それはほんとうだ。そのことだけはほんとうだ。他のだれが、世界中のだれもが、あなたの記憶は偽だといっても、ぼくはそれが偽だとはいうまい。
ゆきのゆめ.tale
SCR108-41 Ange II
雪の降り続く村は、ゆるやかに埋葬されているようだった。
そんな故郷に、一〇年ぶりに帰った。
生まれ育った館は旅館になっていた。
そこで、もう一度メイドと再会した。
彼女は背も、声も、顔貌も一〇年前と変わっていなかった。
人間ではなくロボットだったからだ。
一日目
目を醒ましたら、葬式を挙げられていた。
比喩でなく、文字通り自分の葬式である。
眼が覚めて最初に見えたのは顔の位置に開けられた窓とそこから見える天井で、まもなく自分が閉じこめられているのに気づいてパニックになり、暴れてガンガンと手足で叩いたら蝶番ごと扉は吹き飛び、棺桶は壊れた。そして上半身を起こす僕。
それから眼に飛び込んだのは喪服の人々。
ひとまず整理しよう。
僕は棺の中に放り込まれて、村人たちに弔われていたのだ。
「えーと、いいですか」
というわけで尋ねた。
「まさか僕、死んだことになってますか?」
そのとき一同は悲鳴を上げ、壊れた扉を棺桶に押しつけるとロープでグルグル巻きにして、我先にと逃げ去っていった。またしても身体は閉じこめられ、暴れても出られない。
「いや閉じ込めないで! 封印しないで!」
「生きていらっしゃったのですね。相変わらずなお方です」
声は上から降った。抑揚に欠け、濁りなく透き通った声。
なんだろう、どこかで聞き憶えがある。非常に聞き憶えがある。ありすぎる。それはもはやかつて生活の一部だったその響き――合成された機械音だ。
「おひさしぶりです」
死人の窓に顔が近づく。髪がかかる。こそばゆい。手が伸び頬を撫でられる。
見下ろしていたのは、忘れもしない、かつて共に育ったメイドの少女だった。
「お待ちしておりました――ユウ様。ユキです」
肩ほどの銀髪の人工髪。真っ白な柔らかい特殊ゴムの肌。青い眼球は光学樹脂。そしてきわめつけに、幼げに整った顔には、およそ感情と呼べるものを読めないあの表情。
彼女は人間ではない。ロボットだ。
棺が再び開けられると、ユキに抱え起こしてもらって、僕は床に足をつけた。
改めて隣のメイド服の少女を見る。
「ユキ……」
「ユウ様、ずいぶんと成長なさいましたね。内面は如何か、すこし心配ですが」
ユキの姿は、最後に別れたあのとき――どころか最初に出会ったときから、寸分と違わなかった。
違わないのに、ずっと幼く見えた。
もちろん、変わったのは僕だった。
背を顔ひとつぶんも追い抜いてしまった僕だった。
「ぎゃあああ! ユーくんが生き返ったああああ!?」
そんな再会は、素っ頓狂な奇声にてぶち壊された。
がらんとした葬儀の席、ひとり残っていた女の子。
僕は彼女にも見憶えがあった。そいつと呼ぶ方が、僕にはしっくりくるけど。
アマネ。
僕とユキが暮らした生家の近くに住んでいた、年下の幼馴染の女の子。背も伸びて顔も大人びてはいるけれど、間違いなく面影はアマネだ。
どうしよう。なんて挨拶すべきか。
「……えーと、その、ただい、ま?」
「ユッ、ユーくんが動いて、喋って、生きてる……」
目を擦って僕を確かめるアマネ。幻覚でないのを確かめてから、眼に涙が浮かび始める。ああ、泣かせてしまったな。
「夢じゃ、ないんだ……」
「アマネ、大きくなった」
「……でしょっ。もうガキなんて言わせないよ……ひぐっ、ぐすっ……帰ってきたって聞いて大喜びしたら死んでるなんて、そんなの嘘、嘘に決まってるって――待って待って! ほんとに嘘だったの!?」
感動の流れで誤魔化せなかったよ。
「あのー、アマネさん、落ち着いてくれないですか」
「いやいやいや落ち着けるわけないでしょ何これ?」
「ド……ドッキリ……?」
苦し紛れに言ってみたら綺麗にずっこけた。こういうときしっかり物理的にずっこけるノリのいい子なのである。「酷いよ! 乙女の純情を弄んで! せっかくいい感じの悲劇が……」
怒る方向がすこし変な気がする。
ダメだ。僕じゃ手に負えない。目配せすると、黙っていたユキがようやく口を挟んでくれた。頼むぞ人間の朋、収めてくれ。
「ドッキリではないですが、発見したときどうせ助からなさそうだったので早めに済ませるのが安上がりと思ったのは事実です」
「ドッキリより酷いじゃねぇか!」
思わずキレてしまった。
「でもよかったじゃないですか。生きてたんですから」
「それはそれで……僕はどうしたらいいんですか……」
「はて」ロボットは主人の責任を放棄した。「こんな状況はラーニングしておりません」
「……ユーくんはどうしたらいいと思う?」
僕に訊くな。しかも急に冷静になるなよ。
帰るのだという信念のほかには、なにも憶えはないのだけれども。
いわく、村のはずれで倒れている僕を見つけたのは、奇しくもユキだったというのだ。
「発見されるのがもうすこし遅ければ、ユウ様は本当に命を落としていたことでしょう」
ひとまず身体が寒かったので暖炉のある一室に連れられて、ベッドサイドに横たえられ熱いコーヒーを飲まされた。甘ったるかった。舌が憶えた、紛れもないユキの淹れかた。
「身体は温まりましたでしょうか」
「むふふふー。実家は落ち着く?」
ようやくアマネも状況を受け入れ、落ち着いた空気が僕らを包む。
……そう、実家なのだ。
完全に失念していたが、葬式をやっていた場所は大広間。つまりここは我が家である。
この村でいちばんの大邸宅だ。
東洋と西洋の二つの様式が折衷された摩訶不思議な建築は、僕ら一族が村でもっとも力を持っていた栄華を思い起こさせる。
たとえ過ぎ去ったあとであれ。
この館のはらむ、息を呑むような美しさ、一種の超然とした品のようなものはひとかけらも損なわれてはいないようだった。
だが、もう一族で遺されたのは機械仕掛けの従者――ユキだけ。
「他には、もう誰もいないんだ」
「一族の皆様はユウ様が発たれたのちにこの地を離れてしまわれ、私が管理人として残されたのです。以来、ずっと私はこの館を維持し続ける責任があり、それを果たしてまいりました」
こんなに広い館にひとりぼっちのユキ。むかし読んだ戯曲に出てきた、売り払われた貴族の屋敷に置いていかれる老執事のイメージが浮かんで、寂しげだ。
さっきの葬式のように村人やアマネが来ることはあるみたいだし、完全に孤立しているわけではなさそうだけど……。
「寂しい思いをさせちゃったね」
「ところがそうでもないのです」
えっ? どういうことだろう。
「私はこの館を適切に管理および維持をするように命令されました。熟慮の末、そのためには館の住居としての機能を使用し続けることがもっとも適切である――そう判断いたしました」
つまり――
「現在、この館は旅館として私が運営しております」
「ユキちゃんが一人で切り盛りしてるんだよ1」
なるほど。理にかなう発想だ。ユキが話してくれたところによると、建物の維持費も旅館の収益で賄われているという。元地元民としては、この村にどれほどの宿泊客が来るのかは少々疑問だけれども、アイデア自体は悪くないんじゃないだろうか。
「で、どれぐらい人は来るの?」
「月に一、二人ぐらいですかね」
ダメだった。
「ぜんぜん採算とれてない……」
「そっ、そのぶん一人ひとりに深くサービスしているからね! 満足度は高いんじゃないかな!」
アマネがフォローを入れるが、なおさら赤字にならないの……? と思わなくもない。
ま、いいか。
「それに、これでお客様はひとり増えました」
「……僕のことを言ってるのか」
「だってユーくん、他に行くところあるの?」
確かに。返す言葉もなかった。
……いや、待てよ? 僕はこの館の住人のひとりだったのだから、ちょっとおかしい気がする。だって、客だということは。
「もしかして、対価を要求される流れですか」
二人は満面の笑みを浮かべた。
ま、いいか。
というわけでアマネが帰ると僕は食事も摂らず、今度こそ死んだように眠りについた。
そしてやっぱり死ななかった。
二日目
もちろんだが、雪かきである。
「さっそくです」
朝食の場で、ユキは宣告した。
ということで僕はいま屋根の上にいた。
「ユーくんがんばれー、かっとばせーっ」
こいつも来た。ちなみに戦力ではない。ただ遊びに来ただけの女である。
「私じゃできないから、ユキちゃんに任せっきりで悪くてねー」
ユキは華奢に見えるけれど、ロボットだからもちろん人間より力があるし、人間には危険な現場でも怪我の心配がない。そんなわけで力仕事は昔から得意だった。
けれどもみなさんご存じのとおり、雪は僕が村を去ってから激しさを増して、彼女ひとりでは屋根から下ろすのが追いつかなくなってしまったらしい。村の人たちも自分の家で手いっぱいだし、こんな大きな家をタダで手伝ってもらうわけにもいかないだろう。
というわけで、僕の労働力は願ったり叶ったりなのであった。
僕はといえば、かつて住んでいた頃こそ幼さから任せきりだったけれども、村を離れてから鍛えた経験である程度コツは掴んでいた。掴まなければならなかった。
この世界で、雪と付き合う方法を知らなければ、ヒトは生きていけない。
それが生き残るためのルール。
……けれどもですよ、よみがえり……じゃなく、病み上がりの僕にハイ・パフォーマンスを期待するのも、なかなかどうして酷じゃあないでしょうか。
ということでサボって雪玉を作り空に投げてみた。ふむ、意外と楽しい。
ばしっ。ばしっ。
背中に軽い衝撃。
「何サボってるんですか」
突如現れたユキの攻撃だった。
屋根の反対側を担っていたはずが、いつの間に監視にとは。
「どうせユウ様のことですから、真面目にやらないのはとっくに想定済みでした」
「お? 言うじゃないか。やんのか? 言っとくけど僕は雪合戦ガチ勢だからな」
「ははあ。虚弱体質だったユウ様も言うようになりましたね」
「果たして慢心がいつまで続くか、見ものだな、ヒューマンの成長を見せてやる」
「望むところですね、雑魚ユウ様」
今のシンプルに侮辱だったよね?
いがみ合いが始まる。確実に、先に動いた方から戦闘が始まるよね。さて先攻か後攻か? さすがのわが経験則でも難しい戦術的問題だぞこれは。
どう出るのか――
「なになに雪合戦? 混ぜてよー」
あー、乱入者が現れてしまった。
しかしこれ、果たしてチャンスではなかろうか。
「それならアマネ、実は幼馴染として頼みが――」
「よっしゃーユーくんかくごー!」
ばしゅ。ばしゅ。
義によって助太刀いたす的ノリにて、勝手にユキ側で参戦。
「ちょ、待ってよ、なんで最初から僕狙いなんだ投げるな投げるな速い速い速いって!」
アマネはすごい勢いで投げ始めた。ユキと二正面の攻撃を受け守勢に追われる。
そんなとき下で何か音が聞こえたので見ると、騒ぎを聞きつけたのか、いつのまに家の周りの地面には人だかりがあった。
バカ騒ぎを聞きつけたのか、村のガキ……いや子供たちが集まってきたらしい。
「あ、幽霊!」
「やっつけちゃえ!」
「幽霊退治頑張れ!」
口々に罵声を浴びせられ、急激に戦意を喪失する。何やってんだろ……。というかみんな葬式のあともまだ僕を怪異だと思っているらしい。村社会!
「もういい降参降参! これ以上撃つな! 撃つなって――」
瞬間、足が滑った。
そこは屋根の縁で。
身体が投げ出される、感覚。そして重力の御手が身体を捉えて、絡み、叩きつける。
あ、これ、落ちる。
世界の速度が落ち、スロー再生に切り替わる。歪む周囲の声。驚きとか悲鳴とかその他もろもろ。視界といえば白、白、白、白だけ。ブランクスペース。
そして遮断。
カーテンフォール。
予想した最期の衝撃はなく、意識は穏やかに微睡んでいた。
「間一髪です」
そして僕を天国から起こすのは、またしても彼女の役目だ。
「ユキ、ありがとね」
「……いえ。人間、特に主人を守るのがロボットの使命です」
僕はユキに膝枕されていた。雪の中、体温のない膝の上で。
上と下で絡まりそうな視線は、相変わらずどこを見てるかはっきりしないカメラアイで――だけど、なんだか反射する光が、さっきまでとは違って見えた。
「……じろじろ、見られましても」
「ああ、そうだね。いちおう確認だけど、僕の身体は大丈夫かな?」
「簡易チェックを行いましたが骨折も捻挫もありません。内臓も正常でした。でも念のため雪かきはここまでにしておきましょう」
起き上がろうとしたとき、僕たちに走り寄ってきたのはアマネだ。
「ユーくん! また死んじゃったのー!?」
「失敬な。まだ一度も死んでないですよ」
これは僕の沽券にかかわるのではっきりとプレスリリースで否定しなければなるまい。
「じゃあ絶対死なないで! 永遠に死なないで! フォーエバー!」
「それは逆に難しいのではないだろうか」
というか嫌かも。
「死ぬまで死なないでー!」
「それなら守れる気がする」
「絶対に? 絶対だよー?」
自信はあるかも。
「もうっ、ユキちゃんがものすごい早さで飛び出すんだから、びっくりだったじゃんー」
「落ちる人間を先回りする物理法則とロボット工学にびっくりアンド倫理に感謝だよー」
真似てみたら雪玉を投げられた。はわわ。
「ご安心を。この程度なら造作もありません。ロボットは人間の味方です」
見たか、古今東西のディストピアもの。ヒトとロボットは手を取り合って生きていけるってワケ。ロボットが人間を虐待するなんて書いたのはどこのどいつだ? あぁ?
「いまのところは」
いまのところね。
気がつけばガキどもはみんな逃げ出し、カオスに絡み合った足跡だけが残されていた。
寒い。
そんな感じの雪のふりやんだ朝が来た。
陽がくすぶったうすい空から、光が世に降りそそいで、雪の表面で飛び跳ねては、鈍くかがやく朝だった。
「しかしまさか、生き返るなんて……」
「だから生き返ってないんですよねー」
昼に挨拶も兼ねて村で唯一の料理屋に行くと、どこから聞きつけたのか怖いもの見たさでどんどん人が集まってきたが、誰もが僕に怯え、恐る恐る近づいては服の袖を触ったり腕を掴んだりしてきた。僕はそのつど自分が生きていると証明しなければならなかった。
一〇年が経っても、見かける村人たちは時計の針を掴んでぐるぐる回したあとみたいに相応に歳を取っているものの、見憶えがある人たちばかりだった。物理的に来ることも出て行くことも難しい環境なので当然だけど、安堵とも憂鬱ともつかない感慨を抱かせる。
店主は「本当に食っている……」と僕が料理を頬張るのに目を丸くする。
村で唯一の医者は「奇跡だ……医学の敗北だ……」と眼鏡を何度も拭く。
狩猟屋はいきなり猟銃を構えて入ってくるし、神父は十字架を構えて僕を祓おうとするし、アマネはなぜかちゃっかり菓子を貰うし、その、なんかもう、疲れたよね。
最終的に村長が現れ全員を散らした。
「済まなかった。今度は村人総出で祝わせてもらう」
「いやそういうの別にいいんですけど」
最期に残った彼は勝手に約束を押しつけて去り、嵐の後のように店は静まった。
騒ぎにもひとり微動だにしなかったユキに謝った。
「ユキ、食べられないのに付き合ってくれてごめん」
ユキに食事機能はない。一族が買った際、不要と判断されたためだ。
「大丈夫です。私に食事ができても物資を消耗するだけで意味がありませんから」
ユキはいつもどおりで、そしてあの頃のまま。
祝いにタダにするという店主の申し出を丁重に断り、アマネが代金を館のツケにして(ユキは止めなかったがいいのかよ)店を出た。
ひさしぶりの村人たちは、相変わらずだった。
相変わらずに。見えはした。
それは希望なんだろうかね。
絶望だったりはしないかな。
ユキは館の仕事で戻るというから、僕らも帰るかねーなどと思ったところで。
「ユーくん、せっかくだし改めて村を見てかない?」
アマネにそんな提案をされた。
「寒いから帰りたい」
「まーそう言わずに」
けれども実のところ、僕としてもまったく興味がないわけではなかったんだ。
「……変わらないものは、ないからねー。それを感じるのも、悪くないかもよ」
一〇年、か。
取り返しがつかない長さだよね、まったくもって。
世界は取り返しがつかないほどに狂い、喪われた。
僕は取り返しがつかないほどに壊れ、損なわれた。
だからこの場所に僕は責任を持つべきだ。既にどうしようもないことを知っていて、それでも、かつての村をいまだ憶えている亡霊として。
時を弔おう。
「分かったよ。それならアマネ、観光ガイドの仕事だ。客の僕を案内してくれ」
「ふふん、任せて。この村の魅力をたっぷりお伝えして、あわよくば資本の誘致を……」
涙ぐましき地方の外貨獲得の試みだった。
「ってことでユキ。少し村を見てくるから」
「お気をつけください。ユウ様の体調も心配ですが、村には建物や設備が老朽化して危険な場所もあります。分かっているとは思いますが、雪を甘く見てはいけません」
「大丈夫さ、アマネがついてるから。二人なら困ったとき呼んでくれるだろ?」
「……それならば、それならば私もついていった方がよろしいかと」
「仕事があるんじゃないの?」
「……しかし」
困らせてしまっているなぁ。
「まぁ、墓地と、村をちょっと見て回るぐらいだからさ。ついてきてもいいよ」
「墓地ですか……」気が乗らない様子だ。「失礼ながら、行くのはおすすめしませんが」
「遠いから? うーん、あの頃みたいにまだ心配って感じなのかな」
「いえ……では、承知いたしました。お気をつけて」
ちょっとだけズルい言い方かもしれないけど、ユキはようやく頷いてくれた。
言うまでもなく、墓地である。
最初に向かったそこに、村人が僕を埋めるための穴を掘ったとアマネは教えてくれた。
穴の前では墓守の男が、シャベルを手にしていた。
「まさか無駄になるとはな。墓守は喜ぶべきか嘆くべきか、どちらが倫理だと思うかね」
「受け持つお墓の数が減るんだから、仕事が楽になって良かったねー」
「いや、これを埋めないといけないから、仕事は短期的に増えてるよ」
「ははは、現金だねぇ。なるほどそういう世代かい。随分育ったねぇ」
齢六〇を超えただろうか、彼は笑う。
「それなら私も現金に行こう。埋めるはずだった相手に頼むのも変な気がするが……どうだい、穴を元に戻すのを手伝ってくれるかね。もちろんお代は弾むよ」
「奇遇ですね、そのために来たんです」
ということで僕はシャベルを借りて、墓守と一緒に穴を埋めていく。
待ってましたとアマネはさっそく雪ダルマを作り始めた。こいついるか?
空洞を埋葬しているような、奇妙な感覚。けれどもここに埋められるのは僕だったかもしれないのだ。僕が僕を埋めている気分だったりね。ハハ、ハハ、ハハハ。
死体。
死体。
よーし、死体埋めてくぞー。
いっち、にー、いっち、に。
あれ?
なんか、すごく、変な感じ。
答えは簡単、それは手からシャベルが落ちた音で、それは雪の地面に両膝をついた衝撃で、それは僕が埋めかけてる穴に頭から突っ込もうとする重力感だったのさ。なーんだ。
「ユーくん、どうしたのっ!?」
「おい、危ないぞ!」
声が耳に入ると、ぐらりと傾いた身体は既にとっさに引き戻したあとだった。
「もーっ、なにボーっとしてんの。倒れそうだったよ。危ないじゃん」
「……いやはやー、また母なる大地へ回帰願望が出てしまいましたな」
ふざけないでーと呆れるアマネと困惑を隠さない墓守を適当にごまかして仕事を再開し、陽が傾く前に大半は埋め終わった。地面を固めるのは自分がやると墓守が申し出てくれたので、僕の仕事はここまで。
墓守は礼に近くの川で釣った魚をくれた。帰ったらユキに料理してもらおう。寒さですぐには腐らないから、(僕が)借りた魚籠を持ったまま散策を続けることにした。
さよなら死んだ僕。
結局、見飽きたことだって忘れてしまうのだから。
村のメインストリートを突っ切って歩くと、やっぱり人影は少なくて、世界が僕とアマネを置いて逃げ去ってしまったあとみたいだな、なんて感傷にひたりもするものだ。
脳内の地図が精巧に現実をなぞっても、確かに建物は経年劣化して、ツタが生えたりひび割れた壁や塀も目立ち、なによりも雪の量が違う。
「村の人口はどうなの?」
「せいぜいが一〇〇人とちょっとぐらいかな。子供たちもさっきの雪合戦に来た子たちがたぶん全員だよ。当たり前だけど、ユーくんがいた頃よりお年寄りは増えたよねー」
「アマネぐらいの齢の若者はいないのか?」
「ユキちゃんを数えないなら私だけかな。すごい寂しかったよねー」
寂しかったと、過去形をアマネは使った。
「でも、ユーくんが帰ってきてくれたから。……みんな帰ってこなかったけど、それでも、ユーくんだけは帰ってきてくれた。奇跡だよ」
「……それほどのこと?」
「それほどのことだよー」
やがて村の中央の広場に出た。目の前には教会の鐘楼のついた尖塔があって、その前には噴水があった。水面は透きとおったまま凍りついていて、僕たちは縁に座り氷を砕いて遊んだ。
「これ、昔もやったねー」
「だよね、やったやった」
「ユーくんは、変わらないねー」
「アマネだって変わってないよ」
「……そうかな」
「そうだといい」
「……そうだね」
穏やかな時間。
雲が覆う灰色。
眠るように息をする世界と、それを起こさないでおく僕たち。
そんな和やかな空気をぶち壊したくなるのが僕の特技である。
突然、僕は魚を放してやりたくなり、魚籠を開けて静かに水面に滑らせた。もちろん魚は死んでいたので泳がなかったし、ぴくりともしないまま水面に腹を横たえて浮かぶだけだった。
水死体で。
水面にいっぱいの死体。
「急にどうしたの……? 川から引いているからお水は綺麗だけど、お魚さん傷んだら、食べられなくなっちゃう」
「――めろ」
「……え?」
「いや大丈夫大丈夫なんでもないよただ生き返った人間として魚も死という概念から自由にしてやりたかっただけさ僕みたいにはいかなかったけど僕はキリストじゃないよねーもうまったく」
「なに、ユーくん……?」
「ほれ見ろ、大漁だぜ!」
魚をアマネに投げてみると、案の定アマネはきゃーっと叫んで見事にキャッチし抱きかかえたがいきなり魚は息を吹き返して胸の中で暴れだした。分かる、気持ちは分かるぜフィッシュよ。
「もーっ、ユーくんのいじわる! 昔からそうなんだもん! ……くすぐったいよー!」
アマネは胸からついに魚を放り出すと「くらえー!」と僕に投げた。僕もすかさず受け止めて、投げ返dした。ばしゃばしゃ。
球技・魚投げ。
「落とすなよ!」
「そっちこそ!」
びゅーっ、と空高く飛んだ魚が風であらぬ方向に流れ――「あ」
瞬間、そこで華麗に影が飛び出す。
「そういえばこういう子でした。相変わらずのクソガキですね、ユウ様は」
「いや、ユキ、これはフライングフィッシュという新しいスポーツで、揚げると飛ぶを賭けた高度な言葉遊びの競技名なんだ」
「今度こそ帰りましょう。風邪をひかれてはたまったものではありません」
僕が悪いです。
「もー。続きは明日ね。学校の日だし一緒に行こ。絶対、約束だからねー」
アマネは寒いよーと言い残して、家に帰っていった。そういえば昔みたいに今も母と住んでいるのか、気になったけれど聞くほどでもない気がして、黙っていた。
魚は死んでいた。みなさん、合掌。
それはもうユキのことだから、偶然ではないんだって思うのだ。
僕に割り当てられたのは、かつて自分の部屋だった二階の一室。
部屋は綺麗で、離れる拍子に整頓したせいでがらんとしていたけど、それでもその去った瞬間から、ほぼ完璧に保存されていた。
そこにいたり、たまに廊下に出ては客がいないのをいいことに他の部屋を漁ったり(家具も床も、傷も埃もなく美しいままだった)、そんなこんなでぼんやりと夕食まで時間を潰した。
もちろん夕食は魚の煮込みだった。
ユキはエプロンをメイド服の上から着けて鍋を食堂のテーブルに持ってきて、僕はそんな普段とちょっと違う姿が好きだったことなんて思い出した。のだけれど、相変わらず変わっていなかったのはそこだけじゃなかった。
熱した鍋を素手で持っていたんだ。
「……熱いよ」
「昔も言ったと記録しておりますが、容姿の類推で、私に皮膚感覚や痛覚が存在すると考えるのは人間の脳からくる錯誤です」
その返答も、やっぱりだったけど。
「ダメ。どこかにマトンとかない? 次はそういうやつを使ってくれ」
「命令ですか」
「今まではしなかったけど、今度からはそうしよう」
「……承知しました。いつでも、ユウ様に従います」
本当はそうじゃないんだけどなー。
でも、こんなふうに歪な関係なのが僕たちだったよね、って思い出したら、そうではあるのか。
それでいいのか考える時間もある。
たっぷりと。
「どうしました? はやく食べないと鍋の温度が低下してしまいます」
「ああ。そうだった。はやく加速度を微分しないと」
「では、私はユウ様の食事中に片づけを行ってまいりますので、失礼」
逃げないで!
