「インスタント・ユニバース」(Single Ver.)

「ぼくがまだ死人であることに慣れていないのかもしれない。だがこの場所でも、この議論も、ぼくには夢にしか思えないのだ。それも、ぼく自身がみている夢ではない。これから生まれようとする別の人間によって夢みられる夢、だよ」

ボルヘス『死者たちの会話』

 

 

 私はあいつが死んでも悲しくない。だから早く死んでほしい。しょうがないよ私のせいじゃないんだし。言い訳をさせてもらうが私だって進んでこんなことはしたくなかったし気分だってそんなにはよくない。誰かが私の代わりに死んでしまってラッキーなんてほど私は冷血漢じゃなくただ平均よりちょっと生きるのが好きじゃない、程度には生きていたかっただけでちょっぴり悪い、とも思っている。私だって画面の向こうで空爆され家を失った人を見ると痛ましい気持ちになる。たまにコンビニのレジの横にある募金箱に一円玉を何枚か入れることだってある。でも私が持っている負い目の容積はそれぐらいでとてもじゃないけど誰かの代わりに死ねるほど、なんかではない。こんな状況に遭遇して深く考える人は一週間ぶりに買い出しに出た引きこもりか末期ガンの美少女か暇な大学生かぐらいのもので大抵の人は私と同じ選択をするはずだ、きっと。つまり私は死ぬべきだったところとっさに、ある男子を犠牲にして生き延びて、それから三時間ぐらい良心の呵責に悩んでいるうちにも人生が進んで不幸な男子のことなんか明日の漢字テストの範囲に押し流されてしまう。はずだった。でも問題は彼も同じことを考えているしたった今も考えているだろうことだ。そう、この今たった今、目の前で抱えたギターごと爆発炎上したタンクローリーに潰されて血を流し倒れているこいつである。今日は勝った。しかし明日にはまた戦わなければならない。私にも彼にも巻き戻しの力はある。だから片方が死ぬと必ず間際にもう片方がリセットしてしまうのだ。「が、ごほっ……ぐ」と彼は口から血反吐を吐いて何か言おうとしているが私は馴れ馴れしく話しかけてきたさっきまでのようにそして最初の瞬間からいつものように無視しようとするがしかし、今回は気の迷いかなんとなくいたたまれなくなり「いい加減諦めてよ」と諭して、だけどこいつは今まで通りどうせ諦めない。そして私も諦めない。だからトロッコ問題ならぬタンクローリー問題はまだ続く。二〇二三年七月一五日二三時二六分に私かこいつの世界は終わり続ける。正確には家出した深夜に鉢合わせして上空から突如現れ爆発したタンクローリーの下敷きになってどちらかが、死ぬ。そして必ず一人が死ななければならない。それがこのゲームのルール。……ところで時間が巻き戻る力を手に入れたら人は何がしたいのか統計があるのかは知らないがどうせみんな、あんなこといいなできたらいいなって能天気な妄想を抱くことだろうし私だって最初の三日ぐらいは面白がったかもしれないけれど、残念ながら神様がその力を与えたのは私が死ぬ間際のことだった。で利用法は限られている。保身である。ゲーム脳なので大爆発して車体の下敷きになった次の瞬間に私はリセットボタンを押す。するともう前日である。転んで回避できなかったらリセット。火達磨になったらリセットリセットリセットリセット。文字通りのリセットマラソン。そして彼が負けると当然彼もリセットボタンを押す。どちらにせよ気がつくと私は自分の部屋にいる。私は自分の部屋で寝転がっている。頭が痛い。けど負けていたら激痛の錯覚が残るのでまだマシと安堵して再確認、はい、記憶はある。なぜかあるのです。で私は本で床の踏み場もない真っ暗な自分の部屋で目を覚ましている。枕元には読みかけの『グラン・モーヌ』がある。スマホで時間を確認すると今は二三時二六分。二〇二三年七月一四日二三時二六分世界の終りのきっかり二四時間前になる。この時間が私と彼に与えられたロスタイム。その間に私はありとあらゆる方法で世界の終りを避けることを試みる、のだがさてここでちょっと待った、あなたがもしちょうど一日後に正確な場所と時間に事故で死ぬと分かっていたら何をするだろう? もちろん避けるはずだ。方法は簡単。事故が起きる場所に近づかなければいい。家の中に引きこもっていればいい。布団の中に潜り込んで時が過ぎるのを待てばいい。って思ったら残念、この世界はそんな安易なプレイングを許してくれない。私は必ずこの家を出なければならなくなる。その理由を説明するにあたり、公平を期すために私のパーソナリティと置かれている環境を明かそう。私こと天沢弐子は一六歳の女子高生でなぜ弐子というかというと、私は双子の片方として生まれ一人は死んで私だけ生き残ったのだが母は先に子宮から出てきた方を壱子で二番目を弐子と名付ける予定だったからだ。それは遵守された。SF作家のフィリップ・K・ディックには双子の妹であるジェーン・シャーロットがいたが生後間もなく彼女は死に彼だけが生き残った。それから彼は生涯にわたって幻の双子というテーマに拘り続けた挙句ついにはグノーシス主義に傾倒していった。私は小さい頃何度か私にそっくりな女の子を見たことがあってそいつはたとえば鏡を見ると私の後ろに同じ顔で笑っていたりすれ違いに寸分たがわず同じ背丈同じ服同じ髪型で通りかかったりするのだが瞬きや振り向きの間に消え去ってしまうので証拠なんてないからバカにされると思って誰にも言わなかったけれどその時はドッペルゲンガーだと思って調べたら見た人は死ぬとかなんとかでピュアな私はバカ正直に怖くなった、なったけれどもすぐにませたガキになった私は紫の鏡とかメリーさんとか秘密結社と一緒に都市伝説のゴミ箱に放り込んでしまった。ポイ。私に必要だったのはコンビニ本ではなくブンガクで、バラエティで信じるか信じないかはドゥーイットユアセルフとのたまう芸人なんかより安部公房のほうがよっぽど不条理でキッズ精神をそそったのだ。で、でってわけでもないどうでもいいことだけどディックの名前を出したついでに言うとロックバンドのソニック・ユースの『シスター』というアルバムのタイトルの由来は彼と彼の妹から来ている。私はソニック・ユースのアルバムでは『EVOL』が好きだ。フリッパーズ・ギターは「奈落のクイズマスター」でこのアルバムをサンプリングしている。彼らの前身グループの名前はロリポップ・ソニックで「ソニック」はソニック・ユースから取られている。「ロリポップ」の方もバンドから取られているがそっちはよく知らない。それはいいとして子供は近所のおじさんに落ち武者がついてるとかなんとか変なことを言うものだからあるあるでハイおしまいなんだけど感受性の強い私はディックのように私が見た幻もあいつだったのかもしれない、と思ったことがある。あいつ。天沢壱子(仮)。双子の先に出てきたその子供は死んだ。後に出てきた悪ガキは生き残った。だから一人娘の私は晴れて弐子という名前を手にすることになり、発狂して双子であることを完全に忘れた母は私の名前に弐という漢字が入っていることを不思議がって次に子供ができたら壱子と名付けてバランスを取ろうと決めている。それも遠くはないかもしれない。私の母には父親と違う男がいて毎日家の中で性交渉を行っているからだ。男は母の兄で、父よりずっと前から母と性交渉をしていた。私の実の父は私が生まれた直後にそんな母の兄を殺そうとして失敗し大怪我を負わせ母がそれを警察に通報し、刑務所にいる。