『エヴェレット・ジャンキーガール』

「人生はたった一回のトリップで、なにもかもが重いんだよ」
フィリップ・K・ディックスキャナー・ダークリー

 

 

1

 朝の屋上は嫌いではなかった。
 朝露が空気と一緒に肺に吸い込まれる感覚は心地よい。ぼちぼち梅雨入りするだろうが、今年はまだジメジメとしてはいない。
 ただ、赤みがかった陽の明かりは嫌いだった。日光を浴びるのが心身によいという健康法があるが、俺は逆に穏やかな光を浴びると訳もなく空しくなるし、死にたくなる。
 でも今はいい。その方が自分がやりたいことに好都合なのだ。
 人目を気にしながらゆっくりと縁の方に向かう。うちの屋上はそもそも人が入るように設計されていないので、フェンスはない。
 ときどき死にたくなると、誰もいない屋上に来てぼーっとする。そうすると不思議と穏やかで、自分が空っぽになったような、あるいは既に空っぽであることを確認するような、そんな心地よさがある。
 落ちたことはないから、それこそこれが俺の健康法なのかもしれない。
「またやってる」
 後ろから投げかけられた言葉に、またかと思った。呆れと好奇の混じった野次馬がやってきたらしい。
「なんですか」
「ああ、やっぱりキミだったのか。安心」
「他の誰がいるんですか。こんなことする人間が大勢いたら困りますよ」
「こんな清々しい朝なのに何してるんだ、まったく」
「高いところが好きで」と適当に答える。「突然声を掛けて、落ちないか考えないんですか」
「『ベルリン・天使の詩ごっこ
 この人に倫理観はない。俺がもし本当に死んでもシラを切るだろう。
「戻ってきなさい。もう化学準備室、閉めるから閉じ込められちゃうよ」
「ああ、そうでしたね……」
 彼女は化学部の部長だ。
 屋上には通常の方法では上がれないのだが、設計ミスなのか、化学準備室の窓から強引に入ることができる。一時は通行税というあくどい商法を試みた化学部員もいたようだが、彼女は自称・良識派なため「見学」という名目で勝手に生徒を受け入れている。が、今では人気自体がないので人が全然来ない、と彼女は最近身勝手に嘆く。こんな惨めな場所が愛されているのは創作物だけなのだ。
 そんな部長は俺のことが気に入っているらしく、度々ちょっかいをかけられる。
 彼女の方を見ると、口元からは白い棒状のものが飛び出ている。
「これ吸う?」
 手渡されたのは棒付きのキャンディーだった。
「またアニメごっこですか」
「ほらー、またそうやって。屋上に上がって棒切れを咥えたくない高校生はいません」
 ちなみに彼女、確か三年生でトップ3だかの成績保持者である。アウトローを気取りたいが根は超真面目なので踏み外せない、腕力もないくせに破天荒でいたがるようなタイプだろう。言わないけれど。
「ほら、もう閉めちゃうよ。それとも先輩と二人だけでサボっちゃう?」
「無遅刻無欠席でしたよね」
「健康優良児なのだ」
 てへっ、と己の頭を叩く部長を見て、よし帰ろうと思ったときのことだった。
「あのさ、変なこと訊くけど」
 珍しく彼女は真剣な表情と声音で言う。
「変な薬とかの話、小耳に挟んだことってないよね」
「ここ、郊外の平凡な学び舎ですよ」
「いや、知らないならいいんだ。忘れて」
 怪訝な顔を「知らない」の同義語と察したのか、それ以上部長は何も言わなかった。
 なんとなく不穏なものを感じたが、どうせ彼女の気まぐれだろう。そろそろ戻らなければいけない。そう思って、縁から離れようとしたとき――
 誰かに見られているような、そんな感覚がした。

 

 何か、胸騒ぎがする。

 

2

 翌日、その予感は現実になる。

 

 電車で見知らぬ人と知り合うなんて、創作物の中でしかありえないことだ。
 移動手段に乗っている人間たちはみんな急いでいるし、その文脈から脱線して誰かと接点を持とうとする人は、犯罪者か危険人物ということになるだろう。
 こんなにも大勢の人がごった返しているのに誰の名前も知ることはない。
 そう考えると少しめまいがして、自分自身の名前も不確かで消えていくような気がする。

 

 けれど今日は違った。
 いつも乗っている最後尾の車両の前方、向かい側のドアの傍に立っている人物の視線を感じる。心なしか今日は人が少ない気がするので、気がついたのかもしれない。
 女子高生だ。
 制服で分かるが、彼女は同じ高校の生徒だった。我が校はリボンやネクタイの色が違う(一年が赤、二年が水色、三年が黄緑。信号機のようで笑える)ので、彼女が自分と同じ二年であることは一目見て分かる。
 彼女個人の印象は、人懐っこそうという感じだ。顔立ちは幼く、背丈と相まって中学生でもギリギリ通るのではないか。肩ほどで切り揃えられた髪は茶色く、朝の陽光で先が透けている。英単語帳を開いていたがまったく読んでおらず、俺をちらちらと見ている。
 何か俺におかしいところでもあるのか? と訝しんだが思い当たる節はない。制服はちゃんと来ているし寝癖もない。挙動不審だということも……たぶんない。だろう。
 列車が鉄橋にさしかかった頃、困惑は軽い苛立ちに変わった。
 他の生徒を避けるために一番ホームの階段から離れた車両に乗っているから、乗客はほとんどいない。
 何だってんだ? 俺のどこがそんなにおかしいんだ? 言ってみろよ。
 人目もないことだし、映画の台詞のようにそう言ってやろうかと妄想したが、サリンジャーの短編にエレベーターで乗り合わせた人に被害妄想でいちゃもんをつける登場人物がいたのを思い出してやめた。そいつは最終的に銃で頭をぶち抜いて死んだんだった。
 冷戦が破れたのは、最寄りのひとつ前の駅に着く直前。
 残念ながらここでどっと人が入ってくる。サラリーマンや他校の生徒もいるし、私立の中学生も混じっている。カオスだ。毎朝耐えるしかないゾーン。
 いたたまれなくなって仕方なく声をかける。
「そこにいると出られなくなるぞ」
 彼女は文字通りにきょとん、と表現したくなる顔をしたが数秒してやっと音に乗った言葉の意味まで追いついたのか「……あ、そういうことか」と手を叩いて「ありがと!」と笑い、こちらの近くまで移動した。
 駅に着くと果たして俺の言う通り人の塊が殺到してくる。もし先ほどの場所にいたら彼女は圧し潰されていただろう。
「助かった。いつも忘れちゃうんだ。ナイス」
 俺と向かい合う格好になった彼女が話しかけてくる。顔がちょっと近くて怖い。
「毎朝乗ってるのに、ってこと?」
 ですか、と語尾につけようかと思ったが、相手の声音で判断してやめる。
「ここが特等席なんだよね」
「何の?」
「さて、何でしょう」
 そう言って謎かけを出したようににやつく顔が癪だったから何も答えないでいると、今度は「ねぇ、キミさ」と言い出す。「私のこと、知ってる?」
 一定の間隔で車両が揺れる。彼女の顔をちゃんと見てみるが、記憶にない。
「知らないけど」
「ふーん。そうだよね。そうだよね」
 そう勝手に独り合点される。「このキミは知らないだろうね」
 この? どういう意味だよ。
 コミュニケーションが成立していない。向こうが一方的に言葉を撃ち込んだ後に頷いている。会話のドッジボールでさえない。一方的な狙撃だ。
 さらに彼女は「当ててあげよっか」と唐突に言った。
「は? あのさ、さっきから何――」
「キミの名前」
 そのまま顔が近づいてくる。息づかいと空気中に放散されている体温を感じる。
「福宮高校二年のD組、山田リュウくん」
 耳元で囁かれた。
 粘ついた舌の音が一瞬だけ鼓膜に残ったが、まもなくすれ違う快速の爆音で掻き消される。
「おい……何で知ってるんだよ」
 最初に感じていた怒りは困惑に変わり、今では恐怖になりつつある。彼女は俺のそんな様子が楽しくて仕方がないのだろう、なおさら笑う。
「お前は誰だ」
「仕事が嫌になり、制服のコスプレをして電車に乗るのが趣味になってしまった新卒のOL」
「は?」
「……かもしれない」
 唖然とする俺が愉快で仕方ないというように、彼女は声を弾ませる。
「それとも夜な夜な魔物と戦う少女で、退治したけれど手ごわかったせいで朝帰りで寝不足」
 かもしれない。
「または攻略不可だがコンシューマー版で個別ルートが実装される人気投票七位のヒロイン」
 かもしれない。
「でもやっぱり電車で毎朝乗り合わせるだけの、平凡で誰も気にかけない、ただの女子高生」
 かもしれない。そう彼女は繰り返した。
 その言葉と同時に、電車が緩やかにスピードを落とす。少し平静を取り戻して、極限まで丁重に「いい加減にしてくれないか」と言おうとしたところで、彼女は再び顔を近づけて。
「でもね、確実なことは一つあるよ。それは――」
 言った。

 

「キミは私に愛されてるってことだよ、リュウくん」

 

 瞬間にドアが開き、どっと人が溢れホームまで押し出されて、彼女の姿を見失ってしまう。
 すべて夢か幻覚だったのではないか。そう思って頬を撫でる。
 何か巨大なものがやってきて、処理するのに時間がかかっている感じだった。
 俺はただ、昨日の雨で水たまりを作ったプラットホームが水色に光っているのを、しばらくぼんやりと見つめていた。

 

3

 海のない県の見るべきところのない日本中の郊外のひとつ、都会でも田舎でもなく、両者から侮蔑または無視を受ける緩衝地帯。
 その灰色の団地で生まれ育ち、狭く遊具のない公園で遊んで……いや、ゲームや漫画や動画サイトで育った中流家庭の少年少女たちが、川沿いの私立高校に通っている。
 高校受験では滑り止めによく使われていることぐらいしか入学前の俺は知らなかったが、今も知っているとはいいがたい。
 中学時代、誰でも高校はどんな場所だろうと想像する。当時は高校生が大人のように見えたし、創作物の中での高校はよかれ悪かれ興味をそそられる描き方をされていた。凡庸な中学生だったので、スクールカーストは本当にあるのかとビクビクしていた。
 実際はどうか。それはよく分からない。
 正直なところそういった概念ははっきり見えなかった。見た感じでは、誰もが平凡に学校生活を送っている。そして自分も、漠然と死にたいと思いつつも、それなりに馴染んではいる。
 はっきりした友人はいないが、誘われれば会話の輪に加われるし、それは誘われる程度には信頼関係を置かれているとうことでもある。発言したことはないしやかましいので通知を切って気が向いたときにしか見ないが、クラスのSNSグループに入ってもいた。
 深入りはしない。けれど孤立もしていない。
 そうやってうまく立ち回る技術を身につけている。本当はクラスメイトの顔や名前さえ覚えておくのも面倒だけれど、社交性というのは一度身につけてしまえば割と自動的なものかもしれない。でも、そういった考えが見え透いているから、決定的に誰かと親密になれないのだろう。
 楽しいかと言われれば、まったく楽しくない。何も感じない。そして今も、死にたいと思っている。

 

 昼休みはもう始まっていて、食堂は人で溢れ購買のパンにはとっくに列ができているが何も食べないことにしたのでどうでもいい。
 梅雨が明けてほしくなってくるこの頃、ちっとも空腹にならない。もし脳がバグっていて本当はエネルギー不足なのに腹が空かなかったら唐突に餓死するのだろうか。そんなくだらない想像に身を任せてみる。
 授業中、電車での出来事について少し考えてみた。彼女は何が狙いだったのか。でも自分にはいい推理などできようもない。
 ぼんやりして、焦点の定まらない目でずっとクラスの喧騒を見つめている。きっとまだ幻を引きずっているのだろう。寝ぼけたまま、机に突っ伏す。
「もしもーし。応答せよ」
 誰かの声がする。自意識の展開を一時中止して眼を開くと、鼻がくっつきそうなくらい近くに女の子の顔がある。
「山田係長、午後からお眠ですか。いい御身分ですなぁ」
 彼女は人差し指でからかうように俺の頬をぷにぷにと押す。迷惑だったが止めるほどではなかったのでそのままにして、片手で目を擦る。
 顔を五秒ほど見てようやく、彼女が誰だか脳から情報を引き出せる。
「電車で、……見た」
 そうだ。あの女の子だ。
 呼び方が分からないのと再びの困惑で言葉に詰まっていると、「ああ、名前知らないんだっけ」と彼女も思い至ったらしい。
「とりあえずリリって呼んで。……変だなぁ。いまさら挨拶するなんて」
 また、そういうことを言う。
「だから、なんで俺のことを知った風に言うんだよ」
 さっきは動揺していたのでされるがままだったが、ようやく疑問をぶつけることができた。
「だから、自由に想像していいよ。一〇〇パーセントの彼女でも宇宙の待ち合わせ室で会ったのでも、ずっと前から探していた気がしても」
「黙れ」
 媚びた声に反射的に返してしまったが、後悔する必要はないと判断した。どうやらこっちも遠慮しないでいいらしい。
「性質の悪い悪戯はやめろ。殴りたくなる」
デートDV! 鬼畜! でもときどき殴られるけど本当はリュウくん優しいって知ってるよ。月一でファミレス連れてってくれるし」
「黙れつってんだろ」
 声を荒げたことで周囲の注目を集めてしまう。いや、というかクラスメイトならさすがに知ってるはずなのでつまるところ恐らく彼女は別のクラスで、なのにわざわざここまで来ていれば目立つのは当然なのだ。案の定、近くの女子グループがこちらを見てひそひそと話し始めている。
「なんで俺に関わるんだ」
「えーっと、まぁ正直全部気まぐれなんだけど。ここまで関わったからには、ここでのリュウくんにも教えてあげることにしようかな」
 ここで?
 そこで思い出す。そういえば電車でもこいつは変な言い回しをしていた。まさかヤバい人間に絡まれているんじゃないだろうな、と身構える。
「休み時間、まだあるね。じゃ、行こっか」
 そう言って彼女は俺の手を握り、引っ張る。勢いで立ち上がってしまうと、そのまま引っ張られていく。
「おい、どこに連れてくつもりだ」
「ここではないところ」
 先導する彼女――リリは、そう言ってにっと笑った。

 

 ここではないどこかとは、どこか?
「屋上じゃないか。お前、知ってたのか」
 空きっぱなしだった化学準備室、その窓をくぐると半球で頭上を覆う空が広がっている。日差しで乾いたのか、水たまりはコンクリートの上にぽつぽつと点在して日光を反射している。
「人目に付かないところがいいからね」
「どうしてだ?」
 そうですねー、とリリは勿体ぶる。
「これからキミにプレゼントをします」
「プレゼント?」
 俺が眉をひそめると、待ってましたとでも示すようにリリはポケットから四角いものを出した。それはフリスクの入れ物の大きい版みたいなピルケースだった。
「……これは?」
「『エヴェレット』だよ」
 そう言って何錠かぱらぱらと掌に取り出して、見せる。
 それは白くて小さな錠剤だ。
 リリはもっと小さな容器(カメラのフィルムを入れる容器だろう)を取り出すと、錠剤を入れて俺の手に握らせる。
「いや、こんなものもらっても困るだろ」
「大丈夫。毒じゃないよ。危ない薬でもないし。少なくとも現行法では」
 ダメな奴だった。
 ケースを放り投げようとして「ダメ! もったいない!」と制止される。
「待って待って待って待って、本当に大丈夫なんだって! 話聞いて! 女の子の話を聞かない奴はモテないぞ! 私以外に!」
「……お前、本当に何なんだ?」
リュウくん、これから真面目な話するから、ご傾聴を」
 そう言うとリリが俺からぴょんと一歩離れ、こちらに向き直った。
リュウくんはさ――今とは違う人生を生きたいって思ったこと、ある?」

 

 今と違う人生?
「真面目な話なんだよな」
「うん」
 深く考えずに答えた。
「……違う、と思う。まず、ずっと死にたいと思ってる」
 この一言で怯むかと思ったが、「ふむ」とリリは驚かなかった。
「で、それは何が起きても変わらない。そりゃ、人間だから後悔や願望がまったくない訳じゃない。でも、それが解決されても死にたいままだ、って気がする」
「きっかけはあるの?」
 ああ、と俺は頷いてみせる。
「知っている人の影響でな。その人は、俺にいろいろなものを残してくれた。でもそれは、一般的にいい意味だけじゃない。むしろよくない影響を大いに受けている。自殺願望も、そのひとつなんだ」
 リリは「その人とは、いろいろあったんだね」と言ったが、それ以上は訊いてこなかった。
「ああ、大きないろいろだ。すごく大きくて、ショックだった」
 どうして俺はいきなりこんなことを喋っているのだろうか。普段なら、絶対に喋らないはずなのに。
「で、そのいろいろがあって、なんかこう……膜みたいなものができたんだ。それがときどき視界に張ったりする。いつもじゃないんだけど、視界だけじゃない。身体を包んでいる感じがする。ここにいるのに、ここにいない感じがする。それが気持ち悪い。たぶん……それを細かく言語化できないから『死にたい』と言ってるんだと思う。なんでこんな話してるんだろ」
 意味わかんないか、と俺よりずっと意味の分からない人間に釈明してしまう。
「……なるほど。こういう人なのね」
「いや、さっきから何のつもりだ?」
 リリは俺の疑問を無視して「でもさ、それって本当なのかな?」と話を変える。
リュウくんが感じているのは、いわゆる解離だよね。目の前で起きていることが切り離されている、自分自身がここにいないという感覚。そしてそれは、現実とギアが合わない、遊離した状態。ストレスからの自己防衛。でも、それなら、もし心から落ち着いて、ストレスがなく、楽しい生活を送れるなら、どうなるかな?」
 何も言えないままでいる俺を尻目に、リリは「間違ってたら申し訳ないけどさ、リュウくんの心の中、どこかには――」と、言葉を継ぐ。
 そして、ある指摘をした。
「――別の人生を生きたいという気持ちもあるんじゃない?」

 

 フィリップ・K・ディックというアメリカのSF作家がいる。
 彼は親知らずを抜いてから幻覚に悩まされ、自分が別の世界に生きていた、という前世のような記憶に悩まされていた。
 そんなあるとき彼は読者の女性から手紙を受け取る。見ず知らずのはずの彼女はディックのことを知っているという。実際に会った彼の主張によると、両者の記憶はほぼ完璧に一致していたという。
 ……俺の経験はどうなのだろうか。
 突然知りもしない女の子に絡まれ、訳の分からない薬品を渡された。

 

 この怪しげな錠剤は何なのか。
 リリはこう説明した。
「これを飲んで、何か願ってごらん」
「……願う?」
「そう」とリリは元気よく頷く。
「なんでもいいよ。あ、でも、できれば『異世界で女の子とキャッキャしたい』みたいな荒唐無稽なのじゃない方が安全かも。現実の範疇で、もしこうなっていたら、というのがいいと思う。えーと、テストで満点を取るとか、くじで当たるとか……あ、でも他の子と付き合ってる世界はやだな」
「断る」
 ノーモーションの返答にリリは「がーん」と自分で効果音をつけた。
「もうっ、真面目に聞かないんだから。せっかくの耳寄りな話なのに」
「知らない物質を知らない人間から貰って飲む奴がいるか?」
「だからー、『エヴェレット』って言うし、もう他人じゃないって!」
 なぜこんなにも図々しいのだろうか。
「最初は混乱するだろうけど、説明するより実際にやってみるのが早いからね。じきに効果が切れて戻ってくるし安全安全」
「いや、話を聞けよ」とたじろぐ俺にリリはぐいぐいと押してくる。
「うーん、そんなに怖いなら……まぁいいか。今ここで試してみる?」
 そう小首をかしげられる。
「ここで?」
「そう。二人で飲む。私が直々に使い方をレクチャーするの」
「そこまでして俺に飲ませたいのか……」
「いや、これはたぶんリュウくんが望んでることだよ」
 リリは「さっき訊いたよね」と俺に言質を取る。

 

『――別の人生を生きたいという気持ちもあるんじゃない?』

 

 それに俺は、答えられなかった。
リュウくんは、もしいいことがあっても、死にたい気持ちは変わらないと言ったよね。でも、私はそうは思わない」
「……もしそれが正しいなら、どうするんだ」
「私が連れ出してあげるんだよ。『ここではない人生』へ」
 どうやらリリは本気らしい。
「これからキミの人生を、変えてあげる」
 なるほど確かにこの女は狂っているだろうが、それなりに一理ある意見を言っているのかもしれない。納得はできていないが、積極的に反論できる材料もない。
「だけど、やっぱりそれでも死にたい気持ちは変わらないはずだ。どんな理屈か知らないが、お前が言う通りなんでも願いが叶っても、それは同じだ」
「んー、そこまで言うなら賭けてみようよ。もし私がリュウくんに生きてるのが楽しいって思わせられたら私の勝ち。死にたいままだったらそっちの勝ち」
「……はぁ」
 自信ありげに笑ってみせる彼女を見ていると、なんだか断れない気がしてくるから困る。
「なんならありがちなことしてみよっか? 勝った方が相手に言うこと聞かせられるってやつ。いやーん、リュウくんのえっちー」
 面倒くさくなってくる。もう何でもいいか。
「……もういい。分かったよ。飲めばいいんだろ、飲めば」
「よし! 決まり。休み時間が終わる前に、急いじゃおう」
 そう言ってリリは「割って半錠……いや、一錠でいいか」と呟いてから、掌に再び錠剤を落とす。「リュウくんもひとつ出して」
 言われた通りケースから丸い物体を取り出す。
「一瞬で舌で溶けるから、呑み込もうとしなくて大丈夫。お互い飲んだら私が手を握るから、意識を集中してね」
「どうしてだ?」
「はぐれないようにするんだよ」
「いや、意味分からん……」
「ま、いいから。じゃあ――」
 いくよ――という掛け声に慌てるが、今更逃げるわけにもいかない。
「せーのっ!」
 そして俺たちは、異物を口に入れた。

 

 それから起きたのは、信じがたいことだった。

 

 最初に感じたのは地震のような揺らぎだ。
 ぐらぐらと視界がブレて、平衡感覚を失いその場に崩れる。
 立っていられない。身体の全体が小刻みに震える。膝をつく。額の冷たさに気づく。冷や汗。リリを呼ぼうと口を開いたが声が出ない。気道を息が抜けていくだけだ。
 その次に激しい頭痛が来た。呻きたくても声帯はまったく機能しない。歯を食いしばろうとするが口元は既に弛緩している。
 耐えきれずに眼を閉じると、目蓋の裏に直線や円や菱形などの幾何学的な模様が浮かんでは消えていく。見ているうちに吐き気がしてきたが、幸いなことに何も食べていなかったせいで一度小さくえずいただけで嘔吐はしなかった。
 やがてある臨界点を超えた瞬間、痛みは唐突に力を失い、脳の中がどろどろに溶けて混ざり合い消えていく。身体が溶けていく。自分がどろどろに溶かされて床に垂れ落ちる。思考も、意識も、何もかもが液状になって、世界の中に染み込んでいく。
 まさか死ぬのか?
 そう考えて一瞬安らかな気持ちになったが、少し遅れてパニックがやってきた。
 自分が消える!
 おそらく人間には消えることへの本能的な拒絶反応があるのだろう。クジラのイメージが現れる。昔読んだ本だ。クジラの集団自殺。陸で呼吸していた先祖の記憶を思い出したクジラが突然溺れ岸に殺到する話。
 金縛りにあらがうように必死に手足を動かし頭を振ろうとする。四肢があったはずの場所に意志を込める。動け動け動け。
「――リュウくん! 手!」
 ある感触がある。どこかに力がかかっている。温かい何かが接触している感じがする。
「集中して!」
 しばらく一点に意識を向けていると、少しずつ自分自身が再構成されていく。外界と自分の区別が少し戻ってくる。幾何学模様が人間の形を取る。はっきりとは見えないが、そこに人間がいるようだ。
 リリだろう。
「大丈夫。ゆっくりと呼吸して。これから私が調整するから、こっちに意識を向けて」
 思考は粘ついてまだ鈍いが、少なくとも聴覚は戻ったのか、なんとか内容は理解できた。
「手を離さないで」
 言葉が聞こえる方に、そして握られている手に集中する。強く握る。
 ――飛ぶよ。
 その一言で何もかもが拡散し、
 まもなく、超然とした静寂が訪れる。

 

 気がつくと俺は遠くから景色を見つめている。
 いや違う。目の前にリリはいるし、ここは屋上だ。でもなぜか遠くからそれを見ている感覚もある。
「戻ってきたみたいだね。よかったよかった」
「……これは」
「『ここではない世界』だよ」
 奇妙だ。見えないけれど目の前に薄い膜が張ってある、そんな気がする。半透明な膜。
「別の世界に来た……のか」
「どちらにもいる、と言った方が正しいかも。ゆっくりと意識を下の方に向けてみて」
 言われた通りにすると、もう一人自分がいた。
「なんだ、これ……」
「ゲームのプレイヤーになって、自分をコントローラーで動かせると考えてみて。リュウくんは今、ふたつの身体を同時に操作できるんだよ」
 ちょっと慣れが必要かもしれないけどねー、とリリは付け足す。
「試しに下の自分の身体を動かしてみよっか。今、どっちでも私の手を握ってるよね。上だけ離してみて」
 そう言われても……と思ったが、少し集中すると案外あっさりできた。
「合格。これでちょっと分かったかな」
「……俺は分裂してるのか?」
「当たらずとも遠からずだけど。さっき言った通り、両方の世界に同時に存在できる的な」
 相変わらず訳が分からないが、とにかく危機は脱したようではある。こんな目に遭って本当は文句の一つでも言ってやるべきなのだろうけれど、とにかく余裕がなかったし、自然に状況を受け入れている自分もいるわけで。
「……で、これからどうなるんだ」
「準備完了だよ」
 だから説明しろ……と言いかけて、上とやらの自分がふらりと揺れ、へたり込む。そしてそのまま上の意識は消えていく。
「あー、ちょーっと疲れちゃったか」
「待てよ! あの俺はどうなるんだ」
「大丈夫。私が見ててあげるから、とりあえず上では休んでてもらおうかな。さっそく見に行こっか」
 そう言って、またしてもリリは俺の手を握って引く。
「だから、何を」
「まぁ、見ればだいたい分かるって」
 彼女に連れられていく自分を、上にいる自分がおぼろげな意識でぼんやり眺め続ける――その奇妙な感覚は、薄れながらずっと続いていった。

 

 連れ戻されたのはD組の教室だったが、様子がおかしいことにすぐ気づく。
「……誰だ、こいつら」
 人間関係に頓着ない自分でも分かるほど、明らかに知らない顔がいくつもある。
「教室を間違えたんじゃないのか」
「ふふ、どうでしょう」
 思わせぶりなリリに少し苛立ちながらクラスをもう一度確認したが、やはりここはD組らしい。
「おい、どういうことだよ」
「うーん、でも全部説明したら面白くないからなー……って、あ! ちょうどいい」
 何がだ? と言ってやる前に、こちらに手を振っている生徒たち二人がいることに気づく。
 それぞれ男女だが、近寄ってくる顔にはやはり見覚えがまるでない。間違いなくこんな奴らはクラスにはいなかった。
「お前らどこ行ってたん?」と男子の方がリリに話しかける。髪の毛から爪先まで、いかにも、というステレオタイプなノリのよい男子高校生という印象。部活はやってないだろうが、オタクではないだろう。ネクタイを緩く締めて、ヘラヘラと軽薄そうに笑っているのが少々不快に感じる。
「ネズミ空気読んでよ。せっかくお楽しみだったんからさ」と女子。リリよりいくらか大人びた印象で、先端が緩くカールした髪の色は明るい。何かで染めているのか、地毛なのか微妙な色味なので、校則と折り合いがつかなそうだな、などと思う。シャツのはだけた首元がやたら周囲から目立っていて、スカートの丈も周囲より少し短い。腰には脱いだカーディガンの袖が締められている。何か意味があるのだろうか。
「せっかく昼はみんなで食べてるのに二人だけの世界ですよ? 誰も触れないじゃん、宇宙の風に乗ってるじゃん」
「まぁ、無視されるのはちょっと嫌なのは分かるけどさ」
「いやいや、私は友人として心配してるんですよ? だいじょぶ? 変なことされてない? 切った髪とか売らせてない?」
「方向性がニッチすぎるだろ……」とネズミと呼ばれた男が呆れる。
 なんだこれ?
 勝手に進む会話に「いや、ちょっと……」と口を挟もうとして、「リュウ、どうしたの?」と女の方が訊いてくる。
「……俺のことを知ってるのか?」
「何言ってんの? まさか記憶喪失プレイ? 泣きゲー?」
「真面目に答えろ」と語気を強めた。「なんでここにいるんだ? お前らなんて知らない。同じクラスじゃないだろ」
 ようやく向こうの方も事態の奇妙さに気づいたのか、俺の言葉に二人は顔を見合わせる。リリだけは、相変わらずニコニコと朗らかだ。
「ま、わたくしが放課後に種明かしをしましょう」

 授業中ずっと生きた心地がしなかった。自分が分裂した感覚は片方の意識が消えてからも続き、目の前で起きていることにまったく現実感を覚えられなかった。喋っている教師も当てられて答える生徒も、すべてが演劇を見ているように他人事に感じられた。
 解離という言葉を思い出した。
 何らかのストレスや精神の変調によって、現実感を失ってしまう精神的な症状。
 俺はまさに、その状態にいるのだろうか?

