電撃大賞落選原稿『ロンググッドバイ』

 貰った一万語は
 ぜんぶ「さよなら」に使い果たしたい
 ――寺山修司『ロンググッドバイ』

 これはシンプルな物語だ。
 要約すれば――男の子と女の子が出会う、それだけの話。

 

 

1 - ガラスの墓標

 ちょうど数日間続いた吹雪が止み、登山鉄道の運休は終わったらしい。
 勾配のある斜面を列車はガタガタと登っていく。窓の外の木々に積もった雪が、衝撃でいくらか落ちる。それにつられて、文庫本の紙面から窓に目を移す。
 中腹で降りてから、いくらか歩かなければいけないと聞いた。だから文明の利器に頼れるのは、ここまでだ。もうじき降りるだろう。僕は本――福永武彦の『草の花』――を閉じた。
 そもそも会ったとして、何を話せばいいのだろうか。
 彼女本人の要望とはいえ、何がしたいのかがさっぱり分からない。……それではなぜ行くことに決めたのかと言われれば、困る。
 恥ずかしい話だが、僕はちょうど就職に失敗しつつあった。だから自暴自棄になっていたのかもしれない。
 断ることも無視することもできた。興味本位の好奇心が疼いたといえばそうなのだろう。でも自分でもよく分からない。考えてみれば僕の人生はいつだってそんな感じだった。
 僕のもとに手紙が届いたのは、ちょうどクリスマスの頃だったと思う。それは奇妙な手紙だった。差出人に覚えがなかったのだ。
 それはこんな文面だった。

『中島弘樹様
 突然の手紙すみません。私は永井朋佳というものです。
 単刀直入に用件をお話します。お会いしたいです。
 突然のことで、怪しい手紙だと思われるかもしれません。しかし、どうしてもお会いしたいのです。
 お待ちしております。
 永井朋佳』

 そして、そっけなく住所と電話番号が書かれ、手紙は終わっていた。
 ……意味不明だった。
 しかし、結局手紙を捨てることはできず、最終的に僕は彼女の居場所を調べてしまった。電話番号にかけてみたところ、彼女の姉と名乗る人間と話すことができた。『時感障害』でとある療養所に入院しているという。彼女は僕が名乗ると「入院前に朋佳から聞いています。今は連絡が取れないですが、お知り合いのようですし、入院先の住所をお教えしましょうか?」と頼んでもいないのに伝えてくれた。ますます分からない。
 結局僕は来てしまった。まぁいい。身の危険は特に感じなかったし、僕には特に財産もないし、騙しても何の意味もない。
 あと、筆記のあまりの弱弱しさにも、敵意の微塵も感じなかった。……これは後付け。
 ――そんなどうでもいい思考は、ぴしりとした鈍い頭痛で現実に引き戻される。
 もう列車は止まっていた。

 療養所は東北のある県の山間にある。だから、天気によっては冬場は行くのが結構大変だというのは知っていた。もっとも、行く人間なんてほぼいないということだが。列車の運転手も「見舞いですか? 珍しい。もうずっと見てないですね」と不思議そうだった。「私も行ったことはないんですよ。詳しくは知りませんが、なんでも、かなり……その、不思議なところらしくて」と、彼は語尾を濁した。「噂がありまして、ここの人たちもあまり近寄らんのですよ。まぁ、入不二のことはどこでも分からない話だと思いますが……気をつけてください」その口ぶりには、警戒心と不安が入り混じっているように感じられた。
 地面には雪が積もり、少しでも道を踏み外すと足が埋もれてしまう。でもただ道を歩けばいいというわけでもない。ところどころ凍結しているから、注意をしなければ滑る。階段では手すりに摑まればいいが、他ではそうもいかない。
 中腹には誰もおらず、売店は閉まっている。ベンチは雪でこんもりと覆われている。一体どうして、僕はこんなところに来たのだろうかと思う。後悔する。
 山はそれほど高くなし、このまま縦断すればすぐに谷の療養所につくだろう。
 そう思っていた。
 見通しが甘かったことは、すぐに分かった。

 突然、風と雪が強まってきた。気象情報は確認していたはずだけれど、また悪くなってきたのか。コートから隙間風と雪が入る。手袋をつけたが、それでも指がかじかんで上手く動かない。こんな軽装で来る場所ではなかったかもしれない。現在地を見失いそうになる。スマートフォンを取り出そうとして、雪の中に落としてしまった。慌てて探したが、見つかりそうもない。最悪だ。どうせ電波は通じないから関係ないかもしれないけれど、こんな状態で遭難したら笑いものにさえならない。
 周囲には人っ子一人いない。既に空は暗いが、もうじき日も落ちてしまう。闇の中に包まれてしまえば、万事休すか。
 もはや自分がどこに向かっているのかもわからなかったが、それでも足は動いた。
 脚に見えない糸でもくくり付けられて、引っ張られているみたいに。

 キイキイと揺れる電線の音で、僕は安堵した。
 まもなくその建物は、吹雪の中からのっそりと輪郭を現した。
 第一印象は、とにかく古めかしい、という感じ。一体何十年前の建物なのだろう。下手をしたら戦前なのか? とすら思う。レンガ造りで、思い出もないのになんともノスタルジーを喚起させる。しかし、レンガの一つひとつや石畳には傷がなく、まるで建てられた直後のようだった。人間が少しでも立ち入ればこうはならないはずだし、この気候なら間違いなくどこかしらに侵食が起きるだろうが、そんな形跡もない。それなら異常に手入れが整っているということか? だとすれば、病的なものさえ感じる。
 特に看板もないが、間違いなくここだという確信がある。意を決して、玄関に向かう。もう連絡は済ませてあるから怪しまれはしないだろうが、それでも緊張した。
 身体から雪を落とし、靴を脱ぎ、床に上がる。そこも鏡面のように磨かれていて、やはり傷がない。だから、少しだけ足を載せるのを躊躇ってしまうほどだった。靴下越しでも冷たい。すぐにスリッパを履いた。まずは受付に向かおう――そう思いながら歩く。
 ふと、この廊下がどこまで続いているのか気になって、向こうを振り向いた。
 少女がいた。

 少しサイズがぶかぶかの病衣に身を包んだ彼女は僕を見つめている。死人のように生気のない黒い髪と、陶器のように白い肌。その輪郭はあまりにもか細い。
 確証もなく、直感的に僕は悟った。この少女があの手紙の主だと。
 ――どうしてそう思うのだろう?
「あ――君は」と言いかけて、やめる。君は? 初対面なのに慣れ慣れしくはないだろうか。いや、そもそもこの状況で何を言えばいいのだろうか?
 でも少女の方は、驚いた様子は見せなかった。そのあまりの警戒心のなさに、拍子抜けしてしまい、こちらの肩の力も抜けた。「ええと、もしかして、永井さんで間違いないですか?」
 こくり、と頷く。
「ああ、よかったです。中島です」あれ、でもまた話に詰まってしまうんじゃないか? いや、要件すら分からないのに、何を言えって話だが。
 ゆっくりと少女が近づいてくる。何だ?
「――」
 彼女は僕を一瞥してから、何も言わずに彼女は後ろを向いて、帰り始めた。
「ちょ、ちょっと!」と呼び掛けても、何の反応もない。肩に手を掛けようとしたけれど、できなかった。触れたら、壊れそうだったから。
 そして呆然としているうち、彼女は角を曲がって、消えていった。

 けれど不思議なことに、僕はそれに嫌悪感を抱かなかった。
 どころか――あの、冷めているようにも夢を見ているようにもとれるまなざしが、僕にはなぜか、ひどく懐かしく思えた。

「ああ、中島さんですね」と受付の女性は言った。
 その声で、来る前に掛けた電話に応対した女性と同一人物であることが分かった。彼女はメイド服を着ていた。それも、まるで近代ヨーロッパの伝統的な感じの。残念ながら僕に知識はないが、それでも本格的な服装であることはなんとなく一目でわかった。
「連絡は既に来ています。朋……いえ、すみません、朋佳さんに呼ばれた方ですよね」
「……はい」
「分かりました。お話の通り、本日中に帰られるわけではないですよね?」
 彼女は僕に微笑みかける。もとよりこちらもそのつもりだった。場所を調べた時点で、もう日帰りは無理な場所だと理解していた。
「空いている部屋はたくさんあるので、ひと声かけてください。なんなりと」
 ……ここは宿泊施設か何かなのだろうか。
「入不二先生はまもなく戻られます。まずは先生にお会いしたらいいと思います。と……ええと、朋佳さんのこと、何も知らないんですよね」
「そうですね……正直、どうして呼ばれたかさえ、分からないです」
「なるほど」
 彼女はちょっと考え込んでから「まぁ、大丈夫でしょう」と能天気に構えた。
「とりあえず場所を変えましょう。ここで待つのは寒いと思いますからね」
 そうして彼女はドアを開け、僕の目の前までやってきた。背は低くちょこんとして小動物を思わせ、この気候と合わせるとなんだか今にも冬眠しそうな感じだった。
「ご案内しますね」
 彼女は先導するように歩みを進めようとして、ふいに僕の方を向き直る。
「あ、申し遅れました。いつものことですね。――青山、と呼んでください。ここで雑用をしています」
 呼び捨てでもいいですよ、と笑われ、反応に困る。「なんちゃって」
 ここの人たちは、みんなこんな感じなのだろうか。

 通されたのは、応接室だった。医療施設にそんな場所があることに改めて驚いたが、「ここはもともと役人さんの邸宅だったので、こんな感じなんですよ」と補足された。「もうずーっと前のことです。少々縁がありまして、私どもが管理しておりますが」
「すごく広いですね」
「はい。中にいる人数と比べると、もったいないくらいですね」
「……そんなに患者さんは少ないんですか?」
「ええ。現在入られている方は、中島さんしかいらっしゃいませんね。患者さんと呼べるのはそれだけです」
 あとは私と先生ともうひと方で、合計四人です――そう青山さんは必要もないのに指折り数えて示す。
「そんな少人数で回るんですか?」
「まぁ。みなさん手のかからない方ですから」
 青山さんは、それ以上は言及しなかった。
「何か飲み物を出しましょうか。紅茶か、コーヒーか」
「そこまでなさらなくても……」と遠慮すると、彼女はずいっ、っと身を乗り出して「こういうときは素直に頂いた方がスマートですよ」と屈託なく笑うから、頂戴することにした。こんなに丁寧に応接してもらう療養所というのは、やはり変なものだ。
 温かなコーヒーは、凍えた身に再びエンジンをかけるのにちょうどいい。カフェインの香りで目も覚めて、ここに来てから感じていた夢心地のような奇妙さは、少しばかり薄らいだ。カップを片付けると、青山さんは「まだ時間がありますし、少しばかり部屋の案内をしましょう。
 差し支えなければ、部屋に行きましょうか」と席を立った。「荷物、運びましょうか?」
 再び躊躇いかけた僕に、彼女は口元に人差し指を当て「スマートに」とだけ言って、笑った。

 階段を登っていく。金属製の手すりには流線型の彫刻が施され、肌触りはひんやりとしている。ここは二階建てで、上階に病室(と呼んでいいかは分からないが)がある。リュックを両手に抱えているにもかかわらず青山さんの動きには無駄がなく、スカートのすそを踏まないことにちょっとだけ感心して、いや、慣れているのなら当然なのか、と我に返った。
「泊まっていただくのは、そうですね……向こうがよろしいでしょう」と彼女は廊下の突き当りにある扉に目を向けた。「まずは、荷物を置きましょうか」と言いかけたそのとき――ちょうど右隣の扉が開いた。
「あら、さっそくですね」と青山さんは悪戯っぽく微笑む。
 扉の向こうから現れたのは、パジャマ姿の女性だった。年は二〇後半くらいだろうか。ボブカットの髪の毛には寝癖がつき、漫画みたいにあくびをしてから、ぱちくりと僕の方を見た。その異常なほどの警戒心のなさに、またしても僕はたじろいでしまう。
「紹介しましょう。野矢さんです。野矢さん、こちらが来客の方です」と青山さんが説明する。女性は僕たちの方を見て、一瞬目を見開いたが、まもなくすぐに眠たげな顔に戻り「紹介されました。野矢珠希です」と返した。声音はぼんやりとしている。まだ寝ぼけているのだろうか?
 困惑する僕をよそに「あー」と間を繋いでから、彼女は僕に近寄ってくる。そのまま首を伸ばして、顔と顔が近づく。助けを求めるように青山さんの方を向いたが、彼女は面白がるようにニコニコとしていた。
 口の中が渇いていく錯覚が湧く。――彼女は止まらない。止まらない。ぱちくりと瞬きする目が、近づいてくる。……まだ止まらない。そしていよいよ――
「なるほど、ね」
 さっと、耳元で囁かれた。
 ぞくぞくと体中が震えて、頭の上にくっついた糸を引っ張られたように、思わず飛び上がりそうになってしまった。それを二人は見逃すわけもなく、顔を合わせて笑う。
「あはは、……なんだか面白そうな人だなぁ」
「まったくです」
「……」返す言葉もない。

「私はここに入ったのは、いつだっけ……まぁそれはどうでもいいけど、とにかくここは長いよ。だから青山さんがいないときはなんでも訊いてほしいね」
 野矢さんはようやく少し目が覚めたようだが、それでも無防備なままだ。
 病室には古めかしいベッドがひとつと、そして机と椅子がある。個室……? と思ったが、そもそも三人しかいないのだから、部屋の多さを見れば当然のことなのかもしれない。
「世界全体を見ても時感障害――と私たちは呼ぶ――の罹患者は少ないからね。ここはすごくいい場所なんだよ……すごく」
 彼女はベッドに腰かけたまま、再び青山さんが用意したココアを口に運ぶ。彼女はてきぱきと僕の荷物を運んだり、また飲み物を淹れたりするから、またしても感心してしまった。「寝る前に、またお部屋にはご案内しましょう。仕事がありますので席を外しますね」と言って去っていくのを見てから「まったく、いつもそうやって気を回すんだね」と、野矢さんは親しげに呟いた。
「ええと、中島くん、だっけ。君もこの病気のことはよく知らないよね」
「ええ……」
「私たちも、少しだけしか知らないよ」と笑ってから、野矢さんは「でも、その話は飽きてるし、別のことを話そう。君は朋佳ちゃんに呼ばれて来たんだよね?」
「そうらしいです」
「面識もないのに?」
「それは……」と返答に窮したが、彼女にとっては冗談の類だったようで、また笑われてしまった。
「驚かないよ。そういうこともあるさ。人間、自分で説明できる理屈もなく行動してしまうことはある。君がここに来てしまっていることが何よりの証明だ」
 で、と彼女は続ける。「気になる? 朋佳ちゃんのこと」
「それは……」
「あ、変な意味じゃないよ? いや、そういう意味でもいいんだけど。とにかく――そりゃ当然のことだよね。見ず知らずの人間に呼ばれたんだから」
 そうだね、と野矢さんは一呼吸置く。
「いい子だよ」
「……」
「そして、面白い子でもある」
「面白い?」さっきも聞いた言葉だった。
「ああ。――ごめん。君と私だと単語の使い方が違うのかな。私は物ごとを面白いかどうかで判断することが多いんだ。もちろんその中にはいろいろな感情があるんだけど、つい口癖のようにそんな言葉を使いたくなってしまうのさ」
 ……よく分からないが、彼女なりの理屈なのだろう、ということで脳内で納得した。
「話してみるといいよ。最初はどうしたものか困ったけれど、見かけに反して……っていったら失礼かな? でも、本当に気さくな子だよ」
 そうなのだろうか? ……あの経験の後では、まったくそんな気がしないが。
 またしてもそんな内心を察されてしまったのだろうか。彼女は「気にしなくていいよ」と言った。
「え……? それは、どういう」
「気にしなくていいってこと。それだけ」
 そのまま口笛を吹かれた。
「まぁいいじゃないか。とにかく香苗が来るのを待とう。この調子だと今日はもうひとりは出てこないだろう。ここは寒いし、食堂にでも行くかい?」
 相変わらず謎めいた口ぶりだった。出てこない、という表現もまた興味をそそられた。けれど、根掘り葉掘り訊くほどの勇気は持ち合わせていなかった。
「それにしても、香苗はいつも遅い。時間の感覚がおかしいんだな」
 そう言って彼女は笑う。
「今のは冗談だよ」
 そう付け加えられても、どう笑えばいいのか分からなかった。

 どれくらい待っただろうか。
「まもなく先生が戻られます」と青山さんが知らせに来て、慌ただしく夕食の準備が始まった。
 夕食の準備も青山さんがしているようだった。冬ということもあってか、シチューを中心に、パンやサラダなどが用意されていた。これまた、病院食とはかけ離れている。
 僕たちが席に座っていると、バタバタと足音が聞こえてきた。「ああ、いよいよお出ましだな」と野矢さんが愉快そうに言った。
 ドアが少々乱暴に開く。
 現れたのは白衣の女性だった。髪を後ろにまとめてポニーテールにし、眼鏡をかけている。目つきは鋭く、少々刺々しい印象を与える。
「ただいま。夕食には間に合ってる?」
「ええ。あまり待ってはいませんよ」と隣の青山さんが伝える。手にはコートを持っている。先生が着ていたのだろう。「そうか。よかった」
「香苗、待ちくたびれたぞ、腹が減った」
「それほど待っていないといっているだろうが」
「私には長かった」
「……そうかい。さっさと食え」
 二人は軽口を叩き合う。
「先生。こちらが、本日いらっしゃった中島さんです」と青山さんが僕を紹介すると、先生は「ああ、聞いてるよ」とこちらを向き、「入不二香苗、ここで医者――あるいは、研究者をやっている。もとは脳科学を中心にやっていた。ここの所長といえばいいのかな。まぁ、そう畏まらないでいい。よろしく」
 そう言って僕に手を差し出す。少し緊張しながらも、握手を交わした。
「ここは《入不二療養所》という名前がついている。もっとも、看板なんて出していないがね。ここは私の家系が保有する土地だった。そこを使わせてもらっているのさ。この建物ごとね」
「無理やりに」と野矢さんが茶々を入れたが「うるさい」と先生は一蹴した。「まぁ、私たちの家は何かしらの研究職だから、名前ぐらいは聞いたことがあるかもしれないね。確か君の大学にも関係者はいるよ?」
 言われて――思い出す。そういえばちょっとした実験のバイトをしたことがあった。身体検査のようなものだった気がする。その人も親族なのだろうか?
「さて、彼は朋佳ちゃんに呼ばれたという話だが……肝心の彼女が来ていないな」
「呼びに行きましょうか」と青山さんが提案したが「まぁいい」と制止される。「じきに来るだろう。来なければ食事を運んでおいてくれ。彼とはいつでも会えるさ。あとは……とにかく、私たちで夕食は始めよう」
 およそ医者が患者を扱うとは思えない、ぶっきらぼうな対応だった。
「ともあれ、中島さん――いや、年下だから中島くん、か? どう呼べばいいか。とにかくお疲れ様だ。ここに来るのも一苦労だっただろう」
「それは……そうですね」
「そうだろう。さぁ、何から話したものかな」
「お前は医者だ。彼女の病気について話したらどうだ」と野矢さん。
「それもそうか。少々夕餉には向かない話題だが、聞き流してもらう程度で構わない。さぁ、食べ始めてくれ」
 まもなく、かちゃかちゃと食器がスプーンやフォークに当たり、音を立てはじめた。
「彼女は私と同じ研究者だ。もともとは物理系の学者だよ。だから適宜補足しろ。いいな」
「はいはい」と野矢さんは不承不承に頷く。「そもそも、《時感障害》っていう言葉自体、聞き覚えがないものだよね」
「ええ」
「それもそうだ。これは医学上認められた病気ではないからだ」と先生が野矢さんの後を継いだ。
「単刀直入に言おう。時感障害について分かっていることは非常に少ない。そもそもこの病名自体、正式に認められているわけではなく、便宜上のおおざっぱな呼称だ。一口に時感間障害と言っても、同じ症状の人間はまずいないといっていい。そもそも私にとって症例と呼べるケース自体が少ないから、大雑把に括ることしかできないのだが……とにかくこの病に確かなのは、一般的な人間の時間と、患者たちが生きている世界が違うということだ。まぁ、この程度でいい。彼女は、基本的には普通の人間と変わらないよ」
「……それなら、どこが病気なんですか?」
「それは難しい説明が必要だね」と野矢さんは言った。「とりあえず精神医学的な観点から説明したらどうだい?」
 ああ、と先生は頷く。「青山くん、説明をしてくれ」
 はい、と青山さんは頷いた。
神経症の一種である離人症を例に説明します――つまり、自己、自分の肉体、世界に対する現実感が消滅する神経症です」
 すらすらと話す彼女に驚くが「青山くんはもともと精神医学の専門家なんだよ」と先生が説明した。すかさず青山さんの方は「いえ。もとがメイドで学者も兼ねている、と言った方が正しいです」と訂正した。……拘りがあるのだろうか。
離人症では、身体は正常なのに、たとえば見えているはずの景色を景色だと感じられなかったりします。眼球は確かに見ているんですが、それに現実らしさを感じない、ということ。また、それを見ている自分自身さえ、見失ってしまう状態です」
「……白昼夢のような状態ですか?」
「夢や幻想ではないですが、自分の存在がふわふわしているというイメージは、それで構いませんね。こういった患者さんは、時として奇妙な時間の感覚を訴えることがあります。たとえば、『時間がばらばらになる』とか、『時と時の間がなくなった』とかですね。……分かりにくいと思いますが、つまるところ、時間そのものに対する現実感もまた、奇妙に消失したり、ねじ曲がってしまうと考えられますね」
 想像力を働かせて、なんとか話についていく。具体的には体感できないが、とにかく通常僕たちが感じる、過去から未来への時間の流れとは大きく違っているということか。
「パラパラ漫画が動いているように感じられない、みたいなことでしょうか」
「いい比喩です」と青山さんは頷く。「ひどい場合は、その一枚一枚が分断されていると考えましょうか。――離人症を例に挙げましたが、時間感覚の問題は様々な精神病理に現れます。統合失調症では未来志向、鬱病ならば過去志向の時間観が見られる、等々、さまざまですね」
「ということは、彼女もまた、そういった疾患なんでしょうか」
「いや、そこまで単純じゃないんだ」と先生が口を挟む。「私たちがそれぞれ違った分野の専門家であるように、一言でこの病を定義することはできない。最初に青山くんから説明したのは、それが一番人に説明するときに理解しやすいからだ。だが、それだけですべてを説明することはできない。それは申し訳ないんだが――」
「香苗」と野矢さんが遮る。「来たばっかりなのに、こんな講義紛いのことをするのはあまりよろしくないと思うね。ええと、中島くん。ちょっと混乱させすぎてしまったかな? 脳が疲れたかもしれない。今日はゆっくり寝るといい。そうすれば、少しは落ち着くと思うよ」
「そうだな。なに、家賃もとらない優良な仮住まいだとでも思えばいい。だいたい、生活には何か困っていることがあるのだろう?」
「……どうして分かったんですか?」
「分かるさ。そういう雰囲気が出てる」
 先生がそう言うと、彼女なりにおかしかったのか、野矢さんは笑い出した。「まったく、傑作だよ。香苗、君はホームズだな」
「こいつは、本当にやかましいな……」
 僕はそんな様子を、ただ見ていることしかできなかった。

「おやすみなさい。いい夢を」と言葉を残してストーブを消しに来た青山さんが去ってから、僕はベッドの隅に腰を下ろして考えた。
 今日ここを訪れてから、まだ状況がよく飲み込めないでいる。正直、この場所自体が大きな胡散臭さに包まれている。三人から話を聞いたが、あまりに抽象的すぎて一体彼女がどんな病なのかさっぱり理解できなかった。
 けれど……不思議なことに、僕はけっしてそれが嫌ではなかった。
 昔からそれなりに好奇心は強い方だったけれど、それでもやっぱり今の僕はどこかおかしかった。知らない人からの気でも狂ったような手紙を信じて、あっさりとこんな場所にやってきてしまったのだから。
 ……とはいえ、まだ僕は肝心な用事を済ませていない。
 永井朋佳。
 彼女と話すこと。僕を呼んだ動機を確かめること。もしやらなければならない仕事があるとしたら、それが残っている。
 この寒さの中でも、まだ布団の中に入る気はしなかった。窓の外は真っ暗で、電気ランプがともす光に照らされた雪が、ずっと降り続けている。その向こうには、深い闇。
 目を閉じる。
 これから、僕はいったいどうなるのだろうか。

 妙な痛みで目が覚めた。
 それは鋭い――それも、頭を深くえぐるような、そんな痛み。だが外傷ではない。ああ――頭痛なのか、そう理解した。
 視界は深い深い暗闇の中。いつのまにか眠ってしまっていたようだ。今は何時だろうか? それにしても……妙に息苦しい。何かに覆いかぶさられているような圧迫感。明らかに布団とは違うだろう。腰にも重い感触がある。だから身動きができない。
 そして気づく。こんなに暗いのは、僕の顔に影がかかっているからだということに。
 耳をそばだててみると、微かに何かの音が聞こえてくる。一定の周期で鳴るそれは、どうやら誰かの呼吸のようだ。
 ――やがて痛みが引いていくとともに、目が慣れてくる。少しずつクリアになっていき、目の前のぼんやりした暗がりから輪郭が浮かび上がり、実体をもって現れ始める。
 そう、そこにいたのは、確かに人間だった。
 僕の顔のちょうど真上に頭があるそれは、幻なんかではない、確かな存在感を主張していた。
 誰だ?
 それが人間であることに気づいた瞬間、本能的に危険を察知して動揺した。何のつもりだろうか。僕はどうなるのだろうか。しかし完全に横になったままだから、今すぐには抵抗できない。腕もすぐには上がらない。何か危害を加えるなら、僕がもがく前にことが終わってしまうかもしれない。――身の毛がよだつ。でも、声も出ない。息は声帯をひゅうひゅうとすり抜けていくばかりだ。
 夢であってくれ。そう願った。
 でも、それは夢じゃなかった。
 そして、その相手は、僕に危害を与えるつもりもなかった。
 僕に馬乗りになって、肘をついて僕に覆いかぶさっているその人の顔が近づく。
 僕はようやく、それが誰なのかを理解した。
 真っ暗な部屋で、どこかから入り込む微かな光に照らされた顔。
 その肌は、棺の中の亡骸を思い起こさせるほどに――ただただ、ひたすらに白かった。
 そして、彼女は口を開いて、言った。
「――ですね」
 ほとんど聞き取れないまま、僕の意識は沈んでゆく。おそらくは、彼女も僕が寝ていると思っているだろう。
 それでも、最後に彼女が何を口にしたかは、ほぼ分かった。
「会えて、嬉しいな」
 永井朋佳は確かに、僕にそう言ったのだ。

 

2 - 斜陽

 夢。それは目覚めた瞬間から急激に色あせていく。そして、やがて妄想と区別がつかなくなる。だから、それが本当に眠っている間に見たものなのかは、確かではない。
 僕は夢を見た。けれど、取り出せた言葉は、たった一語だけだった。
「――行かないで」
 それは誰かの言葉。誰かが僕に言った言葉。おぼろげな存在が、僕の目の前に現れる。目を凝らしてもなかなか焦点は合わない。
 でも、必死で目を凝らしているうちに、何かの像が浮かんでくる。それは重なり合いながら、形を変え、透明度を増し、やがて現れたのは――
 朋佳の、寝顔だった。

「ほう」
 朝食を知らせに来た青山さんの第一声は、そんな感嘆だった。
「まさかこんな短い間にここまで進展するとは」
「……いや」
 既にベッドから身を起こしている僕は、気まずい顔のまま、横で眠っている少女に目を移す。
 そこにいたのは、昨晩に僕の部屋に入り込んだまま眠っている、永井朋佳だった。
「安心してください、私は口が重い方です」
「違うんです」
「大丈夫です。後始末はしっかりしておくので」
「いや、本当にそういうんじゃないんですよ……」と必死に弁明したが、しかし本当のことを言えば言うほど嘘くさく聞こえてしまう。ドツボにはまってしまった。
「まぁ、とにかく彼女をどうにかしないと始まりませんね」
 青山さんが目を移した先で、少女はすやすやと、無防備に眠っている。
「このまま起きないこともあり得るので、私が一階まで運んでいきましょうか」
「……そんなことしていいんですか?」
「よくあることです」
 その口調から、こうしたことは一度や二度ではないのだろうことが察せられた。
「それじゃあ、持ち上げますね」
 青山さんは彼女を抱きかかえると、そのまま速やかに身体をおぶった。どんなに体重が軽くても人体はなかなかの重荷だろうが、ちょこんとした青山さんは、それでも顔色一つ変えなかった。
 それでも、少女はずっと眠っていて、目を開ける気配すらない。
「じゃあ行きますね。朝食の準備はできていますから、準備ができたらいらしてください」
 はぁ、と空返事のまま、そのまま去っていく二人を見送った。
 ……やっぱり、夜のことは夢ではなかったらしい。しかし、それならば。
 最初に出会った時といい、彼女は何がしたいのだろうか?