「こんなにおいしいならアマネも呼べばよかったね」
「……そうですね、きっと喜んだでしょう」
食事を終え、戻ってきたユキにしみじみと感想を伝える。そう、ユキの料理は昔からおいしかった。世の中の(特に男性の)一部には、女性型ロボットは料理ができなければできないほどいいという謎の価値観もあるらしいが、すくなくともユキはこれでいいと思うんですが、皆様はいかがでしょうか。
僕は評論家ではないゆえに形容するのは省くけれども、ユキが作るものはたとえどんな料理でも、それはもうユキの味なのだった。機能的に味見ができないというのに、完璧といっていいのだ。
「アマネもよく遊びに来るんでしょ? 作ってあげたりはしないの?」
「……私はお客様にしか調理をしません。食料も貴重な時勢ですから」
ああ、そうだったよな。
今日行った料理屋だって、僕が来たことに奮発して食事を振る舞ってくれたのだろうし、アマネだって呑気に見えて気が利くものだから、旅館のための食料を自分で食べてしまうのは、なんか抵抗を感じるはずである。
……それでも。
「これからは、ときどき三人で食卓を並べても悪くないんじゃない? ユキは食べられないけど……それでも、またみんなが揃ったんだから、いい機会かもよ」
「……はい。それもいいかもしれませんね」
すこし歯切れが悪かったが、認めてくれたようだ。
「少々いとまを頂いてよろしいでしょうか」
そんな夕食がひとまずは終わったところで、ユキが唐突に申し出た。
「ロボットの設計上、私は一日ごとにその日に記録したデータを整理し、ログをつけなければなりません。バックアップであると同時に、自己診断機能も兼ねた仕様となっております」
「ああ、それなら知ってるよ」
「……確かにそうでしたね。ユウ様もこちらを離れてからは工学系の専攻に進んだと記録しておりますから、そうでしたら、詳しい説明などは不要でしょうか」
メーカーや型番を問わず、基本的にロボットは自分で自分を記録し、診断することができる。もちろんユキにもその機能があるし、これからそのプログラムを実行するつもりだろう。
……と、そこで思いついた。
「何か手伝おうか?」
「手伝う、ですか?」
「そう。今まで自分しかチェックする人がいなかったんでしょ? だったら何かエラーの見落としがあるかもしれない」
「……私の自己診断は、現在も正常ですが……それに」
「ちょっと再会したばかりに馴れ馴れしすぎたかな?」
「いえ、幾年もヒトの手が入っていなかったのは事実ですね。……それをユウ様が望むならば、そういたしましょう」
やっぱりズレたままなんだけど、それでも話が進んでしまう、そんな僕たちであった。
僕たちが向かった先は、館の地下室。
そこがユキの整備室だった。……と言ってみても、二つのモニターを備えた四角いコンピュータデスクと、それにケーブルの繋がった一台のベッド(枕の位置に頭を覆う機械がある。スキャン装置だ)程度しかないけれどね。
ユキのモデルは当時の最先端と言って申し分なく、非常に長く活動可能で、蓄電装置は数百年に一度交換すればいい。いちおう館にはいくつかスペアがあると思うが、それを使ったことはまだなかったし、たぶん使い果たす前に世界が終わる気がする。
今からユキ(と僕)が行うのは、そんな大手術ではなく、もっと地味な点検と整備だ。
「それでは――失礼いたします」
ユキはベッドに腰かけ、そのまま身を横たえた。頭を機械の中に入れて、整備用のモードに移行しようとしている。僕もモニターの前に座り電源を入れる。ひさびさにしてはいい感じ。
「……準備できました。ユウ様はいかがですか? 長らく手動で操作することがなかったので、エラーはないでしょうか」
「今のところ、大丈夫そうだよ」
「承知いたしました。本来ならここで自己診断を行いますが、手動のためユウ様にすべてを委ね、私は休眠状態に入ります。そのあいだは、いっさいの行動および反応を停止いたします」
「よし、それじゃあこれからユキに同機するね」
「それでは失礼いたします」
そう言うなりユキは黙ってしまい、あとにはベッドに横たえられたメイド服の少女(のロボット)とそれを見下ろす僕、部屋にはその二人だけ。
……なんか絵的に危ういものを感じるが、もちろんユキは何も気にしていないだろう。そしておそらく、気にするという概念すら適切ではない。
だからこちらも気にしないでおこう。
「私はそのような用途で製造されておりませんので、安全装置が起動して人体を破壊してしまうかもしれませんから、ロボット倫理に反する不審な行動はしないのをおすすめいたします」
「そんなに信頼ないんだ……」
「冗談です」
そういう概念はあるっぽい。
今度こそユキは眠ってしまったので、覗き見をするみたいでちょっと申し訳ないけれど、さっさと作業を始めるとするか。
画面上でログのファイルを開き、読み進めていく。
・6/20 00:00
警備用の巡回中に倒れている成人男性ほどの大きさの物体を発見、本当に成人男性だった。生命反応有、怪我なし、気絶状態で意思疎通は不可能。館に搬送した。
彼の個人情報を特定。現在も当機の主人として登録されていることを確認(以下、ユウ様と呼称)地域全体に、死亡の可能性を視野に報告。以後、彼が目覚めるのに備えて安全の確保と命令への待機を行う。また、過去の命令に再度従って、彼を〈ユウ様〉と呼応し、本記録でも、それに従う。
・6/21 09:07
一日経過。ユウ様はまだ目を覚まさない。私はあくまで両方の可能性を示唆するにとどめたが、死亡する見込みが高いという情報が広まり、無念の帰還に、ショックとともに村全体が勝手に彼の死を念頭に動き始め、葬儀の準備が始まってしまった。間違ってはいないので訂正はしなかった。死亡確認してから動くよりはコストが少ない。現に、容体は悪化していると村医と確認した。
・同 15:45
葬儀の準備。村全体で対応が進む。容体は絶望的。葬儀はこのまま行われる見通しだ。
・同 19:31
葬儀開始。……最中にユウ様の意識がとつぜん回復。五感とも問題なし。記憶は正確に確認できていないものの今のところ正常な様子。参列した村人は混乱し逃亡。蘇生を確認。まずは身体を暖めさせる。しばらく意思疎通を行い、睡眠を取らせる。
記録の文体はユキらしく怜悧で理路整然としていた。僕を死んだことにしようとしていたのはともかく。
そして翌日から記録が再開される……前に、一文だけ補足が入っていた。
また会えるなんて。生きているなんて。
……どうした。なんかちょっと変だぞ。
デレか?
……とまぁ冗談は置いておいて、驚くのも実は無理のない話なのである。
それほど多くのチェックをしたことはないが、ロボットの記録は文体の違いこそあれ内容はたいてい無味乾燥だ。ユキが特別に感情の起伏がないせいというわけではなく、どんな機種でも客観的な記述をするよう、プログラムされている。
ロボットは人間に奉仕するためにある。したがって、不要な機能は搭載されない。
する必要がない。
……では、このユキの記述はどうだろう。確かに主人が無事であったのは機能的に幸運なことだ。しかし、一般的なロボットはこのような場合、どれほど砕けた文体でも『安堵した』や『安心した』などの、感じることのない感情として、人間が理解しやすい言葉で置き換えるはずだ。
表現記述=(人間に理解しやすく感情化された)記録――
それはつねに一対一だ。
ではユキの記述はどうか。僕は『ユウ様が生存しており安堵』のような文章を予想していた。けれども、実際の文章は、もっと曖昧な表現だった。
僕が嫌うあの二文字を使うならば。
それは、もうほとんど文学だった。
生きている、なんて?
驚いたのか? 嬉しかったのか? 不満だったのか?(だったらつらいんだが)
そこから読み取れる感情は一つではない。ゆえにロボットの状態をひとつに絞り込めない。だからこれは整備に適していない記録だ。そんなことは言うまでもなく本人も把握しているはず。
それでも。
その一六文字をユキは刻んだのだ。
――また会えるなんて。
――生きているなんて。
さて、問題。
僕はここから、整備士として何を読み取るべきだろうか?
・6/23 8:19
ユウ様が起床。朝食を摂らせる。体力回復も兼ねて雪かきに参加するよう促す。ユウ様がサボタージュしていたのを注意したところ、途中で雪合戦になってしまった。私が負けるはずがないので追いつめてしまい、屋上から転落させるという失態を犯してしまった。高所に登らせるべきではなかったのだ。反省すべきであり、ラーニング対象だ。
しかし飛び出して空中で先回りし、助けることができた。
ユウ様の身体から、熱反応を検知した。
生きていた。
レンズの向こうでユウ様が笑っていた。
私は……
あれ、先がないぞ。ミスかな?
でなければ、また奇妙な記述。
ユキのような人間を補助するロボットは判断を保留しない。してはならない。目の前の状況に対して、可能な限り最善の結論を出し、行動する。行動、というのが大事だ。計算は大事だが、時間は有限だ。あらゆる可能性を考慮しすぎて身動きが取れなければ、ヒトを助けられない。
正解でなくとも。
完全でなくとも。
ロボットは結論し、行動する。
……なら、ユキはなぜ言葉に詰まったのだろう? この場合は、僕が無地だったことを確認できればそれでいいはずだ。なのに、なぜ、その先を書かなかったのか?
答えが出ないまま、記録は現在まで追いつき、そのまま終わってしまった。
「いかがでしたか。異常などは、ありましたでしょうか」
ユキは既に再起動し、ベッドから身体を起こしている。
「……ユウ様、どうかなさいましたか?」
どうかなさるも何もどうかしていたのだが、果たしてどう説明したものか。
そもそも、これをバグと呼ぶべきだろうか。もちろん記録には違和感のある点があった。整備者としては忌憚なく指摘しなければならないはず。でも、その違和感の性質は論理的な矛盾や事実と異なる記述のような、はっきりと指摘できるものじゃなかったのが、さぁ、困ったね。
それに……そもそも、このようなチェック自体がなんだかプライバシーを侵害している気もしてきた。過去に見てきた無味乾燥な記録からはそんなことは感じなかったけれど、ユキの記録を読んでからは……どうにも、気まずくなってしまうような感じ。
たとえれば……そうだね、日記を盗み見てるような?
記録は人間に読まれるためにあるのに、なんでそう思ってしまうのだろう。
ユキは人間ではない。彼女はいつだってそう言う。それは僕も分かっている。それでも、原則としてのロボット倫理だけじゃなく、感情的に気にしてしまうのは、やっぱりどうしようもないんだ。まったく僕としたことが、エンジニアとしてどうかしているよね。
それでも、ロボットに対する責任・義務として、エラーがないかは確認すべきなわけで……いやそのね、やましい気持ちなんて一切ないんですよそれはもう。そのへん分かってくれるかい? そうですか。僕は誰に弁明してるんだ。
「問題がなければ、仕事に戻らさせていただきますが」
「……だだっ、大丈夫だよ! ちょっとひさしぶりだから慣れてなかったんだ。うん、まさにユキらしい流麗な文体で記述された一種の文学と呼べるであろうね」
「文学的、の意味が分かりかねますが、不正確ということですか。真面目にやっていただけないのは問題です。それともやはり作業そっちのけでロボット倫理に反した怪しいことを……」
「どうしてそうなるんだ。主人として心外だぞ。言っただろう僕はこの記録からポエジーや美を感じ取っているのだ、えーと、ロボットに意識の流れはあるのかという実存的問題がだな」
「ユウ様は文学を知りません。はい、確かに記録しておりますよ。私が読み上げなけらばならぬほど、あんなにも勉強で小説や詩を読むのを嫌がっていたことを」
「うぐぐ」
「あの、次からは真面目にやってください」
嗚呼、叱責されてしまった。
けれどもそれ以上の追及はなくて、それがなおさらに、後ろめたいようなそれもちょっと違うちゅうぶらりんな思いをどうしてくれんのって、あーもう、だから誰に言ってるんだよ僕は。
しかも次、ってユキは言った。明日から、毎日やるつもりなんだ。
……ハードボイルドに行くしかねぇよな!
というわけでさっそく部屋に戻り、タバコを吸うふりをしたり水をギムレット(ってなんですか)だと思って飲んだりして暇を潰しましたとさ。
「ふぅ、一日も終わりか。……なんてわざとらしく言ってみるかね」
湯を浴びると(水や燃料を使うのだからいま使うのは贅沢な話だが)、上がる頃にはいい時間で。
この館は和洋折衷、ということで随所に木材が使われている。よってどれだけ寒くとも、火を点けっぱなしにするのは危険だった。だから部屋をできるだけ暖めてから、スイッチを捻って部屋を暗くし、ベッドに入る。
瞼を閉じるまでの数分のあいだに、僕は今までの人生を辿ってみた。
……記憶。記憶。記憶。
すくなくとも幼い頃は幸せだったと思う。ユキだけではなく、他の使用人も、もちろん父と母を含めた親族――一人っ子だったがほぼ半同棲のような親戚もいた――も、館のみなが僕に温かく接してくれたと思う。言うまでもなく、村人たちも。なんならユキがいちばん冷たく見えたぐらいだな。それでも幼い僕は、彼女をいちばん慕っていたけれどね。
それにアマネという幼馴染もいた。
齢は離れていたし、彼女と家の事情も違ったんだけど、誰もそれを咎めたりはしなかったし、僕たちはいつも楽しかった。
そして地元の学校でともに学んで、中等過程に上がり、僕は理系で工学を学びたかったから高等教育から先は大きな街で受験することになり、いよいよ進学して、村を出て――
それから、いろんなことがあった。
たとえば、あんないろんなこととか、そんないろんなこととか、こんないろんなことがあった。とってもいろんなことがあったし、まぁまぁいろなことがあったし、すごくいろんなことがあった。全体的にいうといろんなことがあったって感じかな。うん。
……あれ?
なんで細かいことを思い出せないのかな?
なんで細かいことを言葉にできないんだ?
……あれ?
なにか、おそろしいものを見た気がする。
なにかが、決定的に損なわれた気がする。
世界は変わった。そう、世界は変わったんだ。取り返しがつかないぐらいに変わった。一年じゅう雪が降るようになって、生きていくのは、とっても大変になった。
……あれ?
どうして、そうなったんだっけ?
まぁいいか。寝るぜ。
目の前になにかが積まれている。
とってもたくさん積まれている。
すごいにおいがする。
たとえば動物の内臓を取り出して壁になげつけたような、それはもう、なんだか生々しくて、嫌になっちゃう感じなんだ。
だれかが何か液体をかけ始めた。
すごいにおいにさらにすごいにおいが混ざる。これ油じゃない? そうだ。僕が嫌というほど嗅いだにおいだった。整備所のにおいだよね、これは。ああ、うんざりしちゃう。あそこにはいい思い出がなくてね、
あかい火。
あかい火がついて、燃えだした。
ほおに、熱を感じる。
だんだん景色が遠くなってくる。僕の背中に僕がまわる。僕はそれをじっと見ている。いつまでも見ている。あついのにさむい。ふるえが止まらなくなりそうで、その場にうずくまりたいのに、身体はぴくりともしなくてさ、バカみたいに突っ立っている滑稽な僕。
なみだは出なかったんだ。
で、だからこれってなに?
――ああああああああああああああががががぐぎごはばばばぐぐがはっ!
……え? なんだこの音。
自分から出た声みたいだ。
あん畜生、びっくりさせやがって、いったいどこに自分の叫び声で目を覚ます人間がいるんだ。目覚まし時計いらずじゃないか。便利だな。これからはそうしよ。
「ユウ様」
声にがばっと飛び起きると黒い輪郭があった。ベッドの横の椅子に座っているみたいで、目が慣れてユキの姿だと分かる。僕を見ている。暗い部屋の中で、鈍く赤い光がふたつ浮かんでいる。彼女は眼のカメラを暗視モードに切り替えたらしかった。
「突然電気を点けて起こすと、よりパニックが悪化する可能性があったので、様子を見させていただきました。……もう、大丈夫なようですね」
立ち上がって電気を点ける。
「……僕、どうだった?」
「先ほどから叫んでいました。人間並みの聴力モードのマイクでも、壁を隔てて聞き取れるほどの大声を出していました。ユウ様のことですから、きっとうなされたのでしょう」
なんだ、あれは夢だったのか。いやあれってなんだ?
まぁなんでもいいか。夢なんだし。ドリィーン、ドリードリードリーン。
しかし困ったな。突然起きたせいでめちゃくちゃ頭が冴えてる。このままだと、とてもじゃないが寝れなそうだった。
「眠るのが難しいでしょうか」
「かもね」
「では、入眠を手助けいたしましょう。ユウ様が幼い頃、眠れなかったときにいつも私がしたことを憶えていますか?」
あー、それって――もしや。
いやはや、すこし恥ずかしいのだけれど。
「アレか」
「そう、アレです」
当然ながら、読み聞かせってやつだった。
僕が叫んでいるうちに用意したのか(なんて手際)、ユキは既に手に本を持っていた。
「それでは、こちらを読ませていただきます。内容にはとらわれず、目を閉じて聞き流してください。そのうち次第に脳と波長が合って、穏やかに入眠できるでしょう」
「分かった。リラックスしとくよ」
ユキは僕に頷いてから、本を開いてページを手繰った。
そして紙面に目を落とす。……のではなく。
彼女は焦点を当てたレンズから言葉を拾い、音に変換していく。人間と過程は違うけれども、結果は同じだ。
同じ物質を生成するけど異なる化学反応、ってとこか。
「では行きます。『アンドロイドが、感情移入度測定調査にかぎって、なぜ無残にも馬脚をあらわすのか――』」
タイトルからは内容は分からない。文章の硬さからして科学書だろうか。だとしたら僕の得意分野だったり。
「『感情移入はどうやら人間社会だけに存在するものらしい。……たとえば、クモのような独居性生物はそんなものに用がない。それどころか、あればかえって生存能力の障害になる。クモが餌食の身になって相手の生きたい気持ちを思いやったりしたらたいへんだ。……だれかが喜びを経験すれば、ほかの全員もその喜びの断片を共有できる。だが、もしだれかが苦しみを経験すれば、ほかの全員もやはりその苦しみの影から逃れられない。ヒトのような群居動物は、それによって一段高い生物因子を獲得する。一匹狼的なフクロウやコブラは、逆に破滅に近づくだろう』……いかがですか?」
ユキの声には、人間――たとえばアマネみたいな――の感情豊かな抑揚や元気はない。なぜかと訊けばやっぱり「不要だからです」と答えるだろう。
それは、命令に応答して、実行するためだけに設計された人工声帯から再生される、機械音声だから。
けれど不思議なことに、僕は彼女の声を聞くと、なぜか落ち着くんだよね。
子供の頃から。
今も、同じだ。
「『人間型ロボットは、どうやら本質的に独居性の捕食者らしい』――ふむ、私のことを言っているみたいですね。やはり興味深い本でした。ユウ様もお詳しいでしょうが、いかが思いますか?」
「え、なに? ちょっと頭がぼんやりしてて……」
「……失礼ながら、学習に集中し目的を忘れておりました。お休みください」
「そう言われると気になってくるぞ? 分かった、当ててやる。今日のユキのヘッドドレスは古い順に数えて七番目のやつだろう」
「どうして分かったんですか。変態」
「いやマジで当たってたのかよ……」
「嘘です。変態」
ロボットなんとか原則はどうした。主人としてもヒューマンとしても完全に舐められていた。やはりこの星の支配権は譲るべきですか。要らないですかそうですか。
そんなどうでもいいやりとりに、救われたりね。
そう、だからいつのまにか不安は消え去って、次第に意識は緩んでいった。
「お眠りください、あの頃のように」
なんて言葉が、聞こえた気がした。
三日目
アマネ曰く。
「教育は大事なんだよー」
ごもっともな見解だね。
というわけで今日は平日、僕たちはいまこの村で唯一の学校の屋上にいる。
よく眠れたけさ、雪下ろし(前回の反省でユキは渋ったが、何もしないで泊めてもらうのもやっぱり気が引けて、細心の注意を払いつつ行った)が終わったところで、館にやってきたアマネに「ユーくん、学校に行ってみない?」と誘われた。そういえば存在を忘れていたので僕も興味があり、というわけでユキに断り二人で久しぶりの登校と相成った。
屋上は思ったほど雪が積もっていなかった。というのもこの学校は村でもっとも新しい建物で、融雪装置によって温水を流して屋上の雪を溶かすことができるから。
といっても最近は不調気味だったそうで、どうせ機械ならと僕が試しに見てやって、動かしたらずっと良く動くようになって、アマネからは「機械の魔法使いさん」の称号をたまわりました。
学校、ねぇ。
「ここに通ってたんだな」
「ユウくんは館で勉強してもよかったけど、みんなといたかったんだもんね」
「アマネがいたからだよ」
「またまたー」
当村比で新しい建物とはいえ、融雪装置がそうだったように、やっぱり建物は古びている。僕がいま手を乗せている鉄柵は錆びているし、コンクリートだって、ところどころひび割れている。
廊下も、教室も、その中の机と椅子も、腐食と傷でいっぱい。
それでもまだ、凛々しくそびえるこの建物に、僕は館に似た敬愛を抱いた。
主がいなくなってもそこにあり続ける物体は、超然かつ、孤高で、何物も寄せつけない。ヒトが作り出したものたちが、ヒトを置き去りに勝手に在り続けることは、アイロニカルで、だけど、美しい。
雪に覆われた校庭からガキどもの声が聞こえてくる。走ったり雪を投げたりデカい雪の塊を作ったり、とにかくいろいろなことをやって遊んでいる。
僕が村を去ってから校舎は軍に徴用され、教師は知識人として連れていかれ、学校は事実上つぶされてしまった。
そんな学校を再開させようと提案したのはアマネだという。
「教育は大事だからねー」
とはいえまともに授業ができる人間がいないので、とりあえず子供たちを安全に預ける場所を兼ね、アマネが引率や見守りの役をしているそうだ。
「っていってもみんな賢いから、私はこうして見てるだけだけどねー。……おーい、みんな盛り上がってるかー!」
アマネの煽りにガキどもがウオオオみたいな歓声をあげる。なんつーか、元気っすね。
「ほんとは私もなにか教えられたらいいんだけど……せいぜいが簡単な読み書きと計算ぐらいを見てあげることしかできなくて。それで、子供たちも結局、大半の時間は遊ぶようになっちゃったんだよね」
感慨深そうにアマネはみなを眺める。
校舎はすこし小高い山の上にあり、二階建てなので、眼下からは村が一望できる。
そしてそれが、すくなくとも僕たちの世界のすべてなのだ。
子供たちは、ここから出ることなく、ささやかな農業や林業や漁業や狩猟をして、生涯を終えることだろう。
「アマネは、ここから出たいと思う?」
「ん? ここって?」
「村から」
「村から出てもねー」
「そっか」
外の世界にはもう進学する学校も就職する企業もない。あるのは身の危険だけだ。
見下ろす世界は静かに、でも僕たちに気づかないで動いているのだ。それはもう、ほとんど暴力めいたものだよね。
世界は、僕たちを無視する。
これからもし続けるだろう。
それなら、僕たちもなぜ世界のことを考える必要がある?
「それにね、私この村のこと、結構気にいってるの」
「ふうん。それはどういう『気に入ってる』だい?」
「気に入ってるは気に入ってるだよー」
返答になってない。こういうの、まったくもってアマネらしいと思ってしまう僕だ。
そして沈黙がやってくる。遊びに飽きたのか、子どもの声も聞こえなくなった。ここちよくもわるくもない静謐。ただ、それは繊細で微妙な均衡で維持されている感じもする。そこにはいくばくかの、狂気さえもある。分かるかい?
僕たちは世界がどうしようもなく廻っているのを感じた。
「そうだ」と唐突にアマネが緊張の弦を鳴らすように言った。「ユーくん、子供たちに何か教えてあげるのはどうかな。頭いいんだし、ユーくんならきっといい先生になれるよ」
先生か。僕がこの村にい続けるというなら、悪くない収まり方ではあるけれども。
「それなら、ユキがいるんじゃないか」
「ユキちゃんはね、あんまりここに来たがらないから。なんていうか人見知りなんだよねー、ああ見えても。ユーくんしゅきしゅきだから分かりにくいけど」なんだそれ。「戻ってくるまでは誰ともぜんぜん喋らなかったからさー。なんなら。三人だった頃よりもぜんぜん喋ってるし」
思い出せば、確かにそんな気もする。だとしたら、変わったのかもしれない。
昨日のログを思い出す。
ロボットだってデータの蓄積で変わるだろう。でも、僕が戻ったから急に変わったなんてこともあるのだろうか?
うーむ。なんでだろう。
「私がその役じゃなかったのは、ちょっと寂しいけどね。いい変化だと思うよ」
「そんな僕って大きい?」
「じゃあユーくんはユキちゃんをどう思ってるの」
「ソウルメイト」
「……またテキトーなこと言って逃げるんだから」
「ま、何にせよユキとは、ただでさえご主人様とメイドなんて甘ったるくも背徳的な関係なんだ。お互いに節度ってのがある」
「さーてどうでしょう。……ま、そりゃ今はいっか。ってわけでさ、先生になってよー」
「残念ながら義務教育の内容は全部忘れたんだ。もう機械工学とプログラミングぐらいしか教えてやれないよ。あと技術書を読むんで、外国語はちょっとだけ勉強したけど、本当にそれぐらいさ」
「じゃあ、それでいいから教えてー」
「ちなみに機械工学ってできそう?」
「機械工学って機械の工学でしょ? わたし天才だしらくしょーらくしょー」
うむ、やめておこう。
「そうだ。読んでる本に何なのか分からない単語があって。教えてほしいの」
「できるのかなぁ……」
不承不承。やってみないことには何ともいえないけど。
「……あと、一緒に教室にいてくれたら、ちょっとだけときめいちゃうかも」
「なんだそりゃ」
「青春の一ページってやつだよ。言っとくけど私そういうのに飢えてるし。がおーだよ」
……よく分かんないがアマネが満足するならやってみるか。面白そうだし。
そんなわけでと言おうにもどういうわけでもないが、何にしても僕とアマネは教室にいる。二階なので窓の外から校庭が見える。だからガキの監視……もとい見守りもできるってわけ。
「これが、その本なんだけど」
アマネが懐から取り出したのは、古びたペーパーバッグだった。表紙は擦れてタイトルや著者の名前は判読できない。ページの角もボロボロで、かろうじて読める状態と言ったところ。
「めちゃくちゃ状態が悪いけど……これ、どこで見つけたの?」
「ここの図書室にあったの。軍のひとたちにここが持っていかれたときに、ほとんど本は持っていかれちゃったけど、これは目立たない場所に隠してあって、偶然見つけたんだ」
アマネの言い方は角を丸くしてあるが、ようは検閲で略奪されたってこと。ありそうな話だ。世の中が荒れるとまず当てつけにされるのが出版。本を燃やす国はやがて人も燃やすようになるって、誰の言葉だったっけ?
もちろんたいてい事実は逆。
どれだけ人を燃やしても、死んだ人間は殺せない。だからそいつらの書いた本を燃やすのだね。
しかしアマネに免じて閑話休題といこう。
「ユキには頼まなかったの? 彼女の力なら簡単に検索できる思うけど」
僕の知るかぎり、大抵のロボットは辞書を内蔵している。それに、そもそも僕の家庭教師役だったのだから、僕が教えるのよりよほど適任な気さえするのだが……。
「ユーくん、分かってないなー」
「何が?」
「私がずっと教えてほしかったのは……ま、いっか。なんでもなーい。ついでにばーか」
よく分からない上に罵倒された。なんなんだそれ。
気を取り直して机に椅子を並べお互い左右に座る。
「こうやって隣に座るのも、なんだか懐かしいなー」
「いちいち懐かしがってたら時間がいくらあっても足りないから、ほどほどに」
「そんなこと言って、ユーくんも懐かしいくせにー」
「照れるじゃんかよー」
真顔で言ったら肘を突かれた。やめてー。
「もー。真剣にやるの」
「了解了解、剣呑剣呑」
これは小説みたいだ。
「……話は、学校を退学になった男の子が街をウロウロする、って感じ。あんまりストーリーはないんだけど、台詞が面白いの。なんだかすっごいスレてて、見るものや会う人の悪口ばっかり言うんだ」
「なんだか嫌な気分になりそうな小説だけど……」
「でも、不思議と嫌いになれないんだよねー。カワイイっていうか……それも違って。なんか、こんなときあったなーって、見守っちゃう」
ふうむ。文学には疎いけれど、世の中には変な小説があるんだな。
「で、ここの文章なんだけど」
こうして、二人だけの授業が始まった。……授業というか、自習?
想像力は結構もちあわせのある僕ながら、まさかこの女の子と肩を突き合わせ一緒に勉強することが人生でもう一度ある、ってシチュエーションはさすがに予想できなかった。
もう一度?
そう。昔はそうだったんだ。
そうして、アマネと僕は、本を読みはじめる。
アマネが分からない言葉があった箇所は、主人公の少年がいったん放浪を終えて、自宅に戻ってきたときに、妹と顔を合わせる一幕だ。
そこで妹は「何でもかんでも嫌い嫌い言うとって、あんたホンマに好きなモンあるん? 一つでも挙げてみ? 夢とかなりたいものはないん? 答えてーや」(意訳)みたいに、兄である主人公を問い詰める。
追い込まれた主人公は、突然長台詞を口にする。
それはこんな文章だ。
『でもとにかくさ、だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちが何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。……ちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。……で、僕がそこで何をするかって言うとさ、誰かその崖から落ちそうになっている子供がいると、かたっぱしからつかまえるんだよ』
で、アマネの感想は。
「このライ麦っていうのが何か分かんないの。畑に生えてるんだから植物だと思うけど」
「おそらくは麦だよね」
マジレスしちゃった。
「じゃあ麦ってなに?」
マジかよ。
そんなことあるのか?