酒の席で母の兄は私が俺たちの子供だと挑発して激怒した父が金属製の灰皿で頭をぶん殴ってひしゃげた灰皿は今もうちのテーブルに置いてあって母がよく使っている。だから私は密かに出生祝いの品と呼んでいる。父を厄介払いした母は自分の兄を家に呼んだ。私は母の兄におそらく性的に目をつけられているが一〇歳の頃に実の父の持っていたボウガンで撃って命中こそしなかったがそれからは表向き私には何もしてこなくなった。どう考えても父は彼を灰皿ではなくボウガンで殺すべきだった。しかし彼がボウガンを使わなかったことで結果的に私はそのボウガンを手に入れて解体してこれまた父の持ち物だったギターケース(なぜかギターはない)に入れて持ち歩いていて当然学校にも持っていく。怪しまれないよう軽音楽部に幽霊部員として登録してある。ギターコードは一つも知らない。母は自分の兄が私に目をつけているのに嫉妬して私を一方的に敵視していて私とは顔を合わせないようにしているが家で居合わせると皿を投げつけ、そのため家の皿は全部割れ、さらには彼女の兄が飲んだワインやウイスキーの瓶で私を殴ろうとするので家の床は様々な破片が散乱していて土足で入るしかない。それでも私は母をボウガンで撃ったことはない。えらい。スペイン内戦に参加してフランコと戦った義勇兵はウサギが撃てるなら人も撃てるという言葉をスローガンにしたそうだ。この言葉はマニック・ストリート・プリーチャーズというバンドの歌詞で知った。私も人を撃てるけれどウサギは撃たないだろう、動物が好きだから。実の父についていえば私の部屋にある本はほとんどすべて彼の蔵書なので私は尊敬している。小学生の頃に私はその中から見つけた『銀河鉄道の夜』を読んで感動してからずっと小説が大好きだ。父には感謝しなければならないけれど刑務所を出たら母か母の兄に殺されそうなので、できるかぎり出てこない方がいいとも思う。性交渉するとき以外は母も母の兄もどこかに行っていて誰もいなければ自室にいて本でも読んでいるが帰ってくる気配がしたら私は身を隠して家に戻らない。私はカート・コバーンのように近所の川に架かる老朽化で通行止めになった古い橋の下にテントを張って眠る。夏は暑く冬は寒い。タンクローリーが落下してくるのはその河川敷で、私は母とその兄が帰ってきて家から追い出された二〇二三年七月一五日二三時二六分その世界の終りに河川敷から聞こえてくるギターの音に気づき接近したところでその下敷きになる。ギターを弾いているのは例の男子だ。あいつのほうは私が背負っているギターケースの中にギターがあると思いこんで接近したところで下敷きになるのが定石で、ということは先に近づいた方が負けだ。そこで私は高度な心理戦を展開することになる。どちらも接近しないというケースは一度もない。私が近づかないときに必ずあいつは近づく。あいつが近づかないとき必ず私は近づく。一時期は是が非でも近づかないと決心したのだが近づかなければあいつが下敷きになりリセットボタンを押しまたあいつが下敷きになりを繰り返してしまい膠着状態になる。仕方なくこちらが接近すると今度は必ず私が押しつぶされてしまう。私だって心の底ではあいつを見殺しにしたいわけではないので近寄るなと言ってやりたいのだがギターを弾いている彼が気づくまで声を届かせるには近づかなければならず近づいた瞬間にタンクローリーが落ちてくる。ならばとあいつが出現する場所に先回りしようとするとなぜかその回は必ずあいつも私の位置に先回りしていてぐるっと位置が逆転し、事態は変わらず近づいた方が下敷きになる。そして千日手。どうにもならない。本当に「どうにもならんねー」と呟いたのは私の友達の八橋やややでここは学校で憎い土曜授業の現在時刻は昼休み、しかし彼女にとってどうにもならないのは「模試の結果」である。「これじゃ親に見せらんないよ」そんなことを気にするとは初耳で「そんなキツい家なの?」「ほら、うちって両親学者でしょ」って自然に言われてもそれも初耳だが「私を哲学科に入れたがってんの。親戚には英文も仏文も独文もラテン語もいるけど哲学科だけいないの」でやややちゃんは割を食っていて「だから大学行かんかったら絶対殺される」なんてやっぱり「住む世界が違いますなー」と茶々を入れるのはあらゆる試験で万年学年最下位の猫田シュレ子で彼女のほうが学者がつけたっぽい名前だが「うちは和菓子屋だからなぁー、誰が継ぐ継がないで大騒動」らしくてそれならシュレ子のほうが八橋という名字だったらバランスが取れたのになぁ、って言ってる私も変な名前だったわガハハとどうでもいいことを考えるふりをして一時間目が始まってからずっとピリピリしていて普段のようにこっそり読書もできなかったから『幽霊たち』は一ページも進まず、虎視眈々と今日の戦略を練っていることに二人は気づかないでハトのようにパンをつついている。と思った。のに「おーい、なにボーっとしてんのにーちゃん」ってあっさりバレる。「なんだっけ、ユーレイの話?」「ほらやっぱりちゃんと聞いてなかったー」「それひとつ前じゃんもういいよー」「委員会の用事で校舎出たら屋上の縁に誰かが立ってたのを見たって言ったじゃんしかも昨日だよ昨日」「はいはいその話はコミュニティノートでよろしく」それにしてもにーちゃんってあだ名はどうなんだ「2ちゃんねるみたいじゃん」って抗議したら「なにそれ?」「5ちゃんなら知ってる」とライトノベル板にROMっていた元小学生への反応は冷たく、っていうか「話逸らすな」とやややちゃんは追撃の姿勢を見せたので私は「今書いている小説の話なんだけどね」と嘘八百を並べながら地味に知恵を借りようと試み、たとえば「ほら、ループものでお互いがお互いを助けようとして空回りするやつってあるじゃん?」あるというか「特定の楽曲だよね」「なっついなーアレと覚える単語帳持ってたわー」と二人は動画サイト世代をアピールする。さて私の場合は「あれの逆を思いついた」「逆とは」「お互いがお互いに死ぬ訳を押し付けたがってるってこと?」「お、さすがやややん学者肌、ついでに柔肌」もちっとな。でやややちゃんは「ふぁふぁひふぁ、ふ」とシュレ子に頬をつねられているが手を離されると元の話に戻って「……でも必ず一人が死ななきゃいけないときに片方に死を押しつけたらそれで話は終わりだよね。向こうも反撃できないと」いけなくて、その方法はもちろん「リセットボタンみたいなのを考えてて。死ぬ寸前になった片方はリセットをかけられるの。で一日だけ時間を巻き戻せる。記憶は維持される」「なんかバトロワっぽくなってきたぞ」「これならどちらかが死を受け入れない限りループは続くよね?」と言ってみると案の定やややちゃんは目ざとく「二人とも生き残れる可能性はあるの? 二人とも引きこもるみたいな方法で」と訊いてきて「それは……たぶん、ない。必ず近づくことになる」と思うんだけど「なんで?」とハテナマークの雲を頭に浮かべたシュレ子に対してやややちゃんは「運命の強制力か」とすぐ理解して「つまりね、現場に近寄らないようどれだけ頑張ってもなぜか相手が近づいちゃう、って設定」「なにそれこわっ。先に会って約束してもダメなの?」「うん」それは盲点だったがたぶんダメだろう。「で、だとすると必ず一人が死ななければいけないんだね。猶予は一日」そのとおり。「じゃあいろいろ仕掛けられるかもね」「えーでもやっぱり近づかない方がいいんじゃないのー」派はシュレ子。