電撃大賞落選原稿『エヴェレット・ジャンキーガール』

「人生はたった一回のトリップで、なにもかもが重いんだよ」
フィリップ・K・ディックスキャナー・ダークリー

 

 

1

 朝の屋上は嫌いではなかった。
 朝露が空気と一緒に肺に吸い込まれる感覚は心地よい。ぼちぼち梅雨入りするだろうが、今年はまだジメジメとしてはいない。
 ただ、赤みがかった陽の明かりは嫌いだった。日光を浴びるのが心身によいという健康法があるが、俺は逆に穏やかな光を浴びると訳もなく空しくなるし、死にたくなる。
 でも今はいい。その方が自分がやりたいことに好都合なのだ。
 人目を気にしながらゆっくりと縁の方に向かう。うちの屋上はそもそも人が入るように設計されていないので、フェンスはない。
 ときどき死にたくなると、誰もいない屋上に来てぼーっとする。そうすると不思議と穏やかで、自分が空っぽになったような、あるいは既に空っぽであることを確認するような、そんな心地よさがある。
 落ちたことはないから、それこそこれが俺の健康法なのかもしれない。
「またやってる」
 後ろから投げかけられた言葉に、またかと思った。呆れと好奇の混じった野次馬がやってきたらしい。
「なんですか」
「ああ、やっぱりキミだったのか。安心」
「他の誰がいるんですか。こんなことする人間が大勢いたら困りますよ」
「こんな清々しい朝なのに何してるんだ、まったく」
「高いところが好きで」と適当に答える。「突然声を掛けて、落ちないか考えないんですか」
「『ベルリン・天使の詩ごっこ
 この人に倫理観はない。俺がもし本当に死んでもシラを切るだろう。
「戻ってきなさい。もう化学準備室、閉めるから閉じ込められちゃうよ」
「ああ、そうでしたね……」
 彼女は化学部の部長だ。
 屋上には通常の方法では上がれないのだが、設計ミスなのか、化学準備室の窓から強引に入ることができる。一時は通行税というあくどい商法を試みた化学部員もいたようだが、彼女は自称・良識派なため「見学」という名目で勝手に生徒を受け入れている。が、今では人気自体がないので人が全然来ない、と彼女は最近身勝手に嘆く。こんな惨めな場所が愛されているのは創作物だけなのだ。
 そんな部長は俺のことが気に入っているらしく、度々ちょっかいをかけられる。
 彼女の方を見ると、口元からは白い棒状のものが飛び出ている。
「これ吸う?」
 手渡されたのは棒付きのキャンディーだった。
「またアニメごっこですか」
「ほらー、またそうやって。屋上に上がって棒切れを咥えたくない高校生はいません」
 ちなみに彼女、確か三年生でトップ3だかの成績保持者である。アウトローを気取りたいが根は超真面目なので踏み外せない、腕力もないくせに破天荒でいたがるようなタイプだろう。言わないけれど。
「ほら、もう閉めちゃうよ。それとも先輩と二人だけでサボっちゃう?」
「無遅刻無欠席でしたよね」
「健康優良児なのだ」
 てへっ、と己の頭を叩く部長を見て、よし帰ろうと思ったときのことだった。
「あのさ、変なこと訊くけど」
 珍しく彼女は真剣な表情と声音で言う。
「変な薬とかの話、小耳に挟んだことってないよね」
「ここ、郊外の平凡な学び舎ですよ」
「いや、知らないならいいんだ。忘れて」
 怪訝な顔を「知らない」の同義語と察したのか、それ以上部長は何も言わなかった。
 なんとなく不穏なものを感じたが、どうせ彼女の気まぐれだろう。そろそろ戻らなければいけない。そう思って、縁から離れようとしたとき――
 誰かに見られているような、そんな感覚がした。

 

 何か、胸騒ぎがする。

 

2

 翌日、その予感は現実になる。

 

 電車で見知らぬ人と知り合うなんて、創作物の中でしかありえないことだ。
 移動手段に乗っている人間たちはみんな急いでいるし、その文脈から脱線して誰かと接点を持とうとする人は、犯罪者か危険人物ということになるだろう。
 こんなにも大勢の人がごった返しているのに誰の名前も知ることはない。
 そう考えると少しめまいがして、自分自身の名前も不確かで消えていくような気がする。

 

 けれど今日は違った。
 いつも乗っている最後尾の車両の前方、向かい側のドアの傍に立っている人物の視線を感じる。心なしか今日は人が少ない気がするので、気がついたのかもしれない。
 女子高生だ。
 制服で分かるが、彼女は同じ高校の生徒だった。我が校はリボンやネクタイの色が違う(一年が赤、二年が水色、三年が黄緑。信号機のようで笑える)ので、彼女が自分と同じ二年であることは一目見て分かる。
 彼女個人の印象は、人懐っこそうという感じだ。顔立ちは幼く、背丈と相まって中学生でもギリギリ通るのではないか。肩ほどで切り揃えられた髪は茶色く、朝の陽光で先が透けている。英単語帳を開いていたがまったく読んでおらず、俺をちらちらと見ている。
 何か俺におかしいところでもあるのか? と訝しんだが思い当たる節はない。制服はちゃんと来ているし寝癖もない。挙動不審だということも……たぶんない。だろう。
 列車が鉄橋にさしかかった頃、困惑は軽い苛立ちに変わった。
 他の生徒を避けるために一番ホームの階段から離れた車両に乗っているから、乗客はほとんどいない。
 何だってんだ? 俺のどこがそんなにおかしいんだ? 言ってみろよ。
 人目もないことだし、映画の台詞のようにそう言ってやろうかと妄想したが、サリンジャーの短編にエレベーターで乗り合わせた人に被害妄想でいちゃもんをつける登場人物がいたのを思い出してやめた。そいつは最終的に銃で頭をぶち抜いて死んだんだった。
 冷戦が破れたのは、最寄りのひとつ前の駅に着く直前。
 残念ながらここでどっと人が入ってくる。サラリーマンや他校の生徒もいるし、私立の中学生も混じっている。カオスだ。毎朝耐えるしかないゾーン。
 いたたまれなくなって仕方なく声をかける。
「そこにいると出られなくなるぞ」
 彼女は文字通りにきょとん、と表現したくなる顔をしたが数秒してやっと音に乗った言葉の意味まで追いついたのか「……あ、そういうことか」と手を叩いて「ありがと!」と笑い、こちらの近くまで移動した。
 駅に着くと果たして俺の言う通り人の塊が殺到してくる。もし先ほどの場所にいたら彼女は圧し潰されていただろう。
「助かった。いつも忘れちゃうんだ。ナイス」
 俺と向かい合う格好になった彼女が話しかけてくる。顔がちょっと近くて怖い。
「毎朝乗ってるのに、ってこと?」
 ですか、と語尾につけようかと思ったが、相手の声音で判断してやめる。
「ここが特等席なんだよね」
「何の?」
「さて、何でしょう」
 そう言って謎かけを出したようににやつく顔が癪だったから何も答えないでいると、今度は「ねぇ、キミさ」と言い出す。「私のこと、知ってる?」
 一定の間隔で車両が揺れる。彼女の顔をちゃんと見てみるが、記憶にない。
「知らないけど」
「ふーん。そうだよね。そうだよね」
 そう勝手に独り合点される。「このキミは知らないだろうね」
 この? どういう意味だよ。
 コミュニケーションが成立していない。向こうが一方的に言葉を撃ち込んだ後に頷いている。会話のドッジボールでさえない。一方的な狙撃だ。
 さらに彼女は「当ててあげよっか」と唐突に言った。
「は? あのさ、さっきから何――」
「キミの名前」
 そのまま顔が近づいてくる。息づかいと空気中に放散されている体温を感じる。
「福宮高校二年のD組、山田リュウくん」
 耳元で囁かれた。
 粘ついた舌の音が一瞬だけ鼓膜に残ったが、まもなくすれ違う快速の爆音で掻き消される。
「おい……何で知ってるんだよ」
 最初に感じていた怒りは困惑に変わり、今では恐怖になりつつある。彼女は俺のそんな様子が楽しくて仕方がないのだろう、なおさら笑う。
「お前は誰だ」
「仕事が嫌になり、制服のコスプレをして電車に乗るのが趣味になってしまった新卒のOL」
「は?」
「……かもしれない」
 唖然とする俺が愉快で仕方ないというように、彼女は声を弾ませる。
「それとも夜な夜な魔物と戦う少女で、退治したけれど手ごわかったせいで朝帰りで寝不足」
 かもしれない。
「または攻略不可だがコンシューマー版で個別ルートが実装される人気投票七位のヒロイン」
 かもしれない。
「でもやっぱり電車で毎朝乗り合わせるだけの、平凡で誰も気にかけない、ただの女子高生」
 かもしれない。そう彼女は繰り返した。
 その言葉と同時に、電車が緩やかにスピードを落とす。少し平静を取り戻して、極限まで丁重に「いい加減にしてくれないか」と言おうとしたところで、彼女は再び顔を近づけて。
「でもね、確実なことは一つあるよ。それは――」
 言った。

 

「キミは私に愛されてるってことだよ、リュウくん」

 

 瞬間にドアが開き、どっと人が溢れホームまで押し出されて、彼女の姿を見失ってしまう。
 すべて夢か幻覚だったのではないか。そう思って頬を撫でる。
 何か巨大なものがやってきて、処理するのに時間がかかっている感じだった。
 俺はただ、昨日の雨で水たまりを作ったプラットホームが水色に光っているのを、しばらくぼんやりと見つめていた。

 

3

 海のない県の見るべきところのない日本中の郊外のひとつ、都会でも田舎でもなく、両者から侮蔑または無視を受ける緩衝地帯。
 その灰色の団地で生まれ育ち、狭く遊具のない公園で遊んで……いや、ゲームや漫画や動画サイトで育った中流家庭の少年少女たちが、川沿いの私立高校に通っている。
 高校受験では滑り止めによく使われていることぐらいしか入学前の俺は知らなかったが、今も知っているとはいいがたい。
 中学時代、誰でも高校はどんな場所だろうと想像する。当時は高校生が大人のように見えたし、創作物の中での高校はよかれ悪かれ興味をそそられる描き方をされていた。凡庸な中学生だったので、スクールカーストは本当にあるのかとビクビクしていた。
 実際はどうか。それはよく分からない。
 正直なところそういった概念ははっきり見えなかった。見た感じでは、誰もが平凡に学校生活を送っている。そして自分も、漠然と死にたいと思いつつも、それなりに馴染んではいる。
 はっきりした友人はいないが、誘われれば会話の輪に加われるし、それは誘われる程度には信頼関係を置かれているとうことでもある。発言したことはないしやかましいので通知を切って気が向いたときにしか見ないが、クラスのSNSグループに入ってもいた。
 深入りはしない。けれど孤立もしていない。
 そうやってうまく立ち回る技術を身につけている。本当はクラスメイトの顔や名前さえ覚えておくのも面倒だけれど、社交性というのは一度身につけてしまえば割と自動的なものかもしれない。でも、そういった考えが見え透いているから、決定的に誰かと親密になれないのだろう。
 楽しいかと言われれば、まったく楽しくない。何も感じない。そして今も、死にたいと思っている。

 

 昼休みはもう始まっていて、食堂は人で溢れ購買のパンにはとっくに列ができているが何も食べないことにしたのでどうでもいい。
 梅雨が明けてほしくなってくるこの頃、ちっとも空腹にならない。もし脳がバグっていて本当はエネルギー不足なのに腹が空かなかったら唐突に餓死するのだろうか。そんなくだらない想像に身を任せてみる。
 授業中、電車での出来事について少し考えてみた。彼女は何が狙いだったのか。でも自分にはいい推理などできようもない。
 ぼんやりして、焦点の定まらない目でずっとクラスの喧騒を見つめている。きっとまだ幻を引きずっているのだろう。寝ぼけたまま、机に突っ伏す。
「もしもーし。応答せよ」
 誰かの声がする。自意識の展開を一時中止して眼を開くと、鼻がくっつきそうなくらい近くに女の子の顔がある。
「山田係長、午後からお眠ですか。いい御身分ですなぁ」
 彼女は人差し指でからかうように俺の頬をぷにぷにと押す。迷惑だったが止めるほどではなかったのでそのままにして、片手で目を擦る。
 顔を五秒ほど見てようやく、彼女が誰だか脳から情報を引き出せる。
「電車で、……見た」
 そうだ。あの女の子だ。
 呼び方が分からないのと再びの困惑で言葉に詰まっていると、「ああ、名前知らないんだっけ」と彼女も思い至ったらしい。
「とりあえずリリって呼んで。……変だなぁ。いまさら挨拶するなんて」
 また、そういうことを言う。
「だから、なんで俺のことを知った風に言うんだよ」
 さっきは動揺していたのでされるがままだったが、ようやく疑問をぶつけることができた。
「だから、自由に想像していいよ。一〇〇パーセントの彼女でも宇宙の待ち合わせ室で会ったのでも、ずっと前から探していた気がしても」
「黙れ」
 媚びた声に反射的に返してしまったが、後悔する必要はないと判断した。どうやらこっちも遠慮しないでいいらしい。
「性質の悪い悪戯はやめろ。殴りたくなる」
デートDV! 鬼畜! でもときどき殴られるけど本当はリュウくん優しいって知ってるよ。月一でファミレス連れてってくれるし」
「黙れつってんだろ」
 声を荒げたことで周囲の注目を集めてしまう。いや、というかクラスメイトならさすがに知ってるはずなのでつまるところ恐らく彼女は別のクラスで、なのにわざわざここまで来ていれば目立つのは当然なのだ。案の定、近くの女子グループがこちらを見てひそひそと話し始めている。
「なんで俺に関わるんだ」
「えーっと、まぁ正直全部気まぐれなんだけど。ここまで関わったからには、ここでのリュウくんにも教えてあげることにしようかな」
 ここで?
 そこで思い出す。そういえば電車でもこいつは変な言い回しをしていた。まさかヤバい人間に絡まれているんじゃないだろうな、と身構える。
「休み時間、まだあるね。じゃ、行こっか」
 そう言って彼女は俺の手を握り、引っ張る。勢いで立ち上がってしまうと、そのまま引っ張られていく。
「おい、どこに連れてくつもりだ」
「ここではないところ」
 先導する彼女――リリは、そう言ってにっと笑った。

 

 ここではないどこかとは、どこか?
「屋上じゃないか。お前、知ってたのか」
 空きっぱなしだった化学準備室、その窓をくぐると半球で頭上を覆う空が広がっている。日差しで乾いたのか、水たまりはコンクリートの上にぽつぽつと点在して日光を反射している。
「人目に付かないところがいいからね」
「どうしてだ?」
 そうですねー、とリリは勿体ぶる。
「これからキミにプレゼントをします」
「プレゼント?」
 俺が眉をひそめると、待ってましたとでも示すようにリリはポケットから四角いものを出した。それはフリスクの入れ物の大きい版みたいなピルケースだった。
「……これは?」
「『エヴェレット』だよ」
 そう言って何錠かぱらぱらと掌に取り出して、見せる。
 それは白くて小さな錠剤だ。
 リリはもっと小さな容器(カメラのフィルムを入れる容器だろう)を取り出すと、錠剤を入れて俺の手に握らせる。
「いや、こんなものもらっても困るだろ」
「大丈夫。毒じゃないよ。危ない薬でもないし。少なくとも現行法では」
 ダメな奴だった。
 ケースを放り投げようとして「ダメ! もったいない!」と制止される。
「待って待って待って待って、本当に大丈夫なんだって! 話聞いて! 女の子の話を聞かない奴はモテないぞ! 私以外に!」
「……お前、本当に何なんだ?」
リュウくん、これから真面目な話するから、ご傾聴を」
 そう言うとリリが俺からぴょんと一歩離れ、こちらに向き直った。
リュウくんはさ――今とは違う人生を生きたいって思ったこと、ある?」

 

 今と違う人生?
「真面目な話なんだよな」
「うん」
 深く考えずに答えた。
「……違う、と思う。まず、ずっと死にたいと思ってる」
 この一言で怯むかと思ったが、「ふむ」とリリは驚かなかった。
「で、それは何が起きても変わらない。そりゃ、人間だから後悔や願望がまったくない訳じゃない。でも、それが解決されても死にたいままだ、って気がする」
「きっかけはあるの?」
 ああ、と俺は頷いてみせる。
「知っている人の影響でな。その人は、俺にいろいろなものを残してくれた。でもそれは、一般的にいい意味だけじゃない。むしろよくない影響を大いに受けている。自殺願望も、そのひとつなんだ」
 リリは「その人とは、いろいろあったんだね」と言ったが、それ以上は訊いてこなかった。
「ああ、大きないろいろだ。すごく大きくて、ショックだった」
 どうして俺はいきなりこんなことを喋っているのだろうか。普段なら、絶対に喋らないはずなのに。
「で、そのいろいろがあって、なんかこう……膜みたいなものができたんだ。それがときどき視界に張ったりする。いつもじゃないんだけど、視界だけじゃない。身体を包んでいる感じがする。ここにいるのに、ここにいない感じがする。それが気持ち悪い。たぶん……それを細かく言語化できないから『死にたい』と言ってるんだと思う。なんでこんな話してるんだろ」
 意味わかんないか、と俺よりずっと意味の分からない人間に釈明してしまう。
「……なるほど。こういう人なのね」
「いや、さっきから何のつもりだ?」
 リリは俺の疑問を無視して「でもさ、それって本当なのかな?」と話を変える。
リュウくんが感じているのは、いわゆる解離だよね。目の前で起きていることが切り離されている、自分自身がここにいないという感覚。そしてそれは、現実とギアが合わない、遊離した状態。ストレスからの自己防衛。でも、それなら、もし心から落ち着いて、ストレスがなく、楽しい生活を送れるなら、どうなるかな?」
 何も言えないままでいる俺を尻目に、リリは「間違ってたら申し訳ないけどさ、リュウくんの心の中、どこかには――」と、言葉を継ぐ。
 そして、ある指摘をした。
「――別の人生を生きたいという気持ちもあるんじゃない?」

 

 フィリップ・K・ディックというアメリカのSF作家がいる。
 彼は親知らずを抜いてから幻覚に悩まされ、自分が別の世界に生きていた、という前世のような記憶に悩まされていた。
 そんなあるとき彼は読者の女性から手紙を受け取る。見ず知らずのはずの彼女はディックのことを知っているという。実際に会った彼の主張によると、両者の記憶はほぼ完璧に一致していたという。
 ……俺の経験はどうなのだろうか。
 突然知りもしない女の子に絡まれ、訳の分からない薬品を渡された。

 

 この怪しげな錠剤は何なのか。
 リリはこう説明した。
「これを飲んで、何か願ってごらん」
「……願う?」
「そう」とリリは元気よく頷く。
「なんでもいいよ。あ、でも、できれば『異世界で女の子とキャッキャしたい』みたいな荒唐無稽なのじゃない方が安全かも。現実の範疇で、もしこうなっていたら、というのがいいと思う。えーと、テストで満点を取るとか、くじで当たるとか……あ、でも他の子と付き合ってる世界はやだな」
「断る」
 ノーモーションの返答にリリは「がーん」と自分で効果音をつけた。
「もうっ、真面目に聞かないんだから。せっかくの耳寄りな話なのに」
「知らない物質を知らない人間から貰って飲む奴がいるか?」
「だからー、『エヴェレット』って言うし、もう他人じゃないって!」
 なぜこんなにも図々しいのだろうか。
「最初は混乱するだろうけど、説明するより実際にやってみるのが早いからね。じきに効果が切れて戻ってくるし安全安全」
「いや、話を聞けよ」とたじろぐ俺にリリはぐいぐいと押してくる。
「うーん、そんなに怖いなら……まぁいいか。今ここで試してみる?」
 そう小首をかしげられる。
「ここで?」
「そう。二人で飲む。私が直々に使い方をレクチャーするの」
「そこまでして俺に飲ませたいのか……」
「いや、これはたぶんリュウくんが望んでることだよ」
 リリは「さっき訊いたよね」と俺に言質を取る。

 

『――別の人生を生きたいという気持ちもあるんじゃない?』

 

 それに俺は、答えられなかった。
リュウくんは、もしいいことがあっても、死にたい気持ちは変わらないと言ったよね。でも、私はそうは思わない」
「……もしそれが正しいなら、どうするんだ」
「私が連れ出してあげるんだよ。『ここではない人生』へ」
 どうやらリリは本気らしい。
「これからキミの人生を、変えてあげる」
 なるほど確かにこの女は狂っているだろうが、それなりに一理ある意見を言っているのかもしれない。納得はできていないが、積極的に反論できる材料もない。
「だけど、やっぱりそれでも死にたい気持ちは変わらないはずだ。どんな理屈か知らないが、お前が言う通りなんでも願いが叶っても、それは同じだ」
「んー、そこまで言うなら賭けてみようよ。もし私がリュウくんに生きてるのが楽しいって思わせられたら私の勝ち。死にたいままだったらそっちの勝ち」
「……はぁ」
 自信ありげに笑ってみせる彼女を見ていると、なんだか断れない気がしてくるから困る。
「なんならありがちなことしてみよっか? 勝った方が相手に言うこと聞かせられるってやつ。いやーん、リュウくんのえっちー」
 面倒くさくなってくる。もう何でもいいか。
「……もういい。分かったよ。飲めばいいんだろ、飲めば」
「よし! 決まり。休み時間が終わる前に、急いじゃおう」
 そう言ってリリは「割って半錠……いや、一錠でいいか」と呟いてから、掌に再び錠剤を落とす。「リュウくんもひとつ出して」
 言われた通りケースから丸い物体を取り出す。
「一瞬で舌で溶けるから、呑み込もうとしなくて大丈夫。お互い飲んだら私が手を握るから、意識を集中してね」
「どうしてだ?」
「はぐれないようにするんだよ」
「いや、意味分からん……」
「ま、いいから。じゃあ――」
 いくよ――という掛け声に慌てるが、今更逃げるわけにもいかない。
「せーのっ!」
 そして俺たちは、異物を口に入れた。

 

 それから起きたのは、信じがたいことだった。

 

 最初に感じたのは地震のような揺らぎだ。
 ぐらぐらと視界がブレて、平衡感覚を失いその場に崩れる。
 立っていられない。身体の全体が小刻みに震える。膝をつく。額の冷たさに気づく。冷や汗。リリを呼ぼうと口を開いたが声が出ない。気道を息が抜けていくだけだ。
 その次に激しい頭痛が来た。呻きたくても声帯はまったく機能しない。歯を食いしばろうとするが口元は既に弛緩している。
 耐えきれずに眼を閉じると、目蓋の裏に直線や円や菱形などの幾何学的な模様が浮かんでは消えていく。見ているうちに吐き気がしてきたが、幸いなことに何も食べていなかったせいで一度小さくえずいただけで嘔吐はしなかった。
 やがてある臨界点を超えた瞬間、痛みは唐突に力を失い、脳の中がどろどろに溶けて混ざり合い消えていく。身体が溶けていく。自分がどろどろに溶かされて床に垂れ落ちる。思考も、意識も、何もかもが液状になって、世界の中に染み込んでいく。
 まさか死ぬのか?
 そう考えて一瞬安らかな気持ちになったが、少し遅れてパニックがやってきた。
 自分が消える!
 おそらく人間には消えることへの本能的な拒絶反応があるのだろう。クジラのイメージが現れる。昔読んだ本だ。クジラの集団自殺。陸で呼吸していた先祖の記憶を思い出したクジラが突然溺れ岸に殺到する話。
 金縛りにあらがうように必死に手足を動かし頭を振ろうとする。四肢があったはずの場所に意志を込める。動け動け動け。
「――リュウくん! 手!」
 ある感触がある。どこかに力がかかっている。温かい何かが接触している感じがする。
「集中して!」
 しばらく一点に意識を向けていると、少しずつ自分自身が再構成されていく。外界と自分の区別が少し戻ってくる。幾何学模様が人間の形を取る。はっきりとは見えないが、そこに人間がいるようだ。
 リリだろう。
「大丈夫。ゆっくりと呼吸して。これから私が調整するから、こっちに意識を向けて」
 思考は粘ついてまだ鈍いが、少なくとも聴覚は戻ったのか、なんとか内容は理解できた。
「手を離さないで」
 言葉が聞こえる方に、そして握られている手に集中する。強く握る。
 ――飛ぶよ。
 その一言で何もかもが拡散し、
 まもなく、超然とした静寂が訪れる。

 

 気がつくと俺は遠くから景色を見つめている。
 いや違う。目の前にリリはいるし、ここは屋上だ。でもなぜか遠くからそれを見ている感覚もある。
「戻ってきたみたいだね。よかったよかった」
「……これは」
「『ここではない世界』だよ」
 奇妙だ。見えないけれど目の前に薄い膜が張ってある、そんな気がする。半透明な膜。
「別の世界に来た……のか」
「どちらにもいる、と言った方が正しいかも。ゆっくりと意識を下の方に向けてみて」
 言われた通りにすると、もう一人自分がいた。
「なんだ、これ……」
「ゲームのプレイヤーになって、自分をコントローラーで動かせると考えてみて。リュウくんは今、ふたつの身体を同時に操作できるんだよ」
 ちょっと慣れが必要かもしれないけどねー、とリリは付け足す。
「試しに下の自分の身体を動かしてみよっか。今、どっちでも私の手を握ってるよね。上だけ離してみて」
 そう言われても……と思ったが、少し集中すると案外あっさりできた。
「合格。これでちょっと分かったかな」
「……俺は分裂してるのか?」
「当たらずとも遠からずだけど。さっき言った通り、両方の世界に同時に存在できる的な」
 相変わらず訳が分からないが、とにかく危機は脱したようではある。こんな目に遭って本当は文句の一つでも言ってやるべきなのだろうけれど、とにかく余裕がなかったし、自然に状況を受け入れている自分もいるわけで。
「……で、これからどうなるんだ」
「準備完了だよ」
 だから説明しろ……と言いかけて、上とやらの自分がふらりと揺れ、へたり込む。そしてそのまま上の意識は消えていく。
「あー、ちょーっと疲れちゃったか」
「待てよ! あの俺はどうなるんだ」
「大丈夫。私が見ててあげるから、とりあえず上では休んでてもらおうかな。さっそく見に行こっか」
 そう言って、またしてもリリは俺の手を握って引く。
「だから、何を」
「まぁ、見ればだいたい分かるって」
 彼女に連れられていく自分を、上にいる自分がおぼろげな意識でぼんやり眺め続ける――その奇妙な感覚は、薄れながらずっと続いていった。

 

 連れ戻されたのはD組の教室だったが、様子がおかしいことにすぐ気づく。
「……誰だ、こいつら」
 人間関係に頓着ない自分でも分かるほど、明らかに知らない顔がいくつもある。
「教室を間違えたんじゃないのか」
「ふふ、どうでしょう」
 思わせぶりなリリに少し苛立ちながらクラスをもう一度確認したが、やはりここはD組らしい。
「おい、どういうことだよ」
「うーん、でも全部説明したら面白くないからなー……って、あ! ちょうどいい」
 何がだ? と言ってやる前に、こちらに手を振っている生徒たち二人がいることに気づく。
 それぞれ男女だが、近寄ってくる顔にはやはり見覚えがまるでない。間違いなくこんな奴らはクラスにはいなかった。
「お前らどこ行ってたん?」と男子の方がリリに話しかける。髪の毛から爪先まで、いかにも、というステレオタイプなノリのよい男子高校生という印象。部活はやってないだろうが、オタクではないだろう。ネクタイを緩く締めて、ヘラヘラと軽薄そうに笑っているのが少々不快に感じる。
「ネズミ空気読んでよ。せっかくお楽しみだったんからさ」と女子。リリよりいくらか大人びた印象で、先端が緩くカールした髪の色は明るい。何かで染めているのか、地毛なのか微妙な色味なので、校則と折り合いがつかなそうだな、などと思う。シャツのはだけた首元がやたら周囲から目立っていて、スカートの丈も周囲より少し短い。腰には脱いだカーディガンの袖が締められている。何か意味があるのだろうか。
「せっかく昼はみんなで食べてるのに二人だけの世界ですよ? 誰も触れないじゃん、宇宙の風に乗ってるじゃん」
「まぁ、無視されるのはちょっと嫌なのは分かるけどさ」
「いやいや、私は友人として心配してるんですよ? だいじょぶ? 変なことされてない? 切った髪とか売らせてない?」
「方向性がニッチすぎるだろ……」とネズミと呼ばれた男が呆れる。
 なんだこれ?
 勝手に進む会話に「いや、ちょっと……」と口を挟もうとして、「リュウ、どうしたの?」と女の方が訊いてくる。
「……俺のことを知ってるのか?」
「何言ってんの? まさか記憶喪失プレイ? 泣きゲー?」
「真面目に答えろ」と語気を強めた。「なんでここにいるんだ? お前らなんて知らない。同じクラスじゃないだろ」
 ようやく向こうの方も事態の奇妙さに気づいたのか、俺の言葉に二人は顔を見合わせる。リリだけは、相変わらずニコニコと朗らかだ。
「ま、わたくしが放課後に種明かしをしましょう」

 授業中ずっと生きた心地がしなかった。自分が分裂した感覚は片方の意識が消えてからも続き、目の前で起きていることにまったく現実感を覚えられなかった。喋っている教師も当てられて答える生徒も、すべてが演劇を見ているように他人事に感じられた。
 解離という言葉を思い出した。
 何らかのストレスや精神の変調によって、現実感を失ってしまう精神的な症状。
 俺はまさに、その状態にいるのだろうか?

 

「さて、さっそくネタバレですが」
 放課後、訳も分からず連れられた駅前の喫茶店
 各々が慣れた手つきで注文するから困った俺はリリに任せたところ、甘ったるいアイスコーヒーが出てきて喉が粘つく。リリはクリームソーダだ。溶けたらベトベトしてちっとも美味しくないだろうに、なぜ飲むのだろう。二人がブレンドと紅茶だったので一人だけ浮いている。
 俺をほとんど無視して、三人は勝手に話を始める。
「なんと! このリュウくんは『ゾンビ』ではない、本物です」
 唐突なリリの発表に、ミドと呼ばれる女の方が「……マジ?」と呟く。
「じゃあ、リアルの方で『エヴェレット』を飲ませたわけだ」
 ネズミとやらの男がすかさず口を挟む。
「……それ、いいん?」
「へーきでしょ」とミドにリリは能天気に答える。「そんなこと言ったらミドたちがもういるし、ひとりぐらいなら」
 二人はそう言われて少し黙り、それからネズミの方が「まぁ、いいのかなぁ」と呟いた。
「そうそう。ちょっとした悪戯だと思って」
「うーん。あたしにはよう分からんけど。そんなことしても面倒なだけっしょ?」
「俺とはどうなるんだよ」というネズミの指摘にミドは口笛を吹こうとして失敗する。
 そんな様子を眺めながら、俺はリリを問いただす。「さっきから意味が分からないが……まず、恋人ってどういうことだ?」
リュウくんはさっき『エヴェレット』を飲んだよね。で、別の世界にやってきた――正確には私が連れてきたわけだけど。そこがここ。で、そこで私たちは彼氏彼女の関係。頭ついてこれてる?」
 多少小馬鹿にされた気がしながらも、リリはようやく真面目に説明を始める。
「薬の効果を理解するなら『一時的に並行世界に行ける』と考えるのが分かりやすいかな」
 ――並行世界。
 その言葉に、俺は眼を見開いていた。
「もちろんさっき言ったように一定期間だけ。効果が切れれば元の世界に戻る。でも、それまでは自由に好きな世界を望みどおりに移動できるんだよ」
「どんな世界でもいいのか」
「基本的には。……あ、ただ場所と時間は変えられないよ。あと言った通りあんまり現実離れしたところに行こうとするのはおすすめしないかな」
「なぜだ?」
「身の危険があるんよ」とミドが口を挟む。「いきなり異世界に飛んだとして、そこの物理法則とか状況をしっかり思い描けないとヤバいよ。んー、たとえば、地球が消滅した世界に行こっかな、と思う。行ってみる。すると生身で宇宙に放り出されることになって、死ぬ」
「……『エヴェレット』を使って飛んだ世界で死んだら、現実ではどうなるんだ?」
 素朴で、恐ろしい疑問だ。
「『バッド』って呼んでるんだけど、同時に操っていた身体のうち、現実の方に意識がいきなり戻る。間違いなくパニック状態になるね。……死んだと思ったのに生きている、ってのはマジで怖いよ。絶対おすすめしない」
リュウくん、絶対試しちゃだめだからね」
「ああ……」とリリに答える。そうだ、こいつは俺の自殺願望を知っているんだ。
「でも、それ以上危ないのは現実の方で動かしてる身体が危険に遭うこと。リュウくん、これだけは必ず注意してほしい」
「……もしそうなったら?」
 俺の問いに、三人の空気が少し変わる。
「とにかく、気をつけろ」とネズミが話を打ち切るように言った。「身体の動かし方がよく分からないうちは、絶対に安全な場所で使え。……こっちも守ってやれないかもしれないから」
 何かが引っかかったが、とりあえず気圧されて頷いておく。
 ……そのあたりで話がひと段落したので、脳内で理解できる限り情報をまとめてみた。
 要するにこの薬を使うと幻覚が見られるってことか。俺はそう考える。
 並行世界なんて行けるはずがない。
 けれど、疑似的にはそういうことができる薬も存在するのかもしれない。もちろんそれは法的にグレー……いや、アウトな可能性もあるが、もう俺は使ってしまったから手遅れだ。
 そこで、さらに疑問が浮かんでくる。
「そもそも、こんなものどこで手に入れてるんだ?」
「教えてくれたんよ、リリが」とミドが答る。「これ、言っていいよね?」
 リリが頷いて、話を継ぐ。
「深くは言えないけど、ある人から貰ってるんだよね。わりかし大量に」
「……簡単に手に入るのか? そんな薬があるならとんでもない値段になるはずだ」
「いや、今のところほぼ私たちとその人しか『エヴェレット』のことは知らないよ。だから薬に関してお金のやりとりはしないようにしてる。その人とも、私たちのうちでも」
 待ってくれ、と思う。仮にも錠剤であるからには、どこかで作られたはずだ。それとも、そもそも個人が密造しているのか? というか、誰が開発したんだ? 疑問は尽きないが、これ以上掘っても答えてくれなさそうな反応だったので、話を移す。
「だいたい分かった。じゃあ、『ゾンビ』ってのは……」
「おっ、もう分かる? 『エヴェレット』を使っていない、現実ではなく飛んだ世界の先にいる人たちをそう呼んでるわけ」
 ネーミングセンスが欠如しているのはともかく、だいたい状況は理解できるようになってきた。つまり、リリはどういうわけか知らないが俺をこの並行世界で彼氏にしていたが、悪戯なのかなんなのか、リアルの方を呼び出したということになる。
 身勝手だ。
 けれど自分が乗った話でもある。糾弾することはできない。
「乗っかっていないときの自分の脳が持つ記憶はどうなるんだ? たとえば、リリが彼氏にしてる『ゾンビ』の山田リュウは、今乗っかっている俺の記憶を持ってないのか?」
「持ってないね。その記憶は『エヴェレット』を使っている人間のものだから。その世界で私たちが起こしたことは完全にそのまま残るけれど、向こうの記憶から『エヴェレット』のことは削除される。空いた部分で『ゾンビ化』した自分は偽の解釈をねつ造するでしょうね。感情や記憶を後付けして」
 へぇ、都合のいい話だ。
「じゃ、このリュウとは初めてってことなんだな」
 いつしかじゃれ合いが終わったのか、ネズミがリリに訊く。
「あ、確かにそっか」
「へーおもしろ。じゃ、自己紹介でもする?」
 ミドの提案に二人は同意する。
「じゃ、俺から。こういうのは一番手がいいんだよ。……はじめまして、重松初鹿。こっちで同じクラス、っていうか前の席。リリがせっかくだからみんな同じクラスにしようってことにしたんだよ。あ、ネズミっていうのはあだ名な。ハツカネズミから」
「あたしがつけたんだよ」
「俺は嫌い」
「は? 文句あんの?」
 放っておくとすぐにミドとの掛け合いが始まるらしい。
「お前ら……いや、今は俺もだけど、一緒の世界を共有してるんだよな」
「『シンクロ』だね」とリリは補足した。「こっちに来るとき、私と手を繋いだでしょ? あれをそう呼んでる。慣れてきたら別に身体が触れ合わなくてもいいんだけど。でも、リュウくんがどうしてもって言うなら……」
「あー、ったるい」とミドが遮る。「あ、これも慣れと個人差なんだけど、同じ要領でお互い別々に『エヴェレット』を使っているとき、近い場所にいると『あ、近くにいるな』って分かったりする。三人ともできるので、あまり悪さしてるとバレちゃうからそこんとこ注意」
「ちなみにもーっと上手くなると人のいる世界に勝手にチューニングして乱入することもできます。すごいでしょ。逃がさないから」
 リリの目は本気だった。
「清純でいいねー、私だったら誰と何してようが気にならないけど。ね、ネズミさん」
 ネズミは「あ、ああ……」とぎこちなく頷いたが「ってか自己紹介はいいのかよ」と脱線した話を戻した。
「あ、そうだった。やっと私の番来たわ。福岡碧十七才。ミドでよろしく」
 ミドはんーっ、と右腕を上に伸ばしてから、指を顎に当てて「だる」と呟く。背中を逸らせて張った胸からなんとなく目を逸らす。
「で……最後は真打」
 残された最後の一人は、隣に座る俺の眼を見て言う。
「大久保璃々。リリって呼んでね。私の彼氏くん」

 

 そこで意識は遮断された。

 

「……んっ、起きたね」
 俺が目を覚ましたのに気づいたのか、リリの声がする。
 眼を開くと彼女の顔がある。髪が垂れ下がって、さっきまでと少し違う印象を与えている。そしてその背景には、少し赤みがかった空がある。
 俺は屋上に横たわっているのだ。
 首の柔らかい感覚に、それがリリの膝であることを察する。
「ごめんね。ちょっとミスしちゃったかも……あんなに途中で切れちゃうとは、不覚」
 その言葉で、すべてが実際に起きていたことなのを実感する。
 そして、次に気づいたこともある。
「ずっと、こうしてくれてたのか」
「ずっとって?」
「昼休みから、放課後まで。ここでずっと傍に」
「あはは、気づかれましたか」
 リリは、授業をサボってまで俺のことをずっと見ていたのだろう。
「サボらせちゃって、ごめんね」という謝罪に「いや、それはいいけど」と俺は困惑を口にする。
「教室に行って、保健室に行ったって言っておいた。確認されたらバレちゃうけどね」
「そこまでしなくても、いいのに」
「いやいや、私の自慢の彼氏さんなんだから、これぐらいなんてことないよ」
「……そういうことじゃないと、思うけど」
「いいの。私がやりたかったからやった。女子高生の膝の感触も味わえてお得だと思ったらええねん。これにお金払いたい人もいるんだよ?」
 相変わらずふざけて笑うこいつが、俺には理解できない。
「じゃあ、とりあえずありがとう。……でもこの俺がお前の恋人になるかは何とも言えない」
 はっきりと俺はそう言う。それでもリリは「うん」と驚かない。
「大丈夫。私は好きにしてみせるから。そして、リュウくんに、生きていることは楽しくて……まぁ、悪いこともないってことを教えてみせるから」
 よろしくね、とリリは言う。
 自信ありげな彼女の笑顔を見ていると、なんだか不思議になる。
 まだ一日と経っていないのに、どうして俺はこんなことになっているのだろう、と。
 ――夕の光が空を穏やかに包んで、彼女の髪先をまた透かしている。

 

5

 マンションの一室、電気もつけずにソファーに寝転がった。
 ひと財産を築いた姉によって用意された、高校生には不相応の我が住まい。ひとり暮らしにしては部屋が綺麗なように見えるがなんてことはない、少し散らかってもハウスキーパーがやってきて掃除されているだけだ。借金だらけだった時期からすれば信じがたいことだ。
 そしてその金の出所を快く思わない人間がいるのも事実だろう。
 姉を、人々は詐欺師と呼んだ。

 

 並行世界という言葉には聞き覚えがある。
 それは、あまりよくない方向でだけれど。
 俺には姉がいる。いや、いた。

 

 山田奈央――そう、姉のナオが自殺したのは、ちょうど俺が高校に入る直前のことだ。
 俺たちは出会い、十年と経たないうちに彼女は死んだ。
 再婚した両親を心中でなくしていたから、彼女は精神的に身内と呼べる最後の人間だった。
 畏敬する姉。
 偉大なる姉。
 かつての俺にとって彼女は神にも等しい存在だった。

 

リュウ、この世界はひとつしかないと思うかしら?」
「……なにそれ?」
「言葉通り。現実というのはひとつだけで、私もリュウも同じ世界に属していると誰もが思っている。リュウもそう思う?」
「どうって……それ以外ないと思うけど」
「でもね、実際には違うのよ。……『環世界』という言葉がある。あるクモは餌の熱源を確認すると手を放して下に落ちる。コウモリは超音波で物体を認識する。それらの生き物が感じる世界は、人間のそれとは大きく違う」

 

 学者の家系、その著名な物理学者の父を持ち、自身はヒトの脳に大きな興味を抱き、巨大な絵空事を夢見た姉。
 彼女は父の研究を支えるうちに頭角を現し、高校在学時点で各界から注目され、『天才少女』という陳腐な肩書でメディアに華々しく取り上げられた。

 

「こういう考え方は決して異端というわけではないの。カントは何世紀も前に感覚器官と概念によって人間の認識は決まることを論じた。一九六〇年代では、ティモシー・リアリーのようなカウンターカルチャーを信仰した人たちが、意識を変調させることで人間の認識を広げられることを期待した。マクルーハンというメディア学者はメディアを『人間を拡張するもの』と捉えた。……ま、インターネットは期待を満たさなかったけれどね」
「……また危ない話?」

 

 業績を理解できるほどの頭を持たない俺には、研究者として彼女が実際に何をしたのか語ることはできない。少なくとも世間的には単なる『時の人』としてすぐ忘れられた程度だろう。さんざん彼女を祭り上げたアカデミックな世界にも最晩年には完全に見放され、存在自体を黙殺されたという。
 曰く――気が狂った。
 彼女は『量子脳理論』という絵空事固執した狂人かつ、それをビジネスに利用した詐欺師という評価のまま、研究者としての生涯を終えた。

 

「世間的に認められる話ではないわね。でもね、私は自分の研究に意味があると信じてる。哲学もそうだけど、何より芸術には、今ここにある場所とは別の世界を志向したり、この世界の不確実さを表現する作品がたくさんある。カフカ安部公房ボルヘス、SFならディックやバラード……音楽なら、サイケデリックビートルズは世界一有名なロックバンドのひとつだけど、彼らもどっぷり浸かっていた」
「うーん……難しいから分かんないけど、すごい」

 

 今からちょうど二年前、彼女は自ら命を絶った。
 姉の活躍によって両親が事業の失敗で遺した莫大な借金も消え、表面上俺たちの人生は前進しているように見えた。
 姉の出身と同じ高校に入学が決まり、それまで研究とやらでしばらく疎遠になった彼女とようやく再会するという、直前のことだった。
 俺は驚かなかった。いつ死んでもおかしくないと心のどこかで思っていたからだ。世の中には表面上どんなに健康に見えても、明らかに「この人は長生きできない」と思わせる人がいる。そういう人だった。
 けれど予感していたこととはいえ、自分にとってみれば世界が終わったようなものだった。姉のすべてに憧れ、姉のようになりたいと願い、姉の言うことをすべて妄信し、全知全能だとまで思っていたのだから。

 

「私はね、科学も芸術の次元に追いつくべきだと思う。この世界は思ったよりずっと柔らかく不安定で、ある意味たくさんあることを科学的に証明したい」
「そんなことできるの?」
「そんなの、この天才に任せれば簡単……だったらいいのだけれど。でも、それが実現したら世の中は間違いなく爆発的に変化するわ。宮沢賢治という人はね、『完全な証明が可能になれば科学も信仰も同じようになる』ということを言った。私が目指すことも同じよ」
「そうなったら、どうなるの?」
「――そうしたら、何もかもやり直せるようになるわ。人類の生活は一変する」
「ずっと一緒にいられる?」
「もちろん。私たちは一緒にいられるし、それで誰も不幸にならない」
「そっか。姉さんなら絶対できるよ」
「ふふ、ありがとう」

 

 家族が俺たちだけになってから、俺はずっと姉に支えられてきた。それを失った打撃からは、まだ抜け出せていないのかもしれない。
 打撃――いや、それは呪いに近い。
 姉は最後に決定的な呪縛を残した。
 彼女の遺書には、こう書き残されていたのだから。

 

 リュウ
 並行世界で会いましょう。

 

「どんな願いも叶う」という薬を手に入れて、どうして姉のことを考えているのだろうか。
 リリと別れる折に、彼女は「やっぱりひとりで使うのはまだ早いか……」と当然の反省をしたようで、もし興味があるならまた屋上に来るように、と言われた。その時に『エヴェレット』も返しておいた。
 姉の言う並行世界なんてない。あの薬は、単に夢や幻を見せるだけだ。
 それでも思う。
 もし会えるのなら、何を話すだろう?


6

 『CLOSED』と札のかかったドアには鍵がかかっていなくて、中も無人だった。
 入った途端、窓の向こうから「やっほー」と声がした。どう応じたらいいのか分からなかったのでしばらく無視していたが、やがて向こうから近づいてきそうだったので仕方なく窓を開けて屋上に降り立つ。
「やーやー、リュウくん」
 たむろしている三人のうち、リリが俺を呼ぶ。
 もう片方の女子もちいさく頷く。伸びた前髪で顔がよく見えない。前めちゃくちゃ見づらそう。昼間はだんだん蒸し暑くなってきているのに、シャツの上から長袖のジャージを羽織り、ズボンも履いている。体育の授業後に着替えが間に合わなかった、みたいな印象だ。生徒指導とかに怒られないのだろうか。
「おっ、っぱ来てくれたじゃん」
 隣の男子も俺に声を掛ける。外見でまったく特筆すべきところがない。強いて言うなら三人とも立っている中で、ひとりだけ背が低いくらいか。目を瞑って三秒ぐらいしたらもう忘れかねない。アニメの中のモブの方がまだ個性を作っているとさえ言えそうだ。
「お前らは誰だ?」と単刀直入に尋ねる。
「……ひど」
 女子はいくらか傷ついたらしい。
「あ、そっか。リュウとはこっちで初めてなんだよな。またしても」
「ややこしい」
 二人に「そうそう」とリリは相槌を打つ。「ほら、もいっかい挨拶しなよ」
「あーい。ネズミだよ。よっす」
 そう言った男子が握りこぶしを見せたが、俺が一切反応しないのを見るとまもなく気まずそうに下げた。「……で、こっちがミド」
 男子――つまり、ネズミの紹介で、彼女も会釈する。
 そこでようやく思い至る。
「ゲームの、キャラメイクみたいなもんなのか」
「お、冴えてる」とリリは感心したらしい。
 願いを叶えられる。それは決して世界の側だけではないのだ。おそらくは、自分自身を変えることもできる。別の世界にいる別の自分をイメージするのだ。
 つまり昨日『エヴェレット』を飲んだあとに出会った二人の姿はゲームならアバターのようなものなのだろう。そして今目の前にいる二人はリアルのプレイヤー、ということになる。
 少しずつ分かってきたことも増えてきた。更に俺は訊く。
「……昨日俺が意識を失った後、俺はどうなったんだ?」
「抜け殻の『ゾンビ』に戻った。何も知らない、向こうの世界のリュウになった。何も教えてないからな」とネズミは答える。
「向こうのグループで『ゾンビ』だったのはお前だけ。リリが勝手に彼氏にして連れまわしてたから、自然と仲間入りしちまったんだよ。な」
「でも、誘ってよかった、と、思う」と小さくミドも言う。声帯が常に迷っているように震えている声からは、未だに昨日と同じ人物なのか信じがたい。
「お前らの惚気なんて見たくないけどな」
「はい、そうやって非モテぶる。隣にミドちゃんを侍らせるくせに」
「えー、こいつはちょっと……」
 ミドが素早くネズミの足を踏む。「痛い痛い痛い! ミドさんごめん超可愛い、萌えー」
 がしがしがし、と追撃が続くのを眺めながら「これからどうするんだ」と俺はリリに訊く。「また飲むのか?」
「もちろん」
 そう言って彼女はポケットからケースを取り出し、俺に渡す。
「おふたかた、ラブコメもいいけどやるよー」
 その言葉で、二人に緊張が走ったようだ。リリに続き、両者もポケットから容器や袋を取り出して、錠剤を取り出す。俺もそれに従う。
「量はどうするんだ。前回みたいになったら……困るんだが」
「あー、それね。じゃあちょっと足すか」
「いや、ちょっとの方がいい。切れてきたらまたこっちに戻って飲めばいいんだし。リリ、それで問題ないよな?」
「結構持ってるから今なくなるってことはないと思うよ」
「よっしゃ。じゃ、とりあえず四人で初めてってことだし、全員短めでセットしようか」
 そうして三人は俺に分からないような内容のこまごました短い話し合いの後、錠剤を薬包紙の上に小分けして何個かを割り、四人分の量を揃えたようだった。そこには当然、俺の分も含まれているのだ。
「よーし、これでいいか。リュウ、だいたいこれで学校終わりに切れる計算。最長でも夕方のうちには完全に戻るはずだ。詳しい計り方はまたリリに教えてもらえ」
 ネズミから手渡されたそれに眼を落とす。錠剤は、違法な薬と言うよりは、なんだか精神安定剤のように見えてくる。
リュウくんがはぐれないよう、みんなで手を握ろう」とリリが呼びかける。「『シンクロ』にまだ慣れてないみたいだから」
「恥ずかしいんだけど」とネズミは渋ったが「やろやろ!」と乗り気なミドに押し切られて、結局四人で円状に並んだ(ちゃっかリリリが俺の隣に並ぼうとするので、二人は閉口していた)。
「それじゃ、時間があるうちにやろっか」
 リリの号令で「おっす」とネズミは頷き、ミドもこくりと頷く。俺も慌てて一度だけ深呼吸し、身構える。
「準備できたみたいだね。じゃ、カウントダウンするから、ゼロで一斉に飲むよ」
 カウントが始まる。
 さん、に、いち。
 そして俺たちは、劇薬を口に含む。
「よし。手、繋ご!」
 そして慌ただしくお互いが手を握る。効果が現れる前にということらしい。このままぐるぐる回ったらUFOでも呼べそうだ。
 そして、変化が始まっていく。

 

 気がつくと俺は頭がくらくらしたまま、クラスの真ん中にいる。
「おいリュウ、何ぼーっとしてんだ」
 ネズミに肩を小突かれ、一同笑いに包まれる。そう、ここは教室で、じき昼休みが終わる。
 どうやら今も四人で同じ並行世界を共有しているようだが、今も現実感がなく、意識がいろいろなの階層を行ったり来たりして、押さえるのに苦労する。
 まだ上で自分を動かすには至らず、ずっと机に座らせている。端から見たらぼーっとしている変な奴だろう。でも危険を避けるにには仕方ない。こちらの世界に集中する。
 昨日はそれどころではなかったが、今日改めて分かった。リリたちはこの世界のクラスで文字通り中心、あえて陳腐な言い方をすればカーストも上位の上位。トップの貴族様だ。
 それがリアルなのかはともかく、世界はそうなっている。
 逆に現実で賑やかだった連中の姿を探すと、そいつらは例外なく一人ぼっちで、別人のように縮こまって、机に突っ伏したり肩身が狭そうに何かを読んでいる。空席も多い。
 明らかに不自然なのに、それでも世界はそうなっている。
 そして俺たちはまさに、空席の一角を占拠していた。
 そしてクラス自体、この三人以外にも現実と構成員が少し異なっていて、見かけない顔がちらほらいて――
「リュー、本当にどうしたの?」
 俺たちの周りにいた女子の一人が心配そうに俺を見ていて、意識が会話に引き戻される。
「あー、スミちゃんそうやってまたポイント稼ごうとしてる。泥棒猫! 逆寝取り!」
「リリ嫉妬強いよー、わたくし男女女ゆえ、二人まとめて愛す所存」
 そう言ってスミちゃんと呼ばれた女子がリリに抱きついて身体をまさぐり始め、「じゃ、中立国参戦」とミドも加わる。
「どっちの味方なんですかあなたー」
 リリは言葉と裏腹にまんざらでもなさそうだ。しょうもないスキンシップを俺は無視して「ごめん、ちょっと寝ぼけてて」と釈明し、ノボルと呼ばれている隣の男子(現実では重度のオタクなはずだが、こちらではやたら垢抜けている)とネズミの話になし崩しで加わった。
「でさぁ、約束通り三人分チケット取れた。席はバラけたけど、フィルムは手に入る」と彼は息まく。フィルムというのは映画の一幕を切り取った初日限定の特典らしい。
 彼はどうやら公開直前の人気アニメ映画の話をしているようだ。そういう趣味は変わってないんだな、と不思議に思う。
 ネズミはちょっと悩んでから「いやー、言いにくいんだけど、それがちょっと用事が入っちゃってな」と申し訳なさそうに言う。「金はもう渡してるけど、俺の分は別の奴を呼んでいいよ」
「あ、じゃあ私行く!」とリリが手を挙げ、「お前はリュウと行きたいだけだろ」というミドのツッコミが入る。「公平じゃないからさ、ジャンケンで決めよ」とスミちゃんが提案する。「まずネズミとノボルを外そう。で、行くつもりだったリューもシードってことで」
 面倒なので「いや、別にいいよ」と俺は言ったが「ダメー」という女子二名の抗議が入り、俺は棄権を許されなかった。
「じゃ、女子三人で勝負ね」とスミちゃんが見回すと、ミドはネズミの方を見て何か言いかけたが、すぐに目線を戻し「よっしゃ」と意気込む。「ジャンケンの攻略法教えてあげよっか? その一、初手はパー」
「えー、そういう心理戦しちゃう?」「勝負は戦う前に始まっているのか……」と女子二名。
 何でもいいから早くやれ、とイラつく。いわゆる陽キャってこんなんだったっけ?
「はい、じゃーんけーん……」でスミちゃんが溜めを入れ「間を作るな、間を」の抗議に「はいポン!」と奇襲をかける。
 結果は、あいこを待たずミドの一人勝ちだった。
「えー、えー、不正!」とリリがさっそくのたまうので、「はいはい、じゃ譲……」とミドは手を挙げようとしたが「いや、なんかもうええわ」とノボルが苦笑する。「俺がリリに譲るから、三人で行ってきなよ」
「え、でもお金」とリリがあざとく人差し指を顎に当てたが「いい、いい。いつかは観れるから。フィルムだけくれたら、って交換条件でさ」
「……うーん、じゃお言葉に甘えて」とリリはミドを見てる。「でもミド、たとえ友達でも……分かるよね?」
「はいはい。また惚気を見させられるわけね。ぐすっ、そうやって私を捨てるんだ」
 スミちゃんは「はい、これを『三角関係になりそうでならない男女女』と言います」と解説し、ノボルは「うわーリュウ、女同士に挟まる男じゃん。人権なくしたな」と茶々を入れる。
 このグループにいてこいつらは楽しいんだろうか。こういった集団にいたことがない俺にはよく分からない。きっと状況に慣れていないのだろう。
 けれど、これがリリの見せる世界で、彼女による『賭け』だとするならば、もしかするとこんな生活を楽しめるようになるのかもしれない。いや、ならないかもしれない。何にせよ俺は彼女の誘いに乗ったのだ。それに付き合うしかないのだな、と思う。
 そしてそこに、小さな興味がないわけではないこともまた事実だ。
 そんな思考の中で、ふと人の視線を感じて後ろを見ると、少し遠く、クラスの入り口に男子がひとり立っている。
 名前は憶えていないが、確か現実ではソフトテニス部で、スポーツ特待でここに入ってき、実際にここでもエースだったはずだ。でも、背丈は同じでも、こちらではどう見ても運動をしている印象には見えない。見えない何かに怯えているような、そんな表情。
 そいつがちょうど、無意識に俺が手をついていた席を眺めている。
 それに気づいて、さりげなく移動して席を空けた。なるほど、こういうこともあるわけだ。でも、今までの説明通り『エヴェレット』で自分の望む世界を生み出せるとして、どうして彼女たちはクラスをこんな風にぐちゃぐちゃにかき回したのだろうか。
 ちょうどそう思ったとき、右の耳元から小さな囁きが聞こえた。
「ね? どう?」
 驚いて横を見るとリリが笑っている。どうやら移動した結果隣に近づいていたらしい。彼女は会話の隙間に一度だけこちらを横目で見て、ウインクしてみせる。
 そして、また囁く。
「世界、変わったでしょ?」

 

 俺が疲れているということで放課後は解散になり、リリと電車に乗って帰る。
「どうだった? 楽しかった?」とリリが訊くので、「何とも言えない」と答えた。
「薬のせいでまだ混乱していたのもあるかもしれない。正直、あれが本当に起きたことだとは、今も思えていない。動揺していたから、着いていくので精いっぱいだった」
「まぁ、そうだよなー」とリリは頷く。「いきなリリア充みたいな生活を送らされても、ピンとこないかもね。私も『エヴェレット』を使い始めた頃は慣れなかったなー。それが今じゃ立派なジャンキーですよ。……でもさ」
 そこでリリは、一瞬だけ真剣な目をした。
「死にたいとは、思わなかったんじゃない?」と
 そうだろうか。俺は考える。
「それは――まだ分からない」
 確かに今日、心なしかそういう気持ちはあまりなかったかもしれない。
「でも、それは余裕がなく、一日が新鮮だっただけかもしれない。前に言った通り、慣れてきたらまたいつも通りになるんじゃないか」
「強情だなぁ」とリリは面倒そうに微笑む。「でも、そういうところが好きなんだけど」
 その言葉で少しだけ、居心地の悪い気持ちがする。彼女は嫌いではないけれど、意図が全く分からないのだから。勝手に別の世界で恋人にするほど俺を好きな女の子がいるのだろうか。
「なぁ、どうして、お前は俺を選んだんだ?」
「そりゃ、誘ったのはあっちでずっと恋人だったからに決まって――」
「違う。そもそも、どうしてあの世界で俺と付き合っているんだ」
 俺はようやくはっきりと訊いた。
「リリと俺は、現実で面識さえなかった。それなのに、なぜ俺なんだ? 女子のことは分からないが、せめてもっと仲がいい男子とか、人気のある奴とかにしないのか?」
「……私が好きって言うの、嫌だった?」
 リリは静かに言うので慌てて「そうじゃない」と弁解した。
「今の段階は、好きとか嫌いとか以前だ。お前のことを何も知らないんだから。そりゃ、リリは嫌な奴じゃない、と思った。悪意があってこういうことをしてるわけではないのも分かる」
 そして、俺は迷った末、踏み込んだ。「もしかしたら、好きになるかもしれない」
「ほんと?」
「本当だ。でも、リリのことを知らないと友達にもなれないし、付き合うこともできない」
 電車が川を繋ぐ鉄橋を渡り始め、カタガタと線路が軋んで音を立てる。それは俺たちの会話を、書き割りの演出のように一瞬だけ遮る。
 あと一駅で、俺は降りる。
リュウくん、自分に自信持っていいよ」と、リリは笑みを浮かべて言う。
「自信?」
「私が好きになったんだから。確かに一方的だったけど、私にとって仲のいい男友達や人気のある男子より魅力があるってことだよ。それにね」
 彼女は笑っている。
「私には誰もいないし、何もないから」
 でもその笑顔は、無理をして作ったように思える。
「だから、リュウくんだけのものだよ」
 俺は、それ以上リリを追及することができなかった。

 