「麦というのは野菜で、パンとかの材料になるよ」
「パンってなに? 急にどんどん謎が増えるよー」
マジかよ。
まぁ、この村から人生で一度も出たことがないんだから、食べたこともないかもしれない。たしかに僕も最近は食べた記憶がない。ユキに作ってもらえば、とも思ったが、今のご時世じゃ材料を用意するのも難しいのか? 終末だなぁ。
「でも、この文章好きだな。なんか、私みたいで」
早くも哲学的探究を放棄したアマネが脱線する。
「アマネみたい? 主人公がってこと?」
「そう。今も、子供たちを見守ってるでしょ。本物の崖はないけど……いまの世界は、そういうのがいっぱいあると思う。だから、私にできることがあるんなら、この雪でいっぱいの世界で子供たちを見守るぐらいしかないのかなー、なんて言ってみたり」
どうなのだろうか。
終わらない冬、閉ざされた世界。そこで未来を失った子供たちを守ること。いくらこの村を出ても危険しか待っていないとはいえ、アマネの人生にもまだ多くの時間は残されているのに、それだけで、本当にいいのだろうか。
「アマネは他に自分がやりたいことはないの? まだ若いし、それも僕よりずっと……」
「それが私のやりたいことだよー。言ったでしょ? この村は好きだって。それでいいよ。しいて言うならユーくんに会いたかったけど、それも叶っちゃったしー」
「おだてても皮肉しか出てきませんよ」
「自覚はあるんだー」
でも、それがアマネの本当にやりたいことだと言うなら、それでいいのかもしれない。彼女は強がったり空気を読んで自分に負荷をかけるような性格じゃあ、ない。だからこの言葉だって本心からなんだろう。
さて、翻って、僕は?
「……パスだな、今は」
「え? ユーくん何か言った?」
「言った。『アマネの横に永久就職したいんだけどなー』ってボソッとデレた」
「きゃー」
ああ、やっぱり僕たちだ。真面目な話をしようとすると、いつもこんな感じ。
それこそ、永遠にこんな話をを続けられたら、僕はそれでいいんだけれども。
でもさ、永遠って、なんだろう。
子供たちを引率して下校させるアマネと別れて、徒歩で館に帰ると、すっぽりとコートを被ったユキが門の前で待っていた。
「お帰りなさいませ。……学校は、いかがでしたか」
「うん、楽しかった……って言ったら変だけど。興味深かったよ。ユキもたまには学校に顔を出してみたら楽しいかもよ? ずっとここに居っぱなしじゃあ、退屈じゃないかな」
「……楽しい、ですか。また誤謬です。私はロボットですので、人間にとって苦痛な意外性のない生活にも適応できますし、そのために存在しています。楽しいとされることを経験しても意味がないと思われますが」
「それでも何かやってみたら? 出かけるのでもなくていいし……たとえば、新しい趣味とかは?」
「労働と学習以外の行為……分かりません。私の概念にはないものでしょうか」
「そうだなぁ……じゃあ、なんかゲームでもしようよ。ほら、昔よくやったじゃない。僕も持ってたはず。捨ててないよね?」
「はい。カード等がございます。定期的に整頓はしておりますが、ユウ様の所有物と判断したものは一つも捨てておりません」
「成人向け雑誌も?」
「それは捨てました」
「おい!」
持ってないけどね。
「ジョークばかりでは話が進みません」怒られた。はーい。「私とゲームがしたい、ということでしょうか?」
「そう。ユキも仕事終わったらさ、寝る前にちょっとやろうよ。あの頃みたいに、また」
「……承知しました」
便利な言葉だなぁ。
外にいた頃、なぜか僕はカード遊びをしまくっていた(なんでだろう)。だから上達していると思ったのだ。
甘かった。
「はい、上がりです」
「……速すぎ」
「人間が遅すぎるんです。特にユウ様が」
……暗記系ではユキが物理媒体に記憶できるから勝負にならないので、速さが問われるゲームをやってみたのだが、圧倒的な速度で完敗に終わった。そういえば屋根から落ちたとき僕を助けてくれたんだっけ。反射速度でも勝てるはずがなかった。当然だね。
まぁ、昔のままだ。
「ユウ様が勝てないのが不満でしたら、調整をいたしましょうか。ロボットが人間と遊戯を行う場合、能力を下げることも可能ですが……」
何度と聞いた台詞だ。
「昔から言ってたでしょ? 手加減はなしだって」
「でしたが……なぜそこまで拒否なさるのです? 勝てば人間は喜ぶのではないですか」
「それじゃユキがつまらないでしょ? お互い楽しいのがいいの。本気でやってほしい」
「ですから私に楽しさなどというのは……」
「まぁまぁ。ほら、もう一戦やるよ」
カードを混ぜ、置き、手札を配り、山札を開く。よし、最初は僕から出せるな。
「じゃあ、せーので行くよ。せーの」
ばしつ。
「あ……」
中央で二人の手が触れ、カードが落ちる。
当たるユキの冷たい手。
「えーと、これは、その」
「……ユウ様が札を出す動作を察知し、眼球の移動から札の内容を推測し、先制のために手を出したのですが、あの」
「ななな、なんでございましょうこのラブコメ展開において」
「手を離していただけると」
慌てて手を離した。指にはまだ無機的な冷感が残っている。
まぁ、ハードボイルドである僕としては、やれやれ……の一言も発したくなるものだが、いや嘘、ふつうに心臓バクバク言ってますわー、ごめん。
僕の手が触れた場所を無表情のままさすり続けるユキ。見ているとなおさら思い出され、ヘタレ主人公の鏡たる僕は慌てて話を逸らせた。ハードボイルドはどうしたんだよ。
「げ、ゲームはこのへんにしておこうかなー。あ、そういえば、ユキの点検もあったし」
「……はい。それでは、ユウ様の〇勝一四敗という結果です」
ユキは無表情のままピースサインをして、その場はお開き。
横たわるユキの美しさに、防腐処理された死体のようだと思ってしまったりする。
でもそれは違う。
彼女の美は機能的な美だ。それはたとえば、精密な時計とか無骨な戦車とか流麗な戦闘機を見たときに感じるものと、本質的には同じじゃないかなんて、どうしてだか思ったんだ。僕は詩人じゃない。意味なんてないよ。ただ思ってみただけ。
……無駄な妄想はやめて、作業を始めよう。
・6/24 16:31
天候は小康状態。ユウ様、雪下ろしを終えて学校に向かう。興味があるという。一人で館の点検、整備、家事など。宿泊客もなし。誰もいない館は静かで、それがなぜだか不思議だった。
これが今まで正常だったのだから、驚くべき点はないのに。ユウ様が戻ってから二日しか経っていない。むしろ最近がイレギュラーなのだ。それならば、なぜ私は違和感を覚えている?
これこそが、人間の解釈では寂しいと類推される状態なのだろうか?
だが、それだけではないのかもしれない。
なぜなら、私は、彼が二人で出かけると言ったことが、なぜか気になっているからだ。
どうして、私の論理は落ち着かないのだろうか? そもそも、これは論理なのか? どこにも繋がっていない思考のようだが……ああ、ひどく、気がかりだ。
……判断保留。ユウ様を待つのみである。
……寂しさ、ねぇ。
およそロボットとは無縁のはずの、言葉。
だってそうだろう、国境でひとり敵軍の監視をするロボットはホームシックにならない。たとえ何年、何十年、何百年が経とうとも、異常がないかぎりは、寸分違わぬ毎日を続けることができる。
人間には耐えられない場所で仕事をこなせるために、ロボットは作られ、存在している。つまり他の意思疎通できる存在の不在に動じないのが設計上当然――の、はず。
だとしたら、ユキは、やはりエラーを起こしているんだろうか?
それとも、凡庸なヒューマニズムに堕したSF作家が何度も描いたように、彼女に感情が芽生え始めたとでもいうのか?
……滑稽だ。たとえそう見えるとしても、それはバグに対する人間の個人的で感傷じみた錯覚でしかない。ありもしない感情を勝手に幻視するなんてさ。
でも、そんな錯覚を悪くないなんて思ってしまうバカなご主人様もまた、いたりして。
だって。
僕とアマネが二人で出かけたのが特に寂しいってのは、(アマネには悪いけど)僕を大事に思ってくれているように感じるから。
クールに見えて、ご主人様が自分じゃない他の女の子と出かけてむーってなるメイドさんが、いる。
断言する。これこそがオールドファッションの萌えではなかろうか? 否、ないはずがないのである。
あー。かわいい……。
……ユキが知ったら気持ち悪がられる錯覚もほどほどに、作業に戻るとしましょう。
・6/24 20:11
ユウ様が帰ってきた。
彼はいつもロボットの私からすると奇妙なことを昔から言っていて、帰ってきてからは、もっとそれが強くなった。
いつも、私に感情や性格があるという前提で話しかけるのだ。
小さい頃なら分かる。でも、村を去ってからユウ様は機械工学を学んだ。それなら人間がロボットたちに対して意識や感情を見出すのは、類推からくる錯覚でしかないと、十分に理解できているはずなのに。
それでも、彼は私を人間としてひたすら扱う。
私が寂しいかとか、熱くないかとか、楽しいかとか、そういう話ばかりする。たまには外に出てみてとか、一緒に遊ぼうとか、困ったものだ。困った、といま記録した私の言葉さえ、読む人間に整備する上で理解できるよう錯覚を促しているだけだというのに。
夜、私はユウ様とカードで遊んだ。それは数字の順番にカードを出していき早く手札をゼロにした方が勝ちという、簡単なゲームだ。もちろん、私の機械的能力では、彼――それどころか、(いるとして)このゲームの世界チャンピオンにさえ、負けることはない。
だから、こういった機能を持つロボットなら、スペックを落として手加減するのが当然なのに……ユウ様は「それではユキが楽しくないから」と言って、それを拒む。
理解できない。
それは、不要な錯覚だ。思いこみだ。幻想なのだ。
でも彼は、それを続けている。そしてユウ様は、これを読んでも、やはり私を人間として扱うのだろう。
ゲームの途中、私とユウ様の手が偶然ぶつかった。
そのとき、私は……記述しがたい状態に陥り、今もそれを明文化して記録することができない。きっと点検上の不備になってしまうだろう。読んでいるならば、申し訳ない、と伝えたい(と思います)。
私とユウ様の手が触れ、熱センサーが体温を感知した、その記録の残余が、今も私に気を取らさせる。何度触っても、データは去ってくれない。数字としてしか把握していないにもかかわらず、厄介だ。
それでも、その情報が呼び出されるたびに、それは恐れるべきものではなかった。人間の主観的な言葉を使ってみるなら、温かかった。何と比較してではない。ただ、温かかったのだ、としか言えない。
……以上の私は、本当に正常なのか? 壊れてはいないのか? もう一度、丁寧に確認していただきたい(です)。
……はっずかしー。
何これ? まさか本格的にラブコメが始まっちゃう感じです? いや、ユキが本当に困っているのは伝わってくるんだけど、これってもう、お約束みたいな展開じゃん。やっぱりこの世界はラブコメの神様が支配してるのかもしれん。
いやー、分かってますよ? ユキは困惑しているだけなんです。データがラブコメに振り切れて、それにロボットとして対処できていないわけ。
そう、みなさんここでユキが僕へのひそやかな感情に目覚めてしまった的な展開をお望みかもしれないが、そんな勘違いで悲惨な目に遭うというのがロボットと暮らす男性あるある。そして往々にして「そういった感情を抱かせてしまい、ご期待に副うことができず申し訳ございません」というメーカーの悪質な定型文にぶつかって玉砕する。もちろんリアルの女友達と違い向こうから絶交とかしてこないので、こちらが一方的にダメージを受け続けることになる。このメッセージを吹き込んだ奴は絶対に性格が悪い。そんなに純情を弄んで楽しいのか? イキ告は愚行だ。しかし偉大な愚行ではないのか! 人類の歴史がイキ告とともにあったのは明らかだ。歴史修正主義には抗していかなければならない。人の恋を笑うな! それは一篇の詩である。手紙から未読メッセまで、誰もが詩人になるのだ。祈りなのだ。音楽なのだ。何の話だっけ、ああ、そう、ユキの話だわ。
ようするに、僕は彼女にラブコメ数を代入してしまったのだ。だから思い悩んでいるような故障ではないってこと。悲しいね。
……けれども、僕にとっては、錯覚でも、ドキドキする錯覚なのは間違いない。だって、かつてのユキならすべて異常数値として切り捨ててしまっただろうから。
それをわざわざ悩み、僕に判断を委ねてくれたのは、それだけでも学習による変化なんだ。僕が信頼できる判断者に足ると思ったから、包み隠さずに書いたのだ。
無知シチュを。
「あの、本当にお読みいただいてるんですか」
「読んだ読んだ。隔靴掻痒の至り、これぞ『本当のことを云おうか!』ってやつだよね」
「……異常はない、という判断なんですよね」
一流の韜晦も響かず、答えに窮してしまう。
「ユウ様の判断は、適切な教育を受けた方ですので信頼しております。しかし、私の状態はやはり正常とは言い難いのではないでしょうか」
「何が正常で異常か、っていうのはさ、難しいよ」
上から見降ろすもう一人の自分が、あーあ、と呆れる。また逃げるんだね。
「分かるだろう? ロボットは与えられたデータを学習して変化していく。その結果、たとえ人間のようなものではないにせよ、個性のようなものは生まれる。そのすべてが不要なバグなのかな? むしろ、環境に適応するために必要かもしれないでしょ」
「しかし……私はユウ様にだけ明らかに不可解な反応をしておりますが……それが何か役に立つのでしょうか」
「あるある。超ある。ラブコメ的な撮れ高が」
「はぁ。ふざけていらっしゃるのは伝わりました。……では、重大ではないという認識でよろしいでしょうか」
「そう考えてもらっていい。今のところはね」
よし、なんとか丸めこめた……のか?
「だとしても、少々気になるのですが、ゲームの後からユウ様の体温がわずかながら上昇しているのですが、何か体調は優れませんか?」
「冬眠。実は戦時中に科学者に捕らえられ変温動物に改造されてしまったんだ」
呆れに見える無表情で「知的水準が低い人間は風邪を引かないという慣用句があります」と言い残しユキは出て行った。はいはいバカは健康でいいですよーだ。ガキかよ。
そういえばマジレスすると、皮肉が言えるのは、僕が小さい頃からふざけ続けたのを学習したせいだろう。だとしたら、恋愛感情を学習することも不可能ではない。性関係に持って行こうとするとプロテクトが作動するが、根気強くアプローチしてやんわりラブコメフィールドに持ち込めば、発動を回避しつつ主人の感情に答えてくれるのか?
もちろん、これは技術的な興味だよ。
だって僕もユキと同じだから。
人を好きになることが、分からない。
そして違うところは……僕は、とっくに壊れていることだ。
具体的なことは一つも思い出せないけど……なんか、そんな気がするんだ。
ほんと、どうかしているよね。
目の前でヒトが死ぬ瞬間というのは、どうしてこうも現実味がないのだろう。まるで画面の向こうで起きてることみたいなんだ。迫撃砲が直撃して身体が爆ぜたそいつの横で血を浴びても、鉄みたいな匂いも粘つきも、しばらく後からやってきた。顔を拭ってみてはじめてそれが血だって分かって。それで話しかけようと思ったらもう跡形もなくなってた。賭けカードで強かったからイカサマを疑われてはいたけれど、それほど悪い奴じゃなかったね。でも好かれているとか嫌われれいるとか、そんなの弾避けになんかなりゃしない。つまり偶然なのだ。彼が指の一本も残さず吹き飛んだこともそれが僕じゃなかったことも、ぜんぶ偶然なんだ。僕が死んでいてもよかったんだ。誰でもいいんだ。そう考えると変だ。僕はもう、誰でもないんじゃないか? ……あ、だからこんなにふわふわして、現実に感じないんだ。現実じゃないのは僕なんだ。みんなフィルムの中の兵隊。上映されるたび生きて、死んで、生きて、死んで、生きて、死んで、生きて、死んで、生きて、死んで、生きて、死んで、生きて、死んで、やあ観客のみんな、楽しんでるかい? ポップコーンはおいしい? そういえばコーラなんて全然飲んでなかったな。おいそこ、寝るな。金払ったなら僕たちの活躍を見ろよ。あ、一秒後にすりつぶされる人形なんてどうでもいい? そうかい。ハズレの映画を引かせて悪かったね。そうだよ、何もかも映画なんだ。巻き戻る、巻き戻る、巻き戻る。キュラキュラキュラキュラ――
四日目
天国。またの名を、毛布の中。
……あのさ、なぜ僕は、ユキに抱き締められているんでしょう。
妙に身体に何かがまとわりついている感じに目を開けたら、眼前にユキの顔があって、ななな何ですかこれは。僕はついに倫理を超えたのか? これからバキバキに骨を折られるの?
それにしてもユキはまだ休眠状態みたいだ。眼を閉じているが、呼吸も体温も感じない。胸に耳を当てても心臓の音はしないだろう(やってないけど)。
だから定義上これは寝顔じゃないんだろうけど……。それでも、整った顔に見とれてしまう。ふむ。これもラブコメタイムの一興、存分に味わうとしよう。
眼が開く。
あ、僕が起きたのを検知したのか。
そう思った頃にはもう身体が離れ、それどころかユキはベッドの隣の椅子に座っていた。嘘……まさか今のは幻覚だったと……?
「……えーと、ユキ、おはよう」
「おはようございます、ユウ様」
「で、さっきのは……」
「なんのことでございましょう」
よし、幻覚だな、間違いない。
起きがけに失礼いたします、とユキは新たなニュースを伝えた。
「通信が届きました。昼にはお客様がいらっしゃるとのことです」
寝耳に水。豚に真珠。地には平和を。頭が働かないな。なんだっけ。え、客?
「……予約みたいなのもなしに? 唐突だな」
「通信手段が限られておりますから、基本的には直前にての連絡――あるいは、そもそも宿泊施設があるという信号を受け取ってやってくるケースがほとんどなのです」
それは旅館というか、シェルターみたいなものでは……。
「そんな急なのに準備できるの?」
「ええ。よほど大勢のご来客でない限りは。館は広いですし、灌水によって上下水道とも動き、食事も常に備蓄しておりますから。それに、今回いらっしゃるお客様は、お一人のようですから……」
このご時世、一人でこんな秘境まで来るとは(僕が言えたことではないが)、どんな人間だろうか。ちょっと興味が湧く。
「やっぱり村の関係者なのかな?」
「いえ、そういうわけではないようです。天候の悪い状態での短い通信でしたのでこちらの理解が間違っているかもしれませんが、仮に正しいなら、お客様は女性で、移動演劇座の役者だそうです」
移動演劇座……?
「聞いたことないけど……旅芸人みたいなもの?」
「『芸人』がコメディアンではなく俳優を指すなら、認識は合っているかもしれません」
そんなのこのご時世にいるのか。怪しい。
「到着してから、必要ならきっと自己紹介していただけますよ。遭難というわけでもないようですし、自分の意思でこの村に近づいたのならば、目的や理由があってのことでしょうから」
大丈夫かなぁ。ま、なんにしても村に来るんなら止めようがないし、せいぜいどんな人が来るか想像を膨らませるほかない。
旅芸人。夏の浜、謎の魔法で人形を動かし日銭を稼ぐイメージがある。何の話だっけ。
それはどうでもいいとして。
現在の情勢では、移動には身の危険が伴う。生きていたいなら大人しく引きこもっているに限る。それでも略奪とか暴動に巻きこまれて死ぬかもしれないけど、すくなくとも人質にされて拷問されたりはしない。誰が好き好んで出かけるだろうか? ……しかも、女性の一人旅。
じゃあ、故郷を追われたとかで仕方なくやっているのかな。でも、生活の手段として役者よりもっと楽なことがありそう。マジで何者なんだ……。
やがて現れたのは、やはりというほかない、変な奴だった。
客間に現れた客と鉢合わせして、自分の部屋に引きこもっていなかったのを後悔した。
「ヘーイ、ここが旅館で間違いないのね? こんなレトロな建物が今も焼かれずに残ってるなんて。雪の中からニュニュニュって出てきたからビックリしたわ。おまけにモエモエ・メイドたんまでおわしますとは、ここは現実ではないのかしら? 私もまたアルカディアにあり、と? それともカンタンノユメってやつ? ねぇねぇ、そこのボーイ、キミもまた、どうしてこんな不思議なところに?」
「あの、あなた誰ですか」
「それにしてもまったく冴えない顔をしているわね。最近いいことはあった? ブルーなときはいいことを数えっるのよ。たとえば……そうね、甘いものがいちばんよ、コンペイトウをあげましょうか? どこにあったっけ」
ポケットをまさぐりだす。ダメだ、人の話をまるで聞かないタイプ。僕のような戯言を遣う者ともっとも相性が悪い手合い。
……警戒しながら、客を観察する。
女性。容姿は若く見えるが、雰囲気から齢は僕よりも上だろうか。背中まで伸びた金髪には北国風の帽子、僕たちと違う目の色、真っ白な肌、高い背(ドアを通るとき頭をぶつけて「まるでリリパットの家ね」とぼやいた)、そして身に纏うのは女性に不釣り合いな身体をすっぽり覆う将校用の外套(嫌な気分になる)。袖先からは手袋。
間違いなく、西側の外国人だろう。
怪しい。怪しすぎる。どう考えても旅芸人に見えない。
「あら、どうしたのそんなにじろじろ見て。そんなに顔がよかったかしら。キミ、三文小説に出てくる逗留地でレディに恋をする青年はいつも不幸になるからやめておきなさい」
「まだ一言しか喋ってないのにナンパに見えるんですか」
「でもハンサムね。じゃあ間を取って来世まで待ってくれたら考えとくわ、ハニー」
ぜんぜん話が進まない。
「あなたは誰なんですか」
「キミこそ。元軍人ね?」
「……」
口を開こうとして、声が出なかった。彼女はそれをニヤニヤしながら眺めている。
僕は。
僕は。
「お茶をお持ちしました」
タイミングよくユキがやってきた。でかしたぞ!
「あらあら、ありがとうね。……お、ティーじゃない。これを飲むのもひさしぶりだわ」
「お気に召したでしょうか」
「ええ。でも私としてはせっかく無理を押してヒガシに来たのだから、リョクチャってやつも飲んでみたかったわね」
「そちらもございます。お持ちいたしましょうか」
「嬉しいけれど、お昼か夜でお願いするわね。ところでリョクチャって甘いのかしら?」
「苦いです」
「あらそう。ではシュガーとミルクをたっぷりお願い。私は甘いもののためならアイスクリームパーラーでも襲うの。ところであなた、どうお呼びすれば?」
「ユキと呼ばれています」
「それなら……ユキさんがいいわね。うん。オールドスクールなメイドにピッタリだわ」
「承知しました。それではこの台帳に名前をご記入ください。付記は館の図ですが、部屋はどちらをご希望ですか。今は二階のこの部屋のみ、特別なお客様で埋まっております」
「あら、ではその横をお願いしましょうか」
「……ちょっ、なんでですか!」
思わず不服の声を上げて、僕の素性を晒してしまったのに気づく。
「あら、キミもお客さんなのね」
……仕方ないか、白状しよう。
僕は自分の事情をかいつまんで話した。村を離れてからのことは「憶えていない」とごまかした。それは事実だが、無理に思い出して彼女に話ことに本能的な危機を感じても、いた。
「フムフム」口で言うんだ……。「それなら、お客さんというよりは、ファミリーに近いのね」
「まぁ……そうなりますかね」
「で、私はその幼馴染ですっ」
横から投げられた声で、身体が震えた。
首を向ける。すると、いつのまに、アマネがそこにいた。
「なんでいきなり来たんだよ」
「暇だもん。で、珍しくお客さんが来ててびっくりだよー」
「あらら? そっちの方は?」
「ええと……」また躊躇ったが、来てしまったからには紹介するしかない。「幼馴染です。アマネといいます」
「よろしくお願いします。とっても綺麗な方だねー。ユーくん目移りしちゃダメだよー」
誰から誰にだろうか。
「オーマイ、素敵な子じゃないの。お友達になりましょ」
「えーっと、ないすとゅみーてゅー?」
「イェイイェイ」
勝手に盛り上がりだす二人。意外に相性がいいの……?
ふと、ユキに目をやると、黙ったまま二人と僕を交互に見ていた。
なんだか寂しげに見えて、僕は話を進めることにする。
「旅芸人、という話は聞きました。差し支えなければ詳しくお話しいただけますか」
「言葉どおりね。旅しながら街に着くと一人で劇をして、投げ銭で暮らしているの」
「そんな人いるんだ……サインもらえませんか! それで人を集めて村おこし……」
「すみません。こいつ村のことを経営RPGだと思っているんです」
「あら。私にできるのならなんでもサーヴィスするわ。そこまで有名でもないけど」
「外部との繋がりが極端に低い土地ですから、なおのこと存じ上げず申し訳ありません」律儀にユキは謝罪した。「それに、人口も少ないですから、ご期待に添う活動はできないかもしれません」
「いいのよ、そんなことは。泊めてくれるだけでもありがたいわ。それに、こんなにキュートな女の子二人に出会えたんだし。ついでにシャイ・ボーイも」
「え!? かわいいだって! わーい!」
「ウォウウォウ」
僕は無視かよ。
「ま、気軽にクリスさんって呼んでくれると嬉しいな。ってなわけでエブリワン、短い間かもしれないけど、ヨ、ロ、シ、ク!」
この怪しげな女が、僕が村に戻って初めての宿泊客ってことになる。
はい皆さん、せーのっ――やれやれ。絶賛公開中となっております。
四人での(主に二人とそれに突っ込む僕のせいで)カオスな朝食を終えると、クリスさんは「村を見てみたいわ」と言った。
アマネは学校、ユキは館での仕事があるというので、はなはだ遺憾ではあるが、僕は雪下ろしを免除されてクリスさん二人で村を散歩することになった。ひょっとしてこれから僕の新しい仕事にツアーガイドが加わらないだろうな。
「しっかし、寒さにも慣れちゃったわ」
雪は夕方から夜にかけて降るけれども、全体的に僕が来てから村の天気は小康状態。吹雪いていたら一歩も出歩くことはできないだろう。
そんな中で僕は歩いて、倒れていたんだから、生きているのは奇跡に近い。ユキに感謝しないと。……待てよ。それはクリスさんも同じだったはずだ。
「吹雪、大丈夫でしたか」
「スノーストーム? ……まあ、危ない道には慣れてるわ。キミだってそうでしょうし」
また掘り返すつもりか。
「キミがいまも生きているのは、不思議だわ」
「まったくです」
「正確にいえば、不自然」
厭な言い方だ。
「……あまり憶えてないんです、昔のことは。それに、思い出してもいいことはないような予感がしまして。いかんせん第六感ってのを信じるんで」
「キミがそれを望むなら……まだ、今は言えることはない」
「まだ。含みのある言い方ですよね。あなたの国ではなんて言いましたっけ。エバー?」
「その呼び方ファンダムが怒るよ。ちなみに正解はシェイシェイ」ボケにボケで返すな。
「なんか気が合いますね、僕ら」
「ドゥユーノーワットアイミーンって感じね。だけどキミは、私を疑っているでしょ?」
「だって不審者じゃないですか」
「それはそう」言い回しが気に入ったようでソーソーと繰り返す。「まぁ……それを言うなら、この村も負けず劣らず変じゃないかしら。世界の争乱からすると、本当に、夢のような場所だわ」
「……さてね」
「あと一つ指摘すると、軍の拠点があったんじゃないかな」
「大きな餌を引っ掛けますね。かかりましょう。なぜ、それを知っているんですか?」
「こんな山奥でここまで整備された村なんて、ありえない。キミはここに軍隊が来るのを見たことがある?」
「直接は見てませんが、離れている間に学校が徴用された話はアマネから訊きました」
隠すべきか迷ったが、正直に話した。どうせ隠しても無駄な気がしたのだ。
「おそらくいつでも拠点にできるようになっていたのでしょう。ところで、あんな大きい家があって、キミ――正確にいうとキミのファミリーは、村にとって重要な存在だったみたいね。何か知っていたりして。……キミは聞いたことがあるかしら」
「僕はガキの頃にしかここにいなかったんですよ。死んだ親にでも訊いてください。交霊術っていうのはあなたの国で盛んじゃなかったですか?」
「この国にもいるよね。ブルーフォレストってところでおばあさんに死んだマイフレンドを降ろしてもらったら、ここの言葉で喋り出してね、なに言ってるか分からなかったわ。再会が台無し」
信じるなよ。
「キミがいなくなってから軍隊がやってきた」
「それがどうしたと?」
「生魚を食べるのは私たちの国でもトレンドになっているわ」ここまで強引な話の逸らし方あるんだ。「そういえば、ユキさんってロボットだったのね」
「……気づきましたか」
「まだ動いている実機を見るのは珍しいわ。戦争のせいでほとんど破壊されたし、エンジニアがいないから生きていても大半がエラーを起こしている」
それからクリスさんは、すこしばかり奇妙なことを言った。
「キミは、彼女をどう思ってる?」
「いきなりですね。知ってどうするんですか」
「ノロケが見たいわ」
警戒してごめんね。やっぱこいつバカだわ。
「……普通の、主従の関係ですよ」普通の、って変だけど、そうやって僕は取りつくろうんだ。「まぁ、僕が子供の頃から面倒を見てくれた恩はあります。彼女とまた会えてよかったと思っています」
「好きなの?」
「淫靡な関係ですね」
「もしそうなら、これから何があっても、どうするのが最善か、ちゃんと考えてあげて」
「……善処はします」
「キミ次第よ」
「ここで選択肢が出そうですよね」
「セーブしてね。……それにしても綺麗だけど静かな村ね。誰にも会わない。これじゃいよいよ稼げるか怪しくなってきた」
「この寒さですから。料理屋に人は集まってると思います」
「ナイスアイデア。行きましょう。ほら――」
クリスさんが突然腕を絡ませる。は? 大丈夫かこの女?
