な箱のように見えた。正門にはここから細い道を通らなければならない。
 弓良さん(ではなかったもの)と戦ってからまだ夜が明けていないことに驚く。しかし、これからすることは同じかそれ以上に危険な真似だった。
 結局、凍月は何も言わなかった。こちらもそれ以上は追及しなかった。一言でも嫌だと言えば中止したが、明確に止めてこなければ、僕はこの作戦を続けるつもりだった。
 そして、今や対象は目の前に近づいている。
「建物のつくりはだいたい頭に入っている。監視がいるのは正門横の詰所。そこで監視カメラの映像を確認して、問題があったら動く。異変があっても警察には通報するな、絶対にそっちに連絡しろと言われていたね。後ろ暗いことをしていたんだから、当然か」
 車から降り、後部のトランクを開けると、お目当てのものが見つかった。
 非常用の発煙筒だ。
「これをそこに投げ込む。で、その間に裏――今車を止めているここの斜面を登って、塀を越える。上には鉄条網があるけど……これを使うか」
 座席の上にかかったシートカバーを取り出す。こんなものをつけてくれて、血税の豪勢な使い方に感謝したい。後部座席にはないのがミソですかね、なんつって。
「これを上にかけてその上を通る。で、死体を運んだら今度は上から落とすと、勝手に斜面を滑ってくれる。ま、そこまで持っていくのに凍月にも手伝ってもらわないといけないけどね」
 凍月はまだ内心の整理がつきかねている様子だったが、それでも頷いた。……不安を隠さない表情を見て、僕は持ってきていた弓良さんの拳銃を取り出した。
「ま、いざとなればこれがあるから」
「お願いなんですけど、それは使わないでください」
 逆効果だった。
 仕方なく、僕は弾倉を取り出して渡した。
「分かったよ。こうすれば、僕一人じゃ撃てなくなる」
「……はい」
 やっと納得してくれたか。
「もし撃つなら、私を殺すときだけにしてください」
「これじゃ凍月は死なないよ」
「ですから、絶対使えなくなるってことです」
 久しぶりに凍月が笑う。それを見て、二人で暮らした時間が遠のいたのを実感した。

 

 凍月と手を引きあって、バランスを取りながら斜面を登る。壁伝いに建物を回り、裏に入る。さらに上の山との隙間にある、小さな空間だ。
 彼女には侵入するポイントに先に待機していてもらい、僕は発煙筒を投げ込んでから合流することにした。転んで落ちることだけには気をつけないといけない。
「じゃ、行くね」
 凍月と分かれ、敷地に沿うように正門に近づいていく。
 門の傍らで足を止めた。傍の壁には金属製の表札があるはずだが、暗くて見えない。
 投擲力に自信はないが、今晩は風がないので、ダメになっていなければ相当の煙が出るはずだ。侵入する方向に流れてこないのも都合がいい。
 発煙筒は使ったことがある。思い出せ、と言い聞かせて、都合のいい時だけトラウマの蓋を開ける自分が嫌になる。
 作動させようと手をかけて、胃液が喉元までこみあげてきた。ああ、記憶ってやっぱり紐づいているのか。傍に凍月がいなくてよかった、と意味もなく思った。もし明るかったら、ひどい幻を見たに違いない。
 振り払うように、狙いをつけ――投擲。
 敷地に入ったのを確認し、待つ。
 たちどころに煙が上がってきた。こちらの害になる前に慌てて去る。
 走りながら、まったく興奮していない自分に気づく。非日常になればなるほど、僕の心は冷静さを取り戻す。何か理性の塊のようなものが冒涜的に侵入し、それが生存のため僕を支配する。それまでが正気でなかったとでもいうように。
 罪深いことだ。

 

 合流すると、僕は凍月に頷いて成功を伝えた。
「登るのを助けてくれ。上に登ったらこっちが引っ張るから、怪我にだけ気を付けて」
「プールの時と一緒ですね」
 そういえばそうだった。
 シートを上に渡す。ちゃんと引っかかって、棘でも破けない。凍月に台代わりになってもらい、上に登る。足がついたところで、凍月に手を差し伸べ、引っ張り上げる。
 塀の上。ちょうど雲間から光が覗いた。曇りだと思っていたが、月が出ていたのだ。
 その光を受けて、銀髪が光を帯びる。
「……真さん、早く降りないと」
 そう言われてやっと、見とれてしまったことに気づいた。

 

 地面に降りるとシートを隠し、敷地の中を突っ切る。
 予想外だったのは、人の気配を感じなかったことだ。もっと騒ぎになるはずだったのに。
 好都合のはずなのに、胸騒ぎがする。
 それでもここまで来たら戻る選択肢はない。記憶を頼りに、あの窓を発見する。確かめてみると、やはり枠を外すことができた。今度は滑り落とさず、ゆっくりと廊下に置いて中に入る。記憶通り、重い荷物を持っても通れる高さと大きさだ。
 今回も警報は鳴らず、僕たちは光のない廊下を歩いていく。壁を伝い、角に来るたびに曲がる。心許ないが、同じ方法を取っているのだから同じ場所に着くはずだ。
 ……扉が現れた。
 しかし記憶と違う点があった。扉は閉じていて、横にはカメラのような穴と、いくつかボタンがあった。
 僕が忘れていたのか、辞めてから増設されたのか。いや、考えてみれば死体を置いてある場所が開きっぱなしなのはそもそもおかしい。
 初めて計画が狂い、さすがに驚いてしまった。鳥肌が立つ。たぶんまだ見つかっていないのが幸いだが、ここまで来て引き下がらないといけないとは――
「ここ、知ってます」
 唐突に凍月が言った。
「なんでだろう……すごく、見覚えがある……」
 そう言って、カメラに近づく。
 何か考える仕草のあと、指をかざし――チープな機械音とともに、錠の外れる音がした。
「……凍月?」
「そうだ、こうやって逃げたんだ」呆けたような声で呟き、扉に手をかける。僕が隣にいることを、一瞬でも忘れてしまったように。「指紋を変えて。それで――」
「どうしたんだ、ちょっと待ってくれ、おい!」
 僕が止めるのも聞かず、凍月は扉を開く。
 広がる隙間から、青白い光と冷気がこぼれる。そのまま足を進める凍月を、慌てて追いかける。
 そこには記憶と同じ、無数の袋。長さはヒトの身長ほど。
 新しく気づいたのは、その一つ一つの長さがまったく変わらないことだった。まるで、中に入っているのが同じ形のものであるかのように。
 おもむろに、凍月はその一つに近寄ると、屈みこむ。そして、ジッパーに手をかけ、開く。それから隣に移り、それを、ひとつひとつ冷気に晒した。
 それは銀髪の少女だった。
 全員が同じ顔をしていた。
「……やっぱり、そっか」
 凍月は、己と同じ顔の死体たちを前に、納得したように言った。記憶を思い出したのか。
「そう、人食い。アンタの正体はこれだよ」
 後ろから声がかかった。
 振り返ると、そこには媛先生がいた。
 彼女は銃を構えている。
「サブリマトゥム――やっと、戻ってきた」

 

 媛先生がこの場にいることに、驚きは少なかった。もちろん媛先生とこの場所に関係があることは、仕事を紹介されたときから分かっていた。でも、そういう論理的な理由だけではなく、もう何が起きてもこれ以上驚くことはないだろうという心境だった。
「……先生は、どこまでを知っているんですか」
「おおよそ、すべてと言っていいね。この少女の形をした生物が、サブリマトゥムが、何者なのか、それを私は知っている。なぜなら、その研究に噛んでいたからね」
 サブリマトゥム。初めて聞く言葉だった。
 それが凍月の正体だと、媛先生は言った。
「教えてください」
 銃口を睨んだまま、凍月は毅然と言った。
「あなたが誰なのか、真さんは知っているようですが、私は知りません。でも、もし私の研究者だというなら、私が何者なのか、どうして人を食べなければいけないのか、人間離れした力があるのか……あなたは教える義務があるはずです」
「なんで? 私にそんな義務があるとは思ってないけど。もし本当に義務があるとすれば、この場でアンタを殺すべきでしょ。……まぁ、それを説明することで、アンタの疑問に答えることになってしまうけれど」
「人食いは、逃げたと言っていました。あなたたちからですか?」
「そう」媛先生は退屈そうに頷く。「あれもアンタも同じ生物、私たちが管理していた研究対象。実験動物。ネズミやモルモットみたいなもの」
 実験動物、と凍月は呟いた。
「ただ、それらよりよっぽど狂暴だという違いはある……いや、本当はそうじゃないんだけど、結果的にアンタたちは人間を傷つける。殺す。食べる。そういうふうに、私たちからは見える。……でもね、『食べる』ってどういうことだと思う?」
 媛先生は、銃を持たない手でキャンディーを取り出すと、袋を破り、口に放り込んだ。そして、音を立てて噛み潰す。
「いま、私が食べたものは、糖分として身体に取り込まれて、生命を維持するために利用されるだろう。しかし一方で、舌には甘い味を感じた。これは情報。サブリマトゥムという生物が求めるのは、後者。学習のために取り込む」
「答えてください。サブリマトゥムって、何ですか」
「極地の氷河で発見された生物だよ」
 媛先生が凍月を見る目は、人間に向けたものではない。
「ほら、温暖化とか、気候変動ってあるでしょ? あれで、凍土の中に閉じ込められていたのが溶けて出てきたわけ。しかも、氷を学習し、擬態した状態だったからね。生物だと分かったのは、発見者の尊い犠牲があってこそだ」
「……発見者を、食べた」
「学習するつもりだったんだろうけど、結果としては、そうなってしまった。……でも最初は気づかれなかった。だって、殺した本人に擬態したからね」
 弓良さん。弓良さんと入れ替わったモノ。それと同じ。
「サブリマトゥムは、学習した対象を模倣できる。恐ろしいことに、一見するとミクロレベルの構造までね。それでいて、一度学習したら自在に変化させることができる。姿も変わるし、材質も変わる。見かけよりずっと頑丈にもなるし、強いエネルギーを持てる。損壊した一部を修復できる力もある」
 それが、凍月の異常な能力。
「だから、あるモノがサブリマトゥムか確かめるのは、かなり難しい。生物学者だけでなく、私のような精神科医――いや、薬物の専門家が呼ばれるくらいには」
「……そんな、できそこないのSFみたいな生き物が、私の正体なんですか」
「受け入れられないのも無理はないよ。そいつは記憶や人格まで模倣する。自分で自分の正体に気づかないのもいるよ。個体生物じゃないから、どこまでを一匹とカウントすればいいかは分からないけれど。……事件を起こした人食いも、アンタも、もとは一個の氷の塊だったんだよ。それが逃げた」
 そこで媛先生は一旦話すのをやめた。
 ふーむ。別に興味深い話でもなかったな。なんちゃら神話に出てきそうってぐらいで。
 だから僕はつまらないことを訊いた。
「先生たちが逃がしたんでしょ?」
「はい、正解」
 あっさりと認められ、拍子抜けした。
「どうして分かったの?」
「鎌をかけただけですよ」
 おお、さすが、と媛先生は現れてから初めて笑った。
「ここにある死体は、サブリマトゥムに姿を学習させるために、つまり食わせるために用意されていた、クローン。この国じゃ作れないから、どっかから輸入してきたんだろうけど。ここはその貯蔵庫だった。お偉方はそれが何かの役に立つと思ったんじゃないかな。女ばっかりなのは……なんか下世話な話になりそうだからやめやめ。とにかく私たちのグループは、それを利用した。でも大失敗した。自分で野に放ったのに自分で駆除しようとする。人間の傲慢だよね」
「……なんで、私たちを」
「サブリマトゥムを野放しにしてみたら、社会にどんな影響を及ぼすのか――それが見てみたかった、そんだけ。結果もつまらなかったね」
「殺人事件が起きた程度じゃ、確かにつまらないですね」
 僕の茶々に、媛先生は「……他人事じゃないのに、よく言えるねぇ」と呆れた。「うまくいくはずがないのは分かってたけど、私は木っ端なもんであいつら聞かないから。だから嫌がらせしてやった。接触させるサンプルに、アンタを推薦したんだ。この場所を教えたのも、何かの役に立つかと思ってね。結果、五人の死者が出たとはいえ、街を戦場にするよりよっぽど安全にアンタらがサブリマトゥムを自力で殺してくれたわけ。すべてが計算通り、さすが私」
 やりやがってと思ったが、『戦争』という比喩は冗談ではないのだろう。
 ほんとにこの人には敵わん、と内心で舌を巻く。
「……ま、ちょっと面白い考えもあったんだよね。どう? サブリマトゥムを拾ってから、幻は見る?」
 返答に窮したので、素直に首を振った。
「だろうね。アンタの症状を中和するんじゃないかと、私は予想していた。詳しいことは分からないけれど、サブリマトゥムと接触するうち、無意識に一部が脳に入りこんで、神経を修復、ないし正常に保護したんだと思うよ」
「私が、真さんを治していた……」
 僕の幻覚は、極度の寒冷下での、脳の損傷によって起きた。
 傷を治すように、凍月はその幻覚を治癒した。
「なんとも美しい依存関係だよ。ただ、私がちょっと危惧しているのはね、同時にアンタがあの幻覚を学習してしまったことかな。それはちょっとヤバい。サブリマトゥムは自己増殖するから。アンタを私が殺すべき理由のひとつだね」
 このマッドサイコロジスト、どこまで本気で言っているのか。
「……今までの話には、出てこなかったことがあります」
 凍月は、最後の疑問を口にした。
「どうして私は、ヒトを食べないと死ぬんですか」
「それは簡単。人間が好きだから」
 その答えは、さすがに予想外だった。
「学習って言ったでしょ? その中でも、サブリマトゥムは人間に異常な関心を持っている。人間を学びたがっている――いや、そうするようデザインされている。他の生物が分裂し、生殖し、増えることのように、それを目的にしているみたいでね。それを達成しないヤツには死んでもらうわけ」
「エネルギーが足りないから、じゃない……」
「それもなくはないけど、多少衰弱しても死に至るほどじゃない。傷の治りが遅くなったりはするけどね。だから基本的には、自己破壊」
 プールサイドで見た凍月の傷から、僕はあの時点で凍月の異変、さらに推測も含めれば嘘に気づくことができた。しかし、もっと大きなポイントでは勘違いをしていたことになる。それが結論の同じ勘違いだとしても。
「さて、だいたい話は終わったけど。アンタらどうすんの?」
 媛先生はようやく銃を下ろした。
「人食いの方はウチの息がかかった連中が追いかけてたみたいだけど、アンタはヒトを食べていない。だからじきに死ぬ。自滅する。そうすれば私が手を下す必要はないんだよね」
「あなたが私を殺せるとでも?」
「おー、怖い怖い。でもね、人間を舐めない方がいいよ。確かにこんなオモチャで一発や二発撃ったぐらいじゃ死なないけど」媛先生は銃を弄ぶ。「殺すことはできなくとも、一定以上のダメージを与えれば、生物である以上消滅には近づくよ。液体窒素で凍らせるとか、溶鉱炉に落とすとか、そんな必要はない」
「虚勢ですね」
「自分の不死性を過信しているのは、サブリマトゥムによくあること」
 睨み合いが、何秒か続いた。
 しかし終わらせたのは媛先生の方だった。
「とか言いつつ、正直、責任なんてどうでもいいんだけどね。私、そんな倫理持ってませーん。だから、この場は見逃してもいいっちゃいい。……ようは死体が欲しいんでしょ?」
 好きなだけ食っていいよ、と媛先生は床の死体たちを指さして言った。
「ただし、それをすれば今度こそアンタたちは命を狙われる。人類の敵になる。逃げ切れるとは思わないけど、がんばってね。で、もう一つの選択肢は」
「食べないで、死ぬ」
「シンプルな二択だね。ま、どっちにせよ似たようなものだし、私は知らん」
 知らん、と言いつつここを教えた時点で暗に僕たちを支援してくれていたことに、僕は触れないでおく。言ったら絶対嫌そうな顔するもん。
 ……しかし媛先生の言うとおり、確かにどちらにしても先行きは絶望的だ。
 ここでヒトを食べれば、僕たちは際限なく誰かを殺すしかなくなるだろう。今でさえ警察に追われているのだ。さらに人食いを追いかけていた連中まで、本気で敵に回る。逃げ切れるとは僕も思えない。
 それか、食べないで死を待つか。
 不治の病の治療みたいな話になってきたな。泣きゲーかよ。
 しかしなんにせよ、本質的にはここに来る前に問うたことと、さして変わらない。
「もう一度、改めて訊くけど――凍月、どうする?」
「やっぱり、私が選べってことですか」
「助けないって約束したからね。僕は正直どっちでもいい。そっちが決めることだ」
「……真さん、残酷なんですね」
 凍月は俯いたまま、言葉を紡いでいく。
「もし真さんが『生きろ』って言うなら、生きます。『死ね』って言うなら、死にます。……でも、どちらもしないから、困りましたね」
 それは、ここに来るときから、僕の計画に従属する姿で悟っていた。
「そうだなぁ……。悩みます、なんて言っても私だってどっちでもいいと思っているかもしれません。こんな訳の分からないバケモノに生まれて、死ぬだけだし、今更どっちでもいいじゃんって」
 でもね、と凍月は笑った。
「ヒトは食べません」
 はっきりと言った。
「それが私の答えです。……これで、いいですか?」
 凍月は媛先生を見据えて、そう告げた。
「……それは、あんまり予想してなかった」と言いつつ、媛先生の顔は驚いていなかった。代わりに呆れた、というか、驚きを表現しようとすると呆れてしまうのかもしれない。
 少しばかり悲しそうに見えたのは、錯覚ということにしよう。
「じゃあ、アンタは飢え死にするつもりってことね」
「……ええ」
「私にしては珍しく真面目に訊くけど」自覚あるんだ。「本当に、それでいい?」
「はい。大好きな人の傍で死にます」
 照れるじゃんよーってボケたかったがあんまりにも真顔で言うので黙っていた。
 凍月が言ったことは、僕に死ぬのを無力に見ていろというのと同じだ。
 こちらとしてはその決断を尊重するしかない。
 なぜなら、僕は凍月を助けないと決めたから。
「アンタもこっぱずかしいこと言うなぁ……」
 問うた本人さえこの反応。
「……ま、分かった」媛先生は両手を上げて、降参のポーズをした。「じゃあここからはアンタらの物語だ。私の出番はここまでってことで」
「先生」
「なんだい少年M」
「いろいろ語弊がありすぎる略なのでやめてください」こんなツッコミも最後になるのかな。「ええと、その……ありがとうございました」
「はて。私って人生で感謝されることしたっけ」
 最後まで、この人は僕にとって媛先生であることに徹した。
 だからこちらも、最後まで伊澄真でいることにする。
「先生。改めてもう一回、訊くんですが」
「なに? 水臭いんだけど」
「あのとき、僕はヒトを食べたと思いますか?」
 その言葉に、何も言わず、こちらに近づいてくる。
 そして頭の上に腕が延びる。凍月の抗議の目線を無視し、頭が撫でられ――
 る、直前で手のひらを丸めて、こつん、と力ない拳骨が頭に降ってきた。
「アンタの幻に、よろしく」
 媛先生は手を振って歩き出し、僕たちとすれ違って、そのまま去っていった。
 僕はそれを追いかけなかった。

 

11 氷の涯への旅

 

 媛先生がいなくなったのを見届けて、凍月に言う。
「僕たちも、行こう」
「……そうですね。ここにはもう、何もありませんから」
 二人して、扉の方に歩き出し、元きた道をたどる。守衛は現れなかった。どうせ媛先生の仕業だろう。結局ああ見えてそういうことをする人なのだ。
 立ち去りながら、凍月も僕も何も言わなかった。
 それはきっと、たったひとつの疑問を口に出したくなかったからだろう。
 行こう、だって?
 どこに行くというんだ?

 

 車の中に戻ってようやく一息つく……には、さすがに暑すぎる。ドアを開けた瞬間に立ち込める蒸し暑さが余計に今の自分をげんなりさせた。
 冷房をつけたところで凍月が意を決したように言った。
「ひとつ、訊いていいですか」
 何の話か予想はついていた。
「一〇年前、真さんに何が起きたんですか」
「何が、ってか。何も覚えてないんだけど」
「言葉遊びはやめてください」
「……手厳しいね」
「真さんがそれを話すことがどのように負担をかけるか、私には理解できません。なので、言いたくないことであれば、黙っていても嘘をついても構いません。どうせ私にはあずかり知らないことですから。その上で、傲慢に私は訊きます」
 なるほど。なかなか僕を熟知してきた物言いだ。……まぁ、今更ここまで来て隠すことでもないんだけれどね。
 とはいえ、明らかにすべきことなどあるのだろうか。
 生き延びた者が語れることなんてたかが知れている。言い伝える必要性をわざとらしく言い立てる連中は、語られるに値しないから黙っているのだというのが理解できない。そういうものだ。
 だから、これから話すことも、きっとむなしい徒労になるだろう。そんな諦めを綱のように張って、その上に一歩を踏み出す。踏み違えば奈落だ。
「警告。これから話すことはすべてフィクションであり、事実と類似点があったとしても他人の空似なのであしからず」
 モキュメンタリー風のそらぞらしい警告を入れてから、僕は話し始める。
 その、架空の物語を。

 

「昔々、ある家族がいた。一家はどこにでもいる平凡で傲慢で悪趣味な金持ちだった。外から見る限り、仲は悪くなかった。大柄で腕っぷしが強く、大酒飲みで自信家の父親。柔和で自己主張をせず、子供を一度だって叱らない、育ちのいい母親。スポーツ万能で女癖が悪く、コネで名門大学に入って遊び呆ける長男。わがままでプライドが高く、ヴァイオリンが弾けて、女学校でリーダー格の長女。発育不良で引きこもりの貧相な次男。五人は家事も商売も使用人に任せ、ごっこ遊びのように平和に暮らしていた。……目を惹くものがあるとすれば、毎年冬に雪山に建てた別荘に行き、スキーをするのが一家の伝統だったこと。母親と姉はいつも嫌がっていたけれど、結局することがないから毎年ついてきた」
 雪山を一日中滑って遊ぶ父と兄を無視し、暖房の効いたペンションの中で退屈そうにゲームをしている姉、そしてぼんやり外を眺めているその弟の少年の顔が目に浮かぶ。彼は父や兄ほど身体が丈夫ではなかったのだ。なんというか、妙に感情移入できるキャラクターですね。
「異変が起きたのはある日、陽が沈んだ直後だった。急に天候が悪化し、猛烈な吹雪が僕たちを襲った。突然電話もネットも不通になり、一家は雪山に閉じ込められた。不幸にも五人以外は出払っていて、助けを呼ぶ方法もなかった。燃料はまもなく底を尽き、彼らは肌を突き刺すような寒気に晒された」
 真っ暗の部屋。身体中を覆う防寒着や毛布。非常用のカンテラ。まずい缶詰とビスケット。終わりのない言い争い。
「でもそれは事件の始まりに過ぎなかった。彼らは最悪のミスを犯すことになる。……それは誰かが強硬に主張した、ペンションから出て、自力で下山するという選択だった。寒さにたまりかね、どんなことであれ現状を変化させることが改善に繋がるという、そんな誤りを彼らも起こしてしまった」
 朝なのか夜なのか、それさえも分からない灰と黒の世界。
「外に出てすぐに下山は不可能だと全員が察したけれど、もはや帰路は埋まり戻ることもできなくなった。なんとか下に降りようとしたけど、もちろん道なんて分からない。飢え。疲労。絶え間ない無益な議論はじきに無意味な諍いに変わり、ただでさえ鈍っている判断力を蒸発させてしまう。かろうじて風をしのぐ岩陰を伝って、脚を埋めながらひたすら歩いた。……事態が最悪の方向に向かったのは、かろうじてリーダーシップを取っていた父が高所から滑落してからだった」
 あれほど頑強だった父は、動けなくなってから罵詈雑言と呪詛をまき散らし、最後には惨めに泣きじゃくった。でも、間もなくそんな力さえ失った。
「あちこちの骨を折った彼は、動くこともままならなくなり、やがて意識を失った。もちろん運んで降りられるはずもない。ここに留まっていれば間違いなく死ぬが、動く体力はない。もう何日も何も口にしていなかったからだ」
 それがすべての引き金だった。
「その提案をしたのが誰だったか、思い出せない。ただ、父の持っていたナイフに目をつけた人がいたのだろう。気が狂ったのかと思ったが、信じがたいことに他の家族は反対せず、議論もほとんどないまま、あっさりと父をどうするかは決まった」
 誰かは言った。嫌なら飢えていればいい。それをするかどうかは、各人の自由だと。
「それから数日が経ち、吹雪が過ぎ去って太陽と青い空が戻ってきた。山のすそ野から煙が上がった。発煙筒だった。次男の少年が機転を利かせ、持ち主が荒天で忘れていたところを剥ぎ取って使ったものだった」
 それが誰だったのか、少年は記憶していない。
「行方不明に気づいたが天候のせいで打つ手がなかった救助隊が、ようやくそこに向かうと、生存者は一人、その少年だけだった。少年が来たと思われるルートを辿ると、ある崖の上に横たわった、何かに引き裂かれて荒らされたような死体があった。その下には、争って転落死した二名の死体が見つかった。さらにいくらか離れたところで、一人の死体が見つかった。こちらも損壊はひどいものだった」
 身体を刃物で切り裂かれ、臓器や肉をバラバラにされた死体。
「生き残った少年はただちにヘリで搬送された。凍傷などの重篤な怪我がなかったため、命に別状はなかった。ただ、彼はほとんど事故を思い出せなかった。喋ろうとしても話が支離滅裂になり、やがて会話も困難になり、一日中一言も話さないで窓や壁を見つめ続けたり、睡眠中に全身の震えが止まらなくなって叫んだりと、精神的に危険な兆候を見せ始めて、聞き取りは困難になってしまった」
 それから彼が人間として正常に機能するようになるまでに、数年がかかることになる。
「しかし、警察当局などは最初からこの事件を深く調べるつもりはないようだった。救助に当たったチームには厳重な緘口令が敷かれ、何も見なかったと誓約させられた。検死のデータも握り潰され、『金持ち一家の惨劇』に一度は群がった報道は、ある瞬間からピタリと止まった。そして、事件は風化していった。今となっては、時折インターネットで怪談怪事件の類として囁かれるのが関の山だ」
 あくびをしてから、話にオチをつけた。
「少年がどうしているかは、誰も知らない」

 

 凍月は僕が喋っている間、一言も口を挟まず、黙って聞いていた。
 話が終わった後も、しばらく会話はなく、冷房の音だけがアンビエントミュージックのように耳にこびりついた。
 沈黙が永遠に続くかと思われたとき、凍月がふいに口をついた。
「……それで、食べたんですか」
「少年として答えるならば、僕は、」
 救出直後に何百回と訊かれ、もう飽きた問い。
「食べなかった、と記憶している。家族の誰かは誰かを食べたと思うよ。ただ、もう確認する方法はない。証明するにも一人しか生き残らなかったし、欠席裁判になっちゃうから」
「みんな、死んじゃったんですね」
「そりゃそうだよね。一度タガが外れたんだ。もうコントロールできない」
 人間には、どれほど追いつめられても身を支えることができる、最後の一本の糸がある。つまらなく言い換えれば、理性とも、尊厳とも、倫理とも呼べるかもしれない。
 それが切れた瞬間、僕たちは際限なく落ちていく。特権を失い、壊れた欲求しか求めることができなくなる。
 それを、人間と呼べるのか。
「死ぬほど寒かったはずなのに、思い出すと感じないんだ。お腹が空いていたのは憶えているけど。でも、それもはっきりとは思い出せない。……他人の記憶みたいに、体験が自分から切り離されているみたいで」
「……だから、憶えてないって言ったんですね」
「別に煙に巻いてるんじゃないんだよ。ただ本当に、言うべきことがないんだよね」
 神様が記憶のその場所だけ消しゴムをかけてくれたような感覚。
 しかし、一度書かれたものを、完全に消し去ることはできない。だから、今の自分にもその影は残っている。僕の中にはその少年がまだいる。消化できず、切り離せずに、器官と一体化するように身体の中にいて、ときどき拒絶反応を起こしながらも共生している。
「でも、真さんは幻を見るんですよね」
「さぁ。関係あるかは知らないよ。さっきのお姉さんはそうだと思ってたみたいだけどね」
 媛先生。
 廃人同然の少年を半ば引き取り、彼を可能な限界まで人間に戻した、医者。
 壊れていた頭でも、初めて出会ったときのことはギリギリ思い出せる。
 彼女は出会うなり僕を抱き締めた。
 不思議だなと思った。
 どうしてこの見知らぬお姉さんは泣いているのだろう?
 はや幾星霜、昔話だ。
「物語は、これでおしまい」
 凍月に向き直り、話を締めくくった。こんなノスタルジーに興じている時間はないのだ。
「で、改めて。凍月、これからどうする?」
「私、行きたいところができました」
 その言葉に少々驚く。
 けれどもさらなる驚きは、その次にやって来た。
「真さんたちが過ごしたペンション、まだありますか?」

 

 マジかよ、と思いつつネット検索してみると、なんと建物はまだ解体されず残っているようだった。
 売出中の物件として某所に載っていたが、買い手はついていない。調べてみると何度か入居者(例に違わず金持ちだ)が入ったが、全員が短期間で逃げていったようで、その誰かがやったのか、口コミサイトには事故物件として登録されている。
 曰く『夜中に物音がして金縛りに遭いました! 朝起きたら台所が食い荒らされていました! 金返せ!』等々。霊になっても人のプリンを取るみたいに書かれるウチの者が浮かばれないぜ。
「行ってみたいです!」
 凍月はもう決定済みのようにはしゃぎ始めたが、正直今更もういいだろという気もした。でもこいつが言うなら価値はあるかも……と思ってしまう自分の甘さにため息。
 とはいえ、ここからだと結構あるんだよなぁ。
「凍月、こっちも一つ訊くんだけど」
「畏まってなんですか愛しの真さん」これを無視できるようになる慣れって怖い。
「あとどれぐらい持ちそう?」
 意趣返しも兼ねて言ってみたところ、凍月は思いのほか深刻な顔をしてしまった。
「……詳しくは分かりません。ただ、けっこう具合がよくないのは自覚してます」
「一日、二日は大丈夫かな」
「たぶん……」
 なんとも頼りないアバウトな返答。
 ま、途中で死んだらそれはそれか。『真夜中のカーボーイ』みたいで格好いいし。
「分かったよ。行ってみる」
 覚悟を決め、キーを捻って鉄塊に火を入れた。

 

 確かに凍月は徐々に、目に見えて分かるほど弱っていった。
 顔は青ざめ、口数は減り、車内では眠っていることが多くなった。
 ただでさえ万全でなかったのに、昨晩はバトルや潜入までやったのだ。媛先生はサブリマトゥムの飢餓の大半は自壊衝動だと言っていたが、それでもやっぱり食人にエネルギー摂取の面が少ないとは言えない気がした。
 まるで死体とドライブしている気分だったが、それでも車は進んでいく。僕もそれをことさら止めようとはしない。たまにコンビニに入り、(二人分の)必要品を買う程度だ。そのときも起こさない。戻ってくると、まだ生きてる、と思う。
 ときどき起きて何かを一口か二口食べ、そしてまた眠る。無為に夜は明けていく。
 僕にできることは何もない。おちおちしていたら警察に捕まってしまうかもしれないし。
 ヒトを食べないと決めているのだから、こいつは死を自分で選んだことになる。あとに残るのは、どこでどうやって死ぬかという問題だけ。
 だとすると、凍月はあのペンションで、僕が始まった場所で、死んでいくつもりなのかもしれない。
 なぜそこを選んだのか、僕には正直よく分からないけれど。

 

 一年中雪に覆われた山も、ふもとに降りると夏の朝には爽やかな高原だ。朝からもうちょっと気温も手加減してくれると避暑地らしくなるのだけれど。
 遠目に見えるケーブルは、スキー用のゴンドラだろう。草地の上で止まった姿にはなんとなく趣があるな、とか考えながら道を進む。
 高速を降りてから、はっきりと流れている空気が変わった気がした。懐かしい感覚。僕はこの時間を知っている。あれから一度も訪れていないというのに。
 激しくトラウマが甦らないかはちょっと心配だったが、季節のおかげか、弱っていても凍月のパワーか、幻覚は現れていない。考えてみると、こいつがいなくなったらまた僕は幻と付き合わなければいけなくなるのか。
 ……考えるな考えるな、と言い聞かせつつ、目を閉じた傍らの少女を運ぶ。
 それにしても、サブリマトゥムはどんな夢を見るのだろう。それも人間から学ぶのかもしれない。
 だとしたら、ヒトを食べない彼女は、夢を見られないことになるが……。
 そんな想いを馳せたとき、ペンションのある地区の標識が見えて、通り過ぎる手前で慌ててブレーキをかける。幸運にも車通りは皆無で、事故にはならなかった。
「……んっ……なんですか」
 衝撃で凍月は目を覚ましてしまったらしい。
「もうすぐ着くよ」
「……また、そんなに寝てたんですか」
 目を擦ってから、彼女は「涙だ」と呟いた。「私、泣いてたみたいです」
「夢を見た?」
「はい。よく憶えていないですけど……たぶん、氷の夢です」
 僕は何も言わず、ハンドルを回した。

 

 ペンションに近づくにつれ、勾配は増してきて、車道も舗装が途切れ、雑草を踏みつぶしながら進んだ。
 しかしそれも束の間で、まもなく車道の行き止まりに突き当たった。駐車場という扱いなのかもしれないが、草地にぽつりと土が露出した地面があるだけで、管理されているとは言い難かった。
 ここに来るまでに門のようなものも見かけなかったし、管理者は放置しているのかもしれないと疑っていたが、その推測が現実のものになりつつある。
 横には林とそこに入る階段があり、『○○荘歩道』と文字の掠れた小さな看板がある。見上げると、木々が連なる先に峰が見えた。ここが山の入り口だろうか。
 車を降り、寝ぼけまなこの凍月をしっかり起こして、ドアの外に連れ出す。足取りは不安定で、すぐに僕の身体によりかかってしまう。
 階段を指さして「……登れる?」と訊いてみる。
「登れる……かも」ですけど、とすぐ言い添える。「真さんの背中に乗車希望です」
 はぁ、そうですか。
 諦めて背中を貸すと、乗りがけに何度も警告される。
「変なとこ触ったら蹴ります。重いって言っても蹴ります。命が惜しければレディが乗っていることをお忘れなく」お前本当に体調悪いのか?
 ということで人間一名を担いだ厄介な登山行が始まった。
 栄養失調の死体みたいに軽かったのは言わないでおいた。

 

 息をつき、何度か途中で下ろして休憩。ペットボトルの中身はどんどんなくなるが、凍月に優先して飲ませなければいけない。間接キスだとか言い出さないのを見て、本当に弱っているんだなと改めて思った。
 森の中は日差しからこそ隠れられるが、それでも蒸されることには変わりがない。セミだかなんだか分からない虫が喚いて、頭が痛くなってくる。
 あの頃は別のスロープ状に蛇行した道があって、車が使えた。そこが雪で塞がって出られなくなったんだっけ。道路も崩落して、一〇年経っても修繕はあまり進んでいないとサイトに書いてあった。それもペンションの価値を落としているのだろう。
 ……少しずつ、記憶が鮮明になっていく。体験ではなく、知識としての風景。記憶どおり、川が出てくる。せせらぎに体感気温が下がる。そうだ、一度だけ夏に来たことがあって、ここで遊べたんだ。もう迷うことはないだろう。
 目の前が開けて、登山が終わる。
 朽ち果てた『私有地につき立入禁止』の立札と柵を跨ぐと、そこにそれはあった。
 色褪せ、ところどころ腐食が進んでいるけれど、それは確かに、あの頃の記憶の貯蔵庫。
 街を一望できる山の中腹に、その場所はあった。
「……本当に来たんだ」
 思わず呟いていた。
「どうですか」と、僕の背中から飛び降りた凍月が言う。「変わってないですか」
 呆けたように、頷くことしかできなかった。

 

 建物には監視カメラや警報装置のようなものはなく、やはり放置されているようだった。正面のドアには鍵がかかっていたが、裏口の戸は(やはり雪のせいか)一部崩壊しており、簡単に中に入ることができてしまった。
 部屋はどこもがらんとしていた。家具はすべて撤去され、電化製品も持ち去られ、入居者を偲ばせるものはほとんど残っていなかった。使えそうな設備といえば、リビングの暖炉くらいか。しかし残念ながら今は夏、日本に四季があってよかった。
 唯一人の痕跡がある物置から見つけたのは、備え付けのキャンプ・防災用具など。ビスケットや缶詰、毛布、寝袋、着火剤、薪、手回し式ラジオ、工具など、いろいろ。
 電線は切れていた。電気はあっても動かすものがもうほとんどなかったけど。照明も割れたりそもそも取り外されていたり。これでは買い手がつくはずもない。ここは廃墟に片足を突っ込みつつある。
 にもかかわらず、凍月は目を輝かせていた。
「気に入りました。……真さん、ここに住みましょう!」
「こんな廃墟に?」
「何が廃墟ですか。ここは真さんと私の逃避行の果て。つまり愛の巣です」
「……よく分かんないけど。どうやって住むの」
「それは考えてください」
 丸投げかよ。
 しかし、凍月は梃子でもここから動く気はなく、ここを終の住処に決めた様子だった。
「ここで、真さんと暮らします。えへへ、二人暮らし再開ですね」
 笑顔で今後の展望を喋る凍月を、僕はただ眺めていることしかできない。
 目に映るすべてが破滅の前触れに見えた。
 これから凍月は最期の時間を過ごすのだ。
 それを僕は、これから一方的に傍観する。

 

12 氷河が来るまでに

 

 というわけで、二人暮らしが再開されたわけですが。
 リビングと呼ぶであろう部屋を見渡す。
「何もないね」
「何もないですね……」
 この家で暮らすというのは、実質キャンプみたいなものであることが分かってきた。
「とりあえず、ご飯を食べましょう。子曰く、腹が減っては恋も革命もできません」「しかし数千年前にも恋と革命はあったかは一考に値する」「絶対あるでしょ。放っておいても人間は恋と革命をします。ついでに食料を与えなければ人間も食べます」「相手を食べないと出られない部屋に入れれば」「響きがいやらしいですね」どこがだよ。
 ということで、昼食としてビスケットを開ける。
 さすがに腐ってはおらず、普通に食べられた。何味とも形容しがたい味がした。
「ビスケットだね」
「間違いなくビスケットですね」
 ……やだやだやだーと凍月が声を上げる。
「こんなんじゃ味気なすぎて死んじゃいます。入院と死刑と出撃の前にはおいしい食べ物と決まっているのに」どれでもないが確かに結果は同じだ。
「……買い出しに行くしかないか」
 時間はちょうど正午。屋内は日陰で涼しかったので、この気温でまた外を歩くのは嫌だなぁ……。人目につきたくもないし、戒子さんの手助けがあったにしても金銭的余裕は保っておきたい。お金を下ろしたら足がつくからね。
 しかしアパートから何も持たずに出てきてしまったので、必要なものは多い。
 一般的な水道はなかったが、川の湧水が引いてあった。火を起こせば入浴もできる。確かに父に教えられてやったかも。
 最低限に絞って、火元と腐敗しない食品か。
 幸いここは山なので、ふもとに降りればアウトドアグッズはありそうだ。実際に車で通ったときもホームセンターがあった憶えがある。
 ……凍月は無理だよなぁ。僕一人で降りるか。
「凍月、待ってられる?」
「真さんが待てというなら私は電池切れまで放置されるたまごっちにもなれます」
 衰弱しても相変わらず比喩はおかしいままだった。
「大丈夫です。ちょっと暑いですが、戻ってくるのは分かってますから」
 凍月はそう言って備品の毛布を床に敷くと、靴を脱いで乗り、窓の光から日陰になった壁にもたれて座りこんだ。衰弱しているのにこんな格好をさせてしまい申し訳なくなるが、仕方ないか。
「すぐ戻る」と言い残して、山を下りた。

 

 ふもとでホームセンターや食品店、コンビニ等々を車で回り、衣類から歯磨きのブラシに至るまで、片っ端からモノを買う。店員からはアニメに触発されてキャンプに来たが何も持ってこなかったのに気づいた人みたいに思われていてほしいけれど。
 軽いものから重いもの、小さなものから大きなものまでいちいち持ってくるのに難儀したが、何回かに分けてなんとか荷物を運びきった。
「よく頑張りましたね、真さん」
「まぁね……」
 息を切らす。ひと段落はしたが、何か料理をする気力はなかった。
 しかしちゃんと想定済みである。
「はい、これ」
 ピザポテトの袋を渡す。菓子類も買っていたのだ。
「ポテチですか……」
「これはこれで豪勢」
 だが久しぶりのチーズとあって、凍月は待って消耗した元気もいくらかは戻ったようだ。
「さらにこれもある」
 トランプと簡易将棋盤、パズル本を次々に出す。土産物店で買ったものだ。
「なんですかこれ」
「暇潰し」
 思ったより反応はイマイチだった。現代っ子め(己を棚に上げる)。
「盗電でもしないと、スマホも使えなくなるから、なんかあったほうがいいかと」
「ルール分かんないんですが」
「覚える時間なら無限にある」
 どれだけ無限が残っているかは、こいつ次第だけどね。

 

 こうして、凍月最後の日々が始まった。

 

 朝、僕たちは並んで目を覚ました。
 凍月は今回もやはり、どうしても二人で眠りたいと言って聞かなかった。それはきっと、僕を枕代わりにしたかったからだろう。がっしり掴まれている。
 しかし凍月が目を開けるなり、それは瞬時に解除された。
「……起きてましたか」
「いや、寝てた」
「嘘ですね」間髪入れず見抜かれた。「狸寝入りスキルが足りません」
 ……はぁ。精進しますか。
「おはようございます。ところでお腹が空きました」
「……あー、はいはい。で」
「朝食を至急所望いたします。飢え死にしそうです」
 朝から笑えない冗談を言うなや。

 

 料理には買ってきたボンベ式の簡易コンロを使う。
 ライターで火を入れただけで凍月は目を輝かせた。
「すごい! 真さん、燃えてます!」
「そりゃ燃やしてますからね」
 お米を炊くのはめんどくさいのでパン食が早々に決定し、食パンをバーナーで焼く。ベーコンも焼く。凍月はもちろん焦がす。無理してかじる。諦める。僕が処理する。美しいシークエンス。
 チーズを焼いて溶かし、バターを塗ったパンの上にかける。ベーコンを乗せ、ケチャップをかけて、できあがり。何とも贅沢だが、焦げ付きが厄介ではある。
「すごい! トルコアイスならぬ、トルコチーズフォンデュじゃないですか……!」
 それでも喜んでくれたから、いいや。

 

 買ってきたテーブルゲームから凍月が興味を持ったのは、なんと将棋だった。
「これがまるで将棋みたいな将棋ですか」
 何が『まるで』なのか理解不能だが、紙にプリントアウトされた将棋盤を見て凍月は唸った。めんどくさいことになりそうだ。
「で、どうやって戦うんですか」
 僕は四角い箱に駒を詰め、型抜きのように盤に固めて置くと、指で駒を抜いた。
「崩した方が負けね」
「絶対そんな遊びじゃないでしょ! バカにしてますよね!」
 失敬な。由緒あるジャパニーズジェンガだぞ。
「ルール教えてください。すぐ覚えます」
 仕方なく、並べ方や駒の動き、成る、駒を取る、囲うなど、マジでゼロからルールを教える羽目になる。改めて説明するとめちゃくちゃめんどくさいゲームで嫌いになってきた。
 CPUとしかやったことがなかったのはぼっち煽りされそうなので隠しつつ、一戦。
「負けました……」
 さすがにこちらがほほぼすべての駒を取ってしまい、ワンサイドゲームに終わった。
「ってことで、難しいゲームなので簡単なやつにしよう」と駒を並べて指で弾き飛ばし始めたら「もう一戦! 今度こそ勝てます!」と闘争心に火をつけてしまった。
 ……しかし、驚いたのはその吸収速度。なんと僕は三戦目にして敗北した。
「どーですっ、こんなの余裕ですよ」
 こいつ、なんか筋がいい(僕が下手だという発想は意地でもしない)。
 六戦三勝、しかし二連敗でムムム……というところで、我に返る。
 集中して忘れていたが、そろそろお昼時のはずだ。
「凍月、何か食べないか?」
「嫌です。勝つまで続けましょう」
「じゃあこっちもそうする」
 ということを繰り返しているうち、昼飯抜き。
 凍月が食欲の欠如を隠していたのは、言うまでもない。

 

 午後、日差しが緩んできたところでちょっと遠出をしてみよう、と相成り、小川まで歩いてみた。
「ちょ、なんか虫です怖い怖い怖い」
 凍月は僕が気づかなかった虫をめちゃくちゃ怖がっていて、水辺に着くまでこちらにくっついて離れなかった。
 しかし川までくると警戒心も解け、すっかりはしゃいでいた。水がいっぱいあるから面白いのでしょう、きっと。とか思案していたら水をかけられた。
「きゃー、真さんのえっちー」
「お前が攻撃してきたんだぞ」
 やむを得ず専守防衛を行う。
 ばしゃばしゃばしゃばしゃ。
 むつまじいロマンスのはずがまもなくガチバトルになり、たちまち両者水浸し、無常を知る。行く川の流れは絶えず。完。
「……はぁ、疲れた」
「まったく、涼しかったのに、真さんのせいで暑くなっちゃいましたよ」
「どの口が言うんだか」
 二人して両足を水に入れ、休息。
「悠久の時間を感じますね」
「戦の虚しさも感じてくれ」
 しかし平和への訴えも空しく、セミの声が身体の芯まで沁みた頃に凍月は立ち上がった。
「……よし、十分休みましたね」
 足を払うと、いきなりこちらに飛沫が飛んでくる。
「休戦破棄です」
 ということで、ばしゃばしゃばしゃばしゃ。

 

 地球は回っている。当然である。
 だからどんな日にも、夜は来る。当然である。
 凍月が「またあれが食べたいです」と言ったので、夕食はグラタンになった。どうしても日本で海外食を食べたくてハヤシライスを作らせる帝国軍人みたいな無茶振りだった。具を買ってきた方も悪いですが。
「はぁ……もう一生分チーズを食べました……」
 飯盒をほぼまるまる平らげて、凍月は大満足のようだった。満足すぎてちょっと苦しそうに見えたが黙っておいた。
 分かっている。
 こいつは無理をしている。
 しかし今更そんなことを言っても何になるというのか。
 それを知っていて、僕は好きにさせておくことにした。
「……というわけで、これから二生ぶんをお願いします」
 あれ?

 

 食後は他のゲームに転戦したが、やがて自然に就寝の時間となり、こちらもようやくゆっくりできた。こいつといると一秒たりとも気が収まらない。
 冷房もなく、寝苦しい夏。
「ちゃんと水分取ってくださいね。これから激しい運動するんですから」「黙れ」
 どうでもいいやりとりがしばらく続いたあとで、こちらに身を寄せられる。
「……一日って終わっちゃうんですね」
「凍月って当たり前のことしか言わないよね」
「当たり前のことだから言うんですよ」
 そうなのかな。そういうものか。
「こんな毎日が永遠に続けば、いいんですけどね。永遠に二人っきりで、永遠に遊んで暮らすんです。で、一人目は」「分かったからもういいよ」
 でも。
「永遠に続いたら、それはそれで困るんだよ、きっと」
「……分かりません。楽しければ、それでいいじゃないですか」その声は、広い部屋に静かに響いた。「真さんは、難しいことばかり言います」
「難しい話は好きじゃないけどね」
「私もです。難しい話は分からないので」
 また、そういうことを。
 水を打ったような静寂。
 何も聞こえない、虫さえ死んだような、空虚な夏の夜。
「真さん」
 なんだ、まだ寝てなかったのか。
「真さん、おなかいっぱいです……つぎこそかちます……んにゃ」
 かわいこぶってんじゃねえぞと思ってたら猫の真似ではなく眠言だった。
 それはもう国民的アニメに出演できそうな速度で凍月は眠ってしまった。
 ……さすが、狸寝入りも早ければ、爆睡も早い。
 なんとなく、寝顔を見てみる。
 眠っていれば、顔貌は本当に人形のようだ。改めて認めると、可憐さに驚く。面と向かっては決して言えないけれど。
 ……今日は眠れない、かもな。

 

 このようにある一日が終わる。
 平均的な、いい一日。

 

 けれど、本当のことを言えば、それはちっとも平均的な一日ではなかった。平凡な日々ではなかった。それを知っていて目を逸らしている間にも、終わりは近づいていた。
 彼女に残された時間は、想像以上に短かった。

 

 七日目に、凍月はまず歩けなくなった。
 凍月は僕に身体を拭いてもらわなければいけなくなったことが不服だった。
 曰く「真さんならいいんです。でも、これじゃ介護みたいじゃないですか」とのこと。
 しかし結局目隠しはさせられ、「ひゃん」とか「んっ……」みたいな嬌声を聞かされながら変態の称号を押しつけられてしまった。
 その他いろいろな理由で凍月を動かさなければいけなくなる度に、凍月からのレッテルは深くなっていった。
 この頃には、彼女の身体を持ち上げるのにほとんど苦労しなくなっていた。

 

 その翌日には、腕を持ち上げることが難しくなった。
 食事も僕が食べさせなければいけなくなった。なぜか凍月はこれには喜んだ。
「あーん、っていいですね。まさにバカップルです」
「『ップル』はバカの接尾辞ってことですか」
「そうです私はバカですアホでーす。でも真さんはスケベでーす」はいはいクソガキが。
 ただ、スプーンを持てないから、僕にやり返せないのが悔しそうだった。

 

 さらに翌日には、食べ物を噛むのに難儀し始めた。
 食欲も減っていたからさほど困る話ではなかった。
 朝、僕はチーズを薄めておかゆに混ぜた。「毒見ですか。ついに食卓殺人ですか」と警戒していたが、結局ごくごくと飲んで、回想モードに入った。
「出会ったときも、こうやって飲ませてもらいましたっけ」
「あれから何日?」
「考えてみれば、まだ一ヶ月とちょっとじゃないですかね」
「信じられないね」
「あと九ヶ月と一〇日もたないとまずいですね」何がだよ。
 そんなわけで、祝杯として夜には味噌汁を作ってやった。

 
 最後には、トランプの紙切れも持ち上げられなくなった。
「真さん、暇です」
「喋ると疲れるよ」冗談でなく、口を動かすのにもエネルギーを使うはずなのだ。「羊を数えなさい。英語で」
「うわ、冷たいです。こういう振る舞いをする彼氏に限って見捨てられないタチなのを見透かしていますよね」
「それは彼氏が悪い」
「殴っても一〇〇〇円札はドロップしませんよ」
 この期に及んでも僕の扱いは変わらなかった。

 

 僕はこの数日の間、一睡もしていなかった。眠ってくださいと何度も言われたが、どうしても眠れなかった。
 不眠と暑さのせいか、頭がぼんやりして、既に今が夜なのか朝なのかも分からなくなってきていた。それでも僕は意識を繋いで、凍月の傍から離れなかった。
 その間、僕たちはいろんな話をしたけれど、ほとんど頭に入ってから抜けていって、すぐにほとんど思い出せなくなった。
 真さん、と横になったままの凍月が呟いたときも、そんな話の途中だった憶えがある。
「野良猫って、死に際になったら隠れちゃうらしいですね」
「急に死生観の話ですか」
「いや、いちおう死ぬんですからなんか深いことを言っとかないと。えーと」
 既に声はか細くなって、意識しなければ聞き取れなくなっていた。
「で、一方、俗説に反してウサギは寂しくても死なないそうですね」
「そこからどう深い話に繋げるの」
「……だから干支に猫とウサギは入れなかったのです」
「強引に締めたけどウサギは四番手につけていますね」
「私は猫の気持ちもウサギの気持ちも分かります」マジレスはガン無視された。「寂しくても死にませんが、死ぬときは寂しく死にたいって、前はそう思っていました」
 でも、今はそうでもないですね、と凍月は言う。
「看取られるっていいなぁって、思いました。看取られ音声が流行る気持ちも分かりましたね。ただ……生き残る方には、申し訳ないと思いますけど」
 その言葉で、ああ、こいつは死ぬんだなと思った。
 凍月はそれを悟ったから、この話をしたのだろう。
 そして僕は、なんてこともなく生き続けるだろう。
 リヴ・フォーエバー。死ぬのはいつも他人ばかり。
 お前は死ね。
 僕は生きる。
 それだけのことだ。
「凍月」
 名前を呼んでみて、他に言うことがないのに気づく。だから、また呼びかける。
「凍月」
「はい。真さんの凍月ですよ。なんですか?」
「……凍月」
「そういえば、真さんがつけてくれたんでしたっけ。凍る月。凍る星。きっと偶然だけど、氷と関係のある――いい名前ですね」
 い、つ、き、と凍月は口を動かしてみせた。
「ここは、寒いです」
 目が閉じられる。
「結局、真さんを食べられませんでした。どんな味だったのかなぁ」
「……凍月になら、食べられてもよかったよ」
 それはたぶん、本心からの言葉だったと思う。
 凍月はそれに答えず、笑った。あるいは、口元を曲げた。
「死ぬのって、寂しいですね」
 なんとなく手を握ってみた。おそろしいほど冷たかった。
 それで終わりだった。

 

 凍月が生命としての運動を停止したのを確認して、僕はペンションの外に出た。
 鼻先に、冷たいものが当たる。
 八月の空から雪が降っていた。
 手のひらを空に向けてみると、たくさんの欠片が灰のように降り積もった。
 地面に目を落とすと、一面が凍りついていた。
 地響きのような音とふるえが遠くから聞こえた。目を凝らすと、近くの山が動いているのが見えた。山はふもとから頂まで凍って、氷河の塊が連なっていた。それが木々をなぎ倒し、いたるところでゆっくり動いているのだ。
 この国の、この世界の光景とは思えなかった。
 寒いなと思った。
 寂しいと思った。

 

13 The End of Inter Ice Age 4

 

 凍月の死体を背負って外に出た。
 軽かった。
 あれからまだ一睡もしていなかったけれど、ずっと雪が降っていて時間が分からない。
 ただ、氷河がみるみるうちに眼下を侵食していったことで、時間の経過は理解できた。
 それはどんどん勢いを増して街に迫っていく。
 どうしようかと考える。街の人たちに警告しなければいけないのか。
 しかし見ている限り、街がパニックに陥っている様子は見られない。氷河に呑み込まれそうな今も、車道には車が通り、通行人と思しき点がかろうじて見えた。
 手遅れだ、と思った。
 氷河はついに街になだれ込んだ。こんな言い方が許されるとは思えないが、正直なことを言えば、壮観だった。
 建物は次々に押し流され、箱を潰すようにぐちゃぐちゃになり、千切れたり崩れたりしていく。ビルもマンションも一軒家も店舗も問わず、平等に偉大な破壊が振り下ろされていく。それを僕は、ただぼんやりと眺めていた。
 まだ氷河がこちらの標高に届いていないせいか、それとも凍月が死んで感覚が麻痺しているのか、何も感じられなかった。ただ、どこか遠い国の映像を真っ暗な部屋に座って見させられているようだった。それに感慨を抱けと言われても、無理がある。
 たとえ点のようなものが落ち、潰され、真っ赤な染みを作るのが見えたとしても。
 彼らはなぜ気づかなかったのだろう?
 ああ、そうか。
 これはすべて、僕の幻だったのだ。
 だとしたら何も恐れることはない。
 僕は凍月を背負って山道を降りて行った。その道のりが、一〇年前に一家が進んだのと同じことに、しばらく気づかなかった。

 

 雪道は足下を取られ、歩くのが疲れる。
 今も雪は頭上に降っている。早く場所を探さなければ、道が埋もれて動けなくなってしまう。そうしたら、それこそ一〇年前の二の舞だ。
 小川は凍っていたものの、まだ埋もれきっておらず、周囲から一段低いところにあった。これを頼りにすれば、下に降りても帰りは道に迷わないだろう。
 水面、いや氷面を踏むと鈍く軋んだが、落ちて溺れることはなかった。
 そのまま歩き出す。

 

 川はやがてある場所で切れ、先には空が広がっていた。
 近づくと、それは小さな崖であるのが分かった。なるほど、視界が悪くて分からなかったが、もしかしたら一〇年前に父はここから落ちたのかもしれない。
 迂回してゆっくり高度を下げ、ジグザグに降りていく。
 底まで到着し、見上げると、水は落ちてきた途中で凍り、崖の上と繋がったまま、空中に氷として留まっていた。
 近づいて、下をくぐる。
 水圧でえぐれたのか、滝の奥はくぼんで、小さな洞窟になっていた。そうだ、あの時はここに身を隠して父の死体の行く末を議論したのだろう。
 今更になって戻って来るとは、あまりにも因果な人生だったと思う。
 洞窟の中に入ると、当たり前だが中は真っ暗だった。懐中電灯がペンションの備品にあったはずだ。持ってくればよかったと後悔しつつ、進んでいく。
 洞はさほど深くなく、何歩だか歩いたところですぐに行き止まりに突き当たった。
 寒かったけれど外ほどではなかった。
 だからちょうどいい場所だと思った。
 凍月の死体を下ろし、地面に置く。安置する。
 長い髪が氷の床に広がり、外から入りこむ微量の光を反射して、暗闇の中で輝いていた。
 美しい、と思った。
 真っ暗で表情は伺えなかったけれど、おそらく凍月は満足することだろう。
 もちろん、死体は何も考えはしないと分かっている。だから奇妙な発想だ。
 それは死体がどんな味なのかを想像するのと同じくらい奇妙な発想だった。

 

 そんなふうに、埋葬は終わった。

 

 こうして僕は、すべての始まりになったペンションにひとり暮らしている。
 僕の語りは今、この現在に追いついてしまった。
 もう何も言うことなどない。
 すべては終わったのだから。
 この世界は終わるのだから。

 

 目が覚めると、寝袋から僕はおもむろに抜け出す。
 窓の外の空はいつでも仄暗く、いまが昼なのか夜なのかさえはっきりしない。僕はとうに今が何時かほとんど気にしなくなっていた。既に時間の概念を失っている。
 肌寒い。毛布を被って歩き出す。あれから急速に冷え込んでしまった。不格好だが、防寒着を用意していなかったのだから仕方がない。
 川はもう凍ってしまった。外で取ってきた雪を鍋に乗せ、バーナーで沸騰させ、溶かして水にする。
 湯気に手を当てて温まったあと、冷めないうちにインスタントのパックを持ってきて、味噌汁を作った。
 口にするものといえばそれくらいだ。
 身体に液体を流し込み、栄養補給が終わると、することがなくなる。
 ラジオをつけると、今日も氷河の話ばかりしていた。
 氷河が形成されるのには数千年だか数万年は必要のはずだとか、今までの気候からは地球が寒くなるとは考えられないとか、専門家たちは今日もニュースで口を揃えていた。政治家も学者も、この現実に太刀打ちできる者など誰もいないようだった。
 今日もたくさん人が死んだのが分かったので、満足してスイッチを切る。
 することがなくなる。
 トランプで遊んでみた。一人しかいないからソリティアしかできない。何度やっても手詰まりになる。呪われているみたいだ。腹が立ってやめた。
 将棋で遊んでみた。一人なので自分で自分と勝負してもつまらない。仕方なくひとりで詰将棋の問題を作ろうとしたが、僕の頭では無理だったし、だいたい作ったら答えが分かっているんだから面白くもなんともない。やめた。
 パズル本で遊んでみた。解けないので解答を見たら子供騙しの屁理屈みたいな答えばかりだった。これを作ったのはIQ何百かの秘密結社の会員らしい。もっと世のため人のために頭を使ってくれ。氷河を食い止める方法とか。やめた。
 することがなくなる。
 することがないので横になってみるが眠れた試しがない。
 一定以上の不眠は、もはや夢と現実の区別がつかなくなってくる。今が起きているのか眠っているのかさえ分からなくなるのだからある意味不眠は解決されたのかもしれない。いよいよ自分が何を言っているか分からなくなってきたぞ。
 そのうち一日が終わる。いつか終わっている。
 今日も平均的な、いい一日だった。
 今ならサソリの気持ちが分かった。
 こんなふうに生きるのなら、誰かに食べられた方がよっぽどマシだった、と思う。

 

 それからの世界のことは、ラジオでキャッチした断片的な情報しかよく知らない。
 猛烈な速度で気温は下がり、雪は太陽の光を覆うほど降り続き、熱を反射する星の冷えこみは止まらなくなった。
 たちまち燃料の価格が暴騰し、それはあらゆる製品に及び、またたく間に社会の秩序は崩壊した。人が一人殺され、二人殺され、そのうちどこかから流れた武器がやってきて、数えられなくなった。
 この国が無政府状態になるまで時間はかからなかった。
 世界は凍っていく。
 人々は急ピッチでシェルターを建設し始め、我先にと閉じこもっていった。その中に幸運にも入れた人間と、不幸にも入れなかった人間がいたようだ。よくあることだった。締め出された人々は極寒の中で次々と死んでいった。
 ……らしい。
 この国で最後のシェルターが閉鎖されたという放送を聞いて、どれほど経っただろう。たくさんの通信はある日から、ぷつりとすべて途切れた。
 どうなったのかは分からない。興味もない。人類は滅亡したのかもしれない。なんだっていいことだった。シェルターに入るつもりはなかった。
 あるいは、何度も考えたように、今もなおこの氷と雪のすべては僕の妄想の産物なのかもしれない。世界は終わっていなくて、僕は精神病棟かどこかにいて、毎日幻覚を見ているだけなのかもしれない。そう考えれば、こんな短期間で世界中が凍りついたことよりずっと現実的だ。いや、もしかしたら事故のあとずっと僕は気が狂っていて、凍月の存在自体が実在しなかったのかもしれない。
 それは愉快な発想だ。
 だって人食いなんているわけがないのだから。

 

 最近、ついに置かれていた薪がなくなってしまった。
 新たに木を伐り出すには相当の労力が必要だろうし、そもそも森林などとっくにほとんどが凍り付いてしまっているだろう。こうして暖を取る方法も失われた。
 買い込んでいた食料も心許なくなる。川で釣りでもしようにも、水面は凍っている。
 食べられるわけがないのに、気休めに猟でもしようと無茶な考えで、弓良さん(久しぶりに思い出した名前だ)の銃を持って外に出て動物を探してみたが、とうに生物は死に絶えたのか、動くものの姿はなかった。あるのは雪に吸い込まれる微かな風の音だけ。
 水は雪を使えば手に入っていたが、ガスが切れ、火を起こせなくなると溶かすのも難しくなった。
 凍月からいくらか遅れて、僕にも終わりが近づいていた。

 

 ペンションが雪に覆われ外に出られなくなる前に、もう一度、洞窟を訪れることにした。未練がましいといえばそうだが、それでも様子が知りたかった。
 付け足すなら、最後にもう一つ、やりたいことがあった。残っていた。
 最初は五人、次は二人、今度は一人の道を、氷の灰を踏みしめ急いだ。

 

 時が止まったようにあの日と同じ景色を進み、洞窟の果てに至る。当然宝箱はない。
 代わりに床には、大きな氷が鎮座していた。確か、凍月を置いた場所だったはずだ。
 ――墓標だ、と思った。
 弓良さんに成り代わったサブリマトゥムと同じように、凍月もまた、死んで氷になったのか。
 それで実感する。
 やはり間違いなく凍月は死んだのだ。
 だとしたら、僕の物語もここで終わるべきだろう。
 ポケットをまさぐって、薬のシートを取り出した。今日どこかから発見したのだ。媛先生に処方された睡眠薬だ。知っていたら使ったのに、いつ薬局に行ったんだっけ? まぁいいや。今役に立てばいい。
 すべてシートから取り外し、手のひらの上に乗せる。それから椀を一気飲みするように、口の中に放り込んだ。
 水なしで飲み込む。猛烈な吐気が襲ってくるが、無理やりに飲み崩した。
 これで準備できた。
 氷の隣に身を横たえる。狭いが、文句を言うならここに決めた自分に言うべきだった。
 ふいに最初に凍月と添い寝したときのことを思い出した。
 あーあ。どうして自分はこうもセンチメンタルなんだか。
 きっと親御さんが愛してくれなかったからだろう。うん。そうに違いない。
 大丈夫。もう頭が重たい。薬が効いてきたのだ。
 ようやくの眠りだ。天の恵みのようにさえ思う。
 目を閉じる。
 完了。
 カウント。スリー、ツー、ワン……ゼロ、ゼロ、ゼロ、いやこれは解除音声だった。最後に思いつくことがこれかよ。
 そうして、僕は最後の眠りに落ちた。

 

14 「    」

 

 ……。
 …………。
 ………………。
 なぜ、僕の意識は終わっていないのだろう。
 ひょっとして、ここが死後の世界だろうか。いや困るんだが。会いたくない身内がいっぱいいるんだが。具体的には母とか父とか兄とか姉とか。気まずいじゃん。
 しかし、それにしてはなんとなく、死という感じがしない。抽象的だけれど、僕を包んでいるのが、物理的な何かであることは間違いないように思われた。
 やがて、ある感覚に気づく。感覚? そう、なんと僕には身体があるのだ。すごい! だとしたらこれは何だ?
 温度だ。
 ゆっくりと、注意しなければ気づかないほどゆっくりと、しかし確実に僕の身体は温まり、重くなっていく。
 解凍。そんな言葉が浮かんだ。
 では、僕は凍らされていたのだろうか。まさかそんな、コールドスリープみたいな……そこで思い至る。そうだ。僕は氷の中で眠りに落ちたのだ。
 目が開かれる。
 なんと目の前が見える。まだぼんやりとしているが、そこが明るいことは分かる。
 しばらくすると、輪郭が見えてきた。
 誰かがいるのに気づいた。
 そこで聴覚が再起動する。
「ま――」
 誰だろう? 何を呼び掛けているのだろう。とても優しく、切実な響きに聞こえる。
「――と、さん」
 はっきりと聞こえる。聞いたことがある声。
 思い出す。僕があるひとにつけた、名前を。
「まこと、さん」
 なぜだろう、これは知っている誰かだという確信があった。そう、彼女だ。彼女? どうしてそれが女の人だと分かるのだろう。少女だと分かるのだろう。
 そこで、ふいにすべての疑問が解けた。
 世界の終わりは、すべてが幻覚ではなかったのだ。
 サブリマトゥムは、僕の幻を学習して、それを実行に移し、それはやがて具現化し、世界中を氷で覆いつくした。つまり、人間を含めた世界そのものを、彼女たちはすべて学習しようとしたのだろう、きっと。
 そしてそれは果たされたのだ。
 僕は思う。それがどれほど深く長くとも、眠りがあれば、目覚めもまた必ずやってくるのだと。世界が終わっても、また朝が来るのかもしれない。
 では、これから待っているのは、どんな世界だろうか? 氷の星は、いったいどんな姿なのだろうか? 人食いだったサブリマトゥムは、どんなふうに生きるのだろうか?
 分からない。
 でも、確かなことはある。
 きっと、懐かしい顔がそこにはある。
 そこで笑っている。僕を待っている。
 そして、目が覚めたとき、最初にかけられる言葉も知っている。
 だからその前に、その人に向かって、僕はこう言うことにした。

 

「ただいま」


 〈了〉

 

「インスタント・ユニバース」(Single Ver.)

「ぼくがまだ死人であることに慣れていないのかもしれない。だがこの場所でも、この議論も、ぼくには夢にしか思えないのだ。それも、ぼく自身がみている夢ではない。これから生まれようとする別の人間によって夢みられる夢、だよ」

ボルヘス『死者たちの会話』

 

 

 私はあいつが死んでも悲しくない。だから早く死んでほしい。しょうがないよ私のせいじゃないんだし。言い訳をさせてもらうが私だって進んでこんなことはしたくなかったし気分だってそんなにはよくない。誰かが私の代わりに死んでしまってラッキーなんてほど私は冷血漢じゃなくただ平均よりちょっと生きるのが好きじゃない、程度には生きていたかっただけでちょっぴり悪い、とも思っている。私だって画面の向こうで空爆され家を失った人を見ると痛ましい気持ちになる。たまにコンビニのレジの横にある募金箱に一円玉を何枚か入れることだってある。でも私が持っている負い目の容積はそれぐらいでとてもじゃないけど誰かの代わりに死ねるほど、なんかではない。こんな状況に遭遇して深く考える人は一週間ぶりに買い出しに出た引きこもりか末期ガンの美少女か暇な大学生かぐらいのもので大抵の人は私と同じ選択をするはずだ、きっと。つまり私は死ぬべきだったところとっさに、ある男子を犠牲にして生き延びて、それから三時間ぐらい良心の呵責に悩んでいるうちにも人生が進んで不幸な男子のことなんか明日の漢字テストの範囲に押し流されてしまう。はずだった。でも問題は彼も同じことを考えているしたった今も考えているだろうことだ。そう、この今たった今、目の前で抱えたギターごと爆発炎上したタンクローリーに潰されて血を流し倒れているこいつである。今日は勝った。しかし明日にはまた戦わなければならない。私にも彼にも巻き戻しの力はある。だから片方が死ぬと必ず間際にもう片方がリセットしてしまうのだ。「が、ごほっ……ぐ」と彼は口から血反吐を吐いて何か言おうとしているが私は馴れ馴れしく話しかけてきたさっきまでのようにそして最初の瞬間からいつものように無視しようとするがしかし、今回は気の迷いかなんとなくいたたまれなくなり「いい加減諦めてよ」と諭して、だけどこいつは今まで通りどうせ諦めない。そして私も諦めない。だからトロッコ問題ならぬタンクローリー問題はまだ続く。二〇二三年七月一五日二三時二六分に私かこいつの世界は終わり続ける。正確には家出した深夜に鉢合わせして上空から突如現れ爆発したタンクローリーの下敷きになってどちらかが、死ぬ。そして必ず一人が死ななければならない。それがこのゲームのルール。……ところで時間が巻き戻る力を手に入れたら人は何がしたいのか統計があるのかは知らないがどうせみんな、あんなこといいなできたらいいなって能天気な妄想を抱くことだろうし私だって最初の三日ぐらいは面白がったかもしれないけれど、残念ながら神様がその力を与えたのは私が死ぬ間際のことだった。で利用法は限られている。保身である。ゲーム脳なので大爆発して車体の下敷きになった次の瞬間に私はリセットボタンを押す。するともう前日である。転んで回避できなかったらリセット。火達磨になったらリセットリセットリセットリセット。文字通りのリセットマラソン。そして彼が負けると当然彼もリセットボタンを押す。どちらにせよ気がつくと私は自分の部屋にいる。私は自分の部屋で寝転がっている。頭が痛い。けど負けていたら激痛の錯覚が残るのでまだマシと安堵して再確認、はい、記憶はある。なぜかあるのです。で私は本で床の踏み場もない真っ暗な自分の部屋で目を覚ましている。枕元には読みかけの『グラン・モーヌ』がある。スマホで時間を確認すると今は二三時二六分。二〇二三年七月一四日二三時二六分世界の終りのきっかり二四時間前になる。この時間が私と彼に与えられたロスタイム。その間に私はありとあらゆる方法で世界の終りを避けることを試みる、のだがさてここでちょっと待った、あなたがもしちょうど一日後に正確な場所と時間に事故で死ぬと分かっていたら何をするだろう? もちろん避けるはずだ。方法は簡単。事故が起きる場所に近づかなければいい。家の中に引きこもっていればいい。布団の中に潜り込んで時が過ぎるのを待てばいい。って思ったら残念、この世界はそんな安易なプレイングを許してくれない。私は必ずこの家を出なければならなくなる。その理由を説明するにあたり、公平を期すために私のパーソナリティと置かれている環境を明かそう。私こと天沢弐子は一六歳の女子高生でなぜ弐子というかというと、私は双子の片方として生まれ一人は死んで私だけ生き残ったのだが母は先に子宮から出てきた方を壱子で二番目を弐子と名付ける予定だったからだ。それは遵守された。SF作家のフィリップ・K・ディックには双子の妹であるジェーン・シャーロットがいたが生後間もなく彼女は死に彼だけが生き残った。それから彼は生涯にわたって幻の双子というテーマに拘り続けた挙句ついにはグノーシス主義に傾倒していった。私は小さい頃何度か私にそっくりな女の子を見たことがあってそいつはたとえば鏡を見ると私の後ろに同じ顔で笑っていたりすれ違いに寸分たがわず同じ背丈同じ服同じ髪型で通りかかったりするのだが瞬きや振り向きの間に消え去ってしまうので証拠なんてないからバカにされると思って誰にも言わなかったけれどその時はドッペルゲンガーだと思って調べたら見た人は死ぬとかなんとかでピュアな私はバカ正直に怖くなった、なったけれどもすぐにませたガキになった私は紫の鏡とかメリーさんとか秘密結社と一緒に都市伝説のゴミ箱に放り込んでしまった。ポイ。私に必要だったのはコンビニ本ではなくブンガクで、バラエティで信じるか信じないかはドゥーイットユアセルフとのたまう芸人なんかより安部公房のほうがよっぽど不条理でキッズ精神をそそったのだ。で、でってわけでもないどうでもいいことだけどディックの名前を出したついでに言うとロックバンドのソニック・ユースの『シスター』というアルバムのタイトルの由来は彼と彼の妹から来ている。私はソニック・ユースのアルバムでは『EVOL』が好きだ。フリッパーズ・ギターは「奈落のクイズマスター」でこのアルバムをサンプリングしている。彼らの前身グループの名前はロリポップ・ソニックで「ソニック」はソニック・ユースから取られている。「ロリポップ」の方もバンドから取られているがそっちはよく知らない。それはいいとして子供は近所のおじさんに落ち武者がついてるとかなんとか変なことを言うものだからあるあるでハイおしまいなんだけど感受性の強い私はディックのように私が見た幻もあいつだったのかもしれない、と思ったことがある。あいつ。天沢壱子(仮)。双子の先に出てきたその子供は死んだ。後に出てきた悪ガキは生き残った。だから一人娘の私は晴れて弐子という名前を手にすることになり、発狂して双子であることを完全に忘れた母は私の名前に弐という漢字が入っていることを不思議がって次に子供ができたら壱子と名付けてバランスを取ろうと決めている。それも遠くはないかもしれない。私の母には父親と違う男がいて毎日家の中で性交渉を行っているからだ。男は母の兄で、父よりずっと前から母と性交渉をしていた。私の実の父は私が生まれた直後にそんな母の兄を殺そうとして失敗し大怪我を負わせ母がそれを警察に通報し、刑務所にいる。酒の席で母の兄は私が俺たちの子供だと挑発して激怒した父が金属製の灰皿で頭をぶん殴ってひしゃげた灰皿は今もうちのテーブルに置いてあって母がよく使っている。だから私は密かに出生祝いの品と呼んでいる。父を厄介払いした母は自分の兄を家に呼んだ。私は母の兄におそらく性的に目をつけられているが一〇歳の頃に実の父の持っていたボウガンで撃って命中こそしなかったがそれからは表向き私には何もしてこなくなった。どう考えても父は彼を灰皿ではなくボウガンで殺すべきだった。しかし彼がボウガンを使わなかったことで結果的に私はそのボウガンを手に入れて解体してこれまた父の持ち物だったギターケース(なぜかギターはない)に入れて持ち歩いていて当然学校にも持っていく。怪しまれないよう軽音楽部に幽霊部員として登録してある。ギターコードは一つも知らない。母は自分の兄が私に目をつけているのに嫉妬して私を一方的に敵視していて私とは顔を合わせないようにしているが家で居合わせると皿を投げつけ、そのため家の皿は全部割れ、さらには彼女の兄が飲んだワインやウイスキーの瓶で私を殴ろうとするので家の床は様々な破片が散乱していて土足で入るしかない。それでも私は母をボウガンで撃ったことはない。えらい。スペイン内戦に参加してフランコと戦った義勇兵はウサギが撃てるなら人も撃てるという言葉をスローガンにしたそうだ。この言葉はマニック・ストリート・プリーチャーズというバンドの歌詞で知った。私も人を撃てるけれどウサギは撃たないだろう、動物が好きだから。実の父についていえば私の部屋にある本はほとんどすべて彼の蔵書なので私は尊敬している。小学生の頃に私はその中から見つけた『銀河鉄道の夜』を読んで感動してからずっと小説が大好きだ。父には感謝しなければならないけれど刑務所を出たら母か母の兄に殺されそうなので、できるかぎり出てこない方がいいとも思う。性交渉するとき以外は母も母の兄もどこかに行っていて誰もいなければ自室にいて本でも読んでいるが帰ってくる気配がしたら私は身を隠して家に戻らない。私はカート・コバーンのように近所の川に架かる老朽化で通行止めになった古い橋の下にテントを張って眠る。夏は暑く冬は寒い。タンクローリーが落下してくるのはその河川敷で、私は母とその兄が帰ってきて家から追い出された二〇二三年七月一五日二三時二六分その世界の終りに河川敷から聞こえてくるギターの音に気づき接近したところでその下敷きになる。ギターを弾いているのは例の男子だ。あいつのほうは私が背負っているギターケースの中にギターがあると思いこんで接近したところで下敷きになるのが定石で、ということは先に近づいた方が負けだ。そこで私は高度な心理戦を展開することになる。どちらも接近しないというケースは一度もない。私が近づかないときに必ずあいつは近づく。あいつが近づかないとき必ず私は近づく。一時期は是が非でも近づかないと決心したのだが近づかなければあいつが下敷きになりリセットボタンを押しまたあいつが下敷きになりを繰り返してしまい膠着状態になる。仕方なくこちらが接近すると今度は必ず私が押しつぶされてしまう。私だって心の底ではあいつを見殺しにしたいわけではないので近寄るなと言ってやりたいのだがギターを弾いている彼が気づくまで声を届かせるには近づかなければならず近づいた瞬間にタンクローリーが落ちてくる。ならばとあいつが出現する場所に先回りしようとするとなぜかその回は必ずあいつも私の位置に先回りしていてぐるっと位置が逆転し、事態は変わらず近づいた方が下敷きになる。そして千日手。どうにもならない。本当に「どうにもならんねー」と呟いたのは私の友達の八橋やややでここは学校で憎い土曜授業の現在時刻は昼休み、しかし彼女にとってどうにもならないのは「模試の結果」である。「これじゃ親に見せらんないよ」そんなことを気にするとは初耳で「そんなキツい家なの?」「ほら、うちって両親学者でしょ」って自然に言われてもそれも初耳だが「私を哲学科に入れたがってんの。親戚には英文も仏文も独文もラテン語もいるけど哲学科だけいないの」でやややちゃんは割を食っていて「だから大学行かんかったら絶対殺される」なんてやっぱり「住む世界が違いますなー」と茶々を入れるのはあらゆる試験で万年学年最下位の猫田シュレ子で彼女のほうが学者がつけたっぽい名前だが「うちは和菓子屋だからなぁー、誰が継ぐ継がないで大騒動」らしくてそれならシュレ子のほうが八橋という名字だったらバランスが取れたのになぁ、って言ってる私も変な名前だったわガハハとどうでもいいことを考えるふりをして一時間目が始まってからずっとピリピリしていて普段のようにこっそり読書もできなかったから『幽霊たち』は一ページも進まず、虎視眈々と今日の戦略を練っていることに二人は気づかないでハトのようにパンをつついている。と思った。のに「おーい、なにボーっとしてんのにーちゃん」ってあっさりバレる。「なんだっけ、ユーレイの話?」「ほらやっぱりちゃんと聞いてなかったー」「それひとつ前じゃんもういいよー」「委員会の用事で校舎出たら屋上の縁に誰かが立ってたのを見たって言ったじゃんしかも昨日だよ昨日」「はいはいその話はコミュニティノートでよろしく」それにしてもにーちゃんってあだ名はどうなんだ「2ちゃんねるみたいじゃん」って抗議したら「なにそれ?」「5ちゃんなら知ってる」とライトノベル板にROMっていた元小学生への反応は冷たく、っていうか「話逸らすな」とやややちゃんは追撃の姿勢を見せたので私は「今書いている小説の話なんだけどね」と嘘八百を並べながら地味に知恵を借りようと試み、たとえば「ほら、ループものでお互いがお互いを助けようとして空回りするやつってあるじゃん?」あるというか「特定の楽曲だよね」「なっついなーアレと覚える単語帳持ってたわー」と二人は動画サイト世代をアピールする。さて私の場合は「あれの逆を思いついた」「逆とは」「お互いがお互いに死ぬ訳を押し付けたがってるってこと?」「お、さすがやややん学者肌、ついでに柔肌」もちっとな。でやややちゃんは「ふぁふぁひふぁ、ふ」とシュレ子に頬をつねられているが手を離されると元の話に戻って「……でも必ず一人が死ななきゃいけないときに片方に死を押しつけたらそれで話は終わりだよね。向こうも反撃できないと」いけなくて、その方法はもちろん「リセットボタンみたいなのを考えてて。死ぬ寸前になった片方はリセットをかけられるの。で一日だけ時間を巻き戻せる。記憶は維持される」「なんかバトロワっぽくなってきたぞ」「これならどちらかが死を受け入れない限りループは続くよね?」と言ってみると案の定やややちゃんは目ざとく「二人とも生き残れる可能性はあるの? 二人とも引きこもるみたいな方法で」と訊いてきて「それは……たぶん、ない。必ず近づくことになる」と思うんだけど「なんで?」とハテナマークの雲を頭に浮かべたシュレ子に対してやややちゃんは「運命の強制力か」とすぐ理解して「つまりね、現場に近寄らないようどれだけ頑張ってもなぜか相手が近づいちゃう、って設定」「なにそれこわっ。先に会って約束してもダメなの?」「うん」それは盲点だったがたぶんダメだろう。「で、だとすると必ず一人が死ななければいけないんだね。猶予は一日」そのとおり。「じゃあいろいろ仕掛けられるかもね」「えーでもやっぱり近づかない方がいいんじゃないのー」派はシュレ子。「少なくとも自分は痛い目に遭わないし。待ってれば向こうが自滅してくれるんだからリセット諦めて死んでくれるかも」しれないけれどそれは希望的にすぎる。「それでも強靭な意思で死ぬのをやめてくれなかったらどうする? 自分のせいで相手が無限回拷問されても耐えていたらどうする? こっちのメンタルが逆に揺らいじゃわない?」「それは……」やややちゃんは「私なら逆にどちらも事故現場に向かう、という条約を結ぶかな」と進路希望調査の裏に図を書き始めて「うわめんどくさいやつだ」それは二等辺三角形。「上の頂点が事故で、下の二つの頂点がAさんとBさんの位置。二人はそれぞれ二つの辺、つまり選択があります。上を選んで進むと接近、下を進むとステイです。後退やすれ違いはできません。ところがこの三角形の底辺はギッシリ渋滞していて、Aがステイを選んで進むと(矢印をつける)押し出されたBはピラミッドの真上、つまり事故現場に無理やりせり出されてしまうのです」おーぱちぱちぱち。「一方、横の二辺はがら空きなので二人とも現場で会うことはできます。この渋滞こそが運命の強制力なのです」おーぱちぱちぱち。「で、この事故現場で二人が出会うところから対等にバトルスタートになるので、両者必ず動くべきなのです」むーなるほど。動かなすぎてはいけない、ね。「にしてもこんなフクザツな小説ウケないっしょ。もっと頭の悪そうなヒロインをいっぱい出さないと」「つまりシュレ子みたいなね」「うるせー焚書されろ学者階級!」「反知性主義!」とプロレスになりかけたところでチャイムが鳴り昼休みは終了――しなかった。代わりに鳴ったのは校内放送で、内容は職員生徒全員校内に留まるよう、とだけ。一斉に静まる教室、にずかずかと入ってくるのはパッとしない学年主任だったっけの先生。「みなさんにお伝えしなければならないことがあります。たった今、本校の地面で血を流して倒れている男子生徒が発見されました。屋上から転落したと思われます。現在救急車で搬送されています」、が、と言いかけて先生は慌ててやめた。恐らくは確実に助からないのだろう。何が起きているのか。待て、男子? 男子って、と不穏な何かしらに引っかかった瞬間ふいに私は眩暈を覚え、椅子から転げ落ちる。集まる周囲の目。やややちゃんの目。シュレ子の目。あ、くる。…………目を覚ます、そこは教室、いつもの昼休み、でも明らかに何かがおかしい。何か決定的な違和感がある。私は黒板の日にちを確認する。七月一四日。今は学校で周囲の様子を見る限り昼休み。私は傍らで笑っているやややちゃんとシュレ子を置き去りに教室から飛び出して階段を駆け上がりいちばん上で扉にぶつかる。普段なら頑丈に閉ざされたそこが開いている。委員会の用事で校舎出たら屋上の縁に誰かが立ってたのを見たって言ったじゃんしかも昨日だよ昨日。蹴破って外に出る。まっ平らなコンクリートの地面その柵のない果てに何者かが立っている。男子が立っている。あいつが立っている。こちらに振り返る。あいつだ、間違いない。あと一ミリでも足を傾けたら落ちる。「何やってんの!!!!」と抱きとめようとした結果逆にタックルになってしまいあわや二人転落死となりそうなところでなんとか着地した。「何すんのマジで」「そっちこそ何やってんの」「いやタイムリープだけど」って素で言いやがったが聡い女子高生であるところの私は超速理解する。こいつが転落死したところで私は二四時間前に戻された。つまりリセットは必ずしもタンクローリーに押しつぶされる必要はなくとにかくどんな方法でも死ねばいい「ってこと?」「うわ呑み込みはやっ」女子高生なめんな。「でなんで一日前も屋上にいたの」「それは、その、風を感じたくて」「あーはいはい、死ねなかったのね」で、一度死んだら怖くなくなったってやつですか。ヴァージン・スーサイドね。「じゃあ私たち、過去に飛べるんだね」「そうなる……のかな」「今どっちかが死ねばさらに一日遡れるもんね」果たしてどこまで可能なのかは分からないけれど。「でもこれって使える発見かなぁ」「何言ってんの。調べ放題じゃんいろいろ」こいつ大丈夫なのかなぁって不安に思ったところでまだ停戦していないのに気づいて私は一歩距離を取った。「えっ何?」「やあやあ我こそは尋城高等学校一年、天沢弐子」「……はぁ」「ハッ! 名乗らぬとは武士の名折れか!」「……習志野十勝、高校一年。てか同じクラスでしょ」「いたっけ?」クリティカルヒットを放ってしまった。「いやだって前堤防で僕とギターを……」「見つけて近寄ってあげたらこの始末ですよ」「いやそうじゃ……まぁいいや、てか話しかけようとしてるのにまったく相手にしないからこっちも記憶あるよとか話できなかったじゃんっ」そっか、それはさすがに「悪かった。ごめん」「……どういたしまして」何がどういたしたのかは知りませんが「はい、というわけで、私たちはいま未曽有の危機に遭遇しています」と一席。「ここはひとまず停戦したいのですが」「僕たちって戦ってたの」………頭を抱えた。本当にこいつは締まらない。「とにかく! 手を取り合ってこの危機に立ち向かおうってことですよ」「……まぁ、その方がよさそうだね」なんでそんな他人事なんだろうとひっかかりはしたが気になるほどには気にならなかったので「じゃあ習志野くん、作戦を立ててください」と丸投げする。「……天沢さんって、すごいね」何がかは分からんが褒められているならくるしゅうない。って言ってブレザーのポケットから『果しなき流れの果てに』を取り出して読んでいたら彼は意外にもちゃんと考えてくれた。「タンクローリーが現れるの、見たことある?」「ないかも。暗いから」「僕もだ。で、あれはたぶん通行止めの橋に間違えて入っちゃったんだと思うんだよね。橋の前ってカーブになってるでしょ」そういえばそうだ。「あの大型車じゃ曲がり切れなかったのかもね。で、落下してきた」「じゃあそれを止めればいいんだね」「そう。だから絶対に侵入できないようにすればいいんだよ」ということで夕方に習志野は河川敷に違法投棄された自転車や家電や機械類をカーブの入り口に持っていき片っ端から並べていった。後ろに行くほどゴミは高くなっていく。「こうすれば車輪を巻きこんで止まるはずだ」すごい。意外と頼りになる。草の一本も運ばなかった私は手を真っ黒にして息を切らす習志野に拍手。それでも「ちょっとは手伝ってほしかったけどなぁ」以上のことは言わなかったので私はまたこいつが不安になり、そんな私の表情を誤解したのか習志野は「ギター持ってるよね」と話しかけてきて厄介なことになった。「いやそれは持ってるだけで」「……弾けないってこと?」だと思われると思ったよ言葉の綾。でもそこで「そっ、そうなの! 軽音部に入ったけど全然うまくならなくて見栄張ってケースだけ担いでるの!」嘘は言っていないケースの中に何が入っているか言ってないから。サリンジャー曰く、ファム・ファタールには二種類いて、誰が見てもそういう女と誰が見ても層には見えない女だ。咄嗟に嘘をつく私はきっと後者の魔性で、でもこいつに魔法は効かず不思議そうな顔をしたがそれはすぐに戻り「うーん……じゃあ時間が来るまで教えてあげるよ」なんていらねぇよそれになんで積極的なんだこいつ本当に陰キャか? しかしすることがないので私も引きずられて彼はいつのまに持ってきていたアコースティックギターでこれがオープンコード、EにGにAにDにCにとギターの首(ネックというらしい)の上(フレットというらしい)を持って押さえてじゃらーんと音を鳴らす。綺麗な音だ。じゃあやってごらんとギターを渡されまずは六弦の三フレットを……と意味不明なことを言われて指がぐるぐるしてしかも押さえた弦で痛くなってこんなん無理! と押し返すがやっぱり悔しくなってやってみてとキャッキャウフフがありしかしちょっと覚えたところでバレーコートの存在に突き当たり人差し指痛っ握力ねぇんだぞふざけんなと土手から死んだ木を投げ捨てて慌てて習志野が取りに行った瞬間今夜も二〇二三年七月一五日二三時二六分がやってくるのを完全に忘れていた私はふと目の間に、中空に、その風の中に、酸素と窒素とその他で満ちたしかし無の空間に、習志野の上に、タンクローリーが、それは走っては来なくて、忽然と、そしてすぐに重力に引きずり降ろされ、それは、それはなぜか無音に感じられて、でも爆発していて、ばーん。で楽器が無事で安堵する習志野の頭上にどっしーん。習志野は死んだ。破片が頬を掠めて傷が一筋できた。拾い上げるとそれはナンバープレートで××ナンバーのたぶん自家用車と違う四桁を私は右から左に三回読んで全部足して掛けて放り出して習志野の方に向かった。習志野は死んでいた。……こんなはずじゃなかったのにごめんねごめんねって心にもないことを思っているが死んだ人間は死んだだけのことだと戯言遣いが言ったように何も感じない私の心を読めたのなら死に際の習志野はどう思ったか知ることはできない私たちは他人だし習志野は即死だったしもちろんギターも即死だった。木はギターになり死に、ギターになって二度死んだ。即死。巻き戻す間もなく。だから私は自分で巻き戻すしかない。河川敷にあった水門によじ登りてっぺんの夜風が気持ちよく私はダイブして全身が水面に激突してがっしゃーん。というわけでリセット/リセット/リセットの方法をいつしか私ははっきり覚えることができるようになっている。説明するとそこは真っ白な空間にアナログ時計がポツリとあってそれは年と日付が連動して表示されるカレンダー式で、カレンダーは2023/7/15、11:26を指し、横にはPMと書かれている。私は手を伸ばしてギリギリで時計に届いて針を掴む。動かそうとすると針は右回りにはとんでもなく重くて動かない。じゃあと左に回してみると今度は勝手にものすごい勢いで回り始め止められなくなり、一周遡ったところでまた止まる。連動して日付も戻っていき、最終的に2023/7/14、23:26で止まる。そうするともう私は消える。消えている。もうそこにはいられない。そしてまた自室の本の谷の中で私は目覚める。これで巻き戻し完了。なんて不自由なことか。それにしてもあいつもこういうとこに来て同じ時計を見ているのだろうか。聞いてみよう。「ああ、それそれ。時計だよね」思ったとおりだった。習志野は学校サボって屋上にいてタンクローリーに潰された気分の抜けない身体で首を回したりストレッチをしていてそれが明らかに運動できない奴のやり方なのであんな惨劇がスラップスティックになって私もホッとする。で作戦ツー、ここで新設定、なんと習志野の姉は刑事である。はいそこデウスエクスマキナとか突っ込まない突っ込まない。マジレスするとすべては仕組まれて起きるものなんだからあいつが選ばれた理由にはそれも含まれているということで、具体的に習志野が言えば「ナンバープレートを探す」っていうのは私にも名案に思えた。私は憶えていた番号を習志野に教え、習志野は通話禁止の学校で姉に電話をかける。「もしもし? いや自首じゃないよ。で何やってんの? 今暇? 嘘つけ暇でしょこの前も犯人の男と取り調べ中に関係持っただの持たないだので大目玉だったんだから。いや弁解はいいんで。で調べたいことがあるんだけど。調べなかったらねーちゃんのが刑事だからって周りにやってること匿名で県警のアドレスに送るから。でナンバープレートなんだけど(以下略)」どんな姉弟だよ。でしばらく習志野は黙って素敵なお姉ちゃんを待っていたが調べ終わったのかまた喋り……あれ様子がおかしい。「いや悪戯じゃないって俺絶対見たんだってそんなわけないって言ってるのにあっ待って切るな取り調べとか嘘だろ!」切られた。「……その番号は」と習志野は呆然とブツブツ呟いた。「使われていない」、ということは「そんな番号の車はない」、いや「使われる可能性はある」でも、「まだない」だから二〇二三年七月一五日二三時二六分にはまだない、同じ結論にたどり着いた私たちは顔を見合わせ、屋上は晴天で遠くでカラスがカーカー鳴いて屋上で見下ろす世界は私たちに気づかないで廻ってゆく。二〇二三年七月一五日二三時二六分へと廻ってゆく。スーパー女子高生の私でさえ混乱の極み打つ手なし、という場面で屋上を出て階段を降りて学校を出て歩いて河原まで無言だった習志野が唐突に言った。「ねぇ」「なに」「僕と一緒に死んでくれる?」「やだ」即答。小説が書けなくなったら一人で死んでください。「そう言うと思ったよ。……じゃあ、もし」習志野はもっと変なことを言う。「僕と死ねるくらい僕のことが好きになったら一緒に死んでくれますか」うーむ。それって「仮定の話だよね?」「厳密に、論理学的に」何この禅問答……っておい待てこれは「告白してるの?」「つまり間接的にはそういうことになるね」話難しくすんなよ。お断りしますって言わせろよ。でもスーパー女子高生は哲学肌なのでちゃんと考えてあげると最初私は無関係のこいつが死ねば私は助かるんだと思っていたのでこいつを死なせていた。これを仮に初期段階とすると今はお互いを知っているのでさすがに代わりに死ねとは内心思っていても少なくとも言えないし手を組む必要があるし、それに実際に協力的になってくれている。そういうところでは好意を持っているかもしれない。しかし私が習志野に対してどう思っているか。習志野十勝。無。好意ゼロ嫌悪ゼロ。ナッシング。そもそもみんなそうだ。八橋やややも猫田シュレ子もナッシング。心の底ではなんとも思っていないんだ。私は他人をボウガンで撃てる奴だから。だから「私は誰かを好きになることはないよ」口から零れた。「私は人の痛みが分からないよ。友達が死んでも何とも思えないよ。その場に対応する態度をしてるだけで、何も感じないんだよ。総理大臣も芸能人もレジ打ちも精神科医もホストも障害を持った人も、みんな等しく石ころにしか見えないよ。この河原みたいに。だって」私は足元の石ころを蹴飛ばす。「こうしても石は痛がらないんだよ。私は痛みを感じない。私は痛いのが嫌。でも痛いのは自分だけ。他の誰が苦しんでいても痛くない。だから人間と石ころは同じ」なんでこんなこと言うんだろうこいつに言って何になるというんだろうって私が後悔した、ときにこいつは「天沢さんは優しいね」って、あの。「それに正直だ」話聞いてますか。「天沢さん」習志野の顔が近づいてくる。そして私は私を揺さぶられる。私の冷血な身体に亀裂が入る。「天沢さんは正常だよ」正常? 「みんな心の底ではそう思っているよ。そこからは逃げられない。でも見て見ぬふりをして身近なものや人を愛したりする。愛するふりをする。そして忘れる。でも本当に大事なのは自分だけだ。天沢さんの言うとおり自分しか痛まないから。だけどね、ふりをするのもそんなに悪くないんだよ。民主主義も平和も誰かを殺してはいけないのもお金に価値があるのも神様に祈るのも人を好きになるのも全部嘘で、ふりで、でもふりであり続けることがそれに力を与えるんだよ、だから」ドストエフスキーの登場人物みたいにお互いベラベラ喋って喉が痛い。「天沢さんは人を好きにならなくていいんだ。僕を好きにならなくていいんだ。ただ、好きだってことにするのも悪くないかもなってぐらいに思えたら、それでいいんだ」習志野は「だから、これから天沢さんをナンパします」と言った。差し伸べられた手を握るか、私は迷いに迷ってからどちらにしようかなで決めた。天の神様は奇数を愛している。その結果私たちはこの日この回この二〇二三年七月一五日の学校サボった放課後にデートをした。一緒に手を繋いで堤防の上を歩いて街へ出てショッピングモールのイートインでパフェを食べゲーセンでプリクラを取ったり穴から出てくるワニをボコボコに殴ったりホッケーでこいつに圧勝したりメダルゲームでニ〇〇〇円(半分は習志野からパクった)スッたりして私が本を読むのを憶えていたので本屋に行ったがラノベコーナーに直行したので高橋源一郎の新刊『ヒロヒト』を買わせ自分も買ってペアブックにしてからカラオケに行って声が枯れるまで邦ロックを歌いながら嫌いなバンドの悪口を聞かせ今期のアニメ映像が流れるのに感動し歌うのに飽きたらソシャゲでPU引けるかバトルしてどっちも引けず、時間ギリギリまで次の瞬間に思い出せなくなるようなことをした。喉が痛くなってコンビニで飴を買って舐めて駐車場の車止めに座って二人でアイスを食べた。「楽しかった?」「……」「僕は楽しかったよ」「……」「天沢さんのこと好きだなぁって思った」私は楽しかっただろうか。私は習志野のことを好きだと思っただろうか。一五分ぐらい無言の時間が続いてそれから私は唐突に言った。「習志野って家ある?」「ある。姉以外両親と僕で暮らしてる」「仲いい?」「まぁ」「じゃあいきなり謎の女と泊まったらご家族が迷惑だよね」とフィールドを展開する。「……さっきから何ですか」「なんか私、習志野のこと好きになっているみたいだから」「マジで」「あのさ、私の部屋、来る?」言っちゃったよ言っちゃったようわうわうわ。ってまぁ冷静なんですけどね。「え、あの」「やっぱりさ、習志野と死ぬのやだ」「……」「私習志野と生きていたい。もうどうでもいいよ。真夜中まで私たちずっと部屋にいよう。ポテチとか食べながら映画観よう。ゲームでもいい。二人で勝手に本読んでてもいい。その他いろいろ」恥ずかしさや生々しさからカート・ヴォネガット風の韜晦に逃げてしまったが私はこの時点で覚悟を決めていた。さよなら純潔。レクイエム・フォー・イノセンス。グッバイフィービー。グッバイフラニー。というのをこいつは何も分かっておらず「二人とも死ななくて大丈夫なのかなぁ」とかアホなことを抜かしていてこいつは本気で小学生の友達の家に遊びに来るつもりなのかよと呆れながらそれはそれで悪くないかもとは思い直した。早まったのは私なのだ。てか私は部屋からこいつを絶対に出さなければいいのだと考えていた。後ろからぶん殴るとか飲み物に母親の睡眠薬を入れるとかで無力化して手足を縛りドアと窓を塞げばいい。親が帰ってきても気づかないだろう。まぁ一階を見せるのは乙女として恥ずかしいが仕方ない。とにかくそれでいいやって私は思ってしまった。人生で最も見たくない地獄を見るとは思わなかった。先に私が斥候して今までならまだ帰ってきていないはずの親どもがいないか確認しに行ったら玄関の横に塀を越えて軽自動車が突っ込んでいて家に駆け込んだら母の兄が裸の背中にタイヤの跡をつけて轢き殺され車に乗っていた実の父は窓を破って車体から飛び出し梁に激突して頭をぱっくりと中身まで割っていて、では母はと浴室に行ったら剃刀で手首を切って水につけていて顔は真っ青で大丈夫ですかって訊いてから湯船の血だまりでそういえば習志野はって我に返った。こんな家庭引いちゃうよなって思った。玄関に引き返すと丁寧に靴を脱いだ習志野が扉を開けて破片の散乱した床の前で立ちつくしていて私には気づいていないから叫び出しそうになったが何を叫べばいいか分からず口をパクパク動かしていたら、周囲から何かが焦げる匂いがした。紙だ。本だ。命より大事な本だ。そして習志野もそう考えて私が二階に行ったと思ったに違いない。習志野が動き出して階段を上る音がしたけれど煙くて咳きこんでしばらく動けなくなってしまいそれでもなんとか私が追いかけて階段前まで出た瞬間全身が炎に包まれた習志野が落ちて、降ってきて、私は抱き締めようとしたけどやっぱり冷たい人間だからできなくて避けて、玄関に転がったこいつはマリオが放つファイアーボールみたいに家の外に転がっていった。私はふらふらと階段を上っていき、そこには私がいた。いや私の顔そっくりの人物がいた。ドッペルゲンガーだと思ったけれどもなんとなくそうではなくて私と同じところから来ているんだけど私ではない何者かだという気がした。その通りだった。その女子は自分を「天沢壱子だよん♪」と名乗ったからである。「……」「何なのその態度。死に別れのお姉ちゃんとの感動の対面なんだからさぁ、もうちょっと何かあってもいいじゃん」「……何で生きてるの」「それは生きている者が生きていたはずなのに生きなかった者に言う最悪の侮辱だよ、弐子」「でも私は、」煙で咳きこんだ。すでに私の部屋は燃え盛っているだろう。「姉が死んで、私が生き残った、から」「そうね。それが弐子のアイデンティティだったんだよね。分かる分かる」壱子の片手にはライターがある。こいつが火をつけたのだ。そしてもう片方の手には時計がある。時計! 私が巻き戻しに使うのと同じだ! しかしそれは壱子が手を離すとふっと消えた。「さて、なぜ私はここに存在しているでしょう? 制限時間はこの家が燃え尽きるまで。はいシンキングタイム♪」…………「自分が生き延びる世界まで、リセットを続けた」「うーん、その通りなんだけど五〇点。もう一つ答えが必要です」…………じゃあ、「時計の針を」私たちはそれを動かして時間を移動してきたのだから「前に、動かした……?」「はい。よくできました妹よ。お姉ちゃんが景品をしんぜましょう」壱子は地面から持ち上げた本に火をつけて放った。私と習志野が一緒に買った本。ペアの本。それを私に投げつけた。手で払うと火の粉が肌を刺した。直感的に分かる。私と壱子は共存できない。対立し、憎み合う運命にある。私たちが生まれるとき、片方しか生きていてはいけなかったのだ。「私は生まれる瞬間に死んだ。そしてその瞬間、私の傍らには時計があった。針を後ろに動かせば過去に飛ぶ。前に動かせば未来に飛ぶ」「でも、私には動かせなかった……」「それは弐子が未熟だから。私が何千何万何十万何百万何千万何億回動かすことに挑んだと思う? それも死んだばかりの赤子のままで」「……」「弐子とあの人、習志野くん。二人とも巻きこまれて死んだみたいだけど、ぜんぜんこの時計の使い方が分かっていない。認識が足りない。だから死んだ一日前までしか戻れない。もっと伸ばす努力をしなかった。おまけに自分の身体に戻っている! ちゃんと練習すれば過去に戻るときこうやって身体も作れるのに。バカもいいとこだよ」「……壱子は、未来から来たの」「そう」壱子は煙の中でも怯まない。「世界ってよくできていて、ほとんどの確率で弐子が生き残るの。世界はパラレルワールドを嫌う。まるで私が生まれることを神様が避けているみたいに」恐ろしい、と思った。私じゃ勝てない、と思った。こうやって笑っている裏で壱子は存在するというただそれだけのために常軌を逸した努力を要したのだ。それに対して私はのうのうと生まれてきただけ。諦めが私を覆っていく。「でも人間未満の私でもほんの一瞬だけ意識があった。意識と呼べるかはさえ分からないけれど、失わないよう必死にしがみついた。諦めなければ勝つ見込みはあった。その末に、私はついに針を一六年ぶん前に動かした。そしてその間に意識を育んでいた私は身体を再構成し時間の一本線の上を飛び飛びに生きながらこの世界を学習し、人間になった」ああそうかとわたしは納得する。ドッペルゲンガ―。「もちろん弐子のことも見てたよ。わざわざ敵に姿を見せて伏線を敷くなんて悪役らしくてかわいいお姉ちゃんでしょー」「……」「何その間抜けな顔。面白くない妹。まぁいいや、で私は意思の力だけで一六年後に天沢家の長女、天沢壱子の座を勝ち取った。でも私は、私を殺しかねない妹の存在を許せない。お姉ちゃんはね、弐子が私の代わりに死んでいてほしいんだ。だから」「……壱子がこれを仕組んだんだ」「そう。私がこの母親とその兄を連絡して呼び寄せ、父親を脱走させて突っ込ませた。それだけ。まぁ復讐って気持ちもあるよ。生まれるはずだったのに存在しなくなった人間が、この世にどれだけいると思う? べつに死産だけじゃないよ。たとえば、あるカップルが事故で死んで子供を産まないとする。すると子供を産んだときに存在するはずだった人間はこの世界に存在しなくなる。その子供たちがいればその子たちも。無限。みんなどうなると思う? 可能性の亡霊になるんだよ。この唯一の世界を支えているのは起きなかったことで、起きなかった亡霊たちのおかげで人間はいるの。なのにこの現実世界に誰か一人でも自分が選択しなかったことで消えたものや人のことを悼む人間がいたと思う?」「……」私は罪深いと、壱子は言っている。存在するだけで存在する場を奪っている私は罪深いのだと。人間は存在するだけで罪深いのだと。「私はそんな亡霊たち、亡霊の世界を代表して、あなたに罰を与えたい。あなたの持っているものをすべて奪いたい」私は壱子になんて言えばいいだろう? どう返せばいいだろう? 私は生きた側の人間でしかない。何を言っても彼女を傷つける。「弐子には絶対に二〇二三年七月一五日二三時二六分に死んでもらわなければいけない。そのためにこの家にいてもらうわけにはいかない」壱子はまだ燃え尽きていない本のページを破ってペンで絵を描いた。直線の途中でペンはグルグルグルとインクが潰れるまで円を描き続け、そして最後に出て行って直線になる。「弐子たちのループはこう。この存在する世界は一本道で、ループしているように見えてもループが終わるまでをすべて一本とカウントする。可能性の世界を存在させることを許さないから。だから私の存在は安定しない、世界にとって危険なのよ。弐子と私が共存する世界は、危険なの」そう言いながらも壱子は余裕の姿勢を崩さない。「だからこうして家から追い立ててすべてを失わせた。……弐子。私はね、憎しみで言えばあなたのこと今すぐ殺してもよかったと思うよ。でも私は優しいから、最後の時間をあげる。天沢弐子はここを出てすべてを失い、今夜の二三時二六分に自らタンクローリーに押しつぶされて死ぬことを選ぶんだ。選ばないことはない。それがルールなの。だから私は見逃すよ。えらいでしょ?」ああ、そうか。この人は私の家族なんだって思った。私が母をボウガンで撃たないように、壱子も私を殺さないのだ。たとえそれが決まっていたとしても。そう思うと、相いれないことが悲しくなる。すべてを失った私は一人で死んでいくのだ。「……分かったよ。私は一人で死ぬね」「……」「生まれてきて、ごめんなさい」私は窓枠から隣の家の壁を伝い降りる。早くしなければ家は全焼してしまう。超常的な存在だから壱子はもちろんなんとかなるだろうけれど存在する私は残念ながらそうはいかない。離れるにつれ、サイレンの音だけが遠くから聞こえてきた。私はスマホで時間を確認する。二二時五六分。世界の終りまであと三〇分。私の終わりまで三〇分。私はもう巻き戻しはしないだろう。今の世界は私と壱子が共にいる矛盾した世界だ。私が消えることで私がいた世界は消滅し、レールの軌道を移すように壱子が生き残った世界が本流となる。そうすれば壱子は存在を許される。…………それでいい。私はそんなことを考えながら最後の三〇分は読書でもして過ごそうと思った。本はほとんど燃えてしまったけれど橋の下に持っていった『ドゥイノの悲歌』がある。「すべての天使は恐ろしい」。この詩の作者は海辺を歩いていたときに詩の冒頭を神から授けられたという。天使。私たちの世界を覆う亡霊たちはひょっとしたら天使なのかもしれない。だから黙示録のように世界を滅ぼすのかもしれない。壱子ちゃんマジ天使。ってぼんやりしていたら川にたどり着いていて、ギターの音が右の耳をとらえた。私はふるえる足取りでそのもとに向かった。「……習志野」「天沢さん、生きてたんだ」「そっちこそ」習志野は全身焼けただれて痛々しい姿で、見るからに打ちひしがれていた。今にも死んでしまうそうなのにギターを抱えて弾いていた。本当に何なんだろうこいつは、と呆れる間もなく私は奇妙なことを言われる。「……天沢さんは、そんなに家族が憎かったの」「……え?」「さっき自分で言ってたじゃん。だから、こんなことしたんだって」さっき、私が、自分で、言った。そう習志野は言っている。私がこの殺人と放火事件を起こした? なんで? ……そこで私のハイパー女子高生パワーが量子コンピュータのように動き出す。そうだ。私たちは双子なのだ。それも一卵性双生児だったのだ。外見が同じなのだ。だから壱子は簡単なトリックで私の親たちや習志野を騙したのだ。なぜだろう? ……ああ、そうか。私からすべてを奪うつもりなんだもんな。こうして当然か。「それは私じゃないよ」と私は空しく言う。そして壱子と弐子の物語を語る。信じてくれるハードルは高い。そうだ、私が犯人だと信じているから彼は憔悴しているのだ。だから彼は反論した。「僕には、いま目の前にいる天沢さんも信じられないよ」ああ、また私は傷つけてしまった。きっとこいつは見分けがつかなかったことを恥じるだろう。私は……私は……。黙ったままの私に習志野は更に追求する。「それに、最初からおかしいと思ってたんだ。どうして君がギターを弾けないなんて嘘をついたのか」……待ってくれ。ギターを弾けない? 「なんで、僕と何度も会っているのに知らないふりをしてるのか」何度も会っているのに? 「待って、何言ってるのかぜんぜん分かんないよ私は習志野とは事故に遭うまで一度も」「今更とぼけないでくれよ! ギターだって君が預けてくれたものじゃないか!」習志野はそう言ってギターを持ち上げる。私は橋の下まで降りて、いつのまにか置きっぱなしにしていたギターケースを持ってくる。「そうだよ。その中にこのギターが入ってたじゃないか」私は高速で記憶を逆転させて思い出す。このギターケースは誰のものだ? どこで見つけた? 父の持ち物だったギターケース(なぜかギターはない)に入れて持ち歩いている。そうだ! あれは父の持ち物だった! そのギターがこれなんだ! そう、壱子はこの一本道の世界を自在に移動できる。だからこの世界に密かにやって来た彼女は。私が発見する前にギターだけ持ち出してこいつに渡したのだ! そしてそれを持った状態で習志野に会い、フラグを立てておいたのだ。習志野は壱子を私と勘違いしているので、私が本当のことを言えば言うほど私を信じなくなるのだ! ……やるじゃないかお姉ちゃん。私が憎いとか私が憎いとか私が憎いとかいろいろ言っていたけれど、本当はこれが理由だったんでしょ? ああ女って恐ろしいって私が言ってみるポストモダニズム。恋は戦争だ。そして戦争はほかの手段をもってして行う政治だ。ゲームだ。だからルールがある。いいだろう。ルールに則って、私は反撃してみせる。残念だったね、お姉ちゃん。そして私はギターケースを開いた。中にはボウガンがある。「これで私が私だって証明できた?」目を丸くして何も言わない習志野に、私は組み立てたボウガンを向けた。「これ」「ちょっ、待ってよ分かった分かった信じるって」「私を信じなかった仕返しね」そう言って私はボウガンで習志野を撃った。そして上を見上げて時間を確認する。二〇二三年七月一五日二三時二六分まで、あと一七秒。「すぐ私も行くから、勝手に逃げないでよ」私はひどい奴だなぁと改めて思う。でも恋というのは相手をボウガンで撃てるぐらいじゃないと始まらないのかもしれない適当なこと言うけど。ぐしゃぐしゃ。そうして私の前には時計がある。肉体があるんだかないんだか分からない私は針に手を伸ばす。そして右回りに捻る。捻ろうとする。まったく動かない。動け動け動けって国民的アニメの主人公みたいにガチャガチャやってもびくりともしない。でも私は諦めない。一人でできなければ二人でやればいい。さぁ来てくれ、と横を見ると、確信していたとおりに手が伸びていた。顔は見えない。身体も見えない。やっぱり習志野も肉体があるんだかないんだか状態なんだろう。でも分かる。彼はここにいる。一人じゃない。だからきっと動かせる。針を掴む手が重なる。そしてそのままレンチのように一気に回す。時計が壊れても構わない。そんなことで世界が壊れるならさっさと壊れればいい。だから私たちは恐れない。壱子が何億回でも試したことを一回でやってみせる。さぁ回せ! 回せ! 回せ回せ回せ回せ! とアニソンのように連呼しながら力を込めて、ヒビが割れるように、錆びたネジが軋むようにゆっくりとでも確かに動き出しそのまま弾力の限界が来たみたいにあるところでガクリと段差を越えたような手応えがあり、そのまま手が離れる。おいずっと握ってんじゃねぇそって文句を言う余裕はなかった。だって時計の針はすごい勢いで回転を始めたのだから。ぐるぐるぐるぐる! 目が回る! それを見ているこちらの視界も意識もぐるんぐるんと回転し私たちはサイケデリックに宙に浮かんでそのまま遠心力でブワワワーっと飛ばされてでもやっぱり手を離してはくれなかった。撃たれたのにようやるよって私も握り返す。そして私たちはいつともどことも知れぬ河川敷にいる。いや河川敷だった場所にいる。同じ場所でも景色は一変していて私たちが住む二〇二三年には見たこともない建物がたくさんあって、高いビルも低いビルもたくさんあって土手だったこの場所は護岸工事がされ遊歩道を兼ねた公園になっていた。私たちの時代よりスマートだが殺風景に思えた。でも川辺の電灯には灯が一つも灯っていなくて、とても暗い。よく見ると舗装はひび割れ手すりや遊具は錆び木製のベンチは腐っている。そんな場所に一本の巨大な影が落ちていて、ただでさえ暗い周囲を暗黒に陥れている。その巨大な影――私の真上を通って対岸に伸びているのは見たこともない橋だ。私が下に住んでいたあのボロ橋とは比較にならないほど大きくがっしりとしていて、なのになぜか車の音は聞こえないし遊歩道を歩く人も一人もいない。周囲に人影がない。誰かが生きている気配がない。遠くに見えるところまで、街は脱皮した後の抜け殻のように黙ったまま、死んでいた。地面に寝転んでいた私の傍にはボウガンとギターケースがあって、倒れている習志野の傍にはアコースティックギターがある。揺り起こす。当たり前だが火傷もないしボウガンの矢も刺さっていない。未来に私たちの肉体はないはずだから、再構成には成功したということか。じゃなきゃ惨劇だったな。「……んにゃ」んにゃじゃねぇよ殺すぞ。「あれ、ここは」「未来……でも、いつだろう」「そんなに遠い時代じゃないよ」と三人目の声がして幻聴かと怪しんだがそんなことはなくちゃんと壱子が立っていた。「あんまりおもしろいものはないけど、見てみる?」と私たちを手招きするがちょっと警戒しているのもお姉ちゃんセンサーで分かるみたいで「落ち着いてよ。武器を持っているのは弐子じゃんか」と言われて確かに気づいたら持ってきていたし矢もつがえていた。先を向けるか一瞬迷ったがやめる美しい家族愛の一コマのあとで、私たちは彼女に連れられ歩き出す。どこへ向かうかと思えばちょうど目覚めた場所の真上、橋の上、マジでそびえた橋桁の上だった。壱子が梯子をよじ登り始めたときはマジかよって思ったけど結局ボウガンを置いて登っていた。習志野が落ちないか気が気ではなかったが私が手を離せば習志野も巻き込まれて死ぬんだなぁとか愉快に考えているうち頂上に到着。「二人とも、どう?」壮観だった。橋の下にいたときよりずっと外の世界が見えた。街を分かつ川の両岸の建物はすべて老朽化し、窓は割れ、コンクリートは砕けるか割れ、ツタに巻かれているものもある。愉快なのは誰も道を歩いていないことだ。わずかに見える車は乗り捨てられたまま止まっている。「人間が死を研究するにつれ、時計の存在に気づくのは必然だったのね」と壱子はバスガイドのように説明した。「やがて文明はその力を我が物にし、誰もが過去や未来に移動できるようになった。弐子たちがいた二〇二三年にも、その前にも未来人はいっぱいいたんだ。というか各時代の人間の本当の人口は本当はとっても少なくて、未来人の移動、移民でバランスを取っていた。時代時代の過去の権力者と未来の権力者が取り決めを結んで、決まった分の知識や技術を与えてくれる代わりに居住権を保証した。二人の高校のクラスには何人の未来人がいたのか気になるところ」想像を絶しすぎて禁則事項です、って口癖の未来人が出てくるライトノベルを思い浮かべるしかない。「でも、人間は過去に耽溺しすぎた。二つの選択肢が与えられた時、未来に向かうより過去に戻る人の方が圧倒的に多かった。未来になればなるほど世界は腐っていたから当然でしょうけれど。でその結果がこれ」人類はノスタルジーによって滅ぼされたのだ、と壱子は言う。「過去に戻った皆が過去で死んでしまった、それもある時代に大戦争をやってしまって。ま、二〇二三年よりは先のことだから安心しなさいな」もうタイムトラベラーだからしても仕方がない気がするけどなぁ。「で、残された世界がこれよ」「最後の生き残りは壱子なんでしょ?」「まぁね」淡々と認めた。「そして横の二人もね。私たちは世界の終りに招かれたんだよ」この世界は一本道だ、と壱子は言っていた。だから過去に移動した人たちがやることなすこともそれまでの歴史に影響を与えない。だからタイムパラドックスは起きない。そして詩的な言い方が許されるならすべてはこの終末から逆算されて決まっていたのかもしれない。悪夢だ。まぁその頃にはやややもシュレ子もみんな死んでいるだろうけど。てかさすがにあいつらは未来人じゃないっしょ。決めつけだけど。「でさぁ、世界の終りを見せてもらったはいいけど、どうすんのうちら」と橋の上まで降りて私は話を引き戻した。「これから三人でここで暮らせとか言わないよね」「当たり前でしょ。女二人男一人しかも女は双子で人類滅亡サバイバルって漫画が売れると思う?」属性過多だが頑張れば売れなくはないような。「私のすることは二つ。まずは個人的なこと。次に世界のこと。世界の方は放っておいても最後に果たされるから気にしてない。問題は個人的なやつ」なんか回りくどいなうちのお姉ちゃん。「あのさ、単刀直入に言うけど、習志野が好きなんでしょ」風の歌を聞くタイム突入。「………………だったらなんだって!?」「ツンデレが」「うっさい愚妹!」「負けヒロインねーちゃん!」醜い争いは例によって冴えない主人公が介入して終わる。「ええっと、二人とも僕が好きなんだよね」「本人に言われるとムカつくよねお姉ちゃん」「そうね」「はぁ」照れてんじゃねえよまた撃つぞ? 射殺系ヒロインになるぞ? 「でさ、お姉ちゃんズルしたっしょ。私のふりして習志野に会ったっしょ。しかも私より先に」「恋は百年戦争♪」しらばっくれるな。……こいつはともかく私と壱子は存在自体が相反するし、ハーレムオチは無理だよなぁ。ってことで、まぁあれかこれか、ノーオルタナティブ。壱子にズルはさせない。私たちは「私は天沢壱子です」「天沢弐子です」と宣誓し、お互いどちらがどこで彼と出会ったかはっきりさせ、好きになったところを語ろうとしたが私は思いつかなかったし壱子はしどろもどろで何も言えないし(どうせ私を壊す道具にしようとしてイチコロとかだろお姉ちゃん)、でシンキングタイムを与えて、結果をCMのあとまで引き伸ばさずに言えば私を選んだ。正確な発言を引用すると「初めて出会ったときに、ギターをくれて、お互い弾けるって話が合ったとき、確かに嬉しかった。こういう出会いってあるんだなって。それでギターが(以下、妹が省略)だから、もし先に好きになった方を好きになるべきなら、壱子さんなんだと思う。でもね、僕と弐子が同じ事故の巻きこまれたのにはやっぱり意味があると思うんだ。人生ってさ、誰が好きとかって自分から決めるんじゃないんだよ。ただ何となくそうなって、それからそれを受け入れることなんだって思う。だから、クラスメイトの僕を憶えてないし仕事を手伝わないし死ぬのを押しつけてくるし好きじゃないとか言ってたのに好きになるしボウガンで撃ってきたけど、僕は壱子が好きなんだよ。……これでいい?」きゃーきゃー。この件から学ぶべきことは拘束時間は一目惚れに勝るである。教訓説話、以上。「……ま、予定調和だから。うん、そう、だからこんなことなんでもない」めっちゃ根に持ってるじゃん。でも習志野は悔しいことにそのへんはずるかった。壱子にギターを返したのだ。「ありがとう。上手くなったよ」「……いいえ」壱子が私にギターを渡す。「もとはあなたの持ち物だから」そうだね、と私は頷く。人類の黄昏、青少年の美しい世界の調和。これで完、でもいいけれど、壱子には世界の使命が任されている。私たちも協力しなければならない。だから私は壱子にボウガンの先を向ける。狙いを定める。どこに当てたら苦しみが減るかなぁとか増えるんかなぁとか考えてたら壱子は勝手に目を閉じて「ごめんね」と言った。それは鏡の向こうの私が私に言っているようでもあった。「あんなことをするべきじゃなかった」「いいよ。殺したうち二人はまぁ殺されても仕方なかったよ」「ほんと、妹って生意気だよ」私は笑った。私はもう自分が罪深いとは思わなかった。だって「いいお姉ちゃんを持った」からね。「やかましいわ」が最後の言葉だった。矢は正確に彼女の肋骨を抜けて心臓を貫いた。それはもうウィリアム・テルも真っ青な精度だった。あとは遺言に従って私たちは世界を終わらせるだけ。彼女に指定されたガソリンスタンドに放置されたタンクローリーに乗り込み、壱子から預かった鍵でエンジンを動かす。こんな世界でも本当に動いたことに私は驚く。それとも壱子が整備をしてくれていたのだろうか。ありがとう愛しのお姉ちゃん。世界を終わらせる手伝いをしてくれてありがとう。私が運転席、習志野は助手席に座り(だってタンクローリー運転してみたいじゃん)、壱子から雑なレクチャーしか受けなかったせいでめちゃくちゃに街を破壊しながらも、なんとか大事故を起こさず橋の上までやって来ることができた。ちょうどぴったり、正確に正確に駐車して、どうせうまくいくのに何度も降りて下を見て、そしてようやく準備は終わる。「じゃ、いいね」と私は言った。「うん」と習志野は言った。それだけだった。世界ごときを終わらせるにはそれで十分だった。私は壱子の指示どおりスイッチを入れた。どっかーん。タンクローリーの燃料が爆発した瞬間、私は時計を巻き戻す。二〇二三年七月一五日二三時二六分に巻き戻す。これで終わる。すべてが終わる。私たちは私たちに巻きこまれて死ぬ。そしてループが始まり、最後に私たちがここにやってきて、二〇二三年七月一五日二三時二六分私たちを殺す。こうして世界は一本道のまま滅亡する。誰もいない空っぽの美しい地球が残される。おしまい。………………私にはまだ意識があった。横には習志野もいた。でもタンクローリーはとっくに大爆発して肉体は四散したのにまだ魂があるなんてCDの最後の曲に無音時間を作ってから入れるボーナストラックみたいな感じだ。とっくに運転席は吹き飛んで私も習志野も世界を終わらせる愛の心中を成し遂げたのになんでこんな時間作るんだよ暇だなーって思ってたら逆方向から近寄ってくる二つの足音。誰だろう、と一瞬考えてからああそっかそういうことかよ! と二人同時に合点した。タンクローリーに乗った私とこいつが落下とほぼ同時に消滅し、落下は居合わせた天沢弐子と習志野十勝を巻き込まず、それどころかそれが二人の出会いとなり、私たちを出会わせるために今までの私たちはここまで来て、その礎として消えるのだ。世界は一本道だから、私たちはここで終わる。でも世界は終わらない。これから始まるんだ。あの天沢弐子と習志野十勝が始めるのだ。神話だ。これまでの茶番はすべて、私であり私でない彼女とあいつでありあいつでない彼を出会わせるためのお膳立てあり迂回だったのだ。そして時空を旅してきた私たちは全員自分たちのための舞台装置だったってことだ。そうだと分かったら笑いがこみあげてきた。なんでそんな無駄に壮大なんだよ神様もっと楽な方法はいくらでもあったろうに、しかしそれでも天にいる誰かさんはどうしても二〇二三年七月一五日二三時二六分にある少年と少女に完璧な出会いを与えたかったのだろう。なんたる無駄なんたる無意味。それがザッツライフって、そんなことを考えているうちにも意識はどんどん透けていきもうなくなっているに近い。私たちはここで終わりまた始まるだろう。あるボーイ・ミーツ・ガールが終わりもうひとつのボーイ・ミーツ・ガールが始まるだろう。しかしそれはこの毎秒にも世界中の男子と女子が出会い別れているように私たちにはいっさい関係ない話だ。老兵は去り行くのみというやつで、もう何も望まない。だから私たちはこのままいさぎよく消え去りたい。死なせてほしい。習志野、そうだよね? 私はこいつと死んでも悲しくない。だから私たちは早く死んでほしい。