「少なくとも自分は痛い目に遭わないし。待ってれば向こうが自滅してくれるんだからリセット諦めて死んでくれるかも」しれないけれどそれは希望的にすぎる。「それでも強靭な意思で死ぬのをやめてくれなかったらどうする? 自分のせいで相手が無限回拷問されても耐えていたらどうする? こっちのメンタルが逆に揺らいじゃわない?」「それは……」やややちゃんは「私なら逆にどちらも事故現場に向かう、という条約を結ぶかな」と進路希望調査の裏に図を書き始めて「うわめんどくさいやつだ」それは二等辺三角形。「上の頂点が事故で、下の二つの頂点がAさんとBさんの位置。二人はそれぞれ二つの辺、つまり選択があります。上を選んで進むと接近、下を進むとステイです。後退やすれ違いはできません。ところがこの三角形の底辺はギッシリ渋滞していて、Aがステイを選んで進むと(矢印をつける)押し出されたBはピラミッドの真上、つまり事故現場に無理やりせり出されてしまうのです」おーぱちぱちぱち。「一方、横の二辺はがら空きなので二人とも現場で会うことはできます。この渋滞こそが運命の強制力なのです」おーぱちぱちぱち。「で、この事故現場で二人が出会うところから対等にバトルスタートになるので、両者必ず動くべきなのです」むーなるほど。動かなすぎてはいけない、ね。「にしてもこんなフクザツな小説ウケないっしょ。もっと頭の悪そうなヒロインをいっぱい出さないと」「つまりシュレ子みたいなね」「うるせー焚書されろ学者階級!」「反知性主義!」とプロレスになりかけたところでチャイムが鳴り昼休みは終了――しなかった。代わりに鳴ったのは校内放送で、内容は職員生徒全員校内に留まるよう、とだけ。一斉に静まる教室、にずかずかと入ってくるのはパッとしない学年主任だったっけの先生。「みなさんにお伝えしなければならないことがあります。たった今、本校の地面で血を流して倒れている男子生徒が発見されました。屋上から転落したと思われます。現在救急車で搬送されています」、が、と言いかけて先生は慌ててやめた。恐らくは確実に助からないのだろう。何が起きているのか。待て、男子? 男子って、と不穏な何かしらに引っかかった瞬間ふいに私は眩暈を覚え、椅子から転げ落ちる。集まる周囲の目。やややちゃんの目。シュレ子の目。あ、くる。…………目を覚ます、そこは教室、いつもの昼休み、でも明らかに何かがおかしい。何か決定的な違和感がある。私は黒板の日にちを確認する。七月一四日。今は学校で周囲の様子を見る限り昼休み。私は傍らで笑っているやややちゃんとシュレ子を置き去りに教室から飛び出して階段を駆け上がりいちばん上で扉にぶつかる。普段なら頑丈に閉ざされたそこが開いている。委員会の用事で校舎出たら屋上の縁に誰かが立ってたのを見たって言ったじゃんしかも昨日だよ昨日。蹴破って外に出る。まっ平らなコンクリートの地面その柵のない果てに何者かが立っている。男子が立っている。あいつが立っている。こちらに振り返る。あいつだ、間違いない。あと一ミリでも足を傾けたら落ちる。「何やってんの!!!!」と抱きとめようとした結果逆にタックルになってしまいあわや二人転落死となりそうなところでなんとか着地した。「何すんのマジで」「そっちこそ何やってんの」「いやタイムリープだけど」って素で言いやがったが聡い女子高生であるところの私は超速理解する。こいつが転落死したところで私は二四時間前に戻された。つまりリセットは必ずしもタンクローリーに押しつぶされる必要はなくとにかくどんな方法でも死ねばいい「ってこと?」「うわ呑み込みはやっ」女子高生なめんな。「でなんで一日前も屋上にいたの」「それは、その、風を感じたくて」「あーはいはい、死ねなかったのね」で、一度死んだら怖くなくなったってやつですか。ヴァージン・スーサイドね。「じゃあ私たち、過去に飛べるんだね」「そうなる……のかな」「今どっちかが死ねばさらに一日遡れるもんね」果たしてどこまで可能なのかは分からないけれど。「でもこれって使える発見かなぁ」「何言ってんの。調べ放題じゃんいろいろ」こいつ大丈夫なのかなぁって不安に思ったところでまだ停戦していないのに気づいて私は一歩距離を取った。「えっ何?」「やあやあ我こそは尋城高等学校一年、天沢弐子」「……はぁ」「ハッ! 名乗らぬとは武士の名折れか!」「……習志野十勝、高校一年。てか同じクラスでしょ」「いたっけ?」クリティカルヒットを放ってしまった。「いやだって前堤防で僕とギターを……」「見つけて近寄ってあげたらこの始末ですよ」「いやそうじゃ……まぁいいや、てか話しかけようとしてるのにまったく相手にしないからこっちも記憶あるよとか話できなかったじゃんっ」そっか、それはさすがに「悪かった。ごめん」「……どういたしまして」何がどういたしたのかは知りませんが「はい、というわけで、私たちはいま未曽有の危機に遭遇しています」と一席。「ここはひとまず停戦したいのですが」「僕たちって戦ってたの」………頭を抱えた。本当にこいつは締まらない。「とにかく! 手を取り合ってこの危機に立ち向かおうってことですよ」「……まぁ、その方がよさそうだね」なんでそんな他人事なんだろうとひっかかりはしたが気になるほどには気にならなかったので「じゃあ習志野くん、作戦を立ててください」と丸投げする。「……天沢さんって、すごいね」何がかは分からんが褒められているならくるしゅうない。って言ってブレザーのポケットから『果しなき流れの果てに』を取り出して読んでいたら彼は意外にもちゃんと考えてくれた。「タンクローリーが現れるの、見たことある?」「ないかも。暗いから」「僕もだ。で、あれはたぶん通行止めの橋に間違えて入っちゃったんだと思うんだよね。橋の前ってカーブになってるでしょ」そういえばそうだ。「あの大型車じゃ曲がり切れなかったのかもね。で、落下してきた」「じゃあそれを止めればいいんだね」「そう。だから絶対に侵入できないようにすればいいんだよ」ということで夕方に習志野は河川敷に違法投棄された自転車や家電や機械類をカーブの入り口に持っていき片っ端から並べていった。後ろに行くほどゴミは高くなっていく。「こうすれば車輪を巻きこんで止まるはずだ」すごい。意外と頼りになる。草の一本も運ばなかった私は手を真っ黒にして息を切らす習志野に拍手。それでも「ちょっとは手伝ってほしかったけどなぁ」以上のことは言わなかったので私はまたこいつが不安になり、そんな私の表情を誤解したのか習志野は「ギター持ってるよね」と話しかけてきて厄介なことになった。「いやそれは持ってるだけで」「……弾けないってこと?」だと思われると思ったよ言葉の綾。でもそこで「そっ、そうなの! 軽音部に入ったけど全然うまくならなくて見栄張ってケースだけ担いでるの!」嘘は言っていないケースの中に何が入っているか言ってないから。サリンジャー曰く、ファム・ファタールには二種類いて、誰が見てもそういう女と誰が見ても層には見えない女だ。咄嗟に嘘をつく私はきっと後者の魔性で、でもこいつに魔法は効かず不思議そうな顔をしたがそれはすぐに戻り「うーん……じゃあ時間が来るまで教えてあげるよ」なんていらねぇよそれになんで積極的なんだこいつ本当に陰キャか? しかしすることがないので私も引きずられて彼はいつのまに持ってきていたアコースティックギターでこれがオープンコード、EにGにAにDにCにとギターの首(ネックというらしい)の上(フレットというらしい)を持って押さえてじゃらーんと音を鳴らす。