「お、来たね」
 食堂の扉を開けると、野矢さんが声を上げた。
「いやはや、君もこうみえて、なかなか色事には得手のようだね。意外だよ」
「だから……というか、どうして知っているんですか」
「この屋敷は狭い。隠し事なんてできないと思いたまえ」
 笑う彼女に思う。口の重さとはなんだったのだろう。思わず青山さんを探してみたが、この部屋にはいないようだ。
「ふざけていないで始めるぞ。スープが冷める」と先生が注意する。朝に弱いのか、夕食の時と比べると若干元気がない。
 席に座ることにした。……目の前には、永井朋佳がいる。彼女はまだ半分くらい眠っているようで、うとうとしたまま目もうつろで、僕の姿もちゃんと見えていないようだった。とはいえ着替えは済ませてあったので、きっと青山さんが世話をしたのだろう。……にしても、そんなことをしてもまだ起きないとは……よほど眠りが深いのか。なんなのか。
「安心しろ、朋佳ちゃんはすぐに目覚める。挨拶の準備をしておくんだな」
「緊張しているかい?」
 先生と野矢さん両者に言われ、たじろぐ。まさかこんな形で自己紹介をしなければいけないなんて。どうすればいいのだろう……? そんなことを考えているから、スープにもサラダにもゆで卵にも、何にも手が付けられない。
 端的に言って、僕は緊張していた。とはいえ逃げるわけにもいかない。覚悟を決めよう、と思った。
 やがて彼女が、いくらかしっかりと目を開ける。あくびを噛み殺したのがきっかけで、ついに覚醒状態になったようだ。
「……あ」
 見計らったように、僕は言った。
「初めまして。中島弘樹です。ええと――あなたに呼ばれて、来ました」
 なんだか変な言い方になった気がするが、他に表現のしようがない。
 彼女の反応はといえば。
「ひろき?」
「え……?」
「ひろき……ひろき……さん」と数秒間頭を押さえてから、ああ、そっか、と言った。
「……こんにちは」
「なんて、呼べばいいでしょうか」と訊くと「勝手にしてください」と言ってから「……どうでもいいか」と付け足した。
 冷たい声音だった。口ぶりも奇妙だ。言っている意味が上手くつかめない。
「昨日のことは何も知らないのかな? これはややこしい事態に……」と言いかけて、先生に睨まれたのか、野矢さんが黙る。
 そして、彼女は決定的な一言を口にした。
「どうして来たんですか?」
 ……は?
 思わず僕は言った。
「それは、君に呼ばれたからで……」
「それがどうしたっていうんですか?」
「いや、でも、手紙が……」
「……だから何ですか?」
 会話が噛み合っていない。
 この子、何を言っているんだ?
 反応に困って二人の方を見たが、先生はため息をつき、野矢さんは微笑んだまま、何もヒントをくれない。
 彼女の方は、「手紙……ああ、そうだっけ。そうだ。そうですね」と短く呟いてから、少しだけ表情を和らげた。
 そして、歯切れよく言った。
「帰っていいです」
 それから朝食の間、永井朋佳は一言も喋らなかった。

 食事が終わり、彼女が悠然と去っていく。
 唖然とした。
 ここに来てから驚くべきことは多かったが、これは……あんまりじゃないか? 自分にとっては、野矢さんの病気のことより、ずっとずっと理解しがたかった。
 なぜ、彼女はこんな態度を取る?
 確かに僕と永井朋佳はまったくの他人だろう。少なくとも僕にとってはそうだ。しかし、一方的に呼びつけたのは彼女の方じゃないか。なのに、どうしてこんなにも冷淡なのだろう? ますます彼女の言動の意味が分からない。これは、一体――
 そしてまた、僕がここに来た理由は、ほぼ失われてしまった。
「あーあ、攻略失敗だね」
 野矢さんは相変わらず軽口を言う。「ま、そこに突っ立ってても仕方ないよ」
 あまりにもショックだったのか、ずっと立ち尽くしていたらしい。思わず問いただしてしまう。
「これ、どういうことなんですか」
「さぁ。香苗は何だと思う?」
「……」
 彼女の質問に先生は黙ったままだ。
「こりゃ困ったね。ずいぶんと面白くなってきた」
「あの――」
「ねぇ、青年」
 野矢さんは肩に手を置く。
「ほらほら、あまり気落ちしない」
 それでも、気持ちは揺らいだままだ。
「帰った方がいいんでしょうか」
「まさか。この程度で諦めるようじゃ、ルートにさえ入れないよ」
「……どういう意味ですか」
「周回プレイで分かる真実もあるかもしれないってことさ。だから、根気強く話してみることだね。彼女は……ちょっと不器用だけど、それでも素敵な女の子だから、もったいないよ」
 私もできる限り助けてあげるからさ、と野矢さんは胸を張る。
「まだ、物語は始まったばかりだよ」

 野矢さんが言っていたことは多分半分も理解できていないが、それでも、食堂を出た頃には、帰るという気持ちはなくなってはいた。……変だな。自分でもそう思う。普通、こんな理不尽な目に遭ったら、怒って然るべきだろう。なのに。僕はそれでも、彼女を知りたいと思った。どうしてこんなことをするのか、確かめたいと思った。
 もしここで帰ってしまったとしたら、何かひどく重要なものを、失ってしまうのではないか――そんな、根拠のない予感があった。いや、そんなものは全部後付けなのかもしれない。単に今から帰るのが面倒だっただけかもしれない。あるいは、無意識で彼女に下心を持っていたのだ。などと無理やりに説明することもできる。
 ただ、そんな御託は無意味だ。
 どうせ乗り掛かった舟だ。
 帰らないと決めたのなら、次は何をするべきか。

 部屋に帰って、夜まで考えてみた。
 取れる行動は限られている。あの態度だ。彼女に付きまとったとしても、同じような反応が返ってくるだけではないだろうか。それなら、他の住人に協力を仰ぐべきだろう。
 屋敷にいるのは、彼女と僕を除くと三人……ということになるらしい。先生、野矢さん、青山さん。野矢さんとはさっき話した。先生は……さっきの様子を見るに、少しこの件からは引いているようだった。だとすると、まだ様子を見ていないのは。
「なるほど、難しいですね」
 青山さんは少し唸る。
「私が話せることは、あくまで私の視点からでしかないのですが……それでもいいでしょうか」
「ええ」
「そんなに彼女のことが気になるんですね。承知しました」
 ちょっとだけ冷かすような笑いに、思わず言い訳しそうになるが、観念して「……ええ。ある意味では」と答えた。案の定、「ある意味。ふふふ」と余計に面白がられてしまった。
「彼女がどういう病気なのかは、正直言って私の頭では完全に理解できていないので、先生にお聞きするのがいいと思います。ただ、彼女は気難しいですから、時期を待った方がいいかもしれません。時には訊いてもいないのに自分から滔々と話すような方なんです。となると……私は、朋佳さんがこの場所に入ってきた頃のことを話しましょうかね。もちろん、これは私の視点からの話です。ここの屋敷という狭い世界にずっといる私の主観ですから、それは注意してくださいね」
 それから、青山さんは注意深く周りを見渡して「場所を変えましょう」と言った。

「ここは私の部屋です」
 連れてこられたのは……屋根裏、とでも言うべきか。とはいえ本当に無骨ではなく、ちゃんと部屋としての体裁が整えられている。意外と寒くはない。暖炉の空気がどこかから来ているのかもしれない。床には畳が敷いてあり、それはなかなか場違いに目立っていたが……視線を察したのか「趣味ですよ」と青山さんは笑った。
「ここで生活しているんですか?」
「ええ。なかなか楽しい場所ですよ。ネズミも虫もこの屋敷にはいませんからね。ここなら、大声で怒鳴らない限りは誰にも聞こえないでしょう」
 誰にも、ともう一度強調して、彼女はウインクした。
「そうですね……朋佳さんは現在十八歳ですが、発症したのは十二歳の頃だそうです。先生と私はこのような病を研究していた学者です。……珠希さんもそうです。まぁ、彼女は入不二家と家に繋がりがあり、私たちよりずっと若いのですが――天才と言うべきでしょうか。先生は脳科学、珠希さんは物理学。私は精神医学。どれも彼女の病気を理解するのに必要な観点です」
「差し支えなければ訊きたいのですが、僕以外に彼女のもとを訪れた人はいないんでしょうか」
「……いませんね。なにぶんご本人のことですので、深くは知りませんが。……ふふ、ますます奇妙ですね。あなたが選ばれたなんて」
「あの様子を見ても、選ばれたとは思えませんけど」
「あら、そうでもないですよ? 彼女は無意味なことはしません。まぁしいて言うなら、ちょっとだけ意固地と言えばそうかも……って、聞かれていたら大目玉なので、黙っててくださいね」
 ちゃんと彼女なりの理由があるんですよ、と青山さんはフォローした。
「理由……?」
「ええ。朋佳さんは、たくさんのことを知っていますから。ただ、ちょっと秘密主義なので、中島さんは面食らってしまったかもしれませんね。でも、きっと大丈夫ですよ。そうだな……」
 こうしましょう、と青山さんは人差し指を立てた。
「私と二人なら、多少は彼女の態度も和らぐかもしれません。彼女の狙いが中島さんを帰らせることだとしたら、あなた一人が勝手に判断して帰ってしまうのが一番狙い通りなのかもしれません。中立の立場の人間がいれば、少しは引き下がらずを得なくなるかもしれませんね」
「ありがたいですが……そこまで協力してくださるんですか?」
「当然です」と彼女は断言した。「人の恋路は応援するのが、私の流儀です」
 ……やっぱり、どこか勘違いされたままだ。

 青山さんはまず「大雪で帰れない」と言うよう僕に提案した。まずは、現在やむなくここにいるしかないことを伝えれば、「帰りなさい」と言われ続けるのを封じることができるからだ。
 彼女は間違いなく昼食に来るから、そこで引き留める。僕一人では無視することもできるが、同じ住人が呼び止めるなら態度を変えるだろう、と青山さんは予測した。
「大丈夫なんでしょうか」と心配する僕をよそに「口実はちゃんと用意してありますよ」と青山さんは自信ありげだった。……どういうことだろう。
 果たして、昼。相変わらず時計がないのに、よく各自がぴったり揃うな、と驚く。先生に特におかしなところはない。野矢さんは……どうだろう。横目で見た瞬間、ふいに目が合ってしまう。動揺を悟られたのか、彼女はまた小さく口笛を吹いた。自分の演技の才のなさに呆れる。邪魔はしないだろうけど……幸先は微妙だ。主に青山さんに喋ってもらった方がいいだろう。僕が目配せをすると、彼女は小さく頷いた。
 食事が終わった帰りがけ、彼女が席を立つのを見計らって、青山さんが呼びかける。
「食後にお茶でもどうですか?」
 彼女はそれに「いいです」とそっけなく返す。しかし、青山さんは追撃する。
「お菓子を用意していますよ」
 その一言で、足が止まった。
「分かりました」
 ……こういうことなのか。

『お菓子』という言葉とは裏腹に、それはなかなか豪華だった。正式な名称が分からないが、ティータイムの風景のイメージでよく見かける、トレイが上下に二つついた籠状の食器の上に、綺麗にケーキやシュークリーム、ティラミス、果物などが置かれている。何の料理なのか説明できないものもある。洋菓子に対する語彙力は、残念ながら僕にはない。これ、青山さんが全部作ったのだろうか……?
 濾された紅茶が各自に回る。
「……」
 しかし、この少女の心中は複雑なようだ。
「青山さん、どうして彼がここにいるんですか?」
「言った通りですよ」と涼しい顔で青山さんは返す。「大雪で、このまま帰れば遭難です。先生が帰られてから、積雪はどんどん増えています。今は自動車もだめでしょう」
「だからといって……」
「来客の方に茶菓子を用意するのは、マナーですよ」
 その言葉で返答に窮したのか、じろりと視線が僕に向く。思わず身が引き締まる。しかしどうやらあっさり諦めたようで、黙ったままフォークを口に運び始めた。
 これで少なくとも、同じ空間にいることは成功した訳だ。
「BGMにレコードでもかけましょう」と青山さんが立ち上がって、棚に並んだスリーブから一つを取り出し、慣れた手つきでプレイヤーのターンテーブルに乗せる。……回り出す円盤に針を落とす。
 流れてきたのはアコースティックギターの音。アルペジオとともに、細い声質の歌が始まる。
「何のアルバムですか」
ニック・ドレイクの『ファイブ・リーヴス・レフト』ですよ。落ち着く曲がいいでしょう。リラックスした方が、歓談も盛り上がるのではないですか?」
「……私は患者だよ」と不貞腐れたように少女は言い返す。次の抵抗に出たようだ。「ここの主じゃないし、あなたは一応、看護師でもある」
「しかし、私にとってはお客さんです。お見舞いに来てくださったのですし、お二方がリラックスしてお話しできるようにするのは当然の務めです。それに――」と言葉を区切ってから「朋佳さんが呼ばれたのですよね?」
「……」無言の圧力が、青山さんにかかる。
「ですよね?」笑顔。
「……」さらに無言の圧力。
「そうですよね?」
 数秒間の緊張ののち――折れたのは、少女の方だった。
「……分かりました」と肩を落としてから、彼女は僕にぶっきらぼうに言う。「何でもいいから言ってください。話したいんでしょう?」
 ついに、話をすることができる。僕は心の中で快哉を叫んだ。……そして、その直後に思う。
 ……何を話せばいい?
「あ、その……」
「敬語は使わなくていいです」
 真っ先に出鼻をくじかれる。
 とどもりながら、必死に頭を働かせた。せっかくの機会、無駄にするわけにはいかない。そうだ、何かあるはず――あ。
「呼び方」
「え?」
 明らかに、彼女は不意を突かれていた。
「『なんでもいい』って言ってたから。少し考えたんだ」
「……」
「もしも嫌だったら変えるけど――朋佳さん、って呼んでいいかな」
 僕はそう提案した。
「僕のことを『弘樹さん』って呼んでたでしょ? じゃあ、僕も気軽に呼ぼうかな、って。呼び捨てだから、初対面にしてはちょっと失礼っぽいし、もし嫌ならちゃんと丁寧に――」
「……いや」
 僕のフォローを、彼女は遮った。
「『朋佳』でいいですよ」
「本当に?」
「それでいい。――いや、それがいい」
 そう口走ってから、彼女の目が泳ぐ。無意識に言葉が出たのだろうか。
 また数秒間の気まずい間があったが、「……そうして」と、もう一度言われた。それから、諦めたように少し笑った。
 笑った。
 見間違いじゃない。確かに薄く笑っていた。それはここに来てから初めて見た彼女の笑顔だった。そうしているだけで場が穏やかになる、今までが嘘のような笑みだった。
「いいよ。弘樹さん。帰るまでよろしく」
「うん、よろしく」
 まだ僕を帰すのには拘っているようだが、渋々ながら少しは関係を近づけることができたようだ。第一歩……だろうか? とはいえ、まだ僕を呼んだ理由は何も分かっていないに等しい。
 僕の不思議な衝動は消えていない。もっと彼女のことを知りたい。特に、あの笑顔を見た後ではそう思うのも当然だと、自分に言い聞かせた。
 そう。もし言葉で表すならば、それは綺麗で。可憐で。でもどこか懐かしくて。そして――
 少し寂しげな、微笑みだった。
 ……アルペジオは、まだ続いている。

 三人で応接間を出てから、部屋に戻っていく朋佳の後姿を尻目に、僕たちはこっそりと安堵の声を上げた。
「ちょっとびっくりしましたが……うまく行ったようで、何よりですね」
 青山さんはほっとしたようだった。一見冷静でも、内心はらはらしていたのかもしれない。
 はぁ、と二人して胸を撫で下ろした瞬間、ふいに朋佳が足を止めて「どうしたの?」と僕らの方を向いて訝しむ。
「なんでもありませんよ」と青山さんは微笑む。
 それに朋佳は「そう」とだけ言って、また歩き出した。

 階段で青山さんと別れて一人になったあと、二階に上がる。とりあえず夜まで部屋でゆっくりしよう――そう思い、廊下に足を向けたとき。
「朋佳ちゃんとは、打ち解けたようだな」
 左横から声をかけられて振り返ると、先生が壁にもたれかかったまま、こちらを見ていた。
「どうしてここにいらっしゃるんですか」
「問診に来たんだよ。一日いちど、彼女と珠希を診ているんだ。とはいっても大したものじゃない。……健康診断みたいなレベルさ。それで、終わってから書類を確認していたらちょうど君が来たわけだ。まさか、待ち構えているなんて思わないでくれよ」
 そんなことをするのは珠希だけだ、と先生は疲れたように言う。野矢さんはするんだな……。
「でも、それならどうして知っているんですか? 先生は僕たちとは違うところにいたと思うんですが」という僕の問いに、彼女は「この屋敷で隠し事はできないんだよ」と言うので、またか、と思ったところで「冗談だよ」と笑われる。「君、確かに面白いな。珠希が気に入るのも分かる」
「……そうですか」
「ま、種明かしをすると、朋佳ちゃんの様子を見てすぐ分かったのさ。……そうだな、意外とすぐそういう変化が顔や態度に出る子だからな」
 そうだろうか。そこまで激しく変わってはいなかったと思うけど。もしかしたら、かかりつけの医師にしか分からない機微もあるのかもしれない。
「まぁよかったよ。彼女にもいい影響になるだろう。それは確かだ」
 そこまで言ってから、ただ――と言葉を区切ってから、僕の方を見る。
「一つだけ忘れないでほしい。彼女がここに入所している患者だということを」
「それはそうです」と僕は答えた。しかし、そう言われると、少しばかり納得しきれないものもあった。迷ったが、僕は先生にそれを告げた。
「それならば、もう少し彼女の病気について教えてくださらないと困ります」
 その言葉に先生は、少しだけばつが悪そうに躊躇ったあと、観念したように答えた。
「そうだな――これ以上何も言わず隠し続けるのも不自然だ。……白状しよう。私たちはあの子から、自分の病気について詳しく君に伝えないでほしい、と口止めされている」
「口止め……って」
「そうだ。前もってあの子がそうしてほしいと言っているんだ。少なくとも『私がここにいる限りはそうしろ』と。だから、私から勝手なことはできない。他の二人も同じだ。もちろん、彼女自身が話したくなったとしたらそれは別だがな」
 ……だから、夕食の時に先生は黙っていたのだろうか。
 だが、そうならばなおさら困惑することも出てくる。
「それならなぜ僕を呼んだんですか? 見舞いということでまだ納得していたんですが、病気のことを隠したくて、帰れとまで言われて、まったく意味が分からないんですが」
「それも当人のことだとしか言いようがない。もちろん君がそれに付き合ってやる義務もない。我々は他人の言動をすべて理解できるわけではない。ただ、それを見て解釈したり、自分がどうするかを決めていくんだよ。……無論、君が彼女のことを知りたいというのなら、私たちもできる限りは応じる。だが、個人情報のことは本人の意思がすべてだろう。私に決定権はない。それとも、それをわざわざ破ってまで知らなければいけないほど緊急の理由があるのかい?」
「……それは」
「物見遊山だというなら、それは褒められたことではないな」
 そうだ。僕は部外者だ。理不尽に感じるのなら、これ以上関わらなくてもいいのは当たり前のことだ。それでもここにいたいのなら、彼女に従うしかない。
「それに」と先生は付け足す。「……誰かを知りたいと思うことは、それだけ自分を離れ、場合によってはないがしろにすることでもある。君にはそれでも足るほどの強さがあるかい?」
「どういうことですか」
「人に踏み込むということは、ある意味で弱さの証明になりかねない。私はそれが不安だ。いつか君にも分かるだろう。分からざるを得なくなるだろう」
「……」
「まぁあまりにも重々しくは考えなくていい。事情はよく知らないが、基本的には仲良くするのはいいこと……私はそう思う」
 医者として一応言っておいただけだ、と言うと、先生は去っていった。

 彼女の言葉はその後も心に引っかかり続けたが、しかし翌日、そんな思考を打ち切るようなイベントが起きた。
 今度の発起人は、野矢さんだった。
「ねぇ、ちょっといいかな?」
 目が覚めてようやく動く準備ができてきたところで、彼女は僕の部屋にやってきた。
「どうしたんですか」
「いや、どうもしていないね」
 例によって、当意即妙の返しだった。
「私の行動に大した理由なんてないよ。今も、ただすることがなかったからちょっかいをかけに来ただけだ。分かるだろう?」
「……そうですね」
 ここに来てから思っていたが、この人と話すのはちょっとばかり苦手かもしれない。なんでもお見通しのようでいて、思わせぶりに振る舞っているだけにも見える。そういう人と話すと、すごく不安になる。まるで自分が品定めや採点をされているような、そんな印象だ。
「まぁ、とはいえ」と言いながら彼女は一周ほど部屋の中を回ってから、「目的がまったくないというわけじゃない」と僕の方を向く。
「また朋佳ちゃんのことが、気になるんだろう?」
「それはそうです。僕を呼んだ理由が、まだ分かっていませんから」
「なるほど。確かにそうだ。でも、君にはどうやら探究心のようなものがあるみたいだね」
「……そうかもしれません。確かに、普通の人間なら、そもそもここには来ない」
「『普通の人間』なら、ねぇ」
 野矢さんは、相変わらず含みを持たせる。
「そう。普通ではないというのは本当だ。ある意味で、君は正気じゃない。伊達や酔狂の類というレベルじゃないね。中島くん。――君は、おかしいんだ」
 普通ではない。おかしい。異常。正気では、ない。さらりとそんなことを言われたら、普通は戸惑うか怒るかだろう。けれど、そのとき僕は、何も反応できなかった。
 虚を、突かれた。
「間違いなく、どこかがおかしいんだ」
 そう言った彼女の態度は、少しばかり先ほどより真面目な気がした。
「なんちゃって、ね」
「……」
「さて、君の部屋に来たのはこうやってからかうためじゃないよ。繰り返すけれど、君は朋佳ちゃんのことが気になっている。なぜなら、彼女が自分をなぜ呼んだのかを知りたいから」
 それだけ、ということにしておこう――と、彼女はいちいち付け加えて強調した。
「その第一歩のようなものは、どうやらできたようだね」
「ええ、そうみたいです。少なくとも、対話を拒絶するほどではなくなりました」
「それはいいことだ。好感度が上がったんだね。――おいおい、そんなに面倒くさそうな顔をするなよ。分かった分かった。ただ、これだけではまだ足りないというのは理解できるだろう? せっかくなら、この機を利用するべきだ。ルートに入れるくらいには、フラグを立てないとね」
「最後の意味は分かりませんが……それは、そうですね」
 この次にどうするか。それが問題だ。
「そう。そして私は、その次なるきっかけをこちらが準備するのはどうかな? という提案をしに来たのさ。前にも言っただろう? 協力する、と」
 野矢さんはいちいち芝居ががったように指を鳴らす。お手本のように綺麗な音だった。
 そう聞いて、真っ先に思ったのは。
「ありがたいですが――どうして、そこまで協力的なんですか?」
「人の恋路を応援するのは当然のこと――だろう?」
 悪戯っぽく笑う。この人は、本当にどこまで知っているのだろうか。いや、ただ単に、青山さんの口が軽いだけかもしれないが、そうではないと思いたい……。
「まぁ冗談はほどほどにして、私は君と朋佳ちゃんが仲良くなることに賛成なんだ。だってその方が面白いだろう? 首を突っ込みたくもなるものさ。……ともあれ、私が具体的にやることと言えば――」
 それから野矢さんは、自分のプランを話した。

 そもそも野矢さんと朋佳の関係性が想像できないので、一抹の不安がある。二人の性格は、今までの少ない手がかりを見ている限りでは、まるで正反対のように思えた。だから、そもそも二人が話している様子自体があまり想像できない。
 それとなく「仲はいいんですか」と訊いてみたが、彼女は「どうだと思う?」と言ったまま答えない。……どこまでも遊ばれている。本当に信頼してよかったのだろうか、と不安が増す。
「まぁ、見ているといいよ」
 彼女の余裕さは、青山さんとはまた違った種類に感じられた。

 野矢さんは「まず、君は少しだけドアを開けたまま見ていてくれ。私が右の爪先で床を叩くから、それまで廊下に出ず、声も立てないように」と言ってから彼女の部屋をノックして開け、「朋佳ちゃん、ちょっといいかな」と声をかけた。
 それに対する朋佳の反応は意外だった。
「なんでしょう?」
 その声は、今までに聞いたことがないほど明るくリラックスしているように感じた。少々呆れているような声音が、むしろ二人の信頼を裏付けるような、そんな印象だ。
「どうだい? ちょっと暇なら私と一戦交えないかい」
「何をやるんですか?」
「私は何でもいいよ。いいかい?」
「いつでも受けますよ」
 いたく自信ありげな反応が返ってきた。出てくるのか、と身構える。……果たして、そのままドアが開く。朋佳が歩き出し、さりげなく後ろの野矢さんは扉を閉めた。そして――爪先で、床を叩いた。
 唾を飲んでから、意を決して廊下に出る。演技がさほど上手くないのは分かっていたから、とにかく何も言わず、何も意識しないよう努めた。ただ頭の中を真っ白にしたまま、ノブを押してから足を数歩運ぶだけ。
「行きましょう。き……」と言いかけてまもなく、二人がこちらに気づく。
「……珠希、どういうことですか」
「お、奇遇だね」
 野矢さんは白々しく驚く。
「ねぇ中島くん。これから二人でアナログゲームを使用かと思っていたんだけど、何ならキミも参加するかい?」
 その無茶ぶりに、朋佳は大きく困惑した様子だった。「あの、珠希」
「なぁ朋佳ちゃん、面白そうだろう?」
「いや、私は……」
「いいじゃないか。家に帰らせたいなら、ボコボコにして打ちのめさせればいい」
「……」
 明らかに、野矢さんに押されている。青山さんの例といい、この子は意外と脆いのでは……? という、いらぬ危惧が湧く。いや、別の一面が見えてきたのは大事だけれど。
「中島くん。君はどうだい?」
「……はい。よろしくお願いします」
 どうなることやら。

「ここでは娯楽が少ないし、二人でゲームをすることが多いんだ。青山さんは忙しい時もあるし、あの人は気が回るから、人に合わせて腕を変えるんだよ。まるでCPUさ、まったく……」
 その気持ちは分からないでもないが。
「それじゃあ楽しくないだろう? 生憎私と朋佳ちゃんは手を抜けない性質でね。とにかく、もう何度も二人でぶつかっている。だから相手の手の内がもう知れてしまっているのさ」
 連れられた一階隅の遊戯室(そんなものがあるのか?)はそれなりに広く、中央にはビリヤードの台があった。誰が使うんだろうか?
 その近くに、正方形の机を囲んで、四つの椅子が並べられている。僕たちはそこに腰を下ろした。野矢さんはさりげなく、僕と朋佳が対面になるように誘導した。
「そうだな……まず三人でできるもの。かつ、中島くんは初心者だから、ルールのわかりやすいゲームがいいだろう。ブロックスはどうかな? 四角い盤面にピースを置いていくゲームさ。すぐわかると思うよ。朋佳ちゃんもいいだろう?」
「……ええ」
 僕が「よろしく」と言うと、朋佳は「せいぜい頑張ってね」とだけ呟いた。「あなたがどんな手を使うかは、全部知ってるけど」
 そんな、謎めいた言葉を残して。

 確かにブロックスはシンプルなゲームだ。オセロのようにマスで区切られた盤の上に、自分の色のピースを置いていく。
「まず、最初のピースは四隅のどれかに接触するように置かなければならない。その次の周からは、自分の色のピースと頂点で繋がるように置いていく。今回は三人なので、余った色は一周ごとに交代で担当しよう。その色の計算は無視する」
 手元を見ると、様々な形のピースがある。これらをルール通りに置いていく……ということか。「注意するけど、辺同士を接触させてはいけない。これが大原則だ」
「だったら、当然ですけど盤には三人全員のピースは全部置けないですよね」
「そう。だから置けなくなった人はゲームから抜ける。全員が置けなくなった瞬間にゲーム終了。それで、置けなかったピースのマスの数だけ減点です」と朋佳が口を挟んでから、慌てて黙る。
「朋佳ちゃんの言う通り。ただ、全てのピースを全部置けると一五点プラスなので、アドバンテージになる。もっとも、それを目指すゲームにはならないだろうがね」
「……どういうことですか?」
「やればわかる」

 このゲームは一筋縄ではいかない。妨害ができるのだ。頂点が繋がらないよう相手が僕のピースを遮断すると、すぐに危機に陥ってしまう。さらに、三周に一度空いている色のターンが回るので、余計にややこしくなる。ちっとも置かないままに、あれよあれよという間にゲームが終わった。
 朋佳は、すべてのピースを盤面に置き切った。
「やられた――と言いたいが、あまりに中島くんが下手にやりすぎたんだな。まったく、いくらなんでも、もう少し頑張ってほしいものだ。こういう相手とプレイしても楽しくないぞ」
「……」返す言葉もない。朋佳はさも当然のように「予想通り」と追い打ちをかけた。それでも手を一切抜かないのは、彼女なりの流儀なのだろう。
「どうだい? 帰る気になった?」と野矢さんに言われて「……もう一回やらせてください」と答える。
 少しばかり、本気になりたくなった。

 結局僕は最後まで負け倒しだったが、それでも最初よりはかなり減点を減らした。だからこそ、悔しさもあるのだが……。
「そういえば、先生はこういうのをやらないんですか?」と僕が訊くと、野矢さんは「分かるだろう? 昔からあいつはああいう性格だから」と頭を掻く。「それに、私とやると大喧嘩になりかねないからな。ここに来てからも、毎晩あいつは仕事をしているから、何度かこういうゲーム誘ってやったんだけど……私情を挟まないのは常識なのに」
 すかさず「珠希がお金を賭けるからじゃないですか」と朋佳が突っ込む。「こういう人だから」と僕に話しかける。応じながら思った。こんな風に僕に向けて人間として喋ることすら、大きな進歩じゃないか。ここに来てから二日にしては、意外とすぐ打ち解けられたのでは――
「帰る気になりました?」
 その一言で、現実に引き戻された。

 それでも僕は「いや」と言った。「次こそは、勝つよ」
 その言葉を聞いた朋佳は、「……そう」と、少しだけ俯いた。

3 - メルトダウン

 野矢さんの策謀の効果はてき面だった。
「おはよう」
「――」
 こくり、という頷き。
 次の朝から、朋佳は僕に挨拶を返してくれるようになった。これも些細なことではあるが、やっぱり嬉しいものは嬉しい。相手が自分を人間として扱ってくれることが、これほどかけがえのないものだとは思っていなかった。……無論、それは一人では達成できなかっただろう。あの二人には感謝するしかない。
 でも、だからといって焦ることはない。
 食事の場で、以前よりも自然にちょっとした話もできるようになったからだ。
 空いている時間は何をして過ごすのか訊いてみると「部屋ではいつも本を読んでます」と言った。「あと、……いや、いい。そんな感じです」
「そうなんだ。ここにはどれくらい本があるの?」
「少し学術書が多いけれど、書庫に行けば嫌と言うほどあります。見てくるといいですね。読む気も失せると思いますよ」
「それじゃ意味ないじゃん」と思わず言ってみたら、彼女は少しだけ口元を緩めた。なるほど、これはジョークだったのか。少しずつ分かってきたかもしれない。
「それなら」僕は勇気を出して、また大胆な提案をしてみた。「もしよかったら、ちょっと案内してくれたら……なんて」
 若干の間の後に「……分かりました」と承諾があった。

