『青春諜報員アンナ』(Ver 23.2.05)

 

「わたしを利用してくれてありがとう」

カート・ヴォネガット・ジュニアタイタンの妖女

 

 

 

 そういえば、最古の記憶は影だったような気がする。
 こうして夕暮れを歩き、七回に一回ぐらいの頻度で頭に浮かぶそのイメージがいつの体験なのか、僕には分からない。
 何の本だかも忘れたけれど、昔どこかで、人間は無から生まれたのだから、忘れているだけで誰でも無を知っているのだ、という文章を読んだ。
 それなら、人間が初めて影を知るのはいつだろう?
 ただ、今は連れ立って歩く一人が舗装のブロックに登ったり降りたりするから、僕と重なった陰の腕や足が三本になったり四本になったりして、哲学もどきには向かなかった。
「おお、あぶなっ」
 そいつはふいに転びそうになって、慌ててバランスを取り、身体を戻す。また影が軟体動物みたいに身震いをする。
 一段高い道を登って歩く。それがこの女の子の癖だ。身長を高くしようとして始めたというそれは、中学生になっても治らなかった。
 今もまだ、遠くを見るには背丈が足りないと思っているのかもしれない。
 翻って、同じこの町で齢を重ねた僕は。
「……どうしたの? そんなにぼーっとして。いや、それはいつもだけど」
 一言多いよ。
「なぁ、僕たちってここに住んで何年ぐらいだっけ?」
「小学校の頃にはもう、このぼーっとした顔に憶えがあるけど」と彼女はからかう。「生まれたときから、でいいんじゃない? その前を知っている家族は死んでるからいないし」
 あっけらかんとこいつは言う。
 そこには、空洞で通じ合う人間同士の遠慮のなさがあって、なにかと僕たちを十字架にしたがる大人たちの憐れみより心地よかった。
「で、なんで急に回想入ったの?」
「理由はないけど。なんか……変わらないなぁって思って」
 あーあーあー、と癒衣は自分の頭をこつんと叩いた。現実にこういうジェスチャーをする奴を僕は人生で彼女しか見たことがない。こいつからすれば、そうさせるのが僕しかいないと反論されるだろうけど。
「あのね、あとひと月もすれば、私たちはこの町から出て行くんだよ」
「……確かにそうだった」
 進路。なんとなく頭に上らないよう受け流してきたものが、ぬっと現れた。
 癒衣が乗っている船が、どこへ帆をあげているのか、僕は訊きそびれてしまっていた。なのに僕は、どこかでいっそ、話の手がその枝を手折る瞬間を期待してもいた。いかにも学生然とした、矛盾というやつだ。
 でも、今度も戻ってくるのは謎かけで。
「それでも、やっぱり私は望海の横にいるんだろうなぁ」
「『だろう』って……」
「だって、そう決まってるからね」
 彼女が逆光に手を広げ、地に十字を投げかけたとき――
 白昼夢は弾けた。

 

 雲をすり抜けた陽が、鋭く道筋を裂いているのを、僕は見ていた。
「……檜原くん、ごめんなさい」
 個人経営の喫茶店、テーブルの対岸で、ペンを置いた同じクラスの浅間篠さんが呟く。
「つまんないですか、私といるの……」
 檜原望海十六歳、男女の憩いでおよそ想像しうる最悪の感想を頂いた。
「さっきから、ずっと窓の外を凝視してて。大丈夫かなって」
「いやいや全然! なんでもなっ――ぐっ」
 まずい、悪癖が出てしまった。
 ここ最近、気が散ってならない。ずっと頭痛に悩まされていたせいだ。
 それもじんわりと包んでくれる生易しいものじゃなく、雷撃機の奇襲のように天から降り、瞬時に意識のゴム紐を弾く、そんな瞬発的な痛み。それが引くと急に頭をぼんやり雲が包んで、ふいの閃光――そんな繰り返しだ。
 ストレスだらけの人生に、ついにフィジカルが軋みだしたとでもいうのだろうか?
 まぁ、自分のせいでその種がまた一つこの場で増えかかっているのだが……。
「お気遣いありがとうございます。でも、そもそも私が無理にお願いしたわけですし、でしゃばりすぎだったかなとも思いまして……」
 シャーペンの芯が折れ、脳内で本日の回想が暴れ回った。
 浅間さんにお願いされてから、僕たちは定期的に勉強会を開いていたが、今日はその拡大版という趣き、だった。
 合流した僕と彼女はまず工事が最近終わったモールに行った。彼女の最大の目的、イベントスペースで行われたイラストレーターの個展を見て、テナントの中を見て回った。
 公園では屋外の映画上映をテラスで見学しつつ移動屋台を頬張る。
 しかし個展の物販の長蛇の列で予定が狂い、暇潰しにも解散にも中途半端な時間になる。
 フラフラ歩くと繁華街に突っ込んで同級生に見られそうで困る、という危惧に応え、たまに行くここに入って――いつもの勉強タイム。
 その間、確かに僕たちの空気はずっと、なんとなく煮え切らなかった。
 認めよう。……いろいろな理由・経験から、計画の時点で盛り上がることはまずないと確信していた。
 しかしこんなに直接言われるとは思わなかった。
 窓の外はもうどんよりと厚い雲に覆われていて、その下で息をつく僕まで憂鬱を吸い込んでいる。口が重くなっていく。
「でも、僕は全然そんなことないんだけど」
「ほんとに優しくてありがとうございます……こんな変な女に気を遣っていただいてほんとに……それだけで光栄じゃないですか」
 店内は普段より空いているが、こんなに分かりやすくトラブルを起こせばさすがに耳目は集まってくる。謝らなくていいからもっと声量を小さくしてほしい。
「浅間さん、とりあえず落ち着いて……ええっと、僕は浅間さんといてつまらないとは思わなかったし楽しかったくらいなんだけど、なんで急にそう思ったのか気になって」
「でも、私の側が言うのっていくらなんでも失礼じゃっ」
「遠慮しないで。そう……クラスであんな感じだと、鍛えられてるから!」
 ははは、と強引に浅はかなぼっち自虐で乗り切ろうとしてコケる。それどころかなおさら深刻な顔をしてないか。哀れまれてませんか?
「……分かりました」と浅間さんは意を決して、手元のケーキをフォークの横で切り落とすと、慎重に言った。
「檜原くん、朝からなんとなくぼんやりしてて、最初は眠いのかなって思ったけど、モール通ってお店見て、イベントも行ったのに――私が話すたび、飛び上がるみたいな感じで慌てて喋ったり動いてた……から」
 想像の十倍くらい辛辣な、存在否定だった。

 

 ところで、一年生の僕たちは最初から深い仲だったわけではない。
 成績主義の入試で知られる高校とはいえ、普通に考えると、親なしの僕、軍事系の輸送会社の一人娘の浅間さんでは大きな隔たりがあるし。
 知り合ったきっかけは、高校入学後のオリエンテーションの日に道を訊かれた、それだけ。
 浅間さんは迷ったらしく、校内で教科書の束を抱えて右往左往していた。
 そしてそれは、進学でこの街に越してきた僕も同じだった。
 そこで互助として、荷物(販売日を過ぎていたので一度に渡されたに違いない)を手伝いながらなんとか教室にたどり着いた――という顛末。
 しかしクラスは違ったのでそれからしばらく話す機会はなかった。
 ……転機は美化委員を押しつけられたことだ。
 同じように流れ者の浅間さんと僕は、ゴミ捨て場の管理の仕事でペアになったのだ。
 当然僕たちは定期的に顔を合わせるようになる。世間話をするくらいにはなる。
 そのうち定期テストの成績表(数学で上の方だったのはその回が簡単だっただけなのに)を見た浅間さんは、僕に勉強を教えてほしいと言い出して――今に至る。
 悲しいことに。

 

 すべて言うしかなくなった――そう判断したのか、浅間さんの次の一言は決壊のように吹き出した。
「……近寄りたかった、だけなんです」
 無意識なのか、目を落とさずにナプキンを丁寧に畳んだり開いたりする。当然皿の上のデザートには手を出していない。アイスケーキなので、三角の先を削がれたまま部分的に溶けていく。生地部分の白い色のせいか、さっきから氷河を思わせる。
「異性で、気になるって言っても……『かも』ってぐらいで。恥ずかしいけど……檜原くんのこと知りたかっただけで、決して変な……なのに、なんで、こんな……その」
 話の着地点を見失ったのか浅間さんは黙りこんで、そこから先を聞くことはできなかった。でもこれ以上何を言われても、付け足してこの状況を変えられる言葉なんか残っていなかっただろう。僕にだってなかった。
「……分かった」
 分かったといってどうもならないが、指摘は非常に納得できる。できすぎる。
 そしてここで、僕は「悪かった」と言った。でも、単なる謝罪じゃないまま話をまとめなければいけない。
「僕があんまり楽しくない時間にしてしまったのを、まず謝りたくて。それは……浅間さんとはまったく関係ない理由もあるんだけど、言い訳にはならないから――とにかく、ごめん」
 出まかせだ。こんな言葉に何の意味もない。知っている。
 僕は単に、起きてしまったことのつじつまを合わせるだけだ。
「でも、要因には相性や状況もあるし、どちらがどちらだけ悪いとか、悪くないとか、考えすぎない方がいいかもしれない。それに、何より……僕に興味を持ってくれて、嬉しいよ」
 ……カウンター隅の棚、有線スピーカーと繋がった旧いラジオが時報を告げる。続いて甘ったるい英語のポップソング。恋に落ちるのはいつも土曜日とかなんとか、そういう歌。
「そうしましょっか」
 浅間さんはこの場の空気を振り切るように笑った。
 いつものことだ。
 いつものことではある。
 それでも、嫌な感じに慣れることができない。
「今日はありがとうございました。これからも、クラスでよろしくね」
「もちろん、月曜日から、また……よっ……う」
 頭に鈍い痛みが走った。
「……大丈夫ですか? 檜原くん」
「いや、なんでもないよ」
 なんでもないんだ。だから悲しそうな顔をしないでくれ。
「気をつけてね」と浅間さんは呟いてから、急に「あ」と声を上げた。
「その……最後のわがままなんですけど」
「誰にも言わないよ」
 浅間さんは、ありがとう、と頷いた。
 そして、僕にそれを言うべきか迷った。
「伊東くんには知られたくなくて」
 そして言った。ごめんね、と。
「私……付き合ってるんです」

 

 用事のある浅間さんを会計に見送ると、僕は店に残って数学の課題を続けた。
 店内の音楽が途切れ、ラジオニュースが始まる。
『冬の自然イベントといえば、しし座流星群。十一月ごろに見られるようになるんですね』
『今年は見れるんでしょうか?』
『ひょっとしたら、前線で見る兵隊さんもいるかもですね』
『えー、それはロマンチック!』
 やがてくだらないプロパガンダになる。
『――で発見したアジトは、先の紛争と同様に〈敵〉機関のスパイによる自作自演の開戦を準備し――これを排除、反政府グループは三人死亡。〈敵〉の卑劣な破壊工作は再び潰えました』
 耳に通すだけで、頭が激痛を訴えた。
 思わずイヤホンで耳を塞ぐ。何も流さない。ただ痛みが過ぎるのを祈る。恩寵を待つ。
 ごめん、浅間さん。僕は計算を続けないといけないんだ。
 ……でも、いなくなってから気づきたくなかったな。
 去り際に、ペンなんか忘れ物しないでほしかったよ。

 

「なん? ぼーっとして」
 クラスメイト、桐生萌は怪訝な目で僕を睨んだ。こわっ。
「あ、いや大丈夫、気にしないで」
「喋りづら。なに、怖いとか?」怖いです。「それか女子とサシで話したことないとか」昨日話してます。それが問題なんですけど。
 浅間さんと会った店、しかしテーブルのカレンダーは赤。今日は日曜日である。
「檜原さ」
「……なんでしょうか」
「店入ってからずっと目が泳いでるの、やめてくれない? 二人きりだし、いちおうデートって見えるじゃん? 知らない人間が見たらこっちがつまんない男連れてるみたいじゃん」
「知らないんだから気にしなくても……」
「知らないから気にするの。いま学校のに見つかったらどっちみち終わりなんだから」
 そう、対策の一環として僕たちはちょうどL字に曲がった店内の奥に座っていた。入口からの視線は壁に遮られる席である。
「檜原がつまんないのはマジだけど」そうですか、悪かったな。
「私がクラスに一人はいる休み時間机に突っ伏してて卒業後に同級生が顔も覚えてないってタイプを食う特殊な趣味みたいじゃん」なんでレッテルがそんな具体的なんだよ。「あいつがあんなことをするなんてって」勝手になんかの犯人にしないでくれる?
「だったら僕と会わなきゃいいんじゃ」「まぁ実際そうなんだけど」「えっ」「ほら? こうやって苛めるわけ」
 ……あの、帰っていいですか?
 桐生はクラスでもかなり目立つ女子で、明るい髪と入学直後から慣れた制服の着こなしがいつでも周囲に人を呼ぶ。死語でいうところのギャルみたいなものかもしれないが、たしか親は政府高官だかなんだかで、しっかりと傲慢さも持ち合わせている。
 しかしそんな理不尽がつまらない男子こと僕に向く理由ってあるのか?
「まぁほんとのとこ、呼んだのは頼み事でさ。簡単なんだけど」
 頬杖をついて、ダルそうに桐生はじろりとこちらを見る。ためらいのような一拍のあと、桐生は言った。
「細かいことは聞いてないけど、篠がさ、お前のこと好きらしいんよ。知らなかったっしょ?」
 言葉を失った。
 なんでそれを知っている?
 なんで僕が知らないと思っている?
「驚いてるとこ悪い。話が進まないからそれ前提で聞いてほしいんだけど。お願いっていうのは簡単で」
 きっと僕の沈黙の意味を取り違えた桐生は、プラネタリウムの中のように神経質に店内を見回して、一気呵成に踏みこんだ。
「私と付き合ってるふりして、あいつを諦めさせて」

 

 からん、とコーヒーの氷が溶けて割れる。
「あー、篠が伊東と付き合ってるの、知らないよな」
 黙っていたことが功を奏して、桐生は僕が何も知らないと判断してくれたらしい。……伊東? ああ、なんかいたな、そんな男子。よく桐生たちとつるんで教室の真ん中に陣取っている、程度の認識(クラスメイトほぼ全員そんな感じだけど)。その一団によく浅間さんがいるのを見かけるのは性格上不思議だとは思っていなくもなかったが……ふむ。
「……ってことは」
「そう。二股」桐生は息をついた。「あいつ、どうせ言わなかったんでしょ。最初は伊東が妙に避けられてるのが気になって、お二人さんを見て勘づいたってこと。基本こっちは聞いただけ。……でも、もう何年も付き合いあるから私もなんか変なのはわかってね。篠は連れを放置する性格じゃない」
 つらつらと高校生の痴話喧嘩の話をされていると、自分が月の裏側で暮らしているみたいな気分になってきた……が、次の言葉には驚いた。
「で、これまた驚愕の事実。あいつは後をつけて、あんたらがそこで会ってるのを見た」
 指をさした先には、あの日僕と浅間さんが座ったテーブル席がある。
 ――尾行。
「でも、そんな不審なことなんて身に覚えは……」
「平和ボケだなぁ。檜原、美人局をされても最後まで純情に信じてそうだよね」お前三分に一回ぐらい童貞弄りをしないと死ぬ病気でもあるんか。
「まー、刺されなくてよかったじゃん。で……どうよ」
 どうも何もねぇよ、と机を叩きたくなったがどうせ拒否権を与えるつもりはないんだろう。いきなり無理に断って逃げても、ロクなことにならないに決まっている。どこまでの最悪で済ませるか、ダメージコントロールだ。
「でも現実問題、それで騙されるのかな。僕なんかだと不自然に思われるんじゃ」
「檜原ごときだからできるんじゃん」とうとう捨て駒って言っちゃったよ。「あのね、自然にうまくいくなんて思ってないのよ。頭悪い奴と話すのってこんな疲れんの」頭のおかしい奴と話すのも疲れるよ。
 ……要するに、桐生の勝利条件にとって、浅間さんを完璧に騙す必要性などないのだ。強引に交際を宣言すれば手の出しようもない――ということらしい。
「ほらさぁ、私の権力なら誰とくっついてても文句言えなくない? 向こうのほとぼりが冷めたら『つまんなかったから捨てた』とか言えばいいし」人権って何だろう。
「でも、それで桐生さんは仲が悪くなったりはしない?」
「それは心配しないでいい。それぐらいの仲だって、知らないんだな」
 釈然としないが、本人がそう言うほどと友達なら黙るしかない。……ともあれ、やっとすれ違いの構図が明らかになってきた。つまり――
 以前から僕を気にしていた浅間さんが様子を見かけ、伊東と交際しているのを隠して近づいた。
 それを知っている桐生が、グループを維持するため僕を利用しようとする。
 そしてこの檜原望海は何も知らず、何もしないまま、気がついたら中心にいた……らしい。
 肩の端からどんどん力が抜けていく。勘弁してほしい。どうせ別れる高校生の色恋なんてどうだっていいじゃないか。戦争みたいにどっかで勝手にやっててくれよ。
 だから言った。
「……分かったよ。できる限り、協力する」
 任せてくれ、足し引きを合わせるのだけが特技なんだ。

 

 連絡先を交換すると、桐生は「すぐ始めるから指示はこっちで、よろ」と一度スマホを耳元に寄せるジェスチャーをしてから、突然カメラを起動し――僕を撮った。
「おい! ちょっと、どういうことっ」
「自分のアカに載せる」平然と彼女は言った。「あ、顔は見せないから自信がなくても平気」
 一から十まで余計なお世話だ!
「っていうか、会ってるの隠してたんじゃないの……? もうよく分かんないよ」
「匂わせ。もう情報戦は始まってるから。檜原は指示に従ってるだけでいいの。簡単でしょ」
 ……はぁ、そうですか。
 まぁなんでもいいや、疲れたし。これでやっと退屈な話も終わる。
 アイスコーヒーに口をつけると、氷はもう全部溶けていて薄い味がする。無性に賠償してほしくなった。……仕方なく飲み切ろうとしたところで――また、痛み。
 そのまま、霧のように前がどんどん霞んでいき――


「おーい、もしもしー。戻ってきなさい」
 引き戻された先は月曜。カレンダーは赤丸、なんか戦争記念日で祝日。なのに部活で登校中。
 ところは保健室。薬を飲んで、頭痛で休息を取っていた。で、回復がてらこの暇潰し保険医兼カウンセラーの先生と雑談していたのだが、どうしてこうなった。
「何の話だか覚えてますかー、何本ですかー」
 指を振られたので、ため息をついて答えた。「どうしてこんなことになったのか、って井戸端、よもやま話です」
 なんでこんなゴシップになっちゃったんだか……でも、この人と話すといつもそうだっけ。
「せっかく真面目に考察してたのに、ポカンとされちゃって」
「……じゃあ、たとえばどういう結論に至ったんですか?」
「顔ね」
 考えうる最悪の返答が戻ってきた。
「……ん? なんでそんな苦々しい顔してるの? 褒めてるのに」
 いや、反応に困るだろ。喜ぶのも否定するのも暴力的になるんだぞ……。
「誤解してるみたいだけど客観的だと思いこんで言ってるんじゃないの。世間のアレは無視して、一人の男子生徒として道を踏み外しかねない……いや、もっと言語化したいわ」
 淫行の考察するより大事な仕事はないんですか? 保険医って暇なの?
「そうね、童顔と一言で言いたくなるけどもっと特定層の女性を惹く作用があるというか……女子制服がしっくりくるというか……向こう五年は飼い主に困らないというか」
『というか』じゃねぇよ。お茶を濁すふりしてもっと悪ノリしてんだろ。
「……そういう感性なのは知ってましたからいいです。捕まらないでくださいね」
 話して損した。訊かれたから喋ったまでで、最初から相談するつもりはないけど。
「それにしても意外ね、檜原くんはだいぶムッツリしてると思い込んでいたけれど。今まで一度も気になった人はいなかったの? そこまで禁欲的な男子高校生って逆に異常性欲なのかもしれないくらいよ」
 意味不明な妄想は聞き流しつつ、なかなかに切り込んだ問いだった。
「それとも、恋愛って概念が嫌い?」
「……別にそこまで忌避してもいないですけど、単純に自分が誰を好きかとか、考えたことがないです。だから深い意味もなくて」
「ふむ、強がるのね。まぁそういうポーズをしたい気持ちは――」「違う」
 はっきりした断定が僕に珍しいのか、彼女は「ほう?」と両手を組んだ。
 ある程度信頼できる相手という前提で、言葉を選ぶ。
「僕が誰かと付き合った方が足し引きが揃うならそうするかもしれません。ないと思うけど」
「足し引きって、何の」
「なんでしょう。世界?」
 先生は頭を抱えた。
「……殉教者みたいな高校生活がしたいなら止めないわ。ガキどもが乳練り合おうが合わまいがどうでもいいし」
「そっちのほうが言質になりますよ……」
「教会で罪は贖えない」先生が呟いた。「罪は街で贖う。それ以外はまやかし」
「えっ?」
「負うところ何ほどあるか、なんじの証書をとりて、五十と書け、八十と書け」
「今度は何ですか……」
「好きな格言よ。ま、がんばってね」
 ちょっ、と訊き返す前に扉が開く。やってきたのは常連の女子。慌てて身を縮める。
「えーっと、部活サボりたくて来ちゃったんですけど」
「オーケーオーケー、ところで名前なんだったかしら」
 出た、この人の十八番ボケ。
「待ちなさい、思い出すから。えーっと、身長は150後半、髪はショートの茶、胸は」
「そんな覚え方やめてよーっ、何度も来てるのに」
「はいはい、冗談だから。入室するならこれに名前を書いてちょうだい」
 ……待ってる奴がいる。そろそろ行かないと。
 どうしてこうなったのか、たぶん先生より僕は分かってない。

 

 さて、そんなこんなとはいっさい関係ない女がいる。
「危ない! しっかり掴んで!」
 自転車のハンドルを握るそいつは――冴野癒衣は叫んだ。
 慌てて、腰を抱いたまま組んだ両手を握り直す。何度乗っても、身体の細さと、体躯に見合わぬ芯に驚く。そして二度と乗りたくないと思う。
 駐輪場がないため校舎に仮置き登録した自転車を、見事な校則違反で漕いでいく。
「もうちょっと下! ……そこもダメ、上! 変なとこ触った! 落っことすよ!」
「ちっとも動かしてねぇよ! んなことしたら落っことされる前に落ちるわ!」
 こんなんでも幼馴染である。
 後部の荷台には大きなプラ製の箱が固定されている。それだけでも明らかに過積載だが、僕はその前、運転者との隙間に無理やり座っている。
 事故る不安と見つかる不安でひたすらに落ち着かない。おまけに荷台はぎしぎしと音を立てている。転んだりぶつかる前に分解でもしそうな断末魔だ。
 二輪の二人乗りはフィクションだから許されるんだろうな。いろんな面で。
「うおおおっ……」
 なだらかな丘陵への道を登っていた両輪が、一気に鈍くなる。車体を止め、僕は降りて荷物を支えた。両脇の木々の紅葉は深い。鮮やかな、朽ちる前の落葉を踏む。
「やっぱり安全第一だよねー」
 どこがだよ……。
 一車線が示すように、車通りも目立たない。農産物の運搬や、郵便や新聞の配達に使われる、もっぱら地元の住民が利用する生活道路だ。
 当然戦車だって通らない、のどかで平和な道。
 勾配の最高点は地図によると『展望公園』だが、腐敗寸前のベンチと誰が来るのか分からないのに在庫が切れない自販機ぐらいしかなくて、実質は空き地である。恋人のいる友人に夜景スポットと紹介したら間違いなく絶交だ。
 春先から、僕たちのホームグラウンドはその一帯だ。
「いやー、絶好の盗聴日和ですなぁ。傍受っ、傍受っ」
 癒衣が口ずさむ。天候条件がいいのか、いつになくハイテンションだ。
 ――盗聴。傍受。
 これが高校生から出てくる言葉か? と思われるかもしれない。
 でも、それが僕たちの部活動なのだ。

 

「ちょ、倒れる倒れる! 押す向きバランス取らないと」
「う……これ、っ、やっぱ過積載じゃっ、ない?」
「いいから。横転したら落っこちるよ? ほらっ、がんばれー」
 こんなに疲れて自転車で来た意味ないだろ……と突っ込む余力もなく、ピラミッドの石を切り出す絵を思い出しつつ車道に荷車を持ち上げていく。
 ここ一週間でずっと涼しくなって夏場よりは楽になったけれど、それでも額に汗の玉が浮かんで、つまずくとぽたぽた落ちる。額を上げると前方の少女は悠々と二輪を押している。八月の盛りでもペースは一切変わらなかった。僕よりよっぽど華奢だというのに。
「壊したら怒るよ。直せなくなったら詰みなんだから」
「分かってるって……」
「分かってないっ。今は目立ってないからお目こぼしだけど、この戦時下に高校生がゼロから通信機器を堂々と作ってたら絶対大人に目をつけられるんだよ……」
「放送部は正式な部活だし、活動に必要ですって素直に説明したらいいと思うけど」
「甘い甘い。……今はまだ私もこういう移動局の免許持ってるけど、年齢引き上げで次から高校生じゃ更新できないんだって。絶対注意されるし、そしたら諦めるしかないじゃん? でも私が今持ってるのが切れてもフワッとごまかしてバレなきゃ問題ないでしょ?」
 まったく悪びれないこの女が部長だと、誰が信じるだろうか。
 我が校には、この活動部員二名の〈放送部〉と委員会活動の〈放送委員会〉がある。
 紛らわしい呼称だが、校内のスピーカーとそこから流れる大半の音声は後者が握っており、イベントや式典でも酷使……いや、引っ張りだこで失業しない。先生方の業務関連以外は管理も整備も学生がやっている。大人がいなくても集団でサヴァイヴする力をつける、戦時教育の一環とかなんとか。
 で、部活動の僕たちが冠する〈放送〉は学校の仕事ではなく、音声、映像、テキスト――あらゆる媒体で、言葉通り情報を伝える通信という意味である。それを研究するのだから、理系の文化部に近い。
 今こうして変な機材を運んでいるのも、研究の一環なのだ。……そうだよね? 冴野部長。
 そんな高尚な目的にも関わらず、残念ながら部員は実質僕らだけだ。部活動強制加入式の学校に自然とある、帰宅部のためのペーパークラブである。
 今はそんな幽霊部員の先輩たちのおかげで廃部を免れているが、来年からは方針転換して参加が自由になるそうで、そうしたら新参幽霊の供給は途絶える算段になる。
 ようは部活モノによくある廃部危機というやつ。
 そういうわけで来年度の新入生の勧誘に全力を捧げる……テンションには、癒衣はなりきれないらしい。
「難しいよね。人が増えたらグレーなことできなくなっちゃうからねー。あ、でも『みんなで怪しい乱数放送を聞いてスパイ気分になろう!』とかの企画についてこれるなら何人でも来てほしいかも」
 見渡す限り人陰なんてないのに、誰も聞いていないことを真剣に願った。
 それにしても。
「ねぇ、やっぱり自転車やめないか? 見つかったらとんでもないことに」
「そしたら望海が説明役になればいいよ。私はその隙に逃げるから」
「おい、そのために入部させたんじゃないだろうな」
「ひどー、私がそんなに悪女に見える? 部員の数合わせ、会計、先生や生徒会との庶務、買い出し、暇潰し、奢り、役目はいっぱいあるに決まってるじゃん」
「もっと悪いだろうが!」
 それに会計はお前が見境なく無駄遣いするせいだからな?
「でも奢らせるのは負けるせいじゃん? フェアではー?」
 うぐぐ……それは言い返せない。
 近場のゲーセンで負けた方が使った金額分の何か奢るのが、中学からのルールになっていた。代わりに負けた方は次に戦う筐体を提案できる。
 僕は適当にジュースやコンビニのホットスナック、癒衣は甘い物が好きなのでたいていアイスやらラテやらを頼む。
 ちなみに僕の勝率は体感で三割。安いからいいけど。
「ほら、そんなこと言ってる間にそろそろ着くよ。いやー、今日はどんな怪電波を拾うっかなー」
 これが爽やかな部活動から出てくる言葉か? というか前向いてください。事故るぞ。

