『氷の星、人食いの凍月』(Ver 24.1.18)

 私は吐息した。死ねば私の意識はたしかに無となるに違いないが、肉体はこの宇宙という大物質に溶け込んで、存在するのを止めないであろう。私はいつまでも生きるであろう。

大岡昇平『野火』

 

 

 氷。
 固体の水。H₂O。
 六方晶系に属する結晶。
 無色透明。密度は一気圧〇℃において九一七キログラム毎立方メートル。水より軽いため水に浮き、水が凍ると体積は増える。氷結点及び融解点は通常〇℃だが、一気圧増えるごとにおよそ〇.〇一℃下がる。
 地球上の通常の条件では通常の氷しか発生しないが、圧力や温度を変えると違う種類の氷が生まれる。現在のところ確認されているのは、氷Ⅱ、氷Ⅲ、氷Ⅳ、氷Ⅴ、氷Ⅵ、氷Ⅶ、氷Ⅷ、氷Ⅸ、氷Ⅹ、氷Ⅻ。
 地球上の氷は、合計でおよそ二.四×一〇の一九乗キログラムとされている。

 

 これは、僕と、少女と、氷と、人食いと、世界の終わりの物語だ。

 

1 I'm Only Sleeping

 

 机に突っ伏した僕は首をすこし屈め、四限特有の空気を吸いながら、校庭を走る人々を眺めていた。ジャージの色からすると二年だろうか、どうやら体育はサッカーのようで、何人かがボールを追いかけている。窓越しに聞こえるセミの声。
 三年目の夏の始まり。下級生の元気そうな一団は、授業を終えた昼休みも運動して遊ぶのかもしれない。
 耳は右から左に授業の声をすりぬけていく。
「はい、この傍線部を復唱。……『けふのうちに とほくへ いってしまふ わたくしの いもうとよ みぞれがふって おもては へんに あかるいのだ』」
 音読が始まっていたが、誰も僕を気に留めはしない。順番に当てられるときも、ペアを組むときも、僕は綺麗に飛ばされ、無視される。
 入学してからこんなふうに快適になるまで、毎年そんなに時間はかからなかった。最初は教師に小突かれたり、近くの生徒にからかわれたりしたが、やがて誰も注意してこなくなった。それぐらい適当な学校といえば、そうなのかもしれないが。
 しかし僕だって、眠いから授業中に寝ているわけではない。退屈な授業も多いがそのせいで眠いわけでもない。進学の意欲があるかは微妙だが、それでもなんとなく何かやらなきゃいけないような気だってする。何かは分からないけれど。
 でも僕には、眠らなければいけない事情がある。
 ――窓の向こうを眺めているうちに、それは現れた。
 セミの叫びが止む。地面が突然真っ白に染まって光を放ち始めると、遠景の街並みが輪郭からゆっくりと変化していく。
 凍り始めているのだ。
 視界の一点から始まったそれはどんどん世界を侵食して、家々を、ビルを、高架線を、電柱と街灯を、表面から次々に凍結させていく。
 そして、世界のすべてを覆いつくして――
 瞬きの一瞬で、氷はすべて消えていた。何事もなく、見下ろす世界は僕に気づかず回転を続けていた。
 息をつく。額を拭うと、冷や汗。学校に来るなんて自殺行為だ。もちろん可能な限り休むようにはしているが、単位に必要な出席はしなければならない。
 あのとき――一〇年前からつきまとう、氷の幻。終末の幻。
 白昼の悪夢。
 もちろん僕は薬物を摂取しているわけではないし、医学的には精神病とも違うらしい。ただ、理由は分からないが見える。それだけ。
 だから僕は眠りを愛する。眠っている間は、絶対に幻覚を見ない。夢をほとんど見ないので、最高の気絶法なのだ。
 目の調子からして、やっぱり眠った方がいいらしい。そう判断してもう一度目を閉じた。
 いや、サボりたいって訳じゃないんだ。誰に言うでもなく、心の隅で言い訳をしながら眠りを待つ。
 でも、今日はまだ、睡魔はやってこなかった。

 

 座ったまま寝るのはあまり好きではない。必ず身体が痛くなっているからだ。
 おまけに最近はまともに眠れないので精神的にも休むことができず、苦痛だけが残ることになる。
 残念ながら今日も同じで、意識が残ったまま必死になっているうち時間が経ってしまった。必死になればなるほど眠れないのが世の常である。
 我に返って、今は何時なのだろうかと考えた。周囲に喧騒はない。眠ろうと集中していて気づかなかったが、とっくに授業も休み時間も終わったらしい。
 どうしたものか。
 眼を擦ってあたりを見回して――人影がわっと横から現れる。覗きこまれているのが分かった瞬間、網膜で像が結ばれた。
 よく知った顔の女子だ。 弓良扇(ゆら おうぎ)。同じクラスの学級委員。そして僕に話しかける唯一の生徒。
「……弓良さん」
 はいこれ、とまとめて紙束を渡される。いつからか僕のプリントはすべて彼女が一旦回収して渡すという仕組みになっていた。
「あっ、伊澄(いずみ)くん起きたんだね。おはよっ。もうホームルームまで全部終わったよ」
 弓良扇(ゆら おうぎ)。同じクラスの学級委員。そして僕に話しかける唯一の生徒。
「……弓良さん」
「はいこれ」とまとめて紙束を渡される。いつからか僕のプリントはすべて彼女が一旦回収して渡すという仕組みになっていた。「これ。明日は小テストが被ってるから気をつけて。現国で漢字、英語で英単語。英語はノー勉厳しいよ。範囲は単語帳セクション4の頭から。もう三年生。夏休みも近いし、受験に向けて期末も一種模試みたいな感じで――」
「……弓良さん、いつもありがたいんだけど、大丈夫?」
「ん? 何が?」
「だって、僕にかかりっきりで」
「私の勉強ってこと? ふふん、学級委員を舐めないで。よゆーよゆー」
「そうじゃなくて」言いにくいな、これ。「なんか、変な誤解? されないことも」
「なき世もおもしろく」
「それが座右の銘の人だいたい面白くないよね」
「たしかに」
 弓良さんは「誤解っていうのが何かよく分からないけど」と首を傾げる。
「いや、でも僕は男子で弓良さんは女子じゃないですか」
「家父長制」どういうボケだよ。「あー、そういうことね」
「気にしないの?」
「私は伊澄くんとどういう仲って思われても嫌じゃないよ。伊澄くんは嫌?」
 弓良さんは素でこういう女子なのだ。心配である。
「いやいやいやそんなことはない」「ならいいじゃん」「でもたとえば僕が弓良さんに……その、なんといいますか」「ガチ恋」「あの」「彼氏面」「ええとですね」「まだしてなかったの?」「してないです」「してないんだ。ふーん」「なんで落ち込むの?」
 放っておくと一日中こんな掛け合いが続きそう。
「ていうか、伊澄くんこそ心配だよ。ほんとにいっつも寝てるけど、大丈夫?」
「……だったら、いいんだけどね」
 なるほど確かに見当違いな方向で健康を心配されるわけだ。周囲からはそういった病気だと合点されるのかもしれない。少なくともクラスの何人かはそう思っているだろう。彼女のほかは話しかけてこないから分からないけれど。
「ま、ちょっと特殊な体質ってだけだから」
「そっか」
 でも彼女は僕の秘密に深く触れようとしない。それが不思議な関係の維持に繋がっているのかもしれない。
「ほら、寝る子は育つっていうし」
「末は右大臣か、左大臣か」
「あれってどっちが上なんだっけ?」
「忘れた」
 弓良さんを見ると、人生は奇妙だなと思う。
 ほのかに明色を帯びた髪を肩で揃え、男子の平均ほどの丈をまっすぐに伸ばし、いつでも笑みを絶やさず、ノリがよく、真面目で一生懸命だけど助けてあげたいぐらい絶妙に抜けている。それでいて、誰の視点にも感情の焦点を合わせられる、ついでにこの街の名家の生まれとおまけつき、生まれついて信頼されるリーダーとはこんな人なんだと思わせられる。まさに、僕と正反対だ。
 そんな人とこうやって話すようになるなんて不思議なものだ。……まぁ、そんな人だからこそ僕を気にしてくれるのかもしれないけど。
 最初に話しかけてくれたのがいつだったか、詳しく思い出せないけれど、クラス委員としてその日の課題や次の小テストの範囲などを教えてくれるうちに、いつからか、その時間で僕たちはとりとめもない話をするようになった。
「そういえばさ。寝てて知らなかったかもだけど、クラスの空気ヤバかったよ」
「何かあったの?」
 おもむろにスマホを取り出すと、鼻先で見せられる。「知らないの?」
 画面には、ニュースサイトが映っている。どちらかといえばゴシップ的な路線の記事で『住民震撼! 閑静な街に食人少女?』という頭の悪そうな見出しでセンセーショナルに報道されていた。
 それによると既に事件は五件を数え、大きな騒ぎになっている様子だ。
 記事によると、最初に事件が起きたのは先月の頭。今が七月の半ばだからまだ梅雨ごろだったことになる。
 深夜、あるマンションで中年の男性が殺されて見つかった。監視カメラには制服姿でキャリーバッグを持った少女を連れ込んだ男の姿が映っていたが、少女はひとりで帰ってきて、消えた(当の映像は報道規制されて公開されていないようだが)。
 これだけなら淫行のもつれで殺害されたということになりそうだが、問題は殺され方。警察は曖昧な表現ではぐらかしているが、遺体はまるで獣のような何かに食い荒らされた形跡があったのだ。しかしここは平地のド真ん中にある住宅街や繁華街、当たり前だが野生生物がうろつくはずがない。
 翌週にはラブホテルでまた男が殺された。ここにも少女と男が訪れたようだ(堂々と制服で入れるわが街の治安はすごい)。遺体の惨状は同様。
 その後も殺人は続く。時間は必ず深夜、一週に一度ぐらいのペースだ。
 どのケースでも基本的には一定の年齢の男性が狙われていて、夜間に少女を二人だけの空間に上げたところで殺害されている。上げる側もこんな騒ぎでよくやめないなと呆れるが、欲望とはそういうものなのかもしれない。すごい。
「……全然知らなかった」
「ニュースとか見ない感じ? みんなビクビクしてるよ」
 曖昧に頷いておく。言われてみればなんとなく最近街中で警察が目立っていたし、空気も変だったように思えてくる。言われてみればだけど。
「正直、泊める方も泊める方だよね。自業自得って言ったら炎上しそうだけど……」
「でも警察って防げないほど無能なのかな……。何か掴んでいそうなのに」
「そこはほら、なんかトリックがあるんじゃない?」
「どんな感じ」
「うーん。目撃者含めて全員共犯で、食人カルトのサークルとか」
「どっかで見たバカミスだね……」
「そっちはどう?」
「実は食人じゃなく飼ってる動物に食わせているから男性が抵抗できない、とか」
「五十歩百歩じゃん。どうやって連れてきてるの」
「それはですね、先に別の場所で食べてから投げ入れてるとか。逆に女の子が全員まったく関係ないってパターン。死亡推定時刻の幅の中なら大丈夫じゃない?」
「こういうトリックって出尽くしてるんだろうね」
「まぁね」
「伊澄くんも犯人やれるんじゃない? 童顔だし」
「いや無理でしょ。もしできるなら女装演奏動画でも上げて再生数を稼いでるよ」
「そしたら私とバンド組もう」
 しょうもない推理から話題が逸れたところで、弓良さんはふと真面目な調子で訊いた。
「人を食べたいとは思わないけどさ、その犯人は、何かの欲望を満たしたかったのかなって思うんだけど……目的のために人を殺すのって得だと思う?」
「……だとしても、リスクが大きすぎるんじゃないかな」
「でも、その瞬間満足すればいいとしたら?」
「それは……」急に難しい話になった。「衝動の殺人と、区別できるのかな。たまに『思い余って殺しちゃった』って動機を聞くけど、感情のぶつけ先が必要だったなら、自覚してるか分かんないけど、それは目的になるんじゃないかな」
「なるほど。……たとえば、好奇心で人を食べたとかなら話は早いけど、おなかがすいて人を食べたかったら、本人の意思なのか、生理的欲求なのか」
「それで無罪にはならないと思うけどね……」
 ほどほどで煮詰まったところで、「あー、だるっ」と弓良さんはあくびをした。「最近なんか疲れてるんだよね。寝ても全然取れないや。伊澄先生を見習いたいものですなぁ」
「伊澄スリープってアプリを作って儲けるよ」
「それ、共同開発者にしてね。……じゃ、私も休むよ。またね」と言い残し、帰った。
 殺人。
 食人。
 紐づいて頭にちらつく、いくつかの記憶。
 ……縁起でもない話。
 よし、今度は寝るそ。

 

 しかし結局、陽が落ちきるまで粘っても寝ることはできなかった。
 ……まぁいい、その間に暗くなったから結果オーライと考えよう。涼しくなるし。
 不思議なことだが、夜になると氷の幻覚はほとんど見えなくなる。おそらく光の量が圧倒的に少ないせいだと僕は考えている。
 どこかで聞いたが、太陽光は人間が生み出す光とは比較にならないほど明るいらしい。それが物体に反射する様子が幻覚を促しているのだと思う。だから照明器具などの人工の光が照らす空間では幻覚を見ることはない。
 この性質を利用して、対策として最近まで年齢を偽ってある伝手から夜勤のバイトをしていた。活動できる夜間に身体を疲れさせ、昼間はできるだけ寝ることができるからだ。
 まぁその仕事は数日前に諸事情で辞めてしまったのだが――そうすると、今度は不眠になってしまった。昼夜逆転のせいだろう。なんという自業自得。
 悩んだ末、やむなくある人の助けを借りることにした。
 ……できれば行きたくないんだけどなぁ。

 

 土曜日、夕方まで待ってから、僕はある診療所に向かった。大昔にかかりつけだった医者に、睡眠薬を出してもらうためだ。
 不眠という決死の訴えを聞いたその女医は「なるほど」と頷いて、棒付きキャンディーを口に放り込んだ。
 バリバリバリバリ。
 このまま粉砕ASMRを聞かされ続けて診療時間が終わるかと危惧したが、やがて完全に噛み尽くしたようだ。手にはもう一本ストックしているとはいえ。
 先生は――倉坂媛(くらさか ひめ)先生は、棒を咥えたまま喋り出した。
「言いたいことは分かった」
「出してくれますか」
「ダメ」
「……こういうシーン、なんかの映画にありましたよね」
「さぁ。私、アメリカンニューシネマしか観ないから」
「それ、最後に人が死ぬから好きってだけですよね」
「スカッとするじゃん。スカッとUSA」
 こういう人である。
「にしても、バイトをバックレた話を聞いて、二度と来ないと思ってた」
 そう、辞めた仕事を紹介してくれたのは彼女だった。
 返答に困ると「気にしないで。ま、明るいうちは働けないつっても、やっぱ夜勤なんてやっちゃダメだったよアンタ」と笑われる。「しかし、律儀に来てくれるんだからたいしたもんだ。おかげでまたちっこい姿を見れたよ」
「『医者がショタコンです』ってグーグルレビューに書きますよ」
「違う。私は二次性徴の捕まえ役になりたいだけ」意味が分からない。「こんな反抗的になるなんて、お姉さん悲しいぞ」
 お姉さん。その言葉に、しげしげと改めて媛先生の姿を眺めてみた。僕が出会ってから一〇年間、(悔しいが高校生男子として認めるほかない)麗しい外見は一切変貌していない。こちらの背が伸びてなお僕を見下ろせるほどの身長も、ぶっきらぼうなウルフカットも、禁煙してから悪化したという甘味狂いも、飴をバリバリと噛む癖も。
「ん? そんなに見つめて、やっぱり初恋の人に会いに来たのか」
「人間の年齢で何歳ですか?」
「一〇〇万歳だにゃん」
「化け猫」
「……思春期男子、難しいよ」
「親御さんも泣くでしょうね」
 頭をはたかれた。
「そういうブラックユーモアは、感心しない」
 僕は一〇年前に、ある事故で家族全員を失った。
 不幸な不幸な、雪山の遭難事故。よくある話だ。
 発見されたとき、生きていたのは僕だけ。これまたよくある話だ。
 媛先生はその事故からずっと僕の主治医を担当していた。心的外傷のエキスパートであり、僕のような生き残った子供に関心を向け続けているらしい。やましい意味でないことを願おう。
「……で、まだ幻覚は続いていると」
 彼女は、僕の症状を知る数少ない人物だ。隠しているわけではなく、明かす必要もないうちに秘密のようになってしまっただけなのだが。
「氷、か」
 駄菓子屋のように机に並んだ甘味たちから、氷砂糖の瓶に目を向ける。
「幻覚っていっても、そんな分かりやすい症状は医学的にはないんだけど。……もちろん幻覚が発生する疾病はある。でも、そこにはそこのルールがある。ミステリに出てくる多重人格と解離性同一性障害は違う。統合失調症双極性障害の幻聴とかだって、幻が世界のすべてを呑み込むわけじゃない。LSDでもキメたならともかく」
「でも、現に僕は幻を見ています」
「嘘だとは思っていないよ。ただ、私が見ていないんだから確かめることもできない。脳の機能を抑制する薬を出したことがあるけど、あんまり効かなかったんでしょ?」
 僕は頷く。
「だから眠剤が必要なんです。寝れば何も見えなくなるので」
睡眠薬はそういう目的の薬じゃない。それに昔出したとき、飲み過ぎて倒れたでしょ」
「それは、効かなかったから」
「分かってる。そういうつもりじゃなかったことは」
 手元で弄っていた棒切れを捨て、彼女は息を吐く。
「でも、私としてはそれを見過ごすことはできない。……精神科医って、英語でヘッドシュリンカーって呼ばれるんだけど、どういう意味だか分かる?」
「英語は得意科目じゃないです」
「首狩り族」と彼女は自分の首元を指で切った。「蔑称だけど、意外に的を射ていると私は思っている。だって、私たちが扱っているのは心とか精神みたいな抽象語じゃなく、生物の頭だから」
「脳ですか」
「そう。アンタの脳はあの時、ダメージを受けた。物理的に」心の風邪などどこ吹く風、というしょうもない駄洒落が浮かんだが黙る。「トラウマ、心的外傷、PTSD。呼び名は多々あれ、すべて怪我なんだよ。哲学の領分じゃない。……そして残念ながら、一定の損壊を受けた身体は治癒されない。切れた手足は生えてこない。アンタは生えてくる?」
「爬虫人に見えますかね」
「でもトカゲに残機あるの知ってる? 三回切れると死ぬ」
「マジですか」
「あとでっかい餌を食べると無敵になって敵を食べられる」
「真に受けちゃったじゃないですか。あの頃『紙を一〇〇回折ったら月まで届く』って言われたから折り紙をテープで貼って超でっかい紙を作ろうとしたのを忘れてませんからね」
「それはそっちが悪い」
 だってやってみたくなるじゃん。
「……あの頃から、一〇年か」
 感慨深そうに、媛先生は言う。
 なんとなく居心地が悪くなる。
「でも、トラウマっていっても、何があったのかはほとんど憶えてないっすよ」
「巨大な事件事故に遭遇した人がよく言うことだよ、それは」
 媛先生は鋭く切り返した。
「一九四五年二月一三日から一五日、連合国軍はドイツ東部のドレスデンを無差別爆撃し、二五〇〇〇人が命を落とした。地下の食肉倉庫に連れ込まれた捕虜の一人だった二二才の米兵は生き残り、地上に上がると、美しい街は月面のようにまっ平らになっていた。彼は捕虜たちとともに焦げて骨だけになったチキンのような大量の死体を運ばされた。数十年後、彼は作家になり、その一部をSF小説の題材にしたが、爆撃の様子は一切書かれていないし、インタビューで訊かれると必ず『よく憶えていない』と答えた」
 その作家の本なら、僕も読んだことがある。氷ひとつで世界が滅ぶ話とか。
「耐えがたい苦痛に遭遇した人間の脳は、輪郭を残して体験を切り抜くという生存手段を持っている。しかし、切り離した場所が、なぜか痛む。失った四肢のあった場所が、疼くように」
「幻肢」
「そう。それと同じ。アンタの幻は、そこで目にした壮絶な体験の輪郭だと思う」
 僕が目にしたこと。それは。
「大袈裟ですよ。未確認飛行物体に攫われたでもなし、単なる遭難事故なんて八甲田山からあることです。家族を失った人だって世の中無数にいる。僕が特別むごい体験をしたなんてことはないでしょう」
「昔からだけど、アンタには一般化の癖がある。一般論ラブコメの主人公になれるよ」
「ぜひ一般論異世界に転生してみたいですね」
「戯言の癖もある」
 返す言葉もない。
「そういう一つ一つが、アンタが生きるために必要だった方法なんだろうね」
「……そうですか」
「ま、わーったわーった。しゃーない。せっかく来てくれたんだ。気休めに出しとくよ」
 そう言って、結局媛先生は処方箋を作ってくれた。なんやかんや、頑固に見えて甘い人なのだ。
 去り際、「客なんてめったに来ないから」と、僕を建物の外まで見送ってくれた。そういえば昔から他の患者の姿をめったに見ないけど、どうやって経営しているんだろう。この人、七不思議ぐらい持っていそうだ。
「女が信じられなくなったらまた来なさい」
「……善処します」
 最後に一つだけ訊いた。
「あのとき、僕はそうしたと思いますか?」
 彼女は僕に近づくと、取り出した棒付きキャンディーを僕の口に突っ込んだ。
「ふぁひゃ、にす、で」
「もっと甘いものを食べなさい」
 さんざん口腔を弄ばれて、ようやく僕は解放された。