 三部屋分くらいをぶち抜いたそこは、学校の図書室よりいくらか大きい。だが天井も高く、そこのいっぱいまで本棚がそびえているので、確かに蔵書は数えられないくらいだ。いちばん上の段とか、どうやって取るんだろう。
 その疑問を察したのか、朋佳は部屋の隅にある台を指さした。それでも彼女の身長ではなかなか怪しいかもしれないが……と思っていたら、さっそく台を持ってきて、本を取ろうとした。でも少し危なっかしい感じだ。右腕をいっぱいまで伸ばしているが、いいところで背表紙をひっかいて、失敗する。
 何度目かのとき、身体の芯がふらふらしているのに気づいた。彼女の左脚が台の縁からはみ出そうになっている。落ちる!
「あ――」と彼女は抜けた声を出したが、間もなくバランスを崩して、後ろ向きに――
 そのまま僕は、彼女の身体を抱きかかえた。
「……なんで」と、本棚と僕の顔をきょろきょろ往復する視線。
「危なかったから、後ろで構えてたんだ」
 僕の腕の中に納まった彼女の身体は、ひどく軽くて、身構えていたぶん拍子抜けするほどだった。
「怪我はない?」
 彼女は「たぶん。大丈夫です」と言ったが、まもなく少し顔を歪めて、こめかみを抑えた。頭を打ったのかと心配したが、やはり「大丈夫」と繰り返した。
「少し、立ちくらみがしただけだから……」
「なら、よかった」
「その」と言いかけて視線が泳いでから、逃げられないのを悟ったかのように彼女は横目で小さく「ありがとうございます」と言った。
「……あの」
 その様子に見とれていた僕は「ごめん!」と慌てて身体を下ろした。
 僕から離れた朋佳はそこで一度何かを拾うように屈んで、素早くそれをしまう。何だったのだろう。
 それから僕に後ろを向いたまま、黙りこくっている。
「どの本か教えてくれたら、僕が取るから」
 そう声をかけたが、反応がない。
 訝しみながら顔の前までやってきたとき、我に返ったかのように、彼女は「――!」と、びくりと震えた。相手もまた、我を忘れていたようだ。
「あ……あんまり気にしないでいいよ」とフォローしてみるが「分かった」とだけ言うなり、彼女は他の棚の方に向かってしまった。途中で足を止めて、本の名前を告げてから、本棚の陰に消えていった。

 彼女に言われた本を取る。それはレイモンド・チャンドラーの『ロンググッドバイ』。
 これを彼女は読みたかったのだろうか?
 でも、帰りがけに僕がこの本を渡そうとすると――「いいです」と言って僕に返した。
「そっちが、持っていて構いません」
 ……もしかすると、僕に本を選んでくれたのではないか。そう気づくのに、しばらく時間がかかった。
 それから僕は暇を見つけてこの本を読み、時間を潰した。

 雪は止まず、いつ帰れるかの目途は一向に立たなかった。青山さんによると電話も繋がらず、僕たちは連絡手段も絶たれてしまっていた。ちなみに来た時から当たり前に察していたが、この建物にインターネットは最初から通っていない。
 数日間、僕たちは三人でゲームに興じながら、ほんの少しずつだが打ち解けた。まず、僕が野矢さんに抱いていた気まずい抵抗感のようなものが、かなり薄くなっていることに気づいたときは驚いた。
 彼女はすごく博識な人だったが、それは非常にバランスの悪いもので、科学――それも専門範囲に限られていて、社会常識と呼べるものがおよそ欠如していた。現在の消費税率や年号さえ把握していなかったのだ。
 彼女はすこしだけむっとしたように「うろ覚えだけどシャーロック・ホームズも確か言っていたよ。えーと、惑星の数がいくつだか知っていようが、私が生きる上では意味がない、と」と反論した。僕は野矢さんのそんな側面を見ることができて、なんとなく嬉しく感じた。それを悟られたのか、またしても野矢さんはむくれた。
 こういうやりとりができることが、なんだかもう微笑ましかった。

 先生はそんな僕たちの様子を黙って見ていた。それは温かくはなかったが、冷ややかでもなかった。

 朋佳もまた、言葉とは裏腹に、見違えるように明るくなっていった。表面上は取り繕っているつもりかもしれないが、声色や表情ですぐに察することができる。あるいは……それが分かるほどに。僕が彼女に慣れてしまったのかもしれない。……それでも、自身の病に関して一言も発さないのは、徹底していたが。
 距離感を縮めることがいいことなのかは分からない。彼女がある程度心を開くようになってから、逆に疑念が湧いてくるようになってしまったかもしれない。やはり自分は何かよくないことをしたのでは、という気がしてきた。その強引さは、決して褒められた感情ではないのかもしれない。
 だから、僕はそれに決着をつける機会を伺っていた。

 とはいえ、そのチャンスは、またしても予想もしない形でやってくることになる。

 その夜はここに来てから特に雪が強かった。療養所の建物全体が揺れ、風でがたがたと窓枠が音を立て、割れるのではないかと怖くなる。照明も激しくちかちかと点いたり消えたりを繰り返すので、消灯して真っ暗なままにしておくほかなかった。大丈夫なのかと思ったが、これもまたよくあることなのか、誰も起き出してはこなかった。まさか無理に起こすわけにもいかないだろう。
 これではできることも何もない。大人しく眠ることに努めよう、と、ベッドで身を縮めた。とはいえあまりにも寒い。普段は一階の暖炉の暖気があるが、もちろん火事の危険があるので四六時中燃やしているわけにもいかない。
 身体が芯まで冷えていく感触の中で、急激に温度が恋しくなる。それも人工的なものではなく、どこかで、血の通ったものを望んでいたのかもしれない。
 ホームシックというわけじゃない。住まいにも実家にも郷愁は感じない。むしろこの場所の方が落ち着いていると感じるときさえある。ただ、それでも、何かが足りない気がしていた。いや、それは足りないんじゃなくて、むしろ欠けているような――
 そこまで考えたところで、ようやく睡魔が訪れた。

「――」
 まどろみの中で、強風の隙間から、聞き取れないほどの微かな音が聞こえる。
 昔どこかで、様々な音の中で特定の人の声だけ――たとえば、自分の話をしている場合など――が聞きとれる、というカクテルパーティー効果の話を聞いたことがある。それが嘘なのか正しいのかは知らない。ただ、僕の耳に聞こえていたのは幻聴ではなかった。
「ねぇ」
 そして、今度ははっきりとその音が言葉の形を取った。
「起きてますか?」
 その声が誰のものなのかは、すぐに理解できた。目を擦ると、彼女が床にあおむけのまま、ベッドの側面に背中を預けているのが見えた。
「どうも」
「ええ」
 お互い呼びかけ合って、そのまま黙る。
 ……考えてみれば、今まで二人っきりで話したことは、まだなかったはずだ。だからこそ、こんなにも緊張するのだろうか。
「どうしてここに?」
「別に」
 また、そこで会話が終わってしまう。でも、こうしてわざわざ僕の部屋まで来たのだから、意味があるはずだ。青山さんが言っていたことが正しいならば、この子がすることには間違いなく意味がある。
 それなら、今がまたとない好機だろう。そう判断して、口を開いた。
「聞いていい?」
 無言を肯定とみなして、先に進む。
「君の手紙を読んで、僕はここに来たんだ。それも変な手紙だった。でも、僕は言われるがままに来てしまった。考えてみたんだけど、やっぱりこれって変なんだ。でも、僕は君のことにすごく……興味がある。それは好奇の目というわけじゃない。ただ……いや、自分でも何を言っているんだろう。まとまってないな。ただ、帰ってしまったら、すごく大事な……そう、何かの縁みたいな……そういった何かを失ってしまう気がしていたんだ」
「……」
「実はさ。小さい頃の僕、あと一歩で事故に遭うところだったらしいんだ。……何でこんな話するんだろ。家族旅行で乗る飛行機が墜落して、大勢の人が死んだ。僕もその中に入るところだったんだ。どうして乗らなかったかは分からない。僕が嫌だと言ったからだと、家族は言っている。でも記憶がないんだ」
 変な話だろ? と僕は笑ってみせる。
「人生っていうのは、ちょっとした判断の差でも取り返しがつかなくなる、という例だよ。だから今チャンスを逃したら、きっと一生後悔するかもしれない。それが僕の気持ちだ。身勝手でごめん。でも、その上でひとつだけ訊きたい」
「……どうして私がここに呼んだか、なぜ帰れと言っているか――そういうことですか?」
「いや」と否定した。「そういうことじゃない」
「え?」
「訊きたいのは、君がこれからどうしたいかだ」
 僕がこの場所にいることを許すのか。
 それとも、やはり僕を帰したいのか。
 どちらか、その意思を訊きたかった。
「先生に言われたんだ。誰かに過剰に興味を持つことは、自分の脆さを証明していることなんじゃないか、って。意味は……よく分からない。でも、それでも僕が朋佳を知りたいと思うのは、なぜなんだろうね。それでも、その行いがが君にとって大きな迷惑であるのなら――僕は」
「……」
「それに、今度こそ従うよ」

 ――どれくらい経っただろうか。
 ここには時計がないから、針の音で確かめることもできない。人間の時間感覚は曖昧だ。ほんの十数秒だった気もするし、数時間かかった気もする。
 彼女は慎重に考えているはずだ。
 あるいは言葉を選んでいるのか。
 あるいは迷っているのだろうか。
 あるいは、何も考えていないか。
 ……それでも、最終的には、口を開いた。
「言わなきゃいけないことがあります」
 弱弱しく、歯切れの悪い呟きだった。
 今まであらゆる謎が隠されてきたし、手がかりや証拠になるようなことも一切見つからず、ただ不可解だけがあった。だから、ここですべての核心が開かされることに、身構えられていなかった。
 それは、想像すら不可能だったからだ。
 だからこそ、固唾を飲んで見守るしかなかった。
 そして、僕は告げられる。
「私、たぶんだけど、今が最期の瞬間なんでしょうね。なんとなく分かる」
「え……」
「でも、もういいんですよ。どういう意味か分からなくても。幸せでした。最後に言います」
 そして微笑む。

「ありがとう」

 そして、まもなくすべてが壊れた。
「――――――っ、あああああああ!」
 朋佳は叫んだかと思うと、ばたりと力なく床に倒れ伏した。そのまま彼女はピクリとも動かない。死体のように、動かない。
 あたりは死んだように、静かになった。

 

4 - シャーロット

「朋佳‼」
 揺すって呼びかけても応答はない。とはいえ、彼女を放置したまま助けを呼ぶのも躊躇われる。どうするか必死で頭を回転させると、先生は夜でも仕事をしている――という野矢さんの話を思い出した。
 僕は彼女を両手で抱き上げると、そのまま一階まで運んでいった。

 先生の態度は非常に冷静だった。
 急いで処置が始まる。彼女に何が起きているのかは、先生にはある程度理解できているようだった。まもなく青山さんも呼ばれ、「君は待っていてくれ」と言い残したまま、彼女は担架で運ばれていった。
 僕は無力だった。今ここで、彼女にできることなど何もなかった。

 数時間後、ようやく僕は青山さんに先導されて、朋佳と再会した。
 彼女の容体はある程度快方に向かっているようだったが、未だに意識は戻っていなかった。
 初めて通された真っ白な大部屋で、人工呼吸器(そんなものがあったなんて、知りもしなかった)や点滴、それから僕には理解できないいろいろな器具に繋がったチューブ――それらをつけられた彼女が横になっている。
 この建物にもっとも似合わない、近代的で真っ白な、室名も書かれていない大部屋に入ると、先生と野矢さんがいた。――この療養所の住人全員が揃った。僕たちは、ベッドに横になった朋佳を囲うように立っている。
 朋佳は、倒れたときと同じ状態のまま、身じろぎひとつしない。
 
 先生はポケットをまさぐってから手を出して首を捻ったが、それきり立ったまま黙っている。
「説明してください」と僕はにじり寄った。
 じっと僕の方を見る彼女は、何も言おうとしない。
「もう、これ以上無視することはできません」
 感情を押し殺すように、続ける。
「僕は今までいろいろなことを隠されてきました。実際、僕についての疑問は何一つ解消されていません。先生は、僕が彼女について知ることに何か意味があるのか、と訊きましたが――今では間違いなく断言できます。僕は彼女の友人です。だから聞かせてください」
 それでも先生は引かなかった。
「後悔するぞ」
「構いません」
「それを彼女が望んでいないとしても?」
「そうかもしれません。でも――」
 そこで僕は、ついに限界になった。

「いい加減にしろと言ってるんです!」

 僕は三人を交互に睨みつける。
 全員が、ひどく暗い表情をしている。先生だけではなく、いつも朗らかな青山さんも、常に余裕を崩さない野矢さんも。
「あなたたちに心配される筋合いなんてありません。僕は彼女から何かを打ち明けられるところでした。やっと――やっとです。そう、ようやく心を開いてくれたんです。なのに、こんなのないじゃないですか。あなたたちは、そうやっていつもいつも人をはぐらかして、都合よく彼女の意思を代弁して逃げてばかりです。こんなこと、もうやめにしましょうよ。僕は、もう朋佳にとって、赤の他人ではありません。たとえ彼女が何と言おうと、僕にとって、大切な人なんです。だから――」
 黙っていられなくなったのか「香苗」と野矢さんがついに口を開いた。
「もう、その時だ」
「……」
「彼の言うとおりだ。お前の秘密主義に私たちは今まで付き合ってきた。だが、もうそんなことをやっている場合ではない」
「それで、彼が一生消えない重荷を背負うとしてもか⁉」
 ……先生が、感情をあらわにした。
 それは、恐らく僕が見てきた中で、今が初めてだった。 
 だが、野矢さんは動じなかった。
「それを議論するのは、私たちじゃない。彼だ」
「青山くんはどう思う?」と、先生は青山さんを睨みつける。しかし、彼女もまた気圧されることはなかった。静かに頷いてから「委ねましょう」と、はっきりと声に出した。「彼に」
「……」
 先生は、最後に朋佳に目を向けた。未だ目を覚まさない、彼女に。
 それから――ついに、決意したようだった。

「脳腫瘍」
 そう、彼女は告げた。

「彼女の症状を説明するのはすごく難しいが、君が初めて来たときに青山さんから聞いた話の延長で理解するのが、もっとも分かりやすいだろう。――君は離人症患者の時間について『パラパラ漫画の一枚一枚がバラバラになって、動いているように見えなくなる』と言った。彼女の場合は――もっとひどい」
 さきほどの激情が嘘のように、淡々と先生は話し続けた。
「彼女は、それら一つひとつのページが、てんでバラバラな順序で現れるような――そんな人生を送っているんだ」
「それは――」
 ここで生きていない。
「もっとも、そんな瞬間瞬間ではない。……例えば彼女が九歳だったとする。ある日突然彼女は十三歳に飛ばされる。そしてそこでしばらくが経ったとき、今度は三歳になっている」
「ちょっと待ってください。もしそうだとして……記憶はどうなるんですか?」
「維持されるよ」と彼女は付け加える。「だから、何歳のときでも、精神年齢は若返らない。そちらは通常通りに年を取る。ただ、生きている時間だけが飛び飛びになる」
「じゃあ、その《移動》はどのように起きるんですか? 適当にですか? それとも彼女の意思でコントロールできるものですか?」
「前者だ。タイミングも分からないし、飛んだ先にどれほどいられるかは分からない。ある時期からメモを取っているだろうから、ある程度は把握しているだろうがな。つまり、メモの方は通常通りの時間が流れる世界にいるから、それを見つけるたびに前回どの時間に何日間いたかを把握できる。分かるかな?」
「……また質問させてください。その飛んだ空白の時間を、再び経験することはあるんですか?」
「ない」そう先生は即答した。「だから、通常の人間が一生を一本道で過ごすように、飛び飛びに人生でのすべての時間を生き切ってしまえば、それで彼女は消える。それが死と呼べるものなのかは、定義によるかもしれないがな」
 僕はその場にいる他の二人を、もう一度見た。
「……この説明に、間違いはないんですね」
「ああ」と野矢さんがいい、青山さんも頷いた。
「ここまで僕は、あなたたちが言っていることが正しいという前提で聞いてきましたが、ひとつ疑問があります。先生、その症状は誰が確かめたのですか?」
「基本的には朋佳ちゃんの自己申告さ。一応それに対応しているような症状があり――それが、今彼女を蝕んでいるものだ。それが――脳腫瘍だ」
「ああ」と野矢さんが話を継いだ。「もう少し込み入った話は後回しにしよう。ただでさえ君は混乱しているからな。肝心な話をすると、彼女の腫瘍が、《移動》の症状と関連があるのではないか――そう我々は推測した」
 腫瘍が、病気と関連している……?
「それは証明できるんですか?」
「不可能だ。だから仮説でしかない。ただ――摘出などの手術はここに来る前に行われたが、それでも彼女の申告では《移動》が続いている。だから、もし腫瘍が関連しているとしても、それは原因ではない。副産物としての結果だろう。ゆえに、これ以上の証明は不可能だ」
「だから、最悪のケースでは――すべて彼女の狂言や妄想の類であるという可能性もあります。脳腫瘍による圧迫はもとより、病気に対する恐怖などから起きた精神的な症状であるかもしれない――それが、精神を専門にする私が呼ばれた原因です」青山さんも、またそう語った。
「だから、この病を特定することは困難なのさ」そう先生は結論づけた。「私たちの研究は完全に無視され、嘲笑され、ついにはこんな辺鄙な場所まで追い込まれたというわけさ」
 確かに、彼女たちの説明に矛盾はなかった。しかし、差し迫った問題はそこではない。
「彼女はどうなるんですか」
 三人とも黙り込んだまま。それは、絶望的なものを暗示させた。
「答えてくださいよ」
「……中島くん」
「はぐらかさないでください! 彼女は、朋佳はどうなるんですか! 助かるんですか? ……助からないんですか? はやく言ってください、はやく、ねぇ……」
 哀願するように僕は言葉を続けたが、そこから先は、言葉にならなかった。
「朋佳ちゃんは、最初から覚悟を決めていた」
「……覚悟?」
「そうだ。ここで死ぬという、覚悟だ。だから途中から一切の治療を拒否して、私についてきた。ここにやってきた。この療養所を死に場所にするつもりなのだよ」
 ――部屋の空気がすべて抜けて、窒息しそうだった。
 最初から、彼女は助からないつもりだった。それを分かっていたからこそ、僕に冷淡な態度を取っていたといのだろうか? それなら……僕は、とんでもないことをしてしまったのかもしれない。彼女がもう誰とも親交を結びたくなかったとしたら、それは――
「……僕は」
「はっきり言おう。朋佳の命は、もう長くない。君が来た時点で、いつ倒れるかも分からない状況だった。私たちだって、力になりたかった。だが、たとえ解決する手段があったとしても、彼女は拒否していたんだ。もう疲れていたんだろう。自らの《移動》に振り回される人生に。そして、もしかすると――」
「そもそも、もう彼女は今際を見てしまったのかもしれない」
 そう、野矢さんはぽつりと呟いた。
「え……?」
「だから、もう彼女は、一度人間としての『死』を経験してしまったのかもしれない、ということさ。今この瞬間のように、もう先に死ぬ間際の時を生きてしまったのならば、いつ死ぬかさえ、既に知っていることになる」
「そんな……じゃあ、そもそも今こうやって彼女を延命させているのには、何の意味もないってことですか? 全部、運命みたいに決まっているって言うんですか? ふざけないでください。そんなの、そんなの……」
「中島くん。一旦落ち着いてくれ。我々は――」
「うるさいっ!」
 僕は叫んでいた。
「朋佳を救う方法は何もないんですか? 本当に? 本当にないんですか? 僕にできることは、こうやって彼女が死んでいくのをただ見ているだけなんですか? こうやって呼ばれて、人の死に目を見るために、僕はここに来たって言うんですか? 傑作じゃないですか。僕がこんな道化だったなんて。……ああ、分かったかもしれません。あの手紙は、そもそも朋佳のものじゃないんですね? あなたたちが、勝手に用意したんでしょうね。彼女を看取らせるためですか? 自分たちはそれを隠して、僕に押しつけるためですか? どうして僕を選んだのかは知りませんけど、まぁそんなのもうどうでもいい――僕のことはどうでもいいです。ただ、そうやって自分たちだけは手を汚さないで……僕が何もできないのを知っていて、朋佳の人形として用意したんですよね。僕は、僕は――それを知っていたなら――なんて馬鹿なんだ」
「中島さん」と青山さんがかけ寄って僕の肩を揺するが、「放してください!」と怒鳴って振り払った。その瞬間に、
「しっかりしろ!」
 ――先生が初めて、感情をあらわにした。
「私たちにできることがあると思うか? 彼女は死を選んだ。言ったはずだ。君に強さはあるかと。私たちにはあると信じている。君は何様だ? 朋佳にとっての何なんだ? それを冷静に考えるんだ」
 朋佳のもとに駆け寄ろうとした足が、その言葉で止まる。
 僕は。僕は、僕の弱さは――
 ――その瞬間、激しい頭痛に襲われ、視界が真っ白になった。

 目を開けると、木目の天井が映る。
 僕は横になっているのだ。どこに? そう、ベッドに――そうだ。僕はさっき、あの部屋で朋佳を見ていて――それで、三人から話を聞かされ、僕は意識を失って。
 そして、ここにいる。
 誰かが運んだのだろうか。青山さんかもしれない。
 どれくらい前のことなのか分からないが、先ほどを思い出す。
 僕は我を失っていた。自分でも、そう思う。
 けれど、まだ絶望するつもりはなかった。いや、――そうしなければ、もう潰れてしまう。
 滑稽だ。幼稚なヒロイズムだ。女の子を救うなんて、今どき三文小説でも流行らない。それでも、僕には朋佳の存在がすべてだった。
 拳を握り締める。でも、それをどうしたらいいのかわからない。手段もない。ただ、諦められない、諦めてはいられない――熱病のように、浮かされていた。
 部屋は冷えていて、息を吐くと白い煙が微かに立ち上った。ぼんやりとそれを眺めていると――その煙が、ひとつだけではないことに気づいた。
 僕は痛む頭に片手をかけながら、ゆっくりと身体を起こす。そこには――
「起きたかい」
 野矢さんが、いた。

 彼女はあの時の朋佳のように地面に寝そべって、上半身だけベッドの縁にもたれさせている。
「――野矢さん」
「大丈夫かい? あの後君は倒れ込んだから、そのままここに運んでもらったのさ。どこか痛いところはあるかい? 頭を打ったようだし、一応、氷嚢は持ってきたよ」
 この寒さじゃさほど溶けないからね、と言って、僕にそれを渡す。頭? ああ、床にぶつかったのか。その前から頭痛がした気もするが、あまり思い出せない。激高して血が上っていたせいかもしれない。
 しばらく、お互い黙ったままだった。
 やっと口を開いたのは、僕の方だ。
「……どうして、ここに来たんですか」
「聞いてほしい話があるからさ」
 彼女はそう切り出した。
「このことを君に話すべきか、迷った。きっと香苗に言わせれば、朋佳にとって無責任で『弱い』ということになるかもしれない。でも、君の言葉を聞いて思った。君が望んでいるにもかかわらず、このまま彼女を慮って、それを言い訳にし続けるのはもうやめたい」
 それが弱いというならそうなんだろうな、と彼女は小さく息を吐いた。
「だが私たちは秘密主義が過ぎた。だから、私が言えることはすべて話そう。――ただ一つだけ。これを聞いても、後悔しないかい?」
「ええ」
 僕は即答した。
「……分かったよ」
 野矢さんが喋りはじめたのは、こんな内容だった。

 まず、香苗も言っていた通り、私は物理――それも理論方面の人間だ。だからこの病気について語る際も、そういう方向性になるのは承知してほしい。
 さて。どうしようか。
 いくらか話をSF的にしてみたい。その方が分かりやすいからだ。
 まず単刀直入に言わせてもらおう。朋佳ちゃんを救う可能性は――私の見立てならだが――理論上はないこともない。無論言っておくが、理論上だ。これを聞いたからと言って、助かる見込みは変わらない。
 だが、先に言ったように、君にはすべての情報を公開しなければならない。だから話す。
 ――さて、朋佳ちゃんの病は、時間をとびとびに生きてしまう、ということだった。もしもそれが妄想の類ではないとして、四人で話したとき、君は「まるでこんなの運命だ」というようなことを言ったよね。つまり、未来を生きたことがあって、死ぬことさえ知っているならば、それはもはや、決定論――つまり、もうこの人生を変えることはできない、そういうことになる。
 だが、君はこんな場合を見落としてはいないかい?
 たとえば――朋佳ちゃんが、まぁ何歳でもいいが……ある日、ちょっとした怪我をしている状態で目覚めたとしよう。そして次のジャンプで、その一日前に飛んだ。それで、《移動》後の彼女は注意して怪我を避けようとする。すると――どうなると思う? そう、未来は変わることになる。
 つまり、別の世界になった、と解釈できるわけだ。そもそも、彼女が巻き戻った世界は、寸分たがわず同じ場所だろうか? どんなに同じように生きても、必ずその後の自分とずれてしまうんじゃないか? そうなると、何もしなくてもほんの少しずつ違う世界を彼女は生きていることになる。
 だから、この病の患者は単に時間感覚だけが異常なわけじゃないんだ。そもそも、根本的に、生きている『世界』が違うのさ。
 もう少し詳しく、突っ込んだ説明をすることにしよう。そうだね、非常に小さなスケールの世界では奇妙なことが起きるんだ。
 私は雑な人間だから、誤解を生むのを承知で、あまり学問的でない言葉を使うよ。
 イメージでいいから、聞いてね。
 平行なふたつの細いスリットに光を当てると、その後ろには干渉縞という模様ができる。それは光が波だからだ。では電子を一個ずつスリットに向けて放ち、それを合計するとどうなるか? ……それでも、干渉縞は現れる。でも一回一回の電子を観測すると、それはどちらか片方のスリットを通っているんだ。
 でも話は次で繋がるよ。
 一般的な解釈では、波は粒子がそこに存在する確率の幅のようなもので、それを実際に観測(この言葉も厄介だが、まぁいい)すると、そこで場所(と言っておこう)が一点に定まる。これは波が『収縮』したと表現される。とはいえ観測と収縮が繋がっているかは分からない。ただ、そういうことが起きるだけ。よく誤解されがちなので注意するが、これに人間の意志とかは関係ない。人間が意識して何を観測しようと、それは関係ない。
 さて、ここからは私の突飛な推論が始まる。証明する手立てはない――だから、君が与太話だと思うならば、受け流してほしい。
 ある解釈では、波のさまざまな確率は、ひとつの宇宙を別の側面から見た世界によって説明される。勘違いされがちだけど、これは並行世界とは違う。他の時空に他の世界が常時実在しているわけじゃない。ただ、別の側面から見た結果、違う世界のように見えるんだ。
 とはいえ、見ようによっては、その側面が私たちに見えているこの世界と違う――そういう視点も、ありうる。
 さて、次の話題に移ろう。『量子脳理論』という言葉がある。今ではほぼ否定され、疑似科学として激しく攻撃される理論だ。これは、人間の意識を説明するとき、量子現象を用いる考え方だ。素粒子にはもともと意識を生み出す可能性のある性質のようなものが宿っている、と仮定する。次に、脳には微小管というものがあって、ここで量子過程――つまりさっき言った『収縮』が起きることによって、現在私たちが持っている意識が生まれる――そういう仮説だ。難しければ、量子にまつわることが脳の中で起きている、程度でいい。
 ただ、この説には致命的な欠点があるとされる。脳の大きさはどう考えても大きすぎる。また、その他にもさまざまな条件を満たしていない。温度は高すぎ、脳の構造は複雑すぎる。しかし、この理論と提唱者たちは、ミクロではなくもっと大きなマクロの世界でも、量子論で説明できる現象が起きている、と主張する。
 なぜこの話をしたと思う? 私はこれを信じているわけではない。だが、これを時感障害を説明するために、強引に当てはめてみようという戦略さ。
 この病気の患者は、脳に腫瘍が発生する。それがもしも、この量子脳理論と関連しているとしたら? 患者の脳が普通の人間と異なっており、もっと大きいマクロな場所で量子的な現象が起きていると考えたらどうなる? それによって、彼女が時間の中に解き放たれているとすれば?
 そう、それによって彼女に見えている世界は大きく変質し、波の中から粒子を一点に確定させるように、別の場所と時間の人生を生きることができるのかもしれない。
 思い出してほしいが、『収縮』には人間の観測等は一切関係ない。だから朋佳ちゃんのジャンプが自分で制御できず、勝手に起きるのも、説明できるとしたら?
 ……こんな話は出来の悪いSFでしかない。実際、私たちはこの『病』の研究をしているというだけで迫害され、こんな場所まで追いやられることになった。私のこういった理論は、間違いなくトンデモと呼ばれるだろう。……自分だって専門家だ。信じられるかと言われれば――それは、今まで学んできた科学への、冒涜だろう。
 それでもなぜこんなことを考えたのか? それは、朋佳ちゃんを救いたかったからだ。なんとかして、彼女を助けたかったからだ。分かるかい? 彼女は私の友人なんだ。
 だが――逡巡は今もある。こうして伝えてしまった以上、君はなにがしかの危険なことをするのではないか――という危惧がある。それは私の望むところじゃない。だってね。言った通り、私は君のことが、好きだからさ。

 僕は、噛み砕くように彼女の言葉を頭に詰め込んだ。
 正直、話は三割理解できているかも怪しい。
 だが――野矢さんの気持ちは、痛いほどに理解できた。
「ひとつだけ、訊いていいですか」
「ああ」
「朋佳は、このことを知っているんですか」
「どの程度かはわからないが、おそらく。少なくとも、出来事を変えることができる、という事実には、とっくに気づいていると思う」
「なら、彼女はどうして諦めているんですか? それでも見込みがないんですか?」 
「ああ。少なくとも、彼女はそう見積もっている。なぜなら――」
 野矢さんは、振り絞るように、言葉を吐き出した。
「もう、どんな世界でも助からなかったと、自覚しているからだ」
「……」
「いいかい? この病の患者は、一度生きた時間を再び体験することはできないんだ。だから、たとえどんなに今いる世界を改変したとしても、繰り返せばいつか必ず可能性は尽きる。彼女は過去に飛ばされるたびに、別の行動をして死を免れようとした。だが――それは、一度も実現しなかった」
 またしても――運命が現れたというのか。
「香苗が言った通り、もしも人生を生き切ってしまえば、この病の患者の意識も消滅する他ない。それは他の世界でも同じだ。すべての可能性が出尽くせば、彼女は――永遠の闇に消えるだろう」
「じゃあ……その限界は、いつなんですか?」
「おそらく彼女は、もうすぐ――下手をすれば今回だと感じているのではないだろうか。直感としてだが、そういうものを感じるそうだ。実は症状の進行に従って《移動》の間隔はどんどん広がって、回数も減っているそうだ。最初は一日さえ過ごせないことがあったそうだが、この世界では、十二歳からここに来る直前に起きるまで一度も《移動》はなかったそうだ。理由は分からないが、彼女はそれを終わりの予兆だと考えているらしい」
「……」
 僕は、野矢さんの話を聞いてどう思っただろうか。
 絶望だろうか。おそらくは、そうなのだろう。もしかすれば、知る前よりもっとひどい現実を叩きつけられたのかもしれない。彼女がくれたのは、朋佳を助ける方法なんかじゃない。むしろ、朋佳を助けられない理由だ。
 それでも、僕は――僕は、どうすべきなのか。
「ねぇ」
 野矢さんは、言った。
「繰り返すけど、私は君のことが好きだ」
「面白いから、ですか」
「それもあるよ。でも……なんでだろう。まったく知らない人間なのに、君を見ているとすごく楽しくて、嬉しい。そして、悲しい。何かが悲しい」
 彼女はそう呟くと、立ち上がって僕の方を見た。
「でも、今は朋佳ちゃんのことを考えるときだからね。あまり面白くはならないよ」
「……そうですね。でも、まだ待ちます」
「もしかして、彼女が目覚める可能性にかい?」
「ずっと考えたんですけど、話してみなければ何も分かりませんから」
 そうか、と彼女は頷いた。
 それから、ぽつりと声にならない何かを言って、そのまま野矢さんは去っていった。
 口の動き。
 彼女が「朋佳ちゃんを頼む」と言ったように、僕には見えた。