 毎度ながら、大きく空が開ける頃には想像以上に地面を登っていて、驚く。ちょうど今のように、普段のイメージより何倍も下界が広く見えるからだ。
「とりあえずこのあたりで」
 目的地、公園到着の合図に癒衣は無意味に鈴を鳴らした。
「じゃ、設営開始っすねー」
 誰もいないのをいいことに、癒衣はいつでもド真ん中に陣取る。それだけでも図々しいが、レジャーシートやプラ製の折り畳み椅子をどんどん置いていくので、マナーの悪い花見やキャンプや音楽フェスの客みたいになっている。
 もちろん僕たちはピクニックに来たわけではない。UFOも呼ばない。
 空を満たす声に耳を澄ますだけ。
 ……荷台の機材を設営する。二人がかりでアンテナを設置していく。僕は知識がないので、癒衣の「ここをそっちに向けても意味ないの! それじゃ釣竿を空に向けてるのとおんなじだよ!」みたいな指示に従うだけだけど。
 工具箱、ワイヤー、買ったばかりのものは茶色の紙袋に入っていた。取り出して立たせたり巻いたり張り巡らせ――汗が出てきた頃、全貌が露になる。
 ……完成したのは、わが部の秘密兵器。その名も――
「プラネットテレックス!」
「……やっぱダサくない?」
 ペンチを鼻先に突きつけられ、黙る。
 しかし外見だけ見る限り、ダサいも何もない気がする。だって鳥の巣と物干し竿を超融合させたみたいなのだ。本当にアンテナなのか?
 それでも部長は最新技術だと主張し続けている。なんでもいいけど。聞こえるし。
 ――頷きで伝わる、準備完了。
 本体に繋がったチャチなラジオ風のボード、そのボリュームに癒衣は手をかける。
「好きな数字を」
「えっと……じゃあ、二」
 僕の答えに、癒衣はつまみを二度回した。ザザザ――というノイズが何度か途切れ、かすかに何か聞こえた……が、すぐに音の波間に消えてしまった。
「あっちの局っぽいけど、やっぱり無理かなぁ」
 癒衣は遠く山の上を指さす。向こうのことを言っているのだろう。
 あっち――〈敵〉の国。そう教えられている。
 そこにいる人々がなぜ〈敵〉なのか、僕は知らない。癒衣も知らない。クラスの誰も知らない。ずっと対立しているらしいけれど、僕が物心ついてからは一度も戦争は起きていないらしい。憶えていないのでらしい、としか言いようがない。
 最後の戦争で、僕の両親は死んだ。
 僕は親戚に預けられて奇跡的に助かったそうで、記憶もそこからだ。あまり熱心には関わらなかったとはいえ、今日に至るまでおじさんおばさんは人間的に扱ってくれた。そこに孤児への手当てが影響したのは分かっているけど。
 そう、同じ孤児の癒衣とはその時期に出会って、それから――
「どうしたの? また調子悪い?」
 慌てて「大丈夫大丈夫!」と打ち消す。ぼんやりして心配させてしまった。それにしてもなんで調子悪いんだろ。ストレスか、九月病か。どうにかしないと。
「変な電波感じた? 頭に銅線巻く?」
 こういうときも癒衣は平常運転で安心である。
 
 今日もいつもどおり、気の向くまま、耳を澄まして部活動に励む。
「なんの連絡なのかねぇ」
「UFOでも呼んでるんじゃない?」
「想像力の貧困」ノートに新しく変な文字列が刻まれていく。琴線に引っかかる放送のデータを記録しているらしい。「たとえばもっとハードボイルドに……そう、スパイへの指示とか。作戦実行の命令だったら近いうち何かが起きるかも!」
「何かって、たとえば」
「えーっと、国中で爆破予告ラッシュで、うちも休校……とか」
 僕より貧しいうえに休校はお前の願望じゃねぇか。
 というか、そもそもの話。
「本当に秘密の放送で読めないなら仕方ないし、普通の放送局も探してみたら……うぐっ」ばしっ、と空になった紙袋が頭に被さる。「ごふっ、ごめん、そんなごふっ、つもりじゃっ」「退部! 部長権限で追放!」
 袋を外すと、癒衣の顔が目の前にあった。どきりとする。
「何にも分かってないんだから。ロマンを解さない人間にスパイは務まらないんだよっ」
「なんでいつの間に諜報部になってるの?」
「情報部だけに」ちっとも上手くないよ!

 

 腐れ縁というのはどちらが追うでもなく交差するもので、同じ志望先なのはさもありなんと思ったが、お隣さんになるなんて、いくらなんでも思ってもみなかった。
 ……お互い孤児用の公団とは聞いたけど、引っ越し初日に知ったのだ。
 そういうわけで――
「はい、いつもの。今日は疲れたんで休むね。明日もよろっ」
 マジックペンでそう書かれた札付きの鍵を、今晩も癒衣から渡された。
 平日朝、必ず癒衣は僕よりすこしだけ早く家を出る。忘れ物があったら僕に取らせるためだ。
 その間癒衣は必ず駅でこちらを待っている。電車を見逃して。まったくの無駄にしか思えないのだが、頑として先に学校に着こうとはしない。
 ……ということで、いつからか女子の一人部屋の鍵を預かっているわけですが。
「悪用したらぶっ殺すから。寝こみでも私が強いし、望海の頭じゃお目当ての衣服も見つける前に日が暮れて、私帰ってくるよ。で死ぬ」
「なんもしねぇよ。毎日言ってるだろ……」
「しないんだ。……へぇ、しないんですか」
「なんでちょっと目を伏せるんだよ!」
「寝顔も見ないんだ。見ないんですか」
「それでいいだろ!」
 そして癒衣はものの見事に爆睡し、僕は作り置きの煮物を持って行き、鍋をデリバリーして戻った。必死に見ないようにしながら。
 ……だって癒衣はソファにもたれてるんだぞ。
 彼女は座ったまま仮眠を取るのだ。
 眼を閉じた女の子を眺めると、どうしてか居心地が悪くなる。整った顔を無防備に晒しているのに、起きているよりも遠く感じる。癒衣が特別なのかは分からないけど――
 ……見入っちゃダメだ。ぶったたかれる前に出て行く。
 部屋にはちっとも物がない、と戻りがけに見渡した。性別の偏見を抜いても、癒衣は信じがたいほどのミニマリストなのだ。

 

 諸々を済ませ、することのない夜が来た。スマホが黙っているので、癒衣は寝ているらしい。
 ……そこで、ふいに企みが顔をもたげた。
 次の勝負の前、ゲーセンで予習してしまうのだ。
 今度の筐体は向こうも未プレイだと言っていたし、公平なはずだ。そういえば禁止するルールもない。なんで思いつかなかったんだろう。
 街に出よう。まだ夜は浅い。お店は空いてるはず。
 ……見てろよ。今度こそ出し抜いてやるぞ。

 それが始まりだったことに、人は終わるまで気づかない。

 

 意気込みはあえなく潰えた。
 必死の操縦も空しく、安っぽい効果音とともに戦車が爆発炎上して『PLEASE INSERT COIN』のデモ映像に戻る。
 気がつけば手持ちは消えていて、急に恥ずかしくなった。
 血税がゲーセンに吸われていると知られたら、本物の戦場が待っているかもしれない……。
 ……僕が浅間さんたちと会った喫茶店からそう遠くないビルの地下、このゲーセンは、旧い筐体だらけで、それもミリタリー風のゲームが多い。まだ戦争を解像度低く遊んでいた時期のものだ。
 中学生でさえ護身に射撃を習う昨今、好き好んで遊びたい若者なんてこの国にどれだけいるだろう? ……こうして二人はいるんだけど。
 引っ越して癒衣とここを見つけたときは驚いた。地元で遊んだのと同じゲームがあったからだ。
 小中の僕たちは、ホームセンターや屋上遊園地を探して県のあちこちをさまよった。
 店内に置かれた筐体のためだけにサウナに遠征し、お年寄りと並んで一心不乱にキャンディーみたいなバーを弄っていた癒衣が、終いに人気者になってしまったのを思い出す。それぐらい娯楽のない時代、娯楽のない地方の町で育ったのだ。
 そういうわけで自然と〈勝負〉は引き継がれていった。
 戦車兵の適正を諦め、操縦席を降りようとして、スコアランキングが画面に映った。
 一位は癒衣の言っていた『ANNA K』。下には素人目にもとんでもないスコアが書かれていた。文字通り桁が違う。
 二位の名が『・・- ・・』と適当なのも頷ける。これがトップじゃ投げやりになるだろう。
 うん、今回の勝負は捨てよう。次だ次。
 そう覚悟して早々に有利な筐体を探してみたが、やがて恐ろしいことに気がつく。
 周囲のゲームのランキングはどれも『ANNA K』と『・・- ・・』のツートップで埋まっていた。
 どれも前者の圧勝で、読み方も分からない彼だか彼女の歯噛みが目に浮かぶようだ。
 意識して見たことがなかったとはいえ、前からこいつらっていたっけ? と首を捻っていると、賑やかなノイズに混じって何やら刺々しい人声がした。
 騒ぎは両替機の前で起きていた。中年の男性店員と客が言い争っている。相手は……なんと少女だった。
 それもパッと見て、中学生というところ。あるいは、来年進学する小六かもしれない。雰囲気だけなら、ランドセルを背負る想像ができる。……駄々をこね続けているせいで余計にそう見えるのかもしれないが。
 それにしても、あどけない顔に見合わぬ粘りようだった。必死に宥める店員がかわいそうになってくる。
「呼んでもらったのに直せなくてごめんねぇ。ちょうど釣り銭なくなっちゃったみたいで」
「でも、機械の中の百円玉がないだけなんでしょ? ならっ」
「お嬢ちゃん、そこらの機械の中開けて手で崩すわけにもいかないよ。大人にはいろいろ決まりもあってね。またこんど」
「でもっ、あとちょっとなのにっ」
「はいはい。悔しいのは分かるけどあんまり駄々こねてると親御さんに怒られちゃうよ。ほら、特別にこれ……」
 彼はそう言って『スタンプ一〇コで一コ‼』と札のついたカゴを持ってくる。
「一個ならなんでもいいよ。そうね、この飴の絵ってあのマスコットだよね? シール入ってるって! おじちゃん子供の流行りは分かんないけど、名前なんだったっけ――」
 ぱしん。
 渡そうとしたキャンディーの袋が弾かれて、僕の近くまで飛んだ。
「子供じゃない。十六。高校生」
 強い口調に、傍観者のこっちまで唖然とした。
 いやいやいや、いくらなんでも僕と同い年はありえない。僕より頭一つ半は低い身長を保留しても、顔つきも体格も完全に子供じゃないか。
 間違いなく嘘なのに、拳を握って潤んだ目で睨みつける少女についに黙り込む店員さん。そりゃそうだよな、他の店員を呼ぼうにも、外からは女児を泣かせているおじさんになるわけで……ああ、もう! 面倒くさい!
 飛んできた袋を拾って、二人に近づいた。
「ああ、すみません妹が騒いで。もう大丈夫です」
 ……え? と、両者がぽかんとこちらを向いた瞬間に「こちら、お返しするのも迷惑ですよね?」
 曖昧な頷きを確認すると、女の子の肩を叩く。「ほら、お礼言って」
「はぁ? なにっ、なんなの」
「ありがとうございました!」
 そのまま背を押して、強引にカウンターから離れた。

 助けた相手の第一声。
「なんなの」
 無性に腹が立って「きみの兄貴です、はじめまして」と言ってやったら店員さんと同じように睨まれた。「通りかかっただけ。で、揉めてたから」
「赤の他人を助けたつもり?」
「そうだけど」
「そんな助けいらない」
 女児でなければどつき倒しても許されそうだ。
「じゃあどんな助けがあればよかった?」「金」
 この歳で言う言葉か? 天涯孤独で知らないけれど。
「メダルがほしいってことかな」
「小銭がない。両替できるって書いてるからお札入れ続けたら100円玉出てこなくなった。なんで」
 そりゃそうだろ迷惑行為だぞと窘めかけて、奇妙なことに気づく。こんな子供が紙幣を? そっか、だから店員も不法な両替だと疑わなかったんだ……って、納得すべきはそこじゃない。
「入れ続けたって……そんなにお札を持ってるの?」
 答えは言葉ではなかった。
 ジャンパーの懐から取り出したのは財布――ではなく、茶色い封筒。中は四角い物体で膨らんでいる。何が入っているのか考える前に、彼女はそれを僕に放り投げた。慌てて取った瞬間、重さが僕の腕をついた。
 紙束は重いのだ。
 中には大量の一万円札が入っていた。
 
 震える手で取り出して、何度でも確かめる。素人目だとしても、偽札には見えない。
 叫びも逃げもしなかったのは、右腹にぶつかった硬い物体のせいだった。
「逃げたら撃つ」
「そんな、なにいって――」
「一つずつ答えて。高校生?」
「おい、ちょっと」
「高校生?」
 がしがしと、頬骨が叩かれる。
 答えなければまずい、命が危ない、頭のどこかがそう訴えかけていた。
 たかが子供じゃないか。訳が分からないけど、怖がる相手じゃない。だろ? 何か言ってくれよ。身体が震えるばっかりじゃないか。
 僕は頷いた。
「学校名は?」答える。「何年生?」「一年。入学で越してきた」横腹が突かれる。「質問以外に答えるな」唾を飲む。「この店にはどんな頻度で来る?」「そんなに。週に一回、多くて二回」「一人か複数か」咄嗟に癒衣を隠した。「一人。暇潰しかストレス発散だから、あ、ぐ」密着。「……分かったよ、次は?」「知っている限り、同じ高校の生徒は見かける?」「いや、顔を憶えてる限りは。客が少ない時間に来るし。最寄りの駅前だから、逆に誰かに見られたかもしれないけど。でも大勢で来るにはたぶん広くない、っ、しっ」密着。「ごめん! ごめんって」「……もういい。小銭」
 硬貨を取り出して、彼女の方に短く滑らせた。行け、という頷きと「口外しないのを薦める」という囁きと一緒に、物体は離された。
 フロアを駆け出したい衝動を押し殺して、丁寧に立ち上がったとき――ふいに裾が掴まれる。
 心臓ごと引っ張られたようで、鼓動がほどけたのかと感じたけれど、呑気な比喩は次まで取っておくべきだった。質問は終わっていなかったのだ。
「この人物を知っている?」
 取り出して見せられたのは、遠景から青年を写した写真だった。母校の制服を着ている。顔の輪郭がぼやけて判別できないが、見た瞬間に異常な寒気がした。本能的な直感だったかもしれない。
 これが誰か、こいつは、気づいていない。
「名前は、ヒノハラノゾミ」

 

 貴重品を持ったことのない僕にとって、彼女が置いていった〈謝礼〉は迷惑でしかなかった。誰が喜んで出所も知らない口止め料をもらえるっていうんだ?
 頭を捻り、隠すのも預けるのも危険なので、最終的に持ち歩くことにした。どうせ盗まれたり警察に見つかるなら家から発見されるよりほんのいくらか言い訳はできるかという、何の根拠もない思いつきだった。
 結果、一晩かけて学校用のブレザーと外出用のジャンパーの裏に隠しポケットを作る羽目になった。裁縫道具と何かで余った布を貸してくれた癒衣には感謝しかない。服を直したかったんだ、嘘は言ってない。
 ということで――学校でも肌身離さず運命を共にしていた。それでも盗まれたら盗んだ奴が責任を負えばいい。そう思うほど投げやりになっていた。
 とんでもない愚行だった。

 

「お前、なんなの?」
 伊東はつまらなさそうに、必死につまらなさそうに演じながら、僕を一瞥した。
 運動着姿の彼は、昼練だかでひと汗かいたのをアピールしたいのか首にタオルをかけていた。夏からろくにコートに入ってもいないのはクラスの隅でも聞こえてきたぞ。
『きて いつもの』
 いつもの――美化委員の仕事場、ゴミ捨て場。
 ゴミ捨て場がテニスコートと校舎の隙間にあるのも知っている。コート側からは死角で、決まった時刻以外は誰もゴミを置きに来ないのも知っている。
 およそ確実に、何かよくないことがあると思った。
 でも来た。逃げたってゴタゴタするんだし。それにもう察しはついてる。
「送ったの、お前か」
「それで怒るか? 怒る権利があると思うか考えてみろ」
「何も言ってない。どんなカップルだったかは分かったけど」
 ゴミ箱からこぼれた缶が蹴飛ばされて、貴重な資源を分別しよう、という看板に当たった。
「でも来てないんだね」
「当たり前だ、邪魔だし」
 僕たちはもう一歩で手が届く範囲にいる。
 身の危険を感じたが、だからどうしろと? 相手は幽霊部員でも運動経験者で、僕は四六時中体育を見学していた頭痛持ちの病人、フェアじゃない。
 しかし静かな抗議は届かず、あのな、と彼は敵意ある人間特有の馴れ馴れしさで喋り出した。
「別にクラスの陰キャカーストトップと付き合っても、こっちには関係ないんだよ。不自然だと思うけど、桐生は元から脳味噌がアニメか漫画みたいな頭おかしい奴だし、勝手にお前をおもちゃにすればいい。でもな、俺たちを巻きこむな」
 俺、たち。しっかり強調して繰り返す。複数形に拘りがあるようだった。
「篠に関してはもう言ってある。でも別れるつもりはない。そういうバカなのを知っても、なんだかんだ、まだ好きだからな」
「それはよかった」
 二つ目の缶が飛んで、今度は僕をかすめた。いいコントロールだと思ったがさっさと切り上げたかったので僕は本題に入った。
「じゃあ問題はなくない? 浅間さん本人が収まったなら、再び僕とそっちも関係なくなる。それでいいと思うけど」
「そうだ。理屈としてはそうだ。でも、お前の方にも言っておかなきゃいけないからな」
「何を」
「篠に近寄るな。二度と会うな。個人的な用事を喋るな」
 なぁ桐生、やっぱり勝算はなかったよ。朝の教室で気づくべきだったんだ。

 

 うだつの上がらぬ幼馴染がクラスの中心とくっついた朝、癒衣の第一声はこうだった。
「えー! 望海やるじゃん。いや、案外そういう奴だったか、うんうん」
 ああ、癒衣はそういう奴だった。平常運転だ。
 何がかは分からないが、癒衣は疑わなかったらしい。さすがに何も知らせていない罪悪感がなくはないが、これで、もう騒ぎに彼女は関わらないだろう。
 彼女は世界に愛されている。彼女は世界に守られている。
 癒衣への罪悪感が慣れたものなら、浅間さんへの方がよっぽど生々しく嫌な感じだった。だって、さっきから気づいていたから。
「あ、そうなんだ……意外だね」
 笑っている浅間さんがバランスを取ろうと左手で机を掴んだとき、人差し指に痕があった。親指の爪をずっと押しつけていたのだろう。周りが赤くなっていたから、皺と区別がついた。
 でも、直線斜めに隔たった僕からしか見えないから誰も気づいていない。……見間違いじゃない、二人で喋ったあのときもそうだったから。無意識の、彼女の癖。
「それもそうなんだけど」誰も気づいていない。知らないのかもしれないし、わざわざ他人の手なんて見ないかもしれない。「檜原くんは……癒衣ちゃんと仲いいと思ってたから」
 確かになぁ、てっきりデキてんかと思ったよ、いや幼馴染ってそういうんじゃ……と一団はバラバラに喋り出す。なるほど、ネタにできて本音が言えるようになったのか。
「癒衣ちゃんはどうなの? やっぱり友達ってしか見れない感じ?」
 そう笑いかけられて、どきりとしてしまう。こいつの笑顔はいつも不思議だ。
「何わろてんの」「酸いも甘いも知ってるじゃん」「熟年の元夫婦かよー」「シュレーディンガーの元カノ」「こりゃ桐生でも難敵だな」「ああもう、ここは場末か!」
 鶴の一声で場は落ち着いた。冗談半分の声音でも、全員さすがは囲い慣れしてるだけある。
「友達つったら私だって同じだし、戦わねぇよ。……ちゃんと言ったろ?」
 桐生が目くばせする。浅間さんへの奇襲と反対に、某SNSで先に癒衣に伝えていたのだ。……そして、それ以上巻きこむなというのが僕からの要望で、それだけは譲らなかった。
 彼女は世界に愛されているから。彼女は世界に守られているから。
 見返りに、桐生も譲らなかった一点がある。文面は共有しても、最後は彼女が直接癒衣に言うことだ。力説されたところでは、僕ではなく、桐生からなのが大事らしい。
「うん。最初はドッキリかと思ったけど。ま、私は永世中立。でも初陣から難易度高いぞ望海」
 癒衣が肩を叩く。一同歓声。
「ほんとにドッキリじゃねーの」「脅迫されても断るって集会でも言ってたぞ」「それスパイの話じゃん」「いじめじゃないといいがなぁ」「ウチが保証する。こんな気まぐれな女に陰湿なこと無理」「それ褒めてんの? 貶してんの?」桐生が女子に突っ込む。どうやら彼女は手練れらしい。ちゃんと距離感を分かってるみたいで、僕に順番を回す。
「……こういう女だけど、檜原くんほんとに大丈夫?」
 適当に言おうとして――浅間さんが目に入る。指の赤みはなおも増して、血が出そうなほどに深い爪の痕が刻まれていた。笑って喋りながら、ずっと力を入れていたのだろう。
 彼女が悪いのかもしれない。荒業でも、桐生が正しいのかもしれない。
 それでも嫌な感じだった。
「おい黙るな! そこは嘘でもフォローしろや!」
 だから桐生のフォローで場が湧いても、遠くの星の瞬きにしか見えなかった。

 

 そうして、僕は校舎裏で詰められる高校生という誉れを得たわけだ。
「もちろん俺が怒る権利はあるとして、にしてもなんでこんなにムカつくのかと思ったらさ、そもそもお前が気に入らないんだよな」
 はぁそうですかとしか思えないが、伊東は心理学者のコメンテーターみたいに喧伝し始めた。
「なんっつうか、ぼんやりしてるんだよな。正直あんま目に入ってなかったけど……思い出してみたら、委員決めでも授業のグループでも、みんな嫌がる役になってるよな? でもお前のは親切じゃないんだわ。誰の言いなりでもいいってナメてて――いや、違うな」
 思い出せるほど記憶に残ってたんだ、と皮肉を言ってみたかったが、次の一言は面白かった。
「言いなりでなきゃダメなんだよ」
 ビンゴ。おっしゃる通りです。
「難しく言うと……キョーハク観念っつうの? 尻ぬぐいするのが呼吸みたいなもんで、ちょっとでもズルしたら死ぬって。分かるよ、なんもイキってないんだよな。ヒノハラくんに悪気はないんだよな。……悪気がないからうぜぇんだよ」
 分かるぜ、僕だって僕はうぜぇよ。
 それでどうすりゃいいか分かんないぐらい分かってるよ。
「怒れよ。逆ギレでもなんでもいいから。できないんなら陰キャらしくキョドれよ。なんでイキってねぇんだよ。BOTみたいに喋んな」
 伊東が近寄ってくる。据え兼ねたのか、ボディランゲージに切り替えるつもりらしい。
「言ってみろよ、『お前は浅間さんに見合わない』とかさ。『篠は僕が守らなきゃ』とかさ、勘違いでもしてみろよ。なぁ!」
 予想通り、伊東は馴れ馴れしく肩を叩いた。
 ブレザーの隙間から羽根のように薄い何かが落ちて、低空を舞い、落ちた。
 少女から渡された紙切れの、幾枚かだった。
「はぁ? なんだこれ」
 頭が真っ白になる。
 きっと縫いつけたポケットの固定が不十分だったのだと、頭で考えることはできる。悔やむことはできる。でもどうして今なんだよ。できすぎてるじゃないか。
 ……もちろん伊東も豆鉄砲を食らった顔をしたが、質の悪いことに反応は早かった。
「あー、はいはい。なるほど。そういう関係だったのか。これで納得した」
「ちょっと待て、何の話だよ」
「とぼけるのか? 篠と会うつもりだったなら、なんでこんなの持ってるんだ?」
 ああ……そういうことか。
 浅間さんと会う前提で、大金を持ってくる理由――それが嫉妬心と結びついたわけだ。
 渡したかったのはペンなのに。
「お前からなわけないし、あいつに誘われるがままってとこか。それよりこんな額どうやってこさえたんだ? バイトやめたばっかの俺に教えてくれ。……まさか、働いてる奴より金貰ってる親なしもいるって話、マジだったり? 篠に聞いてみるわ」
 明らかに怒気のギアが上がっている。不貞よりずっとイメージは導火線だったのだろう。
 早口、断定口調、こうなった相手に何を言っても無意味なことをよく知っているので、こちらは反比例するように憂鬱になる。
 そのうえ困ったことに、僕が浅間さんとそういう関係だった方が現実らしいんだよな。
 いやいや誤解です、これはスパイの女子児童に脅迫されて渡された口止め料なんです、なんて方がよっぽど今の伊東より狂っているわけで。
 何もかも見事に最悪へと向かっていく。
「なぁ、もっと近くで話し合わないか?」にじり寄る。「……五限って体育館? じゃあサボれてよかったじゃん。あ、いっつも見学だから一緒か。にしてはずいぶん元気みたいだな」
 こうなったのも全部あの女のせいだ。あいつがこんなもの押しつけてこなかったら、この馬鹿に妙な誤解もされなかったから
 僕は受け取ってなんかない。これはあいつのものだ。
 だから――突き返してやらなきゃいけない。
「それ、返してほしい」
 じゃないと、足し引きが合わないんだ。
「……はぁ? 何言っ」「悪いけど、それは僕のじゃないんだよ」
 そのことに気づいたら、自然と足が動いていた。
「それに勘違いしてるけど、浅間さんのでもないんだ」
 自然と、自動的に、手を伸ばしていた。
「だから、返せ」
 
 そして現在、空き缶の海に溺れている。
 伊東が逃げ去って間もなく、チャイムが降ってきた。たぶん遅刻させてしまった。僕は言うまでもなくバックれだ。見学仲間の癒衣には悪いけど仕方ない。
 横たわったまま顔を拭うと、綺麗に指が赤く濡れた。
 血ってこの傷でこんなに出るんだ。人体って不思議だ。あと痛い。痛いのは慣れてるけど頭痛と外傷の痛みは違った。当たり前だけど。
 でも、乾いている方の手には、ちゃんと戦果が握られていた。
 取り返せてよかった。
 もみ合いの末、突き飛ばされた拍子に転んで頭を打ち、金網に突っ込んで額の上を切り、傍らのゴミ箱がひっくり返り、学生たちが楽しく飲み捨てていった缶の群れが雪崩れを打って落ちてきたことも、ついでに気にしないでいよう。
 怒るべきことはもっとある。
 美化委員として抗議したい。
 誰が缶を元に戻すと思ってるんだ?