『青春諜報員アンナ』(Ver 23.2.05)

 

「わたしを利用してくれてありがとう」

カート・ヴォネガット・ジュニアタイタンの妖女

 

 

 

 そういえば、最古の記憶は影だったような気がする。
 こうして夕暮れを歩き、七回に一回ぐらいの頻度で頭に浮かぶそのイメージがいつの体験なのか、僕には分からない。
 何の本だかも忘れたけれど、昔どこかで、人間は無から生まれたのだから、忘れているだけで誰でも無を知っているのだ、という文章を読んだ。
 それなら、人間が初めて影を知るのはいつだろう?
 ただ、今は連れ立って歩く一人が舗装のブロックに登ったり降りたりするから、僕と重なった陰の腕や足が三本になったり四本になったりして、哲学もどきには向かなかった。
「おお、あぶなっ」
 そいつはふいに転びそうになって、慌ててバランスを取り、身体を戻す。また影が軟体動物みたいに身震いをする。
 一段高い道を登って歩く。それがこの女の子の癖だ。身長を高くしようとして始めたというそれは、中学生になっても治らなかった。
 今もまだ、遠くを見るには背丈が足りないと思っているのかもしれない。
 翻って、同じこの町で齢を重ねた僕は。
「……どうしたの? そんなにぼーっとして。いや、それはいつもだけど」
 一言多いよ。
「なぁ、僕たちってここに住んで何年ぐらいだっけ?」
「小学校の頃にはもう、このぼーっとした顔に憶えがあるけど」と彼女はからかう。「生まれたときから、でいいんじゃない? その前を知っている家族は死んでるからいないし」
 あっけらかんとこいつは言う。
 そこには、空洞で通じ合う人間同士の遠慮のなさがあって、なにかと僕たちを十字架にしたがる大人たちの憐れみより心地よかった。
「で、なんで急に回想入ったの?」
「理由はないけど。なんか……変わらないなぁって思って」
 あーあーあー、と癒衣は自分の頭をこつんと叩いた。現実にこういうジェスチャーをする奴を僕は人生で彼女しか見たことがない。こいつからすれば、そうさせるのが僕しかいないと反論されるだろうけど。
「あのね、あとひと月もすれば、私たちはこの町から出て行くんだよ」
「……確かにそうだった」
 進路。なんとなく頭に上らないよう受け流してきたものが、ぬっと現れた。
 癒衣が乗っている船が、どこへ帆をあげているのか、僕は訊きそびれてしまっていた。なのに僕は、どこかでいっそ、話の手がその枝を手折る瞬間を期待してもいた。いかにも学生然とした、矛盾というやつだ。
 でも、今度も戻ってくるのは謎かけで。
「それでも、やっぱり私は望海の横にいるんだろうなぁ」
「『だろう』って……」
「だって、そう決まってるからね」
 彼女が逆光に手を広げ、地に十字を投げかけたとき――
 白昼夢は弾けた。

 

 雲をすり抜けた陽が、鋭く道筋を裂いているのを、僕は見ていた。
「……檜原くん、ごめんなさい」
 個人経営の喫茶店、テーブルの対岸で、ペンを置いた同じクラスの浅間篠さんが呟く。
「つまんないですか、私といるの……」
 檜原望海十六歳、男女の憩いでおよそ想像しうる最悪の感想を頂いた。
「さっきから、ずっと窓の外を凝視してて。大丈夫かなって」
「いやいや全然! なんでもなっ――ぐっ」
 まずい、悪癖が出てしまった。
 ここ最近、気が散ってならない。ずっと頭痛に悩まされていたせいだ。
 それもじんわりと包んでくれる生易しいものじゃなく、雷撃機の奇襲のように天から降り、瞬時に意識のゴム紐を弾く、そんな瞬発的な痛み。それが引くと急に頭をぼんやり雲が包んで、ふいの閃光――そんな繰り返しだ。
 ストレスだらけの人生に、ついにフィジカルが軋みだしたとでもいうのだろうか?
 まぁ、自分のせいでその種がまた一つこの場で増えかかっているのだが……。
「お気遣いありがとうございます。でも、そもそも私が無理にお願いしたわけですし、でしゃばりすぎだったかなとも思いまして……」
 シャーペンの芯が折れ、脳内で本日の回想が暴れ回った。
 浅間さんにお願いされてから、僕たちは定期的に勉強会を開いていたが、今日はその拡大版という趣き、だった。
 合流した僕と彼女はまず工事が最近終わったモールに行った。彼女の最大の目的、イベントスペースで行われたイラストレーターの個展を見て、テナントの中を見て回った。
 公園では屋外の映画上映をテラスで見学しつつ移動屋台を頬張る。
 しかし個展の物販の長蛇の列で予定が狂い、暇潰しにも解散にも中途半端な時間になる。
 フラフラ歩くと繁華街に突っ込んで同級生に見られそうで困る、という危惧に応え、たまに行くここに入って――いつもの勉強タイム。
 その間、確かに僕たちの空気はずっと、なんとなく煮え切らなかった。
 認めよう。……いろいろな理由・経験から、計画の時点で盛り上がることはまずないと確信していた。
 しかしこんなに直接言われるとは思わなかった。
 窓の外はもうどんよりと厚い雲に覆われていて、その下で息をつく僕まで憂鬱を吸い込んでいる。口が重くなっていく。
「でも、僕は全然そんなことないんだけど」
「ほんとに優しくてありがとうございます……こんな変な女に気を遣っていただいてほんとに……それだけで光栄じゃないですか」
 店内は普段より空いているが、こんなに分かりやすくトラブルを起こせばさすがに耳目は集まってくる。謝らなくていいからもっと声量を小さくしてほしい。
「浅間さん、とりあえず落ち着いて……ええっと、僕は浅間さんといてつまらないとは思わなかったし楽しかったくらいなんだけど、なんで急にそう思ったのか気になって」
「でも、私の側が言うのっていくらなんでも失礼じゃっ」
「遠慮しないで。そう……クラスであんな感じだと、鍛えられてるから!」
 ははは、と強引に浅はかなぼっち自虐で乗り切ろうとしてコケる。それどころかなおさら深刻な顔をしてないか。哀れまれてませんか?
「……分かりました」と浅間さんは意を決して、手元のケーキをフォークの横で切り落とすと、慎重に言った。
「檜原くん、朝からなんとなくぼんやりしてて、最初は眠いのかなって思ったけど、モール通ってお店見て、イベントも行ったのに――私が話すたび、飛び上がるみたいな感じで慌てて喋ったり動いてた……から」
 想像の十倍くらい辛辣な、存在否定だった。

 

 ところで、一年生の僕たちは最初から深い仲だったわけではない。
 成績主義の入試で知られる高校とはいえ、普通に考えると、親なしの僕、軍事系の輸送会社の一人娘の浅間さんでは大きな隔たりがあるし。
 知り合ったきっかけは、高校入学後のオリエンテーションの日に道を訊かれた、それだけ。
 浅間さんは迷ったらしく、校内で教科書の束を抱えて右往左往していた。
 そしてそれは、進学でこの街に越してきた僕も同じだった。
 そこで互助として、荷物(販売日を過ぎていたので一度に渡されたに違いない)を手伝いながらなんとか教室にたどり着いた――という顛末。
 しかしクラスは違ったのでそれからしばらく話す機会はなかった。
 ……転機は美化委員を押しつけられたことだ。
 同じように流れ者の浅間さんと僕は、ゴミ捨て場の管理の仕事でペアになったのだ。
 当然僕たちは定期的に顔を合わせるようになる。世間話をするくらいにはなる。
 そのうち定期テストの成績表(数学で上の方だったのはその回が簡単だっただけなのに)を見た浅間さんは、僕に勉強を教えてほしいと言い出して――今に至る。
 悲しいことに。

 

 すべて言うしかなくなった――そう判断したのか、浅間さんの次の一言は決壊のように吹き出した。
「……近寄りたかった、だけなんです」
 無意識なのか、目を落とさずにナプキンを丁寧に畳んだり開いたりする。当然皿の上のデザートには手を出していない。アイスケーキなので、三角の先を削がれたまま部分的に溶けていく。生地部分の白い色のせいか、さっきから氷河を思わせる。
「異性で、気になるって言っても……『かも』ってぐらいで。恥ずかしいけど……檜原くんのこと知りたかっただけで、決して変な……なのに、なんで、こんな……その」
 話の着地点を見失ったのか浅間さんは黙りこんで、そこから先を聞くことはできなかった。でもこれ以上何を言われても、付け足してこの状況を変えられる言葉なんか残っていなかっただろう。僕にだってなかった。
「……分かった」
 分かったといってどうもならないが、指摘は非常に納得できる。できすぎる。
 そしてここで、僕は「悪かった」と言った。でも、単なる謝罪じゃないまま話をまとめなければいけない。
「僕があんまり楽しくない時間にしてしまったのを、まず謝りたくて。それは……浅間さんとはまったく関係ない理由もあるんだけど、言い訳にはならないから――とにかく、ごめん」
 出まかせだ。こんな言葉に何の意味もない。知っている。
 僕は単に、起きてしまったことのつじつまを合わせるだけだ。
「でも、要因には相性や状況もあるし、どちらがどちらだけ悪いとか、悪くないとか、考えすぎない方がいいかもしれない。それに、何より……僕に興味を持ってくれて、嬉しいよ」
 ……カウンター隅の棚、有線スピーカーと繋がった旧いラジオが時報を告げる。続いて甘ったるい英語のポップソング。恋に落ちるのはいつも土曜日とかなんとか、そういう歌。
「そうしましょっか」
 浅間さんはこの場の空気を振り切るように笑った。
 いつものことだ。
 いつものことではある。
 それでも、嫌な感じに慣れることができない。
「今日はありがとうございました。これからも、クラスでよろしくね」
「もちろん、月曜日から、また……よっ……う」
 頭に鈍い痛みが走った。
「……大丈夫ですか? 檜原くん」
「いや、なんでもないよ」
 なんでもないんだ。だから悲しそうな顔をしないでくれ。
「気をつけてね」と浅間さんは呟いてから、急に「あ」と声を上げた。
「その……最後のわがままなんですけど」
「誰にも言わないよ」
 浅間さんは、ありがとう、と頷いた。
 そして、僕にそれを言うべきか迷った。
「伊東くんには知られたくなくて」
 そして言った。ごめんね、と。
「私……付き合ってるんです」

 

 用事のある浅間さんを会計に見送ると、僕は店に残って数学の課題を続けた。
 店内の音楽が途切れ、ラジオニュースが始まる。
『冬の自然イベントといえば、しし座流星群。十一月ごろに見られるようになるんですね』
『今年は見れるんでしょうか?』
『ひょっとしたら、前線で見る兵隊さんもいるかもですね』
『えー、それはロマンチック!』
 やがてくだらないプロパガンダになる。
『――で発見したアジトは、先の紛争と同様に〈敵〉機関のスパイによる自作自演の開戦を準備し――これを排除、反政府グループは三人死亡。〈敵〉の卑劣な破壊工作は再び潰えました』
 耳に通すだけで、頭が激痛を訴えた。
 思わずイヤホンで耳を塞ぐ。何も流さない。ただ痛みが過ぎるのを祈る。恩寵を待つ。
 ごめん、浅間さん。僕は計算を続けないといけないんだ。
 ……でも、いなくなってから気づきたくなかったな。
 去り際に、ペンなんか忘れ物しないでほしかったよ。

 

「なん? ぼーっとして」
 クラスメイト、桐生萌は怪訝な目で僕を睨んだ。こわっ。
「あ、いや大丈夫、気にしないで」
「喋りづら。なに、怖いとか?」怖いです。「それか女子とサシで話したことないとか」昨日話してます。それが問題なんですけど。
 浅間さんと会った店、しかしテーブルのカレンダーは赤。今日は日曜日である。
「檜原さ」
「……なんでしょうか」
「店入ってからずっと目が泳いでるの、やめてくれない? 二人きりだし、いちおうデートって見えるじゃん? 知らない人間が見たらこっちがつまんない男連れてるみたいじゃん」
「知らないんだから気にしなくても……」
「知らないから気にするの。いま学校のに見つかったらどっちみち終わりなんだから」
 そう、対策の一環として僕たちはちょうどL字に曲がった店内の奥に座っていた。入口からの視線は壁に遮られる席である。
「檜原がつまんないのはマジだけど」そうですか、悪かったな。
「私がクラスに一人はいる休み時間机に突っ伏してて卒業後に同級生が顔も覚えてないってタイプを食う特殊な趣味みたいじゃん」なんでレッテルがそんな具体的なんだよ。「あいつがあんなことをするなんてって」勝手になんかの犯人にしないでくれる?
「だったら僕と会わなきゃいいんじゃ」「まぁ実際そうなんだけど」「えっ」「ほら? こうやって苛めるわけ」
 ……あの、帰っていいですか?
 桐生はクラスでもかなり目立つ女子で、明るい髪と入学直後から慣れた制服の着こなしがいつでも周囲に人を呼ぶ。死語でいうところのギャルみたいなものかもしれないが、たしか親は政府高官だかなんだかで、しっかりと傲慢さも持ち合わせている。
 しかしそんな理不尽がつまらない男子こと僕に向く理由ってあるのか?
「まぁほんとのとこ、呼んだのは頼み事でさ。簡単なんだけど」
 頬杖をついて、ダルそうに桐生はじろりとこちらを見る。ためらいのような一拍のあと、桐生は言った。
「細かいことは聞いてないけど、篠がさ、お前のこと好きらしいんよ。知らなかったっしょ?」
 言葉を失った。
 なんでそれを知っている?
 なんで僕が知らないと思っている?
「驚いてるとこ悪い。話が進まないからそれ前提で聞いてほしいんだけど。お願いっていうのは簡単で」
 きっと僕の沈黙の意味を取り違えた桐生は、プラネタリウムの中のように神経質に店内を見回して、一気呵成に踏みこんだ。
「私と付き合ってるふりして、あいつを諦めさせて」

 

 からん、とコーヒーの氷が溶けて割れる。
「あー、篠が伊東と付き合ってるの、知らないよな」
 黙っていたことが功を奏して、桐生は僕が何も知らないと判断してくれたらしい。……伊東? ああ、なんかいたな、そんな男子。よく桐生たちとつるんで教室の真ん中に陣取っている、程度の認識(クラスメイトほぼ全員そんな感じだけど)。その一団によく浅間さんがいるのを見かけるのは性格上不思議だとは思っていなくもなかったが……ふむ。
「……ってことは」
「そう。二股」桐生は息をついた。「あいつ、どうせ言わなかったんでしょ。最初は伊東が妙に避けられてるのが気になって、お二人さんを見て勘づいたってこと。基本こっちは聞いただけ。……でも、もう何年も付き合いあるから私もなんか変なのはわかってね。篠は連れを放置する性格じゃない」
 つらつらと高校生の痴話喧嘩の話をされていると、自分が月の裏側で暮らしているみたいな気分になってきた……が、次の言葉には驚いた。
「で、これまた驚愕の事実。あいつは後をつけて、あんたらがそこで会ってるのを見た」
 指をさした先には、あの日僕と浅間さんが座ったテーブル席がある。
 ――尾行。
「でも、そんな不審なことなんて身に覚えは……」
「平和ボケだなぁ。檜原、美人局をされても最後まで純情に信じてそうだよね」お前三分に一回ぐらい童貞弄りをしないと死ぬ病気でもあるんか。
「まー、刺されなくてよかったじゃん。で……どうよ」
 どうも何もねぇよ、と机を叩きたくなったがどうせ拒否権を与えるつもりはないんだろう。いきなり無理に断って逃げても、ロクなことにならないに決まっている。どこまでの最悪で済ませるか、ダメージコントロールだ。
「でも現実問題、それで騙されるのかな。僕なんかだと不自然に思われるんじゃ」
「檜原ごときだからできるんじゃん」とうとう捨て駒って言っちゃったよ。「あのね、自然にうまくいくなんて思ってないのよ。頭悪い奴と話すのってこんな疲れんの」頭のおかしい奴と話すのも疲れるよ。
 ……要するに、桐生の勝利条件にとって、浅間さんを完璧に騙す必要性などないのだ。強引に交際を宣言すれば手の出しようもない――ということらしい。
「ほらさぁ、私の権力なら誰とくっついてても文句言えなくない? 向こうのほとぼりが冷めたら『つまんなかったから捨てた』とか言えばいいし」人権って何だろう。
「でも、それで桐生さんは仲が悪くなったりはしない?」
「それは心配しないでいい。それぐらいの仲だって、知らないんだな」
 釈然としないが、本人がそう言うほどと友達なら黙るしかない。……ともあれ、やっとすれ違いの構図が明らかになってきた。つまり――
 以前から僕を気にしていた浅間さんが様子を見かけ、伊東と交際しているのを隠して近づいた。
 それを知っている桐生が、グループを維持するため僕を利用しようとする。
 そしてこの檜原望海は何も知らず、何もしないまま、気がついたら中心にいた……らしい。
 肩の端からどんどん力が抜けていく。勘弁してほしい。どうせ別れる高校生の色恋なんてどうだっていいじゃないか。戦争みたいにどっかで勝手にやっててくれよ。
 だから言った。
「……分かったよ。できる限り、協力する」
 任せてくれ、足し引きを合わせるのだけが特技なんだ。

 

 連絡先を交換すると、桐生は「すぐ始めるから指示はこっちで、よろ」と一度スマホを耳元に寄せるジェスチャーをしてから、突然カメラを起動し――僕を撮った。
「おい! ちょっと、どういうことっ」
「自分のアカに載せる」平然と彼女は言った。「あ、顔は見せないから自信がなくても平気」
 一から十まで余計なお世話だ!
「っていうか、会ってるの隠してたんじゃないの……? もうよく分かんないよ」
「匂わせ。もう情報戦は始まってるから。檜原は指示に従ってるだけでいいの。簡単でしょ」
 ……はぁ、そうですか。
 まぁなんでもいいや、疲れたし。これでやっと退屈な話も終わる。
 アイスコーヒーに口をつけると、氷はもう全部溶けていて薄い味がする。無性に賠償してほしくなった。……仕方なく飲み切ろうとしたところで――また、痛み。
 そのまま、霧のように前がどんどん霞んでいき――


「おーい、もしもしー。戻ってきなさい」
 引き戻された先は月曜。カレンダーは赤丸、なんか戦争記念日で祝日。なのに部活で登校中。
 ところは保健室。薬を飲んで、頭痛で休息を取っていた。で、回復がてらこの暇潰し保険医兼カウンセラーの先生と雑談していたのだが、どうしてこうなった。
「何の話だか覚えてますかー、何本ですかー」
 指を振られたので、ため息をついて答えた。「どうしてこんなことになったのか、って井戸端、よもやま話です」
 なんでこんなゴシップになっちゃったんだか……でも、この人と話すといつもそうだっけ。
「せっかく真面目に考察してたのに、ポカンとされちゃって」
「……じゃあ、たとえばどういう結論に至ったんですか?」
「顔ね」
 考えうる最悪の返答が戻ってきた。
「……ん? なんでそんな苦々しい顔してるの? 褒めてるのに」
 いや、反応に困るだろ。喜ぶのも否定するのも暴力的になるんだぞ……。
「誤解してるみたいだけど客観的だと思いこんで言ってるんじゃないの。世間のアレは無視して、一人の男子生徒として道を踏み外しかねない……いや、もっと言語化したいわ」
 淫行の考察するより大事な仕事はないんですか? 保険医って暇なの?
「そうね、童顔と一言で言いたくなるけどもっと特定層の女性を惹く作用があるというか……女子制服がしっくりくるというか……向こう五年は飼い主に困らないというか」
『というか』じゃねぇよ。お茶を濁すふりしてもっと悪ノリしてんだろ。
「……そういう感性なのは知ってましたからいいです。捕まらないでくださいね」
 話して損した。訊かれたから喋ったまでで、最初から相談するつもりはないけど。
「それにしても意外ね、檜原くんはだいぶムッツリしてると思い込んでいたけれど。今まで一度も気になった人はいなかったの? そこまで禁欲的な男子高校生って逆に異常性欲なのかもしれないくらいよ」
 意味不明な妄想は聞き流しつつ、なかなかに切り込んだ問いだった。
「それとも、恋愛って概念が嫌い?」
「……別にそこまで忌避してもいないですけど、単純に自分が誰を好きかとか、考えたことがないです。だから深い意味もなくて」
「ふむ、強がるのね。まぁそういうポーズをしたい気持ちは――」「違う」
 はっきりした断定が僕に珍しいのか、彼女は「ほう?」と両手を組んだ。
 ある程度信頼できる相手という前提で、言葉を選ぶ。
「僕が誰かと付き合った方が足し引きが揃うならそうするかもしれません。ないと思うけど」
「足し引きって、何の」
「なんでしょう。世界?」
 先生は頭を抱えた。
「……殉教者みたいな高校生活がしたいなら止めないわ。ガキどもが乳練り合おうが合わまいがどうでもいいし」
「そっちのほうが言質になりますよ……」
「教会で罪は贖えない」先生が呟いた。「罪は街で贖う。それ以外はまやかし」
「えっ?」
「負うところ何ほどあるか、なんじの証書をとりて、五十と書け、八十と書け」
「今度は何ですか……」
「好きな格言よ。ま、がんばってね」
 ちょっ、と訊き返す前に扉が開く。やってきたのは常連の女子。慌てて身を縮める。
「えーっと、部活サボりたくて来ちゃったんですけど」
「オーケーオーケー、ところで名前なんだったかしら」
 出た、この人の十八番ボケ。
「待ちなさい、思い出すから。えーっと、身長は150後半、髪はショートの茶、胸は」
「そんな覚え方やめてよーっ、何度も来てるのに」
「はいはい、冗談だから。入室するならこれに名前を書いてちょうだい」
 ……待ってる奴がいる。そろそろ行かないと。
 どうしてこうなったのか、たぶん先生より僕は分かってない。

 

 さて、そんなこんなとはいっさい関係ない女がいる。
「危ない! しっかり掴んで!」
 自転車のハンドルを握るそいつは――冴野癒衣は叫んだ。
 慌てて、腰を抱いたまま組んだ両手を握り直す。何度乗っても、身体の細さと、体躯に見合わぬ芯に驚く。そして二度と乗りたくないと思う。
 駐輪場がないため校舎に仮置き登録した自転車を、見事な校則違反で漕いでいく。
「もうちょっと下! ……そこもダメ、上! 変なとこ触った! 落っことすよ!」
「ちっとも動かしてねぇよ! んなことしたら落っことされる前に落ちるわ!」
 こんなんでも幼馴染である。
 後部の荷台には大きなプラ製の箱が固定されている。それだけでも明らかに過積載だが、僕はその前、運転者との隙間に無理やり座っている。
 事故る不安と見つかる不安でひたすらに落ち着かない。おまけに荷台はぎしぎしと音を立てている。転んだりぶつかる前に分解でもしそうな断末魔だ。
 二輪の二人乗りはフィクションだから許されるんだろうな。いろんな面で。
「うおおおっ……」
 なだらかな丘陵への道を登っていた両輪が、一気に鈍くなる。車体を止め、僕は降りて荷物を支えた。両脇の木々の紅葉は深い。鮮やかな、朽ちる前の落葉を踏む。
「やっぱり安全第一だよねー」
 どこがだよ……。
 一車線が示すように、車通りも目立たない。農産物の運搬や、郵便や新聞の配達に使われる、もっぱら地元の住民が利用する生活道路だ。
 当然戦車だって通らない、のどかで平和な道。
 勾配の最高点は地図によると『展望公園』だが、腐敗寸前のベンチと誰が来るのか分からないのに在庫が切れない自販機ぐらいしかなくて、実質は空き地である。恋人のいる友人に夜景スポットと紹介したら間違いなく絶交だ。
 春先から、僕たちのホームグラウンドはその一帯だ。
「いやー、絶好の盗聴日和ですなぁ。傍受っ、傍受っ」
 癒衣が口ずさむ。天候条件がいいのか、いつになくハイテンションだ。
 ――盗聴。傍受。
 これが高校生から出てくる言葉か? と思われるかもしれない。
 でも、それが僕たちの部活動なのだ。

 

「ちょ、倒れる倒れる! 押す向きバランス取らないと」
「う……これ、っ、やっぱ過積載じゃっ、ない?」
「いいから。横転したら落っこちるよ? ほらっ、がんばれー」
 こんなに疲れて自転車で来た意味ないだろ……と突っ込む余力もなく、ピラミッドの石を切り出す絵を思い出しつつ車道に荷車を持ち上げていく。
 ここ一週間でずっと涼しくなって夏場よりは楽になったけれど、それでも額に汗の玉が浮かんで、つまずくとぽたぽた落ちる。額を上げると前方の少女は悠々と二輪を押している。八月の盛りでもペースは一切変わらなかった。僕よりよっぽど華奢だというのに。
「壊したら怒るよ。直せなくなったら詰みなんだから」
「分かってるって……」
「分かってないっ。今は目立ってないからお目こぼしだけど、この戦時下に高校生がゼロから通信機器を堂々と作ってたら絶対大人に目をつけられるんだよ……」
「放送部は正式な部活だし、活動に必要ですって素直に説明したらいいと思うけど」
「甘い甘い。……今はまだ私もこういう移動局の免許持ってるけど、年齢引き上げで次から高校生じゃ更新できないんだって。絶対注意されるし、そしたら諦めるしかないじゃん? でも私が今持ってるのが切れてもフワッとごまかしてバレなきゃ問題ないでしょ?」
 まったく悪びれないこの女が部長だと、誰が信じるだろうか。
 我が校には、この活動部員二名の〈放送部〉と委員会活動の〈放送委員会〉がある。
 紛らわしい呼称だが、校内のスピーカーとそこから流れる大半の音声は後者が握っており、イベントや式典でも酷使……いや、引っ張りだこで失業しない。先生方の業務関連以外は管理も整備も学生がやっている。大人がいなくても集団でサヴァイヴする力をつける、戦時教育の一環とかなんとか。
 で、部活動の僕たちが冠する〈放送〉は学校の仕事ではなく、音声、映像、テキスト――あらゆる媒体で、言葉通り情報を伝える通信という意味である。それを研究するのだから、理系の文化部に近い。
 今こうして変な機材を運んでいるのも、研究の一環なのだ。……そうだよね? 冴野部長。
 そんな高尚な目的にも関わらず、残念ながら部員は実質僕らだけだ。部活動強制加入式の学校に自然とある、帰宅部のためのペーパークラブである。
 今はそんな幽霊部員の先輩たちのおかげで廃部を免れているが、来年からは方針転換して参加が自由になるそうで、そうしたら新参幽霊の供給は途絶える算段になる。
 ようは部活モノによくある廃部危機というやつ。
 そういうわけで来年度の新入生の勧誘に全力を捧げる……テンションには、癒衣はなりきれないらしい。
「難しいよね。人が増えたらグレーなことできなくなっちゃうからねー。あ、でも『みんなで怪しい乱数放送を聞いてスパイ気分になろう!』とかの企画についてこれるなら何人でも来てほしいかも」
 見渡す限り人陰なんてないのに、誰も聞いていないことを真剣に願った。
 それにしても。
「ねぇ、やっぱり自転車やめないか? 見つかったらとんでもないことに」
「そしたら望海が説明役になればいいよ。私はその隙に逃げるから」
「おい、そのために入部させたんじゃないだろうな」
「ひどー、私がそんなに悪女に見える? 部員の数合わせ、会計、先生や生徒会との庶務、買い出し、暇潰し、奢り、役目はいっぱいあるに決まってるじゃん」
「もっと悪いだろうが!」
 それに会計はお前が見境なく無駄遣いするせいだからな?
「でも奢らせるのは負けるせいじゃん? フェアではー?」
 うぐぐ……それは言い返せない。
 近場のゲーセンで負けた方が使った金額分の何か奢るのが、中学からのルールになっていた。代わりに負けた方は次に戦う筐体を提案できる。
 僕は適当にジュースやコンビニのホットスナック、癒衣は甘い物が好きなのでたいていアイスやらラテやらを頼む。
 ちなみに僕の勝率は体感で三割。安いからいいけど。
「ほら、そんなこと言ってる間にそろそろ着くよ。いやー、今日はどんな怪電波を拾うっかなー」
 これが爽やかな部活動から出てくる言葉か? というか前向いてください。事故るぞ。

 毎度ながら、大きく空が開ける頃には想像以上に地面を登っていて、驚く。ちょうど今のように、普段のイメージより何倍も下界が広く見えるからだ。
「とりあえずこのあたりで」
 目的地、公園到着の合図に癒衣は無意味に鈴を鳴らした。
「じゃ、設営開始っすねー」
 誰もいないのをいいことに、癒衣はいつでもド真ん中に陣取る。それだけでも図々しいが、レジャーシートやプラ製の折り畳み椅子をどんどん置いていくので、マナーの悪い花見やキャンプや音楽フェスの客みたいになっている。
 もちろん僕たちはピクニックに来たわけではない。UFOも呼ばない。
 空を満たす声に耳を澄ますだけ。
 ……荷台の機材を設営する。二人がかりでアンテナを設置していく。僕は知識がないので、癒衣の「ここをそっちに向けても意味ないの! それじゃ釣竿を空に向けてるのとおんなじだよ!」みたいな指示に従うだけだけど。
 工具箱、ワイヤー、買ったばかりのものは茶色の紙袋に入っていた。取り出して立たせたり巻いたり張り巡らせ――汗が出てきた頃、全貌が露になる。
 ……完成したのは、わが部の秘密兵器。その名も――
「プラネットテレックス!」
「……やっぱダサくない?」
 ペンチを鼻先に突きつけられ、黙る。
 しかし外見だけ見る限り、ダサいも何もない気がする。だって鳥の巣と物干し竿を超融合させたみたいなのだ。本当にアンテナなのか?
 それでも部長は最新技術だと主張し続けている。なんでもいいけど。聞こえるし。
 ――頷きで伝わる、準備完了。
 本体に繋がったチャチなラジオ風のボード、そのボリュームに癒衣は手をかける。
「好きな数字を」
「えっと……じゃあ、二」
 僕の答えに、癒衣はつまみを二度回した。ザザザ――というノイズが何度か途切れ、かすかに何か聞こえた……が、すぐに音の波間に消えてしまった。
「あっちの局っぽいけど、やっぱり無理かなぁ」
 癒衣は遠く山の上を指さす。向こうのことを言っているのだろう。
 あっち――〈敵〉の国。そう教えられている。
 そこにいる人々がなぜ〈敵〉なのか、僕は知らない。癒衣も知らない。クラスの誰も知らない。ずっと対立しているらしいけれど、僕が物心ついてからは一度も戦争は起きていないらしい。憶えていないのでらしい、としか言いようがない。
 最後の戦争で、僕の両親は死んだ。
 僕は親戚に預けられて奇跡的に助かったそうで、記憶もそこからだ。あまり熱心には関わらなかったとはいえ、今日に至るまでおじさんおばさんは人間的に扱ってくれた。そこに孤児への手当てが影響したのは分かっているけど。
 そう、同じ孤児の癒衣とはその時期に出会って、それから――
「どうしたの? また調子悪い?」
 慌てて「大丈夫大丈夫!」と打ち消す。ぼんやりして心配させてしまった。それにしてもなんで調子悪いんだろ。ストレスか、九月病か。どうにかしないと。
「変な電波感じた? 頭に銅線巻く?」
 こういうときも癒衣は平常運転で安心である。
 
 今日もいつもどおり、気の向くまま、耳を澄まして部活動に励む。
「なんの連絡なのかねぇ」
「UFOでも呼んでるんじゃない?」
「想像力の貧困」ノートに新しく変な文字列が刻まれていく。琴線に引っかかる放送のデータを記録しているらしい。「たとえばもっとハードボイルドに……そう、スパイへの指示とか。作戦実行の命令だったら近いうち何かが起きるかも!」
「何かって、たとえば」
「えーっと、国中で爆破予告ラッシュで、うちも休校……とか」
 僕より貧しいうえに休校はお前の願望じゃねぇか。
 というか、そもそもの話。
「本当に秘密の放送で読めないなら仕方ないし、普通の放送局も探してみたら……うぐっ」ばしっ、と空になった紙袋が頭に被さる。「ごふっ、ごめん、そんなごふっ、つもりじゃっ」「退部! 部長権限で追放!」
 袋を外すと、癒衣の顔が目の前にあった。どきりとする。
「何にも分かってないんだから。ロマンを解さない人間にスパイは務まらないんだよっ」
「なんでいつの間に諜報部になってるの?」
「情報部だけに」ちっとも上手くないよ!

 

 腐れ縁というのはどちらが追うでもなく交差するもので、同じ志望先なのはさもありなんと思ったが、お隣さんになるなんて、いくらなんでも思ってもみなかった。
 ……お互い孤児用の公団とは聞いたけど、引っ越し初日に知ったのだ。
 そういうわけで――
「はい、いつもの。今日は疲れたんで休むね。明日もよろっ」
 マジックペンでそう書かれた札付きの鍵を、今晩も癒衣から渡された。
 平日朝、必ず癒衣は僕よりすこしだけ早く家を出る。忘れ物があったら僕に取らせるためだ。
 その間癒衣は必ず駅でこちらを待っている。電車を見逃して。まったくの無駄にしか思えないのだが、頑として先に学校に着こうとはしない。
 ……ということで、いつからか女子の一人部屋の鍵を預かっているわけですが。
「悪用したらぶっ殺すから。寝こみでも私が強いし、望海の頭じゃお目当ての衣服も見つける前に日が暮れて、私帰ってくるよ。で死ぬ」
「なんもしねぇよ。毎日言ってるだろ……」
「しないんだ。……へぇ、しないんですか」
「なんでちょっと目を伏せるんだよ!」
「寝顔も見ないんだ。見ないんですか」
「それでいいだろ!」
 そして癒衣はものの見事に爆睡し、僕は作り置きの煮物を持って行き、鍋をデリバリーして戻った。必死に見ないようにしながら。
 ……だって癒衣はソファにもたれてるんだぞ。
 彼女は座ったまま仮眠を取るのだ。
 眼を閉じた女の子を眺めると、どうしてか居心地が悪くなる。整った顔を無防備に晒しているのに、起きているよりも遠く感じる。癒衣が特別なのかは分からないけど――
 ……見入っちゃダメだ。ぶったたかれる前に出て行く。
 部屋にはちっとも物がない、と戻りがけに見渡した。性別の偏見を抜いても、癒衣は信じがたいほどのミニマリストなのだ。

 

 諸々を済ませ、することのない夜が来た。スマホが黙っているので、癒衣は寝ているらしい。
 ……そこで、ふいに企みが顔をもたげた。
 次の勝負の前、ゲーセンで予習してしまうのだ。
 今度の筐体は向こうも未プレイだと言っていたし、公平なはずだ。そういえば禁止するルールもない。なんで思いつかなかったんだろう。
 街に出よう。まだ夜は浅い。お店は空いてるはず。
 ……見てろよ。今度こそ出し抜いてやるぞ。

 それが始まりだったことに、人は終わるまで気づかない。

 

 意気込みはあえなく潰えた。
 必死の操縦も空しく、安っぽい効果音とともに戦車が爆発炎上して『PLEASE INSERT COIN』のデモ映像に戻る。
 気がつけば手持ちは消えていて、急に恥ずかしくなった。
 血税がゲーセンに吸われていると知られたら、本物の戦場が待っているかもしれない……。
 ……僕が浅間さんたちと会った喫茶店からそう遠くないビルの地下、このゲーセンは、旧い筐体だらけで、それもミリタリー風のゲームが多い。まだ戦争を解像度低く遊んでいた時期のものだ。
 中学生でさえ護身に射撃を習う昨今、好き好んで遊びたい若者なんてこの国にどれだけいるだろう? ……こうして二人はいるんだけど。
 引っ越して癒衣とここを見つけたときは驚いた。地元で遊んだのと同じゲームがあったからだ。
 小中の僕たちは、ホームセンターや屋上遊園地を探して県のあちこちをさまよった。
 店内に置かれた筐体のためだけにサウナに遠征し、お年寄りと並んで一心不乱にキャンディーみたいなバーを弄っていた癒衣が、終いに人気者になってしまったのを思い出す。それぐらい娯楽のない時代、娯楽のない地方の町で育ったのだ。
 そういうわけで自然と〈勝負〉は引き継がれていった。
 戦車兵の適正を諦め、操縦席を降りようとして、スコアランキングが画面に映った。
 一位は癒衣の言っていた『ANNA K』。下には素人目にもとんでもないスコアが書かれていた。文字通り桁が違う。
 二位の名が『・・- ・・』と適当なのも頷ける。これがトップじゃ投げやりになるだろう。
 うん、今回の勝負は捨てよう。次だ次。
 そう覚悟して早々に有利な筐体を探してみたが、やがて恐ろしいことに気がつく。
 周囲のゲームのランキングはどれも『ANNA K』と『・・- ・・』のツートップで埋まっていた。
 どれも前者の圧勝で、読み方も分からない彼だか彼女の歯噛みが目に浮かぶようだ。
 意識して見たことがなかったとはいえ、前からこいつらっていたっけ? と首を捻っていると、賑やかなノイズに混じって何やら刺々しい人声がした。
 騒ぎは両替機の前で起きていた。中年の男性店員と客が言い争っている。相手は……なんと少女だった。
 それもパッと見て、中学生というところ。あるいは、来年進学する小六かもしれない。雰囲気だけなら、ランドセルを背負る想像ができる。……駄々をこね続けているせいで余計にそう見えるのかもしれないが。
 それにしても、あどけない顔に見合わぬ粘りようだった。必死に宥める店員がかわいそうになってくる。
「呼んでもらったのに直せなくてごめんねぇ。ちょうど釣り銭なくなっちゃったみたいで」
「でも、機械の中の百円玉がないだけなんでしょ? ならっ」
「お嬢ちゃん、そこらの機械の中開けて手で崩すわけにもいかないよ。大人にはいろいろ決まりもあってね。またこんど」
「でもっ、あとちょっとなのにっ」
「はいはい。悔しいのは分かるけどあんまり駄々こねてると親御さんに怒られちゃうよ。ほら、特別にこれ……」
 彼はそう言って『スタンプ一〇コで一コ‼』と札のついたカゴを持ってくる。
「一個ならなんでもいいよ。そうね、この飴の絵ってあのマスコットだよね? シール入ってるって! おじちゃん子供の流行りは分かんないけど、名前なんだったっけ――」
 ぱしん。
 渡そうとしたキャンディーの袋が弾かれて、僕の近くまで飛んだ。
「子供じゃない。十六。高校生」
 強い口調に、傍観者のこっちまで唖然とした。
 いやいやいや、いくらなんでも僕と同い年はありえない。僕より頭一つ半は低い身長を保留しても、顔つきも体格も完全に子供じゃないか。
 間違いなく嘘なのに、拳を握って潤んだ目で睨みつける少女についに黙り込む店員さん。そりゃそうだよな、他の店員を呼ぼうにも、外からは女児を泣かせているおじさんになるわけで……ああ、もう! 面倒くさい!
 飛んできた袋を拾って、二人に近づいた。
「ああ、すみません妹が騒いで。もう大丈夫です」
 ……え? と、両者がぽかんとこちらを向いた瞬間に「こちら、お返しするのも迷惑ですよね?」
 曖昧な頷きを確認すると、女の子の肩を叩く。「ほら、お礼言って」
「はぁ? なにっ、なんなの」
「ありがとうございました!」
 そのまま背を押して、強引にカウンターから離れた。

 助けた相手の第一声。
「なんなの」
 無性に腹が立って「きみの兄貴です、はじめまして」と言ってやったら店員さんと同じように睨まれた。「通りかかっただけ。で、揉めてたから」
「赤の他人を助けたつもり?」
「そうだけど」
「そんな助けいらない」
 女児でなければどつき倒しても許されそうだ。
「じゃあどんな助けがあればよかった?」「金」
 この歳で言う言葉か? 天涯孤独で知らないけれど。
「メダルがほしいってことかな」
「小銭がない。両替できるって書いてるからお札入れ続けたら100円玉出てこなくなった。なんで」
 そりゃそうだろ迷惑行為だぞと窘めかけて、奇妙なことに気づく。こんな子供が紙幣を? そっか、だから店員も不法な両替だと疑わなかったんだ……って、納得すべきはそこじゃない。
「入れ続けたって……そんなにお札を持ってるの?」
 答えは言葉ではなかった。
 ジャンパーの懐から取り出したのは財布――ではなく、茶色い封筒。中は四角い物体で膨らんでいる。何が入っているのか考える前に、彼女はそれを僕に放り投げた。慌てて取った瞬間、重さが僕の腕をついた。
 紙束は重いのだ。
 中には大量の一万円札が入っていた。
 
 震える手で取り出して、何度でも確かめる。素人目だとしても、偽札には見えない。
 叫びも逃げもしなかったのは、右腹にぶつかった硬い物体のせいだった。
「逃げたら撃つ」
「そんな、なにいって――」
「一つずつ答えて。高校生?」
「おい、ちょっと」
「高校生?」
 がしがしと、頬骨が叩かれる。
 答えなければまずい、命が危ない、頭のどこかがそう訴えかけていた。
 たかが子供じゃないか。訳が分からないけど、怖がる相手じゃない。だろ? 何か言ってくれよ。身体が震えるばっかりじゃないか。
 僕は頷いた。
「学校名は?」答える。「何年生?」「一年。入学で越してきた」横腹が突かれる。「質問以外に答えるな」唾を飲む。「この店にはどんな頻度で来る?」「そんなに。週に一回、多くて二回」「一人か複数か」咄嗟に癒衣を隠した。「一人。暇潰しかストレス発散だから、あ、ぐ」密着。「……分かったよ、次は?」「知っている限り、同じ高校の生徒は見かける?」「いや、顔を憶えてる限りは。客が少ない時間に来るし。最寄りの駅前だから、逆に誰かに見られたかもしれないけど。でも大勢で来るにはたぶん広くない、っ、しっ」密着。「ごめん! ごめんって」「……もういい。小銭」
 硬貨を取り出して、彼女の方に短く滑らせた。行け、という頷きと「口外しないのを薦める」という囁きと一緒に、物体は離された。
 フロアを駆け出したい衝動を押し殺して、丁寧に立ち上がったとき――ふいに裾が掴まれる。
 心臓ごと引っ張られたようで、鼓動がほどけたのかと感じたけれど、呑気な比喩は次まで取っておくべきだった。質問は終わっていなかったのだ。
「この人物を知っている?」
 取り出して見せられたのは、遠景から青年を写した写真だった。母校の制服を着ている。顔の輪郭がぼやけて判別できないが、見た瞬間に異常な寒気がした。本能的な直感だったかもしれない。
 これが誰か、こいつは、気づいていない。
「名前は、ヒノハラノゾミ」

 

 貴重品を持ったことのない僕にとって、彼女が置いていった〈謝礼〉は迷惑でしかなかった。誰が喜んで出所も知らない口止め料をもらえるっていうんだ?
 頭を捻り、隠すのも預けるのも危険なので、最終的に持ち歩くことにした。どうせ盗まれたり警察に見つかるなら家から発見されるよりほんのいくらか言い訳はできるかという、何の根拠もない思いつきだった。
 結果、一晩かけて学校用のブレザーと外出用のジャンパーの裏に隠しポケットを作る羽目になった。裁縫道具と何かで余った布を貸してくれた癒衣には感謝しかない。服を直したかったんだ、嘘は言ってない。
 ということで――学校でも肌身離さず運命を共にしていた。それでも盗まれたら盗んだ奴が責任を負えばいい。そう思うほど投げやりになっていた。
 とんでもない愚行だった。

 

「お前、なんなの?」
 伊東はつまらなさそうに、必死につまらなさそうに演じながら、僕を一瞥した。
 運動着姿の彼は、昼練だかでひと汗かいたのをアピールしたいのか首にタオルをかけていた。夏からろくにコートに入ってもいないのはクラスの隅でも聞こえてきたぞ。
『きて いつもの』
 いつもの――美化委員の仕事場、ゴミ捨て場。
 ゴミ捨て場がテニスコートと校舎の隙間にあるのも知っている。コート側からは死角で、決まった時刻以外は誰もゴミを置きに来ないのも知っている。
 およそ確実に、何かよくないことがあると思った。
 でも来た。逃げたってゴタゴタするんだし。それにもう察しはついてる。
「送ったの、お前か」
「それで怒るか? 怒る権利があると思うか考えてみろ」
「何も言ってない。どんなカップルだったかは分かったけど」
 ゴミ箱からこぼれた缶が蹴飛ばされて、貴重な資源を分別しよう、という看板に当たった。
「でも来てないんだね」
「当たり前だ、邪魔だし」
 僕たちはもう一歩で手が届く範囲にいる。
 身の危険を感じたが、だからどうしろと? 相手は幽霊部員でも運動経験者で、僕は四六時中体育を見学していた頭痛持ちの病人、フェアじゃない。
 しかし静かな抗議は届かず、あのな、と彼は敵意ある人間特有の馴れ馴れしさで喋り出した。
「別にクラスの陰キャカーストトップと付き合っても、こっちには関係ないんだよ。不自然だと思うけど、桐生は元から脳味噌がアニメか漫画みたいな頭おかしい奴だし、勝手にお前をおもちゃにすればいい。でもな、俺たちを巻きこむな」
 俺、たち。しっかり強調して繰り返す。複数形に拘りがあるようだった。
「篠に関してはもう言ってある。でも別れるつもりはない。そういうバカなのを知っても、なんだかんだ、まだ好きだからな」
「それはよかった」
 二つ目の缶が飛んで、今度は僕をかすめた。いいコントロールだと思ったがさっさと切り上げたかったので僕は本題に入った。
「じゃあ問題はなくない? 浅間さん本人が収まったなら、再び僕とそっちも関係なくなる。それでいいと思うけど」
「そうだ。理屈としてはそうだ。でも、お前の方にも言っておかなきゃいけないからな」
「何を」
「篠に近寄るな。二度と会うな。個人的な用事を喋るな」
 なぁ桐生、やっぱり勝算はなかったよ。朝の教室で気づくべきだったんだ。

 

 うだつの上がらぬ幼馴染がクラスの中心とくっついた朝、癒衣の第一声はこうだった。
「えー! 望海やるじゃん。いや、案外そういう奴だったか、うんうん」
 ああ、癒衣はそういう奴だった。平常運転だ。
 何がかは分からないが、癒衣は疑わなかったらしい。さすがに何も知らせていない罪悪感がなくはないが、これで、もう騒ぎに彼女は関わらないだろう。
 彼女は世界に愛されている。彼女は世界に守られている。
 癒衣への罪悪感が慣れたものなら、浅間さんへの方がよっぽど生々しく嫌な感じだった。だって、さっきから気づいていたから。
「あ、そうなんだ……意外だね」
 笑っている浅間さんがバランスを取ろうと左手で机を掴んだとき、人差し指に痕があった。親指の爪をずっと押しつけていたのだろう。周りが赤くなっていたから、皺と区別がついた。
 でも、直線斜めに隔たった僕からしか見えないから誰も気づいていない。……見間違いじゃない、二人で喋ったあのときもそうだったから。無意識の、彼女の癖。
「それもそうなんだけど」誰も気づいていない。知らないのかもしれないし、わざわざ他人の手なんて見ないかもしれない。「檜原くんは……癒衣ちゃんと仲いいと思ってたから」
 確かになぁ、てっきりデキてんかと思ったよ、いや幼馴染ってそういうんじゃ……と一団はバラバラに喋り出す。なるほど、ネタにできて本音が言えるようになったのか。
「癒衣ちゃんはどうなの? やっぱり友達ってしか見れない感じ?」
 そう笑いかけられて、どきりとしてしまう。こいつの笑顔はいつも不思議だ。
「何わろてんの」「酸いも甘いも知ってるじゃん」「熟年の元夫婦かよー」「シュレーディンガーの元カノ」「こりゃ桐生でも難敵だな」「ああもう、ここは場末か!」
 鶴の一声で場は落ち着いた。冗談半分の声音でも、全員さすがは囲い慣れしてるだけある。
「友達つったら私だって同じだし、戦わねぇよ。……ちゃんと言ったろ?」
 桐生が目くばせする。浅間さんへの奇襲と反対に、某SNSで先に癒衣に伝えていたのだ。……そして、それ以上巻きこむなというのが僕からの要望で、それだけは譲らなかった。
 彼女は世界に愛されているから。彼女は世界に守られているから。
 見返りに、桐生も譲らなかった一点がある。文面は共有しても、最後は彼女が直接癒衣に言うことだ。力説されたところでは、僕ではなく、桐生からなのが大事らしい。
「うん。最初はドッキリかと思ったけど。ま、私は永世中立。でも初陣から難易度高いぞ望海」
 癒衣が肩を叩く。一同歓声。
「ほんとにドッキリじゃねーの」「脅迫されても断るって集会でも言ってたぞ」「それスパイの話じゃん」「いじめじゃないといいがなぁ」「ウチが保証する。こんな気まぐれな女に陰湿なこと無理」「それ褒めてんの? 貶してんの?」桐生が女子に突っ込む。どうやら彼女は手練れらしい。ちゃんと距離感を分かってるみたいで、僕に順番を回す。
「……こういう女だけど、檜原くんほんとに大丈夫?」
 適当に言おうとして――浅間さんが目に入る。指の赤みはなおも増して、血が出そうなほどに深い爪の痕が刻まれていた。笑って喋りながら、ずっと力を入れていたのだろう。
 彼女が悪いのかもしれない。荒業でも、桐生が正しいのかもしれない。
 それでも嫌な感じだった。
「おい黙るな! そこは嘘でもフォローしろや!」
 だから桐生のフォローで場が湧いても、遠くの星の瞬きにしか見えなかった。

 

 そうして、僕は校舎裏で詰められる高校生という誉れを得たわけだ。
「もちろん俺が怒る権利はあるとして、にしてもなんでこんなにムカつくのかと思ったらさ、そもそもお前が気に入らないんだよな」
 はぁそうですかとしか思えないが、伊東は心理学者のコメンテーターみたいに喧伝し始めた。
「なんっつうか、ぼんやりしてるんだよな。正直あんま目に入ってなかったけど……思い出してみたら、委員決めでも授業のグループでも、みんな嫌がる役になってるよな? でもお前のは親切じゃないんだわ。誰の言いなりでもいいってナメてて――いや、違うな」
 思い出せるほど記憶に残ってたんだ、と皮肉を言ってみたかったが、次の一言は面白かった。
「言いなりでなきゃダメなんだよ」
 ビンゴ。おっしゃる通りです。
「難しく言うと……キョーハク観念っつうの? 尻ぬぐいするのが呼吸みたいなもんで、ちょっとでもズルしたら死ぬって。分かるよ、なんもイキってないんだよな。ヒノハラくんに悪気はないんだよな。……悪気がないからうぜぇんだよ」
 分かるぜ、僕だって僕はうぜぇよ。
 それでどうすりゃいいか分かんないぐらい分かってるよ。
「怒れよ。逆ギレでもなんでもいいから。できないんなら陰キャらしくキョドれよ。なんでイキってねぇんだよ。BOTみたいに喋んな」
 伊東が近寄ってくる。据え兼ねたのか、ボディランゲージに切り替えるつもりらしい。
「言ってみろよ、『お前は浅間さんに見合わない』とかさ。『篠は僕が守らなきゃ』とかさ、勘違いでもしてみろよ。なぁ!」
 予想通り、伊東は馴れ馴れしく肩を叩いた。
 ブレザーの隙間から羽根のように薄い何かが落ちて、低空を舞い、落ちた。
 少女から渡された紙切れの、幾枚かだった。
「はぁ? なんだこれ」
 頭が真っ白になる。
 きっと縫いつけたポケットの固定が不十分だったのだと、頭で考えることはできる。悔やむことはできる。でもどうして今なんだよ。できすぎてるじゃないか。
 ……もちろん伊東も豆鉄砲を食らった顔をしたが、質の悪いことに反応は早かった。
「あー、はいはい。なるほど。そういう関係だったのか。これで納得した」
「ちょっと待て、何の話だよ」
「とぼけるのか? 篠と会うつもりだったなら、なんでこんなの持ってるんだ?」
 ああ……そういうことか。
 浅間さんと会う前提で、大金を持ってくる理由――それが嫉妬心と結びついたわけだ。
 渡したかったのはペンなのに。
「お前からなわけないし、あいつに誘われるがままってとこか。それよりこんな額どうやってこさえたんだ? バイトやめたばっかの俺に教えてくれ。……まさか、働いてる奴より金貰ってる親なしもいるって話、マジだったり? 篠に聞いてみるわ」
 明らかに怒気のギアが上がっている。不貞よりずっとイメージは導火線だったのだろう。
 早口、断定口調、こうなった相手に何を言っても無意味なことをよく知っているので、こちらは反比例するように憂鬱になる。
 そのうえ困ったことに、僕が浅間さんとそういう関係だった方が現実らしいんだよな。
 いやいや誤解です、これはスパイの女子児童に脅迫されて渡された口止め料なんです、なんて方がよっぽど今の伊東より狂っているわけで。
 何もかも見事に最悪へと向かっていく。
「なぁ、もっと近くで話し合わないか?」にじり寄る。「……五限って体育館? じゃあサボれてよかったじゃん。あ、いっつも見学だから一緒か。にしてはずいぶん元気みたいだな」
 こうなったのも全部あの女のせいだ。あいつがこんなもの押しつけてこなかったら、この馬鹿に妙な誤解もされなかったから
 僕は受け取ってなんかない。これはあいつのものだ。
 だから――突き返してやらなきゃいけない。
「それ、返してほしい」
 じゃないと、足し引きが合わないんだ。
「……はぁ? 何言っ」「悪いけど、それは僕のじゃないんだよ」
 そのことに気づいたら、自然と足が動いていた。
「それに勘違いしてるけど、浅間さんのでもないんだ」
 自然と、自動的に、手を伸ばしていた。
「だから、返せ」
 
 そして現在、空き缶の海に溺れている。
 伊東が逃げ去って間もなく、チャイムが降ってきた。たぶん遅刻させてしまった。僕は言うまでもなくバックれだ。見学仲間の癒衣には悪いけど仕方ない。
 横たわったまま顔を拭うと、綺麗に指が赤く濡れた。
 血ってこの傷でこんなに出るんだ。人体って不思議だ。あと痛い。痛いのは慣れてるけど頭痛と外傷の痛みは違った。当たり前だけど。
 でも、乾いている方の手には、ちゃんと戦果が握られていた。
 取り返せてよかった。
 もみ合いの末、突き飛ばされた拍子に転んで頭を打ち、金網に突っ込んで額の上を切り、傍らのゴミ箱がひっくり返り、学生たちが楽しく飲み捨てていった缶の群れが雪崩れを打って落ちてきたことも、ついでに気にしないでいよう。
 怒るべきことはもっとある。
 美化委員として抗議したい。
 誰が缶を元に戻すと思ってるんだ?

 

 保健室は一階で、授業中とはいえ、誰にも見つからなかったのは奇跡に違いない。
 ソファーで午睡中の保険医は、僕の「転びました」の一点張りに頭を抱えた。
「……まぁ、私は保健医だから、説教する義理もなかったわね」
 またたく間に消毒が済み、テープや綿、湿布で顔が手際よく埋まる。とっても丁寧だ。なんだかんだ仕事人なんだな。さらに包帯、眼帯が出現し……あれ?
「ありがたいんですけど、これ……ちょっと大げさじゃないですか」
「私の職業倫理では許せないの」
 そうなのか。素人が口を出して失礼だった。
「檜原くんはどうでもいいけど、檜原くんの顔は命に代えても守る」そういうことかよ!「それに似合ってるわ。ジャージ姿だし、完全に薄幸美少女ね。毎日怪我しててもいいぐらい」
 撮影を断固拒否し、放課後までしばらく静養すると学校を出た。疲れ切っていたのだ。

 

 病院に行けと何度も念押しされたけれど、結局ゲーセンに来てしまった。
 癒衣からは『サボり魔! 遅い! 先に部活やってる!』と連絡があったが、体調不良で午後休したのと美化委員で急な仕事ができたと返した。
 それからアパートに向かい、僕のひとつ隣の建物角、癒衣の部屋の窓が暗いのを確認して、戻って私服に着替えた。
 念には念を入れて無意味に警戒したが、この階は三部屋で、僕の反対隣は万年『引越予定』の紙がドアに貼られたままの空室で、誰にも見とがめられなかった。
 ……不自然な大怪我を抜きにしても、癒衣はクラスで桐生たちと交流があるから、伊東とのことはじきにバレるだろう。でも今日だけは許してくれ。
 いまのところ、解決したい懸案は二つ。浅間さんのボールペンはしばらく不可能なので、不本意にも危険な方を選ぶしかなかった。
 関わらないべきなのは分かってる。好奇心もない。怖い。だけど僕が持っててはいけない。文句と一緒に突き返さなきゃいけないんだ。
 じゃないと足し引きが合わないから。

 当然のこと、残念ながらベンチは空だった。
 そうに決まってるのに、何してるんだか。それにしても、肉体の傷より周囲の目が痛いとは思ってなかったぞ。……完全におかしくなってる。帰ろう。何も考えないで寝よう。
 決心してベンチに腰を下ろし――なんだこれ?
 椅子の隙間に紙切れが挟まっていた。なんとなく取り出して、開く。
 それが運命を分けるなんて思ってなかったんだ。
 硬い字体で、ボールペンの黒い痕が走っている。
『逃げろ 今すぐ 外に』
 ……なんだ? 悪戯? 置き手紙?
 疑う猶予なんてなかった。
 店の電源が落ち、周囲が真っ暗になった。
 客の悲鳴より前に頭に入ってきたのは、僕の胸に浮かんだ、赤いレーザーポイントだった。

 裏口のドアに行き当たった奇跡は、段差にすっ転んで吹き飛んだ。
 転んだ拍子にどこかを打ち、瞼の下を切ったようだ。眼を押さえると赤い染みが指についた。眼帯がなければもっと酷かったかもしれない。思わず先生に感謝した。
 とはいえ片目で走るなんて追われてなくとも自殺行為だ。投げ捨てて立ち上がる。ここは裏道だ。きっと帰れる。そうすれば、そうすれば――
 ぴしゃり。
 恐ろしいとき、こんなに耳が聞こえるようになるなんて。
 水音。足音。目の前の曲がり角、すぐ傍から。
 たちまち広がる。反対も。後ろも。振り向いて、誰もいないのに。
 幻聴のはずなんだ。
 ――なぁ、そうなら、どうしてお前は駆け出したんだ?
 脚を動かすうち、本能的に大通りに出ようとしていた。衆目の前ならきっと相手も躊躇うはずなんて小賢しい自己弁護で、赤の他人を巻きこんでも助かりたい、人間より前、被食生物の惨めなあがき。
 でもどれだけ走っても、裏道から抜けられない。真っ暗で、地図も標識もなく、ここがどこかも分からない。元来た道を思い出す余裕もない。動くほどに迷っていく。
 立ち止まって息をつくと、外気のひりっとした感触で気づいた。
 ぶつけた拍子に引っかかったのか、包帯がほどけてするすると頭から落ちて、なびいているのだ。……ということは、走っているあいだずっと尾を引いていたことになる。こんなの、狙ってくださいと言わんばかりじゃないか。何してるんだ先生。
 苛立ちに任せて引きちぎり、通り過ぎる横道のひとつに投げ捨てた。ついでに頬の湿布もテープごとはがす。
 また疼く傷も、喘ぐ息も、張り裂けそうな鼓動も、すべてが僕を呪い、嘲りを吐く。追い払おうと立ち止まれば、また、ぱしゃりと水が打たれる。
 最後には、足音から遠ざかろうと、まっすぐ足を引きずるだけになっていた。
 
 僕の終着点は空き地だった。
 テープの閉鎖を越えて入ると、遠くでクラクションが聞こえた。たぶん、いつのまにか市街地を出てしまったのだろう。
 ここは閉鎖された何かの置場のようだ。
 僕が入った場所はたぶん作業員の出入り口で、四角く囲ったフェンスの隅には自動車用の入口があった。僕の三倍はある背丈のタイヤの山で塞がれていて、車道に出ることはできない。
 足を踏み入れてすぐ、背後から銃声がした。
 狩りだ。
 最初からここに追い込むつもりだったから、姿を見せなかったんだ。
 行き止まりだと知っているのに、僕は駆け出していた。
 見つかるに決まっているのに、隠れる場所をむなしく探す。でも、ほとんどの資材はとうに引き払われていた。戦争のせいだ。全部戦争のせいだ。
 唯一、仮設の二階建てのプレハブが残っていた。解体する手間を惜しんで放置したのか、方々が腐食していたが、かろうじて原形は残っている。
 迷いながら傾いたドアに触れると、倒れて入れるようになった。
 一階には机も椅子もない。見つかるのは床のコード類、割れた窓、砕けた蛍光灯、貼られた紙を破った壁の跡。
 向かいのドアは裏手に繋がり、仮設階段が二階に架かっていた。手すりのパイプは錆び、足下も何段か欠けているが、歯抜けはなんとか股の幅に収まるだろう。
 気力を絞り出し、金属の骨々を軋ませながら、半ば這うように登った。
 二階に入ると少女がいた。
「ヒノハラノゾミ、見つけた」
 その右手は、僕に銃口を向けていた。
「すぐ忘れるから、憶えなくていい。仮に――」

 

「……アンナと呼んで」
 転校生。フィクションに溢れ、現実ではちっとも見かけない、幻の存在。それも女子。
 なのに、クラスが湧きたつ中でひとり僕だけ居心地が悪かったのは、自己紹介の態度が最悪だったことではなく、僕に銃口を向けた女だったから。
「名字は知らなくていい。用が終わったら消えるから、忘れて」
 ……なんで。ほんとになんで、こんなことに。
 目を覆って、出会いの瞬間まで時間を遡ってみる。

 死ぬんだなと本気で思った。
 人生で初めて銃を向けられたにしては陳腐な感想だけれど、あまりに不意打ちだったのか、思ったほどパニックにはならなかった。
 なぜだろう、すっと力が抜けたのを憶えている。
 ああ、もういいんだ。
 僕が殺される理由なんてさっぱり分からないのに、妙な納得があった。
 それはたとえば、知らないところで誰かが何か計算していて、僕が死んで代入されて式が完成する。そんなイメージ。そして回答にマルがつけられる。
 それでいいのかもしれないと思ってしまった。
「逃げないから……早くやってくれ」
 だからそう言い残して、両手で目を覆う。あとは走馬灯を待つだけで――
「何してるの?」
 降ってきたのは銃弾ではなく、困惑の声だった。 
「なんか、勘違いしてるんじゃないの」
 恐る恐る手を下ろすと、もう銃口は僕から下ろされていた。
「……撃たないのか?」
「殺すなんて誰も言ってない」コールドスリープから目覚めた主人公を見る未来人みたいな表情をされた。「銃は警戒して向けただけ」
「嘘だ。さっきのも、僕を殺すために……」
「私が?」溜息。「あれを仕掛けたのは、あなたを狙ってる連中。こっちのすることじゃない」
「狙うって、誰が」
「そんなのまだ分かんないに決まって――そこ、離れて」
 叫びと共に、彼女が僕を蹴飛ばした。ごろごろと転がって、治りかけた傷口が絶叫する。
「ふざけんな! 何が殺さないだよ!」
「焼かれる」
「なに?」
「火炎瓶」
 ――何かが割れる、いや、叩きつけられて砕ける音。入口横の窓の向こうで光が炸裂した。熱風。煙。何かの焦げた匂い。そこまで、すべてが一瞬。
 凶器は建物を逸れて、フェンスに着弾したのだ。
「あのフォーム、外すと思った」
「なぁ、待ってくれよ。なんでそんなことっ」
「バカがダラダラ火を弄ってるから位置をバラしてるの」ブラインドの端を覗いて、ぼそぼそと呟く。「投げる前がいちばん危ないのに。あれじゃ自分が燃える」
「そうじゃないだろ! お前が誰で、何が――」
「毒矢が刺さったら、犯人を捜すか矢を抜くか、どっちがいいと思う?」
 もっともな意見が返ってきた。
「次プレハブに直撃して、全身火達磨になって焼き殺されてから考える? 接近から点火時間を仮定したら、たぶんあと三十秒だけど」
 僕は黙った。きっと惨めな阿呆面をしていただろう。
「もういい」そう言われるなり、片手で首根っこを掴まれ、軽々と服ごと持ち上げられ、肩に担がれた。そのまま階段に連れ出される。踊り場の外気が肌に触れた。
 手すりの強度を確かめ、足をかけ、最後に一言。
「暴れたら、手、放すから」
 そこで僕は気を失った。
 
 意識が戻ると、硬い地面に寝転がっていた。といっても、ここはコンクリート剥き出しの牢屋なんかじゃなく、フローリングの敷かれた一室だった。
 室内は明るいけれど、分厚い遮光カーテンで窓の外は見えない。横を向いた目の前には、厳重に梱包された箱が一つだけ見える。
 それにしてもどうして頭だけ何かの段差に乗っているのだろう。ここだけ柔らかいし――訝しんで首を天井に向けると、僕を覗き込む顔がそこに。
 ――アンナと名乗った、あの少女。
「やっと起きた」
「うおぁっ!」
 驚いた拍子に転げ落ちて頭を打った。激痛で眼は覚めたが、また傷が開いて――あれ? なんで手当てしてあるんだ? 逃げるときに全部外したはずなのに。
「暴れたらもっと痛くなる」
 立ち上がって近寄られる。慌てて身体を起こすと、そのまま壁際まで詰め寄られてしまった。
「何怖がってるんだか」アンナは目を細める。「ここは尋問室じゃなくセーフハウス――取り調べじゃないから、痛めつけるつもりもない。状況を整理したいだけ。言ったでしょ? 敵じゃないって」
 そう繰り返されても銃を向けられたショックは消えないが、撃たれなかったのは事実だ。
「……分かったよ」
 なるようになれ、と言い聞かせた。得意だろ?
「じゃあ、なんでもいいから話してくれ、口は挟まないから」
 アンナは急に態度が変わったのに怪訝な顔をしたが「ならいいわ」と短く応じた。「檜原望海、私が誰かは、〈刑事〉といえば分かるでしょ?」
「刑事って……君が?」
「何かおかしい? ……まさか、子供だと?」
「違う。そりゃそうだけどっ」「やっぱり!」「あっ、それは言葉の綾で、ちょ、やめろ!」
 懐から拳銃が取り出された。失言だった。やっぱりぜんぜん信頼できない。
「反省した?」「したよ……。先入観があったんだ。戦争で世の中めちゃくちゃだし、年齢関係なく刑事になれるのかも」「そんなわけないでしょ! そっちじゃないっ」銃口で顔をつつくな。死ぬほどビビってるんだぞ。
 もちろん子供に見えたのだが、引っかかったのには他の理由がある。言い方が悪かったが、変な言い回しが気になったのだ。
「……どうしてそんな顔するの? この場面この文脈で〈刑事〉といえば、伝わるでしょう。いい?」説明が再開される。「まず、我々は今のところ、平和的に解決するつもりなの。だからこの場で拘束したりしない。ここで行うのは取引」
「待って、何の話?」
「鼓膜に穴でも空いてるの?」と、り、ひ、き、とアンナは強調した。「最低の保証として、そっちが握っているモノの中身や出どころは供述しなくていい。ただ、それをこちらに共有してもらえれば協力とみなす。罪にも問わない。もしもっと情報提供をしてくれれば、相応のオプションを――」「意味分かんないよ!」
 思わず遮っていた。
「供述って? 罪って? 何もしてないぞ! だいたい、教えるって何をだよっ」
「とぼけないで。抱えている機密情報のこと」
 ……数秒後、僕の反応で、ついにアンナの側も異変を嗅ぎ取ったようだ。
「まさか……本当に何も知らないってこと?」

 

 冤罪だ、人違いだ、とさんざん主張して、なんとか誤解の一角は取れたが、それはなおさら状況をややこしくした。
「言ってるだろ。なんで狙われたのかさっぱり分からないって。ついでにそっちが僕に目をつけてるのも。普通に生活してるだけの男子高校生なのに」
「ごちゃごちゃ抜かさないで」だから軽々しく火器を振り回さないでくれよ。「大事な任務なのに、なんでこんな誤報を――やっぱり、機密漏洩での左遷が目的? にしても、よりによって一般人を巻き込んで――なら、口封じしか」
 再び銃口が突きつけられる。「撃つ」
「待って待って! 分かった、文句は言わないからちゃんと話してほしい」手で制してアンナを引き戻す。「その……確かに僕は高校生だけどさ、乗りかかった船みたいだし……その」慌てて、つい奇妙なことを言った。「どうせ口封じするなら、全部教えてからやってほしい。それなら一緒だろ」
「……そんなこと知って、そっちに何の利益があるの」
 アンナは警戒を露わにした。でも、半分は時間稼ぎだったが、本心でもある。
「深い理由はないけど……もうちょっと答えに納得して死んだ方が、整理がつくというか。それに、困ってるなら。えーと……手伝えるかも」
「何を?」
「なんだろう……死んだ僕の……処分、とか」
「……怪我で頭おかしくなったの」
 文字通りの決死の冗談は見事に失敗したが、話は不思議な方向に転がった。
「でも、助けてもらったから。釣り合うぐらいのことはしたいよ。だから……」
 ちらりと顔を伺うと、アンナは銃を下ろした。俯いて、悔し気な顔。何もしていなければ、ほんとに外見相応の女の子だ。
「……〈刑事〉っていうのは私たちのこと。でもやってるのは市井の犯罪捜査じゃない。蔑称が定着して、隠語になっただけ。本当の仕事を簡単にいえば――諜報活動」
「それって……スパイ?」
 いつか見たニュース。
『〈敵〉機関のスパイによる――』
 遠い世界のこと。そう思っていた。
「知らないけど、俗語で呼びたいならそうなるかも。……でも、〈刑事〉って名前は全部が間違いじゃない。軍人だけど、出向の形で、所属では警察の人間ということにしてある」
「……偽装」
「そう」アンナは首肯した。「でもやってることは、世界情勢の情報収集、機密の保護と傍受、反政府グループやテロリストの監視、内通者の獲得工作、そして――〈敵〉の諜報員の排除」
 〈敵〉。その一文字がどんな意味か、誰でも知っている。
「じゃあ……アンナもそういうことをやっているの」
「たぶん。でも同業者とは全然関わらないから、詳しいことは分からない」
 曰く、この国にはスパイ活動をする複数の公的・軍事的な機関があるが、ほとんど連携も情報共有もしていないという。稀に一時的な協定を結ぶことはあっても、認識としては敵対組織に近い。そんなんでいいのかと素人は思うが、これによってパワーバランスが維持され、特定の情報機関に特権を握らせない、クーデターの抑止に繋がる――とか。
「私は命令と、遂行に必要な情報や装備を渡されるだけ。今回もそうだった。だから私も、檜原望海が何者で、どんな情報を握り、なぜ狙われているのかまだ知らなかった。ただ、重要な機密に関わっているため、接触し、情報収集し、場合に応じて適切に対処しろ――と」
 ……壮大すぎて、頭で理解しても実感が湧かない。
 ギリギリ呑み込めたのは、アンナがすべてを教えてくれるわけではないことと、『適切な対処』次第だということ、それぐらいだ。
「……今の時点で、僕にどう対処するつもりか、訊いていい?」
「警護しつつ、捜査をすることにする」迷わずにアンナは言った。きっと喋っている間に考えていたのだろう。本職の頭の回転なのか、それとも僕が鈍いのか。
「前者は言うまでもなく、今回のような襲撃を避けるため。後者では少しでも手掛かりを増やし、この事件の解決を図る。そのためには、最大限協力してもらう必要がある……から」
 急にアンナは語気を弱めた。なんだか意外だった。
「……ひどいことして、その……ごめん」
「いいよ。助けてもらったし」率直にそう思った。「だからなんでも言ってくれ。釣り合うぐらいのことはしてやる」
 不承不承、頷きが戻ってきた。
「アンナ、って呼んでいい? そっちも気軽に」
「……望海。よろしく」
 納得したかは分からないが、とにかくこれでいいだろう。よくないなりに、いいだろう。

「じゃあ、今後の方針を――」
 アンナがどこかからメモ帳を取り出したので、いよいよ本題に入るつもりか――と思いきや、手が止まった。
「どうしたの?」
「……ペン、壊した。重い物体を背負って着地したから」
 ほんとに飛び降りたんだとか重い物体呼ばわりかよとか言いたくなったが、そういえば――僕もペンは持っていたっけ。こっちは壊れていないはずだ。
 浅間さんも、これぐらいは許してくれるだろう。
「これ、使う?」
 ポケットから取り出して渡す。……受け取って、急にアンナの表情が変わった。
 筒をつまんで回し始める。はぁ? 分解するつもりか?
「待て、中身開けちゃダメだ。それは借り物で――」
 止める間もなく、中身が現れる。
 息を呑んだ。
 詰まっていたのは、先端に小さく黒い塊のついたコードと、繋がった小さな電子機器。
 アンナはそれを発見すると、静かに、丁寧に、塊を指で覆った。
「……なんだ、これ」
「盗聴器。それと、位置情報の発信機能もある」

 盗聴器、発信機――浅間さんが?
 何のために?
 もしアンナがいない状態で見つけたら、我を忘れてパニックになっていただろう。
「これを、同級生が持っていたと?」
 必死に頷く。「ただの忘れ物で、返そうと思って持っていて、でも、それだけでっ」
「落ち着いて。……いつ、どこでこれを回収したの?」
 もう隠し通せない、と思った。
 意を決して、今日までのことを話した。交際トラブルも、怪我の原因も。
 返ってきた言葉は、僕の予想を超えていた。
「……二人きりのときに置いていったってことは、明確にあなたを盗聴の対象にしていた可能性がある」
「誰が?」
「分かるでしょ。その浅間って人」
 ……彼女が、僕を狙った? 嘘だ、そんなはずない。
「話聞いてたか? 浅間さんはクラスメイトって言っただろ。あるわけない」
「でも、現にその人が持っていたんでしょ?」
「……それは、もともと浅間さんのじゃなくて、僕が彼女のだって勘違いしただけかもしれない。いくら学校でも、普段から他人が使ってるペンなんて見ないだろ? だから、えっと……きっと、あの席を盗聴したい奴がいるんだよ」
「でも、所有者を誤解するほど目立っていたのは事実。そこまで人目に付く場所に、なぜ第三者の盗聴器があるの? 店員が発見したら回収も難しくなる」
「……じゃあ、僕とおんなじで、浅間さんも、どこかで拾ったのを筆箱に保管してたなら」
「そうだとしたら、保管品をこんなにあっさり人前で落とすと思う? 今みたいに、やむを得ない場合に説明して取り出すでもなく。誰かの持ち物を保管するわりに、親切なわりに、そこまで不注意で無神経な、不思議な人なの?」
「……それは」
「もちろん善意だったかは断定できない。誰かから盗む人間もきっといる」一般論で、とアンナが付け足す。「でも、善悪どちらでもおざなりな扱いかたには違いない。それなら、何かの目的で故意に行われたと考えるほうが自然」
 必死な反論は、次々と潰されていく。
 浅間さんを必死に弁護するほど縁が深かったわけじゃない。身の回りの人間が関わっていてほしくなかった。それが『釣り合い』であってほしかった。
 でも、アンナは容赦しない。手慣れた動きで機械の中身を確かめていく。
「このペンには小さな記録媒体がついてるけど、中にはしょぼい発信機もある。これで普段行動するルートを特定して、襲った。こっちは盗聴器よりちゃんとしてる。たぶん別の人間が取り付けたんだと思う。……四六時中ONにしているとバッテリーが切れるから、盗聴器の動作を感知してスイッチが入るようになっている。きっと、だから、音声をリアルタイムで外部に送るするタイプじゃない。これに保存しているの」
 アンナが指をさした先の基盤には、記録媒体が刺さっている。
「回収しないといけないってことか」
 頷き。「要約すると……最大の証明は、望海が間違いなく、確実に、忘れたり紛失することなく、遠からずその人にペンを返したであろうこと。回収するのにこの上なく困らない、おめでたい人間だということ」
「……出会って一日もしないお前に言われたくないんだが」
「でもそうしたでしょ」
 言い返せなかった。
「不快に思ったかもしれないけど、今までの話は推測。浅間さんがあなたの命に関わる悪事に手を染めているとは言っていない。何も知らないまま利用されたのかもしれない。きな臭い今日日、こんなチャチな盗聴器とGPSなんて調べれば素人でも使える。個人的な目的の出来心かもしれない。強要されたのかもしれない」
 どちらも、頭に浮かぶ。
 浅間さんは悪人だと思わないが、僕に浮気しようとした面は否定できない。
 伊東は付き合っている相手に偽のメッセージを送らせる、束縛の強い男だ。
「ほら、点と点を見つけた」
 こんな短時間で、僕がバランスを保とうと躍起だった世界は、ひっくり返ってしまった。
「位置が分かるなら、きっとこれを利用して望海を襲ったんだと思う」
 僕を襲う。言葉で、あの狩りがフラッシュバックする。……そんな動揺を察したのか、アンナは僕を窘めた。
「怯えすぎなくていい。もしこの二点が繋がっているなら、相手のグループはほとんど素人」
「……素人? あんなに追いかけてきて?」
 思い出して、と鋭くこちらを一瞥する。「この音源を、回収する必要があった。まだそいつらは聞いていない」
 あ、確かにそうだ。
「だから、完璧に計画が行われていたのなら、その前に襲撃する意味がない。私は……誰かが先走ったって線を疑っている」
 ……なるほど。だとしたら、そいつらは一枚岩じゃないかもしれない。
「ま、最悪の中にある気休めってとこ」
 そんな表現じゃむしろ不安になりそうだが……確かに、彼女は手慣れている。
 信頼できる、と思う。思いたい。
「というわけで、このオモチャは押収したとして、重要なのは浅間さんになる。アプローチをかけるべき。それも、二人きりで」
 ……順当に行けばそうなるよな。
「望海、演技はできる?」
「できないけど、やれって言うんだろ」頷くな。
「大丈夫、私がなんとかする。ただ……呼び出す上で、可能な限り第三者に感づかれないようにしないと。特に、伊東とかいう男には何も知られたくない」
 それ、とんでもない難題じゃないだろうか。
「どうしたらいいかな。連絡手段はあるけど、メッセージを送ってもこんな状態で会ってくれるか分からないし」
 今日休んでいたことがすべてを証明している気がする。
「その上、伊東に筒抜けになるかも……っ、う」
 陰気な話のせいか、頭痛がしてきた。
 それも、結構酷い。頭を抱えたせいで、アンナにも気づかれてしまう。
 しかも勘違いがついてきた。
「やっぱりもう一回傷を見てみる。細かい処置はあんまり得意じゃないけど」
「なっ……なんでも、ない。それにそっちの痛みじゃなく――」
「いいから」
 薬を、と言いかけたが、アンナは深刻な表情のまま頭に手を伸ばした。
「痛みじゃなくて、何?」
「いや……大丈夫」
「大丈夫なわけない。こんなにめちゃくちゃな怪我をする喧嘩、想像できない」
「まぁ、悪条件で。そういえば、ひょっとして、こんな顔だったからゲーセンで僕に気づかなかったの?」
「私が無能だって言いたいの?」
 再び拳銃が登場。「誤解だ!」「ガキだから無能に見えるって?」「小さいのがダメだとは一言も言ってないだろ!」「ダメじゃないの? ロリコンってこと!?」「ちげぇよ! てか子供って自覚あるじゃん!」「撃つ! やっぱり撃つ!」ああもう!
『すみませーん!』
 およそスパイとは思えない押し問答は、玄関先のくぐもった叫び声で収まった。

 

「襲撃!?」
 発作的にアンナが立ち上がったはいいが、僕はバランスを崩して転び、またしても床に頭を打つた。「ったああああ!! あああ!」「ごっ、ごめ」
 アンナは慌ててかがみ僕に肩を貸したが、謎の人物は演説みたいに喋り始めた。
『あのっ、隣部屋の冴野なんですがっ! いらっしゃる気配がするんですけどっ、インターホンが故障しているようなので失礼します! ご近所のみなさん叫んですみません! 緊急事態です!』
 嘘だろ? なんでだよ!?
 ……まさか、この部屋って。
『引っ越された方ですよね? 大家さんに聞いたんですけど、こちらの部屋の鍵が壊れていたのを伝え忘れたそうです。内側から鍵かけると閉じこめられちゃうみたいでっ』
「……誰!?」
『鍵穴が回ってるので、やっぱりかけちゃった感じですか? 安心してください! スペアキーをもらってきたので開けられます! ……そういえばさっき知ってる声がしたような。気のせいだと思うんですが』
「間に合わないっ、私の陰にっ」「わかったって――っわあ!?」「何転んでんの! バカ! 危ない! 変態!」「そっちこそ暴れるなって! 上に乗るな!」
『まぁいいか……じゃ、開けちゃいますね!』
 僕はやっぱり鈍い。間取りをよく見て、引っ越しを思い出せば気づいたはずだ。
 アンナのセーフハウスが、僕たちのアパートの隣室だったことに。
 ――ドアが開き、差す光に照らされ、顔中怪我だらけで小さな(外見の)女の子に跨られてタコ殴りされる僕を見た癒衣は、一言。
「望海、やっちゃったね……」

 

 そんな昨晩の大混乱も、今の衝撃と比べれば大昔のようだ。
「あー、かわいい。語彙力喪失」
 クラスの困惑の中、後ろから身を乗り出した癒衣だけが顔をほころばせている。なぜか僕たちは学校でも隣席なのだ。
「これが事案かー、なんて絶望してごめんね。うちに転校しに来た子だったなんて思わなかったよ。このちっこさだと同級生っていうか、妹みたいだけど。へへ」
『(なんらかの権力で)転校生として同じクラスに入り、僕を監視する』というアンナの計画はこのホクホク顔の女にぶち壊されてしまい、苦し紛れに修正した結果が、現在である。
「私語やめろって。……なんなんだよ、あいつ」
「えー? 転校生の自己紹介って普通こんな感じじゃない?」
 サブカルチャーに毒されている……。
「でも、制服もあれじゃ子供がクローゼットで遊んでるみたいだし」
「それがいいのっ。オスの実験動物みたいな望海の性欲じゃ分からないと思った」
 それは何のマウント?
「だいたい、アンナちゃんのこと言えるの? 望海だってなかなかワイルドだったのにぃ」
 ……絶対擦られると思った。
「望海のフィジカルでリアルファイトすればそうなるよ。相手も悪い」
 僕と伊東の騒ぎを知った感想がそれなの、すごいぞ。
「冴野流奥義その一、勝てる奴としか戦わない。その二、倒すべきは敵ではなく敵の神。その三、そいつのネクタイの締め方や喋り方を嫌うな。倒すべきは筋肉」
「その四は?」
「……冴野流その四について語ってはならない」中途半端に諦めるなよ。
 そこで、彼女はちょっぴりトーンを下げる。
「まぁ、篠のことはね……うん」
「もう何度も言ったけど、やっぱり、隠して悪かった」
「私が謝られる必要はないから困っちゃうねぇ」口を尖らせる。「元には戻らないと思う」
「だよね……」
「でも、元に戻らなくていい物だってあるよ」
 癒衣の視線の先には、浅間さんの空席がある。
 吹っ切れたように言うと、彼女は僕の肩を叩いた。「大丈夫、望海は頑張ったから。ま、私に任せて今は合法を味わう時だよ。度を越したら通報してあげるからさ」
 どっちだよ。てか静かにしてくれ……。

 

 僕たちの面識(と言っていいのか?)を知ってか、アンナの席は癒衣の右横になった。
 当然のことながらアンナは集まったクラスメイトをガン無視したが、人望がある癒衣が積極的に話しかけて取りなしたのは、なんやかんやでいくぶん心証を和らげただろう。馴れ馴れしさはともかく。
 みんな忘れたかっただろうから。
 派手な怪我を負った僕の存在を黙殺しなければいけない、不穏な空気を。
 こちらを睨む伊東と、逆に目を逸らす桐生を視界から消す僕だって、気が塞いだ。
 癒衣を除く全員が、浅間さんの欠席を無視していた。

 

「よかったねー。みんなかわいいって言ってたよ! ……ま、そういうわけで、我が放送部に歓迎したいと思います」
「やだ」
 連れ帰って早々、癒衣の強引な勧誘は失敗した。あんなに積極的だったのって、ひょっとしてこれが狙いだったんですか……?
「えーっ!? 絶対楽しいのにー……そうだ! 騙されたと思って、まずはお手製の『解ける!? 放送部入部テスト』に目を通してみようよ。えーっと、ノーマルのプリントは……」
「そんなの作ってたのかよ……。しかも他の難易度もあるの?」
「うん。ノーマルからインセインまであるよ。望海もやる?」「……今はいいや」
 探しに席を立ったのを見計らい、アンナは僕の袖を引いて囁いた。
「……この女を巻きこむしかない」
 その提案を聞いて、急に狼狽えてしまった。
「この女に浅間篠と接触させて、男に隠したまま望海を呼び出す」
「それは……どうなの? 浅間さんと違って、こいつは一切関係ないし」
 無意識に反発を覚えたのは、きっと平凡で平和な、単なるこの狭い世界のいち少女である癒衣を傍で見てきたからなのだろうか。
 そう思うと何様かよって恥ずかしいけれど……。
「望海の人脈が使えないから仕方がないでしょ。あんなに友達いないなんて」
「あのな、それには事情があって……それにあの態度じゃお前だって人のこと言えないだろ」
「私は仲良くなる必要ない。それにあいつら嫌い」
「そんなんだから子供だと思われて……おい、足踏むなよっ」「やだ」がしがし。
 癒衣が振り向いた。「あれ? 二人とも何か喋ってた?」
「言ってない」
「うん、聞き間違いじゃないかな」
 ……言い争っても仕方がないな。確かに、交際相手に偽のメッセージを送らせるようなDV野郎に気づかれずに、浅間さんを呼び出す代案を求められたら……黙るしかないし。
「細かいことは私に任せて」
 アンナの自信に満ちた目にたじろぐ。信じていいのだろうか?
「癒衣を危険にさらさないって、約束できるなら」
「当然」
 覚悟を決める。不安だが、やってみるしかない。
「じゃあ、アンナを信じる」
 そう言って目を合わせると、急にアンナは「一言多い」と顔を背けた。
「……調子が狂う」
 なんでだよ……と言ってやる前に癒衣が戻ってきた。
「はい、これがプリントね。これは主に『信号』ジャンルの問題。モールス信号とか、聞いたことあるでしょ? 英語のように読み書きをしてもらいます。……今、難しいって思ったでしょ」ふっふっふ、と癒衣は大袈裟に盛り上げる。「しかし部長はやさしいのです。なんと、カンペに一覧表を乗せておきました。時間はかかるけど、これを見ればきっと慣れるんじゃ――」
「いらない」
「そう言わずにさー」
「テストの方じゃない」あれ、アンナの目が変わったような。「答えなんて、なくてもできる」
 そう言って、ペンを取り出した。

 

「そんな、全問正解なんて……」
 癒衣は頭を抱えていた。
「問題に不備がある。まずこの四人の外国人が並んでめちゃくちゃな手旗信号を作っている画像、なんで答えが『HELP』なの? あと、フォネティックコードのFOXTROTはキツネじゃなく、ダンスの一つ。だから表の横にキツネの絵を描いてるのは間違い。……ついでにキツネじゃなく耳と脚のついたヘビに見える」
「音楽ネタの引っ掛け問題なの! あと画力は関係ないでしょ!」
 フルボッコだった。
 ……そっか、スパイってことはそういう知識もあるんだろうな。
「もう! 筆記試験は終わり! 次は実技です! ……行くぜゲーセン!」
 お前が勝ちたいだけになってない?