 それから数日間のことはよく覚えていない。まるでコマ落ちのように記憶から抜け落ちている。ただ一つ確かなのは、時間は流れていく、ということだ。それは無情にも、万人に、平等に。
 最後には、彼女だって逃れられない。
 だから僕が祈っていることは、ひどい徒労なのかもしれない。
 それでも僕に諦めるという選択肢はなかった。僕は彼女が目覚めないという可能性を信じなかった。あるいは……単にその祈りに依存していただけなのかもしれない。
 けれど、結論だけを言えば。
 神様は、いた。

 部屋に飛び込んできた青山さんから話を聞き、狂ったように走って治療室に向かった僕を出迎えたのは、上半身を起こした朋佳の姿だった。それ以外、部屋には誰もいない。
「……」
 彼女は少し遅れて気づいたのか、一言も発さないまま、僕に目を向けた。
 ――思わず声をかけるのを躊躇う。
 抜け殻の、ようだった。
 彼女の肉体からは、完全に精気が抜けている――それが、はっきりと見て取れた。
 間違いない。
 これが、最後の機会になるだろう。
 端的に言って、彼女は手遅れだった。今この時間は、ロスタイムのようなものだ。いつ終わるとも知れない。それでも――僕は、目覚めただけでも、嬉しかった。それが、一瞬のことであっても、こうして話せるかもしれないだけで、十分だった。
 僕もまた、壊れてしまったのかもしれない。けれど、もう何もかもどうでもよかった。
 息を吸ってから、足を踏み出す。
「久しぶり」
 彼女は僕の言葉に驚いたようだが、力なくこくりと頷いた。
「聞きわけが悪いから、残っちゃった。まだ朋佳とぜんぜん喋れてないからね」
「……」
「僕は弱いのかな」
「……」
「君のことを考えてしまう僕は、やっぱり身勝手なのかな」
 彼女は答えないままうつむいて、手を組んだりほどいたりしながら、言葉を探しているようだった。
「誰かから、話は聞きましたか?」
「……うん。たぶん。全部」
「そうなんだね」
 私、失敗しちゃった。彼女はそう呟いて、薄く微笑した。
「分かるよ。でも、見捨てることなんてできない。僕に気を遣ってくれたのは分かるけど、でも、もういいんだよ」
 その言葉に、彼女は少しだけ目を見開いた。それから口を開いたまま数秒間黙ったが、まもなく、小さく「……そっか。そうなんだ」とだけ言った。
「全部……本当のことって理解で、いいんだよね」
 頷かれる。
「私がつけ足すことは、ほとんどないと思います」
 その言葉は、僕を見透かすようだった。
 けれど。
 僕の目的は、彼女を問いただすことではない。
「ねぇ、もう一度ブロックスをやらない?」
 僕はそう提案した。
「……何それ」
「いいから。リベンジをさせてほしい」
 言葉の意味が分からなかったようだが、盤とピースを持ってくると、単純な彼女は少しだけ闘争心という名の元気を取り戻したようだ。「最後、ってことなんですね」
「負けないよ」「こっちこそ」
 そしてゲームが始まる。二人だから、お互い二色のピースを担当して、その和を競う。
 相変わらず彼女は強かった。でも、僕の方も一切手を抜かなかった。
「あ……」彼女の顔が険しくなる。僕に繋がりを妨害されたのだ。
「どう?」
 朋佳は「なんで……?」と、声にならないほど小さく呟く。驚いているのだろう。
 無我夢中で一ゲームを終えたときには、勝敗は歴然としていた。
「悔しいなぁ」と朋佳は一人ごちる。「ずっと練習でもしてたんですか?」
「まさか。朋佳が弱くなったんだよ」
 その挑発に、彼女は案の定乗ってきた。
「もう一回」

 十回プレイした結果、すべてのゲームで僕は勝利した
「なんで……?」
 朋佳は、明らかに動揺している。こんなことがあってはならないとでも言いたげに。
「ねぇ、朋佳は。僕には仮説があるんだ」
「……仮説?」
「そう。そして、ここでその証明をした」
 朋佳は訝しんだように、しげしげと僕を見る。
「初めてブロックスを遊んだとき、僕は何回も負けた。朋佳は『やったことないから』と、フォローしてくれたよね」
「……それがどうしたっていうんですか?」
「あれは、嘘なんだ」
 嘘。そうだ。僕はある意味で、彼女を嵌めたのだ。
「君は今、混乱している。なぜだろう? 素人が突然強くなったから? いや、いくら練習したとしても、こんなに短い期間でここまで完勝できるかは分からないだろう。……僕は大学のサークルでボードゲームをやっていた。だからブロックスも当然知っている。だから負けるはずがないんだよ」
「……大学?」
「そう。君は『どんな手を使うか全部知っている』とさえ言った。考えてみれば、あからさまなぐらい君は僕を知っているような態度だった。だから、最初から赤の他人だとは思っていなかった。でも――」
 朋佳は、ぽかんと口を開けている。
「君がブロックスに自信を持っている様子を見て、僕が大学で何をしていたかまでは知らないんじゃないかという気が咄嗟にしたんだ。つまり、僕と君が出会っているとしたらその前ということになる。そして君は十八歳で、僕は二十一歳。高校時代まで針を戻せば、一年と三年。ストーカーでもない限り、必ずそれまでのどこかに出会っていることになる。だけど、僕の人生の記憶にはそんな子はいない。となると――」
 僕は、自分なりの結論を告げた。
「君と僕は、別の世界で出会っているんだろう?」
「……」
「そこの世界の大学での僕は、きっとボードゲームサークルには入っていない。あるいは、そもそも君が高校以前の僕しか知らないかの、どちらか。――採点してもらっていいかな」
 彼女は長い息を吐いてから「……そうです」と返答した。
「続けていいかな」
「はい」
「それじゃあ、これで僕と君の縁は証明できたと思う。だから呼ぶことができたのも分かる。ではなぜ帰らせようとしたのか? それは、きっと僕を自分のことに巻き込みたくなかったからだ。でも君は手紙で僕を呼んだ。この矛盾をどう解消するか。……これは単純な答えだ。つまり、手紙を出したことを取り消したかった」
「手紙……?」
「そう。だから冷淡な態度を取ったんだろう?」
 ぴくり、と眉が動いた。「私は――」
「もしかしたら、君は僕に会いたかったのかもしれない。けれど君は僕と会ってみて、自分のことを何一つ覚えていないのに気づいた。だから僕に冷淡な態度を取った。自分の予想と違う、僕が朋佳を知らない世界になってしまったことを悟ったんじゃないかな」
「……」朋佳が僕を見上げる。
「でも、身勝手な理由じゃないと思うよ。もしそうだったとしたら、まったく君のことを知らない僕を、巻き込みたくなかったのはよく分かる。だから――」
「そこまでにしてください」
 彼女が僕を制した。
「そっか。うん――そうなんだ」
 そして、小さく呟いてから、僕に笑いかけた。
「騙して、ごめんね」
「いいんだよ。朋佳は悪くない」
「――そっちこそ、気にしないでいいですよ」
 そう言って、寂しそうに遠くを見た。

「最後に、お願いをしていいでしょうか?」
 同様も覚めあらぬうち、ぼんやりした口調で朋佳は僕に提案する。
「海が、見たいです」
「海?」
「そう。冬の海。見たことないから。どんな感じなんだろう、って」
「いや、それはダメだ」僕は即答した。「こんな容体で、そんなことしたら――」
「そんなの、もうどうでもいいよ。私は死ぬんだし」
 そう言ったまま、彼女は点滴を外す。「朋佳!」
「ねぇ、私が好きなんですよね?」
 そう言って。意地悪に笑う。
「それなら、私の言うことを聞いてください。――こう言えば、絶対弘樹さんは断れない。知ってますから」
「……なんだって?」
「もう手の内は全部知ってます。まぁ、ゲームでは負けちゃったけど」
「ねぇ、朋佳、待ってくれ。それってどういう」
「答えてください」詰め寄る僕を彼女は制した。「行くのか、行けないのか」
 僕は黙る。ここで彼女を連れていけば、もはや殺人に近いだろう。だが、彼女にとってみれば、安楽死のような類に思えるのかもしれない。でも、でも――だが、説得の言葉が見つからない。悔しいが、僕は確かに今まで彼女の言うことの従ってきた。そして、今もそうなるのか?
「もしそうするとしても、先生たちが黙っていない」そう僕は必死に反論した。
「それなら問題ないです。ここを見つからないように出られさえすれば、大丈夫」
 ほら見て、と言って彼女は僕に何かを投げた。反射的にそれを取ると――そこには、鍵があった。恐らくは、車のキーだった。
 目を丸くする僕に、朋佳は悪知恵を働く子供のように、勝ち誇った顔をした。
「運転、できます?」

 そういえば、自分が免許を持っていたことを思い出した。別に使う機会もないだろうから忘れかけていたけれど、まさかこんな機会に利用できるとは思わなかった。
 雪はいくらか収まっていて、数世代前のスポーツカーはすいすいと進む。チェーンがついているとはいえ、スリップしないかだけは心配だった。なにせ、ペーパードライバーも同然なのだから。
「車なんて久々に乗ったなぁ」と、僕のコートに身を包んだ朋佳は楽しげだった。まるで遠足にでも行くかのようなテンションだ。僕はどう反応していいのか分からなかった。
「でも、こういう逃避行みたいなのって面白いですよね。安っぽいお涙頂戴の小説やドラマでしか知らなかったけど、いざ自分が余命わずかになってやってみると、とってもスリリング」
「……」
「どうしたんですか? まだ気にしてます?」
「それは……当然だ」
 僕が朋佳を連れ出す決断をしたのは、結局「彼女が望んでいるから」以外の理由はなかった。野矢さんの言う通りだった。僕はとうに壊れていた。もしかしたらここに来た時点で異常だったのかもしれない。目を覚ますのを待ったのも、あくまで彼女の言葉を聞きたかったからだ。だとすれば、もし朋佳が「この場で殺してくれ」と言っていたとしたら――そう思うと、身震いがした。
「気にしないでいいのに。大丈夫。弘樹さんは捕まりませんよ。それまで私が持てばいいだけ。もしダメでも、三人は分かってくれるでしょうし。証拠も隠滅してくれる。あの人たちは――優しいから」
 だからこそ、困っちゃうんですけどね。そう朋佳はぼやく。
 今は何時だっただろうか。メーター類の中に時計があったので、ここに来てから初めて時間を確認することができた。今は十三時ごろだ。ダッシュボードに見つけた地図でおおざっぱに見積もれば、山を迂回して市街地に降り、高速に乗れば陽が落ちる前までには県の北部にある海岸につく計算になる。そこから少し先には岬があり、こちらも名所のよう。
「いいですね。すごく楽しいな」
 んーっ、と助手席で両手を伸ばしてから、彼女は「いたたたたっ!」と頭を抑えた。
「朋佳!」
「平気です!」
 僕の叫びも、ぴしゃりと打ち消される。
「せっかくの……デートなんだから。もっと明るくいきましょう」
 そうして彼女は、地図と一緒に出てきたCDを取り出して、カーステレオに入れた。
 流れ始めたのは、僕でも聴いたことがあるメロディーだった。
ビートルズ! いいな。先生の趣味ですね」
「……」
「なんて曲?」
「『チケット・トゥ・ライド』。このアルバムは『ヘルプ!』。レコードばっかり聴いてると新鮮ですね。ちょっと風情がないけど。でも今は定額で聞き放題のサービスもあるんでしょう? なんだったけ、さぶ……」
サブスクリプションだよ」僕は答えた。県道に入ったところで、ファミレスが見えた。
「お腹は空いてる?」
「はい」
 駐車場で車を停める。「こんなお店、懐かしいなんてもんじゃないな。あ! ガチャガチャがある。猫だ、かわいい。ねぇ、小銭持ってますか?」ねだる彼女に百円玉を渡すと、片っ端から投げ入れてノブを回してはカプセルを取り、を繰り返す。「ほら、席に行くよ」というと「全然そろわなかった……」と、残念そうだった。
 彼女が食べたのはミディアムのカットステーキだった。注文した時は驚いたが、すぐに平らげてしまったからなおさら驚いた。
「せっかく来たんだから、いっぱい食べなきゃ」と奮起していたようだ。僕はといえば、食欲がないのでサイドメニューのポテトだけを頼んだ。「それしか食べないんですか?」と彼女の側も驚いてしまったようだ。
 ……こうしていられる時間は、すごく尊い。だから、それを大事に使うべきなのは分かっている。そう考えると、確かにこうやって動揺しているのは、彼女にとってよくないことのように思われた。だから「デザート、食べる?」と訊いてみた。
「いいですね。じゃあ私、このビッグサイズパフェで!」
 ……相変わらずだった。

 海が近づくにつれて、潮の香りが鼻につく。
「いよいよですね」
「うん。遊泳禁止だから海岸には入れないと思うけど、堤防を歩くぐらいのことはできるんじゃないかな」
「そんなの無視しちゃえばいいですよ。どうせ最後なんだから。……そうだ! コンビニって近くにあります?」
「……何をするの?」
「買いたいものがあるんです」

 そして今、僕たちは海岸にいる。
「広い」「広いですね」
 目の前には水平線の向こうまで灰色の水が満ちている。それはたしかに大きかったが、重々しい天気のせいか解放感はない。広すぎる焦燥が溶けていき、やがて虚無と混ざり合うような、そんな漠然とした感覚を覚える。カァカァと鳴きながら、数羽のカモメが上空を旋回していた。
「寒い」「寒いですね」
 波とともに音が引いては寄せる、なだらかな砂浜。当然だが誰もいない。立ち入り禁止だから見つかったらどうしようと一瞬だけ思ったが、辺りに人の気配はまったくなかったから、大丈夫だと言い聞かせ、ことを始めようと思った。
 僕たちが買ったのは、バケツとミネラルウォーターの大きなペットボトル、そして――花火。駄目元で店員さんに訊いてみたところ、夏のあまりものがまだ残っていた。「季節外れですけど楽しそうですね」と女性の店員さんは興味深そうだった。「私も混ぜてほしいくらいだなぁ。楽しんでくださいね」
 そして僕たちは、海岸でそれに火をつけようとしている。ちょうど車内にはライター(先生はもともと喫煙者だったそうだ)があって、アイテムはすべて揃ったことになる。
「いくよ」
 合図とともに手持ち花火に火をつけると、ぱちぱちと音を立てて火花が噴き出す。「危ない!」「わっ」と、当たらないように身体を翻すと、なんだかそれだけではしゃいでいるような感じだ。思った以上に煙が出たが、海風のおかげかすぐに飛んでいってくれた。
 パックには線香花火も入っていたので、手持ちの方が尽きると、二人で静かにしゃがんでどちらが長く火玉を落とさずにいられるか勝負した。ここでも朋佳は負けず嫌いで、落ちそうになると僕の方に火玉をくっつけようとしてくる。
 しばらく攻防が続いたが、諦めて彼女に従うと「ほら、これで勝負なし」と機嫌がいい様子だ。少なくとも死人のようだった頃より元気そうだった。……それは、皮肉なのかもしれない。
 厚く白い雲の下、どんどん辺りは暗くなってきた。そんな中で、ひとつになった明るい花火の火が、小さく小さく燃える。
 ……そして、落ちた。
 そのとき不意に鼻の上に冷たい何かが当たった。雨か? と思って上を見ると――それは、雪だった。
 まもなく白いかけらが、銀紙のように辺りに降りはじめた。
「わぁ」
「これはすごい」
 同じ北部とはいえ、こちらではまださほど雪が降っていなかったのだ。ちょうどよくこんな機会が訪れたことに、意味はあるのだろうか。
「……毎日見ていたはずなのに、ここで見るとすごく新鮮ですね」
「確かにそうだ」と頷いた。
 ゴミを片付け終わると、僕たちはベンチに座って景色を眺めた。
「すごいね。冬の海ってこんなに綺麗なんだ」
「ええ……星が綺麗です。懐かしいな」
 海風で舞う雪の一片一辺。
 灰のよう。
 海の上に雪が降るのがこんなにも儚いなんて思っていなかった。きっと海面に落ちたかけらも、また海水に混ざって消えていくのだろう。そう思うと畏敬の念に襲われた。海はすべてを飲みこみ、受け入れる。その途方もなさに、天から降ってくる結晶はなすすべがない。そして、混ざった海水はやがて蒸発し、雲になり、再び空から降るのだ。
 白黒の世界で、お互い言葉もなくに圧倒される。身体に当たって積もる雪も気にならない。
「来てよかった?」
「はい。弘樹さんが連れてきてくれてよかったです」
「寒いし、そろそろ戻った方がいい」
「いいですよ。隣にいてくれれば寒くないです。それともまだ野暮なことを言うんですか?」
 そういうと、素早く朋佳は僕の手を握った。「これで平気」
 観念して、もう少しだけここにいることにする。その手はよそうしていたより暖かく、頭を預けてくる彼女の重さと合わせて、確かに隣にいるこの女の子は生きているのだという実感を僕に与えてくれた。
「ねぇ」
「何?」
「さっき言ったこと、覚えてます?」
 指と指を絡ませながら、朋佳は僕の方をじっと見た。その表情に、息を呑む。
「うん。ちゃんと、覚えてる。絶対に思い出すよ」
「……嘘。やっぱり忘れてください」
「なんだよ、それ」
「いいんです。私のことは、全部忘れて」
 波の音に、彼女の声は今にも掻き消されそうだ。聞いているうちに、なぜか僕は急激に眠くなってくる。
「なんかもう間に合わないみたいです。帰れなくなっちゃった。最後に岬に行きたかったかも」
「え?」
 催眠にでもかかったように、頭が重くなってきて――
「でも、こうしてまた会えただけで、私はもう十分でした。弘樹さんより、私のほうがずっと弱かった。だから結局あなたに折れてしまったけど……弘樹さんはこれからちゃんと自分の人生を生きて。私たちが出会ったのは、何の意味もない――偶然のことです。だから、これでもう――終わり。これからは、全部がうまくいく。私が消えるだけで、この世界は、続く」
 朋佳が何かを言っている。聞き取れてはいるが、言葉の中身はあまり頭に入ってこない。
「だから、もういいんですよ」
「え?」

「ごめんね」
 その一言で視界が暗転する。
 次に目覚めたとき、彼女は――

 僕は朋佳を背負って助手席に座らせ、車を走らせた。
「なんか変だよね。最初から僕は君に、初めて会った気がしなかった。それはおかしいんだ。別の世界で会っているはずなのに、どうしてこうも懐かしいんだろうね――その気持ちは、今になるとすごく強くなってきた」
「……」朋佳は何も言わない。
「きっと病気はよくなるさ。そうしたらどこへ行こう? 今日だけじゃぜんぜん満足してないだろう? 遊園地でも水族館でも博物館でもなんでもいい。いっぱい遊んで、おいしいものを食べよう。旅行に行ったっていいな。あったかい場所がいいんじゃないか?」
「……」朋佳は何も言わない。
「どうした? もう眠いの? そっか、じゃあゆっくり眠るといいよ。もうすぐ目的地だからね。それまでゆっくり休むといいよ。そうだ! ラジオがあるみたいだし、流そうか。BGMがあった方がリラックスできるかもしれない」
「……」朋佳は何も言わない。
 カーラジオを点けると、パーソナリティーがちょうど喋っている途中だった。「~さんからのリクエストです。『寒い時期ですが、春に向かう季節にぴったりな一曲……と思っていたけれど、冬に向けて歩き出す曲だと知ってショック! 英語力がない……』あー、洋楽ではそういうことありますよね。それでは、アズテック・カメラで『ウォーク・アウト・トゥ・ウィンター』」
 軽快なサウンドに乗せて車はスピードを上げて海沿いを走る。
「朋佳。今日は楽しかった?」
「……」朋佳は何も言わない。
「はしゃぎすぎて眠くなっちゃうなんて、子供みたいだな……って怒らないでね。あははは」
「……」朋佳は何も言わない。
 僕たちは柵を乗り越えて、崖の上に立った。
「そうだ。確か『好き』って言ってくれたよね。僕はそれに答えられていなかった」
「……」朋佳は何も言わない。
「ちゃんと言うよ。僕も好きだ。ふふ、やっと両思いだ。ここまで長かった。それもこれも、朋佳が強情だから、こんなに時間がかかっちゃったんだ。――まったく。
 僕たちは岬に到着した。
「最後に、見せてあげなきゃね」
 見えた超常は予想以上に高い場所。壮観だった。高い断崖に波が当たり、ざぁざぁと激しい音がする。この曲がりくねった地形は、きっと長い年月のうちに波で削り取られたのだろう。
 さぁ、行こうか――と彼女の身体を持ち上げた瞬間、何かが落ちた。
 それは一冊の手帳だった。

 

5 - エイジ・オブ・イノセンス

 この記録は、記憶を保持するためにつけられている。
 弘樹さんがこの文章を呼んだ場合、大変なことになってしまうだろう。だから肌身離さず持っていること。適切な場合が来たら、処分すること。

 時間というものが何なのか。未だ誰も、それに答えられた人間はいない。
 神学者であるアウグスティヌスは「私はそれについて尋ねられない時、時間が何かを知っている。尋ねられる時、知らない」という有名な言葉を残しているそうだ。確かに私たちは日々何も考えずに「今は何時だ」とか「あと何時間後に」とか、言葉を使う。そしてそれを特に疑問にも思わない。それが何なのか、立ち止まって考え込む機会さえなければ。恐らくは、世の中の多くの人がその機会を持たないまま、生涯を終えるだろう。
 私も、そんな人生を送るはずだった。

 初めてそれが起きたときのことはよく覚えている。
 それは十二月、十二歳の誕生日の朝。
 振動で目が覚めたとき、家で寝ているはずの私はなぜか電車に乗っていた。
 目を擦って周りを見渡す。ここはどこだ? 夢? それにしてはやけに感覚がリアルな気がする。車内の暖房はあまり機能していないようだ。そこで、自分が半袖なのに気づく。今は冬のはずだ。なぜこんな格好をしているんだ? そう思い、窓の外を見ると、辺りにはさんさんと太陽が照り付けている。……それをぽかんと眺めているうち、ガラスに自分の姿が薄く映っているのに気づく。
 そこでの私は制服を着ている。学校のものだろうか? けれど私は小学生だし、指定の制服がある場所でもない。そこまで考えたところで、そもそもサイズがどう考えても私の背丈と合っていないことに気づく。
 背丈?
 慌てて再びガラスを見て、幼い私はようやく少しだけ自分の状態を理解した。そこにいたのは、自分の顔。けれど明らかに、成長している。
 つまり、これは未来の私だったのだ。

 でも私はさほど動揺しなかった。なぜならこれは絶対にありえないことだからだ。つまり、私が成長していること自体が、夢であることを証明してくれているのだと思った。だから私はとりあえずもう一回寝ることにした。そうすればじきに目が覚めるかもしれない。
 けれど、目が覚めても私はまだバスの中にいた。
 周囲の乗客を見ると、私と同じ学校(中学か高校なのだろうか?)の制服を着ている子がいた。彼女を見ていると、やがてある駅で彼女はそそくさと降りていく。
 まずい気がしたので、慌てて電車から出た。幸いポケットの中には定期があった。どういうものなのかは幸運にも知っていたから、駅を出ることができた。私は慌てて彼女の後を追った。
 
 歩きながら鞄の中をまさぐると、生徒手帳が出てきた。そこには私の学校名が載っている。読めない文字もあったが、学校名、学年、クラス、自分の名前などは当然確認できた。迷ったが、制服姿のまま外でふらついていて補導されたりしたら、と思うと学校に行くのが最もまともな選択肢に思えた。
 クラスに入った瞬間、各自いくつかのグループに集まってわいわいと談笑しているみんなの目が、突然私に集まる。――え? と当惑したが、まもなく視線は外され、通常の空気に戻ったようだった。まさかバレているわけでもないだろう。
 そのことは気にかかったが、まもなくホームルームが始まってしまった。欠席者がいないのが幸いして、全員が席に向かう中を目立たないように観察し、不自然にならないタイミングで最後まで残った場所に座った。果たしてそれは正解だったようだ。
 私の座席は後ろの方だった。振り返ると、掲示板に時間割が印刷されたプリントが貼ってある。一限目は数学。数学? ああ、算数の発展版? いや待て。私は慌てて鞄の中から教科書を取り出してめくる。……何語で書いてあるのかさえ分からない。いや、数式はともかく説明文は日本語なのだが、この頭では意味を汲み取ることなど不可能だった。私は慌てた。授業についていけるはずがない。当たり前だ。どうして私は気づかなかったんだろう? 
 だが、逃げ出す時間はもうない。先生らしき初老の男性が入ってきてしまったのだ。
「ええと、参考書一五三ページの問題は解いてきたかな? 因数分解や二次関数の問題は、一年のまとめとして重要なので、夏休み前の今、改めてここで復習しよう」
『数学』と書かれたノートを開いてみると、該当の問題へのいくつか書いてあった。だがそれは途中で終わっている。
 一人ずつ当てられて、黒板に計算式と回答を書いていく。席順なので自分が何問目なのかはすぐに分かった。数えてみると、ノートの回答はちょうど私の担当するひとつ前で終わっている。――非常にまずい。たった一問だが、どう考えても自分には解けない。
 けれど怪しまれないよう、教壇の方まで行くしかない。必死に頭を働かせる。一時的にでもいいので、何かこの局面を脱する方法がないか。先生は厳しくなさそうだし、忘れた、と言うべきだろうか? でも言い出しにくくて、そしてまごついている間に余計に言えなくなる。どうしよう、どうしよう――そのとき、頭が鈍く痛んで、私は頭を抑えた。ああ、悪いことばっかり――
「永井さん、大丈夫かしら?」
 私のひとつ前を担当する女の子が、こちらのただならぬ様子を心配したのか、呼びかけてきた。そうだ! この機に乗じない手はない。すかさず「すみません、調子が悪くて」と言うとその子は先生に「永井さんの調子が優れないようなので、私が連れていきます」と名乗り出て、二人で保健室に向かうことになった。
 こうして教室から抜け出すことができたが、事態はあまり好転していない。次にどうすべきか? ここから出る? しかし、もしもこの異常事態がもう少し続くとしたら、自分に関する情報を集めておくに越したことはないはずだ。いま考えれば幼稚な狡猾さだが、私は彼女を利用できないか考えた。
 廊下を上履きできゅっきゅっと小さく鳴らしながら歩く。
「まだ頭は痛い?」
「ごめん、送ってもらって悪いけど、良くなっちゃった」
「そう。よかった」
 話に詰まってしまった。そもそもこの子の名前さえ私は知らなかった。しかし、助け船は彼女の方が出してくれた。
「私、永井さんとは前から話してみたかったの。こう言って気分を害されたくはないけど……永井さんってちょっと物静かというか、あんまりクラスメイトとかに関心がないのかしら、と思っていたの」
 ああ、私ってそういう感じなんだ。
「あと、私たちは実は出身の小学校が同じみたいなの。引っ越しで六年からだけだけれど。ほら、ここって遠くから受験する人も多いわよね? だからこういう偶然は面白いわね。で、うっすら永井さんのことを覚えてるかもしれないの。同じクラスだったことがあるのかもしれない。でも受験で中学に上がるときに離れちゃったから、お互い忘れてても仕方ないわね。永井さんは……覚えてないでしょう?」
 同じクラス……? と思ったが、木田なんて名字に身に覚えはない。「うん」と答えるしかない。やはり、これは夢なのだろうか? これは証拠になるだろうか、と頭の隅で考える。
「でもせっかくの機会だし、こうやって話すのもいいでしょう? ほら、こういうのって……袖振り合うも他生の縁?」
 タショーノエン? 
 思わず「何それ?」というと、彼女は「えーと、着物と着物の袖が触れ合ったら、それは前世からの因縁を表していたので、武士たちは斬り合いをしなければいけなかったの。ほら、トレーナー同士も目が合ったら戦うわよね?」
 明らかに嘘くさい。まるで説明になっていなかった。
「じゃあ、私たちは戦わなきゃダメなの?」
「でも、敵と友は似たようなものよ。いい友人というのはいつだってライバル。でも、敵を知ることは友を知ることにもなるわ。そうなれば百戦危うからずね」
 ヒャクセン……戦争のことか? って、結局倒すのか……。
 この人、なんか面倒だ。
「まぁそんな話はどうでもいいわね。どう? 少しは仲良くしてくれるかしら?」
「う、うん」と言ってから、勇気を出してそれとなく訊いてみる。私がクラスでそういうキャラなら、きっと大丈夫だよね。
「えっと……ごめん、名前、分かんないかも」
「やっぱり」と彼女は笑った。「木田よ。よろしく」
 木田さんは、そう言って強引に私の手を握ってきた。
 ……あれ、保健室は?
「あの、木田さん、保健室……」
「ああ、そうね。あれ? でももう頭は痛くないようね。それでも休んでいった方がいい?」
「いや、そういうわけではないんですが……」
 でも教室に帰ってしまうとまたボロが出かねない。どう言えばいいのか悩んでいると――何かを企んでいるように、木田さんはにやりと笑った。
「それじゃあ、もっといいところで休んでいくのはどうかしら?」
 