 

「さて、さっそくネタバレですが」
 放課後、訳も分からず連れられた駅前の喫茶店
 各々が慣れた手つきで注文するから困った俺はリリに任せたところ、甘ったるいアイスコーヒーが出てきて喉が粘つく。リリはクリームソーダだ。溶けたらベトベトしてちっとも美味しくないだろうに、なぜ飲むのだろう。二人がブレンドと紅茶だったので一人だけ浮いている。
 俺をほとんど無視して、三人は勝手に話を始める。
「なんと! このリュウくんは『ゾンビ』ではない、本物です」
 唐突なリリの発表に、ミドと呼ばれる女の方が「……マジ?」と呟く。
「じゃあ、リアルの方で『エヴェレット』を飲ませたわけだ」
 ネズミとやらの男がすかさず口を挟む。
「……それ、いいん?」
「へーきでしょ」とミドにリリは能天気に答える。「そんなこと言ったらミドたちがもういるし、ひとりぐらいなら」
 二人はそう言われて少し黙り、それからネズミの方が「まぁ、いいのかなぁ」と呟いた。
「そうそう。ちょっとした悪戯だと思って」
「うーん。あたしにはよう分からんけど。そんなことしても面倒なだけっしょ?」
「俺とはどうなるんだよ」というネズミの指摘にミドは口笛を吹こうとして失敗する。
 そんな様子を眺めながら、俺はリリを問いただす。「さっきから意味が分からないが……まず、恋人ってどういうことだ?」
リュウくんはさっき『エヴェレット』を飲んだよね。で、別の世界にやってきた――正確には私が連れてきたわけだけど。そこがここ。で、そこで私たちは彼氏彼女の関係。頭ついてこれてる?」
 多少小馬鹿にされた気がしながらも、リリはようやく真面目に説明を始める。
「薬の効果を理解するなら『一時的に並行世界に行ける』と考えるのが分かりやすいかな」
 ――並行世界。
 その言葉に、俺は眼を見開いていた。
「もちろんさっき言ったように一定期間だけ。効果が切れれば元の世界に戻る。でも、それまでは自由に好きな世界を望みどおりに移動できるんだよ」
「どんな世界でもいいのか」
「基本的には。……あ、ただ場所と時間は変えられないよ。あと言った通りあんまり現実離れしたところに行こうとするのはおすすめしないかな」
「なぜだ?」
「身の危険があるんよ」とミドが口を挟む。「いきなり異世界に飛んだとして、そこの物理法則とか状況をしっかり思い描けないとヤバいよ。んー、たとえば、地球が消滅した世界に行こっかな、と思う。行ってみる。すると生身で宇宙に放り出されることになって、死ぬ」
「……『エヴェレット』を使って飛んだ世界で死んだら、現実ではどうなるんだ?」
 素朴で、恐ろしい疑問だ。
「『バッド』って呼んでるんだけど、同時に操っていた身体のうち、現実の方に意識がいきなり戻る。間違いなくパニック状態になるね。……死んだと思ったのに生きている、ってのはマジで怖いよ。絶対おすすめしない」
リュウくん、絶対試しちゃだめだからね」
「ああ……」とリリに答える。そうだ、こいつは俺の自殺願望を知っているんだ。
「でも、それ以上危ないのは現実の方で動かしてる身体が危険に遭うこと。リュウくん、これだけは必ず注意してほしい」
「……もしそうなったら?」
 俺の問いに、三人の空気が少し変わる。
「とにかく、気をつけろ」とネズミが話を打ち切るように言った。「身体の動かし方がよく分からないうちは、絶対に安全な場所で使え。……こっちも守ってやれないかもしれないから」
 何かが引っかかったが、とりあえず気圧されて頷いておく。
 ……そのあたりで話がひと段落したので、脳内で理解できる限り情報をまとめてみた。
 要するにこの薬を使うと幻覚が見られるってことか。俺はそう考える。
 並行世界なんて行けるはずがない。
 けれど、疑似的にはそういうことができる薬も存在するのかもしれない。もちろんそれは法的にグレー……いや、アウトな可能性もあるが、もう俺は使ってしまったから手遅れだ。
 そこで、さらに疑問が浮かんでくる。
「そもそも、こんなものどこで手に入れてるんだ?」
「教えてくれたんよ、リリが」とミドが答る。「これ、言っていいよね?」
 リリが頷いて、話を継ぐ。
「深くは言えないけど、ある人から貰ってるんだよね。わりかし大量に」
「……簡単に手に入るのか? そんな薬があるならとんでもない値段になるはずだ」
「いや、今のところほぼ私たちとその人しか『エヴェレット』のことは知らないよ。だから薬に関してお金のやりとりはしないようにしてる。その人とも、私たちのうちでも」
 待ってくれ、と思う。仮にも錠剤であるからには、どこかで作られたはずだ。それとも、そもそも個人が密造しているのか? というか、誰が開発したんだ? 疑問は尽きないが、これ以上掘っても答えてくれなさそうな反応だったので、話を移す。
「だいたい分かった。じゃあ、『ゾンビ』ってのは……」
「おっ、もう分かる? 『エヴェレット』を使っていない、現実ではなく飛んだ世界の先にいる人たちをそう呼んでるわけ」
 ネーミングセンスが欠如しているのはともかく、だいたい状況は理解できるようになってきた。つまり、リリはどういうわけか知らないが俺をこの並行世界で彼氏にしていたが、悪戯なのかなんなのか、リアルの方を呼び出したということになる。
 身勝手だ。
 けれど自分が乗った話でもある。糾弾することはできない。
「乗っかっていないときの自分の脳が持つ記憶はどうなるんだ? たとえば、リリが彼氏にしてる『ゾンビ』の山田リュウは、今乗っかっている俺の記憶を持ってないのか?」
「持ってないね。その記憶は『エヴェレット』を使っている人間のものだから。その世界で私たちが起こしたことは完全にそのまま残るけれど、向こうの記憶から『エヴェレット』のことは削除される。空いた部分で『ゾンビ化』した自分は偽の解釈をねつ造するでしょうね。感情や記憶を後付けして」
 へぇ、都合のいい話だ。
「じゃ、このリュウとは初めてってことなんだな」
 いつしかじゃれ合いが終わったのか、ネズミがリリに訊く。
「あ、確かにそっか」
「へーおもしろ。じゃ、自己紹介でもする?」
 ミドの提案に二人は同意する。
「じゃ、俺から。こういうのは一番手がいいんだよ。……はじめまして、重松初鹿。こっちで同じクラス、っていうか前の席。リリがせっかくだからみんな同じクラスにしようってことにしたんだよ。あ、ネズミっていうのはあだ名な。ハツカネズミから」
「あたしがつけたんだよ」
「俺は嫌い」
「は? 文句あんの?」
 放っておくとすぐにミドとの掛け合いが始まるらしい。
「お前ら……いや、今は俺もだけど、一緒の世界を共有してるんだよな」
「『シンクロ』だね」とリリは補足した。「こっちに来るとき、私と手を繋いだでしょ? あれをそう呼んでる。慣れてきたら別に身体が触れ合わなくてもいいんだけど。でも、リュウくんがどうしてもって言うなら……」
「あー、ったるい」とミドが遮る。「あ、これも慣れと個人差なんだけど、同じ要領でお互い別々に『エヴェレット』を使っているとき、近い場所にいると『あ、近くにいるな』って分かったりする。三人ともできるので、あまり悪さしてるとバレちゃうからそこんとこ注意」
「ちなみにもーっと上手くなると人のいる世界に勝手にチューニングして乱入することもできます。すごいでしょ。逃がさないから」
 リリの目は本気だった。
「清純でいいねー、私だったら誰と何してようが気にならないけど。ね、ネズミさん」
 ネズミは「あ、ああ……」とぎこちなく頷いたが「ってか自己紹介はいいのかよ」と脱線した話を戻した。
「あ、そうだった。やっと私の番来たわ。福岡碧十七才。ミドでよろしく」
 ミドはんーっ、と右腕を上に伸ばしてから、指を顎に当てて「だる」と呟く。背中を逸らせて張った胸からなんとなく目を逸らす。
「で……最後は真打」
 残された最後の一人は、隣に座る俺の眼を見て言う。
「大久保璃々。リリって呼んでね。私の彼氏くん」

 

 そこで意識は遮断された。

 

「……んっ、起きたね」
 俺が目を覚ましたのに気づいたのか、リリの声がする。
 眼を開くと彼女の顔がある。髪が垂れ下がって、さっきまでと少し違う印象を与えている。そしてその背景には、少し赤みがかった空がある。
 俺は屋上に横たわっているのだ。
 首の柔らかい感覚に、それがリリの膝であることを察する。
「ごめんね。ちょっとミスしちゃったかも……あんなに途中で切れちゃうとは、不覚」
 その言葉で、すべてが実際に起きていたことなのを実感する。
 そして、次に気づいたこともある。
「ずっと、こうしてくれてたのか」
「ずっとって?」
「昼休みから、放課後まで。ここでずっと傍に」
「あはは、気づかれましたか」
 リリは、授業をサボってまで俺のことをずっと見ていたのだろう。
「サボらせちゃって、ごめんね」という謝罪に「いや、それはいいけど」と俺は困惑を口にする。
「教室に行って、保健室に行ったって言っておいた。確認されたらバレちゃうけどね」
「そこまでしなくても、いいのに」
「いやいや、私の自慢の彼氏さんなんだから、これぐらいなんてことないよ」
「……そういうことじゃないと、思うけど」
「いいの。私がやりたかったからやった。女子高生の膝の感触も味わえてお得だと思ったらええねん。これにお金払いたい人もいるんだよ?」
 相変わらずふざけて笑うこいつが、俺には理解できない。
「じゃあ、とりあえずありがとう。……でもこの俺がお前の恋人になるかは何とも言えない」
 はっきりと俺はそう言う。それでもリリは「うん」と驚かない。
「大丈夫。私は好きにしてみせるから。そして、リュウくんに、生きていることは楽しくて……まぁ、悪いこともないってことを教えてみせるから」
 よろしくね、とリリは言う。
 自信ありげな彼女の笑顔を見ていると、なんだか不思議になる。
 まだ一日と経っていないのに、どうして俺はこんなことになっているのだろう、と。
 ――夕の光が空を穏やかに包んで、彼女の髪先をまた透かしている。

 

5

 マンションの一室、電気もつけずにソファーに寝転がった。
 ひと財産を築いた姉によって用意された、高校生には不相応の我が住まい。ひとり暮らしにしては部屋が綺麗なように見えるがなんてことはない、少し散らかってもハウスキーパーがやってきて掃除されているだけだ。借金だらけだった時期からすれば信じがたいことだ。
 そしてその金の出所を快く思わない人間がいるのも事実だろう。
 姉を、人々は詐欺師と呼んだ。

 

 並行世界という言葉には聞き覚えがある。
 それは、あまりよくない方向でだけれど。
 俺には姉がいる。いや、いた。

 

 山田奈央――そう、姉のナオが自殺したのは、ちょうど俺が高校に入る直前のことだ。
 俺たちは出会い、十年と経たないうちに彼女は死んだ。
 再婚した両親を心中でなくしていたから、彼女は精神的に身内と呼べる最後の人間だった。
 畏敬する姉。
 偉大なる姉。
 かつての俺にとって彼女は神にも等しい存在だった。

 

リュウ、この世界はひとつしかないと思うかしら?」
「……なにそれ?」
「言葉通り。現実というのはひとつだけで、私もリュウも同じ世界に属していると誰もが思っている。リュウもそう思う?」
「どうって……それ以外ないと思うけど」
「でもね、実際には違うのよ。……『環世界』という言葉がある。あるクモは餌の熱源を確認すると手を放して下に落ちる。コウモリは超音波で物体を認識する。それらの生き物が感じる世界は、人間のそれとは大きく違う」

 

 学者の家系、その著名な物理学者の父を持ち、自身はヒトの脳に大きな興味を抱き、巨大な絵空事を夢見た姉。
 彼女は父の研究を支えるうちに頭角を現し、高校在学時点で各界から注目され、『天才少女』という陳腐な肩書でメディアに華々しく取り上げられた。

 

「こういう考え方は決して異端というわけではないの。カントは何世紀も前に感覚器官と概念によって人間の認識は決まることを論じた。一九六〇年代では、ティモシー・リアリーのようなカウンターカルチャーを信仰した人たちが、意識を変調させることで人間の認識を広げられることを期待した。マクルーハンというメディア学者はメディアを『人間を拡張するもの』と捉えた。……ま、インターネットは期待を満たさなかったけれどね」
「……また危ない話?」

 

 業績を理解できるほどの頭を持たない俺には、研究者として彼女が実際に何をしたのか語ることはできない。少なくとも世間的には単なる『時の人』としてすぐ忘れられた程度だろう。さんざん彼女を祭り上げたアカデミックな世界にも最晩年には完全に見放され、存在自体を黙殺されたという。
 曰く――気が狂った。
 彼女は『量子脳理論』という絵空事固執した狂人かつ、それをビジネスに利用した詐欺師という評価のまま、研究者としての生涯を終えた。

 

「世間的に認められる話ではないわね。でもね、私は自分の研究に意味があると信じてる。哲学もそうだけど、何より芸術には、今ここにある場所とは別の世界を志向したり、この世界の不確実さを表現する作品がたくさんある。カフカ安部公房ボルヘス、SFならディックやバラード……音楽なら、サイケデリックビートルズは世界一有名なロックバンドのひとつだけど、彼らもどっぷり浸かっていた」
「うーん……難しいから分かんないけど、すごい」

 

 今からちょうど二年前、彼女は自ら命を絶った。
 姉の活躍によって両親が事業の失敗で遺した莫大な借金も消え、表面上俺たちの人生は前進しているように見えた。
 姉の出身と同じ高校に入学が決まり、それまで研究とやらでしばらく疎遠になった彼女とようやく再会するという、直前のことだった。
 俺は驚かなかった。いつ死んでもおかしくないと心のどこかで思っていたからだ。世の中には表面上どんなに健康に見えても、明らかに「この人は長生きできない」と思わせる人がいる。そういう人だった。
 けれど予感していたこととはいえ、自分にとってみれば世界が終わったようなものだった。姉のすべてに憧れ、姉のようになりたいと願い、姉の言うことをすべて妄信し、全知全能だとまで思っていたのだから。

 

「私はね、科学も芸術の次元に追いつくべきだと思う。この世界は思ったよりずっと柔らかく不安定で、ある意味たくさんあることを科学的に証明したい」
「そんなことできるの?」
「そんなの、この天才に任せれば簡単……だったらいいのだけれど。でも、それが実現したら世の中は間違いなく爆発的に変化するわ。宮沢賢治という人はね、『完全な証明が可能になれば科学も信仰も同じようになる』ということを言った。私が目指すことも同じよ」
「そうなったら、どうなるの?」
「――そうしたら、何もかもやり直せるようになるわ。人類の生活は一変する」
「ずっと一緒にいられる?」
「もちろん。私たちは一緒にいられるし、それで誰も不幸にならない」
「そっか。姉さんなら絶対できるよ」
「ふふ、ありがとう」

 

 家族が俺たちだけになってから、俺はずっと姉に支えられてきた。それを失った打撃からは、まだ抜け出せていないのかもしれない。
 打撃――いや、それは呪いに近い。
 姉は最後に決定的な呪縛を残した。
 彼女の遺書には、こう書き残されていたのだから。

 

 リュウ
 並行世界で会いましょう。

 

「どんな願いも叶う」という薬を手に入れて、どうして姉のことを考えているのだろうか。
 リリと別れる折に、彼女は「やっぱりひとりで使うのはまだ早いか……」と当然の反省をしたようで、もし興味があるならまた屋上に来るように、と言われた。その時に『エヴェレット』も返しておいた。
 姉の言う並行世界なんてない。あの薬は、単に夢や幻を見せるだけだ。
 それでも思う。
 もし会えるのなら、何を話すだろう?


6

 『CLOSED』と札のかかったドアには鍵がかかっていなくて、中も無人だった。
 入った途端、窓の向こうから「やっほー」と声がした。どう応じたらいいのか分からなかったのでしばらく無視していたが、やがて向こうから近づいてきそうだったので仕方なく窓を開けて屋上に降り立つ。
「やーやー、リュウくん」
 たむろしている三人のうち、リリが俺を呼ぶ。
 もう片方の女子もちいさく頷く。伸びた前髪で顔がよく見えない。前めちゃくちゃ見づらそう。昼間はだんだん蒸し暑くなってきているのに、シャツの上から長袖のジャージを羽織り、ズボンも履いている。体育の授業後に着替えが間に合わなかった、みたいな印象だ。生徒指導とかに怒られないのだろうか。
「おっ、っぱ来てくれたじゃん」
 隣の男子も俺に声を掛ける。外見でまったく特筆すべきところがない。強いて言うなら三人とも立っている中で、ひとりだけ背が低いくらいか。目を瞑って三秒ぐらいしたらもう忘れかねない。アニメの中のモブの方がまだ個性を作っているとさえ言えそうだ。
「お前らは誰だ?」と単刀直入に尋ねる。
「……ひど」
 女子はいくらか傷ついたらしい。
「あ、そっか。リュウとはこっちで初めてなんだよな。またしても」
「ややこしい」
 二人に「そうそう」とリリは相槌を打つ。「ほら、もいっかい挨拶しなよ」
「あーい。ネズミだよ。よっす」
 そう言った男子が握りこぶしを見せたが、俺が一切反応しないのを見るとまもなく気まずそうに下げた。「……で、こっちがミド」
 男子――つまり、ネズミの紹介で、彼女も会釈する。
 そこでようやく思い至る。
「ゲームの、キャラメイクみたいなもんなのか」
「お、冴えてる」とリリは感心したらしい。
 願いを叶えられる。それは決して世界の側だけではないのだ。おそらくは、自分自身を変えることもできる。別の世界にいる別の自分をイメージするのだ。
 つまり昨日『エヴェレット』を飲んだあとに出会った二人の姿はゲームならアバターのようなものなのだろう。そして今目の前にいる二人はリアルのプレイヤー、ということになる。
 少しずつ分かってきたことも増えてきた。更に俺は訊く。
「……昨日俺が意識を失った後、俺はどうなったんだ?」
「抜け殻の『ゾンビ』に戻った。何も知らない、向こうの世界のリュウになった。何も教えてないからな」とネズミは答える。
「向こうのグループで『ゾンビ』だったのはお前だけ。リリが勝手に彼氏にして連れまわしてたから、自然と仲間入りしちまったんだよ。な」
「でも、誘ってよかった、と、思う」と小さくミドも言う。声帯が常に迷っているように震えている声からは、未だに昨日と同じ人物なのか信じがたい。
「お前らの惚気なんて見たくないけどな」
「はい、そうやって非モテぶる。隣にミドちゃんを侍らせるくせに」
「えー、こいつはちょっと……」
 ミドが素早くネズミの足を踏む。「痛い痛い痛い! ミドさんごめん超可愛い、萌えー」
 がしがしがし、と追撃が続くのを眺めながら「これからどうするんだ」と俺はリリに訊く。「また飲むのか?」
「もちろん」
 そう言って彼女はポケットからケースを取り出し、俺に渡す。
「おふたかた、ラブコメもいいけどやるよー」
 その言葉で、二人に緊張が走ったようだ。リリに続き、両者もポケットから容器や袋を取り出して、錠剤を取り出す。俺もそれに従う。
「量はどうするんだ。前回みたいになったら……困るんだが」
「あー、それね。じゃあちょっと足すか」
「いや、ちょっとの方がいい。切れてきたらまたこっちに戻って飲めばいいんだし。リリ、それで問題ないよな?」
「結構持ってるから今なくなるってことはないと思うよ」
「よっしゃ。じゃ、とりあえず四人で初めてってことだし、全員短めでセットしようか」
 そうして三人は俺に分からないような内容のこまごました短い話し合いの後、錠剤を薬包紙の上に小分けして何個かを割り、四人分の量を揃えたようだった。そこには当然、俺の分も含まれているのだ。
「よーし、これでいいか。リュウ、だいたいこれで学校終わりに切れる計算。最長でも夕方のうちには完全に戻るはずだ。詳しい計り方はまたリリに教えてもらえ」
 ネズミから手渡されたそれに眼を落とす。錠剤は、違法な薬と言うよりは、なんだか精神安定剤のように見えてくる。
リュウくんがはぐれないよう、みんなで手を握ろう」とリリが呼びかける。「『シンクロ』にまだ慣れてないみたいだから」
「恥ずかしいんだけど」とネズミは渋ったが「やろやろ!」と乗り気なミドに押し切られて、結局四人で円状に並んだ(ちゃっかリリリが俺の隣に並ぼうとするので、二人は閉口していた)。
「それじゃ、時間があるうちにやろっか」
 リリの号令で「おっす」とネズミは頷き、ミドもこくりと頷く。俺も慌てて一度だけ深呼吸し、身構える。
「準備できたみたいだね。じゃ、カウントダウンするから、ゼロで一斉に飲むよ」
 カウントが始まる。
 さん、に、いち。
 そして俺たちは、劇薬を口に含む。
「よし。手、繋ご!」
 そして慌ただしくお互いが手を握る。効果が現れる前にということらしい。このままぐるぐる回ったらUFOでも呼べそうだ。
 そして、変化が始まっていく。

 

 気がつくと俺は頭がくらくらしたまま、クラスの真ん中にいる。
「おいリュウ、何ぼーっとしてんだ」
 ネズミに肩を小突かれ、一同笑いに包まれる。そう、ここは教室で、じき昼休みが終わる。
 どうやら今も四人で同じ並行世界を共有しているようだが、今も現実感がなく、意識がいろいろなの階層を行ったり来たりして、押さえるのに苦労する。
 まだ上で自分を動かすには至らず、ずっと机に座らせている。端から見たらぼーっとしている変な奴だろう。でも危険を避けるにには仕方ない。こちらの世界に集中する。
 昨日はそれどころではなかったが、今日改めて分かった。リリたちはこの世界のクラスで文字通り中心、あえて陳腐な言い方をすればカーストも上位の上位。トップの貴族様だ。
 それがリアルなのかはともかく、世界はそうなっている。
 逆に現実で賑やかだった連中の姿を探すと、そいつらは例外なく一人ぼっちで、別人のように縮こまって、机に突っ伏したり肩身が狭そうに何かを読んでいる。空席も多い。
 明らかに不自然なのに、それでも世界はそうなっている。
 そして俺たちはまさに、空席の一角を占拠していた。
 そしてクラス自体、この三人以外にも現実と構成員が少し異なっていて、見かけない顔がちらほらいて――
「リュー、本当にどうしたの?」
 俺たちの周りにいた女子の一人が心配そうに俺を見ていて、意識が会話に引き戻される。
「あー、スミちゃんそうやってまたポイント稼ごうとしてる。泥棒猫! 逆寝取り!」
「リリ嫉妬強いよー、わたくし男女女ゆえ、二人まとめて愛す所存」
 そう言ってスミちゃんと呼ばれた女子がリリに抱きついて身体をまさぐり始め、「じゃ、中立国参戦」とミドも加わる。
「どっちの味方なんですかあなたー」
 リリは言葉と裏腹にまんざらでもなさそうだ。しょうもないスキンシップを俺は無視して「ごめん、ちょっと寝ぼけてて」と釈明し、ノボルと呼ばれている隣の男子(現実では重度のオタクなはずだが、こちらではやたら垢抜けている)とネズミの話になし崩しで加わった。
「でさぁ、約束通り三人分チケット取れた。席はバラけたけど、フィルムは手に入る」と彼は息まく。フィルムというのは映画の一幕を切り取った初日限定の特典らしい。
 彼はどうやら公開直前の人気アニメ映画の話をしているようだ。そういう趣味は変わってないんだな、と不思議に思う。
 ネズミはちょっと悩んでから「いやー、言いにくいんだけど、それがちょっと用事が入っちゃってな」と申し訳なさそうに言う。「金はもう渡してるけど、俺の分は別の奴を呼んでいいよ」
「あ、じゃあ私行く!」とリリが手を挙げ、「お前はリュウと行きたいだけだろ」というミドのツッコミが入る。「公平じゃないからさ、ジャンケンで決めよ」とスミちゃんが提案する。「まずネズミとノボルを外そう。で、行くつもりだったリューもシードってことで」
 面倒なので「いや、別にいいよ」と俺は言ったが「ダメー」という女子二名の抗議が入り、俺は棄権を許されなかった。
「じゃ、女子三人で勝負ね」とスミちゃんが見回すと、ミドはネズミの方を見て何か言いかけたが、すぐに目線を戻し「よっしゃ」と意気込む。「ジャンケンの攻略法教えてあげよっか? その一、初手はパー」
「えー、そういう心理戦しちゃう?」「勝負は戦う前に始まっているのか……」と女子二名。
 何でもいいから早くやれ、とイラつく。いわゆる陽キャってこんなんだったっけ?
「はい、じゃーんけーん……」でスミちゃんが溜めを入れ「間を作るな、間を」の抗議に「はいポン!」と奇襲をかける。
 結果は、あいこを待たずミドの一人勝ちだった。
「えー、えー、不正!」とリリがさっそくのたまうので、「はいはい、じゃ譲……」とミドは手を挙げようとしたが「いや、なんかもうええわ」とノボルが苦笑する。「俺がリリに譲るから、三人で行ってきなよ」
「え、でもお金」とリリがあざとく人差し指を顎に当てたが「いい、いい。いつかは観れるから。フィルムだけくれたら、って交換条件でさ」
「……うーん、じゃお言葉に甘えて」とリリはミドを見てる。「でもミド、たとえ友達でも……分かるよね?」
「はいはい。また惚気を見させられるわけね。ぐすっ、そうやって私を捨てるんだ」
 スミちゃんは「はい、これを『三角関係になりそうでならない男女女』と言います」と解説し、ノボルは「うわーリュウ、女同士に挟まる男じゃん。人権なくしたな」と茶々を入れる。
 このグループにいてこいつらは楽しいんだろうか。こういった集団にいたことがない俺にはよく分からない。きっと状況に慣れていないのだろう。
 けれど、これがリリの見せる世界で、彼女による『賭け』だとするならば、もしかするとこんな生活を楽しめるようになるのかもしれない。いや、ならないかもしれない。何にせよ俺は彼女の誘いに乗ったのだ。それに付き合うしかないのだな、と思う。
 そしてそこに、小さな興味がないわけではないこともまた事実だ。
 そんな思考の中で、ふと人の視線を感じて後ろを見ると、少し遠く、クラスの入り口に男子がひとり立っている。
 名前は憶えていないが、確か現実ではソフトテニス部で、スポーツ特待でここに入ってき、実際にここでもエースだったはずだ。でも、背丈は同じでも、こちらではどう見ても運動をしている印象には見えない。見えない何かに怯えているような、そんな表情。
 そいつがちょうど、無意識に俺が手をついていた席を眺めている。
 それに気づいて、さりげなく移動して席を空けた。なるほど、こういうこともあるわけだ。でも、今までの説明通り『エヴェレット』で自分の望む世界を生み出せるとして、どうして彼女たちはクラスをこんな風にぐちゃぐちゃにかき回したのだろうか。
 ちょうどそう思ったとき、右の耳元から小さな囁きが聞こえた。
「ね? どう?」
 驚いて横を見るとリリが笑っている。どうやら移動した結果隣に近づいていたらしい。彼女は会話の隙間に一度だけこちらを横目で見て、ウインクしてみせる。
 そして、また囁く。
「世界、変わったでしょ?」

 

 俺が疲れているということで放課後は解散になり、リリと電車に乗って帰る。
「どうだった? 楽しかった?」とリリが訊くので、「何とも言えない」と答えた。
「薬のせいでまだ混乱していたのもあるかもしれない。正直、あれが本当に起きたことだとは、今も思えていない。動揺していたから、着いていくので精いっぱいだった」
「まぁ、そうだよなー」とリリは頷く。「いきなリリア充みたいな生活を送らされても、ピンとこないかもね。私も『エヴェレット』を使い始めた頃は慣れなかったなー。それが今じゃ立派なジャンキーですよ。……でもさ」
 そこでリリは、一瞬だけ真剣な目をした。
「死にたいとは、思わなかったんじゃない?」と
 そうだろうか。俺は考える。
「それは――まだ分からない」
 確かに今日、心なしかそういう気持ちはあまりなかったかもしれない。
「でも、それは余裕がなく、一日が新鮮だっただけかもしれない。前に言った通り、慣れてきたらまたいつも通りになるんじゃないか」
「強情だなぁ」とリリは面倒そうに微笑む。「でも、そういうところが好きなんだけど」
 その言葉で少しだけ、居心地の悪い気持ちがする。彼女は嫌いではないけれど、意図が全く分からないのだから。勝手に別の世界で恋人にするほど俺を好きな女の子がいるのだろうか。
「なぁ、どうして、お前は俺を選んだんだ?」
「そりゃ、誘ったのはあっちでずっと恋人だったからに決まって――」
「違う。そもそも、どうしてあの世界で俺と付き合っているんだ」
 俺はようやくはっきりと訊いた。
「リリと俺は、現実で面識さえなかった。それなのに、なぜ俺なんだ? 女子のことは分からないが、せめてもっと仲がいい男子とか、人気のある奴とかにしないのか?」
「……私が好きって言うの、嫌だった?」
 リリは静かに言うので慌てて「そうじゃない」と弁解した。
「今の段階は、好きとか嫌いとか以前だ。お前のことを何も知らないんだから。そりゃ、リリは嫌な奴じゃない、と思った。悪意があってこういうことをしてるわけではないのも分かる」
 そして、俺は迷った末、踏み込んだ。「もしかしたら、好きになるかもしれない」
「ほんと?」
「本当だ。でも、リリのことを知らないと友達にもなれないし、付き合うこともできない」
 電車が川を繋ぐ鉄橋を渡り始め、カタガタと線路が軋んで音を立てる。それは俺たちの会話を、書き割りの演出のように一瞬だけ遮る。
 あと一駅で、俺は降りる。
リュウくん、自分に自信持っていいよ」と、リリは笑みを浮かべて言う。
「自信?」
「私が好きになったんだから。確かに一方的だったけど、私にとって仲のいい男友達や人気のある男子より魅力があるってことだよ。それにね」
 彼女は笑っている。
「私には誰もいないし、何もないから」
 でもその笑顔は、無理をして作ったように思える。
「だから、リュウくんだけのものだよ」
 俺は、それ以上リリを追及することができなかった。

 