 

 保健室は一階で、授業中とはいえ、誰にも見つからなかったのは奇跡に違いない。
 ソファーで午睡中の保険医は、僕の「転びました」の一点張りに頭を抱えた。
「……まぁ、私は保健医だから、説教する義理もなかったわね」
 またたく間に消毒が済み、テープや綿、湿布で顔が手際よく埋まる。とっても丁寧だ。なんだかんだ仕事人なんだな。さらに包帯、眼帯が出現し……あれ?
「ありがたいんですけど、これ……ちょっと大げさじゃないですか」
「私の職業倫理では許せないの」
 そうなのか。素人が口を出して失礼だった。
「檜原くんはどうでもいいけど、檜原くんの顔は命に代えても守る」そういうことかよ!「それに似合ってるわ。ジャージ姿だし、完全に薄幸美少女ね。毎日怪我しててもいいぐらい」
 撮影を断固拒否し、放課後までしばらく静養すると学校を出た。疲れ切っていたのだ。

 

 病院に行けと何度も念押しされたけれど、結局ゲーセンに来てしまった。
 癒衣からは『サボり魔! 遅い! 先に部活やってる!』と連絡があったが、体調不良で午後休したのと美化委員で急な仕事ができたと返した。
 それからアパートに向かい、僕のひとつ隣の建物角、癒衣の部屋の窓が暗いのを確認して、戻って私服に着替えた。
 念には念を入れて無意味に警戒したが、この階は三部屋で、僕の反対隣は万年『引越予定』の紙がドアに貼られたままの空室で、誰にも見とがめられなかった。
 ……不自然な大怪我を抜きにしても、癒衣はクラスで桐生たちと交流があるから、伊東とのことはじきにバレるだろう。でも今日だけは許してくれ。
 いまのところ、解決したい懸案は二つ。浅間さんのボールペンはしばらく不可能なので、不本意にも危険な方を選ぶしかなかった。
 関わらないべきなのは分かってる。好奇心もない。怖い。だけど僕が持っててはいけない。文句と一緒に突き返さなきゃいけないんだ。
 じゃないと足し引きが合わないから。

 当然のこと、残念ながらベンチは空だった。
 そうに決まってるのに、何してるんだか。それにしても、肉体の傷より周囲の目が痛いとは思ってなかったぞ。……完全におかしくなってる。帰ろう。何も考えないで寝よう。
 決心してベンチに腰を下ろし――なんだこれ?
 椅子の隙間に紙切れが挟まっていた。なんとなく取り出して、開く。
 それが運命を分けるなんて思ってなかったんだ。
 硬い字体で、ボールペンの黒い痕が走っている。
『逃げろ 今すぐ 外に』
 ……なんだ? 悪戯? 置き手紙?
 疑う猶予なんてなかった。
 店の電源が落ち、周囲が真っ暗になった。
 客の悲鳴より前に頭に入ってきたのは、僕の胸に浮かんだ、赤いレーザーポイントだった。

 裏口のドアに行き当たった奇跡は、段差にすっ転んで吹き飛んだ。
 転んだ拍子にどこかを打ち、瞼の下を切ったようだ。眼を押さえると赤い染みが指についた。眼帯がなければもっと酷かったかもしれない。思わず先生に感謝した。
 とはいえ片目で走るなんて追われてなくとも自殺行為だ。投げ捨てて立ち上がる。ここは裏道だ。きっと帰れる。そうすれば、そうすれば――
 ぴしゃり。
 恐ろしいとき、こんなに耳が聞こえるようになるなんて。
 水音。足音。目の前の曲がり角、すぐ傍から。
 たちまち広がる。反対も。後ろも。振り向いて、誰もいないのに。
 幻聴のはずなんだ。
 ――なぁ、そうなら、どうしてお前は駆け出したんだ?
 脚を動かすうち、本能的に大通りに出ようとしていた。衆目の前ならきっと相手も躊躇うはずなんて小賢しい自己弁護で、赤の他人を巻きこんでも助かりたい、人間より前、被食生物の惨めなあがき。
 でもどれだけ走っても、裏道から抜けられない。真っ暗で、地図も標識もなく、ここがどこかも分からない。元来た道を思い出す余裕もない。動くほどに迷っていく。
 立ち止まって息をつくと、外気のひりっとした感触で気づいた。
 ぶつけた拍子に引っかかったのか、包帯がほどけてするすると頭から落ちて、なびいているのだ。……ということは、走っているあいだずっと尾を引いていたことになる。こんなの、狙ってくださいと言わんばかりじゃないか。何してるんだ先生。
 苛立ちに任せて引きちぎり、通り過ぎる横道のひとつに投げ捨てた。ついでに頬の湿布もテープごとはがす。
 また疼く傷も、喘ぐ息も、張り裂けそうな鼓動も、すべてが僕を呪い、嘲りを吐く。追い払おうと立ち止まれば、また、ぱしゃりと水が打たれる。
 最後には、足音から遠ざかろうと、まっすぐ足を引きずるだけになっていた。
 
 僕の終着点は空き地だった。
 テープの閉鎖を越えて入ると、遠くでクラクションが聞こえた。たぶん、いつのまにか市街地を出てしまったのだろう。
 ここは閉鎖された何かの置場のようだ。
 僕が入った場所はたぶん作業員の出入り口で、四角く囲ったフェンスの隅には自動車用の入口があった。僕の三倍はある背丈のタイヤの山で塞がれていて、車道に出ることはできない。
 足を踏み入れてすぐ、背後から銃声がした。
 狩りだ。
 最初からここに追い込むつもりだったから、姿を見せなかったんだ。
 行き止まりだと知っているのに、僕は駆け出していた。
 見つかるに決まっているのに、隠れる場所をむなしく探す。でも、ほとんどの資材はとうに引き払われていた。戦争のせいだ。全部戦争のせいだ。
 唯一、仮設の二階建てのプレハブが残っていた。解体する手間を惜しんで放置したのか、方々が腐食していたが、かろうじて原形は残っている。
 迷いながら傾いたドアに触れると、倒れて入れるようになった。
 一階には机も椅子もない。見つかるのは床のコード類、割れた窓、砕けた蛍光灯、貼られた紙を破った壁の跡。
 向かいのドアは裏手に繋がり、仮設階段が二階に架かっていた。手すりのパイプは錆び、足下も何段か欠けているが、歯抜けはなんとか股の幅に収まるだろう。
 気力を絞り出し、金属の骨々を軋ませながら、半ば這うように登った。
 二階に入ると少女がいた。
「ヒノハラノゾミ、見つけた」
 その右手は、僕に銃口を向けていた。
「すぐ忘れるから、憶えなくていい。仮に――」

 

「……アンナと呼んで」
 転校生。フィクションに溢れ、現実ではちっとも見かけない、幻の存在。それも女子。
 なのに、クラスが湧きたつ中でひとり僕だけ居心地が悪かったのは、自己紹介の態度が最悪だったことではなく、僕に銃口を向けた女だったから。
「名字は知らなくていい。用が終わったら消えるから、忘れて」
 ……なんで。ほんとになんで、こんなことに。
 目を覆って、出会いの瞬間まで時間を遡ってみる。

 死ぬんだなと本気で思った。
 人生で初めて銃を向けられたにしては陳腐な感想だけれど、あまりに不意打ちだったのか、思ったほどパニックにはならなかった。
 なぜだろう、すっと力が抜けたのを憶えている。
 ああ、もういいんだ。
 僕が殺される理由なんてさっぱり分からないのに、妙な納得があった。
 それはたとえば、知らないところで誰かが何か計算していて、僕が死んで代入されて式が完成する。そんなイメージ。そして回答にマルがつけられる。
 それでいいのかもしれないと思ってしまった。
「逃げないから……早くやってくれ」
 だからそう言い残して、両手で目を覆う。あとは走馬灯を待つだけで――
「何してるの?」
 降ってきたのは銃弾ではなく、困惑の声だった。 
「なんか、勘違いしてるんじゃないの」
 恐る恐る手を下ろすと、もう銃口は僕から下ろされていた。
「……撃たないのか?」
「殺すなんて誰も言ってない」コールドスリープから目覚めた主人公を見る未来人みたいな表情をされた。「銃は警戒して向けただけ」
「嘘だ。さっきのも、僕を殺すために……」
「私が?」溜息。「あれを仕掛けたのは、あなたを狙ってる連中。こっちのすることじゃない」
「狙うって、誰が」
「そんなのまだ分かんないに決まって――そこ、離れて」
 叫びと共に、彼女が僕を蹴飛ばした。ごろごろと転がって、治りかけた傷口が絶叫する。
「ふざけんな! 何が殺さないだよ!」
「焼かれる」
「なに?」
「火炎瓶」
 ――何かが割れる、いや、叩きつけられて砕ける音。入口横の窓の向こうで光が炸裂した。熱風。煙。何かの焦げた匂い。そこまで、すべてが一瞬。
 凶器は建物を逸れて、フェンスに着弾したのだ。
「あのフォーム、外すと思った」
「なぁ、待ってくれよ。なんでそんなことっ」
「バカがダラダラ火を弄ってるから位置をバラしてるの」ブラインドの端を覗いて、ぼそぼそと呟く。「投げる前がいちばん危ないのに。あれじゃ自分が燃える」
「そうじゃないだろ! お前が誰で、何が――」
「毒矢が刺さったら、犯人を捜すか矢を抜くか、どっちがいいと思う?」
 もっともな意見が返ってきた。
「次プレハブに直撃して、全身火達磨になって焼き殺されてから考える? 接近から点火時間を仮定したら、たぶんあと三十秒だけど」
 僕は黙った。きっと惨めな阿呆面をしていただろう。
「もういい」そう言われるなり、片手で首根っこを掴まれ、軽々と服ごと持ち上げられ、肩に担がれた。そのまま階段に連れ出される。踊り場の外気が肌に触れた。
 手すりの強度を確かめ、足をかけ、最後に一言。
「暴れたら、手、放すから」
 そこで僕は気を失った。
 
 意識が戻ると、硬い地面に寝転がっていた。といっても、ここはコンクリート剥き出しの牢屋なんかじゃなく、フローリングの敷かれた一室だった。
 室内は明るいけれど、分厚い遮光カーテンで窓の外は見えない。横を向いた目の前には、厳重に梱包された箱が一つだけ見える。
 それにしてもどうして頭だけ何かの段差に乗っているのだろう。ここだけ柔らかいし――訝しんで首を天井に向けると、僕を覗き込む顔がそこに。
 ――アンナと名乗った、あの少女。
「やっと起きた」
「うおぁっ!」
 驚いた拍子に転げ落ちて頭を打った。激痛で眼は覚めたが、また傷が開いて――あれ? なんで手当てしてあるんだ? 逃げるときに全部外したはずなのに。
「暴れたらもっと痛くなる」
 立ち上がって近寄られる。慌てて身体を起こすと、そのまま壁際まで詰め寄られてしまった。
「何怖がってるんだか」アンナは目を細める。「ここは尋問室じゃなくセーフハウス――取り調べじゃないから、痛めつけるつもりもない。状況を整理したいだけ。言ったでしょ? 敵じゃないって」
 そう繰り返されても銃を向けられたショックは消えないが、撃たれなかったのは事実だ。
「……分かったよ」
 なるようになれ、と言い聞かせた。得意だろ?
「じゃあ、なんでもいいから話してくれ、口は挟まないから」
 アンナは急に態度が変わったのに怪訝な顔をしたが「ならいいわ」と短く応じた。「檜原望海、私が誰かは、〈刑事〉といえば分かるでしょ?」
「刑事って……君が?」
「何かおかしい? ……まさか、子供だと?」
「違う。そりゃそうだけどっ」「やっぱり!」「あっ、それは言葉の綾で、ちょ、やめろ!」
 懐から拳銃が取り出された。失言だった。やっぱりぜんぜん信頼できない。
「反省した?」「したよ……。先入観があったんだ。戦争で世の中めちゃくちゃだし、年齢関係なく刑事になれるのかも」「そんなわけないでしょ! そっちじゃないっ」銃口で顔をつつくな。死ぬほどビビってるんだぞ。
 もちろん子供に見えたのだが、引っかかったのには他の理由がある。言い方が悪かったが、変な言い回しが気になったのだ。
「……どうしてそんな顔するの? この場面この文脈で〈刑事〉といえば、伝わるでしょう。いい?」説明が再開される。「まず、我々は今のところ、平和的に解決するつもりなの。だからこの場で拘束したりしない。ここで行うのは取引」
「待って、何の話?」
「鼓膜に穴でも空いてるの?」と、り、ひ、き、とアンナは強調した。「最低の保証として、そっちが握っているモノの中身や出どころは供述しなくていい。ただ、それをこちらに共有してもらえれば協力とみなす。罪にも問わない。もしもっと情報提供をしてくれれば、相応のオプションを――」「意味分かんないよ!」
 思わず遮っていた。
「供述って? 罪って? 何もしてないぞ! だいたい、教えるって何をだよっ」
「とぼけないで。抱えている機密情報のこと」
 ……数秒後、僕の反応で、ついにアンナの側も異変を嗅ぎ取ったようだ。
「まさか……本当に何も知らないってこと?」

 

 冤罪だ、人違いだ、とさんざん主張して、なんとか誤解の一角は取れたが、それはなおさら状況をややこしくした。
「言ってるだろ。なんで狙われたのかさっぱり分からないって。ついでにそっちが僕に目をつけてるのも。普通に生活してるだけの男子高校生なのに」
「ごちゃごちゃ抜かさないで」だから軽々しく火器を振り回さないでくれよ。「大事な任務なのに、なんでこんな誤報を――やっぱり、機密漏洩での左遷が目的? にしても、よりによって一般人を巻き込んで――なら、口封じしか」
 再び銃口が突きつけられる。「撃つ」
「待って待って! 分かった、文句は言わないからちゃんと話してほしい」手で制してアンナを引き戻す。「その……確かに僕は高校生だけどさ、乗りかかった船みたいだし……その」慌てて、つい奇妙なことを言った。「どうせ口封じするなら、全部教えてからやってほしい。それなら一緒だろ」
「……そんなこと知って、そっちに何の利益があるの」
 アンナは警戒を露わにした。でも、半分は時間稼ぎだったが、本心でもある。
「深い理由はないけど……もうちょっと答えに納得して死んだ方が、整理がつくというか。それに、困ってるなら。えーと……手伝えるかも」
「何を?」
「なんだろう……死んだ僕の……処分、とか」
「……怪我で頭おかしくなったの」
 文字通りの決死の冗談は見事に失敗したが、話は不思議な方向に転がった。
「でも、助けてもらったから。釣り合うぐらいのことはしたいよ。だから……」
 ちらりと顔を伺うと、アンナは銃を下ろした。俯いて、悔し気な顔。何もしていなければ、ほんとに外見相応の女の子だ。
「……〈刑事〉っていうのは私たちのこと。でもやってるのは市井の犯罪捜査じゃない。蔑称が定着して、隠語になっただけ。本当の仕事を簡単にいえば――諜報活動」
「それって……スパイ?」
 いつか見たニュース。
『〈敵〉機関のスパイによる――』
 遠い世界のこと。そう思っていた。
「知らないけど、俗語で呼びたいならそうなるかも。……でも、〈刑事〉って名前は全部が間違いじゃない。軍人だけど、出向の形で、所属では警察の人間ということにしてある」
「……偽装」
「そう」アンナは首肯した。「でもやってることは、世界情勢の情報収集、機密の保護と傍受、反政府グループやテロリストの監視、内通者の獲得工作、そして――〈敵〉の諜報員の排除」
 〈敵〉。その一文字がどんな意味か、誰でも知っている。
「じゃあ……アンナもそういうことをやっているの」
「たぶん。でも同業者とは全然関わらないから、詳しいことは分からない」
 曰く、この国にはスパイ活動をする複数の公的・軍事的な機関があるが、ほとんど連携も情報共有もしていないという。稀に一時的な協定を結ぶことはあっても、認識としては敵対組織に近い。そんなんでいいのかと素人は思うが、これによってパワーバランスが維持され、特定の情報機関に特権を握らせない、クーデターの抑止に繋がる――とか。
「私は命令と、遂行に必要な情報や装備を渡されるだけ。今回もそうだった。だから私も、檜原望海が何者で、どんな情報を握り、なぜ狙われているのかまだ知らなかった。ただ、重要な機密に関わっているため、接触し、情報収集し、場合に応じて適切に対処しろ――と」
 ……壮大すぎて、頭で理解しても実感が湧かない。
 ギリギリ呑み込めたのは、アンナがすべてを教えてくれるわけではないことと、『適切な対処』次第だということ、それぐらいだ。
「……今の時点で、僕にどう対処するつもりか、訊いていい?」
「警護しつつ、捜査をすることにする」迷わずにアンナは言った。きっと喋っている間に考えていたのだろう。本職の頭の回転なのか、それとも僕が鈍いのか。
「前者は言うまでもなく、今回のような襲撃を避けるため。後者では少しでも手掛かりを増やし、この事件の解決を図る。そのためには、最大限協力してもらう必要がある……から」
 急にアンナは語気を弱めた。なんだか意外だった。
「……ひどいことして、その……ごめん」
「いいよ。助けてもらったし」率直にそう思った。「だからなんでも言ってくれ。釣り合うぐらいのことはしてやる」
 不承不承、頷きが戻ってきた。
「アンナ、って呼んでいい? そっちも気軽に」
「……望海。よろしく」
 納得したかは分からないが、とにかくこれでいいだろう。よくないなりに、いいだろう。

「じゃあ、今後の方針を――」
 アンナがどこかからメモ帳を取り出したので、いよいよ本題に入るつもりか――と思いきや、手が止まった。
「どうしたの?」
「……ペン、壊した。重い物体を背負って着地したから」
 ほんとに飛び降りたんだとか重い物体呼ばわりかよとか言いたくなったが、そういえば――僕もペンは持っていたっけ。こっちは壊れていないはずだ。
 浅間さんも、これぐらいは許してくれるだろう。
「これ、使う?」
 ポケットから取り出して渡す。……受け取って、急にアンナの表情が変わった。
 筒をつまんで回し始める。はぁ? 分解するつもりか?
「待て、中身開けちゃダメだ。それは借り物で――」
 止める間もなく、中身が現れる。
 息を呑んだ。
 詰まっていたのは、先端に小さく黒い塊のついたコードと、繋がった小さな電子機器。
 アンナはそれを発見すると、静かに、丁寧に、塊を指で覆った。
「……なんだ、これ」
「盗聴器。それと、位置情報の発信機能もある」

 盗聴器、発信機――浅間さんが?
 何のために?
 もしアンナがいない状態で見つけたら、我を忘れてパニックになっていただろう。
「これを、同級生が持っていたと?」
 必死に頷く。「ただの忘れ物で、返そうと思って持っていて、でも、それだけでっ」
「落ち着いて。……いつ、どこでこれを回収したの?」
 もう隠し通せない、と思った。
 意を決して、今日までのことを話した。交際トラブルも、怪我の原因も。
 返ってきた言葉は、僕の予想を超えていた。
「……二人きりのときに置いていったってことは、明確にあなたを盗聴の対象にしていた可能性がある」
「誰が?」
「分かるでしょ。その浅間って人」
 ……彼女が、僕を狙った? 嘘だ、そんなはずない。
「話聞いてたか? 浅間さんはクラスメイトって言っただろ。あるわけない」
「でも、現にその人が持っていたんでしょ?」
「……それは、もともと浅間さんのじゃなくて、僕が彼女のだって勘違いしただけかもしれない。いくら学校でも、普段から他人が使ってるペンなんて見ないだろ? だから、えっと……きっと、あの席を盗聴したい奴がいるんだよ」
「でも、所有者を誤解するほど目立っていたのは事実。そこまで人目に付く場所に、なぜ第三者の盗聴器があるの? 店員が発見したら回収も難しくなる」
「……じゃあ、僕とおんなじで、浅間さんも、どこかで拾ったのを筆箱に保管してたなら」
「そうだとしたら、保管品をこんなにあっさり人前で落とすと思う? 今みたいに、やむを得ない場合に説明して取り出すでもなく。誰かの持ち物を保管するわりに、親切なわりに、そこまで不注意で無神経な、不思議な人なの?」
「……それは」
「もちろん善意だったかは断定できない。誰かから盗む人間もきっといる」一般論で、とアンナが付け足す。「でも、善悪どちらでもおざなりな扱いかたには違いない。それなら、何かの目的で故意に行われたと考えるほうが自然」
 必死な反論は、次々と潰されていく。
 浅間さんを必死に弁護するほど縁が深かったわけじゃない。身の回りの人間が関わっていてほしくなかった。それが『釣り合い』であってほしかった。
 でも、アンナは容赦しない。手慣れた動きで機械の中身を確かめていく。
「このペンには小さな記録媒体がついてるけど、中にはしょぼい発信機もある。これで普段行動するルートを特定して、襲った。こっちは盗聴器よりちゃんとしてる。たぶん別の人間が取り付けたんだと思う。……四六時中ONにしているとバッテリーが切れるから、盗聴器の動作を感知してスイッチが入るようになっている。きっと、だから、音声をリアルタイムで外部に送るするタイプじゃない。これに保存しているの」
 アンナが指をさした先の基盤には、記録媒体が刺さっている。
「回収しないといけないってことか」
 頷き。「要約すると……最大の証明は、望海が間違いなく、確実に、忘れたり紛失することなく、遠からずその人にペンを返したであろうこと。回収するのにこの上なく困らない、おめでたい人間だということ」
「……出会って一日もしないお前に言われたくないんだが」
「でもそうしたでしょ」
 言い返せなかった。
「不快に思ったかもしれないけど、今までの話は推測。浅間さんがあなたの命に関わる悪事に手を染めているとは言っていない。何も知らないまま利用されたのかもしれない。きな臭い今日日、こんなチャチな盗聴器とGPSなんて調べれば素人でも使える。個人的な目的の出来心かもしれない。強要されたのかもしれない」
 どちらも、頭に浮かぶ。
 浅間さんは悪人だと思わないが、僕に浮気しようとした面は否定できない。
 伊東は付き合っている相手に偽のメッセージを送らせる、束縛の強い男だ。
「ほら、点と点を見つけた」
 こんな短時間で、僕がバランスを保とうと躍起だった世界は、ひっくり返ってしまった。
「位置が分かるなら、きっとこれを利用して望海を襲ったんだと思う」
 僕を襲う。言葉で、あの狩りがフラッシュバックする。……そんな動揺を察したのか、アンナは僕を窘めた。
「怯えすぎなくていい。もしこの二点が繋がっているなら、相手のグループはほとんど素人」
「……素人? あんなに追いかけてきて?」
 思い出して、と鋭くこちらを一瞥する。「この音源を、回収する必要があった。まだそいつらは聞いていない」
 あ、確かにそうだ。
「だから、完璧に計画が行われていたのなら、その前に襲撃する意味がない。私は……誰かが先走ったって線を疑っている」
 ……なるほど。だとしたら、そいつらは一枚岩じゃないかもしれない。
「ま、最悪の中にある気休めってとこ」
 そんな表現じゃむしろ不安になりそうだが……確かに、彼女は手慣れている。
 信頼できる、と思う。思いたい。
「というわけで、このオモチャは押収したとして、重要なのは浅間さんになる。アプローチをかけるべき。それも、二人きりで」
 ……順当に行けばそうなるよな。
「望海、演技はできる?」
「できないけど、やれって言うんだろ」頷くな。
「大丈夫、私がなんとかする。ただ……呼び出す上で、可能な限り第三者に感づかれないようにしないと。特に、伊東とかいう男には何も知られたくない」
 それ、とんでもない難題じゃないだろうか。
「どうしたらいいかな。連絡手段はあるけど、メッセージを送ってもこんな状態で会ってくれるか分からないし」
 今日休んでいたことがすべてを証明している気がする。
「その上、伊東に筒抜けになるかも……っ、う」
 陰気な話のせいか、頭痛がしてきた。
 それも、結構酷い。頭を抱えたせいで、アンナにも気づかれてしまう。
 しかも勘違いがついてきた。
「やっぱりもう一回傷を見てみる。細かい処置はあんまり得意じゃないけど」
「なっ……なんでも、ない。それにそっちの痛みじゃなく――」
「いいから」
 薬を、と言いかけたが、アンナは深刻な表情のまま頭に手を伸ばした。
「痛みじゃなくて、何?」
「いや……大丈夫」
「大丈夫なわけない。こんなにめちゃくちゃな怪我をする喧嘩、想像できない」
「まぁ、悪条件で。そういえば、ひょっとして、こんな顔だったからゲーセンで僕に気づかなかったの?」
「私が無能だって言いたいの?」
 再び拳銃が登場。「誤解だ!」「ガキだから無能に見えるって?」「小さいのがダメだとは一言も言ってないだろ!」「ダメじゃないの? ロリコンってこと!?」「ちげぇよ! てか子供って自覚あるじゃん!」「撃つ! やっぱり撃つ!」ああもう!
『すみませーん!』
 およそスパイとは思えない押し問答は、玄関先のくぐもった叫び声で収まった。

 

「襲撃!?」
 発作的にアンナが立ち上がったはいいが、僕はバランスを崩して転び、またしても床に頭を打つた。「ったああああ!! あああ!」「ごっ、ごめ」
 アンナは慌ててかがみ僕に肩を貸したが、謎の人物は演説みたいに喋り始めた。
『あのっ、隣部屋の冴野なんですがっ! いらっしゃる気配がするんですけどっ、インターホンが故障しているようなので失礼します! ご近所のみなさん叫んですみません! 緊急事態です!』
 嘘だろ? なんでだよ!?
 ……まさか、この部屋って。
『引っ越された方ですよね? 大家さんに聞いたんですけど、こちらの部屋の鍵が壊れていたのを伝え忘れたそうです。内側から鍵かけると閉じこめられちゃうみたいでっ』
「……誰!?」
『鍵穴が回ってるので、やっぱりかけちゃった感じですか? 安心してください! スペアキーをもらってきたので開けられます! ……そういえばさっき知ってる声がしたような。気のせいだと思うんですが』
「間に合わないっ、私の陰にっ」「わかったって――っわあ!?」「何転んでんの! バカ! 危ない! 変態!」「そっちこそ暴れるなって! 上に乗るな!」
『まぁいいか……じゃ、開けちゃいますね!』
 僕はやっぱり鈍い。間取りをよく見て、引っ越しを思い出せば気づいたはずだ。
 アンナのセーフハウスが、僕たちのアパートの隣室だったことに。
 ――ドアが開き、差す光に照らされ、顔中怪我だらけで小さな(外見の)女の子に跨られてタコ殴りされる僕を見た癒衣は、一言。
「望海、やっちゃったね……」