 2Pの癒衣があっさり射殺された後も、アンナは光線銃を華麗に構えて戦場を駆け、ついに全面を突破してしまった。
 ゼイゼイと息をつく癒衣を見ているうち、あることに気づく。
「アンナ、訊きたいことがあるんだけど」ランキング画面を指さす。「あの『ANNA K』って……」
「私だけど」
「嘘でしょ!?」癒衣が反応した。「このゲーセンを荒らしてる迷惑客の、あの『ANNA K』が……」それはお前の負け惜しみだろ。「こんな、たぶん全国人口何十人ぐらいの骨董品のガチ勢なんて私だけのはずなのに、いっつも越えられない……」
「あの変な名前、ユイだったんだ……」
「モールス信号。『UI』になる」
 アンナに言われて理解した。……ああ、そういうことね。
「なぁアンナ、なんでこんな場所で遊んでたんだ?」こっそり訊く。
「遊んでなんかない。望海を監視するために決まってるでしょ」「にしてはめちゃくちゃやりこんで……」「何? 幼稚だって言いたいの?」がしがしがし。
「……しょうがないな、入部を認めましょう」
 本人のプライドはともかく、癒衣的には合格だったらしい。もはや放送部要素がない……。

 負けが込むギャンブラーの典型例として、癒衣は賭けのハードルを上げて連戦を挑み、ついに関係ない僕まで奢ることになってしまった。
 それでも癒衣は悔しさをコロッと忘れてしまった。ゲーセンを出たところにクレープの屋台があったので、これを景品にしよう! と勝手に言い出したのだ。
 三人分払わせるのは忍びなかったので、何が奢りなのか分からなくなったが僕が癒衣のぶんを出した。口を挟もうとしたアンナは必死に押しとどめた。あんな危険なお金を罪のないクレープ屋さんに落とさないでほしい。
 ちょうど手近に公園があったので、ベンチに座って食べた。口元をクリームで汚す癒衣のほうが、よっぽどこの三人では子供じみている気がしなくもないけど、ちゃっかりトッピングにチョコチップを入れたアンナも五十歩百歩か。
 言わないけど。
「今度こそ負けないもん」
「めんどくさい。くだらない偽物のお遊びだし、もう二度とやりたくない……」
「ダメ。そういう考えは私の『ANNA K』じゃないっ」
 めんどくさいライバルだなぁ。
「……じゃあ、おまけにあと一つお願いを聞いてくれたら、またやってもいい。部活も入る」
「ほんとっ!? なんでもなんでも!」
 ……あ、これって、まさか。嘘だろ。
 おい、そんな軽いノリでいいのかよ――思わず言ってしまう前に、アンナは電撃戦に出た。
「手伝ってほしいことがある」

 

10

 情報戦の世界では、エージェント――〈協力者〉という概念があるという。
 一般に、それは実際の諜報員に情報提供をする部外者のことを指す。人聞きの悪い呼び方をすれば、内通者と言っていいのかもしれない。
 彼ら彼女らは秘密裏にスカウトされ、指示のもとで必要な情報を提供したり、ターゲットの人物に接触したりして、見返りや庇護を受け取る。
 その定義でいえば僕も不本意ながら、アンナの〈協力者〉になるのかもしれない。
 ……でも、アンナの糸の先は、僕で終わりにはならなかった。
 まるで孫引きのように、手先の手先が生まれることだって、ありうるのだ。

 

 ということで数日後、僕は浅間さんの前にいた。
 違う日に同じ店で、同じ席で、同じ人と喋る違和感を体験したことがある人はどれくらいいるんだろう。
「癒衣ちゃんが来るって……やっぱり嘘だったんですね」
 これじゃ仕返しみたい、と彼女は自嘲してパドルを回した。
「……騙して悪かった。でも、他に会える方法が見つからなかったから」
「いいんです。逃げてもしょうがないですから。癒衣ちゃんも協力してくれたんですよね」
「そう。でも」僕は浅間さんの背後に目をやった。「癒衣が知らないこともあるんだ。……今日は、そっちの話をしたくて」
 虚を突かれた様子で、浅間さんの顔が曇る。何事かと思っただろう。
 ……彼女の背後、向こうの席に視線を向けた。座った二人の客は、新聞や雑誌に没頭していて、顔は見えない。……少なくとも、僕の側からは。
 それを確認して、教わったリズムで、右の耳元をさりげなく叩いた。
 それがスイッチだ。
『始めて』
 傍から声がした。もちろん誰もいないが、幻聴ではない。
 横髪で隠した耳の内側に、超小型のイヤモニを入れているのだ。空気の振動から、僕との会話も聞き取れるらしい。さすがはスパイの秘密道具、盗聴器をオモチャと言うだけある。
 そして指示を出しているのは、あの席の二人――アンナと、癒衣だ。
『作戦どおり、ペンを見せて』
 マイク越しのアンナの指示通り、例のペンを取り出して、机に置いた。
「……これ、返さなきゃと思ってたんだ」
 そう言って表情を伺う。明らかに、動揺している。
「あ、ありがとう……私も忘れてました。嬉しいな。憶えててくれるなんて、やっぱり檜原くんって優し」「そんなことないよ。悪いことをしたから」
 軸を回して、中身を取り出す。浅間さんが我を忘れて止めたりするよりも早く。
 仲から出てきたのは、もちろんあの、盗聴器。
「預かったものにこんなことをするのは失礼だと思う。それは、ごめん」元に戻して、丁重に差し出す。「詳しいことは分からない。でも、安全なものじゃないのかもって。……詳しくないけど、たぶん。盗聴器みたいなものだと思う」
 そしてついに、言いたくないと最後までアンナに粘った、嫌な言葉を口にするときが来た。
「きっと――〈敵〉の、スパイが使うような」
「……ぁ、う」
 悲しいかな、効果抜群。
 そりゃそうだ。
 これから社会に出ていく上で、学生にとって〈敵〉の一文字がどんな意味を持つのか――僕たちは、嫌というほど肌で知っている。
 その一味だと、身近な人に疑われた衝撃は、どれほどだろう?
 ……口をぱくぱくさせ、今にも泣き出しそうな表情に罪悪感を覚えても、指揮官は『ここから、気をつけて』と冷酷に告げる。ああ、分かってるよ。まったく。
「浅間さんを何も疑っていないかといえば、嘘になるかもしれない。でも、それは心配だからなんだ。物事がはっきりしないから。ひょっとしたら浅間さんが危険なことに巻きこまれているのかもしれない」
 デートの日と同じ。僕の役目はいつだって、フォローだ。
「僕だって怖い。でも、浅間さんはそういう人だって、思えなかった。……それでも疑うくらいなら、こうやって顔を合わせた方がいいんじゃないか。どんなことになっても」
 二人の問題だと、強調するのも忘れない。
「僕が一人で決めたことなんだ。癒衣を利用したのは、申し訳なかったけど」
「……癒衣ちゃんは」かろうじて、か細い空気の震え。
「この機械のことは、何も知らないよ。会いたいから手伝って、って土下座しただけ」
 ジョークのセンスは変わらなかったが、今度は効果があったかもしれない。
「言わなくてもいいよ。嘘をついてもいいよ。今すぐに席を立ってもいい。僕のわがままだから。それでどんな危険を背負っても……それでいいって思ってる」
『だけ。忘れないで』
 ああもう、言えばいいんだろ。「浅間さんになら」『だけ』うるっさい!
「……だけに、なら」
 手ごたえはあった。
 意を決したように、浅間さんは爪を指先から離したからだ。
 僕は怪しげな席にまた目を向け、こっそり頷いた。あるいは、首の角度を変えた。
『おっしゃ。行くよ』
 癒衣が席を立ち、こっそりとラジオに近づくと、小さな自分の機器に線を差し替える。陰に隠すと席に戻った。グーサイン。
 スピーカーからバスドラムの三拍とスネア一発が流れた。百年ぐらい前のガールポップがデカい音で鳴り始める。政府の検閲を受けない、お気に入りの海賊放送に繋いだのだろう。
 どこかで読んだ小説に、こんな盗聴対策のシーンがあったけれど、自分たちが使うなんて。
 好都合とばかりに、浅間さんの告白が始まる。もちろん、懺悔の方だ。
「……これから言うことで、檜原くんは引いちゃうと思います」

 

 依頼を受けた盗聴。
 バイト……と言うべきかは定かではないが、彼女がこの仕事を始めたのは高校入学の直前のことだ。
「最初はDMで友達に誘われたんです。うちは……その、過保護な家で、高校でもバイトなんて許さないって言われて」軍需会社の家なら、ありうるかもしれない。「でも、自由に使えるお金がほしかったから、どうしようかなって。そんなときのことだったかな」
 浅間さんは警戒したが、話を聞くにつれて、その話に惹かれ始めた。
「けっこうやってる子、いるみたいですね。簡単だからだと思います。――依頼者から媒体を送ってもらって、それをセットして、盗み聞きしたい相手を呼び出して、会う。盗聴器を返して、お金を貰う。それだけでそこそこの額になりますね。必要なのは、通販でも買える小型レコーダーと、音声を確認できる編集ソフトかアプリぐらい。追加で払って依頼を続けさせる、リピーターみたいな人も来るし」
 曰く、そういった依頼や募集を交換するサービスのコミュニティが、ネットにはあるそうだ。軽い気持ちで始めた浅間さんは、まもなくヘビーユーザーになってしまった。
「会う人は、大半がすごく年上の男の人でした。うまく近寄ったら、みんな面白いぐらいひっかかって、びっくりしました。……怖かったけど、だんだん慣れちゃった。これも改造したんです」
 ペンを手に取って、浅間さんは言う。
 ……だとしたら、発信機能のあるメディアを送った奴らは、浅間さんと関係がないんだな。
「人見知りだったが裏返っちゃったのかもしれないですけど」
 これもよくあることだそうだが、やがて盗聴と乱れた異性関係は切り離せなくなっていった。一種のハニートラップと考えれば、距離が近づけば近づくほど有利になるわけで、自然なことかもしれない。
「この場では言えないけど、危ない目にも遭ったし……ひどいこともいっぱいされました。でも、優越感はあったかな。こんなに粋がってる男の人も、私に騙されてるんだって。でも……」
 自業自得なんですけど、と彼女は俯いた。
「そのせいで、人を好きになるのがどういうことか、分からなくなっちゃいました。どんなに仲いい人と喋ってても疑心暗鬼になるんです。相手も私に何か仕掛けてるんじゃないかって。そしたら、自分も演技と本音がごっちゃになってきて……」
「でも、桐生とは、仲良さそうだったのに」
「そう。あのグループにいるのは、楽しいです。……まぁ、それも仕事がきっかけだったから、悲しいですけど」
「それは……伊東も相手の一人だったって、ことかな」
「察しがいいです。さすが」笑顔が歪んだ。「同年代や身近な人にやるのは、苦手なんですけどね……彼が前に付き合ってた子に頼まれた。どうなったか、分かります?」
 立場を利用して、彼をその子から奪ったということ。なんだ、人に嫉妬できる立場でもなかったんじゃないか? 伊東。
「だから、私って汚れてるんです、いろいろと。気持ち悪いかも」
 こんなにあけっぴろげに喋られるとは思っていなかったから、内心の動揺は相当だった。でも、あのスパイ女はまだ手を緩めない。
『望海のことに移って。間髪入れず』
「……僕の件を、聞かせてもらっていいかな」
 そうでした、すみません、と浅間さんは赤くなっていた目を拭いた。
「でもさっき話したことと被るのが多いです。依頼は、主の身元が明らかな場合と、完全に匿名なことがあって。檜原くんの場合は、二つ目ですね。ネットで依頼を受けました。時期は……夏前ぐらい。その頃には付き合ってました。あと何日かで期日なので、何事もなかったら指定された返却場所にペンを返したと思います。駅のロッカーとかが多い気がします。だから、頼んできた人の顔は最後まで知りませんでした。それで――」
 その音源が、何に使われるのかも分からない。
「まだ相手と連絡は繋がっているの?」
「はい。でも追加の依頼はまだ来てないですね」
 それが浅間さんの知るすべてだった。
 真相は、アンナが今日、ここに来る直前にした予想とさほど離れていなかった。
『話を変えて』
「そっか。……じゃあ、最初に会ったときはそうじゃなかったんだね。なんか、嬉しいかも」
「えっ」彼女の目が上を向いた。
「だって、最初から利用するつもりじゃなかったんでしょ?」
「……それは」
「ついでに伊東にも勝った」
 笑ってみせると、浅間さんの口元も綻んだ。
「ありがとうございます。私、こんな言葉もらっていいんですかね」
「全然。むしろはっきりしたことも多くて、安心した」『勧誘に入って』「……だから、話を聞きながら、どうしたらいいか、考えを思いついた。……でも、浅間さんがどう考えているかによる。仕事を続けたいか、やめたいか」
「……やめたほうがいいですよね」
「『ほう』なんて、人目を気にしないでいい」逃げ道を封じる。「やめたいか、やめたくないか、浅間さんの気持ちがいちばん大事だよ」
 重苦しい無言が何秒か続いた。
 アンナは黙っていた。癒衣でさえ、何も言わなかった。
「……やめたいです。もう、誰かを疑うのも、好きなふりをするのも」
「そっか。じゃ、同盟成立だ。一緒に戦おう」
「……はい」
『望海。ずるいよー』
 なぁ癒衣、やっぱりお前はそうだよな。

 

 反省会は癒衣の家で行われた。
「いやーまったくこんなに上手くいくなんてね。ヒヤヒヤする準備をしてたのになぁ」
「望海、ここ勝手に台詞を省略しないで。あとここの挙動も気持ち悪い」
「……休ませてくれないか? 頭が痛いんだが」
 癒衣は上機嫌、アンナは仏頂面、僕は疲労困憊、三者三様である。
 ……癒衣を誘うことへの抵抗は、とんでもない食いつきで吹き飛んでしまった。
 幼馴染として性格は熟知しているとはいえ、やっぱり友人の身辺を漁るなんて嫌がるのではないかという懸念も空しく、蓋を開けて見ればこうしてノリノリである
 でも、そりゃそうか。人様の電波を盗み聞きする部活の長だもんな。
「なんか、ものすごい板についてるな」
「だって面白いじゃん。そりゃ篠には悪いっちゃ悪いけど、友達だし無視できないよね」おお。やっぱりクラスのアイドル。「それにこんな映画みたいなことできるなんて」後者が八割ぐらいだろ。一瞬でも義理堅いと感心して損したよ。
 そのおかげでアンナを自分と同じ趣味の普通の女の子と思いこんでくれたのは助かるけれど。
「アンナちゃん、次はどうするの?」
「相手の出方次第。偽音源を聞いてどう出るか」
 そこでアンナは、癒衣に気づかれないようそっと僕に目をやる。
 ……癒衣には、僕が襲われたことを知らせていない。だから、この事件を単に「浅間さんのペンに盗聴器が入っていたのを見つけてしまった」というだけのことだと思っている。
 アンナと話し合って決めたことだ。
「じゃあ、まずは罠をかけないとだね。アンナちゃん」
 アンナが頷く。いよいよ大事になってしまった。
 浅間さんには期限まで盗聴を続けてほしいと伝えて、ペンを再び受け取った。そして記録した音声を編集――特に伊東とのトラブルは全カット――し、期日になったら何食わぬ顔で返す、という作戦を提案した。
 つまり、全部うまくいっていると装うのだ。
 音源を弄ることに浅間さんの抵抗が少なかったは幸いだった。
 ただ、自分から盗聴器を送るように、もちろん依頼側は警戒しており、そのまま提供されることに拘るようで、技術的にはパスワード等で書きこみにロックがかかっていることもあるらしいのがネックだった。浅間さんも音声編集の知識は薄く、再生確認以上のことはほとんどしないと言っていた。
 しかし、そのあたりは「僕に知識があり、なんとかできる」と言い含めてライブ感で乗り切った。まさかこちらにはスパイがついているなんて口にできるはずもない。
「望海がオタクだと思われていてよかったね」
 口が減らない幼馴染は置いておこう。
「……で、記録を続けるのはいいけど、具体的にはどうするの。また演技でもしなきゃいけないのか?」
「二度とさせない。見ててイライラした」
「なんで? 成功したじゃん」
「分かる。望海、いっつも女の子にああやってるんだね」冤罪も冤罪である。
 結論から言えば、僕たちは何事もなかったように過ごすのだ。いや、いざ「全部忘れて普通に暮らせ」と言われてできるかは別問題だと思うけれど……いや、癒衣を見れば、そうでもないのか。
「私がいることだけは、綺麗に検閲して隠す。急に現れた異物というだけで、疑われるのに十分だから」
 これも、アンナの正体を知る僕と知らない癒衣で含みの違う一言だ。こいつ、こういう喋り方が厭らしいぐらい上手い。
「気づかれないといいけど」
「そんときはそんときだよ。ね、アンナちゃん?」
 いたずらっぽい笑顔で、良心をちくちくと刺される思いだった。平然としていられるこのスパイが羨ましい。と思っていたら――
「それよりもっ」がばっ、と癒衣がアンナに抱きつく。「なにっ、やめて、放せっ」「それまではみんな自由ってことでしょ?」
「そうだけどっ、放してよ」
「じゃあさ、おんなじ部屋に泊まらない? せっかく部屋が三つ並んでるんだし、これはお泊り会しかないでしょ。ね? アンナちゃん」
「嫌に決まってるでしょっ、だからどけてって、ねぇ!」
「ね? ねっ?」
「うっ……ぐうっ……」
「おお、大賛成みたいです。暴れたくなるほど盛り上がってますね」
 なんでそうなるんだよ、と言いたいのは僕だけじゃなくアンナも同じだと思うが、彼女は腕の中に絡め取られてじたばたするだけの暴れ魚と化してしまった。本当に僕を担いで逃げ出したのか……?
「分かった、分かったから、やめてって、やめてくれたら――」
「いいってこと? おっけー」ばっ、と手が離されて、癒衣がニヤニヤする。あ、こいつの企み顔だ。
「まさか、アンナちゃんは約束を破る悪い子じゃないよね?」「当たり前でしょ。私は子供じゃ――」「よし、アンナちゃんも賛成!」「待って、そういう意味じゃないって! ねぇ!」
 再びの抱擁。
「ねぇ、望海も賛成でしょ?」
「好きにしたらいいんじゃないかな、うん。仲良くしてやってくれ」
「なんで他人事みたいに言ってるの?」えっ、どういうことですか。「望海もに決まってるでしょ」
「やだ!」アンナの野次が飛ぶ。「犯される、嬲られる、屠られる、ぜったいやだ」動詞の意味分かってますか?「確かに」納得すんな!
「大丈夫、アンナちゃんは私が守る。十八時以降は屋外にいてもらうから」
「せめて僕の部屋にいさせてくれ……」
「なぬ、自分の床に上げたいと申すか」
「発言を切り取るな!」
「やだ、殺す、撃ち殺す、撃ち殺して川に流す」「それ私も手伝う!」
 ツッコミが追い付かないよ、もう……。

 

 結局、入浴と着替えの時間は僕が退去するという留保のもとで、期限のない〈お泊り会〉が始まってしまった。
 アンナのセーフハウスに連れこむことはできないし、僕の部屋に上がっただけでこのガキには犯罪行為と見なされるわけで、当然選ばれたのは癒衣の住処で――
「かんぱーい!」
 ジュース、袋をパーティー開けした菓子類、そして(一名の)手拍子で、歓迎会が強制開催された。ちなみに買い出しは僕である。自腹でもある。
「アルコールがないのが残念だけど、シラフでもハイになれるらしいから気合入れてこうね。じゃ、新入部員のアンナさん挨拶を」
「……ぅ」そんな顔で僕を見るなよ。「……よ」「よ?」「ろしく、おねがっ、い――」
 すごい。人間の顔って本当にアニメみたいに赤くなるんだ。
「はい。じゃあ私も自己紹介するね。改めまして、放送部部長、冴野癒衣です。特技はゲーム、無線弄り、望海弄り。で、好きな食べ物はここにあるお菓子全部」机の上に手を乗せる。「望海の自己紹介は……いいや。アンナは好きなお菓子ある?」
 清々しくスルーされた僕を置いて、癒衣が訊く。アンナは相変わらず小動物みたいに体育座りで椅子に乗っていたが、ちょっとだけ物欲しそうに皿の一部を見つめた。
バウムクーヘン、好き」
 こくり。
「どうぞ」と渡すと「……爪楊枝、ある?」とアンナは訊いた。
「前にもらった箸袋についてると思うけど……」探し出して、渡す。「何に使うの?」
 答えないまま、バウムクーヘンの袋を開けて取り出す。皿の上に置くと、爪楊枝の先をひっかけて、丁寧に剥がし始めた。
 一枚終えてから、ぱくりと咥える。
「うまっ! アンナちゃん、手先器用なんだ」
「普段からの練習」
 何のだよ、と不穏に思ったのは僕だけで、癒衣は「こりゃ恐ろしい逸材だ」と目を丸くした。
「ねーねー、私にも教えて! ほら、望海も」「いや、僕は――」「はい、勝負」
 爪楊枝を渡されて強制参加させられる。地元で昔やった夜店の型抜きみたいだ。
「そこ、もっとゆっくり。力抜いて。破れちゃう……あ、ダメだった」
 アンナの指示に悪戦苦闘しながら、癒衣は笑う。
「こういうの、懐かしいね」
「懐かしい?」とアンナが顔を上げる。
「そうそう。私たち、幼馴染だからね。ここに来る前住んでたとこで、二人でどうでもいい勝負ばっかりしてたんだ」
「そうなんだ……」
 きっと錯覚だと思うけど、アンナが寂しげに見えたので「でも、これからは三人になるかもね」と言ってみた。
 子ども扱いするな、って叩かれるかと覚悟した。
 ……でも、返ってきたのは「望海が勝てるわけない」って軽口と、見落としてしまいそうな、一瞬の笑顔だった。
 あれは笑顔だと、思った。
 そんなことに気づかず、できた! と癒衣は一枚の薄皮を綺麗に剥がしてガッツポーズした。
「あー、ほんとに楽しい。アンナちゃんが来てよかったー」
 こんなにくだらない思い出にも、あとで思うことになる。
「……アンナちゃんの歓迎会、クラスでもやればいいのにね」
 その呟きは、果たして偶然だったのだろうかと。

 

11

 アンナが編集した音声は浅間さんに渡され、計画通りに彼女は駅構内のコイン式ロッカーに入れ、鍵を指定された場所(駅前のベンチ横、植え込み)に隠した。
 やがてすぐに何者かがそれを回収した。
 ……二人きりのとき、アンナに張り込みを提案したが、あっけなく却下された。
「ストーカーならともかく、集団で機密を奪い合う連中がのこのこと出てくるヘマをするはずがないの。どうせ受け子でも使うに決まってる。いちいち漁っていたらとんでもなく時間がかかる。……ほら、見て」
 彼女のPCで見せられたのは、水流のように行き交う人の中で、ほんの一瞬で荷物を取っていく男のスローモーション映像。
「なに、この映像」
「提供された監視カメラ」真顔でアンナは言う。「どう? まったく個性がない。鍵を置いた駅前も同じ。その場でしょっぴくか政治犯として全国に指名手配でもしなければ、この人物を特定できる要素はほとんどない」
 やろうと思えばできると言わんばかりの放言だが、言わんとすることは理解できた。
 ……それに、僕たちが見つかるヘマをしたほうが、よっぽど問題だ。浅間さんは信頼を失うことになるんだな。そうしたら、すべての接点が消えてしまう。
「たぶん、もし順調に進んだなら、向こうは必ず次の一手に出る」
 アンナにはその確信があった。

 でも、その間も学校生活は続いていた。
 今までと違うのは、アンナの存在だけ。
 彼女は変な女の子だったし、いちいち厄介ごとを起こした。
 英語のディベートではALTの外国人の先生を黙らせ、社会科の授業で当てられれば百科事典のようにペラペラ喋ってネットの記事を読み上げたと疑われて理不尽に怒られ、菓子パンの自販機でドーナツを買い占めて上級生と揉めた。
 その度に僕は呆れ、癒衣は傍でニコニコと笑っていた。
 もちろん桐生たちのグループとのわだかまりは続いていた。浅間さんもアンナと仲良くしてくれた……と思う。たとえ、僕とお互いどれだけ緊張していようとも。
 でも皮肉なことにアンナのせいで休戦のような空気になっていったようだ。……というのは癒衣の言で、当の伊東や桐生が遠巻きに僕に向ける目が変わったようには思えなかったけれど。
 このまま何も起きなければ、〈一手〉が永遠になければ、そんな高校生活がいつまでもつづいたのかもしれない――そう、本気で思う。
 そんなはずないのに。

 浅間さんに、依頼者からの連絡が来た。
「追加で、依頼があったんです。……それも、すごい額で」
 彼女が僕に知らせた金額は、確かに驚きだった。それこそ、僕がアンナに渡された口止め料ほどの数字だったからだ。
 そして、依頼は――
「『転校生に接近しろ』って」
 鳥肌が立った。
 僕が慄いたのは、なんらかの方法で向こうが転校生の存在を知ったことだ。
 そりゃそうだ。僕を監視する別のルートがあっても不思議じゃない。でも、こうして身近に感じられたことは、あの夜に襲われたのと同じくらい、怖かった。
「なんでアンナちゃんなんだろう……? 私たちと、関係ないのに……」
 おい。これ、まずいんじゃないのか。

 

 そんな僕の不安にも、アンナは冷静だった。
「私の素性をどこまで掴んでいるか分からないけれど、依頼が正しいなら、そこまで詳しくはない。でないと私に接近する理由がないから」
 相手のことを知っているならば、探ろうとは思わない。
 当たり前の、でもパニックにになれば忘れかねない、賢明な逆説だった。
「アンナちゃん、私たちどうなっちゃうのかな……」
「大丈夫。これもまた、逆手に取るだけ」
 アンナの提案は、ひょっとしたら味方の僕たちをいちばん驚かせたかもしれない。
「彼女に、私の歓迎会を企画してもらう」
 どこまでも、その目は本気だ。
「浅間さんが提案したら、たぶん向こうは喜んで乗ってくる。私と望海の情報を両取りできるチャンスになるから。どころか、この日に浅間さんと望海の関係が変わることを、暗に期待させられる……かも」
 アンナにしては勿体ぶった言い回しで、なんとなく察した。きっと耐性がないのだ。
「望海、もし仮に、仮にだけど、篠に本気で迫られたら断れる?」
「うん」それは保証できた。「でも、浅間さんの依頼を失敗させるから、舵取りが難しいね」
「……本当は、そこじゃないんだけどねぇ」
「え、どういうこと? そういう話じゃないの」
 二人の冷たい視線を浴びて、ため息をついてしまった。お手上げだ。
「とにかくっ、状況はややこしくなってきてるの」
 まったくもってその通りだ。
 依頼者(=僕を狙っている?)は、浅間さんと僕をくっつけて、僕やアンナに関する情報を聞き出そうと画策している。だが、僕たちの策略は何も知らない。
 浅間さんは僕と同盟を組んでいて、この生業と手を切りたがっている。つまり、依頼者の企みを利用できる立場にある。でもアンナたちの存在を僕は隠している。よって知らない。
 そしてアンナ(と癒衣と僕)は、前の二者両方の動きを読んでいる。だが、依頼者の正体どころか僕が狙われる理由さえ、まだ掴めていない。
 ――メタの三竦み。
「だから、その日にすべてが交差することになる。……派手なことが起きる可能性は薄いけど、大手をかける最大のチャンスなことは、間違いない」
 仰々しさに、奇妙な感じがする。
 たかが高校生のパーティーじゃないか。今もなお、そう思っている自分がいる。でも、何かが起こるのではないかと思う自分もいる。
 そしてアンナと出会ってから少しずつ、時が経つにつれ比重は逆転している。
 非日常を期待してはいない。
 でも、それが普通だと思うようになっていないか?
「その依頼を受けてもらう」
「……本当に、いいのかな」
「浅間さんを危険な目には遭わせない」
 癒衣は僕たちを交互に見てから、一つだけアンナに訊いた。
「約束できる?」
「どんなことがあっても、私は協力者を守る」
 そっか、とだけ癒衣は呟いた。
 どんな意味か、きっとこいつは知らない。そんな隔たりから、僕たちは何度も目を逸らす。
 そして、この世界が回転を止めてくれることもない。

 

12

 浅間さんを納得させるのには難儀した。でも、僕は言いたくなかったカードを使い続けた。
 ――この依頼には、きっとアンナが大きな秘密を持っているんだと思う。……ひょっとしたら、真の標的かもしれない。
 ――アンナと仲良くなったのは部屋が隣だったからだけど、それはもっと早くから決まっていて、先回りして僕を狙ったんじゃないかな。だとしたら、もう僕たちだけの問題じゃない。
 ――あの子が現れたのは不自然だった。何かを知っているかもしれない。僕が調べてみる。
 ――何かあるみたいだ。でもあと一歩で喋ってくれなくて、本当のところは訊き出せなかった。
 ――だから、ここは本当に信頼関係を作って、逆にアンナを引きこんでしまうのはどうだろう?
 この提案は、僕たちが浅間さんにしていることと、完全に鏡移しだ。それが卑怯に思えてならなかった。
 だから乗ってくれないことを、僕自身が望んでいたかもしれない。
 でも彼女は納得した。してしまった。
 そして、面従腹背な僕の出番がやってくる。

 ゼロからクラスのグループで呼びかけたら紛糾しそうなので、あらかじめみんなで下見をしてはどうか――ということで、秋も暮れた休日、僕たち三人は浅間さんと待ち合わせた。
「わぁ、かわいい」
「かわいいでしょー」
「うん。かわいい」
 私服のアンナを前に、浅間さんと癒衣はいきなり語彙力ゼロになった。
「……用事を忘れないで」
 アンナの機嫌がよくないのは、前日に癒衣に服を買いに行かされて、着せ替えを楽しまれたからだろう。外に突っ立っていた僕は、この三名が周囲にどんな関係に見えたのか気になってばかりだった。召使、ぐらいしか思いつかない。
「みんな案を出してくれてありがとね」
 癒衣のアイデアで、女子勢三名には近場で行ってみたい場所を先に挙げてもらった。僕に発言権がないのはまぁいいや。
 癒衣がスイーツバイキング。
 浅間さんはブックカフェ。
 アンナは実弾の射撃場がある、ミリタリー系のアミューズメントパーク。
 ……ひとりだけおかしいのが混ざってないか?
 この三つをこれから回ってみる……予定だったのだが。
「提案なんですけど」
 手を挙げて、浅間さんは僕たちに尋ねた。
「せっかくなので、提案者と檜原くんがカップルになるのはどうでしょう!」
「おもしろそう!」「やだ」
 ……え、どういうこと?
「女子三だとちょっと気まずいかなと思って」改善策のほうが気まずくないですか。「そのほうが面白そうじゃない?」
「さんせーい!」「絶対やだ」
 開始早々に仲間割れが発生している。
「じゃ、まずはアンナちゃんから、どうぞ」
 浅間さん、敬語のイメージに反して、実はノリいいほうなんだな……。
 それにしても……。
「なんで望海となの」
 銃弾よりデカい穴が開きそうな拒絶の目に、どうなってしまうのかとため息が出た。

 

 しかし実際に銃弾と戯れてみると、まるで幼子のようにアンナははしゃぎ始めた。真顔で。
「――それじゃ手を痛める。腕まで怪我したいの? ほら、もっとこうやって、はい」
 ここの目玉は実弾を撃てる射撃場。意外に人はいて、なんのために着たがるのか訝しむ。基本的には弾数制だが、チケットによっては短いが一定時間撃ち放題のコースもあるらしい。
 射撃中は線の向こうに入ってはいけないが、アンナは「子供は入っちゃダメ」の柵を飛び越え、一発終わるごとにいちいち身体を密着させてフォームを修正してくる。あまりの熱意にインストラクターがドン引きしていた。
 というか、距離が近いんですが。
 アンナの背丈では無理やり背伸びしている感じになる。すると、自然と頭をこすりつけるような形になってしまう。
「ほら、もう一度――」言いかけて、アンナはうっかり上を見る。僕はよそ見をしてしまう。たちまち目が合う。
 そこにあるのは、幼げな、何かを真剣に想う――上目遣い。
 嘘じゃない。
 心臓が鳴る音が、はっきり聞こえた。
 見つめ合ったのは三秒くらいか。攻防の末、ついに僕が目を逸らした。すると、なぜかアンナはキレて、僕を揺らし始めた。
「なんで!」
「そっちこそ!」
「許さない。終わったら的にする」
 ふざけんな。本当にやりかねないだろお前は。
「危険物を振り回さないで! 安全装置は!?」
「大丈夫だって! お前が暴れてるんだぞ! それに身長が一定以下だとやっちゃダメって」
「殺す! 絶対殺す!」
 あの、公衆の面前なんですけど。社会的に死にそうだよ。

 

 ひと騒動で疲れ切った僕を癒してくれたのは、甘味だ。
 こちらもバイキング形式で、一定時間ならいくらでもデザートを持ってきていい。サブスクといい、こういうのが流行りなのだろうか。
 癒衣は自らの選択をテーブルに並べてご満悦だ。ミニパフェ、アイスケーキ、ティラミス、青みがかったシュークリームさえあった。……食べられるの、それ?
 それにしても面と向かっては言わないけど、こんなに食べるのにとんでもなく華奢で、どこにエネルギーが行ってるのかと思う。テンションだろうか。
「で、どうだった?」
「楽しめたんじゃないかな。クラスの皆が同じかは分からないけど、回転率は良い」
「ふーん」何、その反応。
「あの後二人で行って撃ってみたけど、結果はぜんぜんダメだったなぁ。年一か二の訓練でしかやんないからそんなもんか。……あれ、何かあった?」
「……いや、特には。アンナ、上手かったね」
 インストラクターを(僕が)説得して撃ってもらったらとんでもないスコアを出してしまい、観客が集まってしまったのだ。果てはサインをねだった女子高生さえいた。
 もちろん署名は『ANNA K』。そのうち伝説になったらスパイができないのでは……。
「ふーん」そう言ってケーキのイチゴを掬い上げた。そのまま食べるのかと思いきや、唐突に僕の顔に近づけてくる。
「あーん」
「……なんで?」
「いや、八つ当たり」
「何のだよ……おい、顔に当たる」
「早く早く」
 厄介だなぁ。仕方ない。こうなったら癒衣は梃子でも動かないからなぁ。
 恥を忍んで口を開け、迎えた。
「きゃー」
 顔が暑くてたまらない。
「やはは、くるしゅうない」今日いちばんの笑顔だ。
 それを見れたのは、なんだかんだ嬉しいと思う。笑ってる顔がいちばん好きだ。好きというか……いや、それは言葉の綾なんだけど……って、誰に弁解してるんだよ僕は。
 しかしそんな笑みはじき曇った。
「あれ、気づかなかったけど。望海なんでカレー食べてるの」
「もっとお昼っぽいの食べたら締めにいいかなと思って。お腹空いたし。癒衣もどう?」
「……退場」
「えっ」
「店員さん! スイーツ食べ放題でカレー食ってます! 退場ですこの人!」
 大丈夫? こいつ、甘味でキマってない?

 

 最後は浅間さんとブックカフェだ。
 漫画喫茶みたいな場所をイメージしていたけど、店内はシックで、とっても落ち着いた雰囲気だ。棚の蔵書には一般書や児童書だけでなく漫画やライトノベルもあるが、集中できる心地よい場所だと思った。大勢が楽しめるかは微妙だけど……。
 そういえば、浅間さんはどんな本を読むのかな。
 僕が持ってきた小説に、彼女は「檜原くんは文学とか好きなの?」と興味を示した。
「そこまでじゃないけど。浅間さんは……絵本?」
「びっくりしました?」
 彼女の手元には、『ひびのあわ』という、切り絵で作られた絵本がある。幻想的だ。
「好きなの?」
「ええ。ちっちゃい頃から、なんでも願いが叶うなら、絵本作家になってみたいんです。美術系の大学に行きたいけど、私の家は頑固で、なかなか大変です」
 ちょっと重い話になりそうだと思ったのか、浅間さんは紙の上を撫でた。
「これは……男の子も、女の子も、ハツカネズミくんも死んじゃうから、ちょっと悲しい話だけど……ほら、とっても素敵でしょ?」
 絵を見せようと身体を寄せられる。
 せっかく落ち着きつける空間なのに、くっつかれると、その、なんだか逆効果になっている気もしたけれど……でも、浅間さんはやっぱり面白い子だな、と思った。
 こんな趣味があるなんて「かわいい」かも。……いや、だから言葉の綾で……。
「檜原くん、いま何か言いました?」
「ん? 言ってないけど」
「でも、横で呟きが聞こえたんです。……ひょっとして、『かわいい』って言ってませんでした?」
 ……嘘だろ。口に出してたってこと? まずい、せっかくの時間が――と慌ててフォローする。
「そうそう! このハツカネズミ、かわいいなって。絵心があるっていうか。いや、切り絵だと絵心なのかな? 切り心?」
 えっ、という空白のあと、「……なるほど」浅間さんは微笑みながら頷いた。
「檜原くんはそういう人だと思ってたけど、そういう人なんですね」
 なに、この空気。
「いや……でもほんとに思うんだよ。あんまり読まないから知らなかったけど、こういうものが好きな浅間さん、とっても趣味がいいと思う。その……かわいい、っていうか」
 まずい、もっと地雷を踏んだか――と思いきや、浅間さんはもっと顔をほころばせた。
「こういう人だから、好きになっちゃったのかも」
 仕返しをされてしまった。
 でも、実際クラスを眺めていて目立つというか、気になるような子だし、結構なクリティカルで……違うんだ。だから誰に弁解してるんだって。
「でも檜原くん、ハツカネズミは指さしてる子じゃなく、こっち。それはネコ」
 嘘だろ。

 

 それから皆でご飯を食べて、喋って、喋って、アンナも普段の二割増しぐらいは喋って、暗くなるころに解散した。謎の満足感がある。
「楽しかったね」
「……うん」
「みんなありがとうございます。とっても参考になりました。……やっぱり、興味があるグループに分かれてから、最後にどっかで合流するのがいいですね」
「食べ放題とか、安くておっきなお店がいいかもねー」
 盛り上がっている会話のはずなのに、なんでちょっとピリピリしているんだろう。
「望海、どうだった?」
「僕も楽しかったよ。手伝えてよかった。いい歓迎会になればいいね」
 せっかくいい空気だったのに、三人を順番に見つめて「でも、今度遊ぶなら、四人一緒もいいかも」と言ったところ、なぜか全員に小突かれた。
「……ま、それが望海だから」「そうそう」「……はぁ」
 そんな不思議な幕切れはともかく。
 本当は、四人とも内心で含みがあった。
 でもきっと、今日という日が楽しかったことは嘘じゃない。
 癒衣も、浅間さんも、アンナだって、同じであってほしいな。

 

 僕はもっと、この時間をかみしめるべきだったのに。

 

13

 振り返ってみれば、まだひと月も経っていないのに、気がついたらアンナも部活動に馴染んでしまった。
 彼女の知識は僕たちを遥かに凌いでいたから、癒衣にしてみれば最大の助手が来たと思いきや部長を脅かされているわけだが、そのおかげでできることも増えたので、いてくれてよかったなと思う。何より、三人という数字は楽しい。話が尽きないから。
 時間があれば三人で自転車を乗り回し(アンナは健脚なので徒歩でついてくる)、そこらじゅうでアンテナを立てた。
 今日は、ひとまずその集大成になる日。なぜなら――
「『流星電波観測』……そんなのがあるんだね」
「そう。しし座流星群のニュースは見た?」
 いつか聞いた記憶がある。
 最盛期がちょうど今、十一月半ばだったっけ。
「普段届かない場所の電波も聞こえるんだっけ」
「そういうことになる。……今回受信するのは、大学が公開している専用の周波数の放送」
「〈敵〉の大学なんだよね」ノートパソコンをセットする癒衣は、既に興奮している様子だ。「いいのかな、消されたりしない?」
アマチュア無線に戦争は関係ないってそこのホームページに書いてあったよ。検閲もなかったし、たぶん許してくれてるんだよ」
「望海、こういうときも興ざめなんだなぁ……」相変わらず、僕のテンションがお気に召さない様子だ。せっかく学問いい話なのに。「それにしても、間に合ってよかったよー」
 可能性は考えていたものの、今日のうち観測されだしてから、慌てて機材の準備をしたのだ。たとえ最新技術・超小型であっても、持ち運びや設定は大変なのだ。
「いちばんいいときは何秒か見えるんでしょ?」
「そう。今の時間ははもっと早く消えてしまうかも。でも、かなり光る」アンナは上を向く。「音声はたいしたものじゃなくて、短い継続音がするだけだけど。でも何十回かチャンスはあるから、たぶん大丈夫」
 屈みこんでヘッドホンを片耳に当てて様子を伺う。ノイズしかしない……と屈みこんで悪戦苦闘していたら、突然癒衣が肩を叩いた。
「望海、星! 流星群!」
「えっ、なになになに! 早く言ってよ」
「あー、終わっちゃった。遅いなぁ。望海の人生みたい」そのボケ意味が分からないぞ。
 でも、がっかりする必要はなかった。
 まもなく何度も何度も、空を引っかき傷が削っていった。一時間に何個かって聞いていたけど、これはすごい。
「大出現、かも」
「ねぇ、みんなお願い事しないの?」
「お願いって……ああ、そういうことか」
 ほんとに、こいつらしい。
「私はもう祈ったよ!」癒衣は僕たちを見て、綺麗に笑う。「来年もここで三人活動出来ますようにって」
「……夏には、電離層反射通信がある。星は見えないけど、遠い放送が聞こえるかも」
「じゃあ、またやっちゃうかー」
 三筋の白い息が、冷たい火事のように天に吸い込まれる。
 すっかり寒くなって、僕たちはコートやジャンパーを着るようになった。巷では寒冷化で、こんな時期から大雪も心配する声がある。とんでもない異常気象だ。夏も涼しくなればいいのに、暑そうで嫌だなぁと思ってしまうが、癒衣は乗り気だ。
「……おっ、聞こえる聞こえる」
 ヘッドホンの向こうから、断続的に高い音が聞こえてくる。
 これが、お目当ての音。
 遠くから響く、星が渡す郵便。
「貸して!」
「二人とも引っ張るなって! 壊れる!」
 僕たちは、聞こえなくなるまではしゃぎ続けた。

 

「来年、楽しみだね」
 来年かぁ。
 ずいぶん先のことに思える。
「アンナちゃんもお願いした?」
 訊かれてびっくりしたらしい。彼女は何かを言いかけては、やめてしまう。
「私は……そのときには」
「ん? アンナちゃん、急にどうしたの」
「……なんでもない。一緒にいれたらいいね」
 最後にそう打ち消してから、アンナは一度だけ、僕を見た。
 ――消えるから。
「夏は合宿をやりたいね。で、文化祭では――」指を折って、癒衣は僕たちに笑う。「楽しいことは、これから始まるよ」
 まるで、永遠を、神様を、信じているみたいに。
 ――忘れて。
 こいつがすっかり忘れた言葉を、僕はまだ憶えていた。
 もしすべてが解決すれば、アンナが僕の傍にいる理由はなくなる。それを想像したら……世界から何かが欠けてしまうように、思えた。
 馬鹿げている。人生で二度と会わず、喋りもしない人なんて、毎日いくらでもすれ違っているはずだ。ましてやたかかだかひと月前に現れた変な女の子なんだぞ。
 僕は彼女のなんだというんだろう?
 僕が彼女の何を知ってるんだろう?
 ……その頃、僕たちはどうなっているのか。世界はどうなっているのか。
 戦争は……きっと続く。
 それでも、この事件が終われば僕たちは自由になるのかもしれない。たとえ、どこの誰の大きな手の中で踊らされていても。
 できるかぎり、僕たちに都合がいい世界でありますように。
「何を祈ったの?」
 僕は答えない。代わりに、こっそりと言葉以外で伝えた。
 癒衣に気づかれないように、そっとアンナの肘を叩く。
 それから不意打ちで、ほんの一瞬だけ――握った。
 狂っていると思う。
 普段ならそんなこと、絶対にしなかった。だから「セクハラ」と蹴っ飛ばされるのを覚悟した。
 でも、アンナは黙っていた。それから――
 きっと死ぬ瞬間まで、思い出す。
 とても弱弱しかったけれど、握り返してくれたことを。

 

「お? 何お二人さんいい感じになってるの?」
 ぱっと、手が離れる。癒衣は気づかなかったようだ。
「寒いってー。あっためてよ」
 そのまま僕たちは抱きつかれる。
「わっ、アンナちゃんあったかい」「だめっ、手握らないで」「それにしてもお嬢ちゃん、お手々ちっちゃいねー、ちゃんと糖分取ってる?」「……もう、また子供だって」「あ、望海邪魔」「はいはい、どきますよ」
「ついでに自販機でコーンスープ買ってきて。会計はここ降りたら」
「あ、私も」
「……パシリ担当かよ」
 どっちも頷くな。

 

 まったく……と二人から離れて、自販機に近寄って――スマホが、震えた。
 画面を見ると、着信。その相手は。
「……先生?」
 そういえば番号を交換してたんだっけ。なんだろう。忘れ物とか? でも、この時間にまだ学校にいるのかな。ものすごいどうでもいいことだったらどうしよう。切るか。
 電話に出た。
「もしもし」
『あ、檜原くんね。こんばんはー、元気?』
「元気です」
『最近あんまり来なくなったけど、調子はどう?』
「そうですね。前より頭痛は減った気がします」
『よかった。心配だったから。おもに顔が』
「……そりゃ結構で」
『それになんだか景気いいみたいね。風の噂で、転校生が放送部に入ったと聞いたわ』
「そんなのあるんですか……」
『よかったわね。楽しい?』
「はい」僕は断言した。「楽しいです」
『だとしたら、これから話すことは残念な話になるでしょうね』
「……どういう意味ですか? また変な冗談なんて」
『アンナという女の子から、すぐに逃げなさい』
 普段と同じ調子、同じ声音で、業務連絡のように先生は言った。

 

「……それは」
 それ以上、言葉が出てこなかった。
『どこからいえばいいかしらね。そうだ、とっかかりとして顔の話をしましょう』
「なんなんですか、これ」
『相貌失認、という言葉を知っている?『僕を無視するつもりだ。『フィクションやドキュメンタリーで知っている多くの人には、個人の顔が識別できなくなってしまうこと、と俗にイメージされているわね。……医学的な意味ではたぶん正確じゃないんだけど、広義なら私はその亜種なのかもしれないわ』
 べらべらと、訳の分からないことを喋り続ける。
『私は後天的にそうさせられたのよ。乱暴だけど、脳をいじられたって説明が手っ取り早いかしらね。私は優秀な諜報員だったけれど、恥ずかしながら私情で任務を失敗したの。本当ならお役御免、ゴミ箱にポイってところだけれど……私はあまりにも優秀だったので上は捨てるに忍びなかったのね。で、ペナルティをつけた』
 諜報員。
 今、そう言わなかったか?
『さて、問題。何だと思う? ……めんどくさいから時間切れね。答えは最初に言っているのに。あなたに分かるように言えば、人間の顔が見えなくなったの。……でもちょっとひねくれててね、まず、眼は正常。それに、確認しようと意識して頑張れば誰かは分かるの。でも、形や美醜というものを、私の脳から一切消し去った。……分かるかしら? つまり、私の感情においては、ほとんどの人間の顔が平べったいお面のように見えるの』
「ちょっと待って、何言ってるのかさっぱり――」
『分からないでしょうね。だってこんなことを話すのは、私が一方的に檜原くんを愛しているからよ。檜原くんの顔を』甘ったるい、媚びた声。『あなたと出会ったとき、奇跡だと思ったわ。……必死でこっそり調べたけれど、ついにバグとしか考えられなくなった。あなたの顔が分かるなんて』
「先生、黙ってください。ちゃんと話してください」訳が分からないなりに、僕は必死で防御態勢を取った。「先生は……諜報員なんですか」
『そうよ。ついでにネタバレすると〈敵〉』
 僕の声帯は、痙攣したように震えた。
「……どこまで知っているのか、訊いていいですか」
「うーん。いま言えることは、檜原くんが国家機密レベルの重要人物ってことと、君はおそらく君がなぜそうなのかを知らないってぐらいかしら。それは君が生きてきたことと何も関係がない。病気や障害、体質、それがたまたま陰謀だっただけ。生まれたときからそうなっていた。おそらくそれ以上理由は付けられない……はぐらかしてるみたいでごめんなさいね。でも、詳しいことはこっちの分からないの。だって敵国の機密だし、それを監視するために私がいたんだから』
「じゃあ、あなたが学校にいたのは……」
『正解。最初から、檜原くんを見張るためよ』
 先生はあっけなく、次々と認めていく。
『逆にいえば、それだけ。私が恋愛感情を抱いたのはまったくの、神様の偶然ね。今度こそ公私混同はまずいけど、でも結局電話しちゃったわ。助けたくなっちゃったの。……今すぐに逃げなさい。そして私のところに来なさい。保護するわ』
「……信用すると思っているんですか」
『思っていないわ。これは自己満足だから。でもね、年長者の忠告は憶えとくぐらいしたほうがいい。最大限、優しい言い方をするわ――檜原くん。このままだと、あなたはすごく後悔するわ。すごく、すごく、すごく、すごく、悔やむ』
 僕は、答えた。
「それでも、できません」
『勝手にしなさい、バカ野郎』
 その一言で通話は終わった。
「望海、遅い! もう帰りたいんだけど」
 振り向くと、癒衣がいた。思わずスマホを隠した。
「……どうしたの? 突っ立って。寒さでボケちゃった?」
 後ろからアンナもやってくる。
「これにする。買って」
「おー、いちばん高いコーヒーじゃん。砂糖ぶんの値段かな? じゃあコンポタじゃなく私もこれにしよっと。望海、罰として奢って」
「あ、ああ、うん」
「……突っ込んでよ。そんなことしないよ」
 二人とも困惑顔だった。
 僕はどうつくろうべきか、もう考えていた。
 悲しかった。

 結論から言えば、先生の予言は当たることになる。

 

14

 癒衣はクラスで一番、ひょっとしたら企画者の浅間さんや主役のアンナより、歓迎会自体を待ち望んでいた。もはや浅間さんとのスパイごっこなどほとんど忘れるぐらいに、高校生の、単なるイベントとして。
 だからまもなくという時期に高熱を出したことは、本気でショックだったようだ。
「絶対寒い中はしゃいだせいだ……悔しい……」
 ベッドに倒れこむ癒衣を、アンナと交代で看病する。出会った頃、絶対に想像できない光景だ。
「這ってでも行きたいよぉ……」
「ダメ。もっと悪くなったら、もっと楽しくなくなる」
「しょうがないなぁ。……二人で楽しんで。……難しいことは分かんないけど、アンナちゃんなら、篠のこともうまくやってくれるよね」
 これでいいのかもしれない、と思った。

 

 歓迎会を前に、最後の二者会議の場。
「……これで、ほんとにいいんでしょうか」
 浅間さんはストローの袋を畳みながら、僕を見据えた。大事な話をするとき、手元の空虚を何かで埋めないと気が済まない癖があるのかもしれない、と思った。
「不安って言ったら、ここまでしてくれた檜原くんに申し訳ない……んですけど」
 そりゃそうだろう。正解なんだから。でも、僕にどうしろというのだろう。幽霊のように聞き耳を立てるアンナの気配を感じながら、僕はひどい板挟みじゃないかと思った。
 僕がやっていることは強迫観念に過ぎないのだ。
「二つが重なっているだけだって考えるといいんじゃないかな。騙しているわけじゃない。アンナのお祝いはお祝いだ。浅間さんだって、アンナの秘密はともかく、彼女のことは嫌いじゃないんだよね?」
「それは、そうですが……」
 喋りながら、人質に銃口を突きつけるような気分だった。
「なら、そんなに罪悪感なんて持たなくていいと思うよ。一歩ずつ情報を集めて、白黒つけていこう」
「……そう、ですね。ありがとうございます、檜原くん。弱気になってる場合じゃないよね、もとは私が持ってきちゃったことなんだし、私が戦わないと――」
 そこまで言いかけて、浅間さんは言葉を抑えつけた。
 目は、僕の後ろを見ている。
「久しぶりってのに、なんなん、そんな顔」
 反射したガラスの対角線、桐生がいた。
 
「……もえちゃん」
 浅間さんはそれ以上言わなかったけれど、なんで、と目が呟いたようだった。
「そんなに顔見たくなかったん?」と桐生は露骨に失望を露わにした。最初から僕たちを攻撃するつもりなのだ。それこそ、こうして二人が会っていることなどとっくに知っていて頃合いを見計らっただけかもしれない。
 どっちだって同じ、くだらない話だ。
「またやってんの?」
「もえちゃんには関係ないよ」
「まだ、って言ったほうがいいか?」
「……だからなんだっていうの」
「もうどうもしないけど。あーまたやってんじゃんって。面倒なことして損したわ。なんやかんや役得なんだろ? どうせ、檜原も」
 ああ、やっぱりな。伊東とやりあったってことは、当然こいつにも伝わっただろう。誤解なんて数えるだけ空しいけれど、厄介なことになってきた。
「そうじゃねぇの? いや、図星だったから黙ってんのか」
 でも僕の頭には挑発に乗るほどの余裕なんてなかった。
 ここで話がこじれたら、クラスの中心ふたりが衝突したら、歓迎会はどうなってしまうんだ? 
 なぁアンナ、どうしたらいい? 黙ってないでなんか言ってくれよ。なんでマイクの向こうでだんまりしてるんだよ。叫んでやろうか? 向かいの席にスパイがいますって。新聞なんて下ろして、顔を見せてくれよ。
「ま、そんなん勝手っちゃあ勝手だよ。ただな、ひとつだけ思うんだけど、お前らってどのツラしてみんなの前に出んの?」
 黙れよ。どうもしなくも、ひとつだけでもないくせに。
 僕は浅間さんの手を引いて席を立つ想像をする。そのまま桐生を無視して店を出る想像をする。すれ違いがけのカウンターで、金は桐生が払ってくれるって言ってやる想像をする。滑稽に立ちつくす桐生を想像する。
 何も起きない。
 何もしなかったのだから。
「自分たちがやったことが一人や二人じゃ済まないって、わっかんないのかな。篠もさ、いい加減そういう一人遊びやめた方がいいよ。マジになったらかわいそうだから檜原に言っとくけど、こいつって『キミとボク』みたいなのを信じてないくせに信じてるふりをしてそういう自分に酔ってるだけ――」
 桐生は言い捨てる。軽蔑のように、自分の世界に許してはならない染みを見つけたときの不快感のように。
 だから胸ぐらを掴んできたのかもしれない。
 ……驚きはなかった。この程度の暴力には、とっくに慣れている。
 無意味な、無意味であることだけが目的の、暴力。
「……どいつもこいつも、がっかり」
 そんな言葉を賜った。
 手は離され、することのない役者のように気まずくなったのか、僕たちをもう一度ずつ睨んで、桐生は去っていった。
 背中を見送ってから、浅間さんは俯いて、やがて席を立ち別れるまでひとことも言わなくなった。
 彼女が何も言いたくなかったはずがない。やろうと思えばいくらでも僕に感情をぶつけることができた。僕だって、くだらないそらごとをいくらでも言えただろう。
 ただ、もう耐えられなかったのだと思う。泣くことにも、笑うことにも、どちらでもないことにも、全部。
 死産した言葉たちが、耳の奥にこびりつきそうだった。

 

 アンナとは無言のまま別れ、自分の部屋に戻った。何も変わっていないのに、部屋はがらんとして、寒く感じた。
 洗面台で鏡を見ると、桐生のせいで首元がしわくちゃになっていた。
 アイロンで取れなかったら弁償してやるからな、とやりもしない恫喝を空想しながら手をかけてから、左のポケットに何かが入っているのに気づく。
 店名の入った厚紙留めのマッチだった。確か、喫茶店に置いてあったやつ。
 取り出して、二つ折りを開く。
 そこには数字の羅列が、ボールペンで書かれていた。
 電話番号であることに気づくまで、時間はかからなかった。

 

『電話してくると思った』
 もしもしの一言もなく、桐生は電話口でのたまった。
「……何の用」
『それも言うと思った』言葉のわりに、いつもの威勢が欠けているが気になった。『どうしてSNSを知っているのに番号を教えたか怪しんでるんだろ?』
 沈黙が首肯を与える。
『この番号は朝には使えなくなる。警察にも軍にも監視されない、使い捨ての匿名番号だ。それが使える人間ってこと』
 なんでだよ。
 なんでお前まで、そっちなんだよ。
「……そうだとして」僕は冷淡に努める。もう驚きはない。またかよ。どいつもこいつも秘密ばかりで疲れた。「僕に用があるとは思えないけど」
 でも返答は、今までにないものだった。
『用じゃない。お願いだ。……篠を、助けてくれ』
 電話口から聞こえたのは、懇願だった。

 

 桐生は僕の沈黙を受け取って、「いいか、聞いてくれ」と継いだ。
『私は……私と仲間は、反政府グループの一員だ。ニュースで聞いたことあるだろ? あれよ、あれ。ほんとに実在するんだよ。それも身近な、同じクラスに』
「……仲間って、誰のことだ」
『リーダーは伊東。あと、篠以外のダチのほとんどだ。他校にもいるけどな』
 僕はとっくに分かっていることを念押しする。
「冗談で言ってるんじゃないんだよな」
『ああ。……でも最初は冗談だったのかもな。伊東に誘われたんだ。入会したときは、ダチでつるんでそこらへんでたむろしてただけの、半グレ集団と区別もつかなかったよ。少なくとも、私はそうだと思ってた。義理と、好奇心で顔だけ出してた』
 よくある話だった。
『こんなこと言うの恥ずかしいけど、家と折り合いが悪かったから、ちょっと反抗したかっただけだった。……でも、〈敵〉の工作員と組むようになって、急にどんどんマジになっていった。抜けようとした奴を絶対に許さない、そのルールがみんなを狂わせた』
 これもよくある話だった。世界中、歴史中、あらゆる国を問わず起きること。
『一度ビビッて密告しかけたのがいてな。バレて裁判ごっこして、でも全部吐かないから誰かが縄で縛って逆さづりにして顔の下にお湯を入れたバケツを置いて紐を代わる代わる全員に回しながらちょっとずつ下げさせて』
「それ以上言うな」
『……そうだな。悪かった』
 聞きたくなかった。
 耳を塞ぎたくなるぐらいよくある話だったから。
『私に回ったとき、そいつはギリギリで堪忍した。でもあと少し強情だったら、私が殺すかもしれなかった。その晩は朝まで手の震えが止まらなかった』
 そして伊東はこう言ったという。
 次に何かあったら今度こそ死人が出ると。
 死人を出しても構わないと。
 そんな〈指示〉を受けたと。
『それからは、誰も裏切らなかった。誰も逃げなかった。誰も止めなかった。もう思想なんて関係ない。ただ、我が身がかわいいだけで……』
「浅間さんとどう関係がある?」
 苛立ちから、単刀直入に聞いた。
「彼女はメンバーじゃないんだろ? 懺悔しにきたんじゃないなら、答えてくれ」
 短い沈黙が現れ、あぶくのように弾けて死んだ。
『……伊東と付き合っているあいつは、もともとまったくの部外者だった。ひとつを外せば普通の女子高生だ。〈盗聴バイト〉って知ってるか?』
「聞いたことはある」白々しく事実を言った。
『そう……犯罪者、ブラックマーケット、反体制のグループ、テロリスト。そういう商売を使っているのは大抵がそんなんだ。でも、これは知ってるか? 〈軍〉や〈警察〉も、密かに使ってる――そういう噂がある』
「協力を頼まれてるのか」
 それはアンナから聞いていた。諜報活動では協力者を探すと。
 でも違った。
『そうじゃない。盗聴する本人は何も知らないケースだ』
「……どういうことだ?」
『囮捜査みたいなもんだよ。素性を隠して盗聴の依頼をして、情報を得ているんだ。……本気を出せば、こんな子供だまし簡単に取り締まれると思わないか? 確かにうちの国はバカだけど、権力は舐めない方がいい』
 ……悔しいけど、その通りかもしれない。
 どうして僕は疑問に思わなかったのだろう。アンナが言ったことを、半ば非日常からの預言のように、僕は鵜呑みにしていたのだ。……違う、鵜呑みにできるならずっとそうしていればよかったのだ。
 揺さぶられて否定できない、アンナを信じきれない自分の小賢しさが惨めだった。
「……証拠は」
陰謀論だよ』桐生がはぐらかす。『ただ、普通に考えれば自然だと思うんだよな。檜原が誰にどんな説明をされていたかは知らないが……そうだろ?』
 喉元に、鋭い刃先が当てられたようだった。
『これ以上、お互い探り合いは無しにしたい。お前も、お前が協力している奴にも』
 切っ先が、肌に触れた。
『なぁ、お願いだから冷静になってくれ。手の内は見せる。……お前が誰なのかは知らん、だがなんかの要人なのは分かってる。グループはお前をつかまえたい。それが〈敵〉に受けた仕事だから。ただ、私はお前が諜報員とつるんでいるのも掴んでいる。繰り返すぞ、私はお願いをしに来たんだ』
「そうだとして、身近にいるとでも言わんばかりだな」
『アンナなんだろ?』
「……っ」
 畜生、そこまで筒抜けなのか。
『肯定、ってことでいいな』
 動揺は本人が思うよりずっとすぐに波及する。
 そうだ、この一言の破壊力のために、今までの話があったのだろう。僕はやっぱり素人でしかないのだ。
 悔いた瞬間、直接アンナに言わない態度にいくらか腹が立った。開き直りか、八つ当たりか、どちらにせよ愚かな怒りだった。
「……そうだとしたらなんだ? 僕に降参しろってか?」
『悪かったつってんだろ』まずい、ちょっと喧嘩腰が過ぎたか。『……桐生萌のお願いとして、落ち着いて聞けよ』
 桐生は息を吸い込んで、注意深く声の尖りを削った。
『伊東は最初、篠をそうと知らせず知らない依頼者のふりをして情報収集に使っていた。だが、今は密偵だと疑っている』
 そこまできて、ようやくこいつの目的が繋がってきた。
「切り捨てるつもりなのか」
『ああ。それも、ボロを出した瞬間に。……伊東は歓迎会を盗聴しろという指示を、匿名で篠に出した。そして現場であいつを捕えて……』
 ああ、そういうことだったんだ。あっけないもんだ。こんなオチ、B級映画にさえ負けるんじゃないのか。
 最初から、アンナも僕も、浅間さんも、仕組まれていたのだ。
『お前、前に襲われたことを憶えているだろ? 襲撃する命令を出したのはあいつだ。あの失敗で相当キレてる。だから今度こそ歓迎会でお前たちを一網打尽にし、同時に篠に制裁を与えるつもりだ。それを、なんとしても止めなきゃいけない』
「訊いていいか」
『なんなりと』
「喫茶店で浅間さんに絡んだのは、歓迎会に来させないためだったのか」
『……なんだ、これじゃ私がバカみたいだよ』
 要するに、桐生の頼み事は――
『私をアンナに売って、篠を見逃すことはできないか』
 密告の取引だった。

 

 桐生の提案を僕はもちろん呑まなかった。
 でもここまで種を明かされた以上「嫌です、以上」と切り捨てることはできなかった。彼女も身の一部を切ったのだ。その覚悟を無碍にするのは、僕ではない。
 だから、代数を増やすしかない。
 僕は癒衣に気づかれぬようこっそりとアンナを呼ぼうとして、鉢合わせしてしまった。
 ちょうどたった今向こうも伊東たちの情報を握ったところだという。拍子抜けな話だが、彼女が無能なはずがないのだ。
 アンナは桐生にある提案をした。
「罠だと分かっているなら、こっちから掛かりに行ける」
 身元が割れているということは、逆にいえば注目を集められるということ――そう彼女は指摘して、手帳を広げた。
「これが予定の店内の見取り図。そっちも持ってる?」
『……ああ』
 もう驚かないが、やっぱりぬかりない。
「ここは屋上で、何か所か塞げば人を空間に閉じ込められる。でしょ?」
『そう。そこは私が仕切る段取りなんだ。だからお前らに……いや、言わなくていいな』
 桐生はこの立場が使えると踏んで僕らに接触してきたのだろう。
『店はもとからグルだし、管理会社にも息をかけてある。だから、血が流れなければ見つかりっこない。……いや、ちょっとぐらい流れても、だ』
 背筋が寒くなる一言だった。
「でも、逃げ場がなくなるのは向こうも同じ」
『……私が閉じこめろってことか』
「まず店内の照明を落とす。混乱のうちシャッターを下げ、そのまま内部に閉じ込める。……そっちの権限ならできるはず」
『ああ。だがじきに非常灯がつくぞ。システム上止められない』
「時間は?」
『一分半』
「問題ない」
 断言だった。
「脱出路は屋上の柵を越え、非常口の階段に飛び移る。その頃には自動的に通報が入ってるから……騒ぎを聞きつけた何も知らない警察に検挙させて、終わり」
『……異論しかないが、言える立場でもねぇな』
 桐生は呆れを固体化するように、マイク越しにため息をついた。
『乗るよ。暴れるだけ暴れてやる』
 
「私の失敗だった」
 通話が切れると、真っ先にアンナは詫びた。
「私は何も見抜けなかった。もし密告がなければ、全員を危険に晒していた。プロとして、失格」
 アンナは目を伏せて、拳を握った。
 駄々をこねる子供のようで。
 出会ってからいちばん幼稚な姿で。
「……どうして、私はミスしたんだろう。こんな簡単な罠さえ、見破れないなんて」
 プロとして。非日常を生きる、非日常でしか生きられない人間として。
 それは、もっとも僕に見せたくなかった姿だっただろう。
 でも、違う。
 それは失敗なんかじゃない。そう思った。
「顔を上げてくれ」
 こいつの人生。
 こいつの青春。
「なぁ。アンナ、人生で自分を計算に入れたことあるか?」
「……なに?」
「お前だって、クラスメイトなんだよ」
 一拍遅れて、僕のそらごとは彼女を揺さぶり起こした。
「情が、移ったって?」
 アンナは驚いたように顔を歪め、それから弱弱しく僕を見た。口にして、やっとそれが真実だと気づいたんだ。
「……そうだったかもしれない。……笑って。軽蔑して。こんな奴がスパイなんて、って」
「そんなことが言いたいんじゃないよ」
 まったく、なんでこんなにひねくれているんだか。
「疑問なんだけどさ。スパイであることと転校生であることは、どうして両立しないんだ?」
「……なにが、言いたいの」
「お前は、この毎日を、青春を信じたんだろ。信じることに正しいも間違いもあるか?」
 嘘だったとしても、間違いだったとしても、信頼の、信仰の価値は損なわれない。侮辱を受ければ受けるほど、信じたことを傷つけられない証にできる。
「お前の青春に、僕だってもう乗り合った仲だ。先が氷山でもいいさ」
「……そんなことばっかり、言う」
「笑ってくれ」
 その顔に浮かぶのは、諦めか、嘲りか、慈愛か、感慨か、こらえた涙か。どれであるのか、どれでもないのか。
 どれでもいいんだ。
 嘘だなんて、誰にも言わせない。
 君が信じたように、僕も君を信じる。
「私は、望海を守る」
「僕はいいんだ」
「よくないっ!」
 叫んだ。
「協力者は守る。守らなきゃ、じゃなきゃ……そういう風にしか、私は……生まれてから、そうやって教えられて、その通りに生きて、死ぬ……それだけなのに……」
 そこで気づく。
 ああ、そうか。
「僕と同じだ」
 同じように、何かを埋め合わせているんだ。
「生まれたときから、何かの代わりみたいな気分だったんだ。自分が生きているのが誰かのためだって思っていた。悪い意味で」
 罪人のように、周りの足し引きを合わせていた。
「それはポリシーじゃない。そういう風にしかいられないんだ。だから、嫌なこともやりたくないことも、僕が引き受けてきた。計算が上手くなった」
「……望海」
「アンナ、僕もお前も変わらないんだと思う。別の世界の人間だなんて思わないでくれ。同じ目線にいると思ってほしい。だから……全部終わったら、また青春ごっこでもしよう」
「……ずるい」
「そういう奴なんだ」
 アンナは「だから、望海は……」と呟きながら、目を逸らした。
 そこから先は、吹き込んだ夜風にかき消された。

 

15


『ああ……計画通りだ。篠は来ない』
 当日、桐生は電話の向こうで言った。
「分かった。すぐ行くよ」
『……待ってる』
 通話は切れた。
 癒衣。今も自室で眠る、癒衣。最後に話したときも「上手くいくかなぁ……」と心配していた、癒衣。
 それが最善でも、これから起きることを隠して申し訳ないと心の中で詫びた。やっぱりそれは罪深いのかもしれない。
 もしアンナに罪があるなら、僕も背負う。
 電話を切り、アンナに目を向ける。
 僕に何かを投げた。
「お守り」
 受け取ってみると、それは前に使ったイヤモニだった。
「起動は教えた通り、叩けばいい。場所も特定できるし、電源も数日は持つ……打ち合わせ通り、連絡はこれでする」
 これは秘密裏に桐生にも送ってある。方法は盗聴ビジネスとさして変わらない。隠し場所を伝え、受け渡しを行った。当たり前だが、対面するわけにはいかない。
「これでいいか?」
「銃は……」
「言っただろ」
「本当に、いいの」
「アンナが持っててくれ。僕が持ってるほうが、ヘマを打つ。……だろ?」
「……分かった」

 

 目線を交わす。
「作戦開始だ」

 

 最後の打ち上げの舞台――レストランは、ビルの屋上にあるビアガーデンみたいなお店。半分は屋内の個室、もう半分はバルコニー。
 バイキング形式とはいえ、高校生が気軽に利用する価格帯ではない。
『私は席を立って、警備に出てる』
 そう言っていたとおり、桐生は店内にいなかった。
 横長の宴会用個室にはもうたくさん料理やグラスが並べられていた。アルコールがないことにほっとしたが、まもなくいろんな奴らに話しかけられた。
「おっ、檜原じゃん」「わー、アンナちゃんだ!」「いやすごいな。武勇伝聞いたぜ」「伊東とやりあったって」「あの怪我ってやっぱそうだったのか」「さすがっすわ」「てかもう転校生に手ぇつけたのかよ」「我が校のドンファン」「死にやがれ」「そんな口聞かないの。アンナちゃんも無視していいからね、こんなバカ」
 見ている限り、こいつらがテロリストなんて信じられない。
 でも、僕の人生に信じられることはほとんど残っていない。
 ……中央にいるアンナは、不機嫌ななりに、普段の高校と変わらない様子に見える。緊張は見えない。
 僕にそんな器用な真似はできない。だから何も考えない。考えるな。言い聞かせる。

 予定の時刻。
『いくぞ』
 桐生の一言で、周囲の電源が落ち、シャッターの降りる機械音が響く。閉鎖が始まったのだ。
 一帯が暗闇に包まれる、その直前。
『望海!』
 掛け声で、僕は机によじ登り、アンナの方に向かう。卓上の料理が落ち、皿が割れる音が聞こえた。
 非常灯がつくまで、一分半。
 間に合え、間に合えと念じながら、暗闇に手を伸ばす。
 ――掴んだ!
 そのままあいてはぐるりとこちらの身体を抱き――照明が戻ってくる。
 そこに現れるのは、僕の頭に銃口を突きつけた、アンナ。
「抵抗をやめろ!」
 視線が一気に集まるが、もう遅きに失している。
 一歩でも動けば、僕を殺されてしまう――奇襲だからこそ成立する、ハッタリだ。
 あとは簡単。僕たちは堂々と脱出するだけ、

 

『なんで――なんでだよ! おい!』
 桐生の叫びが耳をつんざいた。
『なんで来てるんだよ! ――間に合わな』
 通信が切れる。

 

「……なに、これ」
 浅間さんが立っていた。

 

 記憶の欠落が戻るまでに、どれぐらい過ぎただろうか。
 後頭部の痛みから意識が戻ると、僕は手を縛られ、床に座らされていた。
「――アンナ!」
 まず脳を刺激したのは、床に押し倒されたアンナだった。暴れたのだろう、男子が数人がかりで押さえ込んでいる。意識はなさそうだ。抵抗したのか、男たちの目は血走って、憎悪に燃えていた。
 次に目に入ったのは、僕の前に現れ、屈みこむ伊東。
「どういうことか分からないなりに、分かってるんじゃないか?」
「……浅間さんは」
「最初に心配するのはそれかよ」耳障りな笑い。「ああ、心配で来ちゃったんだって。まだ殺してないよ。桐生と仲良くさせてある」
 そう言って、僕に何かを突き出す。
 ――ICレコーダー。気づいた瞬間、最悪の予感がした。
 そこから流れてきたのは、最初に何かがぶつかる音。
 悲鳴。
 誰かが誰かを呼ぶ。
 し、の。
 も、え、ちゃ、ん。
 そう聞こえた。
 取り囲む笑い。
 想像する限り、もっとも醜悪な笑い。
 絶叫。
「ま、よく頑張ったと思う。でも、最初から全部罠だったんだよ。檜原望海、お前を強奪するためのな」
「……どこまでだ」
「全部って言ったじゃん。この催しを利用することも、桐生の裏切りも、浅間が来るのも、予想そのまんま。違うのはお前の女が来てないだけだよ。……あ、もっと説明しないといけないか。あいつから全部は聞いてないだろう」
 僕を取り囲む一団。
「この作戦は入学前から始まってたんだな。全員ではないけど、ここにいる面々はみんな檜原を狙っていた仲間。逃げ場なんてなかったんだよ。まぁ、唯一檜原に勝ち目があるとしたらこのガキだったけど……ま、ガキはガキだな」
 どっと笑いが起きる。
「ま、それもこれも〈敵〉のスパイの指示に従っただけだけどな。雇われみたいなもんだよ。で、今回の命令はお前を奪取すること。それ以上は知らされてないし、ぶっちゃけこっちもどうでもいい」
 だから安心しな、と伊東は歪に笑う。
「檜原望海、ここでお前は殺さない。ただ、殺さないだけで、引き渡した先でどうなるかは保証しない。あしからず。……あと、お前がかかわった人間はもれなく全員不審死すると思うから身辺整理は心配しないでいい。癒衣ちゃんだっけ? あの女もかわいそうに」
 殺してやりたかった。
 人生で初めて、殺意が湧いた。
 人生で初めて、銃を持っていないことを、心の底から後悔した。
 しかし、こいつらを殺して何になる。何を呪う。
 分からない。
「以上。お前が知ることはもうない。……おい!」取り囲む男達に伊東が指示を出す。「二人を詰めて階下まで運び、脱出する。諜報員は処分、ターゲットは引き渡し場所に移す。いいか!」
「盗聴者はどうします?」
「制裁はもういいだろう。楽にさせてやれ」
 認めない。
 こんなバッドエンド、あるわけない。
 現実の拒絶。
 意識が遠のいていく。
 頭痛がこれほど心地いいと感じたことはなかった。
 二度と目が覚めないでほしい。
 アンナ。
 癒衣。
 浅間さん、それから、それから――

 

『残念ですが、楽しいパーティーもそろそろお開きです』
 有線が突然起動し、間違いなく聞いたことのある声がフロア中に響いた。
 それが合図だった。
 誰の声か悟る前に、爆発音が響いた。

 

 目が覚めると、事件はほとんど片付いていた。
 遠くでパタパタと鳴る音は、ヘリコプターの回転音。壁の向こうに見えるテラスには兵士がいる。あるいは武装警官か。どっちでもいい。
 彼らが空から降下して、テロリストたちを急襲したのだ。
 ……傍に横たわっているものを見る。
 桐生は、桐生だったものは、桐生でなくなりつつあるものは、腹部に何かの破片を受け、巨大な穴を開けていた。
 恐ろしくグロテスクで生々しいはずのそれは――どうしてか、まったくリアリティがなかった。匂いも生々しさもなく、黒ずんだ赤はただ、のっぺりとしていた。それが頭痛のせいなのか、あるいは現実感がないから頭痛がするのかは、はっきりしない。
 でも、夢でも幻でもCG映像でもない。
 声は出せないようだが、彼女はまだ生きていたのだから。
「やってくれちゃって」
 驚いて顔を上げると――そこには、ブカブカのコートを着た浅間さんが立っていた。テレビで見たことがある、軍用のものだ。身体のほとんどを覆う長過ぎる裾、そこから飛び出た傷だらけの生脚、裸足、頬にはまだ、乾ききっていない赤。
「寒いですねぇ。あ、檜原くん、お疲れ様でした。生きててよかったですね。あー、身体痛ったたた。不必要に殴って蹴って……制裁にだってセンスってあると思いませんか? 誤解されるけど、私はマゾじゃなく拷問フェチなんです。あげくにもえちゃんの前で服を剥がそうとしてきた時点でオチが分かったので失格させちゃいました。0点。でもこんな美少女スパイのあられもない姿を見られたんですから彼らの最期は幸せだったと思うんですよね。あ、でもそう考えたら穴だらけの肉塊になるなんて甘々の対価ですが。自分の安売り。悪い癖です。……って、あの」
 屈みこむと、彼女はナイフを取り出して、僕の腕の紐を切った。「なにぼけーっとしてるんですか。健全な男子ならえっちな格好の女の子が隣にいるんですからもっと喜んだりしないんですか? それとも性癖の不一致が」
「浅間さん」
「あはは」笑う。「ま、何が何だか分からないと思いますよ。こんな短時間でどんでん返しを食らったんですからね。そうだなぁ……話は移動しながらした方がいいですかね。……おっ、ガラス踏んじゃう」
 ぴょんぴょん飛び跳ねた彼女は、僕の傍に横たわった桐生に気づいた。
「あ、生きてた。もしもーし、もえちゃんおひさ。意識ありますかっ」
「か……ぐ、……は……ぎぎ……っ」
 喉が詰まっているのか、桐生の声はうまく聞き取れない。
「助けてほしい?」
「だ、だず、げげ……で、ぐ……」
「どーしよっかなー。あんなひどいこと言われたし。親しき中にも礼儀あり、って偉い人も言ってたよ。誰かは知らんけど」
「……へ、ぐががが、ご」
「なーんてね。仲直りタイムにしよ。どう? 反省した?」
「ごごご、げぇ、さ、ざい……づ……る、て……」
「よしよーし、わかればよろし。――おい、救護!」
 駆けつけた相手に浅間さんは「こいつを助けろ」と言った。
「しっ、しかし……それは」
「あ? 私の友達なんですけど? 友達を助けるのが我が軍の役目じゃないんですか?」
「……はぁ」
「いいから運べ。あとで指示するから」
「分かりました。作戦部長が言うならば……」
 どう見ても助かる見込みのない桐生が搬送されるのを確認して「じゃ、私も着替えたいし、次は上で会いますか」と言い残すと、浅間さんは去っていった。
 ぼんやりと目の前を見ていると、担架でアンナが運ばれているのが見えた。
 今も気を失っていたが、手当の様子を見るに、命に別状はなさそうだった。
 それを確認してまもなく、僕は気絶した。

 

16

「ヘリの乗り心地はどうですか?」
 また目が覚めると、浅間さんが隣にいた。今度はちゃんと服を着ている。階級章の読み方を知らないので官位は分からないが、将校を思わせる軍服。胸にジャラジャラとついているのは勲章かと思ったが、よく見るとアニメキャラの缶バッジだった。
「危なかったですね。私がいなかったらどうなったことやら、檜原くん。ともかく怪我なくてよかったということにしましょう。私が酷い目に遭ったわけですが。おい、どうなんだそこ。もうちょっと感謝を見せたっていいだろうが」
 蹴っ飛ばした前席の部下と思しき男は無言でぺこぺこと頭を下げた。こちらはスーツ姿だ。
「さて――これから空軍基地に一度降りて、車で出かけるわけですが、この空き時間を説明タイムにしましょう。質問ありますか?」
 僕は、バカみたいに当たり前のことを訊いた。
「浅間さんは……誰なの」
「いきなりいい質問です。褒めてつかわしましょう。……〈軍〉のえらい女の子といえば、もう分かることでしょうね。アンナちゃんから聞いたかもしれないのですが、〈軍〉と〈警察〉はそれぞれ違う私有のスパイを持っています。私は前者、アンナちゃんは後者ですね。別々に行動していた理由も知っているのでは? あ、彼女には申し訳ないのですが〈警察〉は低能の集まりなので、私の存在に気づきませんでした。……バックグラウンドはこれだけでいいです」
 今回の事件の話をしましょう、と彼女は気まぐれに話を変えた。
「私はあのグループの友達としての内通者でした。テロリストとしてではないので注意。……あのウジ虫どもがクラスに大量の工作員を送っていることは掴んでいました。全員ではない。全部で二十人くらいかな。男子はほとんどが〈手先〉ですね。で、アホみたいに筒抜けの情報収集をしていたから、利用されるふりをするのは簡単だった」
「……伊東も、騙されていたのか」
「そうですね。私のことは掴んでいなかった。……彼も哀れです。下手に逃げたせいでヘリの機銃掃射が直撃してミンチになっちゃったの、檜原くんは見ないでよかったですね。ちょっとは手加減した方がよかったかも。我ながら女って怖いです」
 浅間さんは楽しそうに喋る。
 僕は思う。
「浅間さんは……どこまでが、浅間さんなんだ?」
「全部嘘といえば嘘、ほんとといえばほんとです。私が賄賂狂いのクソ企業の娘なのは本当です。でも、私はそこを含む財界への密偵でもある。かつ、私が金目当てで悪い大人に踊らされるかわいそうな女子高生なのも事実。もちろんそれは裏返しで、全部演技といえば演技でもありますが……そもそも、演じるって何なんですかね。そういう哲学的な議論も――」
 そこで呼び出し音が鳴る。
 浅間さんが取り出したのは、かわいらしいスマホケースを強引にガムテープで張った、レシーバー。
 会話の断片が、痛む頭に染みていく。
「――あ、そうなんだ。潮時ですね。大丈夫? まだ生きてんの? 完全に死んじゃってたら意味ないので、そこんとこよろしく……いいからやりなさい。口答えするな。じゃ、そういうことで」
 無線を切ると、無邪気に笑いかけた。
「見ててください。面白いことが始まりますよ」
 指先にはそれほど遠くない位置を飛ぶヘリがある。ずっとついてきたのか。
「解説すると、あれはもえちゃんを乗せた〈救護機〉。よーく注目しててくださいね。……あ、来た!」
 ハッチが開くのが見えた。
 何のつもりだと目を開けていると――そこから何かが押し出された。
 搬出された何かはそのまま落ちていき、霞の向こうに消えていって、見えなくなった。
 ……まさか。
「檜原くんも、もえちゃんのご冥福を祈りましょう」
 浅間さんの無線。
 あれは、桐生を落下させる命令。
「なんで、そんなことするんだ」
「〈敵〉に与する人間への見せしめになりますからね。これで一個か二個は地下の反政府組織も空中分解するでしょう。人間誰でもやらかしはありますから、決定的に道を外れない人が増えるのはいいことです。死してなお、泣ける友情ですね。……ところでヘリから人が落ちるのって見たことあります? どうでした?」
 何も答えないのに浅間さんはむくれたが、やがて僕の全身が震えているのに気づき、ちょっとショックが大きすぎたかもねー、と前の部下に軽く言う。
「じゃ、疲れてると思いますし、続きは地上で話しましょう」

 

 着陸するなり、目隠しを被せられて連行され、何かに乗せられたところでようやく覆いが払われ、視界が戻ってきた。軍用車の中のようだ。
 僕は後部座席。隣には浅間さんが座っていた。
 手錠はない。逃げるという行為を想定していないようだ。ほんの少しでも反抗すれば即座に発砲できるように、前方の助手席には厳つい風貌の軍人がライフルを構えていた。
 ところが、傍に座っていた浅間さんは、すぐに前方の座席との間の天井に手をかけて、シャッターを下ろしてしまった。……尋問機能があるのか。
「よし、これで聞こえなくなった。さて、何を話します? 大名行列みたいに護衛車がついてて、なかなか進まないんですよ。……あ、アンナちゃんはこの車の後続に乗ってます。行き先が違うので途中で離れるでしょうけど。無事みたいです。ちょっと癪だけど、よかったですね!」
 アンナの名前を出したことには、深い意味はなかったようだ。
「結構かかりそうなので、どうでもいい暇潰しの会話もいいですけど……」
 自分でもよく分からないが、そのとき僕は浅間さんと普通に喋ることができた。
 振り返ってみれば、絶対に狂っている。
 ひょっとしたら僕もショックで狂って、波長が合ってしまったのかもしれない。
「……改めて、訊きたいことがあるんだ」
「んー? なんでしょう」
「浅間さんにとって、『好き』ってどういうこと?」
 彼女は唇に人差し指を当てて「難問ですね」としばし考えた。
「……うーん。果たしてどう言えば伝わるのか。これでも文学少女なので、人の言葉を借りましょう。『我々が装っているものこそ、我々の実態なのだ。だからこそ、何のふりをするべきか慎重に考えなければいけない』……好きな言葉です。あるいは、こう書いた作家さんもいる。『本当の自分になりたければ、装えばいい。誰もが装っているのだから』。どっちも、私の座右の銘ですね」
 ですから、私には本当も嘘もありません、と浅間さんは断言した。
「伊東くんが好きだったのも、檜原くんが好きなのも、もえちゃんとの友情も、利用するためにそうしただけのことでしたが、その時の私には、それが真実になったんです。だから矛盾はありません。本当のことは不要になれば捨てるものです」
「……じゃあ、僕のことも、その時は本当に好きだったと言えるの?」
「恥ずかしながら、その通り。だんだん分かってきたみたいですね」
 走行音だけが、僕たちの意識を揺らしている。
「それが一般的な『好き』と離れているのは知っています。……でも、スパイってそういう風にしか恋ができないんでしょうね。高望みだとしても……手に入らないんだな、って思うことはあります。……檜原くんと私の世界は、きっとあまりにも違うんです。生まれた瞬間から、私はそっちには行けなかった。だから……」
 彼女は黙った。
 その手元を見ると、指に痕ができていた。
 それを見ていたら、悲しくてたまらなくなった。
 だから言った。
「たぶん、僕は浅間さんの九割は理解できない。やってることが狂っているのも、はっきりいってそうだ。……でも、僕を好きだと言ってくれた気持ちに、嘘はないのなら、それは……信じる」
 こんな人間にのことが少しでも分かるなんて言えば、誰もが笑うだろう。
 でも、僕もまた、そういう生き方をしてきた。だからそれは同じだ。
「僕は浅間さんに共感してはいないけど、でも、同じ数式を持っているんだと思うよ。そんなの、慰めにならないかもしれないけど。……でも、同類のひとりぼっちがここにいるって思えば……暇潰しくらいにはなったんじゃないかな」
 浅間さんは、僕と違わない。そう言いたかった。
 同情でも憐憫でもなく、機械的に、肯定しなければいけなかった。その言葉を言うために、僕は存在しているんじゃないかとさえ思った。
 それが僕だから。
 ……彼女は何を思ったのか、知ることはできない。
 だから戻ってきた一言を、勝手に信じた。
「――ほんのちょっとだけ、生きてて報われた気がしました」

 
 やがて浅間さんは、これまででいちばん穏やかな声で僕に言った。
「そんなつもりはありませんでしたが、私ができる最大のお礼をします。檜原くんにとって、もっとも知りたいこと……大事なことを、伝えたいと思います」
 ただし、私が知っている限りです、と彼女は念を押してから喋り始めた。
「あなたはある実験と大きな関わりがあります。それは、〈警察〉でも〈軍〉でもない……私たちの知らない、政府直轄の、もっと恐ろしい場所で行われていたようです」
「……僕が、そんなことに?」
「もちろん檜原くんは何も知らないと思います。でも、きっと幼いうちから、無自覚に〈実験〉に巻きこまれている可能性があります。それなら、まったく普通の高校生の檜原くんが狙われる理由になるのかも」
 残念ながら、〈実験〉の詳細は掴むことができていませんが、と、浅間さんは話を結んだ。
「ありがとう」
 僕たちは空々しくて、やるせなくて、悲しい。どうしてこんな風に生まれてしまったんだろう。選べないなりに、どれを選べないかぐらいは自由であってくれたらいいのに。
 それでも感謝したいと思った。
 だから、こんな出まかせを言ったのだろう。
「今思いついたけど、僕と浅間さんには、違うところがある。僕は分からないけど……浅間さんには、好きなものがある」
「……好きなもの?」
「絵本、ちっちゃい頃から好きって言ってたよね。あれも今は嘘?」
「それは……」
「違うなら、スパイをやめてもきっといい絵本作家になれるよ」
「……檜原くんって、不思議ですね」たじろいだ浅間さんは、かわいかった。テロリストを空から突き落とした女の子なのに。
「でも、そうですね。だといいですけど。引退したら、やってみたい」
 浅間さんは答えた。きっと、本心から。
「……もし、もしも、檜原くんと別の場所で出会っていたなら。――私は」
 そこで会話は途切れた。車体に急ブレーキがかかったからだ。
「どうしたの!?」彼女がスリットを開放し、運転手に怒鳴る。
「ええと……その、前方の車両が止まりまして」
「何やってるんだか」呆れたように浅間さんは吐き捨てた。「早く動かしなさい。こんなことでいちいち止まっていたら〈軍〉の名折れになります。急ぎなさい」
「は、はいっ」
 使えないなぁ、と呟いて――「待って! 後退!」
 浅間さんが叫んだ直後に、銃声があった。
「作戦部長、敵襲ですか!?」
 クソっ、クソっ、クソっ……呪詛とともに、ついに人差し指の肌が破れた。
「……もういい! あと二十秒で遺書でも書け!」彼女は部下に怒鳴り散らした。「ああもう、やられたなぁ」
 それから僕を見て、言った。
「今すぐ外に出てください」
「おい、突然どうしたんだよ」
「こんな急なんて。畜生。たったこれだけなんて――」そうぼやいてから、僕に言った。「さよなら。出会えてよかったです」
「どうなさったんですか! 作戦部長!」
「いいからロックを外しなさい!」
 カチ、という音を確認して、彼女はドアを蹴り開けて――僕を全身で車の外に突き飛ばした。
「それと……ごめんなさい、
 ――浅間さんは、たぶん何かを言った。
 でも、誰に向かっての言葉かは、閃光と爆音で聞き取れなかった。

 振り向いて残っていたのは、爆風で後部をごっそりと抉られ、横転した車だけだった。
 浅間さんはもういなかった。
 真っ黒に焼け落ちていく車、その中のどこからどこまでが浅間さんだったのかは、もう確かめられなくなっていた。

「やったー、命中だ」
 へたり込んだまま、声のする方に首を向ける。
「望海、助けに来たよ」
 僕に笑いかけたのは、対戦車ミサイルの砲身を肩に乗せた、癒衣だった。

 

17

「篠たちは戦場に出るわけじゃないから、望海を逃せただけで健闘したと思う。信じてたとおり」
 癒衣は喋る。
「あー、怒ってるよね。ごめん! 篠なら絶対逃がしてくれるのに賭けた作戦なんだけど、どの裏ルートを通るかぐらいしか分からないから、あんまりいい方法を思いつかなくて。上層部も情報をもっとくれたらいいのになぁ。それに発熱剤のせいで具合もよくなかったし、もうちょっと時間があったら……そうそう、偽装だから今は健康だよ! 元気元気」
 癒衣は喋る。
「でも望海には誰かが血を流すところを見せたくなかったんだ。どう? そこはがんばったんじゃない?」
 癒衣は喋る。
「……そうだよね。私だって、篠を殺すのは気が進まなかったよ。忠誠心なんてないけど、どんなグループでも同胞は同胞だって教えられてきたし、それに友達だったから。ドン引きしたよね。でもしょうがなかった。これからは誰も死なないよ。望海は私が――」
 癒衣は一度、喋るのを止めた。
 よろめきながら、アンナが現れた。

「ああ、アンナちゃんまだ生きてたんだ。二発目は怪しかったけど、怪我してない?」
 癒衣は微笑んだ。
 アンナは何も言わず、癒衣に銃を向ける。
「撃てるなら、どうぞ」
 毅然と、癒衣は言い放った。
「撃てるなら、この場で私を撃ち殺してどこにでも行って。でも、撃てないのなら私に従って」
「そんなの、卑怯」
「スパイって卑怯なものなんじゃないかな」
「……癒衣、落ち着いてくれ。何も分からないんだ」見ていられず、割って入った。「なんでお前が、ここで……」
「これを持ってるんだって、言いたいんだよね」
 癒衣は砲身を投げ捨てた。
「そうだよね。薄々感づいてたよ。望海にとって、私は日常の象徴だったんじゃないかな。……それなら、信頼を裏切っちゃったね。でも、望海がどんなルートを辿っても、こんな日がいつかやってきたんだよ」
 癒衣の頭上から、冬風に揺られてはらはらと白い欠片が降りだした。
 ――雪だ。
「だって私は、望海を殺すために生まれてきたから」

 

 アンナは結局、銃を下ろした。
 撃つことができたなら、僕たちは最初からこの場に、このルートにいなかっただろう。
 癒衣はあっさりと先頭の護衛車を奪うとアクセルを踏んでその場を離れ、撃ち殺した乗員から服を剥いで着替え、次に僕とアンナに着せた。銃口を向けられた僕たちは、お互い背を向けたまま死人の軍服を着た。
 アンナはぶかぶかだったが、無理やりコートを被せて半身を見えにくくごまかした。もしこの中に長髪がいたら癒衣は容赦なく切っていただろう。
 この行動の意味は、もう作られていた検問に到達して明らかになった。
 生き残りを装った癒衣が、護送部隊が敵襲を受けた旨(専門用語が多くあまり理解できなかったが)を伝えただけで、兵隊たちは後部の僕たちを一瞥すると深く確認せず通してしまったからだ。
 その灯が過ぎ去って、癒衣はようやく口を開いた。
「めんどくさいので、前置きもなく二人を誘拐した経緯をベラベラ言っちゃうね。もう分かると思うけど、私はアンナちゃんより、もっと奥の人間。望海にはショックだろうけど……一般人からもっとも遠い位置にいるって言えばいいかもしれない」
「……隠してたのか」
「それは謝るしかないねー。でも、実は望海も人のことは言えなかったりして。ここに来るまでに知っちゃった?」
 答えない。
「望海だって普通の高校生なんかじゃないんだよ? それも、私が世界の果てなら、望海はブラックホールの向こう側ぐらい、もっとひどい。実感湧かないでしょ? でもね、望海はもう、私たちにも〈敵〉にも、とんでもない価値のある原石なんだ。強いて言うなら――ダイヤと違って、削ったら何が出てくるかは、みんな知らない。違いはそれだけ」
 ……もう、潮時だと思った。
「なぁ、勿体ぶらないでくれないか」
 何も分からないまま死んでもいいと、思っていた。
 でも、どうせ中途半端に知ってるなら、もう全部ぶちまけてほしい。
 陳腐なのは知ってる。でも、信じたい。
「――俺とお前の、仲なんだから」
 無言のまま、恐ろしく時間が経った。
 沈黙で窒息してしまいそうなほど喉が詰まった頃に、やっと答えが返ってきた。
「望海の脳には、秘密の情報を、絶対に盗み出されないように埋め込むことができる」
 だから、望海は生きる暗号なんだよ――そう言った。