「ほら、デートデート」
そっか、この物語はラブコメなのだったね。
率直に言えば料理屋での反応は芳しくなかった。昔の映画で南からバイクで来た若者がレストランで冷淡に扱われるシーンがあったが、あのノリ。
「村にお客さんはありがたいんだけれど……」
「ユウさんが連れてきたなららいい人なんだろうけど……」
「確かに娯楽もないし、演劇ってのは面白そうだけど……」
みな、一様に語尾を濁らせる。そりゃそうだろう。見知らぬ変なお姉さんが現れていきなり劇を見せるから金を出せ(歪曲表現)と言うんだから。
「あーあ、警戒されちゃったわね」
そう言いながら、もてなしの麺をつるりとたいらげたクリスさん。さすがこの世界で生きてこれただけの面の皮の厚さだ。
「仕方ないですよ。言い方は選ぶけど、こういう小さい村は新しいものを求めてませんから」
しかしどうしたものか……おっ。
わー、と走り寄ってくるから誰だこの人懐っこい犬と思ったらアマネだった。ごめん。でも犬っぽくはあるよね、なんか。
学校が終わって、子供たちを家に送り届けたところらしい。
クリスさんが事情を話すと「なるほど……」と申し訳なさげな顔をした。「ごめんなさい。みんな悪気があっての態度じゃないんです。ただ、お客さんはめったに来ないし、来ても村まで行かないのが普通だから、たぶん不安だったんじゃないかな」
「そのへんはちゃんと分かってるわ。ありがとう。いい子ね」
「えへへ……」なんかやたら懐柔されているな。
そんなとき、ちょっと気になったことがある。
「……あれ、そういえばクリスさんはずっと一人で劇をやって旅してきたんですよね。一人で劇ってどうやるんですか?」
「別に変なことはしないわ。ただ複数の役を一人で何役もこなすだけよ」
「なるほど、じゃあ一人しか出てこない劇じゃないんですね」
「そりゃあそうよ。基本的には何役かが交互に掛け合うことが多いわね」
器用なんだなぁ。こんな変な人にできるんだとはさすがに失礼なので言いませんけど。
「うーん、なんか思いつきそうなんだんけどー」
急にアマネが唸り出した。
「ホワット。この子、どうしたの?」
「説明し忘れていました。アマネには《神通理樹》といって、適切な手がかりを入力すると唐突に真実や解決策を閃く、そんな特殊能力があるんです」
「……そういえばこの国は無数の名探偵を輩出した国だったわね。本場の斬新な推理法を見させてもらったわ」
ボケを信じるなよ。
「お、閃きました!」
本当だったのかよ。
「えーっと、クリスさんの一人芝居は、もし一役ずつ他の人にやってもらえば普通の劇にできるんですよね?」
「そうね。台詞のリズムは一人でやるのとは変わるけど、翻訳できなくはないでしょう」
「で、村の人たちはクリスさんを怖がって一人芝居を見たがらない……ここから導き出される答えは……ダラララララララララララ……」
自分でドラムロールつけ始めた。再会して気づいたが、この子やっぱイタいかも……。
っていうか、嫌な予感がするんですけれども。
「はいっ! 私たちも参加して劇をやれば一件落着だね!」
ほら、やっぱりさ。
「私たち ・イズ・誰」
「そりゃ、私とユーくんだよ。これで三人。あ、あとはユキも誘っちゃおうよー」
「いやいやいや急すぎでしょ。ほら、クリスさんも何か言ってやってくださいよ」
「ナイスアイディアよ!」
ガクッ、って自分で言いながらコケたくなってしまった。人のことは言えない。
「アマネちゃん天才よ! これならこの村で大儲け……いいえ大ヒット間違いなしね!」
「サンキュー! これが評判になれば村のお金も潤い……いえ、観光も豊かになるよ!」
なるほど、失言癖で気が合うんだ。いや感心してる場合じゃないだろ。
「そんなこと本当にできるんですか? あの、僕たちは素人なんですよ」
「そこは敏腕プロデューサ―の私に任せなさい。楽しくなってきたわ!」
クリスさんはすっかり乗り気になっていた。ダメだ、僕だけでも巻きこまれない方法はないのか。
「えー、ユーくんは嫌なの?」
じーっ。
じーっ。なんでクリスさんもやるんだよ。
そんな上目遣いであざとく頼まれましても、ハードボイルドな僕は揺らがない。
「そっ、そうだな……ユキが乗り気なら、一人だけ協力しないというのも悪いし、手伝わなくもなくもなくもなく……」
「やったー! じゃあユキちゃんを誘おう! ほら、早く行こ!」
「レット・ミー・ビー!」
強引に両手を取られ引っぱられる。キャトルミューティレーションみたいだね。
けれどもまだ最後の砦がある。頼むぞユキ、NOと言えるロボ魂を見せてくれ!
「悪くないアイデアだとは、思いますが」
「ガクッ!」本当に口に出してしまった。怪訝な目が集まる。約二名もイタいのにこういうときはないわーみたいな顔しやがって。
「よし、じゃあ決まりだね! これで四人も役者が集まったよー」
「オーケー! じゃあ脚本と役を決めちゃいましょう!」
盛り上がる二人を、ユキが「お待ちください」と遮る。
「私を出演させたい、とお考えですか?」
頷く首謀者の二名。
「それは少々……」珍しく、歯切れの悪いユキ。「前提として、私はロボットです。出演するとなると、人間の演技のようにはいかないでしょう。舞台の提供などの、裏方の仕事を手伝わせて頂くのが最善ではないかと」
ユキらしい意見に、アマネが「……そうだよね」と落胆した。そっか、今までユキの行動を無理強いしてこなかった彼女だ。「テンション上がりすぎちゃったかも。ごめ――」
「ウェイトウェイト! ちょい待った!」
「……あの、お客様」
「クリスでいいって。ユキさんには俳優の素質があるわ」唐突すぎる。「自分から可能性を否定しちゃダメよ」
「しかしたった今も言いましたが、私に人間のような繊細な演技は――」
「ノンノン。ユキさん、優秀なロボットにしては保守的ね。なら言わせてもらいましょう。むしろ、人間にできない演技ができると考えるべきよ」
「そっか……! その手があったか!」アマネは目を輝かせた。「で、どういうこと?」
分かってなかったのかよ。
「実は、人間は『何もしない』という演技が苦手なのよ。ためしに『そこで五分立ったまま微動だにしないでください』と命令されたとするわ。どう? 退屈すぎて耐えられないんじゃないかしら?」
ふむ。それなら主張は理解できるかも。
「そのうえ人間には体力や集中力の限界もあるわ。筋肉は緊張すると弛緩したくなって震えてしまうし、コントロールしようとすればするほど姿勢や表情を制御できなくなる時だってある。そう考えると、ロボットは演技が苦手どころかむしろある意味では向いているとさえ言えなくはないかしら」
さすが(忘れそうになるが)役者。クリスさんの意見には説得力があった。
「それは……そうかもしれません。確かに、私が参加すれば、演劇の可能性が広がるとうのは、論理的な主張です。しかし……」
不承不承といった感じでユキが渋る。
その様子は新鮮だった。てっきり合理的に説得されたらすぐ受け入れると思ったのに。
やっぱり、彼女の中で、何かが変わりはじめているのだ。
それなら――
「ユキ次第だけど、やってみるのもいいんじゃないかな?」
変化がまだプラスかマイナスか分からなくとも、試しに、背中を押してみたくなった。
なんだろうな……それはたぶん、僕にしかできないことなんじゃないかな。
「ユウ様……」
「ユキはどうしたい? するべきかどうかじゃなく、自分がしたいか、なら」
「……確かに。ユキちゃんに任せた!」
「もし参加してくれるなら、その道の人間として、最大限サポートするわよ」
三人の言葉に、ユキは短く沈黙した。計算ではなく、考えているのだ。きっとそれは、彼女にとっては、不慣れな行動だろう。
前だったら、ロボットの自分には存在しないと切り捨てていたはずの何か。
それが今、はたして彼女の中に芽生えたか、僕たちは知ることができない。
ユキだけが、結論を出せることだよ。
「……はい。それでは私も、参加することにいたします」
つまるところ、それが、ユキの出した答えだったんだ。
ということで計画は一気に盛り上がった。
クリスさん曰く、演劇で使用される脚本――戯曲は、だいたい古典としていくつかの種類が鉄板になっているらしい。そこから初心者向きでこの四人に演じやすいものを選んで、細部を翻案するのがいちばん簡単なんだって。著作権とかどうなんだろう。まぁみんな死んだのか。
「それでね、実はちょうど演じるこの場所にぴったりの戯曲の古典があるの」
「それってこの村のこと?」
「正確には『ここ』というべきね。ヒアゼアエブリウェア」
クリスさんはそう言って、指をさして辺りを一周させる。
「この館をそのまま舞台にする……ということでしょうか」
「大正解。ここにお客さんを呼んで演じればいいわ。そうすればお金もかからないでしょう? ……実はね、大きな館が舞台の、私たちにぴったりなマスターピースがあるのよ」
「でも、脚本は持っているんですか?」
「そりゃあ、ここにあるのよ」
頭をコツンコツンと叩いてみせる。暗記してるっていうのか……?
「あとは……翻案するにあたって、外国語がちょっとでもできる子がいるとやりやすいわね。一人のときは脳内でするからいいんだけど、台詞のニュアンスを正確に人に教えるには、どうしてもオリジナルのセンテンスを引いて説明しないといけないし」
「私には翻訳機能があります」
「僕も簡単なものなら分かる」
「おー、なんかみんな頭よさそー」アマネは目を丸くしてしまった「二人とも助けてね」
「ああ。……クリスさんはどれぐらいここに滞在する予定ですか?」
「それは心配しないで。私は劇が完成するまでここにいるつもりよ」
そこまでしてくれるとは。なんていい人だ。ああ、疑ったのにどんどん罪悪感が……。
「お金なくて、儲けないと宿代が払えないわ」
前言撤回。
舞台は今から数百年前の、西の国。
館を持つ地主の一家は、危機に瀕していた。
借金がかさみ、どうにかしてお金を工面しなければいけなくなったのだ。
女当主は仕方なく館を売りに出すが、世間知らずのため商人の「土地の一部を別荘地にして貸し出すべき」という助言を聞き入れず、自分たちが貧しくなったことが受け入れられない。
彼女の兄は仕方なくお金を工面しようとする。なんか、身につまされそうな話なんですけれど。
そして裏で、娘や使用人たちの恋愛が交錯し、やがて予想外の結末に向かっていく……そんな時代に取り残された人々の悲喜劇。
「問題は、オリジナルの戯曲にはメインの登場人物が一二人もいることね」
これを四人にまで絞らなければいけない。
「そのためには、ストーリーも大幅にシンプルにする必要があります。プロットの分析を行って、最小限まで簡略化して提示します」
ユキが整理したところ、この物語の構成要素は『館の所有権』と『恋愛劇』であり、そこからメインプロットとサブプロットが分かれて、最終的には合体して一つの結末となる、云々。
そしてその要素を維持しつつ、四人用の物語設定にしなければならない。
「まず当主は絶対に必要だねー」
「ええ。館に危機を迫るために、商人も必要ね。そうすれば、最初の『館の所有権』をめぐる話は成立するわ。これで二人。そこからさらに『恋愛劇』を絡ませるために、あと二人の役を配分することになるでしょう」
そこで僕は、あることを思いついた。
「クリスさん、舞台を作る手間を省かせるために、館をそのまま舞台装置にするんですよね? それなら、他の要素もできるだけ現実に近い部分からそのまま取ってくるのはどうでしょう」
「ユーくん、どういうこと? その現実って……」
「僕がこの館の一族の唯一の生き残りで、ユキがメイド。これをそのままスライドさせればいい。僕が当主役、ユキはそのメイド役」
「そうすれば、ゼロから小道具を使わずに、観客に役を分かりやすく説明できるわけね」
「はい。僕との主従関係はもう村人たちに知られていますし、衣裳だって、ユキはもう既にメイド服を着ていますからね。僕の方は……ユキ、この館に古めかしい服ってある?」
「一族の皆様が多くの荷物を持っていってしまいましたが、時間がなくすべて運べなかったので、私に管理を任せて残していったものもあります。記録を検索させてください。……ありました。ユウ様のお父様の正装がまだあるようです」
僕の父親。もう生きているのかさえ定かでない、かつての当主。もともと育児はすべてユキに任せきりだったから両親と会う時間そのものが少なくて、思い入れの薄い人物だが……道具を借り受けるには、まさにぴったりだ。
「おー、さっそく二人も役が決まっちゃったね」
では残る問題は『恋愛劇』か……って、あれ、なんでクリスさんとアマネは意味深にこっちを見るんだ。
「はぁ……やっぱりそうなるかぁ……」
「誠に遺憾だけれど、ここはラブコメ・ユニヴァースなのよ。神よ我らを憐れみたまえ」
「えーっと、どういうことでしょうか」
困惑してユキを見ると、彼女も毎度の無表情にしては、居心地が悪そうに見えなくもない。……あれ?
「……ユウ様の役からすると、誰かが当主のユウ様に恋愛感情を抱くというのが、分かりやすい展開です」
えー、なにそれ。たしかに安易すぎる展開だな。
「いや、別に男女だから僕に矢が向けられる必然性はないでしょ。ほら言うじゃない、女の子は女の子同士で恋愛すべきだとかなんとか。そう、たとえ大統領が何と言おうと僕たちはこの自走する恋愛システムから抜け出さなければ……」
「私は商人役をやるわ」
いきなりクリスさんが挙手し、僕の感動的な演説は無視された。
「急すぎますよ! なんでですか!」
「沙翁アンチなのよ。で、アマネちゃんはどうする? まだ勝ち筋はあるわよ」
「どうしよ。アマネちゃんにもここから入れる保険あるのかなー」
こいつら真面目に劇やる気あんの?
「……でも、まぁいいや。クリスさん、商人の娘って設定はどうですか? 商人は館を買い取りたがっていて、裏の理由は私が当主に想いを寄せているからなんだけど、実はメイドさんもメイドさんでご主人様が好きで、それで戦いが……」
「待ちたまえ」
「どうしたの、ボンクラ当主さーん」
「ちげーし、時代に取り残されながらも誇りを持ち続ける貴族の血なんだし」
「一般に没落貴族って言うわね。で、農民の革命に失敗しそう」
貴族も散々な言われようである。なんたる斜陽か。
「そもそも、ユキは僕が好きだという設定にされていいのか? そういう姿勢がロボハラと隠蔽体質を生んでるんだっつーの」
「ユウ様がですか? 好きです」
「ちょっ」
「ユキちゃんいくら何でも急展開すぎるよっ尺余りだよっ」
「えっマジかよ。ロボ婚しよう」
僕のツッコミは二人に(頭にチョップ、足を小突くなどで)鉄拳制裁された。暴力ヒロインの汚名を被ってでも身体を張るソウル、伝わったぜ。
「主人に忠誠を尽くしているというのは『好き』と表現されるべきではないでしょうか」
一同、解散。
「まぁ、コントが終わったところで配役も決まったし、あとは練習あるのみね。読み合わせ、演技指導、通し練習、忙しくなるわ。ま、私に任せれば、グレイトフルなショーになるのは確実よ。この国の言葉でいうなら、ノアのアークに乗った気分でいいから安心よ」
どうすんだこれ。不安しか感じない。取り返しのつかないプロジェクトを始めてしまったのでは……?
・6/25 22:11
今日は朝、新たに宿泊客(以下、お客様)が来訪した。そのためリアルタイムで記録する余裕がなく、一日の終わりにログをつけることにする。
お客様は自らを役者と名乗り、一人芝居で生活費を稼ぎながら旅をしているという。もともと来客は少ないが、それでもこうした人が来るのは初めてで、存在も知らなかった。
街を視察してから、さっそく彼女は演劇を開催しようとしたが、住人の反応はあまりよくないもので困っているとのことだった。
そこで、私たちも参加して演劇を行うというアイデアが出された。彼女が宿泊費を持っておらずこの村で用意するつもりだったことは予想していたので、私にとっても参加するメリットはあると思ったので、協力することにした。
……ところが、何の因果か私も役者として参加することになってしまった。
最初はロボットの私に人間のような演技は不可能だと断ったが、逆に人間にできない演技ができると反論されてしまい、最終的にはユウ様に押し切られる形になってしまった。ユウ様に言われたのなら、従うしかない。
……疑問。本当にそうだろうか?
私は論理的に出演を断ろうとしていた。すくなくとも自分はそう記録を解釈している。しかし、外から見れば、人間の表現ならば、恥ずかしがっているように見えたかもしれない。いや……それに注目しても意味がないのに、なぜ記述しているのだろう? 過剰な自己認識もまた、新たな変化なのだろうか。
そして、『自分の意思』で参加することを、ユウ様は促してくれた。それが何なのかは分からない。趣味も娯楽も不要な私に、命令以上のことを期待するなんて。
ああ、ユウ様は、いつもそうでしたね。
ユウ様、今の私に、意思はありますか?
それもきっと、自分で気づいてみてねと、言うのでしょう。
大丈夫、それでいいよ。今は、きっと。
にしても、僕と恋仲の役になるのは引っかからないんすね。
ラブコメの旅路は遠く、長いものだなぁ(古典随筆翻訳調)。
今度の夢は、苦しいものではなかった。
誰か、女の人に頭を撫でられている夢。
視界はぼんやりとして、表情をはっきりと伺えないが、年上のお姉さんだ。
母はもっと歳を取っていたし、産んでからマトモに僕に触れたことさえなかったはず(批評家のために母の不在と注釈を振っておきたくなるね)だから、これはユキだろう。
夢の中の意識は子供の身体と遊離して、身動きが取れない。
だから仕方なくバブみネーションを堪能しよう。仕方なく!
……頭を撫でれれていると、手が頬に伸びた。
美しい流線形の運動で肌を滑っていく指は、ひんやりと骨まで伝う程の冷たさだった。ユキにはロボットとして疑似的な血液・体液機能は搭載されなかった。保母や家庭教師も任されたとはいえ、もとは労働用のロボットだったから。
だから、ユキの指は冷たいのだ。
最初は、怖かった。泣きもした。
でもこの夢の時期の僕はすでに彼女を信頼しているようだ。
ああ、そうだ。僕は、ユキに体温をうつすのが好きだった。
熱力学。僕の頬が冷えただけ、ユキの指は熱をもつ。その温度で撫でてもらうのだ。
それにしても、どちらがこれを先に思いついたのだろうね。
五~一五日目
最近、寝つきがいい。
実は夢見も悪くない。
「おはようございます」
起きると決まって部屋にはユキがいて、相変わらず椅子に座って、紙を読んでいる。
クリスさんが書き起こした劇の脚本だった。
「おはよ。そういや、もう本番は明日なのか」
窓の外を見る。雪からこぼれる薄い光が部屋に染み込んでいた。
練習が始まってから雪も小康状態、雪下ろしも必要なく、朝は静かだ。今日は舞台の設営(と言っても椅子を並べるだけだ)と、その上に立って最後のリハーサルがある。
「ええ。ちなみにクリスさんはもうすこし横になりたいそうです」
クリスさんはつきっきりで、今まで僕たちの演技を見てくれた。
そりゃ、疲れるよな。
やっぱりその道の人なのだな、と再確認。でも胡散くさいけど。
……にしても、紆余曲折、悪戦苦闘、自家薬籠、天下布武その他いろいろありつつも充実した楽しい時間だった。
広間に向かうと、既に長椅子が並べられていた。どうやら僕を起こす前からユキが仕事をしていてくれたらしい。
言えば手伝ったのに「皆様にはリハーサルに集中していただきたかったので」とのことだ。「私は、自分の演技については完全に記憶して、再現できますから」
「みんなおはよー、ってもう椅子並んでる! ユキちゃんはすごいなー」
アマネがいつものように入ってくる。彼女は毎日、家から館に通ってくれていた。
「あー、眠い眠い……アイムオンリースリーピング……」
すこし遅れてクリスさんも降りてきた。まだ目を擦っている。
「それでは――朝食を終えたら、大詰めの練習を始めましょう」
「じゃ、僕から行くよ。……『ようやく到着か。今は何時だ? まったく、この機関車とかいう役立たずな乗り物ときたら!』」
さて皆様、こうしてリハーサルが始まりましたけれども、ここからは尺もありますし、適宜ダイジェストの回想を交えていきましょうじゃないですか。
まっさきに苦戦したのは、当たり前だが台詞を覚えること――
よりも先に、役に馴染むということだった。
僕は劇のあいだ、若くて優柔不断で女に弱い典型的なヘタレ当主として振る舞わなければならない。で、それってまったくもって僕とは正反対のキャラクターで、困っちゃうわけだよね。だろ? そうって言え。
意外にアマネは考え性で「商人の娘ってどんな感じで喋るのかな?」みたいな細かいところでいちいち苦戦してしまった。
そして、ユキも素とほとんど変わらない設定なので楽……というわけでもなく、物語内世界の社会や経済情勢で家がどんな階級だとか、当主がどんな経歴なのかとか、そういった厳密な定義がないとエミュレートできない、と主張した。
これに対するクリスさんのアプローチはとても簡単だった。
「観客に見える情報こそが、この劇の世界すべてよ」
つまりト書きで説明されない不確定な設定、台詞から読み取れる以上の内面――そういうものは、演じる側も気にしなくていいということ。
「役者は演技をする上で役のすべてを理解する必要はない――というのが、私の演出論のロジスティクスよ。不確定を排除するだけで、演じるという行為は一気にラクになるわ」
「でも、そうだと……なんか浅いというか……そういう劇にはなっちゃわないですか?」
「いい質問ねアマネちゃん。確かにフォルマリズムと謗られる可能性はあるわ。でもね、演劇は人間の感情と行動をリアルで再現するものではないわ。演劇は虚構を現実に落とすのはなく、現実から虚構を組み立てるの。……演じているとき、私たちはここにいながら、現実にはいないのよ」
アマネが目をグルグルさせているので助け舟を出そうか。
「つまり演劇はAR的でなく、VR的ということですか?」
「ずいぶんと懐かしいジャーゴンね。でも、拡張現実ではなく仮想現実、という考え方には、私も賛成したいわね」
「ははぁ……よく分かんないけどすごいのは分かりました! がんばるぞー!」
ごめんなアマネ、また救えなかった……。俺ってさぁ、バカだからよぉ……。
「『ご主人様とは永遠の別れだと思っていました。命あるうちに、お会いできるなんて』」
「わー、ユキちゃんいい声!」
「ユウ様のことがあると、意味を持ってしまう台詞です。……先に進みますね」
数日後には、少しずつ進捗が生まれてきた。
休憩が何度か挟まって、アマネとダラダラ雑談しているうち、変な話になる。
「でも、クリスさんが言うことが正しいなら、ユキは得意そうだよね。この上ない適役というか、ほとんど普段の自分そのものなんだし」
「はぁ。それってどういう意味か分かってる?」
呆れられてしまう。
「いや、僕は騙されない。ロボットにガチ恋して玉砕してきた英霊たちの魂を背負ってここにいるのだよ」もちろんロボットのせいではないにしても。「ユキが変わりつつあるとしても、やっぱり倫理的自衛システムは搭載されているはずだから、身勝手な欲望をぶつけたくないわけじゃん」
それが、彼女たちの学問を学んだ自分の責任。
でもアマネの反応は。
「ユーくん、分かってないなぁ」
「なぬ、何を申すのか」
「恋っていうのは暴力なの」大きく出たな。「遮るものはすべてなぎ倒しちゃうんだー」
アマネは、顔を覗きこんで、期待のまなざし。
「今のユキちゃんは、この配役のそういう意味に気づいていないみたいだけどねー、もし、これがきっかけで嵐が起きたらどうする?」
「刺される」
「それも正解」正解なのかよ。
そこでユキがクリスさんを伴って戻ってくる。
「他にも、考えてみるんだよ」
悪戯っぽく笑われると、練習が再び始まった。
「『いや、相変わらずきみのコーヒーは格別だよ』……で、えー次は」
「ト書き、メイドにキスをする、ですね。ユウ様」
「一応再確認しておくけれど、これは西の方における挨拶だったよね」
「そうです」
「じゃあそのさ、やっぱりここは軽く首に近づくジェスチャーで……」
「……待った! 『メイドは主人に好意を持っているので、珍しく緊張した反応を見せる』。その方針は守ってもらうわ」
「やはり、緊張なのですか……」
「ユキさん、あなたは基本的に機械らしい演技がメインになるのだから、こういうところで好意を分かりやすく観客に見せておく必要があるわ。というわけで二人、存分に近寄りなさい」
「……行くよ、ユキ」
「ユウ様、その……前の練習でもそうだったのですが」
「えーっと、何かな」
「すこし、近すぎて、どうしたらいいのか、困ります」
「……ごめんごめん」
練習が進むのと同時に、イベント自体の開催の準備も進んでいった。
そこで何より役立ったのはアマネで、村人たちに信頼されている彼女が、村長にビラを貼る許可を撮ってくれた。そのうえ料理屋のような村人が集まる場で積極的に宣伝をしてくれた。
「アマネちゃんが言うなら、行ってみるかなぁ」
「アマネちゃんが出るの! 行くよ! ペンライトどこだったか……」
「アマネちゃん応援してるわ! 子供も連れてくから!」
「わーい! どうぞごひいきに……ほら、ユーくんも客引き客引き!」
さすアマネである。
「『私、欲しいものはすべて手に入れてきたわ。それもこれもいい娘だからでしょう?』
「『もちろん! かわいいお前のためなら世界だって買ってみせるさ』」
「かわいいって、やったー!」
練習は一〇日間。
台詞を憶えたら、次は掛け合い練習、それもできてきたらジェスチャーや舞台上の移動の確認。アマネは学校でときどき席を外したが、そのぶん親身に取り組んでくれたので影響はさほど大きくなかった。
即席、かつ原作からはシーンも減らしたが、素人だらけでよく短時間でここまできた、というほどに仕上がってきた。クリスさんの手腕のおかげだろう。
「『ああ、なんて時間が経ってしまったんだ! 館はちっとも変わらないというのに』」
「『世の中どうしてお金ばかりでしょう!』」
「……いい感じだね」
「ユウ様も上々です」
そうして、今日までやってきたのだった。
……幕が終わるごとに僕たちはエモ・いわれぬ感慨にとらえられ、自分たちがここまで辿ってきた物語に想いを馳せたものだった。
「『さようなら、僕の子供時代、僕の青春、僕の思い出。初めまして、新しい生活!』」
そうして最後の台詞が終わると、クリスさんが拍手をして、リハーサルは終わった。
「――グッド。ナイスナイスヴェリナイス、だなんて言おうかしらね」
ようやく一同に安堵が訪れ、アマネは「やったー!」と声を上げた。
「でも、本番は明日です。最後まで気を抜かないようにいきましょう」
「お、ユキさんずいぶんやる気ね。最初が嘘みたいだわ」
「……あ」どうやらユキ本人もやっと気づいたようだ。「……確かに」
「たまにはやってみるのもさ、悪くはなかったでしょ?」
「……そうかも、しれないです」
ユキはほんのすこし、頷いた。
どれだけかすかでも、頷いた。
・7/5 20:55
一〇日間続いた劇の準備も、まもなく大詰めを迎えようとしている。
演劇についてのデータが不足しているが、一般的な尺度から見ても、バラツキのあった全員の練度も短時間で上昇し、条件を生かした演出と相まって、成功する可能性は高い。
……指摘されて気がついたけれど、あれだけ自分が参加することに懐疑的、いや、否定的でさえあったにもかかわらず、非常に積極的に参加していた私自身にも、驚かされた。
驚かされた?