 階段を登る木田さんについていくと、彼女は四階を越え、三角コーンとテープで閉鎖された入り口を平然とまたぐなり、扉のノブをかちゃかちゃと弄って開錠した。「さぁ、行くよ」
 そこは屋上。
 さほど暑くないのを説明したかったのか「夏場は冷気が来るから、場所によってはおこぼれを預かれるの。冬は冬で暖気が来るんだけれどね。こういう建物って他にあるのかしら? もしかしたら設計ミスなのかもしれないけど、ま、私たちは恩恵を受けてるってことね」
「木田さん、これ、まずいんじゃ……」
「なにが?」
 彼女はちっとも悪びれない。自分で言うと陳腐だが、十二歳の私はすごく優等生だった。だからすごく怖くなったが、年上(ということになる)の高校生の前では言えなかった。
「それにしても永井さん、敬語じゃなくていいわよ?」
「え、……だって」
 いや違う。彼女からすれば私はおんなじ年なんだ。でも小心者の私には呼び捨てになってできるはずがない。
「まぁ、これはこれで面白いから。私は下の名前で呼ばせてもらうわね。朋佳さん」
 むず痒さと怖さと恥ずかしさが混ざって、いっそ飛び降りてしまいたくなった。
「一限が終わるまで、ここで暇でも潰さないかしら? そうそう。ここは勝手に開けていいから。やり方を教えるわ。ただ、あと一人貸してる人がいるから、それは許してね」
 どうしたらいいんだろう。女子高生のふりを続けるのはすごく難しい。やはり打ち明けるべきなのかもしれない。でも信じてもらえるかな。でも……。
「ねぇ、朋佳さん」
「は、はいっ」
 悩んでいた私に、木田さんは今までより少し真面目なトーンで話しかける。
「大丈夫だから、言ってもらってもいいわ」
「……え?」
「当てるけれど、本当は、何か隠してるでしょ?」
 ――鳥肌が立った。
「あ、うわ、えあ」
 今よりずっとポーカーフェイスが苦手だった私は、明らかに隠し事を悟られてしまった。
「教えてくれなくてもいいけど、今ここで話すなら、誰も聞いてないと思う」
 それでも私は、必死に取り繕った。
「なんでもないよ……ただ、本調子じゃないだけ」
 木田さんは数秒間私の目を見つめてから、「そう」とだけ言った。
 ……それからちょっぴり気まずくなってしまったのか、私と木田さんは黙ったままそこで一限を潰す。彼女はカバーのかかった本をポケットから出して読み始めた。私はすることがないので、入り口の階段に座ってぼーっとした。あれ――なんか、眠いような――
 ――そこで、意識がふわりと飛んだ。

 ベッドの上。私はひどく汗をかいていて、お腹もすいていた。じっとりと濡れた両の掌を見て、私は、ここが十二歳の――もともといた世界であることを実感した。戻ってきたのだ。窓の外はまだ朝早いのか白んでいる。
 そう。これは夢だったのだ。そう合点した。
 リビングに向かった。そこには寝ぼけ眼のお姉ちゃん。新聞を読むお父さん。それから台所に母。三人ともとりたてて個性的じゃないけど、みんな穏やかで優しい。
「おはよう」と挨拶して、やっと実感。私はここがもといた場所なのだと。
 新聞から目を上げた父が「そういえば、朋佳ももうじき中学生だな」と言う。「携帯とか、用意しないといけないのか」
スマホ、でしょ」と姉が笑う。「ゲームを全部ファミコンって呼びそう」
 一瞬の間をおいて「でも、本当なんだよ。何かあったとき連絡に便利じゃないかな。記事だと変質者への対策とかで、GPSもついたのもあるそうだし」と父が答える。私たちの最初の父親はいなくなってしまったけれど、この人は苦しい時も三人を支えてくれたから、すぐに信頼できるようになった。
「なんか嫌ね。オーウェルの世界みたい」と母はため息をつく。どこか線が細い彼女。「ママ、そんなひどい例えはやめて」とまた呆れる姉。そんな会話を尻目に、学校に向かう準備をしながら思う。――木田さんが夢の中の人だというのは、ちょっと残念だ。個性的だったのに。
 そういえば――同じ小学校だという話だったのを思い出した。
 でも私の記憶が確かなら、そんな子はいない。だからそれも幻想だと思うのが自然だ。……その、はず。
 でも、妙な胸騒ぎがした。
 だからギリギリまで早く登校して、こっそりと教壇の机の中にあるクラス名簿を真っ先に確認した。担任の先生は怠慢だから、よくここに忘れていくのだ。果たして、今日もあった。
 き、き……名前順に目を落としていく。……『木田』の名前はなかった。やはり夢の中の産物だったのだ。なんだ、確認するまでもなかったじゃないか。
 私は安堵してホームルームまでの時間を過ごした。
 わいわいと教室に人が増えてから、すこしふくよかな女性がやってきて、朝のホームルームが始まる。普段通りの出欠の後で、不意に先生が言った。
「実は、みんなに伝えたいことがあるの。連絡が遅くなって突然のことになっちゃうんだけど、今日から新しい子がこのクラスに転入してくるの」
 ――その一言に、私はぶるりと震えた。
 まさか。まさか。
 果たして、入ってきたのは女の子。服も靴もランドセルもいかにも高級そうだったけれど、彼女には人を寄せ付けないような空気があった。
「初めまして」

 その子は、木田さん。
 夢の中で出会った女の子と同じ名前。
 私はパニックになった。夢、そう、あれは確かに夢のはずだった。またテレビか何かで知っていたが、夢は人間の記憶の再構成だという。だが、私はこの瞬間まで彼女が転校してくることを知らなかった。それならなぜ、『木田』という名前が一致する? 偶然? だが、転校によって木田さんがやってきたなら、(夢の中のはずの)高校生の彼女が言った経歴とも矛盾しない。
「それじゃあ、そこの席に座って」と先生に指示されて、彼女が向かった先は。
 教室の左隅、今まで空いていたスペースに置かれた机と椅子。
 それは、私の隣の席だった。

 一時間目の時点で、私は授業どころではなくなっていた。板書をしようとしても鉛筆の芯を何度も折ってしまう。どうしたらいい? 私は彼女に話しかけるべきなのだろうか。いや、でも――そう思っているうち、疲れからなのか私は睡魔に襲われた。眠い――

 そしてまた眼を開くと、私はまた別の場所にいた。

「大丈夫?」
 私を呼びかける声がする。低い声。男性だろう。でも私の父じゃない。
 ここはどこだろう。なんだか頭が痛い。ずきずきとした頭痛だったが、それだけでなく、より浅いところでも痛みを感じる。もしかしたら、これは外傷なのかもしれない。
「意識はありますか?」
 彼(?)は私に強く呼びかける。身体をゆすられて、私はやっと目を開けた。
 そして驚く。私は横になっていた。辺りを見回すと、通行人がじろじろと私の方を見ながら通り過ぎていく。――ここは路上? なぜ? さっきまで授業を受けていたのに――
「あれ……?」
「よかった。起きたみたいだ」
 彼はどうやら安堵したようだった。「立てる?」と手を貸され、私はふらふらと体を起こして、地面に足をつけた。「あ、ありがとうございます……」と、訳も分からないままに感謝をする。
「いや。通りかかったら地面に倒れてて。病院に行きますか?」
「たぶん、大丈夫……」
 私はそこでようやく彼をしっかりと見た。服装や背丈から、高校生か大学生くらい?
「そっか。このまま歩けます? 家に戻るなら、一人で平気ですか?」
「あ、悪いので……」
「そうですか? 本当に気になさらないでいいんですよ。どんな手助けもします」
 恐らくは見ず知らずの他人であろう彼は、にもかかわらず私を心底気づかっているようだ。
 そうだ。自分は授業中に寝ていた。それなら――私はある可能性に思い当たる。
 まさか――またどこかの未来に飛んでしまったのか?

 公園のベンチ。
「改めて、よかったです」
 缶ジュースを持った彼が隣に座っている。有無を言わさず私の分まで奢られてしまった。路上にずっといるわけにはいかないので、私たちはひとまず手近な公園で一休みすることになったのだ。遊びまわる子供たちを尻目に、私は気まずい思いだった。
「ここまでしていただいていいんでしょうか……」
「問題ないですよ。やっぱり病院に行った方がいい気もしますが……お帰りになられますか?」
 その問いに「え、あ……」とどもった挙句、私はうっかり「分からないんです」と言ってしまった。しまった――と思った。彼はその言葉を見逃さなかった。
「差し支えなければお訊きしたいのですが、分からない、とはどういう意味でしょうか? もしかしたら、怪我だけじゃないことで困ってるんじゃないか、と心配なんですが」
 仕方なく、私は会話に応じた。「分からないというか……知らないというか。たぶん、家は前と同じところにあるとは思うけど」
 前、という言葉に彼は少しだけ反応したが、すぐにまた尋ねてきた。
「他のことは分かりますか? 年齢とか、名前とか」
「ええ、分かります。でも住所は分からないです。他にも分からないことは……あります。でも記憶喪失じゃないと思います。えっと……なんて言ったら……」
「ふむ」
 考え込む彼に、どうしたら上手く説明できるか考える。少なくとも、その場しのぎの嘘で誤魔化すことは難しそうだし、心配してくれているのに申し訳ない気がする。
 狂人だと思われるかもしれない。まぁそれでもいいか。どうにでもなれ、と私は意を決した。
「私は、本当はまだ十二歳で、中身? だけ別々の時間にいるんです。未来に飛んで。また戻って、それで……いや、ごめんなさい。意味分からないですよね」
 下手すぎて謝ってしまった。
 恐る恐る彼の様子を見てみると――しかしどうして、非常に真剣な顔をしている。
「もしかして、なんですけど。僕も、それかもしれません」
 ……え? それ?
「どういうこと、ですか」
「僕もあなたと同じで、バラバラに時間を生きているんです。十五歳から、ここ三年ほど」

 それが――中島弘樹との出会いだった。

 彼と出会って驚いたのは、あまりにも身近な場所に似た現象に襲われた人間がいたということだ。話を聞いたところ、現在十五歳で高校生の彼は、ちょうど十三歳の頃に発症したそうだ。私と同じくらいか。きっかけは事故のようだ、と彼は考えているらしい。それもすごく大きな飛行機事故だった。
「墜落で助かる確率は本当に低いようですね。……家族も死んでしまった。でも僕は生き残った」
 さらりと言う彼の言葉に私は恐ろしくなったが「実はよく覚えていなくて。経験していないか、意識を失くしていたか、衝撃的すぎて忘れてしまったか。どれでしょうね」と頭を掻いた。「だからはっきりとは分からないんですけどね。この前は大学四年の冬でした。過去もあれば未来もあるみたいで――確かなのは、一度生きてしまうと、その期間の時間は二度と戻ってこないということです。普通の人間が寿命を消費していくのと同じですかね」
「……嘘」
 私は、大きなショックを受けた。
「もしかしたら、そっちはまだこの現象が起きてからそれほど経っていないのかもしれない。それならまだ時間はあるから、悲観的になりすぎない方がいいけど――それを抜きにしても、僕たちの人生は、あまりにも複雑怪奇ですよね」
 そうだ。でも――と思う。もし、彼が本当に私と同じような現象を経験しているなら……そう考えると、私はすごく安心した。今までなんとか我を保っていたけれど、本当は途方もなく怖かったのだ。気がつくと幼い私は涙をこぼしてしまっていた。何かが、どっと溢れ出した。
「あ……ごめん、傷つけることを言ってしまったかな」
「違うんです」私は涙ながらに言った。「分かってくれる人がいて、嬉しいんです」
 泣きつく私を、彼は優しく受け入れてくれた。

「……どうしたらいいんでしょうか」
 そうだな……と彼は悩んだようだったが、まもなく一つのアイデアを思い付いたようだ。
「まず、今回みたいに街中で倒れてしまわないよう、《移動》の予兆があったら安全な場所に退避することですね。あとは――」
 彼は手早く注意を教えてくれたが、私には急いで確認したいことがあった。
「あの……また、会えないんでしょうか」
「それなら、僕を探してください。僕はまだ高校一年の先を体験していない。ということは、そこにたどり着いたときに、僕は今ここで君と一度出会ったことを覚えているはず。そこで僕と再会できれば、何か違う道が見つかるかもしれない」
「……また出会える確証は、あるんですか」
「さぁ」
 彼はあっさりと言ってのけた。
「何か目印になるものでもあれば、また違うけど」
 目印? ……その言葉で、私は何か閃いた。
「あの、聞きたいんですけど」
 私の方のアイデアは、こうだ。
「高校、教えてくれませんか?」
「ああ……もしかして、その時に着いたら、僕を訪ねてきてくれるんですか?」
「はい」と私は言った。
 この人は嘘を言っていない――信頼できる。そういう確信が、なぜかあった。私は彼とまた会いたいと思った。今のところ、この世で私の味方は彼だけだったから。こんなに簡単に人を信じてしまうなんて、幼いとはいえ私は愚かだったのかもしれない。そうだ。結果的にこの選択は私の運命を大きく帰ることになる。これは、すべての始まりだ。
 ただこの時の私は何も知らない。ただ、涙が出ただけ。
「じゃあ、最後に名前を訊こう。僕は中島弘樹。君は?」
「永井、朋佳です」
「よろしく」
「……よろしく、お願いします」

 でも彼とはすぐに会えた。それこそ拍子抜けするぐらい、あっさりと。
 次に飛んだ場所は、また高校。そこで私は、木田さんと昼食を食べていた。
「それにしても、今年は雪が早かったわね。まだ十一月なのに」
「……あ、ええ、はい」
 会話中だったらしい。私は慌てて相槌を打った。木田さんは怪訝そうな顔をしたが、それ以上は特に気にならなかったらしい。――そうか、まだ冬なのか。だとしたら、彼女と出会ってからさほど時間は経っていないのだな。
「ええと、そうだ。朋佳さん。前貸した本、読んだ?」
「……ま、まだ」
「そう。そういえば、読むのは遅い方だって言ってたわね。私は読み終わったわ。なかなか面白かった」と渡されたのは、『ここがウィネトカなら、きみはジュディ』というタイトルのSFアンソロジー。ぱらぱらとめくってみると、時間ものの短編が集められている。私は姉の影響で小学生の時点でもSFが好きで、ときどき私に本を買ってくれることがあった。読んでないけど、確かこれも姉からもらった本。
「それにしても、弘樹くんは遅いわね」
「え? 弘樹くん?」
 聞き違いかと思ったが、「あれ? 昨日話したわよね? もうひとり、屋上を使っている人がいるって」どうもそうではないらしかった。
 もしかして同名の他人か? と思ったが、そこまで考えてから彼の高校の名前がここと同じだったことに気づいた。遅い。なんて鈍いんだ、私。
 果たして、まもなく現れたのは。
「ああ、もうみんないたんだね。ええと、この子が……例の?」
「ええ」と答える木田さん。それに彼は頷く。
 あの日出会ったのと同じ姿だった。
 そう――彼のいた世界と、最初に飛んで木田さんと出会った世界は、同じ場所だったのだ。

「遅いですよ」と口を尖らせる木田さんに「ごめん」と軽く誤った弘樹さん。
 印象は前に出会った時と全然変わらない。人懐っこい顔と、柔らかい目つき。
「はじめまして、朋佳さん」
「は、はいっ」
 慌てる私に彼は笑って何個かパンを取り出した。高校には購買っていうのがあるんだっけ。じっと見ていたら「食べる?」と言われ、カレーパンを頂いた。
 そこで「あ」と木田さんが声を上げる。「クラス委員の用事があった」
 ごめんなさい、今日は先に行くから。そう言い残して彼女は屋上から去った。
 それを見送ってから、弘樹さんは「えーと」と後ろを向いてから、振り返って言った。
「久しぶり。また会えたね」
 ――彼は、私がいつの私なのか、見抜いていたのだ。

「僕はここでもうひと月は過ごしているんだ。基本的に、だんだん慣れてくると飛ぶ時間の間隔は伸びていくみたいだ。だから僕の方は、しばらくここにいられると思う」
 放課後、私たちは誰もいない教室で密談をした。私が今いるのは、最初に木田さんと出会った次の日のようだ。彼は小学生(精神年齢)の私にも分かりやすく説明するよう努めていた。
「何度か《移動》してみて気づいたんだけど、てんでばらばらの時間に飛びまくることは少ないみたいだ。だいたい三つか四つぐらいでポイントができると、しばらくはそれを往復することで安定するみたいだね」
「じゃあ、私はまだ安定していない、ってことですか?」
「たぶん」と彼は頷く。「それまでは混乱すると思う。厄介なのは、このいくつかのポイントで別の行動をすると、変なことになる」
 そう言って彼は黒板に横線を引き始める。
「たとえばここに一本の線がある。これが最初の、僕たちが生きる時間。で、たとえば三つ点を打ってみよう。A、B、C。で、この三つの時間を行き来する。……さて、このポイントAにいるときに、Bの未来と矛盾するような行動を取ると、どうなるか」
「……分かれる?」
「そう」と弘樹さんはAから別の線を伸ばした。「こうして別の線が生まれたよね? で、それからはこちらの別の世界にも飛ぶ可能性が出てくるんだ」
「えーと」と私は考え込む。「《移動》するときに、そっちの枝にランダムで飛ぶかも、ってこと?」
「そう」
「……じゃあ、変わっていない世界の方も残ってるんですか?」
「それは多分違うな。パラレルワールドって分かる?」
「はい。SF、好きなので」
「なるほど。じゃあ手っ取り早い。僕たちにとっての世界は、実はパラレルワールドじゃないんだよ」
「じゃない……?」
「むしろ、線路の切り替えに近いと思う。元の世界と、Aから伸びた世界は同時に存在するわけじゃない。A世界にいるときは元の世界は消える。それから元の世界に飛んだら、Aの世界は消える。でもまたA世界に飛ぶと、最初にいたときと同じ世界が始まる。分かるかな?」
「ぎりぎりだけど、なんとか」
「僕たちはそんな風に時間と世界を行き来するから、すぐ別れてしまうとなかなか厄介だと思う。できるだけここで縁を作っておくのが大事。だから定期的に屋上に来てほしい」
「分かりました。でも、木田さんは知ってるんですか?」
「……いや」と彼は否定した。「彼女は、何も知らないよ」
「そうですか……」
 そのまま黙っておくのがいいことか分からなかったが、彼には考えがあるはずだ。従おう。
「あと、世界ごとにメモを取っておくといいよ。メモは影響を受けないから、その世界に残り続ける。で、飛んだ先で見つけるたび、前回いつからいつまでを生きたか記録するんだ」
 なるほど。その発想もまた、目から鱗だった。
「君がもし頻繁に《移動》してしまってタイミングがずれたら、君がいつからやってきたのかを訊くと思うから、答えてくれると助かる。そうすれば、対応できると思う。それじゃあ、ここでどれくらいになるかは分からないけど――よろしく」
「はい」
 私はまた安心した。前回は取り乱してしまったけれど、今回はもっと自信を持って、彼を信じられる気がした。

 引っ越していないならば、自宅は同じ場所にあるはずだ。
 そこで待ち構えているのは、未来の家族だろう。みんな私の現象を知らない。だからまたしても怪しまれないようにアドリブで演技をしなければならない。
 閑静な住宅街の一ピース、没個性な建物に私は近づく。あった。ここだ。転居で別人が住んでいる可能性を除けば、まだ家族はここに住んでいることが確実になった。
 鍵を持っていないから、とりあえずはインターホンを押してみたが、何の反応もない。
 意を決して、ドアに手をかける。――開いた。もし外出中なら鍵をかけるだろうし、施錠していないならせめて誰かが家にいると考えられるが、どちらでもないというのだろうか? 無用心が過ぎるのではないか。私の家族はそんなに防犯意識が低かっただろうか?
 緊張とともに家の敷居をまたぎ、ローファーを脱いで床に足を下ろした。そのまま慎重に歩いていく。まずはリビングに向かう。
 そこは真っ暗で、様子は一変していた。そこら中に飲み終えた缶ビールが転がっていて、台所ではシンクの中で皿が割れている。誰の姿もない。ただ時計の針の音が、かちかちと空しく響いて、聞いていると頭がおかしくなりそうだ。混乱とともに、頭がずきずきと痛む。
 息を吸う。なんとか呼吸を整える。廊下に戻ってから、他の部屋に誰かいないか探してみることにした。この時の私は、まだ冷静だった。
 二階建ての一軒家、一階の階段の横には和室があり、他に親たちの寝室もある。上には私と姉の部屋がある。
 和室はがらんとしていた。前は調度品があったはずだが、すべてが消えている。広々とした空っぽの部屋は、私に言いようのない不安を覚えさせた。
 寝室は後回しにして、私は階段を登って姉の部屋に向かった。ノックしたが反応はない。ドアに耳をつけてみる。物音一つしない。寝ているのだろうか? しかし、私には妙な胸騒ぎがした。震える手でノブを回すと、あっさりとドアは空いた。中には誰もいない。ふと中央の机を見ると――そこには吸い殻でいっぱいの灰皿があった。
 灰皿? 彼女はたばこなんて吸わない。カタン、と爪先に当たったのは、やはり缶。そういえば、と思い出す。この家にアルコールを飲む人間はいないはずだ。
 嫌な予感がする。部屋を出ようとしたとき、学習机の上を見てみると、そこにはピルケースがあり、大量の錠剤が小分けになって置かれていた。未来の姉は病気なのだろうか? でもこんなに薬を飲んだらむしろ身体に悪いのでは? 明らかに異常な量だった。
 目を開けるとペン立てがある。そこにはカッターナイフだけが入っている。ゆっくりと、私はそれを取った。
 刃先には、乾いた血の跡があった。
 ――本能的にそれを放り投げると、私は部屋を飛び出していた。明らかに、この家はおかしい。何から何まで異常だ。
 私は自室に入った。そこだけは昔とさほど変わっていなかった。
 そのまま着替えもそこそこに布団に入り、枕に抱き着いて震える身体を必死に押さえた。

 結局、家族は誰も帰ってこなかった。
 一応電気もガスも水道も通っているので、仕方なく私はひとまずここで生活することにした。

 不穏なことがあったとはいえ、結果論だけ言えば、私はしばらくほぼ《移動》なく三人の世界を楽しむことができた。《移動》が始まってから、こんなことは初めてだった。理由は分からないが、それは私の人生の中で最も奇跡的な時期だった。
 私たちは一年で、弘樹さんは三年生。全員部活(クラブのすごい版)にも入っていなかったから、授業が終わると暇だ。だから昼休みだけじゃなく、放課後も屋上で過ごすことになる。
 今日は先生への悪口で盛り上がっていた。……あんまりよくないと思ったけど。
「今日の新野は機嫌悪かったわね」
「そうなの?」と弘樹さんが笑う。「僕の頃と変わらないんだなぁ」
「課題を忘れなくてよかったわ。四限だから、昼休みまで説教されるかも」
「うわぁ」
 適当に相槌を打つ。私も見ていたけれど、高校って怖い場所なんだなぁ……と思った。こういう経験の度に私は怖くなったけれど、少しずつ慣れてきた。相変わらず勉強だけはどうにもならなかったが、できる限り弘樹さんにカバーしてもらっていた。
「木田さん、ノート見せてくれてありがとうございます」
「いいの。一方的に恩を貸しておけば、いつか取り立てられるでしょ? 楽しみだね」
「あはは……」彼女は相変わらずだ。
「それにしても、ここが見つかったら大変だよね」と私がなんとなく話を振ると「そこだよなぁ」と弘樹さんは考え込んだ。「見つかったら絶対処分されるだろうな」
「バレなきゃいいのよ」と木田さんは強気だ。
「でも……集まれる場所がなくなるのは困りますよね」
「うーむ。ここに入る大義名分でもあればいいんだけど」
 その一言に、私は少し気になった。
「ここに合法的に入れる方法ってないんでしょうか? たとえば……えーと、部活とか」
「そうね……」
「あ」と弘樹さんが手を叩いた。「天文部ならいけるかもしれない。一年の頃に望遠鏡みたいなものをを持って屋上にいるのを見たことがある」
 彼によると、天文部は現在顔を出している部員がおらず、顧問も放任状態で、廃部寸前だということだった。
「決めたわ」と木田さんが話をまとめた。「天文部を、乗っ取りましょう」
「え? 乗っ取る?」
「そうよ。私たちが一方的に入部して、活動を始めてしまえばいいのよ」
「ちょ、ちょっと待ってください」
 木田さんがなかなかに過激な人なのは分かっていたが、それでもめちゃくちゃだ。とはいえ彼女に規則や道徳を期待しても無駄なわけで。
「永井さん、規則では廃部の条件はどうなっているのかしら?」
「えっと……『三人以上の在籍と一定の活動が認められない場合』という例が生徒手帳に書かれているね」
「なら決まりだわ。私たち三人が入ってしまえば、ぜんぶ解決する」
「ええっ⁉」という私の動揺は、あっさりと掻き消され。
 流されるままに、私たちは天文部を占拠した。

 それから私たちは本当に活動を始めた。夏休み、屋上にテントを張って泊りがけで望遠鏡をセットし、夏の大三角を見たときのことは、未だに覚えている。
 一番覚えているのは、木田さんが眠ってしまった後に二人で寒さも忘れ雑談をしたこと。
「こんなところでも、星って見えるんだね」
「うん。向こうの街がさほど大きくないから、光で星が隠れないんだね」
 私たちは寝転がっている。手を伸ばせば、本当に星に手が届きそう。
「ねぇ、レイモンド・チャンドラーを呼んだことはある?」
「突然なんですか」
「なんとなく」
「……愛について語るなんとか、みたいな本を書いた人ですか?」
「それはレイモンド・カーヴァー」と彼は咳払いをした。「ハードボイルド小説を書いた人だ」
「ハードボイルドってなんですか?」
「僕もよく知らないけど、ミステリーといっても推理より探偵の行動を重視した作品、ってイメージを持っているかな。人間ドラマだけど、でも人情は少なくて、いくらか暴力的」
「……それ、面白いんでしょうか」と私は疑問だった。「ミステリーって、謎を予想したり騙されたりするのが楽しみだと思うんですけど」
「同じ犯罪小説でもそういうジャンルとは根本的に違うんだ。だから同じ頭で楽しんじゃダメ」
「ふうん。変なジャンルがあるんですね。それで、どうしたんですか?」
「彼の『ロンググッドバイ』という小説で『さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ』という台詞が出てくるんだ」今度貸すよ、と彼は言う。
 顎に人差し指をあてて考え始める。
「どういう意味ですか? さよならをいうのが、死ぬ……?」
「簡単だよ。ほら、よく死ぬことを『永遠の別れ』とかいうでしょ? だったら生きたまま別れるのは、逆に言い換えれば『一時的な死』ってことにならない?」
「なるほど」と合点がいった。「じゃあ、再会したら別れた相手は復活するんですか?」
「そう考えてもいい」
「じゃあ、ゾンビみたいですね。私たちは常に生きたり死んだりしてるんだ。……でも、お互い生きていても、永遠に出会えない可能性もありますよね」
「それもまた、ひとつの死じゃないのかな」
「そうですか。……悲しいですね。生きてるのに……」と言いかけて、私はあることをおもいついた。「どんな死も、ぜんぶ『長いお別れ』って呼んじゃいましょうよ。そうすれば、またいつか出会えるかも――って気がしませんか?」
 私は立ち上がり、「んーっ」と両腕を伸ばした。
「呼び方の問題じゃん」
「だからこそ大事なんですよ。弘樹さんは分かってないなぁ」
 私は星空の下で、そう言って笑ったのだ。

 できるだけ家に帰りたくなかったから、私は二人に放課後遊んでくれないか、とそれとなくお願いしてみた。二人はゲームセンターやカラオケに私を連れて行ってくれた。どれも行ったことのない場所だ。私の家族はそういった娯楽に縁がなかったから、とっても新鮮だった。
 ゲームセンターのホッケーで私たちふたりに二対一で挑む木田さん。シュートを決めて「よっしゃ」とガッツポーズをする。……口調が崩れている。「朋佳さん、よそ見なんてして随分と余裕なのね」と言われ、慌ててゲームに集中する。隣の弘樹さんを見たとき、思わず目が合って「……あ」とどきどきしたが、彼は「落ち着こう」と頷いて、またゲームが再開する。その顔はすごく凛々しくて、こっちまで闘志が湧いてくる。自分も頑張ろう――
 そうやって遊んでいる間にも、家のことは常に頭の片隅にあった。でも二人に言えなかった。きっと、目を逸らしていたんだと思う。嫌な予感を振り払うように、私はホッケーに集中した。

 やがて私は、彼に陳腐なほど特別な感情を抱いているのに気づいた。
 ……でも、彼はどうなのかは分からなかったし、せっかく巡り合えたのに、もしもすれ違ったならば今後人生が別れて後悔するかもしれない。そう思うと、私はちょっとばかり暗澹とした気持ちになったものだ。
 私の魂は、あの頃より予想以上に成長していた。

 そんな気持ちが募っていくある日。夏休み中も三人は『部活』に顔を出していた。屋上に向かおうとする私は「ちょっといいかな」と、クラスに来た弘樹くんに呼び止められた。
 彼は何も言わないまま歩く。私は少しばかりの不安と高揚感に襲われた。
 やがて着いたのは空き教室。私は、これから何が起こるのか全く予想できなかった。
 だから彼の言葉は、まったくの不意打ちになったのだ。
「今こそ、はっきり言いたいことがあるんだ。ずっと言わないでおいたことを」
「はっきり? 何か隠していたんですか……?」
 不安になる私に「君のことは大丈夫だよ」と彼は微笑む。相変わらず、人を安心させる笑い方に、いくらかは安堵した。
「ショックを受けるかもしれないけど、単刀直入に言うね」
 ――けれど、そんな安堵も一瞬で吹き飛ばされることになる、
 弘樹さんはいつものように、今日の天気と同じ程度の話題を持ち出すように、平然と告げた。
「たぶん僕は、そんなに長くない」

 言葉が出なかった。
 この時が永遠に続いてほしかった。
 でもそれは、やはり叶わない。彼には時間がなかったのだ。今までそれを隠していたのだ。
「僕はもうたくさんの世界を見てきた。だからここで死んだら、もしかしたら消滅してしまうのかもしれない」
「そんな、そんな――」必死に声を絞り出す。「何か方法はないんですか? また世界を分岐させるとか――」
「たぶん無理だ。だって、そんなことをしたら、朋佳と離れてしまう可能性が高い」
「――っ!」
「僕は、君と離れたくないんだ」
 ああ、ああ。
 私はこの瞬間、もっとも幸せだった。でも――同じぐらい、悲しかった。
 彼は私のために、残りの時間を全部差し出すと言っているんだから。
「できる限り、この繋がったままの君と一緒にいたい。君はまだどこかに行ってしまうかもしれないから、ずっとはいられないかもしれないけど、でもきっと大丈夫だ。大学に行って、就職して、それでもまだ《移動》しないかもしれない。お互いそれが続けば、もう治ったも同然だろう? いや、本当に治る可能性だってあるかもしれない。だから、楽観的になろう。そして、それが叶う限り――唐突かもしれないけど」
 彼の目は、まっすぐ私を射抜く。