 結局、翌日の昼休みにもやはり俺は屋上に足を運んだ。
 扉は空きっぱなしだったのでそのまま入ると、俺がやってきたのをすぐリリは察知したのか「リュウくん、やっほー」という声が微かにした。もう全員揃っているらしい。
 回転椅子に座っていた部長が「キミ、友達いたんだね」と素で驚く。
「……いたらダメなんですか」
「皮肉じゃないよ。誰もいないときにしか来てないと思ってたから、びっくりってだけ」
「別に友達でもないですけど」
「ふーん。ま、いいや。……お互い仲良く、ね」
 そう言って彼女は遠くの声の主に手を振り返す。
 そして俺がやっと窓に手を掛けたところで、ぽつりと、一段トーンを落として言う。
「ナオ先輩のことなんて、忘れてさ」
 ――またか。
 また、それをまた蒸し返すつもりなのか。
 窓に微かに映る部長の目は、異様な熱に満ちている。
「あなただって同類でしょう。こちらこそ言わせてもらいますけど、姉から離れるべきはそっちです」
「……それをキミが言うなんてね。皮肉かい? あんなに依存していたくせに。……キミが私にする批判は、全部跳ね返ってくるんだよ」
 姉の話をするときの部長はまともじゃない。だから議論しても無駄だ。なのにまた、乗ってしまった。
 高校時代の俺の姉は、彼女と同じ化学部に所属していた。彼女もまた、姉から見れば後輩だ。
 そして、やはり俺と同じように姉を崇拝していた。
「本当のことを言おうか。私はね、キミを恨んだっていいと思うんだよね。だって、あんなにもナオ先輩に愛されていたんだから。私がどれだけ近づこうとしてもできなかった場所にいるんだよ。それでも、あの人はキミが好きだから、私は従うしかない」
「遠くから見ているから、それがどれだけ苦しいか分からないんでしょうね。依存っていうのはそういうことです。遠くから光って見える砂浜は、ガラスの破片だらけだったりしますよ」
「いくらでも言えばいいさ。姉を捨てた裏切り者が何を言っても、私には関係ないね」
「……ご勝手に」
 無益な問答に疲れたので、それだけ言い残して窓を開ける。三人を待たせているのだ。
 そこで、無意識に手を挙げてリリたちに応じている自分に気がついた。
 俺は三人の元に向かう。
 ……何も分からないけれど、こうして、二重の世界を暮らす生活が始まる。
「絶対に、キミはお姉さんから逃れられないのに」
 投げつけられた一言を、無視しながら。

 

7

  姉と俺の血は繋がっていない。彼女は父の連れ子だった。
 彼女に初めて会ったときのことは今もはっきり覚えている。母とその後に父になる男性が企業主催の会食パーティーで同席していた時のことだ。連れられていた俺は知らなかったが、その時すでに結婚の話は出ていたらしい。
 それを伝えたのが、何を隠そう、初対面の彼女だったのだ。もしかするとそれとなく父の顔見せをするつもりだったのかもしれない。
 離婚前も後も育児に無頓着だった母が、なぜ突然俺を連れて行ったのか、はっきりしない。
 とにかくこんな場所に来るのは初めてだったのだが、食事がまったく舌に合わず退屈していた俺は、幼い行動力からこっそりと会場から抜け出し、ホテルの中を歩いて暇を潰した。しかし飾ってある抽象画や壺にも飽き、失望の中でロビーまでやってきて、座った。
 目の前には自動演奏のピアノがあり、静かな曲が流れていた。無駄にふかふかとしたソファにうずもれ、旋律にぼんやり耳を傾けながら眠気に誘われていると、やがて曲が変わっていることに気づく。
 ピアノの方を見ると、椅子には女の子が座っていた。何歳年上なのだろうか、髪の長い少年かと見紛う彼女は場違いにも、白いシャツ一枚をルーズに着ていた。
 どうやって演奏を手動にしたのかは分からないが、彼女は鍵盤を叩いて演奏している。無断だったのだろうか。しかしあまりに自然だったので、誰もそれに気づいていなかった。
 彼女の演奏には、ピアニストが叩いているということを忘れさせ、聴き手を音楽そのものと一体化させる力があった。それは本人も同じなのだろう。ピアニストのグレン・グールドは、晩年引きこもって一人きり大きなクローゼットの中で演奏したという逸話を聞いたが、それを知ったとき、彼女の演奏を思い出したものだ。
 女の子を見てみる。彼女は俺より年上に見えた。実際にそうだったのだが、その時は外見というより佇まいが大人びていたからそう思った記憶がある。
 気がつくと一曲の演奏が終わっていた。戻らなきゃまずいだろうか、と急に慌てたが、そこで女の子が俺の方を向いているのが目についた。最初は勘違いかと思ったが、手招きを始めたので、幼心に警戒しながらも近寄っていった。
「ずっと見てたでしょ」と彼女は言った。自分にそんな意識はなかったが、完全に釘付けになっていたらしい。「そんなに演奏、よかった?」
 俺は言葉を見つけられなかったのでとりあえず頷くと、彼女は満足したらしかった。
「実はね、私もさっきからあなたのこと気になってたの。なんでか分かる?」
 分かりません、と俺が言うと「本当のことを言うとね、あなたのことはもう知ってるのよ」と彼女は言って、悪戯っぽい笑いを困惑するこちらに向けた。
「まさかこんなところで会うなんて思ってなかったけれど。……この様子だと何も知らないみたいだから、もっと驚かせてあげましょうか?」そう言って彼女は目を細めた。絶対に解けないクイズを出題して、間違えた人を食べてしまうような、そんな艶めかしい顔。
「あなたと私、これから姉弟になるわ」
「え……?」
「私の父親とあなたのママ、もうじき結婚するから」
 あっさりと彼女は断言した。
「いや、ちょっと待って――」と俺は大きな声を出しかけて、ここがロビーであるのを思い出して一段ボリュームを下げた。「嘘……ですよね?」
 そうだ、この女は不審者なのだ――そう強引に判断しようとしていた俺に、彼女は「あなたのママ、会社の関係者でしょう」と追い打ちをかけた。当時は詳しくは知らなかったが、その通りだった。「私の父親はね、科学者なの。で、あなたたちのグループと組んで、儲け話を作っているみたい。……政略結婚って知ってる?」
 黙っている俺に「つまりね、あの人たちはお互い好きでも何でもない。ただお互い利用したいだけ。だからもまったく伝えなかったんじゃないかしら」と彼女は両親をこきおろした
「……それが本当なら」とかろうじて俺は答えた。「あなたがお姉ちゃんになって、どうなるんですか?」
「一緒に暮らすことになるでしょうね、一応は」とあっさり彼女は答えた。「でも覚悟しておいた方がいいかもしれない。いい思いはしないし、私だってあなたのことを守ろうとは思ってないから。そんな義理もないし。孤独でしょうね。かわいそうに」
 彼女はそう皮肉を呟いて、鍵盤に指を置く。
「でも、お祝いに一曲弾こうかしら。それくらいはやってあげましょう」
 リクエストとかある? と言われても、俺はピアノの曲なんて知らなかったし、そもそも気が動転していた。それをつまらなそうに感じ取った彼女は「じゃ、勝手に弾かせてもらうわ」と言い、曲名を言って演奏を始めた。
 ビル・エヴァンスの「ワルツ・フォー・デビー」。
 ドラッグに溺れ、ついには演奏中に倒れたジャズピアニスト。彼の人生は緩慢な自殺だった、と彼の知人は言った。その選曲に、今は何かの予感を覚えてしまうが、それはきっとその後のことを知っている自分のこじつけなのだろう。
 不思議なことに、演奏がどうだったか記憶にない。重要な部分に限って思い出というのは欠落するのかもしれない。覚えているのは演奏が終わった後、「私はナオ。せいぜいよろしく。弟の、えーと――リュウ」と相変わらず小馬鹿にする口調で手を差し出されたことだけ。
 俺は恐る恐る握った。怖くて仕方がなかったけれど、逃げるわけにもいかなかった。
 けれど今だから言える。
 俺の姉になった人は、誰よりも優しかった。

 

 どれほど非日常的な経験をしても日常が待っていて、いつも通り日々はやってくる。
 初めて『エヴェレット』を飲んでから何日かは、俺だけは三人とともに屋上でしか使わない日々が続いた。
 相変わらず新しいクラスでは、異変に気づかれないよう振る舞うのがやっとだったし、現実での身体のコントロールも難しかったけれど、身体には何かが馴染んできている実感があったし、他のメンバーを見失わないで別の世界に行くことにも、少しだけ慣れた。

 

「どう? いい感じか?」と、屋上でネズミは尋ねてきた。リリとミドは遅れてくるらしい。現実ではクラスが違うので、こういうラグが起きる。
「まぁ、ぼちぼち」
「そっか」と彼は笑い、それから少し真面目な顔をして訊いてくる。
「リリのこと、どう思う?」
「どうって?」
「や、だからどうってことだよ。かわいいじゃん。何もしてないのに彼氏になんて、ラッキーだろうが」
「いや……」と俺は言葉を濁す。端からはそう見えているのだろうか。「ここ何日も、付き合わされて大変だよ。朝も帰りも」
「いやー、学生さんいいですなぁ。処世の悲しみも知らないで」
 こそばゆくなってきたので「そういうお前はどうなんだ」と反撃した。
「見た感じ、ミドと仲いいみたいじゃないか」
 その言葉に「あー」と彼は頭を搔いた。「うーん、でもしょうがねぇか。口が軽いんだよ、俺。ま、言うよ」
 何がしょうがないのだろうか、と俺は思ったが、彼はすぐに答えを告げた。
「俺たち、付き合ってるようなもんなんだ」
「……ようなもの?」
 奥歯に何かが挟まったような物言いが、不自然だった。
「俺はそう思ってるけど、あいつは違うかもな。ミドはジャンキーだから、他にも別の世界にいっぱい男がいるんだよ。そういう奴だ」
 そういう男女関係をなんと呼べばいいのだろうか。少なくとも今の日本語にはないだろう。
「だからね、結構しんどいよ。別に浮気とかではないんだけど。俺だってミドとそうなるまでは似たようなことしてて、そこそこ楽しかったし。後悔は、してる」
「後悔?」
「ミドに悪いって思っちゃうんだよ。馬鹿馬鹿しいだろう?」
 そうだろうか。どちらともいえないと思うけれど。俺には分からないレベルの話だった。

 

 金曜。俺は明日、三人に「放課後、遊びに行こう」と誘われていた。
 初めて『エヴェレット』を学校以外で飲むことになるのだ。
 六月、期末試験まではまだ少し時間がある。今のうち、ということなのだろうか。まぁ、薬を使えば試験なんてわけないのかもしれないから、関係ないのか。
 そんな状況で、一限の古文が終わる十分前、眠気がようやく引いてきた頃にふと思い立つ。
 休み時間に入ると同時に、俺は廊下に出る。できるだけ時間を無駄にしたくないので、早足で歩いていく。
 あの三人が、現実でどう過ごしているのか。
 それが突然に気になった。
 好奇心というほどではなかったし、どうせまた俺は屋上に行くだろうから、単純にクラスを知りたければ直接訊くてもあるにはあるが、ひとつだけ疑念があった。
 今日までに、現実と『エヴェレット』の世界で、二種類のリリとネズミとミドに会っている。
 向こうの世界での彼女たちはとても快活で、リリとともにクラスの中心的な存在だ。しかし、屋上で話した二人は随分と印象が異なっていた。リリはさほど変わっていないようだったが、特にミドの容姿や言動は、もはや別人と言っていい。
 そこで俺は、あの時、あの世界のクラスのことを思い出す。そこでは逆に現実で目立っていた生徒が、個性の埋没した人間になっていた。
『エヴェレット』を使うということは、願望や夢を叶えること。そう今までの俺は理解している。ということは、あの三人がシェアしている夢は、少なからずその願望が投影されているはずだ。
 と、いうことは。
 三人には少々申し訳ないかもしれないが、それを確かめたかったのだ。

 

 ……うちの学年は全部で六クラスある。Aが特進、それ以外は普通クラスで、定期試験とは別の学力調査の結果から学力は均等にされている。
 受験結果等もあって、俺たちは他より一クラス少ないが、それでもクラス外の知り合いなどいないし、顔などまったく覚えていない。だから、一から探さなければいけない。しかし全クラスしっかり確認する時間もないし、そんなことをしていたらバレてしまうかもしれない。それに席を外している可能性もある。
 そこでローラー作戦を使う。
 まずD組から近い方の端にあるF組に行って、扉の一番近い席にいる暇そうな男子に目を付け、声をかける。誰に話しかけるべきかは、印象やその場の空気感で判断する。
「ごめん、ちょっといいかな」
「何ですか?」と怪訝そうな顔をする彼に「このクラスに重松さんか福岡さん、あとは大久保さんって人、いる?」と単刀直入に訊く。
「……三人とも、そんな名前の人いませんけど。どうかしたんですか」
 外れ。「いや、いないならいいんだ」と会話を打ち切り、歩き出す。嘘の理由を説明するよりは、いきなり訊いたときの反応を確認してさっさと次に行った方が時間の節約だ。
 Eは移動授業の帰りらしく人がまばらだったが、三人で駄弁っている男子グループに訊いて手応えはなかった。もしこの方法を取らなければ無駄に時間を浪費しただろう。
 引っかかったのはC組でのことだった。
 教室をちらりと見たが発見できなかったので、廊下に残っていた数学教師と話している女子に目を付けてみる。眼鏡を掛けた、実直そうな子だ。
 教室に戻っていく彼女を引き留める。
「C組の人だよね」と困惑させる間もなく切り込む。彼女は頷いた。「急いでいるから用件は聞かないでほしいんだけど、ある生徒がこのクラスにいるか訊きたいんだ」
 そして俺は「重松さんか――」と言いかけたところで、彼女は即座に反応した。
「……重松くんの知り合いさん?」と彼女は印象とは異なるざっくばらんな声音で首を傾げた。「あそこにいるけど……珍しいな」
「珍しい?」
「や、そう言ったら失礼か。ここからだと見えにくいけど、今あそこにいる」
 ちょうど反対の扉側の壁近くで、そこには何人かの集まりができているようだった。遠いので何を話しているのかは分からない。だが、その隅にいる男子を彼女は指さした。
「あれが彼だよ」
 最初は別人に見えて、その言葉に戸惑った。けれど一歩引いてみると、なるほど確かに屋上で見たネズミだ。どうしてさっきは彼に気づかなかったのだろう、と思ったが、明らかに印象が違うような気がする。
 少し注意を向けると、グループの隅で彼はずっと、何か期待ありげに黙っている。他の連中は彼に目もくれていないが、それでも彼はタニシのようにそこにひっついて、時折求められてもいないのに相槌を打ったり頷いたりしている。しかし、ついに隣の男が露骨に邪険な態度で背を向けたので、彼はその場を去った。するとグループの連中は途端に顔を合わせて忍び笑いをした。
 そして今度は反対側の隅に向かい、スマホで動画を見ている二人に話しかける。彼らは先程のグループより少し大人しそうだ。相変わらず声は聞こえないが、画面をのぞき込んで、熱心に何かを話しかけている。二人は笑っていたが、ネズミを迷惑がっているのは明らかで、すぐにでも話を畳みたがっているらしい。まもなく片方が耐えかねたのか切り上げて自分の席に戻り、もう片方もさっさとスマホを片付け、勿体ぶった動作で次の授業の準備を始めた。
 そして彼は、再び別の島に移動する。
「またやってるみたいだ」と女子は哀れんだ目を向ける。「ずっとああなんだよね。彼の友達だったらごめんね。でも正直、みんな迷惑がってるかなぁ」
「ずっとああなの?」
「四月ってだいたい仲のいい友達みたいなのが決まるよね。そこでちょっと失敗しちゃってね。一旦ウザいやつって思われると、イメージを変えるのってかなり難しいし……問題なのは、はっきり指摘する人がいなくて、みんな陰で笑ってるから、本人が気づかないってことなんだ。日本人って陰湿だよね」
 私もどうにかしたいんだけどね、と彼女は言う。
 そこでちょうど彼がこちらに背を向ける。何かがシャツに張り付いているのが見える。それは『賞味期限間近、表示価格より二割引!』と書かれた値札のシールだった。購買のパンか何かのものだろう。誰かが張り付けたに違いない。哀愁を感じさせる背中だった。
「呼んでくる? あ、私、学級委員だから話しかけやすいし、心配しないで」
 彼女の提案を「いや、大丈夫」と俺は断る。「むしろ、俺が来たことは伝えないでほしいんだけど、いい?」
 彼女は勝手に何かを察したようで、「……分かった」と頷く。「何もできなくてごめんね」
 きっと彼女は正義感が強くて、俺をネズミの旧友か何かだと思っているのだろう。
 学級委員さんに礼を言って、俺はすぐ歩き出した。あまり時間がないのだ。

 

 次の休み時間、今度はミドとリリを探す。残っているのはAとBとだけなので、あとは訊かなくてもいいかもしれない。
 ミドは拍子抜けするほどあっさり発見できた。……というのも、彼女はちょうど俺が歩いてきた扉のすぐ近くの席だったからだ。
 彼女の周りに、いかにも浮ついてた空気を放つ男が二人、女が一人いて、彼女に話しかけている。けれど彼女は無視してずっと英単語帳を読んでいる。
 彼女が反応しないのが三人を煽るのか、なおさら彼女たちはミドに絡んでいく。見た感じでは明確な苛めの類ではないと本人たちは思っていそうだし、なんならスキンシップだとさえ言いかねないけれど、こういう手合いがもっとも面倒なのだ。
「なぁ、ミドちゃん何か反応してよー、遊ぼ」
 右の男が顔を寄せる。たちまち「おい、見境ねぇぞ」と左の方が下卑た笑いを浮かべる。女は「え、アンタそういう趣味?」と手を叩いて侮蔑的に唇を歪める。「えっ地味っ子って良くね? 黒髪メンヘラちゃん、モエー」と右は嘲笑する。「ブレザーずっと着てて暑くないの? まくった方が涼しいよ」と女がミドの左の腕に触れる。
 ミドの眼の色が変わる。
「ミド!」
 とっさに俺は彼女を呼んでいた。
 その瞬間、ゲーム画面がフリーズしたように、世界のすべてが固まった。
 この馬鹿どもと話すつもりはなかった。一歩だけ歩み寄って、ミドに「来たよ。行こう」と言った。彼女は目の前で起きていることが信じられないという顔をしていたが、「行こう」と冷たく俺が言うと、黙って席を立ち、そのまま俺の方に歩いてくる。
 そして、俺たちはそのままクラスから離れる。後ろで「あれ、彼氏?」「うわ、意外とやるじゃん」「あー、フラれてやんの」等々の雑音が聞こえてきたがすべて無視する。
 とりあえず階段の踊り場まで来たが、ミドは黙っている。俺も言うことが見つからない。なぜ彼女を助けたのか、自分でも説明するのが難しい。
「ごめん、見てられなかった」とかろうじて俺は言った。それは嘘ではない。あんな現場を目の当たりにして気分がよくなるはずがない。それで理由は十分だ、と困惑を打ち切る。
 ミドの方はといえば、初めて屋外に出た飼い猫のように状況を呑み込めていない。
 小さく口を開いたり閉じたりしていたが、気まずさもときにはいい働きをしてくれるもので、ついに耐えかねて「……ありがとう?」と言った。疑問形なのは感謝をどこに向けたらいいのか分からなかったからだろう。こちらとしてはどうでもいい。
「あまり訊くべきじゃないか」
 ミドは一度頷いてから「いや、でも……」と迷う。「ごめん、見られちゃって」
「謝りたくなる心境は分かるが面倒だからいい。ただ、どうするんだ」
 現実問題、一度助けを差し伸べたとしても、また教室には戻らなければいけなくなる。そこでまた絡まれれば、俺が助けた意味は何もない。
「普段はどうしてるんだ?」
「『エヴェレット』があるから……飲んで、こっちの世界でのお昼以外の休み時間は、ずっと寝てるかトイレにいる。でも今日だけは切らしちゃって、昼休みに屋上に行って、なんとかするつもりだった、とこ」
 ボソボソとミドは喋る。言外にクラスでの状況を伝えているが、ちゃんと防衛策は取っているわけだ。そして、今日は偶然に偶然が重なってこういった事態になった。
「そうか、気をつけないとな」
「うう、……ごめん、なさい」
「だから謝らなくていい。それは会話じゃなくて防御だ。……あっちではちゃんとできてるのに、よく分からないな」
 うっかりと口をついた一言だった。すぐに触れるべきではなかったと察して「悪い、無神経だった」と詫びる。
 でも思ったよりミドの反応は静かだった。
「なんで、だろうね」
 私も分かんないや、と彼女は自嘲気味に小さく笑った。

 

 ミドが教室に戻ると言ったので止めるわけにもいかず見送った後で、やっとリリのことに思い至る。この流れならA組だろう、と思っていた。
 授業を勤勉に終え、次の休み時間が来る。こっそりと覗きに行くと、移動教室の帰りで、次は課題か小テストでもあるのか、クラスはバタバタして慌ただしくみんな席に揃ってノートを開いていた。けれど、そこにリリの姿はない。もしかしたら他のクラスで、ほかの二人に気を取られて見逃してしまったかもしれない。
 そう考えて立ち去ろうとしたとき、ふいに教室の隅、自分がいる前方の扉の対角線上にある席が目を惹いた。ほとんどの生徒がもう席についているのに、その席だけは空いていて、これから掃除でも始めるかのように椅子が机の上に逆さに乗せられていた。
 ……奇妙だったけれど、自分も授業に遅れるわけにはいかないので、戻ることにした。

 

9

  俺たちは当然現実の、県民の子供なら誰もが遊びに向かう駅前、屋外の二階部分で待ち合わせた。近くのストリートミュージシャンを遠目に見ていると、ぞろぞろ三人が集まってきた。
「揃ったねー」
 常識の範囲であれば特段服や身だしなみに頓着しない人間なので、ブラウスもスカートも暗色で固められたリリは育ちがよさそうだな、程度の詩情のない感想しかなかったのだが、問題はもう片方の女子だ。
 ミドは学校指定のジャージを着ていた。
「や、これは、時間ギリギリで何着たらいいか分かんなくて、パニックになって、その」
 微妙な空気に耐えかねたネズミが「いやいや! 可愛いと思いますよ。ほら、愛校心もあるし、エコロジーだし、あ、着古されて洗濯で伸びきった萌え袖もいいもんで……」とフォローにならない助け舟を出し、耳を引っ張られて悶える。
 しかしそんなネズミは背の高い従兄のおさがりみたいなサイズの合わないジャンパーにダボダボのシャツを着て、よれたズボンを履き、そのくせ中途半端に髪をセットしている痕跡がある。
 この集団を端から見て今から遊びに行く高校生だと誰が思うだろうか。
 ……それにしても、全員が綺麗に時間ちょうどに合流できたのには訳がある。
「えーと、私たちはまず重大なことを忘れていたわけですが」
 集合した俺たちが真っ先にしたのは、SNSアカウントの交換だ。
 昨日は昼休みがなかったので出会わずに帰ってしまい(案の定顔を合わせたリリは「待っててよー」とゴネたが)、そういえば彼女たちと連絡手段がないのに気づいた。待ち合わせ場所と時間は決まっていたのでこうやって出会えて一安心だけれど、これは明らかに幹事を自称していたリリの失敗ではないのか。
「お前、ここぞというときに抜けてるよな」とネズミは呆れ、「陰キャあるある……」とミドも追い打ちをかけたがリリは聞こえてないふりをしながら「……いや、ほら! 結果オーライだし! あ、ヤバい、もう予約の時間だし行こ! はい行った行った!」と空元気を発動して、強引に俺たちを引率する。
 さっそく帰りたくなってきた。

 

 カラオケに行くのなんて何年ぶりなのだろうか。
 両親の離婚、それから幾年後の自殺のゴタゴタで、友人と遊ぶ機会なんてなかったし、目に映るものすべてが奇妙に見える。……代表者の名前記入欄にこっそり「田渕ひさこ」と書いたリリには閉口したが。偽名の通じる適当な店でいいのだろうか。
 フリータイム、ドリンクバー付き。
 個室についたところで、さっそくリリが部屋を暗くする。「やっぱこれじゃないとねー」ともう一人で盛り上がっている様子だ。
 淀んだカラオケルームの空気と暗い部屋の相乗効果で少し気分が悪くなったが、他の三人は気にならないようだったので、仕方なく自分で空調を弄って換気する。
 三人は端末を弄ったりマイクの音量を調節していたが、やがて準備は終わったらしく、まもなく各々が曲を予約していった。そうか、ここは素人が歌を歌う場所なんだな、と思い出したが当然そんな気にはならないので「リュウは?」とネズミが端末を回してきた首を振った。
「えー、一緒になんか歌うつもりでデュエットを入れたのにー」とリリは訴えたが俺は無視したので余計に絡みが面倒になる。「ははん、もしや人前で歌うのって恥ずかしい? 共感性が羞恥? 大丈夫、歌は喉じゃなく心で歌うものだから。いや逆だっけ? とにかくリュウくんがどんなジャイアニストでも嫌いにならないよ。私、鼓膜強いし」
「黙れ」とだけ言ってフードメニューに目を落とす。押しの強さをどうあしらうか、少し分かってきた。
 俺は心を無にした。リリがタンバリンを押し付けてきて、ネズミがアニメソングの掛け合いをひとりでハイテンションで寒々しく歌い始めたが、俺はモニターに空いたマイクを投げつけたりはしなかった。それでも体感では十五分くらい歌っているように思えてきたので、耐えかねて横を見ると、彼女は何も入れていなかったらしく、ずっと端末を弄っていた。
「歌わないのか?」
「いや、曲が入ってるか調べるのが好きで……」とミドは雑音で掻き消える寸前の声で呟く。
「音楽は好きだけど、歌うのほんとは好きじゃないから」
『ほんとは』というのは『現実では』という意味だろう。少し分かるかもしれない、と思う。
 しばらく彼女とその遊びに付き合っていると「あれ、ミドはどうするの?」とリリが俺たちに声をかけているのに気づく。ネズミは歌い終えたらしく満足げだった。
「わ、私、まだ決まってなくて……」
 リリはそこでほんの一瞬何か考えたようだが、すぐにこう答える。
「じゃ、私と歌わない?」
「……リリと?」
リュウくんが嫌って言うから、せっかくだし。知らないと思うけど、私が先に歌うから同じメロディーで合わせて」
 でも、とミドが躊躇う前にリリはもうマイクを渡し、曲が始まる。
 スーパーカーの「Lucky」。俺は偶然にも知っているバンドだったが、昔の曲なのでミドは間違いなく知らない。さらにそもそもの臆病さもあって、彼女のパートはやたらよれていたが、キャラと違いリリがしっかり支えて歌うので、まるで親鳥が雛を先導しているみたいで趣があり、聴きながら感心してしまった。
 それからリリは対照的に戯画的に媚びた声でアイドルソングを歌い(好きやら愛してるやらの言葉が来る度に俺の方を向くのが憂鬱だった)、なんとか一周したところで本題が始まった。忘れかけていたが、『エヴェレット』を使うためにここに集まったのだ。
 机の上に錠剤が並べられる。
「大丈夫なのか?」
「薬は飲食物じゃないから持ち込みじゃないでしょ。平気平気」とリリは言う。いや、ドラッグを持ち込むのはそれ以前の問題だろ。
「リリ、まだ持ってる?」とミドが訊く。「もうちょっとほしい」
「……やりすぎじゃない?」
 リリの言葉に俺は驚いたが、それはミドを少し刺激してしまったらしく、「大丈夫だから」と、彼女は静かに語気を強めた。ネズミは何か言いたげだったが「ドリンクバー行ってきて」という一言に従って立ち上がった。俺がコーラを頼んだとき、ミドがついにこう言った。
「どうしてもってなら、払うから」
「いや、お金もらうのはよくないって……」
 短い押し問答があったが、やがてリリは「うん、分かった」と折れて、バッグからコインケースのような箱を取り出した。中には、数えきれないほどの『エヴェレット』が入っている。
「分けるよ」
 薬が分配される。俺はミドを見たが、彼女はどこか周りが見えていないように感じられた。

 

 ネズミが器用に四つのグラスに別々の飲み物を入れて持ってくる。いよいよらしい。
「じゃ、飲もうか」
 一同がコップの中の液体に『エヴェレット』を入れていく、量はかなり大胆で、みんながザラザラと投入する。ミドに至っては溶かした飲み物がドロドロになるのではないかと思った。
「待て、そんなに飲むのか?」
「ああ。リュウは知らなかっただろうけど、今日呼んだのはパーティーのつもりだったんだ」
「……今までのとは別の使い方もある」
 ネズミとミドはそう答えた。何か、危険なものを感じる。
「ま、やってみれば分かる。いつも通り
 そこまでする気が乗らなかったので、貰った薬の半分をこっそりポケットに入れ、残りをコーラの中に入れる。暗い部屋でも赤黒く見えていたコーラの液が、乳白色に染まった。
「じゃ、リュウくんをお祝いして、かんぱーい」
 リリが音頭を取り、俺たち四人は一斉に、溶けた劇薬を飲み干す。

 