 結局、翌日の昼休みにもやはり俺は屋上に足を運んだ。
 扉は空きっぱなしだったのでそのまま入ると、俺がやってきたのをすぐリリは察知したのか「リュウくん、やっほー」という声が微かにした。もう全員揃っているらしい。
 回転椅子に座っていた部長が「キミ、友達いたんだね」と素で驚く。
「……いたらダメなんですか」
「皮肉じゃないよ。誰もいないときにしか来てないと思ってたから、びっくりってだけ」
「別に友達でもないですけど」
「ふーん。ま、いいや。……お互い仲良く、ね」
 そう言って彼女は遠くの声の主に手を振り返す。
 そして俺がやっと窓に手を掛けたところで、ぽつりと、一段トーンを落として言う。
「ナオ先輩のことなんて、忘れてさ」
 ――またか。
 また、それをまた蒸し返すつもりなのか。
 窓に微かに映る部長の目は、異様な熱に満ちている。
「あなただって同類でしょう。こちらこそ言わせてもらいますけど、姉から離れるべきはそっちです」
「……それをキミが言うなんてね。皮肉かい? あんなに依存していたくせに。……キミが私にする批判は、全部跳ね返ってくるんだよ」
 姉の話をするときの部長はまともじゃない。だから議論しても無駄だ。なのにまた、乗ってしまった。
 高校時代の俺の姉は、彼女と同じ化学部に所属していた。彼女もまた、姉から見れば後輩だ。
 そして、やはり俺と同じように姉を崇拝していた。
「本当のことを言おうか。私はね、キミを恨んだっていいと思うんだよね。だって、あんなにもナオ先輩に愛されていたんだから。私がどれだけ近づこうとしてもできなかった場所にいるんだよ。それでも、あの人はキミが好きだから、私は従うしかない」
「遠くから見ているから、それがどれだけ苦しいか分からないんでしょうね。依存っていうのはそういうことです。遠くから光って見える砂浜は、ガラスの破片だらけだったりしますよ」
「いくらでも言えばいいさ。姉を捨てた裏切り者が何を言っても、私には関係ないね」
「……ご勝手に」
 無益な問答に疲れたので、それだけ言い残して窓を開ける。三人を待たせているのだ。
 そこで、無意識に手を挙げてリリたちに応じている自分に気がついた。
 俺は三人の元に向かう。
 ……何も分からないけれど、こうして、二重の世界を暮らす生活が始まる。
「絶対に、キミはお姉さんから逃れられないのに」
 投げつけられた一言を、無視しながら。

 

7

  姉と俺の血は繋がっていない。彼女は父の連れ子だった。
 彼女に初めて会ったときのことは今もはっきり覚えている。母とその後に父になる男性が企業主催の会食パーティーで同席していた時のことだ。連れられていた俺は知らなかったが、その時すでに結婚の話は出ていたらしい。
 それを伝えたのが、何を隠そう、初対面の彼女だったのだ。もしかするとそれとなく父の顔見せをするつもりだったのかもしれない。
 離婚前も後も育児に無頓着だった母が、なぜ突然俺を連れて行ったのか、はっきりしない。
 とにかくこんな場所に来るのは初めてだったのだが、食事がまったく舌に合わず退屈していた俺は、幼い行動力からこっそりと会場から抜け出し、ホテルの中を歩いて暇を潰した。しかし飾ってある抽象画や壺にも飽き、失望の中でロビーまでやってきて、座った。
 目の前には自動演奏のピアノがあり、静かな曲が流れていた。無駄にふかふかとしたソファにうずもれ、旋律にぼんやり耳を傾けながら眠気に誘われていると、やがて曲が変わっていることに気づく。
 ピアノの方を見ると、椅子には女の子が座っていた。何歳年上なのだろうか、髪の長い少年かと見紛う彼女は場違いにも、白いシャツ一枚をルーズに着ていた。
 どうやって演奏を手動にしたのかは分からないが、彼女は鍵盤を叩いて演奏している。無断だったのだろうか。しかしあまりに自然だったので、誰もそれに気づいていなかった。
 彼女の演奏には、ピアニストが叩いているということを忘れさせ、聴き手を音楽そのものと一体化させる力があった。それは本人も同じなのだろう。ピアニストのグレン・グールドは、晩年引きこもって一人きり大きなクローゼットの中で演奏したという逸話を聞いたが、それを知ったとき、彼女の演奏を思い出したものだ。
 女の子を見てみる。彼女は俺より年上に見えた。実際にそうだったのだが、その時は外見というより佇まいが大人びていたからそう思った記憶がある。
 気がつくと一曲の演奏が終わっていた。戻らなきゃまずいだろうか、と急に慌てたが、そこで女の子が俺の方を向いているのが目についた。最初は勘違いかと思ったが、手招きを始めたので、幼心に警戒しながらも近寄っていった。
「ずっと見てたでしょ」と彼女は言った。自分にそんな意識はなかったが、完全に釘付けになっていたらしい。「そんなに演奏、よかった?」
 俺は言葉を見つけられなかったのでとりあえず頷くと、彼女は満足したらしかった。
「実はね、私もさっきからあなたのこと気になってたの。なんでか分かる?」
 分かりません、と俺が言うと「本当のことを言うとね、あなたのことはもう知ってるのよ」と彼女は言って、悪戯っぽい笑いを困惑するこちらに向けた。
「まさかこんなところで会うなんて思ってなかったけれど。……この様子だと何も知らないみたいだから、もっと驚かせてあげましょうか?」そう言って彼女は目を細めた。絶対に解けないクイズを出題して、間違えた人を食べてしまうような、そんな艶めかしい顔。
「あなたと私、これから姉弟になるわ」
「え……?」
「私の父親とあなたのママ、もうじき結婚するから」
 あっさりと彼女は断言した。
「いや、ちょっと待って――」と俺は大きな声を出しかけて、ここがロビーであるのを思い出して一段ボリュームを下げた。「嘘……ですよね?」
 そうだ、この女は不審者なのだ――そう強引に判断しようとしていた俺に、彼女は「あなたのママ、会社の関係者でしょう」と追い打ちをかけた。当時は詳しくは知らなかったが、その通りだった。「私の父親はね、科学者なの。で、あなたたちのグループと組んで、儲け話を作っているみたい。……政略結婚って知ってる?」
 黙っている俺に「つまりね、あの人たちはお互い好きでも何でもない。ただお互い利用したいだけ。だからもまったく伝えなかったんじゃないかしら」と彼女は両親をこきおろした
「……それが本当なら」とかろうじて俺は答えた。「あなたがお姉ちゃんになって、どうなるんですか?」
「一緒に暮らすことになるでしょうね、一応は」とあっさり彼女は答えた。「でも覚悟しておいた方がいいかもしれない。いい思いはしないし、私だってあなたのことを守ろうとは思ってないから。そんな義理もないし。孤独でしょうね。かわいそうに」
 彼女はそう皮肉を呟いて、鍵盤に指を置く。
「でも、お祝いに一曲弾こうかしら。それくらいはやってあげましょう」
 リクエストとかある? と言われても、俺はピアノの曲なんて知らなかったし、そもそも気が動転していた。それをつまらなそうに感じ取った彼女は「じゃ、勝手に弾かせてもらうわ」と言い、曲名を言って演奏を始めた。
 ビル・エヴァンスの「ワルツ・フォー・デビー」。
 ドラッグに溺れ、ついには演奏中に倒れたジャズピアニスト。彼の人生は緩慢な自殺だった、と彼の知人は言った。その選曲に、今は何かの予感を覚えてしまうが、それはきっとその後のことを知っている自分のこじつけなのだろう。
 不思議なことに、演奏がどうだったか記憶にない。重要な部分に限って思い出というのは欠落するのかもしれない。覚えているのは演奏が終わった後、「私はナオ。せいぜいよろしく。弟の、えーと――リュウ」と相変わらず小馬鹿にする口調で手を差し出されたことだけ。
 俺は恐る恐る握った。怖くて仕方がなかったけれど、逃げるわけにもいかなかった。
 けれど今だから言える。
 俺の姉になった人は、誰よりも優しかった。

 

 どれほど非日常的な経験をしても日常が待っていて、いつも通り日々はやってくる。
 初めて『エヴェレット』を飲んでから何日かは、俺だけは三人とともに屋上でしか使わない日々が続いた。
 相変わらず新しいクラスでは、異変に気づかれないよう振る舞うのがやっとだったし、現実での身体のコントロールも難しかったけれど、身体には何かが馴染んできている実感があったし、他のメンバーを見失わないで別の世界に行くことにも、少しだけ慣れた。

 

「どう? いい感じか?」と、屋上でネズミは尋ねてきた。リリとミドは遅れてくるらしい。現実ではクラスが違うので、こういうラグが起きる。
「まぁ、ぼちぼち」
「そっか」と彼は笑い、それから少し真面目な顔をして訊いてくる。
「リリのこと、どう思う?」
「どうって?」
「や、だからどうってことだよ。かわいいじゃん。何もしてないのに彼氏になんて、ラッキーだろうが」
「いや……」と俺は言葉を濁す。端からはそう見えているのだろうか。「ここ何日も、付き合わされて大変だよ。朝も帰りも」
「いやー、学生さんいいですなぁ。処世の悲しみも知らないで」
 こそばゆくなってきたので「そういうお前はどうなんだ」と反撃した。
「見た感じ、ミドと仲いいみたいじゃないか」
 その言葉に「あー」と彼は頭を搔いた。「うーん、でもしょうがねぇか。口が軽いんだよ、俺。ま、言うよ」
 何がしょうがないのだろうか、と俺は思ったが、彼はすぐに答えを告げた。
「俺たち、付き合ってるようなもんなんだ」
「……ようなもの?」
 奥歯に何かが挟まったような物言いが、不自然だった。
「俺はそう思ってるけど、あいつは違うかもな。ミドはジャンキーだから、他にも別の世界にいっぱい男がいるんだよ。そういう奴だ」
 そういう男女関係をなんと呼べばいいのだろうか。少なくとも今の日本語にはないだろう。
「だからね、結構しんどいよ。別に浮気とかではないんだけど。俺だってミドとそうなるまでは似たようなことしてて、そこそこ楽しかったし。後悔は、してる」
「後悔?」
「ミドに悪いって思っちゃうんだよ。馬鹿馬鹿しいだろう?」
 そうだろうか。どちらともいえないと思うけれど。俺には分からないレベルの話だった。

 

 金曜。俺は明日、三人に「放課後、遊びに行こう」と誘われていた。
 初めて『エヴェレット』を学校以外で飲むことになるのだ。
 六月、期末試験まではまだ少し時間がある。今のうち、ということなのだろうか。まぁ、薬を使えば試験なんてわけないのかもしれないから、関係ないのか。
 そんな状況で、一限の古文が終わる十分前、眠気がようやく引いてきた頃にふと思い立つ。
 休み時間に入ると同時に、俺は廊下に出る。できるだけ時間を無駄にしたくないので、早足で歩いていく。
 あの三人が、現実でどう過ごしているのか。
 それが突然に気になった。
 好奇心というほどではなかったし、どうせまた俺は屋上に行くだろうから、単純にクラスを知りたければ直接訊くてもあるにはあるが、ひとつだけ疑念があった。
 今日までに、現実と『エヴェレット』の世界で、二種類のリリとネズミとミドに会っている。
 向こうの世界での彼女たちはとても快活で、リリとともにクラスの中心的な存在だ。しかし、屋上で話した二人は随分と印象が異なっていた。リリはさほど変わっていないようだったが、特にミドの容姿や言動は、もはや別人と言っていい。
 そこで俺は、あの時、あの世界のクラスのことを思い出す。そこでは逆に現実で目立っていた生徒が、個性の埋没した人間になっていた。
『エヴェレット』を使うということは、願望や夢を叶えること。そう今までの俺は理解している。ということは、あの三人がシェアしている夢は、少なからずその願望が投影されているはずだ。
 と、いうことは。
 三人には少々申し訳ないかもしれないが、それを確かめたかったのだ。

 

 ……うちの学年は全部で六クラスある。Aが特進、それ以外は普通クラスで、定期試験とは別の学力調査の結果から学力は均等にされている。
 受験結果等もあって、俺たちは他より一クラス少ないが、それでもクラス外の知り合いなどいないし、顔などまったく覚えていない。だから、一から探さなければいけない。しかし全クラスしっかり確認する時間もないし、そんなことをしていたらバレてしまうかもしれない。それに席を外している可能性もある。
 そこでローラー作戦を使う。
 まずD組から近い方の端にあるF組に行って、扉の一番近い席にいる暇そうな男子に目を付け、声をかける。誰に話しかけるべきかは、印象やその場の空気感で判断する。
「ごめん、ちょっといいかな」
「何ですか?」と怪訝そうな顔をする彼に「このクラスに重松さんか福岡さん、あとは大久保さんって人、いる?」と単刀直入に訊く。
「……三人とも、そんな名前の人いませんけど。どうかしたんですか」
 外れ。「いや、いないならいいんだ」と会話を打ち切り、歩き出す。嘘の理由を説明するよりは、いきなり訊いたときの反応を確認してさっさと次に行った方が時間の節約だ。
 Eは移動授業の帰りらしく人がまばらだったが、三人で駄弁っている男子グループに訊いて手応えはなかった。もしこの方法を取らなければ無駄に時間を浪費しただろう。
 引っかかったのはC組でのことだった。
 教室をちらりと見たが発見できなかったので、廊下に残っていた数学教師と話している女子に目を付けてみる。眼鏡を掛けた、実直そうな子だ。
 教室に戻っていく彼女を引き留める。
「C組の人だよね」と困惑させる間もなく切り込む。彼女は頷いた。「急いでいるから用件は聞かないでほしいんだけど、ある生徒がこのクラスにいるか訊きたいんだ」
 そして俺は「重松さんか――」と言いかけたところで、彼女は即座に反応した。
「……重松くんの知り合いさん?」と彼女は印象とは異なるざっくばらんな声音で首を傾げた。「あそこにいるけど……珍しいな」
「珍しい?」
「や、そう言ったら失礼か。ここからだと見えにくいけど、今あそこにいる」
 ちょうど反対の扉側の壁近くで、そこには何人かの集まりができているようだった。遠いので何を話しているのかは分からない。だが、その隅にいる男子を彼女は指さした。
「あれが彼だよ」
 最初は別人に見えて、その言葉に戸惑った。けれど一歩引いてみると、なるほど確かに屋上で見たネズミだ。どうしてさっきは彼に気づかなかったのだろう、と思ったが、明らかに印象が違うような気がする。
 少し注意を向けると、グループの隅で彼はずっと、何か期待ありげに黙っている。他の連中は彼に目もくれていないが、それでも彼はタニシのようにそこにひっついて、時折求められてもいないのに相槌を打ったり頷いたりしている。しかし、ついに隣の男が露骨に邪険な態度で背を向けたので、彼はその場を去った。するとグループの連中は途端に顔を合わせて忍び笑いをした。
 そして今度は反対側の隅に向かい、スマホで動画を見ている二人に話しかける。彼らは先程のグループより少し大人しそうだ。相変わらず声は聞こえないが、画面をのぞき込んで、熱心に何かを話しかけている。二人は笑っていたが、ネズミを迷惑がっているのは明らかで、すぐにでも話を畳みたがっているらしい。まもなく片方が耐えかねたのか切り上げて自分の席に戻り、もう片方もさっさとスマホを片付け、勿体ぶった動作で次の授業の準備を始めた。
 そして彼は、再び別の島に移動する。
「またやってるみたいだ」と女子は哀れんだ目を向ける。「ずっとああなんだよね。彼の友達だったらごめんね。でも正直、みんな迷惑がってるかなぁ」
「ずっとああなの?」
「四月ってだいたい仲のいい友達みたいなのが決まるよね。そこでちょっと失敗しちゃってね。一旦ウザいやつって思われると、イメージを変えるのってかなり難しいし……問題なのは、はっきり指摘する人がいなくて、みんな陰で笑ってるから、本人が気づかないってことなんだ。日本人って陰湿だよね」
 私もどうにかしたいんだけどね、と彼女は言う。
 そこでちょうど彼がこちらに背を向ける。何かがシャツに張り付いているのが見える。それは『賞味期限間近、表示価格より二割引!』と書かれた値札のシールだった。購買のパンか何かのものだろう。誰かが張り付けたに違いない。哀愁を感じさせる背中だった。
「呼んでくる? あ、私、学級委員だから話しかけやすいし、心配しないで」
 彼女の提案を「いや、大丈夫」と俺は断る。「むしろ、俺が来たことは伝えないでほしいんだけど、いい?」
 彼女は勝手に何かを察したようで、「……分かった」と頷く。「何もできなくてごめんね」
 きっと彼女は正義感が強くて、俺をネズミの旧友か何かだと思っているのだろう。
 学級委員さんに礼を言って、俺はすぐ歩き出した。あまり時間がないのだ。

 

 次の休み時間、今度はミドとリリを探す。残っているのはAとBとだけなので、あとは訊かなくてもいいかもしれない。
 ミドは拍子抜けするほどあっさり発見できた。……というのも、彼女はちょうど俺が歩いてきた扉のすぐ近くの席だったからだ。
 彼女の周りに、いかにも浮ついてた空気を放つ男が二人、女が一人いて、彼女に話しかけている。けれど彼女は無視してずっと英単語帳を読んでいる。
 彼女が反応しないのが三人を煽るのか、なおさら彼女たちはミドに絡んでいく。見た感じでは明確な苛めの類ではないと本人たちは思っていそうだし、なんならスキンシップだとさえ言いかねないけれど、こういう手合いがもっとも面倒なのだ。
「なぁ、ミドちゃん何か反応してよー、遊ぼ」
 右の男が顔を寄せる。たちまち「おい、見境ねぇぞ」と左の方が下卑た笑いを浮かべる。女は「え、アンタそういう趣味?」と手を叩いて侮蔑的に唇を歪める。「えっ地味っ子って良くね? 黒髪メンヘラちゃん、モエー」と右は嘲笑する。「ブレザーずっと着てて暑くないの? まくった方が涼しいよ」と女がミドの左の腕に触れる。
 ミドの眼の色が変わる。
「ミド!」
 とっさに俺は彼女を呼んでいた。
 その瞬間、ゲーム画面がフリーズしたように、世界のすべてが固まった。
 この馬鹿どもと話すつもりはなかった。一歩だけ歩み寄って、ミドに「来たよ。行こう」と言った。彼女は目の前で起きていることが信じられないという顔をしていたが、「行こう」と冷たく俺が言うと、黙って席を立ち、そのまま俺の方に歩いてくる。
 そして、俺たちはそのままクラスから離れる。後ろで「あれ、彼氏?」「うわ、意外とやるじゃん」「あー、フラれてやんの」等々の雑音が聞こえてきたがすべて無視する。
 とりあえず階段の踊り場まで来たが、ミドは黙っている。俺も言うことが見つからない。なぜ彼女を助けたのか、自分でも説明するのが難しい。
「ごめん、見てられなかった」とかろうじて俺は言った。それは嘘ではない。あんな現場を目の当たりにして気分がよくなるはずがない。それで理由は十分だ、と困惑を打ち切る。
 ミドの方はといえば、初めて屋外に出た飼い猫のように状況を呑み込めていない。
 小さく口を開いたり閉じたりしていたが、気まずさもときにはいい働きをしてくれるもので、ついに耐えかねて「……ありがとう?」と言った。疑問形なのは感謝をどこに向けたらいいのか分からなかったからだろう。こちらとしてはどうでもいい。
「あまり訊くべきじゃないか」
 ミドは一度頷いてから「いや、でも……」と迷う。「ごめん、見られちゃって」
「謝りたくなる心境は分かるが面倒だからいい。ただ、どうするんだ」
 現実問題、一度助けを差し伸べたとしても、また教室には戻らなければいけなくなる。そこでまた絡まれれば、俺が助けた意味は何もない。
「普段はどうしてるんだ?」
「『エヴェレット』があるから……飲んで、こっちの世界でのお昼以外の休み時間は、ずっと寝てるかトイレにいる。でも今日だけは切らしちゃって、昼休みに屋上に行って、なんとかするつもりだった、とこ」
 ボソボソとミドは喋る。言外にクラスでの状況を伝えているが、ちゃんと防衛策は取っているわけだ。そして、今日は偶然に偶然が重なってこういった事態になった。
「そうか、気をつけないとな」
「うう、……ごめん、なさい」
「だから謝らなくていい。それは会話じゃなくて防御だ。……あっちではちゃんとできてるのに、よく分からないな」
 うっかりと口をついた一言だった。すぐに触れるべきではなかったと察して「悪い、無神経だった」と詫びる。
 でも思ったよりミドの反応は静かだった。
「なんで、だろうね」
 私も分かんないや、と彼女は自嘲気味に小さく笑った。

 

 ミドが教室に戻ると言ったので止めるわけにもいかず見送った後で、やっとリリのことに思い至る。この流れならA組だろう、と思っていた。
 授業を勤勉に終え、次の休み時間が来る。こっそりと覗きに行くと、移動教室の帰りで、次は課題か小テストでもあるのか、クラスはバタバタして慌ただしくみんな席に揃ってノートを開いていた。けれど、そこにリリの姿はない。もしかしたら他のクラスで、ほかの二人に気を取られて見逃してしまったかもしれない。
 そう考えて立ち去ろうとしたとき、ふいに教室の隅、自分がいる前方の扉の対角線上にある席が目を惹いた。ほとんどの生徒がもう席についているのに、その席だけは空いていて、これから掃除でも始めるかのように椅子が机の上に逆さに乗せられていた。
 ……奇妙だったけれど、自分も授業に遅れるわけにはいかないので、戻ることにした。

 

9

  俺たちは当然現実の、県民の子供なら誰もが遊びに向かう駅前、屋外の二階部分で待ち合わせた。近くのストリートミュージシャンを遠目に見ていると、ぞろぞろ三人が集まってきた。
「揃ったねー」
 常識の範囲であれば特段服や身だしなみに頓着しない人間なので、ブラウスもスカートも暗色で固められたリリは育ちがよさそうだな、程度の詩情のない感想しかなかったのだが、問題はもう片方の女子だ。
 ミドは学校指定のジャージを着ていた。
「や、これは、時間ギリギリで何着たらいいか分かんなくて、パニックになって、その」
 微妙な空気に耐えかねたネズミが「いやいや! 可愛いと思いますよ。ほら、愛校心もあるし、エコロジーだし、あ、着古されて洗濯で伸びきった萌え袖もいいもんで……」とフォローにならない助け舟を出し、耳を引っ張られて悶える。
 しかしそんなネズミは背の高い従兄のおさがりみたいなサイズの合わないジャンパーにダボダボのシャツを着て、よれたズボンを履き、そのくせ中途半端に髪をセットしている痕跡がある。
 この集団を端から見て今から遊びに行く高校生だと誰が思うだろうか。
 ……それにしても、全員が綺麗に時間ちょうどに合流できたのには訳がある。
「えーと、私たちはまず重大なことを忘れていたわけですが」
 集合した俺たちが真っ先にしたのは、SNSアカウントの交換だ。
 昨日は昼休みがなかったので出会わずに帰ってしまい(案の定顔を合わせたリリは「待っててよー」とゴネたが)、そういえば彼女たちと連絡手段がないのに気づいた。待ち合わせ場所と時間は決まっていたのでこうやって出会えて一安心だけれど、これは明らかに幹事を自称していたリリの失敗ではないのか。
「お前、ここぞというときに抜けてるよな」とネズミは呆れ、「陰キャあるある……」とミドも追い打ちをかけたがリリは聞こえてないふりをしながら「……いや、ほら! 結果オーライだし! あ、ヤバい、もう予約の時間だし行こ! はい行った行った!」と空元気を発動して、強引に俺たちを引率する。
 さっそく帰りたくなってきた。

 

 カラオケに行くのなんて何年ぶりなのだろうか。
 両親の離婚、それから幾年後の自殺のゴタゴタで、友人と遊ぶ機会なんてなかったし、目に映るものすべてが奇妙に見える。……代表者の名前記入欄にこっそり「田渕ひさこ」と書いたリリには閉口したが。偽名の通じる適当な店でいいのだろうか。
 フリータイム、ドリンクバー付き。
 個室についたところで、さっそくリリが部屋を暗くする。「やっぱこれじゃないとねー」ともう一人で盛り上がっている様子だ。
 淀んだカラオケルームの空気と暗い部屋の相乗効果で少し気分が悪くなったが、他の三人は気にならないようだったので、仕方なく自分で空調を弄って換気する。
 三人は端末を弄ったりマイクの音量を調節していたが、やがて準備は終わったらしく、まもなく各々が曲を予約していった。そうか、ここは素人が歌を歌う場所なんだな、と思い出したが当然そんな気にはならないので「リュウは?」とネズミが端末を回してきた首を振った。
「えー、一緒になんか歌うつもりでデュエットを入れたのにー」とリリは訴えたが俺は無視したので余計に絡みが面倒になる。「ははん、もしや人前で歌うのって恥ずかしい? 共感性が羞恥? 大丈夫、歌は喉じゃなく心で歌うものだから。いや逆だっけ? とにかくリュウくんがどんなジャイアニストでも嫌いにならないよ。私、鼓膜強いし」
「黙れ」とだけ言ってフードメニューに目を落とす。押しの強さをどうあしらうか、少し分かってきた。
 俺は心を無にした。リリがタンバリンを押し付けてきて、ネズミがアニメソングの掛け合いをひとりでハイテンションで寒々しく歌い始めたが、俺はモニターに空いたマイクを投げつけたりはしなかった。それでも体感では十五分くらい歌っているように思えてきたので、耐えかねて横を見ると、彼女は何も入れていなかったらしく、ずっと端末を弄っていた。
「歌わないのか?」
「いや、曲が入ってるか調べるのが好きで……」とミドは雑音で掻き消える寸前の声で呟く。
「音楽は好きだけど、歌うのほんとは好きじゃないから」
『ほんとは』というのは『現実では』という意味だろう。少し分かるかもしれない、と思う。
 しばらく彼女とその遊びに付き合っていると「あれ、ミドはどうするの?」とリリが俺たちに声をかけているのに気づく。ネズミは歌い終えたらしく満足げだった。
「わ、私、まだ決まってなくて……」
 リリはそこでほんの一瞬何か考えたようだが、すぐにこう答える。
「じゃ、私と歌わない?」
「……リリと?」
リュウくんが嫌って言うから、せっかくだし。知らないと思うけど、私が先に歌うから同じメロディーで合わせて」
 でも、とミドが躊躇う前にリリはもうマイクを渡し、曲が始まる。
 スーパーカーの「Lucky」。俺は偶然にも知っているバンドだったが、昔の曲なのでミドは間違いなく知らない。さらにそもそもの臆病さもあって、彼女のパートはやたらよれていたが、キャラと違いリリがしっかり支えて歌うので、まるで親鳥が雛を先導しているみたいで趣があり、聴きながら感心してしまった。
 それからリリは対照的に戯画的に媚びた声でアイドルソングを歌い(好きやら愛してるやらの言葉が来る度に俺の方を向くのが憂鬱だった)、なんとか一周したところで本題が始まった。忘れかけていたが、『エヴェレット』を使うためにここに集まったのだ。
 机の上に錠剤が並べられる。
「大丈夫なのか?」
「薬は飲食物じゃないから持ち込みじゃないでしょ。平気平気」とリリは言う。いや、ドラッグを持ち込むのはそれ以前の問題だろ。
「リリ、まだ持ってる?」とミドが訊く。「もうちょっとほしい」
「……やりすぎじゃない?」
 リリの言葉に俺は驚いたが、それはミドを少し刺激してしまったらしく、「大丈夫だから」と、彼女は静かに語気を強めた。ネズミは何か言いたげだったが「ドリンクバー行ってきて」という一言に従って立ち上がった。俺がコーラを頼んだとき、ミドがついにこう言った。
「どうしてもってなら、払うから」
「いや、お金もらうのはよくないって……」
 短い押し問答があったが、やがてリリは「うん、分かった」と折れて、バッグからコインケースのような箱を取り出した。中には、数えきれないほどの『エヴェレット』が入っている。
「分けるよ」
 薬が分配される。俺はミドを見たが、彼女はどこか周りが見えていないように感じられた。

 

 ネズミが器用に四つのグラスに別々の飲み物を入れて持ってくる。いよいよらしい。
「じゃ、飲もうか」
 一同がコップの中の液体に『エヴェレット』を入れていく、量はかなり大胆で、みんながザラザラと投入する。ミドに至っては溶かした飲み物がドロドロになるのではないかと思った。
「待て、そんなに飲むのか?」
「ああ。リュウは知らなかっただろうけど、今日呼んだのはパーティーのつもりだったんだ」
「……今までのとは別の使い方もある」
 ネズミとミドはそう答えた。何か、危険なものを感じる。
「ま、やってみれば分かる。いつも通り
 そこまでする気が乗らなかったので、貰った薬の半分をこっそりポケットに入れ、残りをコーラの中に入れる。暗い部屋でも赤黒く見えていたコーラの液が、乳白色に染まった。
「じゃ、リュウくんをお祝いして、かんぱーい」
 リリが音頭を取り、俺たち四人は一斉に、溶けた劇薬を飲み干す。

 

 やがて長椅子の上、自分が横たわっていることに気づいた。
 どうやらしばらく意識を失っていたらしい。頭がズキズキと痛んで、視界に最初に薬を飲んだ時と同じような線や模様が微かに浮かんだり消えたりする。
 平衡感覚が戻ってきたところでゆっくりと身体を起こす。部屋はまだ暗いらしい。奇妙な模様は消えたが目の前はぼやけて白んでいるから、まだはっきりと見えない。
 どれだけの時間が経ったのだろうか。ひょっとして夢を見ていたのか? でも、それならどこからどこまでが夢なのだろう。それとも今も夢の中なのか? だからこんなに朦朧としているのだろうか。
 そう思ったとき、堅いものがぶつかる激しい音が何度かした。何か重量のあるものが激しく動いて、何かが衝突したり軋んだりしている。それに、甲高い音も聞こえる。
 最初は何が起きてるのか分からなかったが、動いている曖昧な輪郭を見ていると、どうやらこの騒ぎを起こしているのは人間らしい。目を凝らそうとしたところで、ようやく人間らしい声を聞きとれた。
「あ、リュウ! リュウー! 起きた? リュウ! ねぇ! 聞いてる?」
 輪郭が二つに分裂して、片方がこちらに近寄ってくる。ピントが合ったのか、あるポイントではっきりと人物の姿が見えた。
 ミドだった。
「起きて! ほら! ずっと寝てるから死んだかと思ったじゃん、ネズミいきなりあんなんになるし、つまんないなー、あははは!」
 何か言葉を返そうと思ったが、その姿に何も言うことができなかった。
「なーに、どうしたの? そんなに私のことじっと見て。もしかしてこーふんしてる?」
 外見は向こうの世界でのミドだったが、それは髪や顔つきなどで判断したもので、ほとんど裸だった。唯一身にまとったシャツがビリビリに裂けていて胸に下着は見えないがそんなことはどうでもよかった。いやどうでもよくはないのだがもっとすごいことが起きている。
 ミドは頭から血を流している。
「あ、これ?」と彼女はようやくこちらの視線に気がついたようだ。「いや、全然平気! みんな黙ってて暇だからふざけてたらグラスが刺さっちゃってー。これくらいじゃ死なないよ」
 彼女が指を差した先、テーブルの上には砕けたグラスがあった。四つぐらいの大きな欠片に分かれているが、そのひとつには血がついている。これが怪我の原因らしい。
 そこで彼女に目線を戻すと、頭に何かが巻かれているのに気づく。きっとシャツの一部を引き裂いて頭に巻いたのだろう。しかしそれはぶら下がっているだけで、まったく止血の役割を果たしていない。
 彼女を止めなければ、と思った。出血の量は軽い傷というレベルを超え、彼女の顔を汚して、こっちにまで爛れた鉄の匂いがしてくる。このままだと危険だと思った。
 けれどミドは聞く耳を持たず、平然としている。
「ぜんぜん痛くないから大丈夫大丈夫、気にしないでー」
 まずい、このままだと命が――と思ったところで、こんなに怪我をしているのにミドが平然と話せるわけがないことに気づく。そして彼女は痛くないと言っている。
『エヴェレット』の効果なのか、と即座に察した。
 そうだ、これは薬なのだ。それも、医薬品ではない類の薬。そういう効果があってもおかしくない。
「リュー、ほら、楽しもうよ、効いてるうちに、せっかくなんだからさ、ほら、おいで?」
 ミドが俺の身体にくっついて、顔を寄せてくる。血と彼女の髪の匂いが混ざって鼻を突き、生理的な反応で心臓が高鳴る。ミドは唐突に笑い出し、俺の頭を抱いて胸に押し付ける。息が詰まる。状況が呑み込めない。
 とりあえず抜け出そうとじたばた身体を動かすと、彼女は「リュウじっとしてよ、もー、ケダモノなんだからさぁ」とふにゃふにゃした声で笑う。「こっちじゃダメだった?」
 床が見える。血がぽたぽたと垂れて小さな溜まりができている。
 ミドの脚が見える。そちらもジャージのズボンを脱いでいて、肌が露出している。
 そこで足が滑り、倒れる。血溜まりを踏んでしまったのだろう。ほとんど裸みたいなミドが俺に覆いかぶさってくる。
リュウ、どうする?」
 心臓はバクバクと脈を打ち、息も荒かったが、頭は異常なほど冷静だ。現実感がなかった。視界に薄い膜が張って合るような感じがする。そこで、目の前が白っぽいのはそのせいなのか、と合点がいった。
 これが現実だと思えない。目の前で起きているとは思えない。自分がこの世界にいるとは思えない。動くこともできず意思もない監視カメラのように、ただ状況を見ているだけ。
 そのままミドは俺に手を伸ばしてくる。血が俺の頬につく。手首と腕にも、やはり脚と同じように――
「あ、ごめーん、今綺麗にしてあげるからさー」
 ミドは顔についた血を気にしたらしい。そんなことよりもっと気にすることがあるだろと思うが、とにかく顔を近づけてくるので何をするのかと思うと、
 彼女はいきなり俺の頬を舐めた。
「びっくりした?」
 魅惑するように、耳元で囁かれる。
「もっとしてあげよっか?」
 まるで深夜放送されている映画を観ているようだった。
 何も起きていない。
 俺はここにいない。
 心は遠く、高い場所を飛んで、見下ろしている。そうだ、今は『エヴェレット』を使っているから、向こうにも自分がいて――そうだ、これはときどき覚える感覚。白い膜。解離。それがずっと続いている。
 なら、この身体は? この身体はどちらだ?
 ミドが顔を近づけてくる。身体に力が入らない。逃げられない。
「ほら、いくよ」
 また彼女は顔を近づけてくる。そして今度は、唇同士が近づく。
 キス?
 そう、頭が理解した瞬間――


「――いやああああああ!」

 

 ミドは唐突に叫び、倒れた。
 上半身を持ち上げると、彼女が床に転がっている。
 顔を見ると、呪詛みたいに何かをずっと呟いているようだったが、声になっていない。
「おい! しっかりしろ!」
 彼女は俺の声に反応して一度だけこちらを見たが、次の瞬間にはがっくりと力を失って眼を閉じた。本当に死んでしまったのではないかと思ったけれど、呼吸の音がしたので、どうやら意識を失っただけのようだ。
 俺は頭に巻かれた布をもう一度締め直す。血は止まっている。根拠はないが、おそらく出血死はしないだろう。
 ふらつく身体で彼女を持ち上げ、長椅子の上に寝かせる。身体は驚くほど軽かった。
 そこで気づいた。
 ミドの腕や手首、脚には無数の傷がある。
 記憶が確かなら、それはさっきまでの彼女には存在しなかったはずだ。
 混乱の中で、脈絡もなく突然思った。
 彼女が呟いていた言葉は、「ごめんなさい」だったのではないか――そんな、気がした。

 

 部屋はもう静かだ。
 ミドの頭の隣に座ったところで、ネズミとリリのことに思い至る。
 二人を探して部屋を見渡すと、ネズミは眼を見開いたまま椅子に座っていた。
 目の焦点は合っておらず、当然だが正気な様子ではない。微動だにしないのでマネキンか何かかと見紛うほどだが、箸から涎を垂らした口が酸素を求めてパクパクと動いているので、生きていることが分かる。グラスを持っている手は微かに震え、中の氷は溶けて水になり、飲料を薄めていた。
「おい、ネズミ」と声をかけたが反応しない。
 そこで彼をよく見ると、着ている服が微妙に乱れている気がする。いや、サイズ感がおかしかったのはもともとだが、何か、無理やり脱がそうとしたような――そこまで考えて、思考を振り払った。別にこいつらが何をしようとしていたかなんてどうだっていい。
 リリを探す。
 拡散しそうになる意識を強引に引き戻し、凝縮させ、探す。
 ――いない?
 最初はそう思った。三度ほど辺りを見回して、ようやく見つける。
「ああ、リュウくん」
 リリは床に体育座りし、俺が座っている長椅子の端に背中をかけていた。ここからでは顔は見えない。
「どうしたんだ」
「『エヴェレット』自体には気分を高揚させたり痛みを止める働きはない。でも、使い方によっては快感を得ることはできる」
「は?」
 彼女の声が不自然に平静だったので、俺は驚いた。機械音声が喋っているかのようだ。
「『エヴェレット』の服用者は、自分の望む好きな世界を選べる。でも、変えられるのは世界の側だけじゃない。望む自分のいる世界を探すことだってできる。外面も、内面も」
「……リリ?」
「でも望む自分をイメージするのは難しい。人間には長年生きてきたぶんだけ、自分自身に対する強固な信念がある。だから普通なら、時間をかけてゆっくり、少しずつなりたい自分をイメージして、理想の自分がいる世界を見つけていく。だけど」
「リリ、どうした? 聞いてるのか?」
「当然『エヴェレット』は飲んだ量によって効果が増す。具体的にはより敏感に、ダイレクトに世界を操れるようになる。だから多量に飲むと、自分の感情をダイレクトに増幅させることができる。それを利用すれば、自分で自分をハイな世界に持っていって、飛び回ることもできる。こんな風に」
 そこまで喋り終えてから、彼女は黙った。
「何が起きてるんだ」
「本当は私が教えてあげるべきだったんだけど、『バッド』になっちゃった。ごめん」
「いつもこんなことをしてたのか?」
「私がなんとかしてるんだ。でも今日はうまくいかなかった。二人を止められたらよかったんだけど」
 二人は無事だよ、とリリは俺に伝える。
「少なくとも、向こうの世界では、このカラオケボックスですやすや眠ってる。私がずっと注意して見てるから。ミドもあまり混乱はしてないみたい」
 ごめんね、ミド。そう彼女は小さく言った。
「『ゾンビ』だった俺には、こういうことを隠してたのか?」
 リリは頷く。
「こんなこと、もうやめるべきだよね」
 俺は何も返せなかった。自分は部外者だ。何か意見を挟む権利があるのか分からない。もしそれができたなら、とっくにミドを止められたはずだ。
「すまない」と俺は率直に言った。「俺は何もできなかった。最初からずっとそうだ」
「うん」
「止めるべきタイミングはいくらでもあったと思う。でも自分も『エヴェレット』を使ってしまったし、その上ミドがめちゃくちゃになっても、傍観しているだけだった」
「……気にしないでいいよ」とリリはぽつりと答える。「こういう言い方をすると怒るかもしれないけど……リュウくんが変な人だってこと、分かったもん」
「変?」
「だって、リアルのリュウくん、私と出会ってから一度も笑ってないから」

 

 リリたちと出会ってからもう一週間近く経っている。
 言われて、確かに気づいた。記憶している限り、その間、俺は一度も笑っていない。
リュウくんの人生を変えてみせる」とリリは言った。けれど、俺はちっとも笑わなかった。
 それを彼女はどう思ったのだろうか。
「いろんなことが分かってきたから、気に病まないで。今回は私の監督不行き届きのようなものだから」
 そして彼女は「賭け、私の負けでいいよ」と笑う。「忘れてた? いや、もうどうでもいいかもしれないけど、権利をあげる。私になんでも言うことを聞かせられる権利。なんでもいいよ。そう、たとえば『私と別れろ』って言うなら――」
「やめろ」
 俺は言葉を遮った。
「もういい。話さなくていい。……リリ、疲れてるだろ。それにみんなも、向こうではぐったりしてる。話しながら、一瞬だけ戻れるか試してみたんだ。あまり上手くはいかなかったけど、様子は見えた。二人とも起きてる。混乱してるけど、もうちょっとでちゃんと話せるようになりそうだ。でも、ぐったりしてる。リリにも見えるだろ」
「……うん、言う通りだね。帰ろう」
 意識が引き戻されていく感覚がする。どうやら『エヴェレット』の効果が切れてきたらしい。俺が貰った半分しか飲まなかったせいかもしれない。
 カラオケルームはめちゃくちゃだったが、この世界がどうなろうと戻らなければどうってことはない。リアルの部屋で四人はずっと寝ていただけなのだから。この世界での彼らの無事を祈ろう。
 ……まぁ、リリたちが何と言おうと、どうせ『エヴェレット』は幻覚を見せるだけだ。そんな心配はしなくていい。
 とにかく今日は帰るべきだ。
 意識が完全にここから消える寸前、リリが小さく何かを口にしたのが聞こえた。
「ミド、私、最低だ」
 その言葉の意味を考える前に、俺の意識はもとの身体まで飛んで行った。

 

 帰り際、俺たちはお互い、ほとんど何も言わずに解散した。
「今日はヤバかったな……こりごりだよ」
 ネズミは気丈に手を振ったが、全員が疲れ切っているのは明白だった。リリは書店に買い物に行く、と言って去ったので、久しぶりに一人で帰ることになる。
 既に真っ暗になった街を、ぼんやりした頭で歩く。白い膜が、まだ視界に張ってある。道行く人も道路を走る車も、駅から聞こえる電車の音も、すべてが自分と関係なく思える。
 唐突に、死にたいなと思った。

 

10

  ほとんど両親は家を空けていたので家族とは名ばかりだったが、姉は初対面の言葉と裏腹に、多くの時間を俺と過ごしてくれた。たぶん、最初は暇だったんだと思う。

 

「――で、リュウマクタガートのC系列については先月、ミンコフスキー空間と相対論の話は先週に話したと思う。今週はずっとエントロピーの話をしたわ」
「うん」と俺は漫画から目を上げて何も分かっていない返事をする。
「誤解が多い話だから難しい説明をしたけれど。復習すると、部屋は放っておくと散らかる。難しく言うと断熱系のエントロピーは増大するということ。もっと難しく立ち入ると部屋が散らかっているかはどこからどこまでを部屋とみなすかによって変わるので、情報、人間が何に価値を置くかに密接に――いや、それはいいわ。とにかく部屋は散らかる。じゃあ片付けなきゃいけない。でも、もしひとりでに部屋が片付く世界があったら便利ね」
「確かに」

 

 姉が指摘した通り、両親の結婚には怪しげなところがあった。
 お互いが出会ったのはほんの数か月前、人づてに聞いた話では二、三度しか対面していなかったという。

 

「その世界ではエントロピー減少の法則が働いていて、勝手に秩序ができる。部屋は片付き、冷めたコーヒーは熱くなり、死んだ人も生き返る。素晴らしい世界。でも、現実はそうじゃない。けれど、それが人間を生んだ。……生物には、外界の刺激に反応する原始的な意思がある。それは、増えていくエントロピーからなんとか自分の秩序を守ろうとすること」

 

 まもなく流言はますます大きくなった。というのも、父が教授職を辞め、新しく会社を設立したからだ。
 ペーパーカンパニーだ、という噂。
 怪しいことは尽きなかった。父の関係者が母の企業傘下で職を得たという話。事業の実態も不明瞭なのに父の報酬が尋常ではなく高いという話。政治関係者との接触のスクープ。掘れば掘るほど疑惑は出てきた。
 でも俺は決定的なことが起きるまで、何も知らなかった。

 

「そしてその反応はいつしか意思になったし、私は意識にさえなったと思っている。このへんは漱石の『文芸の哲学的基礎』が素晴らしくて……いや、話が逸れた。さて、もしひとりでに部屋が片付く世界があったら、リュウは片付けようと思う?」
「……勝手にやってくれるなら、やらないかな」
「そう。だからエントロピーが減少する世界では、意思は生まれない。意識も生まれない。ディストピア。これはSFのような並行世界で考えてみても同じよ。もしIFの世界が無限にあって、自在に行き来できたとしたら、意思は生まれないんじゃないかしら? つまり、人間に世界がひとつだけだというのは、必然なのよ」

 

 一方で、高校生になった姉はますます才能を開花させた。父と連名で発表した論文が大きな話題になったのだ。それは学会よりは世間に受け、メディアは天才父娘だと騒ぎ立てた。
 だが、一部ではささやかな陰謀論が出回った。
 父親の近年の業績のほとんどは、彼女のものなのではないか――という話。
 たかが十五の少女にそんなことができるだろうか? 俺は姉が死んだ今も懐疑的だ。彼女は詐欺師の類だというのが現在の社会的評価であり、俺も基本的にはそれに同意する。

 

「でも姉さんは、並行世界に行きたいんでしょ?」
「もちろん。それが科学に興味を持ったきっかけだから。小さい頃の私はこの問題にどう対処するか考えた。それでね、あるとき結論に達したのだけれど――」

 

 けれど、もしもそれが本当なら?
 両親の悪い噂と一緒に考えると、何が見えてくるだろうか?

 

「なんでも願いが叶うなら――意思なんて、いらないんじゃないかしら」

 

11

  歯車が掛け違っている感覚、というものがある。
 月曜日の四人の会話は他愛もない、いつもと変わらないどうでもいいものだったけれど、何かがズレているような奇妙な感じがした。
「でさ、そもそも俺がオタクになったきっかけって言うのはさ――」
 ネズミはクラスの運動部員にアニメの魅力を教えてやったという中学時代の嘘に決まっているくだらない自慢話をしていたが、どうにもミドはちゃんと聞いているようではなかった。
「……どうした? ミド、そんなに黙ってさ」
「あ、ごめん」
「いやすまん、黙ってるのはいつもだった」
 彼の軽口にも、ミドは俯いたまま、あまり反応しない。
「あんまりネズミが自慢話するから閉口してるんだよ。どうせまた盛ってるんでしょ。ほんとはラノベのブックカバーとか取られて晒されたりしてたんじゃないの?」
「違ぇわ!」
 ネズミはコミカルに言い返したが、まもなく「……いや」とばつが悪そうに語気を弱めた。そこでまた沈黙が生まれる。
 リリの態度だけはいつもと同じように見えたが、この空気だと何か空元気に見える。それは錯覚なのだろうか。
 お互い決して機嫌が悪くないのに、何かがズレている居心地の悪さ。
 それは四人とも感じていたはずだ。けれど、お互いその原因は何だと考えているのだろう?
「そうそう、映画って今週だったよね」
 リリが緊張を破るように、唐突に切り出した。
「チケットもらったやつ?」
「そうそう。三人で行くってやつ。初日だから混んでるかも。前売券、向こうの世界にあるから行かなきゃね。後でミドに渡すよ」
「うん、えっと……」とミドが何か言いかけて、俺の方を見る。
 一瞬、目が合う。
 だがミドはすぐ気まずそうに弱弱しく視線を外した。リリは気づかなかったらしい。
 俺は土曜のことを思い出す。血の匂いが蘇って唾を飲み込んだが、すぐにイメージは頭から去った。
「それにしてもまさか二席だけ相席なんてすごいよね。ね? ミド。ね?」
 リリは圧力をかけたが「……いいよ」とだけ呟いた。「ありがとーミド! 我が大親友! 世界一! 略すとセフ――」と言いかけたところで空気を察したのか「あはは、自重自重」と言葉をひっこめた。
「そんなことはいいんだよ、とにかくありがとありがと。チャンスが来たわね」
 また気まずくなるのは気分が悪い。だから「何のだよ」と突っ込んでやった。
「そりゃもう、真っ暗な空間で男女がすることといえば――」
 もう一度リリの頭を小突くと「いたっ! またそうやって女殴る!」といつもの様子で抗議され、少し安心する。
 こういうとき、リリがいてくれて助かるなと思う。

 

 梅雨入りは唐突で、翌日から雨が降って屋上はしばらく使えなくなった。そのせいで、数日間リリたちにちゃんと会うことはなく、『エヴェレット』を使う機会もなかった。
 SNSグループも自然と言葉数が少なくなって、全員の既読がつかないことも増えた。

 

 放課後、夕立が滝のように降り、傘が壊れるのではないかと不安になったがしばらく待っても収まる気配がなかったので結局諦める。
 遠くからは地響きのような雷鳴がする。
 雷は昔から苦手だった。姉がどれほど自分に落ちる可能性が低いか説明してくれても、それだけは克服できなかった。確率の問題ではなく、ほんの少しでも死ぬかもしれないと思うと身がすくむのだ。死にたいとは思うが、唐突に殺されるのはなんとなく嫌だった。
 ローファーに雨水が入らないか不安になりつつ駅へ向かう。きっと遅延しているだろうと思うと投げやりな気持ちにどんどんなっていく。
 道路下、ちょうど歩行者用の小さなトンネルに差し掛かったとき、その前に誰かがいた。うずくまっているように見えた。何事かと思い、近づく。
「……あ」
 制服姿の少女は、投げ出された鞄からコンクリートの地面に散らばったノートや教科書、筆記用具などを集めている。
 彼女はブレザーもスカートも濡れそぼり、同様に濡れた髪からは水滴がしたたっていたが、手や膝が汚れるのも厭わず、這いつくばって一つ一つそれらをかき集めていた。けれどたとえ作業を終えたとしても、ほとんどはもう使えないだろう。単なる悪あがきだ。実際、作業はほとんど進んでいない様子だ。
 こちらの足音に気づいたのか、彼女が地面から顔を上げる。
 こちらの姿に驚いたようにびくりと後ずさりしてから、怯え切った野良猫のように、丸い目を向けてきた。やっと俺が誰だか気づいたらしい。
「――りゅう、くん」
 彼女はリリだった。

 

 土砂降りの雨に濡れながら、リリを見つめている。
「リリ」
 呼びかけてみたが、それ以上どんな言葉をかけたらいいのか分からなかったし、たぶん何を言っても不正解だった。
「ごめん」とリリは視線を落として、濡れて垂れ下がった前髪で目を隠す。でもそれは完全ではなくて、隙間から覗き見える。
 リリは目を真っ赤に腫らしていた。
 彼女はふらふらと立ち上がり、俺の方を見て「バレちゃった」と呟く。
「あれから調子崩して、あんまり『エヴェレット』を使わないようにしてたんだけど、そしたらこれ。現実って厳しいね」
 それはいつも俺の前で見せるのとは違う、自嘲的な笑いという印象だった。
 どういった事情があるかは察するしかなかったが、恐らくトンネルの上の車道から鞄を突き落とされたのだろう。自分ではなく、誰かに。
「……でさ、どうする?」とリリは訊く。
「リリ」

 

「――哀れまないでよ!」

 

 彼女は絶叫した。
「好きな人にさぁ、こんな姿を見られて、それだけでも死んだ方がいいのに、私、これ以上優しくされたら、ほんとに死ぬしかなくなっちゃうじゃん、こんなに惨めなのに、哀れまないでよ! ……そう、もう分かる? リュウくんがどういう選択肢を取れば正解かって。今すぐ、何も見なかったふりをしてここを立ち去ってよ、私がここでこうやってることなんて忘れてさ、そうしたら、私、全部なかったことにしてまたいつも通りにするからさ、それが一番私は嬉しいから、だから今すぐいなくなって」
「……リリ、落ち着け」
「触らないで!」
 リリは集めたノートや教科書を胸に抱いて、近寄ったこちらから飛びのいたまま、俺を睨みつける。
 さて、どうしようかと思う。
 五秒ほど考えてから、俺は開けたままの傘をリリにかけて、そのまま屈む。
「やめてよ!」と彼女は喚いたが無視して、一人で勝手に残りの荷物をまとめていく。それからもブツブツと何か言っている様子だったがどうでもいい。
 ボールペンや蛍光ペンのインクが流れ出して水たまりが濁っている。ほとんどはもう使えないだろう。教科書や参考書は表紙のせいか思ったほどダメージは少なかったが、ノート類はほぼ全滅で、開いた瞬間にくっついたページがビリビリに破れる。それでも一応はまとめる。
 身体がぶるりと二度震える。じめじめしているのに悪寒がする。風邪をひいてしまうかもしれないが、それはリリの方が深刻だろう。次に対処しなければいけない。
 とにかくとりあえずは見つかる限りの所持品を集めて渡す。抵抗されるかと思ったが、リリは虚脱状態に入ったのか力なく手を差し出してそれを受け取った。
「立てるか?」
 リリは頷いたが、まもなく転びそうになったので傍で身体を支える。
 そして身を寄せ合って歩き、ひとまずトンネルの中に連れていった。

 

 リリは右脚の膝小僧から血を流していた。小石に引っ掛けてしまったようだ。
 待ってろ、と言ったまま俺はすぐにコンビニに向かった。幸運なことに目と鼻の先にあるのを思い出したのだ。
 タオルと絆創膏、脱脂綿、消毒液が欲しかったがないのでミネラルウォーターを買う。店員の中年女性は明らかに迷惑な顔をしたが応急手当も満足にできない店の方が悪い。
「痛いぞ、気をつけろ」
 戻ると、すぐに傷についた汚れを流し、脱脂綿で傷口を押さえて、しばらくしてから絆創膏を貼る。それからタオルを渡した。せめて髪ぐらい拭いた方がいいと思ったからだ。
 こんなところか、と一息ついたところでようやくリリは「最悪」と口を開いた。
「なんでこんなことするの?」
「なんでって……」
 さっきから一度も考えていない問いだったから、困惑する。
「人が痛そうにしているから、何とかしただけ。他に理由なんてないが」
「だから、言ったじゃん、私は――」
「別に優しくしてない。人が苦しんでいる状況を放置するのは気分がよくないだけ」
 論争する気はなかったのでそれだけ言うと、出鼻をくじかれたらしいリリは黙った。
「暗くなるだろうけど、もうちょっと止むまで待つか。忘れてほしいなら、お前が帰れるようになってから忘れる」
 雨は正気とは思えないほど降っていたが、トンネルの中の方が地面より高い位置なので水は入ってこなかった。ホールデン・コールフィールドなら回転木馬に乗った妹を見るのにぴったりの天気だろうが、俺たちに特に感動はなく、寒いだけだ。
リュウくん」と、体育座りしていた彼女は俺に頼んでくる。「隣、座っていい?」
 落書きひとつない治安のいい壁に近づき、無言のままリリの隣に座る。すると彼女は肩を寄せて、体重をこちらに預けた。
リュウくん、あの、あのさ――私、なんて」
「黙ってていい。落ち着くまで」
「……じゃあ、分かった」
 彼女の濡れた髪が、耳と肩にかかっている。横目で見ると、なんだか艶めかしく見えるな、などと考えてみた。黙っているとかなり印象が違う。
「あのさ」
 リリはぽつりと、虚空に向けて言う。
「しばらく、こうしてていいかな」
 俺は「ああ」と返した。

 

「このまま帰って大丈夫か?」と俺が訊くと彼女は「あんまり」と力なく言った。「着替えは持ってるけど、こんなずぶぬれで帰ったら変に思われるかも。……ここまでされたの初めてだから、どうしよう」
 最後の一言には勇気が必要だったようだが、特段気にはしなかった。
「うちに来るか?」
 俺は言った。
「え……?」
「親だか何だか知らないけど、このままじゃ帰れないんだろ? で、最寄りの駅は俺の方が近い。定期で降りられる。着替えもある。なら一旦そこでシャワーなり着替えなりしてから帰った方がいい。合理的な理由」
「でも、迷惑じゃ」
 珍しくリリがまったくふざけなかったので「よかったな、俺の家に入れて」と言ってみてから、向こうの世界ではもうそこまで行ってるのかもしれない、と無意味な想像をしたが、リリが「そうだね。初めてだね」と言ったので否定された。
「――楽しみ」
 抑揚のない冷たい声で、リリは呟いた。

 

 真っ暗になってしまったが、予想通り遅延していた電車も復旧して、乗客もまばらだったのでさほど人目を気にしないでよかったのは助かった。
 部屋につく頃にはお互い髪はちょっと乾いていたが、ブレザーを脱ぐとリリのシャツはひどく濡れていて、俺は後ろを向いたまま先にシャワーに行くように言った。
 彼女が終わると入れ替わってこちらも雨水を洗い落とす。
 暗いままのリビングに戻ると、リリは座ってたままぼーっとしていた。
「髪、乾かさないのか」
「ひゃっ!」と後ろの俺に驚いたのか、リリは小さく飛び上がる。漫画の誇張表現みたいでかわいらしい。全体的に今日の彼女は弱弱しくて新鮮だが、風邪だったら嫌だな、と思った。
 ドライヤーを持ってくると、リリは「リュウくんがやって」と言った。
「俺が?」
「……今日くらい、甘えさせて」
「いつも甘えてるだろ」と返すと、リリは「そうでもないんだよ」とうなだれた。
 櫛を貰い、言われるがまま髪を梳いて、ドライヤーで乾かしていく。熱風でシャンプーの匂いがこちらに流れてくる。今日は俺と同じものを使っているのに、全然見知った匂いには感じなかった。なぜだろうか。
「もう話さなきゃいけないから、話すけど」と、リリが一方的に話を始める。「リュウくんは髪に集中してていいから」
 あまり聞きたいことではなかったが、リリが話したいなら止めることはできない。
「一年の頃は何もなかったんだ。正確には、高校だけじゃなく十五年ずっと何にも困らなかった。パパもママもちょっと生真面目だけどいい人だし、友達もいたし、自分では言いにくいけど勉強も運動も自信があった。中学では生徒会にもいたし、推薦でここに入れて、二年では特進に上がれた。でも、そこからおかしくなっちゃった」
 暗い部屋に、ドライヤーの無機的な風音だけが響いている。
「進級して間もなく、突然クラス全員が私を無視するようになった。……理由は分からない。まったく身に覚えがない。だから混乱した。でも誰も私と話をしてくれなくなった。それだけじゃない。みんなは私を存在しない人間として扱った。授業でペアを組んでもらえないとか、委員決めで勝手に仕事を押し付けられるなんてかわいいものだよ。ある日学校に来たら私の席が片付けられてたこともあった。仕方なく準備室から代わりを持ってきたけど、中に入っていたものは見つからなかった。それから教科書とかは複数買っておいて、学校の何か所かに隠してる」
 轟々と響くチープな排気音。
「直接的な暴力や嫌がらせはされないけどね。存在しない人間として扱われるの、思ったよりしんどい。存在を全否定されてるとね、憎しみすら湧いてこなくなる。あ、そっか、私って存在しないのかなって、こっちまで思うようになる。むしろたまに分かりやすく嫌がらせされたときなんて嬉しくなったくらいだよ。特に今日みたいに、追い越しざまに突き飛ばされたりしたら。こんな雨でも元気だよね。やってきた子、嫌なことでもあったのかな。ストレス発散のつもりかも。ああそう、男子ならもっと面白いことしてくるよ。あいつら怖気づいてるからそこまでひどくはないけど、言ったらリュウくん興奮してくれるかも。たとえば――」
「静かにしろ」と注意した。「火傷する」
「……まぁいいや。とにかく私は存在しないんだなって思った。先生たちも知らないか、知っていても見てみぬふりをする。進学実績のある特進クラスで騒ぎなんて起こしたくないんじゃないかなぁ。家族にも言わなかった。あの人たちを苦しめたくなかったから。でも、やがて私への嫌がらせも減って――うん、だから今日は珍しいんだけど、ともかくついに完全に無視されるようになって、なんか気が楽になったんだ。私って無意味なんだなって。生まれてなんかないんだなって。ここにいない。何者でもない。誰も気にしない。オースターって人の小説を読んだことある? 依頼者に成り代わられて、何物でもなくなっちゃう探偵の話。そんな風に私は、ここにいる自分は抜け殻のようなもので、ほんとの自分が別の場所にいるんだって思うようになったんだ。ここでとは違う人生。私にはそこの方がふさわしい。そっちに行きたいなって思った。どうやったら行けるんだろうって思った。二十四時間考えた。もしかしたら、死んじゃえばいいのかもな、と思った」
 後ろ髪が乾いたので耳の後ろに手を伸ばす。リリは「……ひゃん」と小さな声を出すが、すぐに話を続ける。
「でもリュウくんも分かると思うけど、具体的に死のうって思ってもさ、難しいよね? だからウダウダしながらそうやっていつ死のうかいつ死のうかって考えていたある日――リュウくんに出会ったんだ」
「俺に?」
「うん。毎日電車に乗って、同じ車両の同じ場所にいつもいる男の子。それまで気づいていなかったんだ。でもある日、ふと目に留まった。……落ち込むかもしれないけど、正直、一目惚れって感じじゃなかった。ちょっと眠そうにしてるところ以外は、他の男子とそんなに変わったところはない。……でもどこか変な感じがした。窓の外を見てる目が、私と似てるような気がしたんだ。でも今思えば単なる妄想だったのかもしれない。失礼なことを言うと、誰でもよかったのかも。恋愛なんてそんなものだったりして」
「それで、俺を『エヴェレット』で恋人にしたのか」
「話が前後しちゃうけどね。薬を手に入れて真っ先にしたのは、言った通り、私にふさわしい世界を作ることだった。そこで、ちょうどいいと思ったのがリュウくんだった。私はときどき学校で、リュウくんのことを観察したよ。自分でやれるだけ調べて、余白は勝手な想像で理想のリュウくんを作った。で、世界に配置した。それは、今まで変わらない」
「なら、それでよかったんじゃないか?」
 ドライヤーのスイッチを切った俺は、カラオケで訊けなかったことをもう一度質問した。
「まぁ、俺を選んだ理由はそれで納得するとして――理想の『リュウ』がいるのに、どうして現実の俺を誘い込んだんだ」
「……死にたかった私が言うのも滑稽だけどね」とリリは話を続ける。
「現実のリュウくんも、そんな風に別の世界に行けば死ぬのを止められるかなと思ったからだよ。リュウくんさ、自分の雰囲気、分かってる? ストーキングしたのは悪かったけどさ、あんまりにも楽しくなさそうなんだよ。……でさ、言っちゃうと、あるとき屋上のふちに立ってるのを見かけて」
 ……見られていた。
「全部繋がったんだよね。この人、死んじゃうかもって焦った。でもそこで『エヴェレット』を使えば幸せにできるんじゃないかって思った。そういうこと」
「でも口ぶりだと、向こうの俺と話しても違和感はないんだろ? だったらお前にとっての山田リュウは『ゾンビ』でもいいだろ。大切なのは向こうの俺じゃないのか? ……不謹慎だけど、現実の俺を自殺から救った意味はあったのか? 見殺しにしたって――」
「やめなよ」とリリは静かに言った。「悲しいこと言わないでよ」
「……済まない」
「でもリュウくんは鋭い。本も読んだよ。難しく言うと『他我問題』ってやつ。テツガクの話はしないけどね。ただ、結果的にだけど、望み通りのリュウくんじゃなくて、知らないリュウくんの方が好きになれたんだ。うまく言えないし、変なんだけど。死んでほしくなかったってことは、私、やっぱりこの世界を大事に思ってたんだね」
 でもね、とリリは寂しそうに話す。
リュウくんとしばらく過ごして分かったけれど、本当のリュウくんは本当に本当のリュウくんなんだよ」
「いや、意味わからんが」
「そのまんまだよ。私が彼氏にしたリュウくんは私の理想の存在だったけど、現実の人間はそうじゃない。そういうこと。でも困ったことに、それを好きになってる」
 そこまで好きですと言われれば「はぁ」と俺は相槌を打つしかない。
「でも私はずるいから、そういうリュウくんも全部欲しがってしまう。矛盾してるんだけど、現実の、思い通りにならないリュウくんをひとりじめしたくなっちゃう。そんなことできないのに、止められない。……だから、じきにひどいことをすると思う」
「ひどいこと?」
リュウくんが私を見てないの、分かってるから」
「私は私が嫌い」
 そう言って、リリはソファに登り、膝立ちで俺の方を向いた。
リュウくんを信じられない、私が嫌い」
 焦点の合っていない、おぼろげな目。
リュウくんには、大事な人がいる――って話、してたよね」
「ああ。俺の姉だ。何から話せばいいか分からないけど――」
 ついに、俺はリリに姉のことを明かした。
 ……一通り話し終えると、やっぱり「そっか」とリリは言った。「嫉妬……はできないね。大変だったみたいだから」
「いや、こっちの話だ。こんなこと話して、すまない」
「いいんだよ。納得できた」
 私が一番になれないってことも。
 でも、リュウくんが好きで、一番になりたくなってしまうことも。
 だからね――と、リリは呟く。
「わたしがもしひどいことしたらさ――私を嫌ってください」
 ――リュウくんは、優しいからさ。
 その言葉は、彼女が部屋を去ってからも耳から離れなかった。