 突拍子もない真実を言われると、あっけなく感じるんだという発見があった。
「私はその技術を研究する実験の補助をやった、偉い人直属の名前もない諜報機関の手駒。その最終テストとして、望海は一般社会に放たれた。それを監視するのが、任務。逆にいえば、どんなカードにできるのか、完全に知っている……あんまり、驚かないんだね」
「たぶん、使い果たしちゃったんだと思う。……それに考えてみれば、普段生きてきたのとあんまり変わらなかったし」
 何か大きいものに利用されて、埋め合わせをさせられて、そうするためにしか生きられない。
 その訳はひょっとしたら、僕の性格の根源にこの真実があったからなのかもしれない。
 そう思うと、腑に落ちさえしてしまった。
 ……だから、もっと大事なことを訊かなきゃいけない。
「癒衣は、この国から逃げるつもりなの」
「うん。〈敵〉の国に行きたいんだ。もう手筈はつけてある。偽装したヘリで来た〈敵〉の諜報員と合流して、そこで取引を確認し、私と望海は乗って出て行くの。そして、リミットはもういくばくもない」
 それまで黙っていたアンナが、口を開く。
「なんでなの」声は、いつになくか細く聞こえた。「もし発覚すれば、間違いなく重罪になる。そこまでの危険を犯すメリットもない。癒衣が共鳴する思想があるようにも見えない」
「一ヶ月ぐらいじゃ、分からないよ」
「分かるわけないでしょ!」
 アンナは叫んだ。
「分かるわけないから、信じてるの!! だから……」
 それは言外な告白だった。
「私と、望海に……嘘をつかないでよ……」
 三人でいる日常が好きで、三人で遊ぶゲーセンが好きで、三人で食べるご飯が好きで、三人で出かける部活動が好きで、三人がたった一ヶ月一緒にいたことが、こんなに好きなんだという、不器用な思いのすべてが詰まっていた。
 きっと僕は、アンナと同じかそれより早く叫ぶべきだった。
 こんなにも三人でいたがった癒衣が、どうして――って。
 なのに、何年も一緒にいたすべての思い出にに牙を剥かれて、何も言葉が出なかった。
「そうだなぁ……私、人殺しにもう疲れたんだ」
 癒衣はぽつりと呟く。
「だから引退したい。それだけ。これでどう?」
「嘘ばっかり! 秘密を扱う人間が向こうに行って、最後にどんな扱いを受けるか知らないわけない」
「理解してもらいたいとは思ってない。アンナちゃんや望海が納得しようがしまいが、既に準備はできているから」
 それは冷酷な、突き放しの一言だった。
「それに正直なところ、ここで言い争っている時間がないんだよね。待ち合わせると口で軽く言ってみても、空路も陸路も海路もすぐ塞がれる。大人は意外と優秀だからね。切り札もいつ使えなくなるか怪しいし……勝手に移動させてもらう。ごめんねー」
「逃げるって……そんなことできるはずない」
「できるよ。切り札があるから。何だと思う? ヒントを出すと、アンナちゃんより望海には馴染みがある」
 フロントガラスに映る癒衣の目の中は、ぞっとするほど空虚に見えた。
「……正解はね、私と望海が過ごした、あの〈町〉だよ」

 

18

 僕たちは、〈切り札〉に繋がる廃線を歩き続けた。
 横木は腐ったものもあれば硬いものもあったけれど、踏むたびにみしりと音がするのに変わりはなかった。それは地の果てから果てまで並び続ける縞々模様に思えた。
 空はずっと曇っていて、日中であること以外の時間感覚をすべて奪ってしまう。
 いつからか降り出した吹雪はやがて容赦なく背を押し、行く手を阻み、身体の隙間という隙間に冷気と水気を潜り込ませる。
 次第に視界も怪しくなってくる。線路の先がどちらに向かっているのか、知っているのは癒衣一人だ。
 誰も喋る気力がなく、ときたま僕がはぐれないよう前方のアンナが振り返ってペースをずらす以外、ただ先導する癒衣についていくだけ。
 頭の中はズキズキと滲んで、最初は痛みだったそれが、最後には無感覚になった。
 やがてトンネルの中に入ったところで、癒衣は地面に屈みこみ、側溝に手をかけた。開くと、下には地下のような空間が広がっている。
「縄梯子があるから、気をつけて」
 導かれるままに、三人で地の底まで降りた。

 

 迷路のような廊下を、懐中電灯の光だけで歩いていく。曲がって、登って、降りて、ひたすらにさまよう。空腹で身体の芯が捻れるようだった。
 ようやく目的の扉にたどり着くと、癒衣は何かのカードを読み取り機にかざし、中に入った。
 非常電源が動いてよかったー、と安堵の笑顔。
 内部は狭い図書館ぐらいの規模で、椅子も机もない殺風景な空間だったが、いくつか別の扉があった。それぞれに簡易ベッドや食料等の倉庫、生活に必要な設備が完備されているらしい。
「ここがシェルター。簡素なものだけど、食べ物も住居設備もある。お腹空いたでしょ。ごめんね」
「……なぁ癒衣、本当に町に近づいてるのか?」
「うん。っていうか、ここはもう町の中だよ」正確には、と天井を指さす。「ここの上は、もう町」
「地下に、こんな空間を……?」傍らの柱をアンナは撫でる。「大きすぎる。こんなの、何のために作られたの」
「〈実験場〉。言ったでしょ? 望海は特別な存在だって。その証の一つがここだよ。……実感が湧かないなら、望海、天気は小康状態みたいだし、あと何時間か猶予があるから、ちょっと外に出てみる?」

 

 故郷は一変していた。
 誰も住んでいないのは癒衣の口ぶりから予想していたが、家屋は荒れ果てて、平屋なら塀も屋根は倒れ崩れ、鉄筋の建造物の塗装はすべて剥がれコンクリートの地が剥き出しになり、もれなくガラスは割れていた。
 癒衣に従って、僕たちは短い時間、まだ雪の積もりきらない道を選んで外を歩いた。
 道中では懐かしさの残骸を何度も見かけた。ガソリンスタンドも、町で一つのコンビニも、個人経営の本屋も、木造の居酒屋も、すべて叩きつけられた瓶のように破壊されていた。
 たった半年前なのに。
 きっとそれは、癒衣も同じのはずなのに。
「たった半年でこうなったのか、って驚いた?」
「……そうに決まってるだろ」
「でも、この町はいつでもこうなることができたんだよ」
 言っている意味が分からない。
「ここは舞台で、建物はセット、住んでいる人は役者だった」
「望海のために町を作ったの?」
 口を挟んだアンナに、僕は唖然とした。
「この世界で生きてきて、そういう噂は耳にしたことがある。要人の息子の教育のため村を作って閉じこめるとか……でも、誰も本気にしていなかった。映画やSF小説みたいだけど」
「現実にあったことだよ。みんなで作った、嘘の世界」
 癒衣は張りぼての故郷を淡々と歩く。
「そして、そこで育った望海は、現実に生きている」
 
 シェルターに戻ると、癒衣は諳んじるみたいにこの施設と〈実験〉の説明をした。
「最初の記憶は、暗い場所。そこにあるすべてが灰色だったことを憶えてる。それからちょっと飛んだ頃には、もう訓練をさせられていた。実際に戦う訓練、戦うためのことを学ぶ勉強、人を殺す訓練……ある意味、それはお決まりのパターンかもしれない。だから未だにどうして私がここの作戦に呼び出されたのかは正直分からないけど、そんなもんだよね」
 ビスケットをかじり、汲んできた水筒で喉を潤しながら、僕たちは聞いた。
「私は被験者の監視と〈処分〉担当だった。一つ目は自分も子供に紛れていればよかったけれど、二つ目は、被験者が実験に利用できなくなることが多々あったから、大変だった。……最初に連れてこられたグループは、一週間ともたずに全員が死ぬか、廃人同然になった。でも、それでもマシな方。私が手を下す必要がないから」
 彼女は、言外に、自分が〈処分〉をした回数の方が多いとほのめかした。
「〈金庫〉を増設する技術はまったくの未発達で、何度も失敗した。……人間の脳には拒否反応があるのかな。手術自体の失敗が二割、数日から数週間の死亡が四割、生物学的に生きているだけの状態になったケースが、三割」
「残りの一割は……」
「暴走。他の被験者に危害を加えた。それも、軽い喧嘩なんてレベルじゃない。……痕跡の一部は、たぶんまだ学校に残っている。ここから逃げたとしても、地元の教育施設には近寄らない方がいいよ」
 それを、癒衣は〈処理〉した。
「三人以上の暴動になったり、さっきまで仲良く話していた子が豹変することもあった。でも、私はどうしたらいいか訓練を受けていたから、対応した。大人みたいに回りくどくなく言えば、最小限の損害で、殺した」
 癒衣が、人を殺した。殺すことを命令されて、行った。
 その頃の彼女は、僕と同じ、小学生から中学生だったはずだ。
 僕には、そのときの癒衣の内面を想像することさえできない。
「望海が来る前に、もう何度もそういうことがあったんだ。その度に痕跡を消して、新しい被験者を呼んで、困ったら記憶を消して……うまくいくはずがなかった。望海は最後に来た子たちの一人だった。ここで暮らす前のこと、憶えてる?」
「……何も、憶えてない。ずっと街で過ごしていたって、思いこんでた」
「だと思った。望海や私、それにきっとアンナちゃんも――」
 そう言って、二人が目を合わせる。
「……たぶん、私も同じ」
「そうなの。大人が集めた子供たちがどこから来たのか、誰も知らない。記憶を消されたのかもしれない。特別な技術がなくても、安上がりに薬漬けにでもすればいいからね……」
 僕は戦争で保護者を失った孤児だと、教えられてきた。
 だけど、そう説明されただけで、はっきりと証明するものを見たことがない。
「そんな子供が、いっぱいいいるのか」
「みたいだね。家族が死んだから引き取るのか、逆に生まれてからずっとどこかに監禁されていたのを孤児だったことにしたのか……私でさえ、何も手がかりは掴んでいない。ただ、ひとつのプロジェクトに二桁前半ぐらいの人数なら、必要とあれば料理に必要なタマゴみたいに使い潰せるんだと思う」
 僕たちはどこから来て、何者で、どこへ行くのか。
 子供たちは、終わる間際に三番目しか知ることはない。
「望海はたぶん、その中で奇跡と呼べるぐらいレアケースなんじゃないかな。成功率が皆無の技術で脳を弄られたのに生きていられたし、それどころか日常的に生活できたんだから。そうして、現実社会に送り出して、データを採集することになった。それも私の役割」
 でもね、と言って、癒衣は後悔の表情を浮かべた。
「これから話すことは、望海にとって、とてもつらいものになるから、言いたくなかった」
「言っていいよ」
「望海の脳でさえ、限界があるって言ってたんだ。だいたい十六から十七才くらいで、耐久出来なくなるって」
 すべてに説明がついてしまった。
「そのとき、僕を〈処分〉するために、癒衣がいたんだね」
「……私は、たくさんの命を奪った。言うまでもないけど、それはあまりにも罪深いことじゃないかな。それでも、だから唯一生き延びた望海を生かさなきゃいけない。望海を生かすために死なないといけないって、信じてる。……言い訳したいだけなのかもしれないけど、でも、何をされたって、望海だけは生かさなきゃって」
 あまりにも捻れて、あまりにも愚直な願い。
「そうやって、最後に殺すしかなくなっちゃうことからずっと目を逸らしてきたんだ」
「そんなとこも、僕と一緒なんだな」
「……どういうこと」
「だって、何かのために生きるしかないんだろ? そんなとこまで腐れ縁だったなんて、びっくりだよ」
「……そっか。確かに」
 僕たちの身体は、悲しさでできている。
 その悲しみを取り換えることはできないし、なかったこともできない。遺伝のように、役者のように、罪びとのように、逃げることはできない。
 それ以上、理由はない。
 なぜというものはない。
 ただ、僕たちがここにいる、それだけが悲しい。
「ひょっとしたら、頭痛も僕の〈耐用年数〉が原因だったりするのかな」
「きっと……そうだと思う。望海の脳は持たなくなってきてる。それが極限に達したら――他の被験者のようになるかもしれない」
 僕は、ただ生きているだけで、とっくに焼き切れる寸前だったのか。
「ならないかもしれない。たとえ健康だったとしたら、健康だという理由で望海を処分しないといけない。機密保持が、私の最優先命令」
 なるほど。見事なぐらい逃げ場がない。
「じゃあ、僕を渡すのは、僕が壊れてカードにできなくなる前に、ってことか」
「言いたくなかったんだけどなぁ」
 今から起きることを既に懐かしむような、世界一のどかな絶叫のような、死刑囚の悪戯のような――
「『向こうに行けば、治せるかもしれない』って聞いたら、どうする?」
 そんな笑みが浮かんだ。

 

「なんで、信じたの」
「アンナちゃん、見え透いた嘘だと思ったでしょ? でも、嘘でも信じるしかない。それは、同じ在り方をさせられた子供なら分かるはず」
「……そんなこと、言わないで」
「騙されて、裏切られて、でも最後には戻ってきてまた騙される……ごめんね。嫌なことを思い出させたかもしれない。……でもね、ほんとならほんとで嬉しいし、死ぬなら死ぬだけなんだから、信じて悪いことはないでしょ?」
 それはあまりにも絶望的で、祈りにさえ似た賭け。
「だから……謝る。悪者のふりしなきゃ、あの場から一歩も動いてくれないって、最初から分かってたから」
 僕を助けられるかもしれないから。
 針先の救い。世界の終りを一生待ちぼうけるほど、計算上の誤差と区別できない勝算。
 たったそれだけだった。
 間違いなく失うのに、ほんのわずかでもあがいた証拠を墓標として残すため。そんなからっぽに等しい配当にさえ、すべてを堂々とテーブルの上に乗せる。賭博中毒でさえ、ためらうゲーム。
 冴野癒衣は、それができる少女だった。
「何をどう謝っていいか、私は分からない。望海の人生全部が理不尽でできてることを、埋め合わせられる力があればいいのに。でも、私は騙して、利用して、隠して……」
「それは癒衣のせいじゃない」
「でも、私が負わないと、望海の十字架を誰が負うの」
 そう言われて、僕は驚くほど誰も憎んでいないことに気づいた。
「誰も背負えないよ。だから……赦す」
 神よ、なぜ私を苦しめるのですか? その問いに神は答えない。ただ沈黙したまま、天上でじっとゲーム盤を眺めている。
 答えを僕たちは知っているから。
 答えがないのを知っているから。
 なぜ僕が僕として生まれ、僕として死ぬのか――ただ疑問だけが、不可解に輝いている。
「そりゃあ、確かに僕の人生は理不尽だよ。でも、それが一つもなかったら、癒衣と出会うことはなかった。それは……寂しい」
「癒衣、私も同じ」
 静かに聞いていたアンナが、言う。
「私は、望海と違って癒衣のことを知らないけれど、でも、癒衣が望海を守っていてくれなかったら、二人に出会えなかった。……だから、責めないで」
 癒衣を否定することは、アンナを否定すること。
「それまでにどんなことをしてても、私にとっての癒衣を知っているから。世界中のみんなが憎んでも、知っている」
 そして、僕を否定すること。すべて、イコールだ。
「……でしょ? 望海」
「もちろん。だから……癒衣には感謝さえしてるかもね」
 あれほどくだらないことの埋め合わせに必死だったのが嘘のように、僕たちは気づかないうちに釣り合っていた。
「僕を殺そうとしてくれて、ありがとう」
「ずるいよ」
「私も思う。ずるい」
 ほんの少しつついたら消え去ってしまいそうなほど、最大の賛辞だった。

 

 まどろみに落ちる寸前で僕たちの目を醒ました異変は、〈敵〉からの予定変更の通告だった。
 突然の無線に応答を終えた癒衣は、困惑の顔を浮かべている。
「天候が悪化し始めた。時間を前倒しする……? まずい、予定が狂っちゃうな……これから急がないと――」
 遮ったのは、赤色になった照明と警告音だった。まもなく、ズシンというかすかな振動が方舟を揺らした。
「癒衣、何が起きたんだ?」
「たぶん、〈警察〉か〈軍〉。最悪の場合、協定を組んでこっちを追ってきたかもしれない。最悪のタイミング……」
 この場所が、予想以上に早く露見してしまったらしい。
「……戦うしか、ないのかな。でも、このまま迎撃したら間に合わない」
 打つ手なし――そんな空気を一閃したのは、アンナの挙手だ。
「私がしばらく足止めできる」そう言って彼女は立ち上がる。「二人は逃げて」
「待てよ。やっちゃダメだ!」
「そうだよっ、そんなことしたらアンナちゃんまで処罰される。考え直して。……そうだ!きっと一人で投降すればお目こぼしで済む可能性もある。一刻も早くここを出て――」
「二人とも助かるかもしれないんでしょ?」
「味方に銃を向けるかもしれないんだよ!」
 毅然と、迷わずにアンナは言った。
「私は、協力者の味方だから」
「……アンナ」
 短い躊躇いの後、横で癒衣が「行こう」と言った。
「そうだな。……また、三人で部活やろうな」
「合宿、楽しみにしてるから」
「当然でしょ」
 アンナは拳銃の安全装置を外してから、去り際に笑顔を見せた。
「私は高校生なんだから」

 

19

 脱出口に置かれたスノーモービルが雪に乗り上げてしまうと、二人は遠い灯を頼りに雪をかきわけ、膝まで埋まってでも踏みしめた。
「発電設備はすぐに止められないから、消えることはない、と思う」
「じゃ、あれを目指せばいいんだな」
 案外近そうに思えてきたが、これはきっと高所で事故に巻き込まれた人が地表を低く感じてしまうような錯覚なのかもしれない。
 それでもいい。
「癒衣、時計使えるか!? 時間は!?」
「……あと十五分!」
「クソっ、どこまで待ってくれるか――っ」
 ふいに全身から力が抜けた。
 手が離れ、僕の身体は横倒しになった。きっと雪には愉快な人間の痕が刻まれたことだろう。
「――望海!!」
 頭痛の予感に、思わず頭を覆う。
 頭蓋骨をつんざくような発火が一瞬だけあったが、気絶する前にたちまち消えた。
 痛みは人間の身を守る危険信号のシステムだと聞いたことがある。だとしたら、その必要はなくなったのかもしれない。
「リミットが、近いのかな」
「……そんな」
 癒衣にも、聞こえたらしい。
「大丈夫。まだいける。きっと、間に合う」
 根拠のない自信を空売りして、また足を運ぶ。
「時間に間に合わないかもしれない。急ごう」
「何言ってるの……そんなこと、今の望海じゃっ」
「僕が負けず嫌いなの、知ってるだろ?」
 そう笑ってやると、彼女は黙ってまた僕の手を取った。
 さすが。それでこそ幼馴染だ。

 

 町の果てにある合流地点のヘリポート
 そこにはおそらく小型の民間用に偽装されたヘリと、拍子抜けするほど顔なじみの人物――先生がいた。……もう、何も驚きはない。
「ひさしぶり。顔に傷が残ってなくてよかったわ」
「……やっぱり、先生だったんですね」
「そうよ。〈敵〉のスパイだと名乗り、あなたたちと同じ場所にいた……そこから推測できるくらいには、勘が鋭いのね……いや、鋭くなったのか。どっちでもいいけど」
「桐生たちをそそのかしたのがどうせあなたたちなのも、見当がついてます」
「おお、そりゃ怖い怖い。……準備はできてるかしら」
 訊かれて、「約束のとおり、武器はここに置いていきます」と癒衣は答えた。そして、自分の銃を取り出して、先生に渡した。
 振り回した側にもかかわらず、先生は終始不機嫌だった。
「およそ三分三十秒ほど遅刻したこと、高くつくわ。撃墜の巻き添えにでもするつもりなの?」
「すみませんでした」
「いいから乗りなさい。ガキのお守りに、怪しい天候で一人ヘリを操縦させられる身になってほしいわね」
 何か言ってやろうとしたとき、またしても頭の中がぐちゃぐちゃに混ざりだす。
 座り込んで、再び頭を抱えて悶えた。
 何甘ったれてるんだ。ここで気絶したらおしまいだろ。耐えろ。これは僕がやらなきゃいけない、最後のことなんだぞ。
「のぞみ……」
 立ち上がって「大丈夫」と言った。
「本当に使えるの? 知ってると思うけど、交渉時と中身が変化していたら、大変なことになるわよ」
「大丈夫です。適切に治療すれば、きっと……よくなります」
 先生を睨みつけて、癒衣は僕の手を握る。
「行こう、望海」
「ちょっと待って。……ごめんなさい、気が変わったわ」
 拳銃をコートから取り出すと、先生は癒衣に引き金を引いた。

 

 僕の傍から弾き飛ばされた癒衣を、先生は弾倉が空になるまで撃った。
 何度も、何度も、何度も、何度も、何度も撃ち続けた。
「……うん! やっぱりすっきりしたわ。考えてみたら、なんで女まで助けなきゃいけないのか分からなかったわね。檜原くんに関する科学的な知識があるわけでもない単なるボディーガードで、監視役だし。おまけにデキてやがるし、いらないか」
「ゆ、い」
 止める間もないほど、脳味噌のネジが外れるのよりも早く、それはほんの一瞬で終わった。
「あ、まだ動いてる。即死じゃなかったのね。私も腕が落ちたのかしら。そのほうが負けた女にふさわしいと言えば、そうかもしれないけれど。……檜原くん、どうしてそんな表情をするの? だって、この子は君を殺すためにいたのよ」
 癒衣。
「それに、生まれてから今まで檜原くんに媚びを売って騙し続けてきた。ポッと出での私よりよっぽど憎みやすいんじゃないかしら?」
 癒衣。
「冷静になったほうがいいわよ。檜原くんを殺すためだけに生かされてきた怪物と、化けの皮が剝がれてからも仲良くできると思う? 引きかえ、私は檜原くんを守ることしかしていないわ」
 癒衣。
「檜原くん、好き。檜原くんの顔が好き。それ以外はまぁ、どうでもいいんだけどね。だからもし中身が使い物にならなくても、私が引き取ってあげる。そうしたら身も安全じゃない? 少なくとも、白旗立てて道を逆戻りして警告なしで銃殺されるより、よっぽど幸せだと思う。まだ正気でいられるなら、ちゃんと判断できるはずよ」
 癒衣。
「のっ……ぞ、み」
 癒衣。
「ご、め……し、っ……ぱ……い」
 癒衣。
「……んばって……ばった……け、ど」
 癒衣。
「……な、も……きな……った、のっ、ゆる……しっ、て」

 

 癒衣は、どんな奴なんだろう。
 僕を殺すために、傍にい続けた女の子。
 僕を殺すために、傍にいてくれた女の子。
 僕の存在に、必要だった女の子。
 僕と鏡写しで、天秤の反対で釣り合っていた女の子。
 僕だけじゃない。アンナともそうだ。だって、表とも、裏とも手を繋げるんだから。

 

 立ち上がって、なんとかバランスを取る。ふらつくが、まだ身体の感覚は残っている。
 先生に目を向けて、一歩を踏んだ。
「……やっと、分かってくれたのね」
「ごめんなさい、無理です」
「へっ?」


 脚をバネにして、素早く先生に抱きついた。
 もし神様がいるなら、転ばなかったことを地獄でも天国でも感謝したい。
 身動きが取れないよう、強く、強く、掴んで離さない。
「なんなのっ――ついに頭おかしくなったの? ねぇ、離してっ、これじゃ身動きが」
「聞こえますか?」
 耳元に首を伸ばし、囁いた瞬間に、あがきも罵声も止まった。
 先生もやっと、遠くから響く、ノイズのような音を聞いたのだろうか。
 地の果てから聞こえる混信したラジオのような、その音を、確かに聞き逃さなかった。
「あなたの負けだからです」
 乾いた破裂音がした。
 きっと、人生で最後に耳にした銃声になるだろう。

 

 その主は、スノーモービルから降り立って現れた。
 ――アンナだ。

 

20

 先生はまず銃を落とし、それからぐったりと四肢を垂れて、僕に寄りかかって体重を預けてきた。ほんの少し重心を逸らせば、その場に落ちる。
 アンナの狙いは正確で、綺麗に僕や癒衣を掠らせず、一発で先生の胸部を打ち抜いた。ひょっとしたら、僕が押し止める必要もなかったかもしれない。
 きっと、致命傷だ。
 だから僕は彼女を抱えた。
「ひのはらくん」
 微かな音が、耳元で聞こえた。
 きっと彼女にとってこの瞬間は、人生最後で、それまでの時間全部より高値のつく数十秒。
 それを無碍にするのは、檜原望海に反している。
「あなたの目は、開いています」
 手を取って、僕の顔に据える。
「……みえるよ」
「見てください」
 するすると指から頬が落ちて、先生は雪原に崩れ、倒れた。
「ありがとうございました、先生」
 そんな空々しい言葉が、不意に漏れた。
 彼女のしたことを考えるならば、礼を言う必要はなかったかもしれない。そもそも、何に感謝したのかも変な話だ。歪だとしても彼女なりに僕を助けようとしたこと? 僕を好きになったこと? 保健室でくだらない話し相手になってくれたこと?
 どれなのか、全部なのか、どれでもないのか、考える余力は残されていなかった。
 でも、僕は言った。
 きっとそれが正解だと信じたから。贖いだと信じたから。
 ……ここまで来ても、僕はこの信念を捨てられないんだな、と笑えてくる。
 でも、〈信念〉ぐらいとまでは、呼べるようになったのか。
 だとしたら、変わったのかもしれない。
 たとえ何も変えられないとしても、僕たちが僕たちを肯定できたのなら、それは、大人たちへほんのちょっとした仕返しになったのかもしれない。
 今のところは、見逃してやろう。
 そんな捨て台詞を吐く哀れな悪役のように、清々しい気分だった。
 だから。最悪な世界を、見逃してやろう。

 

「癒衣! 無事? 今すぐ救護班が来るから――」そこで、叫びは途切れる。はっきりと、彼女の姿が目に入って、悟ったのだろう。
 癒衣にはもう、助けは必要ない。
 そういえば、僕も治しようがなかったんだった。
「どうして、ここを……」
 腕を慎重にほどき、耳元からそれを取り出して、小指の先ほどの破片を癒衣に見せる。前に使った、アンナのイヤモニだ。
「耳の中にくっついてたんだ。電源が切れてなかったのは、奇跡かもしれない」
「……実際、すぐ切れちゃったし」
「頭痛に苦しむふりをして、咄嗟につけたんだよ。先生が、癒衣に危害を加えるんじゃないかと思って」
 恥ずかしかったが、声を上げて喚いたことで怪しまれずに済んだのだ。
「一瞬でも位置が分かって、よかった」
 理解した癒衣は「かはは、やるじゃん」と褒めてくれた。「望海。最後の最後で持ってったね。役者の才能あるよ」
「……ここまで来たら、ほんとにそうかもな」
「アンナちゃんもありがと」
 私は、とアンナが俯く。
「伝えなきゃいけないことがあったから。……いいニュースと、悪いニュース」
「癒衣、どっち先がいい?」
 僕が訊くと、癒衣は「悪いほう」と言った。
「亡命を、〈敵〉は最初から反故にするつもりだった」
「ああ……やっぱり、そうだったんだ」
 癒衣の言う通り、僕も納得してしまった。
「〈敵〉の当局はあらゆる組織の協力をすべて否定している。私の推測では、すべてこの諜報員を〈解任〉する目的で仕組まれた罠だったんだと思う」
「じゃあ、癒衣と僕はそのために利用されただけってことか」
「……たぶん」
「最初から、ダメだったんだね」あーあ、と癒衣が声を上げた。「人生ままならないっすねぇ、お二人さん。それで、メインディッシュは?」
「いいニュースは……私たちは処罰されない。事件が発覚し、多くの諜報組織がこれを知った。癒衣が所属していた場所はすべて潰される。そして……三人を、事実上赦免することが決定された。私が『この亡命劇は強制的な連行で、二人は人質として連れていかれた』と報告したから。……向こうがダンマリなら、反証はできない」
「じゃあ……処罰は下らないってことか」
 なんだそれ。できすぎてるそ。
「嬉しいよ。ほんとにほんとにほんとにありがとう」癒衣は楽しげに、必死に声を弾ませた。「なんで、今になってなのかなぁ。そんなところまでオチをつけないでほしかったかも」
 アンナは顔を覆った。雪のせいで泣くことができなかったからだろう。
「ごめんなさい。私が、間に合わなかったから」
「冗談。――いいんだよ。アンナちゃんは頑張った。きっと何度も時間をループさせたら、ほとんどの回は、私が望海を殺すか、アンナちゃんが〈警察〉を止められなくて三人仲良く蜂の巣にされるか、望海のタイムリミットが来て終わるかだった。だから、このエンドはレアだよ。スーパーレアだよ。ウルトラかも」
「……それに、何の意味があるの」
「意味なんてないよ」
「そんなの、私にはっ、認められない……」
「これが私たちにできる最善のハッピーエンドなんだと思う」
 寝ころんだまま、癒衣は空に手を伸ばす。
「私たちが腕をギリギリまで伸ばして、手が、いちばん空に近づける――ここはきっと、そんな果て。だから、そう自分を責めないで」
 あそこまで連れてって、と癒衣が、ヘリポートの端にある信号灯のふもとを指をさす。
 柱のようなそれは、墓標を思わせた。
 まだ動く僕とアンナの二人がかかりで癒衣の両肩を担いで、連れて行った。
 最後の気力を絞りつくした心持ちで、なんとか耐えきった。


 ……三人で肩を寄せ合う。アンナを真ん中に、僕と癒衣が挟む格好だ。
 息が落ち着いたところで「案外、動けちゃったね」と言った。
「ちょっと足をつけてみたら、私も歩けそうな気がしてきた。見た目ほど傷、ひどくないのかな。ひょっとしたら案外みんな助かっちゃったりして」
「僕も、もう頭は痛くない」
「マジか。このまま何も起きなかったら、科学者ってバカなんだなーって笑えるね」
 逆転劇、来たか!? と僕たちは声を弾ませた。ゼイゼイと。
「でもさ、そうは言っても無罪放免って、どうしたらいいか困るよね」
「それ。アンナちゃんは任務完了だし、望海も私もこれで元の生活に戻れなんて無理じゃん?」
「じゃあ」アンナが提案する。「〈警察〉が嫌じゃないなら、私のとこに来て。移籍でも出向でも、なんでも理屈は付けちゃえばいい」
「ナイスアイデア。で、望海も来て三人でタッグを組んで悪と戦う。最高のスパイトリオだよ」
「僕までやらなきゃいけないの?」
「当然でしょ、機密を知ってるんだから。というか望海自身が機密なんだから」
「……大丈夫かなぁ。不安しかないけど」
「大丈夫。無理言っても私がなんとかする」
 つくづく三って数字はいい。
 こんなくだらない話を、いつまでだってできる。
「明日からが、楽しみだね」
「そうだね……」
「明日って、いい言葉だね」
 癒衣が、声を弾ませる。いや、声を握ることもできず、放すだけ。
「そんな言葉を、昔どこかで見たっけな。明日ほど、風船みたいな中身の言葉もないんだけどね。それでも、明日の話は、楽しいよ。特に、明日の天気を考えるのは……すばらしい」
 そうだね、と僕も言った。
 明日にも雪は止むだろうか? それを知ることができるなら、今はこんなにからっぽの空からでも、何か大切なことを受け取れる気がする。
 それはきっと、すばらしい。
 暖かさを分けるために肩を寄せ合うと、急に寒気は消えて、穏やかなまどろみがやってきた。心地よさに目を閉じる。きっと二人も目を閉じたと思う。
 さぁ、これで答えはゼロになった。
 引き算はもう終わった。
 これから待っているのは、足し算の青春だ。
 だから僕たちはもう少しだけ待とう。もう少しだけここにいよう。
 この雪原の中で。
 この結末の中で、いつまでも。

 〈了〉

『エヴェレット・ジャンキーガール』

「人生はたった一回のトリップで、なにもかもが重いんだよ」
フィリップ・K・ディックスキャナー・ダークリー

 

 

1

 朝の屋上は嫌いではなかった。
 朝露が空気と一緒に肺に吸い込まれる感覚は心地よい。ぼちぼち梅雨入りするだろうが、今年はまだジメジメとしてはいない。
 ただ、赤みがかった陽の明かりは嫌いだった。日光を浴びるのが心身によいという健康法があるが、俺は逆に穏やかな光を浴びると訳もなく空しくなるし、死にたくなる。
 でも今はいい。その方が自分がやりたいことに好都合なのだ。
 人目を気にしながらゆっくりと縁の方に向かう。うちの屋上はそもそも人が入るように設計されていないので、フェンスはない。
 ときどき死にたくなると、誰もいない屋上に来てぼーっとする。そうすると不思議と穏やかで、自分が空っぽになったような、あるいは既に空っぽであることを確認するような、そんな心地よさがある。
 落ちたことはないから、それこそこれが俺の健康法なのかもしれない。
「またやってる」
 後ろから投げかけられた言葉に、またかと思った。呆れと好奇の混じった野次馬がやってきたらしい。
「なんですか」
「ああ、やっぱりキミだったのか。安心」
「他の誰がいるんですか。こんなことする人間が大勢いたら困りますよ」
「こんな清々しい朝なのに何してるんだ、まったく」
「高いところが好きで」と適当に答える。「突然声を掛けて、落ちないか考えないんですか」
「『ベルリン・天使の詩ごっこ
 この人に倫理観はない。俺がもし本当に死んでもシラを切るだろう。
「戻ってきなさい。もう化学準備室、閉めるから閉じ込められちゃうよ」
「ああ、そうでしたね……」
 彼女は化学部の部長だ。
 屋上には通常の方法では上がれないのだが、設計ミスなのか、化学準備室の窓から強引に入ることができる。一時は通行税というあくどい商法を試みた化学部員もいたようだが、彼女は自称・良識派なため「見学」という名目で勝手に生徒を受け入れている。が、今では人気自体がないので人が全然来ない、と彼女は最近身勝手に嘆く。こんな惨めな場所が愛されているのは創作物だけなのだ。
 そんな部長は俺のことが気に入っているらしく、度々ちょっかいをかけられる。
 彼女の方を見ると、口元からは白い棒状のものが飛び出ている。
「これ吸う?」
 手渡されたのは棒付きのキャンディーだった。
「またアニメごっこですか」
「ほらー、またそうやって。屋上に上がって棒切れを咥えたくない高校生はいません」
 ちなみに彼女、確か三年生でトップ3だかの成績保持者である。アウトローを気取りたいが根は超真面目なので踏み外せない、腕力もないくせに破天荒でいたがるようなタイプだろう。言わないけれど。
「ほら、もう閉めちゃうよ。それとも先輩と二人だけでサボっちゃう?」
「無遅刻無欠席でしたよね」
「健康優良児なのだ」
 てへっ、と己の頭を叩く部長を見て、よし帰ろうと思ったときのことだった。
「あのさ、変なこと訊くけど」
 珍しく彼女は真剣な表情と声音で言う。
「変な薬とかの話、小耳に挟んだことってないよね」
「ここ、郊外の平凡な学び舎ですよ」
「いや、知らないならいいんだ。忘れて」
 怪訝な顔を「知らない」の同義語と察したのか、それ以上部長は何も言わなかった。
 なんとなく不穏なものを感じたが、どうせ彼女の気まぐれだろう。そろそろ戻らなければいけない。そう思って、縁から離れようとしたとき――
 誰かに見られているような、そんな感覚がした。

 

 何か、胸騒ぎがする。

 

2

 翌日、その予感は現実になる。

 

 電車で見知らぬ人と知り合うなんて、創作物の中でしかありえないことだ。
 移動手段に乗っている人間たちはみんな急いでいるし、その文脈から脱線して誰かと接点を持とうとする人は、犯罪者か危険人物ということになるだろう。
 こんなにも大勢の人がごった返しているのに誰の名前も知ることはない。
 そう考えると少しめまいがして、自分自身の名前も不確かで消えていくような気がする。

 

 けれど今日は違った。
 いつも乗っている最後尾の車両の前方、向かい側のドアの傍に立っている人物の視線を感じる。心なしか今日は人が少ない気がするので、気がついたのかもしれない。
 女子高生だ。
 制服で分かるが、彼女は同じ高校の生徒だった。我が校はリボンやネクタイの色が違う(一年が赤、二年が水色、三年が黄緑。信号機のようで笑える)ので、彼女が自分と同じ二年であることは一目見て分かる。
 彼女個人の印象は、人懐っこそうという感じだ。顔立ちは幼く、背丈と相まって中学生でもギリギリ通るのではないか。肩ほどで切り揃えられた髪は茶色く、朝の陽光で先が透けている。英単語帳を開いていたがまったく読んでおらず、俺をちらちらと見ている。
 何か俺におかしいところでもあるのか? と訝しんだが思い当たる節はない。制服はちゃんと来ているし寝癖もない。挙動不審だということも……たぶんない。だろう。
 列車が鉄橋にさしかかった頃、困惑は軽い苛立ちに変わった。
 他の生徒を避けるために一番ホームの階段から離れた車両に乗っているから、乗客はほとんどいない。
 何だってんだ? 俺のどこがそんなにおかしいんだ? 言ってみろよ。
 人目もないことだし、映画の台詞のようにそう言ってやろうかと妄想したが、サリンジャーの短編にエレベーターで乗り合わせた人に被害妄想でいちゃもんをつける登場人物がいたのを思い出してやめた。そいつは最終的に銃で頭をぶち抜いて死んだんだった。
 冷戦が破れたのは、最寄りのひとつ前の駅に着く直前。
 残念ながらここでどっと人が入ってくる。サラリーマンや他校の生徒もいるし、私立の中学生も混じっている。カオスだ。毎朝耐えるしかないゾーン。
 いたたまれなくなって仕方なく声をかける。
「そこにいると出られなくなるぞ」
 彼女は文字通りにきょとん、と表現したくなる顔をしたが数秒してやっと音に乗った言葉の意味まで追いついたのか「……あ、そういうことか」と手を叩いて「ありがと!」と笑い、こちらの近くまで移動した。
 駅に着くと果たして俺の言う通り人の塊が殺到してくる。もし先ほどの場所にいたら彼女は圧し潰されていただろう。
「助かった。いつも忘れちゃうんだ。ナイス」
 俺と向かい合う格好になった彼女が話しかけてくる。顔がちょっと近くて怖い。
「毎朝乗ってるのに、ってこと?」
 ですか、と語尾につけようかと思ったが、相手の声音で判断してやめる。
「ここが特等席なんだよね」
「何の?」
「さて、何でしょう」
 そう言って謎かけを出したようににやつく顔が癪だったから何も答えないでいると、今度は「ねぇ、キミさ」と言い出す。「私のこと、知ってる?」
 一定の間隔で車両が揺れる。彼女の顔をちゃんと見てみるが、記憶にない。
「知らないけど」
「ふーん。そうだよね。そうだよね」
 そう勝手に独り合点される。「このキミは知らないだろうね」
 この? どういう意味だよ。
 コミュニケーションが成立していない。向こうが一方的に言葉を撃ち込んだ後に頷いている。会話のドッジボールでさえない。一方的な狙撃だ。
 さらに彼女は「当ててあげよっか」と唐突に言った。
「は? あのさ、さっきから何――」
「キミの名前」
 そのまま顔が近づいてくる。息づかいと空気中に放散されている体温を感じる。
「福宮高校二年のD組、山田リュウくん」
 耳元で囁かれた。
 粘ついた舌の音が一瞬だけ鼓膜に残ったが、まもなくすれ違う快速の爆音で掻き消される。
「おい……何で知ってるんだよ」
 最初に感じていた怒りは困惑に変わり、今では恐怖になりつつある。彼女は俺のそんな様子が楽しくて仕方がないのだろう、なおさら笑う。
「お前は誰だ」
「仕事が嫌になり、制服のコスプレをして電車に乗るのが趣味になってしまった新卒のOL」
「は?」
「……かもしれない」
 唖然とする俺が愉快で仕方ないというように、彼女は声を弾ませる。
「それとも夜な夜な魔物と戦う少女で、退治したけれど手ごわかったせいで朝帰りで寝不足」
 かもしれない。
「または攻略不可だがコンシューマー版で個別ルートが実装される人気投票七位のヒロイン」
 かもしれない。
「でもやっぱり電車で毎朝乗り合わせるだけの、平凡で誰も気にかけない、ただの女子高生」
 かもしれない。そう彼女は繰り返した。
 その言葉と同時に、電車が緩やかにスピードを落とす。少し平静を取り戻して、極限まで丁重に「いい加減にしてくれないか」と言おうとしたところで、彼女は再び顔を近づけて。
「でもね、確実なことは一つあるよ。それは――」
 言った。

 

「キミは私に愛されてるってことだよ、リュウくん」

 

 瞬間にドアが開き、どっと人が溢れホームまで押し出されて、彼女の姿を見失ってしまう。
 すべて夢か幻覚だったのではないか。そう思って頬を撫でる。
 何か巨大なものがやってきて、処理するのに時間がかかっている感じだった。
 俺はただ、昨日の雨で水たまりを作ったプラットホームが水色に光っているのを、しばらくぼんやりと見つめていた。

 

3

 海のない県の見るべきところのない日本中の郊外のひとつ、都会でも田舎でもなく、両者から侮蔑または無視を受ける緩衝地帯。
 その灰色の団地で生まれ育ち、狭く遊具のない公園で遊んで……いや、ゲームや漫画や動画サイトで育った中流家庭の少年少女たちが、川沿いの私立高校に通っている。
 高校受験では滑り止めによく使われていることぐらいしか入学前の俺は知らなかったが、今も知っているとはいいがたい。
 中学時代、誰でも高校はどんな場所だろうと想像する。当時は高校生が大人のように見えたし、創作物の中での高校はよかれ悪かれ興味をそそられる描き方をされていた。凡庸な中学生だったので、スクールカーストは本当にあるのかとビクビクしていた。
 実際はどうか。それはよく分からない。
 正直なところそういった概念ははっきり見えなかった。見た感じでは、誰もが平凡に学校生活を送っている。そして自分も、漠然と死にたいと思いつつも、それなりに馴染んではいる。
 はっきりした友人はいないが、誘われれば会話の輪に加われるし、それは誘われる程度には信頼関係を置かれているとうことでもある。発言したことはないしやかましいので通知を切って気が向いたときにしか見ないが、クラスのSNSグループに入ってもいた。
 深入りはしない。けれど孤立もしていない。
 そうやってうまく立ち回る技術を身につけている。本当はクラスメイトの顔や名前さえ覚えておくのも面倒だけれど、社交性というのは一度身につけてしまえば割と自動的なものかもしれない。でも、そういった考えが見え透いているから、決定的に誰かと親密になれないのだろう。
 楽しいかと言われれば、まったく楽しくない。何も感じない。そして今も、死にたいと思っている。

 

 昼休みはもう始まっていて、食堂は人で溢れ購買のパンにはとっくに列ができているが何も食べないことにしたのでどうでもいい。
 梅雨が明けてほしくなってくるこの頃、ちっとも空腹にならない。もし脳がバグっていて本当はエネルギー不足なのに腹が空かなかったら唐突に餓死するのだろうか。そんなくだらない想像に身を任せてみる。
 授業中、電車での出来事について少し考えてみた。彼女は何が狙いだったのか。でも自分にはいい推理などできようもない。
 ぼんやりして、焦点の定まらない目でずっとクラスの喧騒を見つめている。きっとまだ幻を引きずっているのだろう。寝ぼけたまま、机に突っ伏す。
「もしもーし。応答せよ」
 誰かの声がする。自意識の展開を一時中止して眼を開くと、鼻がくっつきそうなくらい近くに女の子の顔がある。
「山田係長、午後からお眠ですか。いい御身分ですなぁ」
 彼女は人差し指でからかうように俺の頬をぷにぷにと押す。迷惑だったが止めるほどではなかったのでそのままにして、片手で目を擦る。
 顔を五秒ほど見てようやく、彼女が誰だか脳から情報を引き出せる。
「電車で、……見た」
 そうだ。あの女の子だ。
 呼び方が分からないのと再びの困惑で言葉に詰まっていると、「ああ、名前知らないんだっけ」と彼女も思い至ったらしい。
「とりあえずリリって呼んで。……変だなぁ。いまさら挨拶するなんて」
 また、そういうことを言う。
「だから、なんで俺のことを知った風に言うんだよ」
 さっきは動揺していたのでされるがままだったが、ようやく疑問をぶつけることができた。
「だから、自由に想像していいよ。一〇〇パーセントの彼女でも宇宙の待ち合わせ室で会ったのでも、ずっと前から探していた気がしても」
「黙れ」
 媚びた声に反射的に返してしまったが、後悔する必要はないと判断した。どうやらこっちも遠慮しないでいいらしい。
「性質の悪い悪戯はやめろ。殴りたくなる」
デートDV! 鬼畜! でもときどき殴られるけど本当はリュウくん優しいって知ってるよ。月一でファミレス連れてってくれるし」
「黙れつってんだろ」
 声を荒げたことで周囲の注目を集めてしまう。いや、というかクラスメイトならさすがに知ってるはずなのでつまるところ恐らく彼女は別のクラスで、なのにわざわざここまで来ていれば目立つのは当然なのだ。案の定、近くの女子グループがこちらを見てひそひそと話し始めている。
「なんで俺に関わるんだ」
「えーっと、まぁ正直全部気まぐれなんだけど。ここまで関わったからには、ここでのリュウくんにも教えてあげることにしようかな」
 ここで?
 そこで思い出す。そういえば電車でもこいつは変な言い回しをしていた。まさかヤバい人間に絡まれているんじゃないだろうな、と身構える。
「休み時間、まだあるね。じゃ、行こっか」
 そう言って彼女は俺の手を握り、引っ張る。勢いで立ち上がってしまうと、そのまま引っ張られていく。
「おい、どこに連れてくつもりだ」
「ここではないところ」
 先導する彼女――リリは、そう言ってにっと笑った。

 

 ここではないどこかとは、どこか?
「屋上じゃないか。お前、知ってたのか」
 空きっぱなしだった化学準備室、その窓をくぐると半球で頭上を覆う空が広がっている。日差しで乾いたのか、水たまりはコンクリートの上にぽつぽつと点在して日光を反射している。
「人目に付かないところがいいからね」
「どうしてだ?」
 そうですねー、とリリは勿体ぶる。
「これからキミにプレゼントをします」
「プレゼント?」
 俺が眉をひそめると、待ってましたとでも示すようにリリはポケットから四角いものを出した。それはフリスクの入れ物の大きい版みたいなピルケースだった。
「……これは?」
「『エヴェレット』だよ」
 そう言って何錠かぱらぱらと掌に取り出して、見せる。
 それは白くて小さな錠剤だ。
 リリはもっと小さな容器(カメラのフィルムを入れる容器だろう)を取り出すと、錠剤を入れて俺の手に握らせる。
「いや、こんなものもらっても困るだろ」
「大丈夫。毒じゃないよ。危ない薬でもないし。少なくとも現行法では」
 ダメな奴だった。
 ケースを放り投げようとして「ダメ! もったいない!」と制止される。
「待って待って待って待って、本当に大丈夫なんだって! 話聞いて! 女の子の話を聞かない奴はモテないぞ! 私以外に!」
「……お前、本当に何なんだ?」
リュウくん、これから真面目な話するから、ご傾聴を」
 そう言うとリリが俺からぴょんと一歩離れ、こちらに向き直った。
リュウくんはさ――今とは違う人生を生きたいって思ったこと、ある?」

 

 今と違う人生?
「真面目な話なんだよな」
「うん」
 深く考えずに答えた。
「……違う、と思う。まず、ずっと死にたいと思ってる」
 この一言で怯むかと思ったが、「ふむ」とリリは驚かなかった。
「で、それは何が起きても変わらない。そりゃ、人間だから後悔や願望がまったくない訳じゃない。でも、それが解決されても死にたいままだ、って気がする」
「きっかけはあるの?」
 ああ、と俺は頷いてみせる。
「知っている人の影響でな。その人は、俺にいろいろなものを残してくれた。でもそれは、一般的にいい意味だけじゃない。むしろよくない影響を大いに受けている。自殺願望も、そのひとつなんだ」
 リリは「その人とは、いろいろあったんだね」と言ったが、それ以上は訊いてこなかった。
「ああ、大きないろいろだ。すごく大きくて、ショックだった」
 どうして俺はいきなりこんなことを喋っているのだろうか。普段なら、絶対に喋らないはずなのに。
「で、そのいろいろがあって、なんかこう……膜みたいなものができたんだ。それがときどき視界に張ったりする。いつもじゃないんだけど、視界だけじゃない。身体を包んでいる感じがする。ここにいるのに、ここにいない感じがする。それが気持ち悪い。たぶん……それを細かく言語化できないから『死にたい』と言ってるんだと思う。なんでこんな話してるんだろ」
 意味わかんないか、と俺よりずっと意味の分からない人間に釈明してしまう。
「……なるほど。こういう人なのね」
「いや、さっきから何のつもりだ?」
 リリは俺の疑問を無視して「でもさ、それって本当なのかな?」と話を変える。
リュウくんが感じているのは、いわゆる解離だよね。目の前で起きていることが切り離されている、自分自身がここにいないという感覚。そしてそれは、現実とギアが合わない、遊離した状態。ストレスからの自己防衛。でも、それなら、もし心から落ち着いて、ストレスがなく、楽しい生活を送れるなら、どうなるかな?」
 何も言えないままでいる俺を尻目に、リリは「間違ってたら申し訳ないけどさ、リュウくんの心の中、どこかには――」と、言葉を継ぐ。
 そして、ある指摘をした。
「――別の人生を生きたいという気持ちもあるんじゃない?」

 

 フィリップ・K・ディックというアメリカのSF作家がいる。
 彼は親知らずを抜いてから幻覚に悩まされ、自分が別の世界に生きていた、という前世のような記憶に悩まされていた。
 そんなあるとき彼は読者の女性から手紙を受け取る。見ず知らずのはずの彼女はディックのことを知っているという。実際に会った彼の主張によると、両者の記憶はほぼ完璧に一致していたという。
 ……俺の経験はどうなのだろうか。
 突然知りもしない女の子に絡まれ、訳の分からない薬品を渡された。

 

 この怪しげな錠剤は何なのか。
 リリはこう説明した。
「これを飲んで、何か願ってごらん」
「……願う?」
「そう」とリリは元気よく頷く。
「なんでもいいよ。あ、でも、できれば『異世界で女の子とキャッキャしたい』みたいな荒唐無稽なのじゃない方が安全かも。現実の範疇で、もしこうなっていたら、というのがいいと思う。えーと、テストで満点を取るとか、くじで当たるとか……あ、でも他の子と付き合ってる世界はやだな」
「断る」
 ノーモーションの返答にリリは「がーん」と自分で効果音をつけた。
「もうっ、真面目に聞かないんだから。せっかくの耳寄りな話なのに」
「知らない物質を知らない人間から貰って飲む奴がいるか?」
「だからー、『エヴェレット』って言うし、もう他人じゃないって!」
 なぜこんなにも図々しいのだろうか。
「最初は混乱するだろうけど、説明するより実際にやってみるのが早いからね。じきに効果が切れて戻ってくるし安全安全」
「いや、話を聞けよ」とたじろぐ俺にリリはぐいぐいと押してくる。
「うーん、そんなに怖いなら……まぁいいか。今ここで試してみる?」
 そう小首をかしげられる。
「ここで?」
「そう。二人で飲む。私が直々に使い方をレクチャーするの」
「そこまでして俺に飲ませたいのか……」
「いや、これはたぶんリュウくんが望んでることだよ」
 リリは「さっき訊いたよね」と俺に言質を取る。

 

『――別の人生を生きたいという気持ちもあるんじゃない?』

 

 それに俺は、答えられなかった。
リュウくんは、もしいいことがあっても、死にたい気持ちは変わらないと言ったよね。でも、私はそうは思わない」
「……もしそれが正しいなら、どうするんだ」
「私が連れ出してあげるんだよ。『ここではない人生』へ」
 どうやらリリは本気らしい。
「これからキミの人生を、変えてあげる」
 なるほど確かにこの女は狂っているだろうが、それなりに一理ある意見を言っているのかもしれない。納得はできていないが、積極的に反論できる材料もない。
「だけど、やっぱりそれでも死にたい気持ちは変わらないはずだ。どんな理屈か知らないが、お前が言う通りなんでも願いが叶っても、それは同じだ」
「んー、そこまで言うなら賭けてみようよ。もし私がリュウくんに生きてるのが楽しいって思わせられたら私の勝ち。死にたいままだったらそっちの勝ち」
「……はぁ」
 自信ありげに笑ってみせる彼女を見ていると、なんだか断れない気がしてくるから困る。
「なんならありがちなことしてみよっか? 勝った方が相手に言うこと聞かせられるってやつ。いやーん、リュウくんのえっちー」
 面倒くさくなってくる。もう何でもいいか。
「……もういい。分かったよ。飲めばいいんだろ、飲めば」
「よし! 決まり。休み時間が終わる前に、急いじゃおう」
 そう言ってリリは「割って半錠……いや、一錠でいいか」と呟いてから、掌に再び錠剤を落とす。「リュウくんもひとつ出して」
 言われた通りケースから丸い物体を取り出す。
「一瞬で舌で溶けるから、呑み込もうとしなくて大丈夫。お互い飲んだら私が手を握るから、意識を集中してね」
「どうしてだ?」
「はぐれないようにするんだよ」
「いや、意味分からん……」
「ま、いいから。じゃあ――」
 いくよ――という掛け声に慌てるが、今更逃げるわけにもいかない。
「せーのっ!」
 そして俺たちは、異物を口に入れた。

 

 それから起きたのは、信じがたいことだった。

 

 最初に感じたのは地震のような揺らぎだ。
 ぐらぐらと視界がブレて、平衡感覚を失いその場に崩れる。
 立っていられない。身体の全体が小刻みに震える。膝をつく。額の冷たさに気づく。冷や汗。リリを呼ぼうと口を開いたが声が出ない。気道を息が抜けていくだけだ。
 その次に激しい頭痛が来た。呻きたくても声帯はまったく機能しない。歯を食いしばろうとするが口元は既に弛緩している。
 耐えきれずに眼を閉じると、目蓋の裏に直線や円や菱形などの幾何学的な模様が浮かんでは消えていく。見ているうちに吐き気がしてきたが、幸いなことに何も食べていなかったせいで一度小さくえずいただけで嘔吐はしなかった。
 やがてある臨界点を超えた瞬間、痛みは唐突に力を失い、脳の中がどろどろに溶けて混ざり合い消えていく。身体が溶けていく。自分がどろどろに溶かされて床に垂れ落ちる。思考も、意識も、何もかもが液状になって、世界の中に染み込んでいく。
 まさか死ぬのか?
 そう考えて一瞬安らかな気持ちになったが、少し遅れてパニックがやってきた。
 自分が消える!
 おそらく人間には消えることへの本能的な拒絶反応があるのだろう。クジラのイメージが現れる。昔読んだ本だ。クジラの集団自殺。陸で呼吸していた先祖の記憶を思い出したクジラが突然溺れ岸に殺到する話。
 金縛りにあらがうように必死に手足を動かし頭を振ろうとする。四肢があったはずの場所に意志を込める。動け動け動け。
「――リュウくん! 手!」
 ある感触がある。どこかに力がかかっている。温かい何かが接触している感じがする。
「集中して!」
 しばらく一点に意識を向けていると、少しずつ自分自身が再構成されていく。外界と自分の区別が少し戻ってくる。幾何学模様が人間の形を取る。はっきりとは見えないが、そこに人間がいるようだ。
 リリだろう。
「大丈夫。ゆっくりと呼吸して。これから私が調整するから、こっちに意識を向けて」
 思考は粘ついてまだ鈍いが、少なくとも聴覚は戻ったのか、なんとか内容は理解できた。
「手を離さないで」
 言葉が聞こえる方に、そして握られている手に集中する。強く握る。
 ――飛ぶよ。
 その一言で何もかもが拡散し、
 まもなく、超然とした静寂が訪れる。

 

 気がつくと俺は遠くから景色を見つめている。
 いや違う。目の前にリリはいるし、ここは屋上だ。でもなぜか遠くからそれを見ている感覚もある。
「戻ってきたみたいだね。よかったよかった」
「……これは」
「『ここではない世界』だよ」
 奇妙だ。見えないけれど目の前に薄い膜が張ってある、そんな気がする。半透明な膜。
「別の世界に来た……のか」
「どちらにもいる、と言った方が正しいかも。ゆっくりと意識を下の方に向けてみて」
 言われた通りにすると、もう一人自分がいた。
「なんだ、これ……」
「ゲームのプレイヤーになって、自分をコントローラーで動かせると考えてみて。リュウくんは今、ふたつの身体を同時に操作できるんだよ」
 ちょっと慣れが必要かもしれないけどねー、とリリは付け足す。
「試しに下の自分の身体を動かしてみよっか。今、どっちでも私の手を握ってるよね。上だけ離してみて」
 そう言われても……と思ったが、少し集中すると案外あっさりできた。
「合格。これでちょっと分かったかな」
「……俺は分裂してるのか?」
「当たらずとも遠からずだけど。さっき言った通り、両方の世界に同時に存在できる的な」
 相変わらず訳が分からないが、とにかく危機は脱したようではある。こんな目に遭って本当は文句の一つでも言ってやるべきなのだろうけれど、とにかく余裕がなかったし、自然に状況を受け入れている自分もいるわけで。
「……で、これからどうなるんだ」
「準備完了だよ」
 だから説明しろ……と言いかけて、上とやらの自分がふらりと揺れ、へたり込む。そしてそのまま上の意識は消えていく。
「あー、ちょーっと疲れちゃったか」
「待てよ! あの俺はどうなるんだ」
「大丈夫。私が見ててあげるから、とりあえず上では休んでてもらおうかな。さっそく見に行こっか」
 そう言って、またしてもリリは俺の手を握って引く。
「だから、何を」
「まぁ、見ればだいたい分かるって」
 彼女に連れられていく自分を、上にいる自分がおぼろげな意識でぼんやり眺め続ける――その奇妙な感覚は、薄れながらずっと続いていった。

 

 連れ戻されたのはD組の教室だったが、様子がおかしいことにすぐ気づく。
「……誰だ、こいつら」
 人間関係に頓着ない自分でも分かるほど、明らかに知らない顔がいくつもある。
「教室を間違えたんじゃないのか」
「ふふ、どうでしょう」
 思わせぶりなリリに少し苛立ちながらクラスをもう一度確認したが、やはりここはD組らしい。
「おい、どういうことだよ」
「うーん、でも全部説明したら面白くないからなー……って、あ! ちょうどいい」
 何がだ? と言ってやる前に、こちらに手を振っている生徒たち二人がいることに気づく。
 それぞれ男女だが、近寄ってくる顔にはやはり見覚えがまるでない。間違いなくこんな奴らはクラスにはいなかった。
「お前らどこ行ってたん?」と男子の方がリリに話しかける。髪の毛から爪先まで、いかにも、というステレオタイプなノリのよい男子高校生という印象。部活はやってないだろうが、オタクではないだろう。ネクタイを緩く締めて、ヘラヘラと軽薄そうに笑っているのが少々不快に感じる。
「ネズミ空気読んでよ。せっかくお楽しみだったんからさ」と女子。リリよりいくらか大人びた印象で、先端が緩くカールした髪の色は明るい。何かで染めているのか、地毛なのか微妙な色味なので、校則と折り合いがつかなそうだな、などと思う。シャツのはだけた首元がやたら周囲から目立っていて、スカートの丈も周囲より少し短い。腰には脱いだカーディガンの袖が締められている。何か意味があるのだろうか。
「せっかく昼はみんなで食べてるのに二人だけの世界ですよ? 誰も触れないじゃん、宇宙の風に乗ってるじゃん」
「まぁ、無視されるのはちょっと嫌なのは分かるけどさ」
「いやいや、私は友人として心配してるんですよ? だいじょぶ? 変なことされてない? 切った髪とか売らせてない?」
「方向性がニッチすぎるだろ……」とネズミと呼ばれた男が呆れる。
 なんだこれ?
 勝手に進む会話に「いや、ちょっと……」と口を挟もうとして、「リュウ、どうしたの?」と女の方が訊いてくる。
「……俺のことを知ってるのか?」
「何言ってんの? まさか記憶喪失プレイ? 泣きゲー?」
「真面目に答えろ」と語気を強めた。「なんでここにいるんだ? お前らなんて知らない。同じクラスじゃないだろ」
 ようやく向こうの方も事態の奇妙さに気づいたのか、俺の言葉に二人は顔を見合わせる。リリだけは、相変わらずニコニコと朗らかだ。
「ま、わたくしが放課後に種明かしをしましょう」

 授業中ずっと生きた心地がしなかった。自分が分裂した感覚は片方の意識が消えてからも続き、目の前で起きていることにまったく現実感を覚えられなかった。喋っている教師も当てられて答える生徒も、すべてが演劇を見ているように他人事に感じられた。
 解離という言葉を思い出した。
 何らかのストレスや精神の変調によって、現実感を失ってしまう精神的な症状。
 俺はまさに、その状態にいるのだろうか?

 

「さて、さっそくネタバレですが」
 放課後、訳も分からず連れられた駅前の喫茶店
 各々が慣れた手つきで注文するから困った俺はリリに任せたところ、甘ったるいアイスコーヒーが出てきて喉が粘つく。リリはクリームソーダだ。溶けたらベトベトしてちっとも美味しくないだろうに、なぜ飲むのだろう。二人がブレンドと紅茶だったので一人だけ浮いている。
 俺をほとんど無視して、三人は勝手に話を始める。
「なんと! このリュウくんは『ゾンビ』ではない、本物です」
 唐突なリリの発表に、ミドと呼ばれる女の方が「……マジ?」と呟く。
「じゃあ、リアルの方で『エヴェレット』を飲ませたわけだ」
 ネズミとやらの男がすかさず口を挟む。
「……それ、いいん?」
「へーきでしょ」とミドにリリは能天気に答える。「そんなこと言ったらミドたちがもういるし、ひとりぐらいなら」
 二人はそう言われて少し黙り、それからネズミの方が「まぁ、いいのかなぁ」と呟いた。
「そうそう。ちょっとした悪戯だと思って」
「うーん。あたしにはよう分からんけど。そんなことしても面倒なだけっしょ?」
「俺とはどうなるんだよ」というネズミの指摘にミドは口笛を吹こうとして失敗する。
 そんな様子を眺めながら、俺はリリを問いただす。「さっきから意味が分からないが……まず、恋人ってどういうことだ?」
リュウくんはさっき『エヴェレット』を飲んだよね。で、別の世界にやってきた――正確には私が連れてきたわけだけど。そこがここ。で、そこで私たちは彼氏彼女の関係。頭ついてこれてる?」
 多少小馬鹿にされた気がしながらも、リリはようやく真面目に説明を始める。
「薬の効果を理解するなら『一時的に並行世界に行ける』と考えるのが分かりやすいかな」
 ――並行世界。
 その言葉に、俺は眼を見開いていた。
「もちろんさっき言ったように一定期間だけ。効果が切れれば元の世界に戻る。でも、それまでは自由に好きな世界を望みどおりに移動できるんだよ」
「どんな世界でもいいのか」
「基本的には。……あ、ただ場所と時間は変えられないよ。あと言った通りあんまり現実離れしたところに行こうとするのはおすすめしないかな」
「なぜだ?」
「身の危険があるんよ」とミドが口を挟む。「いきなり異世界に飛んだとして、そこの物理法則とか状況をしっかり思い描けないとヤバいよ。んー、たとえば、地球が消滅した世界に行こっかな、と思う。行ってみる。すると生身で宇宙に放り出されることになって、死ぬ」
「……『エヴェレット』を使って飛んだ世界で死んだら、現実ではどうなるんだ?」
 素朴で、恐ろしい疑問だ。
「『バッド』って呼んでるんだけど、同時に操っていた身体のうち、現実の方に意識がいきなり戻る。間違いなくパニック状態になるね。……死んだと思ったのに生きている、ってのはマジで怖いよ。絶対おすすめしない」
リュウくん、絶対試しちゃだめだからね」
「ああ……」とリリに答える。そうだ、こいつは俺の自殺願望を知っているんだ。
「でも、それ以上危ないのは現実の方で動かしてる身体が危険に遭うこと。リュウくん、これだけは必ず注意してほしい」
「……もしそうなったら?」
 俺の問いに、三人の空気が少し変わる。
「とにかく、気をつけろ」とネズミが話を打ち切るように言った。「身体の動かし方がよく分からないうちは、絶対に安全な場所で使え。……こっちも守ってやれないかもしれないから」
 何かが引っかかったが、とりあえず気圧されて頷いておく。
 ……そのあたりで話がひと段落したので、脳内で理解できる限り情報をまとめてみた。
 要するにこの薬を使うと幻覚が見られるってことか。俺はそう考える。
 並行世界なんて行けるはずがない。
 けれど、疑似的にはそういうことができる薬も存在するのかもしれない。もちろんそれは法的にグレー……いや、アウトな可能性もあるが、もう俺は使ってしまったから手遅れだ。
 そこで、さらに疑問が浮かんでくる。
「そもそも、こんなものどこで手に入れてるんだ?」
「教えてくれたんよ、リリが」とミドが答る。「これ、言っていいよね?」
 リリが頷いて、話を継ぐ。
「深くは言えないけど、ある人から貰ってるんだよね。わりかし大量に」
「……簡単に手に入るのか? そんな薬があるならとんでもない値段になるはずだ」
「いや、今のところほぼ私たちとその人しか『エヴェレット』のことは知らないよ。だから薬に関してお金のやりとりはしないようにしてる。その人とも、私たちのうちでも」
 待ってくれ、と思う。仮にも錠剤であるからには、どこかで作られたはずだ。それとも、そもそも個人が密造しているのか? というか、誰が開発したんだ? 疑問は尽きないが、これ以上掘っても答えてくれなさそうな反応だったので、話を移す。
「だいたい分かった。じゃあ、『ゾンビ』ってのは……」
「おっ、もう分かる? 『エヴェレット』を使っていない、現実ではなく飛んだ世界の先にいる人たちをそう呼んでるわけ」
 ネーミングセンスが欠如しているのはともかく、だいたい状況は理解できるようになってきた。つまり、リリはどういうわけか知らないが俺をこの並行世界で彼氏にしていたが、悪戯なのかなんなのか、リアルの方を呼び出したということになる。
 身勝手だ。
 けれど自分が乗った話でもある。糾弾することはできない。
「乗っかっていないときの自分の脳が持つ記憶はどうなるんだ? たとえば、リリが彼氏にしてる『ゾンビ』の山田リュウは、今乗っかっている俺の記憶を持ってないのか?」
「持ってないね。その記憶は『エヴェレット』を使っている人間のものだから。その世界で私たちが起こしたことは完全にそのまま残るけれど、向こうの記憶から『エヴェレット』のことは削除される。空いた部分で『ゾンビ化』した自分は偽の解釈をねつ造するでしょうね。感情や記憶を後付けして」
 へぇ、都合のいい話だ。
「じゃ、このリュウとは初めてってことなんだな」
 いつしかじゃれ合いが終わったのか、ネズミがリリに訊く。
「あ、確かにそっか」
「へーおもしろ。じゃ、自己紹介でもする?」
 ミドの提案に二人は同意する。
「じゃ、俺から。こういうのは一番手がいいんだよ。……はじめまして、重松初鹿。こっちで同じクラス、っていうか前の席。リリがせっかくだからみんな同じクラスにしようってことにしたんだよ。あ、ネズミっていうのはあだ名な。ハツカネズミから」
「あたしがつけたんだよ」
「俺は嫌い」
「は? 文句あんの?」
 放っておくとすぐにミドとの掛け合いが始まるらしい。
「お前ら……いや、今は俺もだけど、一緒の世界を共有してるんだよな」
「『シンクロ』だね」とリリは補足した。「こっちに来るとき、私と手を繋いだでしょ? あれをそう呼んでる。慣れてきたら別に身体が触れ合わなくてもいいんだけど。でも、リュウくんがどうしてもって言うなら……」
「あー、ったるい」とミドが遮る。「あ、これも慣れと個人差なんだけど、同じ要領でお互い別々に『エヴェレット』を使っているとき、近い場所にいると『あ、近くにいるな』って分かったりする。三人ともできるので、あまり悪さしてるとバレちゃうからそこんとこ注意」
「ちなみにもーっと上手くなると人のいる世界に勝手にチューニングして乱入することもできます。すごいでしょ。逃がさないから」
 リリの目は本気だった。
「清純でいいねー、私だったら誰と何してようが気にならないけど。ね、ネズミさん」
 ネズミは「あ、ああ……」とぎこちなく頷いたが「ってか自己紹介はいいのかよ」と脱線した話を戻した。
「あ、そうだった。やっと私の番来たわ。福岡碧十七才。ミドでよろしく」
 ミドはんーっ、と右腕を上に伸ばしてから、指を顎に当てて「だる」と呟く。背中を逸らせて張った胸からなんとなく目を逸らす。
「で……最後は真打」
 残された最後の一人は、隣に座る俺の眼を見て言う。
「大久保璃々。リリって呼んでね。私の彼氏くん」

 

 そこで意識は遮断された。

 

「……んっ、起きたね」
 俺が目を覚ましたのに気づいたのか、リリの声がする。
 眼を開くと彼女の顔がある。髪が垂れ下がって、さっきまでと少し違う印象を与えている。そしてその背景には、少し赤みがかった空がある。
 俺は屋上に横たわっているのだ。
 首の柔らかい感覚に、それがリリの膝であることを察する。
「ごめんね。ちょっとミスしちゃったかも……あんなに途中で切れちゃうとは、不覚」
 その言葉で、すべてが実際に起きていたことなのを実感する。
 そして、次に気づいたこともある。
「ずっと、こうしてくれてたのか」
「ずっとって?」
「昼休みから、放課後まで。ここでずっと傍に」
「あはは、気づかれましたか」
 リリは、授業をサボってまで俺のことをずっと見ていたのだろう。
「サボらせちゃって、ごめんね」という謝罪に「いや、それはいいけど」と俺は困惑を口にする。
「教室に行って、保健室に行ったって言っておいた。確認されたらバレちゃうけどね」
「そこまでしなくても、いいのに」
「いやいや、私の自慢の彼氏さんなんだから、これぐらいなんてことないよ」
「……そういうことじゃないと、思うけど」
「いいの。私がやりたかったからやった。女子高生の膝の感触も味わえてお得だと思ったらええねん。これにお金払いたい人もいるんだよ?」
 相変わらずふざけて笑うこいつが、俺には理解できない。
「じゃあ、とりあえずありがとう。……でもこの俺がお前の恋人になるかは何とも言えない」
 はっきりと俺はそう言う。それでもリリは「うん」と驚かない。
「大丈夫。私は好きにしてみせるから。そして、リュウくんに、生きていることは楽しくて……まぁ、悪いこともないってことを教えてみせるから」
 よろしくね、とリリは言う。
 自信ありげな彼女の笑顔を見ていると、なんだか不思議になる。
 まだ一日と経っていないのに、どうして俺はこんなことになっているのだろう、と。
 ――夕の光が空を穏やかに包んで、彼女の髪先をまた透かしている。

 

5

 マンションの一室、電気もつけずにソファーに寝転がった。
 ひと財産を築いた姉によって用意された、高校生には不相応の我が住まい。ひとり暮らしにしては部屋が綺麗なように見えるがなんてことはない、少し散らかってもハウスキーパーがやってきて掃除されているだけだ。借金だらけだった時期からすれば信じがたいことだ。
 そしてその金の出所を快く思わない人間がいるのも事実だろう。
 姉を、人々は詐欺師と呼んだ。

 

 並行世界という言葉には聞き覚えがある。
 それは、あまりよくない方向でだけれど。
 俺には姉がいる。いや、いた。

 

 山田奈央――そう、姉のナオが自殺したのは、ちょうど俺が高校に入る直前のことだ。
 俺たちは出会い、十年と経たないうちに彼女は死んだ。
 再婚した両親を心中でなくしていたから、彼女は精神的に身内と呼べる最後の人間だった。
 畏敬する姉。
 偉大なる姉。
 かつての俺にとって彼女は神にも等しい存在だった。

 

リュウ、この世界はひとつしかないと思うかしら?」
「……なにそれ?」
「言葉通り。現実というのはひとつだけで、私もリュウも同じ世界に属していると誰もが思っている。リュウもそう思う?」
「どうって……それ以外ないと思うけど」
「でもね、実際には違うのよ。……『環世界』という言葉がある。あるクモは餌の熱源を確認すると手を放して下に落ちる。コウモリは超音波で物体を認識する。それらの生き物が感じる世界は、人間のそれとは大きく違う」

 

 学者の家系、その著名な物理学者の父を持ち、自身はヒトの脳に大きな興味を抱き、巨大な絵空事を夢見た姉。
 彼女は父の研究を支えるうちに頭角を現し、高校在学時点で各界から注目され、『天才少女』という陳腐な肩書でメディアに華々しく取り上げられた。

 

「こういう考え方は決して異端というわけではないの。カントは何世紀も前に感覚器官と概念によって人間の認識は決まることを論じた。一九六〇年代では、ティモシー・リアリーのようなカウンターカルチャーを信仰した人たちが、意識を変調させることで人間の認識を広げられることを期待した。マクルーハンというメディア学者はメディアを『人間を拡張するもの』と捉えた。……ま、インターネットは期待を満たさなかったけれどね」
「……また危ない話?」

 

 業績を理解できるほどの頭を持たない俺には、研究者として彼女が実際に何をしたのか語ることはできない。少なくとも世間的には単なる『時の人』としてすぐ忘れられた程度だろう。さんざん彼女を祭り上げたアカデミックな世界にも最晩年には完全に見放され、存在自体を黙殺されたという。
 曰く――気が狂った。
 彼女は『量子脳理論』という絵空事固執した狂人かつ、それをビジネスに利用した詐欺師という評価のまま、研究者としての生涯を終えた。

 

「世間的に認められる話ではないわね。でもね、私は自分の研究に意味があると信じてる。哲学もそうだけど、何より芸術には、今ここにある場所とは別の世界を志向したり、この世界の不確実さを表現する作品がたくさんある。カフカ安部公房ボルヘス、SFならディックやバラード……音楽なら、サイケデリックビートルズは世界一有名なロックバンドのひとつだけど、彼らもどっぷり浸かっていた」
「うーん……難しいから分かんないけど、すごい」

 

 今からちょうど二年前、彼女は自ら命を絶った。
 姉の活躍によって両親が事業の失敗で遺した莫大な借金も消え、表面上俺たちの人生は前進しているように見えた。
 姉の出身と同じ高校に入学が決まり、それまで研究とやらでしばらく疎遠になった彼女とようやく再会するという、直前のことだった。
 俺は驚かなかった。いつ死んでもおかしくないと心のどこかで思っていたからだ。世の中には表面上どんなに健康に見えても、明らかに「この人は長生きできない」と思わせる人がいる。そういう人だった。
 けれど予感していたこととはいえ、自分にとってみれば世界が終わったようなものだった。姉のすべてに憧れ、姉のようになりたいと願い、姉の言うことをすべて妄信し、全知全能だとまで思っていたのだから。

 

「私はね、科学も芸術の次元に追いつくべきだと思う。この世界は思ったよりずっと柔らかく不安定で、ある意味たくさんあることを科学的に証明したい」
「そんなことできるの?」
「そんなの、この天才に任せれば簡単……だったらいいのだけれど。でも、それが実現したら世の中は間違いなく爆発的に変化するわ。宮沢賢治という人はね、『完全な証明が可能になれば科学も信仰も同じようになる』ということを言った。私が目指すことも同じよ」
「そうなったら、どうなるの?」
「――そうしたら、何もかもやり直せるようになるわ。人類の生活は一変する」
「ずっと一緒にいられる?」
「もちろん。私たちは一緒にいられるし、それで誰も不幸にならない」
「そっか。姉さんなら絶対できるよ」
「ふふ、ありがとう」

 

 家族が俺たちだけになってから、俺はずっと姉に支えられてきた。それを失った打撃からは、まだ抜け出せていないのかもしれない。
 打撃――いや、それは呪いに近い。
 姉は最後に決定的な呪縛を残した。
 彼女の遺書には、こう書き残されていたのだから。

 

 リュウ
 並行世界で会いましょう。

 

「どんな願いも叶う」という薬を手に入れて、どうして姉のことを考えているのだろうか。
 リリと別れる折に、彼女は「やっぱりひとりで使うのはまだ早いか……」と当然の反省をしたようで、もし興味があるならまた屋上に来るように、と言われた。その時に『エヴェレット』も返しておいた。
 姉の言う並行世界なんてない。あの薬は、単に夢や幻を見せるだけだ。
 それでも思う。
 もし会えるのなら、何を話すだろう?


6

 『CLOSED』と札のかかったドアには鍵がかかっていなくて、中も無人だった。
 入った途端、窓の向こうから「やっほー」と声がした。どう応じたらいいのか分からなかったのでしばらく無視していたが、やがて向こうから近づいてきそうだったので仕方なく窓を開けて屋上に降り立つ。
「やーやー、リュウくん」
 たむろしている三人のうち、リリが俺を呼ぶ。
 もう片方の女子もちいさく頷く。伸びた前髪で顔がよく見えない。前めちゃくちゃ見づらそう。昼間はだんだん蒸し暑くなってきているのに、シャツの上から長袖のジャージを羽織り、ズボンも履いている。体育の授業後に着替えが間に合わなかった、みたいな印象だ。生徒指導とかに怒られないのだろうか。
「おっ、っぱ来てくれたじゃん」
 隣の男子も俺に声を掛ける。外見でまったく特筆すべきところがない。強いて言うなら三人とも立っている中で、ひとりだけ背が低いくらいか。目を瞑って三秒ぐらいしたらもう忘れかねない。アニメの中のモブの方がまだ個性を作っているとさえ言えそうだ。
「お前らは誰だ?」と単刀直入に尋ねる。
「……ひど」
 女子はいくらか傷ついたらしい。
「あ、そっか。リュウとはこっちで初めてなんだよな。またしても」
「ややこしい」
 二人に「そうそう」とリリは相槌を打つ。「ほら、もいっかい挨拶しなよ」
「あーい。ネズミだよ。よっす」
 そう言った男子が握りこぶしを見せたが、俺が一切反応しないのを見るとまもなく気まずそうに下げた。「……で、こっちがミド」
 男子――つまり、ネズミの紹介で、彼女も会釈する。
 そこでようやく思い至る。
「ゲームの、キャラメイクみたいなもんなのか」
「お、冴えてる」とリリは感心したらしい。
 願いを叶えられる。それは決して世界の側だけではないのだ。おそらくは、自分自身を変えることもできる。別の世界にいる別の自分をイメージするのだ。
 つまり昨日『エヴェレット』を飲んだあとに出会った二人の姿はゲームならアバターのようなものなのだろう。そして今目の前にいる二人はリアルのプレイヤー、ということになる。
 少しずつ分かってきたことも増えてきた。更に俺は訊く。
「……昨日俺が意識を失った後、俺はどうなったんだ?」
「抜け殻の『ゾンビ』に戻った。何も知らない、向こうの世界のリュウになった。何も教えてないからな」とネズミは答える。
「向こうのグループで『ゾンビ』だったのはお前だけ。リリが勝手に彼氏にして連れまわしてたから、自然と仲間入りしちまったんだよ。な」
「でも、誘ってよかった、と、思う」と小さくミドも言う。声帯が常に迷っているように震えている声からは、未だに昨日と同じ人物なのか信じがたい。
「お前らの惚気なんて見たくないけどな」
「はい、そうやって非モテぶる。隣にミドちゃんを侍らせるくせに」
「えー、こいつはちょっと……」
 ミドが素早くネズミの足を踏む。「痛い痛い痛い! ミドさんごめん超可愛い、萌えー」
 がしがしがし、と追撃が続くのを眺めながら「これからどうするんだ」と俺はリリに訊く。「また飲むのか?」
「もちろん」
 そう言って彼女はポケットからケースを取り出し、俺に渡す。
「おふたかた、ラブコメもいいけどやるよー」
 その言葉で、二人に緊張が走ったようだ。リリに続き、両者もポケットから容器や袋を取り出して、錠剤を取り出す。俺もそれに従う。
「量はどうするんだ。前回みたいになったら……困るんだが」
「あー、それね。じゃあちょっと足すか」
「いや、ちょっとの方がいい。切れてきたらまたこっちに戻って飲めばいいんだし。リリ、それで問題ないよな?」
「結構持ってるから今なくなるってことはないと思うよ」
「よっしゃ。じゃ、とりあえず四人で初めてってことだし、全員短めでセットしようか」
 そうして三人は俺に分からないような内容のこまごました短い話し合いの後、錠剤を薬包紙の上に小分けして何個かを割り、四人分の量を揃えたようだった。そこには当然、俺の分も含まれているのだ。
「よーし、これでいいか。リュウ、だいたいこれで学校終わりに切れる計算。最長でも夕方のうちには完全に戻るはずだ。詳しい計り方はまたリリに教えてもらえ」
 ネズミから手渡されたそれに眼を落とす。錠剤は、違法な薬と言うよりは、なんだか精神安定剤のように見えてくる。
リュウくんがはぐれないよう、みんなで手を握ろう」とリリが呼びかける。「『シンクロ』にまだ慣れてないみたいだから」
「恥ずかしいんだけど」とネズミは渋ったが「やろやろ!」と乗り気なミドに押し切られて、結局四人で円状に並んだ(ちゃっかリリリが俺の隣に並ぼうとするので、二人は閉口していた)。
「それじゃ、時間があるうちにやろっか」
 リリの号令で「おっす」とネズミは頷き、ミドもこくりと頷く。俺も慌てて一度だけ深呼吸し、身構える。
「準備できたみたいだね。じゃ、カウントダウンするから、ゼロで一斉に飲むよ」
 カウントが始まる。
 さん、に、いち。
 そして俺たちは、劇薬を口に含む。
「よし。手、繋ご!」
 そして慌ただしくお互いが手を握る。効果が現れる前にということらしい。このままぐるぐる回ったらUFOでも呼べそうだ。
 そして、変化が始まっていく。

 

 気がつくと俺は頭がくらくらしたまま、クラスの真ん中にいる。
「おいリュウ、何ぼーっとしてんだ」
 ネズミに肩を小突かれ、一同笑いに包まれる。そう、ここは教室で、じき昼休みが終わる。
 どうやら今も四人で同じ並行世界を共有しているようだが、今も現実感がなく、意識がいろいろなの階層を行ったり来たりして、押さえるのに苦労する。
 まだ上で自分を動かすには至らず、ずっと机に座らせている。端から見たらぼーっとしている変な奴だろう。でも危険を避けるにには仕方ない。こちらの世界に集中する。
 昨日はそれどころではなかったが、今日改めて分かった。リリたちはこの世界のクラスで文字通り中心、あえて陳腐な言い方をすればカーストも上位の上位。トップの貴族様だ。
 それがリアルなのかはともかく、世界はそうなっている。
 逆に現実で賑やかだった連中の姿を探すと、そいつらは例外なく一人ぼっちで、別人のように縮こまって、机に突っ伏したり肩身が狭そうに何かを読んでいる。空席も多い。
 明らかに不自然なのに、それでも世界はそうなっている。
 そして俺たちはまさに、空席の一角を占拠していた。
 そしてクラス自体、この三人以外にも現実と構成員が少し異なっていて、見かけない顔がちらほらいて――
「リュー、本当にどうしたの?」
 俺たちの周りにいた女子の一人が心配そうに俺を見ていて、意識が会話に引き戻される。
「あー、スミちゃんそうやってまたポイント稼ごうとしてる。泥棒猫! 逆寝取り!」
「リリ嫉妬強いよー、わたくし男女女ゆえ、二人まとめて愛す所存」
 そう言ってスミちゃんと呼ばれた女子がリリに抱きついて身体をまさぐり始め、「じゃ、中立国参戦」とミドも加わる。
「どっちの味方なんですかあなたー」
 リリは言葉と裏腹にまんざらでもなさそうだ。しょうもないスキンシップを俺は無視して「ごめん、ちょっと寝ぼけてて」と釈明し、ノボルと呼ばれている隣の男子(現実では重度のオタクなはずだが、こちらではやたら垢抜けている)とネズミの話になし崩しで加わった。
「でさぁ、約束通り三人分チケット取れた。席はバラけたけど、フィルムは手に入る」と彼は息まく。フィルムというのは映画の一幕を切り取った初日限定の特典らしい。
 彼はどうやら公開直前の人気アニメ映画の話をしているようだ。そういう趣味は変わってないんだな、と不思議に思う。
 ネズミはちょっと悩んでから「いやー、言いにくいんだけど、それがちょっと用事が入っちゃってな」と申し訳なさそうに言う。「金はもう渡してるけど、俺の分は別の奴を呼んでいいよ」
「あ、じゃあ私行く!」とリリが手を挙げ、「お前はリュウと行きたいだけだろ」というミドのツッコミが入る。「公平じゃないからさ、ジャンケンで決めよ」とスミちゃんが提案する。「まずネズミとノボルを外そう。で、行くつもりだったリューもシードってことで」
 面倒なので「いや、別にいいよ」と俺は言ったが「ダメー」という女子二名の抗議が入り、俺は棄権を許されなかった。
「じゃ、女子三人で勝負ね」とスミちゃんが見回すと、ミドはネズミの方を見て何か言いかけたが、すぐに目線を戻し「よっしゃ」と意気込む。「ジャンケンの攻略法教えてあげよっか? その一、初手はパー」
「えー、そういう心理戦しちゃう?」「勝負は戦う前に始まっているのか……」と女子二名。
 何でもいいから早くやれ、とイラつく。いわゆる陽キャってこんなんだったっけ?
「はい、じゃーんけーん……」でスミちゃんが溜めを入れ「間を作るな、間を」の抗議に「はいポン!」と奇襲をかける。
 結果は、あいこを待たずミドの一人勝ちだった。
「えー、えー、不正!」とリリがさっそくのたまうので、「はいはい、じゃ譲……」とミドは手を挙げようとしたが「いや、なんかもうええわ」とノボルが苦笑する。「俺がリリに譲るから、三人で行ってきなよ」
「え、でもお金」とリリがあざとく人差し指を顎に当てたが「いい、いい。いつかは観れるから。フィルムだけくれたら、って交換条件でさ」
「……うーん、じゃお言葉に甘えて」とリリはミドを見てる。「でもミド、たとえ友達でも……分かるよね?」
「はいはい。また惚気を見させられるわけね。ぐすっ、そうやって私を捨てるんだ」
 スミちゃんは「はい、これを『三角関係になりそうでならない男女女』と言います」と解説し、ノボルは「うわーリュウ、女同士に挟まる男じゃん。人権なくしたな」と茶々を入れる。
 このグループにいてこいつらは楽しいんだろうか。こういった集団にいたことがない俺にはよく分からない。きっと状況に慣れていないのだろう。
 けれど、これがリリの見せる世界で、彼女による『賭け』だとするならば、もしかするとこんな生活を楽しめるようになるのかもしれない。いや、ならないかもしれない。何にせよ俺は彼女の誘いに乗ったのだ。それに付き合うしかないのだな、と思う。
 そしてそこに、小さな興味がないわけではないこともまた事実だ。
 そんな思考の中で、ふと人の視線を感じて後ろを見ると、少し遠く、クラスの入り口に男子がひとり立っている。
 名前は憶えていないが、確か現実ではソフトテニス部で、スポーツ特待でここに入ってき、実際にここでもエースだったはずだ。でも、背丈は同じでも、こちらではどう見ても運動をしている印象には見えない。見えない何かに怯えているような、そんな表情。
 そいつがちょうど、無意識に俺が手をついていた席を眺めている。
 それに気づいて、さりげなく移動して席を空けた。なるほど、こういうこともあるわけだ。でも、今までの説明通り『エヴェレット』で自分の望む世界を生み出せるとして、どうして彼女たちはクラスをこんな風にぐちゃぐちゃにかき回したのだろうか。
 ちょうどそう思ったとき、右の耳元から小さな囁きが聞こえた。
「ね? どう?」
 驚いて横を見るとリリが笑っている。どうやら移動した結果隣に近づいていたらしい。彼女は会話の隙間に一度だけこちらを横目で見て、ウインクしてみせる。
 そして、また囁く。
「世界、変わったでしょ?」

 

 俺が疲れているということで放課後は解散になり、リリと電車に乗って帰る。
「どうだった? 楽しかった?」とリリが訊くので、「何とも言えない」と答えた。
「薬のせいでまだ混乱していたのもあるかもしれない。正直、あれが本当に起きたことだとは、今も思えていない。動揺していたから、着いていくので精いっぱいだった」
「まぁ、そうだよなー」とリリは頷く。「いきなリリア充みたいな生活を送らされても、ピンとこないかもね。私も『エヴェレット』を使い始めた頃は慣れなかったなー。それが今じゃ立派なジャンキーですよ。……でもさ」
 そこでリリは、一瞬だけ真剣な目をした。
「死にたいとは、思わなかったんじゃない?」と
 そうだろうか。俺は考える。
「それは――まだ分からない」
 確かに今日、心なしかそういう気持ちはあまりなかったかもしれない。
「でも、それは余裕がなく、一日が新鮮だっただけかもしれない。前に言った通り、慣れてきたらまたいつも通りになるんじゃないか」
「強情だなぁ」とリリは面倒そうに微笑む。「でも、そういうところが好きなんだけど」
 その言葉で少しだけ、居心地の悪い気持ちがする。彼女は嫌いではないけれど、意図が全く分からないのだから。勝手に別の世界で恋人にするほど俺を好きな女の子がいるのだろうか。
「なぁ、どうして、お前は俺を選んだんだ?」
「そりゃ、誘ったのはあっちでずっと恋人だったからに決まって――」
「違う。そもそも、どうしてあの世界で俺と付き合っているんだ」
 俺はようやくはっきりと訊いた。
「リリと俺は、現実で面識さえなかった。それなのに、なぜ俺なんだ? 女子のことは分からないが、せめてもっと仲がいい男子とか、人気のある奴とかにしないのか?」
「……私が好きって言うの、嫌だった?」
 リリは静かに言うので慌てて「そうじゃない」と弁解した。
「今の段階は、好きとか嫌いとか以前だ。お前のことを何も知らないんだから。そりゃ、リリは嫌な奴じゃない、と思った。悪意があってこういうことをしてるわけではないのも分かる」
 そして、俺は迷った末、踏み込んだ。「もしかしたら、好きになるかもしれない」
「ほんと?」
「本当だ。でも、リリのことを知らないと友達にもなれないし、付き合うこともできない」
 電車が川を繋ぐ鉄橋を渡り始め、カタガタと線路が軋んで音を立てる。それは俺たちの会話を、書き割りの演出のように一瞬だけ遮る。
 あと一駅で、俺は降りる。
リュウくん、自分に自信持っていいよ」と、リリは笑みを浮かべて言う。
「自信?」
「私が好きになったんだから。確かに一方的だったけど、私にとって仲のいい男友達や人気のある男子より魅力があるってことだよ。それにね」
 彼女は笑っている。
「私には誰もいないし、何もないから」
 でもその笑顔は、無理をして作ったように思える。
「だから、リュウくんだけのものだよ」
 俺は、それ以上リリを追及することができなかった。

 

 結局、翌日の昼休みにもやはり俺は屋上に足を運んだ。
 扉は空きっぱなしだったのでそのまま入ると、俺がやってきたのをすぐリリは察知したのか「リュウくん、やっほー」という声が微かにした。もう全員揃っているらしい。
 回転椅子に座っていた部長が「キミ、友達いたんだね」と素で驚く。
「……いたらダメなんですか」
「皮肉じゃないよ。誰もいないときにしか来てないと思ってたから、びっくりってだけ」
「別に友達でもないですけど」
「ふーん。ま、いいや。……お互い仲良く、ね」
 そう言って彼女は遠くの声の主に手を振り返す。
 そして俺がやっと窓に手を掛けたところで、ぽつりと、一段トーンを落として言う。
「ナオ先輩のことなんて、忘れてさ」
 ――またか。
 また、それをまた蒸し返すつもりなのか。
 窓に微かに映る部長の目は、異様な熱に満ちている。
「あなただって同類でしょう。こちらこそ言わせてもらいますけど、姉から離れるべきはそっちです」
「……それをキミが言うなんてね。皮肉かい? あんなに依存していたくせに。……キミが私にする批判は、全部跳ね返ってくるんだよ」
 姉の話をするときの部長はまともじゃない。だから議論しても無駄だ。なのにまた、乗ってしまった。
 高校時代の俺の姉は、彼女と同じ化学部に所属していた。彼女もまた、姉から見れば後輩だ。
 そして、やはり俺と同じように姉を崇拝していた。
「本当のことを言おうか。私はね、キミを恨んだっていいと思うんだよね。だって、あんなにもナオ先輩に愛されていたんだから。私がどれだけ近づこうとしてもできなかった場所にいるんだよ。それでも、あの人はキミが好きだから、私は従うしかない」
「遠くから見ているから、それがどれだけ苦しいか分からないんでしょうね。依存っていうのはそういうことです。遠くから光って見える砂浜は、ガラスの破片だらけだったりしますよ」
「いくらでも言えばいいさ。姉を捨てた裏切り者が何を言っても、私には関係ないね」
「……ご勝手に」
 無益な問答に疲れたので、それだけ言い残して窓を開ける。三人を待たせているのだ。
 そこで、無意識に手を挙げてリリたちに応じている自分に気がついた。
 俺は三人の元に向かう。
 ……何も分からないけれど、こうして、二重の世界を暮らす生活が始まる。
「絶対に、キミはお姉さんから逃れられないのに」
 投げつけられた一言を、無視しながら。

 

7

  姉と俺の血は繋がっていない。彼女は父の連れ子だった。
 彼女に初めて会ったときのことは今もはっきり覚えている。母とその後に父になる男性が企業主催の会食パーティーで同席していた時のことだ。連れられていた俺は知らなかったが、その時すでに結婚の話は出ていたらしい。
 それを伝えたのが、何を隠そう、初対面の彼女だったのだ。もしかするとそれとなく父の顔見せをするつもりだったのかもしれない。
 離婚前も後も育児に無頓着だった母が、なぜ突然俺を連れて行ったのか、はっきりしない。
 とにかくこんな場所に来るのは初めてだったのだが、食事がまったく舌に合わず退屈していた俺は、幼い行動力からこっそりと会場から抜け出し、ホテルの中を歩いて暇を潰した。しかし飾ってある抽象画や壺にも飽き、失望の中でロビーまでやってきて、座った。
 目の前には自動演奏のピアノがあり、静かな曲が流れていた。無駄にふかふかとしたソファにうずもれ、旋律にぼんやり耳を傾けながら眠気に誘われていると、やがて曲が変わっていることに気づく。
 ピアノの方を見ると、椅子には女の子が座っていた。何歳年上なのだろうか、髪の長い少年かと見紛う彼女は場違いにも、白いシャツ一枚をルーズに着ていた。
 どうやって演奏を手動にしたのかは分からないが、彼女は鍵盤を叩いて演奏している。無断だったのだろうか。しかしあまりに自然だったので、誰もそれに気づいていなかった。
 彼女の演奏には、ピアニストが叩いているということを忘れさせ、聴き手を音楽そのものと一体化させる力があった。それは本人も同じなのだろう。ピアニストのグレン・グールドは、晩年引きこもって一人きり大きなクローゼットの中で演奏したという逸話を聞いたが、それを知ったとき、彼女の演奏を思い出したものだ。
 女の子を見てみる。彼女は俺より年上に見えた。実際にそうだったのだが、その時は外見というより佇まいが大人びていたからそう思った記憶がある。
 気がつくと一曲の演奏が終わっていた。戻らなきゃまずいだろうか、と急に慌てたが、そこで女の子が俺の方を向いているのが目についた。最初は勘違いかと思ったが、手招きを始めたので、幼心に警戒しながらも近寄っていった。
「ずっと見てたでしょ」と彼女は言った。自分にそんな意識はなかったが、完全に釘付けになっていたらしい。「そんなに演奏、よかった?」
 俺は言葉を見つけられなかったのでとりあえず頷くと、彼女は満足したらしかった。
「実はね、私もさっきからあなたのこと気になってたの。なんでか分かる?」
 分かりません、と俺が言うと「本当のことを言うとね、あなたのことはもう知ってるのよ」と彼女は言って、悪戯っぽい笑いを困惑するこちらに向けた。
「まさかこんなところで会うなんて思ってなかったけれど。……この様子だと何も知らないみたいだから、もっと驚かせてあげましょうか?」そう言って彼女は目を細めた。絶対に解けないクイズを出題して、間違えた人を食べてしまうような、そんな艶めかしい顔。
「あなたと私、これから姉弟になるわ」
「え……?」
「私の父親とあなたのママ、もうじき結婚するから」
 あっさりと彼女は断言した。
「いや、ちょっと待って――」と俺は大きな声を出しかけて、ここがロビーであるのを思い出して一段ボリュームを下げた。「嘘……ですよね?」
 そうだ、この女は不審者なのだ――そう強引に判断しようとしていた俺に、彼女は「あなたのママ、会社の関係者でしょう」と追い打ちをかけた。当時は詳しくは知らなかったが、その通りだった。「私の父親はね、科学者なの。で、あなたたちのグループと組んで、儲け話を作っているみたい。……政略結婚って知ってる?」
 黙っている俺に「つまりね、あの人たちはお互い好きでも何でもない。ただお互い利用したいだけ。だからもまったく伝えなかったんじゃないかしら」と彼女は両親をこきおろした
「……それが本当なら」とかろうじて俺は答えた。「あなたがお姉ちゃんになって、どうなるんですか?」
「一緒に暮らすことになるでしょうね、一応は」とあっさり彼女は答えた。「でも覚悟しておいた方がいいかもしれない。いい思いはしないし、私だってあなたのことを守ろうとは思ってないから。そんな義理もないし。孤独でしょうね。かわいそうに」
 彼女はそう皮肉を呟いて、鍵盤に指を置く。
「でも、お祝いに一曲弾こうかしら。それくらいはやってあげましょう」
 リクエストとかある? と言われても、俺はピアノの曲なんて知らなかったし、そもそも気が動転していた。それをつまらなそうに感じ取った彼女は「じゃ、勝手に弾かせてもらうわ」と言い、曲名を言って演奏を始めた。
 ビル・エヴァンスの「ワルツ・フォー・デビー」。
 ドラッグに溺れ、ついには演奏中に倒れたジャズピアニスト。彼の人生は緩慢な自殺だった、と彼の知人は言った。その選曲に、今は何かの予感を覚えてしまうが、それはきっとその後のことを知っている自分のこじつけなのだろう。
 不思議なことに、演奏がどうだったか記憶にない。重要な部分に限って思い出というのは欠落するのかもしれない。覚えているのは演奏が終わった後、「私はナオ。せいぜいよろしく。弟の、えーと――リュウ」と相変わらず小馬鹿にする口調で手を差し出されたことだけ。
 俺は恐る恐る握った。怖くて仕方がなかったけれど、逃げるわけにもいかなかった。
 けれど今だから言える。
 俺の姉になった人は、誰よりも優しかった。

 

 どれほど非日常的な経験をしても日常が待っていて、いつも通り日々はやってくる。
 初めて『エヴェレット』を飲んでから何日かは、俺だけは三人とともに屋上でしか使わない日々が続いた。
 相変わらず新しいクラスでは、異変に気づかれないよう振る舞うのがやっとだったし、現実での身体のコントロールも難しかったけれど、身体には何かが馴染んできている実感があったし、他のメンバーを見失わないで別の世界に行くことにも、少しだけ慣れた。

 

「どう? いい感じか?」と、屋上でネズミは尋ねてきた。リリとミドは遅れてくるらしい。現実ではクラスが違うので、こういうラグが起きる。
「まぁ、ぼちぼち」
「そっか」と彼は笑い、それから少し真面目な顔をして訊いてくる。
「リリのこと、どう思う?」
「どうって?」
「や、だからどうってことだよ。かわいいじゃん。何もしてないのに彼氏になんて、ラッキーだろうが」
「いや……」と俺は言葉を濁す。端からはそう見えているのだろうか。「ここ何日も、付き合わされて大変だよ。朝も帰りも」
「いやー、学生さんいいですなぁ。処世の悲しみも知らないで」
 こそばゆくなってきたので「そういうお前はどうなんだ」と反撃した。
「見た感じ、ミドと仲いいみたいじゃないか」
 その言葉に「あー」と彼は頭を搔いた。「うーん、でもしょうがねぇか。口が軽いんだよ、俺。ま、言うよ」
 何がしょうがないのだろうか、と俺は思ったが、彼はすぐに答えを告げた。
「俺たち、付き合ってるようなもんなんだ」
「……ようなもの?」
 奥歯に何かが挟まったような物言いが、不自然だった。
「俺はそう思ってるけど、あいつは違うかもな。ミドはジャンキーだから、他にも別の世界にいっぱい男がいるんだよ。そういう奴だ」
 そういう男女関係をなんと呼べばいいのだろうか。少なくとも今の日本語にはないだろう。
「だからね、結構しんどいよ。別に浮気とかではないんだけど。俺だってミドとそうなるまでは似たようなことしてて、そこそこ楽しかったし。後悔は、してる」
「後悔?」
「ミドに悪いって思っちゃうんだよ。馬鹿馬鹿しいだろう?」
 そうだろうか。どちらともいえないと思うけれど。俺には分からないレベルの話だった。

 

 金曜。俺は明日、三人に「放課後、遊びに行こう」と誘われていた。
 初めて『エヴェレット』を学校以外で飲むことになるのだ。
 六月、期末試験まではまだ少し時間がある。今のうち、ということなのだろうか。まぁ、薬を使えば試験なんてわけないのかもしれないから、関係ないのか。
 そんな状況で、一限の古文が終わる十分前、眠気がようやく引いてきた頃にふと思い立つ。
 休み時間に入ると同時に、俺は廊下に出る。できるだけ時間を無駄にしたくないので、早足で歩いていく。
 あの三人が、現実でどう過ごしているのか。
 それが突然に気になった。
 好奇心というほどではなかったし、どうせまた俺は屋上に行くだろうから、単純にクラスを知りたければ直接訊くてもあるにはあるが、ひとつだけ疑念があった。
 今日までに、現実と『エヴェレット』の世界で、二種類のリリとネズミとミドに会っている。
 向こうの世界での彼女たちはとても快活で、リリとともにクラスの中心的な存在だ。しかし、屋上で話した二人は随分と印象が異なっていた。リリはさほど変わっていないようだったが、特にミドの容姿や言動は、もはや別人と言っていい。
 そこで俺は、あの時、あの世界のクラスのことを思い出す。そこでは逆に現実で目立っていた生徒が、個性の埋没した人間になっていた。
『エヴェレット』を使うということは、願望や夢を叶えること。そう今までの俺は理解している。ということは、あの三人がシェアしている夢は、少なからずその願望が投影されているはずだ。
 と、いうことは。
 三人には少々申し訳ないかもしれないが、それを確かめたかったのだ。

 