 やがて長椅子の上、自分が横たわっていることに気づいた。
 どうやらしばらく意識を失っていたらしい。頭がズキズキと痛んで、視界に最初に薬を飲んだ時と同じような線や模様が微かに浮かんだり消えたりする。
 平衡感覚が戻ってきたところでゆっくりと身体を起こす。部屋はまだ暗いらしい。奇妙な模様は消えたが目の前はぼやけて白んでいるから、まだはっきりと見えない。
 どれだけの時間が経ったのだろうか。ひょっとして夢を見ていたのか? でも、それならどこからどこまでが夢なのだろう。それとも今も夢の中なのか? だからこんなに朦朧としているのだろうか。
 そう思ったとき、堅いものがぶつかる激しい音が何度かした。何か重量のあるものが激しく動いて、何かが衝突したり軋んだりしている。それに、甲高い音も聞こえる。
 最初は何が起きてるのか分からなかったが、動いている曖昧な輪郭を見ていると、どうやらこの騒ぎを起こしているのは人間らしい。目を凝らそうとしたところで、ようやく人間らしい声を聞きとれた。
「あ、リュウ! リュウー! 起きた? リュウ! ねぇ! 聞いてる?」
 輪郭が二つに分裂して、片方がこちらに近寄ってくる。ピントが合ったのか、あるポイントではっきりと人物の姿が見えた。
 ミドだった。
「起きて! ほら! ずっと寝てるから死んだかと思ったじゃん、ネズミいきなりあんなんになるし、つまんないなー、あははは!」
 何か言葉を返そうと思ったが、その姿に何も言うことができなかった。
「なーに、どうしたの? そんなに私のことじっと見て。もしかしてこーふんしてる?」
 外見は向こうの世界でのミドだったが、それは髪や顔つきなどで判断したもので、ほとんど裸だった。唯一身にまとったシャツがビリビリに裂けていて胸に下着は見えないがそんなことはどうでもよかった。いやどうでもよくはないのだがもっとすごいことが起きている。
 ミドは頭から血を流している。
「あ、これ?」と彼女はようやくこちらの視線に気がついたようだ。「いや、全然平気! みんな黙ってて暇だからふざけてたらグラスが刺さっちゃってー。これくらいじゃ死なないよ」
 彼女が指を差した先、テーブルの上には砕けたグラスがあった。四つぐらいの大きな欠片に分かれているが、そのひとつには血がついている。これが怪我の原因らしい。
 そこで彼女に目線を戻すと、頭に何かが巻かれているのに気づく。きっとシャツの一部を引き裂いて頭に巻いたのだろう。しかしそれはぶら下がっているだけで、まったく止血の役割を果たしていない。
 彼女を止めなければ、と思った。出血の量は軽い傷というレベルを超え、彼女の顔を汚して、こっちにまで爛れた鉄の匂いがしてくる。このままだと危険だと思った。
 けれどミドは聞く耳を持たず、平然としている。
「ぜんぜん痛くないから大丈夫大丈夫、気にしないでー」
 まずい、このままだと命が――と思ったところで、こんなに怪我をしているのにミドが平然と話せるわけがないことに気づく。そして彼女は痛くないと言っている。
『エヴェレット』の効果なのか、と即座に察した。
 そうだ、これは薬なのだ。それも、医薬品ではない類の薬。そういう効果があってもおかしくない。
「リュー、ほら、楽しもうよ、効いてるうちに、せっかくなんだからさ、ほら、おいで?」
 ミドが俺の身体にくっついて、顔を寄せてくる。血と彼女の髪の匂いが混ざって鼻を突き、生理的な反応で心臓が高鳴る。ミドは唐突に笑い出し、俺の頭を抱いて胸に押し付ける。息が詰まる。状況が呑み込めない。
 とりあえず抜け出そうとじたばた身体を動かすと、彼女は「リュウじっとしてよ、もー、ケダモノなんだからさぁ」とふにゃふにゃした声で笑う。「こっちじゃダメだった?」
 床が見える。血がぽたぽたと垂れて小さな溜まりができている。
 ミドの脚が見える。そちらもジャージのズボンを脱いでいて、肌が露出している。
 そこで足が滑り、倒れる。血溜まりを踏んでしまったのだろう。ほとんど裸みたいなミドが俺に覆いかぶさってくる。
リュウ、どうする?」
 心臓はバクバクと脈を打ち、息も荒かったが、頭は異常なほど冷静だ。現実感がなかった。視界に薄い膜が張って合るような感じがする。そこで、目の前が白っぽいのはそのせいなのか、と合点がいった。
 これが現実だと思えない。目の前で起きているとは思えない。自分がこの世界にいるとは思えない。動くこともできず意思もない監視カメラのように、ただ状況を見ているだけ。
 そのままミドは俺に手を伸ばしてくる。血が俺の頬につく。手首と腕にも、やはり脚と同じように――
「あ、ごめーん、今綺麗にしてあげるからさー」
 ミドは顔についた血を気にしたらしい。そんなことよりもっと気にすることがあるだろと思うが、とにかく顔を近づけてくるので何をするのかと思うと、
 彼女はいきなり俺の頬を舐めた。
「びっくりした?」
 魅惑するように、耳元で囁かれる。
「もっとしてあげよっか?」
 まるで深夜放送されている映画を観ているようだった。
 何も起きていない。
 俺はここにいない。
 心は遠く、高い場所を飛んで、見下ろしている。そうだ、今は『エヴェレット』を使っているから、向こうにも自分がいて――そうだ、これはときどき覚える感覚。白い膜。解離。それがずっと続いている。
 なら、この身体は? この身体はどちらだ?
 ミドが顔を近づけてくる。身体に力が入らない。逃げられない。
「ほら、いくよ」
 また彼女は顔を近づけてくる。そして今度は、唇同士が近づく。
 キス?
 そう、頭が理解した瞬間――


「――いやああああああ!」

 

 ミドは唐突に叫び、倒れた。
 上半身を持ち上げると、彼女が床に転がっている。
 顔を見ると、呪詛みたいに何かをずっと呟いているようだったが、声になっていない。
「おい! しっかりしろ!」
 彼女は俺の声に反応して一度だけこちらを見たが、次の瞬間にはがっくりと力を失って眼を閉じた。本当に死んでしまったのではないかと思ったけれど、呼吸の音がしたので、どうやら意識を失っただけのようだ。
 俺は頭に巻かれた布をもう一度締め直す。血は止まっている。根拠はないが、おそらく出血死はしないだろう。
 ふらつく身体で彼女を持ち上げ、長椅子の上に寝かせる。身体は驚くほど軽かった。
 そこで気づいた。
 ミドの腕や手首、脚には無数の傷がある。
 記憶が確かなら、それはさっきまでの彼女には存在しなかったはずだ。
 混乱の中で、脈絡もなく突然思った。
 彼女が呟いていた言葉は、「ごめんなさい」だったのではないか――そんな、気がした。

 

 部屋はもう静かだ。
 ミドの頭の隣に座ったところで、ネズミとリリのことに思い至る。
 二人を探して部屋を見渡すと、ネズミは眼を見開いたまま椅子に座っていた。
 目の焦点は合っておらず、当然だが正気な様子ではない。微動だにしないのでマネキンか何かかと見紛うほどだが、箸から涎を垂らした口が酸素を求めてパクパクと動いているので、生きていることが分かる。グラスを持っている手は微かに震え、中の氷は溶けて水になり、飲料を薄めていた。
「おい、ネズミ」と声をかけたが反応しない。
 そこで彼をよく見ると、着ている服が微妙に乱れている気がする。いや、サイズ感がおかしかったのはもともとだが、何か、無理やり脱がそうとしたような――そこまで考えて、思考を振り払った。別にこいつらが何をしようとしていたかなんてどうだっていい。
 リリを探す。
 拡散しそうになる意識を強引に引き戻し、凝縮させ、探す。
 ――いない?
 最初はそう思った。三度ほど辺りを見回して、ようやく見つける。
「ああ、リュウくん」
 リリは床に体育座りし、俺が座っている長椅子の端に背中をかけていた。ここからでは顔は見えない。
「どうしたんだ」
「『エヴェレット』自体には気分を高揚させたり痛みを止める働きはない。でも、使い方によっては快感を得ることはできる」
「は?」
 彼女の声が不自然に平静だったので、俺は驚いた。機械音声が喋っているかのようだ。
「『エヴェレット』の服用者は、自分の望む好きな世界を選べる。でも、変えられるのは世界の側だけじゃない。望む自分のいる世界を探すことだってできる。外面も、内面も」
「……リリ?」
「でも望む自分をイメージするのは難しい。人間には長年生きてきたぶんだけ、自分自身に対する強固な信念がある。だから普通なら、時間をかけてゆっくり、少しずつなりたい自分をイメージして、理想の自分がいる世界を見つけていく。だけど」
「リリ、どうした? 聞いてるのか?」
「当然『エヴェレット』は飲んだ量によって効果が増す。具体的にはより敏感に、ダイレクトに世界を操れるようになる。だから多量に飲むと、自分の感情をダイレクトに増幅させることができる。それを利用すれば、自分で自分をハイな世界に持っていって、飛び回ることもできる。こんな風に」
 そこまで喋り終えてから、彼女は黙った。
「何が起きてるんだ」
「本当は私が教えてあげるべきだったんだけど、『バッド』になっちゃった。ごめん」
「いつもこんなことをしてたのか?」
「私がなんとかしてるんだ。でも今日はうまくいかなかった。二人を止められたらよかったんだけど」
 二人は無事だよ、とリリは俺に伝える。
「少なくとも、向こうの世界では、このカラオケボックスですやすや眠ってる。私がずっと注意して見てるから。ミドもあまり混乱はしてないみたい」
 ごめんね、ミド。そう彼女は小さく言った。
「『ゾンビ』だった俺には、こういうことを隠してたのか?」
 リリは頷く。
「こんなこと、もうやめるべきだよね」
 俺は何も返せなかった。自分は部外者だ。何か意見を挟む権利があるのか分からない。もしそれができたなら、とっくにミドを止められたはずだ。
「すまない」と俺は率直に言った。「俺は何もできなかった。最初からずっとそうだ」
「うん」
「止めるべきタイミングはいくらでもあったと思う。でも自分も『エヴェレット』を使ってしまったし、その上ミドがめちゃくちゃになっても、傍観しているだけだった」
「……気にしないでいいよ」とリリはぽつりと答える。「こういう言い方をすると怒るかもしれないけど……リュウくんが変な人だってこと、分かったもん」
「変?」
「だって、リアルのリュウくん、私と出会ってから一度も笑ってないから」

 

 リリたちと出会ってからもう一週間近く経っている。
 言われて、確かに気づいた。記憶している限り、その間、俺は一度も笑っていない。
リュウくんの人生を変えてみせる」とリリは言った。けれど、俺はちっとも笑わなかった。
 それを彼女はどう思ったのだろうか。
「いろんなことが分かってきたから、気に病まないで。今回は私の監督不行き届きのようなものだから」
 そして彼女は「賭け、私の負けでいいよ」と笑う。「忘れてた? いや、もうどうでもいいかもしれないけど、権利をあげる。私になんでも言うことを聞かせられる権利。なんでもいいよ。そう、たとえば『私と別れろ』って言うなら――」
「やめろ」
 俺は言葉を遮った。
「もういい。話さなくていい。……リリ、疲れてるだろ。それにみんなも、向こうではぐったりしてる。話しながら、一瞬だけ戻れるか試してみたんだ。あまり上手くはいかなかったけど、様子は見えた。二人とも起きてる。混乱してるけど、もうちょっとでちゃんと話せるようになりそうだ。でも、ぐったりしてる。リリにも見えるだろ」
「……うん、言う通りだね。帰ろう」
 意識が引き戻されていく感覚がする。どうやら『エヴェレット』の効果が切れてきたらしい。俺が貰った半分しか飲まなかったせいかもしれない。
 カラオケルームはめちゃくちゃだったが、この世界がどうなろうと戻らなければどうってことはない。リアルの部屋で四人はずっと寝ていただけなのだから。この世界での彼らの無事を祈ろう。
 ……まぁ、リリたちが何と言おうと、どうせ『エヴェレット』は幻覚を見せるだけだ。そんな心配はしなくていい。
 とにかく今日は帰るべきだ。
 意識が完全にここから消える寸前、リリが小さく何かを口にしたのが聞こえた。
「ミド、私、最低だ」
 その言葉の意味を考える前に、俺の意識はもとの身体まで飛んで行った。

 

 帰り際、俺たちはお互い、ほとんど何も言わずに解散した。
「今日はヤバかったな……こりごりだよ」
 ネズミは気丈に手を振ったが、全員が疲れ切っているのは明白だった。リリは書店に買い物に行く、と言って去ったので、久しぶりに一人で帰ることになる。
 既に真っ暗になった街を、ぼんやりした頭で歩く。白い膜が、まだ視界に張ってある。道行く人も道路を走る車も、駅から聞こえる電車の音も、すべてが自分と関係なく思える。
 唐突に、死にたいなと思った。

 

10

  ほとんど両親は家を空けていたので家族とは名ばかりだったが、姉は初対面の言葉と裏腹に、多くの時間を俺と過ごしてくれた。たぶん、最初は暇だったんだと思う。

 

「――で、リュウマクタガートのC系列については先月、ミンコフスキー空間と相対論の話は先週に話したと思う。今週はずっとエントロピーの話をしたわ」
「うん」と俺は漫画から目を上げて何も分かっていない返事をする。
「誤解が多い話だから難しい説明をしたけれど。復習すると、部屋は放っておくと散らかる。難しく言うと断熱系のエントロピーは増大するということ。もっと難しく立ち入ると部屋が散らかっているかはどこからどこまでを部屋とみなすかによって変わるので、情報、人間が何に価値を置くかに密接に――いや、それはいいわ。とにかく部屋は散らかる。じゃあ片付けなきゃいけない。でも、もしひとりでに部屋が片付く世界があったら便利ね」
「確かに」

 

 姉が指摘した通り、両親の結婚には怪しげなところがあった。
 お互いが出会ったのはほんの数か月前、人づてに聞いた話では二、三度しか対面していなかったという。

 

「その世界ではエントロピー減少の法則が働いていて、勝手に秩序ができる。部屋は片付き、冷めたコーヒーは熱くなり、死んだ人も生き返る。素晴らしい世界。でも、現実はそうじゃない。けれど、それが人間を生んだ。……生物には、外界の刺激に反応する原始的な意思がある。それは、増えていくエントロピーからなんとか自分の秩序を守ろうとすること」

 

 まもなく流言はますます大きくなった。というのも、父が教授職を辞め、新しく会社を設立したからだ。
 ペーパーカンパニーだ、という噂。
 怪しいことは尽きなかった。父の関係者が母の企業傘下で職を得たという話。事業の実態も不明瞭なのに父の報酬が尋常ではなく高いという話。政治関係者との接触のスクープ。掘れば掘るほど疑惑は出てきた。
 でも俺は決定的なことが起きるまで、何も知らなかった。

 

「そしてその反応はいつしか意思になったし、私は意識にさえなったと思っている。このへんは漱石の『文芸の哲学的基礎』が素晴らしくて……いや、話が逸れた。さて、もしひとりでに部屋が片付く世界があったら、リュウは片付けようと思う?」
「……勝手にやってくれるなら、やらないかな」
「そう。だからエントロピーが減少する世界では、意思は生まれない。意識も生まれない。ディストピア。これはSFのような並行世界で考えてみても同じよ。もしIFの世界が無限にあって、自在に行き来できたとしたら、意思は生まれないんじゃないかしら? つまり、人間に世界がひとつだけだというのは、必然なのよ」

 

 一方で、高校生になった姉はますます才能を開花させた。父と連名で発表した論文が大きな話題になったのだ。それは学会よりは世間に受け、メディアは天才父娘だと騒ぎ立てた。
 だが、一部ではささやかな陰謀論が出回った。
 父親の近年の業績のほとんどは、彼女のものなのではないか――という話。
 たかが十五の少女にそんなことができるだろうか? 俺は姉が死んだ今も懐疑的だ。彼女は詐欺師の類だというのが現在の社会的評価であり、俺も基本的にはそれに同意する。

 

「でも姉さんは、並行世界に行きたいんでしょ?」
「もちろん。それが科学に興味を持ったきっかけだから。小さい頃の私はこの問題にどう対処するか考えた。それでね、あるとき結論に達したのだけれど――」

 

 けれど、もしもそれが本当なら?
 両親の悪い噂と一緒に考えると、何が見えてくるだろうか?

 

「なんでも願いが叶うなら――意思なんて、いらないんじゃないかしら」

 

11

  歯車が掛け違っている感覚、というものがある。
 月曜日の四人の会話は他愛もない、いつもと変わらないどうでもいいものだったけれど、何かがズレているような奇妙な感じがした。
「でさ、そもそも俺がオタクになったきっかけって言うのはさ――」
 ネズミはクラスの運動部員にアニメの魅力を教えてやったという中学時代の嘘に決まっているくだらない自慢話をしていたが、どうにもミドはちゃんと聞いているようではなかった。
「……どうした? ミド、そんなに黙ってさ」
「あ、ごめん」
「いやすまん、黙ってるのはいつもだった」
 彼の軽口にも、ミドは俯いたまま、あまり反応しない。
「あんまりネズミが自慢話するから閉口してるんだよ。どうせまた盛ってるんでしょ。ほんとはラノベのブックカバーとか取られて晒されたりしてたんじゃないの?」
「違ぇわ!」
 ネズミはコミカルに言い返したが、まもなく「……いや」とばつが悪そうに語気を弱めた。そこでまた沈黙が生まれる。
 リリの態度だけはいつもと同じように見えたが、この空気だと何か空元気に見える。それは錯覚なのだろうか。
 お互い決して機嫌が悪くないのに、何かがズレている居心地の悪さ。
 それは四人とも感じていたはずだ。けれど、お互いその原因は何だと考えているのだろう?
「そうそう、映画って今週だったよね」
 リリが緊張を破るように、唐突に切り出した。
「チケットもらったやつ?」
「そうそう。三人で行くってやつ。初日だから混んでるかも。前売券、向こうの世界にあるから行かなきゃね。後でミドに渡すよ」
「うん、えっと……」とミドが何か言いかけて、俺の方を見る。
 一瞬、目が合う。
 だがミドはすぐ気まずそうに弱弱しく視線を外した。リリは気づかなかったらしい。
 俺は土曜のことを思い出す。血の匂いが蘇って唾を飲み込んだが、すぐにイメージは頭から去った。
「それにしてもまさか二席だけ相席なんてすごいよね。ね? ミド。ね?」
 リリは圧力をかけたが「……いいよ」とだけ呟いた。「ありがとーミド! 我が大親友! 世界一! 略すとセフ――」と言いかけたところで空気を察したのか「あはは、自重自重」と言葉をひっこめた。
「そんなことはいいんだよ、とにかくありがとありがと。チャンスが来たわね」
 また気まずくなるのは気分が悪い。だから「何のだよ」と突っ込んでやった。
「そりゃもう、真っ暗な空間で男女がすることといえば――」
 もう一度リリの頭を小突くと「いたっ! またそうやって女殴る!」といつもの様子で抗議され、少し安心する。
 こういうとき、リリがいてくれて助かるなと思う。

 

 梅雨入りは唐突で、翌日から雨が降って屋上はしばらく使えなくなった。そのせいで、数日間リリたちにちゃんと会うことはなく、『エヴェレット』を使う機会もなかった。
 SNSグループも自然と言葉数が少なくなって、全員の既読がつかないことも増えた。

 

 放課後、夕立が滝のように降り、傘が壊れるのではないかと不安になったがしばらく待っても収まる気配がなかったので結局諦める。
 遠くからは地響きのような雷鳴がする。
 雷は昔から苦手だった。姉がどれほど自分に落ちる可能性が低いか説明してくれても、それだけは克服できなかった。確率の問題ではなく、ほんの少しでも死ぬかもしれないと思うと身がすくむのだ。死にたいとは思うが、唐突に殺されるのはなんとなく嫌だった。
 ローファーに雨水が入らないか不安になりつつ駅へ向かう。きっと遅延しているだろうと思うと投げやりな気持ちにどんどんなっていく。
 道路下、ちょうど歩行者用の小さなトンネルに差し掛かったとき、その前に誰かがいた。うずくまっているように見えた。何事かと思い、近づく。
「……あ」
 制服姿の少女は、投げ出された鞄からコンクリートの地面に散らばったノートや教科書、筆記用具などを集めている。
 彼女はブレザーもスカートも濡れそぼり、同様に濡れた髪からは水滴がしたたっていたが、手や膝が汚れるのも厭わず、這いつくばって一つ一つそれらをかき集めていた。けれどたとえ作業を終えたとしても、ほとんどはもう使えないだろう。単なる悪あがきだ。実際、作業はほとんど進んでいない様子だ。
 こちらの足音に気づいたのか、彼女が地面から顔を上げる。
 こちらの姿に驚いたようにびくりと後ずさりしてから、怯え切った野良猫のように、丸い目を向けてきた。やっと俺が誰だか気づいたらしい。
「――りゅう、くん」
 彼女はリリだった。

 

 土砂降りの雨に濡れながら、リリを見つめている。
「リリ」
 呼びかけてみたが、それ以上どんな言葉をかけたらいいのか分からなかったし、たぶん何を言っても不正解だった。
「ごめん」とリリは視線を落として、濡れて垂れ下がった前髪で目を隠す。でもそれは完全ではなくて、隙間から覗き見える。
 リリは目を真っ赤に腫らしていた。
 彼女はふらふらと立ち上がり、俺の方を見て「バレちゃった」と呟く。
「あれから調子崩して、あんまり『エヴェレット』を使わないようにしてたんだけど、そしたらこれ。現実って厳しいね」
 それはいつも俺の前で見せるのとは違う、自嘲的な笑いという印象だった。
 どういった事情があるかは察するしかなかったが、恐らくトンネルの上の車道から鞄を突き落とされたのだろう。自分ではなく、誰かに。
「……でさ、どうする?」とリリは訊く。
「リリ」

 

「――哀れまないでよ!」

 

 彼女は絶叫した。
「好きな人にさぁ、こんな姿を見られて、それだけでも死んだ方がいいのに、私、これ以上優しくされたら、ほんとに死ぬしかなくなっちゃうじゃん、こんなに惨めなのに、哀れまないでよ! ……そう、もう分かる? リュウくんがどういう選択肢を取れば正解かって。今すぐ、何も見なかったふりをしてここを立ち去ってよ、私がここでこうやってることなんて忘れてさ、そうしたら、私、全部なかったことにしてまたいつも通りにするからさ、それが一番私は嬉しいから、だから今すぐいなくなって」
「……リリ、落ち着け」
「触らないで!」
 リリは集めたノートや教科書を胸に抱いて、近寄ったこちらから飛びのいたまま、俺を睨みつける。
 さて、どうしようかと思う。
 五秒ほど考えてから、俺は開けたままの傘をリリにかけて、そのまま屈む。
「やめてよ!」と彼女は喚いたが無視して、一人で勝手に残りの荷物をまとめていく。それからもブツブツと何か言っている様子だったがどうでもいい。
 ボールペンや蛍光ペンのインクが流れ出して水たまりが濁っている。ほとんどはもう使えないだろう。教科書や参考書は表紙のせいか思ったほどダメージは少なかったが、ノート類はほぼ全滅で、開いた瞬間にくっついたページがビリビリに破れる。それでも一応はまとめる。
 身体がぶるりと二度震える。じめじめしているのに悪寒がする。風邪をひいてしまうかもしれないが、それはリリの方が深刻だろう。次に対処しなければいけない。
 とにかくとりあえずは見つかる限りの所持品を集めて渡す。抵抗されるかと思ったが、リリは虚脱状態に入ったのか力なく手を差し出してそれを受け取った。
「立てるか?」
 リリは頷いたが、まもなく転びそうになったので傍で身体を支える。
 そして身を寄せ合って歩き、ひとまずトンネルの中に連れていった。

 

 リリは右脚の膝小僧から血を流していた。小石に引っ掛けてしまったようだ。
 待ってろ、と言ったまま俺はすぐにコンビニに向かった。幸運なことに目と鼻の先にあるのを思い出したのだ。
 タオルと絆創膏、脱脂綿、消毒液が欲しかったがないのでミネラルウォーターを買う。店員の中年女性は明らかに迷惑な顔をしたが応急手当も満足にできない店の方が悪い。
「痛いぞ、気をつけろ」
 戻ると、すぐに傷についた汚れを流し、脱脂綿で傷口を押さえて、しばらくしてから絆創膏を貼る。それからタオルを渡した。せめて髪ぐらい拭いた方がいいと思ったからだ。
 こんなところか、と一息ついたところでようやくリリは「最悪」と口を開いた。
「なんでこんなことするの?」
「なんでって……」
 さっきから一度も考えていない問いだったから、困惑する。
「人が痛そうにしているから、何とかしただけ。他に理由なんてないが」
「だから、言ったじゃん、私は――」
「別に優しくしてない。人が苦しんでいる状況を放置するのは気分がよくないだけ」
 論争する気はなかったのでそれだけ言うと、出鼻をくじかれたらしいリリは黙った。
「暗くなるだろうけど、もうちょっと止むまで待つか。忘れてほしいなら、お前が帰れるようになってから忘れる」
 雨は正気とは思えないほど降っていたが、トンネルの中の方が地面より高い位置なので水は入ってこなかった。ホールデン・コールフィールドなら回転木馬に乗った妹を見るのにぴったりの天気だろうが、俺たちに特に感動はなく、寒いだけだ。
リュウくん」と、体育座りしていた彼女は俺に頼んでくる。「隣、座っていい?」
 落書きひとつない治安のいい壁に近づき、無言のままリリの隣に座る。すると彼女は肩を寄せて、体重をこちらに預けた。
リュウくん、あの、あのさ――私、なんて」
「黙ってていい。落ち着くまで」
「……じゃあ、分かった」
 彼女の濡れた髪が、耳と肩にかかっている。横目で見ると、なんだか艶めかしく見えるな、などと考えてみた。黙っているとかなり印象が違う。
「あのさ」
 リリはぽつりと、虚空に向けて言う。
「しばらく、こうしてていいかな」
 俺は「ああ」と返した。

 

「このまま帰って大丈夫か?」と俺が訊くと彼女は「あんまり」と力なく言った。「着替えは持ってるけど、こんなずぶぬれで帰ったら変に思われるかも。……ここまでされたの初めてだから、どうしよう」
 最後の一言には勇気が必要だったようだが、特段気にはしなかった。
「うちに来るか?」
 俺は言った。
「え……?」
「親だか何だか知らないけど、このままじゃ帰れないんだろ? で、最寄りの駅は俺の方が近い。定期で降りられる。着替えもある。なら一旦そこでシャワーなり着替えなりしてから帰った方がいい。合理的な理由」
「でも、迷惑じゃ」
 珍しくリリがまったくふざけなかったので「よかったな、俺の家に入れて」と言ってみてから、向こうの世界ではもうそこまで行ってるのかもしれない、と無意味な想像をしたが、リリが「そうだね。初めてだね」と言ったので否定された。
「――楽しみ」
 抑揚のない冷たい声で、リリは呟いた。

 

 真っ暗になってしまったが、予想通り遅延していた電車も復旧して、乗客もまばらだったのでさほど人目を気にしないでよかったのは助かった。
 部屋につく頃にはお互い髪はちょっと乾いていたが、ブレザーを脱ぐとリリのシャツはひどく濡れていて、俺は後ろを向いたまま先にシャワーに行くように言った。
 彼女が終わると入れ替わってこちらも雨水を洗い落とす。
 暗いままのリビングに戻ると、リリは座ってたままぼーっとしていた。
「髪、乾かさないのか」
「ひゃっ!」と後ろの俺に驚いたのか、リリは小さく飛び上がる。漫画の誇張表現みたいでかわいらしい。全体的に今日の彼女は弱弱しくて新鮮だが、風邪だったら嫌だな、と思った。
 ドライヤーを持ってくると、リリは「リュウくんがやって」と言った。
「俺が?」
「……今日くらい、甘えさせて」
「いつも甘えてるだろ」と返すと、リリは「そうでもないんだよ」とうなだれた。
 櫛を貰い、言われるがまま髪を梳いて、ドライヤーで乾かしていく。熱風でシャンプーの匂いがこちらに流れてくる。今日は俺と同じものを使っているのに、全然見知った匂いには感じなかった。なぜだろうか。
「もう話さなきゃいけないから、話すけど」と、リリが一方的に話を始める。「リュウくんは髪に集中してていいから」
 あまり聞きたいことではなかったが、リリが話したいなら止めることはできない。
「一年の頃は何もなかったんだ。正確には、高校だけじゃなく十五年ずっと何にも困らなかった。パパもママもちょっと生真面目だけどいい人だし、友達もいたし、自分では言いにくいけど勉強も運動も自信があった。中学では生徒会にもいたし、推薦でここに入れて、二年では特進に上がれた。でも、そこからおかしくなっちゃった」
 暗い部屋に、ドライヤーの無機的な風音だけが響いている。
「進級して間もなく、突然クラス全員が私を無視するようになった。……理由は分からない。まったく身に覚えがない。だから混乱した。でも誰も私と話をしてくれなくなった。それだけじゃない。みんなは私を存在しない人間として扱った。授業でペアを組んでもらえないとか、委員決めで勝手に仕事を押し付けられるなんてかわいいものだよ。ある日学校に来たら私の席が片付けられてたこともあった。仕方なく準備室から代わりを持ってきたけど、中に入っていたものは見つからなかった。それから教科書とかは複数買っておいて、学校の何か所かに隠してる」
 轟々と響くチープな排気音。
「直接的な暴力や嫌がらせはされないけどね。存在しない人間として扱われるの、思ったよりしんどい。存在を全否定されてるとね、憎しみすら湧いてこなくなる。あ、そっか、私って存在しないのかなって、こっちまで思うようになる。むしろたまに分かりやすく嫌がらせされたときなんて嬉しくなったくらいだよ。特に今日みたいに、追い越しざまに突き飛ばされたりしたら。こんな雨でも元気だよね。やってきた子、嫌なことでもあったのかな。ストレス発散のつもりかも。ああそう、男子ならもっと面白いことしてくるよ。あいつら怖気づいてるからそこまでひどくはないけど、言ったらリュウくん興奮してくれるかも。たとえば――」
「静かにしろ」と注意した。「火傷する」
「……まぁいいや。とにかく私は存在しないんだなって思った。先生たちも知らないか、知っていても見てみぬふりをする。進学実績のある特進クラスで騒ぎなんて起こしたくないんじゃないかなぁ。家族にも言わなかった。あの人たちを苦しめたくなかったから。でも、やがて私への嫌がらせも減って――うん、だから今日は珍しいんだけど、ともかくついに完全に無視されるようになって、なんか気が楽になったんだ。私って無意味なんだなって。生まれてなんかないんだなって。ここにいない。何者でもない。誰も気にしない。オースターって人の小説を読んだことある? 依頼者に成り代わられて、何物でもなくなっちゃう探偵の話。そんな風に私は、ここにいる自分は抜け殻のようなもので、ほんとの自分が別の場所にいるんだって思うようになったんだ。ここでとは違う人生。私にはそこの方がふさわしい。そっちに行きたいなって思った。どうやったら行けるんだろうって思った。二十四時間考えた。もしかしたら、死んじゃえばいいのかもな、と思った」
 後ろ髪が乾いたので耳の後ろに手を伸ばす。リリは「……ひゃん」と小さな声を出すが、すぐに話を続ける。
「でもリュウくんも分かると思うけど、具体的に死のうって思ってもさ、難しいよね? だからウダウダしながらそうやっていつ死のうかいつ死のうかって考えていたある日――リュウくんに出会ったんだ」
「俺に?」
「うん。毎日電車に乗って、同じ車両の同じ場所にいつもいる男の子。それまで気づいていなかったんだ。でもある日、ふと目に留まった。……落ち込むかもしれないけど、正直、一目惚れって感じじゃなかった。ちょっと眠そうにしてるところ以外は、他の男子とそんなに変わったところはない。……でもどこか変な感じがした。窓の外を見てる目が、私と似てるような気がしたんだ。でも今思えば単なる妄想だったのかもしれない。失礼なことを言うと、誰でもよかったのかも。恋愛なんてそんなものだったりして」
「それで、俺を『エヴェレット』で恋人にしたのか」
「話が前後しちゃうけどね。薬を手に入れて真っ先にしたのは、言った通り、私にふさわしい世界を作ることだった。そこで、ちょうどいいと思ったのがリュウくんだった。私はときどき学校で、リュウくんのことを観察したよ。自分でやれるだけ調べて、余白は勝手な想像で理想のリュウくんを作った。で、世界に配置した。それは、今まで変わらない」
「なら、それでよかったんじゃないか?」
 ドライヤーのスイッチを切った俺は、カラオケで訊けなかったことをもう一度質問した。
「まぁ、俺を選んだ理由はそれで納得するとして――理想の『リュウ』がいるのに、どうして現実の俺を誘い込んだんだ」
「……死にたかった私が言うのも滑稽だけどね」とリリは話を続ける。
「現実のリュウくんも、そんな風に別の世界に行けば死ぬのを止められるかなと思ったからだよ。リュウくんさ、自分の雰囲気、分かってる? ストーキングしたのは悪かったけどさ、あんまりにも楽しくなさそうなんだよ。……でさ、言っちゃうと、あるとき屋上のふちに立ってるのを見かけて」
 ……見られていた。
「全部繋がったんだよね。この人、死んじゃうかもって焦った。でもそこで『エヴェレット』を使えば幸せにできるんじゃないかって思った。そういうこと」
「でも口ぶりだと、向こうの俺と話しても違和感はないんだろ? だったらお前にとっての山田リュウは『ゾンビ』でもいいだろ。大切なのは向こうの俺じゃないのか? ……不謹慎だけど、現実の俺を自殺から救った意味はあったのか? 見殺しにしたって――」
「やめなよ」とリリは静かに言った。「悲しいこと言わないでよ」
「……済まない」
「でもリュウくんは鋭い。本も読んだよ。難しく言うと『他我問題』ってやつ。テツガクの話はしないけどね。ただ、結果的にだけど、望み通りのリュウくんじゃなくて、知らないリュウくんの方が好きになれたんだ。うまく言えないし、変なんだけど。死んでほしくなかったってことは、私、やっぱりこの世界を大事に思ってたんだね」
 でもね、とリリは寂しそうに話す。
リュウくんとしばらく過ごして分かったけれど、本当のリュウくんは本当に本当のリュウくんなんだよ」
「いや、意味わからんが」
「そのまんまだよ。私が彼氏にしたリュウくんは私の理想の存在だったけど、現実の人間はそうじゃない。そういうこと。でも困ったことに、それを好きになってる」
 そこまで好きですと言われれば「はぁ」と俺は相槌を打つしかない。
「でも私はずるいから、そういうリュウくんも全部欲しがってしまう。矛盾してるんだけど、現実の、思い通りにならないリュウくんをひとりじめしたくなっちゃう。そんなことできないのに、止められない。……だから、じきにひどいことをすると思う」
「ひどいこと?」
リュウくんが私を見てないの、分かってるから」
「私は私が嫌い」
 そう言って、リリはソファに登り、膝立ちで俺の方を向いた。
リュウくんを信じられない、私が嫌い」
 焦点の合っていない、おぼろげな目。
リュウくんには、大事な人がいる――って話、してたよね」
「ああ。俺の姉だ。何から話せばいいか分からないけど――」
 ついに、俺はリリに姉のことを明かした。
 ……一通り話し終えると、やっぱり「そっか」とリリは言った。「嫉妬……はできないね。大変だったみたいだから」
「いや、こっちの話だ。こんなこと話して、すまない」
「いいんだよ。納得できた」
 私が一番になれないってことも。
 でも、リュウくんが好きで、一番になりたくなってしまうことも。
 だからね――と、リリは呟く。
「わたしがもしひどいことしたらさ――私を嫌ってください」
 ――リュウくんは、優しいからさ。
 その言葉は、彼女が部屋を去ってからも耳から離れなかった。