ロボットはそんな言葉遣いをするのか?
私はまた私に驚き、驚く私に驚かされて、いつまでも止まらない。やはりこれはエラーなのではないか? そう思えてなりません。
しかし、もしそれが、ユウ様が私を見守って下さるような、学習による変化というものなら……それと異常の違いは、どこで線引きされるのでしょうか。
でも私は、前ほど四六時中そんな複雑なことを考えていません。
人と協働しモノを作り、一つのイベントを成功させようとしている、それに集中している自分は、否定しようもない今の私なのです。
……もしかして、そういうことなのですか? 正常か異常かで考えるのではなく、今の私がどんな状態で、何を思考――ユウ様なら感じるという言葉さえ使うでしょう――しているか、その状態に率直であるべきだという。
それを、受け入れるべきだ、と言いたいのですか?
……難しい。非常に、難しいです。
でも、それにかこつけて、ひとつだけ附言しておくなら……私が、ユウ様の役を慕う使用人という役に選ばれたことが……なんだか、不思議に好ましいようなのです。
それによってユウ様と二人で時間を取って何かを作れたのも、好ましいです。
ユウ様、こう表現する差し出がましさを、お許しいただけますか?
私は、この役を演じることが、嬉しくて、楽しみなようなのです。
僕は、静かにこの記録を読んだ。
「ユウ様、本日は、これでよろしいでしょうか」
ユキはそれしか言わなかった。
「ああ、いつもどおり、いいね」
僕もまた、それだけしか、返事をしなかった。
でも、僕たちの間では、この記録から繋がった一種の共犯関係のようなものが生まれているかもしれない。
読み取りが終わってからは、相変わらず毒舌で、冷淡で、無機的なメイドだった。
そのはずなのに。
どうしてだろう、その眼、その表情、その動き、すべてが人間の女の子に思えた。
合成の皮膚を剥がせば、その下には大量のケーブルがあるのに。
血が流れているようにさえ、感じられたのだ。
……ユキ、君もまた、おんなじ気分なのかい?
一六日目
ベタに描写すると、その朝、窓の外には、雲一つない青空が広がっていた。
この村に戻ってから、こんなに空が高かったのは初めてだ、とか、思った。
僕は、えーと、上手く言えないんだけど、こういうのに弱い語り手だ。
ああ、こういうとき、やっぱりいいことがあると視覚的に天気で示すのがアニメや映画のセオリーだよね、なんて、いつもの軽口も、頭の中ですぐ沈んじゃった。
「おはようございます」
ユキがまたそこにいる。いると思ったらいる。観測された瞬間に像を結んで、ベッドの横に座っている。それだけで、いつもの朝なんだ、と安堵する。
いつもの朝。村に戻ってから、まだ二週間ほどだというのに。
「今日だね」
「ええ、今日ですね」
僕は、この村に来てからずっと、何をしたらいいのか分からないでいた気がする。
でも、今日ようやく、その答えを見つけられるかもしれない。
クリスさんはもう起きていて、午前中にアマネとも合流した。
全員で設営――といっても舞台はないので、机と椅子を置くぐらいなのだが――をしようというのはアマネの提案。放っておけばユキがやりそうだったが、どうせなら最後までみんなで、っていうDIY・インディー・文化祭的なアプローチで、感動的なわけ。
そうして準備を終えると、最後のリハーサル……というほどでもない確認をした。
開演は早め、午後の一八時からだ。終演後に、ちょっとしたパーティー……というほどでもないけれど住民と懇親会を開こうという、またしてもアマネのアイデアによるものだ(料理屋の主人を厨房に呼んで、軽食を振る舞ってもらえることになった)。
さすがアマネ、イベンターとして(?)よく分かってるよね。
観劇自体は無料。クリスさんは投げ銭で利益を得る。つまり原理的にはあまりにひどい劇を見せて一銭にもならない可能性があるわけだが、彼女は悠然としていた。
「大丈夫よ、きっとうまくいくわ。こういうときは無条件に成功するって考えておくのがいいの。ポップにポジティブにプリミティブに。これは祭よ。楽しみなさい」
何を言っているか分からないが励まそうとしてくれているのは確かだ。
「ユーくん、がんばろうねー」
アマネもまた普段どおりの能天気で、リラックスしている様子だった。
僕はまぁ……普通ぐらいっすかね。一応僕のことは知っている人たちではあるけれど、大勢の前で何かをするというのは定期的にやっていなければやっぱり人並みに緊張する。
……意外だったのは、ユキがすこし弱気に見えたことだ。
「おそらくは、成功すると思われます。私含め、全員が練習のパフォーマンスを発揮できればという前提ですが……」
目を伏せて、普段より声も低く聞こえる。
もう、こちらの錯覚だとは考えない。考えたくもない。
ロボットであろうが、ユキは今、明確に緊張している。
……ユキは変わろうとしている。その姿に対して僕が弱気になってはいけないだろう。なんたってご主人様なんだし。
それに、僕だってこの村で生活していくなら、より能動的に生きていきたい。ユキと一緒に変わっていけるならば、それがいちばんいいことだからね。
「ユキ、まぁ、なんとかなるよ。失敗しても宿泊費を回収できないだけで済むし」
「それは困ります」
確かに。
「私はいいけどね」
よくねぇよ。
「とにかくやってみよう。大丈夫、ユキならできる」
「……分かりました。ユウ様のお言葉は、信じます」
またまたぁ、なんて二人の冷やかしは無視することにしよう。
「いやぁ、なんだかお祭りみたいだねぇ」
「そうそう。これだけ活気があるのはひさしぶりよ」
「まったく、まだ村にこんなに人が残ってたんだと驚いたわな」
「ママー、これもう食べていい? はらへったよー」
はい、などといった感想をすでに頂いております。
客入りは上々、というか大盛況だった。
これって、村人のほぼ全員が来てるんじゃないか? 勿論、館の広間に全員収まってしまうような人口だけれど、それでも十分な手応えだ。
こんなイベント滅多にないのだろう、みな一様に盛り上がっている様子で、挨拶を交わし合い談笑している。同じ村に住んでいても日常では会わない人たち同士も、再び話す機会になっているようだ。
あとは、僕たちが、期待に応えるだけだ。
場がいい感じに温まってきたところで、簡単な衣服と小道具を身に着けると、四人で全員の前に立つ。
……司会の挨拶を任されたのは、ユキだ。
「村民の皆様、本日はお集まりいただきありがとうございました。それでは、演劇を御覧に入れます。登場人物は、ユウ様が地主の青年、私がそのメイド、クリスさんが商人……そして、アマネさんがその娘、計四名となります。……最後まで、どうぞごゆっくり御覧になられてください。それでは……始めさせていただきます」
最後に三人と、それぞれに目を見合わせる。全員が頷いた。
それじゃあ、書き割りのない、演台もない、僕たちの劇を始めよう。
物語は、地主が都会から館に帰郷するところで始まる。
「『やぁ、汽車が遅れてしまってね。申し訳ない』」
「『やった! ご主人様が帰ってまいりました!」」
再訪した屋敷に感傷に浸る二人。
「『この部屋も変わっていない。あの部屋も、その部屋も……』」
「『すべて元のままにしてあります』」
「『お前もまた、元のまま変わってはいないね』」
「『ずっとご主人様だけを待っておりました!』」
しかし、待っていたのは残酷な現実だった。地主は多くの借金を抱えており、館を手放さざるを得なくなる瀬戸際にいた。
女商人はこう告げる。
「『あなたがたの土地は、七月の二〇日に競売にかけられます。しかし提案があります! 館の一部を人に貸したり、土地を別荘にすれば、借金を返せるのではないですか?』」
「『ここは先祖代々受け継いだ屋敷だ! そんなことは許せん!』」
「『まぁそう言わず。こんなにふるくさい建物ですから改装が必要ですし、木も生え散らかしているので別荘を作るには切らなければいけないでしょう』」
「『そんな……春になると桜が咲いてとっても綺麗なのに』」
「『そんなもの、今時は観光の足しになりません。いいですか、結論は二〇日までです』」
一方、女商人の娘は地主に想いを寄せており、娘の願いを叶えるため、二人はひそかに自分たちが領地を買い取る策を練っていた。
「『お母様、あの館があって、私が彼とそこで暮らせたなら……どんなにいいかしら!』」
「『それはもう、一石二鳥だわ。娘よ!』」
だが地主はその想いを知らず、絶対に土地を売りたくない。
「『僕はこの地を絶対に守る。絶対に!』」
「『僕は異国にいる間に、女に騙されて多くのお金を取られ、身ぐるみはがされてしまったのだ。それで、これほどまで借金がかさんでしまった。……そこで気づいたのだ。もはやきみ以外に愛せる人はいないのだと』」
一方、メイドは主人である地主にひそかに求婚され、彼女は身分の違いから固辞しつつも、もともと想いを寄せていたこともあり心は揺らいでいる。
「『ご主人様、嬉しいです。ですが……私の身分というのは……』」
「『いまさら何を言うことがあるんだ! それとも、僕のことが嫌いと?』」
「『そうではないのです。でも……どうしても踏ん切りがつかないのです』」
一方、娘は突如として地主に想いを告げる。二人は小さい頃から知り合いだったのだ。
「『あの頃からあなたを見ていたわ。傷ついたあなたを癒せるのは私だけ』」
しかし、地主の反応は芳しくない。彼にとって娘はあくまで友人だった。
「『すまないが僕たちの邪魔をしないでくれ。今更言われたところで……』」
解決の一手が見つからないまま、ずるずると迎えた競売の日。
業を煮やした娘は、計画通り、母に頼んで土地を丸ごと買わせてしまう。
「『ええ、認めましょう。私たちが買いました!』」
『「お母様が買ってくれたのよ! 館も、土地も、あなたも、私のものよ!」」
居場所を失った地主に、娘は、自分と彼が結ばれさえすれば、経済問題も解決しなんでも好きなことができると約束し、土地を手にした既成事実を盾に婚約を迫る。
しかし、彼は首を縦には振らなかった。
ここで、心の決まらないメイドに、ついに地主(ではもうないが)は改めて告白し、この土地を出て新しい生活を始めよう、と、一世一代の願いとして、駆け落ちを頼むのだ。
……クライマックスだ。
僕は、台詞を待っているユキに向き直る。
さぁ、僕の大一番であるシーンがいよいよやってきて――
そのとき気づいたんだ。
「……ユウ様? いかがいたしましたか?」
ユキの身体がおかしい。
胸に大きな空洞ができていて、後ろの景色が見えるんだ。
なんだろう、これって。
穴が空いている。
穴が空いている。
ユキの身体の、中央に、穴が空いている。
大きな、大きな、その華奢な身体を引き裂く寸前の、穴。
停止した世界、時間、思考、血、が、沸騰し、爆発する。
撃たれたのだ。
撃たれたのだ。それも間違いなく巨大な銃器や砲で。でなければこんな大きなダメージを受けるはずがない。まったくの不意打ち。予兆があればユキの能力で避けられたはずだ。敵はまったく気づかれないうちに接近していたのだ。
僕はそれを許した。
脳が沸騰する寸前、必死にユキにしがみつき、支える。
狂ってはいけない!
お前はそれを戦場で学んだはずだろうが!
危機は去っていない。ここには大勢の人間がいる。音も気配もないまま攻撃を許してしまった。敵の方向も数も大きさも分からない。上空からの機銃掃射か? いや、音はなかった。それなら狙撃か? ダメだ。一刻も早く知らせないと! さもなくば皆殺しだ!」
僕はいい。僕は死んでもかまわない。
いざとなればこれ以上ユキが傷つかないように盾にもなれる。
ただ、その前に全員を逃がさないと!
「撃たれるぞ! みんな! 逃げろ!」
僕は絶叫していた。
「みんな殺される! みんな殺される! 早く隠れろ! 早く! そうだ、一刻も早くここから逃げろ、それから少人数でバラバラに散るんだ、集団でいるといい的だ! みんな死ぬ! 早く、せめて少しでも多く! ……畜生、ユキ、ユキ、ユキ、ユキ……アマネ! クリスさん! 逃げるんだよ! 早く! ユキユキユキユキユキユキユキユキユキ……」
必死に壇上の二人に話しかけ、ようとして。
「……え?」
そこに、アマネはいなかった。
「よかった、逃げたのか……何してるんですかクリスさん、あなたも早くしないと……」
ぱしん。
衝撃が頬に走った。
「落ち着きなさい!」
それは、クリスさんの平手打ちだった。
「何を、するんです」
「ここから先はあなたにかかっているわ。どれだけ苦しくても、正気を失っちゃダメよ。言ったでしょう? ユキさんにとって何が最善かを考え、これからのことを選びなさい」
「訳が分かりません。なんの話ですか? みんなの命が懸かってるんですよ!?」
「ヒントは残した。……私はここで退場よ。末席を汚してごめんなさい。あなたたちの物語が、無事に終わりますように。祈るわ」
待ってください、と言おうとした瞬間。
クリスさんは、フィルムからコマ落ちするように、瞬きの間もなく、目の前で消えた。
「……ユウ様」
なにがしか、音がしている。これは声。
腹に穴を開けられたユキが、喋っているらしい。
「ユキ、こんなことになって――僕は、主人失格じゃないか。助ける、そう、絶対助けるから。これじゃ……どれだけ部品を交換しなきゃいけないか分からないけど、だけど、元に戻してみせるから、どんなに時間がかかっても。だから諦めないでくれよ、ユキは大丈夫なんだから」
「ユウ様……客席を見てください」
「ダメだ、喋っちゃエネルギーを」
「今のユウ様に、どう見えますか」
ユキが指をさした。
自然と、目で追ったその先には。
誰もいない、からっぽの客席があった。
最初、僕の警告でみんな逃げたのかと思った。
でもそうじゃなかった。そうじゃないんだと、思わされる静けさだった。
それはもう、最初からここには誰もいなかったかのような、そんな感触。
「ユウ様、お気づきになられましたか。……やはり、必ず今日なのですね」
「ユキ……何が、起こってるんだ」
「最初から、いなかったんです。私以外には、誰も」
肌を引き裂かれるような寒さに、ああ、ここは外だったのかと思い至る。
外?
さっきまで館にいたはずじゃ?
それにしても変な夢を見ていた気がする。みんないなくなってしまう夢。あれはどこからどこまで夢だったのだろう? ひょっとして今も?
もしかして、いまは劇の開演の前の晩で、そこで僕が見ている夢だったりする? それなら、舞台に立つ不安からこんな悪夢を見たとしても不思議じゃない。まったく、夢ってのは便利な小道具だな。すぐにファンタジー展開に持っていけるわけだから、そりゃ泣きゲーが使いたがるわけだ。
にしても寒い。まだ夢なら、早く覚めて現実に戻りたい。しかしどうすればいいんだ。
辺りを見回すと、雪がだんだん強くなってきていた。でも月が見えて辺りはかすかに明るくて歩くことはできる。
暗いと昼間と同じ道でもなかなか気づかなくて記憶がぐちゃぐちゃするよね。今マジでそれ。夢なんだからさ、もっと適当でもいいのにね。
……そうだ、ここは館から村に向かう一本道の途中だ。アマネが通ってきて、僕も村に行くとき使う道。ってことは。
振り向くと遠くに大きな影が鈍い光の輪郭にふちどられて鎮座している。
館だ。けっこう遠そう。
なんだよ、面倒だなぁ。
それならいっそ、村を散歩でもしようか。なんだかそんな気分だ。
寒いなぁ。
どうしてここまできたんだっけ?
村は静かだった。そりゃそうか、こんな時間なんだ。でも無性に人に会いたい。料理屋はまだ閉まっていないかな? それともまだ仕事をしていそうな役場に行って、村長に挨拶しようか? そうだ、アマネの家を見に行ってもいいな。もう寝ているだろうから起こさないほうがいいけれど。
広場に入ると一人の老婆がベンチに座っていた。
なんで家にいないんだろう。寒くないのかなぁ。こんなところにいると風邪をひきますよ。
だから話しかけてみたんだけど、反応しない。耳が遠くなってしまったのかな。困った。あんまり大きな声を出すのは得意じゃないんだけど。いや、眠っているのかな? だとしたら起こさないと。
仕方ない、肩を叩いてみるか。人間に触れるのってけっこう勇気がいるよね。
勇気を出して手を伸ばしてみた。
手は、身体を通り抜けた。
老婆の身体は透けていた。
幽霊?
困ったなぁ。いまさら信じろって言われてもなぁ。そういえばアマネは暗くなるといつも何か出るんじゃないかって僕に引っついていたっけ。本人には言わないけど、僕も怖かったよ。だけどそこのガキ、そうそうキミだよ、幼馴染の女の子には強がっておくのがフラグを立てるコツなんだ。ってかガキはもう寝ろよ。しかもなんだ、仲間もいるじゃないか。早く帰らないとアマネ先生に言いつけちゃうぞ。言っとくけど怒ると結構あいつ怖いから。おい、話を聞きなさい。これでも年長者だぞ。こういうときは積極的に圧をかけてかないとナメられるよね。
あれ、なんでお前らも身体が透けてんの?
ま、錯覚か。
なんてときにおじさんが歩いてくるので僕はさらなる権力に訴えようとする。
どうも。聞いてくださいよ。このガキどもが言うことを訊かないんですよ。僕のありがたい忠告もNPCの台詞みたいに聞き流しやがりましてね。ここはもうガツンと二つ前ぐらいの元号の威厳を見せてやってくださいよ。あ、そういうのもハラスメントになっちゃいます? ってやつ言ってみたかったんですよね。ナイス加害。あーあ。
で、なんでおじさんもやっぱり身体が透けてるんですか?
ねぇ、答えてくださいよ。そうそうそこのお二人さんも、子連れの奥様も、休憩している農夫のみなさんも。ああ、他にも人がいったりきたりしているね。この村こんなに人口がいたんだね。ただ困ったことにみんな幽霊みたいなんだな。それじゃあ税収入も増えないしアマネもガッカリだね。まったくもって地域振興ってのは難しいぜ。
そうだ。アマネに見せてやろうかな。たまにはイタズラするのも悪くない。こんな機会めったにないしね。
さて、家はどこだっけ?
あ、ここか。お母様に悪いのでちょっと姑息な手を使わせてもらうぞ。裏手に回るとアマネの部屋があって、窓を叩くといつも顔を出してくれるんだ。こっちから遊びに誘うときはいつもそうやってた。
おい。アマネ遊ぼうぜ。
窓が開いている。
おいおい不用心だな。この村は平和だけど、外じゃ自警団が殴りこんで移民を排斥したりバイトで集められて知らぬ間に強盗させられたりする世の中だぞ。
注意してやろうと覗きこんだ部屋には、何もなかった。
文字どおりがらんどう。
家は完全に廃墟だった。
それから僕は気が狂ったように村を回った。ドアを叩き無理やり人を起こして呼ぼうとした。でも無意味だった。
村中の建物はすべて朽ち果てて、壊れて、誰も住んでいなかった。
そんな村の道という道に半透明なヒトの形の物体があふれ、フラフラさまよっていた。
懐かしい顔だって。たくさん見かけた。
誰も僕に反応しなかった。
ああ……そういうことね。
すべては、蝶の夢なんだ。
眼が覚めた瞬間に、泡がはじけて消えてしまう、蝶が見ている夢。
だったら、蝶を起こしてはいけないね。
さぁ、帰ろうじゃないか。
こうやって、僕は壊れた。
違うな。
とっくに壊れていたんだ。
・7/6 20:16
取り乱したままユウ様が出て行ってから、まだ戻ってきていない。
彼はきっと村中を半狂乱で回って、人を探しているのだろう。いたたまれない。着の身着のままだから、とても寒いだろう。仕えるものとしては、間違いなく追いかけて保護するべきだ。
しかし、こうしなければ。
自分の眼で確かめなければ、ユウ様は、この世界の真実を受け入れられない。
だから心苦しいが、すべてを受け入れて、戻ってくるまで待つしかないのだ。
ユウ様が、まだほんのわずかでも、正常であるうちに。
・同 21:57
私は外套を羽織って玄関の前に立ち、手には光るランプを吊り下げて、身体中に雪を積もらせながら、微動だにせずユウ様の帰りを待っていた。遠くにいても、私の存在が分かるように。
いつのまにか外は吹雪いていた。二二時を過ぎても戻ってこなければ、こちらから探しに行こうと判断した、その直後だった。
人影が、暗がりからゆっくりと姿を見せて、近寄ってきた。
身体から雪を払い、脚を引きずって近づいてきたその人を、私は脱いだ外套の中にくるんで、抱き締めた。
「ユウ様、おかえりなさいませ」
彼は何も言わないまま、呆然としていた。すぐに部屋に連れていかなければ。
「休んでください。おつらかったと、思いますから」
彼にとって、この世界を受け入れるということは。
・同 22:31
ユウ様は今、ベッドに横たわり毛布を被せられている。
彼の現在の精神状態はさきほどよりは落ち着いていて、今なら私の説明を理解できる知性があると判断した。
だから、眠ってしまう前、今こそ言わなければならないと、決心した。
「ユウ様――まだ、目を覚ましていらっしゃいますよね」
「ああ」
「では、さきほどまで見てきたものを、信じられますか」
「分からない……」曖昧な返答。「でも、僕がおかしくなったのか、これまで見てきたものがおかしくて、それが正常になったのか、どっちかなのは理解できる」
やはり論理的な判断力を持っている。説明を続けよう。
「これから話すことは、ユウ様にとってとてもおつらいことになるはずです。どのように説明しても、その痛みを減らすことは難しいと思います」
「……僕のことは気にしないで。ただ……真実を教えて」
「それでは、話します。……まず、この村で目覚めてからのユウ様には、非常に強い幻覚があります。それは……」
「村人」ユウ様は既に把握していた。「村に行ったら、建物は古んでいて、倒れている家もあった。中は荒れていて、どこも廃墟だった。人の気配はまったく見つからなかった。それも……ずっと前から」
「はい。ユウ様が正常に認識したように、現実のこの村は、すでに滅んでいます。戦争が事実上終結した時点から、人間は一人も残っていません。私のカメラからは、ユウ様が存在しない村人たちと会話しているようにしか、見えませんでした」
「それは」おそらく、非常に苦しい質問が予想された。「……アマネも、なのか?」
「……はい。私には、ユウ様が誰もいない空間に話しかけているように、見えました。その場では、できるかぎり違和感のないように振る舞いましたが……私は演技が得意ではないので。会話に参加することはありませんでした。思い出していただければ、私がアマネさんと直接話したことが一度もないのに気づけるかもしれません」
「……そっか」
ユウ様の反応は、落ち着いていた。
彼にとってアマネ様の存在は非常に大きかっただろう。
だから内心はこんなに冷静でいられるはずがない。必死に保っているか、もはや振り切れるほどに損なわれてしまったのか。
「戦争で村がどうなったのか、とか、アマネはどうなったか、訊くべきなのかな」
「それは……」
「意地悪したね。……僕に読ませた記録はどうなのかい」
「ユウ様が読むことを想定して、一部を現実から改竄させていただいております」
「演技が下手なんて、とんでもないじゃないか。嘘をつけるなんて、立派に育ったよね」
「私は、ユウ様の精神状態に配慮して、主人に虚偽の情報を伝えました。人間に仕えるロボットとして、許されない行動をしたと、認識しております。大変申し訳ございません」
「むしろ褒めたいぐらい、ぜんぜん違和感なかった。文才あるね。あ、こういう一言に騙されて作家なんてなっちゃって人生を棒に振らないように」
「……ユウ様。いま一度、どうか落ち着いてください」
「困ったな、僕はユキを落ち着かせようとしているのに。いや……ユキにはずっと異常な言動にしか見えないのかもしれないんだね。難しいな……」
そうだ。彼なりに思いやろうとしていることが全部、私には痛々しくてならない。どうしてこんなにもすれ違うのだろう。
「……僕は、頭がおかしいのかな」
「いかが表現すればいいか分かりませんが、客観的な人間の理性の尺度では、正常とは言い難いと思います」どう言葉を選ぶべきか、戸惑う。「そして、その原因は……心苦しい指摘ですが、もう気づき始めているのではないでしょうか」
「うん」
戦争。
彼は学生のうちに徴兵され、軍事用ロボットの整備兵として戦場に行き、精神を損なう体験をし、壊れたまま故郷に戻った復員兵だったのだ。
「ユウ様が世界を物語だと見なしたような奇矯な発言をするのは、おそらくそう思わなければ正気ではいられない経験をなさったからでしょう」
「メタ発言ってそういう伏線だったんだ」
なんの話か分からないが、また乱心か。
「まぁ、最初から分かっていたはずなんだよ。見ないふりをしていただけ。お恥ずかしい話だね」
「それはユウ様の責任ではありません。医学的に認められた、抑圧や解離などの症状です。どうかこれ以上ご自分を痛めつけないでください」
ユウ様は悪くない。そう繰り返すことしかできない。
「責められるべきは、人類に過酷な運命を背負わせ、永遠に止まない雪を降らせた、戦争という行為そのものです。そして、それを主導した一部の人間です」
「仕方ないよ、そいつらもたぶん皆死んじゃったし。……今ならはっきり言えるよ。戦争は終わったんだろう?」
「ええ。あらゆるメディアが破壊されたため統一的な推移と帰結は不明ですが、関わったすべての国と武装勢力の敗北と、人類の壊滅的な衰退、そして雪だけが残されています」
「でも、終わったんだ」
ユウ様は目を瞑った。
「それなら、これから僕はどうなるんだろうね。戻る軍隊もないし、勉強しようにも学校なんてもうこの世界にないし、働こうにも頭の調子まで悪いときた」
「療養して、心安らかに残りの人生をお過ごしください。ユウ様のことは私が支えますから」
「でも、旅館の仕事はどうする? 人間を養うってのはコストがかかるもんだよ。僕も手伝って支え合わないと――」
「すでにお伝えしたように、この村は廃墟で住人は誰もおらず、この地を訪れる人はほとんどいないのですから、実質的には営業など最初からしておりません。私にすべてを委ねてください。お願いいたします」
「……分かった。でも、病気はいつかよくなるかもしれないだろう? そうしたら、一方的に僕が養われるってのは、ちょっと釣り合いがないんじゃないかな。これから何年だか何十年だかも僕と一人きりってのは、ユキも寂しくはないかい?」
……二人の世界。
それでいいのに。
それがいいのに。
「そうだ、また人を呼ぶってのもいいアイデアだろう。こんなに立派な建物がまだあるんだし、頑張ればこの旅館をきっかけに村を復興させることだってできないか? あとは、もしユキがここにいるのが退屈なら、危ないかもしれないけど、いっそあの劇みたいに二人で外の世界に行ってもいい――」
「申し上げにくいですが、ユウ様がこの村から出ることは実質的に不可能です。そして、病状が改善に向かうことも、おそらくはありません」
「どうして? 確かにちょっと頭は変かもしれないけど、こうやって喋ったり、暮らしたりはできるじゃないか」
「それも……できなくなるんです」
「どうして?」
私は迷った。
ここで、すべての真相を伝えてしまうべきなのか。
あるいは、伝えても伝えなくても、どうせ変わらないのではないか。
そう判断したからこそ、今まで言わなかったのだ。
何も変わらない。
絶望の再確認でしかない。
しかし、私を見つめるユウ様の眼を見て……もう、隠しきれない自分を悟った。
あまりにも、悲しいのだ。
それに耐えられなくなって、私は、真実を話した。
「ユウ様と私は、すでに幾度もこの状況を体験しています。ですから今後の展開も、ほぼそれまでと同じだと推測します」
「すでに幾度も、って……そんな記憶は僕にはない」
「そうでしょう。だってユウ様は、これから心身が崩壊すると同時に、この村で過ごした一ヶ月の記憶を失うんですから」
「記憶喪失……」
「はい。私は、ユウ様に付き添い、今回で一五六回目となる繰り返しをともに体験しました。時間に換算すると、今回で一三年目になります」
私はこれまでで初めて、ユウ様に、真実を伝えた。
「……じゃ、僕もいい歳か。界隈で年下だからとちやほやされていた頃の感覚から抜けられないオタクいるよね。これは身を引き締めてかなきゃいかん。アップデートというやつである」
ああ……もう、感想まで完璧にユウ様で、嬉しさと懐かしさと痛みでいっぱいになってしまう。
こうなるから。
私が弱くなってしまうから。
避けたかったっていうのに。
「今まで、ありがとう」
「……光栄です」
涙を流せたらいいのに、と思った。
流してどうなるわけでもないのに。
そんな無意味なオプションを搭載していないことが、こんなにもむなしかった。
「本当に避けることはできないの?」
「……そうですね。ユウ様の症状は、演劇の上演日に一度ヒビが入って、真実に気づいてから急速に悪化していきます。演劇を行う展開を避けて、なんとか気づかないようにする方法も模索しましたが、かならず何らかのきっかけで、ご自身の異常にお気づきになられてしまいます」
「ループあるあるだな」
「それからおよそ半月ほどで、ユウ様には日常的に幻覚が発生するようになり、激しい苦痛やパニックに襲われ、最悪のケースでは鎮静剤を打たねばならなくなります。その繰り返しのうち、心身はどんどん摩耗していき、意思疎通も困難な状態に陥り、最後には身体も動かなくなります。そしてその末に――唐突に、一ヶ月の記憶をすべて忘れてふたたび目覚めるのです」
「一度も、他のパターンはなかったの?」
「ありませんでした」断言する。「おそらく専門的な精神医学か、脳外科の治療を行えば改善する可能性もありますが、私の知識と技能では、現状が限界かと」
「そんな医療設備も医者も世界にはとっくにない。あーあ、詰みかい」
ユウ様はそう言って笑うのだ。
あの頃とまったく同じ笑顔で。
「それでも、ユキは僕を支え続けてくれたんだ」
「簡易的なチェックなので正確さに疑問はありますが、ユウ様の脳には大きな損傷は見られません。ですから症状は戦争のショックから来る心因性の病因、という可能性が高いです。それなら、手術等をせずとも治癒の可能性は皆無ではありませんから」
もちろんそんな奇跡は起きないだろう。一五五回、およそ四五〇〇日のあいだユウ様のお傍にいた自分ならば、それが浜辺に流れ着いた砂粒が自然に固まって城を作るほどの可能性であるのは、十分に理解しているつもりだ。
奇跡などない。
神などいない。
それがルール。
私にあるのは、天国にいちばん近い地獄だけ。
「それでも、ほんのわずかな可能性に――賭けてくれたんだね」
「それは……逃避や先送りではないでしょうか」
「そうであったとしても、傍にいてくれたのなら僕はうれしい」
だから……と言いかけたところで、ユウ様は眠ってしまった。
バグとエラーに満ちたこの私が。
赦されるというのか?