 ……うちの学年は全部で六クラスある。Aが特進、それ以外は普通クラスで、定期試験とは別の学力調査の結果から学力は均等にされている。
 受験結果等もあって、俺たちは他より一クラス少ないが、それでもクラス外の知り合いなどいないし、顔などまったく覚えていない。だから、一から探さなければいけない。しかし全クラスしっかり確認する時間もないし、そんなことをしていたらバレてしまうかもしれない。それに席を外している可能性もある。
 そこでローラー作戦を使う。
 まずD組から近い方の端にあるF組に行って、扉の一番近い席にいる暇そうな男子に目を付け、声をかける。誰に話しかけるべきかは、印象やその場の空気感で判断する。
「ごめん、ちょっといいかな」
「何ですか?」と怪訝そうな顔をする彼に「このクラスに重松さんか福岡さん、あとは大久保さんって人、いる?」と単刀直入に訊く。
「……三人とも、そんな名前の人いませんけど。どうかしたんですか」
 外れ。「いや、いないならいいんだ」と会話を打ち切り、歩き出す。嘘の理由を説明するよりは、いきなり訊いたときの反応を確認してさっさと次に行った方が時間の節約だ。
 Eは移動授業の帰りらしく人がまばらだったが、三人で駄弁っている男子グループに訊いて手応えはなかった。もしこの方法を取らなければ無駄に時間を浪費しただろう。
 引っかかったのはC組でのことだった。
 教室をちらりと見たが発見できなかったので、廊下に残っていた数学教師と話している女子に目を付けてみる。眼鏡を掛けた、実直そうな子だ。
 教室に戻っていく彼女を引き留める。
「C組の人だよね」と困惑させる間もなく切り込む。彼女は頷いた。「急いでいるから用件は聞かないでほしいんだけど、ある生徒がこのクラスにいるか訊きたいんだ」
 そして俺は「重松さんか――」と言いかけたところで、彼女は即座に反応した。
「……重松くんの知り合いさん?」と彼女は印象とは異なるざっくばらんな声音で首を傾げた。「あそこにいるけど……珍しいな」
「珍しい?」
「や、そう言ったら失礼か。ここからだと見えにくいけど、今あそこにいる」
 ちょうど反対の扉側の壁近くで、そこには何人かの集まりができているようだった。遠いので何を話しているのかは分からない。だが、その隅にいる男子を彼女は指さした。
「あれが彼だよ」
 最初は別人に見えて、その言葉に戸惑った。けれど一歩引いてみると、なるほど確かに屋上で見たネズミだ。どうしてさっきは彼に気づかなかったのだろう、と思ったが、明らかに印象が違うような気がする。
 少し注意を向けると、グループの隅で彼はずっと、何か期待ありげに黙っている。他の連中は彼に目もくれていないが、それでも彼はタニシのようにそこにひっついて、時折求められてもいないのに相槌を打ったり頷いたりしている。しかし、ついに隣の男が露骨に邪険な態度で背を向けたので、彼はその場を去った。するとグループの連中は途端に顔を合わせて忍び笑いをした。
 そして今度は反対側の隅に向かい、スマホで動画を見ている二人に話しかける。彼らは先程のグループより少し大人しそうだ。相変わらず声は聞こえないが、画面をのぞき込んで、熱心に何かを話しかけている。二人は笑っていたが、ネズミを迷惑がっているのは明らかで、すぐにでも話を畳みたがっているらしい。まもなく片方が耐えかねたのか切り上げて自分の席に戻り、もう片方もさっさとスマホを片付け、勿体ぶった動作で次の授業の準備を始めた。
 そして彼は、再び別の島に移動する。
「またやってるみたいだ」と女子は哀れんだ目を向ける。「ずっとああなんだよね。彼の友達だったらごめんね。でも正直、みんな迷惑がってるかなぁ」
「ずっとああなの?」
「四月ってだいたい仲のいい友達みたいなのが決まるよね。そこでちょっと失敗しちゃってね。一旦ウザいやつって思われると、イメージを変えるのってかなり難しいし……問題なのは、はっきり指摘する人がいなくて、みんな陰で笑ってるから、本人が気づかないってことなんだ。日本人って陰湿だよね」
 私もどうにかしたいんだけどね、と彼女は言う。
 そこでちょうど彼がこちらに背を向ける。何かがシャツに張り付いているのが見える。それは『賞味期限間近、表示価格より二割引!』と書かれた値札のシールだった。購買のパンか何かのものだろう。誰かが張り付けたに違いない。哀愁を感じさせる背中だった。
「呼んでくる? あ、私、学級委員だから話しかけやすいし、心配しないで」
 彼女の提案を「いや、大丈夫」と俺は断る。「むしろ、俺が来たことは伝えないでほしいんだけど、いい?」
 彼女は勝手に何かを察したようで、「……分かった」と頷く。「何もできなくてごめんね」
 きっと彼女は正義感が強くて、俺をネズミの旧友か何かだと思っているのだろう。
 学級委員さんに礼を言って、俺はすぐ歩き出した。あまり時間がないのだ。

 

 次の休み時間、今度はミドとリリを探す。残っているのはAとBとだけなので、あとは訊かなくてもいいかもしれない。
 ミドは拍子抜けするほどあっさり発見できた。……というのも、彼女はちょうど俺が歩いてきた扉のすぐ近くの席だったからだ。
 彼女の周りに、いかにも浮ついてた空気を放つ男が二人、女が一人いて、彼女に話しかけている。けれど彼女は無視してずっと英単語帳を読んでいる。
 彼女が反応しないのが三人を煽るのか、なおさら彼女たちはミドに絡んでいく。見た感じでは明確な苛めの類ではないと本人たちは思っていそうだし、なんならスキンシップだとさえ言いかねないけれど、こういう手合いがもっとも面倒なのだ。
「なぁ、ミドちゃん何か反応してよー、遊ぼ」
 右の男が顔を寄せる。たちまち「おい、見境ねぇぞ」と左の方が下卑た笑いを浮かべる。女は「え、アンタそういう趣味?」と手を叩いて侮蔑的に唇を歪める。「えっ地味っ子って良くね? 黒髪メンヘラちゃん、モエー」と右は嘲笑する。「ブレザーずっと着てて暑くないの? まくった方が涼しいよ」と女がミドの左の腕に触れる。
 ミドの眼の色が変わる。
「ミド!」
 とっさに俺は彼女を呼んでいた。
 その瞬間、ゲーム画面がフリーズしたように、世界のすべてが固まった。
 この馬鹿どもと話すつもりはなかった。一歩だけ歩み寄って、ミドに「来たよ。行こう」と言った。彼女は目の前で起きていることが信じられないという顔をしていたが、「行こう」と冷たく俺が言うと、黙って席を立ち、そのまま俺の方に歩いてくる。
 そして、俺たちはそのままクラスから離れる。後ろで「あれ、彼氏?」「うわ、意外とやるじゃん」「あー、フラれてやんの」等々の雑音が聞こえてきたがすべて無視する。
 とりあえず階段の踊り場まで来たが、ミドは黙っている。俺も言うことが見つからない。なぜ彼女を助けたのか、自分でも説明するのが難しい。
「ごめん、見てられなかった」とかろうじて俺は言った。それは嘘ではない。あんな現場を目の当たりにして気分がよくなるはずがない。それで理由は十分だ、と困惑を打ち切る。
 ミドの方はといえば、初めて屋外に出た飼い猫のように状況を呑み込めていない。
 小さく口を開いたり閉じたりしていたが、気まずさもときにはいい働きをしてくれるもので、ついに耐えかねて「……ありがとう?」と言った。疑問形なのは感謝をどこに向けたらいいのか分からなかったからだろう。こちらとしてはどうでもいい。
「あまり訊くべきじゃないか」
 ミドは一度頷いてから「いや、でも……」と迷う。「ごめん、見られちゃって」
「謝りたくなる心境は分かるが面倒だからいい。ただ、どうするんだ」
 現実問題、一度助けを差し伸べたとしても、また教室には戻らなければいけなくなる。そこでまた絡まれれば、俺が助けた意味は何もない。
「普段はどうしてるんだ?」
「『エヴェレット』があるから……飲んで、こっちの世界でのお昼以外の休み時間は、ずっと寝てるかトイレにいる。でも今日だけは切らしちゃって、昼休みに屋上に行って、なんとかするつもりだった、とこ」
 ボソボソとミドは喋る。言外にクラスでの状況を伝えているが、ちゃんと防衛策は取っているわけだ。そして、今日は偶然に偶然が重なってこういった事態になった。
「そうか、気をつけないとな」
「うう、……ごめん、なさい」
「だから謝らなくていい。それは会話じゃなくて防御だ。……あっちではちゃんとできてるのに、よく分からないな」
 うっかりと口をついた一言だった。すぐに触れるべきではなかったと察して「悪い、無神経だった」と詫びる。
 でも思ったよりミドの反応は静かだった。
「なんで、だろうね」
 私も分かんないや、と彼女は自嘲気味に小さく笑った。

 

 ミドが教室に戻ると言ったので止めるわけにもいかず見送った後で、やっとリリのことに思い至る。この流れならA組だろう、と思っていた。
 授業を勤勉に終え、次の休み時間が来る。こっそりと覗きに行くと、移動教室の帰りで、次は課題か小テストでもあるのか、クラスはバタバタして慌ただしくみんな席に揃ってノートを開いていた。けれど、そこにリリの姿はない。もしかしたら他のクラスで、ほかの二人に気を取られて見逃してしまったかもしれない。
 そう考えて立ち去ろうとしたとき、ふいに教室の隅、自分がいる前方の扉の対角線上にある席が目を惹いた。ほとんどの生徒がもう席についているのに、その席だけは空いていて、これから掃除でも始めるかのように椅子が机の上に逆さに乗せられていた。
 ……奇妙だったけれど、自分も授業に遅れるわけにはいかないので、戻ることにした。

 

9

  俺たちは当然現実の、県民の子供なら誰もが遊びに向かう駅前、屋外の二階部分で待ち合わせた。近くのストリートミュージシャンを遠目に見ていると、ぞろぞろ三人が集まってきた。
「揃ったねー」
 常識の範囲であれば特段服や身だしなみに頓着しない人間なので、ブラウスもスカートも暗色で固められたリリは育ちがよさそうだな、程度の詩情のない感想しかなかったのだが、問題はもう片方の女子だ。
 ミドは学校指定のジャージを着ていた。
「や、これは、時間ギリギリで何着たらいいか分かんなくて、パニックになって、その」
 微妙な空気に耐えかねたネズミが「いやいや! 可愛いと思いますよ。ほら、愛校心もあるし、エコロジーだし、あ、着古されて洗濯で伸びきった萌え袖もいいもんで……」とフォローにならない助け舟を出し、耳を引っ張られて悶える。
 しかしそんなネズミは背の高い従兄のおさがりみたいなサイズの合わないジャンパーにダボダボのシャツを着て、よれたズボンを履き、そのくせ中途半端に髪をセットしている痕跡がある。
 この集団を端から見て今から遊びに行く高校生だと誰が思うだろうか。
 ……それにしても、全員が綺麗に時間ちょうどに合流できたのには訳がある。
「えーと、私たちはまず重大なことを忘れていたわけですが」
 集合した俺たちが真っ先にしたのは、SNSアカウントの交換だ。
 昨日は昼休みがなかったので出会わずに帰ってしまい(案の定顔を合わせたリリは「待っててよー」とゴネたが)、そういえば彼女たちと連絡手段がないのに気づいた。待ち合わせ場所と時間は決まっていたのでこうやって出会えて一安心だけれど、これは明らかに幹事を自称していたリリの失敗ではないのか。
「お前、ここぞというときに抜けてるよな」とネズミは呆れ、「陰キャあるある……」とミドも追い打ちをかけたがリリは聞こえてないふりをしながら「……いや、ほら! 結果オーライだし! あ、ヤバい、もう予約の時間だし行こ! はい行った行った!」と空元気を発動して、強引に俺たちを引率する。
 さっそく帰りたくなってきた。

 

 カラオケに行くのなんて何年ぶりなのだろうか。
 両親の離婚、それから幾年後の自殺のゴタゴタで、友人と遊ぶ機会なんてなかったし、目に映るものすべてが奇妙に見える。……代表者の名前記入欄にこっそり「田渕ひさこ」と書いたリリには閉口したが。偽名の通じる適当な店でいいのだろうか。
 フリータイム、ドリンクバー付き。
 個室についたところで、さっそくリリが部屋を暗くする。「やっぱこれじゃないとねー」ともう一人で盛り上がっている様子だ。
 淀んだカラオケルームの空気と暗い部屋の相乗効果で少し気分が悪くなったが、他の三人は気にならないようだったので、仕方なく自分で空調を弄って換気する。
 三人は端末を弄ったりマイクの音量を調節していたが、やがて準備は終わったらしく、まもなく各々が曲を予約していった。そうか、ここは素人が歌を歌う場所なんだな、と思い出したが当然そんな気にはならないので「リュウは?」とネズミが端末を回してきた首を振った。
「えー、一緒になんか歌うつもりでデュエットを入れたのにー」とリリは訴えたが俺は無視したので余計に絡みが面倒になる。「ははん、もしや人前で歌うのって恥ずかしい? 共感性が羞恥? 大丈夫、歌は喉じゃなく心で歌うものだから。いや逆だっけ? とにかくリュウくんがどんなジャイアニストでも嫌いにならないよ。私、鼓膜強いし」
「黙れ」とだけ言ってフードメニューに目を落とす。押しの強さをどうあしらうか、少し分かってきた。
 俺は心を無にした。リリがタンバリンを押し付けてきて、ネズミがアニメソングの掛け合いをひとりでハイテンションで寒々しく歌い始めたが、俺はモニターに空いたマイクを投げつけたりはしなかった。それでも体感では十五分くらい歌っているように思えてきたので、耐えかねて横を見ると、彼女は何も入れていなかったらしく、ずっと端末を弄っていた。
「歌わないのか?」
「いや、曲が入ってるか調べるのが好きで……」とミドは雑音で掻き消える寸前の声で呟く。
「音楽は好きだけど、歌うのほんとは好きじゃないから」
『ほんとは』というのは『現実では』という意味だろう。少し分かるかもしれない、と思う。
 しばらく彼女とその遊びに付き合っていると「あれ、ミドはどうするの?」とリリが俺たちに声をかけているのに気づく。ネズミは歌い終えたらしく満足げだった。
「わ、私、まだ決まってなくて……」
 リリはそこでほんの一瞬何か考えたようだが、すぐにこう答える。
「じゃ、私と歌わない?」
「……リリと?」
リュウくんが嫌って言うから、せっかくだし。知らないと思うけど、私が先に歌うから同じメロディーで合わせて」
 でも、とミドが躊躇う前にリリはもうマイクを渡し、曲が始まる。
 スーパーカーの「Lucky」。俺は偶然にも知っているバンドだったが、昔の曲なのでミドは間違いなく知らない。さらにそもそもの臆病さもあって、彼女のパートはやたらよれていたが、キャラと違いリリがしっかり支えて歌うので、まるで親鳥が雛を先導しているみたいで趣があり、聴きながら感心してしまった。
 それからリリは対照的に戯画的に媚びた声でアイドルソングを歌い(好きやら愛してるやらの言葉が来る度に俺の方を向くのが憂鬱だった)、なんとか一周したところで本題が始まった。忘れかけていたが、『エヴェレット』を使うためにここに集まったのだ。
 机の上に錠剤が並べられる。
「大丈夫なのか?」
「薬は飲食物じゃないから持ち込みじゃないでしょ。平気平気」とリリは言う。いや、ドラッグを持ち込むのはそれ以前の問題だろ。
「リリ、まだ持ってる?」とミドが訊く。「もうちょっとほしい」
「……やりすぎじゃない?」
 リリの言葉に俺は驚いたが、それはミドを少し刺激してしまったらしく、「大丈夫だから」と、彼女は静かに語気を強めた。ネズミは何か言いたげだったが「ドリンクバー行ってきて」という一言に従って立ち上がった。俺がコーラを頼んだとき、ミドがついにこう言った。
「どうしてもってなら、払うから」
「いや、お金もらうのはよくないって……」
 短い押し問答があったが、やがてリリは「うん、分かった」と折れて、バッグからコインケースのような箱を取り出した。中には、数えきれないほどの『エヴェレット』が入っている。
「分けるよ」
 薬が分配される。俺はミドを見たが、彼女はどこか周りが見えていないように感じられた。

 

 ネズミが器用に四つのグラスに別々の飲み物を入れて持ってくる。いよいよらしい。
「じゃ、飲もうか」
 一同がコップの中の液体に『エヴェレット』を入れていく、量はかなり大胆で、みんながザラザラと投入する。ミドに至っては溶かした飲み物がドロドロになるのではないかと思った。
「待て、そんなに飲むのか?」
「ああ。リュウは知らなかっただろうけど、今日呼んだのはパーティーのつもりだったんだ」
「……今までのとは別の使い方もある」
 ネズミとミドはそう答えた。何か、危険なものを感じる。
「ま、やってみれば分かる。いつも通り
 そこまでする気が乗らなかったので、貰った薬の半分をこっそりポケットに入れ、残りをコーラの中に入れる。暗い部屋でも赤黒く見えていたコーラの液が、乳白色に染まった。
「じゃ、リュウくんをお祝いして、かんぱーい」
 リリが音頭を取り、俺たち四人は一斉に、溶けた劇薬を飲み干す。

 

 やがて長椅子の上、自分が横たわっていることに気づいた。
 どうやらしばらく意識を失っていたらしい。頭がズキズキと痛んで、視界に最初に薬を飲んだ時と同じような線や模様が微かに浮かんだり消えたりする。
 平衡感覚が戻ってきたところでゆっくりと身体を起こす。部屋はまだ暗いらしい。奇妙な模様は消えたが目の前はぼやけて白んでいるから、まだはっきりと見えない。
 どれだけの時間が経ったのだろうか。ひょっとして夢を見ていたのか? でも、それならどこからどこまでが夢なのだろう。それとも今も夢の中なのか? だからこんなに朦朧としているのだろうか。
 そう思ったとき、堅いものがぶつかる激しい音が何度かした。何か重量のあるものが激しく動いて、何かが衝突したり軋んだりしている。それに、甲高い音も聞こえる。
 最初は何が起きてるのか分からなかったが、動いている曖昧な輪郭を見ていると、どうやらこの騒ぎを起こしているのは人間らしい。目を凝らそうとしたところで、ようやく人間らしい声を聞きとれた。
「あ、リュウ! リュウー! 起きた? リュウ! ねぇ! 聞いてる?」
 輪郭が二つに分裂して、片方がこちらに近寄ってくる。ピントが合ったのか、あるポイントではっきりと人物の姿が見えた。
 ミドだった。
「起きて! ほら! ずっと寝てるから死んだかと思ったじゃん、ネズミいきなりあんなんになるし、つまんないなー、あははは!」
 何か言葉を返そうと思ったが、その姿に何も言うことができなかった。
「なーに、どうしたの? そんなに私のことじっと見て。もしかしてこーふんしてる?」
 外見は向こうの世界でのミドだったが、それは髪や顔つきなどで判断したもので、ほとんど裸だった。唯一身にまとったシャツがビリビリに裂けていて胸に下着は見えないがそんなことはどうでもよかった。いやどうでもよくはないのだがもっとすごいことが起きている。
 ミドは頭から血を流している。
「あ、これ?」と彼女はようやくこちらの視線に気がついたようだ。「いや、全然平気! みんな黙ってて暇だからふざけてたらグラスが刺さっちゃってー。これくらいじゃ死なないよ」
 彼女が指を差した先、テーブルの上には砕けたグラスがあった。四つぐらいの大きな欠片に分かれているが、そのひとつには血がついている。これが怪我の原因らしい。
 そこで彼女に目線を戻すと、頭に何かが巻かれているのに気づく。きっとシャツの一部を引き裂いて頭に巻いたのだろう。しかしそれはぶら下がっているだけで、まったく止血の役割を果たしていない。
 彼女を止めなければ、と思った。出血の量は軽い傷というレベルを超え、彼女の顔を汚して、こっちにまで爛れた鉄の匂いがしてくる。このままだと危険だと思った。
 けれどミドは聞く耳を持たず、平然としている。
「ぜんぜん痛くないから大丈夫大丈夫、気にしないでー」
 まずい、このままだと命が――と思ったところで、こんなに怪我をしているのにミドが平然と話せるわけがないことに気づく。そして彼女は痛くないと言っている。
『エヴェレット』の効果なのか、と即座に察した。
 そうだ、これは薬なのだ。それも、医薬品ではない類の薬。そういう効果があってもおかしくない。
「リュー、ほら、楽しもうよ、効いてるうちに、せっかくなんだからさ、ほら、おいで?」
 ミドが俺の身体にくっついて、顔を寄せてくる。血と彼女の髪の匂いが混ざって鼻を突き、生理的な反応で心臓が高鳴る。ミドは唐突に笑い出し、俺の頭を抱いて胸に押し付ける。息が詰まる。状況が呑み込めない。
 とりあえず抜け出そうとじたばた身体を動かすと、彼女は「リュウじっとしてよ、もー、ケダモノなんだからさぁ」とふにゃふにゃした声で笑う。「こっちじゃダメだった?」
 床が見える。血がぽたぽたと垂れて小さな溜まりができている。
 ミドの脚が見える。そちらもジャージのズボンを脱いでいて、肌が露出している。
 そこで足が滑り、倒れる。血溜まりを踏んでしまったのだろう。ほとんど裸みたいなミドが俺に覆いかぶさってくる。
リュウ、どうする?」
 心臓はバクバクと脈を打ち、息も荒かったが、頭は異常なほど冷静だ。現実感がなかった。視界に薄い膜が張って合るような感じがする。そこで、目の前が白っぽいのはそのせいなのか、と合点がいった。
 これが現実だと思えない。目の前で起きているとは思えない。自分がこの世界にいるとは思えない。動くこともできず意思もない監視カメラのように、ただ状況を見ているだけ。
 そのままミドは俺に手を伸ばしてくる。血が俺の頬につく。手首と腕にも、やはり脚と同じように――
「あ、ごめーん、今綺麗にしてあげるからさー」
 ミドは顔についた血を気にしたらしい。そんなことよりもっと気にすることがあるだろと思うが、とにかく顔を近づけてくるので何をするのかと思うと、
 彼女はいきなり俺の頬を舐めた。
「びっくりした?」
 魅惑するように、耳元で囁かれる。
「もっとしてあげよっか?」
 まるで深夜放送されている映画を観ているようだった。
 何も起きていない。
 俺はここにいない。
 心は遠く、高い場所を飛んで、見下ろしている。そうだ、今は『エヴェレット』を使っているから、向こうにも自分がいて――そうだ、これはときどき覚える感覚。白い膜。解離。それがずっと続いている。
 なら、この身体は? この身体はどちらだ?
 ミドが顔を近づけてくる。身体に力が入らない。逃げられない。
「ほら、いくよ」
 また彼女は顔を近づけてくる。そして今度は、唇同士が近づく。
 キス?
 そう、頭が理解した瞬間――


「――いやああああああ!」

 

 ミドは唐突に叫び、倒れた。
 上半身を持ち上げると、彼女が床に転がっている。
 顔を見ると、呪詛みたいに何かをずっと呟いているようだったが、声になっていない。
「おい! しっかりしろ!」
 彼女は俺の声に反応して一度だけこちらを見たが、次の瞬間にはがっくりと力を失って眼を閉じた。本当に死んでしまったのではないかと思ったけれど、呼吸の音がしたので、どうやら意識を失っただけのようだ。
 俺は頭に巻かれた布をもう一度締め直す。血は止まっている。根拠はないが、おそらく出血死はしないだろう。
 ふらつく身体で彼女を持ち上げ、長椅子の上に寝かせる。身体は驚くほど軽かった。
 そこで気づいた。
 ミドの腕や手首、脚には無数の傷がある。
 記憶が確かなら、それはさっきまでの彼女には存在しなかったはずだ。
 混乱の中で、脈絡もなく突然思った。
 彼女が呟いていた言葉は、「ごめんなさい」だったのではないか――そんな、気がした。

 

 部屋はもう静かだ。
 ミドの頭の隣に座ったところで、ネズミとリリのことに思い至る。
 二人を探して部屋を見渡すと、ネズミは眼を見開いたまま椅子に座っていた。
 目の焦点は合っておらず、当然だが正気な様子ではない。微動だにしないのでマネキンか何かかと見紛うほどだが、箸から涎を垂らした口が酸素を求めてパクパクと動いているので、生きていることが分かる。グラスを持っている手は微かに震え、中の氷は溶けて水になり、飲料を薄めていた。
「おい、ネズミ」と声をかけたが反応しない。
 そこで彼をよく見ると、着ている服が微妙に乱れている気がする。いや、サイズ感がおかしかったのはもともとだが、何か、無理やり脱がそうとしたような――そこまで考えて、思考を振り払った。別にこいつらが何をしようとしていたかなんてどうだっていい。
 リリを探す。
 拡散しそうになる意識を強引に引き戻し、凝縮させ、探す。
 ――いない?
 最初はそう思った。三度ほど辺りを見回して、ようやく見つける。
「ああ、リュウくん」
 リリは床に体育座りし、俺が座っている長椅子の端に背中をかけていた。ここからでは顔は見えない。
「どうしたんだ」
「『エヴェレット』自体には気分を高揚させたり痛みを止める働きはない。でも、使い方によっては快感を得ることはできる」
「は?」
 彼女の声が不自然に平静だったので、俺は驚いた。機械音声が喋っているかのようだ。
「『エヴェレット』の服用者は、自分の望む好きな世界を選べる。でも、変えられるのは世界の側だけじゃない。望む自分のいる世界を探すことだってできる。外面も、内面も」
「……リリ?」
「でも望む自分をイメージするのは難しい。人間には長年生きてきたぶんだけ、自分自身に対する強固な信念がある。だから普通なら、時間をかけてゆっくり、少しずつなりたい自分をイメージして、理想の自分がいる世界を見つけていく。だけど」
「リリ、どうした? 聞いてるのか?」
「当然『エヴェレット』は飲んだ量によって効果が増す。具体的にはより敏感に、ダイレクトに世界を操れるようになる。だから多量に飲むと、自分の感情をダイレクトに増幅させることができる。それを利用すれば、自分で自分をハイな世界に持っていって、飛び回ることもできる。こんな風に」
 そこまで喋り終えてから、彼女は黙った。
「何が起きてるんだ」
「本当は私が教えてあげるべきだったんだけど、『バッド』になっちゃった。ごめん」
「いつもこんなことをしてたのか?」
「私がなんとかしてるんだ。でも今日はうまくいかなかった。二人を止められたらよかったんだけど」
 二人は無事だよ、とリリは俺に伝える。
「少なくとも、向こうの世界では、このカラオケボックスですやすや眠ってる。私がずっと注意して見てるから。ミドもあまり混乱はしてないみたい」
 ごめんね、ミド。そう彼女は小さく言った。
「『ゾンビ』だった俺には、こういうことを隠してたのか?」
 リリは頷く。
「こんなこと、もうやめるべきだよね」
 俺は何も返せなかった。自分は部外者だ。何か意見を挟む権利があるのか分からない。もしそれができたなら、とっくにミドを止められたはずだ。
「すまない」と俺は率直に言った。「俺は何もできなかった。最初からずっとそうだ」
「うん」
「止めるべきタイミングはいくらでもあったと思う。でも自分も『エヴェレット』を使ってしまったし、その上ミドがめちゃくちゃになっても、傍観しているだけだった」
「……気にしないでいいよ」とリリはぽつりと答える。「こういう言い方をすると怒るかもしれないけど……リュウくんが変な人だってこと、分かったもん」
「変?」
「だって、リアルのリュウくん、私と出会ってから一度も笑ってないから」

 

 リリたちと出会ってからもう一週間近く経っている。
 言われて、確かに気づいた。記憶している限り、その間、俺は一度も笑っていない。
リュウくんの人生を変えてみせる」とリリは言った。けれど、俺はちっとも笑わなかった。
 それを彼女はどう思ったのだろうか。
「いろんなことが分かってきたから、気に病まないで。今回は私の監督不行き届きのようなものだから」
 そして彼女は「賭け、私の負けでいいよ」と笑う。「忘れてた? いや、もうどうでもいいかもしれないけど、権利をあげる。私になんでも言うことを聞かせられる権利。なんでもいいよ。そう、たとえば『私と別れろ』って言うなら――」
「やめろ」
 俺は言葉を遮った。
「もういい。話さなくていい。……リリ、疲れてるだろ。それにみんなも、向こうではぐったりしてる。話しながら、一瞬だけ戻れるか試してみたんだ。あまり上手くはいかなかったけど、様子は見えた。二人とも起きてる。混乱してるけど、もうちょっとでちゃんと話せるようになりそうだ。でも、ぐったりしてる。リリにも見えるだろ」
「……うん、言う通りだね。帰ろう」
 意識が引き戻されていく感覚がする。どうやら『エヴェレット』の効果が切れてきたらしい。俺が貰った半分しか飲まなかったせいかもしれない。
 カラオケルームはめちゃくちゃだったが、この世界がどうなろうと戻らなければどうってことはない。リアルの部屋で四人はずっと寝ていただけなのだから。この世界での彼らの無事を祈ろう。
 ……まぁ、リリたちが何と言おうと、どうせ『エヴェレット』は幻覚を見せるだけだ。そんな心配はしなくていい。
 とにかく今日は帰るべきだ。
 意識が完全にここから消える寸前、リリが小さく何かを口にしたのが聞こえた。
「ミド、私、最低だ」
 その言葉の意味を考える前に、俺の意識はもとの身体まで飛んで行った。

 

 帰り際、俺たちはお互い、ほとんど何も言わずに解散した。
「今日はヤバかったな……こりごりだよ」
 ネズミは気丈に手を振ったが、全員が疲れ切っているのは明白だった。リリは書店に買い物に行く、と言って去ったので、久しぶりに一人で帰ることになる。
 既に真っ暗になった街を、ぼんやりした頭で歩く。白い膜が、まだ視界に張ってある。道行く人も道路を走る車も、駅から聞こえる電車の音も、すべてが自分と関係なく思える。
 唐突に、死にたいなと思った。

 

10

  ほとんど両親は家を空けていたので家族とは名ばかりだったが、姉は初対面の言葉と裏腹に、多くの時間を俺と過ごしてくれた。たぶん、最初は暇だったんだと思う。

 

「――で、リュウマクタガートのC系列については先月、ミンコフスキー空間と相対論の話は先週に話したと思う。今週はずっとエントロピーの話をしたわ」
「うん」と俺は漫画から目を上げて何も分かっていない返事をする。
「誤解が多い話だから難しい説明をしたけれど。復習すると、部屋は放っておくと散らかる。難しく言うと断熱系のエントロピーは増大するということ。もっと難しく立ち入ると部屋が散らかっているかはどこからどこまでを部屋とみなすかによって変わるので、情報、人間が何に価値を置くかに密接に――いや、それはいいわ。とにかく部屋は散らかる。じゃあ片付けなきゃいけない。でも、もしひとりでに部屋が片付く世界があったら便利ね」
「確かに」

 

 姉が指摘した通り、両親の結婚には怪しげなところがあった。
 お互いが出会ったのはほんの数か月前、人づてに聞いた話では二、三度しか対面していなかったという。

 

「その世界ではエントロピー減少の法則が働いていて、勝手に秩序ができる。部屋は片付き、冷めたコーヒーは熱くなり、死んだ人も生き返る。素晴らしい世界。でも、現実はそうじゃない。けれど、それが人間を生んだ。……生物には、外界の刺激に反応する原始的な意思がある。それは、増えていくエントロピーからなんとか自分の秩序を守ろうとすること」

 

 まもなく流言はますます大きくなった。というのも、父が教授職を辞め、新しく会社を設立したからだ。
 ペーパーカンパニーだ、という噂。
 怪しいことは尽きなかった。父の関係者が母の企業傘下で職を得たという話。事業の実態も不明瞭なのに父の報酬が尋常ではなく高いという話。政治関係者との接触のスクープ。掘れば掘るほど疑惑は出てきた。
 でも俺は決定的なことが起きるまで、何も知らなかった。

 

「そしてその反応はいつしか意思になったし、私は意識にさえなったと思っている。このへんは漱石の『文芸の哲学的基礎』が素晴らしくて……いや、話が逸れた。さて、もしひとりでに部屋が片付く世界があったら、リュウは片付けようと思う?」
「……勝手にやってくれるなら、やらないかな」
「そう。だからエントロピーが減少する世界では、意思は生まれない。意識も生まれない。ディストピア。これはSFのような並行世界で考えてみても同じよ。もしIFの世界が無限にあって、自在に行き来できたとしたら、意思は生まれないんじゃないかしら? つまり、人間に世界がひとつだけだというのは、必然なのよ」

 

 一方で、高校生になった姉はますます才能を開花させた。父と連名で発表した論文が大きな話題になったのだ。それは学会よりは世間に受け、メディアは天才父娘だと騒ぎ立てた。
 だが、一部ではささやかな陰謀論が出回った。
 父親の近年の業績のほとんどは、彼女のものなのではないか――という話。
 たかが十五の少女にそんなことができるだろうか? 俺は姉が死んだ今も懐疑的だ。彼女は詐欺師の類だというのが現在の社会的評価であり、俺も基本的にはそれに同意する。

 

「でも姉さんは、並行世界に行きたいんでしょ?」
「もちろん。それが科学に興味を持ったきっかけだから。小さい頃の私はこの問題にどう対処するか考えた。それでね、あるとき結論に達したのだけれど――」

 

 けれど、もしもそれが本当なら?
 両親の悪い噂と一緒に考えると、何が見えてくるだろうか?

 

「なんでも願いが叶うなら――意思なんて、いらないんじゃないかしら」

 

11

  歯車が掛け違っている感覚、というものがある。
 月曜日の四人の会話は他愛もない、いつもと変わらないどうでもいいものだったけれど、何かがズレているような奇妙な感じがした。
「でさ、そもそも俺がオタクになったきっかけって言うのはさ――」
 ネズミはクラスの運動部員にアニメの魅力を教えてやったという中学時代の嘘に決まっているくだらない自慢話をしていたが、どうにもミドはちゃんと聞いているようではなかった。
「……どうした? ミド、そんなに黙ってさ」
「あ、ごめん」
「いやすまん、黙ってるのはいつもだった」
 彼の軽口にも、ミドは俯いたまま、あまり反応しない。
「あんまりネズミが自慢話するから閉口してるんだよ。どうせまた盛ってるんでしょ。ほんとはラノベのブックカバーとか取られて晒されたりしてたんじゃないの?」
「違ぇわ!」
 ネズミはコミカルに言い返したが、まもなく「……いや」とばつが悪そうに語気を弱めた。そこでまた沈黙が生まれる。
 リリの態度だけはいつもと同じように見えたが、この空気だと何か空元気に見える。それは錯覚なのだろうか。
 お互い決して機嫌が悪くないのに、何かがズレている居心地の悪さ。
 それは四人とも感じていたはずだ。けれど、お互いその原因は何だと考えているのだろう?
「そうそう、映画って今週だったよね」
 リリが緊張を破るように、唐突に切り出した。
「チケットもらったやつ?」
「そうそう。三人で行くってやつ。初日だから混んでるかも。前売券、向こうの世界にあるから行かなきゃね。後でミドに渡すよ」
「うん、えっと……」とミドが何か言いかけて、俺の方を見る。
 一瞬、目が合う。
 だがミドはすぐ気まずそうに弱弱しく視線を外した。リリは気づかなかったらしい。
 俺は土曜のことを思い出す。血の匂いが蘇って唾を飲み込んだが、すぐにイメージは頭から去った。
「それにしてもまさか二席だけ相席なんてすごいよね。ね? ミド。ね?」
 リリは圧力をかけたが「……いいよ」とだけ呟いた。「ありがとーミド! 我が大親友! 世界一! 略すとセフ――」と言いかけたところで空気を察したのか「あはは、自重自重」と言葉をひっこめた。
「そんなことはいいんだよ、とにかくありがとありがと。チャンスが来たわね」
 また気まずくなるのは気分が悪い。だから「何のだよ」と突っ込んでやった。
「そりゃもう、真っ暗な空間で男女がすることといえば――」
 もう一度リリの頭を小突くと「いたっ! またそうやって女殴る!」といつもの様子で抗議され、少し安心する。
 こういうとき、リリがいてくれて助かるなと思う。

 

 梅雨入りは唐突で、翌日から雨が降って屋上はしばらく使えなくなった。そのせいで、数日間リリたちにちゃんと会うことはなく、『エヴェレット』を使う機会もなかった。
 SNSグループも自然と言葉数が少なくなって、全員の既読がつかないことも増えた。

 

 放課後、夕立が滝のように降り、傘が壊れるのではないかと不安になったがしばらく待っても収まる気配がなかったので結局諦める。
 遠くからは地響きのような雷鳴がする。
 雷は昔から苦手だった。姉がどれほど自分に落ちる可能性が低いか説明してくれても、それだけは克服できなかった。確率の問題ではなく、ほんの少しでも死ぬかもしれないと思うと身がすくむのだ。死にたいとは思うが、唐突に殺されるのはなんとなく嫌だった。
 ローファーに雨水が入らないか不安になりつつ駅へ向かう。きっと遅延しているだろうと思うと投げやりな気持ちにどんどんなっていく。
 道路下、ちょうど歩行者用の小さなトンネルに差し掛かったとき、その前に誰かがいた。うずくまっているように見えた。何事かと思い、近づく。
「……あ」
 制服姿の少女は、投げ出された鞄からコンクリートの地面に散らばったノートや教科書、筆記用具などを集めている。
 彼女はブレザーもスカートも濡れそぼり、同様に濡れた髪からは水滴がしたたっていたが、手や膝が汚れるのも厭わず、這いつくばって一つ一つそれらをかき集めていた。けれどたとえ作業を終えたとしても、ほとんどはもう使えないだろう。単なる悪あがきだ。実際、作業はほとんど進んでいない様子だ。
 こちらの足音に気づいたのか、彼女が地面から顔を上げる。
 こちらの姿に驚いたようにびくりと後ずさりしてから、怯え切った野良猫のように、丸い目を向けてきた。やっと俺が誰だか気づいたらしい。
「――りゅう、くん」
 彼女はリリだった。

 

 土砂降りの雨に濡れながら、リリを見つめている。
「リリ」
 呼びかけてみたが、それ以上どんな言葉をかけたらいいのか分からなかったし、たぶん何を言っても不正解だった。
「ごめん」とリリは視線を落として、濡れて垂れ下がった前髪で目を隠す。でもそれは完全ではなくて、隙間から覗き見える。
 リリは目を真っ赤に腫らしていた。
 彼女はふらふらと立ち上がり、俺の方を見て「バレちゃった」と呟く。
「あれから調子崩して、あんまり『エヴェレット』を使わないようにしてたんだけど、そしたらこれ。現実って厳しいね」
 それはいつも俺の前で見せるのとは違う、自嘲的な笑いという印象だった。
 どういった事情があるかは察するしかなかったが、恐らくトンネルの上の車道から鞄を突き落とされたのだろう。自分ではなく、誰かに。
「……でさ、どうする?」とリリは訊く。
「リリ」

 

「――哀れまないでよ!」

 

 彼女は絶叫した。
「好きな人にさぁ、こんな姿を見られて、それだけでも死んだ方がいいのに、私、これ以上優しくされたら、ほんとに死ぬしかなくなっちゃうじゃん、こんなに惨めなのに、哀れまないでよ! ……そう、もう分かる? リュウくんがどういう選択肢を取れば正解かって。今すぐ、何も見なかったふりをしてここを立ち去ってよ、私がここでこうやってることなんて忘れてさ、そうしたら、私、全部なかったことにしてまたいつも通りにするからさ、それが一番私は嬉しいから、だから今すぐいなくなって」
「……リリ、落ち着け」
「触らないで!」
 リリは集めたノートや教科書を胸に抱いて、近寄ったこちらから飛びのいたまま、俺を睨みつける。
 さて、どうしようかと思う。
 五秒ほど考えてから、俺は開けたままの傘をリリにかけて、そのまま屈む。
「やめてよ!」と彼女は喚いたが無視して、一人で勝手に残りの荷物をまとめていく。それからもブツブツと何か言っている様子だったがどうでもいい。
 ボールペンや蛍光ペンのインクが流れ出して水たまりが濁っている。ほとんどはもう使えないだろう。教科書や参考書は表紙のせいか思ったほどダメージは少なかったが、ノート類はほぼ全滅で、開いた瞬間にくっついたページがビリビリに破れる。それでも一応はまとめる。
 身体がぶるりと二度震える。じめじめしているのに悪寒がする。風邪をひいてしまうかもしれないが、それはリリの方が深刻だろう。次に対処しなければいけない。
 とにかくとりあえずは見つかる限りの所持品を集めて渡す。抵抗されるかと思ったが、リリは虚脱状態に入ったのか力なく手を差し出してそれを受け取った。
「立てるか?」
 リリは頷いたが、まもなく転びそうになったので傍で身体を支える。
 そして身を寄せ合って歩き、ひとまずトンネルの中に連れていった。

 

 リリは右脚の膝小僧から血を流していた。小石に引っ掛けてしまったようだ。
 待ってろ、と言ったまま俺はすぐにコンビニに向かった。幸運なことに目と鼻の先にあるのを思い出したのだ。
 タオルと絆創膏、脱脂綿、消毒液が欲しかったがないのでミネラルウォーターを買う。店員の中年女性は明らかに迷惑な顔をしたが応急手当も満足にできない店の方が悪い。
「痛いぞ、気をつけろ」
 戻ると、すぐに傷についた汚れを流し、脱脂綿で傷口を押さえて、しばらくしてから絆創膏を貼る。それからタオルを渡した。せめて髪ぐらい拭いた方がいいと思ったからだ。
 こんなところか、と一息ついたところでようやくリリは「最悪」と口を開いた。
「なんでこんなことするの?」
「なんでって……」
 さっきから一度も考えていない問いだったから、困惑する。
「人が痛そうにしているから、何とかしただけ。他に理由なんてないが」
「だから、言ったじゃん、私は――」
「別に優しくしてない。人が苦しんでいる状況を放置するのは気分がよくないだけ」
 論争する気はなかったのでそれだけ言うと、出鼻をくじかれたらしいリリは黙った。
「暗くなるだろうけど、もうちょっと止むまで待つか。忘れてほしいなら、お前が帰れるようになってから忘れる」
 雨は正気とは思えないほど降っていたが、トンネルの中の方が地面より高い位置なので水は入ってこなかった。ホールデン・コールフィールドなら回転木馬に乗った妹を見るのにぴったりの天気だろうが、俺たちに特に感動はなく、寒いだけだ。
リュウくん」と、体育座りしていた彼女は俺に頼んでくる。「隣、座っていい?」
 落書きひとつない治安のいい壁に近づき、無言のままリリの隣に座る。すると彼女は肩を寄せて、体重をこちらに預けた。
リュウくん、あの、あのさ――私、なんて」
「黙ってていい。落ち着くまで」
「……じゃあ、分かった」
 彼女の濡れた髪が、耳と肩にかかっている。横目で見ると、なんだか艶めかしく見えるな、などと考えてみた。黙っているとかなり印象が違う。
「あのさ」
 リリはぽつりと、虚空に向けて言う。
「しばらく、こうしてていいかな」
 俺は「ああ」と返した。

 

「このまま帰って大丈夫か?」と俺が訊くと彼女は「あんまり」と力なく言った。「着替えは持ってるけど、こんなずぶぬれで帰ったら変に思われるかも。……ここまでされたの初めてだから、どうしよう」
 最後の一言には勇気が必要だったようだが、特段気にはしなかった。
「うちに来るか?」
 俺は言った。
「え……?」
「親だか何だか知らないけど、このままじゃ帰れないんだろ? で、最寄りの駅は俺の方が近い。定期で降りられる。着替えもある。なら一旦そこでシャワーなり着替えなりしてから帰った方がいい。合理的な理由」
「でも、迷惑じゃ」
 珍しくリリがまったくふざけなかったので「よかったな、俺の家に入れて」と言ってみてから、向こうの世界ではもうそこまで行ってるのかもしれない、と無意味な想像をしたが、リリが「そうだね。初めてだね」と言ったので否定された。
「――楽しみ」
 抑揚のない冷たい声で、リリは呟いた。

 

 真っ暗になってしまったが、予想通り遅延していた電車も復旧して、乗客もまばらだったのでさほど人目を気にしないでよかったのは助かった。
 部屋につく頃にはお互い髪はちょっと乾いていたが、ブレザーを脱ぐとリリのシャツはひどく濡れていて、俺は後ろを向いたまま先にシャワーに行くように言った。
 彼女が終わると入れ替わってこちらも雨水を洗い落とす。
 暗いままのリビングに戻ると、リリは座ってたままぼーっとしていた。
「髪、乾かさないのか」
「ひゃっ!」と後ろの俺に驚いたのか、リリは小さく飛び上がる。漫画の誇張表現みたいでかわいらしい。全体的に今日の彼女は弱弱しくて新鮮だが、風邪だったら嫌だな、と思った。
 ドライヤーを持ってくると、リリは「リュウくんがやって」と言った。
「俺が?」
「……今日くらい、甘えさせて」
「いつも甘えてるだろ」と返すと、リリは「そうでもないんだよ」とうなだれた。
 櫛を貰い、言われるがまま髪を梳いて、ドライヤーで乾かしていく。熱風でシャンプーの匂いがこちらに流れてくる。今日は俺と同じものを使っているのに、全然見知った匂いには感じなかった。なぜだろうか。
「もう話さなきゃいけないから、話すけど」と、リリが一方的に話を始める。「リュウくんは髪に集中してていいから」
 あまり聞きたいことではなかったが、リリが話したいなら止めることはできない。
「一年の頃は何もなかったんだ。正確には、高校だけじゃなく十五年ずっと何にも困らなかった。パパもママもちょっと生真面目だけどいい人だし、友達もいたし、自分では言いにくいけど勉強も運動も自信があった。中学では生徒会にもいたし、推薦でここに入れて、二年では特進に上がれた。でも、そこからおかしくなっちゃった」
 暗い部屋に、ドライヤーの無機的な風音だけが響いている。
「進級して間もなく、突然クラス全員が私を無視するようになった。……理由は分からない。まったく身に覚えがない。だから混乱した。でも誰も私と話をしてくれなくなった。それだけじゃない。みんなは私を存在しない人間として扱った。授業でペアを組んでもらえないとか、委員決めで勝手に仕事を押し付けられるなんてかわいいものだよ。ある日学校に来たら私の席が片付けられてたこともあった。仕方なく準備室から代わりを持ってきたけど、中に入っていたものは見つからなかった。それから教科書とかは複数買っておいて、学校の何か所かに隠してる」
 轟々と響くチープな排気音。
「直接的な暴力や嫌がらせはされないけどね。存在しない人間として扱われるの、思ったよりしんどい。存在を全否定されてるとね、憎しみすら湧いてこなくなる。あ、そっか、私って存在しないのかなって、こっちまで思うようになる。むしろたまに分かりやすく嫌がらせされたときなんて嬉しくなったくらいだよ。特に今日みたいに、追い越しざまに突き飛ばされたりしたら。こんな雨でも元気だよね。やってきた子、嫌なことでもあったのかな。ストレス発散のつもりかも。ああそう、男子ならもっと面白いことしてくるよ。あいつら怖気づいてるからそこまでひどくはないけど、言ったらリュウくん興奮してくれるかも。たとえば――」
「静かにしろ」と注意した。「火傷する」
「……まぁいいや。とにかく私は存在しないんだなって思った。先生たちも知らないか、知っていても見てみぬふりをする。進学実績のある特進クラスで騒ぎなんて起こしたくないんじゃないかなぁ。家族にも言わなかった。あの人たちを苦しめたくなかったから。でも、やがて私への嫌がらせも減って――うん、だから今日は珍しいんだけど、ともかくついに完全に無視されるようになって、なんか気が楽になったんだ。私って無意味なんだなって。生まれてなんかないんだなって。ここにいない。何者でもない。誰も気にしない。オースターって人の小説を読んだことある? 依頼者に成り代わられて、何物でもなくなっちゃう探偵の話。そんな風に私は、ここにいる自分は抜け殻のようなもので、ほんとの自分が別の場所にいるんだって思うようになったんだ。ここでとは違う人生。私にはそこの方がふさわしい。そっちに行きたいなって思った。どうやったら行けるんだろうって思った。二十四時間考えた。もしかしたら、死んじゃえばいいのかもな、と思った」
 後ろ髪が乾いたので耳の後ろに手を伸ばす。リリは「……ひゃん」と小さな声を出すが、すぐに話を続ける。
「でもリュウくんも分かると思うけど、具体的に死のうって思ってもさ、難しいよね? だからウダウダしながらそうやっていつ死のうかいつ死のうかって考えていたある日――リュウくんに出会ったんだ」
「俺に?」
「うん。毎日電車に乗って、同じ車両の同じ場所にいつもいる男の子。それまで気づいていなかったんだ。でもある日、ふと目に留まった。……落ち込むかもしれないけど、正直、一目惚れって感じじゃなかった。ちょっと眠そうにしてるところ以外は、他の男子とそんなに変わったところはない。……でもどこか変な感じがした。窓の外を見てる目が、私と似てるような気がしたんだ。でも今思えば単なる妄想だったのかもしれない。失礼なことを言うと、誰でもよかったのかも。恋愛なんてそんなものだったりして」
「それで、俺を『エヴェレット』で恋人にしたのか」
「話が前後しちゃうけどね。薬を手に入れて真っ先にしたのは、言った通り、私にふさわしい世界を作ることだった。そこで、ちょうどいいと思ったのがリュウくんだった。私はときどき学校で、リュウくんのことを観察したよ。自分でやれるだけ調べて、余白は勝手な想像で理想のリュウくんを作った。で、世界に配置した。それは、今まで変わらない」
「なら、それでよかったんじゃないか?」
 ドライヤーのスイッチを切った俺は、カラオケで訊けなかったことをもう一度質問した。
「まぁ、俺を選んだ理由はそれで納得するとして――理想の『リュウ』がいるのに、どうして現実の俺を誘い込んだんだ」
「……死にたかった私が言うのも滑稽だけどね」とリリは話を続ける。
「現実のリュウくんも、そんな風に別の世界に行けば死ぬのを止められるかなと思ったからだよ。リュウくんさ、自分の雰囲気、分かってる? ストーキングしたのは悪かったけどさ、あんまりにも楽しくなさそうなんだよ。……でさ、言っちゃうと、あるとき屋上のふちに立ってるのを見かけて」
 ……見られていた。
「全部繋がったんだよね。この人、死んじゃうかもって焦った。でもそこで『エヴェレット』を使えば幸せにできるんじゃないかって思った。そういうこと」
「でも口ぶりだと、向こうの俺と話しても違和感はないんだろ? だったらお前にとっての山田リュウは『ゾンビ』でもいいだろ。大切なのは向こうの俺じゃないのか? ……不謹慎だけど、現実の俺を自殺から救った意味はあったのか? 見殺しにしたって――」
「やめなよ」とリリは静かに言った。「悲しいこと言わないでよ」
「……済まない」
「でもリュウくんは鋭い。本も読んだよ。難しく言うと『他我問題』ってやつ。テツガクの話はしないけどね。ただ、結果的にだけど、望み通りのリュウくんじゃなくて、知らないリュウくんの方が好きになれたんだ。うまく言えないし、変なんだけど。死んでほしくなかったってことは、私、やっぱりこの世界を大事に思ってたんだね」
 でもね、とリリは寂しそうに話す。
リュウくんとしばらく過ごして分かったけれど、本当のリュウくんは本当に本当のリュウくんなんだよ」
「いや、意味わからんが」
「そのまんまだよ。私が彼氏にしたリュウくんは私の理想の存在だったけど、現実の人間はそうじゃない。そういうこと。でも困ったことに、それを好きになってる」
 そこまで好きですと言われれば「はぁ」と俺は相槌を打つしかない。
「でも私はずるいから、そういうリュウくんも全部欲しがってしまう。矛盾してるんだけど、現実の、思い通りにならないリュウくんをひとりじめしたくなっちゃう。そんなことできないのに、止められない。……だから、じきにひどいことをすると思う」
「ひどいこと?」
リュウくんが私を見てないの、分かってるから」
「私は私が嫌い」
 そう言って、リリはソファに登り、膝立ちで俺の方を向いた。
リュウくんを信じられない、私が嫌い」
 焦点の合っていない、おぼろげな目。
リュウくんには、大事な人がいる――って話、してたよね」
「ああ。俺の姉だ。何から話せばいいか分からないけど――」
 ついに、俺はリリに姉のことを明かした。
 ……一通り話し終えると、やっぱり「そっか」とリリは言った。「嫉妬……はできないね。大変だったみたいだから」
「いや、こっちの話だ。こんなこと話して、すまない」
「いいんだよ。納得できた」
 私が一番になれないってことも。
 でも、リュウくんが好きで、一番になりたくなってしまうことも。
 だからね――と、リリは呟く。
「わたしがもしひどいことしたらさ――私を嫌ってください」
 ――リュウくんは、優しいからさ。
 その言葉は、彼女が部屋を去ってからも耳から離れなかった。

 

12

  翌日、SNSグループにリリから『体調が悪いから、映画はリュウくんはミドと二人で行ってきて』というメッセージが投稿された。『風邪引いちゃったかも』ということらしい。
 あんな大雨の中で傘も差さずにいたら体調を崩すのも当然だろう。その原因を考えるといたたまれなかったけれど、どうにもならない。たとえばA組に行って彼女を突き飛ばした相手を殴るわけにはいかない(少なくとも風邪は治らない)。
 他の二人にも話してはいけない、と釘を刺されていたので、ネズミたちは驚いているだろうな、と思う。今のところ、それを守っている。
 それにしても、ミドと二人。
 はっきりとはしないが、どちらに対してもなんとなく後ろめたいような気持ちがある。
 ネズミを誘ってみようかと思ったが、『俺はいい』と先回りされてしまい、逃げられなくなった。
 まさか中止する理由もなく、その日は近づいていった。

 

「……どうも」
 ちょうど梅雨の狭間にぴったり晴れた午後の駅、カラオケでの乱痴気騒ぎの際と同じ待ち合わせ場所。『もうすぐ』という連絡を受けて待っていた俺の前に、恐る恐るという感じで人がやってきた。
 フリフリした布が随所にあしらわれた、白い長袖のワンピースの少女がそこにいた。
 最初は文字通り別人なのではないかと思ったので訝しんだが、俺の前で二十秒ほど「えっと……」「その」「うん」「あ……」とうなり続けたので、ミドだと分かった。なんで前はあんな格好してたんだ。
 やっと意を決して俺に挨拶する。やはりいつものモードだ。
「リリ、来れないって」
「らしいね。聞いてる」
「うん……」
 当たり前のことを確認してみたが、何も話が広がらない。彼女の性格のせいもあるだろうが、カラオケの一件からミドが俺との距離をつかみかねているのもなんとなく分かる。
「とりあえず行くか。ここで突っ立っててもしょうがないし」
 そう判断して「行くぞ。映画館の場所は調べてあるから」と歩き出そうとすると、「待って!」と止められる。
「どうした?」
「今日、人多い」
 確かにそうだった。何かのイベントがあるようで、心なしか駅は混み合っている。
「……人ごみ、苦手」
 その言葉で、ミドが何を求めているのかはある程度分かった。
「腕、掴んで」
「えっ?」
「いや、そうしてほしかったんじゃないのか」
 堪忍したようにミドは頷く。最初からそう言えばいいのに、と思う。
 彼女はおずおずと手を差し出して腕に絡め、まるで樹にしがみつく昆虫か何かのように俺に身体を寄せる。
「じゃ、行くから」
「うん」
 これからどうなるというのだろうか。

 

 結局、到着するまでミドは最後までひっついたままだった。
 映画が始まる前に、俺たちはモールのファミレスにやってきた。ドリンクバーだけを注文し、ミドが『エヴェレット』を取り出す。チケットは向こうの世界にあるのだ。
「じゃ、飲もう」
「うん」
 もう慣れた、何度目かの酩酊がやってくる。

 

 そのまま向こうの世界に来た俺たちは、すぐに会計を済ませて映画館に向かう。
 ミドはキャラメル味のポップコーンを買った。
「……甘いもの、好きだから」
 嫌いだった……? と心配そうに訊いてくるので「いや、いいよ」と言っておいた。「映画館ではあんまり食べないし、そもそもミドが買ったんだから」
 俺が言うと、ミドは何かを言いかけてからやめ、少し不機嫌そうに息を吐いた。
 ……よく分からないが、先が思いやられる。
 特に相談はしていなかったが、自然な形でミドと俺は右と左で隣に座ることになった。
 CMが終わり映画が始まる。
 数年間も公開が待たれていたSFアニメシリーズの完結編。おぼろげにテレビでやっていた記憶のある俺はともかく、ミドは過去のシリーズを覚えているだろうか、と思う。まさかとは思うが、何も分からない状態で見たら困惑するだけだと思うので、少しだけ気がかりだった。
 映画は二時間半もある。長い映画は面白いつまらない以前に疲れるので好きになれないのだが、今回も案の定途中で集中力が切れた。
 映像が脳をすり抜けていき、一応はストーリーを把握できるのだが、それ以上心が動かされたりすることがない。この感覚は、ときどき経験するあの解離とやらと似ていて、言いようのない不安に襲われる。
 しかしこんなに大音量で何かが鳴っている空間で眠れるはずもなく、仕方なく退屈しのぎにポップコーンを拝借することにした。
 紙製のカップを指さすとミドは頷いたので、非難されない程度の量をつまんで口に放り込む。甘ったるい。リリといい、どうして周囲には甘いものが好きな人間が多いのだろう。
 ……一体何分が経ったのだろうか。もう一度食べようと思って、映像をぼんやり見ながらまた右手を伸ばしたとき――何かがぶつかった。
「あ……」
 小さくミドがうめいた。おそらく彼女の左手だろう。恥ずかしさより前に、こんなベタなことって本当にあるんだな、などと感心してしまった。
 無言で彼女は手を引いたので、俺も引く。それからしばらくお互い食べるタイミングがつかめなくて、奇妙な空中戦みたいな状態になっていた。バカだ。
 ……やむなく手をひじ掛けに置いていると、ミドがその上に手を置いてきたので思わず二度見する。今度は何だ? と思ったが、彼女の手は震えていたので、駅前でのことから察した。公開初日ということもあって場内は満員で、少し圧迫感がある。そんな不安な場所に何時間もいたので、いくらか消耗してしまったのだろう。
 連れてきてしまって申し訳ないと思ったが、とにかく今はそれをやわらげるしかない。俺は手を少しずらして握り返して――
 ――リリ。
 やめていた。
 なぜかは分からない。けれど、脳裏に唐突にリリのことが浮かんだのだ。
 あちらが向こうの世界で勝手に主張しているだけであって、俺とリリはこの世界では別に付き合っているというわけじゃない。少なくとも俺は認めていない。それにミドもどうこうという気持ちはない。だから両者に対してためらう理由なんて何一つない。
 なのに、なぜ?
 ……俺は何もできないまま、ミドが握り続ける右手を力なく置きっぱなしにしているしかなかった。
 ……映画がようやく決着し、端から見てもエピローグだな、と思っていた頃、ふと隣を見ると、ミド目を閉じてすやすや眠っていた。よく眠れるものだな、と思う。
 左手はもう俺から離れている。
 それに、少しだけ安堵しておいた。

 

リュウはどうだった?」
 ファミレスの座席に戻ってきて、俺たちは一息つく。すっかり外は暗くなってしまっていた。映画に集中するために、こちらではほとんど何もせず二時間半も座っていたのだ。当然だが明らかに店員が嫌そうな顔をしているので、俺は追加でグリル、ミドは野菜のスパゲティを頼んだ。
 ミドの問いに「長かったな」と答えると、そうじゃないでしょと言いたげな目で見られたので、「まぁ、しっかり終わったんじゃないか?」と言っておいた。
「ミドはどうなんだ?」
 そう訊いてみてから、珍しいことにちょっとだけからかいたい気持ちに誘われた。
「あのラストとか、今ネットで調べたら賛否あるみたいだけど」
「あ……」
 ミドは明らかに焦った表情を見せる。
「うん、私はいいと思うよ。これはこれで!」と早口で言うと、「でも映像がかっこよかった。アニメでどうやって作るんだろうね」と露骨に話を逸らしてきたので、俺は「ちなみにどっち派? それでラストの意見は変わると思うけど」と追い打ちをかけた。
 ヒロインは二人いるのだが、ラストでどちらと結ばれたか、寝ていたミドは知らない。
「あ、いや、私はあんまりそういうキャラ目線でアニメとか見ないから、話が面白ければ、それで……」
 ぷしゅー、とミドの頭から湯気が出てきそうだったので「そっか」とだけ言ってからかうのをやめた。ふざけすぎた。
「……これからどうする? 解散でいいか?」
 俺が言うと、ミドは「その……」と何かをためらうように言葉を迷わせたが、乗り掛かった舟だと言わんばかりに「今から、見てほしいものがあるからついてきて」と言い切った。
「見てほしいもの? どういうやつ?」
「美しい、もの」
 ミドは強く言う。
 それは、現実でも向こうの世界でも、見たことのない彼女の姿だった。

 

 ミドは俺をどこに連れていくか、言わなかった。
 ……駅からニ十分ほど歩いただろうか。
 ここまでくると坂が増えてきて、高低差が激しく、ろくに運動をしていない人間には少々疲れる。ミドはどうなのかと思ったが、あまりつらそうではなかった。目的地に行くことにミドは慣れているらしい。
 国道の隅にある小さな神社に繋がる階段を登り、鳥居の前で右に逸れ、高台をぐるりと反時計回りに回り込む。
 街灯はない。もし突然ミドがいなくなれば、スマホの地図アプリがないと完全に遭難する。
「なぁ」
 ミドは俺の呼びかけに答えず、まるで何かに導かれるように進んでいく。
 ……暗闇の中で、俺は彼女の左手が固く握られているのに気づいた。
 そこには何か、重大な決心でもあるのだろうか。

 

「ここだよ」
 ミドが足を止めたのは、ぐるりと高台を半周した先だった。
 そこには小さな歩道があって、カーブしながら下の国道まで繋がっている。
 俺は息を呑んだ。
 眼下には無数の街の灯が揺れている。
「夜景スポットなんだ、ここ」
 遠くの駅前は恒星のように明るい点が色とりどりに混ざって白く輝き、少し離れて黄色い光の粒がばらまかれていた。
 地面に夜空がもうひとつできて、天上の星を掻き消してしまうほどに瞬いている。
「……綺麗、でしょ?」
「ああ。ここに連れてきたかったのか? 知らなかったから、嬉しいけど――」
 そこでミドは「私はね」と、俺の話を遮った。「この場所が嫌いだった」
「嫌い?」
「うん。ほとんどの人には綺麗だと思う。でも私は、この夜景を見ると悲しい。……引くかもしれないけど、聞いて」
 ミドが懐かしそうに夜景を眺める横顔を、おれは見つめていた。
「あの人たちが子供を持とうと思ったのは、たぶん憂さ晴らしをしたかったからだと思う。……まだ小学生にもなってなかったと思うけど、初めて殴られたときのことはもう覚えていない。食べ物を抜かれていつもお腹がすいていた感じは思い出せるけど。二人で勝手に出かけて一週間も戻ってこなくて、家に食べ物がなくて死んじゃうかと思ったときもあった。……小学校にもまともに通わせてもらえなかった。学校とか児童相談所みたいなのって適当。電話や面談を無視されたら、何もできない」
 ミドは泣いていなかった。
「でも、ついに二人は自分たちがまずいことをしたって分かったんだろうね。そこで今度は新しい遊びに手を出した。家で勉強させて、成績がよくなるまで――おかげでバカだけど勉強には今も困ってない。やってないと殺されるって気がするから」
 それどころか、笑っていた。
「家から放り出されたとき、いつもここに来てた。偶然見つけたんだ。それで夜景をずっと見てた。この夜景の下、世の中には無数の家や人がいて、家族がいて、幸せな家庭がいっぱいある。最初はそれが憎くてたまらなかった。だから嫌いだった。私だけなんでって思ってた。でもそのうち憎むのにも飽きて、あるときからこう考えるようになった。……この星の一粒、幸せな家に私がいたらどうなるんだろうって。それからは……あまりつらくなくなった。ひどい目に遭っても、そこで家族と幸せにしてる私を想像したら、全然痛みもなくなった」
 まるで、昔の幸福な思い出を語るように。
「普通なら学費なんて払ってくれないだろうから、なんとか中学生になった私は必死にいい子を演じた。不自然だったと思うけど傷も隠した。バレなかった。頑張って頑張って頑張って、推薦が取れた。でもそれは逆効果だった。あの人たちは調子に乗って子供をファッションにすることを覚えた。表でニコニコしながら、私には言いがかりみたいに細かいことにケチをつけて、暴力はもっとひどくなった。私はいよいよ向こうの星の家で暮らすようになった。家でも学校でも四六時中考えて、ボーっとする。優しいお母さん。頼れるお父さん。でっかい犬。弟か妹がいてもいいな。妄想は形になってきて、完成させることに躍起になった。でも、あるとき――リリと出会った」
「……リリと?」
「ある日、胸の右が痛くて動けなくなった。それで一週間ぐらい学校に行けなかった。あの人たちは家を出て放置したんだけど、学校はプリントを渡さなきゃいけないからって、リリにお願いしたみたいなんだ。それでうちに来た。だからその時からの知り合いなんだ。……リリはね、必死に玄関に来て、取り繕うとする私を見て何も言わずいきなり救急車を呼んだ」
 結果的にいろいろ助かったんだけど、とミドは静かに語る。
「あばらを骨折してた。突き飛ばされて柱に当たったときなのか、分からないけど。それでついにあの人たちが何をやってたかが衆目に晒されて、私は保護された。あの人たちは捕まって、いろいろあった末に養子縁組が決まった。……高校も変えた方がいいって言われたんだけど、リリがいるから嫌だって言った。そういうことが、あった」
「……どうして、いきなり俺にそれを話したんだ?」
 俺の問いにミドは「やっぱり、リュウは鋭い」と小さく笑う。
「これからね、リリにずるいことをするから」
 彼女は、俺の方に向き直り、灯の反射する両の目で、おれをじっと見る。
 ごめんね――そう、詫びて。
 何もかもを射貫く矢のような、そんな目つきで。
リュウ
 そしてミドは、決定的なことを言う。

 

「好き」

 

13

  ミドは学校に来なくなった。
 
 快晴が戻ってきて屋上日和になっても、誰も来ない。
 ミドだけでなく、今はリリもネズミも来ない。
 週明け、ミドが学校を休んでいるという話をリリが持ってきてから、俺たちは急激に距離を取るようになってしまった。
 とりあえずリリが連絡を取ってみるということに落ち着いたが、それから三人の空気は次第に重苦しくなっていき、屋上に集まることはなくなった。高校というのは人数の多い場所だから、一度接点を失うと案外校内で見かけなくなってしまうこともある。あるいは、俺の頭の中で彼女たちが他人に戻ってしまったのだろうか。
 スマホを確認しても、グループには何のメッセージもない。状況が好転していないのはすぐ分かった。
「今日は誰もいないんだね」
 屋上で佇む俺に、部長が声をかけてくる。
「今日も、か」
「突然なんですか」
「いや、事実を言ったまでだけど。目が怖いよ」
 どう説明したものか、と面倒に思っていると、彼女は見透かすようにこう言ってみせた。
「当ててあげよっか? トラブルがあったんでしょ」
 一瞬、自分の中で何かがざわめいた。
 それは、部長がこう続けたからだ。
「それも――恋愛絡みとか?」
 俺は咄嗟に「サークルクラッシュってやつですか? でも姫なんていませんでしたよ」と軽口を叩いた。
 それに部長はこう答えた。
「それってさ、もしかしてキミじゃないかな?」
「……何が言いたいんですか」
「キミに誰かと関わることなんて無理なんだよ」
「また姉の話に持っていくつもりですか? よく飽きないですね」
「いや、もう話すまでもないよ。もうまもなく、自分で分かるようになるよ。キミにはまともな人生なんて無理だってことが、友達も恋人もできないってことが、そしてナオ先輩――お姉さん以外いないってことが」
 鬱陶しい。
「予言するよ。キミは独りぼっちになる」
 黙ったまま、踵を返して屋上を後にした。

 

 夜、ネズミから俺宛にメッセージが来た。
『明日の放課後、屋上に来い』
 文面はそれだけ。
 何を返信しても既読はつかなかった。

 

 空が晴れるようになると、夕焼けも映える。
 緋色に染まったグラウンドでは陸上部員たちが走り、校舎からは吹奏楽部の練習が音漏れして聞こえる。各々が、過ぎ行く各々の時間を過ごしている。
 けれど、俺たちだけはそこに取り残されて、その時間の中に入れていない気がした。
「話があるんだろ」
「ああ」
 ネズミはもう先に来ていた。
「ミドのことか」
「そうだ」
 頷かれる。概ね予想通りだった。
 そして、次にくる言葉も想定内だった。
「お前らは、週末に二人でデートに行ったんだよな」
 デート、という言葉をネズミは無意味に強調した。なるほど、それくらいの察しはついているということか――そう思った。
「何があったんだ?」
「何があったと思うか?」
 ネズミは俺を睨みつけて、一歩近づいた。
「真面目に話せ」
「そっちこそ落ち着けよ、そんなに凄まれたら話せない」
 俺が注意しても、ネズミは敵意を向けるのをやめない。
「お前が何かを推測しているのは分かる。そして、今起きてることの原因があるんじゃないかと考えてるのも分かる。でも冷静になってもらわないといけない。注意して喋ってるんだ」
「勿体ぶるなよ」
 彼を傷つけたくなかった。
 だから、嘘はつきたくなかったが、本当のことをすべて明かすことはできないと思った。それを明かせば、間違いなくネズミは大きな打撃を受けることが分かっていたからだ。
 ミドが、ネズミではなく俺を好きだったということ。
 ……そして、俺がどう答えたかということ。
 それを言うことは、今の彼にはあまりにも酷だ――と。
 この期に及んで、俺はそう考えていたのだ。
「知ってるぞ」
 俺のどっちつかずな態度に業を煮やしたのか、ネズミは挑発するように俺を見据えた。
「お前は、ミドに告白でもされたんだろ?」

 

 最初に思ったことは、なぜ? という疑問だった。
 なぜそれを、ネズミが知っているのか?
 十秒ほど考えて、彼にこう言ってみた。
「リリに吹き込まれたんだな」
「……っ、ああ、そうだよ」
 ネズミは俺の反撃に多少動揺したらしいが、すぐ開き直るように言った。鎌をかけてみただけだったが、ビンゴだったらしい。
 これで解が出た。だから逆算すれば何が起こったかもわかる。
「じゃあリリは、デートに来てたってことか」
 ネズミは何も言わなかったが、特に返答は求めていない。
「突飛な発想だが、俺たちを追いかけていたのかもしれない。俺たちが待ち合わせてる間も、映画を観ている途中も、……その後もね」
 そう言いながら想像する。リリはどれだけ俺たちを観察していたのだろうか。
 俺たちが身を寄せて人混みを歩いたことは?
 映画館で上映中手を握ってもらったことは?
 そして――その後のことは?
 どこまでを実際に見ていたかは分からない。けれど、すべてを見通されていたような、そんな気がしてくるのだ。
 そう思うと……なぜだろう、悲しかった。
 ミドにも、リリにも、悲しいことだった。
「リリはそれをお前に教えた。で、こういう事態になってるのか」
 唯一残る疑問は、なぜリリがそんなことをしたのか。
 でもそれも、もう少し鋭ければ予感することはできたはずなのだ。

 

『私はずるいから、そういうリュウくんも全部欲しがってしまう。矛盾してるんだけど、現実の、思い通りにならないリュウくんをひとりじめしたくなっちゃう。そんなことできないのに、止められない。……だから、じきにひどいことをすると思う』
 そう、リリは言っていた。
リュウくんを信じられない、私が嫌い』
 彼女は、俺を信じなかったのだ。
『だから、わたしがもしひどいことしたらさ――私を嫌ってください』
 そして、引き金を引いてしまった。

 

「……俺たちのことはもう分かっただろ」
 ネズミは調子が狂ったことに苛立ちながらも、また一歩俺に近づいた。身の危険を感じたが、足は後ずさりしていなかった。
「なんて、答えたんだ」
「……ネズミ」
「答えろよ!」
 そのまま右の手で、胸倉、シャツの首元を掴まれる。
 喉までぐっと持ち上げられて息が苦しい。けれど、あまり抵抗する気が湧かなかった。
 膜だ。
 また、あの感覚。目の前で起きていることが、分からない。
 俺はここにいない。
 何も起きていない。
 気がつくと両方の手が俺の首を絞めている。
 ネズミの眼は完全に我を失っていた。嫉妬、不安、混乱、すべてが俺に向けられている。
 それはある意味では当然のことだ。それでも、いや余計に俺はミドのことを言えないと思った。だから、このまま死ぬのもいいのかな、とさえ感じた。
 人間が窒息するまでは何分だっただろう。思い出せない。
 あれだけ死にたいと思っていたのに、いざ殺されかけてみると変な気分だった。もしかしたら。
『キミに誰かと関わることなんて無理なんだよ』
 こういう結末も悪くないのかも――

 

「――やめて!」

 

 その声で、手が離れた。
 リリだった。
「お前――」
 驚愕するネズミに、リリは「……やめて」とだけ繰り返した。
 呼吸が戻ってきて、思わず吐きそうになったがこらえる。頭がじんじんと痛い。でもそんなことはどうでもよかった。
「……リリ」
 無理にでも声を震わせて、俺は彼女に何か言おうと思った。けれど、その先は何も思いつかなかった。いつもこうだ。俺は、俺たちは、どうでもいいことばかり喋るくせに肝心なときに限って肝心なことを何一つ言えない。
 リリは俯いたまま何秒か黙っていた。俺たちの会話を聞いていたとは思えないが、自分のしたことがあまりにも後ろめたかったからだろう。
 だが、それどころではないことを、彼女は知っていた。
 ――意を決したように、リリは俺たちに告げた。

 

「ミドが、自殺しようとしたって」

 

14

  両親が自殺した。
 姉にそう知らされたとき、俺は状況を理解できなかった。
 それがなぜなのか、彼女は一切説明しなかった。ただ「落ち着いて」と「私に任せて」ということ以外、何も。
 だから、ずっと後で知った。
 彼らが事業に失敗し、多額の借金を抱え、俺たちを置いて心中を図ったことを。

 

 葬式に姉が出席したことは、未熟な俺にとっても大きな驚きだった。
 俺は茫然とした状態のまま気がついたら来ていたという状態だったのだが、彼女は――少なくとも、自分の父に敬意を持っているようには見えなかったからだ。
 和式の斎場、喪服に身を包んだ姉は実際の年齢より五歳ぐらい上に見えた。残された娘として、お決まりの無個性な弔辞を読んだ彼女は、終わると逃げるように壇上を後にした。それは、怜悧で自信に満ちたいつもの姉からは信じられない様だった。
 けれどいかに肝の据わった姉であっても、それは当然だったかもしれない。俺もまた、参列者の俺たちへの厳しい目を感じていた。
 好奇、憎悪、嘲笑、軽蔑。誰もが俺たちを厄介者として見ているのは明白だった。
 でも俺は、自分よりも姉のことが気になった。
 その頃の俺はもう、それこそ両親より彼女のことを特別に感じていた。だから、こんな状況で弱っている姉が不安でならなかった。
 その後、母筋の持つ屋敷で親族や知己の集いがあった。自分たちを一応は引き取ってくれることになっていた叔父たちに連れられてきたはいいものの、やはり親族や両親の知り合いは明白に俺たちを敵視していた。早く帰りたいと思った。
 知らない人間が俺を無視して隣と続ける、こちらをあてこするような思い出話に嫌気が差し、席を外して廊下を歩いていると、通りかかった部屋から怒鳴り声が聞こえてきた。
「――お前のせいだぞ!」
 男が絶叫していた。
「そうよ、あんたがうちの家に泥を塗ったのよ!」
 障子の隙間から俺は中をこっそりと覗いてみた。そこには五、六人ほどの男女がいて、誰かを延々と詰っている。
「あの子を騙したのもあんたなんでしょう? うちらの金目当てでこんな縁談を用意して。あんたさえいなければ、誰も死ななくて済んだのに――」
「違います」と機械的に女性の声が答える。「私は両親にとってそれが最善だと思いました。彼らは支えてくれる人を求めていました。経済的にも、精神的にも。二人とも納得して結婚しました」
「それが心中だってのか? こんなに借金を残して、おずおずと逃げやがって!」
「そうだぞ。捨てられたお前がよく言うじゃないか。結局あいつらは子供なんてどうだってよかったんだよ。お前がやったことはあいつらを共依存にしてつけあがらせ、俺たちにさんざん迷惑をかけただけじゃないか。この淫売が!」
 こいつらが何を言っているのか最初はよく分からなかった。知らない話が多かったからだ。
「私たちは先生を尊敬しておりました。彼の業績や手柄に手を入れて、横取りしたのは誰なんでしょうね。おまけに肉親を騙して金儲けまで企んだなんて」
「そうです。先生は騙されたんです。こんな娘、生まれてこなければよかったんですよ。僕は最初の結婚をすると言ったときも反対してましたから――」
 だが、だんだんこれは、俺たちのことなのではないかという気がしてきた。
「なんでこいつがのうのうと生きてるんだ? 二人の人間を死に追いやって、さんざんうちの一家に尻拭いをさせて、こいつとあのガキはお咎めなしってか?」
「弟を批判するのはやめてください」と、声は言った。「弟には何の責任もありません」
「へぇ、『弟』なんて言うのね。血も繋がってない癖に調子に乗って家族気取り?」
「本当は金以外どうでもいいのに、この期に及んでまだ被害者ぶるのね。だけど、もう私たちは騙せない」
「お前にはわしらの財産はびた一文渡さん。どこかで野垂れ死ねばいい。当然の報いだ」
 いつまでも、いつまでも、いつまでも罵倒は続いた。
 聞きながらふと気づいた。怒鳴られている女性の声に、聞き覚えがあった。
 障子に遮られて彼女の顔は見えない。どんな表情をしているか分からない。

 

 お前さえいなければ。
 こいつは我々の恥晒しだ。
 こんな子供、生まれてこなければよかった。
 なんで一緒に死ななかったんだ?
 死ね。死ね。死ね。死ね。
 死ね。死ね。死ね。死ね。
 今すぐ!

 

 俺は何もできなかった。
 気がつくと、逃げ出していた。

 

 ……中庭で、俺は茫然と大きな石に座り込み、空を見ていた。そんなことどうでもいいはずなのに、月が綺麗だったのをくっきりと覚えている。
「ああ、ここにいたの」
 後ろから声をかけてきたのは、姉だった。
「もう帰るわよ。挨拶は終わったから」
 挨拶? あれが?
「姉さん……」
 俺の不安を中途半端に察したのか、姉は頬を緩ませた。
「大丈夫。これからは私がなんとかしていくから、心配しないでいいわ。あなたはあなたのことに集中しなさい」
 彼女は俺の母のことに触れなかった。そういう気配りができる人だった。
 いつも通りの、高飛車で優しい姉がいた。
「だから、もっと。そうね……ねぇ、死んだら人はどうなるって思う? この機会に、さっきからそれを考えていたの。たとえば――」
 俺たちは、それからどうでもいい死生観の議論をした。
 彼女の様子に、変わったところは見られなかった。

 

 姉が精神のバランスを崩し始めたのは、そのすぐ後のことだ。

 

15

  ミドは自宅で倒れていた。
 薬を大量に飲み(間違いなく『エヴェレット』だったが、誰にも気づかれていないようだった)手首の動脈を切って湯を張った浴槽に入れた。
 家族の発見が早かったので一命はとりとめたが、未だに意識は戻っていないということだった。入院先はプライバシーがどうこうとやらで教えてもらえなかったし、こういう場合、たぶん面会はさせてくれないだろう。
 ミドは、『エヴェレット』で何を見ようとしていたのだろう。

 

 あの日、俺はミドになんと言った?
「……ひとつ、訊きたいことがある」
 ミドは何も言わなかった。
「ネズミには悪いけど……お前は他の世界でたくさんの奴と付き合ってる、って聞いた。『ゾンビ』の奴らと。俺はそれもいいことだとはあまり思わないが、まぁ『エヴェレット』を使っている人間の感覚としては理解できる。でも、なぜ現実の俺なんだ? まずそれを知りたい」
「……私、なんでリリが現実のリュウを呼んだのか、さっぱり分かなかった。まぁ、気まぐれだったんだろうけど、でも『ゾンビ』の相手の方が自分の理想で、優しくて傷つけてもこない。なのになんでわざわざ……そう思ってた。でも、私、今日気づいちゃった。二人でいて、あんまりにも幸せだった。自分の思い通りじゃない、この世界の、現実のリュウといて、傍で見てて幸せだった。それに、こんなにひどい目に遭わせてきた世界のことも許せそうに思えたから。目の前にある灯が……今の私には、綺麗に見える」
 世界って、綺麗なんだね――そう、ミドは呟く。
「だから、このリュウに言うしかなかった。告白する気なんてなかったのに。だから、これは暴走みたいなもの。ごめんなさい。どうしていいか分かんないよね」
 こんな風に我慢できなくなっちゃうのが恋愛なんだね、とミドは笑った。
 その笑顔は、すごく、すごく、掛け値なしに綺麗だった。
 だから躊躇いたくなる。何もかも捨てて頷いてしまいたくなる。でも――
「……ミド、気持ちは嬉しいよ。でもな」
 俺は覚悟する。これから当然で、だが残酷で、悲しいことを言わなければいけないのだ。
「分かってるだろ。現実に存在するのはネズミも一緒だ」
「――っ!」
 リリの中で、何かが裂けた。
 曇りのない笑顔。それを俺は蹂躙し、破壊した。その破片は液状になって目から零れた。
「お前らの関係に口を挟むことはできない。でも、もしも俺のことを好きになってしまったのなら――彼と落とし前をつけなきゃいけない」
「……それは」
「あいつは、お前が他の世界の誰かといることに、深く傷ついていた」
「分かってる。私は、確かにひどいことをしてるよ。でも――」
「お前が生まれた現実に価値を見出せるようになったのは、たぶんいいことだと思うし、俺がきっかけだというなら、うれしい。でもな、現実を認めるってことは、たぶん……そこで生じる責任にも、落とし前をつけなきゃいけないってことでもあるんじゃないか? だって、同じ現実にネズミはいるわけだから。……はっきり訊かなきゃいけない」
 言いたくないことだった。でも、結果から言えば、俺は言った。
「……お前は、あいつが好きなのか?」
「好きだよ」
「本当にか?」
「……分かんないよ!」
 ミドは苛立つように怒鳴り、それから何秒か黙った。血が出そうなくらい唇を噛んでいた。
 言わなければいけないことを言うのは、ひどく具合が悪く、グロテスクだ。
 あは、あははは――
 やがてミドは、唐突に、引きつるように笑い出した。
「……そっか、そうだよね。そうに決まってるか。なんで分かんないんだろ、私」
 ばかだ。そう、ミドは何度も繰り返した。
「うん、分かった。私、リュウのことを諦める。リリにも、ネズミにも悪いことした」
「ミド」と俺は言いかけたが、「何も言わないでいいから」と彼女は遮った。
「もういいんだ。全部いいんだ。ごめんなさい、ごめんなさい、本当に私、最低」
 謝るなと、あの時のように言えない自分が嫌になった。
 でも、彼女がどれだけ痛々しくても、自分を責めるなと言う権利は、俺にはなかった。
「最低って、最低なぐらい最低なんだね」
 泣きながら、笑いながら、壊れながら、狂いながら。

 

 そう言ったのが、俺の見た最後のミドだった。

 

 ……残された俺たち三人は、その日、何も言わず別れた。たぶん、これから彼らとは急激に離れていくのだろう、という直感があった。
 何もしたくなかったが、明日は来る。また学校には行かなければならない。

 

 翌日の放課後、街でリリと遭遇した。
 彼女はふらふらと横断歩道を歩いて、信号が点滅しているのに真ん中で立ち止まっていた。車の濁流はせき止められ、クラクションを一身に受けていたが意にも介していなかった。
 俺は慌てて駆け寄り、手を引いて車道を渡らせた。
「何やってるんだ! 死ぬぞ」
 俺はリリに怒鳴ったが、腕はだらんと垂れ下がったままで、無表情に俺をぼんやりと見つめている。明らかに様子がおかしかった。
「リリ……おい、リリ!」
 何度呼びかけてもリリは答えない。
 こんなの……まるで、ジャンキーみたいじゃないか。
 ジャンキー?
 ああ、そうか。
 リリはもう、この世の人じゃないのだ。

 

 彼女は常時『エヴェレット』を使って夢を見ているのだ。
 目の前にいるのは、自動的に生活するだけの抜け殻。
 リリは、ここではない人生を選ぶことにしたのだ。

 

 たかが四人のもめごとで世界は終わらない。日々は回っていく。
 ミドの容態は分からない。そもそもネズミとも疎遠になってしまった。
 今もリリの姿は電車で見かけるが、お互い話しかけない。単なる他人の女子高生に戻った。悲しくはなかった。それどころか何も感じなかった。
 自分の視界にまた薄い膜が張るようになったからだ。
 俺たちは、いや俺とリリという女子高生は今日も電車で乗り合わせ、すれ違う。
 彼女はたぶん今も『エヴェレット』を使っているのだろう。それも、四六時中飲んでいるに違いない。目からは生気が失われ、登校中に道を歩いているとき、足取りはふらついている。
 彼女の選択はある意味で利口だった。
 ミドもリリも、最初からどこかで分かっていたのだ。現実よりも、望んだ世界で暮らした方がよっぽど幸せなことに。俺のせいで一瞬だけ判断を誤ったけれど、最終的には二人とも幸せになれたのかもしれない。
 俺も思う。
 その方が、現実よりもよっぽどいい。

 

 ポケットの中に『エヴェレット』がある。真っ暗な部屋で、それを俺はテーブルの上にばらまく。思った以上にあって笑ってしまった。一日一錠なら、半年か一年は持つんじゃないか?
 俺もまた、ひとつの決断をすることにした。
 たぶん、俺はじきこの世界で死ねるだろう。今はそう思える。
 その前に、『エヴェレット』で願いを叶えて、やりたい放題してやろう。
 どうせ何をやったって死にたいままに決まっているけれど、でもせっかく魔法のような薬があるのだから勿体ない。どんな行為も――下手をすれば犯罪だって許されるのだ。
 何をしようか?

 

 リュウ
 並行世界で会いましょう。

 

 そうだ。まずは姉に会おう。
 部長の言うことはやっぱり正しかった。
 ――結局、俺には彼女しかいないのだ。

 

 まず食料品(袋を空ければ食べられる菓子類だ)をできるだけ買い込む。次に家の電話線を引っこ抜き、最後に扉にしっかりと鍵をかけた。
 準備完了だ。
 ガラス製のコップに水をなみなみと注ぐ。
 机の上の錠剤を見て、呑み込むのは大変かもしれないな、と一瞬だけ尻込みしたとき、カラオケでのことを思い出した。そうだ、こうやればいいんだったな。
『エヴェレット』をつまみ、ゆっくりと水に入れて、コップでかき混ぜる。たちまちコップの中は白く淀む。そう、これでいい。
 準備完了が終わっていく。あと一錠だ。
 まるで中上健次の『灰色のコカコーラ』みたいだな、と思った。ラストで薬物中毒の主人公が、錠剤をいろいろな人たちに捧げながら飲む。俺は何に捧げよう。
 決まっている。
 敬愛、崇拝、最愛の姉――山田ナオに。

 

16

 「あ、起きたのね」
 薄ぼんやりした視界、頭にかかった陰で目が覚めた。誰だ? と思う。でも喋ることができなかった。頭が痛かった。起き上がる力が湧かない。金縛りにあったようだった。
 ――そうだ、俺は『エヴェレット』を大量に飲んだのだ。それなら、ここは?
リュウ、明日は日曜だからって、そんなに寝てたらこれから眠れなくなるわよ」
 さっきから誰かが俺に呼び掛けている、
「晩御飯はもうできるから、食べなさい。一緒にね」
 そこでやっと思考が戻ってくる。
 この声。この後姿。間違えるはずがない。姉だ。
 なら――俺は『エヴェレット』で、姉の生きている世界に来たのか?
「よし、できた」という声とともに、声の主がテーブルに皿を置いて、俺に近寄ってくる。
「――姉さん?」
「……何? まだ寝ぼけてるの? そういう無意識の欲望だったら嫌ね」
 ようやく身体に力が入り、起き上がる。俺はソファーに寝転がっていたらしい。
 目の前の女性をまじまじと見つめる。
 記憶の中とまったく変わらない。頭からつま先まで、姉以外の何物でもない。雑にセットされた黒髪も、毎日着ている白いシャツも黒いスキニーも、俺より頭一つ高い背丈も。
「姉さん、姉さん、姉さん……」
 奇跡を前にすると、人間は言葉を失う。
「本当に、姉さんなんだよね?」
 でも、姉の反応は妙だった。
「ふざけてるんじゃないのよね」
「……は? どういうこと?」
 彼女は怪訝そうにしたが、勝手に何かを納得したように、呆れた表情が浮かんだ。
「ああ、そういう遊び。……言わせるのね。いいわよ。恥ずかしくなんかない」
 次に発された一言は、予想だにしないものだった。

 

「私はね――リュウの恋人の、ナオよ」

 

17

  恋人?
「ちょ、ちょっと待ってくれよ、姉さん」
「だから姉さんじゃないでしょ。本当に大丈夫?」
 俺はソファーから飛び上がる。何が起きているんだ?
 いや――落ち着け。ここは『エヴェレット』の世界なのだ。
「これから質問をするけど、どんなことでも真面目に答えてもらっていいかな」
 俺の真剣な目を察したのか、困惑しながらも「……答えられる限りは」と姉は応じる。
「姉さ……いや、あなたとと僕は、どこで知り合ったんだ」
「……私の父とあなたのママ、仕事でちょっと交流があったでしょう?」
「交流ってなんだ? 結婚したんじゃないのか?」
「はぁ? 本当に大丈夫? 両方とも既婚なのだけど」
 まさかと思ったが、すぐに頭を働かせた。
 この世界では、俺の母はもとの父と離婚しておらず、向こうも同じということか。
「じゃあ、なんでこの家で暮らしてるんだ」
「高校に進学したからに決まってるでしょう。家からは遠いから、私のとこに泊まりなさいって言って。それも、私と同じ学校に行きたいとごねるから」
 なるほど。思い出してみれば、元の世界でも姉と同じ高校を目指したのは同じだ。離婚前にもともと住んでいた家は当然遠いので、こういう風につじつまが合っているのか。
 それなら、確かに俺と彼女は姉弟ではなくなる。そして、あのいかがわしいビジネスの話も完全に存在しなくなっているのだろう。
「な、ナオさん」と俺は恥じらいを抑えながら呼ぶ。「じゃあ、恋人っていうのは――」
「いや、恋人は恋人でしょう。私たちの関係、そう呼ぶしかなくないかしら?」
「いやでも、その……」と俺がどもったところで、チャイムが鳴る。
 ナオさん――いや、面倒なので姉と呼ぼう――がドアを開けると「せんぱーい!」と叫んだ女の子が入ってくる。
 部長だった。
「あ、なんだ、こいつもいたんですね」
「人聞きが悪いじゃない」
「でもこいつはこいつじゃないですか。私はナオ先輩をこんなに愛してますのに……」
「好きな人間の恋人を愛せるようでない愛なんてたかがしれてると思うけれど。ま、いいわ」
「先輩ごめんなさい、私は先輩が年下趣味でクソガキに寝取られても先輩を嫌ったりしませんから!」
「なんであなたが来てるんですか?」と俺は部長に問う。
「はぁ? 敬愛する方の家にご飯食べに来ちゃダメなんですか? こんな嫉妬深いガキと付き合っちゃやっぱりだめですよ先輩、絶対束縛とかしてきます。そのうち五分ごとに現在地送れとか言ってきますって」
「まぁまぁ。ほら、さっさと食べるわよ」
 レンジで温めた餃子が皿に乗っている。昔と同じだ。姉さんはなぜか料理だけはからきしだったから。眩暈の中でテーブルについた。
「そういえば学校はどうなの、二人とも?」
 食事が始まるなり、姉はこれが団欒だと言わんばかりに俺たちに問いかける。
「先輩、反抗期の娘にとりあえず話しかけてみる父親みたいなこと言わないでください。いつも通りですよ。私もこいつも」
「私が卒業してからも、部活はうまくやってればいいけど」
「もちろんです。部員たちにはナオ先輩の偉大さを叩きこんでいますからね」
「そう、ならよかったわ。私は忙しいから、こうして話せる機会は貴重ね」
 何もよくないと思うが、それどころではない。
 これは俺が望んでいた場所なのだろうか? 無意識に願ったのが、こんな夢だったのだろうか? 自分で自分が分からなくなってきた。
 ――いや、違う。
 姉の遺言を思い出す。
『並行世界で会いましょう』という、言葉。
 俺は、何かの真実に気づこうとしている。
「ねぇ、姉さん」
「だから冗談はいいでしょう、私は姉でも妹でもママでもメイドでもないって何度言えば」
「先輩と交際しているだけでなく、姉属性まで求めてるんですか? 異常性欲です」
 二人の軽口を無視して、こう訊いた。
「『エヴェレット』って薬、知ってますか?」

 

「なんですか、それ?」と大仰にとぼけてみせる部長に「いや、もういいわ」と姉は笑って、それから白々しく拍手をした。「それでこそ私の弟よ。ま、もう違うけど」
「……姉さんが、すべての首謀者だったんだな」
「どこまで気づいてるの?」
「あんまり。でも、遺言の意味は少し分かった。……姉さんは、『エヴェレット』を使っていたんだろ」
「使っていた、どころじゃないけどね」と姉はさらりと言った。「もう種明かしするけど、あれを作ったのは私よ」
 その言葉には、驚きよりは納得を感じた。
「ってことは……現実世界で俺たちに薬を渡したのも、姉さんの仕業なんだな」
「間接的には。でも私は自殺しているから現実には行けないわ。さて、どうしたでしょう?」
 その答えはなんとなく察することができた。
 俺は犯人の方を向く。
「部長。あなただったんですね」
「正解。先輩が生前に隠していた薬をリリに流していたのは私。意外と頭いいんだねー」
 意外と、にアクセントを置いたのが原因か、床下で姉に足を踏まれたらしく部長は悶えた。
「そういうことよ。彼女は私の手先として活躍してもらったわ」
 だが、何もせずに姉が自殺したなら、今喋っている彼女がこの情報を知っているはずがない。ということは――
「……ひょっとして、姉さんは、『エヴェレット』を飲んだ状態で死んだのか?」
「一〇〇点。でもここまで来れば当然かしら」
「『エヴェレット』を飲んだまま死ぬと、どうなるんだ」
 それは、リリたちから訊いていなかったことだった。
「知らない? そのままよ。肉体が消滅して、意識だけが並行世界上をふわふわさまようの」
『ゴースト』って呼んでるけどね、と姉は付け足す。「でも、飛んでいる先でまた『エヴェレット』を飲めば、いつまでも存在できる。合わせ鏡みたいで目が回るわね」
「ちょっと待ってくれ。あれは幻覚を見せるクスリだろ? 現実の身体がなくなったら――」
「まだそんなことを言っているの?」と姉は少々呆れたらしい。
「並行世界は現実に存在する。そして、『エヴェレット』はそれを移動できる、世界を揺るがす究極の発明なのよ。火も武器も農耕も貨幣もコンピュータも、これには及ばない。私は人類史上に残る天才ということになるでしょうね。ま、どうでもいいけれど」
 豪語する姉は、あまりにもいつも通りだった。
「……なら、どうして俺の周りにそんな危険なものを撒いたんだ?」
「そこまで来て、それが分からないのね。面白いわ」
 姉は不敵に笑って、俺に言ってみせる。
「今のリュウの状態が、完全に狙い通りなのよ」
「今の、俺?」
 そうよ、と彼女は頷く。
リュウには私しかいないことを、思い知らせるために決まっているじゃない」
 ……部長が言っていたのと、同じこと。
「でも、リュウってば思い切りのよくないところがあるからね。だから、あえてリュウには与えてから、全部奪わせたのよ」
「じゃあ、ミドが自殺未遂したのも、リリが依存症になってしまったのも、すべて計算通りだったのか」
「だいたいはね」と部長が口を挟んだ。「驚いた展開もあったけれど、どうせすぐ破綻するのは目に見えた関係だったから、私たちは最初のドミノを倒してあげただけだよ。ね、先輩?」
 何も言えない。
 俺たちは全員、掌の上で転がされていたのだ。
「自発的にリュウが私を求めることが必要だったの。そうすれば私の側から勝手にシンクロして、こっちまで引っ張り上げてこれた。でも、もっといろいろな策があったのに、案外簡単に来てくれたみたいね。拍子抜けだけど、嬉しいわ」
「……姉さんは、変わらないね」
「ふふ、ありがとう。最高の誉め言葉だわ」
「私は大いに嫌でしたけどね。でも先輩が言うなら逆らわないよ」
 部長は未だに納得していない様子だったが、これで謎はほぼ解けたわけだ。
「で、これからどうするんだ」
「それはリュウに選んでもらうことになるでしょうね」
「俺に? 何をだよ」
「決まっているでしょう。この世界で私と生きるか、ということ」
 姉は俺に向き直る。……その目つきで、あの頃を思い出す。彼女は間違いなく本物だ。
「もし俺がこの世界を選んだら、どうなるんだ?」
「私と同じ『ゴースト』になってもらう。そして死ぬまでここで暮らしましょう」
 ということは、つまり――
「現実で、自殺しろとってことか」
「私を思うならそれくらいできるわよね?」と平然と姉は言う。「私のために命を捨てるくらい。それに実際に消滅するわけではないし、何も悩む必要はないはずよ。そもそも、リュウは死にたいんでしょう? それも聞かされてるわ。だったらすぐ答えは出るんじゃないかしら」
 言われて、思う。
 そうだ、俺は死にたかったんだ。
 そして死ねば姉に会うことができる。
 姉の言う通り、確かにこれ以上幸せなことなんてないんじゃないか?
 だって俺は死にたいし、姉のことが大好きだから。答えは、一つしかない。
 さほど迷うことなく答えは出た。俺は姉に向かって笑いかけ、決断する。
 俺は、姉さんと生き――

 

リュウくん』

 

 言葉は喉から出なかった。
「……どうしたの?」
「俺、は」
 苦しそうに黙る俺に、姉は幻滅したらしい。「この期に及んで、迷うのね」
 まぁいいわ、と彼女は挑発するようにせせら笑う。そして、俺の頬に手を伸ばす。
 指が、俺の肌を撫でる。愛でる。愛撫する。
「もう七月ね。夏休みが来るまで猶予をあげる。そこで答えを出しなさい。……まぁ、決まってると思うけれど」

 

 姉の目に魅入られて、俺は何も言うことができなかった。

 

18 

「おはよ」
 目を覚ますと、ベッドの中に姉がいた。寝間着も着ず、シャツに皺をつけている。
 一瞬で眠気が吹き飛んだ。
 昨日姉から話を聞いた後、いつ寝たのかは覚えていないが……なぜこんなことに?
 目を丸くする俺に、いつも通り姉は平然と言い放つ。
「何かおかしい? 恋人なんだからこれくらいしてもいいでしょう」
「いや……そうなのかもしれないけどさ」
 こういう行動を見るにつけ、この人は本物の正真正銘の姉だな、と確信する。
「こんなことで驚いていたら今日を乗り切れないわ。だって、これからデートするのだから」
 デート? これから姉と?
「言ったじゃない。あなたはまだ悩んでるようだから猶予をあげるって。ただし――私の側も当然アクションを起こす権利はある」
 そう、と姉は俺に人差し指を向ける。行儀が悪いと言われても絶対やめない、彼女の癖だ。
リュウにとって私がどれだけ魅力的か、ちゃんと再確認してもらうのよ」

 

 今日のメニューは、午前中はホールでクラシックのコンサート、午後は美術館の写真展、何か食べてからバーに行って終わり、ということらしい。姉は綿密に計画を立てるときとものすごく雑なときのある気まぐれな人間だが、今回は前者だったらしい。
「コンサートも展覧会も、人付き合いでチケットを貰ってたからちょうどいいかなと思ったの。文句はないでしょう?」
 はぁ、と言うほかない。

 

 一介の高校生をクラシックのコンサートに連れていく姉の滅茶苦茶なところはともかく、ホールは大きく、しっかりした演奏会なのだなぁと非常に適当な感想を抱く。
「……周りをきょろきょろ見て、どうしたの? そんなに怖がらなくていいのよ」
「いや、そうじゃなくて、みんなこっち見てるでしょ」
 開演前のロビー、明らかに俺たちは注目されていた。
「ああ――みんな私が気になっているのよ。ま、どうでもいいわ。気にしないで行きましょう」と姉は俺の手を引く。どうやら、この世界でも姉は有名人のようだ。

 

「まぁまぁね」
 コンサートが終わると、姉はまた傲慢に言った。
ドビュッシーは私が愛している唯一の作曲家なの。だから『海』が音楽的にまともな演奏で観れてよかったわ。それぐらい。リュウはどうだった?」
「姉さん、あのさ。演奏の間、ずっと俺の手握ってたよね」
 姉はええ、と頷く。
「何か問題でも?」
「……その、恥ずかしくて」
「そんなことを恥ずかしがるなら、人前で私を『姉さん』と呼ぶ異常性を考えなさい」
 そうだった。この世界で俺たちは姉弟ではないのだ。
 恥ずかしさに死にそうになりながらも、呼んでみる。
「な、ナ……」
「六十五点。かわいいのでギリギリ合格にしましょう」
 俺の姉は恥じらう俺に少し満足したらしい。

 

 美術館でも姉は姉だった。
 彼女は俺と平然と手を繋いだまま館内を歩いたので、展示された美しい田園風景の写真を楽しむ余裕などなかった。
 小声で呼びかけても離してくれない。どんどん顔に熱が集まるのを感じた。
 ……一周し、やっと姉が企画展のブースを出て手を離してくれたと思うと、今度はばったり会った知り合いらしい外国人の男性に勝手に俺を紹介し始めた。
 ボーイフレンドとかラヴァーとか、そういうこっぱずかしい単語が聞こえてくる。
 正直やめてくれと思ったが、嫌な気持ちではなかったのも……事実だ。
 だって、こうやって大手を振って一緒にいて、何も言われないなんて初めてだったから。
 だから彼女にせがまれて、ついに折れて言ってやった。
「アイラブユー」って。

 

「ここ、いいでしょ。連れてきたのは初めてだったかしら」
 俺たちは今、高層ビルの上階にあるバーにいる。
 上品なジャズが流れ、周囲には普段の生活では見かけないような気取った身なりの男女がいる中でも、姉は誰より適当な格好のはずなのにひときわ目立っていた。
 カウンターに座った姉は「積もる話もあるでしょうからね」と笑う。
「あの頃が懐かしいわね。……どう? 死人と話してみた感想は?」
「……分からないよ」と俺は返した。
「どうして姉さんが、その……死んでしまったのか」
「申し訳ないことをしたとは思うわ」と姉は注文したジントニックに口をつける。「でもね、あれが必然だったのよ。私はあの世界で生きることなどできなかった。リュウを守るだけで精いっぱいで、私は随分と疲れてしまったから」
「気づかなかった俺が悪いのは分かってる。でも、何か言ってくれてたら、そうしたら――」
「私たちの親みたいに、一緒に連れて行ってほしかった?」
「そんなことは言ってない」
「冗談よ」と姉は笑う。彼女の笑い方はいつもちっとも面白くなさそうに見える。
「……姉さんも、現実より『エヴェレット』の世界の方がいいと思ってるらしいね」
「正確には――現実など私たちが生み出したひとつの世界でしかない、というのが私の見解よ。今までの私たちは生まれつき一通りの世界しか認識できなかった。でも『エヴェレット』はそんな人類を進化させてくれるのよ。……言ったでしょう、幻覚や夢なんかじゃないって。どんな世界も存在するの。もし誰もがそれを知ったなら、誰も責任を負わなくて済む。倫理も罪も消える。すべてが許される素晴らしい世界よ。……ねぇ、最善説って知ってるかしら?」
「いや」と俺はコーラの入ったグラスを揺らす。死にたい俺の体温で、氷が溶ける。
ライプニッツという有名な哲学者が議論したのよ。現実世界は神様が作れる中でもっとも幸福な世界だ、という主張。神様はすべてを知ることができ、どんな世界でも生み出せる。神様は慈悲深い。だから、数ある可能性の中でもっとも優れた世界を作った、というわけ。……戦争も殺人も貧困も、それは最善だったのだ――どう思う?」
「よく知らないけど……それは詭弁じゃないのか?」
「でしょ? 実際に、ヴォルテールという人は反論に小説を書いてしまったぐらい。私もね、最初はこの考え方に憤った。でもね、あるとき気づいたの。……私たちひとりひとりが神様になって、それぞれが最善の世界に住めばいいんだ、ってね」
 なるほど、姉らしい主張だ。けれど、俺には疑問が浮かぶ。
「でも、もしそうならどうして現実の俺に拘るんだ? 『ゾンビ』って呼ばれてたけど、それぞれの世界にいる大切な人と暮らせばいいじゃないか。無理やり俺を持ってきたりしないで」
 矛盾じゃないのかと俺が訊くと、姉は平然と「そうよ」と返す。
「確かに私は思い通りのリュウと幸せに暮らすことができる。でもね、個々の世界にいる同じ人のうち、どのリュウを大事に思うかは私の勝手よ。その上で、私は――かつて同じ世界を生きたリュウ――つまり知っているあなただけと、新天地で生きていきたいの」
「だから、ここまでして呼び出してきた……ってことか」
 これまた姉らしい、無茶苦茶な暴論だ。でも、納得できる。
 数億人の中から恋人や友人を選ぶのはその人の価値判断だ。並行世界も同じなのかもしれない。
「こうして小難しいことを話していると昔を思い出すわね。……でもね、究極的には理屈なんてどうだっていいのよ。大事なのは、私と同じようにリュウが何に判断を置くのか――それだけ。ねぇ、リュウ――あなたは、私が好き?」
「ああ」
「私を愛してる?」
「……そう思っていい」
「相変わらずひねくれてるわね。じゃ、帰ったら素直になってもらおうかしら」
 姉の厭らしい目つきに、嫌な予感がした。

 

 ベッドの上、姉は俺を抱き締めている。強く、強く。
「これから何をするか、分かってる?」
 言葉と同時に腕が離される。身体を拘束された苦しさが抜けていく。でも、困るのはここからだった。
 シャツのボタンが外れていく。病的に白い肌が、空気にさらされる。
「今度こそ、受け入れてくれる?」
 俺は目を逸らす。昔のことを思い出してしまったからだ。

 

 今考えると、間違いなく姉は心を病んでいた。
 だから俺と暮らすと言い出した時、誰かが止めるべきだったんだと思う。でも彼女は親戚たちに強引に押し通した。その頃の姉は俺には想像できない方法で金を動かし、急激に資産を増やしていた。それは、両親の莫大な借金をたちどころに帳消しにしてしまうほどに。
 また、テレビやネットで急激に取り上げられるようになったのも、この頃だ。本人もそれを積極的に受け入れた。偉大な親の非業の死を乗り越えた、天才少女。そんなお膳立て。
 でも姉は変わらなかった。少なくとも表面上は。
リュウ。仕事、また遅くなってごめん」
 彼女は新しく契約したマンションに戻ってくる。俺は笑って迎え入れる。
「いや、いいんだよ。姉さん。お疲れ」
 そして俺たちはまた他愛もない話をする。番組の共演者への悪口とか、昔みたいな科学や哲学の話。あるいは俺が学校で何があったとか、記憶にも残らないこと。
 でもそれでよかった。俺たちに言葉はいらなかった。
 俺たちは変わらなかった。変わったのはお互いの距離。
 記憶には、続きがある。
リュウ、戻ったわ」

 

 記憶。シャワーを浴びた後の姉がやってくる。

 

「ほら、来なさい」

 

 記憶。彼女の手を握る。

 

リュウの手、あったかい。生きてる」

 

 記憶。姉が唇を近づけてくる。

 

「びっくりした?」

 

 記憶。――空白。

 

「じゃ、行きましょうか」

 

 記憶、記憶、記憶、記憶、記憶――

 

「あんなにくっついたのに、リュウは最後の一線は越えなかった。血は繋がってないのにね」
「――それは」
 実際のところ、あと一歩だったと思う。でも、俺にとって彼女はやはり家族だった。
「でもそれは分かる。出会いが悪かったのよ。私たちは家族として出会い、しかもそれによって不幸が降り注いだ。周りは私たちを疫病神か悪魔のように扱った。だから、私と結ばれることに躊躇いがあったのも当然じゃないかしら。でも……今は、分かるでしょう?」
 そうだ。もう姉は、姉ではない。
 世界は変わった。俺たちが俺たちでいることを、誰も責めない。
「手、伸ばして」
 あと一歩。
 俺は思う。姉――いや、この人からは、もう逃げられないのだと。
「これからは……二人だけの王国で、生きましょう」
 俺は彼女を求めている。彼女は俺を求めている。
 それ以上の答えはあるだろうか?
 ……たぶん、これでいいのだろう。俺たちに間違いなどないのだろう。
 だからもう考えるのをやめる。
 ゆっくりと、俺は姉の身体に手を伸ばして――

 

リュウくん』

 

 まただ。
 俺の手は、止まっていた。
「……リュウ
 姉は幻滅したように俺を睨んだ。
「やっぱりそうなのね。リュウはいつだってそう。意気地なし」
 姉は立ち上がって後ろを向き、着ているものを整え始める。
「いいわ。最後まで取っておきましょう。どうせあなたは負けるに決まっているんだから」
 勝手に納得したらしい姉が、不機嫌そうに部屋を出ていく。
 ……でも自分には、理由が分からなかった。
 俺はどうして、二度も姉を拒絶したのだろうか?