 

12

  翌日、SNSグループにリリから『体調が悪いから、映画はリュウくんはミドと二人で行ってきて』というメッセージが投稿された。『風邪引いちゃったかも』ということらしい。
 あんな大雨の中で傘も差さずにいたら体調を崩すのも当然だろう。その原因を考えるといたたまれなかったけれど、どうにもならない。たとえばA組に行って彼女を突き飛ばした相手を殴るわけにはいかない(少なくとも風邪は治らない)。
 他の二人にも話してはいけない、と釘を刺されていたので、ネズミたちは驚いているだろうな、と思う。今のところ、それを守っている。
 それにしても、ミドと二人。
 はっきりとはしないが、どちらに対してもなんとなく後ろめたいような気持ちがある。
 ネズミを誘ってみようかと思ったが、『俺はいい』と先回りされてしまい、逃げられなくなった。
 まさか中止する理由もなく、その日は近づいていった。

 

「……どうも」
 ちょうど梅雨の狭間にぴったり晴れた午後の駅、カラオケでの乱痴気騒ぎの際と同じ待ち合わせ場所。『もうすぐ』という連絡を受けて待っていた俺の前に、恐る恐るという感じで人がやってきた。
 フリフリした布が随所にあしらわれた、白い長袖のワンピースの少女がそこにいた。
 最初は文字通り別人なのではないかと思ったので訝しんだが、俺の前で二十秒ほど「えっと……」「その」「うん」「あ……」とうなり続けたので、ミドだと分かった。なんで前はあんな格好してたんだ。
 やっと意を決して俺に挨拶する。やはりいつものモードだ。
「リリ、来れないって」
「らしいね。聞いてる」
「うん……」
 当たり前のことを確認してみたが、何も話が広がらない。彼女の性格のせいもあるだろうが、カラオケの一件からミドが俺との距離をつかみかねているのもなんとなく分かる。
「とりあえず行くか。ここで突っ立っててもしょうがないし」
 そう判断して「行くぞ。映画館の場所は調べてあるから」と歩き出そうとすると、「待って!」と止められる。
「どうした?」
「今日、人多い」
 確かにそうだった。何かのイベントがあるようで、心なしか駅は混み合っている。
「……人ごみ、苦手」
 その言葉で、ミドが何を求めているのかはある程度分かった。
「腕、掴んで」
「えっ?」
「いや、そうしてほしかったんじゃないのか」
 堪忍したようにミドは頷く。最初からそう言えばいいのに、と思う。
 彼女はおずおずと手を差し出して腕に絡め、まるで樹にしがみつく昆虫か何かのように俺に身体を寄せる。
「じゃ、行くから」
「うん」
 これからどうなるというのだろうか。

 

 結局、到着するまでミドは最後までひっついたままだった。
 映画が始まる前に、俺たちはモールのファミレスにやってきた。ドリンクバーだけを注文し、ミドが『エヴェレット』を取り出す。チケットは向こうの世界にあるのだ。
「じゃ、飲もう」
「うん」
 もう慣れた、何度目かの酩酊がやってくる。

 

 そのまま向こうの世界に来た俺たちは、すぐに会計を済ませて映画館に向かう。
 ミドはキャラメル味のポップコーンを買った。
「……甘いもの、好きだから」
 嫌いだった……? と心配そうに訊いてくるので「いや、いいよ」と言っておいた。「映画館ではあんまり食べないし、そもそもミドが買ったんだから」
 俺が言うと、ミドは何かを言いかけてからやめ、少し不機嫌そうに息を吐いた。
 ……よく分からないが、先が思いやられる。
 特に相談はしていなかったが、自然な形でミドと俺は右と左で隣に座ることになった。
 CMが終わり映画が始まる。
 数年間も公開が待たれていたSFアニメシリーズの完結編。おぼろげにテレビでやっていた記憶のある俺はともかく、ミドは過去のシリーズを覚えているだろうか、と思う。まさかとは思うが、何も分からない状態で見たら困惑するだけだと思うので、少しだけ気がかりだった。
 映画は二時間半もある。長い映画は面白いつまらない以前に疲れるので好きになれないのだが、今回も案の定途中で集中力が切れた。
 映像が脳をすり抜けていき、一応はストーリーを把握できるのだが、それ以上心が動かされたりすることがない。この感覚は、ときどき経験するあの解離とやらと似ていて、言いようのない不安に襲われる。
 しかしこんなに大音量で何かが鳴っている空間で眠れるはずもなく、仕方なく退屈しのぎにポップコーンを拝借することにした。
 紙製のカップを指さすとミドは頷いたので、非難されない程度の量をつまんで口に放り込む。甘ったるい。リリといい、どうして周囲には甘いものが好きな人間が多いのだろう。
 ……一体何分が経ったのだろうか。もう一度食べようと思って、映像をぼんやり見ながらまた右手を伸ばしたとき――何かがぶつかった。
「あ……」
 小さくミドがうめいた。おそらく彼女の左手だろう。恥ずかしさより前に、こんなベタなことって本当にあるんだな、などと感心してしまった。
 無言で彼女は手を引いたので、俺も引く。それからしばらくお互い食べるタイミングがつかめなくて、奇妙な空中戦みたいな状態になっていた。バカだ。
 ……やむなく手をひじ掛けに置いていると、ミドがその上に手を置いてきたので思わず二度見する。今度は何だ? と思ったが、彼女の手は震えていたので、駅前でのことから察した。公開初日ということもあって場内は満員で、少し圧迫感がある。そんな不安な場所に何時間もいたので、いくらか消耗してしまったのだろう。
 連れてきてしまって申し訳ないと思ったが、とにかく今はそれをやわらげるしかない。俺は手を少しずらして握り返して――
 ――リリ。
 やめていた。
 なぜかは分からない。けれど、脳裏に唐突にリリのことが浮かんだのだ。
 あちらが向こうの世界で勝手に主張しているだけであって、俺とリリはこの世界では別に付き合っているというわけじゃない。少なくとも俺は認めていない。それにミドもどうこうという気持ちはない。だから両者に対してためらう理由なんて何一つない。
 なのに、なぜ?
 ……俺は何もできないまま、ミドが握り続ける右手を力なく置きっぱなしにしているしかなかった。
 ……映画がようやく決着し、端から見てもエピローグだな、と思っていた頃、ふと隣を見ると、ミド目を閉じてすやすや眠っていた。よく眠れるものだな、と思う。
 左手はもう俺から離れている。
 それに、少しだけ安堵しておいた。

 

リュウはどうだった?」
 ファミレスの座席に戻ってきて、俺たちは一息つく。すっかり外は暗くなってしまっていた。映画に集中するために、こちらではほとんど何もせず二時間半も座っていたのだ。当然だが明らかに店員が嫌そうな顔をしているので、俺は追加でグリル、ミドは野菜のスパゲティを頼んだ。
 ミドの問いに「長かったな」と答えると、そうじゃないでしょと言いたげな目で見られたので、「まぁ、しっかり終わったんじゃないか?」と言っておいた。
「ミドはどうなんだ?」
 そう訊いてみてから、珍しいことにちょっとだけからかいたい気持ちに誘われた。
「あのラストとか、今ネットで調べたら賛否あるみたいだけど」
「あ……」
 ミドは明らかに焦った表情を見せる。
「うん、私はいいと思うよ。これはこれで!」と早口で言うと、「でも映像がかっこよかった。アニメでどうやって作るんだろうね」と露骨に話を逸らしてきたので、俺は「ちなみにどっち派? それでラストの意見は変わると思うけど」と追い打ちをかけた。
 ヒロインは二人いるのだが、ラストでどちらと結ばれたか、寝ていたミドは知らない。
「あ、いや、私はあんまりそういうキャラ目線でアニメとか見ないから、話が面白ければ、それで……」
 ぷしゅー、とミドの頭から湯気が出てきそうだったので「そっか」とだけ言ってからかうのをやめた。ふざけすぎた。
「……これからどうする? 解散でいいか?」
 俺が言うと、ミドは「その……」と何かをためらうように言葉を迷わせたが、乗り掛かった舟だと言わんばかりに「今から、見てほしいものがあるからついてきて」と言い切った。
「見てほしいもの? どういうやつ?」
「美しい、もの」
 ミドは強く言う。
 それは、現実でも向こうの世界でも、見たことのない彼女の姿だった。

 

 ミドは俺をどこに連れていくか、言わなかった。
 ……駅からニ十分ほど歩いただろうか。
 ここまでくると坂が増えてきて、高低差が激しく、ろくに運動をしていない人間には少々疲れる。ミドはどうなのかと思ったが、あまりつらそうではなかった。目的地に行くことにミドは慣れているらしい。
 国道の隅にある小さな神社に繋がる階段を登り、鳥居の前で右に逸れ、高台をぐるりと反時計回りに回り込む。
 街灯はない。もし突然ミドがいなくなれば、スマホの地図アプリがないと完全に遭難する。
「なぁ」
 ミドは俺の呼びかけに答えず、まるで何かに導かれるように進んでいく。
 ……暗闇の中で、俺は彼女の左手が固く握られているのに気づいた。
 そこには何か、重大な決心でもあるのだろうか。

 

「ここだよ」
 ミドが足を止めたのは、ぐるりと高台を半周した先だった。
 そこには小さな歩道があって、カーブしながら下の国道まで繋がっている。
 俺は息を呑んだ。
 眼下には無数の街の灯が揺れている。
「夜景スポットなんだ、ここ」
 遠くの駅前は恒星のように明るい点が色とりどりに混ざって白く輝き、少し離れて黄色い光の粒がばらまかれていた。
 地面に夜空がもうひとつできて、天上の星を掻き消してしまうほどに瞬いている。
「……綺麗、でしょ?」
「ああ。ここに連れてきたかったのか? 知らなかったから、嬉しいけど――」
 そこでミドは「私はね」と、俺の話を遮った。「この場所が嫌いだった」
「嫌い?」
「うん。ほとんどの人には綺麗だと思う。でも私は、この夜景を見ると悲しい。……引くかもしれないけど、聞いて」
 ミドが懐かしそうに夜景を眺める横顔を、おれは見つめていた。
「あの人たちが子供を持とうと思ったのは、たぶん憂さ晴らしをしたかったからだと思う。……まだ小学生にもなってなかったと思うけど、初めて殴られたときのことはもう覚えていない。食べ物を抜かれていつもお腹がすいていた感じは思い出せるけど。二人で勝手に出かけて一週間も戻ってこなくて、家に食べ物がなくて死んじゃうかと思ったときもあった。……小学校にもまともに通わせてもらえなかった。学校とか児童相談所みたいなのって適当。電話や面談を無視されたら、何もできない」
 ミドは泣いていなかった。
「でも、ついに二人は自分たちがまずいことをしたって分かったんだろうね。そこで今度は新しい遊びに手を出した。家で勉強させて、成績がよくなるまで――おかげでバカだけど勉強には今も困ってない。やってないと殺されるって気がするから」
 それどころか、笑っていた。
「家から放り出されたとき、いつもここに来てた。偶然見つけたんだ。それで夜景をずっと見てた。この夜景の下、世の中には無数の家や人がいて、家族がいて、幸せな家庭がいっぱいある。最初はそれが憎くてたまらなかった。だから嫌いだった。私だけなんでって思ってた。でもそのうち憎むのにも飽きて、あるときからこう考えるようになった。……この星の一粒、幸せな家に私がいたらどうなるんだろうって。それからは……あまりつらくなくなった。ひどい目に遭っても、そこで家族と幸せにしてる私を想像したら、全然痛みもなくなった」
 まるで、昔の幸福な思い出を語るように。
「普通なら学費なんて払ってくれないだろうから、なんとか中学生になった私は必死にいい子を演じた。不自然だったと思うけど傷も隠した。バレなかった。頑張って頑張って頑張って、推薦が取れた。でもそれは逆効果だった。あの人たちは調子に乗って子供をファッションにすることを覚えた。表でニコニコしながら、私には言いがかりみたいに細かいことにケチをつけて、暴力はもっとひどくなった。私はいよいよ向こうの星の家で暮らすようになった。家でも学校でも四六時中考えて、ボーっとする。優しいお母さん。頼れるお父さん。でっかい犬。弟か妹がいてもいいな。妄想は形になってきて、完成させることに躍起になった。でも、あるとき――リリと出会った」
「……リリと?」
「ある日、胸の右が痛くて動けなくなった。それで一週間ぐらい学校に行けなかった。あの人たちは家を出て放置したんだけど、学校はプリントを渡さなきゃいけないからって、リリにお願いしたみたいなんだ。それでうちに来た。だからその時からの知り合いなんだ。……リリはね、必死に玄関に来て、取り繕うとする私を見て何も言わずいきなり救急車を呼んだ」
 結果的にいろいろ助かったんだけど、とミドは静かに語る。
「あばらを骨折してた。突き飛ばされて柱に当たったときなのか、分からないけど。それでついにあの人たちが何をやってたかが衆目に晒されて、私は保護された。あの人たちは捕まって、いろいろあった末に養子縁組が決まった。……高校も変えた方がいいって言われたんだけど、リリがいるから嫌だって言った。そういうことが、あった」
「……どうして、いきなり俺にそれを話したんだ?」
 俺の問いにミドは「やっぱり、リュウは鋭い」と小さく笑う。
「これからね、リリにずるいことをするから」
 彼女は、俺の方に向き直り、灯の反射する両の目で、おれをじっと見る。
 ごめんね――そう、詫びて。
 何もかもを射貫く矢のような、そんな目つきで。
リュウ
 そしてミドは、決定的なことを言う。

 

「好き」

 

13

  ミドは学校に来なくなった。
 
 快晴が戻ってきて屋上日和になっても、誰も来ない。
 ミドだけでなく、今はリリもネズミも来ない。
 週明け、ミドが学校を休んでいるという話をリリが持ってきてから、俺たちは急激に距離を取るようになってしまった。
 とりあえずリリが連絡を取ってみるということに落ち着いたが、それから三人の空気は次第に重苦しくなっていき、屋上に集まることはなくなった。高校というのは人数の多い場所だから、一度接点を失うと案外校内で見かけなくなってしまうこともある。あるいは、俺の頭の中で彼女たちが他人に戻ってしまったのだろうか。
 スマホを確認しても、グループには何のメッセージもない。状況が好転していないのはすぐ分かった。
「今日は誰もいないんだね」
 屋上で佇む俺に、部長が声をかけてくる。
「今日も、か」
「突然なんですか」
「いや、事実を言ったまでだけど。目が怖いよ」
 どう説明したものか、と面倒に思っていると、彼女は見透かすようにこう言ってみせた。
「当ててあげよっか? トラブルがあったんでしょ」
 一瞬、自分の中で何かがざわめいた。
 それは、部長がこう続けたからだ。
「それも――恋愛絡みとか?」
 俺は咄嗟に「サークルクラッシュってやつですか? でも姫なんていませんでしたよ」と軽口を叩いた。
 それに部長はこう答えた。
「それってさ、もしかしてキミじゃないかな?」
「……何が言いたいんですか」
「キミに誰かと関わることなんて無理なんだよ」
「また姉の話に持っていくつもりですか? よく飽きないですね」
「いや、もう話すまでもないよ。もうまもなく、自分で分かるようになるよ。キミにはまともな人生なんて無理だってことが、友達も恋人もできないってことが、そしてナオ先輩――お姉さん以外いないってことが」
 鬱陶しい。
「予言するよ。キミは独りぼっちになる」
 黙ったまま、踵を返して屋上を後にした。

 

 夜、ネズミから俺宛にメッセージが来た。
『明日の放課後、屋上に来い』
 文面はそれだけ。
 何を返信しても既読はつかなかった。

 

 空が晴れるようになると、夕焼けも映える。
 緋色に染まったグラウンドでは陸上部員たちが走り、校舎からは吹奏楽部の練習が音漏れして聞こえる。各々が、過ぎ行く各々の時間を過ごしている。
 けれど、俺たちだけはそこに取り残されて、その時間の中に入れていない気がした。
「話があるんだろ」
「ああ」
 ネズミはもう先に来ていた。
「ミドのことか」
「そうだ」
 頷かれる。概ね予想通りだった。
 そして、次にくる言葉も想定内だった。
「お前らは、週末に二人でデートに行ったんだよな」
 デート、という言葉をネズミは無意味に強調した。なるほど、それくらいの察しはついているということか――そう思った。
「何があったんだ?」
「何があったと思うか?」
 ネズミは俺を睨みつけて、一歩近づいた。
「真面目に話せ」
「そっちこそ落ち着けよ、そんなに凄まれたら話せない」
 俺が注意しても、ネズミは敵意を向けるのをやめない。
「お前が何かを推測しているのは分かる。そして、今起きてることの原因があるんじゃないかと考えてるのも分かる。でも冷静になってもらわないといけない。注意して喋ってるんだ」
「勿体ぶるなよ」
 彼を傷つけたくなかった。
 だから、嘘はつきたくなかったが、本当のことをすべて明かすことはできないと思った。それを明かせば、間違いなくネズミは大きな打撃を受けることが分かっていたからだ。
 ミドが、ネズミではなく俺を好きだったということ。
 ……そして、俺がどう答えたかということ。
 それを言うことは、今の彼にはあまりにも酷だ――と。
 この期に及んで、俺はそう考えていたのだ。
「知ってるぞ」
 俺のどっちつかずな態度に業を煮やしたのか、ネズミは挑発するように俺を見据えた。
「お前は、ミドに告白でもされたんだろ?」

 

 最初に思ったことは、なぜ? という疑問だった。
 なぜそれを、ネズミが知っているのか?
 十秒ほど考えて、彼にこう言ってみた。
「リリに吹き込まれたんだな」
「……っ、ああ、そうだよ」
 ネズミは俺の反撃に多少動揺したらしいが、すぐ開き直るように言った。鎌をかけてみただけだったが、ビンゴだったらしい。
 これで解が出た。だから逆算すれば何が起こったかもわかる。
「じゃあリリは、デートに来てたってことか」
 ネズミは何も言わなかったが、特に返答は求めていない。
「突飛な発想だが、俺たちを追いかけていたのかもしれない。俺たちが待ち合わせてる間も、映画を観ている途中も、……その後もね」
 そう言いながら想像する。リリはどれだけ俺たちを観察していたのだろうか。
 俺たちが身を寄せて人混みを歩いたことは?
 映画館で上映中手を握ってもらったことは?
 そして――その後のことは?
 どこまでを実際に見ていたかは分からない。けれど、すべてを見通されていたような、そんな気がしてくるのだ。
 そう思うと……なぜだろう、悲しかった。
 ミドにも、リリにも、悲しいことだった。
「リリはそれをお前に教えた。で、こういう事態になってるのか」
 唯一残る疑問は、なぜリリがそんなことをしたのか。
 でもそれも、もう少し鋭ければ予感することはできたはずなのだ。

 

『私はずるいから、そういうリュウくんも全部欲しがってしまう。矛盾してるんだけど、現実の、思い通りにならないリュウくんをひとりじめしたくなっちゃう。そんなことできないのに、止められない。……だから、じきにひどいことをすると思う』
 そう、リリは言っていた。
リュウくんを信じられない、私が嫌い』
 彼女は、俺を信じなかったのだ。
『だから、わたしがもしひどいことしたらさ――私を嫌ってください』
 そして、引き金を引いてしまった。

 

「……俺たちのことはもう分かっただろ」
 ネズミは調子が狂ったことに苛立ちながらも、また一歩俺に近づいた。身の危険を感じたが、足は後ずさりしていなかった。
「なんて、答えたんだ」
「……ネズミ」
「答えろよ!」
 そのまま右の手で、胸倉、シャツの首元を掴まれる。
 喉までぐっと持ち上げられて息が苦しい。けれど、あまり抵抗する気が湧かなかった。
 膜だ。
 また、あの感覚。目の前で起きていることが、分からない。
 俺はここにいない。
 何も起きていない。
 気がつくと両方の手が俺の首を絞めている。
 ネズミの眼は完全に我を失っていた。嫉妬、不安、混乱、すべてが俺に向けられている。
 それはある意味では当然のことだ。それでも、いや余計に俺はミドのことを言えないと思った。だから、このまま死ぬのもいいのかな、とさえ感じた。
 人間が窒息するまでは何分だっただろう。思い出せない。
 あれだけ死にたいと思っていたのに、いざ殺されかけてみると変な気分だった。もしかしたら。
『キミに誰かと関わることなんて無理なんだよ』
 こういう結末も悪くないのかも――

 

「――やめて!」

 

 その声で、手が離れた。
 リリだった。
「お前――」
 驚愕するネズミに、リリは「……やめて」とだけ繰り返した。
 呼吸が戻ってきて、思わず吐きそうになったがこらえる。頭がじんじんと痛い。でもそんなことはどうでもよかった。
「……リリ」
 無理にでも声を震わせて、俺は彼女に何か言おうと思った。けれど、その先は何も思いつかなかった。いつもこうだ。俺は、俺たちは、どうでもいいことばかり喋るくせに肝心なときに限って肝心なことを何一つ言えない。
 リリは俯いたまま何秒か黙っていた。俺たちの会話を聞いていたとは思えないが、自分のしたことがあまりにも後ろめたかったからだろう。
 だが、それどころではないことを、彼女は知っていた。
 ――意を決したように、リリは俺たちに告げた。

 

「ミドが、自殺しようとしたって」

 

14

  両親が自殺した。
 姉にそう知らされたとき、俺は状況を理解できなかった。
 それがなぜなのか、彼女は一切説明しなかった。ただ「落ち着いて」と「私に任せて」ということ以外、何も。
 だから、ずっと後で知った。
 彼らが事業に失敗し、多額の借金を抱え、俺たちを置いて心中を図ったことを。

 

 葬式に姉が出席したことは、未熟な俺にとっても大きな驚きだった。
 俺は茫然とした状態のまま気がついたら来ていたという状態だったのだが、彼女は――少なくとも、自分の父に敬意を持っているようには見えなかったからだ。
 和式の斎場、喪服に身を包んだ姉は実際の年齢より五歳ぐらい上に見えた。残された娘として、お決まりの無個性な弔辞を読んだ彼女は、終わると逃げるように壇上を後にした。それは、怜悧で自信に満ちたいつもの姉からは信じられない様だった。
 けれどいかに肝の据わった姉であっても、それは当然だったかもしれない。俺もまた、参列者の俺たちへの厳しい目を感じていた。
 好奇、憎悪、嘲笑、軽蔑。誰もが俺たちを厄介者として見ているのは明白だった。
 でも俺は、自分よりも姉のことが気になった。
 その頃の俺はもう、それこそ両親より彼女のことを特別に感じていた。だから、こんな状況で弱っている姉が不安でならなかった。
 その後、母筋の持つ屋敷で親族や知己の集いがあった。自分たちを一応は引き取ってくれることになっていた叔父たちに連れられてきたはいいものの、やはり親族や両親の知り合いは明白に俺たちを敵視していた。早く帰りたいと思った。
 知らない人間が俺を無視して隣と続ける、こちらをあてこするような思い出話に嫌気が差し、席を外して廊下を歩いていると、通りかかった部屋から怒鳴り声が聞こえてきた。
「――お前のせいだぞ!」
 男が絶叫していた。
「そうよ、あんたがうちの家に泥を塗ったのよ!」
 障子の隙間から俺は中をこっそりと覗いてみた。そこには五、六人ほどの男女がいて、誰かを延々と詰っている。
「あの子を騙したのもあんたなんでしょう? うちらの金目当てでこんな縁談を用意して。あんたさえいなければ、誰も死ななくて済んだのに――」
「違います」と機械的に女性の声が答える。「私は両親にとってそれが最善だと思いました。彼らは支えてくれる人を求めていました。経済的にも、精神的にも。二人とも納得して結婚しました」
「それが心中だってのか? こんなに借金を残して、おずおずと逃げやがって!」
「そうだぞ。捨てられたお前がよく言うじゃないか。結局あいつらは子供なんてどうだってよかったんだよ。お前がやったことはあいつらを共依存にしてつけあがらせ、俺たちにさんざん迷惑をかけただけじゃないか。この淫売が!」
 こいつらが何を言っているのか最初はよく分からなかった。知らない話が多かったからだ。
「私たちは先生を尊敬しておりました。彼の業績や手柄に手を入れて、横取りしたのは誰なんでしょうね。おまけに肉親を騙して金儲けまで企んだなんて」
「そうです。先生は騙されたんです。こんな娘、生まれてこなければよかったんですよ。僕は最初の結婚をすると言ったときも反対してましたから――」
 だが、だんだんこれは、俺たちのことなのではないかという気がしてきた。
「なんでこいつがのうのうと生きてるんだ? 二人の人間を死に追いやって、さんざんうちの一家に尻拭いをさせて、こいつとあのガキはお咎めなしってか?」
「弟を批判するのはやめてください」と、声は言った。「弟には何の責任もありません」
「へぇ、『弟』なんて言うのね。血も繋がってない癖に調子に乗って家族気取り?」
「本当は金以外どうでもいいのに、この期に及んでまだ被害者ぶるのね。だけど、もう私たちは騙せない」
「お前にはわしらの財産はびた一文渡さん。どこかで野垂れ死ねばいい。当然の報いだ」
 いつまでも、いつまでも、いつまでも罵倒は続いた。
 聞きながらふと気づいた。怒鳴られている女性の声に、聞き覚えがあった。
 障子に遮られて彼女の顔は見えない。どんな表情をしているか分からない。

 

 お前さえいなければ。
 こいつは我々の恥晒しだ。
 こんな子供、生まれてこなければよかった。
 なんで一緒に死ななかったんだ?
 死ね。死ね。死ね。死ね。
 死ね。死ね。死ね。死ね。
 今すぐ!

 

 俺は何もできなかった。
 気がつくと、逃げ出していた。

 

 ……中庭で、俺は茫然と大きな石に座り込み、空を見ていた。そんなことどうでもいいはずなのに、月が綺麗だったのをくっきりと覚えている。
「ああ、ここにいたの」
 後ろから声をかけてきたのは、姉だった。
「もう帰るわよ。挨拶は終わったから」
 挨拶? あれが?
「姉さん……」
 俺の不安を中途半端に察したのか、姉は頬を緩ませた。
「大丈夫。これからは私がなんとかしていくから、心配しないでいいわ。あなたはあなたのことに集中しなさい」
 彼女は俺の母のことに触れなかった。そういう気配りができる人だった。
 いつも通りの、高飛車で優しい姉がいた。
「だから、もっと。そうね……ねぇ、死んだら人はどうなるって思う? この機会に、さっきからそれを考えていたの。たとえば――」
 俺たちは、それからどうでもいい死生観の議論をした。
 彼女の様子に、変わったところは見られなかった。

 

 姉が精神のバランスを崩し始めたのは、そのすぐ後のことだ。

 

15

  ミドは自宅で倒れていた。
 薬を大量に飲み(間違いなく『エヴェレット』だったが、誰にも気づかれていないようだった)手首の動脈を切って湯を張った浴槽に入れた。
 家族の発見が早かったので一命はとりとめたが、未だに意識は戻っていないということだった。入院先はプライバシーがどうこうとやらで教えてもらえなかったし、こういう場合、たぶん面会はさせてくれないだろう。
 ミドは、『エヴェレット』で何を見ようとしていたのだろう。

 

 あの日、俺はミドになんと言った?
「……ひとつ、訊きたいことがある」
 ミドは何も言わなかった。
「ネズミには悪いけど……お前は他の世界でたくさんの奴と付き合ってる、って聞いた。『ゾンビ』の奴らと。俺はそれもいいことだとはあまり思わないが、まぁ『エヴェレット』を使っている人間の感覚としては理解できる。でも、なぜ現実の俺なんだ? まずそれを知りたい」
「……私、なんでリリが現実のリュウを呼んだのか、さっぱり分かなかった。まぁ、気まぐれだったんだろうけど、でも『ゾンビ』の相手の方が自分の理想で、優しくて傷つけてもこない。なのになんでわざわざ……そう思ってた。でも、私、今日気づいちゃった。二人でいて、あんまりにも幸せだった。自分の思い通りじゃない、この世界の、現実のリュウといて、傍で見てて幸せだった。それに、こんなにひどい目に遭わせてきた世界のことも許せそうに思えたから。目の前にある灯が……今の私には、綺麗に見える」
 世界って、綺麗なんだね――そう、ミドは呟く。
「だから、このリュウに言うしかなかった。告白する気なんてなかったのに。だから、これは暴走みたいなもの。ごめんなさい。どうしていいか分かんないよね」
 こんな風に我慢できなくなっちゃうのが恋愛なんだね、とミドは笑った。
 その笑顔は、すごく、すごく、掛け値なしに綺麗だった。
 だから躊躇いたくなる。何もかも捨てて頷いてしまいたくなる。でも――
「……ミド、気持ちは嬉しいよ。でもな」
 俺は覚悟する。これから当然で、だが残酷で、悲しいことを言わなければいけないのだ。
「分かってるだろ。現実に存在するのはネズミも一緒だ」
「――っ!」
 リリの中で、何かが裂けた。
 曇りのない笑顔。それを俺は蹂躙し、破壊した。その破片は液状になって目から零れた。
「お前らの関係に口を挟むことはできない。でも、もしも俺のことを好きになってしまったのなら――彼と落とし前をつけなきゃいけない」
「……それは」
「あいつは、お前が他の世界の誰かといることに、深く傷ついていた」
「分かってる。私は、確かにひどいことをしてるよ。でも――」
「お前が生まれた現実に価値を見出せるようになったのは、たぶんいいことだと思うし、俺がきっかけだというなら、うれしい。でもな、現実を認めるってことは、たぶん……そこで生じる責任にも、落とし前をつけなきゃいけないってことでもあるんじゃないか? だって、同じ現実にネズミはいるわけだから。……はっきり訊かなきゃいけない」
 言いたくないことだった。でも、結果から言えば、俺は言った。
「……お前は、あいつが好きなのか?」
「好きだよ」
「本当にか?」
「……分かんないよ!」
 ミドは苛立つように怒鳴り、それから何秒か黙った。血が出そうなくらい唇を噛んでいた。
 言わなければいけないことを言うのは、ひどく具合が悪く、グロテスクだ。
 あは、あははは――
 やがてミドは、唐突に、引きつるように笑い出した。
「……そっか、そうだよね。そうに決まってるか。なんで分かんないんだろ、私」
 ばかだ。そう、ミドは何度も繰り返した。
「うん、分かった。私、リュウのことを諦める。リリにも、ネズミにも悪いことした」
「ミド」と俺は言いかけたが、「何も言わないでいいから」と彼女は遮った。
「もういいんだ。全部いいんだ。ごめんなさい、ごめんなさい、本当に私、最低」
 謝るなと、あの時のように言えない自分が嫌になった。
 でも、彼女がどれだけ痛々しくても、自分を責めるなと言う権利は、俺にはなかった。
「最低って、最低なぐらい最低なんだね」
 泣きながら、笑いながら、壊れながら、狂いながら。

 

 そう言ったのが、俺の見た最後のミドだった。

 

 ……残された俺たち三人は、その日、何も言わず別れた。たぶん、これから彼らとは急激に離れていくのだろう、という直感があった。
 何もしたくなかったが、明日は来る。また学校には行かなければならない。

 

 翌日の放課後、街でリリと遭遇した。
 彼女はふらふらと横断歩道を歩いて、信号が点滅しているのに真ん中で立ち止まっていた。車の濁流はせき止められ、クラクションを一身に受けていたが意にも介していなかった。
 俺は慌てて駆け寄り、手を引いて車道を渡らせた。
「何やってるんだ! 死ぬぞ」
 俺はリリに怒鳴ったが、腕はだらんと垂れ下がったままで、無表情に俺をぼんやりと見つめている。明らかに様子がおかしかった。
「リリ……おい、リリ!」
 何度呼びかけてもリリは答えない。
 こんなの……まるで、ジャンキーみたいじゃないか。
 ジャンキー?
 ああ、そうか。
 リリはもう、この世の人じゃないのだ。

 

 彼女は常時『エヴェレット』を使って夢を見ているのだ。
 目の前にいるのは、自動的に生活するだけの抜け殻。
 リリは、ここではない人生を選ぶことにしたのだ。

 

 たかが四人のもめごとで世界は終わらない。日々は回っていく。
 ミドの容態は分からない。そもそもネズミとも疎遠になってしまった。
 今もリリの姿は電車で見かけるが、お互い話しかけない。単なる他人の女子高生に戻った。悲しくはなかった。それどころか何も感じなかった。
 自分の視界にまた薄い膜が張るようになったからだ。
 俺たちは、いや俺とリリという女子高生は今日も電車で乗り合わせ、すれ違う。
 彼女はたぶん今も『エヴェレット』を使っているのだろう。それも、四六時中飲んでいるに違いない。目からは生気が失われ、登校中に道を歩いているとき、足取りはふらついている。
 彼女の選択はある意味で利口だった。
 ミドもリリも、最初からどこかで分かっていたのだ。現実よりも、望んだ世界で暮らした方がよっぽど幸せなことに。俺のせいで一瞬だけ判断を誤ったけれど、最終的には二人とも幸せになれたのかもしれない。
 俺も思う。
 その方が、現実よりもよっぽどいい。

 

 ポケットの中に『エヴェレット』がある。真っ暗な部屋で、それを俺はテーブルの上にばらまく。思った以上にあって笑ってしまった。一日一錠なら、半年か一年は持つんじゃないか?
 俺もまた、ひとつの決断をすることにした。
 たぶん、俺はじきこの世界で死ねるだろう。今はそう思える。
 その前に、『エヴェレット』で願いを叶えて、やりたい放題してやろう。
 どうせ何をやったって死にたいままに決まっているけれど、でもせっかく魔法のような薬があるのだから勿体ない。どんな行為も――下手をすれば犯罪だって許されるのだ。
 何をしようか?

 

 リュウ
 並行世界で会いましょう。

 

 そうだ。まずは姉に会おう。
 部長の言うことはやっぱり正しかった。
 ――結局、俺には彼女しかいないのだ。

 

 まず食料品(袋を空ければ食べられる菓子類だ)をできるだけ買い込む。次に家の電話線を引っこ抜き、最後に扉にしっかりと鍵をかけた。
 準備完了だ。
 ガラス製のコップに水をなみなみと注ぐ。
 机の上の錠剤を見て、呑み込むのは大変かもしれないな、と一瞬だけ尻込みしたとき、カラオケでのことを思い出した。そうだ、こうやればいいんだったな。
『エヴェレット』をつまみ、ゆっくりと水に入れて、コップでかき混ぜる。たちまちコップの中は白く淀む。そう、これでいい。
 準備完了が終わっていく。あと一錠だ。
 まるで中上健次の『灰色のコカコーラ』みたいだな、と思った。ラストで薬物中毒の主人公が、錠剤をいろいろな人たちに捧げながら飲む。俺は何に捧げよう。
 決まっている。
 敬愛、崇拝、最愛の姉――山田ナオに。

 

16

 「あ、起きたのね」
 薄ぼんやりした視界、頭にかかった陰で目が覚めた。誰だ? と思う。でも喋ることができなかった。頭が痛かった。起き上がる力が湧かない。金縛りにあったようだった。
 ――そうだ、俺は『エヴェレット』を大量に飲んだのだ。それなら、ここは?
リュウ、明日は日曜だからって、そんなに寝てたらこれから眠れなくなるわよ」
 さっきから誰かが俺に呼び掛けている、
「晩御飯はもうできるから、食べなさい。一緒にね」
 そこでやっと思考が戻ってくる。
 この声。この後姿。間違えるはずがない。姉だ。
 なら――俺は『エヴェレット』で、姉の生きている世界に来たのか?
「よし、できた」という声とともに、声の主がテーブルに皿を置いて、俺に近寄ってくる。
「――姉さん?」
「……何? まだ寝ぼけてるの? そういう無意識の欲望だったら嫌ね」
 ようやく身体に力が入り、起き上がる。俺はソファーに寝転がっていたらしい。
 目の前の女性をまじまじと見つめる。
 記憶の中とまったく変わらない。頭からつま先まで、姉以外の何物でもない。雑にセットされた黒髪も、毎日着ている白いシャツも黒いスキニーも、俺より頭一つ高い背丈も。
「姉さん、姉さん、姉さん……」
 奇跡を前にすると、人間は言葉を失う。
「本当に、姉さんなんだよね?」
 でも、姉の反応は妙だった。
「ふざけてるんじゃないのよね」
「……は? どういうこと?」
 彼女は怪訝そうにしたが、勝手に何かを納得したように、呆れた表情が浮かんだ。
「ああ、そういう遊び。……言わせるのね。いいわよ。恥ずかしくなんかない」
 次に発された一言は、予想だにしないものだった。

 

「私はね――リュウの恋人の、ナオよ」

 

17

  恋人?
「ちょ、ちょっと待ってくれよ、姉さん」
「だから姉さんじゃないでしょ。本当に大丈夫?」
 俺はソファーから飛び上がる。何が起きているんだ?
 いや――落ち着け。ここは『エヴェレット』の世界なのだ。
「これから質問をするけど、どんなことでも真面目に答えてもらっていいかな」
 俺の真剣な目を察したのか、困惑しながらも「……答えられる限りは」と姉は応じる。
「姉さ……いや、あなたとと僕は、どこで知り合ったんだ」
「……私の父とあなたのママ、仕事でちょっと交流があったでしょう?」
「交流ってなんだ? 結婚したんじゃないのか?」
「はぁ? 本当に大丈夫? 両方とも既婚なのだけど」
 まさかと思ったが、すぐに頭を働かせた。
 この世界では、俺の母はもとの父と離婚しておらず、向こうも同じということか。
「じゃあ、なんでこの家で暮らしてるんだ」
「高校に進学したからに決まってるでしょう。家からは遠いから、私のとこに泊まりなさいって言って。それも、私と同じ学校に行きたいとごねるから」
 なるほど。思い出してみれば、元の世界でも姉と同じ高校を目指したのは同じだ。離婚前にもともと住んでいた家は当然遠いので、こういう風につじつまが合っているのか。
 それなら、確かに俺と彼女は姉弟ではなくなる。そして、あのいかがわしいビジネスの話も完全に存在しなくなっているのだろう。
「な、ナオさん」と俺は恥じらいを抑えながら呼ぶ。「じゃあ、恋人っていうのは――」
「いや、恋人は恋人でしょう。私たちの関係、そう呼ぶしかなくないかしら?」
「いやでも、その……」と俺がどもったところで、チャイムが鳴る。
 ナオさん――いや、面倒なので姉と呼ぼう――がドアを開けると「せんぱーい!」と叫んだ女の子が入ってくる。
 部長だった。
「あ、なんだ、こいつもいたんですね」
「人聞きが悪いじゃない」
「でもこいつはこいつじゃないですか。私はナオ先輩をこんなに愛してますのに……」
「好きな人間の恋人を愛せるようでない愛なんてたかがしれてると思うけれど。ま、いいわ」
「先輩ごめんなさい、私は先輩が年下趣味でクソガキに寝取られても先輩を嫌ったりしませんから!」
「なんであなたが来てるんですか?」と俺は部長に問う。
「はぁ? 敬愛する方の家にご飯食べに来ちゃダメなんですか? こんな嫉妬深いガキと付き合っちゃやっぱりだめですよ先輩、絶対束縛とかしてきます。そのうち五分ごとに現在地送れとか言ってきますって」
「まぁまぁ。ほら、さっさと食べるわよ」
 レンジで温めた餃子が皿に乗っている。昔と同じだ。姉さんはなぜか料理だけはからきしだったから。眩暈の中でテーブルについた。
「そういえば学校はどうなの、二人とも?」
 食事が始まるなり、姉はこれが団欒だと言わんばかりに俺たちに問いかける。
「先輩、反抗期の娘にとりあえず話しかけてみる父親みたいなこと言わないでください。いつも通りですよ。私もこいつも」
「私が卒業してからも、部活はうまくやってればいいけど」
「もちろんです。部員たちにはナオ先輩の偉大さを叩きこんでいますからね」
「そう、ならよかったわ。私は忙しいから、こうして話せる機会は貴重ね」
 何もよくないと思うが、それどころではない。
 これは俺が望んでいた場所なのだろうか? 無意識に願ったのが、こんな夢だったのだろうか? 自分で自分が分からなくなってきた。
 ――いや、違う。
 姉の遺言を思い出す。
『並行世界で会いましょう』という、言葉。
 俺は、何かの真実に気づこうとしている。
「ねぇ、姉さん」
「だから冗談はいいでしょう、私は姉でも妹でもママでもメイドでもないって何度言えば」
「先輩と交際しているだけでなく、姉属性まで求めてるんですか? 異常性欲です」
 二人の軽口を無視して、こう訊いた。
「『エヴェレット』って薬、知ってますか?」

 

「なんですか、それ?」と大仰にとぼけてみせる部長に「いや、もういいわ」と姉は笑って、それから白々しく拍手をした。「それでこそ私の弟よ。ま、もう違うけど」
「……姉さんが、すべての首謀者だったんだな」
「どこまで気づいてるの?」
「あんまり。でも、遺言の意味は少し分かった。……姉さんは、『エヴェレット』を使っていたんだろ」
「使っていた、どころじゃないけどね」と姉はさらりと言った。「もう種明かしするけど、あれを作ったのは私よ」
 その言葉には、驚きよりは納得を感じた。
「ってことは……現実世界で俺たちに薬を渡したのも、姉さんの仕業なんだな」
「間接的には。でも私は自殺しているから現実には行けないわ。さて、どうしたでしょう?」
 その答えはなんとなく察することができた。
 俺は犯人の方を向く。
「部長。あなただったんですね」
「正解。先輩が生前に隠していた薬をリリに流していたのは私。意外と頭いいんだねー」
 意外と、にアクセントを置いたのが原因か、床下で姉に足を踏まれたらしく部長は悶えた。
「そういうことよ。彼女は私の手先として活躍してもらったわ」
 だが、何もせずに姉が自殺したなら、今喋っている彼女がこの情報を知っているはずがない。ということは――
「……ひょっとして、姉さんは、『エヴェレット』を飲んだ状態で死んだのか?」
「一〇〇点。でもここまで来れば当然かしら」
「『エヴェレット』を飲んだまま死ぬと、どうなるんだ」
 それは、リリたちから訊いていなかったことだった。
「知らない? そのままよ。肉体が消滅して、意識だけが並行世界上をふわふわさまようの」
『ゴースト』って呼んでるけどね、と姉は付け足す。「でも、飛んでいる先でまた『エヴェレット』を飲めば、いつまでも存在できる。合わせ鏡みたいで目が回るわね」
「ちょっと待ってくれ。あれは幻覚を見せるクスリだろ? 現実の身体がなくなったら――」
「まだそんなことを言っているの?」と姉は少々呆れたらしい。
「並行世界は現実に存在する。そして、『エヴェレット』はそれを移動できる、世界を揺るがす究極の発明なのよ。火も武器も農耕も貨幣もコンピュータも、これには及ばない。私は人類史上に残る天才ということになるでしょうね。ま、どうでもいいけれど」
 豪語する姉は、あまりにもいつも通りだった。
「……なら、どうして俺の周りにそんな危険なものを撒いたんだ?」
「そこまで来て、それが分からないのね。面白いわ」
 姉は不敵に笑って、俺に言ってみせる。
「今のリュウの状態が、完全に狙い通りなのよ」
「今の、俺?」
 そうよ、と彼女は頷く。
リュウには私しかいないことを、思い知らせるために決まっているじゃない」
 ……部長が言っていたのと、同じこと。
「でも、リュウってば思い切りのよくないところがあるからね。だから、あえてリュウには与えてから、全部奪わせたのよ」
「じゃあ、ミドが自殺未遂したのも、リリが依存症になってしまったのも、すべて計算通りだったのか」
「だいたいはね」と部長が口を挟んだ。「驚いた展開もあったけれど、どうせすぐ破綻するのは目に見えた関係だったから、私たちは最初のドミノを倒してあげただけだよ。ね、先輩?」
 何も言えない。
 俺たちは全員、掌の上で転がされていたのだ。
「自発的にリュウが私を求めることが必要だったの。そうすれば私の側から勝手にシンクロして、こっちまで引っ張り上げてこれた。でも、もっといろいろな策があったのに、案外簡単に来てくれたみたいね。拍子抜けだけど、嬉しいわ」
「……姉さんは、変わらないね」
「ふふ、ありがとう。最高の誉め言葉だわ」
「私は大いに嫌でしたけどね。でも先輩が言うなら逆らわないよ」
 部長は未だに納得していない様子だったが、これで謎はほぼ解けたわけだ。
「で、これからどうするんだ」
「それはリュウに選んでもらうことになるでしょうね」
「俺に? 何をだよ」
「決まっているでしょう。この世界で私と生きるか、ということ」
 姉は俺に向き直る。……その目つきで、あの頃を思い出す。彼女は間違いなく本物だ。
「もし俺がこの世界を選んだら、どうなるんだ?」
「私と同じ『ゴースト』になってもらう。そして死ぬまでここで暮らしましょう」
 ということは、つまり――
「現実で、自殺しろとってことか」
「私を思うならそれくらいできるわよね?」と平然と姉は言う。「私のために命を捨てるくらい。それに実際に消滅するわけではないし、何も悩む必要はないはずよ。そもそも、リュウは死にたいんでしょう? それも聞かされてるわ。だったらすぐ答えは出るんじゃないかしら」
 言われて、思う。
 そうだ、俺は死にたかったんだ。
 そして死ねば姉に会うことができる。
 姉の言う通り、確かにこれ以上幸せなことなんてないんじゃないか?
 だって俺は死にたいし、姉のことが大好きだから。答えは、一つしかない。
 さほど迷うことなく答えは出た。俺は姉に向かって笑いかけ、決断する。
 俺は、姉さんと生き――

 

リュウくん』

 

 言葉は喉から出なかった。
「……どうしたの?」
「俺、は」
 苦しそうに黙る俺に、姉は幻滅したらしい。「この期に及んで、迷うのね」
 まぁいいわ、と彼女は挑発するようにせせら笑う。そして、俺の頬に手を伸ばす。
 指が、俺の肌を撫でる。愛でる。愛撫する。
「もう七月ね。夏休みが来るまで猶予をあげる。そこで答えを出しなさい。……まぁ、決まってると思うけれど」

 

 姉の目に魅入られて、俺は何も言うことができなかった。

 

18 

「おはよ」
 目を覚ますと、ベッドの中に姉がいた。寝間着も着ず、シャツに皺をつけている。
 一瞬で眠気が吹き飛んだ。
 昨日姉から話を聞いた後、いつ寝たのかは覚えていないが……なぜこんなことに?
 目を丸くする俺に、いつも通り姉は平然と言い放つ。
「何かおかしい? 恋人なんだからこれくらいしてもいいでしょう」
「いや……そうなのかもしれないけどさ」
 こういう行動を見るにつけ、この人は本物の正真正銘の姉だな、と確信する。
「こんなことで驚いていたら今日を乗り切れないわ。だって、これからデートするのだから」
 デート? これから姉と?
「言ったじゃない。あなたはまだ悩んでるようだから猶予をあげるって。ただし――私の側も当然アクションを起こす権利はある」
 そう、と姉は俺に人差し指を向ける。行儀が悪いと言われても絶対やめない、彼女の癖だ。
リュウにとって私がどれだけ魅力的か、ちゃんと再確認してもらうのよ」

 

 今日のメニューは、午前中はホールでクラシックのコンサート、午後は美術館の写真展、何か食べてからバーに行って終わり、ということらしい。姉は綿密に計画を立てるときとものすごく雑なときのある気まぐれな人間だが、今回は前者だったらしい。
「コンサートも展覧会も、人付き合いでチケットを貰ってたからちょうどいいかなと思ったの。文句はないでしょう?」
 はぁ、と言うほかない。

 

 一介の高校生をクラシックのコンサートに連れていく姉の滅茶苦茶なところはともかく、ホールは大きく、しっかりした演奏会なのだなぁと非常に適当な感想を抱く。
「……周りをきょろきょろ見て、どうしたの? そんなに怖がらなくていいのよ」
「いや、そうじゃなくて、みんなこっち見てるでしょ」
 開演前のロビー、明らかに俺たちは注目されていた。
「ああ――みんな私が気になっているのよ。ま、どうでもいいわ。気にしないで行きましょう」と姉は俺の手を引く。どうやら、この世界でも姉は有名人のようだ。

 

「まぁまぁね」
 コンサートが終わると、姉はまた傲慢に言った。
ドビュッシーは私が愛している唯一の作曲家なの。だから『海』が音楽的にまともな演奏で観れてよかったわ。それぐらい。リュウはどうだった?」
「姉さん、あのさ。演奏の間、ずっと俺の手握ってたよね」
 姉はええ、と頷く。
「何か問題でも?」
「……その、恥ずかしくて」
「そんなことを恥ずかしがるなら、人前で私を『姉さん』と呼ぶ異常性を考えなさい」
 そうだった。この世界で俺たちは姉弟ではないのだ。
 恥ずかしさに死にそうになりながらも、呼んでみる。
「な、ナ……」
「六十五点。かわいいのでギリギリ合格にしましょう」
 俺の姉は恥じらう俺に少し満足したらしい。

 

 美術館でも姉は姉だった。
 彼女は俺と平然と手を繋いだまま館内を歩いたので、展示された美しい田園風景の写真を楽しむ余裕などなかった。
 小声で呼びかけても離してくれない。どんどん顔に熱が集まるのを感じた。
 ……一周し、やっと姉が企画展のブースを出て手を離してくれたと思うと、今度はばったり会った知り合いらしい外国人の男性に勝手に俺を紹介し始めた。
 ボーイフレンドとかラヴァーとか、そういうこっぱずかしい単語が聞こえてくる。
 正直やめてくれと思ったが、嫌な気持ちではなかったのも……事実だ。
 だって、こうやって大手を振って一緒にいて、何も言われないなんて初めてだったから。
 だから彼女にせがまれて、ついに折れて言ってやった。
「アイラブユー」って。

 

「ここ、いいでしょ。連れてきたのは初めてだったかしら」
 俺たちは今、高層ビルの上階にあるバーにいる。
 上品なジャズが流れ、周囲には普段の生活では見かけないような気取った身なりの男女がいる中でも、姉は誰より適当な格好のはずなのにひときわ目立っていた。
 カウンターに座った姉は「積もる話もあるでしょうからね」と笑う。
「あの頃が懐かしいわね。……どう? 死人と話してみた感想は?」
「……分からないよ」と俺は返した。
「どうして姉さんが、その……死んでしまったのか」
「申し訳ないことをしたとは思うわ」と姉は注文したジントニックに口をつける。「でもね、あれが必然だったのよ。私はあの世界で生きることなどできなかった。リュウを守るだけで精いっぱいで、私は随分と疲れてしまったから」
「気づかなかった俺が悪いのは分かってる。でも、何か言ってくれてたら、そうしたら――」
「私たちの親みたいに、一緒に連れて行ってほしかった?」
「そんなことは言ってない」
「冗談よ」と姉は笑う。彼女の笑い方はいつもちっとも面白くなさそうに見える。
「……姉さんも、現実より『エヴェレット』の世界の方がいいと思ってるらしいね」
「正確には――現実など私たちが生み出したひとつの世界でしかない、というのが私の見解よ。今までの私たちは生まれつき一通りの世界しか認識できなかった。でも『エヴェレット』はそんな人類を進化させてくれるのよ。……言ったでしょう、幻覚や夢なんかじゃないって。どんな世界も存在するの。もし誰もがそれを知ったなら、誰も責任を負わなくて済む。倫理も罪も消える。すべてが許される素晴らしい世界よ。……ねぇ、最善説って知ってるかしら?」
「いや」と俺はコーラの入ったグラスを揺らす。死にたい俺の体温で、氷が溶ける。
ライプニッツという有名な哲学者が議論したのよ。現実世界は神様が作れる中でもっとも幸福な世界だ、という主張。神様はすべてを知ることができ、どんな世界でも生み出せる。神様は慈悲深い。だから、数ある可能性の中でもっとも優れた世界を作った、というわけ。……戦争も殺人も貧困も、それは最善だったのだ――どう思う?」
「よく知らないけど……それは詭弁じゃないのか?」
「でしょ? 実際に、ヴォルテールという人は反論に小説を書いてしまったぐらい。私もね、最初はこの考え方に憤った。でもね、あるとき気づいたの。……私たちひとりひとりが神様になって、それぞれが最善の世界に住めばいいんだ、ってね」
 なるほど、姉らしい主張だ。けれど、俺には疑問が浮かぶ。
「でも、もしそうならどうして現実の俺に拘るんだ? 『ゾンビ』って呼ばれてたけど、それぞれの世界にいる大切な人と暮らせばいいじゃないか。無理やり俺を持ってきたりしないで」
 矛盾じゃないのかと俺が訊くと、姉は平然と「そうよ」と返す。
「確かに私は思い通りのリュウと幸せに暮らすことができる。でもね、個々の世界にいる同じ人のうち、どのリュウを大事に思うかは私の勝手よ。その上で、私は――かつて同じ世界を生きたリュウ――つまり知っているあなただけと、新天地で生きていきたいの」
「だから、ここまでして呼び出してきた……ってことか」
 これまた姉らしい、無茶苦茶な暴論だ。でも、納得できる。
 数億人の中から恋人や友人を選ぶのはその人の価値判断だ。並行世界も同じなのかもしれない。
「こうして小難しいことを話していると昔を思い出すわね。……でもね、究極的には理屈なんてどうだっていいのよ。大事なのは、私と同じようにリュウが何に判断を置くのか――それだけ。ねぇ、リュウ――あなたは、私が好き?」
「ああ」
「私を愛してる?」
「……そう思っていい」
「相変わらずひねくれてるわね。じゃ、帰ったら素直になってもらおうかしら」
 姉の厭らしい目つきに、嫌な予感がした。

 

 ベッドの上、姉は俺を抱き締めている。強く、強く。
「これから何をするか、分かってる?」
 言葉と同時に腕が離される。身体を拘束された苦しさが抜けていく。でも、困るのはここからだった。
 シャツのボタンが外れていく。病的に白い肌が、空気にさらされる。
「今度こそ、受け入れてくれる?」
 俺は目を逸らす。昔のことを思い出してしまったからだ。

 

 今考えると、間違いなく姉は心を病んでいた。
 だから俺と暮らすと言い出した時、誰かが止めるべきだったんだと思う。でも彼女は親戚たちに強引に押し通した。その頃の姉は俺には想像できない方法で金を動かし、急激に資産を増やしていた。それは、両親の莫大な借金をたちどころに帳消しにしてしまうほどに。
 また、テレビやネットで急激に取り上げられるようになったのも、この頃だ。本人もそれを積極的に受け入れた。偉大な親の非業の死を乗り越えた、天才少女。そんなお膳立て。
 でも姉は変わらなかった。少なくとも表面上は。
リュウ。仕事、また遅くなってごめん」
 彼女は新しく契約したマンションに戻ってくる。俺は笑って迎え入れる。
「いや、いいんだよ。姉さん。お疲れ」
 そして俺たちはまた他愛もない話をする。番組の共演者への悪口とか、昔みたいな科学や哲学の話。あるいは俺が学校で何があったとか、記憶にも残らないこと。
 でもそれでよかった。俺たちに言葉はいらなかった。
 俺たちは変わらなかった。変わったのはお互いの距離。
 記憶には、続きがある。
リュウ、戻ったわ」

 

 記憶。シャワーを浴びた後の姉がやってくる。

 

「ほら、来なさい」

 

 記憶。彼女の手を握る。

 

リュウの手、あったかい。生きてる」

 

 記憶。姉が唇を近づけてくる。

 

「びっくりした?」

 

 記憶。――空白。

 

「じゃ、行きましょうか」

 

 記憶、記憶、記憶、記憶、記憶――

 

「あんなにくっついたのに、リュウは最後の一線は越えなかった。血は繋がってないのにね」
「――それは」
 実際のところ、あと一歩だったと思う。でも、俺にとって彼女はやはり家族だった。
「でもそれは分かる。出会いが悪かったのよ。私たちは家族として出会い、しかもそれによって不幸が降り注いだ。周りは私たちを疫病神か悪魔のように扱った。だから、私と結ばれることに躊躇いがあったのも当然じゃないかしら。でも……今は、分かるでしょう?」
 そうだ。もう姉は、姉ではない。
 世界は変わった。俺たちが俺たちでいることを、誰も責めない。
「手、伸ばして」
 あと一歩。
 俺は思う。姉――いや、この人からは、もう逃げられないのだと。
「これからは……二人だけの王国で、生きましょう」
 俺は彼女を求めている。彼女は俺を求めている。
 それ以上の答えはあるだろうか?
 ……たぶん、これでいいのだろう。俺たちに間違いなどないのだろう。
 だからもう考えるのをやめる。
 ゆっくりと、俺は姉の身体に手を伸ばして――

 

リュウくん』

 

 まただ。
 俺の手は、止まっていた。
「……リュウ
 姉は幻滅したように俺を睨んだ。
「やっぱりそうなのね。リュウはいつだってそう。意気地なし」
 姉は立ち上がって後ろを向き、着ているものを整え始める。
「いいわ。最後まで取っておきましょう。どうせあなたは負けるに決まっているんだから」
 勝手に納得したらしい姉が、不機嫌そうに部屋を出ていく。
 ……でも自分には、理由が分からなかった。
 俺はどうして、二度も姉を拒絶したのだろうか?