 

 そんな昨晩の大混乱も、今の衝撃と比べれば大昔のようだ。
「あー、かわいい。語彙力喪失」
 クラスの困惑の中、後ろから身を乗り出した癒衣だけが顔をほころばせている。なぜか僕たちは学校でも隣席なのだ。
「これが事案かー、なんて絶望してごめんね。うちに転校しに来た子だったなんて思わなかったよ。このちっこさだと同級生っていうか、妹みたいだけど。へへ」
『(なんらかの権力で)転校生として同じクラスに入り、僕を監視する』というアンナの計画はこのホクホク顔の女にぶち壊されてしまい、苦し紛れに修正した結果が、現在である。
「私語やめろって。……なんなんだよ、あいつ」
「えー? 転校生の自己紹介って普通こんな感じじゃない?」
 サブカルチャーに毒されている……。
「でも、制服もあれじゃ子供がクローゼットで遊んでるみたいだし」
「それがいいのっ。オスの実験動物みたいな望海の性欲じゃ分からないと思った」
 それは何のマウント?
「だいたい、アンナちゃんのこと言えるの? 望海だってなかなかワイルドだったのにぃ」
 ……絶対擦られると思った。
「望海のフィジカルでリアルファイトすればそうなるよ。相手も悪い」
 僕と伊東の騒ぎを知った感想がそれなの、すごいぞ。
「冴野流奥義その一、勝てる奴としか戦わない。その二、倒すべきは敵ではなく敵の神。その三、そいつのネクタイの締め方や喋り方を嫌うな。倒すべきは筋肉」
「その四は?」
「……冴野流その四について語ってはならない」中途半端に諦めるなよ。
 そこで、彼女はちょっぴりトーンを下げる。
「まぁ、篠のことはね……うん」
「もう何度も言ったけど、やっぱり、隠して悪かった」
「私が謝られる必要はないから困っちゃうねぇ」口を尖らせる。「元には戻らないと思う」
「だよね……」
「でも、元に戻らなくていい物だってあるよ」
 癒衣の視線の先には、浅間さんの空席がある。
 吹っ切れたように言うと、彼女は僕の肩を叩いた。「大丈夫、望海は頑張ったから。ま、私に任せて今は合法を味わう時だよ。度を越したら通報してあげるからさ」
 どっちだよ。てか静かにしてくれ……。

 

 僕たちの面識(と言っていいのか?)を知ってか、アンナの席は癒衣の右横になった。
 当然のことながらアンナは集まったクラスメイトをガン無視したが、人望がある癒衣が積極的に話しかけて取りなしたのは、なんやかんやでいくぶん心証を和らげただろう。馴れ馴れしさはともかく。
 みんな忘れたかっただろうから。
 派手な怪我を負った僕の存在を黙殺しなければいけない、不穏な空気を。
 こちらを睨む伊東と、逆に目を逸らす桐生を視界から消す僕だって、気が塞いだ。
 癒衣を除く全員が、浅間さんの欠席を無視していた。

 

「よかったねー。みんなかわいいって言ってたよ! ……ま、そういうわけで、我が放送部に歓迎したいと思います」
「やだ」
 連れ帰って早々、癒衣の強引な勧誘は失敗した。あんなに積極的だったのって、ひょっとしてこれが狙いだったんですか……?
「えーっ!? 絶対楽しいのにー……そうだ! 騙されたと思って、まずはお手製の『解ける!? 放送部入部テスト』に目を通してみようよ。えーっと、ノーマルのプリントは……」
「そんなの作ってたのかよ……。しかも他の難易度もあるの?」
「うん。ノーマルからインセインまであるよ。望海もやる?」「……今はいいや」
 探しに席を立ったのを見計らい、アンナは僕の袖を引いて囁いた。
「……この女を巻きこむしかない」
 その提案を聞いて、急に狼狽えてしまった。
「この女に浅間篠と接触させて、男に隠したまま望海を呼び出す」
「それは……どうなの? 浅間さんと違って、こいつは一切関係ないし」
 無意識に反発を覚えたのは、きっと平凡で平和な、単なるこの狭い世界のいち少女である癒衣を傍で見てきたからなのだろうか。
 そう思うと何様かよって恥ずかしいけれど……。
「望海の人脈が使えないから仕方がないでしょ。あんなに友達いないなんて」
「あのな、それには事情があって……それにあの態度じゃお前だって人のこと言えないだろ」
「私は仲良くなる必要ない。それにあいつら嫌い」
「そんなんだから子供だと思われて……おい、足踏むなよっ」「やだ」がしがし。
 癒衣が振り向いた。「あれ? 二人とも何か喋ってた?」
「言ってない」
「うん、聞き間違いじゃないかな」
 ……言い争っても仕方がないな。確かに、交際相手に偽のメッセージを送らせるようなDV野郎に気づかれずに、浅間さんを呼び出す代案を求められたら……黙るしかないし。
「細かいことは私に任せて」
 アンナの自信に満ちた目にたじろぐ。信じていいのだろうか?
「癒衣を危険にさらさないって、約束できるなら」
「当然」
 覚悟を決める。不安だが、やってみるしかない。
「じゃあ、アンナを信じる」
 そう言って目を合わせると、急にアンナは「一言多い」と顔を背けた。
「……調子が狂う」
 なんでだよ……と言ってやる前に癒衣が戻ってきた。
「はい、これがプリントね。これは主に『信号』ジャンルの問題。モールス信号とか、聞いたことあるでしょ? 英語のように読み書きをしてもらいます。……今、難しいって思ったでしょ」ふっふっふ、と癒衣は大袈裟に盛り上げる。「しかし部長はやさしいのです。なんと、カンペに一覧表を乗せておきました。時間はかかるけど、これを見ればきっと慣れるんじゃ――」
「いらない」
「そう言わずにさー」
「テストの方じゃない」あれ、アンナの目が変わったような。「答えなんて、なくてもできる」
 そう言って、ペンを取り出した。

 

「そんな、全問正解なんて……」
 癒衣は頭を抱えていた。
「問題に不備がある。まずこの四人の外国人が並んでめちゃくちゃな手旗信号を作っている画像、なんで答えが『HELP』なの? あと、フォネティックコードのFOXTROTはキツネじゃなく、ダンスの一つ。だから表の横にキツネの絵を描いてるのは間違い。……ついでにキツネじゃなく耳と脚のついたヘビに見える」
「音楽ネタの引っ掛け問題なの! あと画力は関係ないでしょ!」
 フルボッコだった。
 ……そっか、スパイってことはそういう知識もあるんだろうな。
「もう! 筆記試験は終わり! 次は実技です! ……行くぜゲーセン!」
 お前が勝ちたいだけになってない?

 2Pの癒衣があっさり射殺された後も、アンナは光線銃を華麗に構えて戦場を駆け、ついに全面を突破してしまった。
 ゼイゼイと息をつく癒衣を見ているうち、あることに気づく。
「アンナ、訊きたいことがあるんだけど」ランキング画面を指さす。「あの『ANNA K』って……」
「私だけど」
「嘘でしょ!?」癒衣が反応した。「このゲーセンを荒らしてる迷惑客の、あの『ANNA K』が……」それはお前の負け惜しみだろ。「こんな、たぶん全国人口何十人ぐらいの骨董品のガチ勢なんて私だけのはずなのに、いっつも越えられない……」
「あの変な名前、ユイだったんだ……」
「モールス信号。『UI』になる」
 アンナに言われて理解した。……ああ、そういうことね。
「なぁアンナ、なんでこんな場所で遊んでたんだ?」こっそり訊く。
「遊んでなんかない。望海を監視するために決まってるでしょ」「にしてはめちゃくちゃやりこんで……」「何? 幼稚だって言いたいの?」がしがしがし。
「……しょうがないな、入部を認めましょう」
 本人のプライドはともかく、癒衣的には合格だったらしい。もはや放送部要素がない……。

 負けが込むギャンブラーの典型例として、癒衣は賭けのハードルを上げて連戦を挑み、ついに関係ない僕まで奢ることになってしまった。
 それでも癒衣は悔しさをコロッと忘れてしまった。ゲーセンを出たところにクレープの屋台があったので、これを景品にしよう! と勝手に言い出したのだ。
 三人分払わせるのは忍びなかったので、何が奢りなのか分からなくなったが僕が癒衣のぶんを出した。口を挟もうとしたアンナは必死に押しとどめた。あんな危険なお金を罪のないクレープ屋さんに落とさないでほしい。
 ちょうど手近に公園があったので、ベンチに座って食べた。口元をクリームで汚す癒衣のほうが、よっぽどこの三人では子供じみている気がしなくもないけど、ちゃっかりトッピングにチョコチップを入れたアンナも五十歩百歩か。
 言わないけど。
「今度こそ負けないもん」
「めんどくさい。くだらない偽物のお遊びだし、もう二度とやりたくない……」
「ダメ。そういう考えは私の『ANNA K』じゃないっ」
 めんどくさいライバルだなぁ。
「……じゃあ、おまけにあと一つお願いを聞いてくれたら、またやってもいい。部活も入る」
「ほんとっ!? なんでもなんでも!」
 ……あ、これって、まさか。嘘だろ。
 おい、そんな軽いノリでいいのかよ――思わず言ってしまう前に、アンナは電撃戦に出た。
「手伝ってほしいことがある」

 

10

 情報戦の世界では、エージェント――〈協力者〉という概念があるという。
 一般に、それは実際の諜報員に情報提供をする部外者のことを指す。人聞きの悪い呼び方をすれば、内通者と言っていいのかもしれない。
 彼ら彼女らは秘密裏にスカウトされ、指示のもとで必要な情報を提供したり、ターゲットの人物に接触したりして、見返りや庇護を受け取る。
 その定義でいえば僕も不本意ながら、アンナの〈協力者〉になるのかもしれない。
 ……でも、アンナの糸の先は、僕で終わりにはならなかった。
 まるで孫引きのように、手先の手先が生まれることだって、ありうるのだ。

 

 ということで数日後、僕は浅間さんの前にいた。
 違う日に同じ店で、同じ席で、同じ人と喋る違和感を体験したことがある人はどれくらいいるんだろう。
「癒衣ちゃんが来るって……やっぱり嘘だったんですね」
 これじゃ仕返しみたい、と彼女は自嘲してパドルを回した。
「……騙して悪かった。でも、他に会える方法が見つからなかったから」
「いいんです。逃げてもしょうがないですから。癒衣ちゃんも協力してくれたんですよね」
「そう。でも」僕は浅間さんの背後に目をやった。「癒衣が知らないこともあるんだ。……今日は、そっちの話をしたくて」
 虚を突かれた様子で、浅間さんの顔が曇る。何事かと思っただろう。
 ……彼女の背後、向こうの席に視線を向けた。座った二人の客は、新聞や雑誌に没頭していて、顔は見えない。……少なくとも、僕の側からは。
 それを確認して、教わったリズムで、右の耳元をさりげなく叩いた。
 それがスイッチだ。
『始めて』
 傍から声がした。もちろん誰もいないが、幻聴ではない。
 横髪で隠した耳の内側に、超小型のイヤモニを入れているのだ。空気の振動から、僕との会話も聞き取れるらしい。さすがはスパイの秘密道具、盗聴器をオモチャと言うだけある。
 そして指示を出しているのは、あの席の二人――アンナと、癒衣だ。
『作戦どおり、ペンを見せて』
 マイク越しのアンナの指示通り、例のペンを取り出して、机に置いた。
「……これ、返さなきゃと思ってたんだ」
 そう言って表情を伺う。明らかに、動揺している。
「あ、ありがとう……私も忘れてました。嬉しいな。憶えててくれるなんて、やっぱり檜原くんって優し」「そんなことないよ。悪いことをしたから」
 軸を回して、中身を取り出す。浅間さんが我を忘れて止めたりするよりも早く。
 仲から出てきたのは、もちろんあの、盗聴器。
「預かったものにこんなことをするのは失礼だと思う。それは、ごめん」元に戻して、丁重に差し出す。「詳しいことは分からない。でも、安全なものじゃないのかもって。……詳しくないけど、たぶん。盗聴器みたいなものだと思う」
 そしてついに、言いたくないと最後までアンナに粘った、嫌な言葉を口にするときが来た。
「きっと――〈敵〉の、スパイが使うような」
「……ぁ、う」
 悲しいかな、効果抜群。
 そりゃそうだ。
 これから社会に出ていく上で、学生にとって〈敵〉の一文字がどんな意味を持つのか――僕たちは、嫌というほど肌で知っている。
 その一味だと、身近な人に疑われた衝撃は、どれほどだろう?
 ……口をぱくぱくさせ、今にも泣き出しそうな表情に罪悪感を覚えても、指揮官は『ここから、気をつけて』と冷酷に告げる。ああ、分かってるよ。まったく。
「浅間さんを何も疑っていないかといえば、嘘になるかもしれない。でも、それは心配だからなんだ。物事がはっきりしないから。ひょっとしたら浅間さんが危険なことに巻きこまれているのかもしれない」
 デートの日と同じ。僕の役目はいつだって、フォローだ。
「僕だって怖い。でも、浅間さんはそういう人だって、思えなかった。……それでも疑うくらいなら、こうやって顔を合わせた方がいいんじゃないか。どんなことになっても」
 二人の問題だと、強調するのも忘れない。
「僕が一人で決めたことなんだ。癒衣を利用したのは、申し訳なかったけど」
「……癒衣ちゃんは」かろうじて、か細い空気の震え。
「この機械のことは、何も知らないよ。会いたいから手伝って、って土下座しただけ」
 ジョークのセンスは変わらなかったが、今度は効果があったかもしれない。
「言わなくてもいいよ。嘘をついてもいいよ。今すぐに席を立ってもいい。僕のわがままだから。それでどんな危険を背負っても……それでいいって思ってる」
『だけ。忘れないで』
 ああもう、言えばいいんだろ。「浅間さんになら」『だけ』うるっさい!
「……だけに、なら」
 手ごたえはあった。
 意を決したように、浅間さんは爪を指先から離したからだ。
 僕は怪しげな席にまた目を向け、こっそり頷いた。あるいは、首の角度を変えた。
『おっしゃ。行くよ』
 癒衣が席を立ち、こっそりとラジオに近づくと、小さな自分の機器に線を差し替える。陰に隠すと席に戻った。グーサイン。
 スピーカーからバスドラムの三拍とスネア一発が流れた。百年ぐらい前のガールポップがデカい音で鳴り始める。政府の検閲を受けない、お気に入りの海賊放送に繋いだのだろう。
 どこかで読んだ小説に、こんな盗聴対策のシーンがあったけれど、自分たちが使うなんて。
 好都合とばかりに、浅間さんの告白が始まる。もちろん、懺悔の方だ。
「……これから言うことで、檜原くんは引いちゃうと思います」

 

 依頼を受けた盗聴。
 バイト……と言うべきかは定かではないが、彼女がこの仕事を始めたのは高校入学の直前のことだ。
「最初はDMで友達に誘われたんです。うちは……その、過保護な家で、高校でもバイトなんて許さないって言われて」軍需会社の家なら、ありうるかもしれない。「でも、自由に使えるお金がほしかったから、どうしようかなって。そんなときのことだったかな」
 浅間さんは警戒したが、話を聞くにつれて、その話に惹かれ始めた。
「けっこうやってる子、いるみたいですね。簡単だからだと思います。――依頼者から媒体を送ってもらって、それをセットして、盗み聞きしたい相手を呼び出して、会う。盗聴器を返して、お金を貰う。それだけでそこそこの額になりますね。必要なのは、通販でも買える小型レコーダーと、音声を確認できる編集ソフトかアプリぐらい。追加で払って依頼を続けさせる、リピーターみたいな人も来るし」
 曰く、そういった依頼や募集を交換するサービスのコミュニティが、ネットにはあるそうだ。軽い気持ちで始めた浅間さんは、まもなくヘビーユーザーになってしまった。
「会う人は、大半がすごく年上の男の人でした。うまく近寄ったら、みんな面白いぐらいひっかかって、びっくりしました。……怖かったけど、だんだん慣れちゃった。これも改造したんです」
 ペンを手に取って、浅間さんは言う。
 ……だとしたら、発信機能のあるメディアを送った奴らは、浅間さんと関係がないんだな。
「人見知りだったが裏返っちゃったのかもしれないですけど」
 これもよくあることだそうだが、やがて盗聴と乱れた異性関係は切り離せなくなっていった。一種のハニートラップと考えれば、距離が近づけば近づくほど有利になるわけで、自然なことかもしれない。
「この場では言えないけど、危ない目にも遭ったし……ひどいこともいっぱいされました。でも、優越感はあったかな。こんなに粋がってる男の人も、私に騙されてるんだって。でも……」
 自業自得なんですけど、と彼女は俯いた。
「そのせいで、人を好きになるのがどういうことか、分からなくなっちゃいました。どんなに仲いい人と喋ってても疑心暗鬼になるんです。相手も私に何か仕掛けてるんじゃないかって。そしたら、自分も演技と本音がごっちゃになってきて……」
「でも、桐生とは、仲良さそうだったのに」
「そう。あのグループにいるのは、楽しいです。……まぁ、それも仕事がきっかけだったから、悲しいですけど」
「それは……伊東も相手の一人だったって、ことかな」
「察しがいいです。さすが」笑顔が歪んだ。「同年代や身近な人にやるのは、苦手なんですけどね……彼が前に付き合ってた子に頼まれた。どうなったか、分かります?」
 立場を利用して、彼をその子から奪ったということ。なんだ、人に嫉妬できる立場でもなかったんじゃないか? 伊東。
「だから、私って汚れてるんです、いろいろと。気持ち悪いかも」
 こんなにあけっぴろげに喋られるとは思っていなかったから、内心の動揺は相当だった。でも、あのスパイ女はまだ手を緩めない。
『望海のことに移って。間髪入れず』
「……僕の件を、聞かせてもらっていいかな」
 そうでした、すみません、と浅間さんは赤くなっていた目を拭いた。
「でもさっき話したことと被るのが多いです。依頼は、主の身元が明らかな場合と、完全に匿名なことがあって。檜原くんの場合は、二つ目ですね。ネットで依頼を受けました。時期は……夏前ぐらい。その頃には付き合ってました。あと何日かで期日なので、何事もなかったら指定された返却場所にペンを返したと思います。駅のロッカーとかが多い気がします。だから、頼んできた人の顔は最後まで知りませんでした。それで――」
 その音源が、何に使われるのかも分からない。
「まだ相手と連絡は繋がっているの?」
「はい。でも追加の依頼はまだ来てないですね」
 それが浅間さんの知るすべてだった。
 真相は、アンナが今日、ここに来る直前にした予想とさほど離れていなかった。
『話を変えて』
「そっか。……じゃあ、最初に会ったときはそうじゃなかったんだね。なんか、嬉しいかも」
「えっ」彼女の目が上を向いた。
「だって、最初から利用するつもりじゃなかったんでしょ?」
「……それは」
「ついでに伊東にも勝った」
 笑ってみせると、浅間さんの口元も綻んだ。
「ありがとうございます。私、こんな言葉もらっていいんですかね」
「全然。むしろはっきりしたことも多くて、安心した」『勧誘に入って』「……だから、話を聞きながら、どうしたらいいか、考えを思いついた。……でも、浅間さんがどう考えているかによる。仕事を続けたいか、やめたいか」
「……やめたほうがいいですよね」
「『ほう』なんて、人目を気にしないでいい」逃げ道を封じる。「やめたいか、やめたくないか、浅間さんの気持ちがいちばん大事だよ」
 重苦しい無言が何秒か続いた。
 アンナは黙っていた。癒衣でさえ、何も言わなかった。
「……やめたいです。もう、誰かを疑うのも、好きなふりをするのも」
「そっか。じゃ、同盟成立だ。一緒に戦おう」
「……はい」
『望海。ずるいよー』
 なぁ癒衣、やっぱりお前はそうだよな。

 

 反省会は癒衣の家で行われた。
「いやーまったくこんなに上手くいくなんてね。ヒヤヒヤする準備をしてたのになぁ」
「望海、ここ勝手に台詞を省略しないで。あとここの挙動も気持ち悪い」
「……休ませてくれないか? 頭が痛いんだが」
 癒衣は上機嫌、アンナは仏頂面、僕は疲労困憊、三者三様である。
 ……癒衣を誘うことへの抵抗は、とんでもない食いつきで吹き飛んでしまった。
 幼馴染として性格は熟知しているとはいえ、やっぱり友人の身辺を漁るなんて嫌がるのではないかという懸念も空しく、蓋を開けて見ればこうしてノリノリである
 でも、そりゃそうか。人様の電波を盗み聞きする部活の長だもんな。
「なんか、ものすごい板についてるな」
「だって面白いじゃん。そりゃ篠には悪いっちゃ悪いけど、友達だし無視できないよね」おお。やっぱりクラスのアイドル。「それにこんな映画みたいなことできるなんて」後者が八割ぐらいだろ。一瞬でも義理堅いと感心して損したよ。
 そのおかげでアンナを自分と同じ趣味の普通の女の子と思いこんでくれたのは助かるけれど。
「アンナちゃん、次はどうするの?」
「相手の出方次第。偽音源を聞いてどう出るか」
 そこでアンナは、癒衣に気づかれないようそっと僕に目をやる。
 ……癒衣には、僕が襲われたことを知らせていない。だから、この事件を単に「浅間さんのペンに盗聴器が入っていたのを見つけてしまった」というだけのことだと思っている。
 アンナと話し合って決めたことだ。
「じゃあ、まずは罠をかけないとだね。アンナちゃん」
 アンナが頷く。いよいよ大事になってしまった。
 浅間さんには期限まで盗聴を続けてほしいと伝えて、ペンを再び受け取った。そして記録した音声を編集――特に伊東とのトラブルは全カット――し、期日になったら何食わぬ顔で返す、という作戦を提案した。
 つまり、全部うまくいっていると装うのだ。
 音源を弄ることに浅間さんの抵抗が少なかったは幸いだった。
 ただ、自分から盗聴器を送るように、もちろん依頼側は警戒しており、そのまま提供されることに拘るようで、技術的にはパスワード等で書きこみにロックがかかっていることもあるらしいのがネックだった。浅間さんも音声編集の知識は薄く、再生確認以上のことはほとんどしないと言っていた。
 しかし、そのあたりは「僕に知識があり、なんとかできる」と言い含めてライブ感で乗り切った。まさかこちらにはスパイがついているなんて口にできるはずもない。
「望海がオタクだと思われていてよかったね」
 口が減らない幼馴染は置いておこう。
「……で、記録を続けるのはいいけど、具体的にはどうするの。また演技でもしなきゃいけないのか?」
「二度とさせない。見ててイライラした」
「なんで? 成功したじゃん」
「分かる。望海、いっつも女の子にああやってるんだね」冤罪も冤罪である。
 結論から言えば、僕たちは何事もなかったように過ごすのだ。いや、いざ「全部忘れて普通に暮らせ」と言われてできるかは別問題だと思うけれど……いや、癒衣を見れば、そうでもないのか。
「私がいることだけは、綺麗に検閲して隠す。急に現れた異物というだけで、疑われるのに十分だから」
 これも、アンナの正体を知る僕と知らない癒衣で含みの違う一言だ。こいつ、こういう喋り方が厭らしいぐらい上手い。
「気づかれないといいけど」
「そんときはそんときだよ。ね、アンナちゃん?」
 いたずらっぽい笑顔で、良心をちくちくと刺される思いだった。平然としていられるこのスパイが羨ましい。と思っていたら――
「それよりもっ」がばっ、と癒衣がアンナに抱きつく。「なにっ、やめて、放せっ」「それまではみんな自由ってことでしょ?」
「そうだけどっ、放してよ」
「じゃあさ、おんなじ部屋に泊まらない? せっかく部屋が三つ並んでるんだし、これはお泊り会しかないでしょ。ね? アンナちゃん」
「嫌に決まってるでしょっ、だからどけてって、ねぇ!」
「ね? ねっ?」
「うっ……ぐうっ……」
「おお、大賛成みたいです。暴れたくなるほど盛り上がってますね」
 なんでそうなるんだよ、と言いたいのは僕だけじゃなくアンナも同じだと思うが、彼女は腕の中に絡め取られてじたばたするだけの暴れ魚と化してしまった。本当に僕を担いで逃げ出したのか……?
「分かった、分かったから、やめてって、やめてくれたら――」
「いいってこと? おっけー」ばっ、と手が離されて、癒衣がニヤニヤする。あ、こいつの企み顔だ。
「まさか、アンナちゃんは約束を破る悪い子じゃないよね?」「当たり前でしょ。私は子供じゃ――」「よし、アンナちゃんも賛成!」「待って、そういう意味じゃないって! ねぇ!」
 再びの抱擁。
「ねぇ、望海も賛成でしょ?」
「好きにしたらいいんじゃないかな、うん。仲良くしてやってくれ」
「なんで他人事みたいに言ってるの?」えっ、どういうことですか。「望海もに決まってるでしょ」
「やだ!」アンナの野次が飛ぶ。「犯される、嬲られる、屠られる、ぜったいやだ」動詞の意味分かってますか?「確かに」納得すんな!
「大丈夫、アンナちゃんは私が守る。十八時以降は屋外にいてもらうから」
「せめて僕の部屋にいさせてくれ……」
「なぬ、自分の床に上げたいと申すか」
「発言を切り取るな!」
「やだ、殺す、撃ち殺す、撃ち殺して川に流す」「それ私も手伝う!」
 ツッコミが追い付かないよ、もう……。

 