 

 その夜。診療所を出て、薬局に寄ったあと帰宅し、さっさと食事を済ませてすぐ布団を被ったが、目が覚めたとき、まだ日付は変わっていなかった。
 最悪だ。こういうとき、時間の使い方に困ってしまう。処方された薬を使うべきだろうか? でも起きたばかりでまったく眠くないので効かないかもしれない。とっておくか、と忘れないようシートをひとつポケットに入れた。アイテムを最後まで温存したままゲームクリアしてしまうタイプなので飲まない可能性もあるけれど。本末転倒じゃん。
 僕は休日の過ごし方が下手だ。バイトをしていた頃は気絶するように寝ているだけでよかったが、今では睡魔とめっきりご無沙汰になってしまった。
 寝転がったまま見回す、わが部屋。
 家族を失ってから、遠戚のおばさんにお世話になっていたが、進学と同時に彼女が大家のこのアパートで、一室を貸してもらっている。といっても、他の部屋は大半が彼女とその家族の物置のようなもので、入居者も僕以外に見たことがない。
 仕方なく用事を探した末、忘れていたゴミ出しを思い出し部屋を出て、片手に袋を吊り下げてアパート裏の置き場に向かった。いよいよ夜でも蒸し暑い。
 ――そこで目にしたのは、鈍い街灯の光の下、蓋から両足の出た生ゴミのバケツ。
 本当に、見たまま、一本の脚が飛び出していた。生足。裸足。つるりとした肌で、女性ではないかと思う。
 もちろん僕がそれを遺棄した猟奇殺人鬼だったみたいな叙述トリックはない。その証拠を示そう。
 目の前で脚が揺れ、ゴミバケツがガタゴトと動いたのだ。
 生きている?
 僕はそれを呆然と眺め――いや突っ立っている場合じゃない。この状況を考えろ。
 よほど食うものに困っている人という線もなくはないが、そういった生活をしている人間をこの街で見たことはなく……間違いない。新しい幻覚だ。
 ああ、ちょっと疲れてるんだな。眼を何度か擦って、ガタゴト、ゴミを投げ、振り向いて、ガタゴト、さぁ帰路にガタゴトガタゴト! ガシャン! うっさい!
 突っ込むように振り向くと、脚はもう見えなかった。幻覚はマシに――なっていない。
 今度は二本の脚が飛び出ていた。
 八つ墓村を連想している場合ではなく、いよいよ僕の脳も限界か、と頭を抱えそうになって――ガタン! ゴトン!
 脚が動き出してバケツの中に引っ込んだと思うと、今度はその衝撃で傾いたバケツがバランスを失い、傾いて倒れる。
「っ、たたたた……」
 痛そうな、くぐもった音が内側から漏れてきた声。どこかを打ったらしい。
 生きている。
 間違いなく、これは現実の生きた人間だ。
 ……どうする。
 決断次第で、何かが変わる予感があった。
 無視するか、しないか――そう己に問いかけてから、僕の答えはとうに決まっていることに気づく。それこそ、出会った瞬間から。
 案の定というかなんというか、我ながら呆れたものだと思う。
 足を踏み出してバケツに近づいたのだから。

 

 しかし問題はそれからだった。
 ――無視しない。それしか決めていなかったことに、一歩進んでから気づいたのだ。
 情けなくも、発作のような後悔が浮かんできて、それが喉元でつかえる錯覚がした。しかし、時すでに遅し。
 確実に、この一歩ですべては決まってしまった。
 強引にこれから引き返したとしても、僕はどうせまた戻ってくるという確信があった。自分のことならうんざりするほど分かっている。僕はそういう人間だ。
 ため息一つ、そして同じだけ息を吸って、喉を震わせる。
「……大丈夫ですか」
 我ながらどうなんだという言葉選びだったが、他に思いつかなかったのだから仕方ない。
 反応はといえば――なし。
 一秒、二秒、三秒。空白が脈を打つたび、浮かんでくる冷や汗を額に感じる。
 ここまできて、やっぱり錯覚だったとでもいうのか。
 だとしても、幻に責任を持ってしまった。それは覆らない。だからもう一度、むなしく僕は呼びかけた。
「あの」
 しかし、今度は違う反応が返ってきた。バケツが震えたのだ。
 ……まぁ、急に話しかけられたんだ。向こうも困惑しているのかもしれない。いや、そんな生易しいものじゃない。警戒するだろう。
 そう考えたらなんか申し訳なくなってきたが、今更どうすることもできない。
 何か答えてくれ。祈るように辛抱し続け、どれだけ経っただろう。
 それは叶えられた。
「私を」
 かぼそく、やわらかい――いや、衰弱した声。さきほどは注意を向けられなかったが、やはり女の人だろう。
「見てるんですか?」
 岩戸のようにかすかに動いた、蓋の向こう。
 影の中に薄く見えたのは、みすぼらしい身なりをした、少女だったなずだ。

 

「あ、いや」
「……見てますよね」
 見てるも何もないだろいやそういう意味じゃないけどそう表現するしかないだろという逡巡が邪魔をして、言葉が渋滞してしまう。
「ごっ、ごめ――そうじゃないだろ! 何やってんだよ!」
 反射的に目を閉じて、叫んでしまった。
「おなかすいて」声が投げ返される。「でもぜんぜんなかったです」
 そりゃあまだ回収日は先だからだが問題はそこではない。
 横目で薄く瞼を開けると、隙間から肌色がのぞいている。……まさか何も着ていないってことはないと思うけど、まともな格好ではなさそうだ。
 この状況、誰かに見つかったらとんでもないことになる。
「……とりあえず、出てきてくれると助かる」
 バケツを再び起こしてから、頼む。早く事態を解決しないと。
 向こうは戸惑ったようだが、まもなく蓋がずれるように開き、その向こうから這い出して――外界に現れた。

 

 少女。
 僕より頭半分ほど低い背、細い身体。整っているが、無防備で、しかし感情をこちらからは伺いづらい、ひょっとしたら何も考えていないのかもしれない、ただ美しいともかわいらしいともつかぬ、表現の難しい不思議な顔つき。身にまとうのはシャツとプリーツスカート。制服の一部だろう。しかし上着がないのでどこの学校か識別できない。うちはブレザーではないので、同学ではないことは分かるけれど。
 僕と同い年か、ひとつぐらい下か。
 しかし何よりも目を惹いたのは、絹糸のように伸びた、銀色の髪。つやのある、糸ではなく針金でもない、長い髪。それが、街灯の、切れかけて点滅する蛍光灯のみすぼらしい舞台照明に照らされている。
 でも一見して外国の人ではなさそうで、銀髪を無視すれば(容姿のせいで、いたとしたら、それでも目立つかもしれないが)うちの学校にいてもおかしくない気がした。だからこそ、その一点だけが異様に目立つ。
 これほど印象に残るのなら、なぜ人目のつかないこんな場所にいるんだろうか。
 そんな僕の混乱をよそに、彼女は何も言わず、へたりこんだままこちらをきょとんと見つめている。そこでやっと我に返る。
「あの、家は」
「ない、です」
「ない、って」
「ないんです」
 否定。答えはそれだけ。それ以上必要ないという表情。それが生ごみを漁っていたことと関連があるかは分からないが、説明をする気もなさそうだった。
 どうする?
 短い躊躇いの後、ついに言った。
「……とりあえず、うちに上がる?」
 こんな格好の少女を家に連れこむのだと考えると、相当きつい申し出だった。
 断られるか、軽蔑されるか、何も言わずに逃げるか――言った瞬間に頭の中で可能性がフライングして暴れたが、「はい」と彼女はあっさりと頷いた。
「よし、じゃあ立ち上がって、こっち。見つからないように気をつけて――」
「うごけないです」
 こうして僕は女の子を背負い、家に上げることになる。

 

 ことの起こりは、こうだ。

 

2 飼育

 

 で、上げたはいいけれど。
「……ええと」
 なにから話せばいいんだ、これ。
 とりあえず座らせた女の子は、きょろきょろとこの狭いワンルームを見回している。
 部屋がそこまで散らかっていないのは幸いなのかもしれないがそういう問題じゃない気がする。
「訊きたいことはいろいろあるけど……」
 勇気を出し、僕が喋り出した瞬間――
 女の子は、うつぶせにばたりと倒れた。
 ……は? 何が起きたんだ?
 慌てて肩を抱く。背負ったときも軽さに驚いたが、見ているよりずっと華奢な身体は、同じ人間とは思えないほどがらんどうを思わせた。中に骨しか入っていないんじゃないか。
「おい!」
 細心の注意を払って、声をかけながら軽くゆする。意識を失う寸前らしく、かすかな呼吸の音と薄く開かれた瞼だけが己の存在をかろうじて主張していた。
 それでも、まだ生きている。
 どうすれば、どうすれば――と頭だけが空転しているうちに、彼女の口がかすかに動いたことに気づく。
 何かを言おうとしている。
「――か――た」
 ようやく聞き取れたのは、一言。
「おなか、すいた」

 

 ちょっと待ってくれと言い残し、僕は朝に作ってラップしておいた味噌汁の鍋にもう一度火を入れて温め、彼女に出すことにした。まるで炊き出しである。
 湯気の立った椀を薄目で見るなり、彼女は目の色を変え起き上がり、僕から受け取るなりごくごくと飲み干し、「もう一杯」とかすれた声で言った。
 注ぎ渡す。
 受け取る。
 飲み干す。
 反復三回。
 その頃になると、もう目は焦点を取り戻し、喉も潤ったようで、「ありがとうございます」という一言をはっきりと聞き取れた。
「これで、ちょっとは動けるかも」
「……ほんとに何も食べてなかったんだね」
「二日ぶりぐらいですね。飲まず食わずで」
「そりゃヤバいな……お金もなかったの?」
「なくはないけど、警戒が厳しくなったから。人目につくと危ないなって、本能的に」
「え?」
「あ、こっちの話でした。……ありがとうございました」
 それだけ言って立ち上がり、出て行こうとする。
「ちょっ、待ってよ!」
 そのまま廊下を歩いて――また倒れた。ああもう。手を貸して起き上がらせる。
「足、うごかないです」女の子は呻いた。「……力が、抜けて」
「ほんと、何があったの」
 女の子は答えない。僕に詳しく説明する気はない様子だった。まぁ、僕としても詮索するほど無礼ではない。ただ、実際何も知らないと助けようがないわけで。
 うまい落としどころを探す。
「違ってもいいけど、家出みたいなものだと考えればいいのかな。家に帰るという選択肢はないみたいだから」
「そうですね。そういうことにしてくれますか」
 不審さはぬぐえないが、一応はその前提で話を進めようと思った。
「まぁ、その。僕は伊澄真(いずみ まこと)。高校三年なんだけど、見てのとおり一人暮らしで。だからとりあえず家に上げることにしたんだ」
「……伊澄さん、とかがいいですか」
「そんな堅苦しくなくていいけど。下の名前でも、なんでも」
「じゃあ、真さんで」
 まことさん、ともう一度言ってみてから、彼女は頷いた。「そうですね。真さんは真さんです。真さん以外ありえません」どういう意味だよ。
 そんな感じで手短に自己紹介を済ませ、向こうにも訊くきっかけをつくる。
「今度はそっちの名前、聞いていいかな」
 どうせ答えてくれないと思っての問いだったが、返ってきたのは、再び不気味な一言。
「ないです」
 ああもう、またかよ。
「いや、そんなことないでしょ」と突っ込んでから、ちょっと距離感を見失っているかもと反省し、問いを変える。
「僕が信頼できないのは分かる。ただ、このまま放り出すわけにもいかないし、安全な対処ができるまでは君に関わるつもりだから、仮にでも呼び名がほしいんだ。だからでまかせの偽名でいい。どう呼んだらいいか教えてくれ」
 女の子は、今度は即答できない問いのせいかしばらく黙っていたが、やがて答えた。
 またしても、予想できない方向で。
「あなたがつけてください」
「は?」
「偽名はいっぱいありますけど、その場でつくだけだから忘れちゃいます」
 その場って、どの場ですか。
「いま、思いつかないので」
「……僕が?」
「はい」
 なんだこれ。
 しかし呼び名がないというのはこちらにとっても不便だ。なんとかするしかないよなぁ。
 ……とはいっても僕にそんなセンスも引き出しもあるはずもなく。
 こんな形で人生で人に名前をつける機会が来るとは、と途方に暮れてしまう。
 せめてなにか参考になりそうなものでもあれば……と、苦し紛れにむなしく辺りを見回してみる。でも当たり前なことに、そこにあるのは見慣れたものが堆積したつまらない僕の部屋だけで――いや。
 そのとき目に入ったのは、机に置いてあった一枚のCD。それは好きなバンドのアルバムで、サブスクにない作品だったので、最近わざわざ探して買ったものだ。
 なんとなしに手に取って、曲目を見ると、『シャロン』という曲名が目に留まった。
 シャロンカロン。どこで知ったか忘れたけれど、冥王星の衛星の名前だっけ。
 冥王星。太陽系の果て、氷で覆われた寒い星。冬の星。
 その周りを回る月。
「……つき……つき」
 とくに意味があったわけでもないけれど、自分でも不思議なぐらい、言葉がすっと出てきた。『――月』という名でなければいけないような、そんな気がした。
 凍る月。
「いつき」
「字は?」
「凍るって字に、月で」
 い、つ、き、と電話番号を復唱するように、音節を切りながら繰り返し、転がす。
「凍月、ですか」
「……ごめん。やっぱり気に入らないよね」
 やっぱりなしで――と取り消そうとして、
「いいですね」
「えっ?」
「いい名前です!」
 いきなり飛びつかれて両手を握られた。
 心臓が破裂するかと思った。
 さっきから距離感がおかしい、いや最初からすべてがおかしいけどこれは健全性という意味であんまりよろしくないのではいやそう考える僕が気持ち悪いのかこれはああもう調子が狂う!
「ありがとうございます」
 握ったままぶんぶんと腕を振られこっちまで付き合わされてしまう。どうやら本当にお気に召したようで、それはよかった……のか?
「寒そうなのが、とくにいいです」
「よくわかんないけど……気に入ったならよかった」
「気に入ったどころじゃないです、生まれたときの名前みたいですっ」
「……生まれたときの名前?」
 奇妙な言い回しが引っかかったが、僕の困惑が伝わらないのか、彼女は平然と「生まれたときの名前、ないですから」と言った。
 いやいやいやこの国でそんなことあるのか? 僕が世間知らずなだけなのか? しかしだとしたらどうやってこの子は生きてきたのか――って、そんなことを考えていても仕方ないか、もう。
 今するべきことを考えよう。
「凍月。具合は?」
「だいぶ、よくなった気がします」足を何度か揉んでから、立ち上がる。「あ、大丈夫だ」
 それなら、えーっと、えーっと、そうだ。まず。
「とりあえず、シャワー浴びる?」
「においますか」
「いや、そうじゃないけど。ただ……服とか、肌とか、ボロボロだから」
「……あ」
 気づいたらしい。
 ボロ布同然に汚れたシャツをとスカートをまとう彼女の手足に目をやると、白い肌の表面には派手な怪我こそないものの、どこかで擦ったのかそこかしこに黒い汚れがついていた。僕はそれに何の責任もないというのになんとなく自分が卑しい人間になった気がして目を逸らす。
「服はどうしようか……だいぶ汚れてるから、洗っても着れるかは分からないけど……とりあえず、あがったら余ってる部屋着があるから着ていいよ。男物だけど、家にいるぶんには困らないはずだから」
「えっと、それって……」
「泊まってもらっていいってこと。こんな部屋で嫌じゃなければだけど」
「嫌ではないです、けど」
 ためらいに戸惑ってから、僕は浅慮に気づく。当たり前だ、着ているのは目に見えるものだけじゃないんだから。己のデリカシーのなさに死にたくなったが死んでも仕方がないだろまったくどれだけ無能なのかいや待て――空気が気まずくなる臨界点の前、幸運にも思い当たったのは、大家のおばさんのことだ。
 彼女には、僕と同じ高校に通っていた娘がいたはずだ。僕とは入れ違いで卒業してしまったから会ったことはなかったけれど、親子の折り合いが悪かったのか夜逃げ同然に出て行ってしまったせいで、おばさんはルーズだから気にしていなそうだったけど、まだ彼女の荷物は残っているはずだ。
 写真で見た娘さんの姿を思い出す。多少無理はあるかもしれないが、この子と絶望的に背丈や身体つきが違うことはない……はず。
 そこまで考えると、意を決して合鍵の束を取り出した。この中には他の部屋の鍵もある。当然詳しく調べたことはないが、探せば娘さんの衣類もあるはずだ。
 事情を説明すると、少女は「不思議です」と訝しげに僕を詰問した。
「……そんなこと、よく知ってますね」
「なんか勘違いしている気がするけど」
「だってそうじゃないですか。親戚の女の子の服がここにあるのをなんで男子のあなたが知っているんですか」
「だってときどき掃除させられてるし……管理だって半分任されてるようなものだから」
「つまり、利用して家探しすることができる立場だと」
「人聞きが悪いって。性善説性善説
「善じゃなくて欲に一文字変えたらどうですか」辛辣だった。
 しかし、他にいい案があるわけでもなく、結局、非難と監視の視線を傍で向けられながら、僕たちは物置部屋に向かうことになる。