 

12

  翌日、SNSグループにリリから『体調が悪いから、映画はリュウくんはミドと二人で行ってきて』というメッセージが投稿された。『風邪引いちゃったかも』ということらしい。
 あんな大雨の中で傘も差さずにいたら体調を崩すのも当然だろう。その原因を考えるといたたまれなかったけれど、どうにもならない。たとえばA組に行って彼女を突き飛ばした相手を殴るわけにはいかない(少なくとも風邪は治らない)。
 他の二人にも話してはいけない、と釘を刺されていたので、ネズミたちは驚いているだろうな、と思う。今のところ、それを守っている。
 それにしても、ミドと二人。
 はっきりとはしないが、どちらに対してもなんとなく後ろめたいような気持ちがある。
 ネズミを誘ってみようかと思ったが、『俺はいい』と先回りされてしまい、逃げられなくなった。
 まさか中止する理由もなく、その日は近づいていった。

 

「……どうも」
 ちょうど梅雨の狭間にぴったり晴れた午後の駅、カラオケでの乱痴気騒ぎの際と同じ待ち合わせ場所。『もうすぐ』という連絡を受けて待っていた俺の前に、恐る恐るという感じで人がやってきた。
 フリフリした布が随所にあしらわれた、白い長袖のワンピースの少女がそこにいた。
 最初は文字通り別人なのではないかと思ったので訝しんだが、俺の前で二十秒ほど「えっと……」「その」「うん」「あ……」とうなり続けたので、ミドだと分かった。なんで前はあんな格好してたんだ。
 やっと意を決して俺に挨拶する。やはりいつものモードだ。
「リリ、来れないって」
「らしいね。聞いてる」
「うん……」
 当たり前のことを確認してみたが、何も話が広がらない。彼女の性格のせいもあるだろうが、カラオケの一件からミドが俺との距離をつかみかねているのもなんとなく分かる。
「とりあえず行くか。ここで突っ立っててもしょうがないし」
 そう判断して「行くぞ。映画館の場所は調べてあるから」と歩き出そうとすると、「待って!」と止められる。
「どうした?」
「今日、人多い」
 確かにそうだった。何かのイベントがあるようで、心なしか駅は混み合っている。
「……人ごみ、苦手」
 その言葉で、ミドが何を求めているのかはある程度分かった。
「腕、掴んで」
「えっ?」
「いや、そうしてほしかったんじゃないのか」
 堪忍したようにミドは頷く。最初からそう言えばいいのに、と思う。
 彼女はおずおずと手を差し出して腕に絡め、まるで樹にしがみつく昆虫か何かのように俺に身体を寄せる。
「じゃ、行くから」
「うん」
 これからどうなるというのだろうか。

 

 結局、到着するまでミドは最後までひっついたままだった。
 映画が始まる前に、俺たちはモールのファミレスにやってきた。ドリンクバーだけを注文し、ミドが『エヴェレット』を取り出す。チケットは向こうの世界にあるのだ。
「じゃ、飲もう」
「うん」
 もう慣れた、何度目かの酩酊がやってくる。

 

 そのまま向こうの世界に来た俺たちは、すぐに会計を済ませて映画館に向かう。
 ミドはキャラメル味のポップコーンを買った。
「……甘いもの、好きだから」
 嫌いだった……? と心配そうに訊いてくるので「いや、いいよ」と言っておいた。「映画館ではあんまり食べないし、そもそもミドが買ったんだから」
 俺が言うと、ミドは何かを言いかけてからやめ、少し不機嫌そうに息を吐いた。
 ……よく分からないが、先が思いやられる。
 特に相談はしていなかったが、自然な形でミドと俺は右と左で隣に座ることになった。
 CMが終わり映画が始まる。
 数年間も公開が待たれていたSFアニメシリーズの完結編。おぼろげにテレビでやっていた記憶のある俺はともかく、ミドは過去のシリーズを覚えているだろうか、と思う。まさかとは思うが、何も分からない状態で見たら困惑するだけだと思うので、少しだけ気がかりだった。
 映画は二時間半もある。長い映画は面白いつまらない以前に疲れるので好きになれないのだが、今回も案の定途中で集中力が切れた。
 映像が脳をすり抜けていき、一応はストーリーを把握できるのだが、それ以上心が動かされたりすることがない。この感覚は、ときどき経験するあの解離とやらと似ていて、言いようのない不安に襲われる。
 しかしこんなに大音量で何かが鳴っている空間で眠れるはずもなく、仕方なく退屈しのぎにポップコーンを拝借することにした。
 紙製のカップを指さすとミドは頷いたので、非難されない程度の量をつまんで口に放り込む。甘ったるい。リリといい、どうして周囲には甘いものが好きな人間が多いのだろう。
 ……一体何分が経ったのだろうか。もう一度食べようと思って、映像をぼんやり見ながらまた右手を伸ばしたとき――何かがぶつかった。
「あ……」
 小さくミドがうめいた。おそらく彼女の左手だろう。恥ずかしさより前に、こんなベタなことって本当にあるんだな、などと感心してしまった。
 無言で彼女は手を引いたので、俺も引く。それからしばらくお互い食べるタイミングがつかめなくて、奇妙な空中戦みたいな状態になっていた。バカだ。
 ……やむなく手をひじ掛けに置いていると、ミドがその上に手を置いてきたので思わず二度見する。今度は何だ? と思ったが、彼女の手は震えていたので、駅前でのことから察した。公開初日ということもあって場内は満員で、少し圧迫感がある。そんな不安な場所に何時間もいたので、いくらか消耗してしまったのだろう。
 連れてきてしまって申し訳ないと思ったが、とにかく今はそれをやわらげるしかない。俺は手を少しずらして握り返して――
 ――リリ。
 やめていた。
 なぜかは分からない。けれど、脳裏に唐突にリリのことが浮かんだのだ。
 あちらが向こうの世界で勝手に主張しているだけであって、俺とリリはこの世界では別に付き合っているというわけじゃない。少なくとも俺は認めていない。それにミドもどうこうという気持ちはない。だから両者に対してためらう理由なんて何一つない。
 なのに、なぜ?
 ……俺は何もできないまま、ミドが握り続ける右手を力なく置きっぱなしにしているしかなかった。
 ……映画がようやく決着し、端から見てもエピローグだな、と思っていた頃、ふと隣を見ると、ミド目を閉じてすやすや眠っていた。よく眠れるものだな、と思う。
 左手はもう俺から離れている。
 それに、少しだけ安堵しておいた。

 

リュウはどうだった?」
 ファミレスの座席に戻ってきて、俺たちは一息つく。すっかり外は暗くなってしまっていた。映画に集中するために、こちらではほとんど何もせず二時間半も座っていたのだ。当然だが明らかに店員が嫌そうな顔をしているので、俺は追加でグリル、ミドは野菜のスパゲティを頼んだ。
 ミドの問いに「長かったな」と答えると、そうじゃないでしょと言いたげな目で見られたので、「まぁ、しっかり終わったんじゃないか?」と言っておいた。
「ミドはどうなんだ?」
 そう訊いてみてから、珍しいことにちょっとだけからかいたい気持ちに誘われた。
「あのラストとか、今ネットで調べたら賛否あるみたいだけど」
「あ……」
 ミドは明らかに焦った表情を見せる。
「うん、私はいいと思うよ。これはこれで!」と早口で言うと、「でも映像がかっこよかった。アニメでどうやって作るんだろうね」と露骨に話を逸らしてきたので、俺は「ちなみにどっち派? それでラストの意見は変わると思うけど」と追い打ちをかけた。
 ヒロインは二人いるのだが、ラストでどちらと結ばれたか、寝ていたミドは知らない。
「あ、いや、私はあんまりそういうキャラ目線でアニメとか見ないから、話が面白ければ、それで……」
 ぷしゅー、とミドの頭から湯気が出てきそうだったので「そっか」とだけ言ってからかうのをやめた。ふざけすぎた。
「……これからどうする? 解散でいいか?」
 俺が言うと、ミドは「その……」と何かをためらうように言葉を迷わせたが、乗り掛かった舟だと言わんばかりに「今から、見てほしいものがあるからついてきて」と言い切った。
「見てほしいもの? どういうやつ?」
「美しい、もの」
 ミドは強く言う。
 それは、現実でも向こうの世界でも、見たことのない彼女の姿だった。

 

 ミドは俺をどこに連れていくか、言わなかった。
 ……駅からニ十分ほど歩いただろうか。
 ここまでくると坂が増えてきて、高低差が激しく、ろくに運動をしていない人間には少々疲れる。ミドはどうなのかと思ったが、あまりつらそうではなかった。目的地に行くことにミドは慣れているらしい。
 国道の隅にある小さな神社に繋がる階段を登り、鳥居の前で右に逸れ、高台をぐるりと反時計回りに回り込む。
 街灯はない。もし突然ミドがいなくなれば、スマホの地図アプリがないと完全に遭難する。
「なぁ」
 ミドは俺の呼びかけに答えず、まるで何かに導かれるように進んでいく。
 ……暗闇の中で、俺は彼女の左手が固く握られているのに気づいた。
 そこには何か、重大な決心でもあるのだろうか。

 

「ここだよ」
 ミドが足を止めたのは、ぐるりと高台を半周した先だった。
 そこには小さな歩道があって、カーブしながら下の国道まで繋がっている。
 俺は息を呑んだ。
 眼下には無数の街の灯が揺れている。
「夜景スポットなんだ、ここ」
 遠くの駅前は恒星のように明るい点が色とりどりに混ざって白く輝き、少し離れて黄色い光の粒がばらまかれていた。
 地面に夜空がもうひとつできて、天上の星を掻き消してしまうほどに瞬いている。
「……綺麗、でしょ?」
「ああ。ここに連れてきたかったのか? 知らなかったから、嬉しいけど――」
 そこでミドは「私はね」と、俺の話を遮った。「この場所が嫌いだった」
「嫌い?」
「うん。ほとんどの人には綺麗だと思う。でも私は、この夜景を見ると悲しい。……引くかもしれないけど、聞いて」
 ミドが懐かしそうに夜景を眺める横顔を、おれは見つめていた。
「あの人たちが子供を持とうと思ったのは、たぶん憂さ晴らしをしたかったからだと思う。……まだ小学生にもなってなかったと思うけど、初めて殴られたときのことはもう覚えていない。食べ物を抜かれていつもお腹がすいていた感じは思い出せるけど。二人で勝手に出かけて一週間も戻ってこなくて、家に食べ物がなくて死んじゃうかと思ったときもあった。……小学校にもまともに通わせてもらえなかった。学校とか児童相談所みたいなのって適当。電話や面談を無視されたら、何もできない」
 ミドは泣いていなかった。
「でも、ついに二人は自分たちがまずいことをしたって分かったんだろうね。そこで今度は新しい遊びに手を出した。家で勉強させて、成績がよくなるまで――おかげでバカだけど勉強には今も困ってない。やってないと殺されるって気がするから」
 それどころか、笑っていた。
「家から放り出されたとき、いつもここに来てた。偶然見つけたんだ。それで夜景をずっと見てた。この夜景の下、世の中には無数の家や人がいて、家族がいて、幸せな家庭がいっぱいある。最初はそれが憎くてたまらなかった。だから嫌いだった。私だけなんでって思ってた。でもそのうち憎むのにも飽きて、あるときからこう考えるようになった。……この星の一粒、幸せな家に私がいたらどうなるんだろうって。それからは……あまりつらくなくなった。ひどい目に遭っても、そこで家族と幸せにしてる私を想像したら、全然痛みもなくなった」
 まるで、昔の幸福な思い出を語るように。
「普通なら学費なんて払ってくれないだろうから、なんとか中学生になった私は必死にいい子を演じた。不自然だったと思うけど傷も隠した。バレなかった。頑張って頑張って頑張って、推薦が取れた。でもそれは逆効果だった。あの人たちは調子に乗って子供をファッションにすることを覚えた。表でニコニコしながら、私には言いがかりみたいに細かいことにケチをつけて、暴力はもっとひどくなった。私はいよいよ向こうの星の家で暮らすようになった。家でも学校でも四六時中考えて、ボーっとする。優しいお母さん。頼れるお父さん。でっかい犬。弟か妹がいてもいいな。妄想は形になってきて、完成させることに躍起になった。でも、あるとき――リリと出会った」
「……リリと?」
「ある日、胸の右が痛くて動けなくなった。それで一週間ぐらい学校に行けなかった。あの人たちは家を出て放置したんだけど、学校はプリントを渡さなきゃいけないからって、リリにお願いしたみたいなんだ。それでうちに来た。だからその時からの知り合いなんだ。……リリはね、必死に玄関に来て、取り繕うとする私を見て何も言わずいきなり救急車を呼んだ」
 結果的にいろいろ助かったんだけど、とミドは静かに語る。
「あばらを骨折してた。突き飛ばされて柱に当たったときなのか、分からないけど。それでついにあの人たちが何をやってたかが衆目に晒されて、私は保護された。あの人たちは捕まって、いろいろあった末に養子縁組が決まった。……高校も変えた方がいいって言われたんだけど、リリがいるから嫌だって言った。そういうことが、あった」
「……どうして、いきなり俺にそれを話したんだ?」
 俺の問いにミドは「やっぱり、リュウは鋭い」と小さく笑う。
「これからね、リリにずるいことをするから」
 彼女は、俺の方に向き直り、灯の反射する両の目で、おれをじっと見る。
 ごめんね――そう、詫びて。
 何もかもを射貫く矢のような、そんな目つきで。
リュウ
 そしてミドは、決定的なことを言う。

 

「好き」

 

13

  ミドは学校に来なくなった。
 
 快晴が戻ってきて屋上日和になっても、誰も来ない。
 ミドだけでなく、今はリリもネズミも来ない。
 週明け、ミドが学校を休んでいるという話をリリが持ってきてから、俺たちは急激に距離を取るようになってしまった。
 とりあえずリリが連絡を取ってみるということに落ち着いたが、それから三人の空気は次第に重苦しくなっていき、屋上に集まることはなくなった。高校というのは人数の多い場所だから、一度接点を失うと案外校内で見かけなくなってしまうこともある。あるいは、俺の頭の中で彼女たちが他人に戻ってしまったのだろうか。
 スマホを確認しても、グループには何のメッセージもない。状況が好転していないのはすぐ分かった。
「今日は誰もいないんだね」
 屋上で佇む俺に、部長が声をかけてくる。
「今日も、か」
「突然なんですか」
「いや、事実を言ったまでだけど。目が怖いよ」
 どう説明したものか、と面倒に思っていると、彼女は見透かすようにこう言ってみせた。
「当ててあげよっか? トラブルがあったんでしょ」
 一瞬、自分の中で何かがざわめいた。
 それは、部長がこう続けたからだ。
「それも――恋愛絡みとか?」
 俺は咄嗟に「サークルクラッシュってやつですか? でも姫なんていませんでしたよ」と軽口を叩いた。
 それに部長はこう答えた。
「それってさ、もしかしてキミじゃないかな?」
「……何が言いたいんですか」
「キミに誰かと関わることなんて無理なんだよ」
「また姉の話に持っていくつもりですか? よく飽きないですね」
「いや、もう話すまでもないよ。もうまもなく、自分で分かるようになるよ。キミにはまともな人生なんて無理だってことが、友達も恋人もできないってことが、そしてナオ先輩――お姉さん以外いないってことが」
 鬱陶しい。
「予言するよ。キミは独りぼっちになる」
 黙ったまま、踵を返して屋上を後にした。

 

 夜、ネズミから俺宛にメッセージが来た。
『明日の放課後、屋上に来い』
 文面はそれだけ。
 何を返信しても既読はつかなかった。

 

 空が晴れるようになると、夕焼けも映える。
 緋色に染まったグラウンドでは陸上部員たちが走り、校舎からは吹奏楽部の練習が音漏れして聞こえる。各々が、過ぎ行く各々の時間を過ごしている。
 けれど、俺たちだけはそこに取り残されて、その時間の中に入れていない気がした。
「話があるんだろ」
「ああ」
 ネズミはもう先に来ていた。
「ミドのことか」
「そうだ」
 頷かれる。概ね予想通りだった。
 そして、次にくる言葉も想定内だった。
「お前らは、週末に二人でデートに行ったんだよな」
 デート、という言葉をネズミは無意味に強調した。なるほど、それくらいの察しはついているということか――そう思った。
「何があったんだ?」
「何があったと思うか?」
 ネズミは俺を睨みつけて、一歩近づいた。
「真面目に話せ」
「そっちこそ落ち着けよ、そんなに凄まれたら話せない」
 俺が注意しても、ネズミは敵意を向けるのをやめない。
「お前が何かを推測しているのは分かる。そして、今起きてることの原因があるんじゃないかと考えてるのも分かる。でも冷静になってもらわないといけない。注意して喋ってるんだ」
「勿体ぶるなよ」
 彼を傷つけたくなかった。
 だから、嘘はつきたくなかったが、本当のことをすべて明かすことはできないと思った。それを明かせば、間違いなくネズミは大きな打撃を受けることが分かっていたからだ。
 ミドが、ネズミではなく俺を好きだったということ。
 ……そして、俺がどう答えたかということ。
 それを言うことは、今の彼にはあまりにも酷だ――と。
 この期に及んで、俺はそう考えていたのだ。
「知ってるぞ」
 俺のどっちつかずな態度に業を煮やしたのか、ネズミは挑発するように俺を見据えた。
「お前は、ミドに告白でもされたんだろ?」

 

 最初に思ったことは、なぜ? という疑問だった。
 なぜそれを、ネズミが知っているのか?
 十秒ほど考えて、彼にこう言ってみた。
「リリに吹き込まれたんだな」
「……っ、ああ、そうだよ」
 ネズミは俺の反撃に多少動揺したらしいが、すぐ開き直るように言った。鎌をかけてみただけだったが、ビンゴだったらしい。
 これで解が出た。だから逆算すれば何が起こったかもわかる。
「じゃあリリは、デートに来てたってことか」
 ネズミは何も言わなかったが、特に返答は求めていない。
「突飛な発想だが、俺たちを追いかけていたのかもしれない。俺たちが待ち合わせてる間も、映画を観ている途中も、……その後もね」
 そう言いながら想像する。リリはどれだけ俺たちを観察していたのだろうか。
 俺たちが身を寄せて人混みを歩いたことは?
 映画館で上映中手を握ってもらったことは?
 そして――その後のことは?
 どこまでを実際に見ていたかは分からない。けれど、すべてを見通されていたような、そんな気がしてくるのだ。
 そう思うと……なぜだろう、悲しかった。
 ミドにも、リリにも、悲しいことだった。
「リリはそれをお前に教えた。で、こういう事態になってるのか」
 唯一残る疑問は、なぜリリがそんなことをしたのか。
 でもそれも、もう少し鋭ければ予感することはできたはずなのだ。

 

『私はずるいから、そういうリュウくんも全部欲しがってしまう。矛盾してるんだけど、現実の、思い通りにならないリュウくんをひとりじめしたくなっちゃう。そんなことできないのに、止められない。……だから、じきにひどいことをすると思う』
 そう、リリは言っていた。
リュウくんを信じられない、私が嫌い』
 彼女は、俺を信じなかったのだ。
『だから、わたしがもしひどいことしたらさ――私を嫌ってください』
 そして、引き金を引いてしまった。

 

「……俺たちのことはもう分かっただろ」
 ネズミは調子が狂ったことに苛立ちながらも、また一歩俺に近づいた。身の危険を感じたが、足は後ずさりしていなかった。
「なんて、答えたんだ」
「……ネズミ」
「答えろよ!」
 そのまま右の手で、胸倉、シャツの首元を掴まれる。
 喉までぐっと持ち上げられて息が苦しい。けれど、あまり抵抗する気が湧かなかった。
 膜だ。
 また、あの感覚。目の前で起きていることが、分からない。
 俺はここにいない。
 何も起きていない。
 気がつくと両方の手が俺の首を絞めている。
 ネズミの眼は完全に我を失っていた。嫉妬、不安、混乱、すべてが俺に向けられている。
 それはある意味では当然のことだ。それでも、いや余計に俺はミドのことを言えないと思った。だから、このまま死ぬのもいいのかな、とさえ感じた。
 人間が窒息するまでは何分だっただろう。思い出せない。
 あれだけ死にたいと思っていたのに、いざ殺されかけてみると変な気分だった。もしかしたら。
『キミに誰かと関わることなんて無理なんだよ』
 こういう結末も悪くないのかも――

 

「――やめて!」

 

 その声で、手が離れた。
 リリだった。
「お前――」
 驚愕するネズミに、リリは「……やめて」とだけ繰り返した。
 呼吸が戻ってきて、思わず吐きそうになったがこらえる。頭がじんじんと痛い。でもそんなことはどうでもよかった。
「……リリ」
 無理にでも声を震わせて、俺は彼女に何か言おうと思った。けれど、その先は何も思いつかなかった。いつもこうだ。俺は、俺たちは、どうでもいいことばかり喋るくせに肝心なときに限って肝心なことを何一つ言えない。
 リリは俯いたまま何秒か黙っていた。俺たちの会話を聞いていたとは思えないが、自分のしたことがあまりにも後ろめたかったからだろう。
 だが、それどころではないことを、彼女は知っていた。
 ――意を決したように、リリは俺たちに告げた。

 

「ミドが、自殺しようとしたって」

 

14

  両親が自殺した。
 姉にそう知らされたとき、俺は状況を理解できなかった。
 それがなぜなのか、彼女は一切説明しなかった。ただ「落ち着いて」と「私に任せて」ということ以外、何も。
 だから、ずっと後で知った。
 彼らが事業に失敗し、多額の借金を抱え、俺たちを置いて心中を図ったことを。

 

 葬式に姉が出席したことは、未熟な俺にとっても大きな驚きだった。
 俺は茫然とした状態のまま気がついたら来ていたという状態だったのだが、彼女は――少なくとも、自分の父に敬意を持っているようには見えなかったからだ。
 和式の斎場、喪服に身を包んだ姉は実際の年齢より五歳ぐらい上に見えた。残された娘として、お決まりの無個性な弔辞を読んだ彼女は、終わると逃げるように壇上を後にした。それは、怜悧で自信に満ちたいつもの姉からは信じられない様だった。
 けれどいかに肝の据わった姉であっても、それは当然だったかもしれない。俺もまた、参列者の俺たちへの厳しい目を感じていた。
 好奇、憎悪、嘲笑、軽蔑。誰もが俺たちを厄介者として見ているのは明白だった。
 でも俺は、自分よりも姉のことが気になった。
 その頃の俺はもう、それこそ両親より彼女のことを特別に感じていた。だから、こんな状況で弱っている姉が不安でならなかった。
 その後、母筋の持つ屋敷で親族や知己の集いがあった。自分たちを一応は引き取ってくれることになっていた叔父たちに連れられてきたはいいものの、やはり親族や両親の知り合いは明白に俺たちを敵視していた。早く帰りたいと思った。
 知らない人間が俺を無視して隣と続ける、こちらをあてこするような思い出話に嫌気が差し、席を外して廊下を歩いていると、通りかかった部屋から怒鳴り声が聞こえてきた。
「――お前のせいだぞ!」
 男が絶叫していた。
「そうよ、あんたがうちの家に泥を塗ったのよ!」
 障子の隙間から俺は中をこっそりと覗いてみた。そこには五、六人ほどの男女がいて、誰かを延々と詰っている。
「あの子を騙したのもあんたなんでしょう? うちらの金目当てでこんな縁談を用意して。あんたさえいなければ、誰も死ななくて済んだのに――」
「違います」と機械的に女性の声が答える。「私は両親にとってそれが最善だと思いました。彼らは支えてくれる人を求めていました。経済的にも、精神的にも。二人とも納得して結婚しました」
「それが心中だってのか? こんなに借金を残して、おずおずと逃げやがって!」
「そうだぞ。捨てられたお前がよく言うじゃないか。結局あいつらは子供なんてどうだってよかったんだよ。お前がやったことはあいつらを共依存にしてつけあがらせ、俺たちにさんざん迷惑をかけただけじゃないか。この淫売が!」
 こいつらが何を言っているのか最初はよく分からなかった。知らない話が多かったからだ。
「私たちは先生を尊敬しておりました。彼の業績や手柄に手を入れて、横取りしたのは誰なんでしょうね。おまけに肉親を騙して金儲けまで企んだなんて」
「そうです。先生は騙されたんです。こんな娘、生まれてこなければよかったんですよ。僕は最初の結婚をすると言ったときも反対してましたから――」
 だが、だんだんこれは、俺たちのことなのではないかという気がしてきた。
「なんでこいつがのうのうと生きてるんだ? 二人の人間を死に追いやって、さんざんうちの一家に尻拭いをさせて、こいつとあのガキはお咎めなしってか?」
「弟を批判するのはやめてください」と、声は言った。「弟には何の責任もありません」
「へぇ、『弟』なんて言うのね。血も繋がってない癖に調子に乗って家族気取り?」
「本当は金以外どうでもいいのに、この期に及んでまだ被害者ぶるのね。だけど、もう私たちは騙せない」
「お前にはわしらの財産はびた一文渡さん。どこかで野垂れ死ねばいい。当然の報いだ」
 いつまでも、いつまでも、いつまでも罵倒は続いた。
 聞きながらふと気づいた。怒鳴られている女性の声に、聞き覚えがあった。
 障子に遮られて彼女の顔は見えない。どんな表情をしているか分からない。

 

 お前さえいなければ。
 こいつは我々の恥晒しだ。
 こんな子供、生まれてこなければよかった。
 なんで一緒に死ななかったんだ?
 死ね。死ね。死ね。死ね。
 死ね。死ね。死ね。死ね。
 今すぐ!