 結局、入浴と着替えの時間は僕が退去するという留保のもとで、期限のない〈お泊り会〉が始まってしまった。
 アンナのセーフハウスに連れこむことはできないし、僕の部屋に上がっただけでこのガキには犯罪行為と見なされるわけで、当然選ばれたのは癒衣の住処で――
「かんぱーい!」
 ジュース、袋をパーティー開けした菓子類、そして(一名の)手拍子で、歓迎会が強制開催された。ちなみに買い出しは僕である。自腹でもある。
「アルコールがないのが残念だけど、シラフでもハイになれるらしいから気合入れてこうね。じゃ、新入部員のアンナさん挨拶を」
「……ぅ」そんな顔で僕を見るなよ。「……よ」「よ?」「ろしく、おねがっ、い――」
 すごい。人間の顔って本当にアニメみたいに赤くなるんだ。
「はい。じゃあ私も自己紹介するね。改めまして、放送部部長、冴野癒衣です。特技はゲーム、無線弄り、望海弄り。で、好きな食べ物はここにあるお菓子全部」机の上に手を乗せる。「望海の自己紹介は……いいや。アンナは好きなお菓子ある?」
 清々しくスルーされた僕を置いて、癒衣が訊く。アンナは相変わらず小動物みたいに体育座りで椅子に乗っていたが、ちょっとだけ物欲しそうに皿の一部を見つめた。
バウムクーヘン、好き」
 こくり。
「どうぞ」と渡すと「……爪楊枝、ある?」とアンナは訊いた。
「前にもらった箸袋についてると思うけど……」探し出して、渡す。「何に使うの?」
 答えないまま、バウムクーヘンの袋を開けて取り出す。皿の上に置くと、爪楊枝の先をひっかけて、丁寧に剥がし始めた。
 一枚終えてから、ぱくりと咥える。
「うまっ! アンナちゃん、手先器用なんだ」
「普段からの練習」
 何のだよ、と不穏に思ったのは僕だけで、癒衣は「こりゃ恐ろしい逸材だ」と目を丸くした。
「ねーねー、私にも教えて! ほら、望海も」「いや、僕は――」「はい、勝負」
 爪楊枝を渡されて強制参加させられる。地元で昔やった夜店の型抜きみたいだ。
「そこ、もっとゆっくり。力抜いて。破れちゃう……あ、ダメだった」
 アンナの指示に悪戦苦闘しながら、癒衣は笑う。
「こういうの、懐かしいね」
「懐かしい?」とアンナが顔を上げる。
「そうそう。私たち、幼馴染だからね。ここに来る前住んでたとこで、二人でどうでもいい勝負ばっかりしてたんだ」
「そうなんだ……」
 きっと錯覚だと思うけど、アンナが寂しげに見えたので「でも、これからは三人になるかもね」と言ってみた。
 子ども扱いするな、って叩かれるかと覚悟した。
 ……でも、返ってきたのは「望海が勝てるわけない」って軽口と、見落としてしまいそうな、一瞬の笑顔だった。
 あれは笑顔だと、思った。
 そんなことに気づかず、できた! と癒衣は一枚の薄皮を綺麗に剥がしてガッツポーズした。
「あー、ほんとに楽しい。アンナちゃんが来てよかったー」
 こんなにくだらない思い出にも、あとで思うことになる。
「……アンナちゃんの歓迎会、クラスでもやればいいのにね」
 その呟きは、果たして偶然だったのだろうかと。

 

11

 アンナが編集した音声は浅間さんに渡され、計画通りに彼女は駅構内のコイン式ロッカーに入れ、鍵を指定された場所(駅前のベンチ横、植え込み)に隠した。
 やがてすぐに何者かがそれを回収した。
 ……二人きりのとき、アンナに張り込みを提案したが、あっけなく却下された。
「ストーカーならともかく、集団で機密を奪い合う連中がのこのこと出てくるヘマをするはずがないの。どうせ受け子でも使うに決まってる。いちいち漁っていたらとんでもなく時間がかかる。……ほら、見て」
 彼女のPCで見せられたのは、水流のように行き交う人の中で、ほんの一瞬で荷物を取っていく男のスローモーション映像。
「なに、この映像」
「提供された監視カメラ」真顔でアンナは言う。「どう? まったく個性がない。鍵を置いた駅前も同じ。その場でしょっぴくか政治犯として全国に指名手配でもしなければ、この人物を特定できる要素はほとんどない」
 やろうと思えばできると言わんばかりの放言だが、言わんとすることは理解できた。
 ……それに、僕たちが見つかるヘマをしたほうが、よっぽど問題だ。浅間さんは信頼を失うことになるんだな。そうしたら、すべての接点が消えてしまう。
「たぶん、もし順調に進んだなら、向こうは必ず次の一手に出る」
 アンナにはその確信があった。

 でも、その間も学校生活は続いていた。
 今までと違うのは、アンナの存在だけ。
 彼女は変な女の子だったし、いちいち厄介ごとを起こした。
 英語のディベートではALTの外国人の先生を黙らせ、社会科の授業で当てられれば百科事典のようにペラペラ喋ってネットの記事を読み上げたと疑われて理不尽に怒られ、菓子パンの自販機でドーナツを買い占めて上級生と揉めた。
 その度に僕は呆れ、癒衣は傍でニコニコと笑っていた。
 もちろん桐生たちのグループとのわだかまりは続いていた。浅間さんもアンナと仲良くしてくれた……と思う。たとえ、僕とお互いどれだけ緊張していようとも。
 でも皮肉なことにアンナのせいで休戦のような空気になっていったようだ。……というのは癒衣の言で、当の伊東や桐生が遠巻きに僕に向ける目が変わったようには思えなかったけれど。
 このまま何も起きなければ、〈一手〉が永遠になければ、そんな高校生活がいつまでもつづいたのかもしれない――そう、本気で思う。
 そんなはずないのに。

 浅間さんに、依頼者からの連絡が来た。
「追加で、依頼があったんです。……それも、すごい額で」
 彼女が僕に知らせた金額は、確かに驚きだった。それこそ、僕がアンナに渡された口止め料ほどの数字だったからだ。
 そして、依頼は――
「『転校生に接近しろ』って」
 鳥肌が立った。
 僕が慄いたのは、なんらかの方法で向こうが転校生の存在を知ったことだ。
 そりゃそうだ。僕を監視する別のルートがあっても不思議じゃない。でも、こうして身近に感じられたことは、あの夜に襲われたのと同じくらい、怖かった。
「なんでアンナちゃんなんだろう……? 私たちと、関係ないのに……」
 おい。これ、まずいんじゃないのか。

 

 そんな僕の不安にも、アンナは冷静だった。
「私の素性をどこまで掴んでいるか分からないけれど、依頼が正しいなら、そこまで詳しくはない。でないと私に接近する理由がないから」
 相手のことを知っているならば、探ろうとは思わない。
 当たり前の、でもパニックにになれば忘れかねない、賢明な逆説だった。
「アンナちゃん、私たちどうなっちゃうのかな……」
「大丈夫。これもまた、逆手に取るだけ」
 アンナの提案は、ひょっとしたら味方の僕たちをいちばん驚かせたかもしれない。
「彼女に、私の歓迎会を企画してもらう」
 どこまでも、その目は本気だ。
「浅間さんが提案したら、たぶん向こうは喜んで乗ってくる。私と望海の情報を両取りできるチャンスになるから。どころか、この日に浅間さんと望海の関係が変わることを、暗に期待させられる……かも」
 アンナにしては勿体ぶった言い回しで、なんとなく察した。きっと耐性がないのだ。
「望海、もし仮に、仮にだけど、篠に本気で迫られたら断れる?」
「うん」それは保証できた。「でも、浅間さんの依頼を失敗させるから、舵取りが難しいね」
「……本当は、そこじゃないんだけどねぇ」
「え、どういうこと? そういう話じゃないの」
 二人の冷たい視線を浴びて、ため息をついてしまった。お手上げだ。
「とにかくっ、状況はややこしくなってきてるの」
 まったくもってその通りだ。
 依頼者(=僕を狙っている?)は、浅間さんと僕をくっつけて、僕やアンナに関する情報を聞き出そうと画策している。だが、僕たちの策略は何も知らない。
 浅間さんは僕と同盟を組んでいて、この生業と手を切りたがっている。つまり、依頼者の企みを利用できる立場にある。でもアンナたちの存在を僕は隠している。よって知らない。
 そしてアンナ(と癒衣と僕)は、前の二者両方の動きを読んでいる。だが、依頼者の正体どころか僕が狙われる理由さえ、まだ掴めていない。
 ――メタの三竦み。
「だから、その日にすべてが交差することになる。……派手なことが起きる可能性は薄いけど、大手をかける最大のチャンスなことは、間違いない」
 仰々しさに、奇妙な感じがする。
 たかが高校生のパーティーじゃないか。今もなお、そう思っている自分がいる。でも、何かが起こるのではないかと思う自分もいる。
 そしてアンナと出会ってから少しずつ、時が経つにつれ比重は逆転している。
 非日常を期待してはいない。
 でも、それが普通だと思うようになっていないか?
「その依頼を受けてもらう」
「……本当に、いいのかな」
「浅間さんを危険な目には遭わせない」
 癒衣は僕たちを交互に見てから、一つだけアンナに訊いた。
「約束できる?」
「どんなことがあっても、私は協力者を守る」
 そっか、とだけ癒衣は呟いた。
 どんな意味か、きっとこいつは知らない。そんな隔たりから、僕たちは何度も目を逸らす。
 そして、この世界が回転を止めてくれることもない。

 

12

 浅間さんを納得させるのには難儀した。でも、僕は言いたくなかったカードを使い続けた。
 ――この依頼には、きっとアンナが大きな秘密を持っているんだと思う。……ひょっとしたら、真の標的かもしれない。
 ――アンナと仲良くなったのは部屋が隣だったからだけど、それはもっと早くから決まっていて、先回りして僕を狙ったんじゃないかな。だとしたら、もう僕たちだけの問題じゃない。
 ――あの子が現れたのは不自然だった。何かを知っているかもしれない。僕が調べてみる。
 ――何かあるみたいだ。でもあと一歩で喋ってくれなくて、本当のところは訊き出せなかった。
 ――だから、ここは本当に信頼関係を作って、逆にアンナを引きこんでしまうのはどうだろう?
 この提案は、僕たちが浅間さんにしていることと、完全に鏡移しだ。それが卑怯に思えてならなかった。
 だから乗ってくれないことを、僕自身が望んでいたかもしれない。
 でも彼女は納得した。してしまった。
 そして、面従腹背な僕の出番がやってくる。

 ゼロからクラスのグループで呼びかけたら紛糾しそうなので、あらかじめみんなで下見をしてはどうか――ということで、秋も暮れた休日、僕たち三人は浅間さんと待ち合わせた。
「わぁ、かわいい」
「かわいいでしょー」
「うん。かわいい」
 私服のアンナを前に、浅間さんと癒衣はいきなり語彙力ゼロになった。
「……用事を忘れないで」
 アンナの機嫌がよくないのは、前日に癒衣に服を買いに行かされて、着せ替えを楽しまれたからだろう。外に突っ立っていた僕は、この三名が周囲にどんな関係に見えたのか気になってばかりだった。召使、ぐらいしか思いつかない。
「みんな案を出してくれてありがとね」
 癒衣のアイデアで、女子勢三名には近場で行ってみたい場所を先に挙げてもらった。僕に発言権がないのはまぁいいや。
 癒衣がスイーツバイキング。
 浅間さんはブックカフェ。
 アンナは実弾の射撃場がある、ミリタリー系のアミューズメントパーク。
 ……ひとりだけおかしいのが混ざってないか?
 この三つをこれから回ってみる……予定だったのだが。
「提案なんですけど」
 手を挙げて、浅間さんは僕たちに尋ねた。
「せっかくなので、提案者と檜原くんがカップルになるのはどうでしょう!」
「おもしろそう!」「やだ」
 ……え、どういうこと?
「女子三だとちょっと気まずいかなと思って」改善策のほうが気まずくないですか。「そのほうが面白そうじゃない?」
「さんせーい!」「絶対やだ」
 開始早々に仲間割れが発生している。
「じゃ、まずはアンナちゃんから、どうぞ」
 浅間さん、敬語のイメージに反して、実はノリいいほうなんだな……。
 それにしても……。
「なんで望海となの」
 銃弾よりデカい穴が開きそうな拒絶の目に、どうなってしまうのかとため息が出た。

 

 しかし実際に銃弾と戯れてみると、まるで幼子のようにアンナははしゃぎ始めた。真顔で。
「――それじゃ手を痛める。腕まで怪我したいの? ほら、もっとこうやって、はい」
 ここの目玉は実弾を撃てる射撃場。意外に人はいて、なんのために着たがるのか訝しむ。基本的には弾数制だが、チケットによっては短いが一定時間撃ち放題のコースもあるらしい。
 射撃中は線の向こうに入ってはいけないが、アンナは「子供は入っちゃダメ」の柵を飛び越え、一発終わるごとにいちいち身体を密着させてフォームを修正してくる。あまりの熱意にインストラクターがドン引きしていた。
 というか、距離が近いんですが。
 アンナの背丈では無理やり背伸びしている感じになる。すると、自然と頭をこすりつけるような形になってしまう。
「ほら、もう一度――」言いかけて、アンナはうっかり上を見る。僕はよそ見をしてしまう。たちまち目が合う。
 そこにあるのは、幼げな、何かを真剣に想う――上目遣い。
 嘘じゃない。
 心臓が鳴る音が、はっきり聞こえた。
 見つめ合ったのは三秒くらいか。攻防の末、ついに僕が目を逸らした。すると、なぜかアンナはキレて、僕を揺らし始めた。
「なんで!」
「そっちこそ!」
「許さない。終わったら的にする」
 ふざけんな。本当にやりかねないだろお前は。
「危険物を振り回さないで! 安全装置は!?」
「大丈夫だって! お前が暴れてるんだぞ! それに身長が一定以下だとやっちゃダメって」
「殺す! 絶対殺す!」
 あの、公衆の面前なんですけど。社会的に死にそうだよ。

 

 ひと騒動で疲れ切った僕を癒してくれたのは、甘味だ。
 こちらもバイキング形式で、一定時間ならいくらでもデザートを持ってきていい。サブスクといい、こういうのが流行りなのだろうか。
 癒衣は自らの選択をテーブルに並べてご満悦だ。ミニパフェ、アイスケーキ、ティラミス、青みがかったシュークリームさえあった。……食べられるの、それ?
 それにしても面と向かっては言わないけど、こんなに食べるのにとんでもなく華奢で、どこにエネルギーが行ってるのかと思う。テンションだろうか。
「で、どうだった?」
「楽しめたんじゃないかな。クラスの皆が同じかは分からないけど、回転率は良い」
「ふーん」何、その反応。
「あの後二人で行って撃ってみたけど、結果はぜんぜんダメだったなぁ。年一か二の訓練でしかやんないからそんなもんか。……あれ、何かあった?」
「……いや、特には。アンナ、上手かったね」
 インストラクターを(僕が)説得して撃ってもらったらとんでもないスコアを出してしまい、観客が集まってしまったのだ。果てはサインをねだった女子高生さえいた。
 もちろん署名は『ANNA K』。そのうち伝説になったらスパイができないのでは……。
「ふーん」そう言ってケーキのイチゴを掬い上げた。そのまま食べるのかと思いきや、唐突に僕の顔に近づけてくる。
「あーん」
「……なんで?」
「いや、八つ当たり」
「何のだよ……おい、顔に当たる」
「早く早く」
 厄介だなぁ。仕方ない。こうなったら癒衣は梃子でも動かないからなぁ。
 恥を忍んで口を開け、迎えた。
「きゃー」
 顔が暑くてたまらない。
「やはは、くるしゅうない」今日いちばんの笑顔だ。
 それを見れたのは、なんだかんだ嬉しいと思う。笑ってる顔がいちばん好きだ。好きというか……いや、それは言葉の綾なんだけど……って、誰に弁解してるんだよ僕は。
 しかしそんな笑みはじき曇った。
「あれ、気づかなかったけど。望海なんでカレー食べてるの」
「もっとお昼っぽいの食べたら締めにいいかなと思って。お腹空いたし。癒衣もどう?」
「……退場」
「えっ」
「店員さん! スイーツ食べ放題でカレー食ってます! 退場ですこの人!」
 大丈夫? こいつ、甘味でキマってない?

 

 最後は浅間さんとブックカフェだ。
 漫画喫茶みたいな場所をイメージしていたけど、店内はシックで、とっても落ち着いた雰囲気だ。棚の蔵書には一般書や児童書だけでなく漫画やライトノベルもあるが、集中できる心地よい場所だと思った。大勢が楽しめるかは微妙だけど……。
 そういえば、浅間さんはどんな本を読むのかな。
 僕が持ってきた小説に、彼女は「檜原くんは文学とか好きなの?」と興味を示した。
「そこまでじゃないけど。浅間さんは……絵本?」
「びっくりしました?」
 彼女の手元には、『ひびのあわ』という、切り絵で作られた絵本がある。幻想的だ。
「好きなの?」
「ええ。ちっちゃい頃から、なんでも願いが叶うなら、絵本作家になってみたいんです。美術系の大学に行きたいけど、私の家は頑固で、なかなか大変です」
 ちょっと重い話になりそうだと思ったのか、浅間さんは紙の上を撫でた。
「これは……男の子も、女の子も、ハツカネズミくんも死んじゃうから、ちょっと悲しい話だけど……ほら、とっても素敵でしょ?」
 絵を見せようと身体を寄せられる。
 せっかく落ち着きつける空間なのに、くっつかれると、その、なんだか逆効果になっている気もしたけれど……でも、浅間さんはやっぱり面白い子だな、と思った。
 こんな趣味があるなんて「かわいい」かも。……いや、だから言葉の綾で……。
「檜原くん、いま何か言いました?」
「ん? 言ってないけど」
「でも、横で呟きが聞こえたんです。……ひょっとして、『かわいい』って言ってませんでした?」
 ……嘘だろ。口に出してたってこと? まずい、せっかくの時間が――と慌ててフォローする。
「そうそう! このハツカネズミ、かわいいなって。絵心があるっていうか。いや、切り絵だと絵心なのかな? 切り心?」
 えっ、という空白のあと、「……なるほど」浅間さんは微笑みながら頷いた。
「檜原くんはそういう人だと思ってたけど、そういう人なんですね」
 なに、この空気。
「いや……でもほんとに思うんだよ。あんまり読まないから知らなかったけど、こういうものが好きな浅間さん、とっても趣味がいいと思う。その……かわいい、っていうか」
 まずい、もっと地雷を踏んだか――と思いきや、浅間さんはもっと顔をほころばせた。
「こういう人だから、好きになっちゃったのかも」
 仕返しをされてしまった。
 でも、実際クラスを眺めていて目立つというか、気になるような子だし、結構なクリティカルで……違うんだ。だから誰に弁解してるんだって。
「でも檜原くん、ハツカネズミは指さしてる子じゃなく、こっち。それはネコ」
 嘘だろ。

 

 それから皆でご飯を食べて、喋って、喋って、アンナも普段の二割増しぐらいは喋って、暗くなるころに解散した。謎の満足感がある。
「楽しかったね」
「……うん」
「みんなありがとうございます。とっても参考になりました。……やっぱり、興味があるグループに分かれてから、最後にどっかで合流するのがいいですね」
「食べ放題とか、安くておっきなお店がいいかもねー」
 盛り上がっている会話のはずなのに、なんでちょっとピリピリしているんだろう。
「望海、どうだった?」
「僕も楽しかったよ。手伝えてよかった。いい歓迎会になればいいね」
 せっかくいい空気だったのに、三人を順番に見つめて「でも、今度遊ぶなら、四人一緒もいいかも」と言ったところ、なぜか全員に小突かれた。
「……ま、それが望海だから」「そうそう」「……はぁ」
 そんな不思議な幕切れはともかく。
 本当は、四人とも内心で含みがあった。
 でもきっと、今日という日が楽しかったことは嘘じゃない。
 癒衣も、浅間さんも、アンナだって、同じであってほしいな。

 

 僕はもっと、この時間をかみしめるべきだったのに。

 

13

 振り返ってみれば、まだひと月も経っていないのに、気がついたらアンナも部活動に馴染んでしまった。
 彼女の知識は僕たちを遥かに凌いでいたから、癒衣にしてみれば最大の助手が来たと思いきや部長を脅かされているわけだが、そのおかげでできることも増えたので、いてくれてよかったなと思う。何より、三人という数字は楽しい。話が尽きないから。
 時間があれば三人で自転車を乗り回し(アンナは健脚なので徒歩でついてくる)、そこらじゅうでアンテナを立てた。
 今日は、ひとまずその集大成になる日。なぜなら――
「『流星電波観測』……そんなのがあるんだね」
「そう。しし座流星群のニュースは見た?」
 いつか聞いた記憶がある。
 最盛期がちょうど今、十一月半ばだったっけ。
「普段届かない場所の電波も聞こえるんだっけ」
「そういうことになる。……今回受信するのは、大学が公開している専用の周波数の放送」
「〈敵〉の大学なんだよね」ノートパソコンをセットする癒衣は、既に興奮している様子だ。「いいのかな、消されたりしない?」
アマチュア無線に戦争は関係ないってそこのホームページに書いてあったよ。検閲もなかったし、たぶん許してくれてるんだよ」
「望海、こういうときも興ざめなんだなぁ……」相変わらず、僕のテンションがお気に召さない様子だ。せっかく学問いい話なのに。「それにしても、間に合ってよかったよー」
 可能性は考えていたものの、今日のうち観測されだしてから、慌てて機材の準備をしたのだ。たとえ最新技術・超小型であっても、持ち運びや設定は大変なのだ。
「いちばんいいときは何秒か見えるんでしょ?」
「そう。今の時間ははもっと早く消えてしまうかも。でも、かなり光る」アンナは上を向く。「音声はたいしたものじゃなくて、短い継続音がするだけだけど。でも何十回かチャンスはあるから、たぶん大丈夫」
 屈みこんでヘッドホンを片耳に当てて様子を伺う。ノイズしかしない……と屈みこんで悪戦苦闘していたら、突然癒衣が肩を叩いた。
「望海、星! 流星群!」
「えっ、なになになに! 早く言ってよ」
「あー、終わっちゃった。遅いなぁ。望海の人生みたい」そのボケ意味が分からないぞ。
 でも、がっかりする必要はなかった。
 まもなく何度も何度も、空を引っかき傷が削っていった。一時間に何個かって聞いていたけど、これはすごい。
「大出現、かも」
「ねぇ、みんなお願い事しないの?」
「お願いって……ああ、そういうことか」
 ほんとに、こいつらしい。
「私はもう祈ったよ!」癒衣は僕たちを見て、綺麗に笑う。「来年もここで三人活動出来ますようにって」
「……夏には、電離層反射通信がある。星は見えないけど、遠い放送が聞こえるかも」
「じゃあ、またやっちゃうかー」
 三筋の白い息が、冷たい火事のように天に吸い込まれる。
 すっかり寒くなって、僕たちはコートやジャンパーを着るようになった。巷では寒冷化で、こんな時期から大雪も心配する声がある。とんでもない異常気象だ。夏も涼しくなればいいのに、暑そうで嫌だなぁと思ってしまうが、癒衣は乗り気だ。
「……おっ、聞こえる聞こえる」
 ヘッドホンの向こうから、断続的に高い音が聞こえてくる。
 これが、お目当ての音。
 遠くから響く、星が渡す郵便。
「貸して!」
「二人とも引っ張るなって! 壊れる!」
 僕たちは、聞こえなくなるまではしゃぎ続けた。

 

「来年、楽しみだね」
 来年かぁ。
 ずいぶん先のことに思える。
「アンナちゃんもお願いした?」
 訊かれてびっくりしたらしい。彼女は何かを言いかけては、やめてしまう。
「私は……そのときには」
「ん? アンナちゃん、急にどうしたの」
「……なんでもない。一緒にいれたらいいね」
 最後にそう打ち消してから、アンナは一度だけ、僕を見た。
 ――消えるから。
「夏は合宿をやりたいね。で、文化祭では――」指を折って、癒衣は僕たちに笑う。「楽しいことは、これから始まるよ」
 まるで、永遠を、神様を、信じているみたいに。
 ――忘れて。
 こいつがすっかり忘れた言葉を、僕はまだ憶えていた。
 もしすべてが解決すれば、アンナが僕の傍にいる理由はなくなる。それを想像したら……世界から何かが欠けてしまうように、思えた。
 馬鹿げている。人生で二度と会わず、喋りもしない人なんて、毎日いくらでもすれ違っているはずだ。ましてやたかかだかひと月前に現れた変な女の子なんだぞ。
 僕は彼女のなんだというんだろう?
 僕が彼女の何を知ってるんだろう?
 ……その頃、僕たちはどうなっているのか。世界はどうなっているのか。
 戦争は……きっと続く。
 それでも、この事件が終われば僕たちは自由になるのかもしれない。たとえ、どこの誰の大きな手の中で踊らされていても。
 できるかぎり、僕たちに都合がいい世界でありますように。
「何を祈ったの?」
 僕は答えない。代わりに、こっそりと言葉以外で伝えた。
 癒衣に気づかれないように、そっとアンナの肘を叩く。
 それから不意打ちで、ほんの一瞬だけ――握った。
 狂っていると思う。
 普段ならそんなこと、絶対にしなかった。だから「セクハラ」と蹴っ飛ばされるのを覚悟した。
 でも、アンナは黙っていた。それから――
 きっと死ぬ瞬間まで、思い出す。
 とても弱弱しかったけれど、握り返してくれたことを。

 

「お? 何お二人さんいい感じになってるの?」
 ぱっと、手が離れる。癒衣は気づかなかったようだ。
「寒いってー。あっためてよ」
 そのまま僕たちは抱きつかれる。
「わっ、アンナちゃんあったかい」「だめっ、手握らないで」「それにしてもお嬢ちゃん、お手々ちっちゃいねー、ちゃんと糖分取ってる?」「……もう、また子供だって」「あ、望海邪魔」「はいはい、どきますよ」
「ついでに自販機でコーンスープ買ってきて。会計はここ降りたら」
「あ、私も」
「……パシリ担当かよ」
 どっちも頷くな。

 

 まったく……と二人から離れて、自販機に近寄って――スマホが、震えた。
 画面を見ると、着信。その相手は。
「……先生?」
 そういえば番号を交換してたんだっけ。なんだろう。忘れ物とか? でも、この時間にまだ学校にいるのかな。ものすごいどうでもいいことだったらどうしよう。切るか。
 電話に出た。
「もしもし」
『あ、檜原くんね。こんばんはー、元気?』
「元気です」
『最近あんまり来なくなったけど、調子はどう?』
「そうですね。前より頭痛は減った気がします」
『よかった。心配だったから。おもに顔が』
「……そりゃ結構で」
『それになんだか景気いいみたいね。風の噂で、転校生が放送部に入ったと聞いたわ』
「そんなのあるんですか……」
『よかったわね。楽しい?』
「はい」僕は断言した。「楽しいです」
『だとしたら、これから話すことは残念な話になるでしょうね』
「……どういう意味ですか? また変な冗談なんて」
『アンナという女の子から、すぐに逃げなさい』
 普段と同じ調子、同じ声音で、業務連絡のように先生は言った。

 