 

19

 目が覚めると、姉はいなくなっている。
 何もかも夢だったのではないかと思ったが、リビングには書置きがあった。

 

『作戦を変えます。リュウが限界になるまで出てきません。苦しみなさい』

 

 拗ねたらしい。
 さっそく痴話喧嘩かよ、と突っ込みたくなる。
 ……それにしても、やはり今も『エヴェレット』の効果は続いているのだろう。
 俺は現実の身体に意識を戻す。ソファに横たわる現実の俺がロボットのような動きで目を覚ます。凄まじい空腹感が襲ってきた。水を飲む。ポテトチップスの袋を開け、口の中に掻き入れる。現実感はない。姉のいる世界の方がよっぽどリアルだった。
 ひょっとして、俺が感じていた『膜』とやらの正体もこれだったりしないだろうか。脳内物質のようなもので、『エヴェレット』を使っていなくても、意識がほんの少しだけ並行世界に近づいていたのかもしれない。
 そんなどうでもいいことを考えながら、今度は身体を痛めないようベッドに向かい、またトリップする。

 

 月曜日の、この世界で初めての朝。
 学校に行かなければならない。
 なんでこんな異常事態なのに普通に生活してるんだと思うが、逃げようと思えば逃げられるのに、姉に付き合っているのは俺なのだ。文句は言えない。
 服用を中断して現実に戻ることはできる。それだけではない。『エヴェレット』には自分や世界を改変する力がある。だからやろうと思えば勝手に別の世界に行くことさえできただろう。でも試す気はなかったし、そんな俺を姉も計算済みのはずだ。またしても、掌の上。
 電車に揺られながら、窓の外を見る。
 眩しい朝日。現実と寸分違わない街。そこでは『ゾンビ』たちが何事もなく暮らしている。いや、リリたちが勝手にそう呼んだだけで、姉に言わせれば彼らも普通の人間なのだろう。だとしたら、現実なんて言葉、意味がないのかもしれない。
 俺は虚構と現実がテーマの創作物をいくつか思い出してみたが、ほとんどが現実に帰る話だった。
 もちろん例外はある。
 あるSF映画では、主人公は現実でも虚構でもいいから、家族がいる世界を選ぶ。
 あるアニメ映画では、虚構でヒロインと結ばれるより、現実でラブコメをすることを選ぶ。
 あるノーベル賞候補作家の小説は、自らが生み出した虚構世界に責任を取り、そこに残る。
 ……でも、姉が正しいなら『エヴェレット』が見せる世界はどれとも違う。虚構なんてない。すべてが現実だ。
 なら、好きな世界を選んで何が悪いのだろう?
 俺は姉が好きで、姉といたい。
 ならばなぜ、躊躇うのだろうか? ……分からない。

 

 窓から車内に目を移す。
 反対側の扉、窓の傍に女子高生がいる。
 制服で分かるが、彼女は同じ高校の生徒だった。我が校はリボンやネクタイの色が違うので、彼女が自分と同じ二年であることは一目見て分かる。
 彼女はどこか存在感が薄い。うまく言えないけれど、吹けば飛んでしまいそうな気がする。英単語帳を開いていたがまったく読んでおらず、うつろな目をしている。せせこましく肩を縮め、ここにいてすみませんと全身で主張しているようだ。とにかく生気が感じられない。明らかに健康な様子ではなかった。でも誰も気にしない。それもまた、当然。
 まだ客は少なくて、周囲には俺と彼女しかいない。もしかしたらこの世界で俺たちはいつも乗り合わせているのかもしれない。
 なぜだろうか。
 彼女の姿を見ていると、ひどく胸が締め付けられる思いがした。
 でも、ほぼ確実に彼女の名前を知ることはないだろう。電車で見知らぬ人と知り合うなんて、創作物の中でしかありえないことだ。
 俺たちは毎日、何十回何百回と、卒業するまで同じ空間で心を入れ違えるのだろう。
 だけど、あたりまえのことなのに、なんだかほんのすこし悲しいことのように思えてならない。

 

 だから声をかけたのかもしれない。
 衝動が抑えられなくなって、気がついたら「あのさ」と彼女を呼んでいた。
「俺のこと、知ってる?」
 最初、彼女は自分が呼びかけられているのに気づかなかったようだが、もう一度呼ぶと「……はい?」と怪訝そうに俺を見た。明らかに警戒されている。当然だ。電車の中で知らない人間が声をかけてきたら、俺だって不審人物だと思う。
「知りませんが」と彼女はまっとうに答えた。なるほど、と思う。
 自分でも驚いたことに、勝手に喉が動いていた。我ながら狂っていると思う。というか、考えるまでもなくこれって不審者じゃないか。
「怖がらないでほしいんだけど、俺はちょっとだけ知ってるんだ。誰だと思う?」
「さぁ」
「何の変哲もない少年だが、実は昨夜化け物に襲われて、謎の少女に助けられた」
「……はぁ?」
「かもしれない。それとも、本人は気づいていないが複数の女の子に好意を寄せられている、鈍感なラブコメ主人公」
 かもしれない。
「または制作が間に合わずちょっと作画が崩れている、一昔前のアニメのモブの高校生」
 かもしれない。
「でもやっぱり電車で毎朝乗り合わせるだけの、平凡な、お前の知らない男子高校生」
 かもしれない。そう俺は繰り返してみせた。
「……何なんですか?」
 困惑する彼女を見ていると、なんだか楽しくなってしまう。
「冗談冗談。……ほら、この制服を見てくれないか? 高校、同じなんだ」
「はぁ」と女子高生は空返事をする。そりゃそうだろう。だから何、って思うよな。
「それでさ。いつもここに乗ってるじゃん? 俺も同じ車両の、この場所に絶対に立ってるんだ。だから、ほぼ毎朝身近にいたんだよ。でも、気づかなかっただろ?」
「まぁ、そうですね」
 彼女は目を逸らす。明らかに話を打ち切りたがっている。でもやめない。
「でさ、どうせなら挨拶でもしてみようって思ってさ。あ、ナンパとかじゃない。ただ、なんで人間って孤独にならなきゃいけないんだって思っただけだ。その、これだけ多くの人たちが世の中にいるのに誰とも知り合わないなんてさ、あー、うん、まるでこの星は寂しさをエネルギーに回ってるみたいなもんじゃないか? ……ええと、だからそれに抵抗してみたんだ」
「意味が分かりませんけど」
「嫌だったらごめん。でも、勝手に挨拶だけさせてもらうから。――福宮高校二年のD組、山田リュウだ。あ、そっちは名乗らなくていいから。おはよう」
 彼女は「……おはようございます」と小さく礼をした。
「ごめんね。もういいから。これからは話しかけない。顔を見るのも嫌だったら、残念だけど電車をずらすし、だからその……あ! 着いた。じゃ」
 ……ついに恥ずかしさが限界に達し、逃げ時だと踏んだ瞬間にタイミングよくドアが開いた。早足でホームに出ようとして、服の裾を掴まれる。
 あれ? 誰だ?
「そこ、違う駅です」
 それは、話しかけた女子高生だった。

 

 なぜこんなことをしたのだろう。自分でも説明できない。
 でも、どうしても――そのまま見ては、いられなかった。
 彼女は『ゾンビ』だ。姉に言わせれば、他人だ。
 なのに。なんでだろう。
 どうしても無視できない。
 無視したら――ものすごく大事なものと、すれ違ってしまう気がする。

 

 まもなくなだれ込んできた客で彼女とはぐれてしまったが、次のエンカウントはあっけなくやってくる。
 昼休み、A組を通りかかると、電車で話しかけた女の子が教室の中に見えた。
 教室の隅、彼女が見ている先、机と椅子が逆さになって置かれている。
 女の子がカカシのように佇んでいるのを周囲は完全に無視している。まるでこの子は幽霊だとでも言わんばかりに。
 ――特に迷うことなく、俺はクラスの中に入っていた。
 クラスの視線が一気に集まる。
 渦中の少女に近づくと、俺は「それ、手伝うよ」と、クラスに響く大きな声で言った。
「……え?」
「元に戻すから、ちょっと離れて」
 怯えるように飛びのいた女の子と入れ替わるように前に出て、机と椅子の重力を元に戻す。
「はい、できた」
「あ、あの――」
「また会ったな」
 彼女は律義に、でも申し訳なさそうに「……はい」と言う。
 でも、これだけでは足りないと思った。
「あのさ、前言撤回で、やっぱりナンパするんだけど――これから時間ある?」
 これまた、クラスのみなさんが一歩引くのを感じる。
「……はい?」
「そのさ、飯でもどうだ?」
 俺はそう言って、彼女の手を取った。

 

 幸いなのか不幸なのか知らないが、化学準備室の鍵は開いているくせに誰もいない。いろいろな意味でいなくて安心したけれど、どの世界でもこんな管理状態なんだな。
 カーテンを開けると、青空が広がる。
 窓を開け放つと「ここから入れるから」と彼女を手招きする。
「え……いいんですか」
 その反応に、屋上のことを知らないんだなと面白く思った。深く考える余地もあるだろうが、俺はそれ以上考察はしなかった。
「この本棚の上に登って。跨ぐときに怪我しないように注意しろ。俺が先に行くから支える」
 彼女の反応を待たず、有無を言わさず先に窓を抜ける。
「ほら、こんな感じで」
 彼女は少しの間みじろぎしたが、ついに勇気を出したのか静かに頷いた。
 ……ゆっくりと、俺が身体を支えながら屋上に降り立つ。
「ここ、上がれるんですね」
「誰にも言わないでほしいけどね。ま、たぶん知ってる人はいると思うよ。今日は誰もいないようだけど」
 蒸し暑くなってきたな、と思う。そうだ、もう七月になるのだ。
 俺たちは給水塔の日陰に座りこみ、腹を満たす。俺は来る前に寄った購買で買ったパン。彼女はかわいらしい箱に入った、玉子焼きの入った弁当。
「……あの、ありがとうございました」
 食べ終わるなり、女の子は俺に礼を言った。
「割と、ああいう目に遭ってるんです。引かれるかもしれないですけど」
「もう大丈夫だと思う」と俺は楽観的に言った。「あいつらは全員が無視することで連帯しているから、外部の人間が現れてそれを崩したら何もできなくなる。クラスが違うから俺を除外することもできないし。少なくとも、たぶんもう嫌がらせはしない。はい、解決」
 スクールカーストブコメもびっくりの超簡単ないじめ解決法。学校にもよるだろうけれど、うちの卑小なガキの思いつく悪意なんて、その程度だ。
「……そんな」
「それでも不安なら、俺が朝と昼休みと帰り、ついててやろうか? いや、冗談だけど」
 俺が言うと、彼女は「それもいいかもしれませんね」と暗い笑みを浮かべた。相当に堪えていたのだろう。
「こんなことしてもらったのに、何も返せなくてごめんなさい」
「見返りなんていいよ。見てて気分が悪かったからやっただけだし」
「でも……」と彼女は何か納得いかなそうな顔をしている。
 俺は少し考えてから、「それなら」こう提案した。
「そっちって、A組だよね? 特進の」
「……ええ、そうですけど」
 何も恥ずかしがることはないと思うのだが、彼女はばつが悪そうに横を見る。
「じゃあさ、ものすごい勝手な話なんだけどさ。もうすぐ期末だろ? でさ――」
 俺は自分の厚顔さに驚いてしまった。
 もしかしたら、それもまた、誰かさんに教わったことかもしれない。

 

「勉強、教えてくれないか?」

 

20

  その日の放課後、迷ったけれど、長時間滞在して勉強し、かつ喋っていい場所が他に思いつかなかったので彼女を家に上げてしまうことにした。
 急すぎるので明日以降でいいと言ったものの、女の子が「時間がもったいないです。やるからには真剣にやらせてください」と譲らず、気圧されてしまった結果だった。
 姉には申し訳なくなったが、決して浮気ではない。……決して。
「……いいのかな」と緊張している彼女を促して、リビングに入っていく。部屋は整頓されているし、俺に見られて困るものは何もない。あったとしても姉が見ているだろうからプライバシーなんてないが。
「じゃ、始めるか」
 テレビの前のテーブルに、ノートや教科書、プリントを挟んだファイルなどを置いていく。
「確か、国語が分かんないんですよね」
「そう、特に現代文が一番苦手なんだ。ローラー式に暗記すればいい教科は楽なんだけど」
「分かりました。じゃあ、問題なければ過去の試験結果を見せてください」
 え? と面食らったが、彼女は何かおかしいことでも? と言わんばかりだ。
「どういうところでミスしやすいのかをまずチェックしましょう」
「ああ、そういうことね……」
 本格派だった。……そして惨憺たる俺の点数も、衆目に晒される。
 彼女は俺の答案たちを見て、一言。
「なかなか大変そうですね」
「……大丈夫かな」
「まぁいいでしょう。さっき暗記教科の話をしてましたけど、現代文もやり方が分かれば似たようなものですよ。誤解されがちだけど」
「そうなの?」
「物は試しです」と彼女は鞄から何かを取り出したと思うと、開いて顔にかける。
 眼鏡だった。
「――似合ってるな」
 口に出していたらしく「……始めましょう」と恥ずかしげに下を向かれてしまった。

 

 以前のテキストを使って、ゼロから問題を解く。
「……それから終わりから前に二段落戻って、また頭の一文に線を引きましょう。……どんな文章でも、『これ』とか『あの』みたいな代名詞が何を指しているのか把握すれば、どんなに難しくてもだいたい内容は分かります。漢字が分からないとかでなければですが」
「……すごい」と俺は驚いた。「小説をこんな風に読んだことなかった」
「文章の読みやすさや読みにくさは、そういう情報の整理も大きいですね。でも、究極的には大江健三郎小林秀雄も同じ日本語です。だから代名詞や修飾をはっきりさせることが大事で」
 そう言うと女の子はスマホを取り出した。
「方法はだいたい分かりましたか?」
「まぁ、なんとか」
「じゃ、試験範囲の模擬問題でタイムアタックしますね。時間計るので」
 まさかここまでされるとは思ってなかったんだが。
 ……時間を計り終え、採点して今日はお開きになる。
「これから毎回時間を記録するので、グラフにしておきます」
「いやそこまで……ってか、明日以降もやるのか?」
 女の子は「やらないんですか?」と純粋に訊いてきたので「……はい」と答えるしかない。

 

 翌日も、翌々日も勉強会は続いた。
 問題を解くスピードは次第に速くなった。文章自体を読むスピードも上がってきた。傍線部に突き当たるたびにつっかえていたのに、飛ばす問題のチョイスで効率は急激に上がった。
 真剣に取り組むようになると、時間はあっという間に過ぎる。
「じゃあ、また」
「ああ。屋上で」と俺は挨拶して、それから思っていたことを言った。
「その、もう敬語じゃなくていいぞ」
「あ」と女の子は今更気づいたという顔をした。「すみませんでした」
「何も悪いことしてないのに謝らなくていいだろ」
「あ、そっか……じゃあ、よろ、しく」
 なんか恥ずかしいな、と彼女は照れ隠しに笑う。
 初めて見るのに、懐かしい笑顔。

 

 屋上で今日はどうするかを話し合っていたときのことだった。
「これが今までの記録。時間だけでなくて、間違えた場所の問題も確認するから。答えだけじゃなく、どういうときに間違えやすいのか意識しておくと――あ」
 熱心に話していた女の子が、ふいに言葉を失う。
「どうしたんだ?」
「いや、ええと……」
 口を濁すので何かと思い、彼女の視線の先に目を向けると、ちょうど化学準備室の窓から誰かが出ているのが見えた。ここは死角になっているので、向こうは気づいていない。部長か? と思ったが二人いるので違うらしい。
「ああ、他にも来たんだな。空きっぱなしだから知ってる奴もいてな」
「いや、それはそうだけど、その」
 どうして彼女は取り乱すのだろうか。
「知ってる奴か? ああ、もしかしてクラスの奴らの一人だったりする」
 彼女はぶんぶんと首を振る。
「違う。ひとりは知ってる子で、ぜんぜん嫌じゃないんだけど、その……何を話したらいいか分からないというか」
「話したいと思ってるのか?」
「……否定はしないけど」
 面倒になってきたので、俺は立ち上がる。
「呼んでくる」
「えっ? ちょっ、ちょっと待って――」
 俺はすたすたと歩いていって、座る場所を探しているらしい二人に近づく。
 男女だ。
 片方の女子の顔は、伸びた前髪でよく見えない。もう夏といえるのに、シャツの上から長袖のジャージ姿、ズボンも履いている。失礼ながら非常にイモっぽい。というか暑くないのか?
 隣の男子は凡庸な外見だ。没個性もここまでくると個性にさえ思える。
 俺は「日陰があるよ」と話しかけた。
 二人は一瞬ぎょっとした顔を見せたが、男子の方が「……ああ、ありがとう」と答え、俺が歩き出すと二人もついてきた。
「ほら、ここ。もう一人いるけどいいよな」
「問題ないけど……あれ? どうした」
 平凡な男子が地味な女子の方に目を向ける。彼女はしまった、というような顔をしていた。
 目線の先には女の子。
「知り合いみたいだけど」
 女子は「そうですが……」と言葉の端の置き場に困り、仕方なく「そうですね」と結んだ。
「……どうも」
「……はい」
 二人は非常に小さな声で挨拶した。やはり、何か気まずそうだった。
 ああ、そういうことね。この世界で二人は、まだこんな関係なのか。
 でも大丈夫だ。
 保証するけど、お前らは仲良くなれるから。
「え、そうだったん?」とやたら馴れ馴れしく男子が女子に訊いたが、悲しいくらい似合っていなかった。

 

「まぁ、なんかその、いろいろあって」
 そう女の子は女子との関係を濁した。それ以上訊くつもりはなかったから別にいいが。
「……そっか。で、お前らはなんでここに来たんだ? ぼっち飯?」
「ちげーよ!」
 男子が突っ込んで「明日数学の小テストなんだ。科目的に俺の方が先だったから、傾向を教えようと思ってな。クラスに乗り込んだら変に思われるだろ?」と非常に論理的に説明した。
「交換で、ノートを見せてもらう」と女子が会話に割り込んだが、声量の調節を間違えたと思ったのか、「……私、字汚くて自分でも読めないから」とぼそぼそ喋る。
 なるほど、と思う。二人もまた、勉強で困ってるんだな。
 そこで、なんとなく面白いことを思いつく。
「三人とも、得意な科目と苦手な科目を教えてくれないか? 俺は理系。あと英語もできる。国語と社会科は無理」
 要するに姉の影響なんだけど。
「俺、ほぼ逆だわ。理系科目は全部無理だ! すげぇだろ」と男子はしょうもなく開き直る。「あ、こいつは社会科以外全然できないよ。補習三昧」
 勝手にプライバシーをバラされた女子が、男子の頬をつねる。「ひふぁいって!」
 そして、最後の一人。
「そっちはどう?」
 訊いた俺に、女の子は「苦手な教科、ないかな」と断言した。
 俺に現代文を教えたとき同様、その眼には自信がこもっている。
 かわいらしい。
 ……俺はあることを提案してみた。
「これからめちゃくちゃ馴れ馴れしいことを言うんだけどさ。もうすぐ期末だろ?」
「……そうだが」と男子が怪訝な顔をする。
「ならさ、ここで知り合ったのも縁ってことで、お互い助け合わないか?」
 つまりだな、と俺は一呼吸おいて、こう誘った。
「この四人で勉強会でもしないか?」

 

21

 「……お邪魔します」
 律儀に女子は挨拶したが、男子は「すげー、広い」と馴れ馴れしく部屋を寸評した。
 自宅――いや、姉の家に知らない人間を上げまくっている。
 知られたらまずい。非常にまずい。拗ねるどころではない。期限が来る前に殺される。
 でも、乗りかかった舟だ。
 テレビ前のテーブルに集まり、俺が女の子の隣、向かい側に男子と女子が座りこむ。
「じゃ、やるか。お互い苦手なところをカバーしよう」
 女の子はオールラウンダーだが、ひとりに比重をかけすぎると疲れるはずだ。だからローテーションでいこうと決めた。
 俺が女の子に国語を教わる。同時に、男子は女子に社会科以外のひとつを教える。
 一定時間が過ぎたら、時間割のように交代。今度は男子が俺に教わる。女の子は女子に教える。それぞれの科目は被らないようにしておく。
 ほとんどの科目が苦手な女子も、俺には社会科を教えられる。だから場合によって彼女を挟み調節すれば回るだろう。頭の切り替えさえできるようになれば、効率がいいはずだ。

「でだ、ここでまたthatが省略されているんだが、問題は関係詞なのか関係代名詞なのかということで――」

 

「理論上、選択問題は消去法を使うのが手っ取り早いよ。誤答に対して正解は一つしかないから、テキストと矛盾する部分に当たる可能性の方が高いから。分かる?」

 

「解の公式をはっきり言えるか確認してみろ」

 

「私たちの担当の先生は単語の穴埋めを出すことが多いけど……ひとつひとつ暗記すればいいって訳じゃなくて。……ものごとには原因と結果があるように、歴史っていうのは流れがあって、後で伏線のように効いてくるから。たとえば……その前のフランスの歴史をちゃんと理解していると、ナポレオン三世の話はすごく面白い。……マルクスっていう偉い人も『歴史は繰り返す』って言っていて、ただ『一度目は悲劇として、二度目は喜劇として』って――あ、話が逸れちゃった。……あれ? 何を話してたっけ」

 

 そんな風にして時間が経ち、そろそろ帰ろうという雰囲気になる。
「疲れたー」と男子が腕を伸ばす。「あんまりにもこいつがバカだから時間がかかって……いやごめんんさい、そんな睨まないで」
 やがて彼を苛めるのにも飽きたのか、はぁ、と女子は息を吐いて「これからもやる?」と女の子に訊く。
「嫌だった?」
「そんなことないよ」
 女の子は「……ならよかった」と頷いた。
「じゃ、解散かな」
「ああ、またこの時間に集まろう」
 俺は三人を見送って、部屋に戻った。

 

 人数が増えた勉強会は、次第に工夫が図られるようになった。
 買い出しに行ってお菓子を用意し、時間が空いたらちょっと雑談。
 今日やる範囲を決めておくと、終わった後にちょっと余裕ができるので、コンビニでトランプを買って息抜きに遊ぶ。みんな疲れているのでカオスになる。
 なんだか文化祭の準備期間みたいだな、と思う。いや、文化祭にしっかり参加した事なんてないので、フィクションのイメージなんだけれど。
 そんな間にも、期末は近づく。
 それは姉との期限も、同じだ。

 

 ……俺は何を望んでいるんだろう?
 何度目かに現実に戻り、食事と水分を補給しながら、真っ暗な天井を見て思う。
 部屋で最初に『エヴェレット』を飲んだとき、俺には姉しかいないと確信していた。それなのに、自分から人を集めてしまうなんて。
 それもこれも、たぶん彼女のせいだ。そいつがいると、調子が狂う。
 どうしてだろう?
 どうして彼女を見ると、放ってはおけないのだろう?
 ……そう考えたとき、何か、胸をつくものを感じた。
 でもそれは、歯がゆいところで言葉にならないのだ。

 

 金曜。来週頭から期末が始まる。最終日なので、それぞれの準備のために今日は勉強会を開かず、個別でまとめをすることにした。
 ……先生との野暮用で遅れてしまい、俺は少し急いで屋上に向かっていた。
 化学準備室に入ると、部長がいた。
「へぇ、なんか変なことしてたんだね」
 彼女は唇を歪めて、俺を嘲笑した。
「あんなに好きだったナオ先輩はどうしたの?」
「どいてください」
「キミの好意ってこの程度なのかな。あんなに大事にしてくれる人がいるのに」
「……どいてください」
「ねぇ、私が絶対に手に入らない場所にキミはいるんだよ。なのに、あの人の愛をキミは愚弄している。それが分からないの?」
 部長が知っているということは当然、俺の行いは姉に知られているのだろう。
「どうして……姉さんは姿を現さないんですか」
「キミへの罰だからだよ」
 部長はせせら笑う。
「どれだけ逃げても無駄。だって、ナオ先輩はキミの心の中にいるんだから。だからね、これから苦しむよ。幸せになればなるほど、誰かを好きになればなるほど痛みは増す。そして耐えきれなくなって壊れ、彼女のところに帰るしかなくなる」
 それが、最高の攻撃。
 姉はそう確信しているんだろう。
「ねぇ、真面目に考えてみなよ。あんな女の子のどこがいいのかな?」
「黙ってください」
「辛いときも苦しいときも、ナオ先輩はキミを支えてくれたんだよ?」
「黙ってください」
「あの人をキミが捨てたら、彼女はどうなるかな?」
 ……畜生。
「ナオ先輩を理解してあげられるのはキミしかいないんだよ? 私はそれが許せない。本当は私が傍にいたいのに。だからこうやって苦しめてやらないと気が済まないの」
「……あんたに何が分かるんですか」
「キミはお姉さんのこと、本当に好きなの?」
「――黙れよ」

 

 ついに、言葉が堰を切った。
「ナオ先輩ナオ先輩ナオ先輩、うるさいんですよ! あんたは姉の何なんですか。姉の何が分かってるんですか? 部外者のくせに、生意気に――」
「あは、あははは、ははははは!」
 部長は狂ったように笑った。
「そうそう、それだよ! そうでなくっちゃ! 妬いてるんだよね? 嫉妬したんだよね? ほら、やっぱり好きなんじゃん!」
「……それは」
「なのに、なのになのになのに! キミは大事なあの人を捨ててくだらないガキどもとつるんでるんだから笑えるよ。ああ、それともあの子はつまみ食いって感じなの? いいねいいね、元気だね、でもあの人は変なところでかわいそうなぐらい優しいから、案外許してくれるかもしれないよ? 愛してるキミが望むなら、愛人の一人や二人ぐらいは――いや、言い過ぎたかごめんごめん!」
 耳を塞ぎたかった。
 聞きたくなかった。
 でもそれは、今ここで俺が証明してしまったことなのだ。
「このくらいで終わると思わないでね。キミはもっともっと苦しまなきゃいけないんだから」


 ――それが、あの人の呪いなんだから。
 そう言って去っていく彼女を振り払うように、屋上に出ていく。

 

「あれ? 遅かったな」
 男子と女子が、俺を見て言った。
「あいつは?」
「移動教室だからって、先に帰っちゃったよ。がっかりしてた」
 女子が俺に教えてくれる。
「……そっか」
 俺は肩を落とした。安心すべきなのか、悲しむべきなのか分からない。
「なぁ、どうせ俺らしかいないんだから、俺らしかできない話をしようぜ」
 男子が俺を小突く。そんな気分ではなかったが「どういうやつ?」と訊いてみる。
「恋バナ」
 殴り飛ばしてやろうかと思った。
「いやいや、そんなに怖い顔すんなって! マジマジ。あのな、さっき『がっかり』って言ってただろ? あれ見て確信したんだけどな。驚くなよ――」
 彼の脳内ではドラムロールが流れているのだろう。
「――間違いなく、お前のこと気になってるよ」

 

 一瞬、こいつが何を言っているのか分からなかった。
「ねぇ、やめようよ。迷惑がってるよ」
 女子がたしなめても「いいのいいの。お前だってそう思うんだろ?」と強引に話が続けられる。
「まぁ、たぶん……」
「ほらな。いや、あんなに素直に態度が出るやつって珍しいよ。自分では気づいてないみたいなんだけどな。お前知らないだろうけど、勉強会の帰りに三人で話してるとさ、いっつもお前の話ばっかりするんだよ。無意識なんだろうけど。で、そういう時に限ってめっちゃ楽しそうでさ」
 言葉が出ない。
「……本当なのか?」
「あれがあの子の素なんだと思うよ。ちょっとずつだけど、心を開いてきたんじゃないかな」
 俺が? 心を開いた?
 ……信じられなかった。
 ただ、あんな風に縮こまっている彼女を、見ていられないだけだったのに。
「お前さ、鈍感すぎるんだよ。もうちょっと自意識過剰なくらいで行けや」
 男子はそう言って俺に笑う。
「だってさ。……俺とこいつはいろいろあったから、眩しいんだよ」
 彼は女子の方を見る。
「まぁ……恥ずかしい、けど」
「察してくれ。でも、今は仲いいし、バカやってるよ」
「もう納得、したから」
 俺は女子の方を見ていた。
「友達として、ね」
 彼女は、『友達』にアクセントを置いて、男子に向けて笑った。
「……うるさい。俺らのことはいいじゃん」
 珍しく、彼女が弄る側になったらしい。
「ええと、だから――」と言いかけた男子が「あ、やべ。漢字テストあったんだった!」と立ち上がる。
「先行ってるわ。また勉強会で!」
 そうして、屋上に俺たちは残された。

 

「ねぇ、さっき『納得』って言ったけど」と、彼女は俺に向けて言う。
「それはね、あいつのことだけじゃないんだよ」
「……どういう意味だ?」
「じゃ」

 

 謎めいた言葉を残して、彼女もまた、去っていった。

 

22

  期末のことはあまり思い出せない。上の空だったからだ。
『エヴェレット』のせいかもしれないし、ずっと考え事をしていたからかもしれない。
 でも手ごたえは悪くなかった。特に現代文は、選択でも記述でも、女の子が教えてくれたことが役に立った。感謝しなきゃな、と思う。
 一日目の帰り、グループに「終わったら打ち上げでもしない?」と男子のメッセージが来た。
 反対者はいなかったので、とりあえず打ち上げの実施は決まった。
 女の子は乗り気なようで、小さなホットプレートを用意するから何か作ろう、とまで言い出した。例によって、また俺の部屋ですることになるのだろうな――と思いながら話を進めていく。
 そんな矢先、個人のトークに男子から「ちょっと俺らだけで話がある」という旨の連絡があった。
 新しく作られたのは、俺と男子と女子だけの、三人のグループだ。そこで俺は通話に誘われた。説明もなく「とりあえず来い」と言われて。
 通話が始まるなり、挨拶も抜きに真っ先に彼は言った。
『実はこの打ち上げなんだけど、お前らのために用意したんだ』
「……はぁ? どういうことだ」
『いや、だから言ったじゃん。あいつはお前のこと好きだって。だから機会をセッティングしちゃったわけですよ』
 マジかよ、とため息が出る。
「待ってくれ。百歩譲って彼女が俺を好きだったとしよう。俺の方はどうなるんだ。どう考えても俺じゃなく向こうを仕掛け人にした方がよかったんじゃないか」
 その言葉に――男子はあっさりと言ってのけた。

 

「え? だってお前、あいつのこと好きじゃん」

 

「……どうして」
「あのな、あいつからもう惚気は散々聞いてるんだよ。いきなり電車で話しかけられて、クラスにずかずか入ってきて、勉強教えろって言い出して。明らかにおかしいだろ」
「いや、それは……見てられなかっただけなんだ」
 そうだ。
 あいつが暗い顔をしているのを、見たくない。
 それは気分が悪い。だから助けたのだ。
「いやだから、つまりそれって好きってことじゃないのか?」
 ……こいつ、何を言ってるんだ? 混乱してくる。
「いや、だから俺は自分の理由で助けただけで――」
「それはさ、誰に対してもそうするの?」
 今まで黙っていた女子が、口を開く。
「……そうだ」
「本当に?」
 その言葉には、なぜか静かな重みが感じられた。
「……確かに最初はそうかもしれないよ。でも、ちゃんと考えてほしい」
「おい、なんでそんなに――」
「だって、そういうものじゃない? ふとした時に、この人が好きだったんだなぁって気づくんだから。それこそ――何かに引っかかるみたいに。そういうことって、なかった?」
 引っかかる――
 ……そうだ。
 俺は、もう何度も引っかかっている。

 

 あれほど好きだった姉とまた暮らせるチャンスが来た瞬間。
 その姉と、もうすぐ結ばれるという瞬間。
 そして、あの女の子が、悲しそうに電車に揺られていたのを見た、瞬間。

 

 ――言葉にならない何かが、心に引っかかったのだ。
「恥ずかしいこと言うけど……それがたぶん、好きってことだよ」
 彼女の言葉に、俺は息を呑んでいた。
 こいつらは俺と姉のことを知らない。だからたぶんこれは偶然言われたことだ。
 それなのに。俺はこんなにもショックを受けている。
 黙ったままの俺に、男子は威勢よく「俺たちに任せろ!」と胡散臭く言ってみせた。画面の向こうのドヤ顔が頭に浮かぶ。
「じゃ、よろしくな」
 俺は「……ああ」とだけ言って、通話を切った。
「ああ」って。
 ついに、認めてしまったんじゃないか。

 

23 

 ――だから、呪いと向き合わなければいけないのかもしれない。

 

 期末が終わり、二学期最後の日。俺は緊張していた。
 ……姉が告げた、期限。それが今日だ。
 果たして彼女がどんな風に現れるのか、俺には分からない。
 俺は――壊れないで持ちこたえられるだろうか。
 事実として、もう答えは決まってしまった。気づいてしまった。
 それを言わなければいけないと思うと、苦しい。
 俺はどんな目に遭ってもいい。でも、部長が言ったように、姉が傷つくのはつらい。
 それでも、本当のことを言わなければいけない。
 口にしたら世界のすべてが壊れるような、本当のことを。

 

 最寄り駅の前で、俺は女の子を待っている。
 何の変哲もない一人の女の子を待っている。
『俺たちは遅れる』という白々しい連絡が届いて、先に二人だけで合流することになったのだ。もちろん嘘だ。この程度で大丈夫なのだろうか。
「……ひさしぶり」
 彼女は待ち合わせ場所に時間ちょうどに現れた。Tシャツ姿を見て、もう夏なんだなと思う。
「そんなにひさしぶりでもないけどな」
「そういえばそうだ」
 お互い、小さく笑いがこぼれた。
 やっぱりこの子には、笑顔が似合う。
 本当はずっと、気づいていたのだ。
「二人も後で来るだろうし、先に行くか」
「うん」
 こくり、と頷いたのを合図に、家に向かうことにする。
 だから、一歩を踏み出して――

 

 着信音が鳴り響いた。

 

 現実の俺が、ベッドから跳ね起きる。
 こっちの世界か! 
 無視するか? いや、うるさすぎる。せめて止めないと。
 迷いながら、苛立ちの中で音の出所を探す。けれどなかなか見つからない。
 でも、もう一つの世界で俺は女の子と歩いている。それを止めるわけにはいかない。
『エヴェレット』に習熟すれば、別の世界の身体を同時に両方操れる。それは知っている。でも俺は素人で、一人で練習したこともなかった。
 動かしている身体のどちらがどちらなのか、ちっとも分からない。気が狂いそうだ。
 足を滑らせて転び、何度もいろいろな場所に頭をぶつけながら、それでも、なんとかベッドの下にあったスマホを取ることができた。
 放置していたので電池残量は3パーセントになっている。とりあえず充電器に繋いだ。
 ――着信拒否しよう。そう思って画面を見る。
 ネズミからの電話だった。

 

 繋がった途端ネズミは「何やってんだよお前!」と怒鳴ってくる。
 何か言おうとしたが、向こうの世界で街を歩くのが精いっぱいだ。

 

 駅前、俺は立ち尽くしていた。
 冷や汗が止まらない。
「どうしたの?」
 明らかに異常な俺を、女の子は心配する。
「……いや、なんでもない」

 

 黙り続ける俺に業を煮やしたのか、ついにネズミが怒鳴った。
「今、病院にいるんだって! なんで電話に出ないんだよ!」
 病院だって?
 そこで、頭の中で何かが繋がった。

 

「ミドが目を覚ましたんだ!」

 

24

  電話を切ると、飛び出すようにすぐ俺は家を出た。
 教えられた病院の住所を検索したところ、電車を乗り継げばさほど遠くはないらしい。とにかく一刻も早く行かなければ。
 玄関先で転び、走って二度つまずく。電柱に頭をぶつけ、横断歩道を渡ろうとして信号を無視し、盛大にクラクションを鳴らされ、それでも駅へ向かう。
 身体のあちこちが痛かったが、なんとか最寄り駅までたどり着く。通行人たちは何事かと目を丸くしているが気にしない。改札を抜ける。

 

 とにかく家まで歩かなければいけない。
 彼女と心配させないよう、「大丈夫大丈夫! ちょっと緊張してるだけ。二人だけのデートみたいでさ」と軽口を叩く。手ごたえはまぁまぁだったが、とにかく移動しないと。
 街はもう夏で、照りつける日差しがじりじりと肌を焼く。でも俺には悪寒がする。口の中が乾く。だけど女の子に悟られてはいけない。落ち着け。冷静になれ。でも、どっちの世界に集中すればいいんだ? 片方に注意すると片方がおろそかになる。
「ねぇ、大丈夫? 具合悪いなら休む?」
「……大丈夫だから」
 強がってみせる。
 大丈夫なわけないのに。

 

 ホームではちょうど最速の電車が出発するところだった。閉まりかけるドアをギリギリで越え、なんとか乗り込む。息が切れる。身体中の血液が沸騰して泡立っている気分だ。

 

 自分の家だというのに道が全然思い出せない。必死に頭を回しながら歩く。
「……あの、家ってこっちじゃなかったっけ? 寄りたいところでもあるの?」
「あ……」
 女の子に指摘され、方角を間違えていたことに気づく。

 

 急行が乗換駅に着く。二番線のホームで通過列車の次の電車を待つ。
 頭の中で時を数える。四分。三分。――音が近づいてくる。

 

 なんとか身体の制御に慣れてきたが、会話ができるほどではない。二人を沈黙が包んでいる。これから告白するとは思えない有様だが、それどころじゃない。
 駅前の商店街を歩いていく。今日はなんだか人が多い。祭りか何かだろうか。住んでいるのに俺は何も知らないらしい。
 すれ違う人たち。いろいろな人がいる。でも目を惹くのはカップルだ。どうしてだろう。
 そう、いま目の前にも、男女が肩を並べて近づいてきている。
 その女性の方を見る。
 姉だった。
 ……姉は知らない男と歩いていた。

 

 鉄の塊が轟音とともに俺に近づいてくる。

 

 雑踏の中で俺は足を止めて、立ち尽くしていた。
 姉はその男と仲睦まじく手を繋ぎ、顎を男の肩に乗せ、笑顔で、すれ違っていった。
 見間違えるはずがない。確かに姉だった。
 あんなにも傍で生きてきた姉が、他の誰かと幸せに過ごしている。幸せな姉は、俺の傍にはいない。俺に気づくことさえない。それだけで俺は壊れた。
 思い出のすべてが牙を剥いて、俺を殺す。
 姉は俺を捨てたのだろうか。それともこれが、俺への最大の反撃なのだろうか。両方かもしれない。どちらでもないかもしれない。でも、何にしても、たったこれだけで、俺の心は折れた。ああ、認める。やっぱり姉さんには敵わないよ。
 何もかもが終わったときって、涙も出ないんだな。
 そっか。――これが部長の言った『呪い』なのか。

 

 気がつくと、足を一歩ずつホームの縁に近づけていた。
 ああ、結局俺はこうなんだな。
 電車が近づいてくる。
 やっぱり俺は、死にたいんだ――

 

 手を握られていた。

 

 ――目の前を、凄まじい風と音が過ぎ去っていった。

 

「落ち着いて」
 女の子は、俺の左手に右手の指を絡めた。そして、俺に寄り添って、言う。
「大丈夫だよ。ゆっくり深呼吸して」
 いち、に。いち、に。
 言われるがまま、彼女の言葉に合わせて俺は息を吸って、また吐く。
「どう? よくなった?」
「……なんとか。これなら歩ける」
「顔色もよくなったね。安心した」
 彼女は安堵したようで「じゃ、行こうか」と、俺の手を引く。
 手を、繋いだまま。

 

 まもなく、現実でも急激に身体をうまく動かせるようになった。
 次の電車に乗り、まもなく目的の駅に着いた。
 安全を期して、タクシーで病院に向かうことにする。

 

 ようやく自宅に着いて肩の荷が下りた――いや、全然下りていない。
 これから俺は、この女の子に言わなければいけないことがあるのだ。
「ミドたち、遅いね」
「電車が遅延してるらしいって言ってるよ」という、仕込まれた通りの大嘘をつく。
「そうなの? 調べてみよっかな」
「あ、いいから! 多分もう来るから」
「うーん。まぁ、いいけど……あのさ、さっきから様子がおかしいんだけど」
 女の子は、何かを不審に思っているらしい。先の件と合わせて、このままだと不安にさせてしまうだろう。――もう、言うしかないか。
「実はな」と俺は切り出す。「お前に話したかったことがあるんだ」
「え、なになに?」
 彼女は興味を持ったらしい。そうされると、逆に話しにくくなってしまう。どうしよう。
 言葉は、自然と出てきた。
「これから言うことは、全部頭のおかしい戯言だから信じないでくれ。実はな――」
 女の子は黙る。そりゃあ困惑するよな。でも続ける。
「――俺はこの世界の人間じゃないんだ。俺の世界には、いろんな世界を移動できるっていう変な薬があってな、それを使ってここに来たんだ。……それまで俺は、つらいことをずっと引きずって、死にたいと思っていた。でも、ある人が俺の前に突然現れて、その薬を教えてくれた。そいつは俺を別の世界で恋人にしてるっていう変で迷惑な奴だったけど、俺を新しい場所に連れ出してくれた。そこではいろいろあったけど、仲間もできたりして、いつしか死にたいとはあまり思わなくなっていた。でもな、その人はふさぎ込んで遠い世界に行ってしまった。だけど、寂しそうにしているお前を見ていたら……無視できなかった。気がついたら、そいつと同じことをお前にしていた。手を伸ばしていた。なんでだろうな」
 女の子は、こんな支離滅裂な話を、真剣に聞いている。
「もう話のオチ、分かるか? そいつはね、別の世界のお前だったんだよ。だから、今日はそれを感謝したかったんだ。俺にそれをまた気づかせてくれてありがとう、ってな。それ以上でも以下でもないよ。ただ言いたかったんだ。ありがとう。……頭おかしいだろ?」
「ふふっ、そうかもね」
 女の子はちょっと吹き出したが、馬鹿にしているわけではなさそうだ。

 

 そしてようやく現実で、俺は目的地に着いた。
 身体は痛く、服も乱れたり汚れていたが、それでもここまで来ることができたのだ。
 今、俺は漂白された匂いのする院内を歩いている。確か、この階にミドのいる病室がある。
 こんな大事な時に二つの世界を行き来して、本当に疲れた。二度とやるもんかと思う。

 

「……いつか、俺はこの世界から出て行かなきゃいけない。そうすると、どうなるんだろうな。ああ、薬に関連する記憶は消えるのか。なら、お前からすると俺が頭でも打って変なこと言ってたってだけになるかもしれないな。この世界の俺だって、別の世界の俺がやったこともぜんぶ自分が己の意思でしたって考えるのかな。それなら万事解決か。だから……この世界の俺と仲良くしてやってほしい。お前は、俺の気持ちを気づかせてくれたんだ。好きだ、っていう気持ちを」
 話しながら強く思う。
 すぐにこの気持ちを、言わないと。
 俺と同じ世界の彼女に、教えないといけない、って。
「……ごめん。意味分かんなかったよな。頭おかしいこと言ってすまん。忘れてくれ」
「そんなことないよ」
「驚かないのか?」

 

 ようやく、ミドのいる病室の扉を探し当てた。
 ……ほんの少しだけ、ためらう。でも、確かに把手を掴んだ。
 行こう。

 

「だって私、ずっと見てたもん。リュウくんのこと」
 リュウ、くん?
「……リリ?」
「分かった?」

 

 病室のドアが開く。
リュウくん、ありがとう」
 その先には、女の子――リリがいた。

 

25

  ぱちぱちぱちぱち。
 そんな俺たちに、拍手の音がふたつ。
「いやー、見事に引っかかったな」
「ほら、私の言ったとおりだったでしょ?」
 ネズミとミドだ。
 ミドはベッドに横になっていた。点滴を受けているようだったが、顔色は随分と元気そうで、精神的にも安定しているように見える。
 何事か、と思ったが、そこで種明かしがやってくる。

 

 玄関からチャイムが聞こえ、許可もなしに二人が入ってくる。
 男子と女子――いや、ネズミとミドだ。
「なぁリュウ、お前鈍すぎだって。ドッキリ大成功じゃん」
「……めんどくさいから病室の方で喋っていい?」とミドがだるそうに言う。
 この世界の奴らが、なんで病院のことを?
「私たち、みんなリュウといたんだよ。『エヴェレット』を使ってね」
「え……? でもミドは」
「私、もうとっくによくなってるよ」
「そうそう。で、三人で呼び出したんだ。演技、うまかっただろ?」
 って、ことは。
「全部、知られてたってことか……」
「そうそう。リュウくんが私を口説くところ、ごちそうになりましたー」
 きゃー、とリリはいつも通りのテンションを見せてから「いや、真面目なんだよ」と言う。
「私、感謝しなきゃいけないんだ。……ミドが自殺未遂をしてから、私、もうダメだって思ったんだ。やっぱり自分に居場所なんてないんだなって。それで『エヴェレット』を使っていろいろな場所に行ったけど、何も満たされなかった。そんなときに、リュウくんがどこかにいるのを感じて驚いたよね。言ったでしょ? 他に使っている人がいるのが分かるってさ。そしてら、いきなり口説かれちゃったっていう」
「俺たちも同じだよ。ミドが昏睡してるとき、『エヴェレット』を使っているんだなってことに気づいたんだ。それで俺も彼女を見つけに行って、いろいろあって、ミドは目覚めてくれた。で、俺たちも協力しようって思ったんだ」
「いろいろ、ね」とミドは笑った。「たとえばネズミが私にフラれたとか」
「フラれてねぇよ。俺はまだ諦めてねぇから」
「……キモ」とミドに評され、あっけなくネズミはうなだれる。「好きな人が生きてくれてるなら、いいけどさ」
 純情だね、とミドが言い、二人は目を合わせた。そこには言葉にできない信頼があった。
「ま、そんな感じ。私たちはもう納得したから。私は二人の恋路を応援するね。ねー、リリ」
「ミドちゃん目が笑ってないんですけど。静かな殺意を感じるんですけど。えーん、女って怖いよリュウくーん」
 驚きもようやく落ち着き、懐かしいこの雰囲気にやっと安堵が湧いてきた。
「アドバイス、助かったよ。ミドも……」何を言えばいいか、迷う。「いろいろと、ごめん」
「うーん。そこは、ありがとうで」
「でも、下手したら命が」
「いいの。私が気にしてないって言ってるんだから、それ以上考えないで。でしょ?」
「……そうだったな。ありがとう」
 ミドは満足げに頷く。その言葉で、お互いの何かが許されたような気がした。
 リリも一歩前に出て、みんなを見回す。
「ミド、私も言わなきゃ。ごめん。そして、ネズミもリュウくんも。ひどいことをした」
「いいさ。取り乱した俺も俺だ。水に流そう。俺もリュウを責めたんだ」
「気にすんなよ」
 俺が拳を差し出すと、ネズミも応じてくれた。
「私も、リリがめんどくさいのは慣れてるから」
 ふふ、とおかしげにするミドの気丈さに、リリはきっと何かを感じたのだろう。
「生きてて、よかった……」
 半身を起こしたままのミドに、リリは抱き着いて追いすがった。
 そんな彼女の頭を、ミドはゆっくりと撫でる。

 

 ひとしきり話が終わった後で、ネズミが総括するように一同に言う。
「ま、これでだいたいは解決したか。もう後腐れはなしにしよう。あとは二人のお時間なわけです。さ、野暮はしないから行った行った」
 そのまま俺とリリは病室から追い出される。
「頑張ってねー」というミドの声とともに、扉は閉まった。

 

 こちらの世界のマンションからも、ネズミたちは去ってしまった。
 俺たちはリビングに立っていた。
リュウくん。連れ出してくれて、ありがとう」
「何言ってるんだ。先に手を引いてくれたのはそっちだろ」
「あはは、そうだったか。でも本当だよ。私は、リュウくんに救われたんだ」
「救ったわけじゃないさ。自分が嫌な気持ちだったから、手を出したんだ」
「また、言ってる」とリリは口を尖らせる。「それって、好きだってことだよ」
「ああ。そうらしいな。でも――もうちょっとだけ、お預けにしていいか」
 チャイムが鳴る。
「あと一人、まだ決着をつけないといけない人がいるから」
 誰かは、分かっている。

 

「――リュウ。それと……名前なんだっけ。まぁいいわ。女」
 やってきた姉――山田ナオは、出会うなり俺に「分かってると思うけど」と言い放つ。
「ああ。期限だよな」
「そうよ。まぁ、訊くまでもない確認でしかないけれど。……そこの女、聞こえてる? 『エヴェレット』を使っているんでしょう?」
 リリは姉に「……初めまして」と挨拶した。「リュウくんのお姉さんですよね」
「姉だった。そして今は恋人。あと、私のリュウにふざけた呼び方をするな。それはともかく、こいつがいることは好都合ね? そうでしょう」
 姉の隣にいる部長は「ごめんね」と言った。「私たちが一緒にいるの、頭のいいリリちゃんならなんとなく分かるでしょ?」
「一応話は聞いています。部長、あなたが私に渡した『エヴェレット』は、お姉さんが作ったってことで正解でしょうか」
「そう。で、彼のために動いてもらったわけ。狙い通り、みんな不幸になってくれた」
「あなたたちは、彼を現実から引き剝がす最後の楔として、私たちを使ったんですね」
「そう。ねぇ女、すべてはリュウと私がこの世界で結ばれるために用意したことなの。これから私と生きることを決めてもらうわ。完璧な勝利には惨めな敗者が必要なのよ。そこで愛する人が奪われるのを見ているといいわ」
「……そうだとしても、負けたとは決まっていません」
「発言は認めないわ」
「彼が好きなのは私もです。決めてもらう立場なのに、あまりに傲慢じゃないですか?」
「黙れ」
 姉がリリを睨みつける。一瞬リリは震えたが、それでも逃げようとはしない。
 リリの目に、負けるつもりなどなかった。
「もういいんじゃないですか。早いとこ終わりにしましょう」
 部長がそう言うと、姉は「そうね」と応じた。「ねぇ、リュウ
「――ああ」
「答え、決まったわね。リュウ
 何も言わず、頷いた。
リュウくん」
 リリにも、俺は頷く。
「あなたは、どちらを選ぶの?」

 

 俺は、答える。

 

「姉さん、ごめん」
 腹の底、その一番深いところから、ゆっくりと絞り出すように言った。
「……え?」
 姉は固まった。目の前で起きていることが信じられない様子だった。
「姉さんと一緒にいることはできない」
「――どうして」
 もう、怯まない。そう決めた。だから、自分の思いを伝えるのだ。
「俺は、リリが好きだからだ」
 殴り飛ばされるか首を絞められるかと思ったが、姉は「ふーん」と言ったまま、一分ほどそこに立ったまま俺を見下ろしていた。
「私に言いたいことはそれだけ?」
「いや、それだけじゃない」
 バクバクと心臓が暴れている。でも、怯まない。俺の前にあの膜はない。

 

「こんなことを言っても何も感じないだろうけど、言わせてもらう。……姉さんは、俺をずっとずっと支えてくれた。感謝している。姉さんがいなかったら今の俺はいない。それに姉さんが苦しんでいたことも分かっている。今も俺は、何もできなかったことを悔やんでる。でも」

 

 俺は姉と――この人と、対峙している。

 

「だからって、俺を大事にしてくれた人たちを傷つけたりすることは見過ごせない。……俺はあの頃、姉さんのものだった。姉さんのものであることが幸せだった。でも、今は違う。それは誰のためにもならないからだ。俺はもう、姉さんに死ねと言われても死なないだろう。それは嫌いになったからじゃない。自分を自分と、他者を他者と認めて大事にできるようになったからだ。そしてそれは……リリたちのおかげだ。姉さんは……どうしてそれができないんだ」
 「……ふざけるな」と部長が言いかけたが、それを姉は手で制した。

 

「それは俺のせいでもあるよ。姉さんの周りが姉さんを否定したとき、俺は誤解していた。姉さんの傍にいさえすればいいんだって。そうすれば助けられるって。だから好意と不安が結びついていた。でも違った。ひとりでその役を引き受けるべきじゃなかった。……俺はそれを繰り返したくない。どんなに都合のいい世界に行っても、不安から発生する好意は絶対に破綻するからだ。そして――そういう不安からじゃなく、前向きに好きになれる人が、リリなんだ」
 それは、率直な思いだった。

 

「こんな手段を取ったのは許せないけど、姉さんは現実の俺を好きでいてくれたってことだよね。それは嬉しい。でもそうなら、現実で俺と生きてほしかった。だって好きなことがまだあったんじゃないか。たった一人でも好きな人がいるんじゃないか。だったら楽しいこともきっと見つかったよ。連れ出すことができなかった俺も悪いし、責任を感じてるけど」
「それはもういいわ」と姉が初めて口を挟んだ。「続けて」
「現実に絶望して夢を見たい人を、好きな世界で生きたい人を止めることはできない。でも姉さんはどこかで現実の俺を好きでいてくれた。なら、この世界を呪わないで……いや、呪ってもいい、それでもなんとか肯定するくらいはできたかもしれないじゃないか。だから……」
 結局、そこに行きつくのか。
「なんで、死んじゃったんだ」
 姉は、ひとつだけ聞いた。
「もう遅いと思う?」
 それに俺は答えた。
 彼女は「そうね。……そうかもしれない」と、ぽつりと言った。

 

 どれほどの時間が経っただろうか。カーテンの隙間からは、茜色の光がこぼれている。
「どうして私たちを止めなかったんですか?」とリリは姉に訊く。
「『ゴースト』のあなただって『エヴェレット』を使っている人間を識別することはできます。だから私たちを排除すようとすればできたはずです」
 推測を言っていいですか、と彼女は姉を見つめる。
「あなたは、心のどこかで負けるって分かっていたんじゃないですか」
 姉は、長い沈黙のあとで「……本当に、頭がいいのね」と言った。「頭がいいって認めたの、人生で二人目」
「姉さん……そうなのか?」
「『ゴースト』というのはね、消えていく運命なのよ。望む世界にどこでも行けて、どんな欲望も満たせる存在に、意思はいらない。意識はいらない。だから、どれほど私が各世界で『エヴェレット』を飲んでも、いつかは消えるわ」
「そんな!」と部長が叫んだ。「聞いてないです、そんなこと!」
「言わなかったのよ、あなたのためにもね。悪いことをしたわ」と姉は部長に手を伸ばし、頭を撫でた。「いつもそうやって、あなたは、せんぱいは……」という声は、途中から嗚咽で聞きとれなくなった。


「姉さん、本当に姉さんのままだね」
「そうよ。私は生きていようが死んでいようが、山田ナオだから。……だから、今のリュウを、一緒に生きていたリュウを、最後に見たかったのかもね」
 それに関しては満足できる結果ね、と姉はいつものように気丈に言った。
 でも。
「姉さん、泣いてるよ」
 その言葉に、驚いたように彼女は頬を拭った。
「――ああ、私、悲しいのね」
 姉が泣いてるところなんて、初めて見た。
 どんな目に遭っていても泣かなかった姉が、涙を流している。
「泣いていいよ。ほら」
 俺は姉を抱き締めて、頭を撫でた。
「――お疲れさま。今までよく頑張ったね。本当に、ありがとう」
 背が高い人だったから、ちょっと不格好だったけど。
 でも彼女は声を上げて叫んだりはしなかった。
 とても静かに泣いてから、今まで聞いた中でいちばん優しい声で言った。
リュウ、大好き」
「俺もだ。姉さん」
「姉さん、ね」と彼女は吹き出した。「結局、そこからは逃げられないみたいね。……リリさんだったっけ」と姉がリリに呼びかける。
「私の負けよ。罪は被るわ。リュウと――仲良くね」
 リリが頷いたのを満足そうに見届けてから、姉は赤い目を腫らして、眩しげにしながらカーテンを開けた。
「ふーん。失恋ってこんな感じなのね。望んだものが手に入らなかったの、人生初だわ」
 夕日が姉を包む。その姿は、まもなく消えてしまいそうな、そんな儚さを湛えていた。
 彼女は赤い目を瞬かせながら「でも、悔しいのも悪くないかもね」と笑った。
 それはすごく穏やかで、慈愛さえ感じさせる微笑みだった。
「私たち、初めて姉弟喧嘩しちゃったわね」
「でも、仲直りできた」
「してない。リュウのこと、ずっと呪ってやるわ」
「……分かった。いくらでも恨んでくれ。受け止めるよ」
 ――ナオ。
 どうしてだか分からないけれど――俺は、そう呼んでいた。
 彼女は一瞬虚を突かれた顔をしてから、やがて困ったように笑みを浮かべた。
「……なんだ。言えるじゃない」

 

 こうして俺は、呪いを引き受けた。

 

エピローグ

  朝の屋上は嫌いではない……のだが、こうも煙たいと嫌になってくる。
 俺たちは今、屋上で『エヴェレット』を燃やしている。
「ナオ先輩、ナオ先輩……」
 部長は死んだような眼で、一斗缶の中で燃え盛る炎の中に、段ボールに入った錠剤を薬包紙ごとくべていく。ときどき油を足そうとしているが、これ、火事にならないだろうか。そもそもこんなに煙を出したら学校の人間に気づかれると思うのだが、彼女はそれさえ考えられないのかもしれない。
 気持ちは分かる。
 曰く「ナオ先輩がいない世界で『エヴェレット』を使っても何の意味もない……」ということらしかった。『竹取物語』の最後みたいなこと言ってるな。
 姉と同様、この人にも俺たちに対して間接的にいろいろな罪があるだろう。でも、今の彼女は大切な人を失ったことに苦しんでいる。それは俺も同じだ。だから、これ以上責めることはしない。薬を焼くのも、部長にとって必要なことだ。俺はそれが彼女が自らに課した罰なのだと考えるようにしている。他の三人も、そういう考えに落ち着いた。
 それに、ネズミにもミドにも、そしてリリにも俺にも、たぶんもう『エヴェレット』は必要ない。
 とはいえ当人の二人は来ていない。あれ、なんでだろう。
 ……ひょっとして、まーた要らぬ気を回しやがったのか? 確かに、あの時は姉の乱入でなぁなぁになってしまったわけだけれど――まぁ、なんとかなるだろ。
「夏の屋上から、また一つ煙が……って、風流でもないか」
「何それ?」
「いや、火葬みたいだなってことが言いたかった。灰を見てたら、なんか」
 服が汚れないように風上に陣取って、リリと俺は話している。
 そういえば姉さんの葬式に俺は行かなかったな、と思った。おもに死体を見たくなかったという理由によるけれど。
 姉さん。おそらく、いや間違いなく、もう二度と会うことのない姉。
 もしかしたら、これは彼女への弔いなのかもしれない。
 それが、今も呪われ続ける俺にできる唯一のことなら。
 息を吸う。朝露が空気と一緒に肺に吸い込まれる。灰で煤けた喉が少し潤う。
「これで、よかったのかな」
 リリはぼんやりと、煙のたなびくまだ青い空を見つめている。
「よかったもなにも、丸く収まってるんだろ。ミドとネズミも落ち着いてるし、お前だって俺といるようになってからクラスでも困らなくなったんだろ」
「いやいやそういうことじゃなくてですね。私、なんと勝っちゃったんですよ。リュウくんに選ばれちゃった」
「そういう言われ方、恥ずかしいんだが。姉さんにか?」
「それもそうだけど……リュウくん、あれ忘れた? 『賭け』ってやつ」
「ああ、そんなのもあった」
「私の勝ちでいい?」
「そうなの?」
「だって、リュウくんはもう死にたくないでしょ」
「……あ」
 言われて気づく。確かに。
「やったー! 私の勝ち。じゃ、景品を貰っちゃうね」
「おい、何に使うんだ」
 こいつ、俺に何をやらせてくるか分かったもんじゃない。
「そうだねー、いっぱい思いつくけど、私はクーポンとかポイントってその場で使っちゃう派だから、もう頼んじゃっていい?」
「……何だよ。早く言え」
「もう、分かってるくせに」
 そうしてリリは俺に向き直り、言う。

 

「私と、これからも付き合ってください」

 

 これからも、だなんて。
 相も変わらず、こいつらしいじゃないか。

 

(了)

電撃大賞落選原稿『ロンググッドバイ』

 貰った一万語は
 ぜんぶ「さよなら」に使い果たしたい
 ――寺山修司『ロンググッドバイ』

 これはシンプルな物語だ。
 要約すれば――男の子と女の子が出会う、それだけの話。

 

 