 

 俺は何もできなかった。
 気がつくと、逃げ出していた。

 

 ……中庭で、俺は茫然と大きな石に座り込み、空を見ていた。そんなことどうでもいいはずなのに、月が綺麗だったのをくっきりと覚えている。
「ああ、ここにいたの」
 後ろから声をかけてきたのは、姉だった。
「もう帰るわよ。挨拶は終わったから」
 挨拶? あれが?
「姉さん……」
 俺の不安を中途半端に察したのか、姉は頬を緩ませた。
「大丈夫。これからは私がなんとかしていくから、心配しないでいいわ。あなたはあなたのことに集中しなさい」
 彼女は俺の母のことに触れなかった。そういう気配りができる人だった。
 いつも通りの、高飛車で優しい姉がいた。
「だから、もっと。そうね……ねぇ、死んだら人はどうなるって思う? この機会に、さっきからそれを考えていたの。たとえば――」
 俺たちは、それからどうでもいい死生観の議論をした。
 彼女の様子に、変わったところは見られなかった。

 

 姉が精神のバランスを崩し始めたのは、そのすぐ後のことだ。

 

15

  ミドは自宅で倒れていた。
 薬を大量に飲み(間違いなく『エヴェレット』だったが、誰にも気づかれていないようだった)手首の動脈を切って湯を張った浴槽に入れた。
 家族の発見が早かったので一命はとりとめたが、未だに意識は戻っていないということだった。入院先はプライバシーがどうこうとやらで教えてもらえなかったし、こういう場合、たぶん面会はさせてくれないだろう。
 ミドは、『エヴェレット』で何を見ようとしていたのだろう。

 

 あの日、俺はミドになんと言った?
「……ひとつ、訊きたいことがある」
 ミドは何も言わなかった。
「ネズミには悪いけど……お前は他の世界でたくさんの奴と付き合ってる、って聞いた。『ゾンビ』の奴らと。俺はそれもいいことだとはあまり思わないが、まぁ『エヴェレット』を使っている人間の感覚としては理解できる。でも、なぜ現実の俺なんだ? まずそれを知りたい」
「……私、なんでリリが現実のリュウを呼んだのか、さっぱり分かなかった。まぁ、気まぐれだったんだろうけど、でも『ゾンビ』の相手の方が自分の理想で、優しくて傷つけてもこない。なのになんでわざわざ……そう思ってた。でも、私、今日気づいちゃった。二人でいて、あんまりにも幸せだった。自分の思い通りじゃない、この世界の、現実のリュウといて、傍で見てて幸せだった。それに、こんなにひどい目に遭わせてきた世界のことも許せそうに思えたから。目の前にある灯が……今の私には、綺麗に見える」
 世界って、綺麗なんだね――そう、ミドは呟く。
「だから、このリュウに言うしかなかった。告白する気なんてなかったのに。だから、これは暴走みたいなもの。ごめんなさい。どうしていいか分かんないよね」
 こんな風に我慢できなくなっちゃうのが恋愛なんだね、とミドは笑った。
 その笑顔は、すごく、すごく、掛け値なしに綺麗だった。
 だから躊躇いたくなる。何もかも捨てて頷いてしまいたくなる。でも――
「……ミド、気持ちは嬉しいよ。でもな」
 俺は覚悟する。これから当然で、だが残酷で、悲しいことを言わなければいけないのだ。
「分かってるだろ。現実に存在するのはネズミも一緒だ」
「――っ!」
 リリの中で、何かが裂けた。
 曇りのない笑顔。それを俺は蹂躙し、破壊した。その破片は液状になって目から零れた。
「お前らの関係に口を挟むことはできない。でも、もしも俺のことを好きになってしまったのなら――彼と落とし前をつけなきゃいけない」
「……それは」
「あいつは、お前が他の世界の誰かといることに、深く傷ついていた」
「分かってる。私は、確かにひどいことをしてるよ。でも――」
「お前が生まれた現実に価値を見出せるようになったのは、たぶんいいことだと思うし、俺がきっかけだというなら、うれしい。でもな、現実を認めるってことは、たぶん……そこで生じる責任にも、落とし前をつけなきゃいけないってことでもあるんじゃないか? だって、同じ現実にネズミはいるわけだから。……はっきり訊かなきゃいけない」
 言いたくないことだった。でも、結果から言えば、俺は言った。
「……お前は、あいつが好きなのか?」
「好きだよ」
「本当にか?」
「……分かんないよ!」
 ミドは苛立つように怒鳴り、それから何秒か黙った。血が出そうなくらい唇を噛んでいた。
 言わなければいけないことを言うのは、ひどく具合が悪く、グロテスクだ。
 あは、あははは――
 やがてミドは、唐突に、引きつるように笑い出した。
「……そっか、そうだよね。そうに決まってるか。なんで分かんないんだろ、私」
 ばかだ。そう、ミドは何度も繰り返した。
「うん、分かった。私、リュウのことを諦める。リリにも、ネズミにも悪いことした」
「ミド」と俺は言いかけたが、「何も言わないでいいから」と彼女は遮った。
「もういいんだ。全部いいんだ。ごめんなさい、ごめんなさい、本当に私、最低」
 謝るなと、あの時のように言えない自分が嫌になった。
 でも、彼女がどれだけ痛々しくても、自分を責めるなと言う権利は、俺にはなかった。
「最低って、最低なぐらい最低なんだね」
 泣きながら、笑いながら、壊れながら、狂いながら。

 

 そう言ったのが、俺の見た最後のミドだった。

 

 ……残された俺たち三人は、その日、何も言わず別れた。たぶん、これから彼らとは急激に離れていくのだろう、という直感があった。
 何もしたくなかったが、明日は来る。また学校には行かなければならない。

 

 翌日の放課後、街でリリと遭遇した。
 彼女はふらふらと横断歩道を歩いて、信号が点滅しているのに真ん中で立ち止まっていた。車の濁流はせき止められ、クラクションを一身に受けていたが意にも介していなかった。
 俺は慌てて駆け寄り、手を引いて車道を渡らせた。
「何やってるんだ! 死ぬぞ」
 俺はリリに怒鳴ったが、腕はだらんと垂れ下がったままで、無表情に俺をぼんやりと見つめている。明らかに様子がおかしかった。
「リリ……おい、リリ!」
 何度呼びかけてもリリは答えない。
 こんなの……まるで、ジャンキーみたいじゃないか。
 ジャンキー?
 ああ、そうか。
 リリはもう、この世の人じゃないのだ。

 

 彼女は常時『エヴェレット』を使って夢を見ているのだ。
 目の前にいるのは、自動的に生活するだけの抜け殻。
 リリは、ここではない人生を選ぶことにしたのだ。

 

 たかが四人のもめごとで世界は終わらない。日々は回っていく。
 ミドの容態は分からない。そもそもネズミとも疎遠になってしまった。
 今もリリの姿は電車で見かけるが、お互い話しかけない。単なる他人の女子高生に戻った。悲しくはなかった。それどころか何も感じなかった。
 自分の視界にまた薄い膜が張るようになったからだ。
 俺たちは、いや俺とリリという女子高生は今日も電車で乗り合わせ、すれ違う。
 彼女はたぶん今も『エヴェレット』を使っているのだろう。それも、四六時中飲んでいるに違いない。目からは生気が失われ、登校中に道を歩いているとき、足取りはふらついている。
 彼女の選択はある意味で利口だった。
 ミドもリリも、最初からどこかで分かっていたのだ。現実よりも、望んだ世界で暮らした方がよっぽど幸せなことに。俺のせいで一瞬だけ判断を誤ったけれど、最終的には二人とも幸せになれたのかもしれない。
 俺も思う。
 その方が、現実よりもよっぽどいい。

 

 ポケットの中に『エヴェレット』がある。真っ暗な部屋で、それを俺はテーブルの上にばらまく。思った以上にあって笑ってしまった。一日一錠なら、半年か一年は持つんじゃないか?
 俺もまた、ひとつの決断をすることにした。
 たぶん、俺はじきこの世界で死ねるだろう。今はそう思える。
 その前に、『エヴェレット』で願いを叶えて、やりたい放題してやろう。
 どうせ何をやったって死にたいままに決まっているけれど、でもせっかく魔法のような薬があるのだから勿体ない。どんな行為も――下手をすれば犯罪だって許されるのだ。
 何をしようか?

 

 リュウ
 並行世界で会いましょう。

 

 そうだ。まずは姉に会おう。
 部長の言うことはやっぱり正しかった。
 ――結局、俺には彼女しかいないのだ。

 

 まず食料品(袋を空ければ食べられる菓子類だ)をできるだけ買い込む。次に家の電話線を引っこ抜き、最後に扉にしっかりと鍵をかけた。
 準備完了だ。
 ガラス製のコップに水をなみなみと注ぐ。
 机の上の錠剤を見て、呑み込むのは大変かもしれないな、と一瞬だけ尻込みしたとき、カラオケでのことを思い出した。そうだ、こうやればいいんだったな。
『エヴェレット』をつまみ、ゆっくりと水に入れて、コップでかき混ぜる。たちまちコップの中は白く淀む。そう、これでいい。
 準備完了が終わっていく。あと一錠だ。
 まるで中上健次の『灰色のコカコーラ』みたいだな、と思った。ラストで薬物中毒の主人公が、錠剤をいろいろな人たちに捧げながら飲む。俺は何に捧げよう。
 決まっている。
 敬愛、崇拝、最愛の姉――山田ナオに。

 

16

 「あ、起きたのね」
 薄ぼんやりした視界、頭にかかった陰で目が覚めた。誰だ? と思う。でも喋ることができなかった。頭が痛かった。起き上がる力が湧かない。金縛りにあったようだった。
 ――そうだ、俺は『エヴェレット』を大量に飲んだのだ。それなら、ここは?
リュウ、明日は日曜だからって、そんなに寝てたらこれから眠れなくなるわよ」
 さっきから誰かが俺に呼び掛けている、
「晩御飯はもうできるから、食べなさい。一緒にね」
 そこでやっと思考が戻ってくる。
 この声。この後姿。間違えるはずがない。姉だ。
 なら――俺は『エヴェレット』で、姉の生きている世界に来たのか?
「よし、できた」という声とともに、声の主がテーブルに皿を置いて、俺に近寄ってくる。
「――姉さん?」
「……何? まだ寝ぼけてるの? そういう無意識の欲望だったら嫌ね」
 ようやく身体に力が入り、起き上がる。俺はソファーに寝転がっていたらしい。
 目の前の女性をまじまじと見つめる。
 記憶の中とまったく変わらない。頭からつま先まで、姉以外の何物でもない。雑にセットされた黒髪も、毎日着ている白いシャツも黒いスキニーも、俺より頭一つ高い背丈も。
「姉さん、姉さん、姉さん……」
 奇跡を前にすると、人間は言葉を失う。
「本当に、姉さんなんだよね?」
 でも、姉の反応は妙だった。
「ふざけてるんじゃないのよね」
「……は? どういうこと?」
 彼女は怪訝そうにしたが、勝手に何かを納得したように、呆れた表情が浮かんだ。
「ああ、そういう遊び。……言わせるのね。いいわよ。恥ずかしくなんかない」
 次に発された一言は、予想だにしないものだった。

 

「私はね――リュウの恋人の、ナオよ」

 

17

  恋人?
「ちょ、ちょっと待ってくれよ、姉さん」
「だから姉さんじゃないでしょ。本当に大丈夫?」
 俺はソファーから飛び上がる。何が起きているんだ?
 いや――落ち着け。ここは『エヴェレット』の世界なのだ。
「これから質問をするけど、どんなことでも真面目に答えてもらっていいかな」
 俺の真剣な目を察したのか、困惑しながらも「……答えられる限りは」と姉は応じる。
「姉さ……いや、あなたとと僕は、どこで知り合ったんだ」
「……私の父とあなたのママ、仕事でちょっと交流があったでしょう?」
「交流ってなんだ? 結婚したんじゃないのか?」
「はぁ? 本当に大丈夫? 両方とも既婚なのだけど」
 まさかと思ったが、すぐに頭を働かせた。
 この世界では、俺の母はもとの父と離婚しておらず、向こうも同じということか。
「じゃあ、なんでこの家で暮らしてるんだ」
「高校に進学したからに決まってるでしょう。家からは遠いから、私のとこに泊まりなさいって言って。それも、私と同じ学校に行きたいとごねるから」
 なるほど。思い出してみれば、元の世界でも姉と同じ高校を目指したのは同じだ。離婚前にもともと住んでいた家は当然遠いので、こういう風につじつまが合っているのか。
 それなら、確かに俺と彼女は姉弟ではなくなる。そして、あのいかがわしいビジネスの話も完全に存在しなくなっているのだろう。
「な、ナオさん」と俺は恥じらいを抑えながら呼ぶ。「じゃあ、恋人っていうのは――」
「いや、恋人は恋人でしょう。私たちの関係、そう呼ぶしかなくないかしら?」
「いやでも、その……」と俺がどもったところで、チャイムが鳴る。
 ナオさん――いや、面倒なので姉と呼ぼう――がドアを開けると「せんぱーい!」と叫んだ女の子が入ってくる。
 部長だった。
「あ、なんだ、こいつもいたんですね」
「人聞きが悪いじゃない」
「でもこいつはこいつじゃないですか。私はナオ先輩をこんなに愛してますのに……」
「好きな人間の恋人を愛せるようでない愛なんてたかがしれてると思うけれど。ま、いいわ」
「先輩ごめんなさい、私は先輩が年下趣味でクソガキに寝取られても先輩を嫌ったりしませんから!」
「なんであなたが来てるんですか?」と俺は部長に問う。
「はぁ? 敬愛する方の家にご飯食べに来ちゃダメなんですか? こんな嫉妬深いガキと付き合っちゃやっぱりだめですよ先輩、絶対束縛とかしてきます。そのうち五分ごとに現在地送れとか言ってきますって」
「まぁまぁ。ほら、さっさと食べるわよ」
 レンジで温めた餃子が皿に乗っている。昔と同じだ。姉さんはなぜか料理だけはからきしだったから。眩暈の中でテーブルについた。
「そういえば学校はどうなの、二人とも?」
 食事が始まるなり、姉はこれが団欒だと言わんばかりに俺たちに問いかける。
「先輩、反抗期の娘にとりあえず話しかけてみる父親みたいなこと言わないでください。いつも通りですよ。私もこいつも」
「私が卒業してからも、部活はうまくやってればいいけど」
「もちろんです。部員たちにはナオ先輩の偉大さを叩きこんでいますからね」
「そう、ならよかったわ。私は忙しいから、こうして話せる機会は貴重ね」
 何もよくないと思うが、それどころではない。
 これは俺が望んでいた場所なのだろうか? 無意識に願ったのが、こんな夢だったのだろうか? 自分で自分が分からなくなってきた。
 ――いや、違う。
 姉の遺言を思い出す。
『並行世界で会いましょう』という、言葉。
 俺は、何かの真実に気づこうとしている。
「ねぇ、姉さん」
「だから冗談はいいでしょう、私は姉でも妹でもママでもメイドでもないって何度言えば」
「先輩と交際しているだけでなく、姉属性まで求めてるんですか? 異常性欲です」
 二人の軽口を無視して、こう訊いた。
「『エヴェレット』って薬、知ってますか?」

 

「なんですか、それ?」と大仰にとぼけてみせる部長に「いや、もういいわ」と姉は笑って、それから白々しく拍手をした。「それでこそ私の弟よ。ま、もう違うけど」
「……姉さんが、すべての首謀者だったんだな」
「どこまで気づいてるの?」
「あんまり。でも、遺言の意味は少し分かった。……姉さんは、『エヴェレット』を使っていたんだろ」
「使っていた、どころじゃないけどね」と姉はさらりと言った。「もう種明かしするけど、あれを作ったのは私よ」
 その言葉には、驚きよりは納得を感じた。
「ってことは……現実世界で俺たちに薬を渡したのも、姉さんの仕業なんだな」
「間接的には。でも私は自殺しているから現実には行けないわ。さて、どうしたでしょう?」
 その答えはなんとなく察することができた。
 俺は犯人の方を向く。
「部長。あなただったんですね」
「正解。先輩が生前に隠していた薬をリリに流していたのは私。意外と頭いいんだねー」
 意外と、にアクセントを置いたのが原因か、床下で姉に足を踏まれたらしく部長は悶えた。
「そういうことよ。彼女は私の手先として活躍してもらったわ」
 だが、何もせずに姉が自殺したなら、今喋っている彼女がこの情報を知っているはずがない。ということは――
「……ひょっとして、姉さんは、『エヴェレット』を飲んだ状態で死んだのか?」
「一〇〇点。でもここまで来れば当然かしら」
「『エヴェレット』を飲んだまま死ぬと、どうなるんだ」
 それは、リリたちから訊いていなかったことだった。
「知らない? そのままよ。肉体が消滅して、意識だけが並行世界上をふわふわさまようの」
『ゴースト』って呼んでるけどね、と姉は付け足す。「でも、飛んでいる先でまた『エヴェレット』を飲めば、いつまでも存在できる。合わせ鏡みたいで目が回るわね」
「ちょっと待ってくれ。あれは幻覚を見せるクスリだろ? 現実の身体がなくなったら――」
「まだそんなことを言っているの?」と姉は少々呆れたらしい。
「並行世界は現実に存在する。そして、『エヴェレット』はそれを移動できる、世界を揺るがす究極の発明なのよ。火も武器も農耕も貨幣もコンピュータも、これには及ばない。私は人類史上に残る天才ということになるでしょうね。ま、どうでもいいけれど」
 豪語する姉は、あまりにもいつも通りだった。
「……なら、どうして俺の周りにそんな危険なものを撒いたんだ?」
「そこまで来て、それが分からないのね。面白いわ」
 姉は不敵に笑って、俺に言ってみせる。
「今のリュウの状態が、完全に狙い通りなのよ」
「今の、俺?」
 そうよ、と彼女は頷く。
リュウには私しかいないことを、思い知らせるために決まっているじゃない」
 ……部長が言っていたのと、同じこと。
「でも、リュウってば思い切りのよくないところがあるからね。だから、あえてリュウには与えてから、全部奪わせたのよ」
「じゃあ、ミドが自殺未遂したのも、リリが依存症になってしまったのも、すべて計算通りだったのか」
「だいたいはね」と部長が口を挟んだ。「驚いた展開もあったけれど、どうせすぐ破綻するのは目に見えた関係だったから、私たちは最初のドミノを倒してあげただけだよ。ね、先輩?」
 何も言えない。
 俺たちは全員、掌の上で転がされていたのだ。
「自発的にリュウが私を求めることが必要だったの。そうすれば私の側から勝手にシンクロして、こっちまで引っ張り上げてこれた。でも、もっといろいろな策があったのに、案外簡単に来てくれたみたいね。拍子抜けだけど、嬉しいわ」
「……姉さんは、変わらないね」
「ふふ、ありがとう。最高の誉め言葉だわ」
「私は大いに嫌でしたけどね。でも先輩が言うなら逆らわないよ」
 部長は未だに納得していない様子だったが、これで謎はほぼ解けたわけだ。
「で、これからどうするんだ」
「それはリュウに選んでもらうことになるでしょうね」
「俺に? 何をだよ」
「決まっているでしょう。この世界で私と生きるか、ということ」
 姉は俺に向き直る。……その目つきで、あの頃を思い出す。彼女は間違いなく本物だ。
「もし俺がこの世界を選んだら、どうなるんだ?」
「私と同じ『ゴースト』になってもらう。そして死ぬまでここで暮らしましょう」
 ということは、つまり――
「現実で、自殺しろとってことか」
「私を思うならそれくらいできるわよね?」と平然と姉は言う。「私のために命を捨てるくらい。それに実際に消滅するわけではないし、何も悩む必要はないはずよ。そもそも、リュウは死にたいんでしょう? それも聞かされてるわ。だったらすぐ答えは出るんじゃないかしら」
 言われて、思う。
 そうだ、俺は死にたかったんだ。
 そして死ねば姉に会うことができる。
 姉の言う通り、確かにこれ以上幸せなことなんてないんじゃないか?
 だって俺は死にたいし、姉のことが大好きだから。答えは、一つしかない。
 さほど迷うことなく答えは出た。俺は姉に向かって笑いかけ、決断する。
 俺は、姉さんと生き――

 

リュウくん』

 

 言葉は喉から出なかった。
「……どうしたの?」
「俺、は」
 苦しそうに黙る俺に、姉は幻滅したらしい。「この期に及んで、迷うのね」
 まぁいいわ、と彼女は挑発するようにせせら笑う。そして、俺の頬に手を伸ばす。
 指が、俺の肌を撫でる。愛でる。愛撫する。
「もう七月ね。夏休みが来るまで猶予をあげる。そこで答えを出しなさい。……まぁ、決まってると思うけれど」

 

 姉の目に魅入られて、俺は何も言うことができなかった。

 

18 

「おはよ」
 目を覚ますと、ベッドの中に姉がいた。寝間着も着ず、シャツに皺をつけている。
 一瞬で眠気が吹き飛んだ。
 昨日姉から話を聞いた後、いつ寝たのかは覚えていないが……なぜこんなことに?
 目を丸くする俺に、いつも通り姉は平然と言い放つ。
「何かおかしい? 恋人なんだからこれくらいしてもいいでしょう」
「いや……そうなのかもしれないけどさ」
 こういう行動を見るにつけ、この人は本物の正真正銘の姉だな、と確信する。
「こんなことで驚いていたら今日を乗り切れないわ。だって、これからデートするのだから」
 デート? これから姉と?
「言ったじゃない。あなたはまだ悩んでるようだから猶予をあげるって。ただし――私の側も当然アクションを起こす権利はある」
 そう、と姉は俺に人差し指を向ける。行儀が悪いと言われても絶対やめない、彼女の癖だ。
リュウにとって私がどれだけ魅力的か、ちゃんと再確認してもらうのよ」

 

 今日のメニューは、午前中はホールでクラシックのコンサート、午後は美術館の写真展、何か食べてからバーに行って終わり、ということらしい。姉は綿密に計画を立てるときとものすごく雑なときのある気まぐれな人間だが、今回は前者だったらしい。
「コンサートも展覧会も、人付き合いでチケットを貰ってたからちょうどいいかなと思ったの。文句はないでしょう?」
 はぁ、と言うほかない。

 

 一介の高校生をクラシックのコンサートに連れていく姉の滅茶苦茶なところはともかく、ホールは大きく、しっかりした演奏会なのだなぁと非常に適当な感想を抱く。
「……周りをきょろきょろ見て、どうしたの? そんなに怖がらなくていいのよ」
「いや、そうじゃなくて、みんなこっち見てるでしょ」
 開演前のロビー、明らかに俺たちは注目されていた。
「ああ――みんな私が気になっているのよ。ま、どうでもいいわ。気にしないで行きましょう」と姉は俺の手を引く。どうやら、この世界でも姉は有名人のようだ。

 

「まぁまぁね」
 コンサートが終わると、姉はまた傲慢に言った。
ドビュッシーは私が愛している唯一の作曲家なの。だから『海』が音楽的にまともな演奏で観れてよかったわ。それぐらい。リュウはどうだった?」
「姉さん、あのさ。演奏の間、ずっと俺の手握ってたよね」
 姉はええ、と頷く。
「何か問題でも?」
「……その、恥ずかしくて」
「そんなことを恥ずかしがるなら、人前で私を『姉さん』と呼ぶ異常性を考えなさい」
 そうだった。この世界で俺たちは姉弟ではないのだ。
 恥ずかしさに死にそうになりながらも、呼んでみる。
「な、ナ……」
「六十五点。かわいいのでギリギリ合格にしましょう」
 俺の姉は恥じらう俺に少し満足したらしい。

 

 美術館でも姉は姉だった。
 彼女は俺と平然と手を繋いだまま館内を歩いたので、展示された美しい田園風景の写真を楽しむ余裕などなかった。
 小声で呼びかけても離してくれない。どんどん顔に熱が集まるのを感じた。
 ……一周し、やっと姉が企画展のブースを出て手を離してくれたと思うと、今度はばったり会った知り合いらしい外国人の男性に勝手に俺を紹介し始めた。
 ボーイフレンドとかラヴァーとか、そういうこっぱずかしい単語が聞こえてくる。
 正直やめてくれと思ったが、嫌な気持ちではなかったのも……事実だ。
 だって、こうやって大手を振って一緒にいて、何も言われないなんて初めてだったから。
 だから彼女にせがまれて、ついに折れて言ってやった。
「アイラブユー」って。

 

「ここ、いいでしょ。連れてきたのは初めてだったかしら」
 俺たちは今、高層ビルの上階にあるバーにいる。
 上品なジャズが流れ、周囲には普段の生活では見かけないような気取った身なりの男女がいる中でも、姉は誰より適当な格好のはずなのにひときわ目立っていた。
 カウンターに座った姉は「積もる話もあるでしょうからね」と笑う。
「あの頃が懐かしいわね。……どう? 死人と話してみた感想は?」
「……分からないよ」と俺は返した。
「どうして姉さんが、その……死んでしまったのか」
「申し訳ないことをしたとは思うわ」と姉は注文したジントニックに口をつける。「でもね、あれが必然だったのよ。私はあの世界で生きることなどできなかった。リュウを守るだけで精いっぱいで、私は随分と疲れてしまったから」
「気づかなかった俺が悪いのは分かってる。でも、何か言ってくれてたら、そうしたら――」
「私たちの親みたいに、一緒に連れて行ってほしかった?」
「そんなことは言ってない」
「冗談よ」と姉は笑う。彼女の笑い方はいつもちっとも面白くなさそうに見える。
「……姉さんも、現実より『エヴェレット』の世界の方がいいと思ってるらしいね」
「正確には――現実など私たちが生み出したひとつの世界でしかない、というのが私の見解よ。今までの私たちは生まれつき一通りの世界しか認識できなかった。でも『エヴェレット』はそんな人類を進化させてくれるのよ。……言ったでしょう、幻覚や夢なんかじゃないって。どんな世界も存在するの。もし誰もがそれを知ったなら、誰も責任を負わなくて済む。倫理も罪も消える。すべてが許される素晴らしい世界よ。……ねぇ、最善説って知ってるかしら?」
「いや」と俺はコーラの入ったグラスを揺らす。死にたい俺の体温で、氷が溶ける。
ライプニッツという有名な哲学者が議論したのよ。現実世界は神様が作れる中でもっとも幸福な世界だ、という主張。神様はすべてを知ることができ、どんな世界でも生み出せる。神様は慈悲深い。だから、数ある可能性の中でもっとも優れた世界を作った、というわけ。……戦争も殺人も貧困も、それは最善だったのだ――どう思う?」
「よく知らないけど……それは詭弁じゃないのか?」
「でしょ? 実際に、ヴォルテールという人は反論に小説を書いてしまったぐらい。私もね、最初はこの考え方に憤った。でもね、あるとき気づいたの。……私たちひとりひとりが神様になって、それぞれが最善の世界に住めばいいんだ、ってね」
 なるほど、姉らしい主張だ。けれど、俺には疑問が浮かぶ。
「でも、もしそうならどうして現実の俺に拘るんだ? 『ゾンビ』って呼ばれてたけど、それぞれの世界にいる大切な人と暮らせばいいじゃないか。無理やり俺を持ってきたりしないで」
 矛盾じゃないのかと俺が訊くと、姉は平然と「そうよ」と返す。
「確かに私は思い通りのリュウと幸せに暮らすことができる。でもね、個々の世界にいる同じ人のうち、どのリュウを大事に思うかは私の勝手よ。その上で、私は――かつて同じ世界を生きたリュウ――つまり知っているあなただけと、新天地で生きていきたいの」
「だから、ここまでして呼び出してきた……ってことか」
 これまた姉らしい、無茶苦茶な暴論だ。でも、納得できる。
 数億人の中から恋人や友人を選ぶのはその人の価値判断だ。並行世界も同じなのかもしれない。
「こうして小難しいことを話していると昔を思い出すわね。……でもね、究極的には理屈なんてどうだっていいのよ。大事なのは、私と同じようにリュウが何に判断を置くのか――それだけ。ねぇ、リュウ――あなたは、私が好き?」
「ああ」
「私を愛してる?」
「……そう思っていい」
「相変わらずひねくれてるわね。じゃ、帰ったら素直になってもらおうかしら」
 姉の厭らしい目つきに、嫌な予感がした。

 

 ベッドの上、姉は俺を抱き締めている。強く、強く。
「これから何をするか、分かってる?」
 言葉と同時に腕が離される。身体を拘束された苦しさが抜けていく。でも、困るのはここからだった。
 シャツのボタンが外れていく。病的に白い肌が、空気にさらされる。
「今度こそ、受け入れてくれる?」
 俺は目を逸らす。昔のことを思い出してしまったからだ。

 

 今考えると、間違いなく姉は心を病んでいた。
 だから俺と暮らすと言い出した時、誰かが止めるべきだったんだと思う。でも彼女は親戚たちに強引に押し通した。その頃の姉は俺には想像できない方法で金を動かし、急激に資産を増やしていた。それは、両親の莫大な借金をたちどころに帳消しにしてしまうほどに。
 また、テレビやネットで急激に取り上げられるようになったのも、この頃だ。本人もそれを積極的に受け入れた。偉大な親の非業の死を乗り越えた、天才少女。そんなお膳立て。
 でも姉は変わらなかった。少なくとも表面上は。
リュウ。仕事、また遅くなってごめん」
 彼女は新しく契約したマンションに戻ってくる。俺は笑って迎え入れる。
「いや、いいんだよ。姉さん。お疲れ」
 そして俺たちはまた他愛もない話をする。番組の共演者への悪口とか、昔みたいな科学や哲学の話。あるいは俺が学校で何があったとか、記憶にも残らないこと。
 でもそれでよかった。俺たちに言葉はいらなかった。
 俺たちは変わらなかった。変わったのはお互いの距離。
 記憶には、続きがある。
リュウ、戻ったわ」

 

 記憶。シャワーを浴びた後の姉がやってくる。

 

「ほら、来なさい」

 

 記憶。彼女の手を握る。

 

リュウの手、あったかい。生きてる」

 

 記憶。姉が唇を近づけてくる。

 

「びっくりした?」

 

 記憶。――空白。

 

「じゃ、行きましょうか」

 

 記憶、記憶、記憶、記憶、記憶――

 

「あんなにくっついたのに、リュウは最後の一線は越えなかった。血は繋がってないのにね」
「――それは」
 実際のところ、あと一歩だったと思う。でも、俺にとって彼女はやはり家族だった。
「でもそれは分かる。出会いが悪かったのよ。私たちは家族として出会い、しかもそれによって不幸が降り注いだ。周りは私たちを疫病神か悪魔のように扱った。だから、私と結ばれることに躊躇いがあったのも当然じゃないかしら。でも……今は、分かるでしょう?」
 そうだ。もう姉は、姉ではない。
 世界は変わった。俺たちが俺たちでいることを、誰も責めない。
「手、伸ばして」
 あと一歩。
 俺は思う。姉――いや、この人からは、もう逃げられないのだと。
「これからは……二人だけの王国で、生きましょう」
 俺は彼女を求めている。彼女は俺を求めている。
 それ以上の答えはあるだろうか?
 ……たぶん、これでいいのだろう。俺たちに間違いなどないのだろう。
 だからもう考えるのをやめる。
 ゆっくりと、俺は姉の身体に手を伸ばして――

 

リュウくん』

 

 まただ。
 俺の手は、止まっていた。
「……リュウ
 姉は幻滅したように俺を睨んだ。
「やっぱりそうなのね。リュウはいつだってそう。意気地なし」
 姉は立ち上がって後ろを向き、着ているものを整え始める。
「いいわ。最後まで取っておきましょう。どうせあなたは負けるに決まっているんだから」
 勝手に納得したらしい姉が、不機嫌そうに部屋を出ていく。
 ……でも自分には、理由が分からなかった。
 俺はどうして、二度も姉を拒絶したのだろうか?