「……それは」
 それ以上、言葉が出てこなかった。
『どこからいえばいいかしらね。そうだ、とっかかりとして顔の話をしましょう』
「なんなんですか、これ」
『相貌失認、という言葉を知っている?『僕を無視するつもりだ。『フィクションやドキュメンタリーで知っている多くの人には、個人の顔が識別できなくなってしまうこと、と俗にイメージされているわね。……医学的な意味ではたぶん正確じゃないんだけど、広義なら私はその亜種なのかもしれないわ』
 べらべらと、訳の分からないことを喋り続ける。
『私は後天的にそうさせられたのよ。乱暴だけど、脳をいじられたって説明が手っ取り早いかしらね。私は優秀な諜報員だったけれど、恥ずかしながら私情で任務を失敗したの。本当ならお役御免、ゴミ箱にポイってところだけれど……私はあまりにも優秀だったので上は捨てるに忍びなかったのね。で、ペナルティをつけた』
 諜報員。
 今、そう言わなかったか?
『さて、問題。何だと思う? ……めんどくさいから時間切れね。答えは最初に言っているのに。あなたに分かるように言えば、人間の顔が見えなくなったの。……でもちょっとひねくれててね、まず、眼は正常。それに、確認しようと意識して頑張れば誰かは分かるの。でも、形や美醜というものを、私の脳から一切消し去った。……分かるかしら? つまり、私の感情においては、ほとんどの人間の顔が平べったいお面のように見えるの』
「ちょっと待って、何言ってるのかさっぱり――」
『分からないでしょうね。だってこんなことを話すのは、私が一方的に檜原くんを愛しているからよ。檜原くんの顔を』甘ったるい、媚びた声。『あなたと出会ったとき、奇跡だと思ったわ。……必死でこっそり調べたけれど、ついにバグとしか考えられなくなった。あなたの顔が分かるなんて』
「先生、黙ってください。ちゃんと話してください」訳が分からないなりに、僕は必死で防御態勢を取った。「先生は……諜報員なんですか」
『そうよ。ついでにネタバレすると〈敵〉』
 僕の声帯は、痙攣したように震えた。
「……どこまで知っているのか、訊いていいですか」
「うーん。いま言えることは、檜原くんが国家機密レベルの重要人物ってことと、君はおそらく君がなぜそうなのかを知らないってぐらいかしら。それは君が生きてきたことと何も関係がない。病気や障害、体質、それがたまたま陰謀だっただけ。生まれたときからそうなっていた。おそらくそれ以上理由は付けられない……はぐらかしてるみたいでごめんなさいね。でも、詳しいことはこっちの分からないの。だって敵国の機密だし、それを監視するために私がいたんだから』
「じゃあ、あなたが学校にいたのは……」
『正解。最初から、檜原くんを見張るためよ』
 先生はあっけなく、次々と認めていく。
『逆にいえば、それだけ。私が恋愛感情を抱いたのはまったくの、神様の偶然ね。今度こそ公私混同はまずいけど、でも結局電話しちゃったわ。助けたくなっちゃったの。……今すぐに逃げなさい。そして私のところに来なさい。保護するわ』
「……信用すると思っているんですか」
『思っていないわ。これは自己満足だから。でもね、年長者の忠告は憶えとくぐらいしたほうがいい。最大限、優しい言い方をするわ――檜原くん。このままだと、あなたはすごく後悔するわ。すごく、すごく、すごく、すごく、悔やむ』
 僕は、答えた。
「それでも、できません」
『勝手にしなさい、バカ野郎』
 その一言で通話は終わった。
「望海、遅い! もう帰りたいんだけど」
 振り向くと、癒衣がいた。思わずスマホを隠した。
「……どうしたの? 突っ立って。寒さでボケちゃった?」
 後ろからアンナもやってくる。
「これにする。買って」
「おー、いちばん高いコーヒーじゃん。砂糖ぶんの値段かな? じゃあコンポタじゃなく私もこれにしよっと。望海、罰として奢って」
「あ、ああ、うん」
「……突っ込んでよ。そんなことしないよ」
 二人とも困惑顔だった。
 僕はどうつくろうべきか、もう考えていた。
 悲しかった。

 結論から言えば、先生の予言は当たることになる。

 

14

 癒衣はクラスで一番、ひょっとしたら企画者の浅間さんや主役のアンナより、歓迎会自体を待ち望んでいた。もはや浅間さんとのスパイごっこなどほとんど忘れるぐらいに、高校生の、単なるイベントとして。
 だからまもなくという時期に高熱を出したことは、本気でショックだったようだ。
「絶対寒い中はしゃいだせいだ……悔しい……」
 ベッドに倒れこむ癒衣を、アンナと交代で看病する。出会った頃、絶対に想像できない光景だ。
「這ってでも行きたいよぉ……」
「ダメ。もっと悪くなったら、もっと楽しくなくなる」
「しょうがないなぁ。……二人で楽しんで。……難しいことは分かんないけど、アンナちゃんなら、篠のこともうまくやってくれるよね」
 これでいいのかもしれない、と思った。

 

 歓迎会を前に、最後の二者会議の場。
「……これで、ほんとにいいんでしょうか」
 浅間さんはストローの袋を畳みながら、僕を見据えた。大事な話をするとき、手元の空虚を何かで埋めないと気が済まない癖があるのかもしれない、と思った。
「不安って言ったら、ここまでしてくれた檜原くんに申し訳ない……んですけど」
 そりゃそうだろう。正解なんだから。でも、僕にどうしろというのだろう。幽霊のように聞き耳を立てるアンナの気配を感じながら、僕はひどい板挟みじゃないかと思った。
 僕がやっていることは強迫観念に過ぎないのだ。
「二つが重なっているだけだって考えるといいんじゃないかな。騙しているわけじゃない。アンナのお祝いはお祝いだ。浅間さんだって、アンナの秘密はともかく、彼女のことは嫌いじゃないんだよね?」
「それは、そうですが……」
 喋りながら、人質に銃口を突きつけるような気分だった。
「なら、そんなに罪悪感なんて持たなくていいと思うよ。一歩ずつ情報を集めて、白黒つけていこう」
「……そう、ですね。ありがとうございます、檜原くん。弱気になってる場合じゃないよね、もとは私が持ってきちゃったことなんだし、私が戦わないと――」
 そこまで言いかけて、浅間さんは言葉を抑えつけた。
 目は、僕の後ろを見ている。
「久しぶりってのに、なんなん、そんな顔」
 反射したガラスの対角線、桐生がいた。
 
「……もえちゃん」
 浅間さんはそれ以上言わなかったけれど、なんで、と目が呟いたようだった。
「そんなに顔見たくなかったん?」と桐生は露骨に失望を露わにした。最初から僕たちを攻撃するつもりなのだ。それこそ、こうして二人が会っていることなどとっくに知っていて頃合いを見計らっただけかもしれない。
 どっちだって同じ、くだらない話だ。
「またやってんの?」
「もえちゃんには関係ないよ」
「まだ、って言ったほうがいいか?」
「……だからなんだっていうの」
「もうどうもしないけど。あーまたやってんじゃんって。面倒なことして損したわ。なんやかんや役得なんだろ? どうせ、檜原も」
 ああ、やっぱりな。伊東とやりあったってことは、当然こいつにも伝わっただろう。誤解なんて数えるだけ空しいけれど、厄介なことになってきた。
「そうじゃねぇの? いや、図星だったから黙ってんのか」
 でも僕の頭には挑発に乗るほどの余裕なんてなかった。
 ここで話がこじれたら、クラスの中心ふたりが衝突したら、歓迎会はどうなってしまうんだ? 
 なぁアンナ、どうしたらいい? 黙ってないでなんか言ってくれよ。なんでマイクの向こうでだんまりしてるんだよ。叫んでやろうか? 向かいの席にスパイがいますって。新聞なんて下ろして、顔を見せてくれよ。
「ま、そんなん勝手っちゃあ勝手だよ。ただな、ひとつだけ思うんだけど、お前らってどのツラしてみんなの前に出んの?」
 黙れよ。どうもしなくも、ひとつだけでもないくせに。
 僕は浅間さんの手を引いて席を立つ想像をする。そのまま桐生を無視して店を出る想像をする。すれ違いがけのカウンターで、金は桐生が払ってくれるって言ってやる想像をする。滑稽に立ちつくす桐生を想像する。
 何も起きない。
 何もしなかったのだから。
「自分たちがやったことが一人や二人じゃ済まないって、わっかんないのかな。篠もさ、いい加減そういう一人遊びやめた方がいいよ。マジになったらかわいそうだから檜原に言っとくけど、こいつって『キミとボク』みたいなのを信じてないくせに信じてるふりをしてそういう自分に酔ってるだけ――」
 桐生は言い捨てる。軽蔑のように、自分の世界に許してはならない染みを見つけたときの不快感のように。
 だから胸ぐらを掴んできたのかもしれない。
 ……驚きはなかった。この程度の暴力には、とっくに慣れている。
 無意味な、無意味であることだけが目的の、暴力。
「……どいつもこいつも、がっかり」
 そんな言葉を賜った。
 手は離され、することのない役者のように気まずくなったのか、僕たちをもう一度ずつ睨んで、桐生は去っていった。
 背中を見送ってから、浅間さんは俯いて、やがて席を立ち別れるまでひとことも言わなくなった。
 彼女が何も言いたくなかったはずがない。やろうと思えばいくらでも僕に感情をぶつけることができた。僕だって、くだらないそらごとをいくらでも言えただろう。
 ただ、もう耐えられなかったのだと思う。泣くことにも、笑うことにも、どちらでもないことにも、全部。
 死産した言葉たちが、耳の奥にこびりつきそうだった。

 

 アンナとは無言のまま別れ、自分の部屋に戻った。何も変わっていないのに、部屋はがらんとして、寒く感じた。
 洗面台で鏡を見ると、桐生のせいで首元がしわくちゃになっていた。
 アイロンで取れなかったら弁償してやるからな、とやりもしない恫喝を空想しながら手をかけてから、左のポケットに何かが入っているのに気づく。
 店名の入った厚紙留めのマッチだった。確か、喫茶店に置いてあったやつ。
 取り出して、二つ折りを開く。
 そこには数字の羅列が、ボールペンで書かれていた。
 電話番号であることに気づくまで、時間はかからなかった。

 

『電話してくると思った』
 もしもしの一言もなく、桐生は電話口でのたまった。
「……何の用」
『それも言うと思った』言葉のわりに、いつもの威勢が欠けているが気になった。『どうしてSNSを知っているのに番号を教えたか怪しんでるんだろ?』
 沈黙が首肯を与える。
『この番号は朝には使えなくなる。警察にも軍にも監視されない、使い捨ての匿名番号だ。それが使える人間ってこと』
 なんでだよ。
 なんでお前まで、そっちなんだよ。
「……そうだとして」僕は冷淡に努める。もう驚きはない。またかよ。どいつもこいつも秘密ばかりで疲れた。「僕に用があるとは思えないけど」
 でも返答は、今までにないものだった。
『用じゃない。お願いだ。……篠を、助けてくれ』
 電話口から聞こえたのは、懇願だった。

 

 桐生は僕の沈黙を受け取って、「いいか、聞いてくれ」と継いだ。
『私は……私と仲間は、反政府グループの一員だ。ニュースで聞いたことあるだろ? あれよ、あれ。ほんとに実在するんだよ。それも身近な、同じクラスに』
「……仲間って、誰のことだ」
『リーダーは伊東。あと、篠以外のダチのほとんどだ。他校にもいるけどな』
 僕はとっくに分かっていることを念押しする。
「冗談で言ってるんじゃないんだよな」
『ああ。……でも最初は冗談だったのかもな。伊東に誘われたんだ。入会したときは、ダチでつるんでそこらへんでたむろしてただけの、半グレ集団と区別もつかなかったよ。少なくとも、私はそうだと思ってた。義理と、好奇心で顔だけ出してた』
 よくある話だった。
『こんなこと言うの恥ずかしいけど、家と折り合いが悪かったから、ちょっと反抗したかっただけだった。……でも、〈敵〉の工作員と組むようになって、急にどんどんマジになっていった。抜けようとした奴を絶対に許さない、そのルールがみんなを狂わせた』
 これもよくある話だった。世界中、歴史中、あらゆる国を問わず起きること。
『一度ビビッて密告しかけたのがいてな。バレて裁判ごっこして、でも全部吐かないから誰かが縄で縛って逆さづりにして顔の下にお湯を入れたバケツを置いて紐を代わる代わる全員に回しながらちょっとずつ下げさせて』
「それ以上言うな」
『……そうだな。悪かった』
 聞きたくなかった。
 耳を塞ぎたくなるぐらいよくある話だったから。
『私に回ったとき、そいつはギリギリで堪忍した。でもあと少し強情だったら、私が殺すかもしれなかった。その晩は朝まで手の震えが止まらなかった』
 そして伊東はこう言ったという。
 次に何かあったら今度こそ死人が出ると。
 死人を出しても構わないと。
 そんな〈指示〉を受けたと。
『それからは、誰も裏切らなかった。誰も逃げなかった。誰も止めなかった。もう思想なんて関係ない。ただ、我が身がかわいいだけで……』
「浅間さんとどう関係がある?」
 苛立ちから、単刀直入に聞いた。
「彼女はメンバーじゃないんだろ? 懺悔しにきたんじゃないなら、答えてくれ」
 短い沈黙が現れ、あぶくのように弾けて死んだ。
『……伊東と付き合っているあいつは、もともとまったくの部外者だった。ひとつを外せば普通の女子高生だ。〈盗聴バイト〉って知ってるか?』
「聞いたことはある」白々しく事実を言った。
『そう……犯罪者、ブラックマーケット、反体制のグループ、テロリスト。そういう商売を使っているのは大抵がそんなんだ。でも、これは知ってるか? 〈軍〉や〈警察〉も、密かに使ってる――そういう噂がある』
「協力を頼まれてるのか」
 それはアンナから聞いていた。諜報活動では協力者を探すと。
 でも違った。
『そうじゃない。盗聴する本人は何も知らないケースだ』
「……どういうことだ?」
『囮捜査みたいなもんだよ。素性を隠して盗聴の依頼をして、情報を得ているんだ。……本気を出せば、こんな子供だまし簡単に取り締まれると思わないか? 確かにうちの国はバカだけど、権力は舐めない方がいい』
 ……悔しいけど、その通りかもしれない。
 どうして僕は疑問に思わなかったのだろう。アンナが言ったことを、半ば非日常からの預言のように、僕は鵜呑みにしていたのだ。……違う、鵜呑みにできるならずっとそうしていればよかったのだ。
 揺さぶられて否定できない、アンナを信じきれない自分の小賢しさが惨めだった。
「……証拠は」
陰謀論だよ』桐生がはぐらかす。『ただ、普通に考えれば自然だと思うんだよな。檜原が誰にどんな説明をされていたかは知らないが……そうだろ?』
 喉元に、鋭い刃先が当てられたようだった。
『これ以上、お互い探り合いは無しにしたい。お前も、お前が協力している奴にも』
 切っ先が、肌に触れた。
『なぁ、お願いだから冷静になってくれ。手の内は見せる。……お前が誰なのかは知らん、だがなんかの要人なのは分かってる。グループはお前をつかまえたい。それが〈敵〉に受けた仕事だから。ただ、私はお前が諜報員とつるんでいるのも掴んでいる。繰り返すぞ、私はお願いをしに来たんだ』
「そうだとして、身近にいるとでも言わんばかりだな」
『アンナなんだろ?』
「……っ」
 畜生、そこまで筒抜けなのか。
『肯定、ってことでいいな』
 動揺は本人が思うよりずっとすぐに波及する。
 そうだ、この一言の破壊力のために、今までの話があったのだろう。僕はやっぱり素人でしかないのだ。
 悔いた瞬間、直接アンナに言わない態度にいくらか腹が立った。開き直りか、八つ当たりか、どちらにせよ愚かな怒りだった。
「……そうだとしたらなんだ? 僕に降参しろってか?」
『悪かったつってんだろ』まずい、ちょっと喧嘩腰が過ぎたか。『……桐生萌のお願いとして、落ち着いて聞けよ』
 桐生は息を吸い込んで、注意深く声の尖りを削った。
『伊東は最初、篠をそうと知らせず知らない依頼者のふりをして情報収集に使っていた。だが、今は密偵だと疑っている』
 そこまできて、ようやくこいつの目的が繋がってきた。
「切り捨てるつもりなのか」
『ああ。それも、ボロを出した瞬間に。……伊東は歓迎会を盗聴しろという指示を、匿名で篠に出した。そして現場であいつを捕えて……』
 ああ、そういうことだったんだ。あっけないもんだ。こんなオチ、B級映画にさえ負けるんじゃないのか。
 最初から、アンナも僕も、浅間さんも、仕組まれていたのだ。
『お前、前に襲われたことを憶えているだろ? 襲撃する命令を出したのはあいつだ。あの失敗で相当キレてる。だから今度こそ歓迎会でお前たちを一網打尽にし、同時に篠に制裁を与えるつもりだ。それを、なんとしても止めなきゃいけない』
「訊いていいか」
『なんなりと』
「喫茶店で浅間さんに絡んだのは、歓迎会に来させないためだったのか」
『……なんだ、これじゃ私がバカみたいだよ』
 要するに、桐生の頼み事は――
『私をアンナに売って、篠を見逃すことはできないか』
 密告の取引だった。

 

 桐生の提案を僕はもちろん呑まなかった。
 でもここまで種を明かされた以上「嫌です、以上」と切り捨てることはできなかった。彼女も身の一部を切ったのだ。その覚悟を無碍にするのは、僕ではない。
 だから、代数を増やすしかない。
 僕は癒衣に気づかれぬようこっそりとアンナを呼ぼうとして、鉢合わせしてしまった。
 ちょうどたった今向こうも伊東たちの情報を握ったところだという。拍子抜けな話だが、彼女が無能なはずがないのだ。
 アンナは桐生にある提案をした。
「罠だと分かっているなら、こっちから掛かりに行ける」
 身元が割れているということは、逆にいえば注目を集められるということ――そう彼女は指摘して、手帳を広げた。
「これが予定の店内の見取り図。そっちも持ってる?」
『……ああ』
 もう驚かないが、やっぱりぬかりない。
「ここは屋上で、何か所か塞げば人を空間に閉じ込められる。でしょ?」
『そう。そこは私が仕切る段取りなんだ。だからお前らに……いや、言わなくていいな』
 桐生はこの立場が使えると踏んで僕らに接触してきたのだろう。
『店はもとからグルだし、管理会社にも息をかけてある。だから、血が流れなければ見つかりっこない。……いや、ちょっとぐらい流れても、だ』
 背筋が寒くなる一言だった。
「でも、逃げ場がなくなるのは向こうも同じ」
『……私が閉じこめろってことか』
「まず店内の照明を落とす。混乱のうちシャッターを下げ、そのまま内部に閉じ込める。……そっちの権限ならできるはず」
『ああ。だがじきに非常灯がつくぞ。システム上止められない』
「時間は?」
『一分半』
「問題ない」
 断言だった。
「脱出路は屋上の柵を越え、非常口の階段に飛び移る。その頃には自動的に通報が入ってるから……騒ぎを聞きつけた何も知らない警察に検挙させて、終わり」
『……異論しかないが、言える立場でもねぇな』
 桐生は呆れを固体化するように、マイク越しにため息をついた。
『乗るよ。暴れるだけ暴れてやる』
 
「私の失敗だった」
 通話が切れると、真っ先にアンナは詫びた。
「私は何も見抜けなかった。もし密告がなければ、全員を危険に晒していた。プロとして、失格」
 アンナは目を伏せて、拳を握った。
 駄々をこねる子供のようで。
 出会ってからいちばん幼稚な姿で。
「……どうして、私はミスしたんだろう。こんな簡単な罠さえ、見破れないなんて」
 プロとして。非日常を生きる、非日常でしか生きられない人間として。
 それは、もっとも僕に見せたくなかった姿だっただろう。
 でも、違う。
 それは失敗なんかじゃない。そう思った。
「顔を上げてくれ」
 こいつの人生。
 こいつの青春。
「なぁ。アンナ、人生で自分を計算に入れたことあるか?」
「……なに?」
「お前だって、クラスメイトなんだよ」
 一拍遅れて、僕のそらごとは彼女を揺さぶり起こした。
「情が、移ったって?」
 アンナは驚いたように顔を歪め、それから弱弱しく僕を見た。口にして、やっとそれが真実だと気づいたんだ。
「……そうだったかもしれない。……笑って。軽蔑して。こんな奴がスパイなんて、って」
「そんなことが言いたいんじゃないよ」
 まったく、なんでこんなにひねくれているんだか。
「疑問なんだけどさ。スパイであることと転校生であることは、どうして両立しないんだ?」
「……なにが、言いたいの」
「お前は、この毎日を、青春を信じたんだろ。信じることに正しいも間違いもあるか?」
 嘘だったとしても、間違いだったとしても、信頼の、信仰の価値は損なわれない。侮辱を受ければ受けるほど、信じたことを傷つけられない証にできる。
「お前の青春に、僕だってもう乗り合った仲だ。先が氷山でもいいさ」
「……そんなことばっかり、言う」
「笑ってくれ」
 その顔に浮かぶのは、諦めか、嘲りか、慈愛か、感慨か、こらえた涙か。どれであるのか、どれでもないのか。
 どれでもいいんだ。
 嘘だなんて、誰にも言わせない。
 君が信じたように、僕も君を信じる。
「私は、望海を守る」
「僕はいいんだ」
「よくないっ!」
 叫んだ。
「協力者は守る。守らなきゃ、じゃなきゃ……そういう風にしか、私は……生まれてから、そうやって教えられて、その通りに生きて、死ぬ……それだけなのに……」
 そこで気づく。
 ああ、そうか。
「僕と同じだ」
 同じように、何かを埋め合わせているんだ。
「生まれたときから、何かの代わりみたいな気分だったんだ。自分が生きているのが誰かのためだって思っていた。悪い意味で」
 罪人のように、周りの足し引きを合わせていた。
「それはポリシーじゃない。そういう風にしかいられないんだ。だから、嫌なこともやりたくないことも、僕が引き受けてきた。計算が上手くなった」
「……望海」
「アンナ、僕もお前も変わらないんだと思う。別の世界の人間だなんて思わないでくれ。同じ目線にいると思ってほしい。だから……全部終わったら、また青春ごっこでもしよう」
「……ずるい」
「そういう奴なんだ」
 アンナは「だから、望海は……」と呟きながら、目を逸らした。
 そこから先は、吹き込んだ夜風にかき消された。

 

15


『ああ……計画通りだ。篠は来ない』
 当日、桐生は電話の向こうで言った。
「分かった。すぐ行くよ」
『……待ってる』
 通話は切れた。
 癒衣。今も自室で眠る、癒衣。最後に話したときも「上手くいくかなぁ……」と心配していた、癒衣。
 それが最善でも、これから起きることを隠して申し訳ないと心の中で詫びた。やっぱりそれは罪深いのかもしれない。
 もしアンナに罪があるなら、僕も背負う。
 電話を切り、アンナに目を向ける。
 僕に何かを投げた。
「お守り」
 受け取ってみると、それは前に使ったイヤモニだった。
「起動は教えた通り、叩けばいい。場所も特定できるし、電源も数日は持つ……打ち合わせ通り、連絡はこれでする」
 これは秘密裏に桐生にも送ってある。方法は盗聴ビジネスとさして変わらない。隠し場所を伝え、受け渡しを行った。当たり前だが、対面するわけにはいかない。
「これでいいか?」
「銃は……」
「言っただろ」
「本当に、いいの」
「アンナが持っててくれ。僕が持ってるほうが、ヘマを打つ。……だろ?」
「……分かった」

 

 目線を交わす。
「作戦開始だ」

 

 最後の打ち上げの舞台――レストランは、ビルの屋上にあるビアガーデンみたいなお店。半分は屋内の個室、もう半分はバルコニー。
 バイキング形式とはいえ、高校生が気軽に利用する価格帯ではない。
『私は席を立って、警備に出てる』
 そう言っていたとおり、桐生は店内にいなかった。
 横長の宴会用個室にはもうたくさん料理やグラスが並べられていた。アルコールがないことにほっとしたが、まもなくいろんな奴らに話しかけられた。
「おっ、檜原じゃん」「わー、アンナちゃんだ!」「いやすごいな。武勇伝聞いたぜ」「伊東とやりあったって」「あの怪我ってやっぱそうだったのか」「さすがっすわ」「てかもう転校生に手ぇつけたのかよ」「我が校のドンファン」「死にやがれ」「そんな口聞かないの。アンナちゃんも無視していいからね、こんなバカ」
 見ている限り、こいつらがテロリストなんて信じられない。
 でも、僕の人生に信じられることはほとんど残っていない。
 ……中央にいるアンナは、不機嫌ななりに、普段の高校と変わらない様子に見える。緊張は見えない。
 僕にそんな器用な真似はできない。だから何も考えない。考えるな。言い聞かせる。

 予定の時刻。
『いくぞ』
 桐生の一言で、周囲の電源が落ち、シャッターの降りる機械音が響く。閉鎖が始まったのだ。
 一帯が暗闇に包まれる、その直前。
『望海!』
 掛け声で、僕は机によじ登り、アンナの方に向かう。卓上の料理が落ち、皿が割れる音が聞こえた。
 非常灯がつくまで、一分半。
 間に合え、間に合えと念じながら、暗闇に手を伸ばす。
 ――掴んだ!
 そのままあいてはぐるりとこちらの身体を抱き――照明が戻ってくる。
 そこに現れるのは、僕の頭に銃口を突きつけた、アンナ。
「抵抗をやめろ!」
 視線が一気に集まるが、もう遅きに失している。
 一歩でも動けば、僕を殺されてしまう――奇襲だからこそ成立する、ハッタリだ。
 あとは簡単。僕たちは堂々と脱出するだけ、

 

『なんで――なんでだよ! おい!』
 桐生の叫びが耳をつんざいた。
『なんで来てるんだよ! ――間に合わな』
 通信が切れる。

 

「……なに、これ」
 浅間さんが立っていた。

 