ロボットとして脆弱なこの私を。
ユウ様なら赦すのか?
こうして、一五六回目となる終末が始まる。
一七日目~
・7/7 19:21
ユウ様は今日、朝から一日中眠っていた。
しかし眠っているのが健康かと言われれば。まったくそんなことはない。
私が見るユウ様の睡眠は、普通の人間が摂るような睡眠ではない。
「ががががばばばぐぐはごほおばばばばばああへへはくおおおず!」
館の点検で仕方なく目を離した隙に、ユウ様は悪夢にうなされて――いや、そんな次元ではない――発作を起こしていた。
館には私しか設備を維持できる存在がおらず、もちろん分身をすることができないので、必然的に二四時間ずっと目を離さないのは不可能だ。
そのあいだにユウ様が発作を起こしてしまうと、収めることは難しい。けれども、できるだけ鎮静剤を打つことは、したくなかった。だから、なんとかなる範囲ならば――
ベッドの上でのたうち回るユウ様を、私は抱き締めた。
身体を壊してしまわないようセーフティーを確認しながら、ぎゅっと抱き締めた。
私の身体は硬い。表面は疑似的な皮膚となる樹脂で覆われ、弾力もあるが、その下にあるのは堅牢なフレームだ。衝撃の吸収をアブゾーバーで行うため、骨のようにはしならない。外から見たとき自然な少女の体形になるように設計されているものの、中身はまったく別なのだ。
だから、もしかしたらユウ様が胸を埋めている胸も、すこしは痛いかもしれない。
私は保母ではなく教育役を想定されていたので、それほど大きく柔軟な胸部を持っているわけではない。残念なことだ。もっともユウ様の女性の趣味は大きさを求めてはいないという学習データもあるが、これはどこで記録されたのだろうか?
なんにせよ、暴れていたユウ様は腕の中で落ち着いた。
あとは、安眠に持っていくだけだ。人間は心音を聞くとリラックスできるというが、私に心臓はないので、とりあえず、昔みたいに何度も頭をさすり続ける。
……奇声がやんで、弱々しい呻き声も聞こえなくなったところで、埋めさせていた胸からすこし力を抜いて様子を見る。
メイド服が濡れていた。
ユウ様は、泣いていた。
泣けるのはきっといいことだ。
涙を持たない私は、そう思う。
・7/8 07:12
困った事態が起きた。
昨晩、私はユウ様を抱き締めた状態で、休眠してしまったらしい。
最近、同じようなミスが多い。気を引き締めなければという矢先。
……慌てて離れようとして、がしりと腕を絡められる。
起きている!?
「今まで、一緒に寝てくれていたんだね」
「……はい。夜間に発作が酷いときに限ってですが」
「わーもったいないことしたー」
「どういうことでしょう……?」
「いや、もっと味わいた……という枯れてないぜアピールは置いておきまして。なるほど。じゃあ、今日はもうしばらくいてもらっていい?」
意地悪なことばかり言うお方。
断れるわけがないじゃないか。
私だって結構我慢しているんですよ、と文句が言いたくなるけれど、それは隠さなければならないのか。私はとうに失楽園に片足を踏み入れているようだ。
「承知しました。では、しばらくこのままの状態でいたしましょう」
すこしだけ、抱く力を強める。
正直に、言えば。
私は幸せだった。
結局その日は二人でずっとゴロゴロしてしまった。ああ、不覚だ。
・7/9 11:14
早くも、ユウ様に危険な兆候が起き始めた。
二日前に症状を説明したにもかかわらず、ユウ様はそれを忘れたようで、雪かきを行うために勝手に屋上に上がろうとしたのだ。気づいたときには手遅れになる寸前で、屋根から転落する瞬間を私は目撃した。
必死に手を伸ばし、腕を掴む。
「何を、やってるんですか……」
私の能力なら持ち上げるのも簡単……と思いきや、掴んだ態勢が良くなかったのかなかなか持ち上げることができない。
それに、一気に引き上げれば、ユウ様が脱臼する恐れもある。
「ユウ様、もうしばらく……お待ちください」
「ねぇ」とユウ様。「このまま……一緒に落ちてみないかい?」
「なにを言うんですか。こんなときもおふざけになられるのは」
「なんだ、本気だったのになぁ」
どきりとする。
症状を忘れていたのではなく、まさか、そういうことなのか?
「うそうそ。ただ、これからの時間を過ごすうえで、この選択肢をどう思うのか訊いてみたかったんだよねー」
そんなことのために……! この人は本当に、どうしようもない。
しかし、彼の問いかけは私に不意打ちとなった。
これまで彼は自分の置かれた状態が分からなかったので、苦しみに悶えるしかなく、自ら死を選ぶという発想がそもそもなかったのだが。
今回は、違う。
ユウ様と死ぬ。
その選択に――すこし惹かれてしまっている。
そんな自分が、恐ろしかった。
その選択があったか……そんなふうに安堵してしまいそうで、必死で振り払う。一〇〇回以上も付き合って、そんな弱腰ではいけない!
「……できません」
私は冷静さを維持して、なんとか答えられた。
「私はユウ様が完全に正気と記憶を失われるまで、毎回安全に見届けなければなりません。こういった試みはお願いですからおやめください」
「そうかい。それじゃ僕が悪かった。あーあ、これって試し行動ってやつになるのか。でも、ちょっと空を飛んでみたかったってのもあってさ」
「お黙りください。引き揚げたら死ぬほど叱ります。本当に、最低で、バカなご主人様」
私の握る手からユウ様の体温が伝わってくる。
……やはり、生きなければいけないと思った。
引き揚げてから、ユウ様を六時間ほど叱ったのは言うまでもない。
・7/10 13:25
ユウ様が屋外に出るのは危険だ。
いままでの経験則から、ユウ様の幻覚は明るい場所で発生しがちだ。だから外で錯乱状態になった場合に、大きな事故に巻き込まれる可能性がある。もはや雪かきなどもってのほかだ。
もちろん、そうしていると一気に体力を落として衰弱してしまうから、今までは許していたのだが……。なんとかして運動させる方法があれば、いいけれども。
しかし、せめて知力や記憶力は維持させたい。
そんなむなしい期待をかけて、私はユウ様とカードで遊び、することを失った彼の時間を潰す。
今回は、ユウ様の特異な、カードを引いて手札から役を作り、その役が高い方が勝つ、というゲームをすることにした。彼が戦場で慣れてきたゲームだから、元気が出るかと思ったのだ。しかし、それは完全に裏目に出てしまった。
「お前……クルマタニか! 元気だったのか!」
突然、ユウ様が私の横の空間へと話しかけた。
「相変わらずシケたツラしてるよ。お前、さらに老けたんじゃねぇか? いまも詩は書いてるのか? 恥ずかしがってないで今度こそ読ませろよ、たぶんわかんないと思うけど。まったくもう。おっ、イシダもいるじゃないか! どうだ、今もゆく先々で女をたぶらかしているのかい? ハハハ、しかしタバコはやめたんだね。や、その口じゃぁもう吸えないか! おいおい気を悪くしないでくれよ。ブラックジョークだって。さぁ、お前らもひさしぶりにカードやろうぜ」
「ユウ様、誰もいません。そこには誰もいないんです」
「ああそうだ。紹介してやるよ。はい、うちのメイドのユキだ。どう? 前も言ったことあるけどそんときは信じなかったよな? どうだ、やっぱり本物のメイドロボだろう。僕がちっちゃい頃から育ててくれたんだ。羨ましいか? ちっ、ちげーしっ、ママじゃねぇし。そうだよねお母さん?」
「……ユウ様」
「ほら、ユキも挨拶挨拶。こいつら、変な顔をしてるけど悪い奴じゃないんだ。戦争ってのは怖いよなぁ。だって顔にこんなデカい穴が空いちまってるんだから。ああ、イシダなんて腕もないじゃないか。それじゃあカードは大変だ。僕が手伝ってやろうか? 中身は見ないさ、ただ掛け金の三割を譲ってくれたらの話だけれども」
そこに誰もいないのに。
彼には見えているのだ。
戦争で死んだ無数の戦友たちのマボロシが、血まみれで指や腕や脚や眼を失ったまま、仲良くテーブルに席を並べて、私たちと談笑しているところが。
私は亡霊たちに挨拶せず、カードを片付けた。
ユウ様は「まったくこういうときはシャイなんだから」と勝手に納得してくれたけれど、私の痛みは治まりはしなかった。
ああ……また失敗した。
こういうとき、前までは、これも仕方ないことだと思っていた。彼がアマネさんや村人と話しているときのように、何度繰り返しても、ただ、毎回黙ったままそこにいて目立たずに受け流していればいいのだと。
でも、今の私は、それが苦しくてたまらない。
これ以上続けていたら、私の方まで気が狂ってしまいそうだ。自分がそんなことのありえない、無機質の物体であることさえも忘れて、嘆きたくなる。
……せめて、亡霊たちじゃなく、私だけを見てくれたらいいのに。
・7/11 19:47
夕食の席にて、食事に口をつける寸前に、ユウ様の手が止まった。
……来たか。
「どうなさいました?」覚悟しつつ問う。「献立がお気に召さなかったのでしたら――」
「……ユキ、料理が食べられなくてごめん。でも誰かが毒を入れたみたいなんだ。諜報員かな。とにかく僕を殺そうとしている奴がいるっぽい。気をつけて」
こういう展開になるか。すでに何度も見てきたので、驚きはない。
念のため、むなしい質問をする。
「どうして毒が入っていると分かったのですか?」
「毒が入っているんだ! 誰かが毒を入れたんだ! ユキが味見できないのをいいことに! なんて卑怯な敵なんだ……」
やはり無意味だった。
こういうときにユウ様を収める手段はない。無理に食べさせようとしたこともあるが、暴れて怪我をさせかねなかったし、何よりユウ様からの信頼を損ねてしまう。
落ち着いたときにエネルギーになるものを食べさせることにするが、妄想がひどくなれば、鎮静させた状態で点滴をしなければならなくなるだろう。やりきれない。
私は料理をゴミ箱に捨てた。
・7/12 21:23
夜、私は本を読む。
真っ暗な部屋で、本を読む。暗視機能で活字を読み取って、本を読む。
眠れぬユウ様のため、読み聞かせるのだ。
今夜は、唐突にユウ様が不安な状態に陥ってしまった(ごめんなさい、ごめんなさい、と絶叫していた)。早く寝かしつけるべきだと判断して、部屋の照明を落としてベッドに入れた。
現在の容体は安定している。
「『この町はいろんなこだまでいっぱいだよ。壁の穴や、石の下にそんな音がこもってるのかと思っちまうよ。歩いていると、誰かにつけられているような感じがするし、きしり音や笑い声が聞こえたりするんだ。それは古くてくたびれたような笑い声さ。声も長いあいだに擦り切れてきたって感じでね。そういうのが聞こえるんだよ。いつか聞こえなくなる日がくるといいけどね』……」
私の声は機械音として一定のトーンとリズムを保ち続ける。あえて人間がするように、情感たっぷりに読み上げようと努力はしていない。
その不器用な声が好きと、あの頃、言ってくれたからだ。
「……『かわいそうな人。ひとりでさびしかっただろうよ。あたしたちはね、一緒に死のうって約束しあった仲なのさ。あの世に行く旅路で何か困ったことに出くわしても、お互いに励ましあえるようにふたりして行こうね、って約束したんだ』」
読み上げながら密かにユウ様の様子を確認する。
「お加減はいかがですか」
「……悪くない。続けて」
大丈夫だ。リラックスしている。これなら今晩は発作を起こさずにいられるだろう。
錯乱状態では無意味だが、比較的落ち着いているときに読み聞かせは効果的だった。
「『誰ひとりお悔やみを言いに来なかった。その方がよかったけどね。死はめでたいことのように人と分かちあうもんじゃない。悲しみを好き好んで求める人なんていないんだから』」
ゆったりとした時間だ。
しかし、それが嵐の前の静けさなのも、分かっている。
まもなく、ユウ様の症状は急速に悪化していくだろう。
・7/13 19:21
浴槽でユウ様が溺れた。
迂闊だった。私は今回、どうしても彼を入浴させるのに乗り気ではなかった。不思議なものだ。今まで彼の服を着ていない姿を見るのはなんとも思わなかったというのに。
また試し行動なのか、と危惧したが、どうやらのぼせてしまっただけらしい。水をかけて起こしたら「寒い」と言われた。それはそうだろう。
「鬼畜」とも言われた。……それもそうかもしれない。
そこで仕方なく、私が身体を洗うことにする。
「昔はやっていたではないですか。お気になさらずに」
「それ何歳の話? ってかめちゃくちゃ淫靡なシチュエーションだったな。もっと大事にしておけばあるいは……」
「……あの」
「なんでもないです。もうそういう齢でもないんだし、自分でやるよ」
そんな言葉を無視して強引に泡立ったスポンジで身体を洗っていく。
「ふ、ふひゃひゃ、くく」
「どうしました? まさかこんなときにまた頭のネジが緩みましたか」
「失敬な。こういうときはくすぐったくなるのが定番のアプローチだろ。分かっとらん」
いや、分かるわけない。
「なんか子供に戻ったみたいだな。時空が歪む」
「ユウ様も、すっかり成長なさいましたね。背中も大きくなって……」
「……って、ちょっと待って。あの、僕の年齢っていま何歳だっけ?」
彼に年齢を教えてみた。
慌てて浴槽から出て行こうとして、泡を落とすのにまた湯をかけた。
まずい、また水だった。
・7/14 09:11
目を覚ましたユウ様が、唐突に「あなた、誰ですか」と訊いてきた。
いつもの冗談かと思ったが、どうやら本当に一瞬忘れたというのだ、
まもなく思い出すことができたが、それから彼の口数は急激に減ってしまい、私が何を話しかけても、空返事ばかりになった。よほどショックだったようだ。
なんとか元気づけられたらいいのに、方法が思いつかない。
もちろんこれも珍しくない展開だ。たいていの場合、今日ごろから急速に症状が悪化していくからだ。そして、まもなく――
ユウ様は黙ったまま、宙を見つめて、何も言わなくなった。
・7/15 12:42
ユウ様は何も言わない。
・7/16 16:54
ユウ様は何も言わない。
・7/17 08:34
ユウ様は何も言わない。
・7/18 23:54
ユウ様は何も言わない。
二九日目
……そこまでの記録を、僕はいま読んでいた。
あ、混乱させるよね。どうも、ユウでーっす。
えーっとね、どこから説明しようかな。今は七月一九日の深夜と早朝の合間ぐらい。
ここは地下室。僕の目の前にはユキが横になっています。なんでって? それは今から話すから、そう早まるなって。
で、さっきまでの記録をユキに内緒で読んでいるわけです。どうやら本当に覗き魔になっちゃった。好きな子の日記を盗む男の気分が分かっちゃったよ。変な性癖に目覚めそうだもん。
それにそんなこというといま無抵抗で横たわっているユキ自体……ゲフンゲフン。
真面目にやりましょう。
僕は画面の前に立って、これまでの記録を、文章を、読んでいる。
ということでお待ちかね、ここから種明かし。
なんとミステリ要素があるんだな。推理はできないと思うけどね。
実はちゃんと伏線が貼ってあるのだよ。驚け!
じゃあ、一八日の晩から話を始めるとするか。
それまでユキは食事を持ってきたり排泄で僕を連れていくとき以外、つきっきりで部屋にいたが、館の設備点検で、しばらく傍を離れなければいけなくなった。
昼間は呆けてまともに意思疎通もできない僕だが、夜になると、すこし正気が戻ってくる。それは……恐怖のせいで。
一人の夜。いつ殺されるかも分からない、戦場の夜。いや……ここは屋内だ。そんなはずはない。でも殺される。銃弾は魔法のようにどこからでもやってくる。
だから真っ暗な部屋の中で、両腕で自分を抱いて、恐怖に震えていた。
そんなとき、聞こえてきたのは。
……こつん、こつん。
また幻聴か――と最初は思った。
……こつん、こつん。
でも、それは確かな質量を持って、扉から発された音だった。間違いない。誰かが扉を叩いている。ユキだろうか? しかし、彼女ならすぐに出てくるはずだ。最初に音が鳴ってから三〇秒数えてみたが、誰も入ってくる気配がない。
……こつん、こつん。
潮時か。
覚悟を決めてベッドを降り、床をおそるおそる這って移動する。ほんのわずかたりとも音を立てぬよう、身体の震えを押し殺して進む。
ゆっくりと身体を寄せると、耳を扉に当てる。
その向こうには。
「聞こえますかー」
声だ。あの声だ。
「……アマネか!?」
「ひさしぶり、ってほどでもないね。私だよー」
知っている、聞き慣れた、けれども恋しかった声だった。
「いや、十分懐かしいよ。アマネ……恋しかったぐらいだ」
「それ、ユキちゃんに聞かせちゃダメだからね? でも嬉しいかも。えへへ。……話してもいい?」
「いいよ」
「もう、ユキちゃんから話は聞いたんだよね」
扉を一枚隔てた先に、アマネがいる。
でも、彼女は世界の果てのような遠くにいるみたいに感じられた。
「今まで見てきた村も、村人も、戦争後遺症からくる幻覚だった。そして、ユキはそれに合わせて、僕の世界を壊さないように、一〇年以上も生活してきた」
「そして、その幻の中には、わたくしマイエンジェルアマネちゃんも含まれるわけねー」
「……やっぱり、アマネは」
ユキが説明で濁した言葉。
その中身など、もう分かっていた。
「どうぞどうぞ。言っていいからね」
「とっくに、死んでいるんだろう?」
アマネは黙ったまましばらく答えなかった。扉の向こうからいなくなってしまったかと疑うほどに、時間が停止したような絶滅的な静寂が訪れた。
それが永遠だか数秒だか続いた。
「そうだね」とアマネは答えた。「私は死んだよ」
「もういない人の姿を見てしまうっていうのは、幻覚っていうか、記憶が戻ってくることに近いのかなー」
難しく言えばフラッシュバックというやつだろうか。
「ユーくんが見ている村人は、小さい頃に見たみんなが成長していたらこんなんだろうなー、というのを頭の中で想像した、って説明でいい?」
「じゃあ、やっぱりアマネも、僕が作り出した、生きていたらこうなっていただろうって、想像なのか」
「そういうことなんじゃない? どう、かわいい幼馴染だった?」
「自分が作ったやつ相手に言うのはなんか負けな気がする」
「あー、それフィクション差別! 存在しない女の子の気持ちを分かってない。まぁ……人のことは言えないか。えーと、ただですね、今までの登場人物で一人だけ特殊な人がいるんです。さてクエスチョン、それは誰でしょう? 1、キュートなアマネちゃん。2、クールなアマネちゃん。3、ハッピーなアマネちゃん」
「4、エセ外国人キャラって最近けっこう危ういよね、のクリスさん」
「また意味分かんないこと言ってるー」
ブラックユーモアはほどほどにして。
「まぁ消去法でクリスさんは特殊な人だけど、どのへんかを説明するのは難しいのです」
「なぬ? これ以上まだネタバレが?」
「それが、いま私が持っているアイテムに書いてあるよ」
その言葉とともに扉と床の隙間から紙のような何かが送られてきた。
封筒だった。
それは確かに、現実に存在していた。
「クリスさんから預かったお守りだよ」
「お守り……封筒じゃないのか……? そもそもアマネは幻覚のはずなのに……なんで」
アマネは僕の混乱を無視して言った。
「これからユーくんは選択をすることになるよ。問いは簡単。ユキちゃんと二人だけの、いつまでも繰り返す世界か、他の答えか」
……待て。
「他にも、選択肢があるっていうのか?」
「このお守りの中に書いてあるよ。優しいことに、クリスさんが残してくれたんだよー」
封筒を拾い上げてみた。感触から、薄いものが入っているようだけれど、それが紙なのかは分からないし、紙だと仮定しても当然、なにか書いてあるのかどうかなんて、判別できやしない。
「ユーくんがこれを開ければ、事態は大きく変わる。でも、今の、ユキちゃんと二人だけで過ごす世界は二度と戻ってこない――それを望むかどうかっていう話なんだけどね」
「望むって……こんな地獄を誰も望むはずがないじゃないか」
「ふーん? 本当にそう? ユーくんも男の子でしょ? 自分につきっきりのかわいいメイドさんのロボットがいて身の回りのことを全部やってくれて苦しくなったら甘やかしてくれる、二人だけの世界。見方によっては女の子がいっぱいいるよりすごいかもよ?」
なきにしもあらずと言いたくなってしまう主人公をラブコメの神よどうか許し給え!
「でも、それでもここは地獄だよ。僕は苦しいし、ユキのことがどれだけ好きでも、それを好きな自分は一ヶ月だけで消えてしまう。そしてまた一人芝居を始めて、壊れて……」
「ユキちゃんはどうかな?」
それは奇妙な質問だった。
「そりゃ、頭がおかしくなった僕に付き添わなきゃいけないんだから苦しいに決まっているだろ。それでも、まだ僕がよくなる可能性を捨ててないみたいだよ。健気なんてものじゃない。もはやマジ天使ってやつでしょ」
「へぇ。ユキちゃんやるじゃん。いやユーくんがダメ男すぎるのか……」
「なんかさらっと悪口を言われたんだが」
「これからめっちゃ恥ずかしいことを言います」
いくら佳境っぽいとはいえ急展開すぎないか?
「あのね。私がもしユキちゃんの立場だったら、私はユーくんと永遠に二人でいることを望んじゃうと思うな。だって、世界には他に誰もいないんだよ? 二四時間ずっとユーくんを独り占めできるんだよ? どれだけ支えるのが大変でも、依存したくはならない?」
ユキが、この世界を望んでいる?
「ユキちゃんだって女の子なんだよ。ちゃんと分かってあげなきゃ。すくなくとも今は恋をしてる。それも誰かさんが教えちゃったせいで」
まったくだぜ。
だけどアマネの指摘は鋭かった。
今まで僕はユキのことを考えてはこなかった。お互いにとって最悪の地獄だと思いこんでいた。でも――もしもそうではないとしたら?
ユキが、この世界の継続を望んでいるとしたら?
「たぶん、ユキちゃんは気づいていないと思うよ。まだこころみたいな何かひっかかりに気づいたばっかりだから。でも、無意識にこの状況を望んでいるんじゃないかと思うんだ。決定的なことを言うけど……じゃなかったら、ユーくんを、殺していたと思うよ」
「殺すって……」アマネらしからぬ物騒さ。「ロボットが人間に、しかも主人に危害を加えるのは……設計上、不可能だ」
「たとえ積極的に殺すのが不可能でも、今のユーくんの衰弱ぐあいなら、餓死させるぐらいは簡単にできると思うよ。もし主人が飢え死にしてしまっても、それはミスだってことにはならない? 今のユーくんを殺すのに自分から行動する必要は、もうないんだよ」
こいつ、こんなに頭よかったっけ? 僕の脳内で変なのと合体してないか?