 

 三部屋目(おそらくここを娘さんは借りていたのだろう)に下着を含めた女子用の衣類がいくつか残っていて、一応問題は解決された。本当はサイズとかで女子にはいろいろあるんだろうけど諦めてもらうしかない。シャンプーや石鹸も仕方がない。いざとなってみると、誰かの家で湯を浴びると言うのは相当にややこしいことだと思う。
 探す間僕は後ろを向き、彼女に見てもらうほど配慮したというのに、高校時代の女子制服が出てきたとき、僕への疑義の目は最高まで上がってしまったようだった。いや下着とかの方がよっぽどまずいと思うんだけど。
 そんなこんなで服の問題は解決(?)し、自室に戻ると、あとは凍月が入浴するだけになったが――
「あのー、すみません」
 入浴に必要な布たちとともに出て行った凍月を見送り、することなく部屋で待つ僕の耳に、しばらくして呼ぶ声が届いた。
 カーテンを開けると、身体の前をタオル一枚で隠しただけの凍月が立っていた。
 目を疑った。
「入らないんですか」
 耳を疑った。
 熱いヤカンに触れたように、慌てて扉を閉める。てっきりお湯が出ないみたいなトラブルを想定していたので、真後ろから刃をつきたてられたみたいだった。
「さっきから思ってたんですけど、何もしないから」
「入るっていうのは」
「真さんが私と入ることです」
「それはそうなんですけどなんでそうなるのかを訊きたい」
「貸し借りです」
 ……んー? いや待てああそういうことかと納得はしなかったが腑に落ちなくはなく。
 というか、むしろ察するに遅かったぐらいなのか。
 保護とそれに対する対価。
 その場、という表現の理由が像を結んだ気がした。
 彼女はこういったことを今まで経験していて、きっとこうやって生きてきたのだろう。そしてそのうちに、貸借関係で物事を考える癖がついてしまったのかもしれない。
 さて、僕はといえば。
 どれほど醜くとも、その契約が他人同士のものであるならば、法はともかく僕はなんとも思わない。それをいちいち糾弾する粘ついた倫理の肌触りには生理的嫌悪しか抱けない。
 人間は一皮むけば血と骨と欲望の塊だ。
 食べるためなら、生き残るためなら、なんだって殺す。
 その醜悪な極限を僕は見たことがある。
 だから人間など信頼しないし、義憤など抱かない。勝手にすればいいと思う。
 しかし、僕が当事者の場合、話は別だ。
 たしかに僕も例外でなくそんな愚かな生き物だけれど――自己嫌悪はしない。それはすぐに開き直ることと直結するからだ。僕は繊細に、逸脱を避けているのだ。
 だから、この状況において思春期男子たる僕の結論は――
「……一人でゆっくりするといいよ」
 それだけ言い残すと、僕は浴室の前から出て行き、脱衣所のカーテンを下ろした。
「怖いです」
 去り際に聞こえた一言が、耳に入らなかったふりをしながら。

 

 凍月が戻ってきて、寝る準備が整った頃には、もう深夜二時ほどになっていた。すっかり夜も更けてしまったが、こんないろいろなことが起きたのに二時間しか経っていないことに驚くべきなのか。
 ベッドを凍月に使ってもらい床で寝ようかと思ったが(どうせ眠れないだろうけど)、さすがに申し訳ないと言われ、ちょっと手狭だが二人で横になることに落ち着いた。
 しかし、添い寝か。そう呼んでみるとちょっとセンシティブだ。
 その背徳的な響きを振り払うように、灯りを消し、背を向けて横たわった。一応布団をかけてみたが季節は夏、二人で寝ると暑くなってきて「しまっていいですか」と言われたのでそれに従うことに――
 背に当たる感触が、なんとなく柔らかい。
 後ろから身体をくっつけられている、というか半分抱き締められているのに気づいた瞬間、身体中の血が沸騰したかと思った。いやいや、いくらなんでも……。
「ええと、これは」
「分かりませんか」
 凍月はぽつりと呟いた。その言葉だけが、この部屋でただひとつ冷たく感じられた。
「やっぱり、何もしないつもりですか」
 またそういうことになるか。落ち着け落ち着け。心頭滅却
「……近代において人間は基本的に自由」
「しないんですか」
「こだわるんだね」
「真さんは、怖いです」
 そこまで言われるか。まぁ、自覚がなくはない。
「これは、自己防衛なんです。……何の意味もなく家に女の子を上げて寝食を提供する慈善事業がしたいとは思えませんし、そうであってほしくないです。理解できないですから」
 理解できないから怖い。
 貸借や対価の関係は、それ以上相手に踏みこまないし踏みこまれもしないという安心がある。線を引いて、自分の理解できる範囲でしか理解しないでいい。
 そこから先は知ったことではないと。
 軽蔑でも憎悪でも何をしてもいいと。
 そうですかそうですか。それで結構ですか。
「その通りだ」
「え?」
「好きにするといいよ。ここにいたければいていい。出て行きたければ出て行けばいいし。別に取って食ったりなんてしない」
「だから、真さんになんの得が」
「ただし」話を遮る。「そうやって僕を値踏みしないのだけが、条件だ」
「……それは」
「そして、僕も君におせっかいしない。何があったのか詮索しないし、不利益があっても、守ってあげることはできないかもしれない。それでどうかな?」
 僕に一ミリたりとも踏みこまない。
 これが対価だと言えば、ギリギリ納得してくれるか。
川端康成は晩年、一等のホテルで女を買うと、その場に立たせたまま凝視し続け、それ以外一切のことをしなかったらしい。で、何が言いたいかと言うと」
「何もしないプレイが好きな変態」
「えーっと、話が間違った方向に」
「しかも女子制服を持っています」
 ……まぁ、まったくよくないがそれはいいとして。
「とにかく、今日はゆっくり寝ていきなよ。明日からは……」言葉の落ち着けどころを探してから、僕はごまかした。「これから考えればいい」
「……はい」
 それで会話は終わり、やがて、街の遠くからかろうじて聞こえる音楽のように、微かな呼吸の音が聞こえてきた。眠ったのだろう。疲れていたに決まっている。
 それを確認して、僕も目を閉じた。
 訳の分からない出会いだったが、とにかくこうして収まったのだ。安堵のせいか、ひさしぶりに眠気が現れた。この調子なら薬を飲まなくてもいいだろう。
 きっと明日からもなんとかなる。
 そんな見通しは、あっけなく裏切られていく。

 

 夢を見た。
 普段夢を見ない僕にとって、異常事態といってよかった。
 そこは薄暗く、冷たい空気で満ちていた。
 一瞬なら熱気と錯覚しそうなほど鋭利で、しかし澱み沈んだ液体のように息の詰まる、霊廟のような、驚くほど広い空間は、霜のついた青白い照明が照らし、すべてを透かしている。その床を駐車場のように埋めているものは。
 すべて。
 床に整然と並べられた、ジッパー付きで不透明な無数の細長い袋。
 人の形。
 ドラマで見たことがある、鑑識が扱うような袋詰めのヒトガタ。
 霊安室。いや、そんな美しい名前のはずがない。ここで霊魂は許されていない。ただ、物体が、肉だけがそこにある。二元論の入る余地など欠片もない。
 解剖、という二文字が浮かんだ。ここにあるものは死体という点でカエルやネズミとさして違わないのだ。少なくとも、ここに集めた何者かにとっては。
 僕はここを知っている。
 この場所を知っている。
 その現実を、僕は見た。

 

 気がかりな夢から起きると人は虫になっているそうだがそんなことはなく僕は目覚めた。
 起きている方が夢を見ているようなものなので、寝入りから寝起きまではもっとも地に足がついているというか、いや全身がついているのだがとにかく気を緩める時間だ。
 決してつかめない、意識の消滅の瞬間。
 面白い経験だ。
 眠りが死の親戚ならば、僕はその血縁に親しみを覚える人間になるだろうか。
 ……何が言いたいかというと、そのときの僕には警戒心が一切欠けていたということだ。
「起きたんですね」
 まだぼやけた視界の隅、ひょっこりと現れたのは、昨日家に引き入れた女の子――凍月の顔。何回か瞬きをすると、焦点が合う。
 彼女は横たわる僕を上から覗き込んでいる。窓から差し込んだ光を反射して、銀の髪が熱を帯びたように光っている。顔には相変わらず何を考えているのか読み取れない表情が浮かんでいて、首から下は――寝る前と、着ているものが違った。
 例の娘さんの寝間着ではなく、僕がハンガーにかけっぱなしにしていたぶかぶかのワイシャツ、一枚。たぶんその下は――考えない。考えないからな。
 しかし、これが彼シャツ的なアレか。なかなかに破壊力があるがそんなことを言ったら彼女の言うとおりの変態になってしまうので、とっさに目を逸らす。
 察してか、凍月は「なんか、着ごこちが合わなかったので、借りちゃいました」と釈明した。起きて早々に眩暈がしてくる。なんなんだ。
 僕の前に現れてから、凍月はいくらなんでも無防備にすぎると思う。もちろん、今までこうやって男性の家に泊まっていたからというのは分かっているが……それはそれでなんか居心地が悪くなる。
 それこそ、僕はそういう連中と違うのだろうか? と思ってしまいそうだし。
「おはようございます、真さん」
 凍月が挨拶とともに身体を離し、やっと現実感が戻ってきた。先が思いやられるが、ベッドが手狭だったせいか、肩から背にかけてが鈍く痛んだ。まず伸びをしようと力を入れて――みたが、腕は開かなかった。
 かちゃかちゃ、と金属が擦れる音がした。
 目の前の腕を、手を見る。
 手錠がかけてあった。
 見間違えるはずがない。おもちゃには見えない、おそらく本物の、金属製の手錠。
「ごめんなさい。暴れると面倒ですから」
 ではこちらならばと咄嗟に脚を動かして立とうとすると――やはり何かが引っかかり、起き上がれない。首を曲げて見ると、白いロープで縛ってあった。
 拘束。
「縛るときスマホも見つけたので、没収させてもらいました。中身は見ないのでご安心を」
「これは――」
 やっと気づいたのか、という、なにか愚かしいものを眺めているときの冷淡な目。そこで、ようやく立場が逆転したのを悟った。
 今更になって、これまでずっと失念していたはずの弓良さんとの会話を思い出す。
 忘れかけていたとはいえ。
 それを知っていたというのに、僕はなんてお人よしだったのだろう。
「私、人を食べて回ってるんです」
 いつのまにか少女の手に、ナイフがあった。

 

 こうして、少女と僕の、監禁生活が始まる。

 

3 空腹の背景は不服

 

「ニュースもありますし、これだけ言えば説明はもういらないですよね」
 凍月はナイフを胸ポケットに入れると立ち上がり、重力にうちつけられたこちらを見下ろした。角度のせいで生足がきわどいがそんなどうでもいいことを考えているうちに僕は食べられるのだろうか。バカすぎる。
 しかしジェンダーに配慮したうえで言ってもやはり男はバカなので殺されて喜ぶ輩はいたかもな、とその佇まいに正直思う。そのぐらいナイフは凍月と調和して様になっていた。
 とはいえ当然それだけなら何の証明にもなっていない。
 とりあえず、確認。
「じゃあ……あの事件は」
「そうです。私は殺人鬼……または食人鬼? なんですかね……。とにかく、犯人です」
 あっさりと認められて、拍子抜け……はしない。彼女の言うことを信じるわけにはいかなかった。
 それは人食いのせいではなく。
 いま目の前にいる、先ほどまで路傍で衰弱し倒れていた少女が成人男性を殺せるとは物理的に考えにくいというだけのことだったし、それにたとえ殺せたとしてもすぐに捕まるはずだからだ。もし事実なら何か仕掛けがあるはずで……しかし、どこからどう見ても、目の前にいるのは一人の少女だ。
「納得いかない、って顔してますね」
「……まぁね」
「事件のことはどれだけ知っていますか?」
 ナイフを弄りながら、世間話のように訊いてくる。
「成人の男性が狙われている。男が油断し、二人きりの空間ができたところで――殺す」
「あるいは、食べる。……続けてください」
「問題は、こんなに白昼堂々事件を起こしていて、なぜ捕まらないのか。犯人の特徴さえ報道されていない。警察はそこをはぐらかしている」
「ああ、そこまで知ってるんですね。じゃあ話は早いと思います。……あなたは、どんな理屈で犯人がこのトリックを成立させているか、分かりますか」
「さっぱり。大勢による複数犯ぐらいしか」
「単独犯なのは、私が保証します」
 一体それが保証になるのかと思ったが、とにかく少女は否定した。
「女子高生だと分かっているのに、犯人が捕まえられない理由、知りたいですか?」
 ここが違うんです、と凍月は自分の顔を指さした。
「警察は隠しているけれど、目撃者の証言も監視カメラの映像も、一致していないはずです。なぜでしょう。……答えは、犯人が姿形を自由に変えられるからです」
「まさか。毎回整形してるんじゃあるまいし、そんなことができるのは――」
 見つめられる。真剣な、眼を潰しそうほど尖った視線で。
 人を食べた。
 人を食べるのは人間じゃない。お前は人間じゃない。オマエハニンゲンジャナイ。
 それは、人間じゃなく、
「――化物って言いたいんですよね」
 息を呑む。
 この子は、本気だ。
「証明してあげましょうか」と言って、彼女は制服の袖をめくる。白い、つるりとした腕が見える。
 凍月は肌の表面にナイフの刃を当てた。
「面白いものが見れます」
 待て、と叫ぼうとしたが間に合わず、止めようにも両手が塞がっている。万事休すと悟った身体が反射的に視界から外そうとした瞬間、襟首を掴まれる。
「逃げないで、見てください」
 そして、僕は見た。
 始まってから、眼を閉じることもなく、目の前で起きたことを見た。
 肩側から胸元に、一本線を引くように、
 刃が皮膚を滑り、
 糸のように肌に引いた赤い血が、表面で小さな球をいくつか作って、それから、
 何も起きなかった。
「あれ、ダメだな。戻りませんね」
「何やってんだ!」
 咄嗟に立ち上がってどこかにあったはずの救急箱を探そうとしたが当然四肢を拘束されているので殺虫剤を浴びた芋虫のようにバタバタと惨めに悶えるだけになってしまった。
「ちょっ、暴れないでくださいよ」
 なんでお前の方が冷静なんだよと突っ込みたかったが場所を思い出したのでそんな余裕はなく「棚! 隅のいちばん上!」と叫んだ。
 凍月は一瞬面食らった様子だったが、すぐに「ああ、そういうことですか……」と得心すると「すみません」と謝りながら、血をこぼさないよう体勢を保ったまま立ち上がる。
 そして僕の言葉どおり、傷つけていない片手で棚のいちばん上で埃を被った箱に手を伸ばした。彼女が背伸びをしてなんとか届くほどの高さだった。
 凍月が下ろした箱を僕は繋がったままの手で強引に引き取り、開ける。中からガーゼと消毒液を取り出して「見せて」と言った。
「あの、そこまでしなくても」
「見せろ」
 心苦しいが命令形が功を奏したようで、手首が差し出された。
 偶然思い出したからよかったもののこれもおばさんが放置したものなので中身が清潔か不安になったが、今から買いに行くわけにもいかない。ためらいを振り切った。
 傷口を消毒する。
「沁みるかも」と前置きしたが、まったく動じなかったので逆に怖かった。
 軽く当てて血を吸い取ると、ガーゼには赤い痕が絵具のように残った。
「ほんと、やめてくれよ……」
「そうでしたね……。すみません、床を汚すかもしれませんでした」
「……そうじゃないんだけど」
 ズレた返答に呆れながら、絆創膏を貼る。こんな簡単なことでも、手錠を掛けたままだったので普段の何倍も疲れてしまった。
「ありがとうございます。たぶん、意味はないですけど」
「あるよ」
「ないです」
「僕にはある」
「……真さん、強情ですね」
 根負けしたのか、凍月は「じゃあ、気持ちを受け取っておきます」と塞がった傷口を眺めて言った。だから、噛み合ってないなぁ。
 場が収まったのを確認すると、安堵と疲労がどっと襲ってきた。まったく、なんで僕は殺されるかもしれない相手の怪我を心配しているんだ。ほとんどボランティアじゃないか。
 いや。下手したらボランティアより性質が悪いな、これは。
「で、何がしたかったの」
「治るはずだったんです」
「……治る?」
「はい。傷が治るんです」
 こちらの困惑に、凍月は慌てて釈明する。
「なんですその目! ほんとです! 待ってれば塞がるんです!」「人間には免疫があるからいつか塞がります」「からかってますよね! もっとすごいんです! 一瞬で!」「塞がらなかったよね」「それは……お腹空いてたから体力が戻ってないんです! たぶん!」
 ……こうも締まりがないと、いろいろと疑ってしまうな。
 彼女は本当に殺人犯なのだろうか。シリアルキラーの人外に憧れている、ちょっと頭のズレた女の子だったというオチの方がまだ納得がいくのだけれど。
 でもこの場でそれを証明する方法は一つしかないわけで。
「僕を殺せば、簡単に証明することになると思うけど」
「まぁ、そうですね。殺そうと思えばできますけど。弱そうだし」一言多い。「でも、私困っていることがあって」
 それはですね――と、凍月は告白した。
「人を殺して食べるうち、飽きちゃったんですよ」
 すごいパワーワードだ。
「でも分かってくれますよね? いくらおいしくても毎日三食ハンバーガーやフライドチキンを食べろって強要されたら拷問じゃないですか」
「……人肉にも飽きてきたと」
「そんなところです。新しい刺激がほしくなりました。そんなとき、好都合なことに、あなたが引っかかった。で、そこでちょっと思いついたことがあって。……与える餌によって肉が影響を受けるって話、聞いたことあります? 牛にワインを飲ませたりとか」
 ……話のオチがもう分かってしまった。
「ようは、僕を飼い育てて、よりおいしい人肉にしたいと」
「そう! それですっ。名案だと思いませんか?」
 えっへん、と言わんばかりの笑顔。
 露悪や嗜虐心の欠片もなく、純粋に楽しんでいる様子にこっちまで拍子抜けしてくる。これから食われるのに。
 それにしても。
 人生いろいろあったが、まさか自分の肉を運ぶ焼き鳥屋のマスコットみたいな立場になるとは思っていなかったな。
「でも初めてのことなので、どんな味になるかは分からないです。試行錯誤が必要かもしれないですけど」
「好みの味とかあるの?」
「うーん。あるんですけど、説明できそうにないというか。いや、味覚はヒトのみなさんとそんなに変わんないんですけど……斜め四十五度にバグった味なので」
「日本人向けの海外料理店に慣れてから、本場の味に触れたときのショックみたいな?」
「たとえ上手いですね」
 褒められている場合ではない。さっきからいまひとつ緊張感に欠けるなぁ。
「……ということで、これから三食、真さんのご飯を作ってあげます」
 ひとつも嬉しくないヒモ宣言だった。
 それにしても、僕が食べられるのか。
 逆ではなく。
「これからあなたを私ごのみの味にしますね」
 まったく因果な人生だな、人食い。