1 - ガラスの墓標

 ちょうど数日間続いた吹雪が止み、登山鉄道の運休は終わったらしい。
 勾配のある斜面を列車はガタガタと登っていく。窓の外の木々に積もった雪が、衝撃でいくらか落ちる。それにつられて、文庫本の紙面から窓に目を移す。
 中腹で降りてから、いくらか歩かなければいけないと聞いた。だから文明の利器に頼れるのは、ここまでだ。もうじき降りるだろう。僕は本――福永武彦の『草の花』――を閉じた。
 そもそも会ったとして、何を話せばいいのだろうか。
 彼女本人の要望とはいえ、何がしたいのかがさっぱり分からない。……それではなぜ行くことに決めたのかと言われれば、困る。
 恥ずかしい話だが、僕はちょうど就職に失敗しつつあった。だから自暴自棄になっていたのかもしれない。
 断ることも無視することもできた。興味本位の好奇心が疼いたといえばそうなのだろう。でも自分でもよく分からない。考えてみれば僕の人生はいつだってそんな感じだった。
 僕のもとに手紙が届いたのは、ちょうどクリスマスの頃だったと思う。それは奇妙な手紙だった。差出人に覚えがなかったのだ。
 それはこんな文面だった。

『中島弘樹様
 突然の手紙すみません。私は永井朋佳というものです。
 単刀直入に用件をお話します。お会いしたいです。
 突然のことで、怪しい手紙だと思われるかもしれません。しかし、どうしてもお会いしたいのです。
 お待ちしております。
 永井朋佳』

 そして、そっけなく住所と電話番号が書かれ、手紙は終わっていた。
 ……意味不明だった。
 しかし、結局手紙を捨てることはできず、最終的に僕は彼女の居場所を調べてしまった。電話番号にかけてみたところ、彼女の姉と名乗る人間と話すことができた。『時感障害』でとある療養所に入院しているという。彼女は僕が名乗ると「入院前に朋佳から聞いています。今は連絡が取れないですが、お知り合いのようですし、入院先の住所をお教えしましょうか?」と頼んでもいないのに伝えてくれた。ますます分からない。
 結局僕は来てしまった。まぁいい。身の危険は特に感じなかったし、僕には特に財産もないし、騙しても何の意味もない。
 あと、筆記のあまりの弱弱しさにも、敵意の微塵も感じなかった。……これは後付け。
 ――そんなどうでもいい思考は、ぴしりとした鈍い頭痛で現実に引き戻される。
 もう列車は止まっていた。

 療養所は東北のある県の山間にある。だから、天気によっては冬場は行くのが結構大変だというのは知っていた。もっとも、行く人間なんてほぼいないということだが。列車の運転手も「見舞いですか? 珍しい。もうずっと見てないですね」と不思議そうだった。「私も行ったことはないんですよ。詳しくは知りませんが、なんでも、かなり……その、不思議なところらしくて」と、彼は語尾を濁した。「噂がありまして、ここの人たちもあまり近寄らんのですよ。まぁ、入不二のことはどこでも分からない話だと思いますが……気をつけてください」その口ぶりには、警戒心と不安が入り混じっているように感じられた。
 地面には雪が積もり、少しでも道を踏み外すと足が埋もれてしまう。でもただ道を歩けばいいというわけでもない。ところどころ凍結しているから、注意をしなければ滑る。階段では手すりに摑まればいいが、他ではそうもいかない。
 中腹には誰もおらず、売店は閉まっている。ベンチは雪でこんもりと覆われている。一体どうして、僕はこんなところに来たのだろうかと思う。後悔する。
 山はそれほど高くなし、このまま縦断すればすぐに谷の療養所につくだろう。
 そう思っていた。
 見通しが甘かったことは、すぐに分かった。

 突然、風と雪が強まってきた。気象情報は確認していたはずだけれど、また悪くなってきたのか。コートから隙間風と雪が入る。手袋をつけたが、それでも指がかじかんで上手く動かない。こんな軽装で来る場所ではなかったかもしれない。現在地を見失いそうになる。スマートフォンを取り出そうとして、雪の中に落としてしまった。慌てて探したが、見つかりそうもない。最悪だ。どうせ電波は通じないから関係ないかもしれないけれど、こんな状態で遭難したら笑いものにさえならない。
 周囲には人っ子一人いない。既に空は暗いが、もうじき日も落ちてしまう。闇の中に包まれてしまえば、万事休すか。
 もはや自分がどこに向かっているのかもわからなかったが、それでも足は動いた。
 脚に見えない糸でもくくり付けられて、引っ張られているみたいに。

 キイキイと揺れる電線の音で、僕は安堵した。
 まもなくその建物は、吹雪の中からのっそりと輪郭を現した。
 第一印象は、とにかく古めかしい、という感じ。一体何十年前の建物なのだろう。下手をしたら戦前なのか? とすら思う。レンガ造りで、思い出もないのになんともノスタルジーを喚起させる。しかし、レンガの一つひとつや石畳には傷がなく、まるで建てられた直後のようだった。人間が少しでも立ち入ればこうはならないはずだし、この気候なら間違いなくどこかしらに侵食が起きるだろうが、そんな形跡もない。それなら異常に手入れが整っているということか? だとすれば、病的なものさえ感じる。
 特に看板もないが、間違いなくここだという確信がある。意を決して、玄関に向かう。もう連絡は済ませてあるから怪しまれはしないだろうが、それでも緊張した。
 身体から雪を落とし、靴を脱ぎ、床に上がる。そこも鏡面のように磨かれていて、やはり傷がない。だから、少しだけ足を載せるのを躊躇ってしまうほどだった。靴下越しでも冷たい。すぐにスリッパを履いた。まずは受付に向かおう――そう思いながら歩く。
 ふと、この廊下がどこまで続いているのか気になって、向こうを振り向いた。
 少女がいた。

 少しサイズがぶかぶかの病衣に身を包んだ彼女は僕を見つめている。死人のように生気のない黒い髪と、陶器のように白い肌。その輪郭はあまりにもか細い。
 確証もなく、直感的に僕は悟った。この少女があの手紙の主だと。
 ――どうしてそう思うのだろう?
「あ――君は」と言いかけて、やめる。君は? 初対面なのに慣れ慣れしくはないだろうか。いや、そもそもこの状況で何を言えばいいのだろうか?
 でも少女の方は、驚いた様子は見せなかった。そのあまりの警戒心のなさに、拍子抜けしてしまい、こちらの肩の力も抜けた。「ええと、もしかして、永井さんで間違いないですか?」
 こくり、と頷く。
「ああ、よかったです。中島です」あれ、でもまた話に詰まってしまうんじゃないか? いや、要件すら分からないのに、何を言えって話だが。
 ゆっくりと少女が近づいてくる。何だ?
「――」
 彼女は僕を一瞥してから、何も言わずに彼女は後ろを向いて、帰り始めた。
「ちょ、ちょっと!」と呼び掛けても、何の反応もない。肩に手を掛けようとしたけれど、できなかった。触れたら、壊れそうだったから。
 そして呆然としているうち、彼女は角を曲がって、消えていった。

 けれど不思議なことに、僕はそれに嫌悪感を抱かなかった。
 どころか――あの、冷めているようにも夢を見ているようにもとれるまなざしが、僕にはなぜか、ひどく懐かしく思えた。

「ああ、中島さんですね」と受付の女性は言った。
 その声で、来る前に掛けた電話に応対した女性と同一人物であることが分かった。彼女はメイド服を着ていた。それも、まるで近代ヨーロッパの伝統的な感じの。残念ながら僕に知識はないが、それでも本格的な服装であることはなんとなく一目でわかった。
「連絡は既に来ています。朋……いえ、すみません、朋佳さんに呼ばれた方ですよね」
「……はい」
「分かりました。お話の通り、本日中に帰られるわけではないですよね?」
 彼女は僕に微笑みかける。もとよりこちらもそのつもりだった。場所を調べた時点で、もう日帰りは無理な場所だと理解していた。
「空いている部屋はたくさんあるので、ひと声かけてください。なんなりと」
 ……ここは宿泊施設か何かなのだろうか。
「入不二先生はまもなく戻られます。まずは先生にお会いしたらいいと思います。と……ええと、朋佳さんのこと、何も知らないんですよね」
「そうですね……正直、どうして呼ばれたかさえ、分からないです」
「なるほど」
 彼女はちょっと考え込んでから「まぁ、大丈夫でしょう」と能天気に構えた。
「とりあえず場所を変えましょう。ここで待つのは寒いと思いますからね」
 そうして彼女はドアを開け、僕の目の前までやってきた。背は低くちょこんとして小動物を思わせ、この気候と合わせるとなんだか今にも冬眠しそうな感じだった。
「ご案内しますね」
 彼女は先導するように歩みを進めようとして、ふいに僕の方を向き直る。
「あ、申し遅れました。いつものことですね。――青山、と呼んでください。ここで雑用をしています」
 呼び捨てでもいいですよ、と笑われ、反応に困る。「なんちゃって」
 ここの人たちは、みんなこんな感じなのだろうか。

 通されたのは、応接室だった。医療施設にそんな場所があることに改めて驚いたが、「ここはもともと役人さんの邸宅だったので、こんな感じなんですよ」と補足された。「もうずーっと前のことです。少々縁がありまして、私どもが管理しておりますが」
「すごく広いですね」
「はい。中にいる人数と比べると、もったいないくらいですね」
「……そんなに患者さんは少ないんですか?」
「ええ。現在入られている方は、中島さんしかいらっしゃいませんね。患者さんと呼べるのはそれだけです」
 あとは私と先生ともうひと方で、合計四人です――そう青山さんは必要もないのに指折り数えて示す。
「そんな少人数で回るんですか?」
「まぁ。みなさん手のかからない方ですから」
 青山さんは、それ以上は言及しなかった。
「何か飲み物を出しましょうか。紅茶か、コーヒーか」
「そこまでなさらなくても……」と遠慮すると、彼女はずいっ、っと身を乗り出して「こういうときは素直に頂いた方がスマートですよ」と屈託なく笑うから、頂戴することにした。こんなに丁寧に応接してもらう療養所というのは、やはり変なものだ。
 温かなコーヒーは、凍えた身に再びエンジンをかけるのにちょうどいい。カフェインの香りで目も覚めて、ここに来てから感じていた夢心地のような奇妙さは、少しばかり薄らいだ。カップを片付けると、青山さんは「まだ時間がありますし、少しばかり部屋の案内をしましょう。
 差し支えなければ、部屋に行きましょうか」と席を立った。「荷物、運びましょうか?」
 再び躊躇いかけた僕に、彼女は口元に人差し指を当て「スマートに」とだけ言って、笑った。

 階段を登っていく。金属製の手すりには流線型の彫刻が施され、肌触りはひんやりとしている。ここは二階建てで、上階に病室(と呼んでいいかは分からないが)がある。リュックを両手に抱えているにもかかわらず青山さんの動きには無駄がなく、スカートのすそを踏まないことにちょっとだけ感心して、いや、慣れているのなら当然なのか、と我に返った。
「泊まっていただくのは、そうですね……向こうがよろしいでしょう」と彼女は廊下の突き当りにある扉に目を向けた。「まずは、荷物を置きましょうか」と言いかけたそのとき――ちょうど右隣の扉が開いた。
「あら、さっそくですね」と青山さんは悪戯っぽく微笑む。
 扉の向こうから現れたのは、パジャマ姿の女性だった。年は二〇後半くらいだろうか。ボブカットの髪の毛には寝癖がつき、漫画みたいにあくびをしてから、ぱちくりと僕の方を見た。その異常なほどの警戒心のなさに、またしても僕はたじろいでしまう。
「紹介しましょう。野矢さんです。野矢さん、こちらが来客の方です」と青山さんが説明する。女性は僕たちの方を見て、一瞬目を見開いたが、まもなくすぐに眠たげな顔に戻り「紹介されました。野矢珠希です」と返した。声音はぼんやりとしている。まだ寝ぼけているのだろうか?
 困惑する僕をよそに「あー」と間を繋いでから、彼女は僕に近寄ってくる。そのまま首を伸ばして、顔と顔が近づく。助けを求めるように青山さんの方を向いたが、彼女は面白がるようにニコニコとしていた。
 口の中が渇いていく錯覚が湧く。――彼女は止まらない。止まらない。ぱちくりと瞬きする目が、近づいてくる。……まだ止まらない。そしていよいよ――
「なるほど、ね」
 さっと、耳元で囁かれた。
 ぞくぞくと体中が震えて、頭の上にくっついた糸を引っ張られたように、思わず飛び上がりそうになってしまった。それを二人は見逃すわけもなく、顔を合わせて笑う。
「あはは、……なんだか面白そうな人だなぁ」
「まったくです」
「……」返す言葉もない。

「私はここに入ったのは、いつだっけ……まぁそれはどうでもいいけど、とにかくここは長いよ。だから青山さんがいないときはなんでも訊いてほしいね」
 野矢さんはようやく少し目が覚めたようだが、それでも無防備なままだ。
 病室には古めかしいベッドがひとつと、そして机と椅子がある。個室……? と思ったが、そもそも三人しかいないのだから、部屋の多さを見れば当然のことなのかもしれない。
「世界全体を見ても時感障害――と私たちは呼ぶ――の罹患者は少ないからね。ここはすごくいい場所なんだよ……すごく」
 彼女はベッドに腰かけたまま、再び青山さんが用意したココアを口に運ぶ。彼女はてきぱきと僕の荷物を運んだり、また飲み物を淹れたりするから、またしても感心してしまった。「寝る前に、またお部屋にはご案内しましょう。仕事がありますので席を外しますね」と言って去っていくのを見てから「まったく、いつもそうやって気を回すんだね」と、野矢さんは親しげに呟いた。
「ええと、中島くん、だっけ。君もこの病気のことはよく知らないよね」
「ええ……」
「私たちも、少しだけしか知らないよ」と笑ってから、野矢さんは「でも、その話は飽きてるし、別のことを話そう。君は朋佳ちゃんに呼ばれて来たんだよね?」
「そうらしいです」
「面識もないのに?」
「それは……」と返答に窮したが、彼女にとっては冗談の類だったようで、また笑われてしまった。
「驚かないよ。そういうこともあるさ。人間、自分で説明できる理屈もなく行動してしまうことはある。君がここに来てしまっていることが何よりの証明だ」
 で、と彼女は続ける。「気になる? 朋佳ちゃんのこと」
「それは……」
「あ、変な意味じゃないよ? いや、そういう意味でもいいんだけど。とにかく――そりゃ当然のことだよね。見ず知らずの人間に呼ばれたんだから」
 そうだね、と野矢さんは一呼吸置く。
「いい子だよ」
「……」
「そして、面白い子でもある」
「面白い?」さっきも聞いた言葉だった。
「ああ。――ごめん。君と私だと単語の使い方が違うのかな。私は物ごとを面白いかどうかで判断することが多いんだ。もちろんその中にはいろいろな感情があるんだけど、つい口癖のようにそんな言葉を使いたくなってしまうのさ」
 ……よく分からないが、彼女なりの理屈なのだろう、ということで脳内で納得した。
「話してみるといいよ。最初はどうしたものか困ったけれど、見かけに反して……っていったら失礼かな? でも、本当に気さくな子だよ」
 そうなのだろうか? ……あの経験の後では、まったくそんな気がしないが。
 またしてもそんな内心を察されてしまったのだろうか。彼女は「気にしなくていいよ」と言った。
「え……? それは、どういう」
「気にしなくていいってこと。それだけ」
 そのまま口笛を吹かれた。
「まぁいいじゃないか。とにかく香苗が来るのを待とう。この調子だと今日はもうひとりは出てこないだろう。ここは寒いし、食堂にでも行くかい?」
 相変わらず謎めいた口ぶりだった。出てこない、という表現もまた興味をそそられた。けれど、根掘り葉掘り訊くほどの勇気は持ち合わせていなかった。
「それにしても、香苗はいつも遅い。時間の感覚がおかしいんだな」
 そう言って彼女は笑う。
「今のは冗談だよ」
 そう付け加えられても、どう笑えばいいのか分からなかった。

 どれくらい待っただろうか。
「まもなく先生が戻られます」と青山さんが知らせに来て、慌ただしく夕食の準備が始まった。
 夕食の準備も青山さんがしているようだった。冬ということもあってか、シチューを中心に、パンやサラダなどが用意されていた。これまた、病院食とはかけ離れている。
 僕たちが席に座っていると、バタバタと足音が聞こえてきた。「ああ、いよいよお出ましだな」と野矢さんが愉快そうに言った。
 ドアが少々乱暴に開く。
 現れたのは白衣の女性だった。髪を後ろにまとめてポニーテールにし、眼鏡をかけている。目つきは鋭く、少々刺々しい印象を与える。
「ただいま。夕食には間に合ってる?」
「ええ。あまり待ってはいませんよ」と隣の青山さんが伝える。手にはコートを持っている。先生が着ていたのだろう。「そうか。よかった」
「香苗、待ちくたびれたぞ、腹が減った」
「それほど待っていないといっているだろうが」
「私には長かった」
「……そうかい。さっさと食え」
 二人は軽口を叩き合う。
「先生。こちらが、本日いらっしゃった中島さんです」と青山さんが僕を紹介すると、先生は「ああ、聞いてるよ」とこちらを向き、「入不二香苗、ここで医者――あるいは、研究者をやっている。もとは脳科学を中心にやっていた。ここの所長といえばいいのかな。まぁ、そう畏まらないでいい。よろしく」
 そう言って僕に手を差し出す。少し緊張しながらも、握手を交わした。
「ここは《入不二療養所》という名前がついている。もっとも、看板なんて出していないがね。ここは私の家系が保有する土地だった。そこを使わせてもらっているのさ。この建物ごとね」
「無理やりに」と野矢さんが茶々を入れたが「うるさい」と先生は一蹴した。「まぁ、私たちの家は何かしらの研究職だから、名前ぐらいは聞いたことがあるかもしれないね。確か君の大学にも関係者はいるよ?」
 言われて――思い出す。そういえばちょっとした実験のバイトをしたことがあった。身体検査のようなものだった気がする。その人も親族なのだろうか?
「さて、彼は朋佳ちゃんに呼ばれたという話だが……肝心の彼女が来ていないな」
「呼びに行きましょうか」と青山さんが提案したが「まぁいい」と制止される。「じきに来るだろう。来なければ食事を運んでおいてくれ。彼とはいつでも会えるさ。あとは……とにかく、私たちで夕食は始めよう」
 およそ医者が患者を扱うとは思えない、ぶっきらぼうな対応だった。
「ともあれ、中島さん――いや、年下だから中島くん、か? どう呼べばいいか。とにかくお疲れ様だ。ここに来るのも一苦労だっただろう」
「それは……そうですね」
「そうだろう。さぁ、何から話したものかな」
「お前は医者だ。彼女の病気について話したらどうだ」と野矢さん。
「それもそうか。少々夕餉には向かない話題だが、聞き流してもらう程度で構わない。さぁ、食べ始めてくれ」
 まもなく、かちゃかちゃと食器がスプーンやフォークに当たり、音を立てはじめた。
「彼女は私と同じ研究者だ。もともとは物理系の学者だよ。だから適宜補足しろ。いいな」
「はいはい」と野矢さんは不承不承に頷く。「そもそも、《時感障害》っていう言葉自体、聞き覚えがないものだよね」
「ええ」
「それもそうだ。これは医学上認められた病気ではないからだ」と先生が野矢さんの後を継いだ。
「単刀直入に言おう。時感障害について分かっていることは非常に少ない。そもそもこの病名自体、正式に認められているわけではなく、便宜上のおおざっぱな呼称だ。一口に時感間障害と言っても、同じ症状の人間はまずいないといっていい。そもそも私にとって症例と呼べるケース自体が少ないから、大雑把に括ることしかできないのだが……とにかくこの病に確かなのは、一般的な人間の時間と、患者たちが生きている世界が違うということだ。まぁ、この程度でいい。彼女は、基本的には普通の人間と変わらないよ」
「……それなら、どこが病気なんですか?」
「それは難しい説明が必要だね」と野矢さんは言った。「とりあえず精神医学的な観点から説明したらどうだい?」
 ああ、と先生は頷く。「青山くん、説明をしてくれ」
 はい、と青山さんは頷いた。
神経症の一種である離人症を例に説明します――つまり、自己、自分の肉体、世界に対する現実感が消滅する神経症です」
 すらすらと話す彼女に驚くが「青山くんはもともと精神医学の専門家なんだよ」と先生が説明した。すかさず青山さんの方は「いえ。もとがメイドで学者も兼ねている、と言った方が正しいです」と訂正した。……拘りがあるのだろうか。
離人症では、身体は正常なのに、たとえば見えているはずの景色を景色だと感じられなかったりします。眼球は確かに見ているんですが、それに現実らしさを感じない、ということ。また、それを見ている自分自身さえ、見失ってしまう状態です」
「……白昼夢のような状態ですか?」
「夢や幻想ではないですが、自分の存在がふわふわしているというイメージは、それで構いませんね。こういった患者さんは、時として奇妙な時間の感覚を訴えることがあります。たとえば、『時間がばらばらになる』とか、『時と時の間がなくなった』とかですね。……分かりにくいと思いますが、つまるところ、時間そのものに対する現実感もまた、奇妙に消失したり、ねじ曲がってしまうと考えられますね」
 想像力を働かせて、なんとか話についていく。具体的には体感できないが、とにかく通常僕たちが感じる、過去から未来への時間の流れとは大きく違っているということか。
「パラパラ漫画が動いているように感じられない、みたいなことでしょうか」
「いい比喩です」と青山さんは頷く。「ひどい場合は、その一枚一枚が分断されていると考えましょうか。――離人症を例に挙げましたが、時間感覚の問題は様々な精神病理に現れます。統合失調症では未来志向、鬱病ならば過去志向の時間観が見られる、等々、さまざまですね」
「ということは、彼女もまた、そういった疾患なんでしょうか」
「いや、そこまで単純じゃないんだ」と先生が口を挟む。「私たちがそれぞれ違った分野の専門家であるように、一言でこの病を定義することはできない。最初に青山くんから説明したのは、それが一番人に説明するときに理解しやすいからだ。だが、それだけですべてを説明することはできない。それは申し訳ないんだが――」
「香苗」と野矢さんが遮る。「来たばっかりなのに、こんな講義紛いのことをするのはあまりよろしくないと思うね。ええと、中島くん。ちょっと混乱させすぎてしまったかな? 脳が疲れたかもしれない。今日はゆっくり寝るといい。そうすれば、少しは落ち着くと思うよ」
「そうだな。なに、家賃もとらない優良な仮住まいだとでも思えばいい。だいたい、生活には何か困っていることがあるのだろう?」
「……どうして分かったんですか?」
「分かるさ。そういう雰囲気が出てる」
 先生がそう言うと、彼女なりにおかしかったのか、野矢さんは笑い出した。「まったく、傑作だよ。香苗、君はホームズだな」
「こいつは、本当にやかましいな……」
 僕はそんな様子を、ただ見ていることしかできなかった。

「おやすみなさい。いい夢を」と言葉を残してストーブを消しに来た青山さんが去ってから、僕はベッドの隅に腰を下ろして考えた。
 今日ここを訪れてから、まだ状況がよく飲み込めないでいる。正直、この場所自体が大きな胡散臭さに包まれている。三人から話を聞いたが、あまりに抽象的すぎて一体彼女がどんな病なのかさっぱり理解できなかった。
 けれど……不思議なことに、僕はけっしてそれが嫌ではなかった。
 昔からそれなりに好奇心は強い方だったけれど、それでもやっぱり今の僕はどこかおかしかった。知らない人からの気でも狂ったような手紙を信じて、あっさりとこんな場所にやってきてしまったのだから。
 ……とはいえ、まだ僕は肝心な用事を済ませていない。
 永井朋佳。
 彼女と話すこと。僕を呼んだ動機を確かめること。もしやらなければならない仕事があるとしたら、それが残っている。
 この寒さの中でも、まだ布団の中に入る気はしなかった。窓の外は真っ暗で、電気ランプがともす光に照らされた雪が、ずっと降り続けている。その向こうには、深い闇。
 目を閉じる。
 これから、僕はいったいどうなるのだろうか。

 妙な痛みで目が覚めた。
 それは鋭い――それも、頭を深くえぐるような、そんな痛み。だが外傷ではない。ああ――頭痛なのか、そう理解した。
 視界は深い深い暗闇の中。いつのまにか眠ってしまっていたようだ。今は何時だろうか? それにしても……妙に息苦しい。何かに覆いかぶさられているような圧迫感。明らかに布団とは違うだろう。腰にも重い感触がある。だから身動きができない。
 そして気づく。こんなに暗いのは、僕の顔に影がかかっているからだということに。
 耳をそばだててみると、微かに何かの音が聞こえてくる。一定の周期で鳴るそれは、どうやら誰かの呼吸のようだ。
 ――やがて痛みが引いていくとともに、目が慣れてくる。少しずつクリアになっていき、目の前のぼんやりした暗がりから輪郭が浮かび上がり、実体をもって現れ始める。
 そう、そこにいたのは、確かに人間だった。
 僕の顔のちょうど真上に頭があるそれは、幻なんかではない、確かな存在感を主張していた。
 誰だ?
 それが人間であることに気づいた瞬間、本能的に危険を察知して動揺した。何のつもりだろうか。僕はどうなるのだろうか。しかし完全に横になったままだから、今すぐには抵抗できない。腕もすぐには上がらない。何か危害を加えるなら、僕がもがく前にことが終わってしまうかもしれない。――身の毛がよだつ。でも、声も出ない。息は声帯をひゅうひゅうとすり抜けていくばかりだ。
 夢であってくれ。そう願った。
 でも、それは夢じゃなかった。
 そして、その相手は、僕に危害を与えるつもりもなかった。
 僕に馬乗りになって、肘をついて僕に覆いかぶさっているその人の顔が近づく。
 僕はようやく、それが誰なのかを理解した。
 真っ暗な部屋で、どこかから入り込む微かな光に照らされた顔。
 その肌は、棺の中の亡骸を思い起こさせるほどに――ただただ、ひたすらに白かった。
 そして、彼女は口を開いて、言った。
「――ですね」
 ほとんど聞き取れないまま、僕の意識は沈んでゆく。おそらくは、彼女も僕が寝ていると思っているだろう。
 それでも、最後に彼女が何を口にしたかは、ほぼ分かった。
「会えて、嬉しいな」
 永井朋佳は確かに、僕にそう言ったのだ。

 

2 - 斜陽

 夢。それは目覚めた瞬間から急激に色あせていく。そして、やがて妄想と区別がつかなくなる。だから、それが本当に眠っている間に見たものなのかは、確かではない。
 僕は夢を見た。けれど、取り出せた言葉は、たった一語だけだった。
「――行かないで」
 それは誰かの言葉。誰かが僕に言った言葉。おぼろげな存在が、僕の目の前に現れる。目を凝らしてもなかなか焦点は合わない。
 でも、必死で目を凝らしているうちに、何かの像が浮かんでくる。それは重なり合いながら、形を変え、透明度を増し、やがて現れたのは――
 朋佳の、寝顔だった。

「ほう」
 朝食を知らせに来た青山さんの第一声は、そんな感嘆だった。
「まさかこんな短い間にここまで進展するとは」
「……いや」
 既にベッドから身を起こしている僕は、気まずい顔のまま、横で眠っている少女に目を移す。
 そこにいたのは、昨晩に僕の部屋に入り込んだまま眠っている、永井朋佳だった。
「安心してください、私は口が重い方です」
「違うんです」
「大丈夫です。後始末はしっかりしておくので」
「いや、本当にそういうんじゃないんですよ……」と必死に弁明したが、しかし本当のことを言えば言うほど嘘くさく聞こえてしまう。ドツボにはまってしまった。
「まぁ、とにかく彼女をどうにかしないと始まりませんね」
 青山さんが目を移した先で、少女はすやすやと、無防備に眠っている。
「このまま起きないこともあり得るので、私が一階まで運んでいきましょうか」
「……そんなことしていいんですか?」
「よくあることです」
 その口調から、こうしたことは一度や二度ではないのだろうことが察せられた。
「それじゃあ、持ち上げますね」
 青山さんは彼女を抱きかかえると、そのまま速やかに身体をおぶった。どんなに体重が軽くても人体はなかなかの重荷だろうが、ちょこんとした青山さんは、それでも顔色一つ変えなかった。
 それでも、少女はずっと眠っていて、目を開ける気配すらない。
「じゃあ行きますね。朝食の準備はできていますから、準備ができたらいらしてください」
 はぁ、と空返事のまま、そのまま去っていく二人を見送った。
 ……やっぱり、夜のことは夢ではなかったらしい。しかし、それならば。
 最初に出会った時といい、彼女は何がしたいのだろうか?

「お、来たね」
 食堂の扉を開けると、野矢さんが声を上げた。
「いやはや、君もこうみえて、なかなか色事には得手のようだね。意外だよ」
「だから……というか、どうして知っているんですか」
「この屋敷は狭い。隠し事なんてできないと思いたまえ」
 笑う彼女に思う。口の重さとはなんだったのだろう。思わず青山さんを探してみたが、この部屋にはいないようだ。
「ふざけていないで始めるぞ。スープが冷める」と先生が注意する。朝に弱いのか、夕食の時と比べると若干元気がない。
 席に座ることにした。……目の前には、永井朋佳がいる。彼女はまだ半分くらい眠っているようで、うとうとしたまま目もうつろで、僕の姿もちゃんと見えていないようだった。とはいえ着替えは済ませてあったので、きっと青山さんが世話をしたのだろう。……にしても、そんなことをしてもまだ起きないとは……よほど眠りが深いのか。なんなのか。
「安心しろ、朋佳ちゃんはすぐに目覚める。挨拶の準備をしておくんだな」
「緊張しているかい?」
 先生と野矢さん両者に言われ、たじろぐ。まさかこんな形で自己紹介をしなければいけないなんて。どうすればいいのだろう……? そんなことを考えているから、スープにもサラダにもゆで卵にも、何にも手が付けられない。
 端的に言って、僕は緊張していた。とはいえ逃げるわけにもいかない。覚悟を決めよう、と思った。
 やがて彼女が、いくらかしっかりと目を開ける。あくびを噛み殺したのがきっかけで、ついに覚醒状態になったようだ。
「……あ」
 見計らったように、僕は言った。
「初めまして。中島弘樹です。ええと――あなたに呼ばれて、来ました」
 なんだか変な言い方になった気がするが、他に表現のしようがない。
 彼女の反応はといえば。
「ひろき?」
「え……?」
「ひろき……ひろき……さん」と数秒間頭を押さえてから、ああ、そっか、と言った。
「……こんにちは」
「なんて、呼べばいいでしょうか」と訊くと「勝手にしてください」と言ってから「……どうでもいいか」と付け足した。
 冷たい声音だった。口ぶりも奇妙だ。言っている意味が上手くつかめない。
「昨日のことは何も知らないのかな? これはややこしい事態に……」と言いかけて、先生に睨まれたのか、野矢さんが黙る。
 そして、彼女は決定的な一言を口にした。
「どうして来たんですか?」
 ……は?
 思わず僕は言った。
「それは、君に呼ばれたからで……」
「それがどうしたっていうんですか?」
「いや、でも、手紙が……」
「……だから何ですか?」
 会話が噛み合っていない。
 この子、何を言っているんだ?
 反応に困って二人の方を見たが、先生はため息をつき、野矢さんは微笑んだまま、何もヒントをくれない。
 彼女の方は、「手紙……ああ、そうだっけ。そうだ。そうですね」と短く呟いてから、少しだけ表情を和らげた。
 そして、歯切れよく言った。
「帰っていいです」
 それから朝食の間、永井朋佳は一言も喋らなかった。

 食事が終わり、彼女が悠然と去っていく。
 唖然とした。
 ここに来てから驚くべきことは多かったが、これは……あんまりじゃないか? 自分にとっては、野矢さんの病気のことより、ずっとずっと理解しがたかった。
 なぜ、彼女はこんな態度を取る?
 確かに僕と永井朋佳はまったくの他人だろう。少なくとも僕にとってはそうだ。しかし、一方的に呼びつけたのは彼女の方じゃないか。なのに、どうしてこんなにも冷淡なのだろう? ますます彼女の言動の意味が分からない。これは、一体――
 そしてまた、僕がここに来た理由は、ほぼ失われてしまった。
「あーあ、攻略失敗だね」
 野矢さんは相変わらず軽口を言う。「ま、そこに突っ立ってても仕方ないよ」
 あまりにもショックだったのか、ずっと立ち尽くしていたらしい。思わず問いただしてしまう。
「これ、どういうことなんですか」
「さぁ。香苗は何だと思う?」
「……」
 彼女の質問に先生は黙ったままだ。
「こりゃ困ったね。ずいぶんと面白くなってきた」
「あの――」
「ねぇ、青年」
 野矢さんは肩に手を置く。
「ほらほら、あまり気落ちしない」
 それでも、気持ちは揺らいだままだ。
「帰った方がいいんでしょうか」
「まさか。この程度で諦めるようじゃ、ルートにさえ入れないよ」
「……どういう意味ですか」
「周回プレイで分かる真実もあるかもしれないってことさ。だから、根気強く話してみることだね。彼女は……ちょっと不器用だけど、それでも素敵な女の子だから、もったいないよ」
 私もできる限り助けてあげるからさ、と野矢さんは胸を張る。
「まだ、物語は始まったばかりだよ」

 野矢さんが言っていたことは多分半分も理解できていないが、それでも、食堂を出た頃には、帰るという気持ちはなくなってはいた。……変だな。自分でもそう思う。普通、こんな理不尽な目に遭ったら、怒って然るべきだろう。なのに。僕はそれでも、彼女を知りたいと思った。どうしてこんなことをするのか、確かめたいと思った。
 もしここで帰ってしまったとしたら、何かひどく重要なものを、失ってしまうのではないか――そんな、根拠のない予感があった。いや、そんなものは全部後付けなのかもしれない。単に今から帰るのが面倒だっただけかもしれない。あるいは、無意識で彼女に下心を持っていたのだ。などと無理やりに説明することもできる。
 ただ、そんな御託は無意味だ。
 どうせ乗り掛かった舟だ。
 帰らないと決めたのなら、次は何をするべきか。

 部屋に帰って、夜まで考えてみた。
 取れる行動は限られている。あの態度だ。彼女に付きまとったとしても、同じような反応が返ってくるだけではないだろうか。それなら、他の住人に協力を仰ぐべきだろう。
 屋敷にいるのは、彼女と僕を除くと三人……ということになるらしい。先生、野矢さん、青山さん。野矢さんとはさっき話した。先生は……さっきの様子を見るに、少しこの件からは引いているようだった。だとすると、まだ様子を見ていないのは。
「なるほど、難しいですね」
 青山さんは少し唸る。
「私が話せることは、あくまで私の視点からでしかないのですが……それでもいいでしょうか」
「ええ」
「そんなに彼女のことが気になるんですね。承知しました」
 ちょっとだけ冷かすような笑いに、思わず言い訳しそうになるが、観念して「……ええ。ある意味では」と答えた。案の定、「ある意味。ふふふ」と余計に面白がられてしまった。
「彼女がどういう病気なのかは、正直言って私の頭では完全に理解できていないので、先生にお聞きするのがいいと思います。ただ、彼女は気難しいですから、時期を待った方がいいかもしれません。時には訊いてもいないのに自分から滔々と話すような方なんです。となると……私は、朋佳さんがこの場所に入ってきた頃のことを話しましょうかね。もちろん、これは私の視点からの話です。ここの屋敷という狭い世界にずっといる私の主観ですから、それは注意してくださいね」
 それから、青山さんは注意深く周りを見渡して「場所を変えましょう」と言った。

「ここは私の部屋です」
 連れてこられたのは……屋根裏、とでも言うべきか。とはいえ本当に無骨ではなく、ちゃんと部屋としての体裁が整えられている。意外と寒くはない。暖炉の空気がどこかから来ているのかもしれない。床には畳が敷いてあり、それはなかなか場違いに目立っていたが……視線を察したのか「趣味ですよ」と青山さんは笑った。
「ここで生活しているんですか?」
「ええ。なかなか楽しい場所ですよ。ネズミも虫もこの屋敷にはいませんからね。ここなら、大声で怒鳴らない限りは誰にも聞こえないでしょう」
 誰にも、ともう一度強調して、彼女はウインクした。
「そうですね……朋佳さんは現在十八歳ですが、発症したのは十二歳の頃だそうです。先生と私はこのような病を研究していた学者です。……珠希さんもそうです。まぁ、彼女は入不二家と家に繋がりがあり、私たちよりずっと若いのですが――天才と言うべきでしょうか。先生は脳科学、珠希さんは物理学。私は精神医学。どれも彼女の病気を理解するのに必要な観点です」
「差し支えなければ訊きたいのですが、僕以外に彼女のもとを訪れた人はいないんでしょうか」
「……いませんね。なにぶんご本人のことですので、深くは知りませんが。……ふふ、ますます奇妙ですね。あなたが選ばれたなんて」
「あの様子を見ても、選ばれたとは思えませんけど」
「あら、そうでもないですよ? 彼女は無意味なことはしません。まぁしいて言うなら、ちょっとだけ意固地と言えばそうかも……って、聞かれていたら大目玉なので、黙っててくださいね」
 ちゃんと彼女なりの理由があるんですよ、と青山さんはフォローした。
「理由……?」
「ええ。朋佳さんは、たくさんのことを知っていますから。ただ、ちょっと秘密主義なので、中島さんは面食らってしまったかもしれませんね。でも、きっと大丈夫ですよ。そうだな……」
 こうしましょう、と青山さんは人差し指を立てた。
「私と二人なら、多少は彼女の態度も和らぐかもしれません。彼女の狙いが中島さんを帰らせることだとしたら、あなた一人が勝手に判断して帰ってしまうのが一番狙い通りなのかもしれません。中立の立場の人間がいれば、少しは引き下がらずを得なくなるかもしれませんね」
「ありがたいですが……そこまで協力してくださるんですか?」
「当然です」と彼女は断言した。「人の恋路は応援するのが、私の流儀です」
 ……やっぱり、どこか勘違いされたままだ。

 青山さんはまず「大雪で帰れない」と言うよう僕に提案した。まずは、現在やむなくここにいるしかないことを伝えれば、「帰りなさい」と言われ続けるのを封じることができるからだ。
 彼女は間違いなく昼食に来るから、そこで引き留める。僕一人では無視することもできるが、同じ住人が呼び止めるなら態度を変えるだろう、と青山さんは予測した。
「大丈夫なんでしょうか」と心配する僕をよそに「口実はちゃんと用意してありますよ」と青山さんは自信ありげだった。……どういうことだろう。
 果たして、昼。相変わらず時計がないのに、よく各自がぴったり揃うな、と驚く。先生に特におかしなところはない。野矢さんは……どうだろう。横目で見た瞬間、ふいに目が合ってしまう。動揺を悟られたのか、彼女はまた小さく口笛を吹いた。自分の演技の才のなさに呆れる。邪魔はしないだろうけど……幸先は微妙だ。主に青山さんに喋ってもらった方がいいだろう。僕が目配せをすると、彼女は小さく頷いた。
 食事が終わった帰りがけ、彼女が席を立つのを見計らって、青山さんが呼びかける。
「食後にお茶でもどうですか?」
 彼女はそれに「いいです」とそっけなく返す。しかし、青山さんは追撃する。
「お菓子を用意していますよ」
 その一言で、足が止まった。
「分かりました」
 ……こういうことなのか。

『お菓子』という言葉とは裏腹に、それはなかなか豪華だった。正式な名称が分からないが、ティータイムの風景のイメージでよく見かける、トレイが上下に二つついた籠状の食器の上に、綺麗にケーキやシュークリーム、ティラミス、果物などが置かれている。何の料理なのか説明できないものもある。洋菓子に対する語彙力は、残念ながら僕にはない。これ、青山さんが全部作ったのだろうか……?
 濾された紅茶が各自に回る。
「……」
 しかし、この少女の心中は複雑なようだ。
「青山さん、どうして彼がここにいるんですか?」
「言った通りですよ」と涼しい顔で青山さんは返す。「大雪で、このまま帰れば遭難です。先生が帰られてから、積雪はどんどん増えています。今は自動車もだめでしょう」
「だからといって……」
「来客の方に茶菓子を用意するのは、マナーですよ」
 その言葉で返答に窮したのか、じろりと視線が僕に向く。思わず身が引き締まる。しかしどうやらあっさり諦めたようで、黙ったままフォークを口に運び始めた。
 これで少なくとも、同じ空間にいることは成功した訳だ。
「BGMにレコードでもかけましょう」と青山さんが立ち上がって、棚に並んだスリーブから一つを取り出し、慣れた手つきでプレイヤーのターンテーブルに乗せる。……回り出す円盤に針を落とす。
 流れてきたのはアコースティックギターの音。アルペジオとともに、細い声質の歌が始まる。
「何のアルバムですか」
ニック・ドレイクの『ファイブ・リーヴス・レフト』ですよ。落ち着く曲がいいでしょう。リラックスした方が、歓談も盛り上がるのではないですか?」
「……私は患者だよ」と不貞腐れたように少女は言い返す。次の抵抗に出たようだ。「ここの主じゃないし、あなたは一応、看護師でもある」
「しかし、私にとってはお客さんです。お見舞いに来てくださったのですし、お二方がリラックスしてお話しできるようにするのは当然の務めです。それに――」と言葉を区切ってから「朋佳さんが呼ばれたのですよね?」
「……」無言の圧力が、青山さんにかかる。
「ですよね?」笑顔。
「……」さらに無言の圧力。
「そうですよね?」
 数秒間の緊張ののち――折れたのは、少女の方だった。
「……分かりました」と肩を落としてから、彼女は僕にぶっきらぼうに言う。「何でもいいから言ってください。話したいんでしょう?」
 ついに、話をすることができる。僕は心の中で快哉を叫んだ。……そして、その直後に思う。
 ……何を話せばいい?
「あ、その……」
「敬語は使わなくていいです」
 真っ先に出鼻をくじかれる。
 とどもりながら、必死に頭を働かせた。せっかくの機会、無駄にするわけにはいかない。そうだ、何かあるはず――あ。
「呼び方」
「え?」
 明らかに、彼女は不意を突かれていた。
「『なんでもいい』って言ってたから。少し考えたんだ」
「……」
「もしも嫌だったら変えるけど――朋佳さん、って呼んでいいかな」
 僕はそう提案した。
「僕のことを『弘樹さん』って呼んでたでしょ? じゃあ、僕も気軽に呼ぼうかな、って。呼び捨てだから、初対面にしてはちょっと失礼っぽいし、もし嫌ならちゃんと丁寧に――」
「……いや」
 僕のフォローを、彼女は遮った。
「『朋佳』でいいですよ」
「本当に?」
「それでいい。――いや、それがいい」
 そう口走ってから、彼女の目が泳ぐ。無意識に言葉が出たのだろうか。
 また数秒間の気まずい間があったが、「……そうして」と、もう一度言われた。それから、諦めたように少し笑った。
 笑った。
 見間違いじゃない。確かに薄く笑っていた。それはここに来てから初めて見た彼女の笑顔だった。そうしているだけで場が穏やかになる、今までが嘘のような笑みだった。
「いいよ。弘樹さん。帰るまでよろしく」
「うん、よろしく」
 まだ僕を帰すのには拘っているようだが、渋々ながら少しは関係を近づけることができたようだ。第一歩……だろうか? とはいえ、まだ僕を呼んだ理由は何も分かっていないに等しい。
 僕の不思議な衝動は消えていない。もっと彼女のことを知りたい。特に、あの笑顔を見た後ではそう思うのも当然だと、自分に言い聞かせた。
 そう。もし言葉で表すならば、それは綺麗で。可憐で。でもどこか懐かしくて。そして――
 少し寂しげな、微笑みだった。
 ……アルペジオは、まだ続いている。

 三人で応接間を出てから、部屋に戻っていく朋佳の後姿を尻目に、僕たちはこっそりと安堵の声を上げた。
「ちょっとびっくりしましたが……うまく行ったようで、何よりですね」
 青山さんはほっとしたようだった。一見冷静でも、内心はらはらしていたのかもしれない。
 はぁ、と二人して胸を撫で下ろした瞬間、ふいに朋佳が足を止めて「どうしたの?」と僕らの方を向いて訝しむ。
「なんでもありませんよ」と青山さんは微笑む。
 それに朋佳は「そう」とだけ言って、また歩き出した。

 階段で青山さんと別れて一人になったあと、二階に上がる。とりあえず夜まで部屋でゆっくりしよう――そう思い、廊下に足を向けたとき。
「朋佳ちゃんとは、打ち解けたようだな」
 左横から声をかけられて振り返ると、先生が壁にもたれかかったまま、こちらを見ていた。
「どうしてここにいらっしゃるんですか」
「問診に来たんだよ。一日いちど、彼女と珠希を診ているんだ。とはいっても大したものじゃない。……健康診断みたいなレベルさ。それで、終わってから書類を確認していたらちょうど君が来たわけだ。まさか、待ち構えているなんて思わないでくれよ」
 そんなことをするのは珠希だけだ、と先生は疲れたように言う。野矢さんはするんだな……。
「でも、それならどうして知っているんですか? 先生は僕たちとは違うところにいたと思うんですが」という僕の問いに、彼女は「この屋敷で隠し事はできないんだよ」と言うので、またか、と思ったところで「冗談だよ」と笑われる。「君、確かに面白いな。珠希が気に入るのも分かる」
「……そうですか」
「ま、種明かしをすると、朋佳ちゃんの様子を見てすぐ分かったのさ。……そうだな、意外とすぐそういう変化が顔や態度に出る子だからな」
 そうだろうか。そこまで激しく変わってはいなかったと思うけど。もしかしたら、かかりつけの医師にしか分からない機微もあるのかもしれない。
「まぁよかったよ。彼女にもいい影響になるだろう。それは確かだ」
 そこまで言ってから、ただ――と言葉を区切ってから、僕の方を見る。
「一つだけ忘れないでほしい。彼女がここに入所している患者だということを」
「それはそうです」と僕は答えた。しかし、そう言われると、少しばかり納得しきれないものもあった。迷ったが、僕は先生にそれを告げた。
「それならば、もう少し彼女の病気について教えてくださらないと困ります」
 その言葉に先生は、少しだけばつが悪そうに躊躇ったあと、観念したように答えた。
「そうだな――これ以上何も言わず隠し続けるのも不自然だ。……白状しよう。私たちはあの子から、自分の病気について詳しく君に伝えないでほしい、と口止めされている」
「口止め……って」
「そうだ。前もってあの子がそうしてほしいと言っているんだ。少なくとも『私がここにいる限りはそうしろ』と。だから、私から勝手なことはできない。他の二人も同じだ。もちろん、彼女自身が話したくなったとしたらそれは別だがな」
 ……だから、夕食の時に先生は黙っていたのだろうか。
 だが、そうならばなおさら困惑することも出てくる。
「それならなぜ僕を呼んだんですか? 見舞いということでまだ納得していたんですが、病気のことを隠したくて、帰れとまで言われて、まったく意味が分からないんですが」
「それも当人のことだとしか言いようがない。もちろん君がそれに付き合ってやる義務もない。我々は他人の言動をすべて理解できるわけではない。ただ、それを見て解釈したり、自分がどうするかを決めていくんだよ。……無論、君が彼女のことを知りたいというのなら、私たちもできる限りは応じる。だが、個人情報のことは本人の意思がすべてだろう。私に決定権はない。それとも、それをわざわざ破ってまで知らなければいけないほど緊急の理由があるのかい?」
「……それは」
「物見遊山だというなら、それは褒められたことではないな」
 そうだ。僕は部外者だ。理不尽に感じるのなら、これ以上関わらなくてもいいのは当たり前のことだ。それでもここにいたいのなら、彼女に従うしかない。
「それに」と先生は付け足す。「……誰かを知りたいと思うことは、それだけ自分を離れ、場合によってはないがしろにすることでもある。君にはそれでも足るほどの強さがあるかい?」
「どういうことですか」
「人に踏み込むということは、ある意味で弱さの証明になりかねない。私はそれが不安だ。いつか君にも分かるだろう。分からざるを得なくなるだろう」
「……」
「まぁあまりにも重々しくは考えなくていい。事情はよく知らないが、基本的には仲良くするのはいいこと……私はそう思う」
 医者として一応言っておいただけだ、と言うと、先生は去っていった。

 彼女の言葉はその後も心に引っかかり続けたが、しかし翌日、そんな思考を打ち切るようなイベントが起きた。
 今度の発起人は、野矢さんだった。
「ねぇ、ちょっといいかな?」
 目が覚めてようやく動く準備ができてきたところで、彼女は僕の部屋にやってきた。
「どうしたんですか」
「いや、どうもしていないね」
 例によって、当意即妙の返しだった。
「私の行動に大した理由なんてないよ。今も、ただすることがなかったからちょっかいをかけに来ただけだ。分かるだろう?」
「……そうですね」
 ここに来てから思っていたが、この人と話すのはちょっとばかり苦手かもしれない。なんでもお見通しのようでいて、思わせぶりに振る舞っているだけにも見える。そういう人と話すと、すごく不安になる。まるで自分が品定めや採点をされているような、そんな印象だ。
「まぁ、とはいえ」と言いながら彼女は一周ほど部屋の中を回ってから、「目的がまったくないというわけじゃない」と僕の方を向く。
「また朋佳ちゃんのことが、気になるんだろう?」
「それはそうです。僕を呼んだ理由が、まだ分かっていませんから」
「なるほど。確かにそうだ。でも、君にはどうやら探究心のようなものがあるみたいだね」
「……そうかもしれません。確かに、普通の人間なら、そもそもここには来ない」
「『普通の人間』なら、ねぇ」
 野矢さんは、相変わらず含みを持たせる。
「そう。普通ではないというのは本当だ。ある意味で、君は正気じゃない。伊達や酔狂の類というレベルじゃないね。中島くん。――君は、おかしいんだ」
 普通ではない。おかしい。異常。正気では、ない。さらりとそんなことを言われたら、普通は戸惑うか怒るかだろう。けれど、そのとき僕は、何も反応できなかった。
 虚を、突かれた。
「間違いなく、どこかがおかしいんだ」
 そう言った彼女の態度は、少しばかり先ほどより真面目な気がした。
「なんちゃって、ね」
「……」
「さて、君の部屋に来たのはこうやってからかうためじゃないよ。繰り返すけれど、君は朋佳ちゃんのことが気になっている。なぜなら、彼女が自分をなぜ呼んだのかを知りたいから」
 それだけ、ということにしておこう――と、彼女はいちいち付け加えて強調した。
「その第一歩のようなものは、どうやらできたようだね」
「ええ、そうみたいです。少なくとも、対話を拒絶するほどではなくなりました」
「それはいいことだ。好感度が上がったんだね。――おいおい、そんなに面倒くさそうな顔をするなよ。分かった分かった。ただ、これだけではまだ足りないというのは理解できるだろう? せっかくなら、この機を利用するべきだ。ルートに入れるくらいには、フラグを立てないとね」
「最後の意味は分かりませんが……それは、そうですね」
 この次にどうするか。それが問題だ。
「そう。そして私は、その次なるきっかけをこちらが準備するのはどうかな? という提案をしに来たのさ。前にも言っただろう? 協力する、と」
 野矢さんはいちいち芝居ががったように指を鳴らす。お手本のように綺麗な音だった。
 そう聞いて、真っ先に思ったのは。
「ありがたいですが――どうして、そこまで協力的なんですか?」
「人の恋路を応援するのは当然のこと――だろう?」
 悪戯っぽく笑う。この人は、本当にどこまで知っているのだろうか。いや、ただ単に、青山さんの口が軽いだけかもしれないが、そうではないと思いたい……。
「まぁ冗談はほどほどにして、私は君と朋佳ちゃんが仲良くなることに賛成なんだ。だってその方が面白いだろう? 首を突っ込みたくもなるものさ。……ともあれ、私が具体的にやることと言えば――」
 それから野矢さんは、自分のプランを話した。

 そもそも野矢さんと朋佳の関係性が想像できないので、一抹の不安がある。二人の性格は、今までの少ない手がかりを見ている限りでは、まるで正反対のように思えた。だから、そもそも二人が話している様子自体があまり想像できない。
 それとなく「仲はいいんですか」と訊いてみたが、彼女は「どうだと思う?」と言ったまま答えない。……どこまでも遊ばれている。本当に信頼してよかったのだろうか、と不安が増す。
「まぁ、見ているといいよ」
 彼女の余裕さは、青山さんとはまた違った種類に感じられた。

 野矢さんは「まず、君は少しだけドアを開けたまま見ていてくれ。私が右の爪先で床を叩くから、それまで廊下に出ず、声も立てないように」と言ってから彼女の部屋をノックして開け、「朋佳ちゃん、ちょっといいかな」と声をかけた。
 それに対する朋佳の反応は意外だった。
「なんでしょう?」
 その声は、今までに聞いたことがないほど明るくリラックスしているように感じた。少々呆れているような声音が、むしろ二人の信頼を裏付けるような、そんな印象だ。
「どうだい? ちょっと暇なら私と一戦交えないかい」
「何をやるんですか?」
「私は何でもいいよ。いいかい?」
「いつでも受けますよ」
 いたく自信ありげな反応が返ってきた。出てくるのか、と身構える。……果たして、そのままドアが開く。朋佳が歩き出し、さりげなく後ろの野矢さんは扉を閉めた。そして――爪先で、床を叩いた。
 唾を飲んでから、意を決して廊下に出る。演技がさほど上手くないのは分かっていたから、とにかく何も言わず、何も意識しないよう努めた。ただ頭の中を真っ白にしたまま、ノブを押してから足を数歩運ぶだけ。
「行きましょう。き……」と言いかけてまもなく、二人がこちらに気づく。
「……珠希、どういうことですか」
「お、奇遇だね」
 野矢さんは白々しく驚く。
「ねぇ中島くん。これから二人でアナログゲームを使用かと思っていたんだけど、何ならキミも参加するかい?」
 その無茶ぶりに、朋佳は大きく困惑した様子だった。「あの、珠希」
「なぁ朋佳ちゃん、面白そうだろう?」
「いや、私は……」
「いいじゃないか。家に帰らせたいなら、ボコボコにして打ちのめさせればいい」
「……」
 明らかに、野矢さんに押されている。青山さんの例といい、この子は意外と脆いのでは……? という、いらぬ危惧が湧く。いや、別の一面が見えてきたのは大事だけれど。
「中島くん。君はどうだい?」
「……はい。よろしくお願いします」
 どうなることやら。

「ここでは娯楽が少ないし、二人でゲームをすることが多いんだ。青山さんは忙しい時もあるし、あの人は気が回るから、人に合わせて腕を変えるんだよ。まるでCPUさ、まったく……」
 その気持ちは分からないでもないが。
「それじゃあ楽しくないだろう? 生憎私と朋佳ちゃんは手を抜けない性質でね。とにかく、もう何度も二人でぶつかっている。だから相手の手の内がもう知れてしまっているのさ」
 連れられた一階隅の遊戯室(そんなものがあるのか?)はそれなりに広く、中央にはビリヤードの台があった。誰が使うんだろうか?
 その近くに、正方形の机を囲んで、四つの椅子が並べられている。僕たちはそこに腰を下ろした。野矢さんはさりげなく、僕と朋佳が対面になるように誘導した。
「そうだな……まず三人でできるもの。かつ、中島くんは初心者だから、ルールのわかりやすいゲームがいいだろう。ブロックスはどうかな? 四角い盤面にピースを置いていくゲームさ。すぐわかると思うよ。朋佳ちゃんもいいだろう?」
「……ええ」
 僕が「よろしく」と言うと、朋佳は「せいぜい頑張ってね」とだけ呟いた。「あなたがどんな手を使うかは、全部知ってるけど」
 そんな、謎めいた言葉を残して。

 確かにブロックスはシンプルなゲームだ。オセロのようにマスで区切られた盤の上に、自分の色のピースを置いていく。
「まず、最初のピースは四隅のどれかに接触するように置かなければならない。その次の周からは、自分の色のピースと頂点で繋がるように置いていく。今回は三人なので、余った色は一周ごとに交代で担当しよう。その色の計算は無視する」
 手元を見ると、様々な形のピースがある。これらをルール通りに置いていく……ということか。「注意するけど、辺同士を接触させてはいけない。これが大原則だ」
「だったら、当然ですけど盤には三人全員のピースは全部置けないですよね」
「そう。だから置けなくなった人はゲームから抜ける。全員が置けなくなった瞬間にゲーム終了。それで、置けなかったピースのマスの数だけ減点です」と朋佳が口を挟んでから、慌てて黙る。
「朋佳ちゃんの言う通り。ただ、全てのピースを全部置けると一五点プラスなので、アドバンテージになる。もっとも、それを目指すゲームにはならないだろうがね」
「……どういうことですか?」
「やればわかる」

 このゲームは一筋縄ではいかない。妨害ができるのだ。頂点が繋がらないよう相手が僕のピースを遮断すると、すぐに危機に陥ってしまう。さらに、三周に一度空いている色のターンが回るので、余計にややこしくなる。ちっとも置かないままに、あれよあれよという間にゲームが終わった。
 朋佳は、すべてのピースを盤面に置き切った。
「やられた――と言いたいが、あまりに中島くんが下手にやりすぎたんだな。まったく、いくらなんでも、もう少し頑張ってほしいものだ。こういう相手とプレイしても楽しくないぞ」
「……」返す言葉もない。朋佳はさも当然のように「予想通り」と追い打ちをかけた。それでも手を一切抜かないのは、彼女なりの流儀なのだろう。
「どうだい? 帰る気になった?」と野矢さんに言われて「……もう一回やらせてください」と答える。
 少しばかり、本気になりたくなった。

 結局僕は最後まで負け倒しだったが、それでも最初よりはかなり減点を減らした。だからこそ、悔しさもあるのだが……。
「そういえば、先生はこういうのをやらないんですか?」と僕が訊くと、野矢さんは「分かるだろう? 昔からあいつはああいう性格だから」と頭を掻く。「それに、私とやると大喧嘩になりかねないからな。ここに来てからも、毎晩あいつは仕事をしているから、何度かこういうゲーム誘ってやったんだけど……私情を挟まないのは常識なのに」
 すかさず「珠希がお金を賭けるからじゃないですか」と朋佳が突っ込む。「こういう人だから」と僕に話しかける。応じながら思った。こんな風に僕に向けて人間として喋ることすら、大きな進歩じゃないか。ここに来てから二日にしては、意外とすぐ打ち解けられたのでは――
「帰る気になりました?」
 その一言で、現実に引き戻された。

 それでも僕は「いや」と言った。「次こそは、勝つよ」
 その言葉を聞いた朋佳は、「……そう」と、少しだけ俯いた。

3 - メルトダウン

 野矢さんの策謀の効果はてき面だった。
「おはよう」
「――」
 こくり、という頷き。
 次の朝から、朋佳は僕に挨拶を返してくれるようになった。これも些細なことではあるが、やっぱり嬉しいものは嬉しい。相手が自分を人間として扱ってくれることが、これほどかけがえのないものだとは思っていなかった。……無論、それは一人では達成できなかっただろう。あの二人には感謝するしかない。
 でも、だからといって焦ることはない。
 食事の場で、以前よりも自然にちょっとした話もできるようになったからだ。
 空いている時間は何をして過ごすのか訊いてみると「部屋ではいつも本を読んでます」と言った。「あと、……いや、いい。そんな感じです」
「そうなんだ。ここにはどれくらい本があるの?」
「少し学術書が多いけれど、書庫に行けば嫌と言うほどあります。見てくるといいですね。読む気も失せると思いますよ」
「それじゃ意味ないじゃん」と思わず言ってみたら、彼女は少しだけ口元を緩めた。なるほど、これはジョークだったのか。少しずつ分かってきたかもしれない。
「それなら」僕は勇気を出して、また大胆な提案をしてみた。「もしよかったら、ちょっと案内してくれたら……なんて」
 若干の間の後に「……分かりました」と承諾があった。

 三部屋分くらいをぶち抜いたそこは、学校の図書室よりいくらか大きい。だが天井も高く、そこのいっぱいまで本棚がそびえているので、確かに蔵書は数えられないくらいだ。いちばん上の段とか、どうやって取るんだろう。
 その疑問を察したのか、朋佳は部屋の隅にある台を指さした。それでも彼女の身長ではなかなか怪しいかもしれないが……と思っていたら、さっそく台を持ってきて、本を取ろうとした。でも少し危なっかしい感じだ。右腕をいっぱいまで伸ばしているが、いいところで背表紙をひっかいて、失敗する。
 何度目かのとき、身体の芯がふらふらしているのに気づいた。彼女の左脚が台の縁からはみ出そうになっている。落ちる!
「あ――」と彼女は抜けた声を出したが、間もなくバランスを崩して、後ろ向きに――
 そのまま僕は、彼女の身体を抱きかかえた。
「……なんで」と、本棚と僕の顔をきょろきょろ往復する視線。
「危なかったから、後ろで構えてたんだ」
 僕の腕の中に納まった彼女の身体は、ひどく軽くて、身構えていたぶん拍子抜けするほどだった。
「怪我はない?」
 彼女は「たぶん。大丈夫です」と言ったが、まもなく少し顔を歪めて、こめかみを抑えた。頭を打ったのかと心配したが、やはり「大丈夫」と繰り返した。
「少し、立ちくらみがしただけだから……」
「なら、よかった」
「その」と言いかけて視線が泳いでから、逃げられないのを悟ったかのように彼女は横目で小さく「ありがとうございます」と言った。
「……あの」
 その様子に見とれていた僕は「ごめん!」と慌てて身体を下ろした。
 僕から離れた朋佳はそこで一度何かを拾うように屈んで、素早くそれをしまう。何だったのだろう。
 それから僕に後ろを向いたまま、黙りこくっている。
「どの本か教えてくれたら、僕が取るから」
 そう声をかけたが、反応がない。
 訝しみながら顔の前までやってきたとき、我に返ったかのように、彼女は「――!」と、びくりと震えた。相手もまた、我を忘れていたようだ。
「あ……あんまり気にしないでいいよ」とフォローしてみるが「分かった」とだけ言うなり、彼女は他の棚の方に向かってしまった。途中で足を止めて、本の名前を告げてから、本棚の陰に消えていった。