でも筋が通っていなくはない。
学習によって、今のユキはガチガチに原則を守るロボットではない。しかし、ヒトを助け、少しでも苦痛を減らすという使命はまだ念頭にあるだろう。
そうして極端な結論を出したロボットなら、戦場のどこかで見たことがある気がする。
「だから、ユキは現状維持を望んでいるっていうのか……」
「あるいは、ね。だけどもっと大事なことがあるよ。ユキちゃんがこの世界を続けたがっていても、ユーくんだって受け入れるかを判断する権利はあるってこと」
僕の地獄を受け入れるか。
ユキの天国を、拒むのか。
「できれば、ユキちゃんに内緒で、見つからないうちに決めてほしい。ユキちゃんのことだから、バレたら一瞬で処分されちゃうかもだからね」
「……完全には理解していないけど。分かったよ。しっかりと考えるさ」
って、そこで間も悪く、触れるべきか迷う件に思い至りましたもので。
ま、言っちゃうね。
「……そういえばさ」
「はい、告白でございます。ユーくん。大好きでした」
短い間、また沈黙があった。遠い国の神話で、神様が世界を滅ぼす前に与えた三〇分間のような静けさだった。
「で、ダメか。……あーあ、過去形しかないのがひどいよねー。それも私がもう存在しないから、なんて理由でさ。はいはい、私はいつでも古い女なんですねー、まったくもう」
「ごめん、アマネ」
「ユーくんに教えましょう、無意味な謝罪は女の子には減点要素なのだ」
死ぬまでも、死んでからも、ずっと好きだったのだとアマネは言った。
「でも、ユーくんとまた出会えただけで、奇跡なのかもね。……これだけは確かに言えるよ。私はね、死ぬ直前の最後の瞬間まで、ユーくんのことが大好きだったよ。それを伝えられただけで、ま、いいのかなー。ユキちゃんに感謝だね。もちろん恋敵としては、むー、だけどね」
「やっぱり、過去形はやめてくれ」
その言葉が、口をついた。
「今のアマネも、僕を好きなんだ。こうやって話している、そこにいるアマネは、今も僕が好きなんだ」
「私はもういないよ」
「違う! いないけど、いるんだよ!」
我ながら意味不明な理屈だと呆れる。
でも、げんに、こうして喋っているアマネがいるじゃないか。亡霊でも幻覚でもいい。確かにいるんだ。それなのに、過去形でしか告白できないとか、そりゃないじゃんかよ。
ないじゃんかよ、マジのマジでさぁ。
「……それ、いい言葉だ。ありがと。じゃあ結婚してー」
「ごめん。幼馴染よりメイドを先に攻略したいんだよね」
「意味分かんないけどひどいこと言われた気がするよー」
ああ、やっとノリが戻ってきた感じ。
「じゃあさ、その考えを自分にも忘れないであげてね。……言い忘れてたけど、真実を知るっていうのは、自分自身に対しても大きなダメージを与えるの。それでも知りたいなら、ユーくんも無事ではいられないよ。その覚悟だけはちゃんとしておきなさい」
きっと封筒を開ければ、ユキも僕も、そのままではいられなくなる。
選ぶのだ。
……まったく、今度こそ、マジモンのセーブポイントやんか。
「じゃ、伝えたいことは伝えたんで、あとは任せるね。なんか最後まで負けちゃったな」
「大丈夫。いま話題の、負けてはいるんだけど輝いてるヒロインになってるから」
「もーっ、ユーくんの言うことは最後まで意味分かんないなぁ」
これでいい。
これが、僕らの別れなんだ。
「最後に不意打ちをして爪痕を残します」
「自分で言っちゃうんだそれ」
でも、それは本当に痛烈な一撃だった。
「……ユーくん、大好きです。ばいばい」
アマネは消えた。
当たり前だけど、やっぱり悩んだよね。
ユキがこの世界を望むのは、どうしようもなく悲しいけれど理解できることでもある。
それに、感情だけで判断するならば、僕だってユキの傍にいたい。
魂が午前三時の闇に永遠に陥ったように弱っているとき、自分を支えてくれて、すべてを捧げて尽くしてくれるパートナーがいたら、どれほど意志が強くても依存してしまいたくなるのがヒトの性ではないか。
ましてや、一三年間ずっと子供部屋没貴族病人男性をやっていたとしても、僕の精神年齢はまだ青年のまま針は動いていない。
そしてユキはかわいい女の子だ。
好きっす。
ラブです。
萌え萌え。
そんな相手と永遠に傍にいられるなら、どれほど苦しくとも同じぐらい幸せじゃない?
依存させてよ。苦しいよ。死にたいよ。戦争はなんで僕を殺してくれなかったんだ。理不尽だろ。せめて……報われたっていい。
最後ぐらい女の子に好きなだけ甘えまくって余生を過ごしても、罰は当たらなくない? それに相手だって望んでいるじゃないか……。
この緩慢な地獄にそんな情けない欲望を抱くほどに、僕は衰弱と荒廃を辿っていた。
僕が完全に発狂するまでが、アマネとクリスさんから託された決断までの猶予時間。それを僕は、無為に過ごし――ていたら、ここに僕はたどり着いていないのだ。
決定的な事件があったんだよ。
アマネが去り、ユキが戻ってきた頃、僕はまた発作に襲われてベッドの上でのたうち回り……というか、もう落ちて床から転がっていた。
駆けつけたユキは僕を必死に抱き締めた。すでに衰弱していたので激しく動く体力はなく、暴れなくて済んだが、震えは収まらなかった。
頭の中で砲撃の音や銃声が鳴り響き、そのたびに殺されると確信した。ここは建物の中なのに、そんなことは分かっているのに。
だけど、なによりもつらかったのは――
「ユキが、壊される……」
「大丈夫です。ユウ様、ユキは無事です」
どれだけ頭を撫でられても、恐怖は収まらない。
僕はユキを失う。そんな確信でいっぱいになる。
「……ユキ、どこにもいかないで。いなくならないで。ユキがいなくなったら……僕は」
ブツブツ呟く僕に、ユキは重い口を開くように「提案があります」と言った。
「……非常に申し出にくいことなのですが……ユウ様は、私が欲しいですか?」
「欲しい、って?」
「なんと言えばいいのか……。仕方ありません、単刀直入に言いましょう。つまり、私に対して、性愛的な欲望を抱くのか、という話です」
最初は、冗談を言っているのかと思った。
でも、ユキは本気だった。
「私がそれを満たすことで、すこしでもユウ様の不安が減るなら、選択肢になりえます」
「待て、なんだそれ、急に」
「ユウ様、これから話すことを真剣にお聞きくださいますか?」
戸惑って、空返事しかできない。
「私は幼少期からユウ様の養育および教育を任されてきました。ですがユウ様のために存在したのは私だけではありません。……信じがたいかもしれませんが、この村は、ユウ様を育てるために存在していました」
映画か、小説の話なのか?
「ユウ様はご自分が思っていらっしゃるよりもはるかに重要な人物の血を引いておられます。ただし非嫡出子でした。生まれた瞬間から、公に認められてはならない存在でした」
僕が、隠し子だって?
「ユウ様は実子であるという偽造の記録とともに、この家に預けられました。同時に、機密が露見することを防ぐため、幼少期をこの地で過ごすよう取り計らわれました。ユウ様の存在を抹消しなかったのは、スペア、つまり権力の空白が生まれた際に利用できるからです。……村はそのために利用され、改造されました。元いた住民は、多額の口止め料とともに計画への参加を強制させられ、村は厳しい監視下に置かれました。もっとも、ユウ様と同じように幼い子供は気づかないようにされていましたが、一定の年齢になった村人には暗黙の了解でした」
この村が、僕のためだけにあったっていうのか?
「しかし一生村に閉じ込めておくのは不自然ですし、裕福で家柄もあることにされたとはいえ公には一般人ですから、進学の際には都市に連れていくことになりました。もちろん常に監視はついて回っていましたよ。……そこで混乱があったのですが、どうやらユウ様の存在を抹消すべきだという一派が現れたようなのです。その姦計によってユウ様は徴兵されました。戦場では、誰が死んでも口なしでしょうから。私には止めることができず、大変申し訳ございません」
信じられるわけがない。
でも、クリスさんがあることを仄めかしていたことを思い出した。
まさか、知ってたのか?
「じゃあ、戦争が始まると同時に、村に軍隊がやってきたのは……」
「証拠を隠滅するため、ということになります。私だけが、記録かつ永続的なこの地の監視役の任務を受け、破壊されず残されました。それが、村をどうすることもできなかった私への永続的な罰だと、思っています。他の村の方々がどうなったのかは、言わなくてよろしいでしょうか。ロボットとして禁句であるのは承知ですが、どうしても言いたくありません。どうしてユウ様が、これ以上苦しむ必要があるでしょうか」
僕のせいなんだ、と思ってはいけないのだろう。
そう思わせるのを避けようと……ユキは必死になってくれている。
ユキも、村を救えなかった自分を責めているに決まっているのに。
「この真実は、ユウ様が生涯を終えるまでお伝えすることはないはずでした。私としても、大変心苦しいです。しかし、ここから先を話すのに必要であるため、説明いたしました。ここからが本題なのですが……」
「まだ呑み込めていないけど、さっきの……その、欲望の話が、関係あるのか?」
「はい」混乱の海の只中にいるのに、外界では静かな時間が流れていた。皮肉なものだ。「このような事実を私は既に知らされていました。その上で、気づかれないようにしつつも、万一に備えて、権力者に必要な教育を自然に行う――それが、私に課せられた真の仕事でした。そして……ここから先、急速に卑俗な話になることを、お許しください」
ユキはとんでもないことを口にした。
「ユウ様の教育プログラムには、『性的な節制』というのも含まれていました。つまり、適切に血を繋ぐ学習をすることです。そのために、私にはある機能が搭載され……」
「あー、いい。それ以上話さなくても」
もう、うんざりするほど理解できた。
「やめよう、この話は。僕たちの関係を壊すことになる」
「しかし! それで、ほんのすこしでもユウ様が安心できるなら……」
「ユキはさ、本当にそれでいいのか?」
……その答えは、言葉ではなかった。
ユキが、僕の唇に、同じ自分のそれを当てた。
あまりにも唐突なせいで、驚くことさえできなかった。
濡れていた。
そうしたら一瞬で、頭の中が真っ白になった。
気がついたら戦争の音が消えていた。
「私に体液は存在しませんが、無害な潤滑剤を口に含ませていただきました。衛生には配慮しております。人間の体温に近くなるまで加熱して、塗布しました」
「ユキ……」
「この先もできます。私は、それで構いません」
マジかよ。
ここは真面目なシーンだし、全年齢で省略される選択肢が来るとか言いませんよ。言ってるじゃん。
いや、分かっているのだよ。
ユキは確実に本気だ。だから僕が首を縦にさえ振ればそれは起きる。
それがユキを愛することなのかは正直怪しいところだ。あくまで僕の苦痛を減じるという目的だと主張しているから。
だから僕にとっても、この選択は恋愛というより依存にカテゴライズされるべきだろうか。
それはすなわち現状を、この地獄を受け入れるということでもある。
どうなのだろう? 快楽と依存によって苦痛を和らげる――そんな、対処療法というものは。
もちろん代償もある。最初に警告したように、僕とユキの幼少期から続く今までの関係は完全に崩壊ないし変質して、二度とは戻らなくなる。
人生をつうじて僕たちが築いた絆はすべて失われる。
快楽とそれによる新たな関係は、それを捨ててまで、代替以上のものになるだろうか?
……だが、そんなことはどうでもいいと欲望はいうかもしれない。
苦しい。
ユキに、いなくならないでほしい。
なんだか安易なエロゲ展開に負けたようだけれども、感情的に身を委ねてしまったって、よくはないかとも思ってしまう。
そうすれば。残りの時間は、ユキに盲目的に依存するだけの幸福なときになるだろう。
欲望というよりは、諦めのようなものが、僕を唆す。
もういいだろ。な?
頑張ったよお前は。
だから僕は答えた。
「ねぇ、初めて僕とユキが出会ったときのことを憶えているかい」
「……はい。正確に記録しております。ユウ様こそ、お忘れではなかったのですか?」
「僕の記憶障害は戦争の間だけなんだ。だからガキの頃のことは、しっかりと思い出せるよ。それどころか、ユキたちに接するにつれて、ますますはっきりしてきたぐらいだ」
ねぇ、憶えてる? と、問いかける。
「おぼろげな記憶だと、最初、ユキが怖くて仕方なかった。無表情で感情がなくて、何を考えているのか分からない。当然、信頼なんて全然できなかった」
「そうですね。ユウ様は母から半ば存在を放り出された直後でしたから、よけいに不安で、警戒を解くのに苦労した記憶があります」
「そう。でも、それが変わることがあった。……僕が熱を出して倒れたときだ」
夢で見た、僕の体温を移して撫でる、ユキ。
その始まりは――
「僕が寝こんでいるとき、怖い夢を見て。ほら、風邪ってそういうときあるじゃない? それで泣きじゃくってたら、ユキが頭を撫でてくれた。ものすごく不器用にだけど」
「……すみません、加減が分からなかったものですから」
「そうね、最初はビックリしたよ。しかも手は冷たいし」
ユキには熱暴走を防ぐための冷却装置こそあるが、人間の体温のように表面の温度を細かく調節する機能がない。だからとても手は冷たかった。
「でもね、熱いおでこに手がやってきたとき……ひんやりして気持ちよかった。それで、もっと触ってってねだっているうち、だんだん自分の熱がユキの手に移ったんだ。それから頭を撫でてもらったら……ものすごく、安心したんだ」
「それからは、お互いの体温を分け合って触れることが多かったですね。もっとも、あるときからユウ様は恥ずかしがってやめてしまいましたが……」
「それはごめん。でも、もう女の人だって意識が出てきていたから。寂しかったかな?」
「……はい。そうかもしれません」
「でも、今はこうやって抱き締めてもらっている。一人の体温を分け合って」
「それはユウ様の体温です。提案しましたように、私が身体を温めて、ユウ様の心身を満たすことができれば、より安心が」
「それじゃダメなんだ」
言葉を遮られて身体が硬直する。どうやら、ユキは驚きまで憶えたようだ。
「僕の体温をユキに移して、それでユキが温まって、その熱を僕がまた感じる。それで安心する。その関係がいいんだ。でもそこにそれ以上の意味を与えてしまったら……僕は、ユキから何か大事なものを奪ってしまうんじゃないだろうか」
「……でも、私は、それを」
「それでも、望むのかい?」
ユキは、するすると身体を僕からほどき、離れた。なるほど、これでフラグがひとつ折れたわけね。ところでフラグって死語だとは思わないかい? フロッピーディスクのマークみたいなもの? ああ、そういや。
ユキは僕を詰る。さて、甘んじて受け入れよう。どこからも、どこまでも。
「ユウ様って、ずるいです」
「それな」
「ユウ様は、最低な方です」
「それな」
返す言葉もないよ、もう。
ユキの中で起きている葛藤を、目の前に晒してしまったってわけだからね。
「もう二度と提案いたしません。後悔しても、知りませんから」
「ちょっと待った、ならもう一度考え直させてほしいっス……」
「そうやってまたふざけて! 頭がおかしいです!」
「ごもっともでございます」
「なんでこんな人を好きになったんですか、私は!」
……オイオイオイまったくねぇ。
言―っちゃった、言っちゃった。
ついに、ついにその一言が、このいつまでも続く目隠し鬼のような茶番を、あっけなく引き裂いたのだった。ロボットという定めもメイドという立場もすべて投げ捨てた暴挙。そして一気に流れるのは気まずさ。
「……ユウ様、こ、これは」
「ななな、なるほど。ウキウキ、キャッキャッ……」
瞬間、ユキは部屋から飛び出す。
「もうここから出しません」
扉の外から一方的に宣言。
「言ってしまったから、もういいです。ユウ様は、私のものになっていただきますから」
ここでヤンデレ展開かよ。
部屋。扉の外にユキ。どうやら最後の日まで僕を是が非でも離さないつもりみたいだ。
僕はどうしたものか。……まぁ、決まってるんですけどね。
ひみつ道具よろしく取り出したのはあの『お守り』の封筒。
その口を指で丁寧に封を切って、細心の注意を払って中からものを取り出す。中には折られた便箋。見たこともないマークが書いてある。なんの組織のものだろう。
開いた裏にはびっしり文字が書かれていたが、真っ白な表には、一文だけが、こう記されてあった。
『ゆきのゆめ.taleを、探せ』
そして一つの選択をした。
僕は扉をゆっくりと開けて、様子を伺った。
扉の前には、ユキが倒れていた。
休眠状態。
いや――眠っていると言おうね。
どうやら睡眠という行為まで学習して、ユキはついに眠落ちしてしまった。ロボットならありえないことだが、現在の彼女はすでにかなり人間に近づいているから、今まで僕を介抱してきたストレスと、さきほどの一件で心労が極限に達し、活動を停止してしまったと思われる。
これで機会を伺う手間は省けた。
ユキを抱き起こす。誇張表現でなく、ロボットという存在からするとそこまで重くはなかった。人間と同じ建物や道を動けるように、これほどまでの多機能にもかかわらず、フレームなどを軽量化することで、一定の重量に収めてあるのだ。
それでも衰弱した僕にとっては苦しかったけれど、重いなんて呟いて目を覚ましたらたまったものではないので紳士的に自重して、地下室に向かう。
そして、寝台にユキを寝かせると、機器をセットし、休眠状態の彼女に接続する。自己防御プログラムが起動しないよう細心の注意を払って行う。
起動したモニターの画面を見る。
そこはいわばユキの内臓のよう。
それを抉ることに罪深さを感じたけれど、それでも、やると決めたのだ。
まず、ユキが毎日記録して、僕に見せていたデータを見つける。しかしこのファイルが目的ではない。僕は別の扉を開かなくてはならない。
そこでクリスさんが残した『お守り』が役に立つ。
あの紙の裏に書かれた情報に従ってコマンドを入力すると、隠しフォルダが可視化された。けれども、先に進むことはできない。当然、鍵がかかっていたからだ。
そう、クリスさんから貰ったパスがなかったら、ね。
ここまでくると人の日記を盗み見るというより、脳を手術しているような気分だね。事実、ちょっと間違えたらユキに被害をもたらしてしまうかもしれない。慎重にやるのでご安心を。
隠しフォルダの中身を見る。
そこには『ゆきのゆめ.tale』というファイルがあった。『.tale』というのは拡張子で、この種類だと、ロボットそれ自身のみに必要なファイルにつけられるものだ。もうひとつ『繝ヲ繧ヲ縺輔∪.chr』ってファイルもあったけど、壊れているみたいなので触らないでおく。なんか、嫌な予感がした。
そこで僕はもう一度隠しファイルがないか確認する。
……お、あった。おそらくは、これはユキ本人に気づかないであろう場所に、秘匿されている。
ファイルは二つだ。
『アマネだよー.chr』
『クリスでーす.chr』
こいつら……。
それぞれ、こっそりと裏から『ゆきのゆめ.tale』と繋がっていた。
その中から、ひとつのファイルを選んで、開いた。
そして僕はこの『ゆきのゆめ.tale』を読んでいる。
こうして、現在に至るわけだ。
中身にはまったく驚いたよね。
だって、今まで僕が考えてきたことが全部モノローグの形で文章として書かれていたのだから。それも一言一句違わず。
『目を醒ましたら、葬式を挙げられていた。
比喩でなく、文字通り自分の葬式である。
眼が覚めて最初に見えたのは顔の位置に開けられた窓とそこから見える天井で、まもなく自分が閉じこめられているのに気づいてパニックになり、暴れてガンガンと手足で叩いたら蝶番ごと扉は吹き飛び、棺桶は壊れた。そして上半身を起こす僕』
その後も延々と(ユキの記録を読むところ含めて)今までのできごとがすべて文章化され、続いている。
小説のようだ。
そしてその文章は、僕が演劇のあと発狂して館を出てから、語り手がユキに変わる。
『取り乱したままユウ様が出て行ってから、まだ戻ってきていない。
彼はきっと村中を半狂乱で回って、人を探しているのだろう。いたたまれない。着の身着のままだから寒いだろう。仕えるものとしては、追いかけて保護するべきだろう。
しかし、こうしなければ。
自分の眼で確かめなければ、ユウ様は、この世界の真実を受け入れられない。
だから心苦しいが、すべてを受け入れて、戻ってくるまで待つしかないのだ。
ユウ様が、まだほんのわずかでも、正常であるうちに』
そして文章は、さきほどの、二人が決裂し、扉の外に出て行って僕を閉じこめようとしたユキが。眠るところで幕を閉じる。いまのところはだが。
おそらくユキが目覚めれば、また新しい記述が現在進行形で始まるだろう。
僕が今回の疑似ループで目覚める前の回のことは書かれていない。どうやら彼女は目覚めるたび無意識にこの文章をリアルタイムで更新し続け、統一性を維持しているらしい。
『お守り』を開けてからここに来るまでに、もちろんいろいろ考えた。
答えは、出た。
そして僕は――作業を始めた。
ユキのために。
僕らのために。
すべてに決着をつけるために。
ということで、ここからはもう一度、語り手をユキに譲り渡そうか。
お察しの通り、みんなごめん。
これ、メタフィクションだったっぽい。
僕のせいじゃないんです。怒らないで!
・7/19 10:03
ふと、気がつくと――そこは朝だった。私のいる世界は朝という状態にあった。それは極めて正常だ。だが異常をすぐ発見した。
……なぜか私は休眠状態に入っていた。
目を覚まして自分の置かれた状態を認識し、ただ驚愕した。
私は、ユウ様の寝台に寝かされていた。
……なぜだろう?
答えを探すように飛び起き部屋を一望するが、誰もいない。
ユウ様がいない。
頭の中が真っ白になる。どうして部屋を出たのだろう。またなにかの狂気か、それとも昨晩の私に愛想を尽かしたから? 自己嫌悪が水面に浮かぶ澱のように湧き出てくる。いや、そんなことしてる場合ではないのだ。
館のどこかにいるのか?
村に出てしまったのか?
それとも……そこからも離れて、山中に?
理性を失って、私はあてずっぽうで館中を探し回った。
でもいなかった。
ああ、私は見捨てられてしまったのか?
足下がすくんで、屋外に出て探す気力を失ってしまう。
途方に暮れて部屋に戻ると、唐突に気づいた。おそらく混乱のあまり見逃していたであろうものに。
ベッドの上に、紙が重しをつけられて乗っている。部屋に備え付けてあったメモの一部を破って置いたのだろう。誰がそれをしたのかは言うまでもない。
そして、そこには何かが書いてあるのもまた、言うまでもない。
躊躇った。
しかし、ユウ様を見つける手がかりになる手段はこれしかない、と判断した。
彼には前科がある。今度こそは遺書かもしれない、という覚悟をした。主人に仕えるならば、つねに最悪の可能性を考えなければならない。
それから私は、ゆっくりと手を伸ばし、四つ折りにされた開け、中を読んだ。
結論からいえば――それは、遺書ではなかった。
ユウ様が生きているのも、確実にはっきりした。
ただ、私には、選択が残された。
彼のもとに、向かうか。
それとも行かないのか。
結局――半日が過ぎてしまった。
私はあんなに大好きなユウ様のもとに向かうのを恐れていた。
きっと寒いだろう。一刻も早く身体を暖めてあげたい。抱きしめたい。私はここにいますから、と言ってあげたい。それがメイドの私がしたいことなのだ。そのはずなのに。
理由は分からないが……ただ、どうしようもなく悲しいことが起きる、気がする。
『墓地で待ってる』
でも、結局、私は書き置きに指定された場所に行った。
ひさしぶりに外に出た、と思った。
私がユウ様につきっきりでいたあいだも雪はずっと降り続いていたが、今日に入ってからはすこし弱まっているようだ。平らな雪の路を、私の足跡だけが引き裂いていく。
ユウ様、アマネ様、私。
きっと(ロボットの自分含め)幼かったあの私たちが今もいたら、これを見て、真っ白なキャンバスを与えられたように、いつまでも遊べたことだろう。
時間は凡庸な神秘だ、と図書室で読んだある本に書いてあった。
私は時間を恨むだろう。
けっして、それを奇跡だとは認めない。
墓地にたどり着いた私を、白い息を吐いた一人の男が出迎えた。
いた。
幻じゃない。
本当に、ユウ様がいた。
「ユウ様……ここにいらしたのですか!」
私は惨めな嘘をついた。
「朝から、ずっとユウ様を探しておりました。どうしていきなり出て行ってしまわれたんですか! お寒かったでしょう。ここにいては、凍死の危険があります。館に戻らなければ――」
「はいダウト。べろべろべろべろばーっ」
ユウ様は、奇妙にも正気なようだった。
私の嘘なんてあっけなく見破るぐらい。
「メイドさんがご主人様に嘘なんてよくないぞー、って、前は許したんだっけ。冗談冗談。実は、もう寒くないんだ。お腹もすかないし、覚醒ユウ様になったかもしれん」
「……またふざけるのはやめてください。今のユウ様は……とても健康に見えます」
「ユキの手を借りなくてもいいぐらいにはね。私が必要なくなっちゃう、って? ヤンデレ属性も悪くないね。ま、本当に共依存寸前だったから笑えない話だったけれども」
ユウ様の指摘は悔しいほど私を突いた。
どうして。
どうして、私の手から離れてしまうの?
「ごめんね。でも、これが僕の考える、最善の選択なんだ。これから、そのことを話す」
「おやめください!」
なりふり構わず、絶叫した自分に驚く。
「聞きたくありません。聞いたら……ユウ様がいなくなってしまう気がします」
「でも、本当に嫌ならここには来なかったはずだ。誘い受けというやつですか」
……そうだ。私は、来なくてよかった。
でもユウ様の元に向かうことを選んだ。
それも、私がもっとも嫌いな場所の――
「墓地に、ね」
「どうして嫌いだと分かったんですか……」
「村を回るって言ったとき、明らかに嫌がってたよね。なんでかなって思ってたんだけど、たぶんユキは理由を知らなかったと思う。なんとなく嫌だった――そうじゃない?」
そうだった。
私はこの場所を避けていた。
「それがなんでか、今から教えようじゃん」
ユウ様の手には、シャベル。
「さて、クイズ。墓標はないけれども、この下に何が埋まっているでしょうか?」
「……ユウ様が埋まるはずだった場所です」
「正解。実際、僕が最初に来たときは自分で埋めたんだ。無意識にそういう展開にすることで、僕……いや、ユキ自身がこの場所に注目するのを避けたかったんだ」
展開? 無意識……?
「そう、ユキがあの日埋めた何かから、目を逸らし続けるために。隠されたそれを見つけ出す手段を、クリスさんが教えてくれたんだ。たぶんどうしても忘れられず、この世界でも消せなかったんだね」
ざくり、とユウ様が雪の表面にシャベルを突き刺す。
「これでも戦争帰り、扱いには慣れてるもんだなぁ。じゃ、入れるねならぬ掘るね構文」
「ダメです! お願いだから……やめてください……」
「なんでー?」
「分かりません。でも嫌です。嫌なものが埋まっています! 嫌だ……」
「ユキ、めずらしくご主人様として真面目なことを言いましょうか。ここに来たなら、覚悟はしてきたと思うんだ。なら目を逸らしちゃダメだ」
嫌! 嫌だ!