 記憶の欠落が戻るまでに、どれぐらい過ぎただろうか。
 後頭部の痛みから意識が戻ると、僕は手を縛られ、床に座らされていた。
「――アンナ!」
 まず脳を刺激したのは、床に押し倒されたアンナだった。暴れたのだろう、男子が数人がかりで押さえ込んでいる。意識はなさそうだ。抵抗したのか、男たちの目は血走って、憎悪に燃えていた。
 次に目に入ったのは、僕の前に現れ、屈みこむ伊東。
「どういうことか分からないなりに、分かってるんじゃないか?」
「……浅間さんは」
「最初に心配するのはそれかよ」耳障りな笑い。「ああ、心配で来ちゃったんだって。まだ殺してないよ。桐生と仲良くさせてある」
 そう言って、僕に何かを突き出す。
 ――ICレコーダー。気づいた瞬間、最悪の予感がした。
 そこから流れてきたのは、最初に何かがぶつかる音。
 悲鳴。
 誰かが誰かを呼ぶ。
 し、の。
 も、え、ちゃ、ん。
 そう聞こえた。
 取り囲む笑い。
 想像する限り、もっとも醜悪な笑い。
 絶叫。
「ま、よく頑張ったと思う。でも、最初から全部罠だったんだよ。檜原望海、お前を強奪するためのな」
「……どこまでだ」
「全部って言ったじゃん。この催しを利用することも、桐生の裏切りも、浅間が来るのも、予想そのまんま。違うのはお前の女が来てないだけだよ。……あ、もっと説明しないといけないか。あいつから全部は聞いてないだろう」
 僕を取り囲む一団。
「この作戦は入学前から始まってたんだな。全員ではないけど、ここにいる面々はみんな檜原を狙っていた仲間。逃げ場なんてなかったんだよ。まぁ、唯一檜原に勝ち目があるとしたらこのガキだったけど……ま、ガキはガキだな」
 どっと笑いが起きる。
「ま、それもこれも〈敵〉のスパイの指示に従っただけだけどな。雇われみたいなもんだよ。で、今回の命令はお前を奪取すること。それ以上は知らされてないし、ぶっちゃけこっちもどうでもいい」
 だから安心しな、と伊東は歪に笑う。
「檜原望海、ここでお前は殺さない。ただ、殺さないだけで、引き渡した先でどうなるかは保証しない。あしからず。……あと、お前がかかわった人間はもれなく全員不審死すると思うから身辺整理は心配しないでいい。癒衣ちゃんだっけ? あの女もかわいそうに」
 殺してやりたかった。
 人生で初めて、殺意が湧いた。
 人生で初めて、銃を持っていないことを、心の底から後悔した。
 しかし、こいつらを殺して何になる。何を呪う。
 分からない。
「以上。お前が知ることはもうない。……おい!」取り囲む男達に伊東が指示を出す。「二人を詰めて階下まで運び、脱出する。諜報員は処分、ターゲットは引き渡し場所に移す。いいか!」
「盗聴者はどうします?」
「制裁はもういいだろう。楽にさせてやれ」
 認めない。
 こんなバッドエンド、あるわけない。
 現実の拒絶。
 意識が遠のいていく。
 頭痛がこれほど心地いいと感じたことはなかった。
 二度と目が覚めないでほしい。
 アンナ。
 癒衣。
 浅間さん、それから、それから――

 

『残念ですが、楽しいパーティーもそろそろお開きです』
 有線が突然起動し、間違いなく聞いたことのある声がフロア中に響いた。
 それが合図だった。
 誰の声か悟る前に、爆発音が響いた。

 

 目が覚めると、事件はほとんど片付いていた。
 遠くでパタパタと鳴る音は、ヘリコプターの回転音。壁の向こうに見えるテラスには兵士がいる。あるいは武装警官か。どっちでもいい。
 彼らが空から降下して、テロリストたちを急襲したのだ。
 ……傍に横たわっているものを見る。
 桐生は、桐生だったものは、桐生でなくなりつつあるものは、腹部に何かの破片を受け、巨大な穴を開けていた。
 恐ろしくグロテスクで生々しいはずのそれは――どうしてか、まったくリアリティがなかった。匂いも生々しさもなく、黒ずんだ赤はただ、のっぺりとしていた。それが頭痛のせいなのか、あるいは現実感がないから頭痛がするのかは、はっきりしない。
 でも、夢でも幻でもCG映像でもない。
 声は出せないようだが、彼女はまだ生きていたのだから。
「やってくれちゃって」
 驚いて顔を上げると――そこには、ブカブカのコートを着た浅間さんが立っていた。テレビで見たことがある、軍用のものだ。身体のほとんどを覆う長過ぎる裾、そこから飛び出た傷だらけの生脚、裸足、頬にはまだ、乾ききっていない赤。
「寒いですねぇ。あ、檜原くん、お疲れ様でした。生きててよかったですね。あー、身体痛ったたた。不必要に殴って蹴って……制裁にだってセンスってあると思いませんか? 誤解されるけど、私はマゾじゃなく拷問フェチなんです。あげくにもえちゃんの前で服を剥がそうとしてきた時点でオチが分かったので失格させちゃいました。0点。でもこんな美少女スパイのあられもない姿を見られたんですから彼らの最期は幸せだったと思うんですよね。あ、でもそう考えたら穴だらけの肉塊になるなんて甘々の対価ですが。自分の安売り。悪い癖です。……って、あの」
 屈みこむと、彼女はナイフを取り出して、僕の腕の紐を切った。「なにぼけーっとしてるんですか。健全な男子ならえっちな格好の女の子が隣にいるんですからもっと喜んだりしないんですか? それとも性癖の不一致が」
「浅間さん」
「あはは」笑う。「ま、何が何だか分からないと思いますよ。こんな短時間でどんでん返しを食らったんですからね。そうだなぁ……話は移動しながらした方がいいですかね。……おっ、ガラス踏んじゃう」
 ぴょんぴょん飛び跳ねた彼女は、僕の傍に横たわった桐生に気づいた。
「あ、生きてた。もしもーし、もえちゃんおひさ。意識ありますかっ」
「か……ぐ、……は……ぎぎ……っ」
 喉が詰まっているのか、桐生の声はうまく聞き取れない。
「助けてほしい?」
「だ、だず、げげ……で、ぐ……」
「どーしよっかなー。あんなひどいこと言われたし。親しき中にも礼儀あり、って偉い人も言ってたよ。誰かは知らんけど」
「……へ、ぐががが、ご」
「なーんてね。仲直りタイムにしよ。どう? 反省した?」
「ごごご、げぇ、さ、ざい……づ……る、て……」
「よしよーし、わかればよろし。――おい、救護!」
 駆けつけた相手に浅間さんは「こいつを助けろ」と言った。
「しっ、しかし……それは」
「あ? 私の友達なんですけど? 友達を助けるのが我が軍の役目じゃないんですか?」
「……はぁ」
「いいから運べ。あとで指示するから」
「分かりました。作戦部長が言うならば……」
 どう見ても助かる見込みのない桐生が搬送されるのを確認して「じゃ、私も着替えたいし、次は上で会いますか」と言い残すと、浅間さんは去っていった。
 ぼんやりと目の前を見ていると、担架でアンナが運ばれているのが見えた。
 今も気を失っていたが、手当の様子を見るに、命に別状はなさそうだった。
 それを確認してまもなく、僕は気絶した。

 

16

「ヘリの乗り心地はどうですか?」
 また目が覚めると、浅間さんが隣にいた。今度はちゃんと服を着ている。階級章の読み方を知らないので官位は分からないが、将校を思わせる軍服。胸にジャラジャラとついているのは勲章かと思ったが、よく見るとアニメキャラの缶バッジだった。
「危なかったですね。私がいなかったらどうなったことやら、檜原くん。ともかく怪我なくてよかったということにしましょう。私が酷い目に遭ったわけですが。おい、どうなんだそこ。もうちょっと感謝を見せたっていいだろうが」
 蹴っ飛ばした前席の部下と思しき男は無言でぺこぺこと頭を下げた。こちらはスーツ姿だ。
「さて――これから空軍基地に一度降りて、車で出かけるわけですが、この空き時間を説明タイムにしましょう。質問ありますか?」
 僕は、バカみたいに当たり前のことを訊いた。
「浅間さんは……誰なの」
「いきなりいい質問です。褒めてつかわしましょう。……〈軍〉のえらい女の子といえば、もう分かることでしょうね。アンナちゃんから聞いたかもしれないのですが、〈軍〉と〈警察〉はそれぞれ違う私有のスパイを持っています。私は前者、アンナちゃんは後者ですね。別々に行動していた理由も知っているのでは? あ、彼女には申し訳ないのですが〈警察〉は低能の集まりなので、私の存在に気づきませんでした。……バックグラウンドはこれだけでいいです」
 今回の事件の話をしましょう、と彼女は気まぐれに話を変えた。
「私はあのグループの友達としての内通者でした。テロリストとしてではないので注意。……あのウジ虫どもがクラスに大量の工作員を送っていることは掴んでいました。全員ではない。全部で二十人くらいかな。男子はほとんどが〈手先〉ですね。で、アホみたいに筒抜けの情報収集をしていたから、利用されるふりをするのは簡単だった」
「……伊東も、騙されていたのか」
「そうですね。私のことは掴んでいなかった。……彼も哀れです。下手に逃げたせいでヘリの機銃掃射が直撃してミンチになっちゃったの、檜原くんは見ないでよかったですね。ちょっとは手加減した方がよかったかも。我ながら女って怖いです」
 浅間さんは楽しそうに喋る。
 僕は思う。
「浅間さんは……どこまでが、浅間さんなんだ?」
「全部嘘といえば嘘、ほんとといえばほんとです。私が賄賂狂いのクソ企業の娘なのは本当です。でも、私はそこを含む財界への密偵でもある。かつ、私が金目当てで悪い大人に踊らされるかわいそうな女子高生なのも事実。もちろんそれは裏返しで、全部演技といえば演技でもありますが……そもそも、演じるって何なんですかね。そういう哲学的な議論も――」
 そこで呼び出し音が鳴る。
 浅間さんが取り出したのは、かわいらしいスマホケースを強引にガムテープで張った、レシーバー。
 会話の断片が、痛む頭に染みていく。
「――あ、そうなんだ。潮時ですね。大丈夫? まだ生きてんの? 完全に死んじゃってたら意味ないので、そこんとこよろしく……いいからやりなさい。口答えするな。じゃ、そういうことで」
 無線を切ると、無邪気に笑いかけた。
「見ててください。面白いことが始まりますよ」
 指先にはそれほど遠くない位置を飛ぶヘリがある。ずっとついてきたのか。
「解説すると、あれはもえちゃんを乗せた〈救護機〉。よーく注目しててくださいね。……あ、来た!」
 ハッチが開くのが見えた。
 何のつもりだと目を開けていると――そこから何かが押し出された。
 搬出された何かはそのまま落ちていき、霞の向こうに消えていって、見えなくなった。
 ……まさか。
「檜原くんも、もえちゃんのご冥福を祈りましょう」
 浅間さんの無線。
 あれは、桐生を落下させる命令。
「なんで、そんなことするんだ」
「〈敵〉に与する人間への見せしめになりますからね。これで一個か二個は地下の反政府組織も空中分解するでしょう。人間誰でもやらかしはありますから、決定的に道を外れない人が増えるのはいいことです。死してなお、泣ける友情ですね。……ところでヘリから人が落ちるのって見たことあります? どうでした?」
 何も答えないのに浅間さんはむくれたが、やがて僕の全身が震えているのに気づき、ちょっとショックが大きすぎたかもねー、と前の部下に軽く言う。
「じゃ、疲れてると思いますし、続きは地上で話しましょう」

 

 着陸するなり、目隠しを被せられて連行され、何かに乗せられたところでようやく覆いが払われ、視界が戻ってきた。軍用車の中のようだ。
 僕は後部座席。隣には浅間さんが座っていた。
 手錠はない。逃げるという行為を想定していないようだ。ほんの少しでも反抗すれば即座に発砲できるように、前方の助手席には厳つい風貌の軍人がライフルを構えていた。
 ところが、傍に座っていた浅間さんは、すぐに前方の座席との間の天井に手をかけて、シャッターを下ろしてしまった。……尋問機能があるのか。
「よし、これで聞こえなくなった。さて、何を話します? 大名行列みたいに護衛車がついてて、なかなか進まないんですよ。……あ、アンナちゃんはこの車の後続に乗ってます。行き先が違うので途中で離れるでしょうけど。無事みたいです。ちょっと癪だけど、よかったですね!」
 アンナの名前を出したことには、深い意味はなかったようだ。
「結構かかりそうなので、どうでもいい暇潰しの会話もいいですけど……」
 自分でもよく分からないが、そのとき僕は浅間さんと普通に喋ることができた。
 振り返ってみれば、絶対に狂っている。
 ひょっとしたら僕もショックで狂って、波長が合ってしまったのかもしれない。
「……改めて、訊きたいことがあるんだ」
「んー? なんでしょう」
「浅間さんにとって、『好き』ってどういうこと?」
 彼女は唇に人差し指を当てて「難問ですね」としばし考えた。
「……うーん。果たしてどう言えば伝わるのか。これでも文学少女なので、人の言葉を借りましょう。『我々が装っているものこそ、我々の実態なのだ。だからこそ、何のふりをするべきか慎重に考えなければいけない』……好きな言葉です。あるいは、こう書いた作家さんもいる。『本当の自分になりたければ、装えばいい。誰もが装っているのだから』。どっちも、私の座右の銘ですね」
 ですから、私には本当も嘘もありません、と浅間さんは断言した。
「伊東くんが好きだったのも、檜原くんが好きなのも、もえちゃんとの友情も、利用するためにそうしただけのことでしたが、その時の私には、それが真実になったんです。だから矛盾はありません。本当のことは不要になれば捨てるものです」
「……じゃあ、僕のことも、その時は本当に好きだったと言えるの?」
「恥ずかしながら、その通り。だんだん分かってきたみたいですね」
 走行音だけが、僕たちの意識を揺らしている。
「それが一般的な『好き』と離れているのは知っています。……でも、スパイってそういう風にしか恋ができないんでしょうね。高望みだとしても……手に入らないんだな、って思うことはあります。……檜原くんと私の世界は、きっとあまりにも違うんです。生まれた瞬間から、私はそっちには行けなかった。だから……」
 彼女は黙った。
 その手元を見ると、指に痕ができていた。
 それを見ていたら、悲しくてたまらなくなった。
 だから言った。
「たぶん、僕は浅間さんの九割は理解できない。やってることが狂っているのも、はっきりいってそうだ。……でも、僕を好きだと言ってくれた気持ちに、嘘はないのなら、それは……信じる」
 こんな人間にのことが少しでも分かるなんて言えば、誰もが笑うだろう。
 でも、僕もまた、そういう生き方をしてきた。だからそれは同じだ。
「僕は浅間さんに共感してはいないけど、でも、同じ数式を持っているんだと思うよ。そんなの、慰めにならないかもしれないけど。……でも、同類のひとりぼっちがここにいるって思えば……暇潰しくらいにはなったんじゃないかな」
 浅間さんは、僕と違わない。そう言いたかった。
 同情でも憐憫でもなく、機械的に、肯定しなければいけなかった。その言葉を言うために、僕は存在しているんじゃないかとさえ思った。
 それが僕だから。
 ……彼女は何を思ったのか、知ることはできない。
 だから戻ってきた一言を、勝手に信じた。
「――ほんのちょっとだけ、生きてて報われた気がしました」

 
 やがて浅間さんは、これまででいちばん穏やかな声で僕に言った。
「そんなつもりはありませんでしたが、私ができる最大のお礼をします。檜原くんにとって、もっとも知りたいこと……大事なことを、伝えたいと思います」
 ただし、私が知っている限りです、と彼女は念を押してから喋り始めた。
「あなたはある実験と大きな関わりがあります。それは、〈警察〉でも〈軍〉でもない……私たちの知らない、政府直轄の、もっと恐ろしい場所で行われていたようです」
「……僕が、そんなことに?」
「もちろん檜原くんは何も知らないと思います。でも、きっと幼いうちから、無自覚に〈実験〉に巻きこまれている可能性があります。それなら、まったく普通の高校生の檜原くんが狙われる理由になるのかも」
 残念ながら、〈実験〉の詳細は掴むことができていませんが、と、浅間さんは話を結んだ。
「ありがとう」
 僕たちは空々しくて、やるせなくて、悲しい。どうしてこんな風に生まれてしまったんだろう。選べないなりに、どれを選べないかぐらいは自由であってくれたらいいのに。
 それでも感謝したいと思った。
 だから、こんな出まかせを言ったのだろう。
「今思いついたけど、僕と浅間さんには、違うところがある。僕は分からないけど……浅間さんには、好きなものがある」
「……好きなもの?」
「絵本、ちっちゃい頃から好きって言ってたよね。あれも今は嘘?」
「それは……」
「違うなら、スパイをやめてもきっといい絵本作家になれるよ」
「……檜原くんって、不思議ですね」たじろいだ浅間さんは、かわいかった。テロリストを空から突き落とした女の子なのに。
「でも、そうですね。だといいですけど。引退したら、やってみたい」
 浅間さんは答えた。きっと、本心から。
「……もし、もしも、檜原くんと別の場所で出会っていたなら。――私は」
 そこで会話は途切れた。車体に急ブレーキがかかったからだ。
「どうしたの!?」彼女がスリットを開放し、運転手に怒鳴る。
「ええと……その、前方の車両が止まりまして」
「何やってるんだか」呆れたように浅間さんは吐き捨てた。「早く動かしなさい。こんなことでいちいち止まっていたら〈軍〉の名折れになります。急ぎなさい」
「は、はいっ」
 使えないなぁ、と呟いて――「待って! 後退!」
 浅間さんが叫んだ直後に、銃声があった。
「作戦部長、敵襲ですか!?」
 クソっ、クソっ、クソっ……呪詛とともに、ついに人差し指の肌が破れた。
「……もういい! あと二十秒で遺書でも書け!」彼女は部下に怒鳴り散らした。「ああもう、やられたなぁ」
 それから僕を見て、言った。
「今すぐ外に出てください」
「おい、突然どうしたんだよ」
「こんな急なんて。畜生。たったこれだけなんて――」そうぼやいてから、僕に言った。「さよなら。出会えてよかったです」
「どうなさったんですか! 作戦部長!」
「いいからロックを外しなさい!」
 カチ、という音を確認して、彼女はドアを蹴り開けて――僕を全身で車の外に突き飛ばした。
「それと……ごめんなさい、
 ――浅間さんは、たぶん何かを言った。
 でも、誰に向かっての言葉かは、閃光と爆音で聞き取れなかった。

 振り向いて残っていたのは、爆風で後部をごっそりと抉られ、横転した車だけだった。
 浅間さんはもういなかった。
 真っ黒に焼け落ちていく車、その中のどこからどこまでが浅間さんだったのかは、もう確かめられなくなっていた。

「やったー、命中だ」
 へたり込んだまま、声のする方に首を向ける。
「望海、助けに来たよ」
 僕に笑いかけたのは、対戦車ミサイルの砲身を肩に乗せた、癒衣だった。

 

17

「篠たちは戦場に出るわけじゃないから、望海を逃せただけで健闘したと思う。信じてたとおり」
 癒衣は喋る。
「あー、怒ってるよね。ごめん! 篠なら絶対逃がしてくれるのに賭けた作戦なんだけど、どの裏ルートを通るかぐらいしか分からないから、あんまりいい方法を思いつかなくて。上層部も情報をもっとくれたらいいのになぁ。それに発熱剤のせいで具合もよくなかったし、もうちょっと時間があったら……そうそう、偽装だから今は健康だよ! 元気元気」
 癒衣は喋る。
「でも望海には誰かが血を流すところを見せたくなかったんだ。どう? そこはがんばったんじゃない?」
 癒衣は喋る。
「……そうだよね。私だって、篠を殺すのは気が進まなかったよ。忠誠心なんてないけど、どんなグループでも同胞は同胞だって教えられてきたし、それに友達だったから。ドン引きしたよね。でもしょうがなかった。これからは誰も死なないよ。望海は私が――」
 癒衣は一度、喋るのを止めた。
 よろめきながら、アンナが現れた。

「ああ、アンナちゃんまだ生きてたんだ。二発目は怪しかったけど、怪我してない?」
 癒衣は微笑んだ。
 アンナは何も言わず、癒衣に銃を向ける。
「撃てるなら、どうぞ」
 毅然と、癒衣は言い放った。
「撃てるなら、この場で私を撃ち殺してどこにでも行って。でも、撃てないのなら私に従って」
「そんなの、卑怯」
「スパイって卑怯なものなんじゃないかな」
「……癒衣、落ち着いてくれ。何も分からないんだ」見ていられず、割って入った。「なんでお前が、ここで……」
「これを持ってるんだって、言いたいんだよね」
 癒衣は砲身を投げ捨てた。
「そうだよね。薄々感づいてたよ。望海にとって、私は日常の象徴だったんじゃないかな。……それなら、信頼を裏切っちゃったね。でも、望海がどんなルートを辿っても、こんな日がいつかやってきたんだよ」
 癒衣の頭上から、冬風に揺られてはらはらと白い欠片が降りだした。
 ――雪だ。
「だって私は、望海を殺すために生まれてきたから」

 

 アンナは結局、銃を下ろした。
 撃つことができたなら、僕たちは最初からこの場に、このルートにいなかっただろう。
 癒衣はあっさりと先頭の護衛車を奪うとアクセルを踏んでその場を離れ、撃ち殺した乗員から服を剥いで着替え、次に僕とアンナに着せた。銃口を向けられた僕たちは、お互い背を向けたまま死人の軍服を着た。
 アンナはぶかぶかだったが、無理やりコートを被せて半身を見えにくくごまかした。もしこの中に長髪がいたら癒衣は容赦なく切っていただろう。
 この行動の意味は、もう作られていた検問に到達して明らかになった。
 生き残りを装った癒衣が、護送部隊が敵襲を受けた旨(専門用語が多くあまり理解できなかったが)を伝えただけで、兵隊たちは後部の僕たちを一瞥すると深く確認せず通してしまったからだ。
 その灯が過ぎ去って、癒衣はようやく口を開いた。
「めんどくさいので、前置きもなく二人を誘拐した経緯をベラベラ言っちゃうね。もう分かると思うけど、私はアンナちゃんより、もっと奥の人間。望海にはショックだろうけど……一般人からもっとも遠い位置にいるって言えばいいかもしれない」
「……隠してたのか」
「それは謝るしかないねー。でも、実は望海も人のことは言えなかったりして。ここに来るまでに知っちゃった?」
 答えない。
「望海だって普通の高校生なんかじゃないんだよ? それも、私が世界の果てなら、望海はブラックホールの向こう側ぐらい、もっとひどい。実感湧かないでしょ? でもね、望海はもう、私たちにも〈敵〉にも、とんでもない価値のある原石なんだ。強いて言うなら――ダイヤと違って、削ったら何が出てくるかは、みんな知らない。違いはそれだけ」
 ……もう、潮時だと思った。
「なぁ、勿体ぶらないでくれないか」
 何も分からないまま死んでもいいと、思っていた。
 でも、どうせ中途半端に知ってるなら、もう全部ぶちまけてほしい。
 陳腐なのは知ってる。でも、信じたい。
「――俺とお前の、仲なんだから」
 無言のまま、恐ろしく時間が経った。
 沈黙で窒息してしまいそうなほど喉が詰まった頃に、やっと答えが返ってきた。
「望海の脳には、秘密の情報を、絶対に盗み出されないように埋め込むことができる」
 だから、望海は生きる暗号なんだよ――そう言った。

 突拍子もない真実を言われると、あっけなく感じるんだという発見があった。
「私はその技術を研究する実験の補助をやった、偉い人直属の名前もない諜報機関の手駒。その最終テストとして、望海は一般社会に放たれた。それを監視するのが、任務。逆にいえば、どんなカードにできるのか、完全に知っている……あんまり、驚かないんだね」
「たぶん、使い果たしちゃったんだと思う。……それに考えてみれば、普段生きてきたのとあんまり変わらなかったし」
 何か大きいものに利用されて、埋め合わせをさせられて、そうするためにしか生きられない。
 その訳はひょっとしたら、僕の性格の根源にこの真実があったからなのかもしれない。
 そう思うと、腑に落ちさえしてしまった。
 ……だから、もっと大事なことを訊かなきゃいけない。
「癒衣は、この国から逃げるつもりなの」
「うん。〈敵〉の国に行きたいんだ。もう手筈はつけてある。偽装したヘリで来た〈敵〉の諜報員と合流して、そこで取引を確認し、私と望海は乗って出て行くの。そして、リミットはもういくばくもない」
 それまで黙っていたアンナが、口を開く。
「なんでなの」声は、いつになくか細く聞こえた。「もし発覚すれば、間違いなく重罪になる。そこまでの危険を犯すメリットもない。癒衣が共鳴する思想があるようにも見えない」
「一ヶ月ぐらいじゃ、分からないよ」
「分かるわけないでしょ!」
 アンナは叫んだ。
「分かるわけないから、信じてるの!! だから……」
 それは言外な告白だった。
「私と、望海に……嘘をつかないでよ……」
 三人でいる日常が好きで、三人で遊ぶゲーセンが好きで、三人で食べるご飯が好きで、三人で出かける部活動が好きで、三人がたった一ヶ月一緒にいたことが、こんなに好きなんだという、不器用な思いのすべてが詰まっていた。
 きっと僕は、アンナと同じかそれより早く叫ぶべきだった。
 こんなにも三人でいたがった癒衣が、どうして――って。
 なのに、何年も一緒にいたすべての思い出にに牙を剥かれて、何も言葉が出なかった。
「そうだなぁ……私、人殺しにもう疲れたんだ」
 癒衣はぽつりと呟く。
「だから引退したい。それだけ。これでどう?」
「嘘ばっかり! 秘密を扱う人間が向こうに行って、最後にどんな扱いを受けるか知らないわけない」
「理解してもらいたいとは思ってない。アンナちゃんや望海が納得しようがしまいが、既に準備はできているから」
 それは冷酷な、突き放しの一言だった。
「それに正直なところ、ここで言い争っている時間がないんだよね。待ち合わせると口で軽く言ってみても、空路も陸路も海路もすぐ塞がれる。大人は意外と優秀だからね。切り札もいつ使えなくなるか怪しいし……勝手に移動させてもらう。ごめんねー」
「逃げるって……そんなことできるはずない」
「できるよ。切り札があるから。何だと思う? ヒントを出すと、アンナちゃんより望海には馴染みがある」
 フロントガラスに映る癒衣の目の中は、ぞっとするほど空虚に見えた。
「……正解はね、私と望海が過ごした、あの〈町〉だよ」

 

18

 僕たちは、〈切り札〉に繋がる廃線を歩き続けた。
 横木は腐ったものもあれば硬いものもあったけれど、踏むたびにみしりと音がするのに変わりはなかった。それは地の果てから果てまで並び続ける縞々模様に思えた。
 空はずっと曇っていて、日中であること以外の時間感覚をすべて奪ってしまう。
 いつからか降り出した吹雪はやがて容赦なく背を押し、行く手を阻み、身体の隙間という隙間に冷気と水気を潜り込ませる。
 次第に視界も怪しくなってくる。線路の先がどちらに向かっているのか、知っているのは癒衣一人だ。
 誰も喋る気力がなく、ときたま僕がはぐれないよう前方のアンナが振り返ってペースをずらす以外、ただ先導する癒衣についていくだけ。
 頭の中はズキズキと滲んで、最初は痛みだったそれが、最後には無感覚になった。
 やがてトンネルの中に入ったところで、癒衣は地面に屈みこみ、側溝に手をかけた。開くと、下には地下のような空間が広がっている。
「縄梯子があるから、気をつけて」
 導かれるままに、三人で地の底まで降りた。

 

 迷路のような廊下を、懐中電灯の光だけで歩いていく。曲がって、登って、降りて、ひたすらにさまよう。空腹で身体の芯が捻れるようだった。
 ようやく目的の扉にたどり着くと、癒衣は何かのカードを読み取り機にかざし、中に入った。
 非常電源が動いてよかったー、と安堵の笑顔。
 内部は狭い図書館ぐらいの規模で、椅子も机もない殺風景な空間だったが、いくつか別の扉があった。それぞれに簡易ベッドや食料等の倉庫、生活に必要な設備が完備されているらしい。
「ここがシェルター。簡素なものだけど、食べ物も住居設備もある。お腹空いたでしょ。ごめんね」
「……なぁ癒衣、本当に町に近づいてるのか?」
「うん。っていうか、ここはもう町の中だよ」正確には、と天井を指さす。「ここの上は、もう町」
「地下に、こんな空間を……?」傍らの柱をアンナは撫でる。「大きすぎる。こんなの、何のために作られたの」
「〈実験場〉。言ったでしょ? 望海は特別な存在だって。その証の一つがここだよ。……実感が湧かないなら、望海、天気は小康状態みたいだし、あと何時間か猶予があるから、ちょっと外に出てみる?」