 

19

 目が覚めると、姉はいなくなっている。
 何もかも夢だったのではないかと思ったが、リビングには書置きがあった。

 

『作戦を変えます。リュウが限界になるまで出てきません。苦しみなさい』

 

 拗ねたらしい。
 さっそく痴話喧嘩かよ、と突っ込みたくなる。
 ……それにしても、やはり今も『エヴェレット』の効果は続いているのだろう。
 俺は現実の身体に意識を戻す。ソファに横たわる現実の俺がロボットのような動きで目を覚ます。凄まじい空腹感が襲ってきた。水を飲む。ポテトチップスの袋を開け、口の中に掻き入れる。現実感はない。姉のいる世界の方がよっぽどリアルだった。
 ひょっとして、俺が感じていた『膜』とやらの正体もこれだったりしないだろうか。脳内物質のようなもので、『エヴェレット』を使っていなくても、意識がほんの少しだけ並行世界に近づいていたのかもしれない。
 そんなどうでもいいことを考えながら、今度は身体を痛めないようベッドに向かい、またトリップする。

 

 月曜日の、この世界で初めての朝。
 学校に行かなければならない。
 なんでこんな異常事態なのに普通に生活してるんだと思うが、逃げようと思えば逃げられるのに、姉に付き合っているのは俺なのだ。文句は言えない。
 服用を中断して現実に戻ることはできる。それだけではない。『エヴェレット』には自分や世界を改変する力がある。だからやろうと思えば勝手に別の世界に行くことさえできただろう。でも試す気はなかったし、そんな俺を姉も計算済みのはずだ。またしても、掌の上。
 電車に揺られながら、窓の外を見る。
 眩しい朝日。現実と寸分違わない街。そこでは『ゾンビ』たちが何事もなく暮らしている。いや、リリたちが勝手にそう呼んだだけで、姉に言わせれば彼らも普通の人間なのだろう。だとしたら、現実なんて言葉、意味がないのかもしれない。
 俺は虚構と現実がテーマの創作物をいくつか思い出してみたが、ほとんどが現実に帰る話だった。
 もちろん例外はある。
 あるSF映画では、主人公は現実でも虚構でもいいから、家族がいる世界を選ぶ。
 あるアニメ映画では、虚構でヒロインと結ばれるより、現実でラブコメをすることを選ぶ。
 あるノーベル賞候補作家の小説は、自らが生み出した虚構世界に責任を取り、そこに残る。
 ……でも、姉が正しいなら『エヴェレット』が見せる世界はどれとも違う。虚構なんてない。すべてが現実だ。
 なら、好きな世界を選んで何が悪いのだろう?
 俺は姉が好きで、姉といたい。
 ならばなぜ、躊躇うのだろうか? ……分からない。

 

 窓から車内に目を移す。
 反対側の扉、窓の傍に女子高生がいる。
 制服で分かるが、彼女は同じ高校の生徒だった。我が校はリボンやネクタイの色が違うので、彼女が自分と同じ二年であることは一目見て分かる。
 彼女はどこか存在感が薄い。うまく言えないけれど、吹けば飛んでしまいそうな気がする。英単語帳を開いていたがまったく読んでおらず、うつろな目をしている。せせこましく肩を縮め、ここにいてすみませんと全身で主張しているようだ。とにかく生気が感じられない。明らかに健康な様子ではなかった。でも誰も気にしない。それもまた、当然。
 まだ客は少なくて、周囲には俺と彼女しかいない。もしかしたらこの世界で俺たちはいつも乗り合わせているのかもしれない。
 なぜだろうか。
 彼女の姿を見ていると、ひどく胸が締め付けられる思いがした。
 でも、ほぼ確実に彼女の名前を知ることはないだろう。電車で見知らぬ人と知り合うなんて、創作物の中でしかありえないことだ。
 俺たちは毎日、何十回何百回と、卒業するまで同じ空間で心を入れ違えるのだろう。
 だけど、あたりまえのことなのに、なんだかほんのすこし悲しいことのように思えてならない。

 

 だから声をかけたのかもしれない。
 衝動が抑えられなくなって、気がついたら「あのさ」と彼女を呼んでいた。
「俺のこと、知ってる?」
 最初、彼女は自分が呼びかけられているのに気づかなかったようだが、もう一度呼ぶと「……はい?」と怪訝そうに俺を見た。明らかに警戒されている。当然だ。電車の中で知らない人間が声をかけてきたら、俺だって不審人物だと思う。
「知りませんが」と彼女はまっとうに答えた。なるほど、と思う。
 自分でも驚いたことに、勝手に喉が動いていた。我ながら狂っていると思う。というか、考えるまでもなくこれって不審者じゃないか。
「怖がらないでほしいんだけど、俺はちょっとだけ知ってるんだ。誰だと思う?」
「さぁ」
「何の変哲もない少年だが、実は昨夜化け物に襲われて、謎の少女に助けられた」
「……はぁ?」
「かもしれない。それとも、本人は気づいていないが複数の女の子に好意を寄せられている、鈍感なラブコメ主人公」
 かもしれない。
「または制作が間に合わずちょっと作画が崩れている、一昔前のアニメのモブの高校生」
 かもしれない。
「でもやっぱり電車で毎朝乗り合わせるだけの、平凡な、お前の知らない男子高校生」
 かもしれない。そう俺は繰り返してみせた。
「……何なんですか?」
 困惑する彼女を見ていると、なんだか楽しくなってしまう。
「冗談冗談。……ほら、この制服を見てくれないか? 高校、同じなんだ」
「はぁ」と女子高生は空返事をする。そりゃそうだろう。だから何、って思うよな。
「それでさ。いつもここに乗ってるじゃん? 俺も同じ車両の、この場所に絶対に立ってるんだ。だから、ほぼ毎朝身近にいたんだよ。でも、気づかなかっただろ?」
「まぁ、そうですね」
 彼女は目を逸らす。明らかに話を打ち切りたがっている。でもやめない。
「でさ、どうせなら挨拶でもしてみようって思ってさ。あ、ナンパとかじゃない。ただ、なんで人間って孤独にならなきゃいけないんだって思っただけだ。その、これだけ多くの人たちが世の中にいるのに誰とも知り合わないなんてさ、あー、うん、まるでこの星は寂しさをエネルギーに回ってるみたいなもんじゃないか? ……ええと、だからそれに抵抗してみたんだ」
「意味が分かりませんけど」
「嫌だったらごめん。でも、勝手に挨拶だけさせてもらうから。――福宮高校二年のD組、山田リュウだ。あ、そっちは名乗らなくていいから。おはよう」
 彼女は「……おはようございます」と小さく礼をした。
「ごめんね。もういいから。これからは話しかけない。顔を見るのも嫌だったら、残念だけど電車をずらすし、だからその……あ! 着いた。じゃ」
 ……ついに恥ずかしさが限界に達し、逃げ時だと踏んだ瞬間にタイミングよくドアが開いた。早足でホームに出ようとして、服の裾を掴まれる。
 あれ? 誰だ?
「そこ、違う駅です」
 それは、話しかけた女子高生だった。

 

 なぜこんなことをしたのだろう。自分でも説明できない。
 でも、どうしても――そのまま見ては、いられなかった。
 彼女は『ゾンビ』だ。姉に言わせれば、他人だ。
 なのに。なんでだろう。
 どうしても無視できない。
 無視したら――ものすごく大事なものと、すれ違ってしまう気がする。

 

 まもなくなだれ込んできた客で彼女とはぐれてしまったが、次のエンカウントはあっけなくやってくる。
 昼休み、A組を通りかかると、電車で話しかけた女の子が教室の中に見えた。
 教室の隅、彼女が見ている先、机と椅子が逆さになって置かれている。
 女の子がカカシのように佇んでいるのを周囲は完全に無視している。まるでこの子は幽霊だとでも言わんばかりに。
 ――特に迷うことなく、俺はクラスの中に入っていた。
 クラスの視線が一気に集まる。
 渦中の少女に近づくと、俺は「それ、手伝うよ」と、クラスに響く大きな声で言った。
「……え?」
「元に戻すから、ちょっと離れて」
 怯えるように飛びのいた女の子と入れ替わるように前に出て、机と椅子の重力を元に戻す。
「はい、できた」
「あ、あの――」
「また会ったな」
 彼女は律義に、でも申し訳なさそうに「……はい」と言う。
 でも、これだけでは足りないと思った。
「あのさ、前言撤回で、やっぱりナンパするんだけど――これから時間ある?」
 これまた、クラスのみなさんが一歩引くのを感じる。
「……はい?」
「そのさ、飯でもどうだ?」
 俺はそう言って、彼女の手を取った。

 

 幸いなのか不幸なのか知らないが、化学準備室の鍵は開いているくせに誰もいない。いろいろな意味でいなくて安心したけれど、どの世界でもこんな管理状態なんだな。
 カーテンを開けると、青空が広がる。
 窓を開け放つと「ここから入れるから」と彼女を手招きする。
「え……いいんですか」
 その反応に、屋上のことを知らないんだなと面白く思った。深く考える余地もあるだろうが、俺はそれ以上考察はしなかった。
「この本棚の上に登って。跨ぐときに怪我しないように注意しろ。俺が先に行くから支える」
 彼女の反応を待たず、有無を言わさず先に窓を抜ける。
「ほら、こんな感じで」
 彼女は少しの間みじろぎしたが、ついに勇気を出したのか静かに頷いた。
 ……ゆっくりと、俺が身体を支えながら屋上に降り立つ。
「ここ、上がれるんですね」
「誰にも言わないでほしいけどね。ま、たぶん知ってる人はいると思うよ。今日は誰もいないようだけど」
 蒸し暑くなってきたな、と思う。そうだ、もう七月になるのだ。
 俺たちは給水塔の日陰に座りこみ、腹を満たす。俺は来る前に寄った購買で買ったパン。彼女はかわいらしい箱に入った、玉子焼きの入った弁当。
「……あの、ありがとうございました」
 食べ終わるなり、女の子は俺に礼を言った。
「割と、ああいう目に遭ってるんです。引かれるかもしれないですけど」
「もう大丈夫だと思う」と俺は楽観的に言った。「あいつらは全員が無視することで連帯しているから、外部の人間が現れてそれを崩したら何もできなくなる。クラスが違うから俺を除外することもできないし。少なくとも、たぶんもう嫌がらせはしない。はい、解決」
 スクールカーストブコメもびっくりの超簡単ないじめ解決法。学校にもよるだろうけれど、うちの卑小なガキの思いつく悪意なんて、その程度だ。
「……そんな」
「それでも不安なら、俺が朝と昼休みと帰り、ついててやろうか? いや、冗談だけど」
 俺が言うと、彼女は「それもいいかもしれませんね」と暗い笑みを浮かべた。相当に堪えていたのだろう。
「こんなことしてもらったのに、何も返せなくてごめんなさい」
「見返りなんていいよ。見てて気分が悪かったからやっただけだし」
「でも……」と彼女は何か納得いかなそうな顔をしている。
 俺は少し考えてから、「それなら」こう提案した。
「そっちって、A組だよね? 特進の」
「……ええ、そうですけど」
 何も恥ずかしがることはないと思うのだが、彼女はばつが悪そうに横を見る。
「じゃあさ、ものすごい勝手な話なんだけどさ。もうすぐ期末だろ? でさ――」
 俺は自分の厚顔さに驚いてしまった。
 もしかしたら、それもまた、誰かさんに教わったことかもしれない。

 

「勉強、教えてくれないか?」

 

20

  その日の放課後、迷ったけれど、長時間滞在して勉強し、かつ喋っていい場所が他に思いつかなかったので彼女を家に上げてしまうことにした。
 急すぎるので明日以降でいいと言ったものの、女の子が「時間がもったいないです。やるからには真剣にやらせてください」と譲らず、気圧されてしまった結果だった。
 姉には申し訳なくなったが、決して浮気ではない。……決して。
「……いいのかな」と緊張している彼女を促して、リビングに入っていく。部屋は整頓されているし、俺に見られて困るものは何もない。あったとしても姉が見ているだろうからプライバシーなんてないが。
「じゃ、始めるか」
 テレビの前のテーブルに、ノートや教科書、プリントを挟んだファイルなどを置いていく。
「確か、国語が分かんないんですよね」
「そう、特に現代文が一番苦手なんだ。ローラー式に暗記すればいい教科は楽なんだけど」
「分かりました。じゃあ、問題なければ過去の試験結果を見せてください」
 え? と面食らったが、彼女は何かおかしいことでも? と言わんばかりだ。
「どういうところでミスしやすいのかをまずチェックしましょう」
「ああ、そういうことね……」
 本格派だった。……そして惨憺たる俺の点数も、衆目に晒される。
 彼女は俺の答案たちを見て、一言。
「なかなか大変そうですね」
「……大丈夫かな」
「まぁいいでしょう。さっき暗記教科の話をしてましたけど、現代文もやり方が分かれば似たようなものですよ。誤解されがちだけど」
「そうなの?」
「物は試しです」と彼女は鞄から何かを取り出したと思うと、開いて顔にかける。
 眼鏡だった。
「――似合ってるな」
 口に出していたらしく「……始めましょう」と恥ずかしげに下を向かれてしまった。

 

 以前のテキストを使って、ゼロから問題を解く。
「……それから終わりから前に二段落戻って、また頭の一文に線を引きましょう。……どんな文章でも、『これ』とか『あの』みたいな代名詞が何を指しているのか把握すれば、どんなに難しくてもだいたい内容は分かります。漢字が分からないとかでなければですが」
「……すごい」と俺は驚いた。「小説をこんな風に読んだことなかった」
「文章の読みやすさや読みにくさは、そういう情報の整理も大きいですね。でも、究極的には大江健三郎小林秀雄も同じ日本語です。だから代名詞や修飾をはっきりさせることが大事で」
 そう言うと女の子はスマホを取り出した。
「方法はだいたい分かりましたか?」
「まぁ、なんとか」
「じゃ、試験範囲の模擬問題でタイムアタックしますね。時間計るので」
 まさかここまでされるとは思ってなかったんだが。
 ……時間を計り終え、採点して今日はお開きになる。
「これから毎回時間を記録するので、グラフにしておきます」
「いやそこまで……ってか、明日以降もやるのか?」
 女の子は「やらないんですか?」と純粋に訊いてきたので「……はい」と答えるしかない。

 

 翌日も、翌々日も勉強会は続いた。
 問題を解くスピードは次第に速くなった。文章自体を読むスピードも上がってきた。傍線部に突き当たるたびにつっかえていたのに、飛ばす問題のチョイスで効率は急激に上がった。
 真剣に取り組むようになると、時間はあっという間に過ぎる。
「じゃあ、また」
「ああ。屋上で」と俺は挨拶して、それから思っていたことを言った。
「その、もう敬語じゃなくていいぞ」
「あ」と女の子は今更気づいたという顔をした。「すみませんでした」
「何も悪いことしてないのに謝らなくていいだろ」
「あ、そっか……じゃあ、よろ、しく」
 なんか恥ずかしいな、と彼女は照れ隠しに笑う。
 初めて見るのに、懐かしい笑顔。

 

 屋上で今日はどうするかを話し合っていたときのことだった。
「これが今までの記録。時間だけでなくて、間違えた場所の問題も確認するから。答えだけじゃなく、どういうときに間違えやすいのか意識しておくと――あ」
 熱心に話していた女の子が、ふいに言葉を失う。
「どうしたんだ?」
「いや、ええと……」
 口を濁すので何かと思い、彼女の視線の先に目を向けると、ちょうど化学準備室の窓から誰かが出ているのが見えた。ここは死角になっているので、向こうは気づいていない。部長か? と思ったが二人いるので違うらしい。
「ああ、他にも来たんだな。空きっぱなしだから知ってる奴もいてな」
「いや、それはそうだけど、その」
 どうして彼女は取り乱すのだろうか。
「知ってる奴か? ああ、もしかしてクラスの奴らの一人だったりする」
 彼女はぶんぶんと首を振る。
「違う。ひとりは知ってる子で、ぜんぜん嫌じゃないんだけど、その……何を話したらいいか分からないというか」
「話したいと思ってるのか?」
「……否定はしないけど」
 面倒になってきたので、俺は立ち上がる。
「呼んでくる」
「えっ? ちょっ、ちょっと待って――」
 俺はすたすたと歩いていって、座る場所を探しているらしい二人に近づく。
 男女だ。
 片方の女子の顔は、伸びた前髪でよく見えない。もう夏といえるのに、シャツの上から長袖のジャージ姿、ズボンも履いている。失礼ながら非常にイモっぽい。というか暑くないのか?
 隣の男子は凡庸な外見だ。没個性もここまでくると個性にさえ思える。
 俺は「日陰があるよ」と話しかけた。
 二人は一瞬ぎょっとした顔を見せたが、男子の方が「……ああ、ありがとう」と答え、俺が歩き出すと二人もついてきた。
「ほら、ここ。もう一人いるけどいいよな」
「問題ないけど……あれ? どうした」
 平凡な男子が地味な女子の方に目を向ける。彼女はしまった、というような顔をしていた。
 目線の先には女の子。
「知り合いみたいだけど」
 女子は「そうですが……」と言葉の端の置き場に困り、仕方なく「そうですね」と結んだ。
「……どうも」
「……はい」
 二人は非常に小さな声で挨拶した。やはり、何か気まずそうだった。
 ああ、そういうことね。この世界で二人は、まだこんな関係なのか。
 でも大丈夫だ。
 保証するけど、お前らは仲良くなれるから。
「え、そうだったん?」とやたら馴れ馴れしく男子が女子に訊いたが、悲しいくらい似合っていなかった。

 

「まぁ、なんかその、いろいろあって」
 そう女の子は女子との関係を濁した。それ以上訊くつもりはなかったから別にいいが。
「……そっか。で、お前らはなんでここに来たんだ? ぼっち飯?」
「ちげーよ!」
 男子が突っ込んで「明日数学の小テストなんだ。科目的に俺の方が先だったから、傾向を教えようと思ってな。クラスに乗り込んだら変に思われるだろ?」と非常に論理的に説明した。
「交換で、ノートを見せてもらう」と女子が会話に割り込んだが、声量の調節を間違えたと思ったのか、「……私、字汚くて自分でも読めないから」とぼそぼそ喋る。
 なるほど、と思う。二人もまた、勉強で困ってるんだな。
 そこで、なんとなく面白いことを思いつく。
「三人とも、得意な科目と苦手な科目を教えてくれないか? 俺は理系。あと英語もできる。国語と社会科は無理」
 要するに姉の影響なんだけど。
「俺、ほぼ逆だわ。理系科目は全部無理だ! すげぇだろ」と男子はしょうもなく開き直る。「あ、こいつは社会科以外全然できないよ。補習三昧」
 勝手にプライバシーをバラされた女子が、男子の頬をつねる。「ひふぁいって!」
 そして、最後の一人。
「そっちはどう?」
 訊いた俺に、女の子は「苦手な教科、ないかな」と断言した。
 俺に現代文を教えたとき同様、その眼には自信がこもっている。
 かわいらしい。
 ……俺はあることを提案してみた。
「これからめちゃくちゃ馴れ馴れしいことを言うんだけどさ。もうすぐ期末だろ?」
「……そうだが」と男子が怪訝な顔をする。
「ならさ、ここで知り合ったのも縁ってことで、お互い助け合わないか?」
 つまりだな、と俺は一呼吸おいて、こう誘った。
「この四人で勉強会でもしないか?」

 

21

 「……お邪魔します」
 律儀に女子は挨拶したが、男子は「すげー、広い」と馴れ馴れしく部屋を寸評した。
 自宅――いや、姉の家に知らない人間を上げまくっている。
 知られたらまずい。非常にまずい。拗ねるどころではない。期限が来る前に殺される。
 でも、乗りかかった舟だ。
 テレビ前のテーブルに集まり、俺が女の子の隣、向かい側に男子と女子が座りこむ。
「じゃ、やるか。お互い苦手なところをカバーしよう」
 女の子はオールラウンダーだが、ひとりに比重をかけすぎると疲れるはずだ。だからローテーションでいこうと決めた。
 俺が女の子に国語を教わる。同時に、男子は女子に社会科以外のひとつを教える。
 一定時間が過ぎたら、時間割のように交代。今度は男子が俺に教わる。女の子は女子に教える。それぞれの科目は被らないようにしておく。
 ほとんどの科目が苦手な女子も、俺には社会科を教えられる。だから場合によって彼女を挟み調節すれば回るだろう。頭の切り替えさえできるようになれば、効率がいいはずだ。

「でだ、ここでまたthatが省略されているんだが、問題は関係詞なのか関係代名詞なのかということで――」

 

「理論上、選択問題は消去法を使うのが手っ取り早いよ。誤答に対して正解は一つしかないから、テキストと矛盾する部分に当たる可能性の方が高いから。分かる?」

 

「解の公式をはっきり言えるか確認してみろ」

 

「私たちの担当の先生は単語の穴埋めを出すことが多いけど……ひとつひとつ暗記すればいいって訳じゃなくて。……ものごとには原因と結果があるように、歴史っていうのは流れがあって、後で伏線のように効いてくるから。たとえば……その前のフランスの歴史をちゃんと理解していると、ナポレオン三世の話はすごく面白い。……マルクスっていう偉い人も『歴史は繰り返す』って言っていて、ただ『一度目は悲劇として、二度目は喜劇として』って――あ、話が逸れちゃった。……あれ? 何を話してたっけ」

 

 そんな風にして時間が経ち、そろそろ帰ろうという雰囲気になる。
「疲れたー」と男子が腕を伸ばす。「あんまりにもこいつがバカだから時間がかかって……いやごめんんさい、そんな睨まないで」
 やがて彼を苛めるのにも飽きたのか、はぁ、と女子は息を吐いて「これからもやる?」と女の子に訊く。
「嫌だった?」
「そんなことないよ」
 女の子は「……ならよかった」と頷いた。
「じゃ、解散かな」
「ああ、またこの時間に集まろう」
 俺は三人を見送って、部屋に戻った。

 

 人数が増えた勉強会は、次第に工夫が図られるようになった。
 買い出しに行ってお菓子を用意し、時間が空いたらちょっと雑談。
 今日やる範囲を決めておくと、終わった後にちょっと余裕ができるので、コンビニでトランプを買って息抜きに遊ぶ。みんな疲れているのでカオスになる。
 なんだか文化祭の準備期間みたいだな、と思う。いや、文化祭にしっかり参加した事なんてないので、フィクションのイメージなんだけれど。
 そんな間にも、期末は近づく。
 それは姉との期限も、同じだ。

 

 ……俺は何を望んでいるんだろう?
 何度目かに現実に戻り、食事と水分を補給しながら、真っ暗な天井を見て思う。
 部屋で最初に『エヴェレット』を飲んだとき、俺には姉しかいないと確信していた。それなのに、自分から人を集めてしまうなんて。
 それもこれも、たぶん彼女のせいだ。そいつがいると、調子が狂う。
 どうしてだろう?
 どうして彼女を見ると、放ってはおけないのだろう?
 ……そう考えたとき、何か、胸をつくものを感じた。
 でもそれは、歯がゆいところで言葉にならないのだ。

 

 金曜。来週頭から期末が始まる。最終日なので、それぞれの準備のために今日は勉強会を開かず、個別でまとめをすることにした。
 ……先生との野暮用で遅れてしまい、俺は少し急いで屋上に向かっていた。
 化学準備室に入ると、部長がいた。
「へぇ、なんか変なことしてたんだね」
 彼女は唇を歪めて、俺を嘲笑した。
「あんなに好きだったナオ先輩はどうしたの?」
「どいてください」
「キミの好意ってこの程度なのかな。あんなに大事にしてくれる人がいるのに」
「……どいてください」
「ねぇ、私が絶対に手に入らない場所にキミはいるんだよ。なのに、あの人の愛をキミは愚弄している。それが分からないの?」
 部長が知っているということは当然、俺の行いは姉に知られているのだろう。
「どうして……姉さんは姿を現さないんですか」
「キミへの罰だからだよ」
 部長はせせら笑う。
「どれだけ逃げても無駄。だって、ナオ先輩はキミの心の中にいるんだから。だからね、これから苦しむよ。幸せになればなるほど、誰かを好きになればなるほど痛みは増す。そして耐えきれなくなって壊れ、彼女のところに帰るしかなくなる」
 それが、最高の攻撃。
 姉はそう確信しているんだろう。
「ねぇ、真面目に考えてみなよ。あんな女の子のどこがいいのかな?」
「黙ってください」
「辛いときも苦しいときも、ナオ先輩はキミを支えてくれたんだよ?」
「黙ってください」
「あの人をキミが捨てたら、彼女はどうなるかな?」
 ……畜生。
「ナオ先輩を理解してあげられるのはキミしかいないんだよ? 私はそれが許せない。本当は私が傍にいたいのに。だからこうやって苦しめてやらないと気が済まないの」
「……あんたに何が分かるんですか」
「キミはお姉さんのこと、本当に好きなの?」
「――黙れよ」

 

 ついに、言葉が堰を切った。
「ナオ先輩ナオ先輩ナオ先輩、うるさいんですよ! あんたは姉の何なんですか。姉の何が分かってるんですか? 部外者のくせに、生意気に――」
「あは、あははは、ははははは!」
 部長は狂ったように笑った。
「そうそう、それだよ! そうでなくっちゃ! 妬いてるんだよね? 嫉妬したんだよね? ほら、やっぱり好きなんじゃん!」
「……それは」
「なのに、なのになのになのに! キミは大事なあの人を捨ててくだらないガキどもとつるんでるんだから笑えるよ。ああ、それともあの子はつまみ食いって感じなの? いいねいいね、元気だね、でもあの人は変なところでかわいそうなぐらい優しいから、案外許してくれるかもしれないよ? 愛してるキミが望むなら、愛人の一人や二人ぐらいは――いや、言い過ぎたかごめんごめん!」
 耳を塞ぎたかった。
 聞きたくなかった。
 でもそれは、今ここで俺が証明してしまったことなのだ。
「このくらいで終わると思わないでね。キミはもっともっと苦しまなきゃいけないんだから」


 ――それが、あの人の呪いなんだから。
 そう言って去っていく彼女を振り払うように、屋上に出ていく。

 

「あれ? 遅かったな」
 男子と女子が、俺を見て言った。
「あいつは?」
「移動教室だからって、先に帰っちゃったよ。がっかりしてた」
 女子が俺に教えてくれる。
「……そっか」
 俺は肩を落とした。安心すべきなのか、悲しむべきなのか分からない。
「なぁ、どうせ俺らしかいないんだから、俺らしかできない話をしようぜ」
 男子が俺を小突く。そんな気分ではなかったが「どういうやつ?」と訊いてみる。
「恋バナ」
 殴り飛ばしてやろうかと思った。
「いやいや、そんなに怖い顔すんなって! マジマジ。あのな、さっき『がっかり』って言ってただろ? あれ見て確信したんだけどな。驚くなよ――」
 彼の脳内ではドラムロールが流れているのだろう。
「――間違いなく、お前のこと気になってるよ」

 

 一瞬、こいつが何を言っているのか分からなかった。
「ねぇ、やめようよ。迷惑がってるよ」
 女子がたしなめても「いいのいいの。お前だってそう思うんだろ?」と強引に話が続けられる。
「まぁ、たぶん……」
「ほらな。いや、あんなに素直に態度が出るやつって珍しいよ。自分では気づいてないみたいなんだけどな。お前知らないだろうけど、勉強会の帰りに三人で話してるとさ、いっつもお前の話ばっかりするんだよ。無意識なんだろうけど。で、そういう時に限ってめっちゃ楽しそうでさ」
 言葉が出ない。
「……本当なのか?」
「あれがあの子の素なんだと思うよ。ちょっとずつだけど、心を開いてきたんじゃないかな」
 俺が? 心を開いた?
 ……信じられなかった。
 ただ、あんな風に縮こまっている彼女を、見ていられないだけだったのに。
「お前さ、鈍感すぎるんだよ。もうちょっと自意識過剰なくらいで行けや」
 男子はそう言って俺に笑う。
「だってさ。……俺とこいつはいろいろあったから、眩しいんだよ」
 彼は女子の方を見る。
「まぁ……恥ずかしい、けど」
「察してくれ。でも、今は仲いいし、バカやってるよ」
「もう納得、したから」
 俺は女子の方を見ていた。
「友達として、ね」
 彼女は、『友達』にアクセントを置いて、男子に向けて笑った。
「……うるさい。俺らのことはいいじゃん」
 珍しく、彼女が弄る側になったらしい。
「ええと、だから――」と言いかけた男子が「あ、やべ。漢字テストあったんだった!」と立ち上がる。
「先行ってるわ。また勉強会で!」
 そうして、屋上に俺たちは残された。

 

「ねぇ、さっき『納得』って言ったけど」と、彼女は俺に向けて言う。
「それはね、あいつのことだけじゃないんだよ」
「……どういう意味だ?」
「じゃ」

 

 謎めいた言葉を残して、彼女もまた、去っていった。

 

22

  期末のことはあまり思い出せない。上の空だったからだ。
『エヴェレット』のせいかもしれないし、ずっと考え事をしていたからかもしれない。
 でも手ごたえは悪くなかった。特に現代文は、選択でも記述でも、女の子が教えてくれたことが役に立った。感謝しなきゃな、と思う。
 一日目の帰り、グループに「終わったら打ち上げでもしない?」と男子のメッセージが来た。
 反対者はいなかったので、とりあえず打ち上げの実施は決まった。
 女の子は乗り気なようで、小さなホットプレートを用意するから何か作ろう、とまで言い出した。例によって、また俺の部屋ですることになるのだろうな――と思いながら話を進めていく。
 そんな矢先、個人のトークに男子から「ちょっと俺らだけで話がある」という旨の連絡があった。
 新しく作られたのは、俺と男子と女子だけの、三人のグループだ。そこで俺は通話に誘われた。説明もなく「とりあえず来い」と言われて。
 通話が始まるなり、挨拶も抜きに真っ先に彼は言った。
『実はこの打ち上げなんだけど、お前らのために用意したんだ』
「……はぁ? どういうことだ」
『いや、だから言ったじゃん。あいつはお前のこと好きだって。だから機会をセッティングしちゃったわけですよ』
 マジかよ、とため息が出る。
「待ってくれ。百歩譲って彼女が俺を好きだったとしよう。俺の方はどうなるんだ。どう考えても俺じゃなく向こうを仕掛け人にした方がよかったんじゃないか」
 その言葉に――男子はあっさりと言ってのけた。

 

「え? だってお前、あいつのこと好きじゃん」

 

「……どうして」
「あのな、あいつからもう惚気は散々聞いてるんだよ。いきなり電車で話しかけられて、クラスにずかずか入ってきて、勉強教えろって言い出して。明らかにおかしいだろ」
「いや、それは……見てられなかっただけなんだ」
 そうだ。
 あいつが暗い顔をしているのを、見たくない。
 それは気分が悪い。だから助けたのだ。
「いやだから、つまりそれって好きってことじゃないのか?」
 ……こいつ、何を言ってるんだ? 混乱してくる。
「いや、だから俺は自分の理由で助けただけで――」
「それはさ、誰に対してもそうするの?」
 今まで黙っていた女子が、口を開く。
「……そうだ」
「本当に?」
 その言葉には、なぜか静かな重みが感じられた。
「……確かに最初はそうかもしれないよ。でも、ちゃんと考えてほしい」
「おい、なんでそんなに――」
「だって、そういうものじゃない? ふとした時に、この人が好きだったんだなぁって気づくんだから。それこそ――何かに引っかかるみたいに。そういうことって、なかった?」
 引っかかる――
 ……そうだ。
 俺は、もう何度も引っかかっている。

 

 あれほど好きだった姉とまた暮らせるチャンスが来た瞬間。
 その姉と、もうすぐ結ばれるという瞬間。
 そして、あの女の子が、悲しそうに電車に揺られていたのを見た、瞬間。

 

 ――言葉にならない何かが、心に引っかかったのだ。
「恥ずかしいこと言うけど……それがたぶん、好きってことだよ」
 彼女の言葉に、俺は息を呑んでいた。
 こいつらは俺と姉のことを知らない。だからたぶんこれは偶然言われたことだ。
 それなのに。俺はこんなにもショックを受けている。
 黙ったままの俺に、男子は威勢よく「俺たちに任せろ!」と胡散臭く言ってみせた。画面の向こうのドヤ顔が頭に浮かぶ。
「じゃ、よろしくな」
 俺は「……ああ」とだけ言って、通話を切った。
「ああ」って。
 ついに、認めてしまったんじゃないか。

 

23 

 ――だから、呪いと向き合わなければいけないのかもしれない。

 

 期末が終わり、二学期最後の日。俺は緊張していた。
 ……姉が告げた、期限。それが今日だ。
 果たして彼女がどんな風に現れるのか、俺には分からない。
 俺は――壊れないで持ちこたえられるだろうか。
 事実として、もう答えは決まってしまった。気づいてしまった。
 それを言わなければいけないと思うと、苦しい。
 俺はどんな目に遭ってもいい。でも、部長が言ったように、姉が傷つくのはつらい。
 それでも、本当のことを言わなければいけない。
 口にしたら世界のすべてが壊れるような、本当のことを。

 

 最寄り駅の前で、俺は女の子を待っている。
 何の変哲もない一人の女の子を待っている。
『俺たちは遅れる』という白々しい連絡が届いて、先に二人だけで合流することになったのだ。もちろん嘘だ。この程度で大丈夫なのだろうか。
「……ひさしぶり」
 彼女は待ち合わせ場所に時間ちょうどに現れた。Tシャツ姿を見て、もう夏なんだなと思う。
「そんなにひさしぶりでもないけどな」
「そういえばそうだ」
 お互い、小さく笑いがこぼれた。
 やっぱりこの子には、笑顔が似合う。
 本当はずっと、気づいていたのだ。
「二人も後で来るだろうし、先に行くか」
「うん」
 こくり、と頷いたのを合図に、家に向かうことにする。
 だから、一歩を踏み出して――

 

 着信音が鳴り響いた。

 

 現実の俺が、ベッドから跳ね起きる。
 こっちの世界か! 
 無視するか? いや、うるさすぎる。せめて止めないと。
 迷いながら、苛立ちの中で音の出所を探す。けれどなかなか見つからない。
 でも、もう一つの世界で俺は女の子と歩いている。それを止めるわけにはいかない。
『エヴェレット』に習熟すれば、別の世界の身体を同時に両方操れる。それは知っている。でも俺は素人で、一人で練習したこともなかった。
 動かしている身体のどちらがどちらなのか、ちっとも分からない。気が狂いそうだ。
 足を滑らせて転び、何度もいろいろな場所に頭をぶつけながら、それでも、なんとかベッドの下にあったスマホを取ることができた。
 放置していたので電池残量は3パーセントになっている。とりあえず充電器に繋いだ。
 ――着信拒否しよう。そう思って画面を見る。
 ネズミからの電話だった。

 

 繋がった途端ネズミは「何やってんだよお前!」と怒鳴ってくる。
 何か言おうとしたが、向こうの世界で街を歩くのが精いっぱいだ。

 

 駅前、俺は立ち尽くしていた。
 冷や汗が止まらない。
「どうしたの?」
 明らかに異常な俺を、女の子は心配する。
「……いや、なんでもない」

 

 黙り続ける俺に業を煮やしたのか、ついにネズミが怒鳴った。
「今、病院にいるんだって! なんで電話に出ないんだよ!」
 病院だって?
 そこで、頭の中で何かが繋がった。

 

「ミドが目を覚ましたんだ!」

 

24

  電話を切ると、飛び出すようにすぐ俺は家を出た。
 教えられた病院の住所を検索したところ、電車を乗り継げばさほど遠くはないらしい。とにかく一刻も早く行かなければ。
 玄関先で転び、走って二度つまずく。電柱に頭をぶつけ、横断歩道を渡ろうとして信号を無視し、盛大にクラクションを鳴らされ、それでも駅へ向かう。
 身体のあちこちが痛かったが、なんとか最寄り駅までたどり着く。通行人たちは何事かと目を丸くしているが気にしない。改札を抜ける。

 

 とにかく家まで歩かなければいけない。
 彼女と心配させないよう、「大丈夫大丈夫! ちょっと緊張してるだけ。二人だけのデートみたいでさ」と軽口を叩く。手ごたえはまぁまぁだったが、とにかく移動しないと。
 街はもう夏で、照りつける日差しがじりじりと肌を焼く。でも俺には悪寒がする。口の中が乾く。だけど女の子に悟られてはいけない。落ち着け。冷静になれ。でも、どっちの世界に集中すればいいんだ? 片方に注意すると片方がおろそかになる。
「ねぇ、大丈夫? 具合悪いなら休む?」
「……大丈夫だから」
 強がってみせる。
 大丈夫なわけないのに。

 

 ホームではちょうど最速の電車が出発するところだった。閉まりかけるドアをギリギリで越え、なんとか乗り込む。息が切れる。身体中の血液が沸騰して泡立っている気分だ。

 

 自分の家だというのに道が全然思い出せない。必死に頭を回しながら歩く。
「……あの、家ってこっちじゃなかったっけ? 寄りたいところでもあるの?」
「あ……」
 女の子に指摘され、方角を間違えていたことに気づく。

 

 急行が乗換駅に着く。二番線のホームで通過列車の次の電車を待つ。
 頭の中で時を数える。四分。三分。――音が近づいてくる。

 

 なんとか身体の制御に慣れてきたが、会話ができるほどではない。二人を沈黙が包んでいる。これから告白するとは思えない有様だが、それどころじゃない。
 駅前の商店街を歩いていく。今日はなんだか人が多い。祭りか何かだろうか。住んでいるのに俺は何も知らないらしい。
 すれ違う人たち。いろいろな人がいる。でも目を惹くのはカップルだ。どうしてだろう。
 そう、いま目の前にも、男女が肩を並べて近づいてきている。
 その女性の方を見る。
 姉だった。
 ……姉は知らない男と歩いていた。

 

 鉄の塊が轟音とともに俺に近づいてくる。

 

 雑踏の中で俺は足を止めて、立ち尽くしていた。
 姉はその男と仲睦まじく手を繋ぎ、顎を男の肩に乗せ、笑顔で、すれ違っていった。
 見間違えるはずがない。確かに姉だった。
 あんなにも傍で生きてきた姉が、他の誰かと幸せに過ごしている。幸せな姉は、俺の傍にはいない。俺に気づくことさえない。それだけで俺は壊れた。
 思い出のすべてが牙を剥いて、俺を殺す。
 姉は俺を捨てたのだろうか。それともこれが、俺への最大の反撃なのだろうか。両方かもしれない。どちらでもないかもしれない。でも、何にしても、たったこれだけで、俺の心は折れた。ああ、認める。やっぱり姉さんには敵わないよ。
 何もかもが終わったときって、涙も出ないんだな。
 そっか。――これが部長の言った『呪い』なのか。

 

 気がつくと、足を一歩ずつホームの縁に近づけていた。
 ああ、結局俺はこうなんだな。
 電車が近づいてくる。
 やっぱり俺は、死にたいんだ――

 

 手を握られていた。

 

 ――目の前を、凄まじい風と音が過ぎ去っていった。

 

「落ち着いて」
 女の子は、俺の左手に右手の指を絡めた。そして、俺に寄り添って、言う。
「大丈夫だよ。ゆっくり深呼吸して」
 いち、に。いち、に。
 言われるがまま、彼女の言葉に合わせて俺は息を吸って、また吐く。
「どう? よくなった?」
「……なんとか。これなら歩ける」
「顔色もよくなったね。安心した」
 彼女は安堵したようで「じゃ、行こうか」と、俺の手を引く。
 手を、繋いだまま。

 

 まもなく、現実でも急激に身体をうまく動かせるようになった。
 次の電車に乗り、まもなく目的の駅に着いた。
 安全を期して、タクシーで病院に向かうことにする。

 

 ようやく自宅に着いて肩の荷が下りた――いや、全然下りていない。
 これから俺は、この女の子に言わなければいけないことがあるのだ。
「ミドたち、遅いね」
「電車が遅延してるらしいって言ってるよ」という、仕込まれた通りの大嘘をつく。
「そうなの? 調べてみよっかな」
「あ、いいから! 多分もう来るから」
「うーん。まぁ、いいけど……あのさ、さっきから様子がおかしいんだけど」
 女の子は、何かを不審に思っているらしい。先の件と合わせて、このままだと不安にさせてしまうだろう。――もう、言うしかないか。
「実はな」と俺は切り出す。「お前に話したかったことがあるんだ」
「え、なになに?」
 彼女は興味を持ったらしい。そうされると、逆に話しにくくなってしまう。どうしよう。
 言葉は、自然と出てきた。
「これから言うことは、全部頭のおかしい戯言だから信じないでくれ。実はな――」
 女の子は黙る。そりゃあ困惑するよな。でも続ける。
「――俺はこの世界の人間じゃないんだ。俺の世界には、いろんな世界を移動できるっていう変な薬があってな、それを使ってここに来たんだ。……それまで俺は、つらいことをずっと引きずって、死にたいと思っていた。でも、ある人が俺の前に突然現れて、その薬を教えてくれた。そいつは俺を別の世界で恋人にしてるっていう変で迷惑な奴だったけど、俺を新しい場所に連れ出してくれた。そこではいろいろあったけど、仲間もできたりして、いつしか死にたいとはあまり思わなくなっていた。でもな、その人はふさぎ込んで遠い世界に行ってしまった。だけど、寂しそうにしているお前を見ていたら……無視できなかった。気がついたら、そいつと同じことをお前にしていた。手を伸ばしていた。なんでだろうな」
 女の子は、こんな支離滅裂な話を、真剣に聞いている。
「もう話のオチ、分かるか? そいつはね、別の世界のお前だったんだよ。だから、今日はそれを感謝したかったんだ。俺にそれをまた気づかせてくれてありがとう、ってな。それ以上でも以下でもないよ。ただ言いたかったんだ。ありがとう。……頭おかしいだろ?」
「ふふっ、そうかもね」
 女の子はちょっと吹き出したが、馬鹿にしているわけではなさそうだ。

 

 そしてようやく現実で、俺は目的地に着いた。
 身体は痛く、服も乱れたり汚れていたが、それでもここまで来ることができたのだ。
 今、俺は漂白された匂いのする院内を歩いている。確か、この階にミドのいる病室がある。
 こんな大事な時に二つの世界を行き来して、本当に疲れた。二度とやるもんかと思う。

 

「……いつか、俺はこの世界から出て行かなきゃいけない。そうすると、どうなるんだろうな。ああ、薬に関連する記憶は消えるのか。なら、お前からすると俺が頭でも打って変なこと言ってたってだけになるかもしれないな。この世界の俺だって、別の世界の俺がやったこともぜんぶ自分が己の意思でしたって考えるのかな。それなら万事解決か。だから……この世界の俺と仲良くしてやってほしい。お前は、俺の気持ちを気づかせてくれたんだ。好きだ、っていう気持ちを」
 話しながら強く思う。
 すぐにこの気持ちを、言わないと。
 俺と同じ世界の彼女に、教えないといけない、って。
「……ごめん。意味分かんなかったよな。頭おかしいこと言ってすまん。忘れてくれ」
「そんなことないよ」
「驚かないのか?」

 

 ようやく、ミドのいる病室の扉を探し当てた。
 ……ほんの少しだけ、ためらう。でも、確かに把手を掴んだ。
 行こう。

 

「だって私、ずっと見てたもん。リュウくんのこと」
 リュウ、くん?
「……リリ?」
「分かった?」

 

 病室のドアが開く。
リュウくん、ありがとう」
 その先には、女の子――リリがいた。

 

25

  ぱちぱちぱちぱち。
 そんな俺たちに、拍手の音がふたつ。
「いやー、見事に引っかかったな」
「ほら、私の言ったとおりだったでしょ?」
 ネズミとミドだ。
 ミドはベッドに横になっていた。点滴を受けているようだったが、顔色は随分と元気そうで、精神的にも安定しているように見える。
 何事か、と思ったが、そこで種明かしがやってくる。

 

 玄関からチャイムが聞こえ、許可もなしに二人が入ってくる。
 男子と女子――いや、ネズミとミドだ。
「なぁリュウ、お前鈍すぎだって。ドッキリ大成功じゃん」
「……めんどくさいから病室の方で喋っていい?」とミドがだるそうに言う。
 この世界の奴らが、なんで病院のことを?
「私たち、みんなリュウといたんだよ。『エヴェレット』を使ってね」
「え……? でもミドは」
「私、もうとっくによくなってるよ」
「そうそう。で、三人で呼び出したんだ。演技、うまかっただろ?」
 って、ことは。
「全部、知られてたってことか……」
「そうそう。リュウくんが私を口説くところ、ごちそうになりましたー」
 きゃー、とリリはいつも通りのテンションを見せてから「いや、真面目なんだよ」と言う。
「私、感謝しなきゃいけないんだ。……ミドが自殺未遂をしてから、私、もうダメだって思ったんだ。やっぱり自分に居場所なんてないんだなって。それで『エヴェレット』を使っていろいろな場所に行ったけど、何も満たされなかった。そんなときに、リュウくんがどこかにいるのを感じて驚いたよね。言ったでしょ? 他に使っている人がいるのが分かるってさ。そしてら、いきなり口説かれちゃったっていう」
「俺たちも同じだよ。ミドが昏睡してるとき、『エヴェレット』を使っているんだなってことに気づいたんだ。それで俺も彼女を見つけに行って、いろいろあって、ミドは目覚めてくれた。で、俺たちも協力しようって思ったんだ」
「いろいろ、ね」とミドは笑った。「たとえばネズミが私にフラれたとか」
「フラれてねぇよ。俺はまだ諦めてねぇから」
「……キモ」とミドに評され、あっけなくネズミはうなだれる。「好きな人が生きてくれてるなら、いいけどさ」
 純情だね、とミドが言い、二人は目を合わせた。そこには言葉にできない信頼があった。
「ま、そんな感じ。私たちはもう納得したから。私は二人の恋路を応援するね。ねー、リリ」
「ミドちゃん目が笑ってないんですけど。静かな殺意を感じるんですけど。えーん、女って怖いよリュウくーん」
 驚きもようやく落ち着き、懐かしいこの雰囲気にやっと安堵が湧いてきた。
「アドバイス、助かったよ。ミドも……」何を言えばいいか、迷う。「いろいろと、ごめん」
「うーん。そこは、ありがとうで」
「でも、下手したら命が」
「いいの。私が気にしてないって言ってるんだから、それ以上考えないで。でしょ?」
「……そうだったな。ありがとう」
 ミドは満足げに頷く。その言葉で、お互いの何かが許されたような気がした。
 リリも一歩前に出て、みんなを見回す。
「ミド、私も言わなきゃ。ごめん。そして、ネズミもリュウくんも。ひどいことをした」
「いいさ。取り乱した俺も俺だ。水に流そう。俺もリュウを責めたんだ」
「気にすんなよ」
 俺が拳を差し出すと、ネズミも応じてくれた。
「私も、リリがめんどくさいのは慣れてるから」
 ふふ、とおかしげにするミドの気丈さに、リリはきっと何かを感じたのだろう。
「生きてて、よかった……」
 半身を起こしたままのミドに、リリは抱き着いて追いすがった。
 そんな彼女の頭を、ミドはゆっくりと撫でる。

 

 ひとしきり話が終わった後で、ネズミが総括するように一同に言う。
「ま、これでだいたいは解決したか。もう後腐れはなしにしよう。あとは二人のお時間なわけです。さ、野暮はしないから行った行った」
 そのまま俺とリリは病室から追い出される。
「頑張ってねー」というミドの声とともに、扉は閉まった。

 

 こちらの世界のマンションからも、ネズミたちは去ってしまった。
 俺たちはリビングに立っていた。
リュウくん。連れ出してくれて、ありがとう」
「何言ってるんだ。先に手を引いてくれたのはそっちだろ」
「あはは、そうだったか。でも本当だよ。私は、リュウくんに救われたんだ」
「救ったわけじゃないさ。自分が嫌な気持ちだったから、手を出したんだ」
「また、言ってる」とリリは口を尖らせる。「それって、好きだってことだよ」
「ああ。そうらしいな。でも――もうちょっとだけ、お預けにしていいか」
 チャイムが鳴る。
「あと一人、まだ決着をつけないといけない人がいるから」
 誰かは、分かっている。

 

「――リュウ。それと……名前なんだっけ。まぁいいわ。女」
 やってきた姉――山田ナオは、出会うなり俺に「分かってると思うけど」と言い放つ。
「ああ。期限だよな」
「そうよ。まぁ、訊くまでもない確認でしかないけれど。……そこの女、聞こえてる? 『エヴェレット』を使っているんでしょう?」
 リリは姉に「……初めまして」と挨拶した。「リュウくんのお姉さんですよね」
「姉だった。そして今は恋人。あと、私のリュウにふざけた呼び方をするな。それはともかく、こいつがいることは好都合ね? そうでしょう」
 姉の隣にいる部長は「ごめんね」と言った。「私たちが一緒にいるの、頭のいいリリちゃんならなんとなく分かるでしょ?」
「一応話は聞いています。部長、あなたが私に渡した『エヴェレット』は、お姉さんが作ったってことで正解でしょうか」
「そう。で、彼のために動いてもらったわけ。狙い通り、みんな不幸になってくれた」
「あなたたちは、彼を現実から引き剝がす最後の楔として、私たちを使ったんですね」
「そう。ねぇ女、すべてはリュウと私がこの世界で結ばれるために用意したことなの。これから私と生きることを決めてもらうわ。完璧な勝利には惨めな敗者が必要なのよ。そこで愛する人が奪われるのを見ているといいわ」
「……そうだとしても、負けたとは決まっていません」
「発言は認めないわ」
「彼が好きなのは私もです。決めてもらう立場なのに、あまりに傲慢じゃないですか?」
「黙れ」
 姉がリリを睨みつける。一瞬リリは震えたが、それでも逃げようとはしない。
 リリの目に、負けるつもりなどなかった。
「もういいんじゃないですか。早いとこ終わりにしましょう」
 部長がそう言うと、姉は「そうね」と応じた。「ねぇ、リュウ
「――ああ」
「答え、決まったわね。リュウ
 何も言わず、頷いた。
リュウくん」
 リリにも、俺は頷く。
「あなたは、どちらを選ぶの?」

 

 俺は、答える。

 

「姉さん、ごめん」
 腹の底、その一番深いところから、ゆっくりと絞り出すように言った。
「……え?」
 姉は固まった。目の前で起きていることが信じられない様子だった。
「姉さんと一緒にいることはできない」
「――どうして」
 もう、怯まない。そう決めた。だから、自分の思いを伝えるのだ。
「俺は、リリが好きだからだ」
 殴り飛ばされるか首を絞められるかと思ったが、姉は「ふーん」と言ったまま、一分ほどそこに立ったまま俺を見下ろしていた。
「私に言いたいことはそれだけ?」
「いや、それだけじゃない」
 バクバクと心臓が暴れている。でも、怯まない。俺の前にあの膜はない。

 

「こんなことを言っても何も感じないだろうけど、言わせてもらう。……姉さんは、俺をずっとずっと支えてくれた。感謝している。姉さんがいなかったら今の俺はいない。それに姉さんが苦しんでいたことも分かっている。今も俺は、何もできなかったことを悔やんでる。でも」

 

 俺は姉と――この人と、対峙している。

 

「だからって、俺を大事にしてくれた人たちを傷つけたりすることは見過ごせない。……俺はあの頃、姉さんのものだった。姉さんのものであることが幸せだった。でも、今は違う。それは誰のためにもならないからだ。俺はもう、姉さんに死ねと言われても死なないだろう。それは嫌いになったからじゃない。自分を自分と、他者を他者と認めて大事にできるようになったからだ。そしてそれは……リリたちのおかげだ。姉さんは……どうしてそれができないんだ」
 「……ふざけるな」と部長が言いかけたが、それを姉は手で制した。

 

「それは俺のせいでもあるよ。姉さんの周りが姉さんを否定したとき、俺は誤解していた。姉さんの傍にいさえすればいいんだって。そうすれば助けられるって。だから好意と不安が結びついていた。でも違った。ひとりでその役を引き受けるべきじゃなかった。……俺はそれを繰り返したくない。どんなに都合のいい世界に行っても、不安から発生する好意は絶対に破綻するからだ。そして――そういう不安からじゃなく、前向きに好きになれる人が、リリなんだ」
 それは、率直な思いだった。

 

「こんな手段を取ったのは許せないけど、姉さんは現実の俺を好きでいてくれたってことだよね。それは嬉しい。でもそうなら、現実で俺と生きてほしかった。だって好きなことがまだあったんじゃないか。たった一人でも好きな人がいるんじゃないか。だったら楽しいこともきっと見つかったよ。連れ出すことができなかった俺も悪いし、責任を感じてるけど」
「それはもういいわ」と姉が初めて口を挟んだ。「続けて」
「現実に絶望して夢を見たい人を、好きな世界で生きたい人を止めることはできない。でも姉さんはどこかで現実の俺を好きでいてくれた。なら、この世界を呪わないで……いや、呪ってもいい、それでもなんとか肯定するくらいはできたかもしれないじゃないか。だから……」
 結局、そこに行きつくのか。
「なんで、死んじゃったんだ」
 姉は、ひとつだけ聞いた。
「もう遅いと思う?」
 それに俺は答えた。
 彼女は「そうね。……そうかもしれない」と、ぽつりと言った。

 

 どれほどの時間が経っただろうか。カーテンの隙間からは、茜色の光がこぼれている。
「どうして私たちを止めなかったんですか?」とリリは姉に訊く。
「『ゴースト』のあなただって『エヴェレット』を使っている人間を識別することはできます。だから私たちを排除すようとすればできたはずです」
 推測を言っていいですか、と彼女は姉を見つめる。
「あなたは、心のどこかで負けるって分かっていたんじゃないですか」
 姉は、長い沈黙のあとで「……本当に、頭がいいのね」と言った。「頭がいいって認めたの、人生で二人目」
「姉さん……そうなのか?」
「『ゴースト』というのはね、消えていく運命なのよ。望む世界にどこでも行けて、どんな欲望も満たせる存在に、意思はいらない。意識はいらない。だから、どれほど私が各世界で『エヴェレット』を飲んでも、いつかは消えるわ」
「そんな!」と部長が叫んだ。「聞いてないです、そんなこと!」
「言わなかったのよ、あなたのためにもね。悪いことをしたわ」と姉は部長に手を伸ばし、頭を撫でた。「いつもそうやって、あなたは、せんぱいは……」という声は、途中から嗚咽で聞きとれなくなった。


「姉さん、本当に姉さんのままだね」
「そうよ。私は生きていようが死んでいようが、山田ナオだから。……だから、今のリュウを、一緒に生きていたリュウを、最後に見たかったのかもね」
 それに関しては満足できる結果ね、と姉はいつものように気丈に言った。
 でも。
「姉さん、泣いてるよ」
 その言葉に、驚いたように彼女は頬を拭った。
「――ああ、私、悲しいのね」
 姉が泣いてるところなんて、初めて見た。
 どんな目に遭っていても泣かなかった姉が、涙を流している。
「泣いていいよ。ほら」
 俺は姉を抱き締めて、頭を撫でた。
「――お疲れさま。今までよく頑張ったね。本当に、ありがとう」
 背が高い人だったから、ちょっと不格好だったけど。
 でも彼女は声を上げて叫んだりはしなかった。
 とても静かに泣いてから、今まで聞いた中でいちばん優しい声で言った。
リュウ、大好き」
「俺もだ。姉さん」
「姉さん、ね」と彼女は吹き出した。「結局、そこからは逃げられないみたいね。……リリさんだったっけ」と姉がリリに呼びかける。
「私の負けよ。罪は被るわ。リュウと――仲良くね」
 リリが頷いたのを満足そうに見届けてから、姉は赤い目を腫らして、眩しげにしながらカーテンを開けた。
「ふーん。失恋ってこんな感じなのね。望んだものが手に入らなかったの、人生初だわ」
 夕日が姉を包む。その姿は、まもなく消えてしまいそうな、そんな儚さを湛えていた。
 彼女は赤い目を瞬かせながら「でも、悔しいのも悪くないかもね」と笑った。
 それはすごく穏やかで、慈愛さえ感じさせる微笑みだった。
「私たち、初めて姉弟喧嘩しちゃったわね」
「でも、仲直りできた」
「してない。リュウのこと、ずっと呪ってやるわ」
「……分かった。いくらでも恨んでくれ。受け止めるよ」
 ――ナオ。
 どうしてだか分からないけれど――俺は、そう呼んでいた。
 彼女は一瞬虚を突かれた顔をしてから、やがて困ったように笑みを浮かべた。
「……なんだ。言えるじゃない」

 

 こうして俺は、呪いを引き受けた。

 

エピローグ

  朝の屋上は嫌いではない……のだが、こうも煙たいと嫌になってくる。
 俺たちは今、屋上で『エヴェレット』を燃やしている。
「ナオ先輩、ナオ先輩……」
 部長は死んだような眼で、一斗缶の中で燃え盛る炎の中に、段ボールに入った錠剤を薬包紙ごとくべていく。ときどき油を足そうとしているが、これ、火事にならないだろうか。そもそもこんなに煙を出したら学校の人間に気づかれると思うのだが、彼女はそれさえ考えられないのかもしれない。
 気持ちは分かる。
 曰く「ナオ先輩がいない世界で『エヴェレット』を使っても何の意味もない……」ということらしかった。『竹取物語』の最後みたいなこと言ってるな。
 姉と同様、この人にも俺たちに対して間接的にいろいろな罪があるだろう。でも、今の彼女は大切な人を失ったことに苦しんでいる。それは俺も同じだ。だから、これ以上責めることはしない。薬を焼くのも、部長にとって必要なことだ。俺はそれが彼女が自らに課した罰なのだと考えるようにしている。他の三人も、そういう考えに落ち着いた。
 それに、ネズミにもミドにも、そしてリリにも俺にも、たぶんもう『エヴェレット』は必要ない。
 とはいえ当人の二人は来ていない。あれ、なんでだろう。
 ……ひょっとして、まーた要らぬ気を回しやがったのか? 確かに、あの時は姉の乱入でなぁなぁになってしまったわけだけれど――まぁ、なんとかなるだろ。
「夏の屋上から、また一つ煙が……って、風流でもないか」
「何それ?」
「いや、火葬みたいだなってことが言いたかった。灰を見てたら、なんか」
 服が汚れないように風上に陣取って、リリと俺は話している。
 そういえば姉さんの葬式に俺は行かなかったな、と思った。おもに死体を見たくなかったという理由によるけれど。
 姉さん。おそらく、いや間違いなく、もう二度と会うことのない姉。
 もしかしたら、これは彼女への弔いなのかもしれない。
 それが、今も呪われ続ける俺にできる唯一のことなら。
 息を吸う。朝露が空気と一緒に肺に吸い込まれる。灰で煤けた喉が少し潤う。
「これで、よかったのかな」
 リリはぼんやりと、煙のたなびくまだ青い空を見つめている。
「よかったもなにも、丸く収まってるんだろ。ミドとネズミも落ち着いてるし、お前だって俺といるようになってからクラスでも困らなくなったんだろ」
「いやいやそういうことじゃなくてですね。私、なんと勝っちゃったんですよ。リュウくんに選ばれちゃった」
「そういう言われ方、恥ずかしいんだが。姉さんにか?」
「それもそうだけど……リュウくん、あれ忘れた? 『賭け』ってやつ」
「ああ、そんなのもあった」
「私の勝ちでいい?」
「そうなの?」
「だって、リュウくんはもう死にたくないでしょ」
「……あ」
 言われて気づく。確かに。
「やったー! 私の勝ち。じゃ、景品を貰っちゃうね」
「おい、何に使うんだ」
 こいつ、俺に何をやらせてくるか分かったもんじゃない。
「そうだねー、いっぱい思いつくけど、私はクーポンとかポイントってその場で使っちゃう派だから、もう頼んじゃっていい?」
「……何だよ。早く言え」
「もう、分かってるくせに」
 そうしてリリは俺に向き直り、言う。

 

「私に、これからも生かされてください」

 

 私に、だなんて。
 相も変わらず、こいつらしいじゃないか。

 

(了)

『ロンググッドバイ』

 僕たちはいつも 叶わないものから順番に愛してしまう
 ごめんね ごめんね これでもう最後さ
 きのこ帝国「海と花束」

 これはシンプルな物語だ。
 要約すれば――男の子と女の子が出会う、それだけの話。

 

 

1 - ガラスの墓標

 ちょうど数日間続いた吹雪が止み、登山鉄道の運休は終わったらしい。
 勾配のある斜面を列車はガタガタと登っていく。窓の外の木々に積もった雪が、衝撃でいくらか落ちる。それにつられて、文庫本の紙面から窓に目を移す。
 中腹で降りてから、いくらか歩かなければいけないと聞いた。だから文明の利器に頼れるのは、ここまでだ。もうじき降りるだろう。僕は本――福永武彦の『草の花』――を閉じた。
 そもそも会ったとして、何を話せばいいのだろうか。
 彼女本人の要望とはいえ、何がしたいのかがさっぱり分からない。……それではなぜ行くことに決めたのかと言われれば、困る。
 恥ずかしい話だが、僕はちょうど就職に失敗しつつあった。だから自暴自棄になっていたのかもしれない。
 断ることも無視することもできた。興味本位の好奇心が疼いたといえばそうなのだろう。でも自分でもよく分からない。考えてみれば僕の人生はいつだってそんな感じだった。
 僕のもとに手紙が届いたのは、ちょうどクリスマスの頃だったと思う。それは奇妙な手紙だった。差出人に覚えがなかったのだ。
 それはこんな文面だった。

『中島弘樹様
 突然の手紙すみません。私は永井朋佳というものです。
 単刀直入に用件をお話します。お会いしたいです。
 突然のことで、怪しい手紙だと思われるかもしれません。しかし、どうしてもお会いしたいのです。
 お待ちしております。
 永井朋佳』

 そして、そっけなく住所と電話番号が書かれ、手紙は終わっていた。
 ……意味不明だった。
 しかし、結局手紙を捨てることはできず、最終的に僕は彼女の居場所を調べてしまった。電話番号にかけてみたところ、彼女の姉と名乗る人間と話すことができた。『時感障害』でとある療養所に入院しているという。彼女は僕が名乗ると「入院前に朋佳から聞いています。今は連絡が取れないですが、お知り合いのようですし、入院先の住所をお教えしましょうか?」と頼んでもいないのに伝えてくれた。ますます分からない。
 結局僕は来てしまった。まぁいい。身の危険は特に感じなかったし、僕には特に財産もないし、騙しても何の意味もない。
 あと、筆記のあまりの弱弱しさにも、敵意の微塵も感じなかった。……これは後付け。
 ――そんなどうでもいい思考は、ぴしりとした鈍い頭痛で現実に引き戻される。
 もう列車は止まっていた。

 療養所は東北のある県の山間にある。だから、天気によっては冬場は行くのが結構大変だというのは知っていた。もっとも、行く人間なんてほぼいないということだが。列車の運転手も「見舞いですか? 珍しい。もうずっと見てないですね」と不思議そうだった。「私も行ったことはないんですよ。詳しくは知りませんが、なんでも、かなり……その、不思議なところらしくて」と、彼は語尾を濁した。「噂がありまして、ここの人たちもあまり近寄らんのですよ。まぁ、入不二のことはどこでも分からない話だと思いますが……気をつけてください」その口ぶりには、警戒心と不安が入り混じっているように感じられた。
 地面には雪が積もり、少しでも道を踏み外すと足が埋もれてしまう。でもただ道を歩けばいいというわけでもない。ところどころ凍結しているから、注意をしなければ滑る。階段では手すりに摑まればいいが、他ではそうもいかない。
 中腹には誰もおらず、売店は閉まっている。ベンチは雪でこんもりと覆われている。一体どうして、僕はこんなところに来たのだろうかと思う。後悔する。
 山はそれほど高くなし、このまま縦断すればすぐに谷の療養所につくだろう。
 そう思っていた。
 見通しが甘かったことは、すぐに分かった。

 突然、風と雪が強まってきた。気象情報は確認していたはずだけれど、また悪くなってきたのか。コートから隙間風と雪が入る。手袋をつけたが、それでも指がかじかんで上手く動かない。こんな軽装で来る場所ではなかったかもしれない。現在地を見失いそうになる。スマートフォンを取り出そうとして、雪の中に落としてしまった。慌てて探したが、見つかりそうもない。最悪だ。どうせ電波は通じないから関係ないかもしれないけれど、こんな状態で遭難したら笑いものにさえならない。
 周囲には人っ子一人いない。既に空は暗いが、もうじき日も落ちてしまう。闇の中に包まれてしまえば、万事休すか。
 もはや自分がどこに向かっているのかもわからなかったが、それでも足は動いた。
 脚に見えない糸でもくくり付けられて、引っ張られているみたいに。

 キイキイと揺れる電線の音で、僕は安堵した。
 まもなくその建物は、吹雪の中からのっそりと輪郭を現した。
 第一印象は、とにかく古めかしい、という感じ。一体何十年前の建物なのだろう。下手をしたら戦前なのか? とすら思う。レンガ造りで、思い出もないのになんともノスタルジーを喚起させる。しかし、レンガの一つひとつや石畳には傷がなく、まるで建てられた直後のようだった。人間が少しでも立ち入ればこうはならないはずだし、この気候なら間違いなくどこかしらに侵食が起きるだろうが、そんな形跡もない。それなら異常に手入れが整っているということか? だとすれば、病的なものさえ感じる。
 特に看板もないが、間違いなくここだという確信がある。意を決して、玄関に向かう。もう連絡は済ませてあるから怪しまれはしないだろうが、それでも緊張した。
 身体から雪を落とし、靴を脱ぎ、床に上がる。そこも鏡面のように磨かれていて、やはり傷がない。だから、少しだけ足を載せるのを躊躇ってしまうほどだった。靴下越しでも冷たい。すぐにスリッパを履いた。まずは受付に向かおう――そう思いながら歩く。
 ふと、この廊下がどこまで続いているのか気になって、向こうを振り向いた。
 少女がいた。

 少しサイズがぶかぶかの病衣に身を包んだ彼女は僕を見つめている。死人のように生気のない黒い髪と、陶器のように白い肌。その輪郭はあまりにもか細い。
 確証もなく、直感的に僕は悟った。この少女があの手紙の主だと。
 ――どうしてそう思うのだろう?
「あ――君は」と言いかけて、やめる。君は? 初対面なのに慣れ慣れしくはないだろうか。いや、そもそもこの状況で何を言えばいいのだろうか?
 でも少女の方は、驚いた様子は見せなかった。そのあまりの警戒心のなさに、拍子抜けしてしまい、こちらの肩の力も抜けた。「ええと、もしかして、永井さんで間違いないですか?」
 こくり、と頷く。
「ああ、よかったです。中島です」あれ、でもまた話に詰まってしまうんじゃないか? いや、要件すら分からないのに、何を言えって話だが。
 ゆっくりと少女が近づいてくる。何だ?
「――」
 彼女は僕を一瞥してから、何も言わずに彼女は後ろを向いて、帰り始めた。
「ちょ、ちょっと!」と呼び掛けても、何の反応もない。肩に手を掛けようとしたけれど、できなかった。触れたら、壊れそうだったから。
 そして呆然としているうち、彼女は角を曲がって、消えていった。

 けれど不思議なことに、僕はそれに嫌悪感を抱かなかった。
 どころか――あの、冷めているようにも夢を見ているようにもとれるまなざしが、僕にはなぜか、ひどく懐かしく思えた。

「ああ、中島さんですね」と受付の女性は言った。
 その声で、来る前に掛けた電話に応対した女性と同一人物であることが分かった。彼女はメイド服を着ていた。それも、まるで近代ヨーロッパの伝統的な感じの。残念ながら僕に知識はないが、それでも本格的な服装であることはなんとなく一目でわかった。
「連絡は既に来ています。朋……いえ、すみません、朋佳さんに呼ばれた方ですよね」
「……はい」
「分かりました。お話の通り、本日中に帰られるわけではないですよね?」
 彼女は僕に微笑みかける。もとよりこちらもそのつもりだった。場所を調べた時点で、もう日帰りは無理な場所だと理解していた。
「空いている部屋はたくさんあるので、ひと声かけてください。なんなりと」
 ……ここは宿泊施設か何かなのだろうか。
「入不二先生はまもなく戻られます。まずは先生にお会いしたらいいと思います。と……ええと、朋佳さんのこと、何も知らないんですよね」
「そうですね……正直、どうして呼ばれたかさえ、分からないです」
「なるほど」
 彼女はちょっと考え込んでから「まぁ、大丈夫でしょう」と能天気に構えた。
「とりあえず場所を変えましょう。ここで待つのは寒いと思いますからね」
 そうして彼女はドアを開け、僕の目の前までやってきた。背は低くちょこんとして小動物を思わせ、この気候と合わせるとなんだか今にも冬眠しそうな感じだった。
「ご案内しますね」
 彼女は先導するように歩みを進めようとして、ふいに僕の方を向き直る。
「あ、申し遅れました。いつものことですね。――青山、と呼んでください。ここで雑用をしています」
 呼び捨てでもいいですよ、と笑われ、反応に困る。「なんちゃって」
 ここの人たちは、みんなこんな感じなのだろうか。

 通されたのは、応接室だった。医療施設にそんな場所があることに改めて驚いたが、「ここはもともと役人さんの邸宅だったので、こんな感じなんですよ」と補足された。「もうずーっと前のことです。少々縁がありまして、私どもが管理しておりますが」
「すごく広いですね」
「はい。中にいる人数と比べると、もったいないくらいですね」
「……そんなに患者さんは少ないんですか?」
「ええ。現在入られている方は、中島さんしかいらっしゃいませんね。患者さんと呼べるのはそれだけです」
 あとは私と先生ともうひと方で、合計四人です――そう青山さんは必要もないのに指折り数えて示す。
「そんな少人数で回るんですか?」
「まぁ。みなさん手のかからない方ですから」
 青山さんは、それ以上は言及しなかった。
「何か飲み物を出しましょうか。紅茶か、コーヒーか」
「そこまでなさらなくても……」と遠慮すると、彼女はずいっ、っと身を乗り出して「こういうときは素直に頂いた方がスマートですよ」と屈託なく笑うから、頂戴することにした。こんなに丁寧に応接してもらう療養所というのは、やはり変なものだ。
 温かなコーヒーは、凍えた身に再びエンジンをかけるのにちょうどいい。カフェインの香りで目も覚めて、ここに来てから感じていた夢心地のような奇妙さは、少しばかり薄らいだ。カップを片付けると、青山さんは「まだ時間がありますし、少しばかり部屋の案内をしましょう。
 差し支えなければ、部屋に行きましょうか」と席を立った。「荷物、運びましょうか?」
 再び躊躇いかけた僕に、彼女は口元に人差し指を当て「スマートに」とだけ言って、笑った。

 階段を登っていく。金属製の手すりには流線型の彫刻が施され、肌触りはひんやりとしている。ここは二階建てで、上階に病室(と呼んでいいかは分からないが)がある。リュックを両手に抱えているにもかかわらず青山さんの動きには無駄がなく、スカートのすそを踏まないことにちょっとだけ感心して、いや、慣れているのなら当然なのか、と我に返った。
「泊まっていただくのは、そうですね……向こうがよろしいでしょう」と彼女は廊下の突き当りにある扉に目を向けた。「まずは、荷物を置きましょうか」と言いかけたそのとき――ちょうど右隣の扉が開いた。
「あら、さっそくですね」と青山さんは悪戯っぽく微笑む。
 扉の向こうから現れたのは、パジャマ姿の女性だった。年は二〇後半くらいだろうか。ボブカットの髪の毛には寝癖がつき、漫画みたいにあくびをしてから、ぱちくりと僕の方を見た。その異常なほどの警戒心のなさに、またしても僕はたじろいでしまう。
「紹介しましょう。野矢さんです。野矢さん、こちらが来客の方です」と青山さんが説明する。女性は僕たちの方を見て、一瞬目を見開いたが、まもなくすぐに眠たげな顔に戻り「紹介されました。野矢珠希です」と返した。声音はぼんやりとしている。まだ寝ぼけているのだろうか?
 困惑する僕をよそに「あー」と間を繋いでから、彼女は僕に近寄ってくる。そのまま首を伸ばして、顔と顔が近づく。助けを求めるように青山さんの方を向いたが、彼女は面白がるようにニコニコとしていた。
 口の中が渇いていく錯覚が湧く。――彼女は止まらない。止まらない。ぱちくりと瞬きする目が、近づいてくる。……まだ止まらない。そしていよいよ――
「なるほど、ね」
 さっと、耳元で囁かれた。
 ぞくぞくと体中が震えて、頭の上にくっついた糸を引っ張られたように、思わず飛び上がりそうになってしまった。それを二人は見逃すわけもなく、顔を合わせて笑う。
「あはは、……なんだか面白そうな人だなぁ」
「まったくです」
「……」返す言葉もない。

「私はここに入ったのは、いつだっけ……まぁそれはどうでもいいけど、とにかくここは長いよ。だから青山さんがいないときはなんでも訊いてほしいね」
 野矢さんはようやく少し目が覚めたようだが、それでも無防備なままだ。
 病室には古めかしいベッドがひとつと、そして机と椅子がある。個室……? と思ったが、そもそも三人しかいないのだから、部屋の多さを見れば当然のことなのかもしれない。
「世界全体を見ても時感障害――と私たちは呼ぶ――の罹患者は少ないからね。ここはすごくいい場所なんだよ……すごく」
 彼女はベッドに腰かけたまま、再び青山さんが用意したココアを口に運ぶ。彼女はてきぱきと僕の荷物を運んだり、また飲み物を淹れたりするから、またしても感心してしまった。「寝る前に、またお部屋にはご案内しましょう。仕事がありますので席を外しますね」と言って去っていくのを見てから「まったく、いつもそうやって気を回すんだね」と、野矢さんは親しげに呟いた。
「ええと、中島くん、だっけ。君もこの病気のことはよく知らないよね」
「ええ……」
「私たちも、少しだけしか知らないよ」と笑ってから、野矢さんは「でも、その話は飽きてるし、別のことを話そう。君は朋佳ちゃんに呼ばれて来たんだよね?」
「そうらしいです」
「面識もないのに?」
「それは……」と返答に窮したが、彼女にとっては冗談の類だったようで、また笑われてしまった。
「驚かないよ。そういうこともあるさ。人間、自分で説明できる理屈もなく行動してしまうことはある。君がここに来てしまっていることが何よりの証明だ」
 で、と彼女は続ける。「気になる? 朋佳ちゃんのこと」
「それは……」
「あ、変な意味じゃないよ? いや、そういう意味でもいいんだけど。とにかく――そりゃ当然のことだよね。見ず知らずの人間に呼ばれたんだから」
 そうだね、と野矢さんは一呼吸置く。
「いい子だよ」
「……」
「そして、面白い子でもある」
「面白い?」さっきも聞いた言葉だった。
「ああ。――ごめん。君と私だと単語の使い方が違うのかな。私は物ごとを面白いかどうかで判断することが多いんだ。もちろんその中にはいろいろな感情があるんだけど、つい口癖のようにそんな言葉を使いたくなってしまうのさ」
 ……よく分からないが、彼女なりの理屈なのだろう、ということで脳内で納得した。
「話してみるといいよ。最初はどうしたものか困ったけれど、見かけに反して……っていったら失礼かな? でも、本当に気さくな子だよ」
 そうなのだろうか? ……あの経験の後では、まったくそんな気がしないが。
 またしてもそんな内心を察されてしまったのだろうか。彼女は「気にしなくていいよ」と言った。
「え……? それは、どういう」
「気にしなくていいってこと。それだけ」
 そのまま口笛を吹かれた。
「まぁいいじゃないか。とにかく香苗が来るのを待とう。この調子だと今日はもうひとりは出てこないだろう。ここは寒いし、食堂にでも行くかい?」
 相変わらず謎めいた口ぶりだった。出てこない、という表現もまた興味をそそられた。けれど、根掘り葉掘り訊くほどの勇気は持ち合わせていなかった。
「それにしても、香苗はいつも遅い。時間の感覚がおかしいんだな」
 そう言って彼女は笑う。
「今のは冗談だよ」
 そう付け加えられても、どう笑えばいいのか分からなかった。

 どれくらい待っただろうか。
「まもなく先生が戻られます」と青山さんが知らせに来て、慌ただしく夕食の準備が始まった。
 夕食の準備も青山さんがしているようだった。冬ということもあってか、シチューを中心に、パンやサラダなどが用意されていた。これまた、病院食とはかけ離れている。
 僕たちが席に座っていると、バタバタと足音が聞こえてきた。「ああ、いよいよお出ましだな」と野矢さんが愉快そうに言った。
 ドアが少々乱暴に開く。
 現れたのは白衣の女性だった。髪を後ろにまとめてポニーテールにし、眼鏡をかけている。目つきは鋭く、少々刺々しい印象を与える。
「ただいま。夕食には間に合ってる?」
「ええ。あまり待ってはいませんよ」と隣の青山さんが伝える。手にはコートを持っている。先生が着ていたのだろう。「そうか。よかった」
「香苗、待ちくたびれたぞ、腹が減った」
「それほど待っていないといっているだろうが」
「私には長かった」
「……そうかい。さっさと食え」
 二人は軽口を叩き合う。
「先生。こちらが、本日いらっしゃった中島さんです」と青山さんが僕を紹介すると、先生は「ああ、聞いてるよ」とこちらを向き、「入不二香苗、ここで医者――あるいは、研究者をやっている。もとは脳科学を中心にやっていた。ここの所長といえばいいのかな。まぁ、そう畏まらないでいい。よろしく」
 そう言って僕に手を差し出す。少し緊張しながらも、握手を交わした。
「ここは《入不二療養所》という名前がついている。もっとも、看板なんて出していないがね。ここは私の家系が保有する土地だった。そこを使わせてもらっているのさ。この建物ごとね」
「無理やりに」と野矢さんが茶々を入れたが「うるさい」と先生は一蹴した。「まぁ、私たちの家は何かしらの研究職だから、名前ぐらいは聞いたことがあるかもしれないね。確か君の大学にも関係者はいるよ?」
 言われて――思い出す。そういえばちょっとした実験のバイトをしたことがあった。身体検査のようなものだった気がする。その人も親族なのだろうか?
「さて、彼は朋佳ちゃんに呼ばれたという話だが……肝心の彼女が来ていないな」
「呼びに行きましょうか」と青山さんが提案したが「まぁいい」と制止される。「じきに来るだろう。来なければ食事を運んでおいてくれ。彼とはいつでも会えるさ。あとは……とにかく、私たちで夕食は始めよう」
 およそ医者が患者を扱うとは思えない、ぶっきらぼうな対応だった。
「ともあれ、中島さん――いや、年下だから中島くん、か? どう呼べばいいか。とにかくお疲れ様だ。ここに来るのも一苦労だっただろう」
「それは……そうですね」
「そうだろう。さぁ、何から話したものかな」
「お前は医者だ。彼女の病気について話したらどうだ」と野矢さん。
「それもそうか。少々夕餉には向かない話題だが、聞き流してもらう程度で構わない。さぁ、食べ始めてくれ」
 まもなく、かちゃかちゃと食器がスプーンやフォークに当たり、音を立てはじめた。
「彼女は私と同じ研究者だ。もともとは物理系の学者だよ。だから適宜補足しろ。いいな」
「はいはい」と野矢さんは不承不承に頷く。「そもそも、《時感障害》っていう言葉自体、聞き覚えがないものだよね」
「ええ」
「それもそうだ。これは医学上認められた病気ではないからだ」と先生が野矢さんの後を継いだ。
「単刀直入に言おう。時感障害について分かっていることは非常に少ない。そもそもこの病名自体、正式に認められているわけではなく、便宜上のおおざっぱな呼称だ。一口に時感間障害と言っても、同じ症状の人間はまずいないといっていい。そもそも私にとって症例と呼べるケース自体が少ないから、大雑把に括ることしかできないのだが……とにかくこの病に確かなのは、一般的な人間の時間と、患者たちが生きている世界が違うということだ。まぁ、この程度でいい。彼女は、基本的には普通の人間と変わらないよ」
「……それなら、どこが病気なんですか?」
「それは難しい説明が必要だね」と野矢さんは言った。「とりあえず精神医学的な観点から説明したらどうだい?」
 ああ、と先生は頷く。「青山くん、説明をしてくれ」
 はい、と青山さんは頷いた。
神経症の一種である離人症を例に説明します――つまり、自己、自分の肉体、世界に対する現実感が消滅する神経症です」
 すらすらと話す彼女に驚くが「青山くんはもともと精神医学の専門家なんだよ」と先生が説明した。すかさず青山さんの方は「いえ。もとがメイドで学者も兼ねている、と言った方が正しいです」と訂正した。……拘りがあるのだろうか。
離人症では、身体は正常なのに、たとえば見えているはずの景色を景色だと感じられなかったりします。眼球は確かに見ているんですが、それに現実らしさを感じない、ということ。また、それを見ている自分自身さえ、見失ってしまう状態です」
「……白昼夢のような状態ですか?」
「夢や幻想ではないですが、自分の存在がふわふわしているというイメージは、それで構いませんね。こういった患者さんは、時として奇妙な時間の感覚を訴えることがあります。たとえば、『時間がばらばらになる』とか、『時と時の間がなくなった』とかですね。……分かりにくいと思いますが、つまるところ、時間そのものに対する現実感もまた、奇妙に消失したり、ねじ曲がってしまうと考えられますね」
 想像力を働かせて、なんとか話についていく。具体的には体感できないが、とにかく通常僕たちが感じる、過去から未来への時間の流れとは大きく違っているということか。
「パラパラ漫画が動いているように感じられない、みたいなことでしょうか」
「いい比喩です」と青山さんは頷く。「ひどい場合は、その一枚一枚が分断されていると考えましょうか。――離人症を例に挙げましたが、時間感覚の問題は様々な精神病理に現れます。統合失調症では未来志向、鬱病ならば過去志向の時間観が見られる、等々、さまざまですね」
「ということは、彼女もまた、そういった疾患なんでしょうか」
「いや、そこまで単純じゃないんだ」と先生が口を挟む。「私たちがそれぞれ違った分野の専門家であるように、一言でこの病を定義することはできない。最初に青山くんから説明したのは、それが一番人に説明するときに理解しやすいからだ。だが、それだけですべてを説明することはできない。それは申し訳ないんだが――」
「香苗」と野矢さんが遮る。「来たばっかりなのに、こんな講義紛いのことをするのはあまりよろしくないと思うね。ええと、中島くん。ちょっと混乱させすぎてしまったかな? 脳が疲れたかもしれない。今日はゆっくり寝るといい。そうすれば、少しは落ち着くと思うよ」
「そうだな。なに、家賃もとらない優良な仮住まいだとでも思えばいい。だいたい、生活には何か困っていることがあるのだろう?」
「……どうして分かったんですか?」
「分かるさ。そういう雰囲気が出てる」
 先生がそう言うと、彼女なりにおかしかったのか、野矢さんは笑い出した。「まったく、傑作だよ。香苗、君はホームズだな」
「こいつは、本当にやかましいな……」
 僕はそんな様子を、ただ見ていることしかできなかった。

「おやすみなさい。いい夢を」と言葉を残してストーブを消しに来た青山さんが去ってから、僕はベッドの隅に腰を下ろして考えた。
 今日ここを訪れてから、まだ状況がよく飲み込めないでいる。正直、この場所自体が大きな胡散臭さに包まれている。三人から話を聞いたが、あまりに抽象的すぎて一体彼女がどんな病なのかさっぱり理解できなかった。
 けれど……不思議なことに、僕はけっしてそれが嫌ではなかった。
 昔からそれなりに好奇心は強い方だったけれど、それでもやっぱり今の僕はどこかおかしかった。知らない人からの気でも狂ったような手紙を信じて、あっさりとこんな場所にやってきてしまったのだから。
 ……とはいえ、まだ僕は肝心な用事を済ませていない。
 永井朋佳。
 彼女と話すこと。僕を呼んだ動機を確かめること。もしやらなければならない仕事があるとしたら、それが残っている。
 この寒さの中でも、まだ布団の中に入る気はしなかった。窓の外は真っ暗で、電気ランプがともす光に照らされた雪が、ずっと降り続けている。その向こうには、深い闇。
 目を閉じる。
 これから、僕はいったいどうなるのだろうか。

 妙な痛みで目が覚めた。
 それは鋭い――それも、頭を深くえぐるような、そんな痛み。だが外傷ではない。ああ――頭痛なのか、そう理解した。
 視界は深い深い暗闇の中。いつのまにか眠ってしまっていたようだ。今は何時だろうか? それにしても……妙に息苦しい。何かに覆いかぶさられているような圧迫感。明らかに布団とは違うだろう。腰にも重い感触がある。だから身動きができない。
 そして気づく。こんなに暗いのは、僕の顔に影がかかっているからだということに。
 耳をそばだててみると、微かに何かの音が聞こえてくる。一定の周期で鳴るそれは、どうやら誰かの呼吸のようだ。
 ――やがて痛みが引いていくとともに、目が慣れてくる。少しずつクリアになっていき、目の前のぼんやりした暗がりから輪郭が浮かび上がり、実体をもって現れ始める。
 そう、そこにいたのは、確かに人間だった。
 僕の顔のちょうど真上に頭があるそれは、幻なんかではない、確かな存在感を主張していた。
 誰だ?
 それが人間であることに気づいた瞬間、本能的に危険を察知して動揺した。何のつもりだろうか。僕はどうなるのだろうか。しかし完全に横になったままだから、今すぐには抵抗できない。腕もすぐには上がらない。何か危害を加えるなら、僕がもがく前にことが終わってしまうかもしれない。――身の毛がよだつ。でも、声も出ない。息は声帯をひゅうひゅうとすり抜けていくばかりだ。
 夢であってくれ。そう願った。
 でも、それは夢じゃなかった。
 そして、その相手は、僕に危害を与えるつもりもなかった。
 僕に馬乗りになって、肘をついて僕に覆いかぶさっているその人の顔が近づく。
 僕はようやく、それが誰なのかを理解した。
 真っ暗な部屋で、どこかから入り込む微かな光に照らされた顔。
 その肌は、棺の中の亡骸を思い起こさせるほどに――ただただ、ひたすらに白かった。
 そして、彼女は口を開いて、言った。
「――ですね」
 ほとんど聞き取れないまま、僕の意識は沈んでゆく。おそらくは、彼女も僕が寝ていると思っているだろう。
 それでも、最後に彼女が何を口にしたかは、ほぼ分かった。
「会えて、嬉しいな」
 永井朋佳は確かに、僕にそう言ったのだ。

 

2 - 斜陽

 夢。それは目覚めた瞬間から急激に色あせていく。そして、やがて妄想と区別がつかなくなる。だから、それが本当に眠っている間に見たものなのかは、確かではない。
 僕は夢を見た。けれど、取り出せた言葉は、たった一語だけだった。
「――行かないで」
 それは誰かの言葉。誰かが僕に言った言葉。おぼろげな存在が、僕の目の前に現れる。目を凝らしてもなかなか焦点は合わない。
 でも、必死で目を凝らしているうちに、何かの像が浮かんでくる。それは重なり合いながら、形を変え、透明度を増し、やがて現れたのは――
 朋佳の、寝顔だった。

「ほう」
 朝食を知らせに来た青山さんの第一声は、そんな感嘆だった。
「まさかこんな短い間にここまで進展するとは」
「……いや」
 既にベッドから身を起こしている僕は、気まずい顔のまま、横で眠っている少女に目を移す。
 そこにいたのは、昨晩に僕の部屋に入り込んだまま眠っている、永井朋佳だった。
「安心してください、私は口が重い方です」
「違うんです」
「大丈夫です。後始末はしっかりしておくので」
「いや、本当にそういうんじゃないんですよ……」と必死に弁明したが、しかし本当のことを言えば言うほど嘘くさく聞こえてしまう。ドツボにはまってしまった。
「まぁ、とにかく彼女をどうにかしないと始まりませんね」
 青山さんが目を移した先で、少女はすやすやと、無防備に眠っている。
「このまま起きないこともあり得るので、私が一階まで運んでいきましょうか」
「……そんなことしていいんですか?」
「よくあることです」
 その口調から、こうしたことは一度や二度ではないのだろうことが察せられた。
「それじゃあ、持ち上げますね」
 青山さんは彼女を抱きかかえると、そのまま速やかに身体をおぶった。どんなに体重が軽くても人体はなかなかの重荷だろうが、ちょこんとした青山さんは、それでも顔色一つ変えなかった。
 それでも、少女はずっと眠っていて、目を開ける気配すらない。
「じゃあ行きますね。朝食の準備はできていますから、準備ができたらいらしてください」
 はぁ、と空返事のまま、そのまま去っていく二人を見送った。
 ……やっぱり、夜のことは夢ではなかったらしい。しかし、それならば。
 最初に出会った時といい、彼女は何がしたいのだろうか?