 彼女に言われた本を取る。それはレイモンド・チャンドラーの『ロンググッドバイ』。
 これを彼女は読みたかったのだろうか?
 でも、帰りがけに僕がこの本を渡そうとすると――「いいです」と言って僕に返した。
「そっちが、持っていて構いません」
 ……もしかすると、僕に本を選んでくれたのではないか。そう気づくのに、しばらく時間がかかった。
 それから僕は暇を見つけてこの本を読み、時間を潰した。

 雪は止まず、いつ帰れるかの目途は一向に立たなかった。青山さんによると電話も繋がらず、僕たちは連絡手段も絶たれてしまっていた。ちなみに来た時から当たり前に察していたが、この建物にインターネットは最初から通っていない。
 数日間、僕たちは三人でゲームに興じながら、ほんの少しずつだが打ち解けた。まず、僕が野矢さんに抱いていた気まずい抵抗感のようなものが、かなり薄くなっていることに気づいたときは驚いた。
 彼女はすごく博識な人だったが、それは非常にバランスの悪いもので、科学――それも専門範囲に限られていて、社会常識と呼べるものがおよそ欠如していた。現在の消費税率や年号さえ把握していなかったのだ。
 彼女はすこしだけむっとしたように「うろ覚えだけどシャーロック・ホームズも確か言っていたよ。えーと、惑星の数がいくつだか知っていようが、私が生きる上では意味がない、と」と反論した。僕は野矢さんのそんな側面を見ることができて、なんとなく嬉しく感じた。それを悟られたのか、またしても野矢さんはむくれた。
 こういうやりとりができることが、なんだかもう微笑ましかった。

 先生はそんな僕たちの様子を黙って見ていた。それは温かくはなかったが、冷ややかでもなかった。

 朋佳もまた、言葉とは裏腹に、見違えるように明るくなっていった。表面上は取り繕っているつもりかもしれないが、声色や表情ですぐに察することができる。あるいは……それが分かるほどに。僕が彼女に慣れてしまったのかもしれない。……それでも、自身の病に関して一言も発さないのは、徹底していたが。
 距離感を縮めることがいいことなのかは分からない。彼女がある程度心を開くようになってから、逆に疑念が湧いてくるようになってしまったかもしれない。やはり自分は何かよくないことをしたのでは、という気がしてきた。その強引さは、決して褒められた感情ではないのかもしれない。
 だから、僕はそれに決着をつける機会を伺っていた。

 とはいえ、そのチャンスは、またしても予想もしない形でやってくることになる。

 その夜はここに来てから特に雪が強かった。療養所の建物全体が揺れ、風でがたがたと窓枠が音を立て、割れるのではないかと怖くなる。照明も激しくちかちかと点いたり消えたりを繰り返すので、消灯して真っ暗なままにしておくほかなかった。大丈夫なのかと思ったが、これもまたよくあることなのか、誰も起き出してはこなかった。まさか無理に起こすわけにもいかないだろう。
 これではできることも何もない。大人しく眠ることに努めよう、と、ベッドで身を縮めた。とはいえあまりにも寒い。普段は一階の暖炉の暖気があるが、もちろん火事の危険があるので四六時中燃やしているわけにもいかない。
 身体が芯まで冷えていく感触の中で、急激に温度が恋しくなる。それも人工的なものではなく、どこかで、血の通ったものを望んでいたのかもしれない。
 ホームシックというわけじゃない。住まいにも実家にも郷愁は感じない。むしろこの場所の方が落ち着いていると感じるときさえある。ただ、それでも、何かが足りない気がしていた。いや、それは足りないんじゃなくて、むしろ欠けているような――
 そこまで考えたところで、ようやく睡魔が訪れた。

「――」
 まどろみの中で、強風の隙間から、聞き取れないほどの微かな音が聞こえる。
 昔どこかで、様々な音の中で特定の人の声だけ――たとえば、自分の話をしている場合など――が聞きとれる、というカクテルパーティー効果の話を聞いたことがある。それが嘘なのか正しいのかは知らない。ただ、僕の耳に聞こえていたのは幻聴ではなかった。
「ねぇ」
 そして、今度ははっきりとその音が言葉の形を取った。
「起きてますか?」
 その声が誰のものなのかは、すぐに理解できた。目を擦ると、彼女が床にあおむけのまま、ベッドの側面に背中を預けているのが見えた。
「どうも」
「ええ」
 お互い呼びかけ合って、そのまま黙る。
 ……考えてみれば、今まで二人っきりで話したことは、まだなかったはずだ。だからこそ、こんなにも緊張するのだろうか。
「どうしてここに?」
「別に」
 また、そこで会話が終わってしまう。でも、こうしてわざわざ僕の部屋まで来たのだから、意味があるはずだ。青山さんが言っていたことが正しいならば、この子がすることには間違いなく意味がある。
 それなら、今がまたとない好機だろう。そう判断して、口を開いた。
「聞いていい?」
 無言を肯定とみなして、先に進む。
「君の手紙を読んで、僕はここに来たんだ。それも変な手紙だった。でも、僕は言われるがままに来てしまった。考えてみたんだけど、やっぱりこれって変なんだ。でも、僕は君のことにすごく……興味がある。それは好奇の目というわけじゃない。ただ……いや、自分でも何を言っているんだろう。まとまってないな。ただ、帰ってしまったら、すごく大事な……そう、何かの縁みたいな……そういった何かを失ってしまう気がしていたんだ」
「……」
「実はさ。小さい頃の僕、あと一歩で事故に遭うところだったらしいんだ。……何でこんな話するんだろ。家族旅行で乗る飛行機が墜落して、大勢の人が死んだ。僕もその中に入るところだったんだ。どうして乗らなかったかは分からない。僕が嫌だと言ったからだと、家族は言っている。でも記憶がないんだ」
 変な話だろ? と僕は笑ってみせる。
「人生っていうのは、ちょっとした判断の差でも取り返しがつかなくなる、という例だよ。だから今チャンスを逃したら、きっと一生後悔するかもしれない。それが僕の気持ちだ。身勝手でごめん。でも、その上でひとつだけ訊きたい」
「……どうして私がここに呼んだか、なぜ帰れと言っているか――そういうことですか?」
「いや」と否定した。「そういうことじゃない」
「え?」
「訊きたいのは、君がこれからどうしたいかだ」
 僕がこの場所にいることを許すのか。
 それとも、やはり僕を帰したいのか。
 どちらか、その意思を訊きたかった。
「先生に言われたんだ。誰かに過剰に興味を持つことは、自分の脆さを証明していることなんじゃないか、って。意味は……よく分からない。でも、それでも僕が朋佳を知りたいと思うのは、なぜなんだろうね。それでも、その行いがが君にとって大きな迷惑であるのなら――僕は」
「……」
「それに、今度こそ従うよ」

 ――どれくらい経っただろうか。
 ここには時計がないから、針の音で確かめることもできない。人間の時間感覚は曖昧だ。ほんの十数秒だった気もするし、数時間かかった気もする。
 彼女は慎重に考えているはずだ。
 あるいは言葉を選んでいるのか。
 あるいは迷っているのだろうか。
 あるいは、何も考えていないか。
 ……それでも、最終的には、口を開いた。
「言わなきゃいけないことがあります」
 弱弱しく、歯切れの悪い呟きだった。
 今まであらゆる謎が隠されてきたし、手がかりや証拠になるようなことも一切見つからず、ただ不可解だけがあった。だから、ここですべての核心が開かされることに、身構えられていなかった。
 それは、想像すら不可能だったからだ。
 だからこそ、固唾を飲んで見守るしかなかった。
 そして、僕は告げられる。
「私、たぶんだけど、今が最期の瞬間なんでしょうね。なんとなく分かる」
「え……」
「でも、もういいんですよ。どういう意味か分からなくても。幸せでした。最後に言います」
 そして微笑む。

「ありがとう」

 そして、まもなくすべてが壊れた。
「――――――っ、あああああああ!」
 朋佳は叫んだかと思うと、ばたりと力なく床に倒れ伏した。そのまま彼女はピクリとも動かない。死体のように、動かない。
 あたりは死んだように、静かになった。

 

4 - シャーロット

「朋佳‼」
 揺すって呼びかけても応答はない。とはいえ、彼女を放置したまま助けを呼ぶのも躊躇われる。どうするか必死で頭を回転させると、先生は夜でも仕事をしている――という野矢さんの話を思い出した。
 僕は彼女を両手で抱き上げると、そのまま一階まで運んでいった。

 先生の態度は非常に冷静だった。
 急いで処置が始まる。彼女に何が起きているのかは、先生にはある程度理解できているようだった。まもなく青山さんも呼ばれ、「君は待っていてくれ」と言い残したまま、彼女は担架で運ばれていった。
 僕は無力だった。今ここで、彼女にできることなど何もなかった。

 数時間後、ようやく僕は青山さんに先導されて、朋佳と再会した。
 彼女の容体はある程度快方に向かっているようだったが、未だに意識は戻っていなかった。
 初めて通された真っ白な大部屋で、人工呼吸器(そんなものがあったなんて、知りもしなかった)や点滴、それから僕には理解できないいろいろな器具に繋がったチューブ――それらをつけられた彼女が横になっている。
 この建物にもっとも似合わない、近代的で真っ白な、室名も書かれていない大部屋に入ると、先生と野矢さんがいた。――この療養所の住人全員が揃った。僕たちは、ベッドに横になった朋佳を囲うように立っている。
 朋佳は、倒れたときと同じ状態のまま、身じろぎひとつしない。
 
 先生はポケットをまさぐってから手を出して首を捻ったが、それきり立ったまま黙っている。
「説明してください」と僕はにじり寄った。
 じっと僕の方を見る彼女は、何も言おうとしない。
「もう、これ以上無視することはできません」
 感情を押し殺すように、続ける。
「僕は今までいろいろなことを隠されてきました。実際、僕についての疑問は何一つ解消されていません。先生は、僕が彼女について知ることに何か意味があるのか、と訊きましたが――今では間違いなく断言できます。僕は彼女の友人です。だから聞かせてください」
 それでも先生は引かなかった。
「後悔するぞ」
「構いません」
「それを彼女が望んでいないとしても?」
「そうかもしれません。でも――」
 そこで僕は、ついに限界になった。

「いい加減にしろと言ってるんです!」

 僕は三人を交互に睨みつける。
 全員が、ひどく暗い表情をしている。先生だけではなく、いつも朗らかな青山さんも、常に余裕を崩さない野矢さんも。
「あなたたちに心配される筋合いなんてありません。僕は彼女から何かを打ち明けられるところでした。やっと――やっとです。そう、ようやく心を開いてくれたんです。なのに、こんなのないじゃないですか。あなたたちは、そうやっていつもいつも人をはぐらかして、都合よく彼女の意思を代弁して逃げてばかりです。こんなこと、もうやめにしましょうよ。僕は、もう朋佳にとって、赤の他人ではありません。たとえ彼女が何と言おうと、僕にとって、大切な人なんです。だから――」
 黙っていられなくなったのか「香苗」と野矢さんがついに口を開いた。
「もう、その時だ」
「……」
「彼の言うとおりだ。お前の秘密主義に私たちは今まで付き合ってきた。だが、もうそんなことをやっている場合ではない」
「それで、彼が一生消えない重荷を背負うとしてもか⁉」
 ……先生が、感情をあらわにした。
 それは、恐らく僕が見てきた中で、今が初めてだった。 
 だが、野矢さんは動じなかった。
「それを議論するのは、私たちじゃない。彼だ」
「青山くんはどう思う?」と、先生は青山さんを睨みつける。しかし、彼女もまた気圧されることはなかった。静かに頷いてから「委ねましょう」と、はっきりと声に出した。「彼に」
「……」
 先生は、最後に朋佳に目を向けた。未だ目を覚まさない、彼女に。
 それから――ついに、決意したようだった。

「脳腫瘍」
 そう、彼女は告げた。

「彼女の症状を説明するのはすごく難しいが、君が初めて来たときに青山さんから聞いた話の延長で理解するのが、もっとも分かりやすいだろう。――君は離人症患者の時間について『パラパラ漫画の一枚一枚がバラバラになって、動いているように見えなくなる』と言った。彼女の場合は――もっとひどい」
 さきほどの激情が嘘のように、淡々と先生は話し続けた。
「彼女は、それら一つひとつのページが、てんでバラバラな順序で現れるような――そんな人生を送っているんだ」
「それは――」
 ここで生きていない。
「もっとも、そんな瞬間瞬間ではない。……例えば彼女が九歳だったとする。ある日突然彼女は十三歳に飛ばされる。そしてそこでしばらくが経ったとき、今度は三歳になっている」
「ちょっと待ってください。もしそうだとして……記憶はどうなるんですか?」
「維持されるよ」と彼女は付け加える。「だから、何歳のときでも、精神年齢は若返らない。そちらは通常通りに年を取る。ただ、生きている時間だけが飛び飛びになる」
「じゃあ、その《移動》はどのように起きるんですか? 適当にですか? それとも彼女の意思でコントロールできるものですか?」
「前者だ。タイミングも分からないし、飛んだ先にどれほどいられるかは分からない。ある時期からメモを取っているだろうから、ある程度は把握しているだろうがな。つまり、メモの方は通常通りの時間が流れる世界にいるから、それを見つけるたびに前回どの時間に何日間いたかを把握できる。分かるかな?」
「……また質問させてください。その飛んだ空白の時間を、再び経験することはあるんですか?」
「ない」そう先生は即答した。「だから、通常の人間が一生を一本道で過ごすように、飛び飛びに人生でのすべての時間を生き切ってしまえば、それで彼女は消える。それが死と呼べるものなのかは、定義によるかもしれないがな」
 僕はその場にいる他の二人を、もう一度見た。
「……この説明に、間違いはないんですね」
「ああ」と野矢さんがいい、青山さんも頷いた。
「ここまで僕は、あなたたちが言っていることが正しいという前提で聞いてきましたが、ひとつ疑問があります。先生、その症状は誰が確かめたのですか?」
「基本的には朋佳ちゃんの自己申告さ。一応それに対応しているような症状があり――それが、今彼女を蝕んでいるものだ。それが――脳腫瘍だ」
「ああ」と野矢さんが話を継いだ。「もう少し込み入った話は後回しにしよう。ただでさえ君は混乱しているからな。肝心な話をすると、彼女の腫瘍が、《移動》の症状と関連があるのではないか――そう我々は推測した」
 腫瘍が、病気と関連している……?
「それは証明できるんですか?」
「不可能だ。だから仮説でしかない。ただ――摘出などの手術はここに来る前に行われたが、それでも彼女の申告では《移動》が続いている。だから、もし腫瘍が関連しているとしても、それは原因ではない。副産物としての結果だろう。ゆえに、これ以上の証明は不可能だ」
「だから、最悪のケースでは――すべて彼女の狂言や妄想の類であるという可能性もあります。脳腫瘍による圧迫はもとより、病気に対する恐怖などから起きた精神的な症状であるかもしれない――それが、精神を専門にする私が呼ばれた原因です」青山さんも、またそう語った。
「だから、この病を特定することは困難なのさ」そう先生は結論づけた。「私たちの研究は完全に無視され、嘲笑され、ついにはこんな辺鄙な場所まで追い込まれたというわけさ」
 確かに、彼女たちの説明に矛盾はなかった。しかし、差し迫った問題はそこではない。
「彼女はどうなるんですか」
 三人とも黙り込んだまま。それは、絶望的なものを暗示させた。
「答えてくださいよ」
「……中島くん」
「はぐらかさないでください! 彼女は、朋佳はどうなるんですか! 助かるんですか? ……助からないんですか? はやく言ってください、はやく、ねぇ……」
 哀願するように僕は言葉を続けたが、そこから先は、言葉にならなかった。
「朋佳ちゃんは、最初から覚悟を決めていた」
「……覚悟?」
「そうだ。ここで死ぬという、覚悟だ。だから途中から一切の治療を拒否して、私についてきた。ここにやってきた。この療養所を死に場所にするつもりなのだよ」
 ――部屋の空気がすべて抜けて、窒息しそうだった。
 最初から、彼女は助からないつもりだった。それを分かっていたからこそ、僕に冷淡な態度を取っていたといのだろうか? それなら……僕は、とんでもないことをしてしまったのかもしれない。彼女がもう誰とも親交を結びたくなかったとしたら、それは――
「……僕は」
「はっきり言おう。朋佳の命は、もう長くない。君が来た時点で、いつ倒れるかも分からない状況だった。私たちだって、力になりたかった。だが、たとえ解決する手段があったとしても、彼女は拒否していたんだ。もう疲れていたんだろう。自らの《移動》に振り回される人生に。そして、もしかすると――」
「そもそも、もう彼女は今際を見てしまったのかもしれない」
 そう、野矢さんはぽつりと呟いた。
「え……?」
「だから、もう彼女は、一度人間としての『死』を経験してしまったのかもしれない、ということさ。今この瞬間のように、もう先に死ぬ間際の時を生きてしまったのならば、いつ死ぬかさえ、既に知っていることになる」
「そんな……じゃあ、そもそも今こうやって彼女を延命させているのには、何の意味もないってことですか? 全部、運命みたいに決まっているって言うんですか? ふざけないでください。そんなの、そんなの……」
「中島くん。一旦落ち着いてくれ。我々は――」
「うるさいっ!」
 僕は叫んでいた。
「朋佳を救う方法は何もないんですか? 本当に? 本当にないんですか? 僕にできることは、こうやって彼女が死んでいくのをただ見ているだけなんですか? こうやって呼ばれて、人の死に目を見るために、僕はここに来たって言うんですか? 傑作じゃないですか。僕がこんな道化だったなんて。……ああ、分かったかもしれません。あの手紙は、そもそも朋佳のものじゃないんですね? あなたたちが、勝手に用意したんでしょうね。彼女を看取らせるためですか? 自分たちはそれを隠して、僕に押しつけるためですか? どうして僕を選んだのかは知りませんけど、まぁそんなのもうどうでもいい――僕のことはどうでもいいです。ただ、そうやって自分たちだけは手を汚さないで……僕が何もできないのを知っていて、朋佳の人形として用意したんですよね。僕は、僕は――それを知っていたなら――なんて馬鹿なんだ」
「中島さん」と青山さんがかけ寄って僕の肩を揺するが、「放してください!」と怒鳴って振り払った。その瞬間に、
「しっかりしろ!」
 ――先生が初めて、感情をあらわにした。
「私たちにできることがあると思うか? 彼女は死を選んだ。言ったはずだ。君に強さはあるかと。私たちにはあると信じている。君は何様だ? 朋佳にとっての何なんだ? それを冷静に考えるんだ」
 朋佳のもとに駆け寄ろうとした足が、その言葉で止まる。
 僕は。僕は、僕の弱さは――
 ――その瞬間、激しい頭痛に襲われ、視界が真っ白になった。

 目を開けると、木目の天井が映る。
 僕は横になっているのだ。どこに? そう、ベッドに――そうだ。僕はさっき、あの部屋で朋佳を見ていて――それで、三人から話を聞かされ、僕は意識を失って。
 そして、ここにいる。
 誰かが運んだのだろうか。青山さんかもしれない。
 どれくらい前のことなのか分からないが、先ほどを思い出す。
 僕は我を失っていた。自分でも、そう思う。
 けれど、まだ絶望するつもりはなかった。いや、――そうしなければ、もう潰れてしまう。
 滑稽だ。幼稚なヒロイズムだ。女の子を救うなんて、今どき三文小説でも流行らない。それでも、僕には朋佳の存在がすべてだった。
 拳を握り締める。でも、それをどうしたらいいのかわからない。手段もない。ただ、諦められない、諦めてはいられない――熱病のように、浮かされていた。
 部屋は冷えていて、息を吐くと白い煙が微かに立ち上った。ぼんやりとそれを眺めていると――その煙が、ひとつだけではないことに気づいた。
 僕は痛む頭に片手をかけながら、ゆっくりと身体を起こす。そこには――
「起きたかい」
 野矢さんが、いた。

 彼女はあの時の朋佳のように地面に寝そべって、上半身だけベッドの縁にもたれさせている。
「――野矢さん」
「大丈夫かい? あの後君は倒れ込んだから、そのままここに運んでもらったのさ。どこか痛いところはあるかい? 頭を打ったようだし、一応、氷嚢は持ってきたよ」
 この寒さじゃさほど溶けないからね、と言って、僕にそれを渡す。頭? ああ、床にぶつかったのか。その前から頭痛がした気もするが、あまり思い出せない。激高して血が上っていたせいかもしれない。
 しばらく、お互い黙ったままだった。
 やっと口を開いたのは、僕の方だ。
「……どうして、ここに来たんですか」
「聞いてほしい話があるからさ」
 彼女はそう切り出した。
「このことを君に話すべきか、迷った。きっと香苗に言わせれば、朋佳にとって無責任で『弱い』ということになるかもしれない。でも、君の言葉を聞いて思った。君が望んでいるにもかかわらず、このまま彼女を慮って、それを言い訳にし続けるのはもうやめたい」
 それが弱いというならそうなんだろうな、と彼女は小さく息を吐いた。
「だが私たちは秘密主義が過ぎた。だから、私が言えることはすべて話そう。――ただ一つだけ。これを聞いても、後悔しないかい?」
「ええ」
 僕は即答した。
「……分かったよ」
 野矢さんが喋りはじめたのは、こんな内容だった。

 まず、香苗も言っていた通り、私は物理――それも理論方面の人間だ。だからこの病気について語る際も、そういう方向性になるのは承知してほしい。
 さて。どうしようか。
 いくらか話をSF的にしてみたい。その方が分かりやすいからだ。
 まず単刀直入に言わせてもらおう。朋佳ちゃんを救う可能性は――私の見立てならだが――理論上はないこともない。無論言っておくが、理論上だ。これを聞いたからと言って、助かる見込みは変わらない。
 だが、先に言ったように、君にはすべての情報を公開しなければならない。だから話す。
 ――さて、朋佳ちゃんの病は、時間をとびとびに生きてしまう、ということだった。もしもそれが妄想の類ではないとして、四人で話したとき、君は「まるでこんなの運命だ」というようなことを言ったよね。つまり、未来を生きたことがあって、死ぬことさえ知っているならば、それはもはや、決定論――つまり、もうこの人生を変えることはできない、そういうことになる。
 だが、君はこんな場合を見落としてはいないかい?
 たとえば――朋佳ちゃんが、まぁ何歳でもいいが……ある日、ちょっとした怪我をしている状態で目覚めたとしよう。そして次のジャンプで、その一日前に飛んだ。それで、《移動》後の彼女は注意して怪我を避けようとする。すると――どうなると思う? そう、未来は変わることになる。
 つまり、別の世界になった、と解釈できるわけだ。そもそも、彼女が巻き戻った世界は、寸分たがわず同じ場所だろうか? どんなに同じように生きても、必ずその後の自分とずれてしまうんじゃないか? そうなると、何もしなくてもほんの少しずつ違う世界を彼女は生きていることになる。
 だから、この病の患者は単に時間感覚だけが異常なわけじゃないんだ。そもそも、根本的に、生きている『世界』が違うのさ。
 もう少し詳しく、突っ込んだ説明をすることにしよう。そうだね、非常に小さなスケールの世界では奇妙なことが起きるんだ。
 私は雑な人間だから、誤解を生むのを承知で、あまり学問的でない言葉を使うよ。
 イメージでいいから、聞いてね。
 平行なふたつの細いスリットに光を当てると、その後ろには干渉縞という模様ができる。それは光が波だからだ。では電子を一個ずつスリットに向けて放ち、それを合計するとどうなるか? ……それでも、干渉縞は現れる。でも一回一回の電子を観測すると、それはどちらか片方のスリットを通っているんだ。
 でも話は次で繋がるよ。
 一般的な解釈では、波は粒子がそこに存在する確率の幅のようなもので、それを実際に観測(この言葉も厄介だが、まぁいい)すると、そこで場所(と言っておこう)が一点に定まる。これは波が『収縮』したと表現される。とはいえ観測と収縮が繋がっているかは分からない。ただ、そういうことが起きるだけ。よく誤解されがちなので注意するが、これに人間の意志とかは関係ない。人間が意識して何を観測しようと、それは関係ない。
 さて、ここからは私の突飛な推論が始まる。証明する手立てはない――だから、君が与太話だと思うならば、受け流してほしい。
 ある解釈では、波のさまざまな確率は、ひとつの宇宙を別の側面から見た世界によって説明される。勘違いされがちだけど、これは並行世界とは違う。他の時空に他の世界が常時実在しているわけじゃない。ただ、別の側面から見た結果、違う世界のように見えるんだ。
 とはいえ、見ようによっては、その側面が私たちに見えているこの世界と違う――そういう視点も、ありうる。
 さて、次の話題に移ろう。『量子脳理論』という言葉がある。今ではほぼ否定され、疑似科学として激しく攻撃される理論だ。これは、人間の意識を説明するとき、量子現象を用いる考え方だ。素粒子にはもともと意識を生み出す可能性のある性質のようなものが宿っている、と仮定する。次に、脳には微小管というものがあって、ここで量子過程――つまりさっき言った『収縮』が起きることによって、現在私たちが持っている意識が生まれる――そういう仮説だ。難しければ、量子にまつわることが脳の中で起きている、程度でいい。
 ただ、この説には致命的な欠点があるとされる。脳の大きさはどう考えても大きすぎる。また、その他にもさまざまな条件を満たしていない。温度は高すぎ、脳の構造は複雑すぎる。しかし、この理論と提唱者たちは、ミクロではなくもっと大きなマクロの世界でも、量子論で説明できる現象が起きている、と主張する。
 なぜこの話をしたと思う? 私はこれを信じているわけではない。だが、これを時感障害を説明するために、強引に当てはめてみようという戦略さ。
 この病気の患者は、脳に腫瘍が発生する。それがもしも、この量子脳理論と関連しているとしたら? 患者の脳が普通の人間と異なっており、もっと大きいマクロな場所で量子的な現象が起きていると考えたらどうなる? それによって、彼女が時間の中に解き放たれているとすれば?
 そう、それによって彼女に見えている世界は大きく変質し、波の中から粒子を一点に確定させるように、別の場所と時間の人生を生きることができるのかもしれない。
 思い出してほしいが、『収縮』には人間の観測等は一切関係ない。だから朋佳ちゃんのジャンプが自分で制御できず、勝手に起きるのも、説明できるとしたら?
 ……こんな話は出来の悪いSFでしかない。実際、私たちはこの『病』の研究をしているというだけで迫害され、こんな場所まで追いやられることになった。私のこういった理論は、間違いなくトンデモと呼ばれるだろう。……自分だって専門家だ。信じられるかと言われれば――それは、今まで学んできた科学への、冒涜だろう。
 それでもなぜこんなことを考えたのか? それは、朋佳ちゃんを救いたかったからだ。なんとかして、彼女を助けたかったからだ。分かるかい? 彼女は私の友人なんだ。
 だが――逡巡は今もある。こうして伝えてしまった以上、君はなにがしかの危険なことをするのではないか――という危惧がある。それは私の望むところじゃない。だってね。言った通り、私は君のことが、好きだからさ。

 僕は、噛み砕くように彼女の言葉を頭に詰め込んだ。
 正直、話は三割理解できているかも怪しい。
 だが――野矢さんの気持ちは、痛いほどに理解できた。
「ひとつだけ、訊いていいですか」
「ああ」
「朋佳は、このことを知っているんですか」
「どの程度かはわからないが、おそらく。少なくとも、出来事を変えることができる、という事実には、とっくに気づいていると思う」
「なら、彼女はどうして諦めているんですか? それでも見込みがないんですか?」 
「ああ。少なくとも、彼女はそう見積もっている。なぜなら――」
 野矢さんは、振り絞るように、言葉を吐き出した。
「もう、どんな世界でも助からなかったと、自覚しているからだ」
「……」
「いいかい? この病の患者は、一度生きた時間を再び体験することはできないんだ。だから、たとえどんなに今いる世界を改変したとしても、繰り返せばいつか必ず可能性は尽きる。彼女は過去に飛ばされるたびに、別の行動をして死を免れようとした。だが――それは、一度も実現しなかった」
 またしても――運命が現れたというのか。
「香苗が言った通り、もしも人生を生き切ってしまえば、この病の患者の意識も消滅する他ない。それは他の世界でも同じだ。すべての可能性が出尽くせば、彼女は――永遠の闇に消えるだろう」
「じゃあ……その限界は、いつなんですか?」
「おそらく彼女は、もうすぐ――下手をすれば今回だと感じているのではないだろうか。直感としてだが、そういうものを感じるそうだ。実は症状の進行に従って《移動》の間隔はどんどん広がって、回数も減っているそうだ。最初は一日さえ過ごせないことがあったそうだが、この世界では、十二歳からここに来る直前に起きるまで一度も《移動》はなかったそうだ。理由は分からないが、彼女はそれを終わりの予兆だと考えているらしい」
「……」
 僕は、野矢さんの話を聞いてどう思っただろうか。
 絶望だろうか。おそらくは、そうなのだろう。もしかすれば、知る前よりもっとひどい現実を叩きつけられたのかもしれない。彼女がくれたのは、朋佳を助ける方法なんかじゃない。むしろ、朋佳を助けられない理由だ。
 それでも、僕は――僕は、どうすべきなのか。
「ねぇ」
 野矢さんは、言った。
「繰り返すけど、私は君のことが好きだ」
「面白いから、ですか」
「それもあるよ。でも……なんでだろう。まったく知らない人間なのに、君を見ているとすごく楽しくて、嬉しい。そして、悲しい。何かが悲しい」
 彼女はそう呟くと、立ち上がって僕の方を見た。
「でも、今は朋佳ちゃんのことを考えるときだからね。あまり面白くはならないよ」
「……そうですね。でも、まだ待ちます」
「もしかして、彼女が目覚める可能性にかい?」
「ずっと考えたんですけど、話してみなければ何も分かりませんから」
 そうか、と彼女は頷いた。
 それから、ぽつりと声にならない何かを言って、そのまま野矢さんは去っていった。
 口の動き。
 彼女が「朋佳ちゃんを頼む」と言ったように、僕には見えた。

 それから数日間のことはよく覚えていない。まるでコマ落ちのように記憶から抜け落ちている。ただ一つ確かなのは、時間は流れていく、ということだ。それは無情にも、万人に、平等に。
 最後には、彼女だって逃れられない。
 だから僕が祈っていることは、ひどい徒労なのかもしれない。
 それでも僕に諦めるという選択肢はなかった。僕は彼女が目覚めないという可能性を信じなかった。あるいは……単にその祈りに依存していただけなのかもしれない。
 けれど、結論だけを言えば。
 神様は、いた。

 部屋に飛び込んできた青山さんから話を聞き、狂ったように走って治療室に向かった僕を出迎えたのは、上半身を起こした朋佳の姿だった。それ以外、部屋には誰もいない。
「……」
 彼女は少し遅れて気づいたのか、一言も発さないまま、僕に目を向けた。
 ――思わず声をかけるのを躊躇う。
 抜け殻の、ようだった。
 彼女の肉体からは、完全に精気が抜けている――それが、はっきりと見て取れた。
 間違いない。
 これが、最後の機会になるだろう。
 端的に言って、彼女は手遅れだった。今この時間は、ロスタイムのようなものだ。いつ終わるとも知れない。それでも――僕は、目覚めただけでも、嬉しかった。それが、一瞬のことであっても、こうして話せるかもしれないだけで、十分だった。
 僕もまた、壊れてしまったのかもしれない。けれど、もう何もかもどうでもよかった。
 息を吸ってから、足を踏み出す。
「久しぶり」
 彼女は僕の言葉に驚いたようだが、力なくこくりと頷いた。
「聞きわけが悪いから、残っちゃった。まだ朋佳とぜんぜん喋れてないからね」
「……」
「僕は弱いのかな」
「……」
「君のことを考えてしまう僕は、やっぱり身勝手なのかな」
 彼女は答えないままうつむいて、手を組んだりほどいたりしながら、言葉を探しているようだった。
「誰かから、話は聞きましたか?」
「……うん。たぶん。全部」
「そうなんだね」
 私、失敗しちゃった。彼女はそう呟いて、薄く微笑した。
「分かるよ。でも、見捨てることなんてできない。僕に気を遣ってくれたのは分かるけど、でも、もういいんだよ」
 その言葉に、彼女は少しだけ目を見開いた。それから口を開いたまま数秒間黙ったが、まもなく、小さく「……そっか。そうなんだ」とだけ言った。
「全部……本当のことって理解で、いいんだよね」
 頷かれる。
「私がつけ足すことは、ほとんどないと思います」
 その言葉は、僕を見透かすようだった。
 けれど。
 僕の目的は、彼女を問いただすことではない。
「ねぇ、もう一度ブロックスをやらない?」
 僕はそう提案した。
「……何それ」
「いいから。リベンジをさせてほしい」
 言葉の意味が分からなかったようだが、盤とピースを持ってくると、単純な彼女は少しだけ闘争心という名の元気を取り戻したようだ。「最後、ってことなんですね」
「負けないよ」「こっちこそ」
 そしてゲームが始まる。二人だから、お互い二色のピースを担当して、その和を競う。
 相変わらず彼女は強かった。でも、僕の方も一切手を抜かなかった。
「あ……」彼女の顔が険しくなる。僕に繋がりを妨害されたのだ。
「どう?」
 朋佳は「なんで……?」と、声にならないほど小さく呟く。驚いているのだろう。
 無我夢中で一ゲームを終えたときには、勝敗は歴然としていた。
「悔しいなぁ」と朋佳は一人ごちる。「ずっと練習でもしてたんですか?」
「まさか。朋佳が弱くなったんだよ」
 その挑発に、彼女は案の定乗ってきた。
「もう一回」

 十回プレイした結果、すべてのゲームで僕は勝利した
「なんで……?」
 朋佳は、明らかに動揺している。こんなことがあってはならないとでも言いたげに。
「ねぇ、朋佳は。僕には仮説があるんだ」
「……仮説?」
「そう。そして、ここでその証明をした」
 朋佳は訝しんだように、しげしげと僕を見る。
「初めてブロックスを遊んだとき、僕は何回も負けた。朋佳は『やったことないから』と、フォローしてくれたよね」
「……それがどうしたっていうんですか?」
「あれは、嘘なんだ」
 嘘。そうだ。僕はある意味で、彼女を嵌めたのだ。
「君は今、混乱している。なぜだろう? 素人が突然強くなったから? いや、いくら練習したとしても、こんなに短い期間でここまで完勝できるかは分からないだろう。……僕は大学のサークルでボードゲームをやっていた。だからブロックスも当然知っている。だから負けるはずがないんだよ」
「……大学?」
「そう。君は『どんな手を使うか全部知っている』とさえ言った。考えてみれば、あからさまなぐらい君は僕を知っているような態度だった。だから、最初から赤の他人だとは思っていなかった。でも――」
 朋佳は、ぽかんと口を開けている。
「君がブロックスに自信を持っている様子を見て、僕が大学で何をしていたかまでは知らないんじゃないかという気が咄嗟にしたんだ。つまり、僕と君が出会っているとしたらその前ということになる。そして君は十八歳で、僕は二十一歳。高校時代まで針を戻せば、一年と三年。ストーカーでもない限り、必ずそれまでのどこかに出会っていることになる。だけど、僕の人生の記憶にはそんな子はいない。となると――」
 僕は、自分なりの結論を告げた。
「君と僕は、別の世界で出会っているんだろう?」
「……」
「そこの世界の大学での僕は、きっとボードゲームサークルには入っていない。あるいは、そもそも君が高校以前の僕しか知らないかの、どちらか。――採点してもらっていいかな」
 彼女は長い息を吐いてから「……そうです」と返答した。
「続けていいかな」
「はい」
「それじゃあ、これで僕と君の縁は証明できたと思う。だから呼ぶことができたのも分かる。ではなぜ帰らせようとしたのか? それは、きっと僕を自分のことに巻き込みたくなかったからだ。でも君は手紙で僕を呼んだ。この矛盾をどう解消するか。……これは単純な答えだ。つまり、手紙を出したことを取り消したかった」
「手紙……?」
「そう。だから冷淡な態度を取ったんだろう?」
 ぴくり、と眉が動いた。「私は――」
「もしかしたら、君は僕に会いたかったのかもしれない。けれど君は僕と会ってみて、自分のことを何一つ覚えていないのに気づいた。だから僕に冷淡な態度を取った。自分の予想と違う、僕が朋佳を知らない世界になってしまったことを悟ったんじゃないかな」
「……」朋佳が僕を見上げる。
「でも、身勝手な理由じゃないと思うよ。もしそうだったとしたら、まったく君のことを知らない僕を、巻き込みたくなかったのはよく分かる。だから――」
「そこまでにしてください」
 彼女が僕を制した。
「そっか。うん――そうなんだ」
 そして、小さく呟いてから、僕に笑いかけた。
「騙して、ごめんね」
「いいんだよ。朋佳は悪くない」
「――そっちこそ、気にしないでいいですよ」
 そう言って、寂しそうに遠くを見た。

「最後に、お願いをしていいでしょうか?」
 同様も覚めあらぬうち、ぼんやりした口調で朋佳は僕に提案する。
「海が、見たいです」
「海?」
「そう。冬の海。見たことないから。どんな感じなんだろう、って」
「いや、それはダメだ」僕は即答した。「こんな容体で、そんなことしたら――」
「そんなの、もうどうでもいいよ。私は死ぬんだし」
 そう言ったまま、彼女は点滴を外す。「朋佳!」
「ねぇ、私が好きなんですよね?」
 そう言って。意地悪に笑う。
「それなら、私の言うことを聞いてください。――こう言えば、絶対弘樹さんは断れない。知ってますから」
「……なんだって?」
「もう手の内は全部知ってます。まぁ、ゲームでは負けちゃったけど」
「ねぇ、朋佳、待ってくれ。それってどういう」
「答えてください」詰め寄る僕を彼女は制した。「行くのか、行けないのか」
 僕は黙る。ここで彼女を連れていけば、もはや殺人に近いだろう。だが、彼女にとってみれば、安楽死のような類に思えるのかもしれない。でも、でも――だが、説得の言葉が見つからない。悔しいが、僕は確かに今まで彼女の言うことの従ってきた。そして、今もそうなるのか?
「もしそうするとしても、先生たちが黙っていない」そう僕は必死に反論した。
「それなら問題ないです。ここを見つからないように出られさえすれば、大丈夫」
 ほら見て、と言って彼女は僕に何かを投げた。反射的にそれを取ると――そこには、鍵があった。恐らくは、車のキーだった。
 目を丸くする僕に、朋佳は悪知恵を働く子供のように、勝ち誇った顔をした。
「運転、できます?」

 そういえば、自分が免許を持っていたことを思い出した。別に使う機会もないだろうから忘れかけていたけれど、まさかこんな機会に利用できるとは思わなかった。
 雪はいくらか収まっていて、数世代前のスポーツカーはすいすいと進む。チェーンがついているとはいえ、スリップしないかだけは心配だった。なにせ、ペーパードライバーも同然なのだから。
「車なんて久々に乗ったなぁ」と、僕のコートに身を包んだ朋佳は楽しげだった。まるで遠足にでも行くかのようなテンションだ。僕はどう反応していいのか分からなかった。
「でも、こういう逃避行みたいなのって面白いですよね。安っぽいお涙頂戴の小説やドラマでしか知らなかったけど、いざ自分が余命わずかになってやってみると、とってもスリリング」
「……」
「どうしたんですか? まだ気にしてます?」
「それは……当然だ」
 僕が朋佳を連れ出す決断をしたのは、結局「彼女が望んでいるから」以外の理由はなかった。野矢さんの言う通りだった。僕はとうに壊れていた。もしかしたらここに来た時点で異常だったのかもしれない。目を覚ますのを待ったのも、あくまで彼女の言葉を聞きたかったからだ。だとすれば、もし朋佳が「この場で殺してくれ」と言っていたとしたら――そう思うと、身震いがした。
「気にしないでいいのに。大丈夫。弘樹さんは捕まりませんよ。それまで私が持てばいいだけ。もしダメでも、三人は分かってくれるでしょうし。証拠も隠滅してくれる。あの人たちは――優しいから」
 だからこそ、困っちゃうんですけどね。そう朋佳はぼやく。
 今は何時だっただろうか。メーター類の中に時計があったので、ここに来てから初めて時間を確認することができた。今は十三時ごろだ。ダッシュボードに見つけた地図でおおざっぱに見積もれば、山を迂回して市街地に降り、高速に乗れば陽が落ちる前までには県の北部にある海岸につく計算になる。そこから少し先には岬があり、こちらも名所のよう。
「いいですね。すごく楽しいな」
 んーっ、と助手席で両手を伸ばしてから、彼女は「いたたたたっ!」と頭を抑えた。
「朋佳!」
「平気です!」
 僕の叫びも、ぴしゃりと打ち消される。
「せっかくの……デートなんだから。もっと明るくいきましょう」
 そうして彼女は、地図と一緒に出てきたCDを取り出して、カーステレオに入れた。
 流れ始めたのは、僕でも聴いたことがあるメロディーだった。
ビートルズ! いいな。先生の趣味ですね」
「……」
「なんて曲?」
「『チケット・トゥ・ライド』。このアルバムは『ヘルプ!』。レコードばっかり聴いてると新鮮ですね。ちょっと風情がないけど。でも今は定額で聞き放題のサービスもあるんでしょう? なんだったけ、さぶ……」
サブスクリプションだよ」僕は答えた。県道に入ったところで、ファミレスが見えた。
「お腹は空いてる?」
「はい」
 駐車場で車を停める。「こんなお店、懐かしいなんてもんじゃないな。あ! ガチャガチャがある。猫だ、かわいい。ねぇ、小銭持ってますか?」ねだる彼女に百円玉を渡すと、片っ端から投げ入れてノブを回してはカプセルを取り、を繰り返す。「ほら、席に行くよ」というと「全然そろわなかった……」と、残念そうだった。
 彼女が食べたのはミディアムのカットステーキだった。注文した時は驚いたが、すぐに平らげてしまったからなおさら驚いた。
「せっかく来たんだから、いっぱい食べなきゃ」と奮起していたようだ。僕はといえば、食欲がないのでサイドメニューのポテトだけを頼んだ。「それしか食べないんですか?」と彼女の側も驚いてしまったようだ。
 ……こうしていられる時間は、すごく尊い。だから、それを大事に使うべきなのは分かっている。そう考えると、確かにこうやって動揺しているのは、彼女にとってよくないことのように思われた。だから「デザート、食べる?」と訊いてみた。
「いいですね。じゃあ私、このビッグサイズパフェで!」
 ……相変わらずだった。

 海が近づくにつれて、潮の香りが鼻につく。
「いよいよですね」
「うん。遊泳禁止だから海岸には入れないと思うけど、堤防を歩くぐらいのことはできるんじゃないかな」
「そんなの無視しちゃえばいいですよ。どうせ最後なんだから。……そうだ! コンビニって近くにあります?」
「……何をするの?」
「買いたいものがあるんです」

 そして今、僕たちは海岸にいる。
「広い」「広いですね」
 目の前には水平線の向こうまで灰色の水が満ちている。それはたしかに大きかったが、重々しい天気のせいか解放感はない。広すぎる焦燥が溶けていき、やがて虚無と混ざり合うような、そんな漠然とした感覚を覚える。カァカァと鳴きながら、数羽のカモメが上空を旋回していた。
「寒い」「寒いですね」
 波とともに音が引いては寄せる、なだらかな砂浜。当然だが誰もいない。立ち入り禁止だから見つかったらどうしようと一瞬だけ思ったが、辺りに人の気配はまったくなかったから、大丈夫だと言い聞かせ、ことを始めようと思った。
 僕たちが買ったのは、バケツとミネラルウォーターの大きなペットボトル、そして――花火。駄目元で店員さんに訊いてみたところ、夏のあまりものがまだ残っていた。「季節外れですけど楽しそうですね」と女性の店員さんは興味深そうだった。「私も混ぜてほしいくらいだなぁ。楽しんでくださいね」
 そして僕たちは、海岸でそれに火をつけようとしている。ちょうど車内にはライター(先生はもともと喫煙者だったそうだ)があって、アイテムはすべて揃ったことになる。
「いくよ」
 合図とともに手持ち花火に火をつけると、ぱちぱちと音を立てて火花が噴き出す。「危ない!」「わっ」と、当たらないように身体を翻すと、なんだかそれだけではしゃいでいるような感じだ。思った以上に煙が出たが、海風のおかげかすぐに飛んでいってくれた。
 パックには線香花火も入っていたので、手持ちの方が尽きると、二人で静かにしゃがんでどちらが長く火玉を落とさずにいられるか勝負した。ここでも朋佳は負けず嫌いで、落ちそうになると僕の方に火玉をくっつけようとしてくる。
 しばらく攻防が続いたが、諦めて彼女に従うと「ほら、これで勝負なし」と機嫌がいい様子だ。少なくとも死人のようだった頃より元気そうだった。……それは、皮肉なのかもしれない。
 厚く白い雲の下、どんどん辺りは暗くなってきた。そんな中で、ひとつになった明るい花火の火が、小さく小さく燃える。
 ……そして、落ちた。
 そのとき不意に鼻の上に冷たい何かが当たった。雨か? と思って上を見ると――それは、雪だった。
 まもなく白いかけらが、銀紙のように辺りに降りはじめた。
「わぁ」
「これはすごい」
 同じ北部とはいえ、こちらではまださほど雪が降っていなかったのだ。ちょうどよくこんな機会が訪れたことに、意味はあるのだろうか。
「……毎日見ていたはずなのに、ここで見るとすごく新鮮ですね」
「確かにそうだ」と頷いた。
 ゴミを片付け終わると、僕たちはベンチに座って景色を眺めた。
「すごいね。冬の海ってこんなに綺麗なんだ」
「ええ……星が綺麗です。懐かしいな」
 海風で舞う雪の一片一辺。
 灰のよう。
 海の上に雪が降るのがこんなにも儚いなんて思っていなかった。きっと海面に落ちたかけらも、また海水に混ざって消えていくのだろう。そう思うと畏敬の念に襲われた。海はすべてを飲みこみ、受け入れる。その途方もなさに、天から降ってくる結晶はなすすべがない。そして、混ざった海水はやがて蒸発し、雲になり、再び空から降るのだ。
 白黒の世界で、お互い言葉もなくに圧倒される。身体に当たって積もる雪も気にならない。
「来てよかった?」
「はい。弘樹さんが連れてきてくれてよかったです」
「寒いし、そろそろ戻った方がいい」
「いいですよ。隣にいてくれれば寒くないです。それともまだ野暮なことを言うんですか?」
 そういうと、素早く朋佳は僕の手を握った。「これで平気」
 観念して、もう少しだけここにいることにする。その手はよそうしていたより暖かく、頭を預けてくる彼女の重さと合わせて、確かに隣にいるこの女の子は生きているのだという実感を僕に与えてくれた。
「ねぇ」
「何?」
「さっき言ったこと、覚えてます?」
 指と指を絡ませながら、朋佳は僕の方をじっと見た。その表情に、息を呑む。
「うん。ちゃんと、覚えてる。絶対に思い出すよ」
「……嘘。やっぱり忘れてください」
「なんだよ、それ」
「いいんです。私のことは、全部忘れて」
 波の音に、彼女の声は今にも掻き消されそうだ。聞いているうちに、なぜか僕は急激に眠くなってくる。
「なんかもう間に合わないみたいです。帰れなくなっちゃった。最後に岬に行きたかったかも」
「え?」
 催眠にでもかかったように、頭が重くなってきて――
「でも、こうしてまた会えただけで、私はもう十分でした。弘樹さんより、私のほうがずっと弱かった。だから結局あなたに折れてしまったけど……弘樹さんはこれからちゃんと自分の人生を生きて。私たちが出会ったのは、何の意味もない――偶然のことです。だから、これでもう――終わり。これからは、全部がうまくいく。私が消えるだけで、この世界は、続く」
 朋佳が何かを言っている。聞き取れてはいるが、言葉の中身はあまり頭に入ってこない。
「だから、もういいんですよ」
「え?」

「ごめんね」
 その一言で視界が暗転する。
 次に目覚めたとき、彼女は――

 僕は朋佳を背負って助手席に座らせ、車を走らせた。
「なんか変だよね。最初から僕は君に、初めて会った気がしなかった。それはおかしいんだ。別の世界で会っているはずなのに、どうしてこうも懐かしいんだろうね――その気持ちは、今になるとすごく強くなってきた」
「……」朋佳は何も言わない。
「きっと病気はよくなるさ。そうしたらどこへ行こう? 今日だけじゃぜんぜん満足してないだろう? 遊園地でも水族館でも博物館でもなんでもいい。いっぱい遊んで、おいしいものを食べよう。旅行に行ったっていいな。あったかい場所がいいんじゃないか?」
「……」朋佳は何も言わない。
「どうした? もう眠いの? そっか、じゃあゆっくり眠るといいよ。もうすぐ目的地だからね。それまでゆっくり休むといいよ。そうだ! ラジオがあるみたいだし、流そうか。BGMがあった方がリラックスできるかもしれない」
「……」朋佳は何も言わない。
 カーラジオを点けると、パーソナリティーがちょうど喋っている途中だった。「~さんからのリクエストです。『寒い時期ですが、春に向かう季節にぴったりな一曲……と思っていたけれど、冬に向けて歩き出す曲だと知ってショック! 英語力がない……』あー、洋楽ではそういうことありますよね。それでは、アズテック・カメラで『ウォーク・アウト・トゥ・ウィンター』」
 軽快なサウンドに乗せて車はスピードを上げて海沿いを走る。
「朋佳。今日は楽しかった?」
「……」朋佳は何も言わない。
「はしゃぎすぎて眠くなっちゃうなんて、子供みたいだな……って怒らないでね。あははは」
「……」朋佳は何も言わない。
 僕たちは柵を乗り越えて、崖の上に立った。
「そうだ。確か『好き』って言ってくれたよね。僕はそれに答えられていなかった」
「……」朋佳は何も言わない。
「ちゃんと言うよ。僕も好きだ。ふふ、やっと両思いだ。ここまで長かった。それもこれも、朋佳が強情だから、こんなに時間がかかっちゃったんだ。――まったく。
 僕たちは岬に到着した。
「最後に、見せてあげなきゃね」
 見えた超常は予想以上に高い場所。壮観だった。高い断崖に波が当たり、ざぁざぁと激しい音がする。この曲がりくねった地形は、きっと長い年月のうちに波で削り取られたのだろう。
 さぁ、行こうか――と彼女の身体を持ち上げた瞬間、何かが落ちた。
 それは一冊の手帳だった。

 

5 - エイジ・オブ・イノセンス

 この記録は、記憶を保持するためにつけられている。
 弘樹さんがこの文章を呼んだ場合、大変なことになってしまうだろう。だから肌身離さず持っていること。適切な場合が来たら、処分すること。

 時間というものが何なのか。未だ誰も、それに答えられた人間はいない。
 神学者であるアウグスティヌスは「私はそれについて尋ねられない時、時間が何かを知っている。尋ねられる時、知らない」という有名な言葉を残しているそうだ。確かに私たちは日々何も考えずに「今は何時だ」とか「あと何時間後に」とか、言葉を使う。そしてそれを特に疑問にも思わない。それが何なのか、立ち止まって考え込む機会さえなければ。恐らくは、世の中の多くの人がその機会を持たないまま、生涯を終えるだろう。
 私も、そんな人生を送るはずだった。

 初めてそれが起きたときのことはよく覚えている。
 それは十二月、十二歳の誕生日の朝。
 振動で目が覚めたとき、家で寝ているはずの私はなぜか電車に乗っていた。
 目を擦って周りを見渡す。ここはどこだ? 夢? それにしてはやけに感覚がリアルな気がする。車内の暖房はあまり機能していないようだ。そこで、自分が半袖なのに気づく。今は冬のはずだ。なぜこんな格好をしているんだ? そう思い、窓の外を見ると、辺りにはさんさんと太陽が照り付けている。……それをぽかんと眺めているうち、ガラスに自分の姿が薄く映っているのに気づく。
 そこでの私は制服を着ている。学校のものだろうか? けれど私は小学生だし、指定の制服がある場所でもない。そこまで考えたところで、そもそもサイズがどう考えても私の背丈と合っていないことに気づく。
 背丈?
 慌てて再びガラスを見て、幼い私はようやく少しだけ自分の状態を理解した。そこにいたのは、自分の顔。けれど明らかに、成長している。
 つまり、これは未来の私だったのだ。

 でも私はさほど動揺しなかった。なぜならこれは絶対にありえないことだからだ。つまり、私が成長していること自体が、夢であることを証明してくれているのだと思った。だから私はとりあえずもう一回寝ることにした。そうすればじきに目が覚めるかもしれない。
 けれど、目が覚めても私はまだバスの中にいた。
 周囲の乗客を見ると、私と同じ学校(中学か高校なのだろうか?)の制服を着ている子がいた。彼女を見ていると、やがてある駅で彼女はそそくさと降りていく。
 まずい気がしたので、慌てて電車から出た。幸いポケットの中には定期があった。どういうものなのかは幸運にも知っていたから、駅を出ることができた。私は慌てて彼女の後を追った。
 
 歩きながら鞄の中をまさぐると、生徒手帳が出てきた。そこには私の学校名が載っている。読めない文字もあったが、学校名、学年、クラス、自分の名前などは当然確認できた。迷ったが、制服姿のまま外でふらついていて補導されたりしたら、と思うと学校に行くのが最もまともな選択肢に思えた。
 クラスに入った瞬間、各自いくつかのグループに集まってわいわいと談笑しているみんなの目が、突然私に集まる。――え? と当惑したが、まもなく視線は外され、通常の空気に戻ったようだった。まさかバレているわけでもないだろう。
 そのことは気にかかったが、まもなくホームルームが始まってしまった。欠席者がいないのが幸いして、全員が席に向かう中を目立たないように観察し、不自然にならないタイミングで最後まで残った場所に座った。果たしてそれは正解だったようだ。
 私の座席は後ろの方だった。振り返ると、掲示板に時間割が印刷されたプリントが貼ってある。一限目は数学。数学? ああ、算数の発展版? いや待て。私は慌てて鞄の中から教科書を取り出してめくる。……何語で書いてあるのかさえ分からない。いや、数式はともかく説明文は日本語なのだが、この頭では意味を汲み取ることなど不可能だった。私は慌てた。授業についていけるはずがない。当たり前だ。どうして私は気づかなかったんだろう? 
 だが、逃げ出す時間はもうない。先生らしき初老の男性が入ってきてしまったのだ。
「ええと、参考書一五三ページの問題は解いてきたかな? 因数分解や二次関数の問題は、一年のまとめとして重要なので、夏休み前の今、改めてここで復習しよう」
『数学』と書かれたノートを開いてみると、該当の問題へのいくつか書いてあった。だがそれは途中で終わっている。
 一人ずつ当てられて、黒板に計算式と回答を書いていく。席順なので自分が何問目なのかはすぐに分かった。数えてみると、ノートの回答はちょうど私の担当するひとつ前で終わっている。――非常にまずい。たった一問だが、どう考えても自分には解けない。
 けれど怪しまれないよう、教壇の方まで行くしかない。必死に頭を働かせる。一時的にでもいいので、何かこの局面を脱する方法がないか。先生は厳しくなさそうだし、忘れた、と言うべきだろうか? でも言い出しにくくて、そしてまごついている間に余計に言えなくなる。どうしよう、どうしよう――そのとき、頭が鈍く痛んで、私は頭を抑えた。ああ、悪いことばっかり――
「永井さん、大丈夫かしら?」
 私のひとつ前を担当する女の子が、こちらのただならぬ様子を心配したのか、呼びかけてきた。そうだ! この機に乗じない手はない。すかさず「すみません、調子が悪くて」と言うとその子は先生に「永井さんの調子が優れないようなので、私が連れていきます」と名乗り出て、二人で保健室に向かうことになった。
 こうして教室から抜け出すことができたが、事態はあまり好転していない。次にどうすべきか? ここから出る? しかし、もしもこの異常事態がもう少し続くとしたら、自分に関する情報を集めておくに越したことはないはずだ。いま考えれば幼稚な狡猾さだが、私は彼女を利用できないか考えた。
 廊下を上履きできゅっきゅっと小さく鳴らしながら歩く。
「まだ頭は痛い?」
「ごめん、送ってもらって悪いけど、良くなっちゃった」
「そう。よかった」
 話に詰まってしまった。そもそもこの子の名前さえ私は知らなかった。しかし、助け船は彼女の方が出してくれた。
「私、永井さんとは前から話してみたかったの。こう言って気分を害されたくはないけど……永井さんってちょっと物静かというか、あんまりクラスメイトとかに関心がないのかしら、と思っていたの」
 ああ、私ってそういう感じなんだ。
「あと、私たちは実は出身の小学校が同じみたいなの。引っ越しで六年からだけだけれど。ほら、ここって遠くから受験する人も多いわよね? だからこういう偶然は面白いわね。で、うっすら永井さんのことを覚えてるかもしれないの。同じクラスだったことがあるのかもしれない。でも受験で中学に上がるときに離れちゃったから、お互い忘れてても仕方ないわね。永井さんは……覚えてないでしょう?」
 同じクラス……? と思ったが、木田なんて名字に身に覚えはない。「うん」と答えるしかない。やはり、これは夢なのだろうか? これは証拠になるだろうか、と頭の隅で考える。
「でもせっかくの機会だし、こうやって話すのもいいでしょう? ほら、こういうのって……袖振り合うも他生の縁?」
 タショーノエン? 
 思わず「何それ?」というと、彼女は「えーと、着物と着物の袖が触れ合ったら、それは前世からの因縁を表していたので、武士たちは斬り合いをしなければいけなかったの。ほら、トレーナー同士も目が合ったら戦うわよね?」
 明らかに嘘くさい。まるで説明になっていなかった。
「じゃあ、私たちは戦わなきゃダメなの?」
「でも、敵と友は似たようなものよ。いい友人というのはいつだってライバル。でも、敵を知ることは友を知ることにもなるわ。そうなれば百戦危うからずね」
 ヒャクセン……戦争のことか? って、結局倒すのか……。
 この人、なんか面倒だ。
「まぁそんな話はどうでもいいわね。どう? 少しは仲良くしてくれるかしら?」
「う、うん」と言ってから、勇気を出してそれとなく訊いてみる。私がクラスでそういうキャラなら、きっと大丈夫だよね。
「えっと……ごめん、名前、分かんないかも」
「やっぱり」と彼女は笑った。「木田よ。よろしく」
 木田さんは、そう言って強引に私の手を握ってきた。
 ……あれ、保健室は?
「あの、木田さん、保健室……」
「ああ、そうね。あれ? でももう頭は痛くないようね。それでも休んでいった方がいい?」
「いや、そういうわけではないんですが……」
 でも教室に帰ってしまうとまたボロが出かねない。どう言えばいいのか悩んでいると――何かを企んでいるように、木田さんはにやりと笑った。
「それじゃあ、もっといいところで休んでいくのはどうかしら?」
 
 階段を登る木田さんについていくと、彼女は四階を越え、三角コーンとテープで閉鎖された入り口を平然とまたぐなり、扉のノブをかちゃかちゃと弄って開錠した。「さぁ、行くよ」
 そこは屋上。
 さほど暑くないのを説明したかったのか「夏場は冷気が来るから、場所によってはおこぼれを預かれるの。冬は冬で暖気が来るんだけれどね。こういう建物って他にあるのかしら? もしかしたら設計ミスなのかもしれないけど、ま、私たちは恩恵を受けてるってことね」
「木田さん、これ、まずいんじゃ……」
「なにが?」
 彼女はちっとも悪びれない。自分で言うと陳腐だが、十二歳の私はすごく優等生だった。だからすごく怖くなったが、年上(ということになる)の高校生の前では言えなかった。
「それにしても永井さん、敬語じゃなくていいわよ?」
「え、……だって」
 いや違う。彼女からすれば私はおんなじ年なんだ。でも小心者の私には呼び捨てになってできるはずがない。
「まぁ、これはこれで面白いから。私は下の名前で呼ばせてもらうわね。朋佳さん」
 むず痒さと怖さと恥ずかしさが混ざって、いっそ飛び降りてしまいたくなった。
「一限が終わるまで、ここで暇でも潰さないかしら? そうそう。ここは勝手に開けていいから。やり方を教えるわ。ただ、あと一人貸してる人がいるから、それは許してね」
 どうしたらいいんだろう。女子高生のふりを続けるのはすごく難しい。やはり打ち明けるべきなのかもしれない。でも信じてもらえるかな。でも……。
「ねぇ、朋佳さん」
「は、はいっ」
 悩んでいた私に、木田さんは今までより少し真面目なトーンで話しかける。
「大丈夫だから、言ってもらってもいいわ」
「……え?」
「当てるけれど、本当は、何か隠してるでしょ?」
 ――鳥肌が立った。
「あ、うわ、えあ」
 今よりずっとポーカーフェイスが苦手だった私は、明らかに隠し事を悟られてしまった。
「教えてくれなくてもいいけど、今ここで話すなら、誰も聞いてないと思う」
 それでも私は、必死に取り繕った。
「なんでもないよ……ただ、本調子じゃないだけ」
 木田さんは数秒間私の目を見つめてから、「そう」とだけ言った。
 ……それからちょっぴり気まずくなってしまったのか、私と木田さんは黙ったままそこで一限を潰す。彼女はカバーのかかった本をポケットから出して読み始めた。私はすることがないので、入り口の階段に座ってぼーっとした。あれ――なんか、眠いような――
 ――そこで、意識がふわりと飛んだ。

 ベッドの上。私はひどく汗をかいていて、お腹もすいていた。じっとりと濡れた両の掌を見て、私は、ここが十二歳の――もともといた世界であることを実感した。戻ってきたのだ。窓の外はまだ朝早いのか白んでいる。
 そう。これは夢だったのだ。そう合点した。
 リビングに向かった。そこには寝ぼけ眼のお姉ちゃん。新聞を読むお父さん。それから台所に母。三人ともとりたてて個性的じゃないけど、みんな穏やかで優しい。
「おはよう」と挨拶して、やっと実感。私はここがもといた場所なのだと。
 新聞から目を上げた父が「そういえば、朋佳ももうじき中学生だな」と言う。「携帯とか、用意しないといけないのか」
スマホ、でしょ」と姉が笑う。「ゲームを全部ファミコンって呼びそう」
 一瞬の間をおいて「でも、本当なんだよ。何かあったとき連絡に便利じゃないかな。記事だと変質者への対策とかで、GPSもついたのもあるそうだし」と父が答える。私たちの最初の父親はいなくなってしまったけれど、この人は苦しい時も三人を支えてくれたから、すぐに信頼できるようになった。
「なんか嫌ね。オーウェルの世界みたい」と母はため息をつく。どこか線が細い彼女。「ママ、そんなひどい例えはやめて」とまた呆れる姉。そんな会話を尻目に、学校に向かう準備をしながら思う。――木田さんが夢の中の人だというのは、ちょっと残念だ。個性的だったのに。
 そういえば――同じ小学校だという話だったのを思い出した。
 でも私の記憶が確かなら、そんな子はいない。だからそれも幻想だと思うのが自然だ。……その、はず。
 でも、妙な胸騒ぎがした。
 だからギリギリまで早く登校して、こっそりと教壇の机の中にあるクラス名簿を真っ先に確認した。担任の先生は怠慢だから、よくここに忘れていくのだ。果たして、今日もあった。
 き、き……名前順に目を落としていく。……『木田』の名前はなかった。やはり夢の中の産物だったのだ。なんだ、確認するまでもなかったじゃないか。
 私は安堵してホームルームまでの時間を過ごした。
 わいわいと教室に人が増えてから、すこしふくよかな女性がやってきて、朝のホームルームが始まる。普段通りの出欠の後で、不意に先生が言った。
「実は、みんなに伝えたいことがあるの。連絡が遅くなって突然のことになっちゃうんだけど、今日から新しい子がこのクラスに転入してくるの」
 ――その一言に、私はぶるりと震えた。
 まさか。まさか。
 果たして、入ってきたのは女の子。服も靴もランドセルもいかにも高級そうだったけれど、彼女には人を寄せ付けないような空気があった。
「初めまして」

 その子は、木田さん。
 夢の中で出会った女の子と同じ名前。
 私はパニックになった。夢、そう、あれは確かに夢のはずだった。またテレビか何かで知っていたが、夢は人間の記憶の再構成だという。だが、私はこの瞬間まで彼女が転校してくることを知らなかった。それならなぜ、『木田』という名前が一致する? 偶然? だが、転校によって木田さんがやってきたなら、(夢の中のはずの)高校生の彼女が言った経歴とも矛盾しない。
「それじゃあ、そこの席に座って」と先生に指示されて、彼女が向かった先は。
 教室の左隅、今まで空いていたスペースに置かれた机と椅子。
 それは、私の隣の席だった。

 一時間目の時点で、私は授業どころではなくなっていた。板書をしようとしても鉛筆の芯を何度も折ってしまう。どうしたらいい? 私は彼女に話しかけるべきなのだろうか。いや、でも――そう思っているうち、疲れからなのか私は睡魔に襲われた。眠い――

 そしてまた眼を開くと、私はまた別の場所にいた。

「大丈夫?」
 私を呼びかける声がする。低い声。男性だろう。でも私の父じゃない。
 ここはどこだろう。なんだか頭が痛い。ずきずきとした頭痛だったが、それだけでなく、より浅いところでも痛みを感じる。もしかしたら、これは外傷なのかもしれない。
「意識はありますか?」
 彼(?)は私に強く呼びかける。身体をゆすられて、私はやっと目を開けた。
 そして驚く。私は横になっていた。辺りを見回すと、通行人がじろじろと私の方を見ながら通り過ぎていく。――ここは路上? なぜ? さっきまで授業を受けていたのに――
「あれ……?」
「よかった。起きたみたいだ」
 彼はどうやら安堵したようだった。「立てる?」と手を貸され、私はふらふらと体を起こして、地面に足をつけた。「あ、ありがとうございます……」と、訳も分からないままに感謝をする。
「いや。通りかかったら地面に倒れてて。病院に行きますか?」
「たぶん、大丈夫……」
 私はそこでようやく彼をしっかりと見た。服装や背丈から、高校生か大学生くらい?
「そっか。このまま歩けます? 家に戻るなら、一人で平気ですか?」
「あ、悪いので……」
「そうですか? 本当に気になさらないでいいんですよ。どんな手助けもします」
 恐らくは見ず知らずの他人であろう彼は、にもかかわらず私を心底気づかっているようだ。
 そうだ。自分は授業中に寝ていた。それなら――私はある可能性に思い当たる。
 まさか――またどこかの未来に飛んでしまったのか?