 

 まずは朝食から、ということで意気込んだ凍月。
「そういえば、さっき冷蔵庫を確認したら卵がありましたね。じゃあまずは、スクランブルエッグでも作りますか。スーパーカーみたいに和製英語なんですかね」
 昨晩大半の洗い物を済ませていたことは、結果的に彼女を手助けしてしまったらしい。
 フライパンをコンロに乗せ、深皿を持ってきて、冷蔵庫を開けて卵を取り出す。そしてまな板に乗せ、包丁を手に持つと、刃を殻に当てて丁寧に切れ目を入れようと――
「ちょっと待ってくれ」
 さすがに突っ込んでしまった。
「何をするつもりなんだ」
「真さんこそ何を言ってるんですか……」凍月は眉をひそめて、そんなことも分からないのかと呆れる。「卵を割るに決まっているじゃないですか」
 刃物に異常に慣れているのか、料理という行為を知らないのか、どっちなんだ。
「それを普段から包丁でやっていると」「いえ、やったことないですが。卵なんて割るほど豪奢な生活してないです私」「……そこは詮索しないが、じゃあなぜスクランブルエッグを作ろうと思ったか訊いていい?」「面接官みたいになりますね急に。よく知らないけど語感がシャレオツだからです」
 スクランブルエッグの発明者に謝れ。
「細かいことは分かりませんけど卵を溶いて焼けばいいんでしょ。楽勝っす楽勝。……殻が黄身に入らないようにするには、これが一番じゃないですか」
「果たして、そうやったほうが潰れるという発想には至らないだろうか」
「失敬な。私の刃物捌きを見れば、きっとそんなこと言えなくなります。……まさか、手で粉々にしろとでも? 真さん、そんな野蛮な方法はダメです。食べ物を粗末にする資本主義社会はいつか滅びます」
「人間を食べる人が警鐘を鳴らすと説得力があるね」
「まったくです」
 ボケもツッコミもいまひとつ噛み合わない。
 ……仕方ない。無駄になるが、失敗から学習してもらうしかないだろう。今から養鶏場の名もなき親鶏に懺悔しておくか。
「しっかり見ててくださいね」
 凍月はそのまま美しい手さばきで殻に刃を滑らせ――
 ぐしゃりと潰れた。
「……もう一回! もう一回チャンスをっ」「ダメ」
 諦めが悪いのはときに美徳だが、値上がりが激しい昨今に勉強料をこれ以上出すわけにはいかなかった。
 蛇腹のように強引に身体を起こす。さっき暴れた拍子にロープがほどけ、脚の自由が利くようになったのだ。「ちょ、ダメじゃないですか動いちゃ」そのまま後ろから近づいて手から包丁を取り上げようとしたのが失策で、咄嗟に凍月は包丁をコンバットスタイルに握り直してしまい、手錠とひっかかった末に、「……あ」
 僕の指に、赤い一本線が引かれた。
「ごっ、ごめんなさいそんなつもりじゃなくていつもの反応でついっ」
 痛みがなかったせいで、それがどんなことか呑み込むのに一瞬が必要だった。
「あー……」
 労災二号、晴れて発生。
 認識が追い付くと、時系列が逆転したように痛みの埋め合わせがやってきた。
 痛みにも種類がある。それほど多くは知らないが、切り傷の痛みは寒さに似ていると思う。いや、逆か。外気に触れる血が熱を奪われるイメージのせいだ。切断と凍傷。連想での安易な結合。しかしそれは痛みを冷気に錬金する魔法でもある。
 寒さにだけは、慣れている。
「いったたた……また救急箱、取りにいかないと」
 取ってきてもらうほどではないと思って、戻ろうとする、その前に。
「ちょっと沁みますから、気をつけて」
 手短にそれだけ言い、何をするのと訊くより早く凍月は舌を出して、
 僕の傷口に当てると。
 舐めた。
「っ、ふ」粘膜と粘膜が絡み敏感になった傷口から伝わる痛みと似て非なる快とも不快ともつかぬ信号がたちまち身体中に流れ痺れが筋肉を痙攣させたかと思うとすぐに弛緩して力が抜けそのまま意識まで持っていかれ、「ゃ、あ」
「終わりました」
 唇が離れ、艶めかしく、だるく粘った指が現れ――
 傷はなくなっていた。
 塞がった、のではない。最初から何も起きなかったように、映像を逆再生したように、痕ひとつ残っていなかった。
「もう痛くありませんか」
 魂が抜けたように頷いている自分が滑稽だった。
「よかったです。さっきはダメだったけど、元気が戻ってきたかも。あと、誰かにやると力を入れやすいのかもしれないですね。ヒーラー適性というか」
「……これは」
「分かりましたか? 私が化物だってこと」
 脳が目の前で起きたことを呑み込むのには、タイムラグがある。その衝撃が大きければ大きいほど、その容積の器を用意できず、体験はこぼれ落ちてしまう。
 目の前で起きたのは、そんな御業だった。
「今はまだ弱っているから、これぐらいが限界なんですけどね。でも、もうすこしエネルギーがあれば、もっと自分から身体を変化させることもできます。それこそ、顔なんていくらでも変えられる。これで、解決しましたか?」
 先ほどまで、この女の子は完全に狂っているのではないかと思った。
 いや、狂気というこちらの常識の範疇に引き入れることで、ことでなんとか今までの世界に留まっていようとしたのかもしれない。
「って……それは置いといて、ほんとにごめんなさい! 不慮で人を傷つけるなんて、刃物を扱う者として失格ですよね……」
 慮があれば許されるのかよ。
 ……奇跡を目撃しながらも、僕の頭の半分は逆回りしてバランスを取ろうとしていた。
 確かにこの少女は(少なくとも、僕と同じ)人間ではないかもしれないが、だからといって論理的には犯人である証明にはなっていない。
 もしもこの場で本当に証明するならば。
 既に言ったとおり、方法は一つだけだ。
 そしてそうなった頃にはいまさら遅い。タイトルにすると『食人少女を拾ったら物理的に食べられてしまったけどもう遅い』になる。普通のバカだ。お前はこんな場面でもしょうもないことしか考えられないのか?
 落ち着こう。
 食べられたいかと訊かれたらたいていの動物は嫌がるわけで、それは僕にしても同じ、一寸にも五分の魂あり(?)ということで、できれば避けたい結末である。
 とりあえず彼女の言い分が正しい――巷を騒がす猟奇事件の犯人だとした上で、やんわり穏便な方向に進むよう交渉してみることにした。けっして保身ではない。けっして!
「……落ち着いて考えてほしいんだけど、『飼う』って言っても、そううまくいかないんじゃないかな。僕はそんなに積極的に他者と関わって生きている人間じゃないけど――」
「それはなんとなくわかります」
 なんか地味に屈辱的なことを言われている気がするんだけど。
「――とにかく、高校生だから学校に通わないといけない。っていうか、君も制服だよね」
 よし、親戚の圧力的一般常識に訴えるぞ。
「学校は行っておいた方がいいんじゃないかな」
「これは変装です」
 作戦失敗。
「それに、あなたが学校に行きたいようには見えません。……なんとなくですけど」
 失礼だなぁと思いつつ、確かに眠りに行っている人間が教育の重要性を説けるわけがなかった。
「でもいつか怪しまれるよ。ここは文明社会なんだから、誰かしらが僕の不在に気づく」
 誰でも替えが効くように見える世の中、誰にも気づかれずに消えるのは、逃げるのは、意外に難しい。でなければ今よりずっと失踪者は多く、自殺者は少ないだろう。
 なんとも親切な社会だと思う。
「何日かなら学校を休んでも気にされないだろうけど、さすがに退学寸前になったら怪しまれるよ。滅多に来ないけど、ここは賃貸だから一応は大家さんもいるし……。それにここに暮らしているのにもお金がかかる。それをどうごまかすの?」
「身体があればお金ならいくらでも稼げます。食事だって迷惑はかけません」
「いきなり生々しく飛躍しすぎでは」
「なんです、私の資本がダメなんですか。大きいのがいいんですか小さいのがいいんですか上がいいんですか下がいいんですか右がいいんですか左がいいんですか」何の話だよ。
「お願いだから落ち着いてくれ」
「でも昨日だって」
「だからそうじゃないんだって」
「じゃあ我慢したんですか。そういうプレイだったんですか」
「話が進まないよ!」
 しかし、マジな話。
 自分は貞操の説教をする中年男性のような偉大な高潔さこそ持っていないが、見過ごせないものだってある。
 見知らぬ誰かであっても。殺されて文句が言えないほど卑しくても。
 人を殺すならともかく、食べるというなら他人事ではない。
「お金の話は置いておくけど。人を食べない、別の食べ物で我慢する方向はないの?」
「うーん。食べる意味がなくはないですが。言ったとおり、私にとって人の肉はもっとも適したエネルギー源です。上手い例えあるかな……エンジンには種類ごとに使う油が違いますよね? 違う油でも見た感じ動かないことはないですが、故障や火災の原因になったりします。だから私はけっこうな偏食家ですね」
 話を聞いていて、昨日のことを思い出した。『おなかすいた』というから何も考えず食べさせてしまったが……。
「じゃあ、ご飯も出すべきじゃなかったかな」
「いえいえ、そんなことないですよ! 別腹ってやつがありまして。普通の方でもお腹はすくし、それで倒れちゃってたんです。人間の使う食品だって多くは食べられますし、好きな食べ物もあります。ただ……残念ながら、人肉と比べてエネルギー効率で天と地の差があるんです。人間を食べていれば基本飲まず食わずでもなんとかはなりますから。化物としての能力を使うと消費が激しくなってはしまうんですが……」
 そこまで言うと、彼女は「でも、人間のお腹がすくとそれはそれで元気なくなるし、治癒力も錯覚を受けちゃうみたいですね。だから普通の食事でも十分ありがたかったです」と付け足した。ふーん。複雑なんだな。
 いろいろと言いたいことはあるが、まず思ったこととして。
「君って、どうやって生きてきたの?」
「……えーと、どういう意味ですか」
「だって、生きるために人を食べないといけないなら、この事件が起きる前にも食べていたはずだ。それがどれだけの間隔かは分からないけど……そんな報道は見たことがない」
 僕はニュースに疎いほうだが、それは関係ない。なぜなら今回のことが起きたときに過去の事件だってとっくに蒸し返されているはずだから。
 でも、学校で見せてもらった記事にはそんなことは書いていなかった。
 そんな僕の疑問はあっけなく解消した。
「私、これまでの――この街に来るまでの記憶がぜんぜんなくて。気がついたらこうなってたんです。それで、今話した自分の体質や能力も経験しながら知ってきたんです」
「記憶喪失設定」
「ほんとですよ! 心外な! もっと人を信じることを学ぶべきです」「信じた結果食い殺されそうになっているね」「疑うことも学ぶべきです」「だから疑っている」「あー。これって何て言うんでしたっけ。パラドッグス?」「ワンワン」「バカにしてますよね! ニャンニャン!」なんで張り合ってるんだよ。
「まぁ、とにかく信じるよ。……でも、今の状況は悪循環だよね」
「なんでですか?」
「だって、警察から逃げるのに能力を使っているんでしょ?」
「そうです」
「それを続けるにはエネルギーが必要で、人を食べなければ維持できない」
「そのとおり」
「だからずっと人を食べ続けなければいけない」
「ふむふむ」
「で、人を食べ続ければ、監視はますます強まる。だからループしながら、どんどん危険が増えるんじゃないかな」
「……あー、頭いいです」
 考えたこともなかったと言わんばかりに感心された。この反応だと、本当に何も考えずに殺していたのかもしれない。被害者なのに怖くなってきたぞ。
「たしかに、それはまずいです」
「でしょ? だから、一旦事件を起こすのをやめてくれないか」
 長考。その秒数、四五。
 その末に、彼女は首を傾げて言った。
「でも、そうしたら私が飢え死にしますよ」
「それは……」僕の論の、そこが弱点なのは分かっている。「……でも、記憶を失う前にも君が生きていたなら、何か方法があるはずだ。それを見つけられれば……」
「それまで、耐えろってことですか」
「……僕が、それに協力するっていうのはどうかな」ああ、またやっちゃったよ。そう自分で思う。「だから、僕を食べるのもちょっと待ってくれ」
 凍月の目がいつになく真剣さを帯びた。これが重要な交渉であることに気づいたようだ。
「うーん。実現性に難がある提案ですが、まぁ私がやってみて損はないですね」
「分かってくれた?」
「条件があります」そう言って、こちらを一瞥する。「あなたの身体を差し出してください。人質として――いや」
「非常食として、ってか」
 そうだ。こう返されることも既に分かっていた。
「今はまだ大丈夫ですが、もし私が命にかかわる空腹を覚えたら、時間切れとみなして、あなたを食べます。……これでどうですか」
 はぁ、なんでこうなったんだか。女の子を家に上げただけなのに。いや、そりゃダメだけど。でもこんな展開になるなんて先に知っていたら……。
 まぁ、それでも同じことをしたのか。そして今と同じく――
「……オーケー。交渉、成立だ」
 こうやって受け入れていただろうな。
「じゃ、これからよろしく」と(手錠のかかった)手を差し出し、握手――のはずが。
「こちらこそ、ふつつかものですが」
 三つ指ついて土下座されてしまった。
「……あの」
「えっ、なんですかその目。床を同じくするならこれが礼儀だって読みましたけど」
 何を読んだんだよ。

 

 しかし一時停戦したとはいえ、凍月はしぶとかった。
「あ、でも今食べるかはともかく飼育計画も続けさせてもらいますね」「……それは別なんだ」「別腹ってやつです、ふふ」うまいこと言ったぜ的な顔してて腹立つな。
 ということで今度こそ朝食作り――になるには、時間が回りすぎていた。
「お昼になっちゃいましたね」
 そこでようやく、この場を収める思いついた。
「とりあえず、歓迎も兼ねて出前でも取らない?」
 ウーバーで頼むのもアリだが、そういえば玄関のポストにピザの宅配チラシが入っていた憶えがあった。クーポンもついていたしちょうどいい。
 そして、こうすれば凍月を料理から一旦離せる。
「うーん……私がコントロールしたものを食べさせたいので、腑に落ちないのですが」
「開店記念にピザもう一枚サービスだって」
「……二枚も?」
「しかもクーポンを使えばWチーズ無料だって」
「ダブル……チーズ……」
「どうする?」
「じゃあ……あ、私が好きなものを食べさせれば真さんがおいしくなるかもってことですからね。私が食べたいってことじゃないので、恩を売ったと勘違いしないでください」
 斬新なツンデレだ。というかこっちが餌付けする側になってるな。
 ネットで注文すると(凍月はいちいち細かいトッピングにも拘って面倒だった)、まもなくチャイムが鳴った。
 玄関まで行って「あ」とまずいことに気づく。自分には手錠がかかっているのだ。
 慌ててとことこと凍月がついてくる。
「隠れてください。私が取ります」「いや、それはそれで危険だ」「そうですね。真さんの家に何者かがいるとバレてしまう……どうしましょう……」
 ぴんぽーん。ぴんぽーん。ぴんぽーん。
「時間がないよ」
「真さんが言い出したんじゃないですかっ」
『そこにいらっしゃいますか?』
 ドアの向こうから声。まずい、内輪揉めしている場合ではなかった。
「……ああ、はーい。今開けますねー」と言いつつ、扉に手をかけた。必死に下がらせようとジェスチャーを送るが手錠のせいで伝わらない。というか向こうも聞く気がない。
「待ってください! なんで開けるんですか!」
 揉み合っているうちにドアが開く。
「……あの、お取込み中ですか」
 人のよさそうな宅配のお兄さんが目撃したのは、手錠姿の男と、その横の少女。
「………………えーっとですね、すみません! いま親戚の子が遊びにきてて。おもちゃの手錠つけられたら取れなくなっちゃったんです。ってことで、お支払いしますねー」
 しかし誤算があった。凍月がすかさず僕に抗議したのだ。
「真さん何言ってるんですか! おもちゃの手錠で遊ぶって、エクストリームすぎます! 人様に言っちゃダメです!」「何を聞いてたらそうなるんだよ!」「親戚の子とそんなことしたいんですか! やっぱり異常性癖じゃないですか!」「うるせぇ脳内ピンク!」
 醜態を晒す僕らに、お兄さんは「……どうもー」と笑顔を貼りつかせたまま帰っていった。さすが、その道のプロ。

 