 

 故郷は一変していた。
 誰も住んでいないのは癒衣の口ぶりから予想していたが、家屋は荒れ果てて、平屋なら塀も屋根は倒れ崩れ、鉄筋の建造物の塗装はすべて剥がれコンクリートの地が剥き出しになり、もれなくガラスは割れていた。
 癒衣に従って、僕たちは短い時間、まだ雪の積もりきらない道を選んで外を歩いた。
 道中では懐かしさの残骸を何度も見かけた。ガソリンスタンドも、町で一つのコンビニも、個人経営の本屋も、木造の居酒屋も、すべて叩きつけられた瓶のように破壊されていた。
 たった半年前なのに。
 きっとそれは、癒衣も同じのはずなのに。
「たった半年でこうなったのか、って驚いた?」
「……そうに決まってるだろ」
「でも、この町はいつでもこうなることができたんだよ」
 言っている意味が分からない。
「ここは舞台で、建物はセット、住んでいる人は役者だった」
「望海のために町を作ったの?」
 口を挟んだアンナに、僕は唖然とした。
「この世界で生きてきて、そういう噂は耳にしたことがある。要人の息子の教育のため村を作って閉じこめるとか……でも、誰も本気にしていなかった。映画やSF小説みたいだけど」
「現実にあったことだよ。みんなで作った、嘘の世界」
 癒衣は張りぼての故郷を淡々と歩く。
「そして、そこで育った望海は、現実に生きている」
 
 シェルターに戻ると、癒衣は諳んじるみたいにこの施設と〈実験〉の説明をした。
「最初の記憶は、暗い場所。そこにあるすべてが灰色だったことを憶えてる。それからちょっと飛んだ頃には、もう訓練をさせられていた。実際に戦う訓練、戦うためのことを学ぶ勉強、人を殺す訓練……ある意味、それはお決まりのパターンかもしれない。だから未だにどうして私がここの作戦に呼び出されたのかは正直分からないけど、そんなもんだよね」
 ビスケットをかじり、汲んできた水筒で喉を潤しながら、僕たちは聞いた。
「私は被験者の監視と〈処分〉担当だった。一つ目は自分も子供に紛れていればよかったけれど、二つ目は、被験者が実験に利用できなくなることが多々あったから、大変だった。……最初に連れてこられたグループは、一週間ともたずに全員が死ぬか、廃人同然になった。でも、それでもマシな方。私が手を下す必要がないから」
 彼女は、言外に、自分が〈処分〉をした回数の方が多いとほのめかした。
「〈金庫〉を増設する技術はまったくの未発達で、何度も失敗した。……人間の脳には拒否反応があるのかな。手術自体の失敗が二割、数日から数週間の死亡が四割、生物学的に生きているだけの状態になったケースが、三割」
「残りの一割は……」
「暴走。他の被験者に危害を加えた。それも、軽い喧嘩なんてレベルじゃない。……痕跡の一部は、たぶんまだ学校に残っている。ここから逃げたとしても、地元の教育施設には近寄らない方がいいよ」
 それを、癒衣は〈処理〉した。
「三人以上の暴動になったり、さっきまで仲良く話していた子が豹変することもあった。でも、私はどうしたらいいか訓練を受けていたから、対応した。大人みたいに回りくどくなく言えば、最小限の損害で、殺した」
 癒衣が、人を殺した。殺すことを命令されて、行った。
 その頃の彼女は、僕と同じ、小学生から中学生だったはずだ。
 僕には、そのときの癒衣の内面を想像することさえできない。
「望海が来る前に、もう何度もそういうことがあったんだ。その度に痕跡を消して、新しい被験者を呼んで、困ったら記憶を消して……うまくいくはずがなかった。望海は最後に来た子たちの一人だった。ここで暮らす前のこと、憶えてる?」
「……何も、憶えてない。ずっと街で過ごしていたって、思いこんでた」
「だと思った。望海や私、それにきっとアンナちゃんも――」
 そう言って、二人が目を合わせる。
「……たぶん、私も同じ」
「そうなの。大人が集めた子供たちがどこから来たのか、誰も知らない。記憶を消されたのかもしれない。特別な技術がなくても、安上がりに薬漬けにでもすればいいからね……」
 僕は戦争で保護者を失った孤児だと、教えられてきた。
 だけど、そう説明されただけで、はっきりと証明するものを見たことがない。
「そんな子供が、いっぱいいいるのか」
「みたいだね。家族が死んだから引き取るのか、逆に生まれてからずっとどこかに監禁されていたのを孤児だったことにしたのか……私でさえ、何も手がかりは掴んでいない。ただ、ひとつのプロジェクトに二桁前半ぐらいの人数なら、必要とあれば料理に必要なタマゴみたいに使い潰せるんだと思う」
 僕たちはどこから来て、何者で、どこへ行くのか。
 子供たちは、終わる間際に三番目しか知ることはない。
「望海はたぶん、その中で奇跡と呼べるぐらいレアケースなんじゃないかな。成功率が皆無の技術で脳を弄られたのに生きていられたし、それどころか日常的に生活できたんだから。そうして、現実社会に送り出して、データを採集することになった。それも私の役割」
 でもね、と言って、癒衣は後悔の表情を浮かべた。
「これから話すことは、望海にとって、とてもつらいものになるから、言いたくなかった」
「言っていいよ」
「望海の脳でさえ、限界があるって言ってたんだ。だいたい十六から十七才くらいで、耐久出来なくなるって」
 すべてに説明がついてしまった。
「そのとき、僕を〈処分〉するために、癒衣がいたんだね」
「……私は、たくさんの命を奪った。言うまでもないけど、それはあまりにも罪深いことじゃないかな。それでも、だから唯一生き延びた望海を生かさなきゃいけない。望海を生かすために死なないといけないって、信じてる。……言い訳したいだけなのかもしれないけど、でも、何をされたって、望海だけは生かさなきゃって」
 あまりにも捻れて、あまりにも愚直な願い。
「そうやって、最後に殺すしかなくなっちゃうことからずっと目を逸らしてきたんだ」
「そんなとこも、僕と一緒なんだな」
「……どういうこと」
「だって、何かのために生きるしかないんだろ? そんなとこまで腐れ縁だったなんて、びっくりだよ」
「……そっか。確かに」
 僕たちの身体は、悲しさでできている。
 その悲しみを取り換えることはできないし、なかったこともできない。遺伝のように、役者のように、罪びとのように、逃げることはできない。
 それ以上、理由はない。
 なぜというものはない。
 ただ、僕たちがここにいる、それだけが悲しい。
「ひょっとしたら、頭痛も僕の〈耐用年数〉が原因だったりするのかな」
「きっと……そうだと思う。望海の脳は持たなくなってきてる。それが極限に達したら――他の被験者のようになるかもしれない」
 僕は、ただ生きているだけで、とっくに焼き切れる寸前だったのか。
「ならないかもしれない。たとえ健康だったとしたら、健康だという理由で望海を処分しないといけない。機密保持が、私の最優先命令」
 なるほど。見事なぐらい逃げ場がない。
「じゃあ、僕を渡すのは、僕が壊れてカードにできなくなる前に、ってことか」
「言いたくなかったんだけどなぁ」
 今から起きることを既に懐かしむような、世界一のどかな絶叫のような、死刑囚の悪戯のような――
「『向こうに行けば、治せるかもしれない』って聞いたら、どうする?」
 そんな笑みが浮かんだ。

 

「なんで、信じたの」
「アンナちゃん、見え透いた嘘だと思ったでしょ? でも、嘘でも信じるしかない。それは、同じ在り方をさせられた子供なら分かるはず」
「……そんなこと、言わないで」
「騙されて、裏切られて、でも最後には戻ってきてまた騙される……ごめんね。嫌なことを思い出させたかもしれない。……でもね、ほんとならほんとで嬉しいし、死ぬなら死ぬだけなんだから、信じて悪いことはないでしょ?」
 それはあまりにも絶望的で、祈りにさえ似た賭け。
「だから……謝る。悪者のふりしなきゃ、あの場から一歩も動いてくれないって、最初から分かってたから」
 僕を助けられるかもしれないから。
 針先の救い。世界の終りを一生待ちぼうけるほど、計算上の誤差と区別できない勝算。
 たったそれだけだった。
 間違いなく失うのに、ほんのわずかでもあがいた証拠を墓標として残すため。そんなからっぽに等しい配当にさえ、すべてを堂々とテーブルの上に乗せる。賭博中毒でさえ、ためらうゲーム。
 冴野癒衣は、それができる少女だった。
「何をどう謝っていいか、私は分からない。望海の人生全部が理不尽でできてることを、埋め合わせられる力があればいいのに。でも、私は騙して、利用して、隠して……」
「それは癒衣のせいじゃない」
「でも、私が負わないと、望海の十字架を誰が負うの」
 そう言われて、僕は驚くほど誰も憎んでいないことに気づいた。
「誰も背負えないよ。だから……赦す」
 神よ、なぜ私を苦しめるのですか? その問いに神は答えない。ただ沈黙したまま、天上でじっとゲーム盤を眺めている。
 答えを僕たちは知っているから。
 答えがないのを知っているから。
 なぜ僕が僕として生まれ、僕として死ぬのか――ただ疑問だけが、不可解に輝いている。
「そりゃあ、確かに僕の人生は理不尽だよ。でも、それが一つもなかったら、癒衣と出会うことはなかった。それは……寂しい」
「癒衣、私も同じ」
 静かに聞いていたアンナが、言う。
「私は、望海と違って癒衣のことを知らないけれど、でも、癒衣が望海を守っていてくれなかったら、二人に出会えなかった。……だから、責めないで」
 癒衣を否定することは、アンナを否定すること。
「それまでにどんなことをしてても、私にとっての癒衣を知っているから。世界中のみんなが憎んでも、知っている」
 そして、僕を否定すること。すべて、イコールだ。
「……でしょ? 望海」
「もちろん。だから……癒衣には感謝さえしてるかもね」
 あれほどくだらないことの埋め合わせに必死だったのが嘘のように、僕たちは気づかないうちに釣り合っていた。
「僕を殺そうとしてくれて、ありがとう」
「ずるいよ」
「私も思う。ずるい」
 ほんの少しつついたら消え去ってしまいそうなほど、最大の賛辞だった。

 

 まどろみに落ちる寸前で僕たちの目を醒ました異変は、〈敵〉からの予定変更の通告だった。
 突然の無線に応答を終えた癒衣は、困惑の顔を浮かべている。
「天候が悪化し始めた。時間を前倒しする……? まずい、予定が狂っちゃうな……これから急がないと――」
 遮ったのは、赤色になった照明と警告音だった。まもなく、ズシンというかすかな振動が方舟を揺らした。
「癒衣、何が起きたんだ?」
「たぶん、〈警察〉か〈軍〉。最悪の場合、協定を組んでこっちを追ってきたかもしれない。最悪のタイミング……」
 この場所が、予想以上に早く露見してしまったらしい。
「……戦うしか、ないのかな。でも、このまま迎撃したら間に合わない」
 打つ手なし――そんな空気を一閃したのは、アンナの挙手だ。
「私がしばらく足止めできる」そう言って彼女は立ち上がる。「二人は逃げて」
「待てよ。やっちゃダメだ!」
「そうだよっ、そんなことしたらアンナちゃんまで処罰される。考え直して。……そうだ!きっと一人で投降すればお目こぼしで済む可能性もある。一刻も早くここを出て――」
「二人とも助かるかもしれないんでしょ?」
「味方に銃を向けるかもしれないんだよ!」
 毅然と、迷わずにアンナは言った。
「私は、協力者の味方だから」
「……アンナ」
 短い躊躇いの後、横で癒衣が「行こう」と言った。
「そうだな。……また、三人で部活やろうな」
「合宿、楽しみにしてるから」
「当然でしょ」
 アンナは拳銃の安全装置を外してから、去り際に笑顔を見せた。
「私は高校生なんだから」

 

19

 脱出口に置かれたスノーモービルが雪に乗り上げてしまうと、二人は遠い灯を頼りに雪をかきわけ、膝まで埋まってでも踏みしめた。
「発電設備はすぐに止められないから、消えることはない、と思う」
「じゃ、あれを目指せばいいんだな」
 案外近そうに思えてきたが、これはきっと高所で事故に巻き込まれた人が地表を低く感じてしまうような錯覚なのかもしれない。
 それでもいい。
「癒衣、時計使えるか!? 時間は!?」
「……あと十五分!」
「クソっ、どこまで待ってくれるか――っ」
 ふいに全身から力が抜けた。
 手が離れ、僕の身体は横倒しになった。きっと雪には愉快な人間の痕が刻まれたことだろう。
「――望海!!」
 頭痛の予感に、思わず頭を覆う。
 頭蓋骨をつんざくような発火が一瞬だけあったが、気絶する前にたちまち消えた。
 痛みは人間の身を守る危険信号のシステムだと聞いたことがある。だとしたら、その必要はなくなったのかもしれない。
「リミットが、近いのかな」
「……そんな」
 癒衣にも、聞こえたらしい。
「大丈夫。まだいける。きっと、間に合う」
 根拠のない自信を空売りして、また足を運ぶ。
「時間に間に合わないかもしれない。急ごう」
「何言ってるの……そんなこと、今の望海じゃっ」
「僕が負けず嫌いなの、知ってるだろ?」
 そう笑ってやると、彼女は黙ってまた僕の手を取った。
 さすが。それでこそ幼馴染だ。

 

 町の果てにある合流地点のヘリポート
 そこにはおそらく小型の民間用に偽装されたヘリと、拍子抜けするほど顔なじみの人物――先生がいた。……もう、何も驚きはない。
「ひさしぶり。顔に傷が残ってなくてよかったわ」
「……やっぱり、先生だったんですね」
「そうよ。〈敵〉のスパイだと名乗り、あなたたちと同じ場所にいた……そこから推測できるくらいには、勘が鋭いのね……いや、鋭くなったのか。どっちでもいいけど」
「桐生たちをそそのかしたのがどうせあなたたちなのも、見当がついてます」
「おお、そりゃ怖い怖い。……準備はできてるかしら」
 訊かれて、「約束のとおり、武器はここに置いていきます」と癒衣は答えた。そして、自分の銃を取り出して、先生に渡した。
 振り回した側にもかかわらず、先生は終始不機嫌だった。
「およそ三分三十秒ほど遅刻したこと、高くつくわ。撃墜の巻き添えにでもするつもりなの?」
「すみませんでした」
「いいから乗りなさい。ガキのお守りに、怪しい天候で一人ヘリを操縦させられる身になってほしいわね」
 何か言ってやろうとしたとき、またしても頭の中がぐちゃぐちゃに混ざりだす。
 座り込んで、再び頭を抱えて悶えた。
 何甘ったれてるんだ。ここで気絶したらおしまいだろ。耐えろ。これは僕がやらなきゃいけない、最後のことなんだぞ。
「のぞみ……」
 立ち上がって「大丈夫」と言った。
「本当に使えるの? 知ってると思うけど、交渉時と中身が変化していたら、大変なことになるわよ」
「大丈夫です。適切に治療すれば、きっと……よくなります」
 先生を睨みつけて、癒衣は僕の手を握る。
「行こう、望海」
「ちょっと待って。……ごめんなさい、気が変わったわ」
 拳銃をコートから取り出すと、先生は癒衣に引き金を引いた。

 

 僕の傍から弾き飛ばされた癒衣を、先生は弾倉が空になるまで撃った。
 何度も、何度も、何度も、何度も、何度も撃ち続けた。
「……うん! やっぱりすっきりしたわ。考えてみたら、なんで女まで助けなきゃいけないのか分からなかったわね。檜原くんに関する科学的な知識があるわけでもない単なるボディーガードで、監視役だし。おまけにデキてやがるし、いらないか」
「ゆ、い」
 止める間もないほど、脳味噌のネジが外れるのよりも早く、それはほんの一瞬で終わった。
「あ、まだ動いてる。即死じゃなかったのね。私も腕が落ちたのかしら。そのほうが負けた女にふさわしいと言えば、そうかもしれないけれど。……檜原くん、どうしてそんな表情をするの? だって、この子は君を殺すためにいたのよ」
 癒衣。
「それに、生まれてから今まで檜原くんに媚びを売って騙し続けてきた。ポッと出での私よりよっぽど憎みやすいんじゃないかしら?」
 癒衣。
「冷静になったほうがいいわよ。檜原くんを殺すためだけに生かされてきた怪物と、化けの皮が剝がれてからも仲良くできると思う? 引きかえ、私は檜原くんを守ることしかしていないわ」
 癒衣。
「檜原くん、好き。檜原くんの顔が好き。それ以外はまぁ、どうでもいいんだけどね。だからもし中身が使い物にならなくても、私が引き取ってあげる。そうしたら身も安全じゃない? 少なくとも、白旗立てて道を逆戻りして警告なしで銃殺されるより、よっぽど幸せだと思う。まだ正気でいられるなら、ちゃんと判断できるはずよ」
 癒衣。
「のっ……ぞ、み」
 癒衣。
「ご、め……し、っ……ぱ……い」
 癒衣。
「……んばって……ばった……け、ど」
 癒衣。
「……な、も……きな……った、のっ、ゆる……しっ、て」

 

 癒衣は、どんな奴なんだろう。
 僕を殺すために、傍にい続けた女の子。
 僕を殺すために、傍にいてくれた女の子。
 僕の存在に、必要だった女の子。
 僕と鏡写しで、天秤の反対で釣り合っていた女の子。
 僕だけじゃない。アンナともそうだ。だって、表とも、裏とも手を繋げるんだから。

 

 立ち上がって、なんとかバランスを取る。ふらつくが、まだ身体の感覚は残っている。
 先生に目を向けて、一歩を踏んだ。
「……やっと、分かってくれたのね」
「ごめんなさい、無理です」
「へっ?」


 脚をバネにして、素早く先生に抱きついた。
 もし神様がいるなら、転ばなかったことを地獄でも天国でも感謝したい。
 身動きが取れないよう、強く、強く、掴んで離さない。
「なんなのっ――ついに頭おかしくなったの? ねぇ、離してっ、これじゃ身動きが」
「聞こえますか?」
 耳元に首を伸ばし、囁いた瞬間に、あがきも罵声も止まった。
 先生もやっと、遠くから響く、ノイズのような音を聞いたのだろうか。
 地の果てから聞こえる混信したラジオのような、その音を、確かに聞き逃さなかった。
「あなたの負けだからです」
 乾いた破裂音がした。
 きっと、人生で最後に耳にした銃声になるだろう。

 

 その主は、スノーモービルから降り立って現れた。
 ――アンナだ。

 

20

 先生はまず銃を落とし、それからぐったりと四肢を垂れて、僕に寄りかかって体重を預けてきた。ほんの少し重心を逸らせば、その場に落ちる。
 アンナの狙いは正確で、綺麗に僕や癒衣を掠らせず、一発で先生の胸部を打ち抜いた。ひょっとしたら、僕が押し止める必要もなかったかもしれない。
 きっと、致命傷だ。
 だから僕は彼女を抱えた。
「ひのはらくん」
 微かな音が、耳元で聞こえた。
 きっと彼女にとってこの瞬間は、人生最後で、それまでの時間全部より高値のつく数十秒。
 それを無碍にするのは、檜原望海に反している。
「あなたの目は、開いています」
 手を取って、僕の顔に据える。
「……みえるよ」
「見てください」
 するすると指から頬が落ちて、先生は雪原に崩れ、倒れた。
「ありがとうございました、先生」
 そんな空々しい言葉が、不意に漏れた。
 彼女のしたことを考えるならば、礼を言う必要はなかったかもしれない。そもそも、何に感謝したのかも変な話だ。歪だとしても彼女なりに僕を助けようとしたこと? 僕を好きになったこと? 保健室でくだらない話し相手になってくれたこと?
 どれなのか、全部なのか、どれでもないのか、考える余力は残されていなかった。
 でも、僕は言った。
 きっとそれが正解だと信じたから。贖いだと信じたから。
 ……ここまで来ても、僕はこの信念を捨てられないんだな、と笑えてくる。
 でも、〈信念〉ぐらいとまでは、呼べるようになったのか。
 だとしたら、変わったのかもしれない。
 たとえ何も変えられないとしても、僕たちが僕たちを肯定できたのなら、それは、大人たちへほんのちょっとした仕返しになったのかもしれない。
 今のところは、見逃してやろう。
 そんな捨て台詞を吐く哀れな悪役のように、清々しい気分だった。
 だから。最悪な世界を、見逃してやろう。

 

「癒衣! 無事? 今すぐ救護班が来るから――」そこで、叫びは途切れる。はっきりと、彼女の姿が目に入って、悟ったのだろう。
 癒衣にはもう、助けは必要ない。
 そういえば、僕も治しようがなかったんだった。
「どうして、ここを……」
 腕を慎重にほどき、耳元からそれを取り出して、小指の先ほどの破片を癒衣に見せる。前に使った、アンナのイヤモニだ。
「耳の中にくっついてたんだ。電源が切れてなかったのは、奇跡かもしれない」
「……実際、すぐ切れちゃったし」
「頭痛に苦しむふりをして、咄嗟につけたんだよ。先生が、癒衣に危害を加えるんじゃないかと思って」
 恥ずかしかったが、声を上げて喚いたことで怪しまれずに済んだのだ。
「一瞬でも位置が分かって、よかった」
 理解した癒衣は「かはは、やるじゃん」と褒めてくれた。「望海。最後の最後で持ってったね。役者の才能あるよ」
「……ここまで来たら、ほんとにそうかもな」
「アンナちゃんもありがと」
 私は、とアンナが俯く。
「伝えなきゃいけないことがあったから。……いいニュースと、悪いニュース」
「癒衣、どっち先がいい?」
 僕が訊くと、癒衣は「悪いほう」と言った。
「亡命を、〈敵〉は最初から反故にするつもりだった」
「ああ……やっぱり、そうだったんだ」
 癒衣の言う通り、僕も納得してしまった。
「〈敵〉の当局はあらゆる組織の協力をすべて否定している。私の推測では、すべてこの諜報員を〈解任〉する目的で仕組まれた罠だったんだと思う」
「じゃあ、癒衣と僕はそのために利用されただけってことか」
「……たぶん」
「最初から、ダメだったんだね」あーあ、と癒衣が声を上げた。「人生ままならないっすねぇ、お二人さん。それで、メインディッシュは?」
「いいニュースは……私たちは処罰されない。事件が発覚し、多くの諜報組織がこれを知った。癒衣が所属していた場所はすべて潰される。そして……三人を、事実上赦免することが決定された。私が『この亡命劇は強制的な連行で、二人は人質として連れていかれた』と報告したから。……向こうがダンマリなら、反証はできない」
「じゃあ……処罰は下らないってことか」
 なんだそれ。できすぎてるそ。
「嬉しいよ。ほんとにほんとにほんとにありがとう」癒衣は楽しげに、必死に声を弾ませた。「なんで、今になってなのかなぁ。そんなところまでオチをつけないでほしかったかも」
 アンナは顔を覆った。雪のせいで泣くことができなかったからだろう。
「ごめんなさい。私が、間に合わなかったから」
「冗談。――いいんだよ。アンナちゃんは頑張った。きっと何度も時間をループさせたら、ほとんどの回は、私が望海を殺すか、アンナちゃんが〈警察〉を止められなくて三人仲良く蜂の巣にされるか、望海のタイムリミットが来て終わるかだった。だから、このエンドはレアだよ。スーパーレアだよ。ウルトラかも」
「……それに、何の意味があるの」
「意味なんてないよ」
「そんなの、私にはっ、認められない……」
「これが私たちにできる最善のハッピーエンドなんだと思う」
 寝ころんだまま、癒衣は空に手を伸ばす。
「私たちが腕をギリギリまで伸ばして、手が、いちばん空に近づける――ここはきっと、そんな果て。だから、そう自分を責めないで」
 あそこまで連れてって、と癒衣が、ヘリポートの端にある信号灯のふもとを指をさす。
 柱のようなそれは、墓標を思わせた。
 まだ動く僕とアンナの二人がかかりで癒衣の両肩を担いで、連れて行った。
 最後の気力を絞りつくした心持ちで、なんとか耐えきった。


 ……三人で肩を寄せ合う。アンナを真ん中に、僕と癒衣が挟む格好だ。
 息が落ち着いたところで「案外、動けちゃったね」と言った。
「ちょっと足をつけてみたら、私も歩けそうな気がしてきた。見た目ほど傷、ひどくないのかな。ひょっとしたら案外みんな助かっちゃったりして」
「僕も、もう頭は痛くない」
「マジか。このまま何も起きなかったら、科学者ってバカなんだなーって笑えるね」
 逆転劇、来たか!? と僕たちは声を弾ませた。ゼイゼイと。
「でもさ、そうは言っても無罪放免って、どうしたらいいか困るよね」
「それ。アンナちゃんは任務完了だし、望海も私もこれで元の生活に戻れなんて無理じゃん?」
「じゃあ」アンナが提案する。「〈警察〉が嫌じゃないなら、私のとこに来て。移籍でも出向でも、なんでも理屈は付けちゃえばいい」
「ナイスアイデア。で、望海も来て三人でタッグを組んで悪と戦う。最高のスパイトリオだよ」
「僕までやらなきゃいけないの?」
「当然でしょ、機密を知ってるんだから。というか望海自身が機密なんだから」
「……大丈夫かなぁ。不安しかないけど」
「大丈夫。無理言っても私がなんとかする」
 つくづく三って数字はいい。
 こんなくだらない話を、いつまでだってできる。
「明日からが、楽しみだね」
「そうだね……」
「明日って、いい言葉だね」
 癒衣が、声を弾ませる。いや、声を握ることもできず、放すだけ。
「そんな言葉を、昔どこかで見たっけな。明日ほど、風船みたいな中身の言葉もないんだけどね。それでも、明日の話は、楽しいよ。特に、明日の天気を考えるのは……すばらしい」
 そうだね、と僕も言った。
 明日にも雪は止むだろうか? それを知ることができるなら、今はこんなにからっぽの空からでも、何か大切なことを受け取れる気がする。
 それはきっと、すばらしい。
 暖かさを分けるために肩を寄せ合うと、急に寒気は消えて、穏やかなまどろみがやってきた。心地よさに目を閉じる。きっと二人も目を閉じたと思う。
 さぁ、これで答えはゼロになった。
 引き算はもう終わった。
 これから待っているのは、足し算の青春だ。
 だから僕たちはもう少しだけ待とう。もう少しだけここにいよう。
 この雪原の中で。
 この結末の中で、いつまでも。

 〈了〉