 公園のベンチ。
「改めて、よかったです」
 缶ジュースを持った彼が隣に座っている。有無を言わさず私の分まで奢られてしまった。路上にずっといるわけにはいかないので、私たちはひとまず手近な公園で一休みすることになったのだ。遊びまわる子供たちを尻目に、私は気まずい思いだった。
「ここまでしていただいていいんでしょうか……」
「問題ないですよ。やっぱり病院に行った方がいい気もしますが……お帰りになられますか?」
 その問いに「え、あ……」とどもった挙句、私はうっかり「分からないんです」と言ってしまった。しまった――と思った。彼はその言葉を見逃さなかった。
「差し支えなければお訊きしたいのですが、分からない、とはどういう意味でしょうか? もしかしたら、怪我だけじゃないことで困ってるんじゃないか、と心配なんですが」
 仕方なく、私は会話に応じた。「分からないというか……知らないというか。たぶん、家は前と同じところにあるとは思うけど」
 前、という言葉に彼は少しだけ反応したが、すぐにまた尋ねてきた。
「他のことは分かりますか? 年齢とか、名前とか」
「ええ、分かります。でも住所は分からないです。他にも分からないことは……あります。でも記憶喪失じゃないと思います。えっと……なんて言ったら……」
「ふむ」
 考え込む彼に、どうしたら上手く説明できるか考える。少なくとも、その場しのぎの嘘で誤魔化すことは難しそうだし、心配してくれているのに申し訳ない気がする。
 狂人だと思われるかもしれない。まぁそれでもいいか。どうにでもなれ、と私は意を決した。
「私は、本当はまだ十二歳で、中身? だけ別々の時間にいるんです。未来に飛んで。また戻って、それで……いや、ごめんなさい。意味分からないですよね」
 下手すぎて謝ってしまった。
 恐る恐る彼の様子を見てみると――しかしどうして、非常に真剣な顔をしている。
「もしかして、なんですけど。僕も、それかもしれません」
 ……え? それ?
「どういうこと、ですか」
「僕もあなたと同じで、バラバラに時間を生きているんです。十五歳から、ここ三年ほど」

 それが――中島弘樹との出会いだった。

 彼と出会って驚いたのは、あまりにも身近な場所に似た現象に襲われた人間がいたということだ。話を聞いたところ、現在十五歳で高校生の彼は、ちょうど十三歳の頃に発症したそうだ。私と同じくらいか。きっかけは事故のようだ、と彼は考えているらしい。それもすごく大きな飛行機事故だった。
「墜落で助かる確率は本当に低いようですね。……家族も死んでしまった。でも僕は生き残った」
 さらりと言う彼の言葉に私は恐ろしくなったが「実はよく覚えていなくて。経験していないか、意識を失くしていたか、衝撃的すぎて忘れてしまったか。どれでしょうね」と頭を掻いた。「だからはっきりとは分からないんですけどね。この前は大学四年の冬でした。過去もあれば未来もあるみたいで――確かなのは、一度生きてしまうと、その期間の時間は二度と戻ってこないということです。普通の人間が寿命を消費していくのと同じですかね」
「……嘘」
 私は、大きなショックを受けた。
「もしかしたら、そっちはまだこの現象が起きてからそれほど経っていないのかもしれない。それならまだ時間はあるから、悲観的になりすぎない方がいいけど――それを抜きにしても、僕たちの人生は、あまりにも複雑怪奇ですよね」
 そうだ。でも――と思う。もし、彼が本当に私と同じような現象を経験しているなら……そう考えると、私はすごく安心した。今までなんとか我を保っていたけれど、本当は途方もなく怖かったのだ。気がつくと幼い私は涙をこぼしてしまっていた。何かが、どっと溢れ出した。
「あ……ごめん、傷つけることを言ってしまったかな」
「違うんです」私は涙ながらに言った。「分かってくれる人がいて、嬉しいんです」
 泣きつく私を、彼は優しく受け入れてくれた。

「……どうしたらいいんでしょうか」
 そうだな……と彼は悩んだようだったが、まもなく一つのアイデアを思い付いたようだ。
「まず、今回みたいに街中で倒れてしまわないよう、《移動》の予兆があったら安全な場所に退避することですね。あとは――」
 彼は手早く注意を教えてくれたが、私には急いで確認したいことがあった。
「あの……また、会えないんでしょうか」
「それなら、僕を探してください。僕はまだ高校一年の先を体験していない。ということは、そこにたどり着いたときに、僕は今ここで君と一度出会ったことを覚えているはず。そこで僕と再会できれば、何か違う道が見つかるかもしれない」
「……また出会える確証は、あるんですか」
「さぁ」
 彼はあっさりと言ってのけた。
「何か目印になるものでもあれば、また違うけど」
 目印? ……その言葉で、私は何か閃いた。
「あの、聞きたいんですけど」
 私の方のアイデアは、こうだ。
「高校、教えてくれませんか?」
「ああ……もしかして、その時に着いたら、僕を訪ねてきてくれるんですか?」
「はい」と私は言った。
 この人は嘘を言っていない――信頼できる。そういう確信が、なぜかあった。私は彼とまた会いたいと思った。今のところ、この世で私の味方は彼だけだったから。こんなに簡単に人を信じてしまうなんて、幼いとはいえ私は愚かだったのかもしれない。そうだ。結果的にこの選択は私の運命を大きく帰ることになる。これは、すべての始まりだ。
 ただこの時の私は何も知らない。ただ、涙が出ただけ。
「じゃあ、最後に名前を訊こう。僕は中島弘樹。君は?」
「永井、朋佳です」
「よろしく」
「……よろしく、お願いします」

 でも彼とはすぐに会えた。それこそ拍子抜けするぐらい、あっさりと。
 次に飛んだ場所は、また高校。そこで私は、木田さんと昼食を食べていた。
「それにしても、今年は雪が早かったわね。まだ十一月なのに」
「……あ、ええ、はい」
 会話中だったらしい。私は慌てて相槌を打った。木田さんは怪訝そうな顔をしたが、それ以上は特に気にならなかったらしい。――そうか、まだ冬なのか。だとしたら、彼女と出会ってからさほど時間は経っていないのだな。
「ええと、そうだ。朋佳さん。前貸した本、読んだ?」
「……ま、まだ」
「そう。そういえば、読むのは遅い方だって言ってたわね。私は読み終わったわ。なかなか面白かった」と渡されたのは、『ここがウィネトカなら、きみはジュディ』というタイトルのSFアンソロジー。ぱらぱらとめくってみると、時間ものの短編が集められている。私は姉の影響で小学生の時点でもSFが好きで、ときどき私に本を買ってくれることがあった。読んでないけど、確かこれも姉からもらった本。
「それにしても、弘樹くんは遅いわね」
「え? 弘樹くん?」
 聞き違いかと思ったが、「あれ? 昨日話したわよね? もうひとり、屋上を使っている人がいるって」どうもそうではないらしかった。
 もしかして同名の他人か? と思ったが、そこまで考えてから彼の高校の名前がここと同じだったことに気づいた。遅い。なんて鈍いんだ、私。
 果たして、まもなく現れたのは。
「ああ、もうみんないたんだね。ええと、この子が……例の?」
「ええ」と答える木田さん。それに彼は頷く。
 あの日出会ったのと同じ姿だった。
 そう――彼のいた世界と、最初に飛んで木田さんと出会った世界は、同じ場所だったのだ。

「遅いですよ」と口を尖らせる木田さんに「ごめん」と軽く誤った弘樹さん。
 印象は前に出会った時と全然変わらない。人懐っこい顔と、柔らかい目つき。
「はじめまして、朋佳さん」
「は、はいっ」
 慌てる私に彼は笑って何個かパンを取り出した。高校には購買っていうのがあるんだっけ。じっと見ていたら「食べる?」と言われ、カレーパンを頂いた。
 そこで「あ」と木田さんが声を上げる。「クラス委員の用事があった」
 ごめんなさい、今日は先に行くから。そう言い残して彼女は屋上から去った。
 それを見送ってから、弘樹さんは「えーと」と後ろを向いてから、振り返って言った。
「久しぶり。また会えたね」
 ――彼は、私がいつの私なのか、見抜いていたのだ。

「僕はここでもうひと月は過ごしているんだ。基本的に、だんだん慣れてくると飛ぶ時間の間隔は伸びていくみたいだ。だから僕の方は、しばらくここにいられると思う」
 放課後、私たちは誰もいない教室で密談をした。私が今いるのは、最初に木田さんと出会った次の日のようだ。彼は小学生(精神年齢)の私にも分かりやすく説明するよう努めていた。
「何度か《移動》してみて気づいたんだけど、てんでばらばらの時間に飛びまくることは少ないみたいだ。だいたい三つか四つぐらいでポイントができると、しばらくはそれを往復することで安定するみたいだね」
「じゃあ、私はまだ安定していない、ってことですか?」
「たぶん」と彼は頷く。「それまでは混乱すると思う。厄介なのは、このいくつかのポイントで別の行動をすると、変なことになる」
 そう言って彼は黒板に横線を引き始める。
「たとえばここに一本の線がある。これが最初の、僕たちが生きる時間。で、たとえば三つ点を打ってみよう。A、B、C。で、この三つの時間を行き来する。……さて、このポイントAにいるときに、Bの未来と矛盾するような行動を取ると、どうなるか」
「……分かれる?」
「そう」と弘樹さんはAから別の線を伸ばした。「こうして別の線が生まれたよね? で、それからはこちらの別の世界にも飛ぶ可能性が出てくるんだ」
「えーと」と私は考え込む。「《移動》するときに、そっちの枝にランダムで飛ぶかも、ってこと?」
「そう」
「……じゃあ、変わっていない世界の方も残ってるんですか?」
「それは多分違うな。パラレルワールドって分かる?」
「はい。SF、好きなので」
「なるほど。じゃあ手っ取り早い。僕たちにとっての世界は、実はパラレルワールドじゃないんだよ」
「じゃない……?」
「むしろ、線路の切り替えに近いと思う。元の世界と、Aから伸びた世界は同時に存在するわけじゃない。A世界にいるときは元の世界は消える。それから元の世界に飛んだら、Aの世界は消える。でもまたA世界に飛ぶと、最初にいたときと同じ世界が始まる。分かるかな?」
「ぎりぎりだけど、なんとか」
「僕たちはそんな風に時間と世界を行き来するから、すぐ別れてしまうとなかなか厄介だと思う。できるだけここで縁を作っておくのが大事。だから定期的に屋上に来てほしい」
「分かりました。でも、木田さんは知ってるんですか?」
「……いや」と彼は否定した。「彼女は、何も知らないよ」
「そうですか……」
 そのまま黙っておくのがいいことか分からなかったが、彼には考えがあるはずだ。従おう。
「あと、世界ごとにメモを取っておくといいよ。メモは影響を受けないから、その世界に残り続ける。で、飛んだ先で見つけるたび、前回いつからいつまでを生きたか記録するんだ」
 なるほど。その発想もまた、目から鱗だった。
「君がもし頻繁に《移動》してしまってタイミングがずれたら、君がいつからやってきたのかを訊くと思うから、答えてくれると助かる。そうすれば、対応できると思う。それじゃあ、ここでどれくらいになるかは分からないけど――よろしく」
「はい」
 私はまた安心した。前回は取り乱してしまったけれど、今回はもっと自信を持って、彼を信じられる気がした。

 引っ越していないならば、自宅は同じ場所にあるはずだ。
 そこで待ち構えているのは、未来の家族だろう。みんな私の現象を知らない。だからまたしても怪しまれないようにアドリブで演技をしなければならない。
 閑静な住宅街の一ピース、没個性な建物に私は近づく。あった。ここだ。転居で別人が住んでいる可能性を除けば、まだ家族はここに住んでいることが確実になった。
 鍵を持っていないから、とりあえずはインターホンを押してみたが、何の反応もない。
 意を決して、ドアに手をかける。――開いた。もし外出中なら鍵をかけるだろうし、施錠していないならせめて誰かが家にいると考えられるが、どちらでもないというのだろうか? 無用心が過ぎるのではないか。私の家族はそんなに防犯意識が低かっただろうか?
 緊張とともに家の敷居をまたぎ、ローファーを脱いで床に足を下ろした。そのまま慎重に歩いていく。まずはリビングに向かう。
 そこは真っ暗で、様子は一変していた。そこら中に飲み終えた缶ビールが転がっていて、台所ではシンクの中で皿が割れている。誰の姿もない。ただ時計の針の音が、かちかちと空しく響いて、聞いていると頭がおかしくなりそうだ。混乱とともに、頭がずきずきと痛む。
 息を吸う。なんとか呼吸を整える。廊下に戻ってから、他の部屋に誰かいないか探してみることにした。この時の私は、まだ冷静だった。
 二階建ての一軒家、一階の階段の横には和室があり、他に親たちの寝室もある。上には私と姉の部屋がある。
 和室はがらんとしていた。前は調度品があったはずだが、すべてが消えている。広々とした空っぽの部屋は、私に言いようのない不安を覚えさせた。
 寝室は後回しにして、私は階段を登って姉の部屋に向かった。ノックしたが反応はない。ドアに耳をつけてみる。物音一つしない。寝ているのだろうか? しかし、私には妙な胸騒ぎがした。震える手でノブを回すと、あっさりとドアは空いた。中には誰もいない。ふと中央の机を見ると――そこには吸い殻でいっぱいの灰皿があった。
 灰皿? 彼女はたばこなんて吸わない。カタン、と爪先に当たったのは、やはり缶。そういえば、と思い出す。この家にアルコールを飲む人間はいないはずだ。
 嫌な予感がする。部屋を出ようとしたとき、学習机の上を見てみると、そこにはピルケースがあり、大量の錠剤が小分けになって置かれていた。未来の姉は病気なのだろうか? でもこんなに薬を飲んだらむしろ身体に悪いのでは? 明らかに異常な量だった。
 目を開けるとペン立てがある。そこにはカッターナイフだけが入っている。ゆっくりと、私はそれを取った。
 刃先には、乾いた血の跡があった。
 ――本能的にそれを放り投げると、私は部屋を飛び出していた。明らかに、この家はおかしい。何から何まで異常だ。
 私は自室に入った。そこだけは昔とさほど変わっていなかった。
 そのまま着替えもそこそこに布団に入り、枕に抱き着いて震える身体を必死に押さえた。

 結局、家族は誰も帰ってこなかった。
 一応電気もガスも水道も通っているので、仕方なく私はひとまずここで生活することにした。

 不穏なことがあったとはいえ、結果論だけ言えば、私はしばらくほぼ《移動》なく三人の世界を楽しむことができた。《移動》が始まってから、こんなことは初めてだった。理由は分からないが、それは私の人生の中で最も奇跡的な時期だった。
 私たちは一年で、弘樹さんは三年生。全員部活(クラブのすごい版)にも入っていなかったから、授業が終わると暇だ。だから昼休みだけじゃなく、放課後も屋上で過ごすことになる。
 今日は先生への悪口で盛り上がっていた。……あんまりよくないと思ったけど。
「今日の新野は機嫌悪かったわね」
「そうなの?」と弘樹さんが笑う。「僕の頃と変わらないんだなぁ」
「課題を忘れなくてよかったわ。四限だから、昼休みまで説教されるかも」
「うわぁ」
 適当に相槌を打つ。私も見ていたけれど、高校って怖い場所なんだなぁ……と思った。こういう経験の度に私は怖くなったけれど、少しずつ慣れてきた。相変わらず勉強だけはどうにもならなかったが、できる限り弘樹さんにカバーしてもらっていた。
「木田さん、ノート見せてくれてありがとうございます」
「いいの。一方的に恩を貸しておけば、いつか取り立てられるでしょ? 楽しみだね」
「あはは……」彼女は相変わらずだ。
「それにしても、ここが見つかったら大変だよね」と私がなんとなく話を振ると「そこだよなぁ」と弘樹さんは考え込んだ。「見つかったら絶対処分されるだろうな」
「バレなきゃいいのよ」と木田さんは強気だ。
「でも……集まれる場所がなくなるのは困りますよね」
「うーむ。ここに入る大義名分でもあればいいんだけど」
 その一言に、私は少し気になった。
「ここに合法的に入れる方法ってないんでしょうか? たとえば……えーと、部活とか」
「そうね……」
「あ」と弘樹さんが手を叩いた。「天文部ならいけるかもしれない。一年の頃に望遠鏡みたいなものをを持って屋上にいるのを見たことがある」
 彼によると、天文部は現在顔を出している部員がおらず、顧問も放任状態で、廃部寸前だということだった。
「決めたわ」と木田さんが話をまとめた。「天文部を、乗っ取りましょう」
「え? 乗っ取る?」
「そうよ。私たちが一方的に入部して、活動を始めてしまえばいいのよ」
「ちょ、ちょっと待ってください」
 木田さんがなかなかに過激な人なのは分かっていたが、それでもめちゃくちゃだ。とはいえ彼女に規則や道徳を期待しても無駄なわけで。
「永井さん、規則では廃部の条件はどうなっているのかしら?」
「えっと……『三人以上の在籍と一定の活動が認められない場合』という例が生徒手帳に書かれているね」
「なら決まりだわ。私たち三人が入ってしまえば、ぜんぶ解決する」
「ええっ⁉」という私の動揺は、あっさりと掻き消され。
 流されるままに、私たちは天文部を占拠した。

 それから私たちは本当に活動を始めた。夏休み、屋上にテントを張って泊りがけで望遠鏡をセットし、夏の大三角を見たときのことは、未だに覚えている。
 一番覚えているのは、木田さんが眠ってしまった後に二人で寒さも忘れ雑談をしたこと。
「こんなところでも、星って見えるんだね」
「うん。向こうの街がさほど大きくないから、光で星が隠れないんだね」
 私たちは寝転がっている。手を伸ばせば、本当に星に手が届きそう。
「ねぇ、レイモンド・チャンドラーを呼んだことはある?」
「突然なんですか」
「なんとなく」
「……愛について語るなんとか、みたいな本を書いた人ですか?」
「それはレイモンド・カーヴァー」と彼は咳払いをした。「ハードボイルド小説を書いた人だ」
「ハードボイルドってなんですか?」
「僕もよく知らないけど、ミステリーといっても推理より探偵の行動を重視した作品、ってイメージを持っているかな。人間ドラマだけど、でも人情は少なくて、いくらか暴力的」
「……それ、面白いんでしょうか」と私は疑問だった。「ミステリーって、謎を予想したり騙されたりするのが楽しみだと思うんですけど」
「同じ犯罪小説でもそういうジャンルとは根本的に違うんだ。だから同じ頭で楽しんじゃダメ」
「ふうん。変なジャンルがあるんですね。それで、どうしたんですか?」
「彼の『ロンググッドバイ』という小説で『さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ』という台詞が出てくるんだ」今度貸すよ、と彼は言う。
 顎に人差し指をあてて考え始める。
「どういう意味ですか? さよならをいうのが、死ぬ……?」
「簡単だよ。ほら、よく死ぬことを『永遠の別れ』とかいうでしょ? だったら生きたまま別れるのは、逆に言い換えれば『一時的な死』ってことにならない?」
「なるほど」と合点がいった。「じゃあ、再会したら別れた相手は復活するんですか?」
「そう考えてもいい」
「じゃあ、ゾンビみたいですね。私たちは常に生きたり死んだりしてるんだ。……でも、お互い生きていても、永遠に出会えない可能性もありますよね」
「それもまた、ひとつの死じゃないのかな」
「そうですか。……悲しいですね。生きてるのに……」と言いかけて、私はあることをおもいついた。「どんな死も、ぜんぶ『長いお別れ』って呼んじゃいましょうよ。そうすれば、またいつか出会えるかも――って気がしませんか?」
 私は立ち上がり、「んーっ」と両腕を伸ばした。
「呼び方の問題じゃん」
「だからこそ大事なんですよ。弘樹さんは分かってないなぁ」
 私は星空の下で、そう言って笑ったのだ。

 できるだけ家に帰りたくなかったから、私は二人に放課後遊んでくれないか、とそれとなくお願いしてみた。二人はゲームセンターやカラオケに私を連れて行ってくれた。どれも行ったことのない場所だ。私の家族はそういった娯楽に縁がなかったから、とっても新鮮だった。
 ゲームセンターのホッケーで私たちふたりに二対一で挑む木田さん。シュートを決めて「よっしゃ」とガッツポーズをする。……口調が崩れている。「朋佳さん、よそ見なんてして随分と余裕なのね」と言われ、慌ててゲームに集中する。隣の弘樹さんを見たとき、思わず目が合って「……あ」とどきどきしたが、彼は「落ち着こう」と頷いて、またゲームが再開する。その顔はすごく凛々しくて、こっちまで闘志が湧いてくる。自分も頑張ろう――
 そうやって遊んでいる間にも、家のことは常に頭の片隅にあった。でも二人に言えなかった。きっと、目を逸らしていたんだと思う。嫌な予感を振り払うように、私はホッケーに集中した。

 やがて私は、彼に陳腐なほど特別な感情を抱いているのに気づいた。
 ……でも、彼はどうなのかは分からなかったし、せっかく巡り合えたのに、もしもすれ違ったならば今後人生が別れて後悔するかもしれない。そう思うと、私はちょっとばかり暗澹とした気持ちになったものだ。
 私の魂は、あの頃より予想以上に成長していた。

 そんな気持ちが募っていくある日。夏休み中も三人は『部活』に顔を出していた。屋上に向かおうとする私は「ちょっといいかな」と、クラスに来た弘樹くんに呼び止められた。
 彼は何も言わないまま歩く。私は少しばかりの不安と高揚感に襲われた。
 やがて着いたのは空き教室。私は、これから何が起こるのか全く予想できなかった。
 だから彼の言葉は、まったくの不意打ちになったのだ。
「今こそ、はっきり言いたいことがあるんだ。ずっと言わないでおいたことを」
「はっきり? 何か隠していたんですか……?」
 不安になる私に「君のことは大丈夫だよ」と彼は微笑む。相変わらず、人を安心させる笑い方に、いくらかは安堵した。
「ショックを受けるかもしれないけど、単刀直入に言うね」
 ――けれど、そんな安堵も一瞬で吹き飛ばされることになる、
 弘樹さんはいつものように、今日の天気と同じ程度の話題を持ち出すように、平然と告げた。
「たぶん僕は、そんなに長くない」

 言葉が出なかった。
 この時が永遠に続いてほしかった。
 でもそれは、やはり叶わない。彼には時間がなかったのだ。今までそれを隠していたのだ。
「僕はもうたくさんの世界を見てきた。だからここで死んだら、もしかしたら消滅してしまうのかもしれない」
「そんな、そんな――」必死に声を絞り出す。「何か方法はないんですか? また世界を分岐させるとか――」
「たぶん無理だ。だって、そんなことをしたら、朋佳と離れてしまう可能性が高い」
「――っ!」
「僕は、君と離れたくないんだ」
 ああ、ああ。
 私はこの瞬間、もっとも幸せだった。でも――同じぐらい、悲しかった。
 彼は私のために、残りの時間を全部差し出すと言っているんだから。
「できる限り、この繋がったままの君と一緒にいたい。君はまだどこかに行ってしまうかもしれないから、ずっとはいられないかもしれないけど、でもきっと大丈夫だ。大学に行って、就職して、それでもまだ《移動》しないかもしれない。お互いそれが続けば、もう治ったも同然だろう? いや、本当に治る可能性だってあるかもしれない。だから、楽観的になろう。そして、それが叶う限り――唐突かもしれないけど」
 彼の目は、まっすぐ私を射抜く。

「できる限り、楽しくやろう」

 その時の西日は、思い出すだけで目が痛むほどに記憶に焼き付いている。幻想的で、まるで世界が終わるかのように真っ赤に染まっていた、空。
「……はい」
 私は答えた。涙ぐむ目を袖で拭った。本当はもう彼に抱き着いて、胸の中で泣きたかったけれど、それはしなかった。私は、強くならなきゃいけないと思ったから。
 彼が死んでも、私の人生に分岐の可能性が残っている限り、生き続けなければいけない。
 分かっている。
 分かっているから、依存しちゃダメなんだ。
 私はこの瞬間を大切にしなきゃいけないんだ。その記憶を、これからの宝物にするために。

 それからの日々は、私にとって輝かしい時間になった。
 時間で言うならば、ほんの短い日数だったけれど、終わりを意識していると、世界は異常なほどに輝く。『ファイト・クラブ』という映画で、夢をあきらめかけたある医学生が主人公の友人であるタイラー・ダーデンに拳銃を突き付けられ「君が獣医になる勉強をちゃんとしなければ、明日にでも殺す」と告げられ、解放されるシーンがあった。そこでタイラーは「彼が食べる朝食は、世界で一番美味くなるだろう」という意味のことを言うのだ。
 それは正しかった。
 私は短い時間で二人と極限まで仲良くした。夏休みなら時間はたっぷりある。ゲームセンターでプリクラを撮るところから始まり、ウィンドウショッピング。博物館にも水族館にも遊園地にも行った。実現はしなかったけれど、旅行さえ企画した。
 それでも時間というのは残酷だ。幸福な日々も無情に過ぎていく。
 そしてそれは、あっけなく崩壊することになる。

 

6 - foolish

 決定的なことが起きたのは、夏休みの終わりに入る直前だった。
 ある休日、目が覚めたとき、奇妙な匂いに気づいた。
 やがてすぐに気づく。
 ――それは、ほぼ間違いなく血の匂いだった。
 私は慌てて下の階に駆け出す。その匂いの元はドアの少し開いた寝室だった。
 ゆっくりと近づいて、隙間から中を見る。暗い。だがすぐに目は慣れた。そして、何が見えたのか理解した瞬間に、脚から力が抜けて、その場にへたり込んだ。身体は小刻みに降るえ、心臓はバクバクと暴れる。
 そこにあったのは、父の死体。
 それと、血だらけのまま包丁を持った、姉の姿だった。

 思考が真っ白になった。

 逃げなきゃ――と思ったのもつかの間、立ち上がろうとしてノブに頭をぶつけてしまった。
「……朋佳?」
 その衝撃で、姉は私に気づいたようだった。
 キィ、と衝撃でドアが開き、私の姿がさらされてしまう。――同時に二人の様子がはっきりと見える。暗い部屋の中、姉は裸の上に鮮血で染まったワイシャツを羽織っている。父は――死体に対して、私は表現する言葉を知らない。何を言えばいいと言うのだろうか?
「ああ、朋佳。来たのね」
 何か言葉を発そうとしたが、口はぱくぱくと開閉を繰り返すばかりで、何の音も出てこない。
「姉さん、パパを殺しちゃった」
「あ、う……」
「こうするしかなかったんだ」
 姉の方を再びゆっくり見ると、腕が傷だらけなのが目についた。全部、切り傷。
「なん、で」
「知ってるでしょ? もう限界だったの」
 なんで、笑うの。
「そうだよ。私は朋佳を守れたんだ。ママが死んでから、この人は気が狂ったもんね。可哀想に。私は娘だよ? 頭が湧いているとしか言いようがない。まぁ仕方ないよね。あんな惨たらしくママが死んだから、おかしくなっちゃったんだね。ママも災難だね。ほら、本物のパパと一度離婚してから具合が悪くなって会社を辞めたよね? その後こんな奴と出会わなければよかったのに。カネがあっただけの下種なんかに騙されてさ。でももうどうでもいいや。私はずっと朋佳を守ってきたし、最後はほら、手を出す前に全部終わらせたから。だから安心していいよ」
 生気のない声で、訊かれてもいないのに話し始める姉に、私は心底怯えた。
 やっと分かった。――この家は、この家族は、破綻したのだ。恐らくは母の死がきっかけで。
 私は後ずさりをしていた。それを見て姉は「ねぇ、どうして怖がるの? 私、そんなにバカじゃないよ。ほら、こっちにおいで?」と両手を広げた。
 ……咄嗟に私は、ばねのように膝を一気に伸ばして立ちあがると、そのまま廊下を突っ切ろうとした。でもだめだった。途中で転んで、床に頭をぶつけ、意識が遠のく。それでも私は必死だった。這うように和室に入ってからドアに鍵をかけ、立てこもる。……警察を! ポケットをまさぐると、スマートフォンがあった。機械的に手は動く。そう、警察に電話――そこまで考えて、私は手を止めた。この状態では何も話せないだろう。それにもし姉が逮捕されたら? 彼女はどうなるんだ?
 電話帳を見て、誰か頼れそうな人を探した。とはいえ登録されている人の数は少ない。でも、あの二人なら頼りになる――そう思った。とりあえず弘樹さんに電話をかける。待ち時間は無限に流れていくような気がした。祈るように待ちながら、五回目のコールでようやく繋がった。
「もしもし。朋佳?」という声に、泣きたくなるぐらい安堵した。私は無理やりに声帯に力を入れて、「……たすけて」と声を出した。
「パパが、死んでる」
「死んでる?」
「殺されて、その、お姉ちゃんに――包丁で――」
「警察は呼んだ?」
「あ、分かんない、お姉ちゃんが捕まったら、でもこのままだと、私、いや、間に合わない」
「――分かった」私の滅茶苦茶な説明にも、彼は動揺一つしなかった。「出られる? それとも今行く?」
「だめ! 危ない」と私は叫ぶ。そこで気づく。ドアがガンガンと叩かれている。まさか――
「今、和室にいて、お姉ちゃん、お姉ちゃんが」
「外に出られる場所はある?」
 泣き出したくなる気持ちをこらえて辺りを見回すと、庭に通じる窓が目の前にある。そうだ! 
「出られる、かも」
「じゃあ別のところで落ち合おう。そうだな――これから指定する場所に来れる?」
「……分かった」
 私は今度こそ意を決して、窓を開けて庭に飛び降り、靴下のまま駆け出した。

 アスファルトが足に食い込んで痛い。通りかかる人たちは、何事かと私をじろじろ見る。
 それでも私は街まで走ると、息を切らして路地裏でビルの壁に肩をつけた。何もかもが滅茶苦茶だった。泣きたかった。でも涙が出なかった。訳が分からなかった。
 私は再び電話をかけた。
「ごめんなさい。動けない、無理かも」
「どこにいるかは分かる?」
「えっと――」私が近くの建物を列挙すると、彼はあたりをつけたようで「分かった。迎えに行く」と言った。「そこは木田さんの家の方が近いから、巻き込むのは悪いけど彼女にも手伝ってもらった方がいいかもしれない。彼女に通報してもらおう。とにかく――すぐに向かうから」
 そのまま電話は切れる。私は地面にへたり込んだ。頭の中はぐちゃぐちゃで、収拾がつかなかった。このまま別の世界へ《移動》してしまいたかった。ここから逃げたかった。でもその瞬間は、こんなときに限ってやってこなかった。
 永遠にも思える時間が過ぎていく。私の家族に何があったのかは、幼い私でももうそれとなく察することができていた。母は死に、父は狂い、姉は壊れた。どうして? 私が悪いのか? 私が、私が――
「朋佳?」
 その瞬間、女性の声で現実に引き戻される。
 姉だ。
 幻聴ではない。目を向けると、確かに彼女がそこにいる。
「どうして逃げたの?」という声からは狂気じみた敵意を感じた。もう会話は通じないだろう。
「おねえ、ちゃん……なんで、ここが」
「朋佳、ちゃんと今でも言いつけを守って、GPSをつけててくれたもんね。見つかって助かったわ。でもね……私は怒ってるんだよ。なんで私を選ばないの? ねぇ、こんなに頑張ったのに、なんで受け入れてくれないの? 答えてよ。私と楽になろう?」
 もう、彼女はあの日見た姉ではなかった。
 路地裏の闇にぎらりと何かが光った。彼女が腕を振り上げたのだ。その手には、たぶん――
「ね、私ももう終わりなの。そう、もう全部――」
 耳を塞ぐ。何も見えない聞こえない見えない聞こえない全部消えろ消えろ消えろ。
 その場から動くこともできないまま、私は最後の時を待った。
 そして目を開けたとき。
 姉が、腕を振り下ろして――

「朋佳!」

 割って入ったのは、弘樹さんだった。
 そして、刃の先は、彼に突きたてられた。

 気がつくとそこにあったのは、動かなくなった二人の死体。弘樹さんはめった刺しにされて傷だらけだったが、包丁は彼の手にあって、姉を突き刺していた。姉は目を見開いたまま、絶命していた。
 全部、終わっていた。
 世界は、誤った方向に分岐してしまった。

 恐らくは木田さんが呼んだであろう警察に保護された私は、呆けたまま何も感じなくなっていた。それからのことはよく覚えていない。ただ、ある女性と出会ったことだけは確かだ。
 取り調べでの証言で何一つ喋れなかった私だったが、まもなく違う部屋に呼ばれた。
 そこにいた若々しく小柄な女性は「カウンセラーの青山です」と名乗って、名刺を取り出した。長ったらしい肩書の隅には「入不二研究室」という単語が書かれていた。
「よろしくお願いします」と言った私は、なんとなく今までの自分の身に起きたことを喋ってみた。その頃には、びっくりするほど私は精神的に成熟していた。だからすらすらと、自分の人生を語ることができた。もちろん彼女はPTSDのようなものの症状にしか思えなかっただろうが、それでもメモをとしながら真剣に聞いてくれた。
「……これはきっと、病なんだと思います」
「病?」
「そうです。私がこんな風に時間を生きていることは、きっと病気なんだと思います。ちっとも、恵まれてなんかいない。私も彼も……病気に呪われているんです」
 最後に私は「はやく次の世界に行きたいです。弘樹くんが生きている世界に」と言った。
 惨めだった。
 まだ彼に縋っている自分の弱さ脆さが、滑稽だった。
 ……青山さんは何も言わず、黙ってうなずいた。

 本来ならばここで物語は終わっただろう。だが、数奇なことに、私には再びチャンスが巡ってくることになる。だが、それによって更に、私の人生は残酷さを増していく。
 なぜならば、次に目覚めた場所は――彼が大学生として生きている世界だったのだから。
 
 そう。私と出会う前の弘樹さんは「大学生だった場所にいた」と話していたはずだ。だから私が同じ世界の同じ時間にやってきたと知ったとき、私は大きな希望を感じた。大袈裟なほどの、希望を感じた。
 その世界では家族三人ともが仲良く過ごしていたが、もはや私は彼ら彼女らに対して嫌悪感しか湧かなかった。でもどうでもいい。彼に出会うことができれば、運命を変えられるかもしれない。それだけで私は再び生きている実感を覚えたし、使命を感じた。
 なんて幼稚だったのだろう。
 私は彼に手紙を出した。会ってください。名前を知ってください。それだけでよかった。住所と電話番号を記載して、連絡が来るのを待った。
 またしても私は彼に寄りかかってしまったのだ。
 ……でも二人が出会う前に、私はまた別の時間に移った。

 痛みは人に生きている実感を与えるという。だが私にとってそれは余計なものでしかなかった。意識を失っているときの方がずっとマシなのだ。たまに目が覚めて猛烈な頭の痛みに襲われ、また倒れる。早く死ね! 早く! そう願うほどに。そして――最後に、意識が途切れる。
 私の肉体は、寿命を終えつつあった。

 その後にいくつかの世界を《移動》したが、私の脳疾患による死は肉体的に避けられないことが明らかになった。弘樹さんのような飛行機事故ならまだしも、病は私にはどうすることもできないものだ。だから諦めざるを得なかった。私は絶望した。絶望の中で放浪した。そのうちに私は、様々なことに俯瞰的になるようになってしまった。語りたくはないが、家族が崩壊した世界も改めて体験した。でも、私にとってはそれさえも些細だった。弘樹さんを失う苦痛と比べれば。何年、何十年、何百年――体感時間がどれほどだったかは、もう分からない。でもどうでもよかった。自分の寿命など、さっさと尽きてしまえばいいと思った。でも、そんな虚無へ向かう道のりの中で――ふと、あることに気づいた。
 飛行機事故なら、防げるかもしれない。
 どうして気づかなかったのだろう。
 ――そもそも、彼がこの病を発症しなければ、ぜんぶ解決じゃないか?

 それは、弱い私からの卒業だ。

 無限にも思える時間を耐え続けた末に私が戻ってきたのは、私が最初にいた、小学生の世界。なんとも懐かしい風景だったが、この精神年齢で見返してみると、かつて見たときより世界はどこかくすんでいるように感じられた。きっと「何もかも輝いていた子供の頃」というのは、私たちの幼く無恥な魂による錯覚なのだろう。そう思うと、無性に悲しかった。
 私は味方を増やすため、教室で転校してきたばかりの木田さんにアプローチをかけた。彼女は転校後の好奇の目にも冷たい反応を帰すばかりだったから、やがてみんなも興味を失い、たちまち孤立してしまっていた。だから話しかけるのには勇気が必要だった。それでも、日直で偶然女子同士で同じペアになったとき、私は声をかけることができた。
「木田さん、ちょっといい?」放課後に日誌を書く彼女に、黒板を綺麗にしながら話しかける。
「何かしら」と刺々しい声。
「せっかくだし、これから一緒に帰らない?」
「どうしてそうする必要があるのかしら」と言われたが、私はもうあの頃の軟弱な自分じゃない。だから平気だ――そう言い聞かせて、強く出た。
「どうしても話したいことがあるの」
「……」
 どうしても、という言葉に彼女は何かを感じたようだ。
「本当に、どうしても?」
「本当の、本当に」
 彼女は「いいわ」と言うと「大事な話みたいだから」と呟いた。
 私は思う。――この頃から、彼女はとんでもなく聡かったのだと。

 私の仕事はもう一つあった。そしてそれは、最も重要で、絶対に失敗してはいけないものだ。
 長い時間の中で、すでに私は彼がどの学校に行っているのかを調べていた。だからあとは見つけるだけでいい。
 授業終了の時刻に合わせて、校門の隅で私は彼を待った。まだ生徒は誰も帰り始めていない。中学時代の彼の顔写真は、学校Webサイトの部活コーナー「囲碁将棋部」に載っていた。ネットリテラシーの欠片もないバカさには呆れたが、まぁいい。
 やがてガヤガヤとやかましい話声とともに、制服に身を包んだ子供たちが出てくる。見逃さまいと必死に目を凝らす。途中で通りかかった強面の先生に訝しい目で見られたが、「兄を迎えに来た妹です」と言うと「気をつけてね」と難なく見過ごしてくれた。確かに、小学生(の外見の人間)がここにいたって何の害もなせないだろう。
 この中学校は幸運にも裏門が老朽化で閉鎖されており、非常時を除けば生徒が使う門がひとつしかない。だから待ち続ければ必ず見つかるはずだ。
 そして――見つけた!
 間違いない。写真で見た通りだ。いや、調べるまでもなかったかもしれない。高校の頃と、顔立ちがまったく変わっていなかったのだから。あの柔和で童顔の、そのままの姿。
 思わずうっとりとしてしまったが――私は見逃さない。後を追う。

 私の脚で彼に追いつくのは難しいだろうから、先にショートカットして待つことにした。方法は簡単。家の塀の上に登る。
 小柄なことを逆手に取った作戦だ。
 既に経路は分かっている。性格的に彼は寄り道なんてしないだろうから、待ち構えていればいいわけだ。
 ちょうど低い場所を狙って、誰かに見られていないか注意して塀に登る。いちばん上に掛けた手にざらざらしたブロックの表面が食い込んで痛い。そのままバランスを取りながら早足で歩き始める。
 ときどき体勢を崩して落ちそうになる。何度目かのとき、慌てて足首の上をすりむいてしまった。ズボンを履いてくればよかったと心底後悔した。こう言うところで私は抜けている。血が出る。痛い。痛い。でももう慣れてる。こんな痛みどうってことない。落ちかけているが、片足と両手が引っかかっているので、力をかけてまた登った。急がないと!
 やがて彼の住むマンションが見えた。あと一歩だ。最後の難所は塀から降りる瞬間だ。ゆっくり慎重に身体を下ろさないと危険だが、今は時間がない。私は賭けに出た。
 少しばかり勢いをつけてから――飛び降りた。
 あとは跳び箱の着地の要領を思い出せばいいのだ。膝をばねのようにして、速度を受け止める――ことはできなかった。地面はアスファルトなのだ。そのままバランスを崩して落ちてしまった。唯一の救いは、受け身のような形になったので頭や身体に衝撃が直撃しなかったこと。
 ……いや。もう一つ救いがあった。
「えっ……どうしたの?」
 私が落ちたとき、ちょうど目の前に弘樹さんがいたのだ。

「血――大変だ。今応急手当のキットを持ってくるから、待ってて」
 彼はそれだけ言ってマンションまで走り去り、まもなく大袈裟な救急箱をもって現れた。それからマンションに併設された公園に向かい、私は彼に傷を消毒され、絆創膏まで貼ってもらってしまった。
 二人して、ひとまず胸を撫で下ろした。
「よかった……って、それにしてもなんであんなところにいたの?」
 そこで慌てて思い出す。チャンスだ。早く言わないと!
 さぁ――

「明日の祝日から三日間で、あなたは家族旅行に行くんですよね? 国内便に乗って」

 その言葉に、彼はみるみるうち表情を変えた。
「なんで、それを……」
「私には、全部分かってます。全部知ってるんです。あなたが事故に遭うことも」
「事故って……どういうこと?」
 弘樹さんは明らかに戸惑っている。当たり前だ。いきなり見ず知らずの小学生にこんなことを言われて、理解できるはずがない。それでも――この可能性に賭けるしかなかった。きっと彼なら。きっと彼なら。それだけを信じて、私はこれまでの人生で最も強く、声を張った。
「飛行機には乗らないで」
「――えっ? 飛行機に?」
「そう。絶対に絶対に、乗らないで。じゃないと、落ちます」
 私はそう告げた。
「必ず、墜落します。家族全員が亡くなります」
 彼の目を見て、真剣に、切実に。この想いが伝わるように、この瞬間のために自分が存在しているとすら、感じるほどに――祈った。
 やがて彼が、ゆっくりと口を開く。
「……考える」と、言った。
「――信じてくれるんですか」
「本気なのが伝わったから。本気で僕のことを気にしてくれているんだな、って」
 私は頷いた。何度も何度も。涙を堪えた。歯を食いしばった。
 ねぇ、あの時の弘樹さん。頑張ったよ。これでもう、心配いらないんだよ。
 ――私は、その後に高望みして、最後の願いを口した。
「私を、忘れないでね。弘樹さん」
 私は彼の目を見て、もう一度はっきりと言った。
 弘樹さんなら――意味が分からずとも、この言葉を大事にしてくれるはず。
 彼は、私が名前を知っているのにも驚いたようだったが――
「それも、分かった」
 そう言って、私の頭を撫でてくれた。
 その優しい感触は、今までの私の努力をすべて包み込んでくれるかのようだった。

 ――結果から言えば、彼は飛行機には乗らなかった。
 でも、二つ目の願いは、叶わなかった。

 それから私は、弘樹さんの人生には一切関わらなかった。
 母は幼いうちに死んでしまった。自殺だった。以前から頭痛などの持病があったそうだ。
 木田さん――いや、野矢さん(家庭の事情で名字が変わったのだ)とは一気に親密になった。中学受験が決まっていた彼女に私はついていき、エスカレーター式に中学と高校(の途中まで)を過ごした。寮生活だったので、家族のゴタゴタから身を引くこともできた。姉もまた家を出ていき、幸運なことに一家離散で事件は起きなかった。
 一度高校の頃に(ちょうどその親の事情で)彼女が転校しそうになったことがあったが、私は彼女を説得し、強引にそれを回避した。転校先は弘樹くんのいた高校だったし……この病を知る人間が近辺にいることはよからぬ結果を招くのではないかと感じたからだ。また。
 一つ印象的なエピソードは、私が彼女の口調を変えてしまったことだ。
 中学に上がる頃、私は「なんか、もうお互い呼びしてでいいんじゃないの?」と提案したのだ。
 彼女はそこそこの名家の出だから躊躇っていたが、「まぁ……そうね」と納得はした。
「あと……もっと砕けた口調の方が、珠希さん……いや、珠希に合ってる気がする。性格が」
「なんか恥ずかしいのだけれど……」
「呼んでるうちに慣れるよ。ほら、珠希!」
「と、朋佳……」
「珠希!」
「朋佳……」
「よし、いい感じ」
「なんか、身体がむずむずするなぁ、まったく……あ」
「ほら。そういう語尾の方がいいよ。私は好きだな」
「……じゃあ、そうしようかし……いや、しようかな」
 中学の時点から私たちは既に入不二研究室に入り浸っていた。私の症状に興味を持った野矢さん――いや、もう珠希と呼んでおこう――と先生、それとその知己である青山さんの四人で研究に取り組み始めた。実験台は私。もっとも。サンプルとして私はあまり有用ではなく、研究はさほど進まなかったが……残念だ。
 ……驚いたことに、この世界は一度も《移動》することなく何年も続いた。こちらに関してはもう納得している。残りの人生が尽きかけており、私の完全な消滅が近づいている証だろう。
 あと意外だったのは、私が一度ここに来たことがあったという事実だ。そう、あの時手紙を出した場所と同じ世界だったのだ。それは、ちょうど私が自宅に帰っていたときに一瞬だけ起きたことだったから、気づかなかったのだ。この事実を知って私は大いに震えた。――すべては、繋がっていたのだ。
 そして私の体調は予想通り悪化し、かねてからの計画通り先生は療養所を強引に設置した。終の棲家として、私が利用するために。

 一つ残った問題。
 手紙の件は厄介なことこの上なかった。
 彼と会うことは気が重かった。もう一度「以前の手紙は無視してください」という文面を送ったとしても、おそらく性格的に無視するに決まっている。それでも、ここにきたら必ず帰さなければいけない。本当なら二度と出会わなければよかったのだが、すべて自分のミスだ。あの頃の私はあまりにも弱くて愚かだったから――そのツケが回ってしまった。
 私の不安は、彼が自然に(または再びのなんらかの事故等で)再発してしまうのではないかというものだった。だが今の彼を見るにそれは問題なさそうだ。私のように病を発症してしまうこともありえそうだったが、それはないように願うしかない。ただ、彼のカルテを(およそあまり褒められない方法で)入手した香苗さんの言うところでは、脳に異常はまったく見られず、他の身体も健康体そのものであるらしいので、まぁ問題はないはずだ。
 私は彼に二度と会いたくない。
 だから、非情かもしれないが――弘樹さんには帰ってもらおう。
 私は、強くならなくちゃいけないから。

 これは長いお別れだ。二度と出会うことのない別れ。
 ――それは、死に似ている。

 

7 - MISS WORLD

 古い夢を見ていた。
 僕に向けて、語り掛ける人。それはとても小さくて、僕よりずっと背丈が低い。
 その人は子供だ。女の子。小学生ぐらいだろう。でもあんまり幼い感じはしない。なぜだろう。ひどく成熟しているように思える。まるで……外見と精神年齢が一致していないとでも言わんばかりに。
 彼女は僕の目を見て言う。真剣に、切実に。
「乗らないで」
 確かに、告げた。
「――に、乗らないで!」

 目覚めた瞬間に、ぶるりと寒気がした。
 公園のベンチ。そこに僕は座っている――正確には眠っていた、という表現の方が正しい。
 視線を落としてから辺りを見回す。と――横にノートが置いてあるのに気づいた。恐る恐る手に取ってぱらぱらとめくると、中はびっしりと文字で埋まっている。そこには偏執的なものさえ感じられた。
 無視することもできただろう。でも好奇心にそそられながら――それを読み始めた。
「このノートを読んでいるということは、君が時間を《移動》したということだ。ここには現在に至るまでの、君の人生の記録が載っている」
 数行目を通したところで、気づく。この筆跡は、間違いなく僕のものだ。でも、なぜ?
「君は自殺した。朋佳が書いた手記を読んで、彼女を助ける可能性を感じたからだ。その結果、道を開くことになった。でなければ僕はこうして書くことさえできなかっただろう。感謝している。どうだろう。こうして読んでいるうちに思い出せるようになってきただろうか? 世界は分岐していないだろうか? ならば、きっとこれまでのことも思い出せるはずだ。君が事故に遭い、『病』に目覚め、様々な時と場所をさまよったことを。だが、それはまだ序の口なのだ。君はこれから、――運命の出会いをすることになる」
 僕はこの言葉を……知っている。確かに、内容が分かる。
 僕は誰だ? 中島弘樹だ。
 では、僕はどこから来た? ここで目覚める前の僕は、どこから来たんだ?
 ……瞬間に、爆発するように、記憶がフラッシュバックした。

 謎の手紙に呼ばれて、彼女と僕が出会ったあの日のこと。
 最初は冷たかった彼女が、次第に心を開いてくれたこと。
 彼女の身体は蝕まれ、死ぬ定めである事実を知ったこと。
 何一つできぬまま、ただ彼女を見送るしかなかったこと。
 朋佳。
 朋佳。

「君は十三歳の頃に事故で発症した、永井朋佳と同じ時感障害の患者なのだ」

 時感障害……僕が。朋佳と同じ。
「永井朋佳は君を助けるため、君が飛行機に乗る前の時間に飛んだ際に、それに乗らないよう説得した。結果君は言いつけを守り、時感障害を発症しなかった。そしてそこから繋がった世界が――療養所に行って、朋佳の死を看取り、それから一度自殺した世界だ。そこで死んだことで、君は自分が時感障害を持っている世界の残り時間に再び飛ばされたのだ」
 彼女は、僕を助けた。
 だから、今までの二十年以上を僕は平穏に送れた。
 もしもそれが事実ならば、僕は彼女にどれだけ感謝してもしきることはないだろう。そして、そこまでして僕に与えてくれた時間を無駄にしてしまったことをどう償えばいいのか分からなかった。もしそれを知っていたならば。でも彼女は教えないことで、僕に平穏な人生を送らせたかったのかもしれない。
 あの夢。
 あの夢の女の子は、朋佳だったのだ。
 でも……それでも、僕は彼女を助けるしかないと思った。だから、彼女からのプレゼントを捨ててでも、救わなければいけない。それが、僕の結論だった。
 そう――あの岬で、確かに僕はそう思ったのだ。

 朋佳の言葉を読み終えた後、最初に湧いた感情は後悔だった。
 僕が彼女に興味を持ち知ろうとしたこと自体が、彼女がもっとも嫌がるであろうことだった。しかもそれは僕を思って行われていた。僕を助けるために全力を尽くした朋佳。その努力を、僕は愚弄したのだ。朋佳はそれでも優しいから――心を動かされてしまったのだ。
 僕がこれからすべきことは、彼女から送られたこの普通の人間としての時間と人生をまっとうに生きることだろう。
 けれどそれはもう不可能だった。彼女のいない世界には何の価値も見いだせなかった。僕から見れば世界などとうに滅んでいた。この岬に降る海雪は、死の灰に見えた。それほどに僕は弱かった。弱っていた。だからこのヒロイズムは、そんな矮小さの裏返しだ。
 でも、それでも。止まることはできなかった。
 僕たちはひょんの偶然に出会いと別れを繰り返した。もしもあるポイントで出会い、また再会しなければ、それがひとつでも欠ければ、すべては終わったことだろう。なのに――なのに。
 僕がどうするべきなのかは、本能的に分かってはいた。野矢さんの話と合わせれば、僕に何ができるかは自ずと見えてくる。あとは、勇気だけ。
 申し訳ない気持ちでいっぱいだ。朋佳が身を挺して譲ってくれた命を、こんな風に消耗してしまうなんて。それは彼女が最も望まないことだろう。
 ……でも、僕は、その命を燃やさなければならない。
 朋佳がくれた命を、朋佳のために。

 そして僕は岬から身を投げ、別の時間と世界に飛んだ。
 まだ僕が生きていない、空洞になっているポイントに、自動的に飛ばされたのだ。
 ベンチに置かれたノートのページをめくると、そこには図表が載っていた。そこには今までの人生と世界で生きてきた日付が一目で見て取れた。空いていたのは、事故直後と、高校三年生から先だけ。それ以外はもう生き尽くされている。
 僕の横には鞄がある。恐らく自分の物だろう。探してみるとスマートフォンがあった。念のため検索して日付を確認すると――今から三年前。三年前? 高校三年生の頃だ。じゃあ、ちょうどまだここから先は空いているわけだ。
 ……僕はノートを鞄に入れ、ひとまず公園を出ることにした。

 ふらふらと、夢遊病にでもかかったかのように歩いているうちに少しずつ記憶が蘇ってきた。
 それはさまざまなイメージの断片。僕が知らないはずのもの。経験した覚えがないはずなのに、なぜか頭に記憶されているもの。……これはいつも記憶だ? まさか、別の世界の?
 あまりいい思い出ではないものも多かった。
 病院。
 家族の葬式。
 カウンセリング。
 周囲からの好奇の目。
 ……それらすべてを結びつけたのは、「飛行機事故」という単語だった。
 だが不思議なことに、事故の瞬間や直後のことは思い出せなかった。意識を失ったのか、衝撃的な体験だったので記憶が飛んでしまったのか。
 とはいえ、僕がそれを経験したことは間違いないと思われる。――それを確かめるには、ノートの先を読むしかないのかもしれない。
 たった数年でも街は大きく様変わりしていた。これからできる建物はまだなく、なくなったはずの建物はまだあった。そんな一つひとつのことが、ノスタルジーとなって僕を揺さぶる。
 とりあえず自宅に戻ろうと思った。自分は私服姿だ。高校生だったとして、今は放課後か休日だろう。そうなると一旦帰って頭を整理するのが自然ではないだろうか。きっと家の場所は今と変わっていない。
 よし、と足を向けて路地の角を曲がったところで――倒れている人を見た。

 少女だった。
 周囲は見てみぬふりをしたまま彼女を素通りする。だがそれに対する憤りを感じられるほどの余裕はなかった。どんな状態かわからない。一刻も早く僕がなんとかしなければ、と思う。
 駆け足で近づき「大丈夫ですか!」と声をかける。反応はない。ためらいはあったが、身体を何度か揺すった。
 幸運なことに、彼女はすぐに目を覚ました。
「意識はありますか!」
「あ……」
 地面に突っ伏していた顔が露になり、僕の方を向く。
 朋佳だった。