綺麗な音だ。じゃあやってごらんとギターを渡されまずは六弦の三フレットを……と意味不明なことを言われて指がぐるぐるしてしかも押さえた弦で痛くなってこんなん無理! と押し返すがやっぱり悔しくなってやってみてとキャッキャウフフがありしかしちょっと覚えたところでバレーコートの存在に突き当たり人差し指痛っ握力ねぇんだぞふざけんなと土手から死んだ木を投げ捨てて慌てて習志野が取りに行った瞬間今夜も二〇二三年七月一五日二三時二六分がやってくるのを完全に忘れていた私はふと目の間に、中空に、その風の中に、酸素と窒素とその他で満ちたしかし無の空間に、習志野の上に、タンクローリーが、それは走っては来なくて、忽然と、そしてすぐに重力に引きずり降ろされ、それは、それはなぜか無音に感じられて、でも爆発していて、ばーん。で楽器が無事で安堵する習志野の頭上にどっしーん。習志野は死んだ。破片が頬を掠めて傷が一筋できた。拾い上げるとそれはナンバープレートで××ナンバーのたぶん自家用車と違う四桁を私は右から左に三回読んで全部足して掛けて放り出して習志野の方に向かった。習志野は死んでいた。……こんなはずじゃなかったのにごめんねごめんねって心にもないことを思っているが死んだ人間は死んだだけのことだと戯言遣いが言ったように何も感じない私の心を読めたのなら死に際の習志野はどう思ったか知ることはできない私たちは他人だし習志野は即死だったしもちろんギターも即死だった。木はギターになり死に、ギターになって二度死んだ。即死。巻き戻す間もなく。だから私は自分で巻き戻すしかない。河川敷にあった水門によじ登りてっぺんの夜風が気持ちよく私はダイブして全身が水面に激突してがっしゃーん。というわけでリセット/リセット/リセットの方法をいつしか私ははっきり覚えることができるようになっている。説明するとそこは真っ白な空間にアナログ時計がポツリとあってそれは年と日付が連動して表示されるカレンダー式で、カレンダーは2023/7/15、11:26を指し、横にはPMと書かれている。私は手を伸ばしてギリギリで時計に届いて針を掴む。動かそうとすると針は右回りにはとんでもなく重くて動かない。じゃあと左に回してみると今度は勝手にものすごい勢いで回り始め止められなくなり、一周遡ったところでまた止まる。連動して日付も戻っていき、最終的に2023/7/14、23:26で止まる。そうするともう私は消える。消えている。もうそこにはいられない。そしてまた自室の本の谷の中で私は目覚める。これで巻き戻し完了。なんて不自由なことか。それにしてもあいつもこういうとこに来て同じ時計を見ているのだろうか。聞いてみよう。「ああ、それそれ。時計だよね」思ったとおりだった。習志野は学校サボって屋上にいてタンクローリーに潰された気分の抜けない身体で首を回したりストレッチをしていてそれが明らかに運動できない奴のやり方なのであんな惨劇がスラップスティックになって私もホッとする。で作戦ツー、ここで新設定、なんと習志野の姉は刑事である。はいそこデウスエクスマキナとか突っ込まない突っ込まない。マジレスするとすべては仕組まれて起きるものなんだからあいつが選ばれた理由にはそれも含まれているということで、具体的に習志野が言えば「ナンバープレートを探す」っていうのは私にも名案に思えた。私は憶えていた番号を習志野に教え、習志野は通話禁止の学校で姉に電話をかける。「もしもし? いや自首じゃないよ。で何やってんの? 今暇? 嘘つけ暇でしょこの前も犯人の男と取り調べ中に関係持っただの持たないだので大目玉だったんだから。いや弁解はいいんで。で調べたいことがあるんだけど。調べなかったらねーちゃんのが刑事だからって周りにやってること匿名で県警のアドレスに送るから。でナンバープレートなんだけど(以下略)」どんな姉弟だよ。でしばらく習志野は黙って素敵なお姉ちゃんを待っていたが調べ終わったのかまた喋り……あれ様子がおかしい。「いや悪戯じゃないって俺絶対見たんだってそんなわけないって言ってるのにあっ待って切るな取り調べとか嘘だろ!」切られた。「……その番号は」と習志野は呆然とブツブツ呟いた。「使われていない」、ということは「そんな番号の車はない」、いや「使われる可能性はある」でも、「まだない」だから二〇二三年七月一五日二三時二六分にはまだない、同じ結論にたどり着いた私たちは顔を見合わせ、屋上は晴天で遠くでカラスがカーカー鳴いて屋上で見下ろす世界は私たちに気づかないで廻ってゆく。二〇二三年七月一五日二三時二六分へと廻ってゆく。スーパー女子高生の私でさえ混乱の極み打つ手なし、という場面で屋上を出て階段を降りて学校を出て歩いて河原まで無言だった習志野が唐突に言った。「ねぇ」「なに」「僕と一緒に死んでくれる?」「やだ」即答。小説が書けなくなったら一人で死んでください。「そう言うと思ったよ。……じゃあ、もし」習志野はもっと変なことを言う。「僕と死ねるくらい僕のことが好きになったら一緒に死んでくれますか」うーむ。それって「仮定の話だよね?」「厳密に、論理学的に」何この禅問答……っておい待てこれは「告白してるの?」「つまり間接的にはそういうことになるね」話難しくすんなよ。お断りしますって言わせろよ。でもスーパー女子高生は哲学肌なのでちゃんと考えてあげると最初私は無関係のこいつが死ねば私は助かるんだと思っていたのでこいつを死なせていた。これを仮に初期段階とすると今はお互いを知っているのでさすがに代わりに死ねとは内心思っていても少なくとも言えないし手を組む必要があるし、それに実際に協力的になってくれている。そういうところでは好意を持っているかもしれない。しかし私が習志野に対してどう思っているか。習志野十勝。無。好意ゼロ嫌悪ゼロ。ナッシング。そもそもみんなそうだ。八橋やややも猫田シュレ子もナッシング。心の底ではなんとも思っていないんだ。私は他人をボウガンで撃てる奴だから。だから「私は誰かを好きになることはないよ」口から零れた。「私は人の痛みが分からないよ。友達が死んでも何とも思えないよ。その場に対応する態度をしてるだけで、何も感じないんだよ。総理大臣も芸能人もレジ打ちも精神科医もホストも障害を持った人も、みんな等しく石ころにしか見えないよ。この河原みたいに。だって」私は足元の石ころを蹴飛ばす。「こうしても石は痛がらないんだよ。私は痛みを感じない。私は痛いのが嫌。でも痛いのは自分だけ。他の誰が苦しんでいても痛くない。だから人間と石ころは同じ」なんでこんなこと言うんだろうこいつに言って何になるというんだろうって私が後悔した、ときにこいつは「天沢さんは優しいね」って、あの。「それに正直だ」話聞いてますか。「天沢さん」習志野の顔が近づいてくる。そして私は私を揺さぶられる。私の冷血な身体に亀裂が入る。「天沢さんは正常だよ」正常? 「みんな心の底ではそう思っているよ。そこからは逃げられない。でも見て見ぬふりをして身近なものや人を愛したりする。愛するふりをする。そして忘れる。でも本当に大事なのは自分だけだ。天沢さんの言うとおり自分しか痛まないから。だけどね、ふりをするのもそんなに悪くないんだよ。