「できる限り、楽しくやろう」

 その時の西日は、思い出すだけで目が痛むほどに記憶に焼き付いている。幻想的で、まるで世界が終わるかのように真っ赤に染まっていた、空。
「……はい」
 私は答えた。涙ぐむ目を袖で拭った。本当はもう彼に抱き着いて、胸の中で泣きたかったけれど、それはしなかった。私は、強くならなきゃいけないと思ったから。
 彼が死んでも、私の人生に分岐の可能性が残っている限り、生き続けなければいけない。
 分かっている。
 分かっているから、依存しちゃダメなんだ。
 私はこの瞬間を大切にしなきゃいけないんだ。その記憶を、これからの宝物にするために。

 それからの日々は、私にとって輝かしい時間になった。
 時間で言うならば、ほんの短い日数だったけれど、終わりを意識していると、世界は異常なほどに輝く。『ファイト・クラブ』という映画で、夢をあきらめかけたある医学生が主人公の友人であるタイラー・ダーデンに拳銃を突き付けられ「君が獣医になる勉強をちゃんとしなければ、明日にでも殺す」と告げられ、解放されるシーンがあった。そこでタイラーは「彼が食べる朝食は、世界で一番美味くなるだろう」という意味のことを言うのだ。
 それは正しかった。
 私は短い時間で二人と極限まで仲良くした。夏休みなら時間はたっぷりある。ゲームセンターでプリクラを撮るところから始まり、ウィンドウショッピング。博物館にも水族館にも遊園地にも行った。実現はしなかったけれど、旅行さえ企画した。
 それでも時間というのは残酷だ。幸福な日々も無情に過ぎていく。
 そしてそれは、あっけなく崩壊することになる。

 

6 - foolish

 決定的なことが起きたのは、夏休みの終わりに入る直前だった。
 ある休日、目が覚めたとき、奇妙な匂いに気づいた。
 やがてすぐに気づく。
 ――それは、ほぼ間違いなく血の匂いだった。
 私は慌てて下の階に駆け出す。その匂いの元はドアの少し開いた寝室だった。
 ゆっくりと近づいて、隙間から中を見る。暗い。だがすぐに目は慣れた。そして、何が見えたのか理解した瞬間に、脚から力が抜けて、その場にへたり込んだ。身体は小刻みに降るえ、心臓はバクバクと暴れる。
 そこにあったのは、父の死体。
 それと、血だらけのまま包丁を持った、姉の姿だった。

 思考が真っ白になった。

 逃げなきゃ――と思ったのもつかの間、立ち上がろうとしてノブに頭をぶつけてしまった。
「……朋佳?」
 その衝撃で、姉は私に気づいたようだった。
 キィ、と衝撃でドアが開き、私の姿がさらされてしまう。――同時に二人の様子がはっきりと見える。暗い部屋の中、姉は裸の上に鮮血で染まったワイシャツを羽織っている。父は――死体に対して、私は表現する言葉を知らない。何を言えばいいと言うのだろうか?
「ああ、朋佳。来たのね」
 何か言葉を発そうとしたが、口はぱくぱくと開閉を繰り返すばかりで、何の音も出てこない。
「姉さん、パパを殺しちゃった」
「あ、う……」
「こうするしかなかったんだ」
 姉の方を再びゆっくり見ると、腕が傷だらけなのが目についた。全部、切り傷。
「なん、で」
「知ってるでしょ? もう限界だったの」
 なんで、笑うの。
「そうだよ。私は朋佳を守れたんだ。ママが死んでから、この人は気が狂ったもんね。可哀想に。私は娘だよ? 頭が湧いているとしか言いようがない。まぁ仕方ないよね。あんな惨たらしくママが死んだから、おかしくなっちゃったんだね。ママも災難だね。ほら、本物のパパと一度離婚してから具合が悪くなって会社を辞めたよね? その後こんな奴と出会わなければよかったのに。カネがあっただけの下種なんかに騙されてさ。でももうどうでもいいや。私はずっと朋佳を守ってきたし、最後はほら、手を出す前に全部終わらせたから。だから安心していいよ」
 生気のない声で、訊かれてもいないのに話し始める姉に、私は心底怯えた。
 やっと分かった。――この家は、この家族は、破綻したのだ。恐らくは母の死がきっかけで。
 私は後ずさりをしていた。それを見て姉は「ねぇ、どうして怖がるの? 私、そんなにバカじゃないよ。ほら、こっちにおいで?」と両手を広げた。
 ……咄嗟に私は、ばねのように膝を一気に伸ばして立ちあがると、そのまま廊下を突っ切ろうとした。でもだめだった。途中で転んで、床に頭をぶつけ、意識が遠のく。それでも私は必死だった。這うように和室に入ってからドアに鍵をかけ、立てこもる。……警察を! ポケットをまさぐると、スマートフォンがあった。機械的に手は動く。そう、警察に電話――そこまで考えて、私は手を止めた。この状態では何も話せないだろう。それにもし姉が逮捕されたら? 彼女はどうなるんだ?
 電話帳を見て、誰か頼れそうな人を探した。とはいえ登録されている人の数は少ない。でも、あの二人なら頼りになる――そう思った。とりあえず弘樹さんに電話をかける。待ち時間は無限に流れていくような気がした。祈るように待ちながら、五回目のコールでようやく繋がった。
「もしもし。朋佳?」という声に、泣きたくなるぐらい安堵した。私は無理やりに声帯に力を入れて、「……たすけて」と声を出した。
「パパが、死んでる」
「死んでる?」
「殺されて、その、お姉ちゃんに――包丁で――」
「警察は呼んだ?」
「あ、分かんない、お姉ちゃんが捕まったら、でもこのままだと、私、いや、間に合わない」
「――分かった」私の滅茶苦茶な説明にも、彼は動揺一つしなかった。「出られる? それとも今行く?」
「だめ! 危ない」と私は叫ぶ。そこで気づく。ドアがガンガンと叩かれている。まさか――
「今、和室にいて、お姉ちゃん、お姉ちゃんが」
「外に出られる場所はある?」
 泣き出したくなる気持ちをこらえて辺りを見回すと、庭に通じる窓が目の前にある。そうだ! 
「出られる、かも」
「じゃあ別のところで落ち合おう。そうだな――これから指定する場所に来れる?」
「……分かった」
 私は今度こそ意を決して、窓を開けて庭に飛び降り、靴下のまま駆け出した。

 アスファルトが足に食い込んで痛い。通りかかる人たちは、何事かと私をじろじろ見る。
 それでも私は街まで走ると、息を切らして路地裏でビルの壁に肩をつけた。何もかもが滅茶苦茶だった。泣きたかった。でも涙が出なかった。訳が分からなかった。
 私は再び電話をかけた。
「ごめんなさい。動けない、無理かも」
「どこにいるかは分かる?」
「えっと――」私が近くの建物を列挙すると、彼はあたりをつけたようで「分かった。迎えに行く」と言った。「そこは木田さんの家の方が近いから、巻き込むのは悪いけど彼女にも手伝ってもらった方がいいかもしれない。彼女に通報してもらおう。とにかく――すぐに向かうから」
 そのまま電話は切れる。私は地面にへたり込んだ。頭の中はぐちゃぐちゃで、収拾がつかなかった。このまま別の世界へ《移動》してしまいたかった。ここから逃げたかった。でもその瞬間は、こんなときに限ってやってこなかった。
 永遠にも思える時間が過ぎていく。私の家族に何があったのかは、幼い私でももうそれとなく察することができていた。母は死に、父は狂い、姉は壊れた。どうして? 私が悪いのか? 私が、私が――
「朋佳?」
 その瞬間、女性の声で現実に引き戻される。
 姉だ。
 幻聴ではない。目を向けると、確かに彼女がそこにいる。
「どうして逃げたの?」という声からは狂気じみた敵意を感じた。もう会話は通じないだろう。
「おねえ、ちゃん……なんで、ここが」
「朋佳、ちゃんと今でも言いつけを守って、GPSをつけててくれたもんね。見つかって助かったわ。でもね……私は怒ってるんだよ。なんで私を選ばないの? ねぇ、こんなに頑張ったのに、なんで受け入れてくれないの? 答えてよ。私と楽になろう?」
 もう、彼女はあの日見た姉ではなかった。
 路地裏の闇にぎらりと何かが光った。彼女が腕を振り上げたのだ。その手には、たぶん――
「ね、私ももう終わりなの。そう、もう全部――」
 耳を塞ぐ。何も見えない聞こえない見えない聞こえない全部消えろ消えろ消えろ。
 その場から動くこともできないまま、私は最後の時を待った。
 そして目を開けたとき。
 姉が、腕を振り下ろして――

「朋佳!」

 割って入ったのは、弘樹さんだった。
 そして、刃の先は、彼に突きたてられた。

 気がつくとそこにあったのは、動かなくなった二人の死体。弘樹さんはめった刺しにされて傷だらけだったが、包丁は彼の手にあって、姉を突き刺していた。姉は目を見開いたまま、絶命していた。
 全部、終わっていた。
 世界は、誤った方向に分岐してしまった。

 恐らくは木田さんが呼んだであろう警察に保護された私は、呆けたまま何も感じなくなっていた。それからのことはよく覚えていない。ただ、ある女性と出会ったことだけは確かだ。
 取り調べでの証言で何一つ喋れなかった私だったが、まもなく違う部屋に呼ばれた。
 そこにいた若々しく小柄な女性は「カウンセラーの青山です」と名乗って、名刺を取り出した。長ったらしい肩書の隅には「入不二研究室」という単語が書かれていた。
「よろしくお願いします」と言った私は、なんとなく今までの自分の身に起きたことを喋ってみた。その頃には、びっくりするほど私は精神的に成熟していた。だからすらすらと、自分の人生を語ることができた。もちろん彼女はPTSDのようなものの症状にしか思えなかっただろうが、それでもメモをとしながら真剣に聞いてくれた。
「……これはきっと、病なんだと思います」
「病?」
「そうです。私がこんな風に時間を生きていることは、きっと病気なんだと思います。ちっとも、恵まれてなんかいない。私も彼も……病気に呪われているんです」
 最後に私は「はやく次の世界に行きたいです。弘樹くんが生きている世界に」と言った。
 惨めだった。
 まだ彼に縋っている自分の弱さ脆さが、滑稽だった。
 ……青山さんは何も言わず、黙ってうなずいた。

 本来ならばここで物語は終わっただろう。だが、数奇なことに、私には再びチャンスが巡ってくることになる。だが、それによって更に、私の人生は残酷さを増していく。
 なぜならば、次に目覚めた場所は――彼が大学生として生きている世界だったのだから。
 
 そう。私と出会う前の弘樹さんは「大学生だった場所にいた」と話していたはずだ。だから私が同じ世界の同じ時間にやってきたと知ったとき、私は大きな希望を感じた。大袈裟なほどの、希望を感じた。
 その世界では家族三人ともが仲良く過ごしていたが、もはや私は彼ら彼女らに対して嫌悪感しか湧かなかった。でもどうでもいい。彼に出会うことができれば、運命を変えられるかもしれない。それだけで私は再び生きている実感を覚えたし、使命を感じた。
 なんて幼稚だったのだろう。
 私は彼に手紙を出した。会ってください。名前を知ってください。それだけでよかった。住所と電話番号を記載して、連絡が来るのを待った。
 またしても私は彼に寄りかかってしまったのだ。
 ……でも二人が出会う前に、私はまた別の時間に移った。

 痛みは人に生きている実感を与えるという。だが私にとってそれは余計なものでしかなかった。意識を失っているときの方がずっとマシなのだ。たまに目が覚めて猛烈な頭の痛みに襲われ、また倒れる。早く死ね! 早く! そう願うほどに。そして――最後に、意識が途切れる。
 私の肉体は、寿命を終えつつあった。

 その後にいくつかの世界を《移動》したが、私の脳疾患による死は肉体的に避けられないことが明らかになった。弘樹さんのような飛行機事故ならまだしも、病は私にはどうすることもできないものだ。だから諦めざるを得なかった。私は絶望した。絶望の中で放浪した。そのうちに私は、様々なことに俯瞰的になるようになってしまった。語りたくはないが、家族が崩壊した世界も改めて体験した。でも、私にとってはそれさえも些細だった。弘樹さんを失う苦痛と比べれば。何年、何十年、何百年――体感時間がどれほどだったかは、もう分からない。でもどうでもよかった。自分の寿命など、さっさと尽きてしまえばいいと思った。でも、そんな虚無へ向かう道のりの中で――ふと、あることに気づいた。
 飛行機事故なら、防げるかもしれない。
 どうして気づかなかったのだろう。
 ――そもそも、彼がこの病を発症しなければ、ぜんぶ解決じゃないか?

 それは、弱い私からの卒業だ。

 無限にも思える時間を耐え続けた末に私が戻ってきたのは、私が最初にいた、小学生の世界。なんとも懐かしい風景だったが、この精神年齢で見返してみると、かつて見たときより世界はどこかくすんでいるように感じられた。きっと「何もかも輝いていた子供の頃」というのは、私たちの幼く無恥な魂による錯覚なのだろう。そう思うと、無性に悲しかった。
 私は味方を増やすため、教室で転校してきたばかりの木田さんにアプローチをかけた。彼女は転校後の好奇の目にも冷たい反応を帰すばかりだったから、やがてみんなも興味を失い、たちまち孤立してしまっていた。だから話しかけるのには勇気が必要だった。それでも、日直で偶然女子同士で同じペアになったとき、私は声をかけることができた。
「木田さん、ちょっといい?」放課後に日誌を書く彼女に、黒板を綺麗にしながら話しかける。
「何かしら」と刺々しい声。
「せっかくだし、これから一緒に帰らない?」
「どうしてそうする必要があるのかしら」と言われたが、私はもうあの頃の軟弱な自分じゃない。だから平気だ――そう言い聞かせて、強く出た。
「どうしても話したいことがあるの」
「……」
 どうしても、という言葉に彼女は何かを感じたようだ。
「本当に、どうしても?」
「本当の、本当に」
 彼女は「いいわ」と言うと「大事な話みたいだから」と呟いた。
 私は思う。――この頃から、彼女はとんでもなく聡かったのだと。

 私の仕事はもう一つあった。そしてそれは、最も重要で、絶対に失敗してはいけないものだ。
 長い時間の中で、すでに私は彼がどの学校に行っているのかを調べていた。だからあとは見つけるだけでいい。
 授業終了の時刻に合わせて、校門の隅で私は彼を待った。まだ生徒は誰も帰り始めていない。中学時代の彼の顔写真は、学校Webサイトの部活コーナー「囲碁将棋部」に載っていた。ネットリテラシーの欠片もないバカさには呆れたが、まぁいい。
 やがてガヤガヤとやかましい話声とともに、制服に身を包んだ子供たちが出てくる。見逃さまいと必死に目を凝らす。途中で通りかかった強面の先生に訝しい目で見られたが、「兄を迎えに来た妹です」と言うと「気をつけてね」と難なく見過ごしてくれた。確かに、小学生(の外見の人間)がここにいたって何の害もなせないだろう。
 この中学校は幸運にも裏門が老朽化で閉鎖されており、非常時を除けば生徒が使う門がひとつしかない。だから待ち続ければ必ず見つかるはずだ。
 そして――見つけた!
 間違いない。写真で見た通りだ。いや、調べるまでもなかったかもしれない。高校の頃と、顔立ちがまったく変わっていなかったのだから。あの柔和で童顔の、そのままの姿。
 思わずうっとりとしてしまったが――私は見逃さない。後を追う。

 私の脚で彼に追いつくのは難しいだろうから、先にショートカットして待つことにした。方法は簡単。家の塀の上に登る。
 小柄なことを逆手に取った作戦だ。
 既に経路は分かっている。性格的に彼は寄り道なんてしないだろうから、待ち構えていればいいわけだ。
 ちょうど低い場所を狙って、誰かに見られていないか注意して塀に登る。いちばん上に掛けた手にざらざらしたブロックの表面が食い込んで痛い。そのままバランスを取りながら早足で歩き始める。
 ときどき体勢を崩して落ちそうになる。何度目かのとき、慌てて足首の上をすりむいてしまった。ズボンを履いてくればよかったと心底後悔した。こう言うところで私は抜けている。血が出る。痛い。痛い。でももう慣れてる。こんな痛みどうってことない。落ちかけているが、片足と両手が引っかかっているので、力をかけてまた登った。急がないと!
 やがて彼の住むマンションが見えた。あと一歩だ。最後の難所は塀から降りる瞬間だ。ゆっくり慎重に身体を下ろさないと危険だが、今は時間がない。私は賭けに出た。
 少しばかり勢いをつけてから――飛び降りた。
 あとは跳び箱の着地の要領を思い出せばいいのだ。膝をばねのようにして、速度を受け止める――ことはできなかった。地面はアスファルトなのだ。そのままバランスを崩して落ちてしまった。唯一の救いは、受け身のような形になったので頭や身体に衝撃が直撃しなかったこと。
 ……いや。もう一つ救いがあった。
「えっ……どうしたの?」
 私が落ちたとき、ちょうど目の前に弘樹さんがいたのだ。

「血――大変だ。今応急手当のキットを持ってくるから、待ってて」
 彼はそれだけ言ってマンションまで走り去り、まもなく大袈裟な救急箱をもって現れた。それからマンションに併設された公園に向かい、私は彼に傷を消毒され、絆創膏まで貼ってもらってしまった。
 二人して、ひとまず胸を撫で下ろした。
「よかった……って、それにしてもなんであんなところにいたの?」
 そこで慌てて思い出す。チャンスだ。早く言わないと!
 さぁ――

「明日の祝日から三日間で、あなたは家族旅行に行くんですよね? 国内便に乗って」

 その言葉に、彼はみるみるうち表情を変えた。
「なんで、それを……」
「私には、全部分かってます。全部知ってるんです。あなたが事故に遭うことも」
「事故って……どういうこと?」
 弘樹さんは明らかに戸惑っている。当たり前だ。いきなり見ず知らずの小学生にこんなことを言われて、理解できるはずがない。それでも――この可能性に賭けるしかなかった。きっと彼なら。きっと彼なら。それだけを信じて、私はこれまでの人生で最も強く、声を張った。
「飛行機には乗らないで」
「――えっ? 飛行機に?」
「そう。絶対に絶対に、乗らないで。じゃないと、落ちます」
 私はそう告げた。
「必ず、墜落します。家族全員が亡くなります」
 彼の目を見て、真剣に、切実に。この想いが伝わるように、この瞬間のために自分が存在しているとすら、感じるほどに――祈った。
 やがて彼が、ゆっくりと口を開く。
「……考える」と、言った。
「――信じてくれるんですか」
「本気なのが伝わったから。本気で僕のことを気にしてくれているんだな、って」
 私は頷いた。何度も何度も。涙を堪えた。歯を食いしばった。
 ねぇ、あの時の弘樹さん。頑張ったよ。これでもう、心配いらないんだよ。
 ――私は、その後に高望みして、最後の願いを口した。
「私を、忘れないでね。弘樹さん」
 私は彼の目を見て、もう一度はっきりと言った。
 弘樹さんなら――意味が分からずとも、この言葉を大事にしてくれるはず。
 彼は、私が名前を知っているのにも驚いたようだったが――
「それも、分かった」
 そう言って、私の頭を撫でてくれた。
 その優しい感触は、今までの私の努力をすべて包み込んでくれるかのようだった。

 ――結果から言えば、彼は飛行機には乗らなかった。
 でも、二つ目の願いは、叶わなかった。

 それから私は、弘樹さんの人生には一切関わらなかった。
 母は幼いうちに死んでしまった。自殺だった。以前から頭痛などの持病があったそうだ。
 木田さん――いや、野矢さん(家庭の事情で名字が変わったのだ)とは一気に親密になった。中学受験が決まっていた彼女に私はついていき、エスカレーター式に中学と高校(の途中まで)を過ごした。寮生活だったので、家族のゴタゴタから身を引くこともできた。姉もまた家を出ていき、幸運なことに一家離散で事件は起きなかった。
 一度高校の頃に(ちょうどその親の事情で)彼女が転校しそうになったことがあったが、私は彼女を説得し、強引にそれを回避した。転校先は弘樹くんのいた高校だったし……この病を知る人間が近辺にいることはよからぬ結果を招くのではないかと感じたからだ。また。
 一つ印象的なエピソードは、私が彼女の口調を変えてしまったことだ。
 中学に上がる頃、私は「なんか、もうお互い呼びしてでいいんじゃないの?」と提案したのだ。
 彼女はそこそこの名家の出だから躊躇っていたが、「まぁ……そうね」と納得はした。
「あと……もっと砕けた口調の方が、珠希さん……いや、珠希に合ってる気がする。性格が」
「なんか恥ずかしいのだけれど……」
「呼んでるうちに慣れるよ。ほら、珠希!」
「と、朋佳……」
「珠希!」
「朋佳……」
「よし、いい感じ」
「なんか、身体がむずむずするなぁ、まったく……あ」
「ほら。そういう語尾の方がいいよ。私は好きだな」
「……じゃあ、そうしようかし……いや、しようかな」
 中学の時点から私たちは既に入不二研究室に入り浸っていた。私の症状に興味を持った野矢さん――いや、もう珠希と呼んでおこう――と先生、それとその知己である青山さんの四人で研究に取り組み始めた。実験台は私。もっとも。サンプルとして私はあまり有用ではなく、研究はさほど進まなかったが……残念だ。
 ……驚いたことに、この世界は一度も《移動》することなく何年も続いた。こちらに関してはもう納得している。残りの人生が尽きかけており、私の完全な消滅が近づいている証だろう。
 あと意外だったのは、私が一度ここに来たことがあったという事実だ。そう、あの時手紙を出した場所と同じ世界だったのだ。それは、ちょうど私が自宅に帰っていたときに一瞬だけ起きたことだったから、気づかなかったのだ。この事実を知って私は大いに震えた。――すべては、繋がっていたのだ。
 そして私の体調は予想通り悪化し、かねてからの計画通り先生は療養所を強引に設置した。終の棲家として、私が利用するために。

 一つ残った問題。
 手紙の件は厄介なことこの上なかった。
 彼と会うことは気が重かった。もう一度「以前の手紙は無視してください」という文面を送ったとしても、おそらく性格的に無視するに決まっている。それでも、ここにきたら必ず帰さなければいけない。本当なら二度と出会わなければよかったのだが、すべて自分のミスだ。あの頃の私はあまりにも弱くて愚かだったから――そのツケが回ってしまった。
 私の不安は、彼が自然に(または再びのなんらかの事故等で)再発してしまうのではないかというものだった。だが今の彼を見るにそれは問題なさそうだ。私のように病を発症してしまうこともありえそうだったが、それはないように願うしかない。ただ、彼のカルテを(およそあまり褒められない方法で)入手した香苗さんの言うところでは、脳に異常はまったく見られず、他の身体も健康体そのものであるらしいので、まぁ問題はないはずだ。
 私は彼に二度と会いたくない。
 だから、非情かもしれないが――弘樹さんには帰ってもらおう。
 私は、強くならなくちゃいけないから。

 これは長いお別れだ。二度と出会うことのない別れ。
 ――それは、死に似ている。

 

7 - MISS WORLD

 古い夢を見ていた。
 僕に向けて、語り掛ける人。それはとても小さくて、僕よりずっと背丈が低い。
 その人は子供だ。女の子。小学生ぐらいだろう。でもあんまり幼い感じはしない。なぜだろう。ひどく成熟しているように思える。まるで……外見と精神年齢が一致していないとでも言わんばかりに。
 彼女は僕の目を見て言う。真剣に、切実に。
「乗らないで」
 確かに、告げた。
「――に、乗らないで!」

 目覚めた瞬間に、ぶるりと寒気がした。
 公園のベンチ。そこに僕は座っている――正確には眠っていた、という表現の方が正しい。
 視線を落としてから辺りを見回す。と――横にノートが置いてあるのに気づいた。恐る恐る手に取ってぱらぱらとめくると、中はびっしりと文字で埋まっている。そこには偏執的なものさえ感じられた。
 無視することもできただろう。でも好奇心にそそられながら――それを読み始めた。
「このノートを読んでいるということは、君が時間を《移動》したということだ。ここには現在に至るまでの、君の人生の記録が載っている」
 数行目を通したところで、気づく。この筆跡は、間違いなく僕のものだ。でも、なぜ?
「君は自殺した。朋佳が書いた手記を読んで、彼女を助ける可能性を感じたからだ。その結果、道を開くことになった。でなければ僕はこうして書くことさえできなかっただろう。感謝している。どうだろう。こうして読んでいるうちに思い出せるようになってきただろうか? 世界は分岐していないだろうか? ならば、きっとこれまでのことも思い出せるはずだ。君が事故に遭い、『病』に目覚め、様々な時と場所をさまよったことを。だが、それはまだ序の口なのだ。君はこれから、――運命の出会いをすることになる」
 僕はこの言葉を……知っている。確かに、内容が分かる。
 僕は誰だ? 中島弘樹だ。
 では、僕はどこから来た? ここで目覚める前の僕は、どこから来たんだ?
 ……瞬間に、爆発するように、記憶がフラッシュバックした。

 謎の手紙に呼ばれて、彼女と僕が出会ったあの日のこと。
 最初は冷たかった彼女が、次第に心を開いてくれたこと。
 彼女の身体は蝕まれ、死ぬ定めである事実を知ったこと。
 何一つできぬまま、ただ彼女を見送るしかなかったこと。
 朋佳。
 朋佳。

「君は十三歳の頃に事故で発症した、永井朋佳と同じ時感障害の患者なのだ」

 時感障害……僕が。朋佳と同じ。
「永井朋佳は君を助けるため、君が飛行機に乗る前の時間に飛んだ際に、それに乗らないよう説得した。結果君は言いつけを守り、時感障害を発症しなかった。そしてそこから繋がった世界が――療養所に行って、朋佳の死を看取り、それから一度自殺した世界だ。そこで死んだことで、君は自分が時感障害を持っている世界の残り時間に再び飛ばされたのだ」
 彼女は、僕を助けた。
 だから、今までの二十年以上を僕は平穏に送れた。
 もしもそれが事実ならば、僕は彼女にどれだけ感謝してもしきることはないだろう。そして、そこまでして僕に与えてくれた時間を無駄にしてしまったことをどう償えばいいのか分からなかった。もしそれを知っていたならば。でも彼女は教えないことで、僕に平穏な人生を送らせたかったのかもしれない。
 あの夢。
 あの夢の女の子は、朋佳だったのだ。
 でも……それでも、僕は彼女を助けるしかないと思った。だから、彼女からのプレゼントを捨ててでも、救わなければいけない。それが、僕の結論だった。
 そう――あの岬で、確かに僕はそう思ったのだ。

 朋佳の言葉を読み終えた後、最初に湧いた感情は後悔だった。
 僕が彼女に興味を持ち知ろうとしたこと自体が、彼女がもっとも嫌がるであろうことだった。しかもそれは僕を思って行われていた。僕を助けるために全力を尽くした朋佳。その努力を、僕は愚弄したのだ。朋佳はそれでも優しいから――心を動かされてしまったのだ。
 僕がこれからすべきことは、彼女から送られたこの普通の人間としての時間と人生をまっとうに生きることだろう。
 けれどそれはもう不可能だった。彼女のいない世界には何の価値も見いだせなかった。僕から見れば世界などとうに滅んでいた。この岬に降る海雪は、死の灰に見えた。それほどに僕は弱かった。弱っていた。だからこのヒロイズムは、そんな矮小さの裏返しだ。
 でも、それでも。止まることはできなかった。
 僕たちはひょんの偶然に出会いと別れを繰り返した。もしもあるポイントで出会い、また再会しなければ、それがひとつでも欠ければ、すべては終わったことだろう。なのに――なのに。
 僕がどうするべきなのかは、本能的に分かってはいた。野矢さんの話と合わせれば、僕に何ができるかは自ずと見えてくる。あとは、勇気だけ。
 申し訳ない気持ちでいっぱいだ。朋佳が身を挺して譲ってくれた命を、こんな風に消耗してしまうなんて。それは彼女が最も望まないことだろう。
 ……でも、僕は、その命を燃やさなければならない。
 朋佳がくれた命を、朋佳のために。

 そして僕は岬から身を投げ、別の時間と世界に飛んだ。
 まだ僕が生きていない、空洞になっているポイントに、自動的に飛ばされたのだ。
 ベンチに置かれたノートのページをめくると、そこには図表が載っていた。そこには今までの人生と世界で生きてきた日付が一目で見て取れた。空いていたのは、事故直後と、高校三年生から先だけ。それ以外はもう生き尽くされている。
 僕の横には鞄がある。恐らく自分の物だろう。探してみるとスマートフォンがあった。念のため検索して日付を確認すると――今から三年前。三年前? 高校三年生の頃だ。じゃあ、ちょうどまだここから先は空いているわけだ。
 ……僕はノートを鞄に入れ、ひとまず公園を出ることにした。

 ふらふらと、夢遊病にでもかかったかのように歩いているうちに少しずつ記憶が蘇ってきた。
 それはさまざまなイメージの断片。僕が知らないはずのもの。経験した覚えがないはずなのに、なぜか頭に記憶されているもの。……これはいつも記憶だ? まさか、別の世界の?
 あまりいい思い出ではないものも多かった。
 病院。
 家族の葬式。
 カウンセリング。
 周囲からの好奇の目。
 ……それらすべてを結びつけたのは、「飛行機事故」という単語だった。
 だが不思議なことに、事故の瞬間や直後のことは思い出せなかった。意識を失ったのか、衝撃的な体験だったので記憶が飛んでしまったのか。
 とはいえ、僕がそれを経験したことは間違いないと思われる。――それを確かめるには、ノートの先を読むしかないのかもしれない。
 たった数年でも街は大きく様変わりしていた。これからできる建物はまだなく、なくなったはずの建物はまだあった。そんな一つひとつのことが、ノスタルジーとなって僕を揺さぶる。
 とりあえず自宅に戻ろうと思った。自分は私服姿だ。高校生だったとして、今は放課後か休日だろう。そうなると一旦帰って頭を整理するのが自然ではないだろうか。きっと家の場所は今と変わっていない。
 よし、と足を向けて路地の角を曲がったところで――倒れている人を見た。