 

19

 目が覚めると、姉はいなくなっている。
 何もかも夢だったのではないかと思ったが、リビングには書置きがあった。

 

『作戦を変えます。リュウが限界になるまで出てきません。苦しみなさい』

 

 拗ねたらしい。
 さっそく痴話喧嘩かよ、と突っ込みたくなる。
 ……それにしても、やはり今も『エヴェレット』の効果は続いているのだろう。
 俺は現実の身体に意識を戻す。ソファに横たわる現実の俺がロボットのような動きで目を覚ます。凄まじい空腹感が襲ってきた。水を飲む。ポテトチップスの袋を開け、口の中に掻き入れる。現実感はない。姉のいる世界の方がよっぽどリアルだった。
 ひょっとして、俺が感じていた『膜』とやらの正体もこれだったりしないだろうか。脳内物質のようなもので、『エヴェレット』を使っていなくても、意識がほんの少しだけ並行世界に近づいていたのかもしれない。
 そんなどうでもいいことを考えながら、今度は身体を痛めないようベッドに向かい、またトリップする。

 

 月曜日の、この世界で初めての朝。
 学校に行かなければならない。
 なんでこんな異常事態なのに普通に生活してるんだと思うが、逃げようと思えば逃げられるのに、姉に付き合っているのは俺なのだ。文句は言えない。
 服用を中断して現実に戻ることはできる。それだけではない。『エヴェレット』には自分や世界を改変する力がある。だからやろうと思えば勝手に別の世界に行くことさえできただろう。でも試す気はなかったし、そんな俺を姉も計算済みのはずだ。またしても、掌の上。
 電車に揺られながら、窓の外を見る。
 眩しい朝日。現実と寸分違わない街。そこでは『ゾンビ』たちが何事もなく暮らしている。いや、リリたちが勝手にそう呼んだだけで、姉に言わせれば彼らも普通の人間なのだろう。だとしたら、現実なんて言葉、意味がないのかもしれない。
 俺は虚構と現実がテーマの創作物をいくつか思い出してみたが、ほとんどが現実に帰る話だった。
 もちろん例外はある。
 あるSF映画では、主人公は現実でも虚構でもいいから、家族がいる世界を選ぶ。
 あるアニメ映画では、虚構でヒロインと結ばれるより、現実でラブコメをすることを選ぶ。
 あるノーベル賞候補作家の小説は、自らが生み出した虚構世界に責任を取り、そこに残る。
 ……でも、姉が正しいなら『エヴェレット』が見せる世界はどれとも違う。虚構なんてない。すべてが現実だ。
 なら、好きな世界を選んで何が悪いのだろう?
 俺は姉が好きで、姉といたい。
 ならばなぜ、躊躇うのだろうか? ……分からない。

 

 窓から車内に目を移す。
 反対側の扉、窓の傍に女子高生がいる。
 制服で分かるが、彼女は同じ高校の生徒だった。我が校はリボンやネクタイの色が違うので、彼女が自分と同じ二年であることは一目見て分かる。
 彼女はどこか存在感が薄い。うまく言えないけれど、吹けば飛んでしまいそうな気がする。英単語帳を開いていたがまったく読んでおらず、うつろな目をしている。せせこましく肩を縮め、ここにいてすみませんと全身で主張しているようだ。とにかく生気が感じられない。明らかに健康な様子ではなかった。でも誰も気にしない。それもまた、当然。
 まだ客は少なくて、周囲には俺と彼女しかいない。もしかしたらこの世界で俺たちはいつも乗り合わせているのかもしれない。
 なぜだろうか。
 彼女の姿を見ていると、ひどく胸が締め付けられる思いがした。
 でも、ほぼ確実に彼女の名前を知ることはないだろう。電車で見知らぬ人と知り合うなんて、創作物の中でしかありえないことだ。
 俺たちは毎日、何十回何百回と、卒業するまで同じ空間で心を入れ違えるのだろう。
 だけど、あたりまえのことなのに、なんだかほんのすこし悲しいことのように思えてならない。

 

 だから声をかけたのかもしれない。
 衝動が抑えられなくなって、気がついたら「あのさ」と彼女を呼んでいた。
「俺のこと、知ってる?」
 最初、彼女は自分が呼びかけられているのに気づかなかったようだが、もう一度呼ぶと「……はい?」と怪訝そうに俺を見た。明らかに警戒されている。当然だ。電車の中で知らない人間が声をかけてきたら、俺だって不審人物だと思う。
「知りませんが」と彼女はまっとうに答えた。なるほど、と思う。
 自分でも驚いたことに、勝手に喉が動いていた。我ながら狂っていると思う。というか、考えるまでもなくこれって不審者じゃないか。
「怖がらないでほしいんだけど、俺はちょっとだけ知ってるんだ。誰だと思う?」
「さぁ」
「何の変哲もない少年だが、実は昨夜化け物に襲われて、謎の少女に助けられた」
「……はぁ?」
「かもしれない。それとも、本人は気づいていないが複数の女の子に好意を寄せられている、鈍感なラブコメ主人公」
 かもしれない。
「または制作が間に合わずちょっと作画が崩れている、一昔前のアニメのモブの高校生」
 かもしれない。
「でもやっぱり電車で毎朝乗り合わせるだけの、平凡な、お前の知らない男子高校生」
 かもしれない。そう俺は繰り返してみせた。
「……何なんですか?」
 困惑する彼女を見ていると、なんだか楽しくなってしまう。
「冗談冗談。……ほら、この制服を見てくれないか? 高校、同じなんだ」
「はぁ」と女子高生は空返事をする。そりゃそうだろう。だから何、って思うよな。
「それでさ。いつもここに乗ってるじゃん? 俺も同じ車両の、この場所に絶対に立ってるんだ。だから、ほぼ毎朝身近にいたんだよ。でも、気づかなかっただろ?」
「まぁ、そうですね」
 彼女は目を逸らす。明らかに話を打ち切りたがっている。でもやめない。
「でさ、どうせなら挨拶でもしてみようって思ってさ。あ、ナンパとかじゃない。ただ、なんで人間って孤独にならなきゃいけないんだって思っただけだ。その、これだけ多くの人たちが世の中にいるのに誰とも知り合わないなんてさ、あー、うん、まるでこの星は寂しさをエネルギーに回ってるみたいなもんじゃないか? ……ええと、だからそれに抵抗してみたんだ」
「意味が分かりませんけど」
「嫌だったらごめん。でも、勝手に挨拶だけさせてもらうから。――福宮高校二年のD組、山田リュウだ。あ、そっちは名乗らなくていいから。おはよう」
 彼女は「……おはようございます」と小さく礼をした。
「ごめんね。もういいから。これからは話しかけない。顔を見るのも嫌だったら、残念だけど電車をずらすし、だからその……あ! 着いた。じゃ」
 ……ついに恥ずかしさが限界に達し、逃げ時だと踏んだ瞬間にタイミングよくドアが開いた。早足でホームに出ようとして、服の裾を掴まれる。
 あれ? 誰だ?
「そこ、違う駅です」
 それは、話しかけた女子高生だった。

 

 なぜこんなことをしたのだろう。自分でも説明できない。
 でも、どうしても――そのまま見ては、いられなかった。
 彼女は『ゾンビ』だ。姉に言わせれば、他人だ。
 なのに。なんでだろう。
 どうしても無視できない。
 無視したら――ものすごく大事なものと、すれ違ってしまう気がする。

 

 まもなくなだれ込んできた客で彼女とはぐれてしまったが、次のエンカウントはあっけなくやってくる。
 昼休み、A組を通りかかると、電車で話しかけた女の子が教室の中に見えた。
 教室の隅、彼女が見ている先、机と椅子が逆さになって置かれている。
 女の子がカカシのように佇んでいるのを周囲は完全に無視している。まるでこの子は幽霊だとでも言わんばかりに。
 ――特に迷うことなく、俺はクラスの中に入っていた。
 クラスの視線が一気に集まる。
 渦中の少女に近づくと、俺は「それ、手伝うよ」と、クラスに響く大きな声で言った。
「……え?」
「元に戻すから、ちょっと離れて」
 怯えるように飛びのいた女の子と入れ替わるように前に出て、机と椅子の重力を元に戻す。
「はい、できた」
「あ、あの――」
「また会ったな」
 彼女は律義に、でも申し訳なさそうに「……はい」と言う。
 でも、これだけでは足りないと思った。
「あのさ、前言撤回で、やっぱりナンパするんだけど――これから時間ある?」
 これまた、クラスのみなさんが一歩引くのを感じる。
「……はい?」
「そのさ、飯でもどうだ?」
 俺はそう言って、彼女の手を取った。

 

 幸いなのか不幸なのか知らないが、化学準備室の鍵は開いているくせに誰もいない。いろいろな意味でいなくて安心したけれど、どの世界でもこんな管理状態なんだな。
 カーテンを開けると、青空が広がる。
 窓を開け放つと「ここから入れるから」と彼女を手招きする。
「え……いいんですか」
 その反応に、屋上のことを知らないんだなと面白く思った。深く考える余地もあるだろうが、俺はそれ以上考察はしなかった。
「この本棚の上に登って。跨ぐときに怪我しないように注意しろ。俺が先に行くから支える」
 彼女の反応を待たず、有無を言わさず先に窓を抜ける。
「ほら、こんな感じで」
 彼女は少しの間みじろぎしたが、ついに勇気を出したのか静かに頷いた。
 ……ゆっくりと、俺が身体を支えながら屋上に降り立つ。
「ここ、上がれるんですね」
「誰にも言わないでほしいけどね。ま、たぶん知ってる人はいると思うよ。今日は誰もいないようだけど」
 蒸し暑くなってきたな、と思う。そうだ、もう七月になるのだ。
 俺たちは給水塔の日陰に座りこみ、腹を満たす。俺は来る前に寄った購買で買ったパン。彼女はかわいらしい箱に入った、玉子焼きの入った弁当。
「……あの、ありがとうございました」
 食べ終わるなり、女の子は俺に礼を言った。
「割と、ああいう目に遭ってるんです。引かれるかもしれないですけど」
「もう大丈夫だと思う」と俺は楽観的に言った。「あいつらは全員が無視することで連帯しているから、外部の人間が現れてそれを崩したら何もできなくなる。クラスが違うから俺を除外することもできないし。少なくとも、たぶんもう嫌がらせはしない。はい、解決」
 スクールカーストブコメもびっくりの超簡単ないじめ解決法。学校にもよるだろうけれど、うちの卑小なガキの思いつく悪意なんて、その程度だ。
「……そんな」
「それでも不安なら、俺が朝と昼休みと帰り、ついててやろうか? いや、冗談だけど」
 俺が言うと、彼女は「それもいいかもしれませんね」と暗い笑みを浮かべた。相当に堪えていたのだろう。
「こんなことしてもらったのに、何も返せなくてごめんなさい」
「見返りなんていいよ。見てて気分が悪かったからやっただけだし」
「でも……」と彼女は何か納得いかなそうな顔をしている。
 俺は少し考えてから、「それなら」こう提案した。
「そっちって、A組だよね? 特進の」
「……ええ、そうですけど」
 何も恥ずかしがることはないと思うのだが、彼女はばつが悪そうに横を見る。
「じゃあさ、ものすごい勝手な話なんだけどさ。もうすぐ期末だろ? でさ――」
 俺は自分の厚顔さに驚いてしまった。
 もしかしたら、それもまた、誰かさんに教わったことかもしれない。

 

「勉強、教えてくれないか?」

 

20

  その日の放課後、迷ったけれど、長時間滞在して勉強し、かつ喋っていい場所が他に思いつかなかったので彼女を家に上げてしまうことにした。
 急すぎるので明日以降でいいと言ったものの、女の子が「時間がもったいないです。やるからには真剣にやらせてください」と譲らず、気圧されてしまった結果だった。
 姉には申し訳なくなったが、決して浮気ではない。……決して。
「……いいのかな」と緊張している彼女を促して、リビングに入っていく。部屋は整頓されているし、俺に見られて困るものは何もない。あったとしても姉が見ているだろうからプライバシーなんてないが。
「じゃ、始めるか」
 テレビの前のテーブルに、ノートや教科書、プリントを挟んだファイルなどを置いていく。
「確か、国語が分かんないんですよね」
「そう、特に現代文が一番苦手なんだ。ローラー式に暗記すればいい教科は楽なんだけど」
「分かりました。じゃあ、問題なければ過去の試験結果を見せてください」
 え? と面食らったが、彼女は何かおかしいことでも? と言わんばかりだ。
「どういうところでミスしやすいのかをまずチェックしましょう」
「ああ、そういうことね……」
 本格派だった。……そして惨憺たる俺の点数も、衆目に晒される。
 彼女は俺の答案たちを見て、一言。
「なかなか大変そうですね」
「……大丈夫かな」
「まぁいいでしょう。さっき暗記教科の話をしてましたけど、現代文もやり方が分かれば似たようなものですよ。誤解されがちだけど」
「そうなの?」
「物は試しです」と彼女は鞄から何かを取り出したと思うと、開いて顔にかける。
 眼鏡だった。
「――似合ってるな」
 口に出していたらしく「……始めましょう」と恥ずかしげに下を向かれてしまった。

 

 以前のテキストを使って、ゼロから問題を解く。
「……それから終わりから前に二段落戻って、また頭の一文に線を引きましょう。……どんな文章でも、『これ』とか『あの』みたいな代名詞が何を指しているのか把握すれば、どんなに難しくてもだいたい内容は分かります。漢字が分からないとかでなければですが」
「……すごい」と俺は驚いた。「小説をこんな風に読んだことなかった」
「文章の読みやすさや読みにくさは、そういう情報の整理も大きいですね。でも、究極的には大江健三郎小林秀雄も同じ日本語です。だから代名詞や修飾をはっきりさせることが大事で」
 そう言うと女の子はスマホを取り出した。
「方法はだいたい分かりましたか?」
「まぁ、なんとか」
「じゃ、試験範囲の模擬問題でタイムアタックしますね。時間計るので」
 まさかここまでされるとは思ってなかったんだが。
 ……時間を計り終え、採点して今日はお開きになる。
「これから毎回時間を記録するので、グラフにしておきます」
「いやそこまで……ってか、明日以降もやるのか?」
 女の子は「やらないんですか?」と純粋に訊いてきたので「……はい」と答えるしかない。

 

 翌日も、翌々日も勉強会は続いた。
 問題を解くスピードは次第に速くなった。文章自体を読むスピードも上がってきた。傍線部に突き当たるたびにつっかえていたのに、飛ばす問題のチョイスで効率は急激に上がった。
 真剣に取り組むようになると、時間はあっという間に過ぎる。
「じゃあ、また」
「ああ。屋上で」と俺は挨拶して、それから思っていたことを言った。
「その、もう敬語じゃなくていいぞ」
「あ」と女の子は今更気づいたという顔をした。「すみませんでした」
「何も悪いことしてないのに謝らなくていいだろ」
「あ、そっか……じゃあ、よろ、しく」
 なんか恥ずかしいな、と彼女は照れ隠しに笑う。
 初めて見るのに、懐かしい笑顔。

 

 屋上で今日はどうするかを話し合っていたときのことだった。
「これが今までの記録。時間だけでなくて、間違えた場所の問題も確認するから。答えだけじゃなく、どういうときに間違えやすいのか意識しておくと――あ」
 熱心に話していた女の子が、ふいに言葉を失う。
「どうしたんだ?」
「いや、ええと……」
 口を濁すので何かと思い、彼女の視線の先に目を向けると、ちょうど化学準備室の窓から誰かが出ているのが見えた。ここは死角になっているので、向こうは気づいていない。部長か? と思ったが二人いるので違うらしい。
「ああ、他にも来たんだな。空きっぱなしだから知ってる奴もいてな」
「いや、それはそうだけど、その」
 どうして彼女は取り乱すのだろうか。
「知ってる奴か? ああ、もしかしてクラスの奴らの一人だったりする」
 彼女はぶんぶんと首を振る。
「違う。ひとりは知ってる子で、ぜんぜん嫌じゃないんだけど、その……何を話したらいいか分からないというか」
「話したいと思ってるのか?」
「……否定はしないけど」
 面倒になってきたので、俺は立ち上がる。
「呼んでくる」
「えっ? ちょっ、ちょっと待って――」
 俺はすたすたと歩いていって、座る場所を探しているらしい二人に近づく。
 男女だ。
 片方の女子の顔は、伸びた前髪でよく見えない。もう夏といえるのに、シャツの上から長袖のジャージ姿、ズボンも履いている。失礼ながら非常にイモっぽい。というか暑くないのか?
 隣の男子は凡庸な外見だ。没個性もここまでくると個性にさえ思える。
 俺は「日陰があるよ」と話しかけた。
 二人は一瞬ぎょっとした顔を見せたが、男子の方が「……ああ、ありがとう」と答え、俺が歩き出すと二人もついてきた。
「ほら、ここ。もう一人いるけどいいよな」
「問題ないけど……あれ? どうした」
 平凡な男子が地味な女子の方に目を向ける。彼女はしまった、というような顔をしていた。
 目線の先には女の子。
「知り合いみたいだけど」
 女子は「そうですが……」と言葉の端の置き場に困り、仕方なく「そうですね」と結んだ。
「……どうも」
「……はい」
 二人は非常に小さな声で挨拶した。やはり、何か気まずそうだった。
 ああ、そういうことね。この世界で二人は、まだこんな関係なのか。
 でも大丈夫だ。
 保証するけど、お前らは仲良くなれるから。
「え、そうだったん?」とやたら馴れ馴れしく男子が女子に訊いたが、悲しいくらい似合っていなかった。

 

「まぁ、なんかその、いろいろあって」
 そう女の子は女子との関係を濁した。それ以上訊くつもりはなかったから別にいいが。
「……そっか。で、お前らはなんでここに来たんだ? ぼっち飯?」
「ちげーよ!」
 男子が突っ込んで「明日数学の小テストなんだ。科目的に俺の方が先だったから、傾向を教えようと思ってな。クラスに乗り込んだら変に思われるだろ?」と非常に論理的に説明した。
「交換で、ノートを見せてもらう」と女子が会話に割り込んだが、声量の調節を間違えたと思ったのか、「……私、字汚くて自分でも読めないから」とぼそぼそ喋る。
 なるほど、と思う。二人もまた、勉強で困ってるんだな。
 そこで、なんとなく面白いことを思いつく。
「三人とも、得意な科目と苦手な科目を教えてくれないか? 俺は理系。あと英語もできる。国語と社会科は無理」
 要するに姉の影響なんだけど。
「俺、ほぼ逆だわ。理系科目は全部無理だ! すげぇだろ」と男子はしょうもなく開き直る。「あ、こいつは社会科以外全然できないよ。補習三昧」
 勝手にプライバシーをバラされた女子が、男子の頬をつねる。「ひふぁいって!」
 そして、最後の一人。
「そっちはどう?」
 訊いた俺に、女の子は「苦手な教科、ないかな」と断言した。
 俺に現代文を教えたとき同様、その眼には自信がこもっている。
 かわいらしい。
 ……俺はあることを提案してみた。
「これからめちゃくちゃ馴れ馴れしいことを言うんだけどさ。もうすぐ期末だろ?」
「……そうだが」と男子が怪訝な顔をする。
「ならさ、ここで知り合ったのも縁ってことで、お互い助け合わないか?」
 つまりだな、と俺は一呼吸おいて、こう誘った。
「この四人で勉強会でもしないか?」

 

21

 「……お邪魔します」
 律儀に女子は挨拶したが、男子は「すげー、広い」と馴れ馴れしく部屋を寸評した。
 自宅――いや、姉の家に知らない人間を上げまくっている。
 知られたらまずい。非常にまずい。拗ねるどころではない。期限が来る前に殺される。
 でも、乗りかかった舟だ。
 テレビ前のテーブルに集まり、俺が女の子の隣、向かい側に男子と女子が座りこむ。
「じゃ、やるか。お互い苦手なところをカバーしよう」
 女の子はオールラウンダーだが、ひとりに比重をかけすぎると疲れるはずだ。だからローテーションでいこうと決めた。
 俺が女の子に国語を教わる。同時に、男子は女子に社会科以外のひとつを教える。
 一定時間が過ぎたら、時間割のように交代。今度は男子が俺に教わる。女の子は女子に教える。それぞれの科目は被らないようにしておく。
 ほとんどの科目が苦手な女子も、俺には社会科を教えられる。だから場合によって彼女を挟み調節すれば回るだろう。頭の切り替えさえできるようになれば、効率がいいはずだ。

「でだ、ここでまたthatが省略されているんだが、問題は関係詞なのか関係代名詞なのかということで――」

 

「理論上、選択問題は消去法を使うのが手っ取り早いよ。誤答に対して正解は一つしかないから、テキストと矛盾する部分に当たる可能性の方が高いから。分かる?」

 

「解の公式をはっきり言えるか確認してみろ」

 

「私たちの担当の先生は単語の穴埋めを出すことが多いけど……ひとつひとつ暗記すればいいって訳じゃなくて。……ものごとには原因と結果があるように、歴史っていうのは流れがあって、後で伏線のように効いてくるから。たとえば……その前のフランスの歴史をちゃんと理解していると、ナポレオン三世の話はすごく面白い。……マルクスっていう偉い人も『歴史は繰り返す』って言っていて、ただ『一度目は悲劇として、二度目は喜劇として』って――あ、話が逸れちゃった。……あれ? 何を話してたっけ」

 

 そんな風にして時間が経ち、そろそろ帰ろうという雰囲気になる。
「疲れたー」と男子が腕を伸ばす。「あんまりにもこいつがバカだから時間がかかって……いやごめんんさい、そんな睨まないで」
 やがて彼を苛めるのにも飽きたのか、はぁ、と女子は息を吐いて「これからもやる?」と女の子に訊く。
「嫌だった?」
「そんなことないよ」
 女の子は「……ならよかった」と頷いた。
「じゃ、解散かな」
「ああ、またこの時間に集まろう」
 俺は三人を見送って、部屋に戻った。

 

 人数が増えた勉強会は、次第に工夫が図られるようになった。
 買い出しに行ってお菓子を用意し、時間が空いたらちょっと雑談。
 今日やる範囲を決めておくと、終わった後にちょっと余裕ができるので、コンビニでトランプを買って息抜きに遊ぶ。みんな疲れているのでカオスになる。
 なんだか文化祭の準備期間みたいだな、と思う。いや、文化祭にしっかり参加した事なんてないので、フィクションのイメージなんだけれど。
 そんな間にも、期末は近づく。
 それは姉との期限も、同じだ。

 

 ……俺は何を望んでいるんだろう?
 何度目かに現実に戻り、食事と水分を補給しながら、真っ暗な天井を見て思う。
 部屋で最初に『エヴェレット』を飲んだとき、俺には姉しかいないと確信していた。それなのに、自分から人を集めてしまうなんて。
 それもこれも、たぶん彼女のせいだ。そいつがいると、調子が狂う。
 どうしてだろう?
 どうして彼女を見ると、放ってはおけないのだろう?
 ……そう考えたとき、何か、胸をつくものを感じた。
 でもそれは、歯がゆいところで言葉にならないのだ。

 

 金曜。来週頭から期末が始まる。最終日なので、それぞれの準備のために今日は勉強会を開かず、個別でまとめをすることにした。
 ……先生との野暮用で遅れてしまい、俺は少し急いで屋上に向かっていた。
 化学準備室に入ると、部長がいた。
「へぇ、なんか変なことしてたんだね」
 彼女は唇を歪めて、俺を嘲笑した。
「あんなに好きだったナオ先輩はどうしたの?」
「どいてください」
「キミの好意ってこの程度なのかな。あんなに大事にしてくれる人がいるのに」
「……どいてください」
「ねぇ、私が絶対に手に入らない場所にキミはいるんだよ。なのに、あの人の愛をキミは愚弄している。それが分からないの?」
 部長が知っているということは当然、俺の行いは姉に知られているのだろう。
「どうして……姉さんは姿を現さないんですか」
「キミへの罰だからだよ」
 部長はせせら笑う。
「どれだけ逃げても無駄。だって、ナオ先輩はキミの心の中にいるんだから。だからね、これから苦しむよ。幸せになればなるほど、誰かを好きになればなるほど痛みは増す。そして耐えきれなくなって壊れ、彼女のところに帰るしかなくなる」
 それが、最高の攻撃。
 姉はそう確信しているんだろう。
「ねぇ、真面目に考えてみなよ。あんな女の子のどこがいいのかな?」
「黙ってください」
「辛いときも苦しいときも、ナオ先輩はキミを支えてくれたんだよ?」
「黙ってください」
「あの人をキミが捨てたら、彼女はどうなるかな?」
 ……畜生。
「ナオ先輩を理解してあげられるのはキミしかいないんだよ? 私はそれが許せない。本当は私が傍にいたいのに。だからこうやって苦しめてやらないと気が済まないの」
「……あんたに何が分かるんですか」
「キミはお姉さんのこと、本当に好きなの?」
「――黙れよ」

 

 ついに、言葉が堰を切った。
「ナオ先輩ナオ先輩ナオ先輩、うるさいんですよ! あんたは姉の何なんですか。姉の何が分かってるんですか? 部外者のくせに、生意気に――」
「あは、あははは、ははははは!」
 部長は狂ったように笑った。
「そうそう、それだよ! そうでなくっちゃ! 妬いてるんだよね? 嫉妬したんだよね? ほら、やっぱり好きなんじゃん!」
「……それは」
「なのに、なのになのになのに! キミは大事なあの人を捨ててくだらないガキどもとつるんでるんだから笑えるよ。ああ、それともあの子はつまみ食いって感じなの? いいねいいね、元気だね、でもあの人は変なところでかわいそうなぐらい優しいから、案外許してくれるかもしれないよ? 愛してるキミが望むなら、愛人の一人や二人ぐらいは――いや、言い過ぎたかごめんごめん!」
 耳を塞ぎたかった。
 聞きたくなかった。
 でもそれは、今ここで俺が証明してしまったことなのだ。
「このくらいで終わると思わないでね。キミはもっともっと苦しまなきゃいけないんだから」


 ――それが、あの人の呪いなんだから。
 そう言って去っていく彼女を振り払うように、屋上に出ていく。

 

「あれ? 遅かったな」
 男子と女子が、俺を見て言った。
「あいつは?」
「移動教室だからって、先に帰っちゃったよ。がっかりしてた」
 女子が俺に教えてくれる。
「……そっか」
 俺は肩を落とした。安心すべきなのか、悲しむべきなのか分からない。
「なぁ、どうせ俺らしかいないんだから、俺らしかできない話をしようぜ」
 男子が俺を小突く。そんな気分ではなかったが「どういうやつ?」と訊いてみる。
「恋バナ」
 殴り飛ばしてやろうかと思った。
「いやいや、そんなに怖い顔すんなって! マジマジ。あのな、さっき『がっかり』って言ってただろ? あれ見て確信したんだけどな。驚くなよ――」
 彼の脳内ではドラムロールが流れているのだろう。
「――間違いなく、お前のこと気になってるよ」

 

 一瞬、こいつが何を言っているのか分からなかった。
「ねぇ、やめようよ。迷惑がってるよ」
 女子がたしなめても「いいのいいの。お前だってそう思うんだろ?」と強引に話が続けられる。
「まぁ、たぶん……」
「ほらな。いや、あんなに素直に態度が出るやつって珍しいよ。自分では気づいてないみたいなんだけどな。お前知らないだろうけど、勉強会の帰りに三人で話してるとさ、いっつもお前の話ばっかりするんだよ。無意識なんだろうけど。で、そういう時に限ってめっちゃ楽しそうでさ」
 言葉が出ない。
「……本当なのか?」
「あれがあの子の素なんだと思うよ。ちょっとずつだけど、心を開いてきたんじゃないかな」
 俺が? 心を開いた?
 ……信じられなかった。
 ただ、あんな風に縮こまっている彼女を、見ていられないだけだったのに。
「お前さ、鈍感すぎるんだよ。もうちょっと自意識過剰なくらいで行けや」
 男子はそう言って俺に笑う。
「だってさ。……俺とこいつはいろいろあったから、眩しいんだよ」
 彼は女子の方を見る。
「まぁ……恥ずかしい、けど」
「察してくれ。でも、今は仲いいし、バカやってるよ」
「もう納得、したから」
 俺は女子の方を見ていた。
「友達として、ね」
 彼女は、『友達』にアクセントを置いて、男子に向けて笑った。
「……うるさい。俺らのことはいいじゃん」
 珍しく、彼女が弄る側になったらしい。
「ええと、だから――」と言いかけた男子が「あ、やべ。漢字テストあったんだった!」と立ち上がる。
「先行ってるわ。また勉強会で!」
 そうして、屋上に俺たちは残された。

 

「ねぇ、さっき『納得』って言ったけど」と、彼女は俺に向けて言う。
「それはね、あいつのことだけじゃないんだよ」
「……どういう意味だ?」
「じゃ」

 

 謎めいた言葉を残して、彼女もまた、去っていった。

 

22

  期末のことはあまり思い出せない。上の空だったからだ。
『エヴェレット』のせいかもしれないし、ずっと考え事をしていたからかもしれない。
 でも手ごたえは悪くなかった。特に現代文は、選択でも記述でも、女の子が教えてくれたことが役に立った。感謝しなきゃな、と思う。
 一日目の帰り、グループに「終わったら打ち上げでもしない?」と男子のメッセージが来た。
 反対者はいなかったので、とりあえず打ち上げの実施は決まった。
 女の子は乗り気なようで、小さなホットプレートを用意するから何か作ろう、とまで言い出した。例によって、また俺の部屋ですることになるのだろうな――と思いながら話を進めていく。
 そんな矢先、個人のトークに男子から「ちょっと俺らだけで話がある」という旨の連絡があった。
 新しく作られたのは、俺と男子と女子だけの、三人のグループだ。そこで俺は通話に誘われた。説明もなく「とりあえず来い」と言われて。
 通話が始まるなり、挨拶も抜きに真っ先に彼は言った。
『実はこの打ち上げなんだけど、お前らのために用意したんだ』
「……はぁ? どういうことだ」
『いや、だから言ったじゃん。あいつはお前のこと好きだって。だから機会をセッティングしちゃったわけですよ』
 マジかよ、とため息が出る。
「待ってくれ。百歩譲って彼女が俺を好きだったとしよう。俺の方はどうなるんだ。どう考えても俺じゃなく向こうを仕掛け人にした方がよかったんじゃないか」
 その言葉に――男子はあっさりと言ってのけた。