民主主義も平和も誰かを殺してはいけないのもお金に価値があるのも神様に祈るのも人を好きになるのも全部嘘で、ふりで、でもふりであり続けることがそれに力を与えるんだよ、だから」ドストエフスキーの登場人物みたいにお互いベラベラ喋って喉が痛い。「天沢さんは人を好きにならなくていいんだ。僕を好きにならなくていいんだ。ただ、好きだってことにするのも悪くないかもなってぐらいに思えたら、それでいいんだ」習志野は「だから、これから天沢さんをナンパします」と言った。差し伸べられた手を握るか、私は迷いに迷ってからどちらにしようかなで決めた。天の神様は奇数を愛している。その結果私たちはこの日この回この二〇二三年七月一五日の学校サボった放課後にデートをした。一緒に手を繋いで堤防の上を歩いて街へ出てショッピングモールのイートインでパフェを食べゲーセンでプリクラを取ったり穴から出てくるワニをボコボコに殴ったりホッケーでこいつに圧勝したりメダルゲームでニ〇〇〇円(半分は習志野からパクった)スッたりして私が本を読むのを憶えていたので本屋に行ったがラノベコーナーに直行したので高橋源一郎の新刊『ヒロヒト』を買わせ自分も買ってペアブックにしてからカラオケに行って声が枯れるまで邦ロックを歌いながら嫌いなバンドの悪口を聞かせ今期のアニメ映像が流れるのに感動し歌うのに飽きたらソシャゲでPU引けるかバトルしてどっちも引けず、時間ギリギリまで次の瞬間に思い出せなくなるようなことをした。喉が痛くなってコンビニで飴を買って舐めて駐車場の車止めに座って二人でアイスを食べた。「楽しかった?」「……」「僕は楽しかったよ」「……」「天沢さんのこと好きだなぁって思った」私は楽しかっただろうか。私は習志野のことを好きだと思っただろうか。一五分ぐらい無言の時間が続いてそれから私は唐突に言った。「習志野って家ある?」「ある。姉以外両親と僕で暮らしてる」「仲いい?」「まぁ」「じゃあいきなり謎の女と泊まったらご家族が迷惑だよね」とフィールドを展開する。「……さっきから何ですか」「なんか私、習志野のこと好きになっているみたいだから」「マジで」「あのさ、私の部屋、来る?」言っちゃったよ言っちゃったようわうわうわ。ってまぁ冷静なんですけどね。「え、あの」「やっぱりさ、習志野と死ぬのやだ」「……」「私習志野と生きていたい。もうどうでもいいよ。真夜中まで私たちずっと部屋にいよう。ポテチとか食べながら映画観よう。ゲームでもいい。二人で勝手に本読んでてもいい。その他いろいろ」恥ずかしさや生々しさからカート・ヴォネガット風の韜晦に逃げてしまったが私はこの時点で覚悟を決めていた。さよなら純潔。レクイエム・フォー・イノセンス。グッバイフィービー。グッバイフラニー。というのをこいつは何も分かっておらず「二人とも死ななくて大丈夫なのかなぁ」とかアホなことを抜かしていてこいつは本気で小学生の友達の家に遊びに来るつもりなのかよと呆れながらそれはそれで悪くないかもとは思い直した。早まったのは私なのだ。てか私は部屋からこいつを絶対に出さなければいいのだと考えていた。後ろからぶん殴るとか飲み物に母親の睡眠薬を入れるとかで無力化して手足を縛りドアと窓を塞げばいい。親が帰ってきても気づかないだろう。まぁ一階を見せるのは乙女として恥ずかしいが仕方ない。とにかくそれでいいやって私は思ってしまった。人生で最も見たくない地獄を見るとは思わなかった。先に私が斥候して今までならまだ帰ってきていないはずの親どもがいないか確認しに行ったら玄関の横に塀を越えて軽自動車が突っ込んでいて家に駆け込んだら母の兄が裸の背中にタイヤの跡をつけて轢き殺され車に乗っていた実の父は窓を破って車体から飛び出し梁に激突して頭をぱっくりと中身まで割っていて、では母はと浴室に行ったら剃刀で手首を切って水につけていて顔は真っ青で大丈夫ですかって訊いてから湯船の血だまりでそういえば習志野はって我に返った。こんな家庭引いちゃうよなって思った。玄関に引き返すと丁寧に靴を脱いだ習志野が扉を開けて破片の散乱した床の前で立ちつくしていて私には気づいていないから叫び出しそうになったが何を叫べばいいか分からず口をパクパク動かしていたら、周囲から何かが焦げる匂いがした。紙だ。本だ。命より大事な本だ。そして習志野もそう考えて私が二階に行ったと思ったに違いない。習志野が動き出して階段を上る音がしたけれど煙くて咳きこんでしばらく動けなくなってしまいそれでもなんとか私が追いかけて階段前まで出た瞬間全身が炎に包まれた習志野が落ちて、降ってきて、私は抱き締めようとしたけどやっぱり冷たい人間だからできなくて避けて、玄関に転がったこいつはマリオが放つファイアーボールみたいに家の外に転がっていった。私はふらふらと階段を上っていき、そこには私がいた。いや私の顔そっくりの人物がいた。ドッペルゲンガーだと思ったけれどもなんとなくそうではなくて私と同じところから来ているんだけど私ではない何者かだという気がした。その通りだった。その女子は自分を「天沢壱子だよん♪」と名乗ったからである。「……」「何なのその態度。死に別れのお姉ちゃんとの感動の対面なんだからさぁ、もうちょっと何かあってもいいじゃん」「……何で生きてるの」「それは生きている者が生きていたはずなのに生きなかった者に言う最悪の侮辱だよ、弐子」「でも私は、」煙で咳きこんだ。すでに私の部屋は燃え盛っているだろう。「姉が死んで、私が生き残った、から」「そうね。それが弐子のアイデンティティだったんだよね。分かる分かる」壱子の片手にはライターがある。こいつが火をつけたのだ。そしてもう片方の手には時計がある。時計! 私が巻き戻しに使うのと同じだ! しかしそれは壱子が手を離すとふっと消えた。「さて、なぜ私はここに存在しているでしょう? 制限時間はこの家が燃え尽きるまで。はいシンキングタイム♪」…………「自分が生き延びる世界まで、リセットを続けた」「うーん、その通りなんだけど五〇点。もう一つ答えが必要です」…………じゃあ、「時計の針を」私たちはそれを動かして時間を移動してきたのだから「前に、動かした……?」「はい。よくできました妹よ。お姉ちゃんが景品をしんぜましょう」壱子は地面から持ち上げた本に火をつけて放った。私と習志野が一緒に買った本。ペアの本。それを私に投げつけた。手で払うと火の粉が肌を刺した。直感的に分かる。私と壱子は共存できない。対立し、憎み合う運命にある。私たちが生まれるとき、片方しか生きていてはいけなかったのだ。「私は生まれる瞬間に死んだ。そしてその瞬間、私の傍らには時計があった。針を後ろに動かせば過去に飛ぶ。前に動かせば未来に飛ぶ」「でも、私には動かせなかった……」「それは弐子が未熟だから。私が何千何万何十万何百万何千万何億回動かすことに挑んだと思う? それも死んだばかりの赤子のままで」「……」「弐子とあの人、習志野くん。二人とも巻きこまれて死んだみたいだけど、ぜんぜんこの時計の使い方が分かっていない。認識が足りない。だから死んだ一日前までしか戻れない。もっと伸ばす努力をしなかった。おまけに自分の身体に戻っている! ちゃんと練習すれば過去に戻るときこうやって身体も作れるのに。バカもいいとこだよ」「……壱子は、未来から来たの」「そう」壱子は煙の中でも怯まない。「世界ってよくできていて、ほとんどの確率で弐子が生き残るの。