 そんなドタバタ劇はともかくピザを受け取ると、昼食と相成った。
 手が不自由なので僕の分は凍月が渡してくれた(それはそれで食べづらい)が、チーズの乗った生地を見つけると僕に渡さず、独占に走った。
「いやー、チーズってやっぱりいいですねー。人肉の次に好きです」
 あまりにも嬉しそうに食べるので、僕に食べさせるんじゃなかったのかというツッコミは、二枚のほとんどをたいらげられても入れないでおいた。
「眠くなってきます……」
 食べ終えると、凍月は座ったまま、うとうととしはじめた。
「食後なのもあるけど、昨日は眠れなかったですからね……」
「そうなの? 昨日はけっこう寝てた記憶があるけど」
「寝たふりです。いつもああやって油断させておいてガブっといきます」こわっ。「だから、真さんはもっと疑うってことを覚えた方がいいんですよ……んっ……」
 まもなく近くの壁にもたれかかると、そのまま凍月は眠ってしまった。
 ……立ち上がる。起きない。一歩。起きない。そのまま、ゆっくり玄関まで向かう。
 鍵はひとつだけ、しかも内側にある扉なので、簡単に出て行くことができる。だから何か(チェーン等で)対策をしているかと思ったが、何もなかった。
 扉のノブに手をかけると、当然開く。
 僕を脱出から妨げるものは何もない。
 ……そっと振り向くと、凍月が壁に肩を預けたまま今も眠っているのが見えた。
 あまりにもあっさりした監禁生活の幕切れだ。
 音を立てないよう慎重に扉を開け、外界に出て、また慎重にドアを閉め、早足でしかし細心の注意を払いつつアパートから離れて身を隠し、近くの電話ボックスに入ると緊急通報のボタンを押して巷を騒がす食人鬼少女を告発し僕は晴れて自由の身しかも凶悪犯を捕まえたヒーローとして世間に報道され気をよくした僕はさらに承認欲求を肥大化させ自らこの街の悪を成敗しようと暴走を始め――ている間も妄想の僕にはずっと手錠がかかっていた。だれか開けてやれよ。
 ……戯言、終了。
 音を立てないように慎重に扉を元に戻し、部屋に戻り、ゆっくり廊下を歩き、キッチンを過ぎ、居間に入り、そのまま今も眠っている食人鬼少女の近くに寄るとそのまま身体を下ろして傍に座り、痛そうな角度で壁にもたれる彼女の重心を自分の肩に移してやった。本当はベッドに寝かせてあげたかったけれど手錠のせいでそれは無理だった。
 身体の半分にかかる重さは、その外見からすればあまりにも軽い。
 そして横目で流し見る顔立ちは、初めて見るまったく無防備な――
「おなか……すいた……」
 衝撃で振り落としそうになって慌てて体勢を戻す。凍月は変わらず眠ったままだ。寝言かよ。人を飼い殺しにしておいていい気なもんだ。夢でも何を食っているんだか。
「まこ……とさん……、おいし……ですか……やったぁ……」
 ……先が思いやられる、一日目だ。

 

4 ミナソコ

 

 凍月が目を覚ました頃にはもう日は暮れて、日曜の余命もいくばくかになってしまった。
「なんか損した気分ですね……」
「そう? こんな週末が普通だから気にしてないな。もうすぐ夏休みだけど、それも同じ」
「暇人ですね」剛速球だなぁ。「バイトとかしないんですか?」
「……前はしてたけど」と言いかけ、しまったと軌道修正した。「まぁ、なんかあって」
「やめたってことですか?」
 なんかということは文字通り何かのっぴきならぬことが起きたのを指しているのだが深掘りはされずひと安心。ということで適当に「バックレた」とはぐらかした。
「……ダメダメですね」「やかましい」「まぁ真さんは働くのに向いてなさそうですもんね」「さっき学校にも向いてないって言ってたよね。何なら向いてると思うの?」「凍月式性格診断によると扶養されることに適性がありそうですね」「ヒモってことじゃん」「監禁してる女の子が言うんだから間違いありません」何がだよ。
 しかし実際に凍月を物理的に養う――つまり食わせるのは早々に僕の役割になりそうである。同時に自分がおいしい供物になるよう僕も味わって食べるわけですが。
 ということで夕食はやはりチーズ料理――グラタンになった。入れる具が冷蔵庫にぜんぜんなかったが凍月が刃物を使いたがらないので好都合だ。一時手錠を外してもらい、マカロニを茹でてホワイトソースを作って和えてチーズをかけオーブンで焼いて、はい終了。
「もっと私のスキルが生きる料理がいいんですけど」と手伝えることが一切なかった凍月は不満げだったが、ぺろりとたいらげる頃には機嫌も戻っていた。
 その後は交代で浴室を使いあとは寝るだけ……という段になって、シャワーを浴びながら気づく。そう、明日は月曜日ということに。
 もうじき終わるにしても、学校、やっぱり無理だよなぁ。休んでも心配する人なんて弓良さんくらいだと思うけど。
 そんなことを思いながら戻ると、凍月は僕の学生鞄を開けて、中から出てきた本を読んでいた。勝手に触るな、とは言えない立場なのが悔しい。
「この『氷』ってやつ、授業で使うんですか?」と、読んでいた本を見せる。カバーが掛かった文庫本。
「それは僕が学校で読む小説」
「なんで学校に教科書以外の本を持っていくんですか?」
 地味にクリティカルな質問だな。
 正直に「暇だから。あと本読んでると話しかけられない」と答えた。入学当初はライトノベルでも読んでいたら晒し上げてやろうと見え見えの魂胆で話しかけてくるバカがいたが無視していたら絡んでこなくなった。よっしゃ。
「なるほど。真さんに友達がいなかったのを忘れていました!」
 こいつ、やっぱり天然の煽りスキルの持ち主だ。いちばん性質が悪いやつじゃん。
「学校かぁ。面白そうなところですね」
「やっぱり行ったことないんだ」
「行く意味ないですから。制服はかわいいと思いますけど。ちょっと興味はあるかも」
 意外な発言に思えた。
「もし転校できるなら、監視しながら学校も行けるのになぁ」
「監禁設定は崩さないんだ。……まぁ、明日からはしばらく諦めるよ」
「うーん。そうですね……」
 何かが引っかかった微妙な反応だが、その時は気にせず就寝の準備に入った。さすがに痛そうだからと手錠もなしになり……と思いきや「こうすれば逃げられません」と羽交い絞めされたまま無理やり眠らされたのはともかく、最終的には今日も眠ることができた。
 先の会話が、翌日の混乱を引き起こすとはいざ知らず。

 

 獏に食わせる手持ちを欠いたまま夢もなく目を覚ますと、まだ爆睡中の凍月は羽交い締めをほどいていた。よっぽど眠かったと見える。おかげでこっちは晴れて一日ぶりに自由の身というわけだけれど。
 さて、時刻はまもなく登校時間。
 凍月から逃げる発想はなかったが、一方で僕は学校に行きたかった。
 毎週続いた連続殺人が起きなくなったタイミングで急に僕が二度と学校に行かなくなるのは危険に思えたのだ。夏休みまでせめて一週、特に週後半の期末は受けたい。
 凍月に指摘すれば一笑に付されるかもしれない。確かに、塵芥のように大勢いるこの街の住人から砂粒のような僕を針でつつく人間は、相当に奇特な奴だ。
 しかし、万一因果関係を嗅ぎつける、そんな奇特な人間が警察にいたならば?
 ……僕は「凍月を守らない」と彼女に約束した。だから、これは殺人犯をかくまった僕の保身だ。その結果が凍月の安全に繋がるうちは、同じ船に乗るというだけのこと。
 そのために、僕はある程度のアリバイを作っておく必要がある。それも、凍月に無断で。そう判断し、制服に袖を通した。
 ――それが杞憂でなかったことは、この後に証明される。
 しかし、今のところそれより僕が気にしていたのは、白昼の悪夢だった。
 慣習的に何かを恐れる人には「もしそれが起きたらどうしよう」という予期不安と呼ばれる症状が見られる。僕も普段なら幻覚を恐れて陽の下に出るのを尻込みするものだが、今日はなぜかそのためらいが薄かった。
 そういえば凍月が現れてから不眠もよくなっている。因果関係は分からないが、よい兆候かもしれない。ひょっとしたら幻覚も――
『学校に行ってきます。必ず戻る』と書き置きをし、扉を開いた。

 

 失敗した。そう思った頃には、もう世界は凍り付いていた。
 視界の建物すべてを氷河が覆い、襲い、押し流し、歩く人も通る車もすべて破壊し、粉砕し、迫ってくる。
 できるだけ目を閉じ、早足で学校に向かった。屋内は外より暗いから、多少は症状も和らぐはずだ。あとは外を見なければいいだけ。
 しかし今日はいつもより酷く、なんとか校舎に入ってからもそれは続いた。じわじわと
 接近してくる校舎の何倍も高い氷河。息せき切って階段を上がり、自分のクラスに近づいたところで、窓ガラスが割れ、何ひとつ気づかず談笑する生徒たちをぐしゃりと潰し、血を滴らせたまま氷はひとたまりもなく教室を――
「真さん」
 耳馴染みのある、いや強制的に馴染まされてきた、声がした。
 振り向くと――現れたのは、制服姿の凍月だった。

 

 その背景には普段通りの学校の廊下。学校の風景。朝の日常。
 まるで氷河を支配するように、たった一声で、幻覚は去った。
「あれ? そんな顔して、どうしました?」
 あまりに一瞬のことに、彼女に釘付けになったまま固まっていたが――ようやく状況を把握すると、慌てて廊下と階段とが繋がる壁、物陰に引っ張った。僕の症状には気づかなかったようで安堵しつつ、苦言。
「なんでここまで来たんだよ」
「そっちこそ勝手に出て行くなんて許した覚えはありません」すかさず反論。「ですから来るのは当然です。学校でも真さんの監視を続けるなら生徒のふりをするしかありませんから、狸寝入りで一旦行かせておいて、あの制服を着て後をつけてきました、が――」
 二度も引っかかる僕の迂闊さに呆れるのも一瞬、すぐ凍月は機嫌を戻した。
「そんなことよりどうですか? 玄関にお姉さんのローファーもあったし、ぜんぶ借りちゃったんですけど。この高校の制服、初めて着るんです」と、一回転。
 目に見えてめちゃめちゃテンションが上がっている。
 うむ、しかし他人のとはいえ、うちの女子制服は昨今少ない(のか?)セーラー服。
 確かにこれを目当てに志望する女子も少数いるとかいないとかで、こちらもつい血迷ってかわ――いいって言いそうになったけど言ったらどうせ犯罪認定されるからうまくこらえて見せた。「ちゃんと高校生には見えるよ」
「何ですかその反応。せっかく着てあげたっていうのに不満ですか」
「いやそういうことではなく……」と視線を彼女の髪に向ける。
 高校生に見えるといっても、どんな高校生かは話が別だ。彼女は誰よりも目立つであろう長い銀髪で、この平凡な地方の教育機関では圧倒的に浮いてしまうからだ。おまけに顔立ちと合わせるとまさに学校を転々とする転校生のアイドルヒロイン(?)的非日常が制服を着て出歩いているようなものだ。
 凍月もそれは自覚していたらしい。
「しょうがないじゃないですか。それこそ黒に染めるわけにもいかないし、この長さじゃウィッグも使えないし」「それはそうだけど」「そういえば、ひょっとして反応の薄さは黒髪フェチゆえですか? あーはいはい、私が地元の良家出身で姉にコンプレックスを持ち高校生的恋愛ノリを侮蔑していたくせに最終的に健気なギャルヒロインを押さえてくっつく箱入り毒舌美少女じゃなくて悪かったですね。私はしょせん殺人鬼の化け物でーす」
「なんで勝手にやさぐれてるんだよ」
「だって真さんってたぶん処女厨じゃないですか」
「それ青森の人が三食リンゴ食べてると思ってる外国人みたいな差別発言だから。……っていうか、そういう言葉を公共の場で使うから余計に目立つんだぞ」
「……そうですね。喜んでくれないからちょっとイラっときて。すみません」
 うーん。相変わらずよく分からないが、反省はしたらしい。
「やっぱり帰った方がいいですかね。今後はGPSとかで対処して」
 最後に物騒な発言がくっついている気がしたが、しょげている様子を見るに、ちょっと申し訳なくなった。凍月は凍月なりに学校に興味があるのは僕にも理解できる。それを追い返すのは忍びなく、しかし実際、校内をうろつかれたら目立ってしまうわけで――
「あれ、どした? 伊澄くんと……お嬢さん?」
 ほら、言わんこっちゃない……って、まさか。
「……ゆ、弓良さん」
 なんでよりによって、唯一の顔見知りにぶつかるのか。
「見たことない子だけど、綺麗だね。その銀髪って地毛だよね? えー見せて見せて。うわ、超サラサラ」「あの、弓良さんちょっと」「何組? 何年生? どこ住み? ラインやってる? そんな無防備に出歩くの、おじさん感心しないなぁ」
「う、その」ああもう。凍月さんめっちゃ困惑してるじゃん。「わ、私は」
「冗談冗談。制服にも着慣れてないし、転校してきたとかってことかな」
 一目で分かるんだ。女子恐るべし。……って、感心してる場合じゃない。好機だぞ。
「そう! 校舎を紹介してたんだ」適当に名前を考えるか。「えー、やまも――」
「いずみ、いつきです」おい! 勝手に名字を使うな!
 言ってから、いずみ、いずみ……と名字をブツブツ呟く凍月。不穏なものを感じたが無視してアドリブで誤魔化す。
「しっ、親戚なんだ! ハーフの子なんだよ。お母さんが北欧系でね」
「えーマジで! 冬戦争じゃん」感想がニッチすぎる。「そういえばあのへんの挨拶ってなんだっけ」「え、ええと」乗らんでいいから。「……ハ、ハラショー?」それは敵国だろ。
 転校設定にするとこれから来なかったら不自然だし、面倒だな。どうしよう。
「日本で暮らしててね! 外国語はあんまり。それで、えーっと、こっちに越してきたんだ。でもまだ学校決まってなくて、じゃあ僕んとこ見てみる? って感じだからここに来るかもしれないし、来ないかもしれない。春樹風に言うと」「来るとも言えるし、来ないとも言える」「そう。それは対極ではなく、その一部として存在している」漫才やってる場合ちゃうぞ、自分。
 ふーむ、と弓良さんは考え込む。
「見学に制服を着てくるなんて、なかなかニッチですなぁ。お似合いで」
「え……ほんとですか! ありがとう!」
 凍月は素で喜んでから「……あ、いえ」と我に返った。
 学校見学で制服を着てるのは確かにちょっと変だな、やらかしたか……と今更気づいたが、凍月の反応でうやむやにできた。……できたよね?
 にしても、すごい嬉しそうだったな。そんなに気に入ったのか。
「で、それは彼氏さんの趣味で?」
「かかかっ、彼氏って……それは……まだ早いっていうか」
 なんだその取り乱し方。何が早いんだよ。
「なるほど。友達圏外恋人付近、湿った関係ですね。承知しました」
 なんか分からんけど勝手に納得したらしい。一安心……なのかな。
「で、それにしても一緒にお住まいなんて、ずいぶん古典派ラブコメしてるね」
 えっ? なんで。今までにそんな手がかりを喋ったか? そんなはずは――
「なーんて、これも冗談」
 悪戯っぽく笑われて、胸をなでおろした。ほんと、こういう人だなぁ。
「ま、取って食べちゃわないでね。じゃ、学級委員の仕事あるんで!」
 最大のブラックジョークを残し、弓良さんは嵐のように去っていった。
「……あの人、仲いいんですね。ぜんぜんぼっちじゃなくて、がっかりです」
 なんでちょっと不機嫌なんだ。
 それにしても、最後の冗談は、どっちに向けた言葉だったのか。……なんてね。

 

 僕らはしばらく一階の階段下、備品置場に身を隠した。
 ホームルームが始まると校内は静まり、安堵して廊下に出て歩く。あとは教員ないし用務員に見つからなければいい。今日は授業で試験じゃないから、サボっても傷は浅い。
「あ、これ」と凍月は急に足を止めた。そこにはパンの自販機。
「こんなの、学校にあるんですね。しかも見たことないパンばっかり」
「ああ、それは学食の人が作ったやつ。仕事を越えて趣味の人がいてね。完全オリジナル」
 いろいろな商品が並ぶ中、凍月はあるパンに目を留めた。
「チーズ蒸しケーキ、ですか……」
 やっぱりそれか。
「そんなに気になるなら、買ってあげようか?」
「ほんとですか? やったー!」
 少し早いが、飯にするか。朝何も食べてないし。ということで、僕もパンを買った。
 しかし、どこで食べるか――と思案したとき、凍月が窓の外を見た。
「あれって何ですか?」
 校舎から少し離れたところに、白い壁に囲まれた土地。
 プールだった。

 

 目隠しに増設された壁に一面覆われたそのスペースに侵入するのは一見容易ではないように見えたけれど、もともと無理のある増築だったのか、入口の門(『設備点検中、使用不可』と貼り出されている)との接合部に隙間があり、足をかければそのまま乗り越えられた。真正面から侵入する奴などいないという慢心が学校側にあったのかもしれない。
 そう、僕たちのような。
 先に入り、人気がないのを確認してから、凍月に鞄を投げ込ませ、バランスを崩さぬよう手助けして、屋根の腐食した更衣室や錆びたシャワーを通り過ぎ、プールサイドに出る。
「わぁ、綺麗です」
 果たして感想のとおり、澄んだ水が張ってあった。『漂白』の二文字を想起させる匂い。これが塩素だろうか。最後に嗅いだのはいつか、そもそも嗅いだことがあるのか。
「使用不可って書いてあったのに、不思議ですね」
 入口の掲示を思い出す。「水を入れて水質のテストをしているのかも」
「だとしたら人が動かしているんですよね。長居しない方がいいですかね」
「……ま、授業中は大丈夫でしょ。この壁の高さなら、校舎の上の階からも見えないよ」
「真さん詳しそうですね。何か理由がありそうです。不穏です」
「入ったことどころか気にしたこともねぇよ……」
 そんなもう慣れてきた掛け合いはともかく。
「水ですね」「水だね」「水がめっちゃあるとなんか面白いです」「それはよく分からない」
 まぁ、喜んでくれるならいいか。
 壁の日陰になっていたので、二人してプールサイドの飛込台横に腰を下ろした。凍月はテンションが上がったのか、わー、と靴も靴下も脱ぐなり、生足で水面を弾いてみせる。
「汚いかもよ」
「こんなディストピアみたいな匂いしてるんだから大丈夫ですよ」
 なるほど。全然なるほどではないけれど自己責任ということにしておこう。
 パンを取り出して食べる。これめっちゃおいしいです一口食べてみてくださいよやっぱもったいないからダメですという監禁のコンセプトを損なう一幕を挟みつつ。
「涼しいですね。水場だからかな」
「うん……」と空返事しつつ、塩素にあてられた頭は今頃弓良さんは教室にいるだろうな、僕の席が空いているのを見て何がしかの邪推をしないだろうかなんて考えて――
「ちょっと。何ぼーっとしてるんですか。変なこと考えてたら突き落としちゃいますよ」
 背中を軽く叩かれて慌てて我に返った。本当にやりそうだから洒落にならない。
 水は七月の鋭い光を反射しながらも、水底まで透きとおり、幻のように揺れている。
「こんなところに来るなんて、想像したこともありませんでした」
 水面には、ビデオテープの画面のように波が崩す、凍月の顔が映る。真横に目を移すと、そこには横顔がある。同じ存在から現れるイメージなのに、何かが違って見える。
「ここにいる子たちには、いろんな可能性がある。誰と出会い、何を学び、どこに行くのか、たくさんの未来がある。でも私には、人を食べて生きる選択肢しかなかった……。だから、やっぱりここは私の居場所じゃないですね」
 でも、と凍月は手で水を撫で、呟く。
「一日だけなら、月の上を歩くのも悪くないかもしれませんね」
 そのまま水を掬ったところで手首にかかり「……いて」と手を払った。
「あのとき絆創膏貼ってたとこです。ほら、ここに薄く」
 手首を近づけてくる。そこに細い線が一筋、肌の上に走っていた。
「ん? そんなに面白いですかね?」
「……あっ、いや」
 言われてから、じっと見つめていたことに気づく。
 凍月は訝しんだようだが、ふと思いついたように悪戯っぽく笑った。
「舐めてみます?」
「……遠慮しとく」
 いくじなし、とばしゃばしゃ水をかけられた。やかましいわ。