「お、来たね」
 食堂の扉を開けると、野矢さんが声を上げた。
「いやはや、君もこうみえて、なかなか色事には得手のようだね。意外だよ」
「だから……というか、どうして知っているんですか」
「この屋敷は狭い。隠し事なんてできないと思いたまえ」
 笑う彼女に思う。口の重さとはなんだったのだろう。思わず青山さんを探してみたが、この部屋にはいないようだ。
「ふざけていないで始めるぞ。スープが冷める」と先生が注意する。朝に弱いのか、夕食の時と比べると若干元気がない。
 席に座ることにした。……目の前には、永井朋佳がいる。彼女はまだ半分くらい眠っているようで、うとうとしたまま目もうつろで、僕の姿もちゃんと見えていないようだった。とはいえ着替えは済ませてあったので、きっと青山さんが世話をしたのだろう。……にしても、そんなことをしてもまだ起きないとは……よほど眠りが深いのか。なんなのか。
「安心しろ、朋佳ちゃんはすぐに目覚める。挨拶の準備をしておくんだな」
「緊張しているかい?」
 先生と野矢さん両者に言われ、たじろぐ。まさかこんな形で自己紹介をしなければいけないなんて。どうすればいいのだろう……? そんなことを考えているから、スープにもサラダにもゆで卵にも、何にも手が付けられない。
 端的に言って、僕は緊張していた。とはいえ逃げるわけにもいかない。覚悟を決めよう、と思った。
 やがて彼女が、いくらかしっかりと目を開ける。あくびを噛み殺したのがきっかけで、ついに覚醒状態になったようだ。
「……あ」
 見計らったように、僕は言った。
「初めまして。中島弘樹です。ええと――あなたに呼ばれて、来ました」
 なんだか変な言い方になった気がするが、他に表現のしようがない。
 彼女の反応はといえば。
「ひろき?」
「え……?」
「ひろき……ひろき……さん」と数秒間頭を押さえてから、ああ、そっか、と言った。
「……こんにちは」
「なんて、呼べばいいでしょうか」と訊くと「勝手にしてください」と言ってから「……どうでもいいか」と付け足した。
 冷たい声音だった。口ぶりも奇妙だ。言っている意味が上手くつかめない。
「昨日のことは何も知らないのかな? これはややこしい事態に……」と言いかけて、先生に睨まれたのか、野矢さんが黙る。
 そして、彼女は決定的な一言を口にした。
「どうして来たんですか?」
 ……は?
 思わず僕は言った。
「それは、君に呼ばれたからで……」
「それがどうしたっていうんですか?」
「いや、でも、手紙が……」
「……だから何ですか?」
 会話が噛み合っていない。
 この子、何を言っているんだ?
 反応に困って二人の方を見たが、先生はため息をつき、野矢さんは微笑んだまま、何もヒントをくれない。
 彼女の方は、「手紙……ああ、そうだっけ。そうだ。そうですね」と短く呟いてから、少しだけ表情を和らげた。
 そして、歯切れよく言った。
「帰っていいです」
 それから朝食の間、永井朋佳は一言も喋らなかった。

 食事が終わり、彼女が悠然と去っていく。
 唖然とした。
 ここに来てから驚くべきことは多かったが、これは……あんまりじゃないか? 自分にとっては、野矢さんの病気のことより、ずっとずっと理解しがたかった。
 なぜ、彼女はこんな態度を取る?
 確かに僕と永井朋佳はまったくの他人だろう。少なくとも僕にとってはそうだ。しかし、一方的に呼びつけたのは彼女の方じゃないか。なのに、どうしてこんなにも冷淡なのだろう? ますます彼女の言動の意味が分からない。これは、一体――
 そしてまた、僕がここに来た理由は、ほぼ失われてしまった。
「あーあ、攻略失敗だね」
 野矢さんは相変わらず軽口を言う。「ま、そこに突っ立ってても仕方ないよ」
 あまりにもショックだったのか、ずっと立ち尽くしていたらしい。思わず問いただしてしまう。
「これ、どういうことなんですか」
「さぁ。香苗は何だと思う?」
「……」
 彼女の質問に先生は黙ったままだ。
「こりゃ困ったね。ずいぶんと面白くなってきた」
「あの――」
「ねぇ、青年」
 野矢さんは肩に手を置く。
「ほらほら、あまり気落ちしない」
 それでも、気持ちは揺らいだままだ。
「帰った方がいいんでしょうか」
「まさか。この程度で諦めるようじゃ、ルートにさえ入れないよ」
「……どういう意味ですか」
「周回プレイで分かる真実もあるかもしれないってことさ。だから、根気強く話してみることだね。彼女は……ちょっと不器用だけど、それでも素敵な女の子だから、もったいないよ」
 私もできる限り助けてあげるからさ、と野矢さんは胸を張る。
「まだ、物語は始まったばかりだよ」

 野矢さんが言っていたことは多分半分も理解できていないが、それでも、食堂を出た頃には、帰るという気持ちはなくなってはいた。……変だな。自分でもそう思う。普通、こんな理不尽な目に遭ったら、怒って然るべきだろう。なのに。僕はそれでも、彼女を知りたいと思った。どうしてこんなことをするのか、確かめたいと思った。
 もしここで帰ってしまったとしたら、何かひどく重要なものを、失ってしまうのではないか――そんな、根拠のない予感があった。いや、そんなものは全部後付けなのかもしれない。単に今から帰るのが面倒だっただけかもしれない。あるいは、無意識で彼女に下心を持っていたのだ。などと無理やりに説明することもできる。
 ただ、そんな御託は無意味だ。
 どうせ乗り掛かった舟だ。
 帰らないと決めたのなら、次は何をするべきか。

 部屋に帰って、夜まで考えてみた。
 取れる行動は限られている。あの態度だ。彼女に付きまとったとしても、同じような反応が返ってくるだけではないだろうか。それなら、他の住人に協力を仰ぐべきだろう。
 屋敷にいるのは、彼女と僕を除くと三人……ということになるらしい。先生、野矢さん、青山さん。野矢さんとはさっき話した。先生は……さっきの様子を見るに、少しこの件からは引いているようだった。だとすると、まだ様子を見ていないのは。
「なるほど、難しいですね」
 青山さんは少し唸る。
「私が話せることは、あくまで私の視点からでしかないのですが……それでもいいでしょうか」
「ええ」
「そんなに彼女のことが気になるんですね。承知しました」
 ちょっとだけ冷かすような笑いに、思わず言い訳しそうになるが、観念して「……ええ。ある意味では」と答えた。案の定、「ある意味。ふふふ」と余計に面白がられてしまった。
「彼女がどういう病気なのかは、正直言って私の頭では完全に理解できていないので、先生にお聞きするのがいいと思います。ただ、彼女は気難しいですから、時期を待った方がいいかもしれません。時には訊いてもいないのに自分から滔々と話すような方なんです。となると……私は、朋佳さんがこの場所に入ってきた頃のことを話しましょうかね。もちろん、これは私の視点からの話です。ここの屋敷という狭い世界にずっといる私の主観ですから、それは注意してくださいね」
 それから、青山さんは注意深く周りを見渡して「場所を変えましょう」と言った。

「ここは私の部屋です」
 連れてこられたのは……屋根裏、とでも言うべきか。とはいえ本当に無骨ではなく、ちゃんと部屋としての体裁が整えられている。意外と寒くはない。暖炉の空気がどこかから来ているのかもしれない。床には畳が敷いてあり、それはなかなか場違いに目立っていたが……視線を察したのか「趣味ですよ」と青山さんは笑った。
「ここで生活しているんですか?」
「ええ。なかなか楽しい場所ですよ。ネズミも虫もこの屋敷にはいませんからね。ここなら、大声で怒鳴らない限りは誰にも聞こえないでしょう」
 誰にも、ともう一度強調して、彼女はウインクした。
「そうですね……朋佳さんは現在十八歳ですが、発症したのは十二歳の頃だそうです。先生と私はこのような病を研究していた学者です。……珠希さんもそうです。まぁ、彼女は入不二家と家に繋がりがあり、私たちよりずっと若いのですが――天才と言うべきでしょうか。先生は脳科学、珠希さんは物理学。私は精神医学。どれも彼女の病気を理解するのに必要な観点です」
「差し支えなければ訊きたいのですが、僕以外に彼女のもとを訪れた人はいないんでしょうか」
「……いませんね。なにぶんご本人のことですので、深くは知りませんが。……ふふ、ますます奇妙ですね。あなたが選ばれたなんて」
「あの様子を見ても、選ばれたとは思えませんけど」
「あら、そうでもないですよ? 彼女は無意味なことはしません。まぁしいて言うなら、ちょっとだけ意固地と言えばそうかも……って、聞かれていたら大目玉なので、黙っててくださいね」
 ちゃんと彼女なりの理由があるんですよ、と青山さんはフォローした。
「理由……?」
「ええ。朋佳さんは、たくさんのことを知っていますから。ただ、ちょっと秘密主義なので、中島さんは面食らってしまったかもしれませんね。でも、きっと大丈夫ですよ。そうだな……」
 こうしましょう、と青山さんは人差し指を立てた。
「私と二人なら、多少は彼女の態度も和らぐかもしれません。彼女の狙いが中島さんを帰らせることだとしたら、あなた一人が勝手に判断して帰ってしまうのが一番狙い通りなのかもしれません。中立の立場の人間がいれば、少しは引き下がらずを得なくなるかもしれませんね」
「ありがたいですが……そこまで協力してくださるんですか?」
「当然です」と彼女は断言した。「人の恋路は応援するのが、私の流儀です」
 ……やっぱり、どこか勘違いされたままだ。

 青山さんはまず「大雪で帰れない」と言うよう僕に提案した。まずは、現在やむなくここにいるしかないことを伝えれば、「帰りなさい」と言われ続けるのを封じることができるからだ。
 彼女は間違いなく昼食に来るから、そこで引き留める。僕一人では無視することもできるが、同じ住人が呼び止めるなら態度を変えるだろう、と青山さんは予測した。
「大丈夫なんでしょうか」と心配する僕をよそに「口実はちゃんと用意してありますよ」と青山さんは自信ありげだった。……どういうことだろう。
 果たして、昼。相変わらず時計がないのに、よく各自がぴったり揃うな、と驚く。先生に特におかしなところはない。野矢さんは……どうだろう。横目で見た瞬間、ふいに目が合ってしまう。動揺を悟られたのか、彼女はまた小さく口笛を吹いた。自分の演技の才のなさに呆れる。邪魔はしないだろうけど……幸先は微妙だ。主に青山さんに喋ってもらった方がいいだろう。僕が目配せをすると、彼女は小さく頷いた。
 食事が終わった帰りがけ、彼女が席を立つのを見計らって、青山さんが呼びかける。
「食後にお茶でもどうですか?」
 彼女はそれに「いいです」とそっけなく返す。しかし、青山さんは追撃する。
「お菓子を用意していますよ」
 その一言で、足が止まった。
「分かりました」
 ……こういうことなのか。

『お菓子』という言葉とは裏腹に、それはなかなか豪華だった。正式な名称が分からないが、ティータイムの風景のイメージでよく見かける、トレイが上下に二つついた籠状の食器の上に、綺麗にケーキやシュークリーム、ティラミス、果物などが置かれている。何の料理なのか説明できないものもある。洋菓子に対する語彙力は、残念ながら僕にはない。これ、青山さんが全部作ったのだろうか……?
 濾された紅茶が各自に回る。
「……」
 しかし、この少女の心中は複雑なようだ。
「青山さん、どうして彼がここにいるんですか?」
「言った通りですよ」と涼しい顔で青山さんは返す。「大雪で、このまま帰れば遭難です。先生が帰られてから、積雪はどんどん増えています。今は自動車もだめでしょう」
「だからといって……」
「来客の方に茶菓子を用意するのは、マナーですよ」
 その言葉で返答に窮したのか、じろりと視線が僕に向く。思わず身が引き締まる。しかしどうやらあっさり諦めたようで、黙ったままフォークを口に運び始めた。
 これで少なくとも、同じ空間にいることは成功した訳だ。
「BGMにレコードでもかけましょう」と青山さんが立ち上がって、棚に並んだスリーブから一つを取り出し、慣れた手つきでプレイヤーのターンテーブルに乗せる。……回り出す円盤に針を落とす。
 流れてきたのはアコースティックギターの音。アルペジオとともに、細い声質の歌が始まる。
「何のアルバムですか」
ニック・ドレイクの『ファイブ・リーヴス・レフト』ですよ。落ち着く曲がいいでしょう。リラックスした方が、歓談も盛り上がるのではないですか?」
「……私は患者だよ」と不貞腐れたように少女は言い返す。次の抵抗に出たようだ。「ここの主じゃないし、あなたは一応、看護師でもある」
「しかし、私にとってはお客さんです。お見舞いに来てくださったのですし、お二方がリラックスしてお話しできるようにするのは当然の務めです。それに――」と言葉を区切ってから「朋佳さんが呼ばれたのですよね?」
「……」無言の圧力が、青山さんにかかる。
「ですよね?」笑顔。
「……」さらに無言の圧力。
「そうですよね?」
 数秒間の緊張ののち――折れたのは、少女の方だった。
「……分かりました」と肩を落としてから、彼女は僕にぶっきらぼうに言う。「何でもいいから言ってください。話したいんでしょう?」
 ついに、話をすることができる。僕は心の中で快哉を叫んだ。……そして、その直後に思う。
 ……何を話せばいい?
「あ、その……」
「敬語は使わなくていいです」
 真っ先に出鼻をくじかれる。
 とどもりながら、必死に頭を働かせた。せっかくの機会、無駄にするわけにはいかない。そうだ、何かあるはず――あ。
「呼び方」
「え?」
 明らかに、彼女は不意を突かれていた。
「『なんでもいい』って言ってたから。少し考えたんだ」
「……」
「もしも嫌だったら変えるけど――朋佳さん、って呼んでいいかな」
 僕はそう提案した。
「僕のことを『弘樹さん』って呼んでたでしょ? じゃあ、僕も気軽に呼ぼうかな、って。呼び捨てだから、初対面にしてはちょっと失礼っぽいし、もし嫌ならちゃんと丁寧に――」
「……いや」
 僕のフォローを、彼女は遮った。
「『朋佳』でいいですよ」
「本当に?」
「それでいい。――いや、それがいい」
 そう口走ってから、彼女の目が泳ぐ。無意識に言葉が出たのだろうか。
 また数秒間の気まずい間があったが、「……そうして」と、もう一度言われた。それから、諦めたように少し笑った。
 笑った。
 見間違いじゃない。確かに薄く笑っていた。それはここに来てから初めて見た彼女の笑顔だった。そうしているだけで場が穏やかになる、今までが嘘のような笑みだった。
「いいよ。弘樹さん。帰るまでよろしく」
「うん、よろしく」
 まだ僕を帰すのには拘っているようだが、渋々ながら少しは関係を近づけることができたようだ。第一歩……だろうか? とはいえ、まだ僕を呼んだ理由は何も分かっていないに等しい。
 僕の不思議な衝動は消えていない。もっと彼女のことを知りたい。特に、あの笑顔を見た後ではそう思うのも当然だと、自分に言い聞かせた。
 そう。もし言葉で表すならば、それは綺麗で。可憐で。でもどこか懐かしくて。そして――
 少し寂しげな、微笑みだった。
 ……アルペジオは、まだ続いている。

 三人で応接間を出てから、部屋に戻っていく朋佳の後姿を尻目に、僕たちはこっそりと安堵の声を上げた。
「ちょっとびっくりしましたが……うまく行ったようで、何よりですね」
 青山さんはほっとしたようだった。一見冷静でも、内心はらはらしていたのかもしれない。
 はぁ、と二人して胸を撫で下ろした瞬間、ふいに朋佳が足を止めて「どうしたの?」と僕らの方を向いて訝しむ。
「なんでもありませんよ」と青山さんは微笑む。
 それに朋佳は「そう」とだけ言って、また歩き出した。

 階段で青山さんと別れて一人になったあと、二階に上がる。とりあえず夜まで部屋でゆっくりしよう――そう思い、廊下に足を向けたとき。
「朋佳ちゃんとは、打ち解けたようだな」
 左横から声をかけられて振り返ると、先生が壁にもたれかかったまま、こちらを見ていた。
「どうしてここにいらっしゃるんですか」
「問診に来たんだよ。一日いちど、彼女と珠希を診ているんだ。とはいっても大したものじゃない。……健康診断みたいなレベルさ。それで、終わってから書類を確認していたらちょうど君が来たわけだ。まさか、待ち構えているなんて思わないでくれよ」
 そんなことをするのは珠希だけだ、と先生は疲れたように言う。野矢さんはするんだな……。
「でも、それならどうして知っているんですか? 先生は僕たちとは違うところにいたと思うんですが」という僕の問いに、彼女は「この屋敷で隠し事はできないんだよ」と言うので、またか、と思ったところで「冗談だよ」と笑われる。「君、確かに面白いな。珠希が気に入るのも分かる」
「……そうですか」
「ま、種明かしをすると、朋佳ちゃんの様子を見てすぐ分かったのさ。……そうだな、意外とすぐそういう変化が顔や態度に出る子だからな」
 そうだろうか。そこまで激しく変わってはいなかったと思うけど。もしかしたら、かかりつけの医師にしか分からない機微もあるのかもしれない。
「まぁよかったよ。彼女にもいい影響になるだろう。それは確かだ」
 そこまで言ってから、ただ――と言葉を区切ってから、僕の方を見る。
「一つだけ忘れないでほしい。彼女がここに入所している患者だということを」
「それはそうです」と僕は答えた。しかし、そう言われると、少しばかり納得しきれないものもあった。迷ったが、僕は先生にそれを告げた。
「それならば、もう少し彼女の病気について教えてくださらないと困ります」
 その言葉に先生は、少しだけばつが悪そうに躊躇ったあと、観念したように答えた。
「そうだな――これ以上何も言わず隠し続けるのも不自然だ。……白状しよう。私たちはあの子から、自分の病気について詳しく君に伝えないでほしい、と口止めされている」
「口止め……って」
「そうだ。前もってあの子がそうしてほしいと言っているんだ。少なくとも『私がここにいる限りはそうしろ』と。だから、私から勝手なことはできない。他の二人も同じだ。もちろん、彼女自身が話したくなったとしたらそれは別だがな」
 ……だから、夕食の時に先生は黙っていたのだろうか。
 だが、そうならばなおさら困惑することも出てくる。
「それならなぜ僕を呼んだんですか? 見舞いということでまだ納得していたんですが、病気のことを隠したくて、帰れとまで言われて、まったく意味が分からないんですが」
「それも当人のことだとしか言いようがない。もちろん君がそれに付き合ってやる義務もない。我々は他人の言動をすべて理解できるわけではない。ただ、それを見て解釈したり、自分がどうするかを決めていくんだよ。……無論、君が彼女のことを知りたいというのなら、私たちもできる限りは応じる。だが、個人情報のことは本人の意思がすべてだろう。私に決定権はない。それとも、それをわざわざ破ってまで知らなければいけないほど緊急の理由があるのかい?」
「……それは」
「物見遊山だというなら、それは褒められたことではないな」
 そうだ。僕は部外者だ。理不尽に感じるのなら、これ以上関わらなくてもいいのは当たり前のことだ。それでもここにいたいのなら、彼女に従うしかない。
「それに」と先生は付け足す。「……誰かを知りたいと思うことは、それだけ自分を離れ、場合によってはないがしろにすることでもある。君にはそれでも足るほどの強さがあるかい?」
「どういうことですか」
「人に踏み込むということは、ある意味で弱さの証明になりかねない。私はそれが不安だ。いつか君にも分かるだろう。分からざるを得なくなるだろう」
「……」
「まぁあまりにも重々しくは考えなくていい。事情はよく知らないが、基本的には仲良くするのはいいこと……私はそう思う」
 医者として一応言っておいただけだ、と言うと、先生は去っていった。

 彼女の言葉はその後も心に引っかかり続けたが、しかし翌日、そんな思考を打ち切るようなイベントが起きた。
 今度の発起人は、野矢さんだった。
「ねぇ、ちょっといいかな?」
 目が覚めてようやく動く準備ができてきたところで、彼女は僕の部屋にやってきた。
「どうしたんですか」
「いや、どうもしていないね」
 例によって、当意即妙の返しだった。
「私の行動に大した理由なんてないよ。今も、ただすることがなかったからちょっかいをかけに来ただけだ。分かるだろう?」
「……そうですね」
 ここに来てから思っていたが、この人と話すのはちょっとばかり苦手かもしれない。なんでもお見通しのようでいて、思わせぶりに振る舞っているだけにも見える。そういう人と話すと、すごく不安になる。まるで自分が品定めや採点をされているような、そんな印象だ。
「まぁ、とはいえ」と言いながら彼女は一周ほど部屋の中を回ってから、「目的がまったくないというわけじゃない」と僕の方を向く。
「また朋佳ちゃんのことが、気になるんだろう?」
「それはそうです。僕を呼んだ理由が、まだ分かっていませんから」
「なるほど。確かにそうだ。でも、君にはどうやら探究心のようなものがあるみたいだね」
「……そうかもしれません。確かに、普通の人間なら、そもそもここには来ない」
「『普通の人間』なら、ねぇ」
 野矢さんは、相変わらず含みを持たせる。
「そう。普通ではないというのは本当だ。ある意味で、君は正気じゃない。伊達や酔狂の類というレベルじゃないね。中島くん。――君は、おかしいんだ」
 普通ではない。おかしい。異常。正気では、ない。さらりとそんなことを言われたら、普通は戸惑うか怒るかだろう。けれど、そのとき僕は、何も反応できなかった。
 虚を、突かれた。
「間違いなく、どこかがおかしいんだ」
 そう言った彼女の態度は、少しばかり先ほどより真面目な気がした。
「なんちゃって、ね」
「……」
「さて、君の部屋に来たのはこうやってからかうためじゃないよ。繰り返すけれど、君は朋佳ちゃんのことが気になっている。なぜなら、彼女が自分をなぜ呼んだのかを知りたいから」
 それだけ、ということにしておこう――と、彼女はいちいち付け加えて強調した。
「その第一歩のようなものは、どうやらできたようだね」
「ええ、そうみたいです。少なくとも、対話を拒絶するほどではなくなりました」
「それはいいことだ。好感度が上がったんだね。――おいおい、そんなに面倒くさそうな顔をするなよ。分かった分かった。ただ、これだけではまだ足りないというのは理解できるだろう? せっかくなら、この機を利用するべきだ。ルートに入れるくらいには、フラグを立てないとね」
「最後の意味は分かりませんが……それは、そうですね」
 この次にどうするか。それが問題だ。
「そう。そして私は、その次なるきっかけをこちらが準備するのはどうかな? という提案をしに来たのさ。前にも言っただろう? 協力する、と」
 野矢さんはいちいち芝居ががったように指を鳴らす。お手本のように綺麗な音だった。
 そう聞いて、真っ先に思ったのは。
「ありがたいですが――どうして、そこまで協力的なんですか?」
「人の恋路を応援するのは当然のこと――だろう?」
 悪戯っぽく笑う。この人は、本当にどこまで知っているのだろうか。いや、ただ単に、青山さんの口が軽いだけかもしれないが、そうではないと思いたい……。
「まぁ冗談はほどほどにして、私は君と朋佳ちゃんが仲良くなることに賛成なんだ。だってその方が面白いだろう? 首を突っ込みたくもなるものさ。……ともあれ、私が具体的にやることと言えば――」
 それから野矢さんは、自分のプランを話した。

 そもそも野矢さんと朋佳の関係性が想像できないので、一抹の不安がある。二人の性格は、今までの少ない手がかりを見ている限りでは、まるで正反対のように思えた。だから、そもそも二人が話している様子自体があまり想像できない。
 それとなく「仲はいいんですか」と訊いてみたが、彼女は「どうだと思う?」と言ったまま答えない。……どこまでも遊ばれている。本当に信頼してよかったのだろうか、と不安が増す。
「まぁ、見ているといいよ」
 彼女の余裕さは、青山さんとはまた違った種類に感じられた。

 野矢さんは「まず、君は少しだけドアを開けたまま見ていてくれ。私が右の爪先で床を叩くから、それまで廊下に出ず、声も立てないように」と言ってから彼女の部屋をノックして開け、「朋佳ちゃん、ちょっといいかな」と声をかけた。
 それに対する朋佳の反応は意外だった。
「なんでしょう?」
 その声は、今までに聞いたことがないほど明るくリラックスしているように感じた。少々呆れているような声音が、むしろ二人の信頼を裏付けるような、そんな印象だ。
「どうだい? ちょっと暇なら私と一戦交えないかい」
「何をやるんですか?」
「私は何でもいいよ。いいかい?」
「いつでも受けますよ」
 いたく自信ありげな反応が返ってきた。出てくるのか、と身構える。……果たして、そのままドアが開く。朋佳が歩き出し、さりげなく後ろの野矢さんは扉を閉めた。そして――爪先で、床を叩いた。
 唾を飲んでから、意を決して廊下に出る。演技がさほど上手くないのは分かっていたから、とにかく何も言わず、何も意識しないよう努めた。ただ頭の中を真っ白にしたまま、ノブを押してから足を数歩運ぶだけ。
「行きましょう。き……」と言いかけてまもなく、二人がこちらに気づく。
「……珠希、どういうことですか」
「お、奇遇だね」
 野矢さんは白々しく驚く。
「ねぇ中島くん。これから二人でアナログゲームを使用かと思っていたんだけど、何ならキミも参加するかい?」
 その無茶ぶりに、朋佳は大きく困惑した様子だった。「あの、珠希」
「なぁ朋佳ちゃん、面白そうだろう?」
「いや、私は……」
「いいじゃないか。家に帰らせたいなら、ボコボコにして打ちのめさせればいい」
「……」
 明らかに、野矢さんに押されている。青山さんの例といい、この子は意外と脆いのでは……? という、いらぬ危惧が湧く。いや、別の一面が見えてきたのは大事だけれど。
「中島くん。君はどうだい?」
「……はい。よろしくお願いします」
 どうなることやら。

「ここでは娯楽が少ないし、二人でゲームをすることが多いんだ。青山さんは忙しい時もあるし、あの人は気が回るから、人に合わせて腕を変えるんだよ。まるでCPUさ、まったく……」
 その気持ちは分からないでもないが。
「それじゃあ楽しくないだろう? 生憎私と朋佳ちゃんは手を抜けない性質でね。とにかく、もう何度も二人でぶつかっている。だから相手の手の内がもう知れてしまっているのさ」
 連れられた一階隅の遊戯室(そんなものがあるのか?)はそれなりに広く、中央にはビリヤードの台があった。誰が使うんだろうか?
 その近くに、正方形の机を囲んで、四つの椅子が並べられている。僕たちはそこに腰を下ろした。野矢さんはさりげなく、僕と朋佳が対面になるように誘導した。
「そうだな……まず三人でできるもの。かつ、中島くんは初心者だから、ルールのわかりやすいゲームがいいだろう。ブロックスはどうかな? 四角い盤面にピースを置いていくゲームさ。すぐわかると思うよ。朋佳ちゃんもいいだろう?」
「……ええ」
 僕が「よろしく」と言うと、朋佳は「せいぜい頑張ってね」とだけ呟いた。「あなたがどんな手を使うかは、全部知ってるけど」
 そんな、謎めいた言葉を残して。

 確かにブロックスはシンプルなゲームだ。オセロのようにマスで区切られた盤の上に、自分の色のピースを置いていく。
「まず、最初のピースは四隅のどれかに接触するように置かなければならない。その次の周からは、自分の色のピースと頂点で繋がるように置いていく。今回は三人なので、余った色は一周ごとに交代で担当しよう。その色の計算は無視する」
 手元を見ると、様々な形のピースがある。これらをルール通りに置いていく……ということか。「注意するけど、辺同士を接触させてはいけない。これが大原則だ」
「だったら、当然ですけど盤には三人全員のピースは全部置けないですよね」
「そう。だから置けなくなった人はゲームから抜ける。全員が置けなくなった瞬間にゲーム終了。それで、置けなかったピースのマスの数だけ減点です」と朋佳が口を挟んでから、慌てて黙る。
「朋佳ちゃんの言う通り。ただ、全てのピースを全部置けると一五点プラスなので、アドバンテージになる。もっとも、それを目指すゲームにはならないだろうがね」
「……どういうことですか?」
「やればわかる」

 このゲームは一筋縄ではいかない。妨害ができるのだ。頂点が繋がらないよう相手が僕のピースを遮断すると、すぐに危機に陥ってしまう。さらに、三周に一度空いている色のターンが回るので、余計にややこしくなる。ちっとも置かないままに、あれよあれよという間にゲームが終わった。
 朋佳は、すべてのピースを盤面に置き切った。
「やられた――と言いたいが、あまりに中島くんが下手にやりすぎたんだな。まったく、いくらなんでも、もう少し頑張ってほしいものだ。こういう相手とプレイしても楽しくないぞ」
「……」返す言葉もない。朋佳はさも当然のように「予想通り」と追い打ちをかけた。それでも手を一切抜かないのは、彼女なりの流儀なのだろう。
「どうだい? 帰る気になった?」と野矢さんに言われて「……もう一回やらせてください」と答える。
 少しばかり、本気になりたくなった。

 結局僕は最後まで負け倒しだったが、それでも最初よりはかなり減点を減らした。だからこそ、悔しさもあるのだが……。
「そういえば、先生はこういうのをやらないんですか?」と僕が訊くと、野矢さんは「分かるだろう? 昔からあいつはああいう性格だから」と頭を掻く。「それに、私とやると大喧嘩になりかねないからな。ここに来てからも、毎晩あいつは仕事をしているから、何度かこういうゲーム誘ってやったんだけど……私情を挟まないのは常識なのに」
 すかさず「珠希がお金を賭けるからじゃないですか」と朋佳が突っ込む。「こういう人だから」と僕に話しかける。応じながら思った。こんな風に僕に向けて人間として喋ることすら、大きな進歩じゃないか。ここに来てから二日にしては、意外とすぐ打ち解けられたのでは――
「帰る気になりました?」
 その一言で、現実に引き戻された。

 それでも僕は「いや」と言った。「次こそは、勝つよ」
 その言葉を聞いた朋佳は、「……そう」と、少しだけ俯いた。

3 - メルトダウン

 野矢さんの策謀の効果はてき面だった。
「おはよう」
「――」
 こくり、という頷き。
 次の朝から、朋佳は僕に挨拶を返してくれるようになった。これも些細なことではあるが、やっぱり嬉しいものは嬉しい。相手が自分を人間として扱ってくれることが、これほどかけがえのないものだとは思っていなかった。……無論、それは一人では達成できなかっただろう。あの二人には感謝するしかない。
 でも、だからといって焦ることはない。
 食事の場で、以前よりも自然にちょっとした話もできるようになったからだ。
 空いている時間は何をして過ごすのか訊いてみると「部屋ではいつも本を読んでます」と言った。「あと、……いや、いい。そんな感じです」
「そうなんだ。ここにはどれくらい本があるの?」
「少し学術書が多いけれど、書庫に行けば嫌と言うほどあります。見てくるといいですね。読む気も失せると思いますよ」
「それじゃ意味ないじゃん」と思わず言ってみたら、彼女は少しだけ口元を緩めた。なるほど、これはジョークだったのか。少しずつ分かってきたかもしれない。
「それなら」僕は勇気を出して、また大胆な提案をしてみた。「もしよかったら、ちょっと案内してくれたら……なんて」
 若干の間の後に「……分かりました」と承諾があった。

 三部屋分くらいをぶち抜いたそこは、学校の図書室よりいくらか大きい。だが天井も高く、そこのいっぱいまで本棚がそびえているので、確かに蔵書は数えられないくらいだ。いちばん上の段とか、どうやって取るんだろう。
 その疑問を察したのか、朋佳は部屋の隅にある台を指さした。それでも彼女の身長ではなかなか怪しいかもしれないが……と思っていたら、さっそく台を持ってきて、本を取ろうとした。でも少し危なっかしい感じだ。右腕をいっぱいまで伸ばしているが、いいところで背表紙をひっかいて、失敗する。
 何度目かのとき、身体の芯がふらふらしているのに気づいた。彼女の左脚が台の縁からはみ出そうになっている。落ちる!
「あ――」と彼女は抜けた声を出したが、間もなくバランスを崩して、後ろ向きに――
 そのまま僕は、彼女の身体を抱きかかえた。
「……なんで」と、本棚と僕の顔をきょろきょろ往復する視線。
「危なかったから、後ろで構えてたんだ」
 僕の腕の中に納まった彼女の身体は、ひどく軽くて、身構えていたぶん拍子抜けするほどだった。
「怪我はない?」
 彼女は「たぶん。大丈夫です」と言ったが、まもなく少し顔を歪めて、こめかみを抑えた。頭を打ったのかと心配したが、やはり「大丈夫」と繰り返した。
「少し、立ちくらみがしただけだから……」
「なら、よかった」
「その」と言いかけて視線が泳いでから、逃げられないのを悟ったかのように彼女は横目で小さく「ありがとうございます」と言った。
「……あの」
 その様子に見とれていた僕は「ごめん!」と慌てて身体を下ろした。
 僕から離れた朋佳はそこで一度何かを拾うように屈んで、素早くそれをしまう。何だったのだろう。
 それから僕に後ろを向いたまま、黙りこくっている。
「どの本か教えてくれたら、僕が取るから」
 そう声をかけたが、反応がない。
 訝しみながら顔の前までやってきたとき、我に返ったかのように、彼女は「――!」と、びくりと震えた。相手もまた、我を忘れていたようだ。
「あ……あんまり気にしないでいいよ」とフォローしてみるが「分かった」とだけ言うなり、彼女は他の棚の方に向かってしまった。途中で足を止めて、本の名前を告げてから、本棚の陰に消えていった。

 彼女に言われた本を取る。それはレイモンド・チャンドラーの『ロンググッドバイ』。
 これを彼女は読みたかったのだろうか?
 でも、帰りがけに僕がこの本を渡そうとすると――「いいです」と言って僕に返した。
「そっちが、持っていて構いません」
 ……もしかすると、僕に本を選んでくれたのではないか。そう気づくのに、しばらく時間がかかった。
 それから僕は暇を見つけてこの本を読み、時間を潰した。

 雪は止まず、いつ帰れるかの目途は一向に立たなかった。青山さんによると電話も繋がらず、僕たちは連絡手段も絶たれてしまっていた。ちなみに来た時から当たり前に察していたが、この建物にインターネットは最初から通っていない。
 数日間、僕たちは三人でゲームに興じながら、ほんの少しずつだが打ち解けた。まず、僕が野矢さんに抱いていた気まずい抵抗感のようなものが、かなり薄くなっていることに気づいたときは驚いた。
 彼女はすごく博識な人だったが、それは非常にバランスの悪いもので、科学――それも専門範囲に限られていて、社会常識と呼べるものがおよそ欠如していた。現在の消費税率や年号さえ把握していなかったのだ。
 彼女はすこしだけむっとしたように「うろ覚えだけどシャーロック・ホームズも確か言っていたよ。えーと、惑星の数がいくつだか知っていようが、私が生きる上では意味がない、と」と反論した。僕は野矢さんのそんな側面を見ることができて、なんとなく嬉しく感じた。それを悟られたのか、またしても野矢さんはむくれた。
 こういうやりとりができることが、なんだかもう微笑ましかった。

 先生はそんな僕たちの様子を黙って見ていた。それは温かくはなかったが、冷ややかでもなかった。

 朋佳もまた、言葉とは裏腹に、見違えるように明るくなっていった。表面上は取り繕っているつもりかもしれないが、声色や表情ですぐに察することができる。あるいは……それが分かるほどに。僕が彼女に慣れてしまったのかもしれない。……それでも、自身の病に関して一言も発さないのは、徹底していたが。
 距離感を縮めることがいいことなのかは分からない。彼女がある程度心を開くようになってから、逆に疑念が湧いてくるようになってしまったかもしれない。やはり自分は何かよくないことをしたのでは、という気がしてきた。その強引さは、決して褒められた感情ではないのかもしれない。
 だから、僕はそれに決着をつける機会を伺っていた。

 とはいえ、そのチャンスは、またしても予想もしない形でやってくることになる。

 その夜はここに来てから特に雪が強かった。療養所の建物全体が揺れ、風でがたがたと窓枠が音を立て、割れるのではないかと怖くなる。照明も激しくちかちかと点いたり消えたりを繰り返すので、消灯して真っ暗なままにしておくほかなかった。大丈夫なのかと思ったが、これもまたよくあることなのか、誰も起き出してはこなかった。まさか無理に起こすわけにもいかないだろう。
 これではできることも何もない。大人しく眠ることに努めよう、と、ベッドで身を縮めた。とはいえあまりにも寒い。普段は一階の暖炉の暖気があるが、もちろん火事の危険があるので四六時中燃やしているわけにもいかない。
 身体が芯まで冷えていく感触の中で、急激に温度が恋しくなる。それも人工的なものではなく、どこかで、血の通ったものを望んでいたのかもしれない。
 ホームシックというわけじゃない。住まいにも実家にも郷愁は感じない。むしろこの場所の方が落ち着いていると感じるときさえある。ただ、それでも、何かが足りない気がしていた。いや、それは足りないんじゃなくて、むしろ欠けているような――
 そこまで考えたところで、ようやく睡魔が訪れた。

「――」
 まどろみの中で、強風の隙間から、聞き取れないほどの微かな音が聞こえる。
 昔どこかで、様々な音の中で特定の人の声だけ――たとえば、自分の話をしている場合など――が聞きとれる、というカクテルパーティー効果の話を聞いたことがある。それが嘘なのか正しいのかは知らない。ただ、僕の耳に聞こえていたのは幻聴ではなかった。
「ねぇ」
 そして、今度ははっきりとその音が言葉の形を取った。
「起きてますか?」
 その声が誰のものなのかは、すぐに理解できた。目を擦ると、彼女が床にあおむけのまま、ベッドの側面に背中を預けているのが見えた。
「どうも」
「ええ」
 お互い呼びかけ合って、そのまま黙る。
 ……考えてみれば、今まで二人っきりで話したことは、まだなかったはずだ。だからこそ、こんなにも緊張するのだろうか。
「どうしてここに?」
「別に」
 また、そこで会話が終わってしまう。でも、こうしてわざわざ僕の部屋まで来たのだから、意味があるはずだ。青山さんが言っていたことが正しいならば、この子がすることには間違いなく意味がある。
 それなら、今がまたとない好機だろう。そう判断して、口を開いた。
「聞いていい?」
 無言を肯定とみなして、先に進む。
「君の手紙を読んで、僕はここに来たんだ。それも変な手紙だった。でも、僕は言われるがままに来てしまった。考えてみたんだけど、やっぱりこれって変なんだ。でも、僕は君のことにすごく……興味がある。それは好奇の目というわけじゃない。ただ……いや、自分でも何を言っているんだろう。まとまってないな。ただ、帰ってしまったら、すごく大事な……そう、何かの縁みたいな……そういった何かを失ってしまう気がしていたんだ」
「……」
「実はさ。小さい頃の僕、あと一歩で事故に遭うところだったらしいんだ。……何でこんな話するんだろ。家族旅行で乗る飛行機が墜落して、大勢の人が死んだ。僕もその中に入るところだったんだ。どうして乗らなかったかは分からない。僕が嫌だと言ったからだと、家族は言っている。でも記憶がないんだ」
 変な話だろ? と僕は笑ってみせる。
「人生っていうのは、ちょっとした判断の差でも取り返しがつかなくなる、という例だよ。だから今チャンスを逃したら、きっと一生後悔するかもしれない。それが僕の気持ちだ。身勝手でごめん。でも、その上でひとつだけ訊きたい」
「……どうして私がここに呼んだか、なぜ帰れと言っているか――そういうことですか?」
「いや」と否定した。「そういうことじゃない」
「え?」
「訊きたいのは、君がこれからどうしたいかだ」
 僕がこの場所にいることを許すのか。
 それとも、やはり僕を帰したいのか。
 どちらか、その意思を訊きたかった。
「先生に言われたんだ。誰かに過剰に興味を持つことは、自分の脆さを証明していることなんじゃないか、って。意味は……よく分からない。でも、それでも僕が朋佳を知りたいと思うのは、なぜなんだろうね。それでも、その行いがが君にとって大きな迷惑であるのなら――僕は」
「……」
「それに、今度こそ従うよ」

 ――どれくらい経っただろうか。
 ここには時計がないから、針の音で確かめることもできない。人間の時間感覚は曖昧だ。ほんの十数秒だった気もするし、数時間かかった気もする。
 彼女は慎重に考えているはずだ。
 あるいは言葉を選んでいるのか。
 あるいは迷っているのだろうか。
 あるいは、何も考えていないか。
 ……それでも、最終的には、口を開いた。
「言わなきゃいけないことがあります」
 弱弱しく、歯切れの悪い呟きだった。
 今まであらゆる謎が隠されてきたし、手がかりや証拠になるようなことも一切見つからず、ただ不可解だけがあった。だから、ここですべての核心が開かされることに、身構えられていなかった。
 それは、想像すら不可能だったからだ。
 だからこそ、固唾を飲んで見守るしかなかった。
 そして、僕は告げられる。
「私、たぶんだけど、今が最期の瞬間なんでしょうね。なんとなく分かる」
「え……」
「でも、もういいんですよ。どういう意味か分からなくても。幸せでした。最後に言います」
 そして微笑む。

「ありがとう」

 そして、まもなくすべてが壊れた。
「――――――っ、あああああああ!」
 朋佳は叫んだかと思うと、ばたりと力なく床に倒れ伏した。そのまま彼女はピクリとも動かない。死体のように、動かない。
 あたりは死んだように、静かになった。

 

4 - シャーロット

「朋佳‼」
 揺すって呼びかけても応答はない。とはいえ、彼女を放置したまま助けを呼ぶのも躊躇われる。どうするか必死で頭を回転させると、先生は夜でも仕事をしている――という野矢さんの話を思い出した。
 僕は彼女を両手で抱き上げると、そのまま一階まで運んでいった。

 先生の態度は非常に冷静だった。
 急いで処置が始まる。彼女に何が起きているのかは、先生にはある程度理解できているようだった。まもなく青山さんも呼ばれ、「君は待っていてくれ」と言い残したまま、彼女は担架で運ばれていった。
 僕は無力だった。今ここで、彼女にできることなど何もなかった。

 数時間後、ようやく僕は青山さんに先導されて、朋佳と再会した。
 彼女の容体はある程度快方に向かっているようだったが、未だに意識は戻っていなかった。
 初めて通された真っ白な大部屋で、人工呼吸器(そんなものがあったなんて、知りもしなかった)や点滴、それから僕には理解できないいろいろな器具に繋がったチューブ――それらをつけられた彼女が横になっている。
 この建物にもっとも似合わない、近代的で真っ白な、室名も書かれていない大部屋に入ると、先生と野矢さんがいた。――この療養所の住人全員が揃った。僕たちは、ベッドに横になった朋佳を囲うように立っている。
 朋佳は、倒れたときと同じ状態のまま、身じろぎひとつしない。
 
 先生はポケットをまさぐってから手を出して首を捻ったが、それきり立ったまま黙っている。
「説明してください」と僕はにじり寄った。
 じっと僕の方を見る彼女は、何も言おうとしない。
「もう、これ以上無視することはできません」
 感情を押し殺すように、続ける。
「僕は今までいろいろなことを隠されてきました。実際、僕についての疑問は何一つ解消されていません。先生は、僕が彼女について知ることに何か意味があるのか、と訊きましたが――今では間違いなく断言できます。僕は彼女の友人です。だから聞かせてください」
 それでも先生は引かなかった。
「後悔するぞ」
「構いません」
「それを彼女が望んでいないとしても?」
「そうかもしれません。でも――」
 そこで僕は、ついに限界になった。

「いい加減にしろと言ってるんです!」

 僕は三人を交互に睨みつける。
 全員が、ひどく暗い表情をしている。先生だけではなく、いつも朗らかな青山さんも、常に余裕を崩さない野矢さんも。
「あなたたちに心配される筋合いなんてありません。僕は彼女から何かを打ち明けられるところでした。やっと――やっとです。そう、ようやく心を開いてくれたんです。なのに、こんなのないじゃないですか。あなたたちは、そうやっていつもいつも人をはぐらかして、都合よく彼女の意思を代弁して逃げてばかりです。こんなこと、もうやめにしましょうよ。僕は、もう朋佳にとって、赤の他人ではありません。たとえ彼女が何と言おうと、僕にとって、大切な人なんです。だから――」
 黙っていられなくなったのか「香苗」と野矢さんがついに口を開いた。
「もう、その時だ」
「……」
「彼の言うとおりだ。お前の秘密主義に私たちは今まで付き合ってきた。だが、もうそんなことをやっている場合ではない」
「それで、彼が一生消えない重荷を背負うとしてもか⁉」
 ……先生が、感情をあらわにした。
 それは、恐らく僕が見てきた中で、今が初めてだった。 
 だが、野矢さんは動じなかった。
「それを議論するのは、私たちじゃない。彼だ」
「青山くんはどう思う?」と、先生は青山さんを睨みつける。しかし、彼女もまた気圧されることはなかった。静かに頷いてから「委ねましょう」と、はっきりと声に出した。「彼に」
「……」
 先生は、最後に朋佳に目を向けた。未だ目を覚まさない、彼女に。
 それから――ついに、決意したようだった。

「脳腫瘍」
 そう、彼女は告げた。

「彼女の症状を説明するのはすごく難しいが、君が初めて来たときに青山さんから聞いた話の延長で理解するのが、もっとも分かりやすいだろう。――君は離人症患者の時間について『パラパラ漫画の一枚一枚がバラバラになって、動いているように見えなくなる』と言った。彼女の場合は――もっとひどい」
 さきほどの激情が嘘のように、淡々と先生は話し続けた。
「彼女は、それら一つひとつのページが、てんでバラバラな順序で現れるような――そんな人生を送っているんだ」
「それは――」
 ここで生きていない。
「もっとも、そんな瞬間瞬間ではない。……例えば彼女が九歳だったとする。ある日突然彼女は十三歳に飛ばされる。そしてそこでしばらくが経ったとき、今度は三歳になっている」
「ちょっと待ってください。もしそうだとして……記憶はどうなるんですか?」
「維持されるよ」と彼女は付け加える。「だから、何歳のときでも、精神年齢は若返らない。そちらは通常通りに年を取る。ただ、生きている時間だけが飛び飛びになる」
「じゃあ、その《移動》はどのように起きるんですか? 適当にですか? それとも彼女の意思でコントロールできるものですか?」
「前者だ。タイミングも分からないし、飛んだ先にどれほどいられるかは分からない。ある時期からメモを取っているだろうから、ある程度は把握しているだろうがな。つまり、メモの方は通常通りの時間が流れる世界にいるから、それを見つけるたびに前回どの時間に何日間いたかを把握できる。分かるかな?」
「……また質問させてください。その飛んだ空白の時間を、再び経験することはあるんですか?」
「ない」そう先生は即答した。「だから、通常の人間が一生を一本道で過ごすように、飛び飛びに人生でのすべての時間を生き切ってしまえば、それで彼女は消える。それが死と呼べるものなのかは、定義によるかもしれないがな」
 僕はその場にいる他の二人を、もう一度見た。
「……この説明に、間違いはないんですね」
「ああ」と野矢さんがいい、青山さんも頷いた。
「ここまで僕は、あなたたちが言っていることが正しいという前提で聞いてきましたが、ひとつ疑問があります。先生、その症状は誰が確かめたのですか?」
「基本的には朋佳ちゃんの自己申告さ。一応それに対応しているような症状があり――それが、今彼女を蝕んでいるものだ。それが――脳腫瘍だ」
「ああ」と野矢さんが話を継いだ。「もう少し込み入った話は後回しにしよう。ただでさえ君は混乱しているからな。肝心な話をすると、彼女の腫瘍が、《移動》の症状と関連があるのではないか――そう我々は推測した」
 腫瘍が、病気と関連している……?
「それは証明できるんですか?」
「不可能だ。だから仮説でしかない。ただ――摘出などの手術はここに来る前に行われたが、それでも彼女の申告では《移動》が続いている。だから、もし腫瘍が関連しているとしても、それは原因ではない。副産物としての結果だろう。ゆえに、これ以上の証明は不可能だ」
「だから、最悪のケースでは――すべて彼女の狂言や妄想の類であるという可能性もあります。脳腫瘍による圧迫はもとより、病気に対する恐怖などから起きた精神的な症状であるかもしれない――それが、精神を専門にする私が呼ばれた原因です」青山さんも、またそう語った。
「だから、この病を特定することは困難なのさ」そう先生は結論づけた。「私たちの研究は完全に無視され、嘲笑され、ついにはこんな辺鄙な場所まで追い込まれたというわけさ」
 確かに、彼女たちの説明に矛盾はなかった。しかし、差し迫った問題はそこではない。
「彼女はどうなるんですか」
 三人とも黙り込んだまま。それは、絶望的なものを暗示させた。
「答えてくださいよ」
「……中島くん」
「はぐらかさないでください! 彼女は、朋佳はどうなるんですか! 助かるんですか? ……助からないんですか? はやく言ってください、はやく、ねぇ……」
 哀願するように僕は言葉を続けたが、そこから先は、言葉にならなかった。
「朋佳ちゃんは、最初から覚悟を決めていた」
「……覚悟?」
「そうだ。ここで死ぬという、覚悟だ。だから途中から一切の治療を拒否して、私についてきた。ここにやってきた。この療養所を死に場所にするつもりなのだよ」
 ――部屋の空気がすべて抜けて、窒息しそうだった。
 最初から、彼女は助からないつもりだった。それを分かっていたからこそ、僕に冷淡な態度を取っていたといのだろうか? それなら……僕は、とんでもないことをしてしまったのかもしれない。彼女がもう誰とも親交を結びたくなかったとしたら、それは――
「……僕は」
「はっきり言おう。朋佳の命は、もう長くない。君が来た時点で、いつ倒れるかも分からない状況だった。私たちだって、力になりたかった。だが、たとえ解決する手段があったとしても、彼女は拒否していたんだ。もう疲れていたんだろう。自らの《移動》に振り回される人生に。そして、もしかすると――」
「そもそも、もう彼女は今際を見てしまったのかもしれない」
 そう、野矢さんはぽつりと呟いた。
「え……?」
「だから、もう彼女は、一度人間としての『死』を経験してしまったのかもしれない、ということさ。今この瞬間のように、もう先に死ぬ間際の時を生きてしまったのならば、いつ死ぬかさえ、既に知っていることになる」
「そんな……じゃあ、そもそも今こうやって彼女を延命させているのには、何の意味もないってことですか? 全部、運命みたいに決まっているって言うんですか? ふざけないでください。そんなの、そんなの……」
「中島くん。一旦落ち着いてくれ。我々は――」
「うるさいっ!」
 僕は叫んでいた。
「朋佳を救う方法は何もないんですか? 本当に? 本当にないんですか? 僕にできることは、こうやって彼女が死んでいくのをただ見ているだけなんですか? こうやって呼ばれて、人の死に目を見るために、僕はここに来たって言うんですか? 傑作じゃないですか。僕がこんな道化だったなんて。……ああ、分かったかもしれません。あの手紙は、そもそも朋佳のものじゃないんですね? あなたたちが、勝手に用意したんでしょうね。彼女を看取らせるためですか? 自分たちはそれを隠して、僕に押しつけるためですか? どうして僕を選んだのかは知りませんけど、まぁそんなのもうどうでもいい――僕のことはどうでもいいです。ただ、そうやって自分たちだけは手を汚さないで……僕が何もできないのを知っていて、朋佳の人形として用意したんですよね。僕は、僕は――それを知っていたなら――なんて馬鹿なんだ」
「中島さん」と青山さんがかけ寄って僕の肩を揺するが、「放してください!」と怒鳴って振り払った。その瞬間に、
「しっかりしろ!」
 ――先生が初めて、感情をあらわにした。
「私たちにできることがあると思うか? 彼女は死を選んだ。言ったはずだ。君に強さはあるかと。私たちにはあると信じている。君は何様だ? 朋佳にとっての何なんだ? それを冷静に考えるんだ」
 朋佳のもとに駆け寄ろうとした足が、その言葉で止まる。
 僕は。僕は、僕の弱さは――
 ――その瞬間、激しい頭痛に襲われ、視界が真っ白になった。

 目を開けると、木目の天井が映る。
 僕は横になっているのだ。どこに? そう、ベッドに――そうだ。僕はさっき、あの部屋で朋佳を見ていて――それで、三人から話を聞かされ、僕は意識を失って。
 そして、ここにいる。
 誰かが運んだのだろうか。青山さんかもしれない。
 どれくらい前のことなのか分からないが、先ほどを思い出す。
 僕は我を失っていた。自分でも、そう思う。
 けれど、まだ絶望するつもりはなかった。いや、――そうしなければ、もう潰れてしまう。
 滑稽だ。幼稚なヒロイズムだ。女の子を救うなんて、今どき三文小説でも流行らない。それでも、僕には朋佳の存在がすべてだった。
 拳を握り締める。でも、それをどうしたらいいのかわからない。手段もない。ただ、諦められない、諦めてはいられない――熱病のように、浮かされていた。
 部屋は冷えていて、息を吐くと白い煙が微かに立ち上った。ぼんやりとそれを眺めていると――その煙が、ひとつだけではないことに気づいた。
 僕は痛む頭に片手をかけながら、ゆっくりと身体を起こす。そこには――
「起きたかい」
 野矢さんが、いた。

 彼女はあの時の朋佳のように地面に寝そべって、上半身だけベッドの縁にもたれさせている。
「――野矢さん」
「大丈夫かい? あの後君は倒れ込んだから、そのままここに運んでもらったのさ。どこか痛いところはあるかい? 頭を打ったようだし、一応、氷嚢は持ってきたよ」
 この寒さじゃさほど溶けないからね、と言って、僕にそれを渡す。頭? ああ、床にぶつかったのか。その前から頭痛がした気もするが、あまり思い出せない。激高して血が上っていたせいかもしれない。
 しばらく、お互い黙ったままだった。
 やっと口を開いたのは、僕の方だ。
「……どうして、ここに来たんですか」
「聞いてほしい話があるからさ」
 彼女はそう切り出した。
「このことを君に話すべきか、迷った。きっと香苗に言わせれば、朋佳にとって無責任で『弱い』ということになるかもしれない。でも、君の言葉を聞いて思った。君が望んでいるにもかかわらず、このまま彼女を慮って、それを言い訳にし続けるのはもうやめたい」
 それが弱いというならそうなんだろうな、と彼女は小さく息を吐いた。
「だが私たちは秘密主義が過ぎた。だから、私が言えることはすべて話そう。――ただ一つだけ。これを聞いても、後悔しないかい?」
「ええ」
 僕は即答した。
「……分かったよ」
 野矢さんが喋りはじめたのは、こんな内容だった。

 まず、香苗も言っていた通り、私は物理――それも理論方面の人間だ。だからこの病気について語る際も、そういう方向性になるのは承知してほしい。
 さて。どうしようか。
 いくらか話をSF的にしてみたい。その方が分かりやすいからだ。
 まず単刀直入に言わせてもらおう。朋佳ちゃんを救う可能性は――私の見立てならだが――理論上はないこともない。無論言っておくが、理論上だ。これを聞いたからと言って、助かる見込みは変わらない。
 だが、先に言ったように、君にはすべての情報を公開しなければならない。だから話す。
 ――さて、朋佳ちゃんの病は、時間をとびとびに生きてしまう、ということだった。もしもそれが妄想の類ではないとして、四人で話したとき、君は「まるでこんなの運命だ」というようなことを言ったよね。つまり、未来を生きたことがあって、死ぬことさえ知っているならば、それはもはや、決定論――つまり、もうこの人生を変えることはできない、そういうことになる。
 だが、君はこんな場合を見落としてはいないかい?
 たとえば――朋佳ちゃんが、まぁ何歳でもいいが……ある日、ちょっとした怪我をしている状態で目覚めたとしよう。そして次のジャンプで、その一日前に飛んだ。それで、《移動》後の彼女は注意して怪我を避けようとする。すると――どうなると思う? そう、未来は変わることになる。
 つまり、別の世界になった、と解釈できるわけだ。そもそも、彼女が巻き戻った世界は、寸分たがわず同じ場所だろうか? どんなに同じように生きても、必ずその後の自分とずれてしまうんじゃないか? そうなると、何もしなくてもほんの少しずつ違う世界を彼女は生きていることになる。
 だから、この病の患者は単に時間感覚だけが異常なわけじゃないんだ。そもそも、根本的に、生きている『世界』が違うのさ。
 もう少し詳しく、突っ込んだ説明をすることにしよう。そうだね、非常に小さなスケールの世界では奇妙なことが起きるんだ。
 私は雑な人間だから、誤解を生むのを承知で、あまり学問的でない言葉を使うよ。
 イメージでいいから、聞いてね。
 平行なふたつの細いスリットに光を当てると、その後ろには干渉縞という模様ができる。それは光が波だからだ。では電子を一個ずつスリットに向けて放ち、それを合計するとどうなるか? ……それでも、干渉縞は現れる。でも一回一回の電子を観測すると、それはどちらか片方のスリットを通っているんだ。
 でも話は次で繋がるよ。
 一般的な解釈では、波は粒子がそこに存在する確率の幅のようなもので、それを実際に観測(この言葉も厄介だが、まぁいい)すると、そこで場所(と言っておこう)が一点に定まる。これは波が『収縮』したと表現される。とはいえ観測と収縮が繋がっているかは分からない。ただ、そういうことが起きるだけ。よく誤解されがちなので注意するが、これに人間の意志とかは関係ない。人間が意識して何を観測しようと、それは関係ない。
 さて、ここからは私の突飛な推論が始まる。証明する手立てはない――だから、君が与太話だと思うならば、受け流してほしい。
 ある解釈では、波のさまざまな確率は、ひとつの宇宙を別の側面から見た世界によって説明される。勘違いされがちだけど、これは並行世界とは違う。他の時空に他の世界が常時実在しているわけじゃない。ただ、別の側面から見た結果、違う世界のように見えるんだ。
 とはいえ、見ようによっては、その側面が私たちに見えているこの世界と違う――そういう視点も、ありうる。
 さて、次の話題に移ろう。『量子脳理論』という言葉がある。今ではほぼ否定され、疑似科学として激しく攻撃される理論だ。これは、人間の意識を説明するとき、量子現象を用いる考え方だ。素粒子にはもともと意識を生み出す可能性のある性質のようなものが宿っている、と仮定する。次に、脳には微小管というものがあって、ここで量子過程――つまりさっき言った『収縮』が起きることによって、現在私たちが持っている意識が生まれる――そういう仮説だ。難しければ、量子にまつわることが脳の中で起きている、程度でいい。
 ただ、この説には致命的な欠点があるとされる。脳の大きさはどう考えても大きすぎる。また、その他にもさまざまな条件を満たしていない。温度は高すぎ、脳の構造は複雑すぎる。しかし、この理論と提唱者たちは、ミクロではなくもっと大きなマクロの世界でも、量子論で説明できる現象が起きている、と主張する。
 なぜこの話をしたと思う? 私はこれを信じているわけではない。だが、これを時感障害を説明するために、強引に当てはめてみようという戦略さ。
 この病気の患者は、脳に腫瘍が発生する。それがもしも、この量子脳理論と関連しているとしたら? 患者の脳が普通の人間と異なっており、もっと大きいマクロな場所で量子的な現象が起きていると考えたらどうなる? それによって、彼女が時間の中に解き放たれているとすれば?
 そう、それによって彼女に見えている世界は大きく変質し、波の中から粒子を一点に確定させるように、別の場所と時間の人生を生きることができるのかもしれない。
 思い出してほしいが、『収縮』には人間の観測等は一切関係ない。だから朋佳ちゃんのジャンプが自分で制御できず、勝手に起きるのも、説明できるとしたら?
 ……こんな話は出来の悪いSFでしかない。実際、私たちはこの『病』の研究をしているというだけで迫害され、こんな場所まで追いやられることになった。私のこういった理論は、間違いなくトンデモと呼ばれるだろう。……自分だって専門家だ。信じられるかと言われれば――それは、今まで学んできた科学への、冒涜だろう。
 それでもなぜこんなことを考えたのか? それは、朋佳ちゃんを救いたかったからだ。なんとかして、彼女を助けたかったからだ。分かるかい? 彼女は私の友人なんだ。
 だが――逡巡は今もある。こうして伝えてしまった以上、君はなにがしかの危険なことをするのではないか――という危惧がある。それは私の望むところじゃない。だってね。言った通り、私は君のことが、好きだからさ。

 僕は、噛み砕くように彼女の言葉を頭に詰め込んだ。
 正直、話は三割理解できているかも怪しい。
 だが――野矢さんの気持ちは、痛いほどに理解できた。
「ひとつだけ、訊いていいですか」
「ああ」
「朋佳は、このことを知っているんですか」
「どの程度かはわからないが、おそらく。少なくとも、出来事を変えることができる、という事実には、とっくに気づいていると思う」
「なら、彼女はどうして諦めているんですか? それでも見込みがないんですか?」 
「ああ。少なくとも、彼女はそう見積もっている。なぜなら――」
 野矢さんは、振り絞るように、言葉を吐き出した。
「もう、どんな世界でも助からなかったと、自覚しているからだ」
「……」
「いいかい? この病の患者は、一度生きた時間を再び体験することはできないんだ。だから、たとえどんなに今いる世界を改変したとしても、繰り返せばいつか必ず可能性は尽きる。彼女は過去に飛ばされるたびに、別の行動をして死を免れようとした。だが――それは、一度も実現しなかった」
 またしても――運命が現れたというのか。
「香苗が言った通り、もしも人生を生き切ってしまえば、この病の患者の意識も消滅する他ない。それは他の世界でも同じだ。すべての可能性が出尽くせば、彼女は――永遠の闇に消えるだろう」
「じゃあ……その限界は、いつなんですか?」
「おそらく彼女は、もうすぐ――下手をすれば今回だと感じているのではないだろうか。直感としてだが、そういうものを感じるそうだ。実は症状の進行に従って《移動》の間隔はどんどん広がって、回数も減っているそうだ。最初は一日さえ過ごせないことがあったそうだが、この世界では、十二歳からここに来る直前に起きるまで一度も《移動》はなかったそうだ。理由は分からないが、彼女はそれを終わりの予兆だと考えているらしい」
「……」
 僕は、野矢さんの話を聞いてどう思っただろうか。
 絶望だろうか。おそらくは、そうなのだろう。もしかすれば、知る前よりもっとひどい現実を叩きつけられたのかもしれない。彼女がくれたのは、朋佳を助ける方法なんかじゃない。むしろ、朋佳を助けられない理由だ。
 それでも、僕は――僕は、どうすべきなのか。
「ねぇ」
 野矢さんは、言った。
「繰り返すけど、私は君のことが好きだ」
「面白いから、ですか」
「それもあるよ。でも……なんでだろう。まったく知らない人間なのに、君を見ているとすごく楽しくて、嬉しい。そして、悲しい。何かが悲しい」
 彼女はそう呟くと、立ち上がって僕の方を見た。
「でも、今は朋佳ちゃんのことを考えるときだからね。あまり面白くはならないよ」
「……そうですね。でも、まだ待ちます」
「もしかして、彼女が目覚める可能性にかい?」
「ずっと考えたんですけど、話してみなければ何も分かりませんから」
 そうか、と彼女は頷いた。
 それから、ぽつりと声にならない何かを言って、そのまま野矢さんは去っていった。
 口の動き。
 彼女が「朋佳ちゃんを頼む」と言ったように、僕には見えた。

 それから数日間のことはよく覚えていない。まるでコマ落ちのように記憶から抜け落ちている。ただ一つ確かなのは、時間は流れていく、ということだ。それは無情にも、万人に、平等に。
 最後には、彼女だって逃れられない。
 だから僕が祈っていることは、ひどい徒労なのかもしれない。
 それでも僕に諦めるという選択肢はなかった。僕は彼女が目覚めないという可能性を信じなかった。あるいは……単にその祈りに依存していただけなのかもしれない。
 けれど、結論だけを言えば。
 神様は、いた。

 部屋に飛び込んできた青山さんから話を聞き、狂ったように走って治療室に向かった僕を出迎えたのは、上半身を起こした朋佳の姿だった。それ以外、部屋には誰もいない。
「……」
 彼女は少し遅れて気づいたのか、一言も発さないまま、僕に目を向けた。
 ――思わず声をかけるのを躊躇う。
 抜け殻の、ようだった。
 彼女の肉体からは、完全に精気が抜けている――それが、はっきりと見て取れた。
 間違いない。
 これが、最後の機会になるだろう。
 端的に言って、彼女は手遅れだった。今この時間は、ロスタイムのようなものだ。いつ終わるとも知れない。それでも――僕は、目覚めただけでも、嬉しかった。それが、一瞬のことであっても、こうして話せるかもしれないだけで、十分だった。
 僕もまた、壊れてしまったのかもしれない。けれど、もう何もかもどうでもよかった。
 息を吸ってから、足を踏み出す。
「久しぶり」
 彼女は僕の言葉に驚いたようだが、力なくこくりと頷いた。
「聞きわけが悪いから、残っちゃった。まだ朋佳とぜんぜん喋れてないからね」
「……」
「僕は弱いのかな」
「……」
「君のことを考えてしまう僕は、やっぱり身勝手なのかな」
 彼女は答えないままうつむいて、手を組んだりほどいたりしながら、言葉を探しているようだった。
「誰かから、話は聞きましたか?」
「……うん。たぶん。全部」
「そうなんだね」
 私、失敗しちゃった。彼女はそう呟いて、薄く微笑した。
「分かるよ。でも、見捨てることなんてできない。僕に気を遣ってくれたのは分かるけど、でも、もういいんだよ」
 その言葉に、彼女は少しだけ目を見開いた。それから口を開いたまま数秒間黙ったが、まもなく、小さく「……そっか。そうなんだ」とだけ言った。
「全部……本当のことって理解で、いいんだよね」
 頷かれる。
「私がつけ足すことは、ほとんどないと思います」
 その言葉は、僕を見透かすようだった。
 けれど。
 僕の目的は、彼女を問いただすことではない。
「ねぇ、もう一度ブロックスをやらない?」
 僕はそう提案した。
「……何それ」
「いいから。リベンジをさせてほしい」
 言葉の意味が分からなかったようだが、盤とピースを持ってくると、単純な彼女は少しだけ闘争心という名の元気を取り戻したようだ。「最後、ってことなんですね」
「負けないよ」「こっちこそ」
 そしてゲームが始まる。二人だから、お互い二色のピースを担当して、その和を競う。
 相変わらず彼女は強かった。でも、僕の方も一切手を抜かなかった。
「あ……」彼女の顔が険しくなる。僕に繋がりを妨害されたのだ。
「どう?」
 朋佳は「なんで……?」と、声にならないほど小さく呟く。驚いているのだろう。
 無我夢中で一ゲームを終えたときには、勝敗は歴然としていた。
「悔しいなぁ」と朋佳は一人ごちる。「ずっと練習でもしてたんですか?」
「まさか。朋佳が弱くなったんだよ」
 その挑発に、彼女は案の定乗ってきた。
「もう一回」

 十回プレイした結果、すべてのゲームで僕は勝利した
「なんで……?」
 朋佳は、明らかに動揺している。こんなことがあってはならないとでも言いたげに。
「ねぇ、朋佳は。僕には仮説があるんだ」
「……仮説?」
「そう。そして、ここでその証明をした」
 朋佳は訝しんだように、しげしげと僕を見る。
「初めてブロックスを遊んだとき、僕は何回も負けた。朋佳は『やったことないから』と、フォローしてくれたよね」
「……それがどうしたっていうんですか?」
「あれは、嘘なんだ」
 嘘。そうだ。僕はある意味で、彼女を嵌めたのだ。
「君は今、混乱している。なぜだろう? 素人が突然強くなったから? いや、いくら練習したとしても、こんなに短い期間でここまで完勝できるかは分からないだろう。……僕は大学のサークルでボードゲームをやっていた。だからブロックスも当然知っている。だから負けるはずがないんだよ」
「……大学?」
「そう。君は『どんな手を使うか全部知っている』とさえ言った。考えてみれば、あからさまなぐらい君は僕を知っているような態度だった。だから、最初から赤の他人だとは思っていなかった。でも――」
 朋佳は、ぽかんと口を開けている。
「君がブロックスに自信を持っている様子を見て、僕が大学で何をしていたかまでは知らないんじゃないかという気が咄嗟にしたんだ。つまり、僕と君が出会っているとしたらその前ということになる。そして君は十八歳で、僕は二十一歳。高校時代まで針を戻せば、一年と三年。ストーカーでもない限り、必ずそれまでのどこかに出会っていることになる。だけど、僕の人生の記憶にはそんな子はいない。となると――」
 僕は、自分なりの結論を告げた。
「君と僕は、別の世界で出会っているんだろう?」
「……」
「そこの世界の大学での僕は、きっとボードゲームサークルには入っていない。あるいは、そもそも君が高校以前の僕しか知らないかの、どちらか。――採点してもらっていいかな」
 彼女は長い息を吐いてから「……そうです」と返答した。
「続けていいかな」
「はい」
「それじゃあ、これで僕と君の縁は証明できたと思う。だから呼ぶことができたのも分かる。ではなぜ帰らせようとしたのか? それは、きっと僕を自分のことに巻き込みたくなかったからだ。でも君は手紙で僕を呼んだ。この矛盾をどう解消するか。……これは単純な答えだ。つまり、手紙を出したことを取り消したかった」
「手紙……?」
「そう。だから冷淡な態度を取ったんだろう?」
 ぴくり、と眉が動いた。「私は――」
「もしかしたら、君は僕に会いたかったのかもしれない。けれど君は僕と会ってみて、自分のことを何一つ覚えていないのに気づいた。だから僕に冷淡な態度を取った。自分の予想と違う、僕が朋佳を知らない世界になってしまったことを悟ったんじゃないかな」
「……」朋佳が僕を見上げる。
「でも、身勝手な理由じゃないと思うよ。もしそうだったとしたら、まったく君のことを知らない僕を、巻き込みたくなかったのはよく分かる。だから――」
「そこまでにしてください」
 彼女が僕を制した。
「そっか。うん――そうなんだ」
 そして、小さく呟いてから、僕に笑いかけた。
「騙して、ごめんね」
「いいんだよ。朋佳は悪くない」
「――そっちこそ、気にしないでいいですよ」
 そう言って、寂しそうに遠くを見た。

「最後に、お願いをしていいでしょうか?」
 同様も覚めあらぬうち、ぼんやりした口調で朋佳は僕に提案する。
「海が、見たいです」
「海?」
「そう。冬の海。見たことないから。どんな感じなんだろう、って」
「いや、それはダメだ」僕は即答した。「こんな容体で、そんなことしたら――」
「そんなの、もうどうでもいいよ。私は死ぬんだし」
 そう言ったまま、彼女は点滴を外す。「朋佳!」
「ねぇ、私が好きなんですよね?」
 そう言って。意地悪に笑う。
「それなら、私の言うことを聞いてください。――こう言えば、絶対弘樹さんは断れない。知ってますから」
「……なんだって?」
「もう手の内は全部知ってます。まぁ、ゲームでは負けちゃったけど」
「ねぇ、朋佳、待ってくれ。それってどういう」
「答えてください」詰め寄る僕を彼女は制した。「行くのか、行けないのか」
 僕は黙る。ここで彼女を連れていけば、もはや殺人に近いだろう。だが、彼女にとってみれば、安楽死のような類に思えるのかもしれない。でも、でも――だが、説得の言葉が見つからない。悔しいが、僕は確かに今まで彼女の言うことの従ってきた。そして、今もそうなるのか?
「もしそうするとしても、先生たちが黙っていない」そう僕は必死に反論した。
「それなら問題ないです。ここを見つからないように出られさえすれば、大丈夫」
 ほら見て、と言って彼女は僕に何かを投げた。反射的にそれを取ると――そこには、鍵があった。恐らくは、車のキーだった。
 目を丸くする僕に、朋佳は悪知恵を働く子供のように、勝ち誇った顔をした。
「運転、できます?」

 そういえば、自分が免許を持っていたことを思い出した。別に使う機会もないだろうから忘れかけていたけれど、まさかこんな機会に利用できるとは思わなかった。
 雪はいくらか収まっていて、数世代前のスポーツカーはすいすいと進む。チェーンがついているとはいえ、スリップしないかだけは心配だった。なにせ、ペーパードライバーも同然なのだから。
「車なんて久々に乗ったなぁ」と、僕のコートに身を包んだ朋佳は楽しげだった。まるで遠足にでも行くかのようなテンションだ。僕はどう反応していいのか分からなかった。
「でも、こういう逃避行みたいなのって面白いですよね。安っぽいお涙頂戴の小説やドラマでしか知らなかったけど、いざ自分が余命わずかになってやってみると、とってもスリリング」
「……」
「どうしたんですか? まだ気にしてます?」
「それは……当然だ」
 僕が朋佳を連れ出す決断をしたのは、結局「彼女が望んでいるから」以外の理由はなかった。野矢さんの言う通りだった。僕はとうに壊れていた。もしかしたらここに来た時点で異常だったのかもしれない。目を覚ますのを待ったのも、あくまで彼女の言葉を聞きたかったからだ。だとすれば、もし朋佳が「この場で殺してくれ」と言っていたとしたら――そう思うと、身震いがした。
「気にしないでいいのに。大丈夫。弘樹さんは捕まりませんよ。それまで私が持てばいいだけ。もしダメでも、三人は分かってくれるでしょうし。証拠も隠滅してくれる。あの人たちは――優しいから」
 だからこそ、困っちゃうんですけどね。そう朋佳はぼやく。
 今は何時だっただろうか。メーター類の中に時計があったので、ここに来てから初めて時間を確認することができた。今は十三時ごろだ。ダッシュボードに見つけた地図でおおざっぱに見積もれば、山を迂回して市街地に降り、高速に乗れば陽が落ちる前までには県の北部にある海岸につく計算になる。そこから少し先には岬があり、こちらも名所のよう。
「いいですね。すごく楽しいな」
 んーっ、と助手席で両手を伸ばしてから、彼女は「いたたたたっ!」と頭を抑えた。
「朋佳!」
「平気です!」
 僕の叫びも、ぴしゃりと打ち消される。
「せっかくの……デートなんだから。もっと明るくいきましょう」
 そうして彼女は、地図と一緒に出てきたCDを取り出して、カーステレオに入れた。
 流れ始めたのは、僕でも聴いたことがあるメロディーだった。
ビートルズ! いいな。先生の趣味ですね」
「……」
「なんて曲?」
「『チケット・トゥ・ライド』。このアルバムは『ヘルプ!』。レコードばっかり聴いてると新鮮ですね。ちょっと風情がないけど。でも今は定額で聞き放題のサービスもあるんでしょう? なんだったけ、さぶ……」
サブスクリプションだよ」僕は答えた。県道に入ったところで、ファミレスが見えた。
「お腹は空いてる?」
「はい」
 駐車場で車を停める。「こんなお店、懐かしいなんてもんじゃないな。あ! ガチャガチャがある。猫だ、かわいい。ねぇ、小銭持ってますか?」ねだる彼女に百円玉を渡すと、片っ端から投げ入れてノブを回してはカプセルを取り、を繰り返す。「ほら、席に行くよ」というと「全然そろわなかった……」と、残念そうだった。
 彼女が食べたのはミディアムのカットステーキだった。注文した時は驚いたが、すぐに平らげてしまったからなおさら驚いた。
「せっかく来たんだから、いっぱい食べなきゃ」と奮起していたようだ。僕はといえば、食欲がないのでサイドメニューのポテトだけを頼んだ。「それしか食べないんですか?」と彼女の側も驚いてしまったようだ。
 ……こうしていられる時間は、すごく尊い。だから、それを大事に使うべきなのは分かっている。そう考えると、確かにこうやって動揺しているのは、彼女にとってよくないことのように思われた。だから「デザート、食べる?」と訊いてみた。
「いいですね。じゃあ私、このビッグサイズパフェで!」
 ……相変わらずだった。

 海が近づくにつれて、潮の香りが鼻につく。
「いよいよですね」
「うん。遊泳禁止だから海岸には入れないと思うけど、堤防を歩くぐらいのことはできるんじゃないかな」
「そんなの無視しちゃえばいいですよ。どうせ最後なんだから。……そうだ! コンビニって近くにあります?」
「……何をするの?」
「買いたいものがあるんです」

 そして今、僕たちは海岸にいる。
「広い」「広いですね」
 目の前には水平線の向こうまで灰色の水が満ちている。それはたしかに大きかったが、重々しい天気のせいか解放感はない。広すぎる焦燥が溶けていき、やがて虚無と混ざり合うような、そんな漠然とした感覚を覚える。カァカァと鳴きながら、数羽のカモメが上空を旋回していた。
「寒い」「寒いですね」
 波とともに音が引いては寄せる、なだらかな砂浜。当然だが誰もいない。立ち入り禁止だから見つかったらどうしようと一瞬だけ思ったが、辺りに人の気配はまったくなかったから、大丈夫だと言い聞かせ、ことを始めようと思った。
 僕たちが買ったのは、バケツとミネラルウォーターの大きなペットボトル、そして――花火。駄目元で店員さんに訊いてみたところ、夏のあまりものがまだ残っていた。「季節外れですけど楽しそうですね」と女性の店員さんは興味深そうだった。「私も混ぜてほしいくらいだなぁ。楽しんでくださいね」
 そして僕たちは、海岸でそれに火をつけようとしている。ちょうど車内にはライター(先生はもともと喫煙者だったそうだ)があって、アイテムはすべて揃ったことになる。
「いくよ」
 合図とともに手持ち花火に火をつけると、ぱちぱちと音を立てて火花が噴き出す。「危ない!」「わっ」と、当たらないように身体を翻すと、なんだかそれだけではしゃいでいるような感じだ。思った以上に煙が出たが、海風のおかげかすぐに飛んでいってくれた。
 パックには線香花火も入っていたので、手持ちの方が尽きると、二人で静かにしゃがんでどちらが長く火玉を落とさずにいられるか勝負した。ここでも朋佳は負けず嫌いで、落ちそうになると僕の方に火玉をくっつけようとしてくる。
 しばらく攻防が続いたが、諦めて彼女に従うと「ほら、これで勝負なし」と機嫌がいい様子だ。少なくとも死人のようだった頃より元気そうだった。……それは、皮肉なのかもしれない。
 厚く白い雲の下、どんどん辺りは暗くなってきた。そんな中で、ひとつになった明るい花火の火が、小さく小さく燃える。
 ……そして、落ちた。
 そのとき不意に鼻の上に冷たい何かが当たった。雨か? と思って上を見ると――それは、雪だった。
 まもなく白いかけらが、銀紙のように辺りに降りはじめた。
「わぁ」
「これはすごい」
 同じ北部とはいえ、こちらではまださほど雪が降っていなかったのだ。ちょうどよくこんな機会が訪れたことに、意味はあるのだろうか。
「……毎日見ていたはずなのに、ここで見るとすごく新鮮ですね」
「確かにそうだ」と頷いた。
 ゴミを片付け終わると、僕たちはベンチに座って景色を眺めた。
「すごいね。冬の海ってこんなに綺麗なんだ」
「ええ……星が綺麗です。懐かしいな」
 海風で舞う雪の一片一辺。
 灰のよう。
 海の上に雪が降るのがこんなにも儚いなんて思っていなかった。きっと海面に落ちたかけらも、また海水に混ざって消えていくのだろう。そう思うと畏敬の念に襲われた。海はすべてを飲みこみ、受け入れる。その途方もなさに、天から降ってくる結晶はなすすべがない。そして、混ざった海水はやがて蒸発し、雲になり、再び空から降るのだ。
 白黒の世界で、お互い言葉もなくに圧倒される。身体に当たって積もる雪も気にならない。
「来てよかった?」
「はい。弘樹さんが連れてきてくれてよかったです」
「寒いし、そろそろ戻った方がいい」
「いいですよ。隣にいてくれれば寒くないです。それともまだ野暮なことを言うんですか?」
 そういうと、素早く朋佳は僕の手を握った。「これで平気」
 観念して、もう少しだけここにいることにする。その手はよそうしていたより暖かく、頭を預けてくる彼女の重さと合わせて、確かに隣にいるこの女の子は生きているのだという実感を僕に与えてくれた。
「ねぇ」
「何?」
「さっき言ったこと、覚えてます?」
 指と指を絡ませながら、朋佳は僕の方をじっと見た。その表情に、息を呑む。
「うん。ちゃんと、覚えてる。絶対に思い出すよ」
「……嘘。やっぱり忘れてください」
「なんだよ、それ」
「いいんです。私のことは、全部忘れて」
 波の音に、彼女の声は今にも掻き消されそうだ。聞いているうちに、なぜか僕は急激に眠くなってくる。
「なんかもう間に合わないみたいです。帰れなくなっちゃった。最後に岬に行きたかったかも」
「え?」
 催眠にでもかかったように、頭が重くなってきて――
「でも、こうしてまた会えただけで、私はもう十分でした。弘樹さんより、私のほうがずっと弱かった。だから結局あなたに折れてしまったけど……弘樹さんはこれからちゃんと自分の人生を生きて。私たちが出会ったのは、何の意味もない――偶然のことです。だから、これでもう――終わり。これからは、全部がうまくいく。私が消えるだけで、この世界は、続く」
 朋佳が何かを言っている。聞き取れてはいるが、言葉の中身はあまり頭に入ってこない。
「だから、もういいんですよ」
「え?」

「ごめんね」
 その一言で視界が暗転する。
 次に目覚めたとき、彼女は――

 僕は朋佳を背負って助手席に座らせ、車を走らせた。
「なんか変だよね。最初から僕は君に、初めて会った気がしなかった。それはおかしいんだ。別の世界で会っているはずなのに、どうしてこうも懐かしいんだろうね――その気持ちは、今になるとすごく強くなってきた」
「……」朋佳は何も言わない。
「きっと病気はよくなるさ。そうしたらどこへ行こう? 今日だけじゃぜんぜん満足してないだろう? 遊園地でも水族館でも博物館でもなんでもいい。いっぱい遊んで、おいしいものを食べよう。旅行に行ったっていいな。あったかい場所がいいんじゃないか?」
「……」朋佳は何も言わない。
「どうした? もう眠いの? そっか、じゃあゆっくり眠るといいよ。もうすぐ目的地だからね。それまでゆっくり休むといいよ。そうだ! ラジオがあるみたいだし、流そうか。BGMがあった方がリラックスできるかもしれない」
「……」朋佳は何も言わない。
 カーラジオを点けると、パーソナリティーがちょうど喋っている途中だった。「~さんからのリクエストです。『寒い時期ですが、春に向かう季節にぴったりな一曲……と思っていたけれど、冬に向けて歩き出す曲だと知ってショック! 英語力がない……』あー、洋楽ではそういうことありますよね。それでは、アズテック・カメラで『ウォーク・アウト・トゥ・ウィンター』」
 軽快なサウンドに乗せて車はスピードを上げて海沿いを走る。
「朋佳。今日は楽しかった?」
「……」朋佳は何も言わない。
「はしゃぎすぎて眠くなっちゃうなんて、子供みたいだな……って怒らないでね。あははは」
「……」朋佳は何も言わない。
 僕たちは柵を乗り越えて、崖の上に立った。
「そうだ。確か『好き』って言ってくれたよね。僕はそれに答えられていなかった」
「……」朋佳は何も言わない。
「ちゃんと言うよ。僕も好きだ。ふふ、やっと両思いだ。ここまで長かった。それもこれも、朋佳が強情だから、こんなに時間がかかっちゃったんだ。――まったく。
 僕たちは岬に到着した。
「最後に、見せてあげなきゃね」
 見えた超常は予想以上に高い場所。壮観だった。高い断崖に波が当たり、ざぁざぁと激しい音がする。この曲がりくねった地形は、きっと長い年月のうちに波で削り取られたのだろう。
 さぁ、行こうか――と彼女の身体を持ち上げた瞬間、何かが落ちた。
 それは一冊の手帳だった。

 

5 - エイジ・オブ・イノセンス

 この記録は、記憶を保持するためにつけられている。
 弘樹さんがこの文章を呼んだ場合、大変なことになってしまうだろう。だから肌身離さず持っていること。適切な場合が来たら、処分すること。

 時間というものが何なのか。未だ誰も、それに答えられた人間はいない。
 神学者であるアウグスティヌスは「私はそれについて尋ねられない時、時間が何かを知っている。尋ねられる時、知らない」という有名な言葉を残しているそうだ。確かに私たちは日々何も考えずに「今は何時だ」とか「あと何時間後に」とか、言葉を使う。そしてそれを特に疑問にも思わない。それが何なのか、立ち止まって考え込む機会さえなければ。恐らくは、世の中の多くの人がその機会を持たないまま、生涯を終えるだろう。
 私も、そんな人生を送るはずだった。

 初めてそれが起きたときのことはよく覚えている。
 それは十二月、十二歳の誕生日の朝。
 振動で目が覚めたとき、家で寝ているはずの私はなぜか電車に乗っていた。
 目を擦って周りを見渡す。ここはどこだ? 夢? それにしてはやけに感覚がリアルな気がする。車内の暖房はあまり機能していないようだ。そこで、自分が半袖なのに気づく。今は冬のはずだ。なぜこんな格好をしているんだ? そう思い、窓の外を見ると、辺りにはさんさんと太陽が照り付けている。……それをぽかんと眺めているうち、ガラスに自分の姿が薄く映っているのに気づく。
 そこでの私は制服を着ている。学校のものだろうか? けれど私は小学生だし、指定の制服がある場所でもない。そこまで考えたところで、そもそもサイズがどう考えても私の背丈と合っていないことに気づく。
 背丈?
 慌てて再びガラスを見て、幼い私はようやく少しだけ自分の状態を理解した。そこにいたのは、自分の顔。けれど明らかに、成長している。
 つまり、これは未来の私だったのだ。

 でも私はさほど動揺しなかった。なぜならこれは絶対にありえないことだからだ。つまり、私が成長していること自体が、夢であることを証明してくれているのだと思った。だから私はとりあえずもう一回寝ることにした。そうすればじきに目が覚めるかもしれない。
 けれど、目が覚めても私はまだバスの中にいた。
 周囲の乗客を見ると、私と同じ学校(中学か高校なのだろうか?)の制服を着ている子がいた。彼女を見ていると、やがてある駅で彼女はそそくさと降りていく。
 まずい気がしたので、慌てて電車から出た。幸いポケットの中には定期があった。どういうものなのかは幸運にも知っていたから、駅を出ることができた。私は慌てて彼女の後を追った。
 
 歩きながら鞄の中をまさぐると、生徒手帳が出てきた。そこには私の学校名が載っている。読めない文字もあったが、学校名、学年、クラス、自分の名前などは当然確認できた。迷ったが、制服姿のまま外でふらついていて補導されたりしたら、と思うと学校に行くのが最もまともな選択肢に思えた。
 クラスに入った瞬間、各自いくつかのグループに集まってわいわいと談笑しているみんなの目が、突然私に集まる。――え? と当惑したが、まもなく視線は外され、通常の空気に戻ったようだった。まさかバレているわけでもないだろう。
 そのことは気にかかったが、まもなくホームルームが始まってしまった。欠席者がいないのが幸いして、全員が席に向かう中を目立たないように観察し、不自然にならないタイミングで最後まで残った場所に座った。果たしてそれは正解だったようだ。
 私の座席は後ろの方だった。振り返ると、掲示板に時間割が印刷されたプリントが貼ってある。一限目は数学。数学? ああ、算数の発展版? いや待て。私は慌てて鞄の中から教科書を取り出してめくる。……何語で書いてあるのかさえ分からない。いや、数式はともかく説明文は日本語なのだが、この頭では意味を汲み取ることなど不可能だった。私は慌てた。授業についていけるはずがない。当たり前だ。どうして私は気づかなかったんだろう? 
 だが、逃げ出す時間はもうない。先生らしき初老の男性が入ってきてしまったのだ。
「ええと、参考書一五三ページの問題は解いてきたかな? 因数分解や二次関数の問題は、一年のまとめとして重要なので、夏休み前の今、改めてここで復習しよう」
『数学』と書かれたノートを開いてみると、該当の問題へのいくつか書いてあった。だがそれは途中で終わっている。
 一人ずつ当てられて、黒板に計算式と回答を書いていく。席順なので自分が何問目なのかはすぐに分かった。数えてみると、ノートの回答はちょうど私の担当するひとつ前で終わっている。――非常にまずい。たった一問だが、どう考えても自分には解けない。
 けれど怪しまれないよう、教壇の方まで行くしかない。必死に頭を働かせる。一時的にでもいいので、何かこの局面を脱する方法がないか。先生は厳しくなさそうだし、忘れた、と言うべきだろうか? でも言い出しにくくて、そしてまごついている間に余計に言えなくなる。どうしよう、どうしよう――そのとき、頭が鈍く痛んで、私は頭を抑えた。ああ、悪いことばっかり――
「永井さん、大丈夫かしら?」
 私のひとつ前を担当する女の子が、こちらのただならぬ様子を心配したのか、呼びかけてきた。そうだ! この機に乗じない手はない。すかさず「すみません、調子が悪くて」と言うとその子は先生に「永井さんの調子が優れないようなので、私が連れていきます」と名乗り出て、二人で保健室に向かうことになった。
 こうして教室から抜け出すことができたが、事態はあまり好転していない。次にどうすべきか? ここから出る? しかし、もしもこの異常事態がもう少し続くとしたら、自分に関する情報を集めておくに越したことはないはずだ。いま考えれば幼稚な狡猾さだが、私は彼女を利用できないか考えた。
 廊下を上履きできゅっきゅっと小さく鳴らしながら歩く。
「まだ頭は痛い?」
「ごめん、送ってもらって悪いけど、良くなっちゃった」
「そう。よかった」
 話に詰まってしまった。そもそもこの子の名前さえ私は知らなかった。しかし、助け船は彼女の方が出してくれた。
「私、永井さんとは前から話してみたかったの。こう言って気分を害されたくはないけど……永井さんってちょっと物静かというか、あんまりクラスメイトとかに関心がないのかしら、と思っていたの」
 ああ、私ってそういう感じなんだ。
「あと、私たちは実は出身の小学校が同じみたいなの。引っ越しで六年からだけだけれど。ほら、ここって遠くから受験する人も多いわよね? だからこういう偶然は面白いわね。で、うっすら永井さんのことを覚えてるかもしれないの。同じクラスだったことがあるのかもしれない。でも受験で中学に上がるときに離れちゃったから、お互い忘れてても仕方ないわね。永井さんは……覚えてないでしょう?」
 同じクラス……? と思ったが、木田なんて名字に身に覚えはない。「うん」と答えるしかない。やはり、これは夢なのだろうか? これは証拠になるだろうか、と頭の隅で考える。
「でもせっかくの機会だし、こうやって話すのもいいでしょう? ほら、こういうのって……袖振り合うも他生の縁?」
 タショーノエン? 
 思わず「何それ?」というと、彼女は「えーと、着物と着物の袖が触れ合ったら、それは前世からの因縁を表していたので、武士たちは斬り合いをしなければいけなかったの。ほら、トレーナー同士も目が合ったら戦うわよね?」
 明らかに嘘くさい。まるで説明になっていなかった。
「じゃあ、私たちは戦わなきゃダメなの?」
「でも、敵と友は似たようなものよ。いい友人というのはいつだってライバル。でも、敵を知ることは友を知ることにもなるわ。そうなれば百戦危うからずね」
 ヒャクセン……戦争のことか? って、結局倒すのか……。
 この人、なんか面倒だ。
「まぁそんな話はどうでもいいわね。どう? 少しは仲良くしてくれるかしら?」
「う、うん」と言ってから、勇気を出してそれとなく訊いてみる。私がクラスでそういうキャラなら、きっと大丈夫だよね。
「えっと……ごめん、名前、分かんないかも」
「やっぱり」と彼女は笑った。「木田よ。よろしく」
 木田さんは、そう言って強引に私の手を握ってきた。
 ……あれ、保健室は?
「あの、木田さん、保健室……」
「ああ、そうね。あれ? でももう頭は痛くないようね。それでも休んでいった方がいい?」
「いや、そういうわけではないんですが……」
 でも教室に帰ってしまうとまたボロが出かねない。どう言えばいいのか悩んでいると――何かを企んでいるように、木田さんはにやりと笑った。
「それじゃあ、もっといいところで休んでいくのはどうかしら?」
 
 階段を登る木田さんについていくと、彼女は四階を越え、三角コーンとテープで閉鎖された入り口を平然とまたぐなり、扉のノブをかちゃかちゃと弄って開錠した。「さぁ、行くよ」
 そこは屋上。
 さほど暑くないのを説明したかったのか「夏場は冷気が来るから、場所によってはおこぼれを預かれるの。冬は冬で暖気が来るんだけれどね。こういう建物って他にあるのかしら? もしかしたら設計ミスなのかもしれないけど、ま、私たちは恩恵を受けてるってことね」
「木田さん、これ、まずいんじゃ……」
「なにが?」
 彼女はちっとも悪びれない。自分で言うと陳腐だが、十二歳の私はすごく優等生だった。だからすごく怖くなったが、年上(ということになる)の高校生の前では言えなかった。
「それにしても永井さん、敬語じゃなくていいわよ?」
「え、……だって」
 いや違う。彼女からすれば私はおんなじ年なんだ。でも小心者の私には呼び捨てになってできるはずがない。
「まぁ、これはこれで面白いから。私は下の名前で呼ばせてもらうわね。朋佳さん」
 むず痒さと怖さと恥ずかしさが混ざって、いっそ飛び降りてしまいたくなった。
「一限が終わるまで、ここで暇でも潰さないかしら? そうそう。ここは勝手に開けていいから。やり方を教えるわ。ただ、あと一人貸してる人がいるから、それは許してね」
 どうしたらいいんだろう。女子高生のふりを続けるのはすごく難しい。やはり打ち明けるべきなのかもしれない。でも信じてもらえるかな。でも……。
「ねぇ、朋佳さん」
「は、はいっ」
 悩んでいた私に、木田さんは今までより少し真面目なトーンで話しかける。
「大丈夫だから、言ってもらってもいいわ」
「……え?」
「当てるけれど、本当は、何か隠してるでしょ?」
 ――鳥肌が立った。
「あ、うわ、えあ」
 今よりずっとポーカーフェイスが苦手だった私は、明らかに隠し事を悟られてしまった。
「教えてくれなくてもいいけど、今ここで話すなら、誰も聞いてないと思う」
 それでも私は、必死に取り繕った。
「なんでもないよ……ただ、本調子じゃないだけ」
 木田さんは数秒間私の目を見つめてから、「そう」とだけ言った。
 ……それからちょっぴり気まずくなってしまったのか、私と木田さんは黙ったままそこで一限を潰す。彼女はカバーのかかった本をポケットから出して読み始めた。私はすることがないので、入り口の階段に座ってぼーっとした。あれ――なんか、眠いような――
 ――そこで、意識がふわりと飛んだ。

 ベッドの上。私はひどく汗をかいていて、お腹もすいていた。じっとりと濡れた両の掌を見て、私は、ここが十二歳の――もともといた世界であることを実感した。戻ってきたのだ。窓の外はまだ朝早いのか白んでいる。
 そう。これは夢だったのだ。そう合点した。
 リビングに向かった。そこには寝ぼけ眼のお姉ちゃん。新聞を読むお父さん。それから台所に母。三人ともとりたてて個性的じゃないけど、みんな穏やかで優しい。
「おはよう」と挨拶して、やっと実感。私はここがもといた場所なのだと。
 新聞から目を上げた父が「そういえば、朋佳ももうじき中学生だな」と言う。「携帯とか、用意しないといけないのか」
スマホ、でしょ」と姉が笑う。「ゲームを全部ファミコンって呼びそう」
 一瞬の間をおいて「でも、本当なんだよ。何かあったとき連絡に便利じゃないかな。記事だと変質者への対策とかで、GPSもついたのもあるそうだし」と父が答える。私たちの最初の父親はいなくなってしまったけれど、この人は苦しい時も三人を支えてくれたから、すぐに信頼できるようになった。
「なんか嫌ね。オーウェルの世界みたい」と母はため息をつく。どこか線が細い彼女。「ママ、そんなひどい例えはやめて」とまた呆れる姉。そんな会話を尻目に、学校に向かう準備をしながら思う。――木田さんが夢の中の人だというのは、ちょっと残念だ。個性的だったのに。
 そういえば――同じ小学校だという話だったのを思い出した。
 でも私の記憶が確かなら、そんな子はいない。だからそれも幻想だと思うのが自然だ。……その、はず。
 でも、妙な胸騒ぎがした。
 だからギリギリまで早く登校して、こっそりと教壇の机の中にあるクラス名簿を真っ先に確認した。担任の先生は怠慢だから、よくここに忘れていくのだ。果たして、今日もあった。
 き、き……名前順に目を落としていく。……『木田』の名前はなかった。やはり夢の中の産物だったのだ。なんだ、確認するまでもなかったじゃないか。
 私は安堵してホームルームまでの時間を過ごした。
 わいわいと教室に人が増えてから、すこしふくよかな女性がやってきて、朝のホームルームが始まる。普段通りの出欠の後で、不意に先生が言った。
「実は、みんなに伝えたいことがあるの。連絡が遅くなって突然のことになっちゃうんだけど、今日から新しい子がこのクラスに転入してくるの」
 ――その一言に、私はぶるりと震えた。
 まさか。まさか。
 果たして、入ってきたのは女の子。服も靴もランドセルもいかにも高級そうだったけれど、彼女には人を寄せ付けないような空気があった。
「初めまして」

 その子は、木田さん。
 夢の中で出会った女の子と同じ名前。
 私はパニックになった。夢、そう、あれは確かに夢のはずだった。またテレビか何かで知っていたが、夢は人間の記憶の再構成だという。だが、私はこの瞬間まで彼女が転校してくることを知らなかった。それならなぜ、『木田』という名前が一致する? 偶然? だが、転校によって木田さんがやってきたなら、(夢の中のはずの)高校生の彼女が言った経歴とも矛盾しない。
「それじゃあ、そこの席に座って」と先生に指示されて、彼女が向かった先は。
 教室の左隅、今まで空いていたスペースに置かれた机と椅子。
 それは、私の隣の席だった。

 一時間目の時点で、私は授業どころではなくなっていた。板書をしようとしても鉛筆の芯を何度も折ってしまう。どうしたらいい? 私は彼女に話しかけるべきなのだろうか。いや、でも――そう思っているうち、疲れからなのか私は睡魔に襲われた。眠い――

 そしてまた眼を開くと、私はまた別の場所にいた。

「大丈夫?」
 私を呼びかける声がする。低い声。男性だろう。でも私の父じゃない。
 ここはどこだろう。なんだか頭が痛い。ずきずきとした頭痛だったが、それだけでなく、より浅いところでも痛みを感じる。もしかしたら、これは外傷なのかもしれない。
「意識はありますか?」
 彼(?)は私に強く呼びかける。身体をゆすられて、私はやっと目を開けた。
 そして驚く。私は横になっていた。辺りを見回すと、通行人がじろじろと私の方を見ながら通り過ぎていく。――ここは路上? なぜ? さっきまで授業を受けていたのに――
「あれ……?」
「よかった。起きたみたいだ」
 彼はどうやら安堵したようだった。「立てる?」と手を貸され、私はふらふらと体を起こして、地面に足をつけた。「あ、ありがとうございます……」と、訳も分からないままに感謝をする。
「いや。通りかかったら地面に倒れてて。病院に行きますか?」
「たぶん、大丈夫……」
 私はそこでようやく彼をしっかりと見た。服装や背丈から、高校生か大学生くらい?
「そっか。このまま歩けます? 家に戻るなら、一人で平気ですか?」
「あ、悪いので……」
「そうですか? 本当に気になさらないでいいんですよ。どんな手助けもします」
 恐らくは見ず知らずの他人であろう彼は、にもかかわらず私を心底気づかっているようだ。
 そうだ。自分は授業中に寝ていた。それなら――私はある可能性に思い当たる。
 まさか――またどこかの未来に飛んでしまったのか?