世界はパラレルワールドを嫌う。まるで私が生まれることを神様が避けているみたいに」恐ろしい、と思った。私じゃ勝てない、と思った。こうやって笑っている裏で壱子は存在するというただそれだけのために常軌を逸した努力を要したのだ。それに対して私はのうのうと生まれてきただけ。諦めが私を覆っていく。「でも人間未満の私でもほんの一瞬だけ意識があった。意識と呼べるかはさえ分からないけれど、失わないよう必死にしがみついた。諦めなければ勝つ見込みはあった。その末に、私はついに針を一六年ぶん前に動かした。そしてその間に意識を育んでいた私は身体を再構成し時間の一本線の上を飛び飛びに生きながらこの世界を学習し、人間になった」ああそうかとわたしは納得する。ドッペルゲンガ―。「もちろん弐子のことも見てたよ。わざわざ敵に姿を見せて伏線を敷くなんて悪役らしくてかわいいお姉ちゃんでしょー」「……」「何その間抜けな顔。面白くない妹。まぁいいや、で私は意思の力だけで一六年後に天沢家の長女、天沢壱子の座を勝ち取った。でも私は、私を殺しかねない妹の存在を許せない。お姉ちゃんはね、弐子が私の代わりに死んでいてほしいんだ。だから」「……壱子がこれを仕組んだんだ」「そう。私がこの母親とその兄を連絡して呼び寄せ、父親を脱走させて突っ込ませた。それだけ。まぁ復讐って気持ちもあるよ。生まれるはずだったのに存在しなくなった人間が、この世にどれだけいると思う? べつに死産だけじゃないよ。たとえば、あるカップルが事故で死んで子供を産まないとする。すると子供を産んだときに存在するはずだった人間はこの世界に存在しなくなる。その子供たちがいればその子たちも。無限。みんなどうなると思う? 可能性の亡霊になるんだよ。この唯一の世界を支えているのは起きなかったことで、起きなかった亡霊たちのおかげで人間はいるの。なのにこの現実世界に誰か一人でも自分が選択しなかったことで消えたものや人のことを悼む人間がいたと思う?」「……」私は罪深いと、壱子は言っている。存在するだけで存在する場を奪っている私は罪深いのだと。人間は存在するだけで罪深いのだと。「私はそんな亡霊たち、亡霊の世界を代表して、あなたに罰を与えたい。あなたの持っているものをすべて奪いたい」私は壱子になんて言えばいいだろう? どう返せばいいだろう? 私は生きた側の人間でしかない。何を言っても彼女を傷つける。「弐子には絶対に二〇二三年七月一五日二三時二六分に死んでもらわなければいけない。そのためにこの家にいてもらうわけにはいかない」壱子はまだ燃え尽きていない本のページを破ってペンで絵を描いた。直線の途中でペンはグルグルグルとインクが潰れるまで円を描き続け、そして最後に出て行って直線になる。「弐子たちのループはこう。この存在する世界は一本道で、ループしているように見えてもループが終わるまでをすべて一本とカウントする。可能性の世界を存在させることを許さないから。だから私の存在は安定しない、世界にとって危険なのよ。弐子と私が共存する世界は、危険なの」そう言いながらも壱子は余裕の姿勢を崩さない。「だからこうして家から追い立ててすべてを失わせた。……弐子。私はね、憎しみで言えばあなたのこと今すぐ殺してもよかったと思うよ。でも私は優しいから、最後の時間をあげる。天沢弐子はここを出てすべてを失い、今夜の二三時二六分に自らタンクローリーに押しつぶされて死ぬことを選ぶんだ。選ばないことはない。それがルールなの。だから私は見逃すよ。えらいでしょ?」ああ、そうか。この人は私の家族なんだって思った。私が母をボウガンで撃たないように、壱子も私を殺さないのだ。たとえそれが決まっていたとしても。そう思うと、相いれないことが悲しくなる。すべてを失った私は一人で死んでいくのだ。「……分かったよ。私は一人で死ぬね」「……」「生まれてきて、ごめんなさい」私は窓枠から隣の家の壁を伝い降りる。早くしなければ家は全焼してしまう。超常的な存在だから壱子はもちろんなんとかなるだろうけれど存在する私は残念ながらそうはいかない。離れるにつれ、サイレンの音だけが遠くから聞こえてきた。私はスマホで時間を確認する。二二時五六分。世界の終りまであと三〇分。私の終わりまで三〇分。私はもう巻き戻しはしないだろう。今の世界は私と壱子が共にいる矛盾した世界だ。私が消えることで私がいた世界は消滅し、レールの軌道を移すように壱子が生き残った世界が本流となる。そうすれば壱子は存在を許される。…………それでいい。私はそんなことを考えながら最後の三〇分は読書でもして過ごそうと思った。本はほとんど燃えてしまったけれど橋の下に持っていった『ドゥイノの悲歌』がある。「すべての天使は恐ろしい」。この詩の作者は海辺を歩いていたときに詩の冒頭を神から授けられたという。天使。私たちの世界を覆う亡霊たちはひょっとしたら天使なのかもしれない。だから黙示録のように世界を滅ぼすのかもしれない。壱子ちゃんマジ天使。ってぼんやりしていたら川にたどり着いていて、ギターの音が右の耳をとらえた。私はふるえる足取りでそのもとに向かった。「……習志野」「天沢さん、生きてたんだ」「そっちこそ」習志野は全身焼けただれて痛々しい姿で、見るからに打ちひしがれていた。今にも死んでしまうそうなのにギターを抱えて弾いていた。本当に何なんだろうこいつは、と呆れる間もなく私は奇妙なことを言われる。「……天沢さんは、そんなに家族が憎かったの」「……え?」「さっき自分で言ってたじゃん。だから、こんなことしたんだって」さっき、私が、自分で、言った。そう習志野は言っている。私がこの殺人と放火事件を起こした? なんで? ……そこで私のハイパー女子高生パワーが量子コンピュータのように動き出す。そうだ。私たちは双子なのだ。それも一卵性双生児だったのだ。外見が同じなのだ。だから壱子は簡単なトリックで私の親たちや習志野を騙したのだ。なぜだろう? ……ああ、そうか。私からすべてを奪うつもりなんだもんな。こうして当然か。「それは私じゃないよ」と私は空しく言う。そして壱子と弐子の物語を語る。信じてくれるハードルは高い。そうだ、私が犯人だと信じているから彼は憔悴しているのだ。だから彼は反論した。「僕には、いま目の前にいる天沢さんも信じられないよ」ああ、また私は傷つけてしまった。きっとこいつは見分けがつかなかったことを恥じるだろう。私は……私は……。黙ったままの私に習志野は更に追求する。「それに、最初からおかしいと思ってたんだ。どうして君がギターを弾けないなんて嘘をついたのか」……待ってくれ。ギターを弾けない? 「なんで、僕と何度も会っているのに知らないふりをしてるのか」何度も会っているのに? 「待って、何言ってるのかぜんぜん分かんないよ私は習志野とは事故に遭うまで一度も」「今更とぼけないでくれよ! ギターだって君が預けてくれたものじゃないか!」習志野はそう言ってギターを持ち上げる。私は橋の下まで降りて、いつのまにか置きっぱなしにしていたギターケースを持ってくる。「そうだよ。その中にこのギターが入ってたじゃないか」私は高速で記憶を逆転させて思い出す。このギターケースは誰のものだ? どこで見つけた? 父の持ち物だったギターケース(なぜかギターはない)に入れて持ち歩いている。そうだ! あれは父の持ち物だった! そのギターがこれなんだ! そう、壱子はこの一本道の世界を自在に移動できる。