 

5 「おかえりなさい」

 

「……分かりました。学校に行ってもいいことにします。試験もあるみたいですし」
 次の日から、凍月は監禁のレベルを軟化させた。アリバイを作るという理由を説明したとはいえ、こんなに軽く認めてくれるとは思わなかった。しかも、譲歩は続く。
「監視もしないことにします。昨日みたいなトラブルになると余計に困りますし」
「……そこまでしたらもはや監禁じゃないんじゃ」
「最後に私のもとに戻ってくればいいんです。信じてますから」
 本妻みたいなこと言ってるけどこいつは犯罪者なんだよな。
 しかし凍月の見込みどおり逃げる気はなかったので、それから相変わらず奇妙な生活が、一週間も続くことになる。と、いうことで。
 平均的な朝として、期末終了後、学期締めの金曜日を引用しよう。
 起床後、モーニング・ルーティーンの乱入者にされるがまま、準備が進む。
「……それから、しっかり歯磨きして、髪も整えて、制服の埃も落としました。これで真さんをどこに出しても恥ずかしくありませんね」
「そこまでしなくても」
「これぐらい男子の振る舞いとして当然です。あと……お礼も、兼ねて」
 お礼。その発想はまだ凍月から離れていないらしい。
 でも、現在の対象は以前よりもたぶん穏当なものだ。
「……今日も、ピザパン、おいしかったですから」
「パンとケチャップとチーズがあればオーブンで焼くだけなんだけど。やってみたら?」
「真さんに作ってもらうのがいいんです。いや勘違いしないでください真の料理が食べたいんじゃないんですっ」そんなところでツンデレを発揮すな。
「……そっ、そう! 食材に自分の餌を調理させるのがいちばんいいですからね。養殖業の人が考えなかったのが不思議です」
「せめてもうちょっと倫理を学べ」ミートイズマーダーな過激思想だった。
 そんな玄関先の無駄話も、ちょうどいい時間には収まる。
「時間だし、行くよ。いつも言ってるけど、火元には気を付けて。今日も家にあるゲームなんでもやってていいから、チャイムには絶対に出るな」
「ラジャー、自宅警備任されました。今日も一日ドッグファイト三昧してます」
 敬礼を返される。アパートには誰かが残したレトロゲームがたくさんあったが、その中で凍月は最近やたらフライトシューティングにハマっているのだ。ゲーム脳じゃん。
 これでは死地に赴く上官だけど、いいや。
「いってらっしゃい、真さん」
 手を振り返し、一歩を踏み出す。ドアが閉まる音がする。そこまでを頭の中で確認してから、眼をきつく閉じ、また開ける。……大丈夫。世界は今日も平和だ。
 凍月が送り出してくれるようになってから、幻を見る頻度は急激に減った。正確には、『うっすらと見えることもあるが前ほど怖くない』という感じ。
 それは初めて人生に他者の目が入りこんだからかもしれないし、非日常の象徴が一人に集中したからかもしれないし、逆にその非日常に慣れた結果、幻とのつきあい方も変わったのか。それとも単に毎朝通うようになったから? ……どれでもいいことだけど。
 そう。僕は火曜以降、毎朝学校に通っている。
 これは伊澄真の人生史からして、異常事態だ。

 

 教室にたどり着くと、周囲の視線が変わっているのに気づく。補習で期末を受けていた奴が突然毎日朝から来るようになったんだから、そりゃ驚くだろう。
 カクテルパーティー効果とはこれなのか、喧騒から聞こえてくるのは僕の話ばかり。
「伊澄、変わったよな」「急に真面目になってさ」「女のせいだな」「そういえば月曜、あいつが銀髪の子と一緒にいたの、チラッと見てさ」「お前の妄想だろ」「いや、見たんだって! しかもめっちゃ顔ええんよ。モデルかと思った」「まぁ伊澄ならあるんじゃね」「ああいう奴がモテるの、バグだろ」「殺人鬼と付き合ってたりして」「じゃその子が犯人だったり?」「あー、なら俺だって殺されてぇよー、ぜってぇ死ぬ前にワンチャンあるだろ」「お前童貞捨てるなら死んでもいいのかよ」「いーや食われるね。二重の意味で」
 ……ほんと、力が抜けてくる。この有様じゃ、二度と凍月を学校には呼べないな。
 自席に腰を下ろして、ホームルームを待った。

 

 一週間通してほとんど試験だったが、真面目に受けてみると意外に時間が短く感じたのは驚きだった。普段寝ようとしているとなかなか時間が経たずもどかしかったものだが、プリントと格闘するだけで時間がみるみる溶けていく。
 期末試験自体も、弓良さんが今まで手助けしてくれたおかげでまったく分からないことはなかったし、一夜漬けとはいえ対策もしていたので(凍月はいつも「応援します!」と意気込むが毎回すぐ退屈して寝た)、特に影響なく終えられた。
 唯一心配なのは、教室に目立つ、ぽっかりとあいた空席。
 当の弓良さんは火曜から今日まで、よりによって期末を丸ごと休んでいたことだ。風邪らしい。季節の変わり目とはいえ、あんな人でもこのタイミングで体調を崩すんだという驚きがあった。そりゃそうか、人間だし。
 食べられていませんようにと、不謹慎にも祈った。

 

 最終日までには試験の採点も終わり、うちの学校では締めにまとめて返却される。夏休みが始まろうとしている。僕の試験結果は悪くなかったけれど、出席の問題で目をつけられているらしく、なんかの教科で休み中の補習の呼び出しを食らった。
 ま、行かないけどね。
 一学期最後は半ドンで、ホームルームが終わった。クラスの浮ついた空気が好きではなかった。周囲はやかましく眠れないし、仕方なく本を読んでも集中できない。
 帰る前に、朝のうち買ってみたパンを頬張る。なんとなく凍月が食べていたやつだ。チーズの味がした。当然だ。……なんでそんなに好きなんだろうな。
 凍月。
 学校にいるのに、やたら彼女のことを考える。
 おもむろにスマホを取り出して(返された)、ラインを起動する。我が校はもともと生徒の電子機器の使用に厳しかったが、災害の経験もあり、今は休み時間であれば使用を咎められることはない。
『いつき』のトークルームを開く。ひらがなだと一瞬『いっき』にみえるが当然凍月は武装蜂起した農民ではない。おにぎりではなくチーズ派である。
 画面を開くと『全ルートクリアしました!』のキャプションと共に写真が貼ってあった。直撮りのゲーム画面なので見づらいことこの上ないが、相当楽しかったのだろう。
 ……僕が学校に通うことになってから、凍月に携帯を買った。
 もともと(おそらくよからぬ方法で)持っていたが、僕と出会う前に失くしたらしく、さすがに連絡手段があった方がいいだろうと思い、携帯ショップに連れて行った。デタラメなことを書いて契約できる会社だったのにはちょっと世の中怖くなったけれど。
 僕の財力では型落ちの新古品スマホしかあげられなかったが、凍月はいたく喜び「見てください! ラインに真さんしかいません! 貞淑ですね!」と盛り上がった。
「……僕も普段使わないから同じだけど」
 弓良さんとも学校外では会わないので交換していない。媛先生は電話しか知らないし。
「これからは増えないか日々監視しないといけないですね」監禁というよりDVだろ。
 それからいつでもおかまいなくメッセージが飛んでくるのだが……。
 もうすぐ帰る、と送ると一瞬で既読がついた。
『おつかれさまです』
『これ見てください』
『さっき、窓の外!』
 貼られた画像には、毛むくじゃらの塊が塀の上に座っている。猫か。
『窓開けたら入ってきて、めっちゃ人に慣れてます』
『何あげていいか分からなくてお水しかあげられなくて、でも飲んでくれました』
『チーズが猫ちゃんに悪かったら大変ですからね』
『あと、チーズを食べさせていいのはこれから食べる生き物だけですし!』
 ……返答が思いつかなかったがスタンプなぞないので『バッド』のリアクションを押しておいた。一週間ずっとこんな感じでよく飽きないなぁと感心する。
『学校、お疲れさまでした。夏休みですね!』
 とはいえ、最後のそんな一行で、ほんの少しだけ頬をほころばせる僕もいて――
『ご褒美に元気が出る写真ほしいですか?(バカっぽい性的な絵文字の羅列)』
 すぐに電源を切った。

 

 これまでは陽が落ちるまで学校から出るのを待っていたけれど、凍月と暮らすようになってから、できるだけ早く帰るようにした。幻覚は今も不安だったが、それでも凍月を待たせるわけにはいかないと思ったから。
 アパートのドアのカギを回すと、バタバタと音が響き、開く頃には目の前に顔がある。
「真さん! 無事ちゃんとお留守番できましたよ! 褒めてほしいです」
 帰りの挨拶をすればいいところを、僕は黙って手を振り返した。
「素直じゃないですね。そんなんだから人殺しの子ぐらいしか構ってくれないんですよ」
 それでいいよ、と、これもまた、そのとき言葉にならなかった。
 だから凍月は呆れたように、いや――困ったように笑って、僕を迎えた。
「おかえりなさい」

 

6 いちばん眩しいあの星の涙は

 

「――で、全人類の電脳化を目的に武装蜂起するんですよ。でもこのゲームってどの陣営につくか自分で選べるから、周回していくとその度に新しい情報が出てきて、真相に一歩ずつ近づいていくんです。いやー、戦闘機で戦うだけかと思ったらこんな面白いなんて……」
 夕食の席、シチューを平らげながら凍月は今日クリアしたゲームのことをたくさん話してくれた。よほど気に入ったらしい。暇潰しになってくれたならいいのだけれど。
「……そういえば、明日から夏休みですね。なんだか一週間早かったなぁ」
 その言葉で思い出す。凍月がやってきてから、それぐらい経ったのか。
「真さん、今年の夏休みはどう過ごします?」
「普段どおりなら、一日中寝るかなぁ」
「ダメですっ」がちゃん、と凍月はテーブルから立ち上がった。「せっかくの高校生の夏休み、もったいないです。しかも私が暇です」
「それ、後者がメインの理由だよね」
「だって人を食べるなって言われてますし、暇なんですもん」
 社会にとってはそれでいいだろというのはともかく、たしかにこの一週間、こちらの都合に凍月を引っ張りすぎていた気はする。一切外出もさせてもらえなかったんだからそりゃあ不満だろう。とはいっても、僕もアウトドアな人間じゃないし、行く場所なんて……。
「あ」急に思い出した。「図書館に本を返さないと」
「図書館って……本があるところですよね」「本があればすべて図書館とは限らないけれど本がない場所は図書館とは言わないね」「行ったことないです! 行ってみたい!」「本がいっぱいあるだけだけど」「本がいっぱいあるなんてそれだけで絶対面白いです!」
 こいつ、なんでもデカければ面白いと思っている疑惑がある。小学生か。
「でも、本当に借りた本を返すだけだし。っていうか本読むの?」
「本っていってもいろいろありますけど……あ、漫画好きです! お金があったときは漫画喫茶に一晩中いたりしました」それで人格形成されてこうなったのね。「でも図書館かぁ。その発想はなかったです」
「ちょっと待って」何か誤解しているようなので慌てて訂正する。「歴史的に重要なものを除けば、市立の図書館に漫画はほとんど置いていないと思うぞ」
「えー。じゃあ文字でいっぱいの本ばっかりなんですか。それはつまんなそうだなぁ」
 こいつ、本当に世間知らずなんだな……というのはともかく、本を返すのは一人で行くことになった。帰ってきて暇そうだったらどこかに連れ出すか。
 つまり、僕は油断していたのだ。

 

 翌朝、冷房の効いた部屋の中、凍月は今日も爆睡していたので、起こさないようゆっくりとベッドから降りた。
 とっくに拘束はない。信頼されたということか。いいのか? そんな益体のない自問自答をしつつ、借りてきたベケットという人の小説を、次は二度と借りないぞと確信しながら忘れないよう鞄に入れた。だって意味不明なんだもん。
 趣味というほどではないが、小説を読むのは好きだ。ジャンルに拘りはないが、特に海外の作家をよく読む。しかし翻訳書は値が張ることが多いので、そういうとき僕は図書館で借りるようにしている。出版関係者に言っちゃいけないアレだ。
 またしても『図書館に行ってきます。すぐ帰る』と書き残し、凍月を置いて外に出た。

 

 夏の始まり、日差しは鋭さを増し、街には半袖の人が目立つ。図書館への道は木々が多いが、葉は青々とし、セミが引っ付いて喚き散らす。しかしそれもやがて死に、朽ちていくだろう。みな灰になり、それは雪のように積もり――
 突然、クラクションが耳をつんざいた。
 振り向くと、トラックが轟然と目前に近づいてくる。無意識に僕は車道に接近していたのだ。だが、状況を理解しても僕の足は動かない。
 それがトラックではなく、雪崩に見えたからだ。
 避ける、という発想はとうに消えていた。そうだ。やっぱり僕の悪夢は去っていなかった。やがて僕はそれに呑み込まれていくのだろう。そう、こんなふうに――
 立ち止まったままの僕に、雪崩はどんどん近づく。セミの声はとうに聞こえない。そして、ついにひとたまりもなく呑み込み――その寸前で、トラックは急旋回して僕を避けた。
 鼻先を掠めた轟音に、僕はへたり込み、ようやくここが車道であることに気づき、這うように道の隅に逃げ、ガードレールを飛び越え、歩道にうずくまった。鳥肌が収まらない。
 僕は死にたいのか?
 あの日、あの時から、あらゆるイメージが僕を追い詰める。僕を氷の冥府に導こうと、破滅の幻を見せ。苛み続ける。オマエガイキテイルノハフシゼンだと。オマエハアノトキシヌハズダッタと。そして、オマエハズルヲシテイキノビタのだと。
 ズル?
 そのトオリだ。ダレも助かるはずがナかった。ナノニ僕だけがセイゾンした。
 ソレハオマエガヒトヲ××タカラ。
 ソレヲシタ者ハ人間デハナク――
「ちょっと! そこどけよ!」
 僕につっかえて、自転車が通れなくなっていた。立ち上がって、道を開けようとして、相手の顔を見た。ソコニハ、

 

 ……。
 …………。
 ………………。 
 ここはどこだろう? 確かに僕は座っている。記憶がない。今はいつか。どうしてここにいるか。そもそもここはどこか。
 僕はベンチに腰を下ろしていた。顔中が汗にまみれ、なのに身体の芯まで冷たく、頭は外気の熱との温度差でズキズキと痛む。どうしよう。どうしよう。帰りたい。帰れるかな。
 凍月のいる、家。
 そう考えたとき、突然頭の中がクリアになった。
 ポケットに入った物体に気づく。これはスマートフォンといって、距離の離れた誰かに電話をかけられる、電話というのは同じ端末を持つ遠くの人と会話ができるということで、つまり僕は凍月に電話をかけることができる。そして、助けを呼ぶことができる。
 ……ためらいはあった。けれど、結局僕は凍月を呼びだした。
『もしもし。真さん? また急にいなくなって。書き置きすればいいってもんじゃ――』
「たす、けてく、れ」
『……え?』
 それ以上言葉が出なかったので、地図アプリを起動し、ラインにスクリーンショットを貼った。「こ、こにいる」
 そう言い残して、通話を切った。
 会話を終えた瞬間、身体に重さを覚え、ぐったりとベンチに横たわった。凍月には申し訳ないことをしたが、限界だった。もし来なかったら。暗い予感が頭を掠める。……考えるな。今できるのは待つことだけ。

 しかしその気力もやがて空費し尽くされ、顔を覆ったまま蹲る不審者でありつづけるのも限界に達した。
 何も見たくない。もうこの目を潰してしまいたい。そうすれば――
「真さん! 大丈夫ですか!」
 意識の今際、目を開くと、覗き込む凍月。
 手近なお姉さんの古着を着た姿は、若干のちぐはぐさを容姿で無視させる着こなしだった。そんなこと考えてる場合じゃないのに。
「そんな青い顔して……。熱中症ですか? 警戒しなきゃダメです。それにただでさえ真さんは貧弱な身体なんですから。どうしようどうしよう……」
 まずい、凍月は慌てている。しかも仕方ないとはいえ状況を誤解している。
 僕からすれば、こいつが来てくれたおかげで、それだけで、助かったというのに。
「……大丈夫。もう大丈夫だから」と強調したくて立ち上がり、でもやっぱりふらついて凍月はバランスを支える。凍月の顔にはかつてなく真剣な感情が浮かんでいた。
「今の真さん、ちょっとおかしいです」
「……それは」
「何かあるなら、隠さないでほしいです」
 どうにかバレないように説明を――と考えかけて、もう、隠すことでもない気がした。だって、なぜ彼女がいると幻覚が見えないのか、原因は分からないけれど、僕の人生をこんなにも楽にしてくれたのは彼女のおかげなんだから。
 それに、一緒に暮らしていればいつか言わないといけないことなんだ。だから今が――
「凍月。今まで言っていなかったことがあるんだ」
「……えっ?」
「それをずっと僕は隠していたんだ。ごめん。でも、今言わないとって。聞いてくれる?」
 一呼吸おいて、頷きが返ってきた。
 僕は幻覚のことを話した。できるだけ嘘も誇張もなく、誠実に説明するよう努めた。
 ただ一点、その幻覚を起こした原因にだけは……深く触れなかった。触れられなかった。どうしても。人生でいちばん身近に生活している相手にさえ、喉につかえて出てこなかった。それには凍月も不自然に思ったはずだ。でも、それ以上訊いてはこなかった。
「……そんな病気を、ずっと抱えていたんですか」
「病気かは分からないけど。でも、もう一〇年も見ているから慣れたもんで……」
「だったら私を呼ぶわけないじゃないですかっ」身を乗り出される。「暗くなってからじゃないと外も歩けない……そんなにも外に出るのがつらかったのに、私は学校に行くことに疑問もなかったですし、それどころか軽々しく出かけたいとか言って……」
「それは僕がずっと隠していたせいだよ。だから、バレるようなことをして、ごめん」
「なんでそういう謝り方をするんですかっ……ひぐっ、すっ……」次第に凍月は涙目になっていった。「言ってくれたなら。私、真さんができないこと、なんだって……」
 ああ、これもまた誤解だ。
 僕にとって、凍月は隣にいてくれるだけで、十二分に役立っているというのに。
「凍月に幻覚の話をしなかったのは――お前がいると、症状が和らぐからだったんだ」
「私と、いると?」
「そう。幻が、見えなくなる。凍月が近くにいると、そんな症状は起きないんだ」
 だから自分を責めるのは間違っている――と言おうとする前に、凍月は涙声を出して僕を抱き締めた。えっ、何これ。いろいろと複雑な気持ちになるんだが。
「私がそんなことできるなんて、思ってなかったです」
「だから、泣かないでって……」
「違うんです。これは嬉し涙です。私にもできることあったんだって――」
 継ぐ言葉の代わりに、凍月は両腕に力を入れ、僕を抱く。
「絶対、離しません」
「……凍月」
「死ぬまで、私に監禁されてください。させてください」
 一見プロポーズだけどお前が殺すんだからなとは、涙に免じて突っ込まないでおいた。