 え……?
 どうして彼女が? と混乱したが、驚く間もなく「あれ……?」と彼女は呟く。そうだ。考えていても仕方がない。まずはなんとかしないと。
「よかった。起きたみたいだ」
「立てる?」と手を貸すと、彼女はゆっくりと立ち上がった。
「あ、ありがとうございます……」
「いや。通りかかったら地面に倒れてて。病院に行きますか?」
「たぶん、大丈夫です」
「そっか。このまま歩けます? 家に戻るなら、一人で平気ですか?」
「あ、悪いので……」
「そうですか? 本当に気になさらないでいいんですよ。どんな手助けもします」
 そう言いながら考える。どうやら彼女は僕のことを知らないらしい。だとすると……? とりあえず、話を聞いてみたくなった。怪しまれないよう、初対面のふりをしながら提案した。
「混乱なさっているようですし、とりあえずどこかで落ち着きませんか?」

 それが、僕と永井朋佳の再会だった。

「改めて、よかったです」
 僕はさっきの公園まで彼女を連れてきて、ベンチに座った。
「飲み物を買ってきます。何がいいですか?」
「いや、大丈夫です。申し訳ないです」
「気にしないでください。何がいいですか?」
 こんなやり取りが何度か繰り返された末にようやく「紅茶で」と言われ、僕は自販機で二人分の飲み物を買った。
「ここまでしていただいていいんでしょうか……」
「問題ないですよ。やっぱり病院に行った方がいい気もしますが……お帰りになられますか?」
「え、あ……その、分からないんです」
 分からない? その言葉が気になった。
「差し支えなければお訊きしたいのですが、分からない、とはどういう意味でしょうか? もしかしたら、怪我だけじゃないことで困ってるんじゃないか、と心配なんですが」
「分からないというか……知らないというか。たぶん、家は前と同じところにあるとは思うけど」
 彼女の言い回しはどことなくおかしかった。もう少し突っ込んで訊いてみる。
「他のことは分かりますか? 年齢とか、名前とか」
「ええ、分かります。でも住所は分からないです。他にも分からないことは……あります。でも記憶喪失じゃないと思います。えっと……なんて言ったら……」
 彼女は口ごもったが、やがて意を決したように話し始めた。
「私は、本当はまだ十二歳で、中身? だけ別々の時間にいるんです。未来に飛んで。また戻って、それで……いや、ごめんなさい。意味分からないですよね」
 その言葉――間違いない。
 この朋佳は、時感障害を発症しているのだ。

 とはいえ彼女がいつの朋佳なのかは相変わらずはっきりしない。療養所にいたとき、僕と朋佳は「別の世界」で出会っていたのではないかと推測した。ここがその場所なのか? だが、まだ頭の整理がつかない。
 何を言うべきか。
 僕は慎重に言葉を選びながら、話を始めた。
「もしかして、なんですけど。僕も、それかもしれません」
「どういうこと、ですか」
「僕もあなたと同じで、バラバラに時間を生きているんです。十五歳から、ここ三年ほど」
 僕は事故のことを話した。もちろん実際に体験しているわけではないので具体的なことは言えないが、なんとか細部を突っ込まれずに済んだようだった。
 僕は前にいた世界のことを思い出す。そして先生たちに言われた知識と合わせて、なんとか話を繋ぐ。
「この前は大学四年の冬でした。過去もあれば未来もある。確かなのは、一度生きてしまうと、その期間の時間は二度と戻ってこないということです。普通の人間が寿命を消費していくのと同じですね」
「……嘘」
 朋佳は小さな悲鳴を上げる。予想以上にその事実がショックを与えたようだった。なにぶん中身はまだ十二歳なのだ。それも当然だろう。
「もしかしたら、そっちはまだこの現象が起きてからそれほど経っていないのかもしれない。それならまだ時間はあるから、悲観的になりすぎない方がいいけど――」
 話しているうちに、みるみる朋佳の目が潤み、涙が溢れてきた。無理もないだろう。初めて時感障害のルールを知ったのだから。
「あ……ごめん、傷つけることを言ってしまったかな」
 だが、彼女の涙の理由は、違ったようだった。
「違うんです。分かってくれる人がいて、嬉しいんです」
 ……無性に、愛情が湧いてくる答えだった。
 僕もだよ、と思う。

「あの……また、会えないんでしょうか」
 これまでの会話ではっきりと分かったことがあった。この世界は、朋佳が僕を助ける前のポイント。しかも、ちょうど今さっきが、朋佳にとっては僕との初めての出会いだったのだ。
 だとしたら、どうすれば――そうだ。
「それなら、僕を探してください。僕はまだ高校一年の先を体験していない。ということは、そこにたどり着いたときに、僕は今ここで君と一度出会ったことを覚えているはず。そこで僕と再会できれば、何か違う道が見つかるかもしれない」
「……また出会える確証は、あるんですか」
「さぁ」
 僕は笑った。「何か目印になるものでもあれば、また違うけど」
「あの、訊きたいんですけど――高校、教えてくれませんか?」
「ああ……もしかして、その時に着いたら、僕を訪ねてきてくれるんですか?」
「はい」
 なるほど。それならば、僕の残り時間が尽きる前に出会える。
「じゃあ、最後に名前を訊こう。僕は中島弘樹。君は?」
「永井、朋佳です」
「よろしく」
「……よろしく、お願いします」
 僕たちは握手をした。
 抱き締めたい――そんな本当の気持ちを、殺しながら。

 自宅でノートを精読してから、今後のことを考えるようになった。
 僕がどうしたいか。その気持ちはもうはっきりしている。
 朋佳を救うこと。
 彼女が僕にくれた恩に、報いること。
 そのために何ができるか、考えろ。

 高校生活は懐かしさの連続だった。教室も、黒板も、教科書も、ノートも、制服も、上履きも、ローファーも。……とはいえ(発症しなかった世界の)自分の記憶とは違うこともあった。
 僕が、思ったより孤立していたことだ。
 登校して二日と経たぬうちに、それはボディーブローのようにのしかかり、きつくなってきた。誰も話しかけてこない。用事でやり取りをするときも、非常にぎこちない間があって、それが嫌で嫌で仕方がない。まぁ、考えてみれば時感障害の人間は他人とあまり関係を持ちたがらないだろうから、こうなるのも仕方がないのかもしれない。普通の人生のありがたみがよく分かる。
 そして、ついに今日限界が訪れた。もはや教室で食事を摂ることすら嫌になってしまった。どこか食べる場所がないか。だが場所によってはもっと惨めになるだけだろう。そんなことを思いながらとぼとぼ廊下を歩いて、階段に入ったとき――ある女の子とすれ違った。
 彼女はきょろきょろと周囲の目を伺っている。どこか目的地があるのだろうか。興味が湧いた僕は、気づかれないように後を追った。すると彼女は四階の階段をさらに登り、『立ち入り禁止』の表示を越えて――屋上の扉を開けてしまった。
 驚いた衝撃で、道を封鎖していたコーンを蹴飛ばす。物音に感づいて振り向いた彼女と、目が合ってしまった。「あ」と声を上げたが、もう遅い――
「――ごめんなさい‼」
 叫ぶ彼女の声と顔は、どこかで覚えがあった。

 木田珠希。それが高校時代の野矢さんであることはすぐ分かった。確かに青山さんは「若い」といっていたがあまりの事実にどこから突っ込んでいいのかは分からなくて――でも、これはチャンスではないか。
「ごめんなさいっ、偶然開け方を見つけて、誰にも見つからないから、暇なときにいつもここに来てたんです……言いつけないでほしいです、何だってします、だから……」
「ねぇ」
「は、はいっ、なんなりと」と緊張する彼女を、僕は柄にもなく脅してしまった。
「じゃあ、一つお願いがあるんだけど――」

 それから僕たちは屋上で遊ぶ仲になった。昼休みとか、放課後とか。珠希(この呼び方には慣れない)の口調があまりにもかけ離れていたので驚いたが、話しているうちに、年は違えど、この人は同一人物なのだな、という実感を持った。それならば――何か協力の糸口がつかめるかもしれない。僕は自身の時感障害について明かすタイミングを探っていた。
「先輩。紹介したい人がいる、って話をしましたよね」
「ああ」確か、そんな話を昨日聞いたっけ。若干の警戒心が湧いたが、まぁ別に構わないか――とすぐ思い直した。僕の計画には特に邪魔にならない。

 そして翌日、僕が馬鹿だったことはすぐに明らかになる。
「えーと、この子が……例の?」と、必死で冷静を装ったけれど――
 つまるところ。
「は、はじめましてっ」
 朋佳は、この高校に在籍していたのだ。

 僕は彼女に情報を与えることにした。
 小学生相手に時感障害の話をするのは難しく感じたが、彼女はなんとかついてきてくれた。SFが好きだったのも幸運だっただろうが、時感障害の患者は異常な成熟を見せるのだろうか。

 僕に残された時間が少ないことは分かっていた。でも朋佳が僕のことを心配しないよう、それを隠したまま三人でたくさん遊んだ。
 
 珠希はボードゲームが好きだったから、僕たちは屋上でそれに興じた。購買のパンや菓子、弁当のおかずを賭けて奪い合うのだ。あまりにも僕が下手くそなので、いつもすべて珠希に取られてしまい、お情けで朋佳が買い戻す――という展開だった。朋佳はパワーバランスが悪いのを考慮したのか「これなら弘樹さんもできるんじゃないかな」と、ブロックスを持ってきた。
 僕は負け続けた。
 もちろん、手を抜いていたのだけれど――なぜそうしたかといえば、たぶん朋佳が買ったときの笑顔が見たかったからなのかもしれない。

 天文部としての活動を形だけでも行うために、僕たちは許可を得て深夜の学校に入った。
 僕は持ってきたテントを往復して屋上まで運び、備品の望遠鏡をテストした。使い方はよく分からなかったが、とりあえず何かの星を見れればよかった。というか、天の川が肉眼でも見えたので、それだけでテンションが上がったのだ。
 珠希は「キャンプファイヤーとか花火がしたいわね。あとバーベキューとか……」とふざけたことを言っていたが、素人でも思っていた以上に天体観測は楽しめた。
 その後に、みんなが簡素な寝具とともに就寝の準備を済ませ(ちなみに二人とも僕と同じ場所で眠ることには、拍子抜けするほどにまったく抵抗は示さなかった)、眠りに入った頃合いを見計らって僕は外に出ようとした。なんとなく、もう一度星が見たかったのだ。……けれど、テントの中に彼女はいなかった。
 彼女は方位磁針から南の空を確認し、何かを探しているようだった。その姿を息を呑んでみていたが、「――弘樹さん?」と、声をかけられた。どうやら気づかれてしまったようだ。
「なんで隠れてたんですか?」
「いや……すごく集中してるみたいなので」
 彼女は僕に星座早見表を渡してきた。「どれを探しているの?」と訊くと「あれです」と空を指さした。――そこは天の川の真ん中。表を見てみると、その星座はS字型に川の流れを横切っている。
 さそり座。
「一番明るいのはアンタレスです。分かりやすいですね」と、横で彼女が言った。
「星、詳しいの?」
「いえ。天文学には明るくないです。ここに来る前に検索してきました」
 身も蓋もなかった。
「でもね。さそり座に関する好きな話があるんです」
 彼女はそう言って、ある物語を話し始めた。
「『むかしのバルドラの野原に一ぴきのサソリがいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日イタチに見つかって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命にげてにげたけどとうとういたちに押さえられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺れはじめたのよ。そのときさそりはこう云ってお祈いのりしたというの、

 ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちにくれてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてず、どうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。

 って云ったというの。そしたらいつかサソリはじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって』――おしまい」
 彼女は一字一句を暗記しているかのように、すらすらとそらんじた。
「弘樹さんはどう思いますか? この話」
 少し考えてから、僕は答えた。「すごく……サソリに共感する、かな」
「共感ですか?」
「そう。サソリはきっと強くない。弱いと思う。たぶん自分がどうしたいか、自分にとって何がいいか、何が利益になるか――そういうことを考えられる人の方が、立派で、強い。でも僕もサソリと同じだ。自分のためだけに生きられるほど、僕は強くない……から」
「……」
「だから、誰かに縋って生きているのかもしれない、と思った」
 朋佳はそれを聞いたまま黙っていたがやがて「……そうですか」と言った。
「弘樹さんらしいですね」
 そのまま彼女は座り込んで、寝転がった。僕もつられて横になる。
 それから僕はなんとなしに「朋佳」と声をかけた。「何ですか?」と彼女が答える。実は理由もなく呼んでみたのだが、そう言って話を終えてしまいたくなかったので、適当に訊いてみた。
 話題はこれだ。
「ねぇ、レイモンド・チャンドラーを読んだことはある?」

 一見楽しい日々を送りながら、裏で僕はひどく気を遣った。彼女が僕の真実に感づいてしまったら、また僕を助ける方法を模索して、事態が逆戻りしてしまうかもしれない。
 だから、秘めた気持ちのことは決して言えなかった。

 やがて僕は第二のプランに移ることにした。
 珠希は入不二家とコネクションを持っている――そういう話は過去に青山さんから聞いていた。だから、彼女を味方に引き入れることは大きな一歩になる。あとは本人が信じてくれるかだが――勇気を出して「珠希、ちょっといいかな」と、二人きりのときに告げた。
 彼女の反応は、まぁまぁ悪くなかった。
「……信じるの?」
「うん」とそっけなく珠希は言った。「その方が面白いじゃん」
 呆気にとられた。この頃から彼女は変わっていなかったのか。
「真面目なことを言えば、彼女が何か事情を抱えていることは、最初から察することができてたから。それに、二人とも悩んでいるんでしょ? それなら私も協力したいな」
 彼女は自発的に「入不二さんの研究室なら、分かってもらえるかもしれない。変な研究をしてるから。時間がどうこうみたいな」と提案してくれた。「だから話しに耐性があるのかも」
 ただ、と彼女は付け足す「本当に、隠すのはいいことなのかしら」
 僕は朋佳の運命を話した。このままでは絶対に死んでしまうということ。そして前の世界で僕を発症から助けたこと。だがそれは元に戻ったこと。彼女を僕が救いたいこと。だが僕の残り時間が短いことを教えると、また僕を助けようとしてしまうこと。
「……分かった」と彼女は頷いた。納得はしかねるようだったが、理解はできたのだろう。

 そして、僕はついに重要なステップを踏むことにした。
 休日、僕と珠希はこっそりと大学の片隅にあった入不二研究室に向かった。
 先生は例によって白衣姿。外見は未来とほとんど変わらない。
 顔を合わせるなり「香苗!」と珠希が彼女に飛びついて「やめろ」と頭を叩かれる。
 先生は僕の話を疑わず、親身に聞いてくれた。
「……それで、君と朋佳ちゃんはバラバラの時間を生きている、と」
「そうです」と僕は頷く。未来で朋佳が死んだことは、ひとまず隠した。
「私は昔から似たような症状を起こす人を研究していてね。非公式に『時感』と名付けている。通常の人間と違う時間観を持っている人や、それに近い体験の原因はそれぞれだ。LSDやモルヒネなどの薬物。また民族の範囲で我々と違う時間を体験している人たちがいる」
 彼女は棚から何冊か本を取り出す。
「医師で作家のオリヴァー・サックスは、モルヒネを注射してから部屋着の上に百年戦争中のイギリス軍とフランス軍の戦闘の幻覚を見た。それが終わったとき、十二時間が経っていた。その間ずっと彼は部屋着を眺め続けていたけれど、彼には一瞬に思えた」
「……」
「また、アフリカのある原住民にとって時間は『ササ』と『ザマニ』の二つしかない。前者は起こりかけていること、今起こっていることと、起こった直後のこと。後者は永遠の過去。例を挙げると、死んだ人間はまだササだが、家族や知り合いが全員死んでしまうとザマニになる。未来という概念はない」
 こんな風に、時間の感覚は決して一律ではないのだよ――そう先生は言った。
「だから君たちのことも疑おうとは思わない。むしろ興味深い研究対象だよ。私は脳科学者として周囲から奇怪な目で見られているから、信頼できるかは怪しいがね」と冗談を交えながら。
「ただ気になるのだが、その朋佳ちゃんとはいっしょに来なかったのかい?」
「……今日は、彼女に聞かれたくない話をしなければいけないので」
 それから僕は珠希に伝えたように、先生にも朋佳に「僕を救ったこと」を話せない理由を教えた。
「ふうん。あれ? でも君は珠希のことを警戒しなかったのかい? たとえば、彼女が朋佳ちゃんに密告する可能性とか」
「そんなはずないです」「そんなことしない」
 僕たちの声は重なった。
「ふふ」と彼女はにやりとした。「信頼されてるんだね」
 珠希の方を向くと「なんなの」と、彼女はなぜかむくれていた。
「とりあえず、君の脳を調べさせてもらうことになるかもしれないね。いいかい? 君はこの現象――いや、症状を治したいんだろう?」
「ええ」
「時間はかかるかもしれないが、極力やってみよう」

 それから、朋佳に隠れて研究室に行くようになった。もちろん三人での時間を減らすことがないように極力の努力を怠らないのは当然だ。怪しまれるかもしれないし、何より彼女のために行動しているのにその本人をないがしろにするのは本末転倒だからだ。

 けれど、僕たちは後悔することになる。
 いや、後悔なんて言葉じゃ生ぬるい――それくらい、取り返しのつかないことが起きる。
 
「……助けて」
 あくる日、朋佳が僕に電話をかけてきた。
 彼女の父が姉に殺されたこと。
 自分も命を狙われたこと。
 僕は珠希とともに、必死で彼女を助けようとした。
 だがそれは失敗した。
 駆けつけたとき、朋佳はもう死んでいた。放心状態でへたり込む姉に、殺されていた。
 死んでいた。
 死んでいた。
 死んでいたのだ。
 ……これ以上、詳しく語る必要があるだろうか?

 

8 - LOVE/HATE

 数か月後に初めて珠希に会った。僕は受験を終え、大学生活が始まっていたが、内心は何も考えられる状態ではなかった。珠希もまたひどく憔悴していた。彼女は自殺未遂を起こし、入院中だった。痛々しい腕や手首の傷が見えた。
 病室で僕たちは黙ったままだった。語るべき言葉が見つからなかった。
「朋佳さんの母親、自殺していたそうですね」
 それきり彼女は口を噤む。
 ……数分間の沈黙ののちに「私、あれから考えました」と彼女は再び話し始めた。
「聴取で姉が言ったそうですが、彼女は生前のある時期から激しい頭痛を訴えていたそうです」
「……どこからそんなことを」と言いかけたが、黙っておいた。
「だとすれば、彼女が時感障害だった可能性も十分にあり得ます。家庭崩壊のきっかけになった可能性もあります。だからどうという話ではないですが」
 珠希はそのまま、力ない目つきで僕を見る。
「これはまた推測なのですが。もしかしたら先輩が殺された未来があったのかもしれません」
「ああ」
「先輩が大学生だった世界で、先輩を朋佳さんが助けた理由もそれで説明できるでしょう。恐らくはあの事件を回避する目的があったはずです」
「ああ」
「それなら、二者択一だったんですね」
 言葉が出なかった。
「何なんですか! こんなの……彼女の人生は――」そのまま泣き崩れる彼女を、僕は支えた。
「朋佳さんの人生は、何だったんですか」

 彼女は退院後も自宅に閉じこもり高校に来なくなった。僕もまた世界からあらゆる色が消えたように感じられた。何を食べても味がせず、何を見ても何を聴いても心が動かされることはなかった。僕たち三人を繋ぐ絆は徹底的に破壊されていた。
 定期的に彼女の元を訪問した。激しい自傷や自殺衝動のようなものはなかったが、痩せぼそり、声も弱弱しく、目線はふらふらと宙をさまよっていた。
 精神のバランスを欠いてしまった彼女に何が必要なのか、分からないまま時が過ぎる。

 ある日、先生が僕の元を訪れた。ずいぶんと久しぶりのことのように感じた。
 彼女は開口一番に行った。
「君は時感障害に関する研究をしたいんじゃないかな?」
「……どこで聞いたんですか」
「いや、おそらくそうだろうなと思ったのだ」
 僕は「……ええ」と答えた。「志望先も、それを見越してのことです」
「それなら、私のところに来ないか――そう、言いに来たんだが」
 僕は目を上げた。「……どうしてですか?」
「簡単だよ。そして割と失礼な理由だな。君はいいサンプルになるからだ」
 さらりと先生は言い放った。
「だが、もちろんそれだけじゃない。君たちはきっと、時感障害の治療法を探したくなるのではないか――とも感じたからだ。これ以上は言わなくていいかい?」
 だがね、彼女はと細く息を吐く。
「それによって人生を持ち崩す可能性は、否定できないな。……君たちには、不幸になってほしくないんだ。朋佳ちゃんのことは――何を言えばいいのか分からない。だが、気持ちを踏みにじるかもしれないのを覚悟で言えば、君たちには君たちの人生がある。でも――そんな強い言葉は、さすがに私もひどいと思う。……珠希の様子はどうだい」
「よくないです」
「……そうだろう。だが、先ほどの話を転倒させると、もしかすると彼女が研究に興味を持ってくれたら、なにがしかの支柱になるのではないかな?」
「それは……」僕は口ごもった。「どうなんでしょう。いいことなのか、分かりません」
「それも、そうだろうね。だから君たちに任せる。どんな決断をしても尊重する。大丈夫だ。決断次第では君のことも諦める。拉致して検体になどしないよ」

 それから珠希にこのことを話すと、彼女は「やる」と言ったきり、何も言わなかった。
 そんなことをしても彼女は帰ってこない。僕たちの動機は逃避行動に等しい。
 それを承知した上で、僕たちは研究の道に足を踏み入れた。

 僕は珠希を支えるほかなかった。彼女に健康的な生活を送ってもらうため、僕たちは同棲を始めた。いや、同一の空間で生活を始めた。お互い不承不承のことだっただろうけれど、それでも次第に生活は回り始めた。
 《移動》はちっとも起きなかった。そのことが、もう僕にはこの世界しかありえないことの証明だった。悔しかった。朋佳を救う可能性はほぼ途絶えていた。

 ある日、珠希は唐突に「名字が変わったんです」と告げてきた。
「野矢?」と呟いて、慌てて口を押える。「いや……」
「ああ」と、珠希の反応は冷淡だった。「どこかの世界での私も、そうなってたんですね」
 まぁ名前なんてどうでもいいです、と彼女は冷淡に吐き捨てた。でもそんなことはないんじゃないかと思った。だから、ちょっと訊いてみた。
「ねぇ、珠希」
「……なんですか」
「僕のこと、まだ先輩って呼ぶの?」
「……他の呼び方が、思いつきません」
「それに、敬語もそのまま」
「悪いですか?」
「そんなことはないよ。ただ――無理をしている、気がする」
「無理?」珠希は僕をじろりと見た。「先輩が嫌なら変えますが」
「嫌とかではないんだけど……」
「何がいいんですか? 言ってください」
 身を乗り出して迫られる。少しでも気が休まるのではないかと言ってみたのだが、そこまでされると、もう引くわけにはいかない。僕は、あの頃の『野矢さん』を思い出す。
「たとえば……今のなら『何がいいのか、言ってくれるかい?』みたいな……」
「何ですかそれ。私の方が年下なのに、変です。もしかしてその世界の私の口調ですか?」
「あ、……うん、そうだね。でも、なんか落ち着いていてしっくりくる感じだったから、試してみるのもありなんじゃないかな」
 珠希は僕の目をみて数回瞬きをしてから「ああ、仕方ないね。分かったよ。――こんな感じですか?」と言った。律儀に「こんな感じだろう?」と訂正しながら。
「いいんじゃないかな」
「なんで変な顔をしてるんですか? 先輩――いや、君? が言い出したのに」
「いや、いいと思う。すごくいい」
 そうなのかな、と彼女は釈然としない様子だったが、何度か頭の中で例文を考えたようで、それから「まぁ、悪くないかも」と結論付けた。「じゃあ、君のことはなんて呼べばいい?」
「中島くん、とか」
「それも合わせるのかい?」と彼女は呆れた。「この世界の私は、別人なのに」
「あ――」言う通りだ。懐かしさから、無神経なことを提案してしまった。
「下の名前で呼んだ方が、いつだって困らないじゃないか」
「え?」
「察してほしいね」と彼女は呟いた。「君しか、私を繋ぎ止める人はもういないんだから」
 ……少しの間黙ってから、「……じゃあ、そうしよう」と言うことしかできなかった。
「弘樹くん」
「珠希」
 二人で呼び合って、弱弱しく笑った。

 研究への道のりは進み始めた。僕は化学を学び、同じ大学に進学した珠希は物理学を専攻した。僕は先生と日々議論を重ねた。
 やがてある義務が近づいているのを感じた。自殺後にベンチで目が覚めた、あの直前の自分に乗り移り、ノートを書き上げてから、ベンチの隣に置いて座り、意識を失うこと。
 ノートを書いたのは自分。それを読んだ僕はノートから様々な情報(自分が時感障害であること、朋佳が僕を助けたこと、等々)を思い出した。その情報を僕はノートに書き、こうして過去の自分に渡した。
 僕は自分を維持するためにこれを過去の僕に渡さなければならない。そして、彼の記憶を整理するのに役立てなければいけない。
 けれど、事件のことを書くことはできないのだ。ここでの研究はかなり進んでいるからだ。もしも事件のことが書かれたノートを読んだ過去の僕が朋佳を強引に助けたとしても、技術が発展するかは不明瞭だし、そもそも治療法が確立される前に死んでしまう。手詰まりに近かった。僕ができることは、まるで慰めのように治療法を研究するだけ。

 果たして予想通り、僕はあの日の前日の夜に飛んだ。
 僕は知識の引継ぎを成し遂げた。

 珠希はやがて一つの仮説を見つけた。それは「脳のマクロなスケールで量子現象が起きており、それと《移動》に関連があるのではないか」というものだ。
「だとすれば、その現象を確認できさえすれば、この病の発生原因が証明されることになるのだろうか」と、先生は遠い眼をした。
「僕の脳を観察すればいい」と僕は言った。「身近にいる、手っ取り早く手に入るサンプルです」
「しかし……いや、分かった。取り組もう」
 入不二研究室での研究に僕たちは加わった。
 珠希と僕は同棲していたが、一人と一人が同じ空間に暮らしているだけだった。僕は彼女が逸脱しないための、監視役だった。
 お互い一言も朋佳のことは喋らなかった。けれどたぶん僕たちは地球上の誰よりも朋佳を大事にしていた。だから、僕も珠希も、お互いのことはちっとも見ていなかった。
 僕は自分の脳や身体のデータを提供することを躊躇わなかった。時感障害の貴重なサンプルとして、生きたまま使い潰される覚悟だった。
 先生は僕たちを心配したが、同時に僕たちの助力を大きな力に感じていたのも事実だろうから、何を言えばいいのか分からない様子だった。実際、研究は僕の(秘密裏の)データ提供と珠希の理論によって、より具体的な方向に進みつつあった。
 一年、五年、十年。
 一向に《移動》はなかった。その間にも研究は進む。だが、朋佳と同じように、僕の脳にもいつか腫瘍が発見されるだろうという確信があった。
 命が尽きるのが先か、治療法が解明できるのが先か――時間との勝負。まもなく精密な実験が可能になり、僕の脳を観察することができた。
 そこで起きていたのは、予想通り驚くべき現象だった。特定の部位が量子現象を引き起こし、脳腫瘍を引き起こしている可能性が指摘された。
 そこから治療法も見つかる。重ね合わせの現象を起こしている物質を阻害する薬品を作ればいい。理論が完成してからは非常に早かった。
 けれど僕の頭はからっぽだった。こんなにもやるせない人生はなかった。
 救うべき人はもういない。残酷なことを言えば、これから助かる可能性のある人たちを生き甲斐にすることはできなかった。彼女はすべてだった。
 僕はまた、自分の病を治療したいなどとは毛頭も思わなかった。《移動》に関してはもう起きないだろうし、さっさと脳疾患か何かで死にたかった。珠希には言わなかったし、言えなかったけれど。
 珠希は何も言わなかった。何も言えなかったんだと思う。

 ある日僕は珠希を食事に誘った。気まぐれだった。いや、気まぐれではないのかもしれない。
 せめてもう少し、人間的な関係を持つべきではないのかと思ったのだ。
 ……結果は悲惨なものだった。二人とも何も喋らないまま、五分が過ぎ、十分が過ぎ、三十分が過ぎた。
 やがて珠希はそれを破った。
「たぶん、私は君を好きになるべきなのかもしれない」
「……え?」
「私のために傍にいてくれるのなら、相応の何かを用意しなければならないのかもしれない」
「……」
「でも、それはできない」
「そんなことは求めてないよ」
「私はもう誰かを好きになることができないんだ。それが悲しい。本当に済まない」
 彼女はそう言うと「何を食べても、ガラスを噛んでるみたいだ」と呟いた。

 そうやって、僕の脆弱な余生は続いていく――はずだった。

 その時僕は、大学の図書館で論文に関する作業をしていた。
 ふと窓際に並んだパソコンの画面に視線が向いた。
 図書館のパソコンには、新聞社のデータベースから過去記事を抜き出すことができるサービスがある。キーボードに手を置いて、特定のキーワードで検索する。大きな事故ということもあったから、多数の記事がヒットした。
 そこから僕は、一つの記事を選んでプリントアウトした。
 見出しには「山中に旅客機墜落」と書かれている。「生存者は一名のみ」とも。
 記事の内容にざっと目を通す。

「――日深夜に当該機とは交信不能になり、レーダーからも消滅。未明、――岳の山中で捜索隊が炎上、墜落しているのを発見した。機体の損壊度から見て生存者は絶望的と見られたが、軽症の男子中学生一名が発見され、まもなく救助隊に緊急搬送された。男子中学生は頭を強打していたが意識はあり、受け答えもはっきりしている。他に外傷はなく、奇跡的に命に別状は見られなかった。他三九五人の乗客乗員は全員の死亡が確認された。当局はフライトレコーダーの解析とともに、先の生存者や、目撃者の証言を集めることにしている」

 今まで僕は意識的に自らの事故のことを考えず、調べもしないようにしてきた。それは記憶になかったからだ。考えられる可能性は三つ。まだその瞬間に飛んでおらず、経験していない。そもそも意識を失っていた。一時的な記憶喪失に陥っている。そのどれかだろう。もしも一番最初の可能性があるならば、僕はこれから事故を経験しなければならないことになる。最も恐れていたのはその事態だった。だからこそ、見てみぬふりをしなければ、自分を維持することができない――そんな自己防衛の手段として、忘却を選んだ。
 それならなぜ、いまそれを破っているのだろうか? ……分からない。気まぐれなのかもしれない。それとも、これから事故を経験する可能性を思い出して、無意識にショックを緩和したかったのだろうか? データとして事故を知ったとして何になるわけでもないのに。
 それを読み終えた僕は、特に持っていたいものでもないのでゴミ箱に捨てようと思い、紙面を持ったまま席を立って――
 ――待てよ、と思う。
 再び記事に目を通す。
 もし事故と時感障害に何らかの関連があるのならば、頭を強打したことが具体的な理由になるのかもしれない。とはいえ事故直後の僕に意識はあったという。そして錯乱したりはせず、しっかりとした応答もできたらしい。それならば記憶喪失状態ではなかったということになる。
 にもかかわらず、僕には記憶がない。
 ――そう考えると、やはり未経験説がもっとも有力と言える。
 ため息が出た。痛みや苦しみには慣れているが、それでも「これから拷問される」と分かった上で生きていかなければならないことは、やはり計り知れないストレスだ。もう何も感じないほどに燃え尽きかけた僕でさえも、まだ恐怖という感情は残っていたのだ。
 この事故こそがすべての元凶だった。僕と朋佳を出会わせ、引き裂いた大いなる原因。避けることはできない。なぜならそこが僕の時間《移動》の起点だからだ。僕自身がそれ以前に遡って飛行機に乗らない(事故自体を止めることは僕には不可能だろう)ことはできない。それを回避させられるのは、朋佳のような、僕が発症する前の時点に《移動》できた朋佳だけだ。その結果、僕が時感障害になったことはなかったことになり、普通の人間として生涯を終えるはずで、でも僕は彼女を助けようとして、そして失敗し、ああ――そうだ。
 僕は朋佳を助けたかったのだ。
 その感情を思い出した瞬間、涙が溢れてきた。図書館に来ている利用者たちに奇異の目で見られても、どうでもよかった。
 朋佳を助けることなど、もはや叶わない願いになってしまった。だってもうこの世界で朋佳は死んでいるから。だから時感障害を治せる技術があっても無意味だ。僕に時間《移動》は起きないから、朋佳が死ななかった世界に向かうこともできない。もし《移動》できるとしても、それはあの忌まわしい事故の瞬間だけ。

 いや。
 少なくとも、事故の瞬間には行くことができるのか。

 涙が止まった。
 何かが引っかかった気がした。

 考えろ。
 僕が飛ばされる事故の瞬間。その世界は、今僕がいるこの現在に繋がるだろう。そこで僕は病を発症する。あらゆる場所を飛び回り、朋佳と出会い、別れ、気の遠くなるような時間が流れた後、今この瞬間まで繋がる。ちょうどノートの展開を完璧になぞり、それからこの世界での僕の人生に繋がり、今に至るわけだ。だからもしもその起点になる事故の際に、たとえば僕が自殺でもすれば、今まで起きてきた人生のすべてが泡と消えるだろう。もちろんそんなことはしないけれど。しかし、変化を起こすことはできる。
 考えろ。
 僕は時感障害の治療法を知っている。だから事故の瞬間に飛んだあと、もしも少しでも違う行動を取りさえすれば、そこから過去が分岐する可能性がある。たとえば――治療法を、誰かに伝えたりすれば? それが本当に伝わるかは分からない。狂人の戯言だと思われるかもしれない。また、僕が語った程度で薬がすぐ開発されるわけではないから、何年もかかるかもしれない。……それでも、伝わりさえすれば短縮させられるかもしれない。
 考えろ。
 整理すると、問題になる世界は三つだ。
 療養所で僕たちが出会い、最終的に朋佳が病死した世界。Aとしよう。
 僕が今いる、飛行機事故で僕が発症し、高校で三人が出会い、朋佳が殺害され、時間障害の治療法が見つかった世界。Bとしよう。
 そして、Cの世界は、Bから飛んだ僕が事故の後に治療法を伝え、朋佳の病が治った世界。
 Aで、朋佳は僕の前で死んだ。そのままなら、彼女の意識――魂でもなんでもいい――は、そこで終わりを迎えたまま消えるだろう。だが、彼女を治療できたCの世界を作り出せれば、朋佳の病死の瞬間まで遡って、そこからバイパスのように意識を《移動》させられるのではないか? 朋佳に残された可能性がAだけだったとすれば、他にCの世界が見つかった瞬間、必ずそこに飛ぶだろう。そしてその先の世界では、もう病が治癒している。そうすれば――彼女は、普通の人間としての一生を終えることができる。
 考えろ。
 Bの世界で、朋佳は十二歳で発症した。僕より前だ。でなければ事故から僕を救えない。だから、僕が治療法を人に伝えられたとして、その頃には既に発症していることになる。もちろん病の初期段階であるならば、薬を飲むことで観測される世界が(飲んだ世界で)固定されて、治る。腫瘍も自然治癒または摘出でうまくいく範囲だ。ネックとしては、それまでに《移動》が起きてしまったなら混乱が予想され、厄介なことになるわけだが――だが、おそらくは大丈夫だという実感がある。なぜならば時感障害は進行(朋佳にとってはB→A→C)とともに《移動》がどんどん減っていくからだ。既にAの世界でさえ、十二歳からここに来るまで一度も《移動》は起きなかったというではないか。

 ……理屈は、通った。
 だがそれは通っただけだ。実現可能性は限りなく低いだろう。
 でも、そんなのどうでもよかった。彼女を救えるかもしれない――その気持ちだけで、もう十分だった。それだけで、また僕は生きる気力を取り返した。今までと同じ。どうしてこんな単純なことを、忘れてしまっていたのだろう?
 僕の命はまだ、燃え尽きてなどいなかったのだ。
 
 数日間の準備を終えて自宅に戻ってきたとき、ちょうど珠希もいた。学会から戻ってきて、仮眠を取っていたのだ。僕はパンをトースターで焼き、目玉焼きを作って、切ったトマトとレタスを添えて、簡素な朝食を作っておき、ラップをかけて机の上に置いた。
 その時――ねぇ、と声がした。
「ごめんね。起きていたんだよ」
「……」
「ねぇ、どこに行くのかい?」
 珠希は、ぽつりと僕に訊く。
 僕は答えなかった。答えられるわけがなかった。けれど、珠希は僕が何をしようとしているのか、既に察しているらしかった。そうだ。やっぱり彼女はとんでもなく賢いのだ。
「僕は」と言いかけた瞬間に、彼女が抱き着いてくる。
「よくないことを、考えてる」
「よくないことじゃ――」と言おうとした瞬間に、彼女は僕を後ろから抱きしめた。
 二人で暮らすようになって、初めて僕の身体にまともに触れたかもしれない。
「よくないことじゃ、ないんだろうね」
「……」
「朋佳ちゃんのことだろう?」
 黙り込む僕に「済まないね」と珠希は続けた。「でも、仕方ないな。私だって彼女のことは大好きだし、助けたいって思っていたから。だからそれが叶わなかったとき、すごく悲しかったんだよ。すごく、すごく。それは……弘樹くんだって見ていたと思う。でも、二人っきりになってから、だんだん君のことを、特別に考えるようになってしまった。それは――朋佳ちゃんに対する裏切りだというのは分かってた。でも……私、は」
「……珠希」
「いいんだよ。私の我儘だから。今だけは、一緒にいさせてほしい。話をさせてほしい。――だいたい分かっているよ。弘樹くんがこれからどこに行くのか。もう二度と会えないことも分かってる。だから――今が最後の時間なんだね」
 彼女は僕の前まで回って、鼻がくっつきそうなほどに顔を近づけて「いや、いいや」と笑った。「やっぱり、朋佳ちゃんを裏切るのはやめよう」
 実はね、と彼女は切り出す。
「弘樹くんのことは、あの頃から見ていたんだ。最初に屋上で見つかっちゃったときは『しまった』って思ったけど、やがてすぐ慣れた。君、せんぱい、きみは人懐っこいから。二人で過ごす日々は楽しかった。……それから朋佳ちゃんがやってきた。より賑やかになった。楽しくなった。でも――私は心のどこかで、彼女を邪魔に思っていたかもしれない」
「……そうなんだね」
「たぶん。でもそれは言えなかった。だから、あのグループは薄い皮一枚隔てたところでギリギリ綺麗に成り立っていたんだと思うよ。勘違いしないでほしいのは、朋佳ちゃんのことはいつだって大事だったってこと、それは確かなんだ。でも、それでも、私は彼女を疎ましく思ってしまった。だから、死んじゃったとき、心のどこかでそれを――喜んでるとは絶対に言わなくても、安堵してしまった自分がいたかもしれない。それを考えたとき、とっても恐ろしくなった。だから私はめちゃくちゃになった」
 それでも弘樹くんは受け入れてくれたよね、と続ける珠希は、もう涙声だった。
「その厚意にまた甘えてしまった。弘樹くんは朋佳ちゃんのことしか見ていなかったのに、私なんかが足を引っ張ってしまった。私は最悪の、罪深い人間なんだよ。ごめんなさい。あやまらなきゃ、って」
「謝らないでいいよ。もとはといえば――病気が全部悪かったんだ。でも」
 僕は珠希に向き直る。
「珠希との時間は、間違っていたとは思わないよ。それは、嘘じゃない」
「……ありがとう」
 そう呟いた珠希は、涙を拭きながら笑っていた。

「お別れなんだね」
「そうだよ」
 僕が鞄を持って、玄関に向かう。彼女はてくてくとついてくる。
「朋佳ちゃんをよろしくね」
「うん」
「私の――友達を、よろしく頼むよ」
「うん」
 最後に、珠希は僕の手を一度握ってから、手を振った。
「いってらっしゃい」
 そのまま、ドアは閉まった。

 どこで命を終えるかは、もう決まっていた。
 あの時と同じ――海が目の前に見える、あの場所で。

 予想が正しければ、僕に残された、まだ生きていない人生はあの事故の瞬間だけ。
 だからここで自殺すれば、自動的にそのポイントに飛ぶことになる。あとは――生き延びること。
 飛行機事故の生存率は絶望的だ。僕の場合。墜落時には無事だったかもしれないが、その後を耐えなければいけない。だから墜落現場を調べ、救助が来るまでどのように命を繋ぐかをリサーチした。それに頼るしかない。
 また、同時に時感障害への特効薬の知識を伝えないといけないので、僕は必死でさまざまなデータを暗記した。つまり、理論はともかく生成方法だけでも伝えられれば勝ちなのだ。それを、既に存在している入不二研究室に送るよう伝える。子供の戯言だと思われたらおしまいだが、香苗先生のことだ。僕が具体的な名前を出せば、絶対に何かを察してくれるはずだ。だからそこまで届くよう、事故を生き延びた後も注意しなければならない。具体的な治療をしてもらうならば、朋佳の名前を出すべきなのかもしれない。
 もしそれが成功して、僕が向こうの世界で生きていられたとして――朋佳は、事故が回避された時の僕のように、すべての記憶を持っていないだろう。だから、僕と会ったとしても何も覚えていないし、何も感じないだろう。それでいい。彼女が助かった世界で、僕は何もせず、穏やかに暮らそう。
 ただ、彼女には生きていてくれるだけでいい。

 その決意のまま、僕は最後の一歩を踏み出した。

 

9 - FADE TO BLACK

 最初に感じたのは、熱だった。
 灼けんばかりの熱が、実は温度ではなく痛みであることに気づいたのは、まもなくのことだった。ざぁざぁと吹き込んでどこかを揺らす風は、天候が悪化したことを示唆していた。
 真っ暗な世界。身体はまったく動かない。特に足を動かそうとすると激痛が走る。痛い。痛い。意識が飛びそうになる。何が起きているのか。ただ痛み。痛み――だが、それは思ったほどではなかった。いや、どれほど痛かったとしても冷静にならなければならない事情があった。耐えなければいけなかった。だからもう麻痺していたのかもしれない。
 ……僕は今、飛行機事故に遭遇した、ということになるだろう。ここまでは狙い通りだった。だが次の関門として、この事故から生き延びられなければならない。それこそが、最大の難関でもある。死んでしまえばおしまいだ。次のチャンスはない。
 ここを出るべきか迷う。身体が無事で、骨折等がなければ機体の残骸の外に脱出できるはずだ。なにしろ僕は無傷だったと報道されているのだから――あれ? それならば、この痛みは?
 嫌な予感がした。
 身をよじったところで何かに接触したのか、ガタンと音を立てて何かが倒れたようだ。それによって少しばかり外からほんのわずかに光が入ってきた。
 僕は目を凝らしてみる。少しずつ眼球を暗闇に慣れさせていく。
 そこで、見えてきたものは――

 何らかの金属製の骨組みに、自分の脚が潰されている様だった。

 真っ白な部屋。世の中のあらゆる澱み汚れを排除し漂白たような場所。
 僕は慌ただしくそこに運ばれた。悶える。ベッドではシーツを掴み、剥がれるまで爪を立てた。
 上半身を無理やりに持ち上げると激痛――いや、痛みでさえない身悶えが起きる。ベッドと接触している壁に、必死に体重を預けた。その後もじりじりと一定の周期を置いて噴出する痛み。
 生きている。
 まだ、僕は生きている。
 ……けれど、生きているだけだ。
 手術によって両足が切断されると同時に輸血も行われたが、様々な部位の骨折、また傷口の化膿および感染症が進行しており、総合的に見て対処が困難である――と予想された。天候が悪い中で、複雑に押しつぶされた僕を救出するのに時間がかかってしまったためだろう。
 ……これは医師から伝えられたことじゃない。誰も僕に状況を教えてくれなかった。とはいえ、どれほどの痛みの中であっても僕は冷静に察していた。自分が助かる見込みは、万に一つもないことを。だから、やってきたある女性に「僕は、助からないんですよね?」と言い放ったのだ。
 青山奈幸。事故や事件の被害者を担当するカウンセラーだ。
「……そうですね」と彼女は言ってから、淡々と事実を語った。青山さん。懐かしかった。容姿はほとんど変わっていなかったが、メイド服ではなくスーツに身を包んだ彼女の顔からは、あまり感情は見いだせなかった。僕の痛々しい身体にも、反応はなかった。
「私はちょっと困惑しています」と青山さんは告げた。
「もうすぐ死ぬ人間がカウンセラーを求めることですか?」歯を食いしばりつつ、応じる。
「そうではありません。欧米では神父や牧師がこういった局面で役割を担うことがあるので」
 それから彼女は言う。
「初対面の時点で、あなたは明らかに私が来ることを知っていたような様子だったからです」
「……そうで、すね」
 彼女の洞察は鋭い。彼女がカウンセラーとして働いていることも、僕を担当したことも既に調べてあった。そして彼女が入不二家と当時から関係があったこともまた、知っていた。だから、彼女に伝えることで、必ず先生の耳に入るという確信があったのだ。
 だから、チャンスは残っている。
「前置きはなくていいですか? のこっ……残り時間は少ないんです、だからっ」
「はい」
「いいですか――今から僕の言うことを、一語一語すべて書き取ってほしいんです」
「ええ――なんなりと」彼女は顔色を変えないまま、メモを取り出した。
「助けたい、人がいるんです」

 僕は語った。時感障害について簡潔に語った。それによってここまで来た経緯を割愛しつつ語った。時感障害の原因と、それを治す薬品のアイデアについて語った。その詳しい化学的な組成について、専門の人間ならば分かる範囲で語った。それから……永井朋佳のことを語った。彼女が時感障害の患者であることを語った。それを――正確には、母親も一緒に調べるべきだと。そしてその症状が進行すれば間もなく死が待っていることも語った。だが今のうちに治療をすればそれを回避できることも語った。

「これを、入不二研究室の、入不二香苗先生に伝えてください。必ず」
 あとは……あとは……。いや、もう大丈夫か。そう思っていると――
「了解しました。……まだ、言いたいことはありますか?」
 何度も新しいメモ帳を取り出ては書き綴っていた彼女が、目を上げて僕に訊く。
 まだ言いたいこと、まだ言いたいこと……。何だろう。
 ……気がつくと、僕は喋りはじめていた。切れ切れで、もはや声になっているかも怪しかったが、それでも必死に話し続けた。
「僕は……女の子に、出会いました。その子は変な病気でした。その子は僕に冷たかったです。でも、どうしてか気になって、なんとかして仲良くなろうと思いました。そうしたら、彼女は心を開いてくれました。でも彼女は死んでしまいました。僕は彼女を助けたかった。だから彼女がくれたものを消費してでも、それを成し遂げようとしました。その中で、僕は青春を知りました。それは……楽しい日々でした。でもそれはすぐに終わりました。彼女はまた予期せぬことで死んでしまいました。僕は苦しみに満ちた日々を送りながら、なんとか病気を治す薬を開発しました。そして、それを使って彼女を助けようとして、それで――」
「ここまで来たんですね」
 青山さんは頷いた。
「……信じるんですか?」
「信じてもいませんし、信じていないわけでもありません。私は話を聞くまでです」
 でも、と彼女は付け足して、こう言った。
「その女の子は、とても素敵な方なんでしょうね」

 僕の命は、こうして使い果たされた。

 

 

10 - BOY MEETS GIRL

 私は目を覚ました。
 そこは私の家の、自分の部屋だった。ベッドの上だし電気が消えているから、今は夜だろう。窓際にあった時計の針は零時。目が慣れてくると部屋全体が見えてきた。置かれているものからして、これは小学生頃の記憶だろう。
 そこで思う。ああ――これは最後に見る夢なのかな。
 走馬灯。
 めちゃくちゃな自分にも、そんな最期があるのかもしれない。
 明かりを点けないまま一通り部屋を見る。それから懐かしい物をいくつか取り上げてみたが、さほどノスタルジーは感じなかった。たった十八年程度だから、仕方ないのかも。
 階下に降りてみたが誰もいない。この幻想の中に家族がいるのかは知らないが、無理に起こすことはしたくない――というか、顔が見たくなかった。
 だからすぐに布団の中に入る。
 ふと、窓際に置かれた薬瓶が目に入った。見たことがないものだ。中に入った錠剤は、いくらか使われた後のようだ。何の薬だろうか。ラベルがないので分からない。この場所で、私が見慣れていないものはそれだけだった。
 でも、それが何だろうとどうでもいい。
 ――これで本当に、おしまい。

 夢を見た。
 最初に現れたのは。どこかからやってくる波紋のような力。
 次に、仄暗い場所から何かが浮かび上がってくるイメージがあり――そこからイメージ同士が接近し、凝縮し、それは波の中でひとつの網の目で繋がった。そして波は一点に集中し――意識がそこにフォーカスされた瞬間、そこに吸い込まれて――

「……えっ?」

 そこは、雪の降る夜の浜辺だった。
 私は目を疑った。
「どう、して」
 私は死んだはずだ。そう、弘樹さんと最後のデートに出かけて、車でここまで来て、それから、それから、私、え? 私は――?
 横になっている身体を持ち上げ、両の腕を見る。目の前で拳を作ったり戻したりしてみる。肉体は正常に動く。まだ眠さはあるし、身体は冷え切っているけれど、それでも私は確かに生きていた。
 なんで、生きてるの。
「なんで、いきてるの?」
「目が覚めたんだね」
 その声にはっとして、思わず後ろを向こうとして「だーれだ」と両の目を抑えられる。
 嘘だ。そんな。いや、そんなはずがない。だって、私は死んで、弘樹さんに看取られて、でないと、でないと、大変なことに――
「はい、時間切れ」と言うなり、彼は後ろから僕を優しく抱きしめた。
 そう、彼。
「ひろき、さん? うそ?」
「嘘だ、って言ったら?」
「――なんでっ!」
 私はその腕を振り払った。
「おかしい、そんなはずありえない」
「そうだね。ありえない」
「そんなの――」
 私が乱暴なことをしても「大丈夫だよ」と彼は優しい声のままで、私は泣きそうになってしまった。なんで? なんで?
「ここは僕と朋佳が二人とも寝ていた間の時間だろうね。そこは、お互いぴったり空白だったのか」
「……え?」それなら、どうしてもう時感障害じゃない弘樹さんが?
「いくつか謝らなきゃいけないことがあるんだ」と彼は申し訳なさそうに笑った。「君の手帳を探して身体をちょっとだけ確認させてもらった。あんまりにもデリカシーがないけど、これから先の僕が見つけられなかったら水の泡だからごめん。助手席のシートの上に置いておいたのさ。そこに朋佳の遺体を座らせて、下ろすときに見つける――そしてすべてを知る」
「手帳? ……そんな」
 私の頭の中で、何かが次々に弾けていく。
「でも、それなら……どうして私たちはここに……いや、ここはいつ? あ、あ……」
「混乱させちゃったよね。でも、次のごめんを聞けばきっとわかるよ」と彼は頭を掻いてから、私をしっかりと見据えて、言った。

「朋佳がくれた人生――時間、全部朋佳のために使っちゃった」

 その言葉で、私は何かを悟った。
「弘樹さん――なに、したの」
 まさか。
 まさか。
「朋佳が時感障害になっていない――いや、それが治ったであろう世界を作りだしたんだ」
「……うそ、そんなのありえない。どうやって?」
 私は咄嗟に反応する。反論する。
「僕は再び時感障害になったんだよ。それで君と出会った頃の過去まで飛んだのさ」
「ありえません。弘樹さんの人生の残りはもうないと、あなた自身が言っていたんです。だから、だから事故からあなたを助ければ、弘樹さんはここで一生を終えられると――」
「そう。確かに言った。間違ってないよ」
「じゃあ、なんで……」
「簡単だよ。僕と朋佳は、最初から初めて出会ってなんていなかったんだ」
 はじめてじゃない。
 最初に出会ったときのこと。
 私に優しく声をかけて、助けてくれたこと。
「あなただったの……⁉」
「そうだよ。今の僕――君に変な手紙で呼び出されて、冷たくあしらわれて、でも気がついたら気になって、追いかけてきちゃって――ここまで来た、僕だ」
 最初から、すべてはそうなるべくしてなっていたのだ。
「僕にはまだ、別の世界に残されていた自分の人生があったんだ。だからここで死んでも、また別の世界に飛ぶことができた。そして飛んだ先が――君と出会った場所だった」
 それが本当ならば。
 あのときの弘樹さんは既に私が病死したのを知っていた彼で、じゃあ、その他の時は?
「全部」と弘樹さんが先回りして言った。「その後も、全部知ってて見てたよ」
「弘樹さん――!」
 私は叫んでいた。
 こんなことがあるなんて、思ってもみなかった。
 私が彼を助けようとしているのと同時期に、彼もまた私を助けようとしていたのだ。
「ただ、朋佳の記録と唯一違ったのは、刺されて死んだのが僕じゃなく、朋佳だったことだ」
「ちがった……? 弘樹さんは、あのとき……」
「朋佳が先に通った世界ではそういう運命だったんだろうね。でも、僕はトロかったから、君を守れなくて――僕だけが生き残ってしまった世界ができたんだ。そして、そこで僕は治療薬を開発した。それでね、ここでまたすごい奇跡だけど、実は事故の瞬間がまだ空白だったんだ」
「――!」
 だめ。言わないで。
 それ以上、言わないで。
「僕はそれを経験してから薬の開発技術を人に託した。その賭けは――うまくいった、のかな。ねぇ朋佳。君はどこからきたの? いや、だいたい見当はついてるんだけどさ」
「分かってるの……?」
「たぶん。君はもう一度、僕が作り出した世界に行ったはずだ。もうひとつ、君が死んだ直後の魂で、それがほんの少しだけ前のこの時間に飛んだ、って可能性もあるけど……」
「私、知ってる」
 そうだ。あの部屋。あの家。――そしてまさか、あの薬は。
「さっきいたところが、新しい世界なの……?」
「そうだよ」
 弘樹さんは頷いた。「いくら製薬技術を伝えたって、実際に薬ができて、それが認められ、効果が出るのには長い時間がかかる可能性があったし、それまでに《移動》が起きることもあると思ったんだ」
 その結果、再び私はここに来た。
「薬に関してはそんなに心配していなかったけどね。先生がきっとなんとかしてくれるだろうって信じてた。……あんまり法律上いい方法を使ったかどうかは分からないけどね」
 そう言って、弘樹さんは雪を払うように私の頭を優しく撫でた。
 私が助けた彼は、また私を助けてしまった。
 だとしたら――これからは、どうなる?
「僕と同じように、朋佳の記憶はなくなるだろうね。残念だ」
 タイムパラドックス
 私はもう時感障害ではなくなっているから、時感障害がきっかけで起きた、今まで生きてきた出来事はすべて消滅する。だから私の記憶はなかったことになる。
「でも、向こうの世界にも、弘樹さんはいるんですよね?」
 私は縋るように言い続ける。
「記憶がないから、きっと分からないさ」
「でも、弘樹さんの方はあるじゃないですか。弘樹さんも時感障害を治せば、二人ともどこにも《移動》しないで済む。同じ時間を生きられるんです。私の記憶がないのは仕方ないけど、でも、そうすれば、やっと、やっと普通の人たちみたいに――」
 恋が、できる。
 そこまで言うことは、彼に遮られてできなかった。

「もう、僕はそこにいないんだ」

 その言葉。
「事故の怪我が思ったよりひどくてね。失敗しちゃった」
「――あ、あ」
 何かが溢れてくる。
 もはや涙に収まりきらないあらゆる感情が爆発して、私はむせぶ。
「うそ、うそですよね? こんな冗談、面白くもなんともないじゃないですか。最悪です、私、こんなに頑張って、こんなに好きで、助けたくて、弘樹さんもたぶん同じで、でも、やっと同じ時間を生きられたと思ったら、ひどい、ひどいよ――こんなの、死ぬのよりもっとひどい」
 でも弘樹さんは穏やかに笑っていた。いつも通り、笑っていた。
「何で私なんか助けたんですか。こんなことになるなら死んだままの方がずっとずっとマシでした。弘樹さんが生きていてくれるなら、それだけでよかったのに! なのに、私の苦労を全部ふいにして、押しつけがましくこんなことをして、私を愚弄してます、あなたって、あなたって人は――!」
「僕も、朋佳が生きていてくれればそれだけでいいんだ」
「――!」
 そうだ。だから私は彼を助けたのだ。
 二人とも、思いは一緒だったなんて。
 誰かを助けたい。そんな陳腐な感情。
 その願いは独りよがりだろうか?
 都合のいい、自己満足だろうか?
 そうなのかもしれない。確かに、そうなのかもしれない。
 でも私はそれを悪いことだとはどうしても思えなかった。
「朋佳は納得しないだろうね。でも、勝手なことを言わせてもらえば、僕はこの結末は嫌いじゃない。だって僕の命は、ちゃんと燃えたから。残りの時間も命も、全部使い果たせたから」
「何言ってるんですか、弘樹さん、弘樹さんは――」
「もう消えちゃうのに、って?」
「……」
 彼は私の方を向いてはにかむ。身体をくっつけたまま、顔と顔が向かい合う。
「朋佳、僕のことを弱いって思う?」
「身勝手だと思います。最悪です」
「……ごめんよ」
「でも弱いとは思いません。弘樹さんはつよいです。弱いのは、私で」
「僕の方が弱いさ。……少なくとも、誰かのために生きる人はみんな弱い」
 弘樹さんは海の果てへ目を向ける。
「僕たちだって、どちらか片方が一度でも自分を大事にできたならこんなことにはならなかったのかもしれない。だから僕たちは弱いし、愚かだし、哀れだ。でも」
 それでも、と弘樹さんは言い切った。
「僕たちは、綺麗だ」

「まさかこの合間の時間が二人に残っていて、このタイミングで会えるなんてね。偶然なのか、できすぎてるのか」
 弘樹さんは愉快そうだった。
 ――私たちの目の前に広がる大きな暗い海。
 馬鹿でかいだけの塩水のたまり場。
 そこに雪が落ちる。
 積もることはない。すぐに海面で溶け消える。――けれど、雪の勢いは少しずつ増しているように感じた。それこそ、この海原をすべて白く埋めてしまうのではないかというほどに。
 なんて寂しいんだろう。
 なんて悲しいんだろう。
 なんて美しいんだろう。
 私は憎む。世界を憎む。
 何かが終わっていく瞬間が、こんなにも美しいことなんて――許せない。
 許せないぐらいに。
 腹立たしいほどに。
 涙が出るくらいに。
 この景色はただ空しく、何の意味もなく、輝いていた。

「もうすぐこのときも終わるけどさ。今だけは、二人同じ時間に生きていられるんだよね」
 弘樹さんが頷いたので、私は彼の腕に絡みついた。
「じゃあ、こうやって感じてる体温も同じ時間なんですね」
「……うん」
 身を寄せ合ったままベンチに座って、指を絡める。皮膚を刃物で切り裂かれ続けているような寒さの中で、その熱だけがすべてで、唯一の真実だった。
 天に昇っていく白い息。
 真っ赤になって痛む耳。
 そんな何もかもを私は忘れるだろう。失うだろう。
 この幻が終われば、私に待っているのは朝。
 何も知らないまま目覚め、何も知らないまま今までと違う家族と、何も知らないまま学校に行き、何も知らないまま友人と話し、何も知らないまま一日を終える生活が始まるかもしれない。そうして弘樹さんのいない人生だけが始まり、出会った痕跡は何一つ残らず、私は人生を生きていくだろう。ただ一本道を歩き続ける、そんな日々を。
 朝は必ずやってくる。それは、どんな目覚めだろうか? 眩しいだろうか? 曇っているだろうか? 雨降りだろうか? 
 でも今はどうでもいい。
 でも今だけはどうでもいい。
 私は、一秒でも長くこの時が続いてほしいと思った。それ以上はもう望まなかった。
 祈った。

 これはシンプルな物語だ。
 要約すれば、男の子と女の子が出会って、別れる、それだけの物語。
 特別なことなんて何もない。単なる平凡なボーイ・ミーツ・ガール。

「もしかして、完全にこうやって同じタイミングで会うのも、初めて?」
「そうかもしれない」
「そっか。じゃあ挨拶しなきゃですね」
「そうだね」
 今、私たちは出会った。
 だから握手をする。
「はじめまして」
 そして、それと同じこの瞬間に、別れるのだ。
 だから手を振り合う。
「さよなら」

 二度と会うことのない、別れ。

 長い、長い、お別れ。