だからこの世界に密かにやって来た彼女は。私が発見する前にギターだけ持ち出してこいつに渡したのだ! そしてそれを持った状態で習志野に会い、フラグを立てておいたのだ。習志野は壱子を私と勘違いしているので、私が本当のことを言えば言うほど私を信じなくなるのだ! ……やるじゃないかお姉ちゃん。私が憎いとか私が憎いとか私が憎いとかいろいろ言っていたけれど、本当はこれが理由だったんでしょ? ああ女って恐ろしいって私が言ってみるポストモダニズム。恋は戦争だ。そして戦争はほかの手段をもってして行う政治だ。ゲームだ。だからルールがある。いいだろう。ルールに則って、私は反撃してみせる。残念だったね、お姉ちゃん。そして私はギターケースを開いた。中にはボウガンがある。「これで私が私だって証明できた?」目を丸くして何も言わない習志野に、私は組み立てたボウガンを向けた。「これ」「ちょっ、待ってよ分かった分かった信じるって」「私を信じなかった仕返しね」そう言って私はボウガンで習志野を撃った。そして上を見上げて時間を確認する。二〇二三年七月一五日二三時二六分まで、あと一七秒。「すぐ私も行くから、勝手に逃げないでよ」私はひどい奴だなぁと改めて思う。でも恋というのは相手をボウガンで撃てるぐらいじゃないと始まらないのかもしれない適当なこと言うけど。ぐしゃぐしゃ。そうして私の前には時計がある。肉体があるんだかないんだか分からない私は針に手を伸ばす。そして右回りに捻る。捻ろうとする。まったく動かない。動け動け動けって国民的アニメの主人公みたいにガチャガチャやってもびくりともしない。でも私は諦めない。一人でできなければ二人でやればいい。さぁ来てくれ、と横を見ると、確信していたとおりに手が伸びていた。顔は見えない。身体も見えない。やっぱり習志野も肉体があるんだかないんだか状態なんだろう。でも分かる。彼はここにいる。一人じゃない。だからきっと動かせる。針を掴む手が重なる。そしてそのままレンチのように一気に回す。時計が壊れても構わない。そんなことで世界が壊れるならさっさと壊れればいい。だから私たちは恐れない。壱子が何億回でも試したことを一回でやってみせる。さぁ回せ! 回せ! 回せ回せ回せ回せ! とアニソンのように連呼しながら力を込めて、ヒビが割れるように、錆びたネジが軋むようにゆっくりとでも確かに動き出しそのまま弾力の限界が来たみたいにあるところでガクリと段差を越えたような手応えがあり、そのまま手が離れる。おいずっと握ってんじゃねぇそって文句を言う余裕はなかった。だって時計の針はすごい勢いで回転を始めたのだから。ぐるぐるぐるぐる! 目が回る! それを見ているこちらの視界も意識もぐるんぐるんと回転し私たちはサイケデリックに宙に浮かんでそのまま遠心力でブワワワーっと飛ばされてでもやっぱり手を離してはくれなかった。撃たれたのにようやるよって私も握り返す。そして私たちはいつともどことも知れぬ河川敷にいる。いや河川敷だった場所にいる。同じ場所でも景色は一変していて私たちが住む二〇二三年には見たこともない建物がたくさんあって、高いビルも低いビルもたくさんあって土手だったこの場所は護岸工事がされ遊歩道を兼ねた公園になっていた。私たちの時代よりスマートだが殺風景に思えた。でも川辺の電灯には灯が一つも灯っていなくて、とても暗い。よく見ると舗装はひび割れ手すりや遊具は錆び木製のベンチは腐っている。そんな場所に一本の巨大な影が落ちていて、ただでさえ暗い周囲を暗黒に陥れている。その巨大な影――私の真上を通って対岸に伸びているのは見たこともない橋だ。私が下に住んでいたあのボロ橋とは比較にならないほど大きくがっしりとしていて、なのになぜか車の音は聞こえないし遊歩道を歩く人も一人もいない。周囲に人影がない。誰かが生きている気配がない。遠くに見えるところまで、街は脱皮した後の抜け殻のように黙ったまま、死んでいた。地面に寝転んでいた私の傍にはボウガンとギターケースがあって、倒れている習志野の傍にはアコースティックギターがある。揺り起こす。当たり前だが火傷もないしボウガンの矢も刺さっていない。未来に私たちの肉体はないはずだから、再構成には成功したということか。じゃなきゃ惨劇だったな。「……んにゃ」んにゃじゃねぇよ殺すぞ。「あれ、ここは」「未来……でも、いつだろう」「そんなに遠い時代じゃないよ」と三人目の声がして幻聴かと怪しんだがそんなことはなくちゃんと壱子が立っていた。「あんまりおもしろいものはないけど、見てみる?」と私たちを手招きするがちょっと警戒しているのもお姉ちゃんセンサーで分かるみたいで「落ち着いてよ。武器を持っているのは弐子じゃんか」と言われて確かに気づいたら持ってきていたし矢もつがえていた。先を向けるか一瞬迷ったがやめる美しい家族愛の一コマのあとで、私たちは彼女に連れられ歩き出す。どこへ向かうかと思えばちょうど目覚めた場所の真上、橋の上、マジでそびえた橋桁の上だった。壱子が梯子をよじ登り始めたときはマジかよって思ったけど結局ボウガンを置いて登っていた。習志野が落ちないか気が気ではなかったが私が手を離せば習志野も巻き込まれて死ぬんだなぁとか愉快に考えているうち頂上に到着。「二人とも、どう?」壮観だった。橋の下にいたときよりずっと外の世界が見えた。街を分かつ川の両岸の建物はすべて老朽化し、窓は割れ、コンクリートは砕けるか割れ、ツタに巻かれているものもある。愉快なのは誰も道を歩いていないことだ。わずかに見える車は乗り捨てられたまま止まっている。「人間が死を研究するにつれ、時計の存在に気づくのは必然だったのね」と壱子はバスガイドのように説明した。「やがて文明はその力を我が物にし、誰もが過去や未来に移動できるようになった。弐子たちがいた二〇二三年にも、その前にも未来人はいっぱいいたんだ。というか各時代の人間の本当の人口は本当はとっても少なくて、未来人の移動、移民でバランスを取っていた。時代時代の過去の権力者と未来の権力者が取り決めを結んで、決まった分の知識や技術を与えてくれる代わりに居住権を保証した。二人の高校のクラスには何人の未来人がいたのか気になるところ」想像を絶しすぎて禁則事項です、って口癖の未来人が出てくるライトノベルを思い浮かべるしかない。「でも、人間は過去に耽溺しすぎた。二つの選択肢が与えられた時、未来に向かうより過去に戻る人の方が圧倒的に多かった。未来になればなるほど世界は腐っていたから当然でしょうけれど。でその結果がこれ」人類はノスタルジーによって滅ぼされたのだ、と壱子は言う。「過去に戻った皆が過去で死んでしまった、それもある時代に大戦争をやってしまって。ま、二〇二三年よりは先のことだから安心しなさいな」もうタイムトラベラーだからしても仕方がない気がするけどなぁ。「で、残された世界がこれよ」「最後の生き残りは壱子なんでしょ?」「まぁね」淡々と認めた。「そして横の二人もね。私たちは世界の終りに招かれたんだよ」この世界は一本道だ、と壱子は言っていた。だから過去に移動した人たちがやることなすこともそれまでの歴史に影響を与えない。だからタイムパラドックスは起きない。そして詩的な言い方が許されるならすべてはこの終末から逆算されて決まっていたのかもしれない。悪夢だ。まぁその頃にはやややもシュレ子もみんな死んでいるだろうけど。