 

「でも、今日は暑いですし、熱中症もあったのかもしれませんよ」
 凍月の指摘は正しかった。今は正午だけれど、随分と日差しが強い。
「どこかで休むのがいいと思うけど。図書館も近いし」
「そうですね……。で、提案があるんですが」元気を取り戻した凍月が手を上げる。「今日、これからデートしませんか?」
「デート、とは」「日付、あるいはカップルが交際を行うことです」「イツペディアどうも」「どういたしまして。イツペディアは皆様の寄付で成り立っています」「感謝風圧迫だ」
 ひとまず、いつものノリが戻ってきて安心というか。
「実はですね、図書館に通りがかったときこんなものを見つけたんです」と紙を見せられる。併設された公民館のチラシだ。そこには『プラネタリウム』と書かれていた。そういえば、公民館の建物は屋根がドーム状になっていたが、あれがプラネタリウムだったのか。
「土日で一日三回投影をしているそうで、私たち市民は二〇〇円で見られるみたいです。今はちょうど一二時なので、三〇分後の二回目の投影に間に合いますよ!」
 プラネタリウムか……。近所に住んでいたのに、まったく知らなかったな。凍月が市民と定義されるかはとりあえず置いておこう。
私見たことないんです。ちょー見たいですっ。真さんは見たことありますか?」
「……僕もないかなぁ」そもそもこの一〇年出かけなかったしね。「いいかもね。安いし、近いし、館内も涼しそう。図書館が隣だから用事もすぐ終わるし」
「決まりですね。待ってろ宇宙!」ほんと、やっぱり小学生みたいなはしゃぎようだ。
 でも、それに救われている自分がいることも、自覚している。

 

 プラネタリウムのある三階、扉の前のベンチに座ったとき、他に待っている人は誰もいなかった。それは一五分後に受付開始時間になっても変わらず、結局お客さんは僕たち二人だけになってしまった。
 心配になった僕に「夏休みになったばっかりですからね。もうちょっとすると家族連れも来るんですけど」と職員のお姉さんは笑った。「ま、今日はお二人の貸し切りということで。ラッキーですね。そして男女でいらっしゃった方への耳寄りな話なんですが」
「詳しく聞かせてください」
 凍月は急に神妙な顔をした。なんかそういう話好きそうだな。
「はい。オフレコでお願いしたいのですが、こちらのプラネタリウムを見たカップルは結ばれ……」「るんですか!」「る、という噂を流してくれた方には次回無料とさせていただきます」サクラの勧誘かよ。涙ぐましい営業努力だ。
 綺麗にオチがついたところで「じゃあ、お好きな席に座ってください。中央の投影機よりちょっと後ろがおススメです。シートも倒してくださって構わないので」とキュートなお姉さんは去っていった。
 アドバイスどおり並んで座ると、確かに背にもたれれば天球が一望できた。
 やがて開演の時刻になると、映画館のように周囲の照明が絞られた。
プラネタリウムにようこそ』
 おっ、さっきのお姉さんの声。ナレーションもやるのか。
『まずは皆で手を振って挨拶しましょう。わー』
 うわ子供を舐めているめんどくさいやつだと思ったら『お姉さん元気にありがとう。お兄さん、元気ないですねー。昨晩はしゃぎ過ぎたせいかなー?』と煽られた。おっさんかお前。『はい、もう一度』
 わー。やけくそで手を振る。
『はい、OKです』
 まさかこの調子が続くのかと恐怖したが、お姉さんはちゃんと説明役になってくれた。
『はい。今、部屋は暗いですが、天球には何も映っていませんね。私たちが街で暮らす夜と同じです。今も星を映していますが、この暗さでも光の量がまだ多いので何も見えないんですね。でも――これからお二人に、星空をプレゼントしましょう』
 言葉と同時に、周囲が完全に真っ暗になった。すると――
 真っ黒のキャンバスに、星の砂がばらまかれた。本気で、そんな比喩が浮かんだ。
「わぁ……」
 隣から零れる、感嘆の声。僕もまた、呆然と眺めていることしかできなかった。
『毎年、季節に合わせたプログラムを組んでいるのですが、今は夏バージョンでお届けしますね。さぁ、まずは今夜星を見に行く曲で話題の三角形、見つけられますか?』どっち? 『ほら、歌詞大喜利で有名なあの曲ですよ』だからどっちだ?
 お姉さんはレーザーポインターで三つの星を示してくれた。デネブ、アルタイル、ベガ。太陽のように燃えている星です、との解説。
 そのまま空に星座が投影される。はくちょう座、てんびん座、いて座。ちょっと無理がある繋げ方もなくはなかったが、それは古来の知恵ってことにしておくか。
 さそり座の紹介になったとき、お姉さんは『特別に、ある物語を教えてあげましょう』と、神話のようなものを紹介してくれた。こんな話。
『むかしむかし、ある平原にさそりが暮らしていました。さそりの尾にはおそろしい毒があります。さそりはそれを使って小さな虫を殺して細々と生きていました。
 ところがある日、さそりはいたちに見つかってしまい、食べられそうになります。必死に逃げたさそりでしたが、追いつめられたところで井戸に落ちてしまいました。井戸は深く、どうしても登ることはできず、さそりは溺れ始めます。
 そんなとき、さそりはこう思い、祈りました。「私は今までどれだけの命を奪っただろう。そして私が食べられる番になったときは、あんなに逃げた。それでもとうとうこんなことになってしまった。どうして私は自分の身体をいたちにあげなかったのだろう。そうすればいたちは一日でも長く生きられたのに。……どうか神様、もし次があるのなら、誰かの幸せのために私の身体を使ってください」と。
 ……さそりが気がつくと、いつしか自分の身体は真っ赤な炎になって、夜空の闇を照らしていたのでした』お姉さんは物語を締める。『そして、その心臓が、星座の中央にある、アンタレスという赤い星なんですねー』
 ふむふむ身につまされる話だ、と聞きながら凍月の方を見ると、横顔の目の下にかすかに水がたまっているのが見えた。泣くのをこらえているのか。変なところで純粋というか。
 そんなことを考えていたらふいに目が合ってしまった。暗闇だから気づかなかったはずが、涙の反射で光る眼を僕がじっくり見すぎていたのだ。
 凍月は照れ隠しのように笑ってみせる。
 僕は黙ったまま、視線を天球に戻した。

 

「すっごく楽しい一日でした」
 一日が終わり、帰路に凍月は満面の笑みを浮かべた。
 プラネタリウムが終わり、図書館で本を戻すついでに凍月がおすすめの小説をねだるので、何冊か選んで借りてやった。『ある島の可能性』とか『結晶世界』とか。海外文学初心者には向いていないかもしれないがイメージでSFに決めた。そう、凍月って名前の宇宙っぽさで。
「ありがとうございます。大切にしますね。神棚に飾って」読めよ。しかもちゃんと返せ。
「真さんも大切にしてくださいね、それ」
 僕は荷物入れを提げたのと反対の腕で目つきの悪いデフォルメされた猫のぬいぐるみを抱えている。名前は『ベベール』らしい。凍月が見た猫と似ていなくもない。
「私の形見だと思って存分に涙を拭ってくださいね。あ、でもアブノーマルな使用はやめてほしいです。私ならともかく劣情をぶつけられる布の塊がかわいそうです」
「九割意味不明だけどアニミズムを信奉していることは分かった」
 午後の残りはハンバーガーチェーンでチーズバーガ―を食べ、街を散策。
 この『ベベール』くん又はちゃん又はその他かは普段ならやかましくて幻覚を呼ぶので絶対寄らないゲーセンのクレーンゲームで発見した。
 凍月が気に入ったので僕が挑戦して一〇〇〇円があぶくのように消え、ところが選手交代したら一発でゲットできてしまった。健闘を称えて(?)、欲しがっていた凍月は僕にプレゼントし、渋ると「なら二人で育てるんですか? 決して意味を生まなくても」などとポエミックに認知を求められたので仕方なく受け取った。
 凍月がまだ遊びたそうだったので戦車ゲームをやった。対戦機能があったので横の筐体に乗ってバカスカと砲弾を撃ち合った。
「これどうやるんですかっ」「右のレバーで右のキャタピラ、左のレバーで左のキャタピラ」「嘘です、フェイントには乗りませんっ。いててて! 撃たないで!」
 完全にバカ試合になり、僕が負けた。
 戦利品(?)として公園の出店で大量のシロップが掛かったかき氷を買ってあげた。ついでに買い出しをし、二人で荷物をたくさんぶら下げて帰った。
 しかしこういうのがデートなのか。
「人生で、誰かと遊ぶのを経験するとは思わなかった」
「……そうでしたか」凍月がいくらか繊細に言う。「それなら……じゃあ! これから私といっぱい遊びましょう。できなかったぶん、飽きるぐらい楽しいことをしましょう」
 それが――と、凍月が笑いかける。明るいとも暗いともつかぬ、底抜けの感情で。
「いつか真さんを食べる、私にできることです」

 

 凍月が隣で眠っているのを、今度こそ眠っているのを確認すると、部屋の隅の固定電話に向かった。スマホを持っているので普段は使わない、据え付けの壁掛けプッシュホン。着信があったときだけスリープから起動する設定だ。無論履歴は皆無。
 その画面が点灯していたのに、眠るまで凍月は気づかなかった。
 着信履歴。時間は本日一五時。ちょうど僕らが出払っていた頃だ。メッセージあり。
 音量を最小にし、耳に当てて再生する。女性の声だった。
『伊澄真さん』
 ……なるほど。
『あなたがひとりでこのメッセージを聞くことを、私は確信していました』
 ……なるほどなるほど。
『あなたと同居人さんについて、お訊きしたいことがあります』
 ……なるほどなるほどなるほど。
『場所は本日二三時。場所はいちばん近いファミレス。麗しいお姉さんが待っていると店員さんに伝えてください。……ただし、刑事の、とは言っちゃダメですよ。警察はテレビで離れて観ましょう。お姉さんとのお約束。では、ロトン・デジャ』
 消去ボタンを押し、メッセージを削除。
 間違いない。こいつは、相当に曲者だ。

 

 しかし待ち合わせを伝える必要はなかった。店内に入るなり、ぶんぶん手を振る異常な女性が見えたからだ。
 席につく。
「やっほー。待ちました?」
「……おあとがよろしいようで」
 立ち上がって出て行こうとしたら「お姉さん、キミにいくら払ったのか憶えてるけどなー」とデカい声で言われ、凍り付く店内を憐れみつつ、仕方なく舞い戻った。
「お代は私が持つので、存分に年上女性に奢られてくださいね」
 向かいの席、黒髪を肩に揃えた女性はスーツを着ている以外まったく僕と同年代に見えた。高校生料金で美術館でも展望台でも通れるだろう。どうして僕の周りは年齢不詳女性ばかりなんだ。
 ナプキンをつけ、食しているのはリブステーキ。
 ナイフとフォークを置き「はい」と差し出された名刺には、『七野(ななつの) 戒子(かいこ)』とだけルビ付きで氏名が書かれていた。下に小さいハイフンで結合した数字列。その他プロフィール一切なし。
「シンボリックな名前をお持ちで」「よく言われます」「七野さんでいいですか」「略してななこさん、を推奨しております」「後ろ向きに考慮します。で、戒子さんはどなたですか」「年下男子の下の名前呼びにときめくOL、つまりオフィサーレディ」「刑事さんですね」
 沈黙。
 夜のファミレスというのはこうも静かなのか。こんな時間に初めてだったが今もやっているというだけのことになんとなく感動。真夜中、コンビニに訳もなく行きたくなるのも同じ理由かもしれない。
「どうぞ、お話を始めてください」
「あれ? 注文はいいんですか?」
 ……はぁ、と呆れる。本当に食えない相手だ。
 呼び出しボタンを押して、店員さんに「フライドポテト」とだけ告げた。
「ポテトを食べ終えたら帰るので、その間にどうぞ」
「そうですね。こんな時間に私とする話題は一つしか考えられません。何か分かりますか」
 最初の問い。「さぁ」とはぐらかした。
「猥談です」「考えろ」この人、凍月と違うタイプのボケだ。「残念です。では世間話にしましょう。知らない人との話題には三の『キ』がありますね。天気、景気」
「殺人鬼」
「ビンゴ」戒子さんは手を叩いた。「食人鬼でもいいですね。どこまでご存知ですか」
 第二の問い。「何がですか?」とは言わず、ここは「ニュースは見ました」と答えた。「詳しくは知りません。嫌でも耳に入る、って程度です」
「では、犯人は女子制服を着ていたという話もご存知ですね」
 頷いておく。こういうの、苦手だ。
「制服を着ている理由は、対象をおびき出すため。つまり曖昧三センチ」「世代がバレますよ」「で、二人きりになったところで殺す――いや、名誉のため食べると言ってあげましょう。監視カメラの映像は見たことがありますか?」
報道規制で流されていなかったので、見ていません」
「それ、私が止めたんです」衝撃の一言だったが、次の行動はその比じゃなかった。「はい。これです」
 戒子さんは横に置いた鞄からタブレットを取り出すと、映像を再生した。
 ……見た動画は二つ。被害者と建物に入っていく少女、一人で出て行く少女。マンションなので、一件目の事件だろうか。どちらも犯行の様子でないことにはさすがに安堵した。
 犯人の顔にはモザイクが掛かっている。
『顔が違うんです』
『警察は隠しているけれど、目撃者の証言も監視カメラの映像も一致していないはずです』
『……答えは、犯人が姿形を自由に変えられるからです』
 あのモザイクの下。一瞬。その顔を想像する。誰かの顔を想像してみる。
 でもそれに戒子さんは触れなかった。代わりに注目したのは、ちょっと変なポイントだ。
「私、気になりますんですが」「そんな日本語はありません」「この子、荷物を持っていますよね」そう言いつつ画面を拡大。
「女子が荷物を持たないで外出する描写をしたら作者が男だって騒がれたりしますよね」
「とはいえ、いくらなんでも女子高生が持ち歩くには大きすぎませんか?」
 手元を見ずにステーキを切る技術はどこで手に入れたのだろう。
「……急に問いかけられても、困ります」
「そして、何が入っているのでしょうか?」無視か。「これだけ大きいなら、生活必需品には余計なサイズに見えます。まさか海外旅行にでも行ってきたわけではないでしょう。ではやはり家出? しかし、こんなものを持っていたら職質してくれと自己主張しているようなものですね」
「……続けてください、なんなりと」
「ところで、ここで私の天才性が発揮されるのですが」絶対ナチュラルに言ってるよこの人。「私としては材質が気になりました」
「材質? 普通の布製に見えますけど」
「そう、布。ある程度柔らかくなければいけない理由があるのではないか――そう直感したのです。プラスチックとかだと困るようなものを入れる必要があったのです」
 さらっと断定口調にする。さすが。
「何かにぶつけたらいけないんですかね」
「私としては、むしろ内側の問題かなー、って疑ってみたいんですが」
 内側。
 その言葉で、彼女の言わんとすることが一瞬見えた気がした。……いや、でも、それこそバカミスになるぞ。まさかそんなわけ。
「中に入っている人が痛いからとかですかね」
「ご明察」
「……なるほどね」
「子供、女性、ないし小柄の男性が入れるか、監視カメラから推定したサイズのバッグで有志一同に実際に試させました」鬼だ。「ちょっと無理がありましたが、折りたたみ方を工夫すれば一六〇センチ前半程度ならギリギリ入りますね」
 一六〇センチ前半。反復しなくても自分の身長は知ってますよ。
「それ、本気で言っているんですか?」
「マジマジです。まぁ、バッグの外見が変形するので緩衝材等で対策が必要ですが……この状態にすることは不可能ではありませんでした」
 そう言って、もう一度映像をリピート再生する。大きなバッグを持った女の子。
「天才刑事さん、質問です」
「はい? スリーサイズですか?」
「不動産なら間に合ってます。いいですか、仮に人間をこのサイズに収納できたとしても、証明にはなりません。人間の身体が重いのは嫌というほどご存知でしょう。少女が運んで回るのは難しい。それにどうやって呼吸するんですか」
「それはその、女子高生パワーとかで」何のパワーだ。
「ミステリの読みすぎですよ」
「ありがとうございます」褒めてないです。「もちろんそれは十分承知しています。しかし、私たちにとっては、ミステリでいいんです。言いたいことは分かりますか?」
 見せつけるように、肉片を口に放り込む。
「実現性はいくらでもこじつけられます。犯人がどんな方法を取ったかなんて、捕まえてから探せばいい。世は大・ハードボイルド時代です」
「つまり公権力ってことですね」
「善良な市民の皆様を守る使命に燃えているので。燃え燃えきゅん」さすが暴力装置の一員、欠片も思っていないことを言える才能がある。
 戒子さんは知らぬ間に置かれたポテトを勝手に食べ始めていた。塩を振りまくって。
「さて。腹ごしらえもしたので」お前だけな。「本題に入ろうかと――」
 そう言いかけたとき、着メロと思しき甘いバラードが流れた。ポリスの『見つめていたい』。ウケる。
 人情派刑事さんはスマホを取り出すと電源ボタンを長押しし「うるせー無能ども」と呟いた。おい、ちょっと本性が見えたぞ。「失礼。田舎の両親です。で、ですね」
「何の話でしたっけ」と仕返しにコピー技ですっとぼけてみた。
「不幸な事故でした、という話です」嘘つけ。
「なんですか、急に」
「おぼろげに浮かんできたんです。あなたが巻き込まれた事故のことが」
 そんな言葉とかみ合わない満面の笑みで哀れまれてもなぁ。
「雪山、家族五人で遭難。食料も水もごくわずか。苦難は察するに余りあります。一人さえ、生存は絶望的でした」
 まるで助かったのが不自然だと言わんばかりに。
「天からパンでも降ってきたんじゃないですかね」
「あるいは、ワイン」
 視界がゆっくり冷凍されていく。
 床が、壁が、きらりと光り出す。
 この人はあの事故を、事件を、疑惑を、完全に知っている。あの時。僕が救助される前に何があったのか、知った上ですっとぼけている。
 ……そりゃ、疑いますわな。
「憶えていませんね」
「そうですか。まぁ、私も無神経でしたね」
 僕の反応はさほど気にしていないようだった。あるいは、僕がポーカーフェイスを守れているのか。
「脱線しました。……私の説が正しければ、犯人は二人。片方は女子。もう片方は仮に男子ということにしておきましょう。彼女が囮として男性を誘い出し、そしてもう一人が被害者のもとに侵入、殺害、二人のどちらかが食べた。ですから私は二人組、カップルに絞ろうと思いました」
「それは賭けじゃないですか。二人、しかも男女だと断定できる情報はない」
「常人では考えつかない、天才のなせる技ですね」それ、思いつきってことだよね。「ところで少年、最近辞めるまで、年齢を偽って夜勤をしていましたよね」
 あーあ。バレちゃった。
「大丈夫大丈夫。それぐらいの非行、お姉さんの国家権力でもみ消せます」
 問題発言が飛び出した。
「でも、不思議なんですよね。あなたはそこまでして働く理由がなかったはず。両親は亡くなられましたが、親戚の方が親切にも仕送りをしてくださっているようです。なのに自分から勤労に励む、涙ぐましい自己責任です」
「いいじゃないですか、新自由主義男子」
「思想と野球の話はしないでおきましょう。しかしプロテスタントやマゾでもない限り、お金を稼ぐということにはお金が必要なことと等しいと思っています。つまり、あなたにはお金が必要だった時期がある。まるで誰かを養いでもすると言わんばかりに。……では、なぜ辞めたのか。それも、毎週起きていた事件がピタリと止む前後に。……ところで、腐り果ててもギリギリ法治国家。街の目も厳しくなり、警察も愚かではないと――いや九割九分は愚かですがこの国には私という天才美少女刑事がいるので――誰かさんも慌てているかもしれませんね」
 ……あ、この人ミスった。めっちゃ自信満々に間違えてワロタ。
 いや、そうなのか? でもこれは完全に深読みだ。僕が働いているのは幻覚を見ないためだった。凍月とは関係ない。
 ましてや、仕事を突き止めたのまでは大したものだが(媛先生が口を割るとは思えないので尾行だろうか、やられた。ただ口ぶりでは凍月までは見つかっていないようなのが幸いか)、それを辞めた経緯まではこの人は気づいていない。その上で、凍月が転がりこんだのをもっと前からだと思いこみ、バイトを辞めた理由を捜査逃れと勘違いし、経済的に追いつめたと考えている。
 超天才美少女刑事さん、やっぱりミステリの読みすぎですよ、とは言わない。
 でもそれで有利になるかと言われれば……逆だよなぁ。
「さて、私は井戸端的好奇心でアパートに突撃し、大家さんにも話を伺いました」
「今時の刑事さんはストーカーも兼業するんですね」
「ストーカーがこんな顔のいい女の子なんて、一人前の主人公ですね」本気で言ってるんだろうな、この人。「しかしジャンルはラブコメではなくホラーです。実はですね、怪現象を見つけてしまいました。あなたが学校で不在の間に、水道のメーターが回っていたんです」
「……へぇ」
「もしあなたに心当たりがなければ、幽霊かストーカー二号さんの仕業になってしまいます。妬いちゃいますね」うるせぇよ。「弟なんて言い張らなくていいんですよ。高校生の交際は自由です。……で」
 僕と、その同棲相手が。
 犯人だと。
 それが、あなたの答えですか。
「これ以上、語る必要はありませんかね」「ええ」
 最後の一口を終え、首元のナプキンを取り、優雅に畳んで。
「ということで、私、真さんの四号に立候補できますか」
「……バッターボックスの方がお似合いですよ」
 僕たちは会計に向かった。