 公園のベンチ。
「改めて、よかったです」
 缶ジュースを持った彼が隣に座っている。有無を言わさず私の分まで奢られてしまった。路上にずっといるわけにはいかないので、私たちはひとまず手近な公園で一休みすることになったのだ。遊びまわる子供たちを尻目に、私は気まずい思いだった。
「ここまでしていただいていいんでしょうか……」
「問題ないですよ。やっぱり病院に行った方がいい気もしますが……お帰りになられますか?」
 その問いに「え、あ……」とどもった挙句、私はうっかり「分からないんです」と言ってしまった。しまった――と思った。彼はその言葉を見逃さなかった。
「差し支えなければお訊きしたいのですが、分からない、とはどういう意味でしょうか? もしかしたら、怪我だけじゃないことで困ってるんじゃないか、と心配なんですが」
 仕方なく、私は会話に応じた。「分からないというか……知らないというか。たぶん、家は前と同じところにあるとは思うけど」
 前、という言葉に彼は少しだけ反応したが、すぐにまた尋ねてきた。
「他のことは分かりますか? 年齢とか、名前とか」
「ええ、分かります。でも住所は分からないです。他にも分からないことは……あります。でも記憶喪失じゃないと思います。えっと……なんて言ったら……」
「ふむ」
 考え込む彼に、どうしたら上手く説明できるか考える。少なくとも、その場しのぎの嘘で誤魔化すことは難しそうだし、心配してくれているのに申し訳ない気がする。
 狂人だと思われるかもしれない。まぁそれでもいいか。どうにでもなれ、と私は意を決した。
「私は、本当はまだ十二歳で、中身? だけ別々の時間にいるんです。未来に飛んで。また戻って、それで……いや、ごめんなさい。意味分からないですよね」
 下手すぎて謝ってしまった。
 恐る恐る彼の様子を見てみると――しかしどうして、非常に真剣な顔をしている。
「もしかして、なんですけど。僕も、それかもしれません」
 ……え? それ?
「どういうこと、ですか」
「僕もあなたと同じで、バラバラに時間を生きているんです。十五歳から、ここ三年ほど」

 それが――中島弘樹との出会いだった。

 彼と出会って驚いたのは、あまりにも身近な場所に似た現象に襲われた人間がいたということだ。話を聞いたところ、現在十五歳で高校生の彼は、ちょうど十三歳の頃に発症したそうだ。私と同じくらいか。きっかけは事故のようだ、と彼は考えているらしい。それもすごく大きな飛行機事故だった。
「墜落で助かる確率は本当に低いようですね。……家族も死んでしまった。でも僕は生き残った」
 さらりと言う彼の言葉に私は恐ろしくなったが「実はよく覚えていなくて。経験していないか、意識を失くしていたか、衝撃的すぎて忘れてしまったか。どれでしょうね」と頭を掻いた。「だからはっきりとは分からないんですけどね。この前は大学四年の冬でした。過去もあれば未来もあるみたいで――確かなのは、一度生きてしまうと、その期間の時間は二度と戻ってこないということです。普通の人間が寿命を消費していくのと同じですかね」
「……嘘」
 私は、大きなショックを受けた。
「もしかしたら、そっちはまだこの現象が起きてからそれほど経っていないのかもしれない。それならまだ時間はあるから、悲観的になりすぎない方がいいけど――それを抜きにしても、僕たちの人生は、あまりにも複雑怪奇ですよね」
 そうだ。でも――と思う。もし、彼が本当に私と同じような現象を経験しているなら……そう考えると、私はすごく安心した。今までなんとか我を保っていたけれど、本当は途方もなく怖かったのだ。気がつくと幼い私は涙をこぼしてしまっていた。何かが、どっと溢れ出した。
「あ……ごめん、傷つけることを言ってしまったかな」
「違うんです」私は涙ながらに言った。「分かってくれる人がいて、嬉しいんです」
 泣きつく私を、彼は優しく受け入れてくれた。

「……どうしたらいいんでしょうか」
 そうだな……と彼は悩んだようだったが、まもなく一つのアイデアを思い付いたようだ。
「まず、今回みたいに街中で倒れてしまわないよう、《移動》の予兆があったら安全な場所に退避することですね。あとは――」
 彼は手早く注意を教えてくれたが、私には急いで確認したいことがあった。
「あの……また、会えないんでしょうか」
「それなら、僕を探してください。僕はまだ高校一年の先を体験していない。ということは、そこにたどり着いたときに、僕は今ここで君と一度出会ったことを覚えているはず。そこで僕と再会できれば、何か違う道が見つかるかもしれない」
「……また出会える確証は、あるんですか」
「さぁ」
 彼はあっさりと言ってのけた。
「何か目印になるものでもあれば、また違うけど」
 目印? ……その言葉で、私は何か閃いた。
「あの、聞きたいんですけど」
 私の方のアイデアは、こうだ。
「高校、教えてくれませんか?」
「ああ……もしかして、その時に着いたら、僕を訪ねてきてくれるんですか?」
「はい」と私は言った。
 この人は嘘を言っていない――信頼できる。そういう確信が、なぜかあった。私は彼とまた会いたいと思った。今のところ、この世で私の味方は彼だけだったから。こんなに簡単に人を信じてしまうなんて、幼いとはいえ私は愚かだったのかもしれない。そうだ。結果的にこの選択は私の運命を大きく帰ることになる。これは、すべての始まりだ。
 ただこの時の私は何も知らない。ただ、涙が出ただけ。
「じゃあ、最後に名前を訊こう。僕は中島弘樹。君は?」
「永井、朋佳です」
「よろしく」
「……よろしく、お願いします」

 でも彼とはすぐに会えた。それこそ拍子抜けするぐらい、あっさりと。
 次に飛んだ場所は、また高校。そこで私は、木田さんと昼食を食べていた。
「それにしても、今年は雪が早かったわね。まだ十一月なのに」
「……あ、ええ、はい」
 会話中だったらしい。私は慌てて相槌を打った。木田さんは怪訝そうな顔をしたが、それ以上は特に気にならなかったらしい。――そうか、まだ冬なのか。だとしたら、彼女と出会ってからさほど時間は経っていないのだな。
「ええと、そうだ。朋佳さん。前貸した本、読んだ?」
「……ま、まだ」
「そう。そういえば、読むのは遅い方だって言ってたわね。私は読み終わったわ。なかなか面白かった」と渡されたのは、『ここがウィネトカなら、きみはジュディ』というタイトルのSFアンソロジー。ぱらぱらとめくってみると、時間ものの短編が集められている。私は姉の影響で小学生の時点でもSFが好きで、ときどき私に本を買ってくれることがあった。読んでないけど、確かこれも姉からもらった本。
「それにしても、弘樹くんは遅いわね」
「え? 弘樹くん?」
 聞き違いかと思ったが、「あれ? 昨日話したわよね? もうひとり、屋上を使っている人がいるって」どうもそうではないらしかった。
 もしかして同名の他人か? と思ったが、そこまで考えてから彼の高校の名前がここと同じだったことに気づいた。遅い。なんて鈍いんだ、私。
 果たして、まもなく現れたのは。
「ああ、もうみんないたんだね。ええと、この子が……例の?」
「ええ」と答える木田さん。それに彼は頷く。
 あの日出会ったのと同じ姿だった。
 そう――彼のいた世界と、最初に飛んで木田さんと出会った世界は、同じ場所だったのだ。

「遅いですよ」と口を尖らせる木田さんに「ごめん」と軽く誤った弘樹さん。
 印象は前に出会った時と全然変わらない。人懐っこい顔と、柔らかい目つき。
「はじめまして、朋佳さん」
「は、はいっ」
 慌てる私に彼は笑って何個かパンを取り出した。高校には購買っていうのがあるんだっけ。じっと見ていたら「食べる?」と言われ、カレーパンを頂いた。
 そこで「あ」と木田さんが声を上げる。「クラス委員の用事があった」
 ごめんなさい、今日は先に行くから。そう言い残して彼女は屋上から去った。
 それを見送ってから、弘樹さんは「えーと」と後ろを向いてから、振り返って言った。
「久しぶり。また会えたね」
 ――彼は、私がいつの私なのか、見抜いていたのだ。

「僕はここでもうひと月は過ごしているんだ。基本的に、だんだん慣れてくると飛ぶ時間の間隔は伸びていくみたいだ。だから僕の方は、しばらくここにいられると思う」
 放課後、私たちは誰もいない教室で密談をした。私が今いるのは、最初に木田さんと出会った次の日のようだ。彼は小学生(精神年齢)の私にも分かりやすく説明するよう努めていた。
「何度か《移動》してみて気づいたんだけど、てんでばらばらの時間に飛びまくることは少ないみたいだ。だいたい三つか四つぐらいでポイントができると、しばらくはそれを往復することで安定するみたいだね」
「じゃあ、私はまだ安定していない、ってことですか?」
「たぶん」と彼は頷く。「それまでは混乱すると思う。厄介なのは、このいくつかのポイントで別の行動をすると、変なことになる」
 そう言って彼は黒板に横線を引き始める。
「たとえばここに一本の線がある。これが最初の、僕たちが生きる時間。で、たとえば三つ点を打ってみよう。A、B、C。で、この三つの時間を行き来する。……さて、このポイントAにいるときに、Bの未来と矛盾するような行動を取ると、どうなるか」
「……分かれる?」
「そう」と弘樹さんはAから別の線を伸ばした。「こうして別の線が生まれたよね? で、それからはこちらの別の世界にも飛ぶ可能性が出てくるんだ」
「えーと」と私は考え込む。「《移動》するときに、そっちの枝にランダムで飛ぶかも、ってこと?」
「そう」
「……じゃあ、変わっていない世界の方も残ってるんですか?」
「それは多分違うな。パラレルワールドって分かる?」
「はい。SF、好きなので」
「なるほど。じゃあ手っ取り早い。僕たちにとっての世界は、実はパラレルワールドじゃないんだよ」
「じゃない……?」
「むしろ、線路の切り替えに近いと思う。元の世界と、Aから伸びた世界は同時に存在するわけじゃない。A世界にいるときは元の世界は消える。それから元の世界に飛んだら、Aの世界は消える。でもまたA世界に飛ぶと、最初にいたときと同じ世界が始まる。分かるかな?」
「ぎりぎりだけど、なんとか」
「僕たちはそんな風に時間と世界を行き来するから、すぐ別れてしまうとなかなか厄介だと思う。できるだけここで縁を作っておくのが大事。だから定期的に屋上に来てほしい」
「分かりました。でも、木田さんは知ってるんですか?」
「……いや」と彼は否定した。「彼女は、何も知らないよ」
「そうですか……」
 そのまま黙っておくのがいいことか分からなかったが、彼には考えがあるはずだ。従おう。
「あと、世界ごとにメモを取っておくといいよ。メモは影響を受けないから、その世界に残り続ける。で、飛んだ先で見つけるたび、前回いつからいつまでを生きたか記録するんだ」
 なるほど。その発想もまた、目から鱗だった。
「君がもし頻繁に《移動》してしまってタイミングがずれたら、君がいつからやってきたのかを訊くと思うから、答えてくれると助かる。そうすれば、対応できると思う。それじゃあ、ここでどれくらいになるかは分からないけど――よろしく」
「はい」
 私はまた安心した。前回は取り乱してしまったけれど、今回はもっと自信を持って、彼を信じられる気がした。

 引っ越していないならば、自宅は同じ場所にあるはずだ。
 そこで待ち構えているのは、未来の家族だろう。みんな私の現象を知らない。だからまたしても怪しまれないようにアドリブで演技をしなければならない。
 閑静な住宅街の一ピース、没個性な建物に私は近づく。あった。ここだ。転居で別人が住んでいる可能性を除けば、まだ家族はここに住んでいることが確実になった。
 鍵を持っていないから、とりあえずはインターホンを押してみたが、何の反応もない。
 意を決して、ドアに手をかける。――開いた。もし外出中なら鍵をかけるだろうし、施錠していないならせめて誰かが家にいると考えられるが、どちらでもないというのだろうか? 無用心が過ぎるのではないか。私の家族はそんなに防犯意識が低かっただろうか?
 緊張とともに家の敷居をまたぎ、ローファーを脱いで床に足を下ろした。そのまま慎重に歩いていく。まずはリビングに向かう。
 そこは真っ暗で、様子は一変していた。そこら中に飲み終えた缶ビールが転がっていて、台所ではシンクの中で皿が割れている。誰の姿もない。ただ時計の針の音が、かちかちと空しく響いて、聞いていると頭がおかしくなりそうだ。混乱とともに、頭がずきずきと痛む。
 息を吸う。なんとか呼吸を整える。廊下に戻ってから、他の部屋に誰かいないか探してみることにした。この時の私は、まだ冷静だった。
 二階建ての一軒家、一階の階段の横には和室があり、他に親たちの寝室もある。上には私と姉の部屋がある。
 和室はがらんとしていた。前は調度品があったはずだが、すべてが消えている。広々とした空っぽの部屋は、私に言いようのない不安を覚えさせた。
 寝室は後回しにして、私は階段を登って姉の部屋に向かった。ノックしたが反応はない。ドアに耳をつけてみる。物音一つしない。寝ているのだろうか? しかし、私には妙な胸騒ぎがした。震える手でノブを回すと、あっさりとドアは空いた。中には誰もいない。ふと中央の机を見ると――そこには吸い殻でいっぱいの灰皿があった。
 灰皿? 彼女はたばこなんて吸わない。カタン、と爪先に当たったのは、やはり缶。そういえば、と思い出す。この家にアルコールを飲む人間はいないはずだ。
 嫌な予感がする。部屋を出ようとしたとき、学習机の上を見てみると、そこにはピルケースがあり、大量の錠剤が小分けになって置かれていた。未来の姉は病気なのだろうか? でもこんなに薬を飲んだらむしろ身体に悪いのでは? 明らかに異常な量だった。
 目を開けるとペン立てがある。そこにはカッターナイフだけが入っている。ゆっくりと、私はそれを取った。
 刃先には、乾いた血の跡があった。
 ――本能的にそれを放り投げると、私は部屋を飛び出していた。明らかに、この家はおかしい。何から何まで異常だ。
 私は自室に入った。そこだけは昔とさほど変わっていなかった。
 そのまま着替えもそこそこに布団に入り、枕に抱き着いて震える身体を必死に押さえた。

 結局、家族は誰も帰ってこなかった。
 一応電気もガスも水道も通っているので、仕方なく私はひとまずここで生活することにした。

 不穏なことがあったとはいえ、結果論だけ言えば、私はしばらくほぼ《移動》なく三人の世界を楽しむことができた。《移動》が始まってから、こんなことは初めてだった。理由は分からないが、それは私の人生の中で最も奇跡的な時期だった。
 私たちは一年で、弘樹さんは三年生。全員部活(クラブのすごい版)にも入っていなかったから、授業が終わると暇だ。だから昼休みだけじゃなく、放課後も屋上で過ごすことになる。
 今日は先生への悪口で盛り上がっていた。……あんまりよくないと思ったけど。
「今日の新野は機嫌悪かったわね」
「そうなの?」と弘樹さんが笑う。「僕の頃と変わらないんだなぁ」
「課題を忘れなくてよかったわ。四限だから、昼休みまで説教されるかも」
「うわぁ」
 適当に相槌を打つ。私も見ていたけれど、高校って怖い場所なんだなぁ……と思った。こういう経験の度に私は怖くなったけれど、少しずつ慣れてきた。相変わらず勉強だけはどうにもならなかったが、できる限り弘樹さんにカバーしてもらっていた。
「木田さん、ノート見せてくれてありがとうございます」
「いいの。一方的に恩を貸しておけば、いつか取り立てられるでしょ? 楽しみだね」
「あはは……」彼女は相変わらずだ。
「それにしても、ここが見つかったら大変だよね」と私がなんとなく話を振ると「そこだよなぁ」と弘樹さんは考え込んだ。「見つかったら絶対処分されるだろうな」
「バレなきゃいいのよ」と木田さんは強気だ。
「でも……集まれる場所がなくなるのは困りますよね」
「うーむ。ここに入る大義名分でもあればいいんだけど」
 その一言に、私は少し気になった。
「ここに合法的に入れる方法ってないんでしょうか? たとえば……えーと、部活とか」
「そうね……」
「あ」と弘樹さんが手を叩いた。「天文部ならいけるかもしれない。一年の頃に望遠鏡みたいなものをを持って屋上にいるのを見たことがある」
 彼によると、天文部は現在顔を出している部員がおらず、顧問も放任状態で、廃部寸前だということだった。
「決めたわ」と木田さんが話をまとめた。「天文部を、乗っ取りましょう」
「え? 乗っ取る?」
「そうよ。私たちが一方的に入部して、活動を始めてしまえばいいのよ」
「ちょ、ちょっと待ってください」
 木田さんがなかなかに過激な人なのは分かっていたが、それでもめちゃくちゃだ。とはいえ彼女に規則や道徳を期待しても無駄なわけで。
「永井さん、規則では廃部の条件はどうなっているのかしら?」
「えっと……『三人以上の在籍と一定の活動が認められない場合』という例が生徒手帳に書かれているね」
「なら決まりだわ。私たち三人が入ってしまえば、ぜんぶ解決する」
「ええっ⁉」という私の動揺は、あっさりと掻き消され。
 流されるままに、私たちは天文部を占拠した。

 それから私たちは本当に活動を始めた。夏休み、屋上にテントを張って泊りがけで望遠鏡をセットし、夏の大三角を見たときのことは、未だに覚えている。
 一番覚えているのは、木田さんが眠ってしまった後に二人で寒さも忘れ雑談をしたこと。
「こんなところでも、星って見えるんだね」
「うん。向こうの街がさほど大きくないから、光で星が隠れないんだね」
 私たちは寝転がっている。手を伸ばせば、本当に星に手が届きそう。
「ねぇ、レイモンド・チャンドラーを呼んだことはある?」
「突然なんですか」
「なんとなく」
「……愛について語るなんとか、みたいな本を書いた人ですか?」
「それはレイモンド・カーヴァー」と彼は咳払いをした。「ハードボイルド小説を書いた人だ」
「ハードボイルドってなんですか?」
「僕もよく知らないけど、ミステリーといっても推理より探偵の行動を重視した作品、ってイメージを持っているかな。人間ドラマだけど、でも人情は少なくて、いくらか暴力的」
「……それ、面白いんでしょうか」と私は疑問だった。「ミステリーって、謎を予想したり騙されたりするのが楽しみだと思うんですけど」
「同じ犯罪小説でもそういうジャンルとは根本的に違うんだ。だから同じ頭で楽しんじゃダメ」
「ふうん。変なジャンルがあるんですね。それで、どうしたんですか?」
「彼の『ロンググッドバイ』という小説で『さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ』という台詞が出てくるんだ」今度貸すよ、と彼は言う。
 顎に人差し指をあてて考え始める。
「どういう意味ですか? さよならをいうのが、死ぬ……?」
「簡単だよ。ほら、よく死ぬことを『永遠の別れ』とかいうでしょ? だったら生きたまま別れるのは、逆に言い換えれば『一時的な死』ってことにならない?」
「なるほど」と合点がいった。「じゃあ、再会したら別れた相手は復活するんですか?」
「そう考えてもいい」
「じゃあ、ゾンビみたいですね。私たちは常に生きたり死んだりしてるんだ。……でも、お互い生きていても、永遠に出会えない可能性もありますよね」
「それもまた、ひとつの死じゃないのかな」
「そうですか。……悲しいですね。生きてるのに……」と言いかけて、私はあることをおもいついた。「どんな死も、ぜんぶ『長いお別れ』って呼んじゃいましょうよ。そうすれば、またいつか出会えるかも――って気がしませんか?」
 私は立ち上がり、「んーっ」と両腕を伸ばした。
「呼び方の問題じゃん」
「だからこそ大事なんですよ。弘樹さんは分かってないなぁ」
 私は星空の下で、そう言って笑ったのだ。

 できるだけ家に帰りたくなかったから、私は二人に放課後遊んでくれないか、とそれとなくお願いしてみた。二人はゲームセンターやカラオケに私を連れて行ってくれた。どれも行ったことのない場所だ。私の家族はそういった娯楽に縁がなかったから、とっても新鮮だった。
 ゲームセンターのホッケーで私たちふたりに二対一で挑む木田さん。シュートを決めて「よっしゃ」とガッツポーズをする。……口調が崩れている。「朋佳さん、よそ見なんてして随分と余裕なのね」と言われ、慌ててゲームに集中する。隣の弘樹さんを見たとき、思わず目が合って「……あ」とどきどきしたが、彼は「落ち着こう」と頷いて、またゲームが再開する。その顔はすごく凛々しくて、こっちまで闘志が湧いてくる。自分も頑張ろう――
 そうやって遊んでいる間にも、家のことは常に頭の片隅にあった。でも二人に言えなかった。きっと、目を逸らしていたんだと思う。嫌な予感を振り払うように、私はホッケーに集中した。

 やがて私は、彼に陳腐なほど特別な感情を抱いているのに気づいた。
 ……でも、彼はどうなのかは分からなかったし、せっかく巡り合えたのに、もしもすれ違ったならば今後人生が別れて後悔するかもしれない。そう思うと、私はちょっとばかり暗澹とした気持ちになったものだ。
 私の魂は、あの頃より予想以上に成長していた。

 そんな気持ちが募っていくある日。夏休み中も三人は『部活』に顔を出していた。屋上に向かおうとする私は「ちょっといいかな」と、クラスに来た弘樹くんに呼び止められた。
 彼は何も言わないまま歩く。私は少しばかりの不安と高揚感に襲われた。
 やがて着いたのは空き教室。私は、これから何が起こるのか全く予想できなかった。
 だから彼の言葉は、まったくの不意打ちになったのだ。
「今こそ、はっきり言いたいことがあるんだ。ずっと言わないでおいたことを」
「はっきり? 何か隠していたんですか……?」
 不安になる私に「君のことは大丈夫だよ」と彼は微笑む。相変わらず、人を安心させる笑い方に、いくらかは安堵した。
「ショックを受けるかもしれないけど、単刀直入に言うね」
 ――けれど、そんな安堵も一瞬で吹き飛ばされることになる、
 弘樹さんはいつものように、今日の天気と同じ程度の話題を持ち出すように、平然と告げた。
「たぶん僕は、そんなに長くない」

 言葉が出なかった。
 この時が永遠に続いてほしかった。
 でもそれは、やはり叶わない。彼には時間がなかったのだ。今までそれを隠していたのだ。
「僕はもうたくさんの世界を見てきた。だからここで死んだら、もしかしたら消滅してしまうのかもしれない」
「そんな、そんな――」必死に声を絞り出す。「何か方法はないんですか? また世界を分岐させるとか――」
「たぶん無理だ。だって、そんなことをしたら、朋佳と離れてしまう可能性が高い」
「――っ!」
「僕は、君と離れたくないんだ」
 ああ、ああ。
 私はこの瞬間、もっとも幸せだった。でも――同じぐらい、悲しかった。
 彼は私のために、残りの時間を全部差し出すと言っているんだから。
「できる限り、この繋がったままの君と一緒にいたい。君はまだどこかに行ってしまうかもしれないから、ずっとはいられないかもしれないけど、でもきっと大丈夫だ。大学に行って、就職して、それでもまだ《移動》しないかもしれない。お互いそれが続けば、もう治ったも同然だろう? いや、本当に治る可能性だってあるかもしれない。だから、楽観的になろう。そして、それが叶う限り――唐突かもしれないけど」
 彼の目は、まっすぐ私を射抜く。

「できる限り、楽しくやろう」

 その時の西日は、思い出すだけで目が痛むほどに記憶に焼き付いている。幻想的で、まるで世界が終わるかのように真っ赤に染まっていた、空。
「……はい」
 私は答えた。涙ぐむ目を袖で拭った。本当はもう彼に抱き着いて、胸の中で泣きたかったけれど、それはしなかった。私は、強くならなきゃいけないと思ったから。
 彼が死んでも、私の人生に分岐の可能性が残っている限り、生き続けなければいけない。
 分かっている。
 分かっているから、依存しちゃダメなんだ。
 私はこの瞬間を大切にしなきゃいけないんだ。その記憶を、これからの宝物にするために。

 それからの日々は、私にとって輝かしい時間になった。
 時間で言うならば、ほんの短い日数だったけれど、終わりを意識していると、世界は異常なほどに輝く。『ファイト・クラブ』という映画で、夢をあきらめかけたある医学生が主人公の友人であるタイラー・ダーデンに拳銃を突き付けられ「君が獣医になる勉強をちゃんとしなければ、明日にでも殺す」と告げられ、解放されるシーンがあった。そこでタイラーは「彼が食べる朝食は、世界で一番美味くなるだろう」という意味のことを言うのだ。
 それは正しかった。
 私は短い時間で二人と極限まで仲良くした。夏休みなら時間はたっぷりある。ゲームセンターでプリクラを撮るところから始まり、ウィンドウショッピング。博物館にも水族館にも遊園地にも行った。実現はしなかったけれど、旅行さえ企画した。
 それでも時間というのは残酷だ。幸福な日々も無情に過ぎていく。
 そしてそれは、あっけなく崩壊することになる。

 

6 - foolish

 決定的なことが起きたのは、夏休みの終わりに入る直前だった。
 ある休日、目が覚めたとき、奇妙な匂いに気づいた。
 やがてすぐに気づく。
 ――それは、ほぼ間違いなく血の匂いだった。
 私は慌てて下の階に駆け出す。その匂いの元はドアの少し開いた寝室だった。
 ゆっくりと近づいて、隙間から中を見る。暗い。だがすぐに目は慣れた。そして、何が見えたのか理解した瞬間に、脚から力が抜けて、その場にへたり込んだ。身体は小刻みに降るえ、心臓はバクバクと暴れる。
 そこにあったのは、父の死体。
 それと、血だらけのまま包丁を持った、姉の姿だった。

 思考が真っ白になった。

 逃げなきゃ――と思ったのもつかの間、立ち上がろうとしてノブに頭をぶつけてしまった。
「……朋佳?」
 その衝撃で、姉は私に気づいたようだった。
 キィ、と衝撃でドアが開き、私の姿がさらされてしまう。――同時に二人の様子がはっきりと見える。暗い部屋の中、姉は裸の上に鮮血で染まったワイシャツを羽織っている。父は――死体に対して、私は表現する言葉を知らない。何を言えばいいと言うのだろうか?
「ああ、朋佳。来たのね」
 何か言葉を発そうとしたが、口はぱくぱくと開閉を繰り返すばかりで、何の音も出てこない。
「姉さん、パパを殺しちゃった」
「あ、う……」
「こうするしかなかったんだ」
 姉の方を再びゆっくり見ると、腕が傷だらけなのが目についた。全部、切り傷。
「なん、で」
「知ってるでしょ? もう限界だったの」
 なんで、笑うの。
「そうだよ。私は朋佳を守れたんだ。ママが死んでから、この人は気が狂ったもんね。可哀想に。私は娘だよ? 頭が湧いているとしか言いようがない。まぁ仕方ないよね。あんな惨たらしくママが死んだから、おかしくなっちゃったんだね。ママも災難だね。ほら、本物のパパと一度離婚してから具合が悪くなって会社を辞めたよね? その後こんな奴と出会わなければよかったのに。カネがあっただけの下種なんかに騙されてさ。でももうどうでもいいや。私はずっと朋佳を守ってきたし、最後はほら、手を出す前に全部終わらせたから。だから安心していいよ」
 生気のない声で、訊かれてもいないのに話し始める姉に、私は心底怯えた。
 やっと分かった。――この家は、この家族は、破綻したのだ。恐らくは母の死がきっかけで。
 私は後ずさりをしていた。それを見て姉は「ねぇ、どうして怖がるの? 私、そんなにバカじゃないよ。ほら、こっちにおいで?」と両手を広げた。
 ……咄嗟に私は、ばねのように膝を一気に伸ばして立ちあがると、そのまま廊下を突っ切ろうとした。でもだめだった。途中で転んで、床に頭をぶつけ、意識が遠のく。それでも私は必死だった。這うように和室に入ってからドアに鍵をかけ、立てこもる。……警察を! ポケットをまさぐると、スマートフォンがあった。機械的に手は動く。そう、警察に電話――そこまで考えて、私は手を止めた。この状態では何も話せないだろう。それにもし姉が逮捕されたら? 彼女はどうなるんだ?
 電話帳を見て、誰か頼れそうな人を探した。とはいえ登録されている人の数は少ない。でも、あの二人なら頼りになる――そう思った。とりあえず弘樹さんに電話をかける。待ち時間は無限に流れていくような気がした。祈るように待ちながら、五回目のコールでようやく繋がった。
「もしもし。朋佳?」という声に、泣きたくなるぐらい安堵した。私は無理やりに声帯に力を入れて、「……たすけて」と声を出した。
「パパが、死んでる」
「死んでる?」
「殺されて、その、お姉ちゃんに――包丁で――」
「警察は呼んだ?」
「あ、分かんない、お姉ちゃんが捕まったら、でもこのままだと、私、いや、間に合わない」
「――分かった」私の滅茶苦茶な説明にも、彼は動揺一つしなかった。「出られる? それとも今行く?」
「だめ! 危ない」と私は叫ぶ。そこで気づく。ドアがガンガンと叩かれている。まさか――
「今、和室にいて、お姉ちゃん、お姉ちゃんが」
「外に出られる場所はある?」
 泣き出したくなる気持ちをこらえて辺りを見回すと、庭に通じる窓が目の前にある。そうだ! 
「出られる、かも」
「じゃあ別のところで落ち合おう。そうだな――これから指定する場所に来れる?」
「……分かった」
 私は今度こそ意を決して、窓を開けて庭に飛び降り、靴下のまま駆け出した。

 アスファルトが足に食い込んで痛い。通りかかる人たちは、何事かと私をじろじろ見る。
 それでも私は街まで走ると、息を切らして路地裏でビルの壁に肩をつけた。何もかもが滅茶苦茶だった。泣きたかった。でも涙が出なかった。訳が分からなかった。
 私は再び電話をかけた。
「ごめんなさい。動けない、無理かも」
「どこにいるかは分かる?」
「えっと――」私が近くの建物を列挙すると、彼はあたりをつけたようで「分かった。迎えに行く」と言った。「そこは木田さんの家の方が近いから、巻き込むのは悪いけど彼女にも手伝ってもらった方がいいかもしれない。彼女に通報してもらおう。とにかく――すぐに向かうから」
 そのまま電話は切れる。私は地面にへたり込んだ。頭の中はぐちゃぐちゃで、収拾がつかなかった。このまま別の世界へ《移動》してしまいたかった。ここから逃げたかった。でもその瞬間は、こんなときに限ってやってこなかった。
 永遠にも思える時間が過ぎていく。私の家族に何があったのかは、幼い私でももうそれとなく察することができていた。母は死に、父は狂い、姉は壊れた。どうして? 私が悪いのか? 私が、私が――
「朋佳?」
 その瞬間、女性の声で現実に引き戻される。
 姉だ。
 幻聴ではない。目を向けると、確かに彼女がそこにいる。
「どうして逃げたの?」という声からは狂気じみた敵意を感じた。もう会話は通じないだろう。
「おねえ、ちゃん……なんで、ここが」
「朋佳、ちゃんと今でも言いつけを守って、GPSをつけててくれたもんね。見つかって助かったわ。でもね……私は怒ってるんだよ。なんで私を選ばないの? ねぇ、こんなに頑張ったのに、なんで受け入れてくれないの? 答えてよ。私と楽になろう?」
 もう、彼女はあの日見た姉ではなかった。
 路地裏の闇にぎらりと何かが光った。彼女が腕を振り上げたのだ。その手には、たぶん――
「ね、私ももう終わりなの。そう、もう全部――」
 耳を塞ぐ。何も見えない聞こえない見えない聞こえない全部消えろ消えろ消えろ。
 その場から動くこともできないまま、私は最後の時を待った。
 そして目を開けたとき。
 姉が、腕を振り下ろして――

「朋佳!」

 割って入ったのは、弘樹さんだった。
 そして、刃の先は、彼に突きたてられた。

 気がつくとそこにあったのは、動かなくなった二人の死体。弘樹さんはめった刺しにされて傷だらけだったが、包丁は彼の手にあって、姉を突き刺していた。姉は目を見開いたまま、絶命していた。
 全部、終わっていた。
 世界は、誤った方向に分岐してしまった。

 恐らくは木田さんが呼んだであろう警察に保護された私は、呆けたまま何も感じなくなっていた。それからのことはよく覚えていない。ただ、ある女性と出会ったことだけは確かだ。
 取り調べでの証言で何一つ喋れなかった私だったが、まもなく違う部屋に呼ばれた。
 そこにいた若々しく小柄な女性は「カウンセラーの青山です」と名乗って、名刺を取り出した。長ったらしい肩書の隅には「入不二研究室」という単語が書かれていた。
「よろしくお願いします」と言った私は、なんとなく今までの自分の身に起きたことを喋ってみた。その頃には、びっくりするほど私は精神的に成熟していた。だからすらすらと、自分の人生を語ることができた。もちろん彼女はPTSDのようなものの症状にしか思えなかっただろうが、それでもメモをとしながら真剣に聞いてくれた。
「……これはきっと、病なんだと思います」
「病?」
「そうです。私がこんな風に時間を生きていることは、きっと病気なんだと思います。ちっとも、恵まれてなんかいない。私も彼も……病気に呪われているんです」
 最後に私は「はやく次の世界に行きたいです。弘樹くんが生きている世界に」と言った。
 惨めだった。
 まだ彼に縋っている自分の弱さ脆さが、滑稽だった。
 ……青山さんは何も言わず、黙ってうなずいた。

 本来ならばここで物語は終わっただろう。だが、数奇なことに、私には再びチャンスが巡ってくることになる。だが、それによって更に、私の人生は残酷さを増していく。
 なぜならば、次に目覚めた場所は――彼が大学生として生きている世界だったのだから。
 
 そう。私と出会う前の弘樹さんは「大学生だった場所にいた」と話していたはずだ。だから私が同じ世界の同じ時間にやってきたと知ったとき、私は大きな希望を感じた。大袈裟なほどの、希望を感じた。
 その世界では家族三人ともが仲良く過ごしていたが、もはや私は彼ら彼女らに対して嫌悪感しか湧かなかった。でもどうでもいい。彼に出会うことができれば、運命を変えられるかもしれない。それだけで私は再び生きている実感を覚えたし、使命を感じた。
 なんて幼稚だったのだろう。
 私は彼に手紙を出した。会ってください。名前を知ってください。それだけでよかった。住所と電話番号を記載して、連絡が来るのを待った。
 またしても私は彼に寄りかかってしまったのだ。
 ……でも二人が出会う前に、私はまた別の時間に移った。

 痛みは人に生きている実感を与えるという。だが私にとってそれは余計なものでしかなかった。意識を失っているときの方がずっとマシなのだ。たまに目が覚めて猛烈な頭の痛みに襲われ、また倒れる。早く死ね! 早く! そう願うほどに。そして――最後に、意識が途切れる。
 私の肉体は、寿命を終えつつあった。

 その後にいくつかの世界を《移動》したが、私の脳疾患による死は肉体的に避けられないことが明らかになった。弘樹さんのような飛行機事故ならまだしも、病は私にはどうすることもできないものだ。だから諦めざるを得なかった。私は絶望した。絶望の中で放浪した。そのうちに私は、様々なことに俯瞰的になるようになってしまった。語りたくはないが、家族が崩壊した世界も改めて体験した。でも、私にとってはそれさえも些細だった。弘樹さんを失う苦痛と比べれば。何年、何十年、何百年――体感時間がどれほどだったかは、もう分からない。でもどうでもよかった。自分の寿命など、さっさと尽きてしまえばいいと思った。でも、そんな虚無へ向かう道のりの中で――ふと、あることに気づいた。
 飛行機事故なら、防げるかもしれない。
 どうして気づかなかったのだろう。
 ――そもそも、彼がこの病を発症しなければ、ぜんぶ解決じゃないか?

 それは、弱い私からの卒業だ。

 無限にも思える時間を耐え続けた末に私が戻ってきたのは、私が最初にいた、小学生の世界。なんとも懐かしい風景だったが、この精神年齢で見返してみると、かつて見たときより世界はどこかくすんでいるように感じられた。きっと「何もかも輝いていた子供の頃」というのは、私たちの幼く無恥な魂による錯覚なのだろう。そう思うと、無性に悲しかった。
 私は味方を増やすため、教室で転校してきたばかりの木田さんにアプローチをかけた。彼女は転校後の好奇の目にも冷たい反応を帰すばかりだったから、やがてみんなも興味を失い、たちまち孤立してしまっていた。だから話しかけるのには勇気が必要だった。それでも、日直で偶然女子同士で同じペアになったとき、私は声をかけることができた。
「木田さん、ちょっといい?」放課後に日誌を書く彼女に、黒板を綺麗にしながら話しかける。
「何かしら」と刺々しい声。
「せっかくだし、これから一緒に帰らない?」
「どうしてそうする必要があるのかしら」と言われたが、私はもうあの頃の軟弱な自分じゃない。だから平気だ――そう言い聞かせて、強く出た。
「どうしても話したいことがあるの」
「……」
 どうしても、という言葉に彼女は何かを感じたようだ。
「本当に、どうしても?」
「本当の、本当に」
 彼女は「いいわ」と言うと「大事な話みたいだから」と呟いた。
 私は思う。――この頃から、彼女はとんでもなく聡かったのだと。

 私の仕事はもう一つあった。そしてそれは、最も重要で、絶対に失敗してはいけないものだ。
 長い時間の中で、すでに私は彼がどの学校に行っているのかを調べていた。だからあとは見つけるだけでいい。
 授業終了の時刻に合わせて、校門の隅で私は彼を待った。まだ生徒は誰も帰り始めていない。中学時代の彼の顔写真は、学校Webサイトの部活コーナー「囲碁将棋部」に載っていた。ネットリテラシーの欠片もないバカさには呆れたが、まぁいい。
 やがてガヤガヤとやかましい話声とともに、制服に身を包んだ子供たちが出てくる。見逃さまいと必死に目を凝らす。途中で通りかかった強面の先生に訝しい目で見られたが、「兄を迎えに来た妹です」と言うと「気をつけてね」と難なく見過ごしてくれた。確かに、小学生(の外見の人間)がここにいたって何の害もなせないだろう。
 この中学校は幸運にも裏門が老朽化で閉鎖されており、非常時を除けば生徒が使う門がひとつしかない。だから待ち続ければ必ず見つかるはずだ。
 そして――見つけた!
 間違いない。写真で見た通りだ。いや、調べるまでもなかったかもしれない。高校の頃と、顔立ちがまったく変わっていなかったのだから。あの柔和で童顔の、そのままの姿。
 思わずうっとりとしてしまったが――私は見逃さない。後を追う。

 私の脚で彼に追いつくのは難しいだろうから、先にショートカットして待つことにした。方法は簡単。家の塀の上に登る。
 小柄なことを逆手に取った作戦だ。
 既に経路は分かっている。性格的に彼は寄り道なんてしないだろうから、待ち構えていればいいわけだ。
 ちょうど低い場所を狙って、誰かに見られていないか注意して塀に登る。いちばん上に掛けた手にざらざらしたブロックの表面が食い込んで痛い。そのままバランスを取りながら早足で歩き始める。
 ときどき体勢を崩して落ちそうになる。何度目かのとき、慌てて足首の上をすりむいてしまった。ズボンを履いてくればよかったと心底後悔した。こう言うところで私は抜けている。血が出る。痛い。痛い。でももう慣れてる。こんな痛みどうってことない。落ちかけているが、片足と両手が引っかかっているので、力をかけてまた登った。急がないと!
 やがて彼の住むマンションが見えた。あと一歩だ。最後の難所は塀から降りる瞬間だ。ゆっくり慎重に身体を下ろさないと危険だが、今は時間がない。私は賭けに出た。
 少しばかり勢いをつけてから――飛び降りた。
 あとは跳び箱の着地の要領を思い出せばいいのだ。膝をばねのようにして、速度を受け止める――ことはできなかった。地面はアスファルトなのだ。そのままバランスを崩して落ちてしまった。唯一の救いは、受け身のような形になったので頭や身体に衝撃が直撃しなかったこと。
 ……いや。もう一つ救いがあった。
「えっ……どうしたの?」
 私が落ちたとき、ちょうど目の前に弘樹さんがいたのだ。

「血――大変だ。今応急手当のキットを持ってくるから、待ってて」
 彼はそれだけ言ってマンションまで走り去り、まもなく大袈裟な救急箱をもって現れた。それからマンションに併設された公園に向かい、私は彼に傷を消毒され、絆創膏まで貼ってもらってしまった。
 二人して、ひとまず胸を撫で下ろした。
「よかった……って、それにしてもなんであんなところにいたの?」
 そこで慌てて思い出す。チャンスだ。早く言わないと!
 さぁ――

「明日の祝日から三日間で、あなたは家族旅行に行くんですよね? 国内便に乗って」

 その言葉に、彼はみるみるうち表情を変えた。
「なんで、それを……」
「私には、全部分かってます。全部知ってるんです。あなたが事故に遭うことも」
「事故って……どういうこと?」
 弘樹さんは明らかに戸惑っている。当たり前だ。いきなり見ず知らずの小学生にこんなことを言われて、理解できるはずがない。それでも――この可能性に賭けるしかなかった。きっと彼なら。きっと彼なら。それだけを信じて、私はこれまでの人生で最も強く、声を張った。
「飛行機には乗らないで」
「――えっ? 飛行機に?」
「そう。絶対に絶対に、乗らないで。じゃないと、落ちます」
 私はそう告げた。
「必ず、墜落します。家族全員が亡くなります」
 彼の目を見て、真剣に、切実に。この想いが伝わるように、この瞬間のために自分が存在しているとすら、感じるほどに――祈った。
 やがて彼が、ゆっくりと口を開く。
「……考える」と、言った。
「――信じてくれるんですか」
「本気なのが伝わったから。本気で僕のことを気にしてくれているんだな、って」
 私は頷いた。何度も何度も。涙を堪えた。歯を食いしばった。
 ねぇ、あの時の弘樹さん。頑張ったよ。これでもう、心配いらないんだよ。
 ――私は、その後に高望みして、最後の願いを口した。
「私を、忘れないでね。弘樹さん」
 私は彼の目を見て、もう一度はっきりと言った。
 弘樹さんなら――意味が分からずとも、この言葉を大事にしてくれるはず。
 彼は、私が名前を知っているのにも驚いたようだったが――
「それも、分かった」
 そう言って、私の頭を撫でてくれた。
 その優しい感触は、今までの私の努力をすべて包み込んでくれるかのようだった。

 ――結果から言えば、彼は飛行機には乗らなかった。
 でも、二つ目の願いは、叶わなかった。

 それから私は、弘樹さんの人生には一切関わらなかった。
 母は幼いうちに死んでしまった。自殺だった。以前から頭痛などの持病があったそうだ。
 木田さん――いや、野矢さん(家庭の事情で名字が変わったのだ)とは一気に親密になった。中学受験が決まっていた彼女に私はついていき、エスカレーター式に中学と高校(の途中まで)を過ごした。寮生活だったので、家族のゴタゴタから身を引くこともできた。姉もまた家を出ていき、幸運なことに一家離散で事件は起きなかった。
 一度高校の頃に(ちょうどその親の事情で)彼女が転校しそうになったことがあったが、私は彼女を説得し、強引にそれを回避した。転校先は弘樹くんのいた高校だったし……この病を知る人間が近辺にいることはよからぬ結果を招くのではないかと感じたからだ。また。
 一つ印象的なエピソードは、私が彼女の口調を変えてしまったことだ。
 中学に上がる頃、私は「なんか、もうお互い呼びしてでいいんじゃないの?」と提案したのだ。
 彼女はそこそこの名家の出だから躊躇っていたが、「まぁ……そうね」と納得はした。
「あと……もっと砕けた口調の方が、珠希さん……いや、珠希に合ってる気がする。性格が」
「なんか恥ずかしいのだけれど……」
「呼んでるうちに慣れるよ。ほら、珠希!」
「と、朋佳……」
「珠希!」
「朋佳……」
「よし、いい感じ」
「なんか、身体がむずむずするなぁ、まったく……あ」
「ほら。そういう語尾の方がいいよ。私は好きだな」
「……じゃあ、そうしようかし……いや、しようかな」
 中学の時点から私たちは既に入不二研究室に入り浸っていた。私の症状に興味を持った野矢さん――いや、もう珠希と呼んでおこう――と先生、それとその知己である青山さんの四人で研究に取り組み始めた。実験台は私。もっとも。サンプルとして私はあまり有用ではなく、研究はさほど進まなかったが……残念だ。
 ……驚いたことに、この世界は一度も《移動》することなく何年も続いた。こちらに関してはもう納得している。残りの人生が尽きかけており、私の完全な消滅が近づいている証だろう。
 あと意外だったのは、私が一度ここに来たことがあったという事実だ。そう、あの時手紙を出した場所と同じ世界だったのだ。それは、ちょうど私が自宅に帰っていたときに一瞬だけ起きたことだったから、気づかなかったのだ。この事実を知って私は大いに震えた。――すべては、繋がっていたのだ。
 そして私の体調は予想通り悪化し、かねてからの計画通り先生は療養所を強引に設置した。終の棲家として、私が利用するために。

 一つ残った問題。
 手紙の件は厄介なことこの上なかった。
 彼と会うことは気が重かった。もう一度「以前の手紙は無視してください」という文面を送ったとしても、おそらく性格的に無視するに決まっている。それでも、ここにきたら必ず帰さなければいけない。本当なら二度と出会わなければよかったのだが、すべて自分のミスだ。あの頃の私はあまりにも弱くて愚かだったから――そのツケが回ってしまった。
 私の不安は、彼が自然に(または再びのなんらかの事故等で)再発してしまうのではないかというものだった。だが今の彼を見るにそれは問題なさそうだ。私のように病を発症してしまうこともありえそうだったが、それはないように願うしかない。ただ、彼のカルテを(およそあまり褒められない方法で)入手した香苗さんの言うところでは、脳に異常はまったく見られず、他の身体も健康体そのものであるらしいので、まぁ問題はないはずだ。
 私は彼に二度と会いたくない。
 だから、非情かもしれないが――弘樹さんには帰ってもらおう。
 私は、強くならなくちゃいけないから。

 これは長いお別れだ。二度と出会うことのない別れ。
 ――それは、死に似ている。

 

7 - MISS WORLD

 古い夢を見ていた。
 僕に向けて、語り掛ける人。それはとても小さくて、僕よりずっと背丈が低い。
 その人は子供だ。女の子。小学生ぐらいだろう。でもあんまり幼い感じはしない。なぜだろう。ひどく成熟しているように思える。まるで……外見と精神年齢が一致していないとでも言わんばかりに。
 彼女は僕の目を見て言う。真剣に、切実に。
「乗らないで」
 確かに、告げた。
「――に、乗らないで!」

 目覚めた瞬間に、ぶるりと寒気がした。
 公園のベンチ。そこに僕は座っている――正確には眠っていた、という表現の方が正しい。
 視線を落としてから辺りを見回す。と――横にノートが置いてあるのに気づいた。恐る恐る手に取ってぱらぱらとめくると、中はびっしりと文字で埋まっている。そこには偏執的なものさえ感じられた。
 無視することもできただろう。でも好奇心にそそられながら――それを読み始めた。
「このノートを読んでいるということは、君が時間を《移動》したということだ。ここには現在に至るまでの、君の人生の記録が載っている」
 数行目を通したところで、気づく。この筆跡は、間違いなく僕のものだ。でも、なぜ?
「君は自殺した。朋佳が書いた手記を読んで、彼女を助ける可能性を感じたからだ。その結果、道を開くことになった。でなければ僕はこうして書くことさえできなかっただろう。感謝している。どうだろう。こうして読んでいるうちに思い出せるようになってきただろうか? 世界は分岐していないだろうか? ならば、きっとこれまでのことも思い出せるはずだ。君が事故に遭い、『病』に目覚め、様々な時と場所をさまよったことを。だが、それはまだ序の口なのだ。君はこれから、――運命の出会いをすることになる」
 僕はこの言葉を……知っている。確かに、内容が分かる。
 僕は誰だ? 中島弘樹だ。
 では、僕はどこから来た? ここで目覚める前の僕は、どこから来たんだ?
 ……瞬間に、爆発するように、記憶がフラッシュバックした。

 謎の手紙に呼ばれて、彼女と僕が出会ったあの日のこと。
 最初は冷たかった彼女が、次第に心を開いてくれたこと。
 彼女の身体は蝕まれ、死ぬ定めである事実を知ったこと。
 何一つできぬまま、ただ彼女を見送るしかなかったこと。
 朋佳。
 朋佳。

「君は十三歳の頃に事故で発症した、永井朋佳と同じ時感障害の患者なのだ」

 時感障害……僕が。朋佳と同じ。
「永井朋佳は君を助けるため、君が飛行機に乗る前の時間に飛んだ際に、それに乗らないよう説得した。結果君は言いつけを守り、時感障害を発症しなかった。そしてそこから繋がった世界が――療養所に行って、朋佳の死を看取り、それから一度自殺した世界だ。そこで死んだことで、君は自分が時感障害を持っている世界の残り時間に再び飛ばされたのだ」
 彼女は、僕を助けた。
 だから、今までの二十年以上を僕は平穏に送れた。
 もしもそれが事実ならば、僕は彼女にどれだけ感謝してもしきることはないだろう。そして、そこまでして僕に与えてくれた時間を無駄にしてしまったことをどう償えばいいのか分からなかった。もしそれを知っていたならば。でも彼女は教えないことで、僕に平穏な人生を送らせたかったのかもしれない。
 あの夢。
 あの夢の女の子は、朋佳だったのだ。
 でも……それでも、僕は彼女を助けるしかないと思った。だから、彼女からのプレゼントを捨ててでも、救わなければいけない。それが、僕の結論だった。
 そう――あの岬で、確かに僕はそう思ったのだ。

 朋佳の言葉を読み終えた後、最初に湧いた感情は後悔だった。
 僕が彼女に興味を持ち知ろうとしたこと自体が、彼女がもっとも嫌がるであろうことだった。しかもそれは僕を思って行われていた。僕を助けるために全力を尽くした朋佳。その努力を、僕は愚弄したのだ。朋佳はそれでも優しいから――心を動かされてしまったのだ。
 僕がこれからすべきことは、彼女から送られたこの普通の人間としての時間と人生をまっとうに生きることだろう。
 けれどそれはもう不可能だった。彼女のいない世界には何の価値も見いだせなかった。僕から見れば世界などとうに滅んでいた。この岬に降る海雪は、死の灰に見えた。それほどに僕は弱かった。弱っていた。だからこのヒロイズムは、そんな矮小さの裏返しだ。
 でも、それでも。止まることはできなかった。
 僕たちはひょんの偶然に出会いと別れを繰り返した。もしもあるポイントで出会い、また再会しなければ、それがひとつでも欠ければ、すべては終わったことだろう。なのに――なのに。
 僕がどうするべきなのかは、本能的に分かってはいた。野矢さんの話と合わせれば、僕に何ができるかは自ずと見えてくる。あとは、勇気だけ。
 申し訳ない気持ちでいっぱいだ。朋佳が身を挺して譲ってくれた命を、こんな風に消耗してしまうなんて。それは彼女が最も望まないことだろう。
 ……でも、僕は、その命を燃やさなければならない。
 朋佳がくれた命を、朋佳のために。

 そして僕は岬から身を投げ、別の時間と世界に飛んだ。
 まだ僕が生きていない、空洞になっているポイントに、自動的に飛ばされたのだ。
 ベンチに置かれたノートのページをめくると、そこには図表が載っていた。そこには今までの人生と世界で生きてきた日付が一目で見て取れた。空いていたのは、事故直後と、高校三年生から先だけ。それ以外はもう生き尽くされている。
 僕の横には鞄がある。恐らく自分の物だろう。探してみるとスマートフォンがあった。念のため検索して日付を確認すると――今から三年前。三年前? 高校三年生の頃だ。じゃあ、ちょうどまだここから先は空いているわけだ。
 ……僕はノートを鞄に入れ、ひとまず公園を出ることにした。

 ふらふらと、夢遊病にでもかかったかのように歩いているうちに少しずつ記憶が蘇ってきた。
 それはさまざまなイメージの断片。僕が知らないはずのもの。経験した覚えがないはずなのに、なぜか頭に記憶されているもの。……これはいつも記憶だ? まさか、別の世界の?
 あまりいい思い出ではないものも多かった。
 病院。
 家族の葬式。
 カウンセリング。
 周囲からの好奇の目。
 ……それらすべてを結びつけたのは、「飛行機事故」という単語だった。
 だが不思議なことに、事故の瞬間や直後のことは思い出せなかった。意識を失ったのか、衝撃的な体験だったので記憶が飛んでしまったのか。
 とはいえ、僕がそれを経験したことは間違いないと思われる。――それを確かめるには、ノートの先を読むしかないのかもしれない。
 たった数年でも街は大きく様変わりしていた。これからできる建物はまだなく、なくなったはずの建物はまだあった。そんな一つひとつのことが、ノスタルジーとなって僕を揺さぶる。
 とりあえず自宅に戻ろうと思った。自分は私服姿だ。高校生だったとして、今は放課後か休日だろう。そうなると一旦帰って頭を整理するのが自然ではないだろうか。きっと家の場所は今と変わっていない。
 よし、と足を向けて路地の角を曲がったところで――倒れている人を見た。

 少女だった。
 周囲は見てみぬふりをしたまま彼女を素通りする。だがそれに対する憤りを感じられるほどの余裕はなかった。どんな状態かわからない。一刻も早く僕がなんとかしなければ、と思う。
 駆け足で近づき「大丈夫ですか!」と声をかける。反応はない。ためらいはあったが、身体を何度か揺すった。
 幸運なことに、彼女はすぐに目を覚ました。
「意識はありますか!」
「あ……」
 地面に突っ伏していた顔が露になり、僕の方を向く。
 朋佳だった。

 え……?
 どうして彼女が? と混乱したが、驚く間もなく「あれ……?」と彼女は呟く。そうだ。考えていても仕方がない。まずはなんとかしないと。
「よかった。起きたみたいだ」
「立てる?」と手を貸すと、彼女はゆっくりと立ち上がった。
「あ、ありがとうございます……」
「いや。通りかかったら地面に倒れてて。病院に行きますか?」
「たぶん、大丈夫です」
「そっか。このまま歩けます? 家に戻るなら、一人で平気ですか?」
「あ、悪いので……」
「そうですか? 本当に気になさらないでいいんですよ。どんな手助けもします」
 そう言いながら考える。どうやら彼女は僕のことを知らないらしい。だとすると……? とりあえず、話を聞いてみたくなった。怪しまれないよう、初対面のふりをしながら提案した。
「混乱なさっているようですし、とりあえずどこかで落ち着きませんか?」

 それが、僕と永井朋佳の再会だった。

「改めて、よかったです」
 僕はさっきの公園まで彼女を連れてきて、ベンチに座った。
「飲み物を買ってきます。何がいいですか?」
「いや、大丈夫です。申し訳ないです」
「気にしないでください。何がいいですか?」
 こんなやり取りが何度か繰り返された末にようやく「紅茶で」と言われ、僕は自販機で二人分の飲み物を買った。
「ここまでしていただいていいんでしょうか……」
「問題ないですよ。やっぱり病院に行った方がいい気もしますが……お帰りになられますか?」
「え、あ……その、分からないんです」
 分からない? その言葉が気になった。
「差し支えなければお訊きしたいのですが、分からない、とはどういう意味でしょうか? もしかしたら、怪我だけじゃないことで困ってるんじゃないか、と心配なんですが」
「分からないというか……知らないというか。たぶん、家は前と同じところにあるとは思うけど」
 彼女の言い回しはどことなくおかしかった。もう少し突っ込んで訊いてみる。
「他のことは分かりますか? 年齢とか、名前とか」
「ええ、分かります。でも住所は分からないです。他にも分からないことは……あります。でも記憶喪失じゃないと思います。えっと……なんて言ったら……」
 彼女は口ごもったが、やがて意を決したように話し始めた。
「私は、本当はまだ十二歳で、中身? だけ別々の時間にいるんです。未来に飛んで。また戻って、それで……いや、ごめんなさい。意味分からないですよね」
 その言葉――間違いない。
 この朋佳は、時感障害を発症しているのだ。

 とはいえ彼女がいつの朋佳なのかは相変わらずはっきりしない。療養所にいたとき、僕と朋佳は「別の世界」で出会っていたのではないかと推測した。ここがその場所なのか? だが、まだ頭の整理がつかない。
 何を言うべきか。
 僕は慎重に言葉を選びながら、話を始めた。
「もしかして、なんですけど。僕も、それかもしれません」
「どういうこと、ですか」
「僕もあなたと同じで、バラバラに時間を生きているんです。十五歳から、ここ三年ほど」
 僕は事故のことを話した。もちろん実際に体験しているわけではないので具体的なことは言えないが、なんとか細部を突っ込まれずに済んだようだった。
 僕は前にいた世界のことを思い出す。そして先生たちに言われた知識と合わせて、なんとか話を繋ぐ。
「この前は大学四年の冬でした。過去もあれば未来もある。確かなのは、一度生きてしまうと、その期間の時間は二度と戻ってこないということです。普通の人間が寿命を消費していくのと同じですね」
「……嘘」
 朋佳は小さな悲鳴を上げる。予想以上にその事実がショックを与えたようだった。なにぶん中身はまだ十二歳なのだ。それも当然だろう。
「もしかしたら、そっちはまだこの現象が起きてからそれほど経っていないのかもしれない。それならまだ時間はあるから、悲観的になりすぎない方がいいけど――」
 話しているうちに、みるみる朋佳の目が潤み、涙が溢れてきた。無理もないだろう。初めて時感障害のルールを知ったのだから。
「あ……ごめん、傷つけることを言ってしまったかな」
 だが、彼女の涙の理由は、違ったようだった。
「違うんです。分かってくれる人がいて、嬉しいんです」
 ……無性に、愛情が湧いてくる答えだった。
 僕もだよ、と思う。

「あの……また、会えないんでしょうか」
 これまでの会話ではっきりと分かったことがあった。この世界は、朋佳が僕を助ける前のポイント。しかも、ちょうど今さっきが、朋佳にとっては僕との初めての出会いだったのだ。
 だとしたら、どうすれば――そうだ。
「それなら、僕を探してください。僕はまだ高校一年の先を体験していない。ということは、そこにたどり着いたときに、僕は今ここで君と一度出会ったことを覚えているはず。そこで僕と再会できれば、何か違う道が見つかるかもしれない」
「……また出会える確証は、あるんですか」
「さぁ」
 僕は笑った。「何か目印になるものでもあれば、また違うけど」
「あの、訊きたいんですけど――高校、教えてくれませんか?」
「ああ……もしかして、その時に着いたら、僕を訪ねてきてくれるんですか?」
「はい」
 なるほど。それならば、僕の残り時間が尽きる前に出会える。
「じゃあ、最後に名前を訊こう。僕は中島弘樹。君は?」
「永井、朋佳です」
「よろしく」
「……よろしく、お願いします」
 僕たちは握手をした。
 抱き締めたい――そんな本当の気持ちを、殺しながら。

 自宅でノートを精読してから、今後のことを考えるようになった。
 僕がどうしたいか。その気持ちはもうはっきりしている。
 朋佳を救うこと。
 彼女が僕にくれた恩に、報いること。
 そのために何ができるか、考えろ。

 高校生活は懐かしさの連続だった。教室も、黒板も、教科書も、ノートも、制服も、上履きも、ローファーも。……とはいえ(発症しなかった世界の)自分の記憶とは違うこともあった。
 僕が、思ったより孤立していたことだ。
 登校して二日と経たぬうちに、それはボディーブローのようにのしかかり、きつくなってきた。誰も話しかけてこない。用事でやり取りをするときも、非常にぎこちない間があって、それが嫌で嫌で仕方がない。まぁ、考えてみれば時感障害の人間は他人とあまり関係を持ちたがらないだろうから、こうなるのも仕方がないのかもしれない。普通の人生のありがたみがよく分かる。
 そして、ついに今日限界が訪れた。もはや教室で食事を摂ることすら嫌になってしまった。どこか食べる場所がないか。だが場所によってはもっと惨めになるだけだろう。そんなことを思いながらとぼとぼ廊下を歩いて、階段に入ったとき――ある女の子とすれ違った。
 彼女はきょろきょろと周囲の目を伺っている。どこか目的地があるのだろうか。興味が湧いた僕は、気づかれないように後を追った。すると彼女は四階の階段をさらに登り、『立ち入り禁止』の表示を越えて――屋上の扉を開けてしまった。
 驚いた衝撃で、道を封鎖していたコーンを蹴飛ばす。物音に感づいて振り向いた彼女と、目が合ってしまった。「あ」と声を上げたが、もう遅い――
「――ごめんなさい‼」
 叫ぶ彼女の声と顔は、どこかで覚えがあった。

 木田珠希。それが高校時代の野矢さんであることはすぐ分かった。確かに青山さんは「若い」といっていたがあまりの事実にどこから突っ込んでいいのかは分からなくて――でも、これはチャンスではないか。
「ごめんなさいっ、偶然開け方を見つけて、誰にも見つからないから、暇なときにいつもここに来てたんです……言いつけないでほしいです、何だってします、だから……」
「ねぇ」
「は、はいっ、なんなりと」と緊張する彼女を、僕は柄にもなく脅してしまった。
「じゃあ、一つお願いがあるんだけど――」

 それから僕たちは屋上で遊ぶ仲になった。昼休みとか、放課後とか。珠希(この呼び方には慣れない)の口調があまりにもかけ離れていたので驚いたが、話しているうちに、年は違えど、この人は同一人物なのだな、という実感を持った。それならば――何か協力の糸口がつかめるかもしれない。僕は自身の時感障害について明かすタイミングを探っていた。
「先輩。紹介したい人がいる、って話をしましたよね」
「ああ」確か、そんな話を昨日聞いたっけ。若干の警戒心が湧いたが、まぁ別に構わないか――とすぐ思い直した。僕の計画には特に邪魔にならない。

 そして翌日、僕が馬鹿だったことはすぐに明らかになる。
「えーと、この子が……例の?」と、必死で冷静を装ったけれど――
 つまるところ。
「は、はじめましてっ」
 朋佳は、この高校に在籍していたのだ。

 僕は彼女に情報を与えることにした。
 小学生相手に時感障害の話をするのは難しく感じたが、彼女はなんとかついてきてくれた。SFが好きだったのも幸運だっただろうが、時感障害の患者は異常な成熟を見せるのだろうか。

 僕に残された時間が少ないことは分かっていた。でも朋佳が僕のことを心配しないよう、それを隠したまま三人でたくさん遊んだ。
 
 珠希はボードゲームが好きだったから、僕たちは屋上でそれに興じた。購買のパンや菓子、弁当のおかずを賭けて奪い合うのだ。あまりにも僕が下手くそなので、いつもすべて珠希に取られてしまい、お情けで朋佳が買い戻す――という展開だった。朋佳はパワーバランスが悪いのを考慮したのか「これなら弘樹さんもできるんじゃないかな」と、ブロックスを持ってきた。
 僕は負け続けた。
 もちろん、手を抜いていたのだけれど――なぜそうしたかといえば、たぶん朋佳が買ったときの笑顔が見たかったからなのかもしれない。

 天文部としての活動を形だけでも行うために、僕たちは許可を得て深夜の学校に入った。
 僕は持ってきたテントを往復して屋上まで運び、備品の望遠鏡をテストした。使い方はよく分からなかったが、とりあえず何かの星を見れればよかった。というか、天の川が肉眼でも見えたので、それだけでテンションが上がったのだ。
 珠希は「キャンプファイヤーとか花火がしたいわね。あとバーベキューとか……」とふざけたことを言っていたが、素人でも思っていた以上に天体観測は楽しめた。
 その後に、みんなが簡素な寝具とともに就寝の準備を済ませ(ちなみに二人とも僕と同じ場所で眠ることには、拍子抜けするほどにまったく抵抗は示さなかった)、眠りに入った頃合いを見計らって僕は外に出ようとした。なんとなく、もう一度星が見たかったのだ。……けれど、テントの中に彼女はいなかった。
 彼女は方位磁針から南の空を確認し、何かを探しているようだった。その姿を息を呑んでみていたが、「――弘樹さん?」と、声をかけられた。どうやら気づかれてしまったようだ。
「なんで隠れてたんですか?」
「いや……すごく集中してるみたいなので」
 彼女は僕に星座早見表を渡してきた。「どれを探しているの?」と訊くと「あれです」と空を指さした。――そこは天の川の真ん中。表を見てみると、その星座はS字型に川の流れを横切っている。
 さそり座。
「一番明るいのはアンタレスです。分かりやすいですね」と、横で彼女が言った。
「星、詳しいの?」
「いえ。天文学には明るくないです。ここに来る前に検索してきました」
 身も蓋もなかった。
「でもね。さそり座に関する好きな話があるんです」
 彼女はそう言って、ある物語を話し始めた。
「『むかしのバルドラの野原に一ぴきのサソリがいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日イタチに見つかって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命にげてにげたけどとうとういたちに押さえられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺れはじめたのよ。そのときさそりはこう云ってお祈いのりしたというの、

 ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちにくれてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてず、どうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。

 って云ったというの。そしたらいつかサソリはじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって』――おしまい」
 彼女は一字一句を暗記しているかのように、すらすらとそらんじた。
「弘樹さんはどう思いますか? この話」
 少し考えてから、僕は答えた。「すごく……サソリに共感する、かな」
「共感ですか?」
「そう。サソリはきっと強くない。弱いと思う。たぶん自分がどうしたいか、自分にとって何がいいか、何が利益になるか――そういうことを考えられる人の方が、立派で、強い。でも僕もサソリと同じだ。自分のためだけに生きられるほど、僕は強くない……から」
「……」
「だから、誰かに縋って生きているのかもしれない、と思った」
 朋佳はそれを聞いたまま黙っていたがやがて「……そうですか」と言った。
「弘樹さんらしいですね」
 そのまま彼女は座り込んで、寝転がった。僕もつられて横になる。
 それから僕はなんとなしに「朋佳」と声をかけた。「何ですか?」と彼女が答える。実は理由もなく呼んでみたのだが、そう言って話を終えてしまいたくなかったので、適当に訊いてみた。
 話題はこれだ。
「ねぇ、レイモンド・チャンドラーを読んだことはある?」

 一見楽しい日々を送りながら、裏で僕はひどく気を遣った。彼女が僕の真実に感づいてしまったら、また僕を助ける方法を模索して、事態が逆戻りしてしまうかもしれない。
 だから、秘めた気持ちのことは決して言えなかった。

 やがて僕は第二のプランに移ることにした。
 珠希は入不二家とコネクションを持っている――そういう話は過去に青山さんから聞いていた。だから、彼女を味方に引き入れることは大きな一歩になる。あとは本人が信じてくれるかだが――勇気を出して「珠希、ちょっといいかな」と、二人きりのときに告げた。
 彼女の反応は、まぁまぁ悪くなかった。
「……信じるの?」
「うん」とそっけなく珠希は言った。「その方が面白いじゃん」
 呆気にとられた。この頃から彼女は変わっていなかったのか。
「真面目なことを言えば、彼女が何か事情を抱えていることは、最初から察することができてたから。それに、二人とも悩んでいるんでしょ? それなら私も協力したいな」
 彼女は自発的に「入不二さんの研究室なら、分かってもらえるかもしれない。変な研究をしてるから。時間がどうこうみたいな」と提案してくれた。「だから話しに耐性があるのかも」
 ただ、と彼女は付け足す「本当に、隠すのはいいことなのかしら」
 僕は朋佳の運命を話した。このままでは絶対に死んでしまうということ。そして前の世界で僕を発症から助けたこと。だがそれは元に戻ったこと。彼女を僕が救いたいこと。だが僕の残り時間が短いことを教えると、また僕を助けようとしてしまうこと。
「……分かった」と彼女は頷いた。納得はしかねるようだったが、理解はできたのだろう。

 そして、僕はついに重要なステップを踏むことにした。
 休日、僕と珠希はこっそりと大学の片隅にあった入不二研究室に向かった。
 先生は例によって白衣姿。外見は未来とほとんど変わらない。
 顔を合わせるなり「香苗!」と珠希が彼女に飛びついて「やめろ」と頭を叩かれる。
 先生は僕の話を疑わず、親身に聞いてくれた。
「……それで、君と朋佳ちゃんはバラバラの時間を生きている、と」
「そうです」と僕は頷く。未来で朋佳が死んだことは、ひとまず隠した。
「私は昔から似たような症状を起こす人を研究していてね。非公式に『時感』と名付けている。通常の人間と違う時間観を持っている人や、それに近い体験の原因はそれぞれだ。LSDやモルヒネなどの薬物。また民族の範囲で我々と違う時間を体験している人たちがいる」
 彼女は棚から何冊か本を取り出す。
「医師で作家のオリヴァー・サックスは、モルヒネを注射してから部屋着の上に百年戦争中のイギリス軍とフランス軍の戦闘の幻覚を見た。それが終わったとき、十二時間が経っていた。その間ずっと彼は部屋着を眺め続けていたけれど、彼には一瞬に思えた」
「……」
「また、アフリカのある原住民にとって時間は『ササ』と『ザマニ』の二つしかない。前者は起こりかけていること、今起こっていることと、起こった直後のこと。後者は永遠の過去。例を挙げると、死んだ人間はまだササだが、家族や知り合いが全員死んでしまうとザマニになる。未来という概念はない」
 こんな風に、時間の感覚は決して一律ではないのだよ――そう先生は言った。
「だから君たちのことも疑おうとは思わない。むしろ興味深い研究対象だよ。私は脳科学者として周囲から奇怪な目で見られているから、信頼できるかは怪しいがね」と冗談を交えながら。
「ただ気になるのだが、その朋佳ちゃんとはいっしょに来なかったのかい?」
「……今日は、彼女に聞かれたくない話をしなければいけないので」
 それから僕は珠希に伝えたように、先生にも朋佳に「僕を救ったこと」を話せない理由を教えた。
「ふうん。あれ? でも君は珠希のことを警戒しなかったのかい? たとえば、彼女が朋佳ちゃんに密告する可能性とか」
「そんなはずないです」「そんなことしない」
 僕たちの声は重なった。
「ふふ」と彼女はにやりとした。「信頼されてるんだね」
 珠希の方を向くと「なんなの」と、彼女はなぜかむくれていた。
「とりあえず、君の脳を調べさせてもらうことになるかもしれないね。いいかい? 君はこの現象――いや、症状を治したいんだろう?」
「ええ」
「時間はかかるかもしれないが、極力やってみよう」

 それから、朋佳に隠れて研究室に行くようになった。もちろん三人での時間を減らすことがないように極力の努力を怠らないのは当然だ。怪しまれるかもしれないし、何より彼女のために行動しているのにその本人をないがしろにするのは本末転倒だからだ。

 けれど、僕たちは後悔することになる。
 いや、後悔なんて言葉じゃ生ぬるい――それくらい、取り返しのつかないことが起きる。
 
「……助けて」
 あくる日、朋佳が僕に電話をかけてきた。
 彼女の父が姉に殺されたこと。
 自分も命を狙われたこと。
 僕は珠希とともに、必死で彼女を助けようとした。
 だがそれは失敗した。
 駆けつけたとき、朋佳はもう死んでいた。放心状態でへたり込む姉に、殺されていた。
 死んでいた。
 死んでいた。
 死んでいたのだ。
 ……これ以上、詳しく語る必要があるだろうか?

 

8 - LOVE/HATE

 数か月後に初めて珠希に会った。僕は受験を終え、大学生活が始まっていたが、内心は何も考えられる状態ではなかった。珠希もまたひどく憔悴していた。彼女は自殺未遂を起こし、入院中だった。痛々しい腕や手首の傷が見えた。
 病室で僕たちは黙ったままだった。語るべき言葉が見つからなかった。
「朋佳さんの母親、自殺していたそうですね」
 それきり彼女は口を噤む。
 ……数分間の沈黙ののちに「私、あれから考えました」と彼女は再び話し始めた。
「聴取で姉が言ったそうですが、彼女は生前のある時期から激しい頭痛を訴えていたそうです」
「……どこからそんなことを」と言いかけたが、黙っておいた。
「だとすれば、彼女が時感障害だった可能性も十分にあり得ます。家庭崩壊のきっかけになった可能性もあります。だからどうという話ではないですが」
 珠希はそのまま、力ない目つきで僕を見る。
「これはまた推測なのですが。もしかしたら先輩が殺された未来があったのかもしれません」
「ああ」
「先輩が大学生だった世界で、先輩を朋佳さんが助けた理由もそれで説明できるでしょう。恐らくはあの事件を回避する目的があったはずです」
「ああ」
「それなら、二者択一だったんですね」
 言葉が出なかった。
「何なんですか! こんなの……彼女の人生は――」そのまま泣き崩れる彼女を、僕は支えた。
「朋佳さんの人生は、何だったんですか」

 彼女は退院後も自宅に閉じこもり高校に来なくなった。僕もまた世界からあらゆる色が消えたように感じられた。何を食べても味がせず、何を見ても何を聴いても心が動かされることはなかった。僕たち三人を繋ぐ絆は徹底的に破壊されていた。
 定期的に彼女の元を訪問した。激しい自傷や自殺衝動のようなものはなかったが、痩せぼそり、声も弱弱しく、目線はふらふらと宙をさまよっていた。
 精神のバランスを欠いてしまった彼女に何が必要なのか、分からないまま時が過ぎる。

 ある日、先生が僕の元を訪れた。ずいぶんと久しぶりのことのように感じた。
 彼女は開口一番に行った。
「君は時感障害に関する研究をしたいんじゃないかな?」
「……どこで聞いたんですか」
「いや、おそらくそうだろうなと思ったのだ」
 僕は「……ええ」と答えた。「志望先も、それを見越してのことです」
「それなら、私のところに来ないか――そう、言いに来たんだが」
 僕は目を上げた。「……どうしてですか?」
「簡単だよ。そして割と失礼な理由だな。君はいいサンプルになるからだ」
 さらりと先生は言い放った。
「だが、もちろんそれだけじゃない。君たちはきっと、時感障害の治療法を探したくなるのではないか――とも感じたからだ。これ以上は言わなくていいかい?」
 だがね、彼女はと細く息を吐く。
「それによって人生を持ち崩す可能性は、否定できないな。……君たちには、不幸になってほしくないんだ。朋佳ちゃんのことは――何を言えばいいのか分からない。だが、気持ちを踏みにじるかもしれないのを覚悟で言えば、君たちには君たちの人生がある。でも――そんな強い言葉は、さすがに私もひどいと思う。……珠希の様子はどうだい」
「よくないです」
「……そうだろう。だが、先ほどの話を転倒させると、もしかすると彼女が研究に興味を持ってくれたら、なにがしかの支柱になるのではないかな?」
「それは……」僕は口ごもった。「どうなんでしょう。いいことなのか、分かりません」
「それも、そうだろうね。だから君たちに任せる。どんな決断をしても尊重する。大丈夫だ。決断次第では君のことも諦める。拉致して検体になどしないよ」

 それから珠希にこのことを話すと、彼女は「やる」と言ったきり、何も言わなかった。
 そんなことをしても彼女は帰ってこない。僕たちの動機は逃避行動に等しい。
 それを承知した上で、僕たちは研究の道に足を踏み入れた。

 僕は珠希を支えるほかなかった。彼女に健康的な生活を送ってもらうため、僕たちは同棲を始めた。いや、同一の空間で生活を始めた。お互い不承不承のことだっただろうけれど、それでも次第に生活は回り始めた。
 《移動》はちっとも起きなかった。そのことが、もう僕にはこの世界しかありえないことの証明だった。悔しかった。朋佳を救う可能性はほぼ途絶えていた。

 ある日、珠希は唐突に「名字が変わったんです」と告げてきた。
「野矢?」と呟いて、慌てて口を押える。「いや……」
「ああ」と、珠希の反応は冷淡だった。「どこかの世界での私も、そうなってたんですね」
 まぁ名前なんてどうでもいいです、と彼女は冷淡に吐き捨てた。でもそんなことはないんじゃないかと思った。だから、ちょっと訊いてみた。
「ねぇ、珠希」
「……なんですか」
「僕のこと、まだ先輩って呼ぶの?」
「……他の呼び方が、思いつきません」
「それに、敬語もそのまま」
「悪いですか?」
「そんなことはないよ。ただ――無理をしている、気がする」
「無理?」珠希は僕をじろりと見た。「先輩が嫌なら変えますが」
「嫌とかではないんだけど……」
「何がいいんですか? 言ってください」
 身を乗り出して迫られる。少しでも気が休まるのではないかと言ってみたのだが、そこまでされると、もう引くわけにはいかない。僕は、あの頃の『野矢さん』を思い出す。
「たとえば……今のなら『何がいいのか、言ってくれるかい?』みたいな……」
「何ですかそれ。私の方が年下なのに、変です。もしかしてその世界の私の口調ですか?」
「あ、……うん、そうだね。でも、なんか落ち着いていてしっくりくる感じだったから、試してみるのもありなんじゃないかな」
 珠希は僕の目をみて数回瞬きをしてから「ああ、仕方ないね。分かったよ。――こんな感じですか?」と言った。律儀に「こんな感じだろう?」と訂正しながら。
「いいんじゃないかな」
「なんで変な顔をしてるんですか? 先輩――いや、君? が言い出したのに」
「いや、いいと思う。すごくいい」
 そうなのかな、と彼女は釈然としない様子だったが、何度か頭の中で例文を考えたようで、それから「まぁ、悪くないかも」と結論付けた。「じゃあ、君のことはなんて呼べばいい?」
「中島くん、とか」
「それも合わせるのかい?」と彼女は呆れた。「この世界の私は、別人なのに」
「あ――」言う通りだ。懐かしさから、無神経なことを提案してしまった。
「下の名前で呼んだ方が、いつだって困らないじゃないか」
「え?」
「察してほしいね」と彼女は呟いた。「君しか、私を繋ぎ止める人はもういないんだから」
 ……少しの間黙ってから、「……じゃあ、そうしよう」と言うことしかできなかった。
「弘樹くん」
「珠希」
 二人で呼び合って、弱弱しく笑った。

 研究への道のりは進み始めた。僕は化学を学び、同じ大学に進学した珠希は物理学を専攻した。僕は先生と日々議論を重ねた。
 やがてある義務が近づいているのを感じた。自殺後にベンチで目が覚めた、あの直前の自分に乗り移り、ノートを書き上げてから、ベンチの隣に置いて座り、意識を失うこと。
 ノートを書いたのは自分。それを読んだ僕はノートから様々な情報(自分が時感障害であること、朋佳が僕を助けたこと、等々)を思い出した。その情報を僕はノートに書き、こうして過去の自分に渡した。
 僕は自分を維持するためにこれを過去の僕に渡さなければならない。そして、彼の記憶を整理するのに役立てなければいけない。
 けれど、事件のことを書くことはできないのだ。ここでの研究はかなり進んでいるからだ。もしも事件のことが書かれたノートを読んだ過去の僕が朋佳を強引に助けたとしても、技術が発展するかは不明瞭だし、そもそも治療法が確立される前に死んでしまう。手詰まりに近かった。僕ができることは、まるで慰めのように治療法を研究するだけ。

 果たして予想通り、僕はあの日の前日の夜に飛んだ。
 僕は知識の引継ぎを成し遂げた。

 珠希はやがて一つの仮説を見つけた。それは「脳のマクロなスケールで量子現象が起きており、それと《移動》に関連があるのではないか」というものだ。
「だとすれば、その現象を確認できさえすれば、この病の発生原因が証明されることになるのだろうか」と、先生は遠い眼をした。
「僕の脳を観察すればいい」と僕は言った。「身近にいる、手っ取り早く手に入るサンプルです」
「しかし……いや、分かった。取り組もう」
 入不二研究室での研究に僕たちは加わった。
 珠希と僕は同棲していたが、一人と一人が同じ空間に暮らしているだけだった。僕は彼女が逸脱しないための、監視役だった。
 お互い一言も朋佳のことは喋らなかった。けれどたぶん僕たちは地球上の誰よりも朋佳を大事にしていた。だから、僕も珠希も、お互いのことはちっとも見ていなかった。
 僕は自分の脳や身体のデータを提供することを躊躇わなかった。時感障害の貴重なサンプルとして、生きたまま使い潰される覚悟だった。
 先生は僕たちを心配したが、同時に僕たちの助力を大きな力に感じていたのも事実だろうから、何を言えばいいのか分からない様子だった。実際、研究は僕の(秘密裏の)データ提供と珠希の理論によって、より具体的な方向に進みつつあった。
 一年、五年、十年。
 一向に《移動》はなかった。その間にも研究は進む。だが、朋佳と同じように、僕の脳にもいつか腫瘍が発見されるだろうという確信があった。
 命が尽きるのが先か、治療法が解明できるのが先か――時間との勝負。まもなく精密な実験が可能になり、僕の脳を観察することができた。
 そこで起きていたのは、予想通り驚くべき現象だった。特定の部位が量子現象を引き起こし、脳腫瘍を引き起こしている可能性が指摘された。
 そこから治療法も見つかる。重ね合わせの現象を起こしている物質を阻害する薬品を作ればいい。理論が完成してからは非常に早かった。
 けれど僕の頭はからっぽだった。こんなにもやるせない人生はなかった。
 救うべき人はもういない。残酷なことを言えば、これから助かる可能性のある人たちを生き甲斐にすることはできなかった。彼女はすべてだった。
 僕はまた、自分の病を治療したいなどとは毛頭も思わなかった。《移動》に関してはもう起きないだろうし、さっさと脳疾患か何かで死にたかった。珠希には言わなかったし、言えなかったけれど。
 珠希は何も言わなかった。何も言えなかったんだと思う。

 ある日僕は珠希を食事に誘った。気まぐれだった。いや、気まぐれではないのかもしれない。
 せめてもう少し、人間的な関係を持つべきではないのかと思ったのだ。
 ……結果は悲惨なものだった。二人とも何も喋らないまま、五分が過ぎ、十分が過ぎ、三十分が過ぎた。
 やがて珠希はそれを破った。
「たぶん、私は君を好きになるべきなのかもしれない」
「……え?」
「私のために傍にいてくれるのなら、相応の何かを用意しなければならないのかもしれない」
「……」
「でも、それはできない」
「そんなことは求めてないよ」
「私はもう誰かを好きになることができないんだ。それが悲しい。本当に済まない」
 彼女はそう言うと「何を食べても、ガラスを噛んでるみたいだ」と呟いた。

 そうやって、僕の脆弱な余生は続いていく――はずだった。

 その時僕は、大学の図書館で論文に関する作業をしていた。
 ふと窓際に並んだパソコンの画面に視線が向いた。
 図書館のパソコンには、新聞社のデータベースから過去記事を抜き出すことができるサービスがある。キーボードに手を置いて、特定のキーワードで検索する。大きな事故ということもあったから、多数の記事がヒットした。
 そこから僕は、一つの記事を選んでプリントアウトした。
 見出しには「山中に旅客機墜落」と書かれている。「生存者は一名のみ」とも。
 記事の内容にざっと目を通す。

「――日深夜に当該機とは交信不能になり、レーダーからも消滅。未明、――岳の山中で捜索隊が炎上、墜落しているのを発見した。機体の損壊度から見て生存者は絶望的と見られたが、軽症の男子中学生一名が発見され、まもなく救助隊に緊急搬送された。男子中学生は頭を強打していたが意識はあり、受け答えもはっきりしている。他に外傷はなく、奇跡的に命に別状は見られなかった。他三九五人の乗客乗員は全員の死亡が確認された。当局はフライトレコーダーの解析とともに、先の生存者や、目撃者の証言を集めることにしている」

 今まで僕は意識的に自らの事故のことを考えず、調べもしないようにしてきた。それは記憶になかったからだ。考えられる可能性は三つ。まだその瞬間に飛んでおらず、経験していない。そもそも意識を失っていた。一時的な記憶喪失に陥っている。そのどれかだろう。もしも一番最初の可能性があるならば、僕はこれから事故を経験しなければならないことになる。最も恐れていたのはその事態だった。だからこそ、見てみぬふりをしなければ、自分を維持することができない――そんな自己防衛の手段として、忘却を選んだ。
 それならなぜ、いまそれを破っているのだろうか? ……分からない。気まぐれなのかもしれない。それとも、これから事故を経験する可能性を思い出して、無意識にショックを緩和したかったのだろうか? データとして事故を知ったとして何になるわけでもないのに。
 それを読み終えた僕は、特に持っていたいものでもないのでゴミ箱に捨てようと思い、紙面を持ったまま席を立って――
 ――待てよ、と思う。
 再び記事に目を通す。
 もし事故と時感障害に何らかの関連があるのならば、頭を強打したことが具体的な理由になるのかもしれない。とはいえ事故直後の僕に意識はあったという。そして錯乱したりはせず、しっかりとした応答もできたらしい。それならば記憶喪失状態ではなかったということになる。
 にもかかわらず、僕には記憶がない。
 ――そう考えると、やはり未経験説がもっとも有力と言える。
 ため息が出た。痛みや苦しみには慣れているが、それでも「これから拷問される」と分かった上で生きていかなければならないことは、やはり計り知れないストレスだ。もう何も感じないほどに燃え尽きかけた僕でさえも、まだ恐怖という感情は残っていたのだ。
 この事故こそがすべての元凶だった。僕と朋佳を出会わせ、引き裂いた大いなる原因。避けることはできない。なぜならそこが僕の時間《移動》の起点だからだ。僕自身がそれ以前に遡って飛行機に乗らない(事故自体を止めることは僕には不可能だろう)ことはできない。それを回避させられるのは、朋佳のような、僕が発症する前の時点に《移動》できた朋佳だけだ。その結果、僕が時感障害になったことはなかったことになり、普通の人間として生涯を終えるはずで、でも僕は彼女を助けようとして、そして失敗し、ああ――そうだ。
 僕は朋佳を助けたかったのだ。
 その感情を思い出した瞬間、涙が溢れてきた。図書館に来ている利用者たちに奇異の目で見られても、どうでもよかった。
 朋佳を助けることなど、もはや叶わない願いになってしまった。だってもうこの世界で朋佳は死んでいるから。だから時感障害を治せる技術があっても無意味だ。僕に時間《移動》は起きないから、朋佳が死ななかった世界に向かうこともできない。もし《移動》できるとしても、それはあの忌まわしい事故の瞬間だけ。

 いや。
 少なくとも、事故の瞬間には行くことができるのか。

 涙が止まった。
 何かが引っかかった気がした。

 考えろ。
 僕が飛ばされる事故の瞬間。その世界は、今僕がいるこの現在に繋がるだろう。そこで僕は病を発症する。あらゆる場所を飛び回り、朋佳と出会い、別れ、気の遠くなるような時間が流れた後、今この瞬間まで繋がる。ちょうどノートの展開を完璧になぞり、それからこの世界での僕の人生に繋がり、今に至るわけだ。だからもしもその起点になる事故の際に、たとえば僕が自殺でもすれば、今まで起きてきた人生のすべてが泡と消えるだろう。もちろんそんなことはしないけれど。しかし、変化を起こすことはできる。
 考えろ。
 僕は時感障害の治療法を知っている。だから事故の瞬間に飛んだあと、もしも少しでも違う行動を取りさえすれば、そこから過去が分岐する可能性がある。たとえば――治療法を、誰かに伝えたりすれば? それが本当に伝わるかは分からない。狂人の戯言だと思われるかもしれない。また、僕が語った程度で薬がすぐ開発されるわけではないから、何年もかかるかもしれない。……それでも、伝わりさえすれば短縮させられるかもしれない。
 考えろ。
 整理すると、問題になる世界は三つだ。
 療養所で僕たちが出会い、最終的に朋佳が病死した世界。Aとしよう。
 僕が今いる、飛行機事故で僕が発症し、高校で三人が出会い、朋佳が殺害され、時間障害の治療法が見つかった世界。Bとしよう。
 そして、Cの世界は、Bから飛んだ僕が事故の後に治療法を伝え、朋佳の病が治った世界。
 Aで、朋佳は僕の前で死んだ。そのままなら、彼女の意識――魂でもなんでもいい――は、そこで終わりを迎えたまま消えるだろう。だが、彼女を治療できたCの世界を作り出せれば、朋佳の病死の瞬間まで遡って、そこからバイパスのように意識を《移動》させられるのではないか? 朋佳に残された可能性がAだけだったとすれば、他にCの世界が見つかった瞬間、必ずそこに飛ぶだろう。そしてその先の世界では、もう病が治癒している。そうすれば――彼女は、普通の人間としての一生を終えることができる。
 考えろ。
 Bの世界で、朋佳は十二歳で発症した。僕より前だ。でなければ事故から僕を救えない。だから、僕が治療法を人に伝えられたとして、その頃には既に発症していることになる。もちろん病の初期段階であるならば、薬を飲むことで観測される世界が(飲んだ世界で)固定されて、治る。腫瘍も自然治癒または摘出でうまくいく範囲だ。ネックとしては、それまでに《移動》が起きてしまったなら混乱が予想され、厄介なことになるわけだが――だが、おそらくは大丈夫だという実感がある。なぜならば時感障害は進行(朋佳にとってはB→A→C)とともに《移動》がどんどん減っていくからだ。既にAの世界でさえ、十二歳からここに来るまで一度も《移動》は起きなかったというではないか。

 ……理屈は、通った。
 だがそれは通っただけだ。実現可能性は限りなく低いだろう。
 でも、そんなのどうでもよかった。彼女を救えるかもしれない――その気持ちだけで、もう十分だった。それだけで、また僕は生きる気力を取り返した。今までと同じ。どうしてこんな単純なことを、忘れてしまっていたのだろう?
 僕の命はまだ、燃え尽きてなどいなかったのだ。
 
 数日間の準備を終えて自宅に戻ってきたとき、ちょうど珠希もいた。学会から戻ってきて、仮眠を取っていたのだ。僕はパンをトースターで焼き、目玉焼きを作って、切ったトマトとレタスを添えて、簡素な朝食を作っておき、ラップをかけて机の上に置いた。
 その時――ねぇ、と声がした。
「ごめんね。起きていたんだよ」
「……」
「ねぇ、どこに行くのかい?」
 珠希は、ぽつりと僕に訊く。
 僕は答えなかった。答えられるわけがなかった。けれど、珠希は僕が何をしようとしているのか、既に察しているらしかった。そうだ。やっぱり彼女はとんでもなく賢いのだ。
「僕は」と言いかけた瞬間に、彼女が抱き着いてくる。
「よくないことを、考えてる」
「よくないことじゃ――」と言おうとした瞬間に、彼女は僕を後ろから抱きしめた。
 二人で暮らすようになって、初めて僕の身体にまともに触れたかもしれない。
「よくないことじゃ、ないんだろうね」
「……」
「朋佳ちゃんのことだろう?」
 黙り込む僕に「済まないね」と珠希は続けた。「でも、仕方ないな。私だって彼女のことは大好きだし、助けたいって思っていたから。だからそれが叶わなかったとき、すごく悲しかったんだよ。すごく、すごく。それは……弘樹くんだって見ていたと思う。でも、二人っきりになってから、だんだん君のことを、特別に考えるようになってしまった。それは――朋佳ちゃんに対する裏切りだというのは分かってた。でも……私、は」
「……珠希」
「いいんだよ。私の我儘だから。今だけは、一緒にいさせてほしい。話をさせてほしい。――だいたい分かっているよ。弘樹くんがこれからどこに行くのか。もう二度と会えないことも分かってる。だから――今が最後の時間なんだね」
 彼女は僕の前まで回って、鼻がくっつきそうなほどに顔を近づけて「いや、いいや」と笑った。「やっぱり、朋佳ちゃんを裏切るのはやめよう」
 実はね、と彼女は切り出す。
「弘樹くんのことは、あの頃から見ていたんだ。最初に屋上で見つかっちゃったときは『しまった』って思ったけど、やがてすぐ慣れた。君、せんぱい、きみは人懐っこいから。二人で過ごす日々は楽しかった。……それから朋佳ちゃんがやってきた。より賑やかになった。楽しくなった。でも――私は心のどこかで、彼女を邪魔に思っていたかもしれない」
「……そうなんだね」
「たぶん。でもそれは言えなかった。だから、あのグループは薄い皮一枚隔てたところでギリギリ綺麗に成り立っていたんだと思うよ。勘違いしないでほしいのは、朋佳ちゃんのことはいつだって大事だったってこと、それは確かなんだ。でも、それでも、私は彼女を疎ましく思ってしまった。だから、死んじゃったとき、心のどこかでそれを――喜んでるとは絶対に言わなくても、安堵してしまった自分がいたかもしれない。それを考えたとき、とっても恐ろしくなった。だから私はめちゃくちゃになった」
 それでも弘樹くんは受け入れてくれたよね、と続ける珠希は、もう涙声だった。
「その厚意にまた甘えてしまった。弘樹くんは朋佳ちゃんのことしか見ていなかったのに、私なんかが足を引っ張ってしまった。私は最悪の、罪深い人間なんだよ。ごめんなさい。あやまらなきゃ、って」
「謝らないでいいよ。もとはといえば――病気が全部悪かったんだ。でも」
 僕は珠希に向き直る。
「珠希との時間は、間違っていたとは思わないよ。それは、嘘じゃない」
「……ありがとう」
 そう呟いた珠希は、涙を拭きながら笑っていた。

「お別れなんだね」
「そうだよ」
 僕が鞄を持って、玄関に向かう。彼女はてくてくとついてくる。
「朋佳ちゃんをよろしくね」
「うん」
「私の――友達を、よろしく頼むよ」
「うん」
 最後に、珠希は僕の手を一度握ってから、手を振った。
「いってらっしゃい」
 そのまま、ドアは閉まった。

 どこで命を終えるかは、もう決まっていた。
 あの時と同じ――海が目の前に見える、あの場所で。

 予想が正しければ、僕に残された、まだ生きていない人生はあの事故の瞬間だけ。
 だからここで自殺すれば、自動的にそのポイントに飛ぶことになる。あとは――生き延びること。
 飛行機事故の生存率は絶望的だ。僕の場合。墜落時には無事だったかもしれないが、その後を耐えなければいけない。だから墜落現場を調べ、救助が来るまでどのように命を繋ぐかをリサーチした。それに頼るしかない。
 また、同時に時感障害への特効薬の知識を伝えないといけないので、僕は必死でさまざまなデータを暗記した。つまり、理論はともかく生成方法だけでも伝えられれば勝ちなのだ。それを、既に存在している入不二研究室に送るよう伝える。子供の戯言だと思われたらおしまいだが、香苗先生のことだ。僕が具体的な名前を出せば、絶対に何かを察してくれるはずだ。だからそこまで届くよう、事故を生き延びた後も注意しなければならない。具体的な治療をしてもらうならば、朋佳の名前を出すべきなのかもしれない。
 もしそれが成功して、僕が向こうの世界で生きていられたとして――朋佳は、事故が回避された時の僕のように、すべての記憶を持っていないだろう。だから、僕と会ったとしても何も覚えていないし、何も感じないだろう。それでいい。彼女が助かった世界で、僕は何もせず、穏やかに暮らそう。
 ただ、彼女には生きていてくれるだけでいい。

 その決意のまま、僕は最後の一歩を踏み出した。

 

9 - FADE TO BLACK

 最初に感じたのは、熱だった。
 灼けんばかりの熱が、実は温度ではなく痛みであることに気づいたのは、まもなくのことだった。ざぁざぁと吹き込んでどこかを揺らす風は、天候が悪化したことを示唆していた。
 真っ暗な世界。身体はまったく動かない。特に足を動かそうとすると激痛が走る。痛い。痛い。意識が飛びそうになる。何が起きているのか。ただ痛み。痛み――だが、それは思ったほどではなかった。いや、どれほど痛かったとしても冷静にならなければならない事情があった。耐えなければいけなかった。だからもう麻痺していたのかもしれない。
 ……僕は今、飛行機事故に遭遇した、ということになるだろう。ここまでは狙い通りだった。だが次の関門として、この事故から生き延びられなければならない。それこそが、最大の難関でもある。死んでしまえばおしまいだ。次のチャンスはない。
 ここを出るべきか迷う。身体が無事で、骨折等がなければ機体の残骸の外に脱出できるはずだ。なにしろ僕は無傷だったと報道されているのだから――あれ? それならば、この痛みは?
 嫌な予感がした。
 身をよじったところで何かに接触したのか、ガタンと音を立てて何かが倒れたようだ。それによって少しばかり外からほんのわずかに光が入ってきた。
 僕は目を凝らしてみる。少しずつ眼球を暗闇に慣れさせていく。
 そこで、見えてきたものは――

 何らかの金属製の骨組みに、自分の脚が潰されている様だった。

 真っ白な部屋。世の中のあらゆる澱み汚れを排除し漂白たような場所。
 僕は慌ただしくそこに運ばれた。悶える。ベッドではシーツを掴み、剥がれるまで爪を立てた。
 上半身を無理やりに持ち上げると激痛――いや、痛みでさえない身悶えが起きる。ベッドと接触している壁に、必死に体重を預けた。その後もじりじりと一定の周期を置いて噴出する痛み。
 生きている。
 まだ、僕は生きている。
 ……けれど、生きているだけだ。
 手術によって両足が切断されると同時に輸血も行われたが、様々な部位の骨折、また傷口の化膿および感染症が進行しており、総合的に見て対処が困難である――と予想された。天候が悪い中で、複雑に押しつぶされた僕を救出するのに時間がかかってしまったためだろう。
 ……これは医師から伝えられたことじゃない。誰も僕に状況を教えてくれなかった。とはいえ、どれほどの痛みの中であっても僕は冷静に察していた。自分が助かる見込みは、万に一つもないことを。だから、やってきたある女性に「僕は、助からないんですよね?」と言い放ったのだ。
 青山奈幸。事故や事件の被害者を担当するカウンセラーだ。
「……そうですね」と彼女は言ってから、淡々と事実を語った。青山さん。懐かしかった。容姿はほとんど変わっていなかったが、メイド服ではなくスーツに身を包んだ彼女の顔からは、あまり感情は見いだせなかった。僕の痛々しい身体にも、反応はなかった。
「私はちょっと困惑しています」と青山さんは告げた。
「もうすぐ死ぬ人間がカウンセラーを求めることですか?」歯を食いしばりつつ、応じる。
「そうではありません。欧米では神父や牧師がこういった局面で役割を担うことがあるので」
 それから彼女は言う。
「初対面の時点で、あなたは明らかに私が来ることを知っていたような様子だったからです」
「……そうで、すね」
 彼女の洞察は鋭い。彼女がカウンセラーとして働いていることも、僕を担当したことも既に調べてあった。そして彼女が入不二家と当時から関係があったこともまた、知っていた。だから、彼女に伝えることで、必ず先生の耳に入るという確信があったのだ。
 だから、チャンスは残っている。
「前置きはなくていいですか? のこっ……残り時間は少ないんです、だからっ」
「はい」
「いいですか――今から僕の言うことを、一語一語すべて書き取ってほしいんです」
「ええ――なんなりと」彼女は顔色を変えないまま、メモを取り出した。
「助けたい、人がいるんです」

 僕は語った。時感障害について簡潔に語った。それによってここまで来た経緯を割愛しつつ語った。時感障害の原因と、それを治す薬品のアイデアについて語った。その詳しい化学的な組成について、専門の人間ならば分かる範囲で語った。それから……永井朋佳のことを語った。彼女が時感障害の患者であることを語った。それを――正確には、母親も一緒に調べるべきだと。そしてその症状が進行すれば間もなく死が待っていることも語った。だが今のうちに治療をすればそれを回避できることも語った。

「これを、入不二研究室の、入不二香苗先生に伝えてください。必ず」
 あとは……あとは……。いや、もう大丈夫か。そう思っていると――
「了解しました。……まだ、言いたいことはありますか?」
 何度も新しいメモ帳を取り出ては書き綴っていた彼女が、目を上げて僕に訊く。
 まだ言いたいこと、まだ言いたいこと……。何だろう。
 ……気がつくと、僕は喋りはじめていた。切れ切れで、もはや声になっているかも怪しかったが、それでも必死に話し続けた。
「僕は……女の子に、出会いました。その子は変な病気でした。その子は僕に冷たかったです。でも、どうしてか気になって、なんとかして仲良くなろうと思いました。そうしたら、彼女は心を開いてくれました。でも彼女は死んでしまいました。僕は彼女を助けたかった。だから彼女がくれたものを消費してでも、それを成し遂げようとしました。その中で、僕は青春を知りました。それは……楽しい日々でした。でもそれはすぐに終わりました。彼女はまた予期せぬことで死んでしまいました。僕は苦しみに満ちた日々を送りながら、なんとか病気を治す薬を開発しました。そして、それを使って彼女を助けようとして、それで――」
「ここまで来たんですね」
 青山さんは頷いた。
「……信じるんですか?」
「信じてもいませんし、信じていないわけでもありません。私は話を聞くまでです」
 でも、と彼女は付け足して、こう言った。
「その女の子は、とても素敵な方なんでしょうね」

 僕の命は、こうして使い果たされた。

 

 

10 - BOY MEETS GIRL

 私は目を覚ました。
 そこは私の家の、自分の部屋だった。ベッドの上だし電気が消えているから、今は夜だろう。窓際にあった時計の針は零時。目が慣れてくると部屋全体が見えてきた。置かれているものからして、これは小学生頃の記憶だろう。
 そこで思う。ああ――これは最後に見る夢なのかな。
 走馬灯。
 めちゃくちゃな自分にも、そんな最期があるのかもしれない。
 明かりを点けないまま一通り部屋を見る。それから懐かしい物をいくつか取り上げてみたが、さほどノスタルジーは感じなかった。たった十八年程度だから、仕方ないのかも。
 階下に降りてみたが誰もいない。この幻想の中に家族がいるのかは知らないが、無理に起こすことはしたくない――というか、顔が見たくなかった。
 だからすぐに布団の中に入る。
 ふと、窓際に置かれた薬瓶が目に入った。見たことがないものだ。中に入った錠剤は、いくらか使われた後のようだ。何の薬だろうか。ラベルがないので分からない。この場所で、私が見慣れていないものはそれだけだった。
 でも、それが何だろうとどうでもいい。
 ――これで本当に、おしまい。

 夢を見た。
 最初に現れたのは。どこかからやってくる波紋のような力。
 次に、仄暗い場所から何かが浮かび上がってくるイメージがあり――そこからイメージ同士が接近し、凝縮し、それは波の中でひとつの網の目で繋がった。そして波は一点に集中し――意識がそこにフォーカスされた瞬間、そこに吸い込まれて――

「……えっ?」

 そこは、雪の降る夜の浜辺だった。
 私は目を疑った。
「どう、して」
 私は死んだはずだ。そう、弘樹さんと最後のデートに出かけて、車でここまで来て、それから、それから、私、え? 私は――?
 横になっている身体を持ち上げ、両の腕を見る。目の前で拳を作ったり戻したりしてみる。肉体は正常に動く。まだ眠さはあるし、身体は冷え切っているけれど、それでも私は確かに生きていた。
 なんで、生きてるの。
「なんで、いきてるの?」
「目が覚めたんだね」
 その声にはっとして、思わず後ろを向こうとして「だーれだ」と両の目を抑えられる。
 嘘だ。そんな。いや、そんなはずがない。だって、私は死んで、弘樹さんに看取られて、でないと、でないと、大変なことに――
「はい、時間切れ」と言うなり、彼は後ろから僕を優しく抱きしめた。
 そう、彼。
「ひろき、さん? うそ?」
「嘘だ、って言ったら?」
「――なんでっ!」
 私はその腕を振り払った。
「おかしい、そんなはずありえない」
「そうだね。ありえない」
「そんなの――」
 私が乱暴なことをしても「大丈夫だよ」と彼は優しい声のままで、私は泣きそうになってしまった。なんで? なんで?
「ここは僕と朋佳が二人とも寝ていた間の時間だろうね。そこは、お互いぴったり空白だったのか」
「……え?」それなら、どうしてもう時感障害じゃない弘樹さんが?
「いくつか謝らなきゃいけないことがあるんだ」と彼は申し訳なさそうに笑った。「君の手帳を探して身体をちょっとだけ確認させてもらった。あんまりにもデリカシーがないけど、これから先の僕が見つけられなかったら水の泡だからごめん。助手席のシートの上に置いておいたのさ。そこに朋佳の遺体を座らせて、下ろすときに見つける――そしてすべてを知る」
「手帳? ……そんな」
 私の頭の中で、何かが次々に弾けていく。
「でも、それなら……どうして私たちはここに……いや、ここはいつ? あ、あ……」
「混乱させちゃったよね。でも、次のごめんを聞けばきっとわかるよ」と彼は頭を掻いてから、私をしっかりと見据えて、言った。

「朋佳がくれた人生――時間、全部朋佳のために使っちゃった」

 その言葉で、私は何かを悟った。
「弘樹さん――なに、したの」
 まさか。
 まさか。
「朋佳が時感障害になっていない――いや、それが治ったであろう世界を作りだしたんだ」
「……うそ、そんなのありえない。どうやって?」
 私は咄嗟に反応する。反論する。
「僕は再び時感障害になったんだよ。それで君と出会った頃の過去まで飛んだのさ」
「ありえません。弘樹さんの人生の残りはもうないと、あなた自身が言っていたんです。だから、だから事故からあなたを助ければ、弘樹さんはここで一生を終えられると――」
「そう。確かに言った。間違ってないよ」
「じゃあ、なんで……」
「簡単だよ。僕と朋佳は、最初から初めて出会ってなんていなかったんだ」
 はじめてじゃない。
 最初に出会ったときのこと。
 私に優しく声をかけて、助けてくれたこと。
「あなただったの……⁉」
「そうだよ。今の僕――君に変な手紙で呼び出されて、冷たくあしらわれて、でも気がついたら気になって、追いかけてきちゃって――ここまで来た、僕だ」
 最初から、すべてはそうなるべくしてなっていたのだ。
「僕にはまだ、別の世界に残されていた自分の人生があったんだ。だからここで死んでも、また別の世界に飛ぶことができた。そして飛んだ先が――君と出会った場所だった」
 それが本当ならば。
 あのときの弘樹さんは既に私が病死したのを知っていた彼で、じゃあ、その他の時は?
「全部」と弘樹さんが先回りして言った。「その後も、全部知ってて見てたよ」
「弘樹さん――!」
 私は叫んでいた。
 こんなことがあるなんて、思ってもみなかった。
 私が彼を助けようとしているのと同時期に、彼もまた私を助けようとしていたのだ。
「ただ、朋佳の記録と唯一違ったのは、刺されて死んだのが僕じゃなく、朋佳だったことだ」
「ちがった……? 弘樹さんは、あのとき……」
「朋佳が先に通った世界ではそういう運命だったんだろうね。でも、僕はトロかったから、君を守れなくて――僕だけが生き残ってしまった世界ができたんだ。そして、そこで僕は治療薬を開発した。それでね、ここでまたすごい奇跡だけど、実は事故の瞬間がまだ空白だったんだ」
「――!」
 だめ。言わないで。
 それ以上、言わないで。
「僕はそれを経験してから薬の開発技術を人に託した。その賭けは――うまくいった、のかな。ねぇ朋佳。君はどこからきたの? いや、だいたい見当はついてるんだけどさ」
「分かってるの……?」
「たぶん。君はもう一度、僕が作り出した世界に行ったはずだ。もうひとつ、君が死んだ直後の魂で、それがほんの少しだけ前のこの時間に飛んだ、って可能性もあるけど……」
「私、知ってる」
 そうだ。あの部屋。あの家。――そしてまさか、あの薬は。
「さっきいたところが、新しい世界なの……?」
「そうだよ」
 弘樹さんは頷いた。「いくら製薬技術を伝えたって、実際に薬ができて、それが認められ、効果が出るのには長い時間がかかる可能性があったし、それまでに《移動》が起きることもあると思ったんだ」
 その結果、再び私はここに来た。
「薬に関してはそんなに心配していなかったけどね。先生がきっとなんとかしてくれるだろうって信じてた。……あんまり法律上いい方法を使ったかどうかは分からないけどね」
 そう言って、弘樹さんは雪を払うように私の頭を優しく撫でた。
 私が助けた彼は、また私を助けてしまった。
 だとしたら――これからは、どうなる?
「僕と同じように、朋佳の記憶はなくなるだろうね。残念だ」
 タイムパラドックス
 私はもう時感障害ではなくなっているから、時感障害がきっかけで起きた、今まで生きてきた出来事はすべて消滅する。だから私の記憶はなかったことになる。
「でも、向こうの世界にも、弘樹さんはいるんですよね?」
 私は縋るように言い続ける。
「記憶がないから、きっと分からないさ」
「でも、弘樹さんの方はあるじゃないですか。弘樹さんも時感障害を治せば、二人ともどこにも《移動》しないで済む。同じ時間を生きられるんです。私の記憶がないのは仕方ないけど、でも、そうすれば、やっと、やっと普通の人たちみたいに――」
 恋が、できる。
 そこまで言うことは、彼に遮られてできなかった。

「もう、僕はそこにいないんだ」

 その言葉。
「事故の怪我が思ったよりひどくてね。失敗しちゃった」
「――あ、あ」
 何かが溢れてくる。
 もはや涙に収まりきらないあらゆる感情が爆発して、私はむせぶ。
「うそ、うそですよね? こんな冗談、面白くもなんともないじゃないですか。最悪です、私、こんなに頑張って、こんなに好きで、助けたくて、弘樹さんもたぶん同じで、でも、やっと同じ時間を生きられたと思ったら、ひどい、ひどいよ――こんなの、死ぬのよりもっとひどい」
 でも弘樹さんは穏やかに笑っていた。いつも通り、笑っていた。
「何で私なんか助けたんですか。こんなことになるなら死んだままの方がずっとずっとマシでした。弘樹さんが生きていてくれるなら、それだけでよかったのに! なのに、私の苦労を全部ふいにして、押しつけがましくこんなことをして、私を愚弄してます、あなたって、あなたって人は――!」
「僕も、朋佳が生きていてくれればそれだけでいいんだ」
「――!」
 そうだ。だから私は彼を助けたのだ。
 二人とも、思いは一緒だったなんて。
 誰かを助けたい。そんな陳腐な感情。
 その願いは独りよがりだろうか?
 都合のいい、自己満足だろうか?
 そうなのかもしれない。確かに、そうなのかもしれない。
 でも私はそれを悪いことだとはどうしても思えなかった。
「朋佳は納得しないだろうね。でも、勝手なことを言わせてもらえば、僕はこの結末は嫌いじゃない。だって僕の命は、ちゃんと燃えたから。残りの時間も命も、全部使い果たせたから」
「何言ってるんですか、弘樹さん、弘樹さんは――」
「もう消えちゃうのに、って?」
「……」
 彼は私の方を向いてはにかむ。身体をくっつけたまま、顔と顔が向かい合う。
「朋佳、僕のことを弱いって思う?」
「身勝手だと思います。最悪です」
「……ごめんよ」
「でも弱いとは思いません。弘樹さんはつよいです。弱いのは、私で」
「僕の方が弱いさ。……少なくとも、誰かのために生きる人はみんな弱い」
 弘樹さんは海の果てへ目を向ける。
「僕たちだって、どちらか片方が一度でも自分を大事にできたならこんなことにはならなかったのかもしれない。だから僕たちは弱いし、愚かだし、哀れだ。でも」
 それでも、と弘樹さんは言い切った。
「僕たちは、綺麗だ」

「まさかこの合間の時間が二人に残っていて、このタイミングで会えるなんてね。偶然なのか、できすぎてるのか」
 弘樹さんは愉快そうだった。
 ――私たちの目の前に広がる大きな暗い海。
 馬鹿でかいだけの塩水のたまり場。
 そこに雪が落ちる。
 積もることはない。すぐに海面で溶け消える。――けれど、雪の勢いは少しずつ増しているように感じた。それこそ、この海原をすべて白く埋めてしまうのではないかというほどに。
 なんて寂しいんだろう。
 なんて悲しいんだろう。
 なんて美しいんだろう。
 私は憎む。世界を憎む。
 何かが終わっていく瞬間が、こんなにも美しいことなんて――許せない。
 許せないぐらいに。
 腹立たしいほどに。
 涙が出るくらいに。
 この景色はただ空しく、何の意味もなく、輝いていた。

「もうすぐこのときも終わるけどさ。今だけは、二人同じ時間に生きていられるんだよね」
 弘樹さんが頷いたので、私は彼の腕に絡みついた。
「じゃあ、こうやって感じてる体温も同じ時間なんですね」
「……うん」
 身を寄せ合ったままベンチに座って、指を絡める。皮膚を刃物で切り裂かれ続けているような寒さの中で、その熱だけがすべてで、唯一の真実だった。
 天に昇っていく白い息。
 真っ赤になって痛む耳。
 そんな何もかもを私は忘れるだろう。失うだろう。
 この幻が終われば、私に待っているのは朝。
 何も知らないまま目覚め、何も知らないまま今までと違う家族と、何も知らないまま学校に行き、何も知らないまま友人と話し、何も知らないまま一日を終える生活が始まるかもしれない。そうして弘樹さんのいない人生だけが始まり、出会った痕跡は何一つ残らず、私は人生を生きていくだろう。ただ一本道を歩き続ける、そんな日々を。
 朝は必ずやってくる。それは、どんな目覚めだろうか? 眩しいだろうか? 曇っているだろうか? 雨降りだろうか? 
 でも今はどうでもいい。
 でも今だけはどうでもいい。
 私は、一秒でも長くこの時が続いてほしいと思った。それ以上はもう望まなかった。
 祈った。

 これはシンプルな物語だ。
 要約すれば、男の子と女の子が出会って、別れる、それだけの物語。
 特別なことなんて何もない。単なる平凡なボーイ・ミーツ・ガール。

「もしかして、完全にこうやって同じタイミングで会うのも、初めて?」
「そうかもしれない」
「そっか。じゃあ挨拶しなきゃですね」
「そうだね」
 今、私たちは出会った。
 だから握手をする。
「はじめまして」
 そして、それと同じこの瞬間に、別れるのだ。
 だから手を振り合う。
「さよなら」

 二度と会うことのない、別れ。

 長い、長い、お別れ。