 

「え? だってお前、あいつのこと好きじゃん」

 

「……どうして」
「あのな、あいつからもう惚気は散々聞いてるんだよ。いきなり電車で話しかけられて、クラスにずかずか入ってきて、勉強教えろって言い出して。明らかにおかしいだろ」
「いや、それは……見てられなかっただけなんだ」
 そうだ。
 あいつが暗い顔をしているのを、見たくない。
 それは気分が悪い。だから助けたのだ。
「いやだから、つまりそれって好きってことじゃないのか?」
 ……こいつ、何を言ってるんだ? 混乱してくる。
「いや、だから俺は自分の理由で助けただけで――」
「それはさ、誰に対してもそうするの?」
 今まで黙っていた女子が、口を開く。
「……そうだ」
「本当に?」
 その言葉には、なぜか静かな重みが感じられた。
「……確かに最初はそうかもしれないよ。でも、ちゃんと考えてほしい」
「おい、なんでそんなに――」
「だって、そういうものじゃない? ふとした時に、この人が好きだったんだなぁって気づくんだから。それこそ――何かに引っかかるみたいに。そういうことって、なかった?」
 引っかかる――
 ……そうだ。
 俺は、もう何度も引っかかっている。

 

 あれほど好きだった姉とまた暮らせるチャンスが来た瞬間。
 その姉と、もうすぐ結ばれるという瞬間。
 そして、あの女の子が、悲しそうに電車に揺られていたのを見た、瞬間。

 

 ――言葉にならない何かが、心に引っかかったのだ。
「恥ずかしいこと言うけど……それがたぶん、好きってことだよ」
 彼女の言葉に、俺は息を呑んでいた。
 こいつらは俺と姉のことを知らない。だからたぶんこれは偶然言われたことだ。
 それなのに。俺はこんなにもショックを受けている。
 黙ったままの俺に、男子は威勢よく「俺たちに任せろ!」と胡散臭く言ってみせた。画面の向こうのドヤ顔が頭に浮かぶ。
「じゃ、よろしくな」
 俺は「……ああ」とだけ言って、通話を切った。
「ああ」って。
 ついに、認めてしまったんじゃないか。

 

23 

 ――だから、呪いと向き合わなければいけないのかもしれない。

 

 期末が終わり、二学期最後の日。俺は緊張していた。
 ……姉が告げた、期限。それが今日だ。
 果たして彼女がどんな風に現れるのか、俺には分からない。
 俺は――壊れないで持ちこたえられるだろうか。
 事実として、もう答えは決まってしまった。気づいてしまった。
 それを言わなければいけないと思うと、苦しい。
 俺はどんな目に遭ってもいい。でも、部長が言ったように、姉が傷つくのはつらい。
 それでも、本当のことを言わなければいけない。
 口にしたら世界のすべてが壊れるような、本当のことを。

 

 最寄り駅の前で、俺は女の子を待っている。
 何の変哲もない一人の女の子を待っている。
『俺たちは遅れる』という白々しい連絡が届いて、先に二人だけで合流することになったのだ。もちろん嘘だ。この程度で大丈夫なのだろうか。
「……ひさしぶり」
 彼女は待ち合わせ場所に時間ちょうどに現れた。Tシャツ姿を見て、もう夏なんだなと思う。
「そんなにひさしぶりでもないけどな」
「そういえばそうだ」
 お互い、小さく笑いがこぼれた。
 やっぱりこの子には、笑顔が似合う。
 本当はずっと、気づいていたのだ。
「二人も後で来るだろうし、先に行くか」
「うん」
 こくり、と頷いたのを合図に、家に向かうことにする。
 だから、一歩を踏み出して――

 

 着信音が鳴り響いた。

 

 現実の俺が、ベッドから跳ね起きる。
 こっちの世界か! 
 無視するか? いや、うるさすぎる。せめて止めないと。
 迷いながら、苛立ちの中で音の出所を探す。けれどなかなか見つからない。
 でも、もう一つの世界で俺は女の子と歩いている。それを止めるわけにはいかない。
『エヴェレット』に習熟すれば、別の世界の身体を同時に両方操れる。それは知っている。でも俺は素人で、一人で練習したこともなかった。
 動かしている身体のどちらがどちらなのか、ちっとも分からない。気が狂いそうだ。
 足を滑らせて転び、何度もいろいろな場所に頭をぶつけながら、それでも、なんとかベッドの下にあったスマホを取ることができた。
 放置していたので電池残量は3パーセントになっている。とりあえず充電器に繋いだ。
 ――着信拒否しよう。そう思って画面を見る。
 ネズミからの電話だった。

 

 繋がった途端ネズミは「何やってんだよお前!」と怒鳴ってくる。
 何か言おうとしたが、向こうの世界で街を歩くのが精いっぱいだ。

 

 駅前、俺は立ち尽くしていた。
 冷や汗が止まらない。
「どうしたの?」
 明らかに異常な俺を、女の子は心配する。
「……いや、なんでもない」

 

 黙り続ける俺に業を煮やしたのか、ついにネズミが怒鳴った。
「今、病院にいるんだって! なんで電話に出ないんだよ!」
 病院だって?
 そこで、頭の中で何かが繋がった。

 

「ミドが目を覚ましたんだ!」

 

24

  電話を切ると、飛び出すようにすぐ俺は家を出た。
 教えられた病院の住所を検索したところ、電車を乗り継げばさほど遠くはないらしい。とにかく一刻も早く行かなければ。
 玄関先で転び、走って二度つまずく。電柱に頭をぶつけ、横断歩道を渡ろうとして信号を無視し、盛大にクラクションを鳴らされ、それでも駅へ向かう。
 身体のあちこちが痛かったが、なんとか最寄り駅までたどり着く。通行人たちは何事かと目を丸くしているが気にしない。改札を抜ける。

 

 とにかく家まで歩かなければいけない。
 彼女と心配させないよう、「大丈夫大丈夫! ちょっと緊張してるだけ。二人だけのデートみたいでさ」と軽口を叩く。手ごたえはまぁまぁだったが、とにかく移動しないと。
 街はもう夏で、照りつける日差しがじりじりと肌を焼く。でも俺には悪寒がする。口の中が乾く。だけど女の子に悟られてはいけない。落ち着け。冷静になれ。でも、どっちの世界に集中すればいいんだ? 片方に注意すると片方がおろそかになる。
「ねぇ、大丈夫? 具合悪いなら休む?」
「……大丈夫だから」
 強がってみせる。
 大丈夫なわけないのに。

 

 ホームではちょうど最速の電車が出発するところだった。閉まりかけるドアをギリギリで越え、なんとか乗り込む。息が切れる。身体中の血液が沸騰して泡立っている気分だ。

 

 自分の家だというのに道が全然思い出せない。必死に頭を回しながら歩く。
「……あの、家ってこっちじゃなかったっけ? 寄りたいところでもあるの?」
「あ……」
 女の子に指摘され、方角を間違えていたことに気づく。

 

 急行が乗換駅に着く。二番線のホームで通過列車の次の電車を待つ。
 頭の中で時を数える。四分。三分。――音が近づいてくる。

 

 なんとか身体の制御に慣れてきたが、会話ができるほどではない。二人を沈黙が包んでいる。これから告白するとは思えない有様だが、それどころじゃない。
 駅前の商店街を歩いていく。今日はなんだか人が多い。祭りか何かだろうか。住んでいるのに俺は何も知らないらしい。
 すれ違う人たち。いろいろな人がいる。でも目を惹くのはカップルだ。どうしてだろう。
 そう、いま目の前にも、男女が肩を並べて近づいてきている。
 その女性の方を見る。
 姉だった。
 ……姉は知らない男と歩いていた。

 

 鉄の塊が轟音とともに俺に近づいてくる。

 

 雑踏の中で俺は足を止めて、立ち尽くしていた。
 姉はその男と仲睦まじく手を繋ぎ、顎を男の肩に乗せ、笑顔で、すれ違っていった。
 見間違えるはずがない。確かに姉だった。
 あんなにも傍で生きてきた姉が、他の誰かと幸せに過ごしている。幸せな姉は、俺の傍にはいない。俺に気づくことさえない。それだけで俺は壊れた。
 思い出のすべてが牙を剥いて、俺を殺す。
 姉は俺を捨てたのだろうか。それともこれが、俺への最大の反撃なのだろうか。両方かもしれない。どちらでもないかもしれない。でも、何にしても、たったこれだけで、俺の心は折れた。ああ、認める。やっぱり姉さんには敵わないよ。
 何もかもが終わったときって、涙も出ないんだな。
 そっか。――これが部長の言った『呪い』なのか。

 

 気がつくと、足を一歩ずつホームの縁に近づけていた。
 ああ、結局俺はこうなんだな。
 電車が近づいてくる。
 やっぱり俺は、死にたいんだ――

 

 手を握られていた。

 

 ――目の前を、凄まじい風と音が過ぎ去っていった。

 

「落ち着いて」
 女の子は、俺の左手に右手の指を絡めた。そして、俺に寄り添って、言う。
「大丈夫だよ。ゆっくり深呼吸して」
 いち、に。いち、に。
 言われるがまま、彼女の言葉に合わせて俺は息を吸って、また吐く。
「どう? よくなった?」
「……なんとか。これなら歩ける」
「顔色もよくなったね。安心した」
 彼女は安堵したようで「じゃ、行こうか」と、俺の手を引く。
 手を、繋いだまま。

 

 まもなく、現実でも急激に身体をうまく動かせるようになった。
 次の電車に乗り、まもなく目的の駅に着いた。
 安全を期して、タクシーで病院に向かうことにする。

 

 ようやく自宅に着いて肩の荷が下りた――いや、全然下りていない。
 これから俺は、この女の子に言わなければいけないことがあるのだ。
「ミドたち、遅いね」
「電車が遅延してるらしいって言ってるよ」という、仕込まれた通りの大嘘をつく。
「そうなの? 調べてみよっかな」
「あ、いいから! 多分もう来るから」
「うーん。まぁ、いいけど……あのさ、さっきから様子がおかしいんだけど」
 女の子は、何かを不審に思っているらしい。先の件と合わせて、このままだと不安にさせてしまうだろう。――もう、言うしかないか。
「実はな」と俺は切り出す。「お前に話したかったことがあるんだ」
「え、なになに?」
 彼女は興味を持ったらしい。そうされると、逆に話しにくくなってしまう。どうしよう。
 言葉は、自然と出てきた。
「これから言うことは、全部頭のおかしい戯言だから信じないでくれ。実はな――」
 女の子は黙る。そりゃあ困惑するよな。でも続ける。
「――俺はこの世界の人間じゃないんだ。俺の世界には、いろんな世界を移動できるっていう変な薬があってな、それを使ってここに来たんだ。……それまで俺は、つらいことをずっと引きずって、死にたいと思っていた。でも、ある人が俺の前に突然現れて、その薬を教えてくれた。そいつは俺を別の世界で恋人にしてるっていう変で迷惑な奴だったけど、俺を新しい場所に連れ出してくれた。そこではいろいろあったけど、仲間もできたりして、いつしか死にたいとはあまり思わなくなっていた。でもな、その人はふさぎ込んで遠い世界に行ってしまった。だけど、寂しそうにしているお前を見ていたら……無視できなかった。気がついたら、そいつと同じことをお前にしていた。手を伸ばしていた。なんでだろうな」
 女の子は、こんな支離滅裂な話を、真剣に聞いている。
「もう話のオチ、分かるか? そいつはね、別の世界のお前だったんだよ。だから、今日はそれを感謝したかったんだ。俺にそれをまた気づかせてくれてありがとう、ってな。それ以上でも以下でもないよ。ただ言いたかったんだ。ありがとう。……頭おかしいだろ?」
「ふふっ、そうかもね」
 女の子はちょっと吹き出したが、馬鹿にしているわけではなさそうだ。

 

 そしてようやく現実で、俺は目的地に着いた。
 身体は痛く、服も乱れたり汚れていたが、それでもここまで来ることができたのだ。
 今、俺は漂白された匂いのする院内を歩いている。確か、この階にミドのいる病室がある。
 こんな大事な時に二つの世界を行き来して、本当に疲れた。二度とやるもんかと思う。

 

「……いつか、俺はこの世界から出て行かなきゃいけない。そうすると、どうなるんだろうな。ああ、薬に関連する記憶は消えるのか。なら、お前からすると俺が頭でも打って変なこと言ってたってだけになるかもしれないな。この世界の俺だって、別の世界の俺がやったこともぜんぶ自分が己の意思でしたって考えるのかな。それなら万事解決か。だから……この世界の俺と仲良くしてやってほしい。お前は、俺の気持ちを気づかせてくれたんだ。好きだ、っていう気持ちを」
 話しながら強く思う。
 すぐにこの気持ちを、言わないと。
 俺と同じ世界の彼女に、教えないといけない、って。
「……ごめん。意味分かんなかったよな。頭おかしいこと言ってすまん。忘れてくれ」
「そんなことないよ」
「驚かないのか?」

 

 ようやく、ミドのいる病室の扉を探し当てた。
 ……ほんの少しだけ、ためらう。でも、確かに把手を掴んだ。
 行こう。

 

「だって私、ずっと見てたもん。リュウくんのこと」
 リュウ、くん?
「……リリ?」
「分かった?」

 

 病室のドアが開く。
リュウくん、ありがとう」
 その先には、女の子――リリがいた。

 

25

  ぱちぱちぱちぱち。
 そんな俺たちに、拍手の音がふたつ。
「いやー、見事に引っかかったな」
「ほら、私の言ったとおりだったでしょ?」
 ネズミとミドだ。
 ミドはベッドに横になっていた。点滴を受けているようだったが、顔色は随分と元気そうで、精神的にも安定しているように見える。
 何事か、と思ったが、そこで種明かしがやってくる。

 

 玄関からチャイムが聞こえ、許可もなしに二人が入ってくる。
 男子と女子――いや、ネズミとミドだ。
「なぁリュウ、お前鈍すぎだって。ドッキリ大成功じゃん」
「……めんどくさいから病室の方で喋っていい?」とミドがだるそうに言う。
 この世界の奴らが、なんで病院のことを?
「私たち、みんなリュウといたんだよ。『エヴェレット』を使ってね」
「え……? でもミドは」
「私、もうとっくによくなってるよ」
「そうそう。で、三人で呼び出したんだ。演技、うまかっただろ?」
 って、ことは。
「全部、知られてたってことか……」
「そうそう。リュウくんが私を口説くところ、ごちそうになりましたー」
 きゃー、とリリはいつも通りのテンションを見せてから「いや、真面目なんだよ」と言う。
「私、感謝しなきゃいけないんだ。……ミドが自殺未遂をしてから、私、もうダメだって思ったんだ。やっぱり自分に居場所なんてないんだなって。それで『エヴェレット』を使っていろいろな場所に行ったけど、何も満たされなかった。そんなときに、リュウくんがどこかにいるのを感じて驚いたよね。言ったでしょ? 他に使っている人がいるのが分かるってさ。そしてら、いきなり口説かれちゃったっていう」
「俺たちも同じだよ。ミドが昏睡してるとき、『エヴェレット』を使っているんだなってことに気づいたんだ。それで俺も彼女を見つけに行って、いろいろあって、ミドは目覚めてくれた。で、俺たちも協力しようって思ったんだ」
「いろいろ、ね」とミドは笑った。「たとえばネズミが私にフラれたとか」
「フラれてねぇよ。俺はまだ諦めてねぇから」
「……キモ」とミドに評され、あっけなくネズミはうなだれる。「好きな人が生きてくれてるなら、いいけどさ」
 純情だね、とミドが言い、二人は目を合わせた。そこには言葉にできない信頼があった。
「ま、そんな感じ。私たちはもう納得したから。私は二人の恋路を応援するね。ねー、リリ」
「ミドちゃん目が笑ってないんですけど。静かな殺意を感じるんですけど。えーん、女って怖いよリュウくーん」
 驚きもようやく落ち着き、懐かしいこの雰囲気にやっと安堵が湧いてきた。
「アドバイス、助かったよ。ミドも……」何を言えばいいか、迷う。「いろいろと、ごめん」
「うーん。そこは、ありがとうで」
「でも、下手したら命が」
「いいの。私が気にしてないって言ってるんだから、それ以上考えないで。でしょ?」
「……そうだったな。ありがとう」
 ミドは満足げに頷く。その言葉で、お互いの何かが許されたような気がした。
 リリも一歩前に出て、みんなを見回す。
「ミド、私も言わなきゃ。ごめん。そして、ネズミもリュウくんも。ひどいことをした」
「いいさ。取り乱した俺も俺だ。水に流そう。俺もリュウを責めたんだ」
「気にすんなよ」
 俺が拳を差し出すと、ネズミも応じてくれた。
「私も、リリがめんどくさいのは慣れてるから」
 ふふ、とおかしげにするミドの気丈さに、リリはきっと何かを感じたのだろう。
「生きてて、よかった……」
 半身を起こしたままのミドに、リリは抱き着いて追いすがった。
 そんな彼女の頭を、ミドはゆっくりと撫でる。

 

 ひとしきり話が終わった後で、ネズミが総括するように一同に言う。
「ま、これでだいたいは解決したか。もう後腐れはなしにしよう。あとは二人のお時間なわけです。さ、野暮はしないから行った行った」
 そのまま俺とリリは病室から追い出される。
「頑張ってねー」というミドの声とともに、扉は閉まった。

 

 こちらの世界のマンションからも、ネズミたちは去ってしまった。
 俺たちはリビングに立っていた。
リュウくん。連れ出してくれて、ありがとう」
「何言ってるんだ。先に手を引いてくれたのはそっちだろ」
「あはは、そうだったか。でも本当だよ。私は、リュウくんに救われたんだ」
「救ったわけじゃないさ。自分が嫌な気持ちだったから、手を出したんだ」
「また、言ってる」とリリは口を尖らせる。「それって、好きだってことだよ」
「ああ。そうらしいな。でも――もうちょっとだけ、お預けにしていいか」
 チャイムが鳴る。
「あと一人、まだ決着をつけないといけない人がいるから」
 誰かは、分かっている。

 

「――リュウ。それと……名前なんだっけ。まぁいいわ。女」
 やってきた姉――山田ナオは、出会うなり俺に「分かってると思うけど」と言い放つ。
「ああ。期限だよな」
「そうよ。まぁ、訊くまでもない確認でしかないけれど。……そこの女、聞こえてる? 『エヴェレット』を使っているんでしょう?」
 リリは姉に「……初めまして」と挨拶した。「リュウくんのお姉さんですよね」
「姉だった。そして今は恋人。あと、私のリュウにふざけた呼び方をするな。それはともかく、こいつがいることは好都合ね? そうでしょう」
 姉の隣にいる部長は「ごめんね」と言った。「私たちが一緒にいるの、頭のいいリリちゃんならなんとなく分かるでしょ?」
「一応話は聞いています。部長、あなたが私に渡した『エヴェレット』は、お姉さんが作ったってことで正解でしょうか」
「そう。で、彼のために動いてもらったわけ。狙い通り、みんな不幸になってくれた」
「あなたたちは、彼を現実から引き剝がす最後の楔として、私たちを使ったんですね」
「そう。ねぇ女、すべてはリュウと私がこの世界で結ばれるために用意したことなの。これから私と生きることを決めてもらうわ。完璧な勝利には惨めな敗者が必要なのよ。そこで愛する人が奪われるのを見ているといいわ」
「……そうだとしても、負けたとは決まっていません」
「発言は認めないわ」
「彼が好きなのは私もです。決めてもらう立場なのに、あまりに傲慢じゃないですか?」
「黙れ」
 姉がリリを睨みつける。一瞬リリは震えたが、それでも逃げようとはしない。
 リリの目に、負けるつもりなどなかった。
「もういいんじゃないですか。早いとこ終わりにしましょう」
 部長がそう言うと、姉は「そうね」と応じた。「ねぇ、リュウ
「――ああ」
「答え、決まったわね。リュウ
 何も言わず、頷いた。
リュウくん」
 リリにも、俺は頷く。
「あなたは、どちらを選ぶの?」

 

 俺は、答える。

 

「姉さん、ごめん」
 腹の底、その一番深いところから、ゆっくりと絞り出すように言った。
「……え?」
 姉は固まった。目の前で起きていることが信じられない様子だった。
「姉さんと一緒にいることはできない」
「――どうして」
 もう、怯まない。そう決めた。だから、自分の思いを伝えるのだ。
「俺は、リリが好きだからだ」
 殴り飛ばされるか首を絞められるかと思ったが、姉は「ふーん」と言ったまま、一分ほどそこに立ったまま俺を見下ろしていた。
「私に言いたいことはそれだけ?」
「いや、それだけじゃない」
 バクバクと心臓が暴れている。でも、怯まない。俺の前にあの膜はない。

 

「こんなことを言っても何も感じないだろうけど、言わせてもらう。……姉さんは、俺をずっとずっと支えてくれた。感謝している。姉さんがいなかったら今の俺はいない。それに姉さんが苦しんでいたことも分かっている。今も俺は、何もできなかったことを悔やんでる。でも」

 

 俺は姉と――この人と、対峙している。

 

「だからって、俺を大事にしてくれた人たちを傷つけたりすることは見過ごせない。……俺はあの頃、姉さんのものだった。姉さんのものであることが幸せだった。でも、今は違う。それは誰のためにもならないからだ。俺はもう、姉さんに死ねと言われても死なないだろう。それは嫌いになったからじゃない。自分を自分と、他者を他者と認めて大事にできるようになったからだ。そしてそれは……リリたちのおかげだ。姉さんは……どうしてそれができないんだ」
 「……ふざけるな」と部長が言いかけたが、それを姉は手で制した。

 

「それは俺のせいでもあるよ。姉さんの周りが姉さんを否定したとき、俺は誤解していた。姉さんの傍にいさえすればいいんだって。そうすれば助けられるって。だから好意と不安が結びついていた。でも違った。ひとりでその役を引き受けるべきじゃなかった。……俺はそれを繰り返したくない。どんなに都合のいい世界に行っても、不安から発生する好意は絶対に破綻するからだ。そして――そういう不安からじゃなく、前向きに好きになれる人が、リリなんだ」
 それは、率直な思いだった。

 

「こんな手段を取ったのは許せないけど、姉さんは現実の俺を好きでいてくれたってことだよね。それは嬉しい。でもそうなら、現実で俺と生きてほしかった。だって好きなことがまだあったんじゃないか。たった一人でも好きな人がいるんじゃないか。だったら楽しいこともきっと見つかったよ。連れ出すことができなかった俺も悪いし、責任を感じてるけど」
「それはもういいわ」と姉が初めて口を挟んだ。「続けて」
「現実に絶望して夢を見たい人を、好きな世界で生きたい人を止めることはできない。でも姉さんはどこかで現実の俺を好きでいてくれた。なら、この世界を呪わないで……いや、呪ってもいい、それでもなんとか肯定するくらいはできたかもしれないじゃないか。だから……」
 結局、そこに行きつくのか。
「なんで、死んじゃったんだ」
 姉は、ひとつだけ聞いた。
「もう遅いと思う?」
 それに俺は答えた。
 彼女は「そうね。……そうかもしれない」と、ぽつりと言った。

 

 どれほどの時間が経っただろうか。カーテンの隙間からは、茜色の光がこぼれている。
「どうして私たちを止めなかったんですか?」とリリは姉に訊く。
「『ゴースト』のあなただって『エヴェレット』を使っている人間を識別することはできます。だから私たちを排除すようとすればできたはずです」
 推測を言っていいですか、と彼女は姉を見つめる。
「あなたは、心のどこかで負けるって分かっていたんじゃないですか」
 姉は、長い沈黙のあとで「……本当に、頭がいいのね」と言った。「頭がいいって認めたの、人生で二人目」
「姉さん……そうなのか?」
「『ゴースト』というのはね、消えていく運命なのよ。望む世界にどこでも行けて、どんな欲望も満たせる存在に、意思はいらない。意識はいらない。だから、どれほど私が各世界で『エヴェレット』を飲んでも、いつかは消えるわ」
「そんな!」と部長が叫んだ。「聞いてないです、そんなこと!」
「言わなかったのよ、あなたのためにもね。悪いことをしたわ」と姉は部長に手を伸ばし、頭を撫でた。「いつもそうやって、あなたは、せんぱいは……」という声は、途中から嗚咽で聞きとれなくなった。


「姉さん、本当に姉さんのままだね」
「そうよ。私は生きていようが死んでいようが、山田ナオだから。……だから、今のリュウを、一緒に生きていたリュウを、最後に見たかったのかもね」
 それに関しては満足できる結果ね、と姉はいつものように気丈に言った。
 でも。
「姉さん、泣いてるよ」
 その言葉に、驚いたように彼女は頬を拭った。
「――ああ、私、悲しいのね」
 姉が泣いてるところなんて、初めて見た。
 どんな目に遭っていても泣かなかった姉が、涙を流している。
「泣いていいよ。ほら」
 俺は姉を抱き締めて、頭を撫でた。
「――お疲れさま。今までよく頑張ったね。本当に、ありがとう」
 背が高い人だったから、ちょっと不格好だったけど。
 でも彼女は声を上げて叫んだりはしなかった。
 とても静かに泣いてから、今まで聞いた中でいちばん優しい声で言った。
リュウ、大好き」
「俺もだ。姉さん」
「姉さん、ね」と彼女は吹き出した。「結局、そこからは逃げられないみたいね。……リリさんだったっけ」と姉がリリに呼びかける。
「私の負けよ。罪は被るわ。リュウと――仲良くね」
 リリが頷いたのを満足そうに見届けてから、姉は赤い目を腫らして、眩しげにしながらカーテンを開けた。
「ふーん。失恋ってこんな感じなのね。望んだものが手に入らなかったの、人生初だわ」
 夕日が姉を包む。その姿は、まもなく消えてしまいそうな、そんな儚さを湛えていた。
 彼女は赤い目を瞬かせながら「でも、悔しいのも悪くないかもね」と笑った。
 それはすごく穏やかで、慈愛さえ感じさせる微笑みだった。
「私たち、初めて姉弟喧嘩しちゃったわね」
「でも、仲直りできた」
「してない。リュウのこと、ずっと呪ってやるわ」
「……分かった。いくらでも恨んでくれ。受け止めるよ」
 ――ナオ。
 どうしてだか分からないけれど――俺は、そう呼んでいた。
 彼女は一瞬虚を突かれた顔をしてから、やがて困ったように笑みを浮かべた。
「……なんだ。言えるじゃない」

 

 こうして俺は、呪いを引き受けた。

 

エピローグ

  朝の屋上は嫌いではない……のだが、こうも煙たいと嫌になってくる。
 俺たちは今、屋上で『エヴェレット』を燃やしている。
「ナオ先輩、ナオ先輩……」
 部長は死んだような眼で、一斗缶の中で燃え盛る炎の中に、段ボールに入った錠剤を薬包紙ごとくべていく。ときどき油を足そうとしているが、これ、火事にならないだろうか。そもそもこんなに煙を出したら学校の人間に気づかれると思うのだが、彼女はそれさえ考えられないのかもしれない。
 気持ちは分かる。
 曰く「ナオ先輩がいない世界で『エヴェレット』を使っても何の意味もない……」ということらしかった。『竹取物語』の最後みたいなこと言ってるな。
 姉と同様、この人にも俺たちに対して間接的にいろいろな罪があるだろう。でも、今の彼女は大切な人を失ったことに苦しんでいる。それは俺も同じだ。だから、これ以上責めることはしない。薬を焼くのも、部長にとって必要なことだ。俺はそれが彼女が自らに課した罰なのだと考えるようにしている。他の三人も、そういう考えに落ち着いた。
 それに、ネズミにもミドにも、そしてリリにも俺にも、たぶんもう『エヴェレット』は必要ない。
 とはいえ当人の二人は来ていない。あれ、なんでだろう。
 ……ひょっとして、まーた要らぬ気を回しやがったのか? 確かに、あの時は姉の乱入でなぁなぁになってしまったわけだけれど――まぁ、なんとかなるだろ。
「夏の屋上から、また一つ煙が……って、風流でもないか」
「何それ?」
「いや、火葬みたいだなってことが言いたかった。灰を見てたら、なんか」
 服が汚れないように風上に陣取って、リリと俺は話している。
 そういえば姉さんの葬式に俺は行かなかったな、と思った。おもに死体を見たくなかったという理由によるけれど。
 姉さん。おそらく、いや間違いなく、もう二度と会うことのない姉。
 もしかしたら、これは彼女への弔いなのかもしれない。
 それが、今も呪われ続ける俺にできる唯一のことなら。
 息を吸う。朝露が空気と一緒に肺に吸い込まれる。灰で煤けた喉が少し潤う。
「これで、よかったのかな」
 リリはぼんやりと、煙のたなびくまだ青い空を見つめている。
「よかったもなにも、丸く収まってるんだろ。ミドとネズミも落ち着いてるし、お前だって俺といるようになってからクラスでも困らなくなったんだろ」
「いやいやそういうことじゃなくてですね。私、なんと勝っちゃったんですよ。リュウくんに選ばれちゃった」
「そういう言われ方、恥ずかしいんだが。姉さんにか?」
「それもそうだけど……リュウくん、あれ忘れた? 『賭け』ってやつ」
「ああ、そんなのもあった」
「私の勝ちでいい?」
「そうなの?」
「だって、リュウくんはもう死にたくないでしょ」
「……あ」
 言われて気づく。確かに。
「やったー! 私の勝ち。じゃ、景品を貰っちゃうね」
「おい、何に使うんだ」
 こいつ、俺に何をやらせてくるか分かったもんじゃない。
「そうだねー、いっぱい思いつくけど、私はクーポンとかポイントってその場で使っちゃう派だから、もう頼んじゃっていい?」
「……何だよ。早く言え」
「もう、分かってるくせに」
 そうしてリリは俺に向き直り、言う。

 

「私に、これからも生かされてください」

 

 私に、だなんて。
 相も変わらず、こいつらしいじゃないか。

 

(了)