てかさすがにあいつらは未来人じゃないっしょ。決めつけだけど。「でさぁ、世界の終りを見せてもらったはいいけど、どうすんのうちら」と橋の上まで降りて私は話を引き戻した。「これから三人でここで暮らせとか言わないよね」「当たり前でしょ。女二人男一人しかも女は双子で人類滅亡サバイバルって漫画が売れると思う?」属性過多だが頑張れば売れなくはないような。「私のすることは二つ。まずは個人的なこと。次に世界のこと。世界の方は放っておいても最後に果たされるから気にしてない。問題は個人的なやつ」なんか回りくどいなうちのお姉ちゃん。「あのさ、単刀直入に言うけど、習志野が好きなんでしょ」風の歌を聞くタイム突入。「………………だったらなんだって!?」「ツンデレが」「うっさい愚妹!」「負けヒロインねーちゃん!」醜い争いは例によって冴えない主人公が介入して終わる。「ええっと、二人とも僕が好きなんだよね」「本人に言われるとムカつくよねお姉ちゃん」「そうね」「はぁ」照れてんじゃねえよまた撃つぞ? 射殺系ヒロインになるぞ? 「でさ、お姉ちゃんズルしたっしょ。私のふりして習志野に会ったっしょ。しかも私より先に」「恋は百年戦争♪」しらばっくれるな。……こいつはともかく私と壱子は存在自体が相反するし、ハーレムオチは無理だよなぁ。ってことで、まぁあれかこれか、ノーオルタナティブ。壱子にズルはさせない。私たちは「私は天沢壱子です」「天沢弐子です」と宣誓し、お互いどちらがどこで彼と出会ったかはっきりさせ、好きになったところを語ろうとしたが私は思いつかなかったし壱子はしどろもどろで何も言えないし(どうせ私を壊す道具にしようとしてイチコロとかだろお姉ちゃん)、でシンキングタイムを与えて、結果をCMのあとまで引き伸ばさずに言えば私を選んだ。正確な発言を引用すると「初めて出会ったときに、ギターをくれて、お互い弾けるって話が合ったとき、確かに嬉しかった。こういう出会いってあるんだなって。それでギターが(以下、妹が省略)だから、もし先に好きになった方を好きになるべきなら、壱子さんなんだと思う。でもね、僕と弐子が同じ事故の巻きこまれたのにはやっぱり意味があると思うんだ。人生ってさ、誰が好きとかって自分から決めるんじゃないんだよ。ただ何となくそうなって、それからそれを受け入れることなんだって思う。だから、クラスメイトの僕を憶えてないし仕事を手伝わないし死ぬのを押しつけてくるし好きじゃないとか言ってたのに好きになるしボウガンで撃ってきたけど、僕は壱子が好きなんだよ。……これでいい?」きゃーきゃー。この件から学ぶべきことは拘束時間は一目惚れに勝るである。教訓説話、以上。「……ま、予定調和だから。うん、そう、だからこんなことなんでもない」めっちゃ根に持ってるじゃん。でも習志野は悔しいことにそのへんはずるかった。壱子にギターを返したのだ。「ありがとう。上手くなったよ」「……いいえ」壱子が私にギターを渡す。「もとはあなたの持ち物だから」そうだね、と私は頷く。人類の黄昏、青少年の美しい世界の調和。これで完、でもいいけれど、壱子には世界の使命が任されている。私たちも協力しなければならない。だから私は壱子にボウガンの先を向ける。狙いを定める。どこに当てたら苦しみが減るかなぁとか増えるんかなぁとか考えてたら壱子は勝手に目を閉じて「ごめんね」と言った。それは鏡の向こうの私が私に言っているようでもあった。「あんなことをするべきじゃなかった」「いいよ。殺したうち二人はまぁ殺されても仕方なかったよ」「ほんと、妹って生意気だよ」私は笑った。私はもう自分が罪深いとは思わなかった。だって「いいお姉ちゃんを持った」からね。「やかましいわ」が最後の言葉だった。矢は正確に彼女の肋骨を抜けて心臓を貫いた。それはもうウィリアム・テルも真っ青な精度だった。あとは遺言に従って私たちは世界を終わらせるだけ。彼女に指定されたガソリンスタンドに放置されたタンクローリーに乗り込み、壱子から預かった鍵でエンジンを動かす。こんな世界でも本当に動いたことに私は驚く。それとも壱子が整備をしてくれていたのだろうか。ありがとう愛しのお姉ちゃん。世界を終わらせる手伝いをしてくれてありがとう。私が運転席、習志野は助手席に座り(だってタンクローリー運転してみたいじゃん)、壱子から雑なレクチャーしか受けなかったせいでめちゃくちゃに街を破壊しながらも、なんとか大事故を起こさず橋の上までやって来ることができた。ちょうどぴったり、正確に正確に駐車して、どうせうまくいくのに何度も降りて下を見て、そしてようやく準備は終わる。「じゃ、いいね」と私は言った。「うん」と習志野は言った。それだけだった。世界ごときを終わらせるにはそれで十分だった。私は壱子の指示どおりスイッチを入れた。どっかーん。タンクローリーの燃料が爆発した瞬間、私は時計を巻き戻す。二〇二三年七月一五日二三時二六分に巻き戻す。これで終わる。すべてが終わる。私たちは私たちに巻きこまれて死ぬ。そしてループが始まり、最後に私たちがここにやってきて、二〇二三年七月一五日二三時二六分私たちを殺す。こうして世界は一本道のまま滅亡する。誰もいない空っぽの美しい地球が残される。おしまい。………………私にはまだ意識があった。横には習志野もいた。でもタンクローリーはとっくに大爆発して肉体は四散したのにまだ魂があるなんてCDの最後の曲に無音時間を作ってから入れるボーナストラックみたいな感じだ。とっくに運転席は吹き飛んで私も習志野も世界を終わらせる愛の心中を成し遂げたのになんでこんな時間作るんだよ暇だなーって思ってたら逆方向から近寄ってくる二つの足音。誰だろう、と一瞬考えてからああそっかそういうことかよ! と二人同時に合点した。タンクローリーに乗った私とこいつが落下とほぼ同時に消滅し、落下は居合わせた天沢弐子と習志野十勝を巻き込まず、それどころかそれが二人の出会いとなり、私たちを出会わせるために今までの私たちはここまで来て、その礎として消えるのだ。世界は一本道だから、私たちはここで終わる。でも世界は終わらない。これから始まるんだ。あの天沢弐子と習志野十勝が始めるのだ。神話だ。これまでの茶番はすべて、私であり私でない彼女とあいつでありあいつでない彼を出会わせるためのお膳立てあり迂回だったのだ。そして時空を旅してきた私たちは全員自分たちのための舞台装置だったってことだ。そうだと分かったら笑いがこみあげてきた。なんでそんな無駄に壮大なんだよ神様もっと楽な方法はいくらでもあったろうに、しかしそれでも天にいる誰かさんはどうしても二〇二三年七月一五日二三時二六分にある少年と少女に完璧な出会いを与えたかったのだろう。なんたる無駄なんたる無意味。それがザッツライフって、そんなことを考えているうちにも意識はどんどん透けていきもうなくなっているに近い。私たちはここで終わりまた始まるだろう。あるボーイ・ミーツ・ガールが終わりもうひとつのボーイ・ミーツ・ガールが始まるだろう。しかしそれはこの毎秒にも世界中の男子と女子が出会い別れているように私たちにはいっさい関係ない話だ。老兵は去り行くのみというやつで、もう何も望まない。だから私たちはこのままいさぎよく消え去りたい。死なせてほしい。習志野、そうだよね? 私はこいつと死んでも悲しくない。だから私たちは早く死んでほしい。