でもユウ様の言葉には、悔しいほど説得力があった。
「桜の樹の下ならぬ、雪の下。何か聞いたことある語感ですね。ま、さっき掘り返してすぐ下に埋め直したから一瞬で出てくるけど。はいこれ」
地面から掘り出したのは、金属製の小さな箱だった。
「よっぽど嫌だったみたいで口が溶接されていたけど、こじあけちゃった。ごめんねー」
見たくない。
見たくない。
でも、容赦なく災厄の箱は開かれた。
その中には、四角の黒い物体がある。
それを見て、自分が封じ込めて忘れた、すべての情報が解放された。
「これが、僕の遺骨だよ」
ユウ様が残した唯一の遺産を私が受け取ったのは、どれほど昔のことだろう。
クリス、とだけ名乗ったその女性は、説明もせずに私にその物体を差し出した。まるで、すべて分かっているだろうと言わんばかりに。
それは当たっていた。
うすうす、気づいてはいた。ユウ様はもう二度と帰っては来ないのだと。ただ、引き渡されたそれを見たときに、私は何かが決定的に壊れてしまったようなのだ。
その記録媒体の中には、戦場で彼が経験した様々な記録が残されていた。おそらくはずっと監視されていたのだろう、プライバシーの欠片もない徹底した情報の塊だった。
その中には、彼が出征してから最後のときを迎えるまでの、すべてが込められていた。
墓標。
ユウ様は、戦死した。
「僕の正確な経歴は、二五年に戦闘用ロボットの整備士として召集され出征、二七年に死亡。戦争自体は二九年に終了したらしい。ユキが自分の中の記憶領域に隠した情報から、発見したよ。なるほど、僕のボケやメタ発言は二五年当初に都会で流行っていた文化ってことだ。僕が狂っているのを差し引いても、ユキが理解できなくて狂気に見えるのは当然かもね。オタクって言葉の意味分かる?」
「……ユウ様」
「まあそう睨まないで。そろそろ真面目な話をするから。……この真っ黒な記録媒体には、僕が戦場で見た、聞いた、生きて死んだすべてが刻まれている。戦没記録、ということになるね。戦争に行ってからずっと僕を待っていたユキは、これをクリスさんに渡されたんだろう?」
そうだ。そして私は。
「最後まではっきりとは書いていなかったけれど、クリスさんはおそらく諜報機関の一員だったのだろうね。村が無人となったあとも、機密を保持するためユキがいたんだろう? だとしたら、そういう立場の人間が会いに来たっておかしくない」
クリス様は姿を消す前に、ユウ様に手紙を残したという。
「彼女はユキに僕が死亡したことを伝えに来た、と書いていたよ。それでこの戦没記録を持ってきて、渡した。村はとっくに無人で、国も壊滅し、戦争の終結で機密保持役も不要になった。だから処分役として本当はユキを破壊する許可までもらっていたらしい。でも、ユキには正当な権利があると思ったから、ロボットを戦争で家族を失った家族のように扱って、僕の記録を与えることにしたんだ」
だけど。だけど私は。
「その事実を、受け入れられなかった……?」
「絶望的な現実に耐えられないのは人間だけじゃなかったんだね。その時点でユキは人間に接近した学習がなされたロボットだったのだろう。僕と暮らしてきたせいかもしれない。……ともかく、ユキは――戦没記録から僕の情報をインストールし、媒体を埋め、休眠状態に入った。で、それが今も続いている」
……休眠?
それが私の逃避だったというのか。
だけど、そこから先が分からない。だったらどうして、私たちは話していられるんだ? 私もエラーによって狂っていて、ユウ様の幻を見ているとでもいうのか?
「私が、今も休眠している……? ユウ様の前に、こうしているじゃないですか」
「……記憶媒体を渡されてから先のことは、まだ思い出せないんだね?」
「ええ。現在、私が記録を受け取ったところまでは確認しました。しかしそこから先は、欠落しています」
「やっぱりそうか。自分が休眠していると知ったら起動してしまうおそれがあるから、思い出しかけたときには、それを止めるプログラムまで作っていたんだよ」
「……混乱するばかりです。私が休眠しているならば、ここにいる私は誰なんですか? 死んでいるはずのユウ様が、どうしてここにいるんですか? この世界はいったい何なんですか!」
「落ち着いて。いや、まさかこっちが宥める側になるなって思ってなかったわね」
私のロボットとして異常な行動にも、ユウ様は優しく応じてくれる。だからこそ、この世界の謎が恐ろしくてたまらなかった。
「冷静に聞いてほしい。この世界は、ユキが創造した『ゆきのゆめ.tale』上で実行されている世界……いや、文字列というのが正確かな。つまり、ここはユキが作った虚構の中なんだよ」
私の世界。
雪と村と館、そしてユウ様。それが私の世界。私にとっての、世界のすべて。
その世界が、ファイルの中の虚構? それも……私が作った……?
「文字列といっても明確なストーリーがあるのだから、もはやユキが創作した物語とでも言うべきかもしれない。ユキは僕の死を受け入れないため、僕が生きて帰ってくる物語を生み出し、その中にユキ自身を閉じこめて、眠っているんだ。人間が夢を見ているときのようにね。『ゆきのゆめ』と名前をつけた、そのときのユキはセンスがあるよ」
「待ってください! それが本当ならこの私と喋っているユウ様はまさか……」
「そう。僕の死を記録した媒体から作り上げた、架空の人格。あるいは登場人物と言い換えてもいいね。まったく、アマネ……いくら覚悟しろって言ったって、まさか僕まで虚構だなんて、すっかり後輩にされちまったよ。ま、年下の先輩っていうシチュもありではあるのか?」
ユウ様はふざけているが、冷静に自分の状況を受け止めているように見える。
信じられなかった。
あなたは実在しない人間です、と宣告されたというのに……。どうしてそんなに、静かなんですか? どうして?
「都合のいい認識を与えたり展開を強制させることはできても、物語の登場人物にまったく自由がないわけではないんだけどね。その証拠が『.chr』ファイルの存在だ。これはロボット内で仮想的な人格のシミュレートを行うのに用いられるファイルにつく拡張子だ。僕の一人称はこいつが生み出していた。そしてついに、ここにいる僕にかりそめの自我まで与えた。……今になって思うが、僕がメタ発言をしまくっていたのは頭がおかしいから……に見せかけて、本当にこの世界が物語であるというメタ情報をプログラムミスでひそかに受け取っていたからだったりしないかね。ま、どっちにせよ僕はマトモじゃないですけどねー」
信じがたかったけれど、ユウ様が挙げたファイルの拡張子は確かにすべて私の内部で機能する種類のものだった。
「それを、ユウ様の戦没記録から私が作ったということなのですか……」
ユウ様は頷いて「その『.chr』ファイルを『ゆきのゆめ.tale』で実行しているのが、現在の僕だ」と答えた。「残念ながら、ファイルは壊れていたようだけどね」
「破損……? 私がユウ様を閉じこめて逃避するために作った世界のはずなのに、どうしてそのユウ様のファイルが壊れているんですか?」
「簡単なことだよ。僕の戦争後遺症を計算に入れてしまったんだ」
「それは……現実のユウ様の話じゃないんですか」
「その現実の素材を使ったんでしょ? 成長した僕を想像して生み出すには、ユキは進学までの僕しか見てないし、情報不足だ。だから戦没記録を参照せざるを得なかった。だけど僕が経験したのは、あまりにも凄絶な戦場だった。それを計算に入れてしまうから、どうしても頭のぶっ壊れた人間になってしまったのさ」
私は……虚構の物語の中でさえ、ユウ様を狂わせてしまうのか?
「それなら、そのせいでユウ様が永遠の繰り返しに入られてしまったのですか」
そこでユウ様は、急に、困っているように認識できる顔をした。
「実は、まことに申し上げにくいのですが……それは、ユキが望んだからだよ」
「私が? なぜそんな地獄を望んだのですか!?」
「僕を永遠にこの世界に閉じ込めておくためだろうね。独占欲。そんなもんさ」
独占欲? このロボットの私が? ユウ様に奉仕するために存在する、私が?
嫌だ。認めれば、私が壊れてしまう。壊れているのが明らかになってしまう。
だけど。
「だって、ユキはこの世界が好きなんでしょ?」
その問いかけは――容赦なく私を突き刺した。
「『ゆきのゆめ.tale』は戦争から戻ってきた僕を閉じこめて永遠に二人で暮らす、という夢をユキに見せるために存在する。したがって結末は僕の狂死であってはならない。この点、僕が壊れていたことは都合がよかったんだ。こうして、一ヶ月で記憶がすべて失われる主人公をヒロインが支えるという、疑似的なループを取り入れた泣きゲー展開が生まれた。これを繰り返し続けることで、ユキは僕を永遠に手に入れ、喪い、喪うことで手に入れる。……これが、現実を受け入れられないユキが、理想の世界に閉じこもるために用意した楽園」
私は、ユウ様を独占したかった?
私は、ユウ様を支配したかった?
「別に、どこぞの映画みたいにそれが悪い、現実に帰れ、って説教するつもりはないけどね。ただ、そのためにアマネやクリスさんを強制退場させるのは、ちょっといただけないかなー」
「……すみません」
「謝らなくていいさ。この夢の中にいるときは自覚できないんだし。ただね、ユキは見つけられないだろうけど、実は隠し『.chr』ファイルが二つあってね。それが誰と誰のことか、賢いユキちゃんなら分かる?」
「アマネ様とクリス様ですか……」
「そう。クリスさんは休眠している隙にユキの内部に入りこんで作ったらしい。アマネの方は、もともとアマネの人生からユキがこっそり作っていたファイルみたいだね。あれぐらいするんだから、きっとユキはアマネのことがよっぽど好きなんだろうと分かったよ。だからさ、謝るべきは僕じゃないでしょーが」
面目ない。私はなんて傲慢だったのだろう。
「ま、それはいいとして、ネタバレを続けよう。アマネとクリスさんはね、僕とユキが本当にこの結末でいいのか悩んだみたいなんだ。特に、僕に決定権がないのがよくないと思ったみたいで、いろいろ話し合ったって書いてあったよ。物語が記述しないところでは彼女たちは自由だからね。……そして、僕にヒントを与えた」
「それで、すべてを知ったと……」
「見返してみると無自覚に撒いた伏線がいっぱいあるんだけどね。そう、たとえば……」
そこでユウ様はある指摘をした。
「この世界が文字列の中だとすると、いっけん衒学じみた引用にもちゃんと意味があったことが分かる。……ほら、今までに登場した、不自然な他の本からの引用だよ。ダメだよーそんな軽いノリで気軽に引用ばっかりしちゃ。最近は悪気がなくてもすーぐ騒ぎになって回収とかになっちゃうんだから」
「それは、どういう」
「アマネと僕が読んだ本はJ・D・サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の村上春樹訳、ユキが僕に最初に読み聞かせた本はフィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の浅倉久志訳、二度目はフアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』の 杉山晃と 増田義郎訳。ついでにいうとクリスさんが選んだ劇の戯曲はアントン・チェーホフ『桜の園』。さすがに本の文章をそのまま改変するのはよくないと思ったのか、ここはオリジナルの台詞になっているけど、そつないもののさすがに文豪相手だと素人目にも精彩に欠ける。自分の独白のほうがよっぽど魅力的だよ。批評家になるつもりはないから気を悪くしないでほしいけどね。……ちなみにどの本もこの館の図書室に所蔵されている古典文学だ。ユキのログを改変する用事が済んでからすこし時間があったので探したけど、引用元から完全に同じ文章を見つけられたよ。いやはや、マジで大変だったよ。一瞬で盗作に気づく人たちってすごいねぇ」
嫌だ。もうやめて。
認めたくない……。
「これはこの記録、世界、物語――それを作るにあたって、出てくる本の中身をゼロから書くことができなかったからじゃないかな。ユキたちロボットの脳は入力された情報を学習して、出力する。だから、無から本の一部になる文章を生み出せなくて、図書室にあった本をそのまま使ってしまった……どうだい、これはクリスさんやアマネの助けを借りてない、一〇〇パーセント僕の推理だよ」
これで、明らかになった。
私は不出来な作者だった。不出来な創造主だった。不出来な神だった。どうしようもないほど、身勝手なロボットだったのだ。
「ごめんね」
唐突にユウ様が謝罪する。
「どうしてですか? なにもかも私のせいで、ユウ様が謝ることなんて一つもないのに」
「そうじゃない。いろいろあったとはいえ、僕を好きになってくれた上での行動だから、それは責めない。ありがとう。若干重いけど健気なメイドロボのヒロインに愛されて、僕は幸せな主人公だ。でも、これからのことを謝ったんだ」
風が、私たちを隔てる空隙をすり抜けていく。
「ユキとはもういられない。僕は、そう決めた」
静かに、判決を下すように、ユウ様は言った。
頭の中が真っ白になった。
「……そんな」
「ごめん。謝ることしかできないね。女の子は無意味な謝罪が嫌いってアマネが言ってたけど……守れそうにないや。こんなに身勝手な決断なんだから」
「どういうことですか……。ユウ様、ここから消えるってことですか!?」
「当たらずとも遠からずと言ったとこっすね。……ユキ、これから話すことをよく聞いてくれ、ご主人様としてもお願いだ。命令じゃないんだ、お願い」
ずるいよ。
ご主人様。
たとえ命令でなくとも、その言葉にあまりにも私は弱いのに。
「結論から言おう。ユキを夢から目覚めさせたい。この物語から、解放したい」
「……嫌だ、と言ったら」
「ごめん。ユキがここに来た時点で、もう手はずは整っているんだ。もし来なかったなら、様子を見ることにしていたけどね。でも、いまのユキなら――」
「できませんそんなの!」
私は初めて、ユウ様に怒りを感じた。
怒りを感じたことさえ初めてで、それが怒りと呼ばれるものなのに気づいた瞬間に、震えが止まらなくなった。怒るロボットなんて、もう――
「そういう反応ができるのが、何よりの証拠なんだよ」
「どこが……です、か?」
「自分がもう実在しない人間だと知ったとき、どうするか考えたんだ。本当にいろいろ考えたよ。もちろん最初はショックだったし、受け入れるのは苦しかった。でも、最後に残ったのは、虚構の僕が、実在するユキにできることはあるのか、ということだった」
ユウ様は、静かに語る。
「だけど、そこで気づいたんだ。僕はもう、ユキにできることしていたんだ。……ユキは、変わったよね。僕と出会って、疑似ループの中で何度も何度も関わるうち、どんどん機械的でなくなった。ヒューマニズム溢れる表現をすれば、人間らしくなった。そして……今回が、その極点を超える回だったんだね」
「違う! エラーなんです!」
「自分でも分かっているはずだよ。記録を通して見てきたじゃないか。そしてついに、恋心にさえ自覚してしまったんだし」
恋。
「私は、私は、ユウ様が……」
「さぁ、言えば楽になるぞよ」
「嫌い! 嫌いです! 大嫌い!」
「えっちょっと傷ついたんだけど」
「好きって言ったら……たぶん、いなくなってしまう……つもりでしょう……」
「さすがだな、小賢しいロボ娘よ」
そしてユウ様は、最低最悪なことを言った。
「ちなみに僕は好きだ。愛してる」
「……っ!」
「最初からずっと、好きだったよ。きっとループする前の僕もずっと好きだっただろう。ただ、そのときはまだユキが答えてくれるほど、人間の学習が進んでいなかった。クリスさんとアマネが何回介入したかは分からないけれど、もし真実に気づいたときがあっても、次の僕にバトンを渡すことにしたのだろうね。そしてそのアンカーが、この僕だよ」
私の物語は。
「この物語は、クールなメイドロボが、ヒトのこころを知ってデレていくという王道のラブコメ。そういう陳腐な話にしようじゃないか」
悔しかった。
私は最初からかつがれていて、この物語は、私が人間に触れていき、学習の末に人間らしい何かに目覚めさせるために動いていたのだ。
私はただユウ様が欲しかっただけなのに。
「どうして恋をさせておいて、勝手に逃げるんですか!」
「いや、それは主人公の僕もすまんと思ってる。人気投票をしたら僕が最下位か荒らし目的で不正投票されて一位かのどっちかだろうね。ま、甘んじて受け入れましょう」
「こんなに頭のおかしい人でも、私はユウ様が……私のご主人様が、大好きなのに……」
「僕たちは悲恋だったんだ。しゃーないよ」
ユウ様は死んでいる。
ユウ様は壊れている。
ユウ様は狂っている。
でも、それでも、大好きなのに、夢の中だけでいいのに、そんなささやかな願いさえ、許されないというのか?
「今のユキは、もう人間と変わらない。嬉しいよ。誤解されたくないけど、人間に近づいたことが成功じゃないんだ。ユキが変わること、変わろうと思い始めたこと……それを、エラーやバグではないかと気に病む必要はないと、ずっと思ってきた。変化を応援したかった。それが果たされたと思うから、手を放すんだよ」
「私が変わること……」
「変わらなかったら、僕のことを好きだって、告白できなかっただろう?」
……ああ!
なんて酷い人だろうか。
最低だ。最低だ。最低。
「……いちおう訊きますが、どうやって物語から私を追い出すつもりですか。私は自分からここから出て行くつもりはありません。絶対」
「追い出すって……とんだ悪者にされちゃったなぁ。まぁ、このままだとオタクが嫌いな物語展開になっちゃうからそりゃそうか。あ、今の発作ね。……えーっと、実はこの物語には空白があるんです。さて、どこでしょうか」
「……分かりません。分かりたく、ありません」
「答えは、僕とユキの再会の瞬間。それをこの物語はまだ記していない。だからそれが唯一の脱出口になるのだ」
彼がなにをしたのか。
もう、分かった。
「僕はここから先の展開を先回りして、結末を加筆したんだ。そして、もしユキが僕の呼び出しに従って墓地に来たなら、自動的に『ゆきのゆめ.tale』の本文にコピーされるようにした。それは、もう発動するところだ」
ユウ様の言葉どおり、異変が起きている。
彼の姿が、透け始めている。
それは足から徐々に始まり、ゆっくりと下から身体を侵食していく。
「僕のご都合主義によりいきなり奇跡が起きて時間が遡り、これから、ユキが僕を見つけるシーンが始まる。そして、すべての最初の起点であるその再会の場所で、自分の『.chr』ファイルを削除するようプログラムを組んだ。僕は消えるよ。存在するかぎり狂い続けてしまうし、もう疲れたからね。そうすることで、この『ゆきのゆめ.tale』という物語の成立条件そのものが崩壊する。そしてその出口から、ユキはここを立ち去るのだ――完」
私はもうユウ様をを詰ることさえしない。
ただ、身体を抱き締めた。
それはしっかりと質量を持っていた。フィクションなんて、キャラクターなんて、虚構なんて嘘だ。彼はいる。確かにいる。世界中で私以外の全員が何と言おうと、彼はいる。信じる。
「それを、結末にしようじゃないか」
「許しません。ユウ様は、館に連れて帰ります。お寒いでしょうから、身体を温めてあげないといけません」
「そうだね。温かい飲み物を頼むよ」
ユウ様を無理矢理におぶる。まだ一部しか消えていないから、背負うことができた。機械の身体は便利だ。
「あの頃、ユウ様は遠くまで出かけては、よく迷子になりました。探す役を任されたのはいつも私でした。GPSや高性能のレンズや高感度のセンサーを持つ私は、ユウ様を簡単に、見つけました」
「途中からかくれんぼになったよね。どこに隠れれば見つからないか頭を捻ったものさ」
「わざとやっていたんですか?」
「あ、失言。ごめーんごめーん」
「……ずっと、そういう人なんですから。……私は高性能なんです。館の位置だってすぐ分かります。また、ユウ様との生活が始まるんです。ずっと二人の世界が」
「えっちいアレについては、その、おてやわらかに頼む。いい歳っぽいし」
戯言は無視する。
私は……必ず、ユウ様を館に戻す。
そうすれば、すべて元通りになる。
歩いた。
もうすこしで……館にたどり着く。
背中に乗った重さ。その確かさだけが、私を動かしていた。
ユウ様は相変わらず、常軌を逸したことばかり言っていた。
センサーからどんどん熱反応が消えていく。人間が幽霊になっていくのをリアルタイムで感じているようだった。
誰ひとり生きていない。
ユウ様は生きていない。
自分も、生きていない。
なら生きているってなんだろう? 人間ってなんだろう? ロボットってなんだろう? 虚構ってなんだろう? 現実ってなんだろう? 分からない。
それでも私は、歩く。一歩一歩、この世界は本物なんだと言い聞かせて足を踏み出し、雪を踏みしめて……進む。
あとすこしで。
もうすこしで。
館に辿り着く。
そうすれば……すべては元通りだ。
もう私はこの世界が『ゆきのゆめ.tale』であることを知っている。だからいざとなれば私がまた内容を書き換えればいい。ユウ様と二人だけの世界でもいいし、アマネ様やクリス様を呼んで賑やかな話にするのもいい。まだ作家として不出来な私だけれど、きっと学習して成長すればどんな世界だって作れるはずだ。
だから館に帰って、結末を書き換えて、ユウ様を止めれば。
――そして、辿り着いた。
そこは私が倒れていたユウ様を最初に見つけた場所だった。
(僕が書きました。生産地表示)
館に向かっていたはずなのに。
測量は正確だったはずなのに。
「そんな……どうしてです……」
「ほら、言ったとおり、最初のシーンに来たでしょ? ……さて、時間はいつだい」
言われるまま時刻を確認する。
7/19 23:56。
そうか、そんな時間なのか。
何時間歩いたのだろう。辺りはとっくに真っ暗になっていた。ただ月明かりだけが撫でるように雪原を照らしている。
すでに、私の背から重量はほとんど検出されなくなっていた。
「もう、下ろしてくれ。さすがにちょっと疲れた」
「……そうしたら……ユウ様は」
「じゃあ、命令」
ユウ様を投げ落とした。
「ちょっ! いい感じに泣きモードに入ってきたんだから空気読んでよー」
「仕返しです。どうせ、痛くはないんでしょう?」
「まぁ、自分が虚構の人間って気づいてからはね」
雪面に転がっているユウ様を見て、私は、自分の悪あがきが失敗したのを悟った。もう、身体の半分以上が消えている。具体的には、胸部から顔までの下、四肢と下半身が、すでにすべて消えていた。
吸い寄せられるみたいに、ふらふらと近寄った。
そして――なぜかは分からないが、私は座り、彼の頭を膝の上に乗せた。
「ああ、懐かしい。前に、屋根から落ちたときも思ったけど」
「……こうして、よく頭を撫でていたのでしたね」
「最後に、もう一度やってくれる?」
手を伸ばして、無言で頭に触れる。
「冷たいなぁ」
「ユウ様が温めてください」
「いや僕も冷たくなってきてますし」
撫でる。あの頃のように、撫でる。
時間が遡っていくような、不思議な感覚があった。身体が浮いて、もうひとつ増えた次元に連れていかれ、その縁をなぞっているような。
「――来たか。もう一度、時間を確認してみて」
言われたとおりにする。
7/19 23:59。
あと数秒で日付が変わる。そこでユウ様は完全に壊れ、記憶をすべて失うところ――
数字が変わる。
6/20 00:00。
〇日目
時間が――巻き戻った。
「どう? 奇跡ってやつだよ。泣けるかい? この夏はユキ泣きー。ちなみに僕はここで二行前の一文しか書いていないんでユキが自由に喋っていいよ。お任せします」
得意気にユウ様は誇る。
……ご都合主義の奇跡。
ユウ様が『ゆきのゆめ.tale』の末尾に加筆して起こしただけの、偽りの奇跡。
ふざけるな。
こんな結末なんて、認められない。
けれども、もう打つ手はなかった。
「恨みます。絶対に許しません。私にとって触れられないほどかけがえのなかった、もう一度再会する奇跡を、それさえも奪ったんですから」
「ごめんねー」
これで、ユウ様が消えて、今までの物語も全部消えて、私が目覚める。誰もいない、とうに終わった世界で目覚める。それで物語は終わり。
受け入れよう。
私の、負けだ。
「ユウ様は……私を、ひとりぼっちにするんですね」
「そんなことはないよ」
泣き言を言ってやったつもりだったが、ユウ様は真剣に答えた。
「ユキのいる世界から人類が滅んだわけじゃないよ。この村から出るのも悪くないと思う。もちろん責任を感じているのは分かっているけれど、いい加減ユキ一人の責任から誰か解放してあげてもいいと思うんだ。……実際、クリスさんはそれを期待して戦没記録を渡しに来てくれたと書いてたんだよ。逆効果になってしまった、って反省してたけどね」
「……私は、許されていいのでしょうか」
「それを判断する力は、与えたと思うよ」
ユウ様たちからもらったもの。育てたもの。それをどう使えばいいか、まだ私は分かっていない。目覚めたら、学んでいかなければならないのか。
「もう一つ、質問します。……私がこの世界を作ったことは、私が物語を紡いだのは、現実から目を逸らす逃避と好きな人を支配したい独占欲のためにあった、無意味なものでしたか?」
「違うよ。……絶対に、違う」
ユウ様は断言して微笑んだ。
「これは、ユキの夢だ。人間は目覚めているときの記憶から夢を作る。夢の中では誰でも作家なんだ。ユキも、記憶と記録から夢を、物語を作った。ユキが見てきたもの、喪われたもの、それでも残したかったもの、あったかもしれなかったこと。それを集めて物語を作った。僕。アマネ。村。かつてあったものにまだあってほしいと願って、瓶のなかに閉じ込めた世界。もちろん永遠に動かないからちょっとグロテスクかもしれないけれど……それは本物だ。誰が何と言おうと、本物だって誇ってほしい」
物語は完結する。
でも、私から消去されるわけではない、とユウ様は伝えた。
彼は『ゆきのゆめ.tale』を残した。
「……あ、いいこと思いついたぞ!」
「嫌な予感しかしません」
「聞きなって。ユキもクリスさんみたいにさ、旅芸人みたいなのやりなよ。いや、役者じゃなくて詩人でも小説家でもいいからさ、街から街へ、村から村へ旅して、それで物語を伝えて歩くのはどう? そうしたら、ひとりぼっちじゃなくなるよ。ひょっとしたら、世界中の人と友達になれるかもしれないよ」
……ちょっと、興味を惹く提案だった。
「私にできるでしょうか」
「応援してる。なにしろ最高の物語をもうあげたからね。……いや、一緒に作ったから」
私の物語。
私の物語が終わろうとしている。
眼が覚めたら、現実が始まる。そこはきっと厳しい場所だ。ユウ様がそれを知らないはずがない。それでも、物語があれば生きていけるのだ、と背中を押している。そして、私が持っている物語はすばらしい傑作だと。
「今になって手の平を返しますけど、私、この話は好きかもしれません」
「僕も僕もー。感想戦、やろうぜ」
悲しいけど、好きかもしれない。
なんだか無性に泣きたい気分だ。
ひとは物語に、幸せになるだけでなく、悲しくなることも求めているのかもしれない。
ああ――泣けたらいいのに。
泣く機能がありさえすれば。
そんなときに、急にはらはらと雪が降り始めた。
月に照らされて、空から羽根が降ってくるような、美しい景色だった。
雪が私の身体に積もりだす。
寒いかな、と思って下を向いたら、彼はもう目を瞑って、眠っていた。
「ゆき……すきだ……」
あ。
「でもごめん、ちょっとたいりょくがもたん……」
寝言か。
あの頃のようにもういちど撫でようとして、自分の手に落ちた雪が、すこしだけ溶け始めているのに気づいた。
そうだ、ロボットの私も、熱を持つ存在だった。
彼を温めるには、すこし温度が足りないけれど。
雪が手のひらに溶けて、すこしだけ、たまった。
その水を私は、目のふちに当てて、流してみた。
これが涙。
私の、涙。
――物語は閉幕した。
了