 少女だった。
 周囲は見てみぬふりをしたまま彼女を素通りする。だがそれに対する憤りを感じられるほどの余裕はなかった。どんな状態かわからない。一刻も早く僕がなんとかしなければ、と思う。
 駆け足で近づき「大丈夫ですか!」と声をかける。反応はない。ためらいはあったが、身体を何度か揺すった。
 幸運なことに、彼女はすぐに目を覚ました。
「意識はありますか!」
「あ……」
 地面に突っ伏していた顔が露になり、僕の方を向く。
 朋佳だった。

 え……?
 どうして彼女が? と混乱したが、驚く間もなく「あれ……?」と彼女は呟く。そうだ。考えていても仕方がない。まずはなんとかしないと。
「よかった。起きたみたいだ」
「立てる?」と手を貸すと、彼女はゆっくりと立ち上がった。
「あ、ありがとうございます……」
「いや。通りかかったら地面に倒れてて。病院に行きますか?」
「たぶん、大丈夫です」
「そっか。このまま歩けます? 家に戻るなら、一人で平気ですか?」
「あ、悪いので……」
「そうですか? 本当に気になさらないでいいんですよ。どんな手助けもします」
 そう言いながら考える。どうやら彼女は僕のことを知らないらしい。だとすると……? とりあえず、話を聞いてみたくなった。怪しまれないよう、初対面のふりをしながら提案した。
「混乱なさっているようですし、とりあえずどこかで落ち着きませんか?」

 それが、僕と永井朋佳の再会だった。

「改めて、よかったです」
 僕はさっきの公園まで彼女を連れてきて、ベンチに座った。
「飲み物を買ってきます。何がいいですか?」
「いや、大丈夫です。申し訳ないです」
「気にしないでください。何がいいですか?」
 こんなやり取りが何度か繰り返された末にようやく「紅茶で」と言われ、僕は自販機で二人分の飲み物を買った。
「ここまでしていただいていいんでしょうか……」
「問題ないですよ。やっぱり病院に行った方がいい気もしますが……お帰りになられますか?」
「え、あ……その、分からないんです」
 分からない? その言葉が気になった。
「差し支えなければお訊きしたいのですが、分からない、とはどういう意味でしょうか? もしかしたら、怪我だけじゃないことで困ってるんじゃないか、と心配なんですが」
「分からないというか……知らないというか。たぶん、家は前と同じところにあるとは思うけど」
 彼女の言い回しはどことなくおかしかった。もう少し突っ込んで訊いてみる。
「他のことは分かりますか? 年齢とか、名前とか」
「ええ、分かります。でも住所は分からないです。他にも分からないことは……あります。でも記憶喪失じゃないと思います。えっと……なんて言ったら……」
 彼女は口ごもったが、やがて意を決したように話し始めた。
「私は、本当はまだ十二歳で、中身? だけ別々の時間にいるんです。未来に飛んで。また戻って、それで……いや、ごめんなさい。意味分からないですよね」
 その言葉――間違いない。
 この朋佳は、時感障害を発症しているのだ。

 とはいえ彼女がいつの朋佳なのかは相変わらずはっきりしない。療養所にいたとき、僕と朋佳は「別の世界」で出会っていたのではないかと推測した。ここがその場所なのか? だが、まだ頭の整理がつかない。
 何を言うべきか。
 僕は慎重に言葉を選びながら、話を始めた。
「もしかして、なんですけど。僕も、それかもしれません」
「どういうこと、ですか」
「僕もあなたと同じで、バラバラに時間を生きているんです。十五歳から、ここ三年ほど」
 僕は事故のことを話した。もちろん実際に体験しているわけではないので具体的なことは言えないが、なんとか細部を突っ込まれずに済んだようだった。
 僕は前にいた世界のことを思い出す。そして先生たちに言われた知識と合わせて、なんとか話を繋ぐ。
「この前は大学四年の冬でした。過去もあれば未来もある。確かなのは、一度生きてしまうと、その期間の時間は二度と戻ってこないということです。普通の人間が寿命を消費していくのと同じですね」
「……嘘」
 朋佳は小さな悲鳴を上げる。予想以上にその事実がショックを与えたようだった。なにぶん中身はまだ十二歳なのだ。それも当然だろう。
「もしかしたら、そっちはまだこの現象が起きてからそれほど経っていないのかもしれない。それならまだ時間はあるから、悲観的になりすぎない方がいいけど――」
 話しているうちに、みるみる朋佳の目が潤み、涙が溢れてきた。無理もないだろう。初めて時感障害のルールを知ったのだから。
「あ……ごめん、傷つけることを言ってしまったかな」
 だが、彼女の涙の理由は、違ったようだった。
「違うんです。分かってくれる人がいて、嬉しいんです」
 ……無性に、愛情が湧いてくる答えだった。
 僕もだよ、と思う。

「あの……また、会えないんでしょうか」
 これまでの会話ではっきりと分かったことがあった。この世界は、朋佳が僕を助ける前のポイント。しかも、ちょうど今さっきが、朋佳にとっては僕との初めての出会いだったのだ。
 だとしたら、どうすれば――そうだ。
「それなら、僕を探してください。僕はまだ高校一年の先を体験していない。ということは、そこにたどり着いたときに、僕は今ここで君と一度出会ったことを覚えているはず。そこで僕と再会できれば、何か違う道が見つかるかもしれない」
「……また出会える確証は、あるんですか」
「さぁ」
 僕は笑った。「何か目印になるものでもあれば、また違うけど」
「あの、訊きたいんですけど――高校、教えてくれませんか?」
「ああ……もしかして、その時に着いたら、僕を訪ねてきてくれるんですか?」
「はい」
 なるほど。それならば、僕の残り時間が尽きる前に出会える。
「じゃあ、最後に名前を訊こう。僕は中島弘樹。君は?」
「永井、朋佳です」
「よろしく」
「……よろしく、お願いします」
 僕たちは握手をした。
 抱き締めたい――そんな本当の気持ちを、殺しながら。

 自宅でノートを精読してから、今後のことを考えるようになった。
 僕がどうしたいか。その気持ちはもうはっきりしている。
 朋佳を救うこと。
 彼女が僕にくれた恩に、報いること。
 そのために何ができるか、考えろ。

 高校生活は懐かしさの連続だった。教室も、黒板も、教科書も、ノートも、制服も、上履きも、ローファーも。……とはいえ(発症しなかった世界の)自分の記憶とは違うこともあった。
 僕が、思ったより孤立していたことだ。
 登校して二日と経たぬうちに、それはボディーブローのようにのしかかり、きつくなってきた。誰も話しかけてこない。用事でやり取りをするときも、非常にぎこちない間があって、それが嫌で嫌で仕方がない。まぁ、考えてみれば時感障害の人間は他人とあまり関係を持ちたがらないだろうから、こうなるのも仕方がないのかもしれない。普通の人生のありがたみがよく分かる。
 そして、ついに今日限界が訪れた。もはや教室で食事を摂ることすら嫌になってしまった。どこか食べる場所がないか。だが場所によってはもっと惨めになるだけだろう。そんなことを思いながらとぼとぼ廊下を歩いて、階段に入ったとき――ある女の子とすれ違った。
 彼女はきょろきょろと周囲の目を伺っている。どこか目的地があるのだろうか。興味が湧いた僕は、気づかれないように後を追った。すると彼女は四階の階段をさらに登り、『立ち入り禁止』の表示を越えて――屋上の扉を開けてしまった。
 驚いた衝撃で、道を封鎖していたコーンを蹴飛ばす。物音に感づいて振り向いた彼女と、目が合ってしまった。「あ」と声を上げたが、もう遅い――
「――ごめんなさい‼」
 叫ぶ彼女の声と顔は、どこかで覚えがあった。

 木田珠希。それが高校時代の野矢さんであることはすぐ分かった。確かに青山さんは「若い」といっていたがあまりの事実にどこから突っ込んでいいのかは分からなくて――でも、これはチャンスではないか。
「ごめんなさいっ、偶然開け方を見つけて、誰にも見つからないから、暇なときにいつもここに来てたんです……言いつけないでほしいです、何だってします、だから……」
「ねぇ」
「は、はいっ、なんなりと」と緊張する彼女を、僕は柄にもなく脅してしまった。
「じゃあ、一つお願いがあるんだけど――」

 それから僕たちは屋上で遊ぶ仲になった。昼休みとか、放課後とか。珠希(この呼び方には慣れない)の口調があまりにもかけ離れていたので驚いたが、話しているうちに、年は違えど、この人は同一人物なのだな、という実感を持った。それならば――何か協力の糸口がつかめるかもしれない。僕は自身の時感障害について明かすタイミングを探っていた。
「先輩。紹介したい人がいる、って話をしましたよね」
「ああ」確か、そんな話を昨日聞いたっけ。若干の警戒心が湧いたが、まぁ別に構わないか――とすぐ思い直した。僕の計画には特に邪魔にならない。

 そして翌日、僕が馬鹿だったことはすぐに明らかになる。
「えーと、この子が……例の?」と、必死で冷静を装ったけれど――
 つまるところ。
「は、はじめましてっ」
 朋佳は、この高校に在籍していたのだ。

 僕は彼女に情報を与えることにした。
 小学生相手に時感障害の話をするのは難しく感じたが、彼女はなんとかついてきてくれた。SFが好きだったのも幸運だっただろうが、時感障害の患者は異常な成熟を見せるのだろうか。

 僕に残された時間が少ないことは分かっていた。でも朋佳が僕のことを心配しないよう、それを隠したまま三人でたくさん遊んだ。
 
 珠希はボードゲームが好きだったから、僕たちは屋上でそれに興じた。購買のパンや菓子、弁当のおかずを賭けて奪い合うのだ。あまりにも僕が下手くそなので、いつもすべて珠希に取られてしまい、お情けで朋佳が買い戻す――という展開だった。朋佳はパワーバランスが悪いのを考慮したのか「これなら弘樹さんもできるんじゃないかな」と、ブロックスを持ってきた。
 僕は負け続けた。
 もちろん、手を抜いていたのだけれど――なぜそうしたかといえば、たぶん朋佳が買ったときの笑顔が見たかったからなのかもしれない。

 天文部としての活動を形だけでも行うために、僕たちは許可を得て深夜の学校に入った。
 僕は持ってきたテントを往復して屋上まで運び、備品の望遠鏡をテストした。使い方はよく分からなかったが、とりあえず何かの星を見れればよかった。というか、天の川が肉眼でも見えたので、それだけでテンションが上がったのだ。
 珠希は「キャンプファイヤーとか花火がしたいわね。あとバーベキューとか……」とふざけたことを言っていたが、素人でも思っていた以上に天体観測は楽しめた。
 その後に、みんなが簡素な寝具とともに就寝の準備を済ませ(ちなみに二人とも僕と同じ場所で眠ることには、拍子抜けするほどにまったく抵抗は示さなかった)、眠りに入った頃合いを見計らって僕は外に出ようとした。なんとなく、もう一度星が見たかったのだ。……けれど、テントの中に彼女はいなかった。
 彼女は方位磁針から南の空を確認し、何かを探しているようだった。その姿を息を呑んでみていたが、「――弘樹さん?」と、声をかけられた。どうやら気づかれてしまったようだ。
「なんで隠れてたんですか?」
「いや……すごく集中してるみたいなので」
 彼女は僕に星座早見表を渡してきた。「どれを探しているの?」と訊くと「あれです」と空を指さした。――そこは天の川の真ん中。表を見てみると、その星座はS字型に川の流れを横切っている。
 さそり座。
「一番明るいのはアンタレスです。分かりやすいですね」と、横で彼女が言った。
「星、詳しいの?」
「いえ。天文学には明るくないです。ここに来る前に検索してきました」
 身も蓋もなかった。
「でもね。さそり座に関する好きな話があるんです」
 彼女はそう言って、ある物語を話し始めた。
「『むかしのバルドラの野原に一ぴきのサソリがいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日イタチに見つかって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命にげてにげたけどとうとういたちに押さえられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺れはじめたのよ。そのときさそりはこう云ってお祈いのりしたというの、

 ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちにくれてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてず、どうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。

 って云ったというの。そしたらいつかサソリはじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって』――おしまい」
 彼女は一字一句を暗記しているかのように、すらすらとそらんじた。
「弘樹さんはどう思いますか? この話」
 少し考えてから、僕は答えた。「すごく……サソリに共感する、かな」
「共感ですか?」
「そう。サソリはきっと強くない。弱いと思う。たぶん自分がどうしたいか、自分にとって何がいいか、何が利益になるか――そういうことを考えられる人の方が、立派で、強い。でも僕もサソリと同じだ。自分のためだけに生きられるほど、僕は強くない……から」
「……」
「だから、誰かに縋って生きているのかもしれない、と思った」
 朋佳はそれを聞いたまま黙っていたがやがて「……そうですか」と言った。
「弘樹さんらしいですね」
 そのまま彼女は座り込んで、寝転がった。僕もつられて横になる。
 それから僕はなんとなしに「朋佳」と声をかけた。「何ですか?」と彼女が答える。実は理由もなく呼んでみたのだが、そう言って話を終えてしまいたくなかったので、適当に訊いてみた。
 話題はこれだ。
「ねぇ、レイモンド・チャンドラーを読んだことはある?」

 一見楽しい日々を送りながら、裏で僕はひどく気を遣った。彼女が僕の真実に感づいてしまったら、また僕を助ける方法を模索して、事態が逆戻りしてしまうかもしれない。
 だから、秘めた気持ちのことは決して言えなかった。

 やがて僕は第二のプランに移ることにした。
 珠希は入不二家とコネクションを持っている――そういう話は過去に青山さんから聞いていた。だから、彼女を味方に引き入れることは大きな一歩になる。あとは本人が信じてくれるかだが――勇気を出して「珠希、ちょっといいかな」と、二人きりのときに告げた。
 彼女の反応は、まぁまぁ悪くなかった。
「……信じるの?」
「うん」とそっけなく珠希は言った。「その方が面白いじゃん」
 呆気にとられた。この頃から彼女は変わっていなかったのか。
「真面目なことを言えば、彼女が何か事情を抱えていることは、最初から察することができてたから。それに、二人とも悩んでいるんでしょ? それなら私も協力したいな」
 彼女は自発的に「入不二さんの研究室なら、分かってもらえるかもしれない。変な研究をしてるから。時間がどうこうみたいな」と提案してくれた。「だから話しに耐性があるのかも」
 ただ、と彼女は付け足す「本当に、隠すのはいいことなのかしら」
 僕は朋佳の運命を話した。このままでは絶対に死んでしまうということ。そして前の世界で僕を発症から助けたこと。だがそれは元に戻ったこと。彼女を僕が救いたいこと。だが僕の残り時間が短いことを教えると、また僕を助けようとしてしまうこと。
「……分かった」と彼女は頷いた。納得はしかねるようだったが、理解はできたのだろう。

 そして、僕はついに重要なステップを踏むことにした。
 休日、僕と珠希はこっそりと大学の片隅にあった入不二研究室に向かった。
 先生は例によって白衣姿。外見は未来とほとんど変わらない。
 顔を合わせるなり「香苗!」と珠希が彼女に飛びついて「やめろ」と頭を叩かれる。
 先生は僕の話を疑わず、親身に聞いてくれた。
「……それで、君と朋佳ちゃんはバラバラの時間を生きている、と」
「そうです」と僕は頷く。未来で朋佳が死んだことは、ひとまず隠した。
「私は昔から似たような症状を起こす人を研究していてね。非公式に『時感』と名付けている。通常の人間と違う時間観を持っている人や、それに近い体験の原因はそれぞれだ。LSDやモルヒネなどの薬物。また民族の範囲で我々と違う時間を体験している人たちがいる」
 彼女は棚から何冊か本を取り出す。
「医師で作家のオリヴァー・サックスは、モルヒネを注射してから部屋着の上に百年戦争中のイギリス軍とフランス軍の戦闘の幻覚を見た。それが終わったとき、十二時間が経っていた。その間ずっと彼は部屋着を眺め続けていたけれど、彼には一瞬に思えた」
「……」
「また、アフリカのある原住民にとって時間は『ササ』と『ザマニ』の二つしかない。前者は起こりかけていること、今起こっていることと、起こった直後のこと。後者は永遠の過去。例を挙げると、死んだ人間はまだササだが、家族や知り合いが全員死んでしまうとザマニになる。未来という概念はない」
 こんな風に、時間の感覚は決して一律ではないのだよ――そう先生は言った。
「だから君たちのことも疑おうとは思わない。むしろ興味深い研究対象だよ。私は脳科学者として周囲から奇怪な目で見られているから、信頼できるかは怪しいがね」と冗談を交えながら。
「ただ気になるのだが、その朋佳ちゃんとはいっしょに来なかったのかい?」
「……今日は、彼女に聞かれたくない話をしなければいけないので」
 それから僕は珠希に伝えたように、先生にも朋佳に「僕を救ったこと」を話せない理由を教えた。
「ふうん。あれ? でも君は珠希のことを警戒しなかったのかい? たとえば、彼女が朋佳ちゃんに密告する可能性とか」
「そんなはずないです」「そんなことしない」
 僕たちの声は重なった。
「ふふ」と彼女はにやりとした。「信頼されてるんだね」
 珠希の方を向くと「なんなの」と、彼女はなぜかむくれていた。
「とりあえず、君の脳を調べさせてもらうことになるかもしれないね。いいかい? 君はこの現象――いや、症状を治したいんだろう?」
「ええ」
「時間はかかるかもしれないが、極力やってみよう」

 それから、朋佳に隠れて研究室に行くようになった。もちろん三人での時間を減らすことがないように極力の努力を怠らないのは当然だ。怪しまれるかもしれないし、何より彼女のために行動しているのにその本人をないがしろにするのは本末転倒だからだ。

 けれど、僕たちは後悔することになる。
 いや、後悔なんて言葉じゃ生ぬるい――それくらい、取り返しのつかないことが起きる。
 
「……助けて」
 あくる日、朋佳が僕に電話をかけてきた。
 彼女の父が姉に殺されたこと。
 自分も命を狙われたこと。
 僕は珠希とともに、必死で彼女を助けようとした。
 だがそれは失敗した。
 駆けつけたとき、朋佳はもう死んでいた。放心状態でへたり込む姉に、殺されていた。
 死んでいた。
 死んでいた。
 死んでいたのだ。
 ……これ以上、詳しく語る必要があるだろうか?

 

8 - LOVE/HATE

 数か月後に初めて珠希に会った。僕は受験を終え、大学生活が始まっていたが、内心は何も考えられる状態ではなかった。珠希もまたひどく憔悴していた。彼女は自殺未遂を起こし、入院中だった。痛々しい腕や手首の傷が見えた。
 病室で僕たちは黙ったままだった。語るべき言葉が見つからなかった。
「朋佳さんの母親、自殺していたそうですね」
 それきり彼女は口を噤む。
 ……数分間の沈黙ののちに「私、あれから考えました」と彼女は再び話し始めた。
「聴取で姉が言ったそうですが、彼女は生前のある時期から激しい頭痛を訴えていたそうです」
「……どこからそんなことを」と言いかけたが、黙っておいた。
「だとすれば、彼女が時感障害だった可能性も十分にあり得ます。家庭崩壊のきっかけになった可能性もあります。だからどうという話ではないですが」
 珠希はそのまま、力ない目つきで僕を見る。
「これはまた推測なのですが。もしかしたら先輩が殺された未来があったのかもしれません」
「ああ」
「先輩が大学生だった世界で、先輩を朋佳さんが助けた理由もそれで説明できるでしょう。恐らくはあの事件を回避する目的があったはずです」
「ああ」
「それなら、二者択一だったんですね」
 言葉が出なかった。
「何なんですか! こんなの……彼女の人生は――」そのまま泣き崩れる彼女を、僕は支えた。
「朋佳さんの人生は、何だったんですか」

 彼女は退院後も自宅に閉じこもり高校に来なくなった。僕もまた世界からあらゆる色が消えたように感じられた。何を食べても味がせず、何を見ても何を聴いても心が動かされることはなかった。僕たち三人を繋ぐ絆は徹底的に破壊されていた。
 定期的に彼女の元を訪問した。激しい自傷や自殺衝動のようなものはなかったが、痩せぼそり、声も弱弱しく、目線はふらふらと宙をさまよっていた。
 精神のバランスを欠いてしまった彼女に何が必要なのか、分からないまま時が過ぎる。

 ある日、先生が僕の元を訪れた。ずいぶんと久しぶりのことのように感じた。
 彼女は開口一番に行った。
「君は時感障害に関する研究をしたいんじゃないかな?」
「……どこで聞いたんですか」
「いや、おそらくそうだろうなと思ったのだ」
 僕は「……ええ」と答えた。「志望先も、それを見越してのことです」
「それなら、私のところに来ないか――そう、言いに来たんだが」
 僕は目を上げた。「……どうしてですか?」
「簡単だよ。そして割と失礼な理由だな。君はいいサンプルになるからだ」
 さらりと先生は言い放った。
「だが、もちろんそれだけじゃない。君たちはきっと、時感障害の治療法を探したくなるのではないか――とも感じたからだ。これ以上は言わなくていいかい?」
 だがね、彼女はと細く息を吐く。
「それによって人生を持ち崩す可能性は、否定できないな。……君たちには、不幸になってほしくないんだ。朋佳ちゃんのことは――何を言えばいいのか分からない。だが、気持ちを踏みにじるかもしれないのを覚悟で言えば、君たちには君たちの人生がある。でも――そんな強い言葉は、さすがに私もひどいと思う。……珠希の様子はどうだい」
「よくないです」
「……そうだろう。だが、先ほどの話を転倒させると、もしかすると彼女が研究に興味を持ってくれたら、なにがしかの支柱になるのではないかな?」
「それは……」僕は口ごもった。「どうなんでしょう。いいことなのか、分かりません」
「それも、そうだろうね。だから君たちに任せる。どんな決断をしても尊重する。大丈夫だ。決断次第では君のことも諦める。拉致して検体になどしないよ」

 それから珠希にこのことを話すと、彼女は「やる」と言ったきり、何も言わなかった。
 そんなことをしても彼女は帰ってこない。僕たちの動機は逃避行動に等しい。
 それを承知した上で、僕たちは研究の道に足を踏み入れた。

 僕は珠希を支えるほかなかった。彼女に健康的な生活を送ってもらうため、僕たちは同棲を始めた。いや、同一の空間で生活を始めた。お互い不承不承のことだっただろうけれど、それでも次第に生活は回り始めた。
 《移動》はちっとも起きなかった。そのことが、もう僕にはこの世界しかありえないことの証明だった。悔しかった。朋佳を救う可能性はほぼ途絶えていた。

 ある日、珠希は唐突に「名字が変わったんです」と告げてきた。
「野矢?」と呟いて、慌てて口を押える。「いや……」
「ああ」と、珠希の反応は冷淡だった。「どこかの世界での私も、そうなってたんですね」
 まぁ名前なんてどうでもいいです、と彼女は冷淡に吐き捨てた。でもそんなことはないんじゃないかと思った。だから、ちょっと訊いてみた。
「ねぇ、珠希」
「……なんですか」
「僕のこと、まだ先輩って呼ぶの?」
「……他の呼び方が、思いつきません」
「それに、敬語もそのまま」
「悪いですか?」
「そんなことはないよ。ただ――無理をしている、気がする」
「無理?」珠希は僕をじろりと見た。「先輩が嫌なら変えますが」
「嫌とかではないんだけど……」
「何がいいんですか? 言ってください」
 身を乗り出して迫られる。少しでも気が休まるのではないかと言ってみたのだが、そこまでされると、もう引くわけにはいかない。僕は、あの頃の『野矢さん』を思い出す。
「たとえば……今のなら『何がいいのか、言ってくれるかい?』みたいな……」
「何ですかそれ。私の方が年下なのに、変です。もしかしてその世界の私の口調ですか?」
「あ、……うん、そうだね。でも、なんか落ち着いていてしっくりくる感じだったから、試してみるのもありなんじゃないかな」
 珠希は僕の目をみて数回瞬きをしてから「ああ、仕方ないね。分かったよ。――こんな感じですか?」と言った。律儀に「こんな感じだろう?」と訂正しながら。
「いいんじゃないかな」
「なんで変な顔をしてるんですか? 先輩――いや、君? が言い出したのに」
「いや、いいと思う。すごくいい」
 そうなのかな、と彼女は釈然としない様子だったが、何度か頭の中で例文を考えたようで、それから「まぁ、悪くないかも」と結論付けた。「じゃあ、君のことはなんて呼べばいい?」
「中島くん、とか」
「それも合わせるのかい?」と彼女は呆れた。「この世界の私は、別人なのに」
「あ――」言う通りだ。懐かしさから、無神経なことを提案してしまった。
「下の名前で呼んだ方が、いつだって困らないじゃないか」
「え?」
「察してほしいね」と彼女は呟いた。「君しか、私を繋ぎ止める人はもういないんだから」
 ……少しの間黙ってから、「……じゃあ、そうしよう」と言うことしかできなかった。
「弘樹くん」
「珠希」
 二人で呼び合って、弱弱しく笑った。

 研究への道のりは進み始めた。僕は化学を学び、同じ大学に進学した珠希は物理学を専攻した。僕は先生と日々議論を重ねた。
 やがてある義務が近づいているのを感じた。自殺後にベンチで目が覚めた、あの直前の自分に乗り移り、ノートを書き上げてから、ベンチの隣に置いて座り、意識を失うこと。
 ノートを書いたのは自分。それを読んだ僕はノートから様々な情報(自分が時感障害であること、朋佳が僕を助けたこと、等々)を思い出した。その情報を僕はノートに書き、こうして過去の自分に渡した。
 僕は自分を維持するためにこれを過去の僕に渡さなければならない。そして、彼の記憶を整理するのに役立てなければいけない。
 けれど、事件のことを書くことはできないのだ。ここでの研究はかなり進んでいるからだ。もしも事件のことが書かれたノートを読んだ過去の僕が朋佳を強引に助けたとしても、技術が発展するかは不明瞭だし、そもそも治療法が確立される前に死んでしまう。手詰まりに近かった。僕ができることは、まるで慰めのように治療法を研究するだけ。

 果たして予想通り、僕はあの日の前日の夜に飛んだ。
 僕は知識の引継ぎを成し遂げた。

 珠希はやがて一つの仮説を見つけた。それは「脳のマクロなスケールで量子現象が起きており、それと《移動》に関連があるのではないか」というものだ。
「だとすれば、その現象を確認できさえすれば、この病の発生原因が証明されることになるのだろうか」と、先生は遠い眼をした。
「僕の脳を観察すればいい」と僕は言った。「身近にいる、手っ取り早く手に入るサンプルです」
「しかし……いや、分かった。取り組もう」
 入不二研究室での研究に僕たちは加わった。
 珠希と僕は同棲していたが、一人と一人が同じ空間に暮らしているだけだった。僕は彼女が逸脱しないための、監視役だった。
 お互い一言も朋佳のことは喋らなかった。けれどたぶん僕たちは地球上の誰よりも朋佳を大事にしていた。だから、僕も珠希も、お互いのことはちっとも見ていなかった。
 僕は自分の脳や身体のデータを提供することを躊躇わなかった。時感障害の貴重なサンプルとして、生きたまま使い潰される覚悟だった。
 先生は僕たちを心配したが、同時に僕たちの助力を大きな力に感じていたのも事実だろうから、何を言えばいいのか分からない様子だった。実際、研究は僕の(秘密裏の)データ提供と珠希の理論によって、より具体的な方向に進みつつあった。
 一年、五年、十年。
 一向に《移動》はなかった。その間にも研究は進む。だが、朋佳と同じように、僕の脳にもいつか腫瘍が発見されるだろうという確信があった。
 命が尽きるのが先か、治療法が解明できるのが先か――時間との勝負。まもなく精密な実験が可能になり、僕の脳を観察することができた。
 そこで起きていたのは、予想通り驚くべき現象だった。特定の部位が量子現象を引き起こし、脳腫瘍を引き起こしている可能性が指摘された。
 そこから治療法も見つかる。重ね合わせの現象を起こしている物質を阻害する薬品を作ればいい。理論が完成してからは非常に早かった。
 けれど僕の頭はからっぽだった。こんなにもやるせない人生はなかった。
 救うべき人はもういない。残酷なことを言えば、これから助かる可能性のある人たちを生き甲斐にすることはできなかった。彼女はすべてだった。
 僕はまた、自分の病を治療したいなどとは毛頭も思わなかった。《移動》に関してはもう起きないだろうし、さっさと脳疾患か何かで死にたかった。珠希には言わなかったし、言えなかったけれど。
 珠希は何も言わなかった。何も言えなかったんだと思う。

 ある日僕は珠希を食事に誘った。気まぐれだった。いや、気まぐれではないのかもしれない。
 せめてもう少し、人間的な関係を持つべきではないのかと思ったのだ。
 ……結果は悲惨なものだった。二人とも何も喋らないまま、五分が過ぎ、十分が過ぎ、三十分が過ぎた。
 やがて珠希はそれを破った。
「たぶん、私は君を好きになるべきなのかもしれない」
「……え?」
「私のために傍にいてくれるのなら、相応の何かを用意しなければならないのかもしれない」
「……」
「でも、それはできない」
「そんなことは求めてないよ」
「私はもう誰かを好きになることができないんだ。それが悲しい。本当に済まない」
 彼女はそう言うと「何を食べても、ガラスを噛んでるみたいだ」と呟いた。

 そうやって、僕の脆弱な余生は続いていく――はずだった。

 その時僕は、大学の図書館で論文に関する作業をしていた。
 ふと窓際に並んだパソコンの画面に視線が向いた。
 図書館のパソコンには、新聞社のデータベースから過去記事を抜き出すことができるサービスがある。キーボードに手を置いて、特定のキーワードで検索する。大きな事故ということもあったから、多数の記事がヒットした。
 そこから僕は、一つの記事を選んでプリントアウトした。
 見出しには「山中に旅客機墜落」と書かれている。「生存者は一名のみ」とも。
 記事の内容にざっと目を通す。

「――日深夜に当該機とは交信不能になり、レーダーからも消滅。未明、――岳の山中で捜索隊が炎上、墜落しているのを発見した。機体の損壊度から見て生存者は絶望的と見られたが、軽症の男子中学生一名が発見され、まもなく救助隊に緊急搬送された。男子中学生は頭を強打していたが意識はあり、受け答えもはっきりしている。他に外傷はなく、奇跡的に命に別状は見られなかった。他三九五人の乗客乗員は全員の死亡が確認された。当局はフライトレコーダーの解析とともに、先の生存者や、目撃者の証言を集めることにしている」

 今まで僕は意識的に自らの事故のことを考えず、調べもしないようにしてきた。それは記憶になかったからだ。考えられる可能性は三つ。まだその瞬間に飛んでおらず、経験していない。そもそも意識を失っていた。一時的な記憶喪失に陥っている。そのどれかだろう。もしも一番最初の可能性があるならば、僕はこれから事故を経験しなければならないことになる。最も恐れていたのはその事態だった。だからこそ、見てみぬふりをしなければ、自分を維持することができない――そんな自己防衛の手段として、忘却を選んだ。
 それならなぜ、いまそれを破っているのだろうか? ……分からない。気まぐれなのかもしれない。それとも、これから事故を経験する可能性を思い出して、無意識にショックを緩和したかったのだろうか? データとして事故を知ったとして何になるわけでもないのに。
 それを読み終えた僕は、特に持っていたいものでもないのでゴミ箱に捨てようと思い、紙面を持ったまま席を立って――
 ――待てよ、と思う。
 再び記事に目を通す。
 もし事故と時感障害に何らかの関連があるのならば、頭を強打したことが具体的な理由になるのかもしれない。とはいえ事故直後の僕に意識はあったという。そして錯乱したりはせず、しっかりとした応答もできたらしい。それならば記憶喪失状態ではなかったということになる。
 にもかかわらず、僕には記憶がない。
 ――そう考えると、やはり未経験説がもっとも有力と言える。
 ため息が出た。痛みや苦しみには慣れているが、それでも「これから拷問される」と分かった上で生きていかなければならないことは、やはり計り知れないストレスだ。もう何も感じないほどに燃え尽きかけた僕でさえも、まだ恐怖という感情は残っていたのだ。
 この事故こそがすべての元凶だった。僕と朋佳を出会わせ、引き裂いた大いなる原因。避けることはできない。なぜならそこが僕の時間《移動》の起点だからだ。僕自身がそれ以前に遡って飛行機に乗らない(事故自体を止めることは僕には不可能だろう)ことはできない。それを回避させられるのは、朋佳のような、僕が発症する前の時点に《移動》できた朋佳だけだ。その結果、僕が時感障害になったことはなかったことになり、普通の人間として生涯を終えるはずで、でも僕は彼女を助けようとして、そして失敗し、ああ――そうだ。
 僕は朋佳を助けたかったのだ。
 その感情を思い出した瞬間、涙が溢れてきた。図書館に来ている利用者たちに奇異の目で見られても、どうでもよかった。
 朋佳を助けることなど、もはや叶わない願いになってしまった。だってもうこの世界で朋佳は死んでいるから。だから時感障害を治せる技術があっても無意味だ。僕に時間《移動》は起きないから、朋佳が死ななかった世界に向かうこともできない。もし《移動》できるとしても、それはあの忌まわしい事故の瞬間だけ。

 いや。
 少なくとも、事故の瞬間には行くことができるのか。

 涙が止まった。
 何かが引っかかった気がした。

 考えろ。
 僕が飛ばされる事故の瞬間。その世界は、今僕がいるこの現在に繋がるだろう。そこで僕は病を発症する。あらゆる場所を飛び回り、朋佳と出会い、別れ、気の遠くなるような時間が流れた後、今この瞬間まで繋がる。ちょうどノートの展開を完璧になぞり、それからこの世界での僕の人生に繋がり、今に至るわけだ。だからもしもその起点になる事故の際に、たとえば僕が自殺でもすれば、今まで起きてきた人生のすべてが泡と消えるだろう。もちろんそんなことはしないけれど。しかし、変化を起こすことはできる。
 考えろ。
 僕は時感障害の治療法を知っている。だから事故の瞬間に飛んだあと、もしも少しでも違う行動を取りさえすれば、そこから過去が分岐する可能性がある。たとえば――治療法を、誰かに伝えたりすれば? それが本当に伝わるかは分からない。狂人の戯言だと思われるかもしれない。また、僕が語った程度で薬がすぐ開発されるわけではないから、何年もかかるかもしれない。……それでも、伝わりさえすれば短縮させられるかもしれない。
 考えろ。
 整理すると、問題になる世界は三つだ。
 療養所で僕たちが出会い、最終的に朋佳が病死した世界。Aとしよう。
 僕が今いる、飛行機事故で僕が発症し、高校で三人が出会い、朋佳が殺害され、時間障害の治療法が見つかった世界。Bとしよう。
 そして、Cの世界は、Bから飛んだ僕が事故の後に治療法を伝え、朋佳の病が治った世界。
 Aで、朋佳は僕の前で死んだ。そのままなら、彼女の意識――魂でもなんでもいい――は、そこで終わりを迎えたまま消えるだろう。だが、彼女を治療できたCの世界を作り出せれば、朋佳の病死の瞬間まで遡って、そこからバイパスのように意識を《移動》させられるのではないか? 朋佳に残された可能性がAだけだったとすれば、他にCの世界が見つかった瞬間、必ずそこに飛ぶだろう。そしてその先の世界では、もう病が治癒している。そうすれば――彼女は、普通の人間としての一生を終えることができる。
 考えろ。
 Bの世界で、朋佳は十二歳で発症した。僕より前だ。でなければ事故から僕を救えない。だから、僕が治療法を人に伝えられたとして、その頃には既に発症していることになる。もちろん病の初期段階であるならば、薬を飲むことで観測される世界が(飲んだ世界で)固定されて、治る。腫瘍も自然治癒または摘出でうまくいく範囲だ。ネックとしては、それまでに《移動》が起きてしまったなら混乱が予想され、厄介なことになるわけだが――だが、おそらくは大丈夫だという実感がある。なぜならば時感障害は進行(朋佳にとってはB→A→C)とともに《移動》がどんどん減っていくからだ。既にAの世界でさえ、十二歳からここに来るまで一度も《移動》は起きなかったというではないか。

 ……理屈は、通った。
 だがそれは通っただけだ。実現可能性は限りなく低いだろう。
 でも、そんなのどうでもよかった。彼女を救えるかもしれない――その気持ちだけで、もう十分だった。それだけで、また僕は生きる気力を取り返した。今までと同じ。どうしてこんな単純なことを、忘れてしまっていたのだろう?
 僕の命はまだ、燃え尽きてなどいなかったのだ。
 
 数日間の準備を終えて自宅に戻ってきたとき、ちょうど珠希もいた。学会から戻ってきて、仮眠を取っていたのだ。僕はパンをトースターで焼き、目玉焼きを作って、切ったトマトとレタスを添えて、簡素な朝食を作っておき、ラップをかけて机の上に置いた。
 その時――ねぇ、と声がした。
「ごめんね。起きていたんだよ」
「……」
「ねぇ、どこに行くのかい?」
 珠希は、ぽつりと僕に訊く。
 僕は答えなかった。答えられるわけがなかった。けれど、珠希は僕が何をしようとしているのか、既に察しているらしかった。そうだ。やっぱり彼女はとんでもなく賢いのだ。
「僕は」と言いかけた瞬間に、彼女が抱き着いてくる。
「よくないことを、考えてる」
「よくないことじゃ――」と言おうとした瞬間に、彼女は僕を後ろから抱きしめた。
 二人で暮らすようになって、初めて僕の身体にまともに触れたかもしれない。
「よくないことじゃ、ないんだろうね」
「……」
「朋佳ちゃんのことだろう?」
 黙り込む僕に「済まないね」と珠希は続けた。「でも、仕方ないな。私だって彼女のことは大好きだし、助けたいって思っていたから。だからそれが叶わなかったとき、すごく悲しかったんだよ。すごく、すごく。それは……弘樹くんだって見ていたと思う。でも、二人っきりになってから、だんだん君のことを、特別に考えるようになってしまった。それは――朋佳ちゃんに対する裏切りだというのは分かってた。でも……私、は」
「……珠希」
「いいんだよ。私の我儘だから。今だけは、一緒にいさせてほしい。話をさせてほしい。――だいたい分かっているよ。弘樹くんがこれからどこに行くのか。もう二度と会えないことも分かってる。だから――今が最後の時間なんだね」
 彼女は僕の前まで回って、鼻がくっつきそうなほどに顔を近づけて「いや、いいや」と笑った。「やっぱり、朋佳ちゃんを裏切るのはやめよう」
 実はね、と彼女は切り出す。
「弘樹くんのことは、あの頃から見ていたんだ。最初に屋上で見つかっちゃったときは『しまった』って思ったけど、やがてすぐ慣れた。君、せんぱい、きみは人懐っこいから。二人で過ごす日々は楽しかった。……それから朋佳ちゃんがやってきた。より賑やかになった。楽しくなった。でも――私は心のどこかで、彼女を邪魔に思っていたかもしれない」
「……そうなんだね」
「たぶん。でもそれは言えなかった。だから、あのグループは薄い皮一枚隔てたところでギリギリ綺麗に成り立っていたんだと思うよ。勘違いしないでほしいのは、朋佳ちゃんのことはいつだって大事だったってこと、それは確かなんだ。でも、それでも、私は彼女を疎ましく思ってしまった。だから、死んじゃったとき、心のどこかでそれを――喜んでるとは絶対に言わなくても、安堵してしまった自分がいたかもしれない。それを考えたとき、とっても恐ろしくなった。だから私はめちゃくちゃになった」
 それでも弘樹くんは受け入れてくれたよね、と続ける珠希は、もう涙声だった。
「その厚意にまた甘えてしまった。弘樹くんは朋佳ちゃんのことしか見ていなかったのに、私なんかが足を引っ張ってしまった。私は最悪の、罪深い人間なんだよ。ごめんなさい。あやまらなきゃ、って」
「謝らないでいいよ。もとはといえば――病気が全部悪かったんだ。でも」
 僕は珠希に向き直る。
「珠希との時間は、間違っていたとは思わないよ。それは、嘘じゃない」
「……ありがとう」
 そう呟いた珠希は、涙を拭きながら笑っていた。

「お別れなんだね」
「そうだよ」
 僕が鞄を持って、玄関に向かう。彼女はてくてくとついてくる。
「朋佳ちゃんをよろしくね」
「うん」
「私の――友達を、よろしく頼むよ」
「うん」
 最後に、珠希は僕の手を一度握ってから、手を振った。
「いってらっしゃい」
 そのまま、ドアは閉まった。

 どこで命を終えるかは、もう決まっていた。
 あの時と同じ――海が目の前に見える、あの場所で。

 予想が正しければ、僕に残された、まだ生きていない人生はあの事故の瞬間だけ。
 だからここで自殺すれば、自動的にそのポイントに飛ぶことになる。あとは――生き延びること。
 飛行機事故の生存率は絶望的だ。僕の場合。墜落時には無事だったかもしれないが、その後を耐えなければいけない。だから墜落現場を調べ、救助が来るまでどのように命を繋ぐかをリサーチした。それに頼るしかない。
 また、同時に時感障害への特効薬の知識を伝えないといけないので、僕は必死でさまざまなデータを暗記した。つまり、理論はともかく生成方法だけでも伝えられれば勝ちなのだ。それを、既に存在している入不二研究室に送るよう伝える。子供の戯言だと思われたらおしまいだが、香苗先生のことだ。僕が具体的な名前を出せば、絶対に何かを察してくれるはずだ。だからそこまで届くよう、事故を生き延びた後も注意しなければならない。具体的な治療をしてもらうならば、朋佳の名前を出すべきなのかもしれない。
 もしそれが成功して、僕が向こうの世界で生きていられたとして――朋佳は、事故が回避された時の僕のように、すべての記憶を持っていないだろう。だから、僕と会ったとしても何も覚えていないし、何も感じないだろう。それでいい。彼女が助かった世界で、僕は何もせず、穏やかに暮らそう。
 ただ、彼女には生きていてくれるだけでいい。

 その決意のまま、僕は最後の一歩を踏み出した。

 

9 - FADE TO BLACK

 最初に感じたのは、熱だった。
 灼けんばかりの熱が、実は温度ではなく痛みであることに気づいたのは、まもなくのことだった。ざぁざぁと吹き込んでどこかを揺らす風は、天候が悪化したことを示唆していた。
 真っ暗な世界。身体はまったく動かない。特に足を動かそうとすると激痛が走る。痛い。痛い。意識が飛びそうになる。何が起きているのか。ただ痛み。痛み――だが、それは思ったほどではなかった。いや、どれほど痛かったとしても冷静にならなければならない事情があった。耐えなければいけなかった。だからもう麻痺していたのかもしれない。
 ……僕は今、飛行機事故に遭遇した、ということになるだろう。ここまでは狙い通りだった。だが次の関門として、この事故から生き延びられなければならない。それこそが、最大の難関でもある。死んでしまえばおしまいだ。次のチャンスはない。
 ここを出るべきか迷う。身体が無事で、骨折等がなければ機体の残骸の外に脱出できるはずだ。なにしろ僕は無傷だったと報道されているのだから――あれ? それならば、この痛みは?
 嫌な予感がした。
 身をよじったところで何かに接触したのか、ガタンと音を立てて何かが倒れたようだ。それによって少しばかり外からほんのわずかに光が入ってきた。
 僕は目を凝らしてみる。少しずつ眼球を暗闇に慣れさせていく。
 そこで、見えてきたものは――

 何らかの金属製の骨組みに、自分の脚が潰されている様だった。

 真っ白な部屋。世の中のあらゆる澱み汚れを排除し漂白たような場所。
 僕は慌ただしくそこに運ばれた。悶える。ベッドではシーツを掴み、剥がれるまで爪を立てた。
 上半身を無理やりに持ち上げると激痛――いや、痛みでさえない身悶えが起きる。ベッドと接触している壁に、必死に体重を預けた。その後もじりじりと一定の周期を置いて噴出する痛み。
 生きている。
 まだ、僕は生きている。
 ……けれど、生きているだけだ。
 手術によって両足が切断されると同時に輸血も行われたが、様々な部位の骨折、また傷口の化膿および感染症が進行しており、総合的に見て対処が困難である――と予想された。天候が悪い中で、複雑に押しつぶされた僕を救出するのに時間がかかってしまったためだろう。
 ……これは医師から伝えられたことじゃない。誰も僕に状況を教えてくれなかった。とはいえ、どれほどの痛みの中であっても僕は冷静に察していた。自分が助かる見込みは、万に一つもないことを。だから、やってきたある女性に「僕は、助からないんですよね?」と言い放ったのだ。
 青山奈幸。事故や事件の被害者を担当するカウンセラーだ。
「……そうですね」と彼女は言ってから、淡々と事実を語った。青山さん。懐かしかった。容姿はほとんど変わっていなかったが、メイド服ではなくスーツに身を包んだ彼女の顔からは、あまり感情は見いだせなかった。僕の痛々しい身体にも、反応はなかった。
「私はちょっと困惑しています」と青山さんは告げた。
「もうすぐ死ぬ人間がカウンセラーを求めることですか?」歯を食いしばりつつ、応じる。
「そうではありません。欧米では神父や牧師がこういった局面で役割を担うことがあるので」
 それから彼女は言う。
「初対面の時点で、あなたは明らかに私が来ることを知っていたような様子だったからです」
「……そうで、すね」
 彼女の洞察は鋭い。彼女がカウンセラーとして働いていることも、僕を担当したことも既に調べてあった。そして彼女が入不二家と当時から関係があったこともまた、知っていた。だから、彼女に伝えることで、必ず先生の耳に入るという確信があったのだ。
 だから、チャンスは残っている。
「前置きはなくていいですか? のこっ……残り時間は少ないんです、だからっ」
「はい」
「いいですか――今から僕の言うことを、一語一語すべて書き取ってほしいんです」
「ええ――なんなりと」彼女は顔色を変えないまま、メモを取り出した。
「助けたい、人がいるんです」

 僕は語った。時感障害について簡潔に語った。それによってここまで来た経緯を割愛しつつ語った。時感障害の原因と、それを治す薬品のアイデアについて語った。その詳しい化学的な組成について、専門の人間ならば分かる範囲で語った。それから……永井朋佳のことを語った。彼女が時感障害の患者であることを語った。それを――正確には、母親も一緒に調べるべきだと。そしてその症状が進行すれば間もなく死が待っていることも語った。だが今のうちに治療をすればそれを回避できることも語った。

「これを、入不二研究室の、入不二香苗先生に伝えてください。必ず」
 あとは……あとは……。いや、もう大丈夫か。そう思っていると――
「了解しました。……まだ、言いたいことはありますか?」
 何度も新しいメモ帳を取り出ては書き綴っていた彼女が、目を上げて僕に訊く。
 まだ言いたいこと、まだ言いたいこと……。何だろう。
 ……気がつくと、僕は喋りはじめていた。切れ切れで、もはや声になっているかも怪しかったが、それでも必死に話し続けた。
「僕は……女の子に、出会いました。その子は変な病気でした。その子は僕に冷たかったです。でも、どうしてか気になって、なんとかして仲良くなろうと思いました。そうしたら、彼女は心を開いてくれました。でも彼女は死んでしまいました。僕は彼女を助けたかった。だから彼女がくれたものを消費してでも、それを成し遂げようとしました。その中で、僕は青春を知りました。それは……楽しい日々でした。でもそれはすぐに終わりました。彼女はまた予期せぬことで死んでしまいました。僕は苦しみに満ちた日々を送りながら、なんとか病気を治す薬を開発しました。そして、それを使って彼女を助けようとして、それで――」
「ここまで来たんですね」
 青山さんは頷いた。
「……信じるんですか?」
「信じてもいませんし、信じていないわけでもありません。私は話を聞くまでです」
 でも、と彼女は付け足して、こう言った。
「その女の子は、とても素敵な方なんでしょうね」

 僕の命は、こうして使い果たされた。

 

 

10 - BOY MEETS GIRL

 私は目を覚ました。
 そこは私の家の、自分の部屋だった。ベッドの上だし電気が消えているから、今は夜だろう。窓際にあった時計の針は零時。目が慣れてくると部屋全体が見えてきた。置かれているものからして、これは小学生頃の記憶だろう。
 そこで思う。ああ――これは最後に見る夢なのかな。
 走馬灯。
 めちゃくちゃな自分にも、そんな最期があるのかもしれない。
 明かりを点けないまま一通り部屋を見る。それから懐かしい物をいくつか取り上げてみたが、さほどノスタルジーは感じなかった。たった十八年程度だから、仕方ないのかも。
 階下に降りてみたが誰もいない。この幻想の中に家族がいるのかは知らないが、無理に起こすことはしたくない――というか、顔が見たくなかった。
 だからすぐに布団の中に入る。
 ふと、窓際に置かれた薬瓶が目に入った。見たことがないものだ。中に入った錠剤は、いくらか使われた後のようだ。何の薬だろうか。ラベルがないので分からない。この場所で、私が見慣れていないものはそれだけだった。
 でも、それが何だろうとどうでもいい。
 ――これで本当に、おしまい。

 夢を見た。
 最初に現れたのは。どこかからやってくる波紋のような力。
 次に、仄暗い場所から何かが浮かび上がってくるイメージがあり――そこからイメージ同士が接近し、凝縮し、それは波の中でひとつの網の目で繋がった。そして波は一点に集中し――意識がそこにフォーカスされた瞬間、そこに吸い込まれて――

「……えっ?」

 そこは、雪の降る夜の浜辺だった。
 私は目を疑った。
「どう、して」
 私は死んだはずだ。そう、弘樹さんと最後のデートに出かけて、車でここまで来て、それから、それから、私、え? 私は――?
 横になっている身体を持ち上げ、両の腕を見る。目の前で拳を作ったり戻したりしてみる。肉体は正常に動く。まだ眠さはあるし、身体は冷え切っているけれど、それでも私は確かに生きていた。
 なんで、生きてるの。
「なんで、いきてるの?」
「目が覚めたんだね」
 その声にはっとして、思わず後ろを向こうとして「だーれだ」と両の目を抑えられる。
 嘘だ。そんな。いや、そんなはずがない。だって、私は死んで、弘樹さんに看取られて、でないと、でないと、大変なことに――
「はい、時間切れ」と言うなり、彼は後ろから僕を優しく抱きしめた。
 そう、彼。
「ひろき、さん? うそ?」
「嘘だ、って言ったら?」
「――なんでっ!」
 私はその腕を振り払った。
「おかしい、そんなはずありえない」
「そうだね。ありえない」
「そんなの――」
 私が乱暴なことをしても「大丈夫だよ」と彼は優しい声のままで、私は泣きそうになってしまった。なんで? なんで?
「ここは僕と朋佳が二人とも寝ていた間の時間だろうね。そこは、お互いぴったり空白だったのか」
「……え?」それなら、どうしてもう時感障害じゃない弘樹さんが?
「いくつか謝らなきゃいけないことがあるんだ」と彼は申し訳なさそうに笑った。「君の手帳を探して身体をちょっとだけ確認させてもらった。あんまりにもデリカシーがないけど、これから先の僕が見つけられなかったら水の泡だからごめん。助手席のシートの上に置いておいたのさ。そこに朋佳の遺体を座らせて、下ろすときに見つける――そしてすべてを知る」
「手帳? ……そんな」
 私の頭の中で、何かが次々に弾けていく。
「でも、それなら……どうして私たちはここに……いや、ここはいつ? あ、あ……」
「混乱させちゃったよね。でも、次のごめんを聞けばきっとわかるよ」と彼は頭を掻いてから、私をしっかりと見据えて、言った。

「朋佳がくれた人生――時間、全部朋佳のために使っちゃった」

 その言葉で、私は何かを悟った。
「弘樹さん――なに、したの」
 まさか。
 まさか。
「朋佳が時感障害になっていない――いや、それが治ったであろう世界を作りだしたんだ」
「……うそ、そんなのありえない。どうやって?」
 私は咄嗟に反応する。反論する。
「僕は再び時感障害になったんだよ。それで君と出会った頃の過去まで飛んだのさ」
「ありえません。弘樹さんの人生の残りはもうないと、あなた自身が言っていたんです。だから、だから事故からあなたを助ければ、弘樹さんはここで一生を終えられると――」
「そう。確かに言った。間違ってないよ」
「じゃあ、なんで……」
「簡単だよ。僕と朋佳は、最初から初めて出会ってなんていなかったんだ」
 はじめてじゃない。
 最初に出会ったときのこと。
 私に優しく声をかけて、助けてくれたこと。
「あなただったの……⁉」
「そうだよ。今の僕――君に変な手紙で呼び出されて、冷たくあしらわれて、でも気がついたら気になって、追いかけてきちゃって――ここまで来た、僕だ」
 最初から、すべてはそうなるべくしてなっていたのだ。
「僕にはまだ、別の世界に残されていた自分の人生があったんだ。だからここで死んでも、また別の世界に飛ぶことができた。そして飛んだ先が――君と出会った場所だった」
 それが本当ならば。
 あのときの弘樹さんは既に私が病死したのを知っていた彼で、じゃあ、その他の時は?
「全部」と弘樹さんが先回りして言った。「その後も、全部知ってて見てたよ」
「弘樹さん――!」
 私は叫んでいた。
 こんなことがあるなんて、思ってもみなかった。
 私が彼を助けようとしているのと同時期に、彼もまた私を助けようとしていたのだ。
「ただ、朋佳の記録と唯一違ったのは、刺されて死んだのが僕じゃなく、朋佳だったことだ」
「ちがった……? 弘樹さんは、あのとき……」
「朋佳が先に通った世界ではそういう運命だったんだろうね。でも、僕はトロかったから、君を守れなくて――僕だけが生き残ってしまった世界ができたんだ。そして、そこで僕は治療薬を開発した。それでね、ここでまたすごい奇跡だけど、実は事故の瞬間がまだ空白だったんだ」
「――!」
 だめ。言わないで。
 それ以上、言わないで。
「僕はそれを経験してから薬の開発技術を人に託した。その賭けは――うまくいった、のかな。ねぇ朋佳。君はどこからきたの? いや、だいたい見当はついてるんだけどさ」
「分かってるの……?」
「たぶん。君はもう一度、僕が作り出した世界に行ったはずだ。もうひとつ、君が死んだ直後の魂で、それがほんの少しだけ前のこの時間に飛んだ、って可能性もあるけど……」
「私、知ってる」
 そうだ。あの部屋。あの家。――そしてまさか、あの薬は。
「さっきいたところが、新しい世界なの……?」
「そうだよ」
 弘樹さんは頷いた。「いくら製薬技術を伝えたって、実際に薬ができて、それが認められ、効果が出るのには長い時間がかかる可能性があったし、それまでに《移動》が起きることもあると思ったんだ」
 その結果、再び私はここに来た。
「薬に関してはそんなに心配していなかったけどね。先生がきっとなんとかしてくれるだろうって信じてた。……あんまり法律上いい方法を使ったかどうかは分からないけどね」
 そう言って、弘樹さんは雪を払うように私の頭を優しく撫でた。
 私が助けた彼は、また私を助けてしまった。
 だとしたら――これからは、どうなる?
「僕と同じように、朋佳の記憶はなくなるだろうね。残念だ」
 タイムパラドックス
 私はもう時感障害ではなくなっているから、時感障害がきっかけで起きた、今まで生きてきた出来事はすべて消滅する。だから私の記憶はなかったことになる。
「でも、向こうの世界にも、弘樹さんはいるんですよね?」
 私は縋るように言い続ける。
「記憶がないから、きっと分からないさ」
「でも、弘樹さんの方はあるじゃないですか。弘樹さんも時感障害を治せば、二人ともどこにも《移動》しないで済む。同じ時間を生きられるんです。私の記憶がないのは仕方ないけど、でも、そうすれば、やっと、やっと普通の人たちみたいに――」
 恋が、できる。
 そこまで言うことは、彼に遮られてできなかった。

「もう、僕はそこにいないんだ」

 その言葉。
「事故の怪我が思ったよりひどくてね。失敗しちゃった」
「――あ、あ」
 何かが溢れてくる。
 もはや涙に収まりきらないあらゆる感情が爆発して、私はむせぶ。
「うそ、うそですよね? こんな冗談、面白くもなんともないじゃないですか。最悪です、私、こんなに頑張って、こんなに好きで、助けたくて、弘樹さんもたぶん同じで、でも、やっと同じ時間を生きられたと思ったら、ひどい、ひどいよ――こんなの、死ぬのよりもっとひどい」
 でも弘樹さんは穏やかに笑っていた。いつも通り、笑っていた。
「何で私なんか助けたんですか。こんなことになるなら死んだままの方がずっとずっとマシでした。弘樹さんが生きていてくれるなら、それだけでよかったのに! なのに、私の苦労を全部ふいにして、押しつけがましくこんなことをして、私を愚弄してます、あなたって、あなたって人は――!」
「僕も、朋佳が生きていてくれればそれだけでいいんだ」
「――!」
 そうだ。だから私は彼を助けたのだ。
 二人とも、思いは一緒だったなんて。
 誰かを助けたい。そんな陳腐な感情。
 その願いは独りよがりだろうか?
 都合のいい、自己満足だろうか?
 そうなのかもしれない。確かに、そうなのかもしれない。
 でも私はそれを悪いことだとはどうしても思えなかった。
「朋佳は納得しないだろうね。でも、勝手なことを言わせてもらえば、僕はこの結末は嫌いじゃない。だって僕の命は、ちゃんと燃えたから。残りの時間も命も、全部使い果たせたから」
「何言ってるんですか、弘樹さん、弘樹さんは――」
「もう消えちゃうのに、って?」
「……」
 彼は私の方を向いてはにかむ。身体をくっつけたまま、顔と顔が向かい合う。
「朋佳、僕のことを弱いって思う?」
「身勝手だと思います。最悪です」
「……ごめんよ」
「でも弱いとは思いません。弘樹さんはつよいです。弱いのは、私で」
「僕の方が弱いさ。……少なくとも、誰かのために生きる人はみんな弱い」
 弘樹さんは海の果てへ目を向ける。
「僕たちだって、どちらか片方が一度でも自分を大事にできたならこんなことにはならなかったのかもしれない。だから僕たちは弱いし、愚かだし、哀れだ。でも」
 それでも、と弘樹さんは言い切った。
「僕たちは、綺麗だ」

「まさかこの合間の時間が二人に残っていて、このタイミングで会えるなんてね。偶然なのか、できすぎてるのか」
 弘樹さんは愉快そうだった。
 ――私たちの目の前に広がる大きな暗い海。
 馬鹿でかいだけの塩水のたまり場。
 そこに雪が落ちる。
 積もることはない。すぐに海面で溶け消える。――けれど、雪の勢いは少しずつ増しているように感じた。それこそ、この海原をすべて白く埋めてしまうのではないかというほどに。
 なんて寂しいんだろう。
 なんて悲しいんだろう。
 なんて美しいんだろう。
 私は憎む。世界を憎む。
 何かが終わっていく瞬間が、こんなにも美しいことなんて――許せない。
 許せないぐらいに。
 腹立たしいほどに。
 涙が出るくらいに。
 この景色はただ空しく、何の意味もなく、輝いていた。

「もうすぐこのときも終わるけどさ。今だけは、二人同じ時間に生きていられるんだよね」
 弘樹さんが頷いたので、私は彼の腕に絡みついた。
「じゃあ、こうやって感じてる体温も同じ時間なんですね」
「……うん」
 身を寄せ合ったままベンチに座って、指を絡める。皮膚を刃物で切り裂かれ続けているような寒さの中で、その熱だけがすべてで、唯一の真実だった。
 天に昇っていく白い息。
 真っ赤になって痛む耳。
 そんな何もかもを私は忘れるだろう。失うだろう。
 この幻が終われば、私に待っているのは朝。
 何も知らないまま目覚め、何も知らないまま今までと違う家族と、何も知らないまま学校に行き、何も知らないまま友人と話し、何も知らないまま一日を終える生活が始まるかもしれない。そうして弘樹さんのいない人生だけが始まり、出会った痕跡は何一つ残らず、私は人生を生きていくだろう。ただ一本道を歩き続ける、そんな日々を。
 朝は必ずやってくる。それは、どんな目覚めだろうか? 眩しいだろうか? 曇っているだろうか? 雨降りだろうか? 
 でも今はどうでもいい。
 でも今だけはどうでもいい。
 私は、一秒でも長くこの時が続いてほしいと思った。それ以上はもう望まなかった。
 祈った。

 これはシンプルな物語だ。
 要約すれば、男の子と女の子が出会って、別れる、それだけの物語。
 特別なことなんて何もない。単なる平凡なボーイ・ミーツ・ガール。

「もしかして、完全にこうやって同じタイミングで会うのも、初めて?」
「そうかもしれない」
「そっか。じゃあ挨拶しなきゃですね」
「そうだね」
 今、私たちは出会った。
 だから握手をする。
「はじめまして」
 そして、それと同じこの瞬間に、別れるのだ。
 だから手を振り合う。
「さよなら」

 二度と会うことのない、別れ。

 長い、長い、お別れ。