 

 ドアを押し店を出る。結局ポテトは戒子さんが全部食べてしまった。無銭無食だ……。
「良心が痛んだら電話してください。次はカツ丼でないといいですね」
 あれって自費なのか確かめればよかったと思う頃には、戒子さんは去っていた。残されたのは、生ぬるい夜風と息の詰まる自分。
 ……しばらくは、何も食べたくないな。
 たった今も、すべての元凶のくせ、何も知らない少女は、深く眠っているだろう。
 帰ろう、と思った。

 

7 ぼくらのからだはひとつの海

 

 日曜朝。食事を終えた凍月は、僕が勧めた本を開きながら「真さんの病気ですけど」と訊いてきた。やっぱりそこ気になるか。
「一〇年前から見えているってことは、物心ついたころからずっと、それを避ける生活をしてたんですよね。だとしたら……」
 ああ、そういうことね。
「そんなことも知らないで、変な生活だなぁって思って、ごめんなさい」
「気にしないでいいよ。引きこもりは性に合ってるから、そんなに苦じゃない」
「それは知ってます」お前反省してるのか?「でも……陽の出てるうちは外を出歩けないなんて、不自由じゃないわけないです」
 改めて言われると、確かにそうかもしれない。
 ……でも、それならば、凍月にはむしろこっちが感謝したいぐらいなのだ。
「言ったけど、凍月が来てから見えなくなってるんだから、悪いなんて思わなくていいよ」
「そういやそうでした。感謝してほしいですね、えっへん」反応が極端すぎる。「私が言いたいのは、だからですね……真さんを、いろんなところに連れていってあげたいんです」
「って言っても、そんなに行きたいところなんてないけどなぁ」
「でも、今まで遠くに行ったことないんですよね? ぜったい楽しいですよ、保証します」
「でも凍月だって、そんなに出かけたことないでしょ」
「そうです。私もこの街の外をほとんど知りません。だから楽しいに決まってます」
 ものすごい論理だ。っていうか、自分が楽しみなだけだろうなぁ。
 まぁ、それも悪くないかも。そういうの、僕にはないものだから。
「なんならこれから行きましょうよ」と凍月は誘う。「まだ日曜も始まったばかりですし」
「……めんどくさ」
「そんなこと言ってると一生行かないですよ」
「いいじゃん。グーグルマップで時間潰すのも楽しいよ」
「ザ・ぼっち趣味だ……」トラベルプランニングなめんな。めっちゃ楽しいからな?
 しかし凍月は本気のようで、結局次の一言で、僕も折れてしまうことになる。
「お供しますよ、この世の果てまで」

 

 とはいえ果ては果てでも、日帰りでは電車で三時間半が限界だった。まぁ、海まで行けばどこでも陸地の果てだと言えなくはないよね。
 一八歳、本当は春休みに運転免許を取ったのだが、自分の技術に自信がなかったので凍月には言わないでおいた。レンタカーとかも面倒くさそうだし。
 着の身着のままたどり着いたのは東の端の海街。
 ローカル線に乗り(車掌さんから車内で切符を買うなんて初めてだった)、ホームに降り立った僕たちを待っていたのは、木造の駅舎、むせかえる日差しの熱気、無人の待合室には風鈴の音、黒板手書きの運賃表、二元号前の看板やポスター。もうすこし気温を概念化してくれればいい感じにノスタルジックなんだけど。
「あっつ……真さん幻覚召喚して涼しくしてくださいよ」結界ちゃうぞ。「誰がこんなとこ来たいって言い出したんですか」お前だよ。
 しかしこの暑さ、なんとなく検索した程度で行ってしまったのは間違いだったかも。
 とりあえず駅を離れる。ワンピース姿の凍月は僕の一歩前をすいすいと進んでいく。これに麦わら帽子がつけば立派な夏の魔物少女だったかもしれないが、残念ながらアパートには某球団の野球帽しかなく、銀髪とまったく不釣り合いに見えた。
 ちっとも車の通らない車道の真ん中を歩いてみる。道路には草むら、畑、自然に呑まれる廃屋、無骨な団地。振り返ればかげろうに逃げ水。白昼夢のようだ。
 まもなく言葉も尽き、直進するだけなので迷いようもなく、黙々と歩くだけになる。景色は変わらず、空間が歪んで無限ループしているのではと疑いたくなる。
 しかしそれも、いつかは終わる、
 灯台横の海岸に出て、目の前に青い水たまりが開けると、凍月が「海……!」と叫んだ。それはもう、それまで暑さにぐったりしていたのが嘘のような勢いだった。
「見てください! ほんとに海です! めっちゃ海です!」
 めっちゃ海ってどういう海だよと思ったが、はしゃぎたくなる気持ちも分からなくはない。僕だってちょっと違う意味だけど内心は驚いていた。……もし海を肉眼で見るとしたら、氷河で凍りついたようにしか見えないと思っていたから。
 夏の海は水平線まで光をたたえ、抽象画みたいに一本の線で二つの青を境界づけている。
「おーい、真さん。そこで突っ立ってても暑いだけですよ。ほら、早く行きましょ」
 促され、足を止めていたことに気づく。そうだ。灯台に行かなくちゃ。
 ……今朝はこんなところに来るなんて、思ってもみなかったな。

 

 灯台は観光名所らしく、車と人で賑わっていた。売店、料理屋、ホテルと、いろいろな手段でお金を落としてもらおうと躍起になっているようだ。
 観覧料を払うと灯台を登ることもできるらしいので「行く?」と訊いたが「ここで満足です」と言われたので、周りを囲っている遊歩道を歩いた。木も葉も岩も海も、すべてが鮮やかで、色調をきつくしたフィルム映像のようだった。頭がくらくらと酔う。
 くしゅん、と凍月はくしゃみをした。慌てて涙目を拭う。
「なんか、しょっぱい香りがします」
「海だからね」
「そういえば、しょっぱいといえば、涙もですよね。なんでだろう」
「人間が海にいたころの名残だって小説で読んだことがある」
 本当かは知らんけど、適当に喋ってみる。
「『ぞっとする』とか『むずむずする』とか、人間の感情って体表の感覚と結びついてるでしょ? 粘膜というか。それは陸地に上がった人間が、空気から海を保存しようとする本能」
「さすが真さん、難しくてエモえっちぃですね」お前の発想がさすがだよ。「……だとしたら、涙も海なんでしょうか。ひょっとしたら、世界でいちばん小さい海」
「凍月の方が詩的だね」
「ロマンチストなんです。人食いロマンチスト」
 そんなどうでもいいことを話しながら灯台を一周すると、ふもとの砂浜まで歩いた。

 

 そのまま駅に戻ったが、一時間に一本なので、近くのアットホームな喫茶店に退避。
 地元のおばあちゃん二人が世間話をしている横で、ハンバーガー、焼きそばなどを注文し、昼食にした。凍月はついでにちゃっかりクリームソーダもねだり、写真を撮った。
「なんでみんな喫茶店に行くと緑色の液体を頼むの?」
 デビュー曲がクリームソーダって名前のバンドもいるし。そこまでおいしいかなぁ。
「ノルマ達成です」
「舌が緑色になりそうだけどね」
「真さん、東京が沈むファンタジーに『天気って科学現象だし』って言いそうです」
 無礼極まる発言だったが、確かに言うかもしれない。
 東京が凍りつくなら別だけど。

 

 帰りの電車、凍月は僕に肩を預けてうとうとし始めた。子供か、と言いたかったけれど、さすがにこちらも疲れた。お互いこんなに出かけるのは初めてだし。
「真さん」三割ほど夢うつつの様子で呟く。「幻、見えませんでしたか?」
 頷く。嘘ではなく、幻覚は現れなかった。
「そっちこそ、人間らしいことをした感想は?」
 軽く言ってみたところ、思いのほか真面目に凍月は考えて、言った。
「デートって、こんな感じなんですね」
 答えないでいると、「……もう」と言い残し、そのまま眠ってしまった。

 

 家に帰るまでが遠足とはよく言ったもので、確かに旅路は帰りがいちばんハードだ。目を覚ました凍月は空元気なほどリフレッシュしていたけれど、隣によりかかられて眠れなかった僕はくたくたで、これは家に入った瞬間気絶するとさえ思った。しなかったけど。
 玄関に入りかけたところで、凍月が僕を呼び止めて、言った。
「帰ってきたんですから、ちゃんと挨拶しましょう」
「……なんでまた」
「同棲始まって一週間ですよ。カップルならどこまで行ってると思いますか」食人趣味の人と同棲するなら先に進まないでほしいものだけれど。
「ほら、言ってくださいよ。ただい――」
 言い終えることはなかった。
 突然、凍月はその場に崩れ落ちた。
「凍月! おい!」
 呼びかけても反応はない。まるで一瞬のうち魂が抜け去ったようだった。
 それから丸三日、凍月は死んだように目を覚まさなかった。

 

8 凍

 

 何も起きないとき、人生はただ待つという行為に等しくなる。
 倒れた凍月をベッドに運び込んでから、僕は彼女が目覚めるのを待った。他にできることはなかった。人間と同じつくりになっているかも分からない奴なのだ。
 脈を測る。動きはある。かすかに呼吸もしている。しかし悪いことに、時が経つにつれ凍月は目に見えて衰弱をし始めた。顔色は悪くなり、それは出会ったときの姿にどんどん接近しているようだった。何か食べさせた方がいいのかとお粥を作ってみたが、意識のない人間に流し込んで窒息させる危険に思い当たり、食べさせられなかった。彼女の言葉を信じるならば、普通の食事に大きな意味がないとはいえ。
 混乱してはいなかった。感情はほとんど抱かなかった。助けないと約束したからだ。
 ただ、意識のない凍月の表情が、美しく感じられる瞬間もあった。
 どこか遠い国の教会の地下で亡くなった人間のミイラが展示されている映像を見たことがある。今の状況は、近い感慨を抱かせるものだった。
 解剖台に乗っている姿も連想した。
 食べてみたいと思ってみた。
 もちろん思ってみただけのことだ。

 

 三日目の昼、目を覚ます瞬間はあっけなく訪れた。
 僕の見ている前でゆっくりと口が開き、いよいよ死の徴候かと身構えたが「っ……あ、あ」と意味もなく声帯が震え、やがて目が開かれ、人間という機械が起動した。
「……あれ、真さん。私、眠ってたんですかね」
 ほんの数分間意識が飛んでうたた寝していたとでも言わんばかりの言葉だった。
 帰宅早々に倒れてそれからずっと意識を失っていたことを話すと「ああ……そうだったんですね」と答えた。その妙に納得しているような調子が引っかかった。
「何か、具合が悪くなることでもあったんじゃないのか」
「……そんな、大したことじゃないです。ただちょっと疲れていただけで……真さん、心配なんてガラじゃないですよ。ほら、凍月ちゃんはこんなに元気で――」
 そう言って起き上がろうとして、全身の力が抜けたように凍月はまた倒れた。
「いてて……もう歳ですかねぇ。あはは」
 どう繕おうとも、限界だった。
 だから僕はそのことを言った。
「凍月。ひょっとして、本当は一人も、」
「バレちゃいましたか」
 そうですよ、と凍月はあっさり認めた。
「私、犯人じゃないです。嘘をつきました。……いつ気づいたんですか?」
 とっくのとうに。
「たった今」
「そうですか。勘がいいです」と凍月はぼやいた。自分が与えたヒントに気づかずに。
 プールサイドで見た手首の傷。
 凍月の言ったことがすべて真実だと仮定して、僕の指の怪我を一瞬で治せたなら、なぜ出会って数日経ち、人間としての腹を満たしても、自分の身体から傷を消せなかったのだろう?
 そんな自然治癒の遅さへの疑問が、何かへの違和感を教えてくれた。
 しかし察していてもどうしようもなかったので黙っていたし、今もすっとぼけておく。
「誰かさんが起こしている事件に乗って脅しただけです。種明かしするとあっけないですね。やっと無理しなくて済むけど」
「本当に犯人は分からないの?」
「ええ。こちらからはさっぱり。私がやっていると考えた方がよっぽど自然だし、初めてこの街にいるのに気づいたときのように、殺した記憶がないだけかもしれないとは疑っているんですけど。もしそうでも、私は驚きません。というか、自分が犯人だと納得させるために、ナイフも手錠も手に入れたのかもしれないです。護身用も兼ねてますけど」
 そうして凍月は、目覚めたときの話を始めた。
「不思議なものです。最初から、私は人間を食べないと死ぬことを理解していました。これは伝わらないと思いますが、自分が存在している時点で、そういうふうにできていることが分かるんですよね。電車はレールの上を走っていることに驚かない。船は海に浮かんでいることに怯えない。それと同じです」
 生まれた瞬間から決定づけられていたこと。それは決して特別な話ではないと思う。どんな人間も酸素を吸って吐き食べ排泄する。構造として、機能を伴って、ただそうなっている。それが彼女の場合、人を食べるということだっただけ。
 では、なぜ凍月はそれを受け入れなかったのか? 誰も食べなかったのか?
 そう問うと、凍月は困ったように「たぶん、食べる対象として見るには私は人間が好きすぎるんだと思います」と笑った。「無人島にペットと漂着して極限まで飢えても、私は食べられないタイプの人間です、きっと」
 これまで僕は、そんな人間はいないと思っていた。いや、経験的に知っていた。そのように綺麗ごとを吐いていても、自分が追い込まれれば哀れにも生き延びようとするのが生物なのだと確信していた。
 しかし、今この言葉は、嘘ではないような気がした。なんとなくだけれど。
「まぁ、好きというわりにはそんなに交流したことはなかったんですけどね。人の家に泊めてもらうのも本当は初めてでした。それにしてはうまく演技できたと思いますかね?」
「たぶん、上手いほうだと思うよ」
「そうですか。だとしたら、それはきっと人間に興味が薄いからだと思いますね。矛盾して聞こえますかね? ……好きだけど、自分から積極的に仲良くしようとは思わないんです。触れられない、まったく違うものだから、好感を覚える。冷淡な好意」
 それならば、あの時『自己防衛』と呼んだのは、案外本音が出たのかもしれない。
「だからこそ、真さんと関わっているうちに、自分で自分に驚いたんですけどね。普段とは別種の意味で、食べたくなくなっちゃいました」
「それはどうも、助かる」
「……ふふ、こんなときも、真さんは変わりませんね」どれだけ弱っても、笑顔を崩そうとしない。「何ヶ月か前に目覚めて、それから一人も食べていないので、いつまで持つかは分からないです。感覚的に、だんだんまずいことになっているのは感じますけど」
 だとしたら、今まで忘れかけていた取引が、緊急の課題になってくる。
「どうしても、僕を食べたくない?」
「ええ。死ぬかどうかは究極の選択です」そこまで言ってもらえるのは嬉しいというか、僕の命におこがましいというか。「だから、なんとかして方法があればいいんですが……」
 さて、どうするか。
 実を言えば、一枚だけ、隠しているカードがあった。しかしそれはできるだけ使いたくない。できれば最後の非常手段にしておきたかった。
 だが、今この瞬間にも、凍月は死に近づいている。
 与えるか、奪うのか。見捨てるか、見捨てないか。決断が近づいていた。
「凍月」決心して、口火を切る。「ひとつ、可能性があるんだが――」
 言いかけた瞬間、玄関からチャイムが鳴った。
「誰ですかね」警戒して、顔を見合わせる。「思い当たりますか」
「さぁ……」
 普段誰も来ないのに、こんな時に限り用事のある人間がいるとは思えないが、しかし。
「警察、ということはある」
 その一言で、凍月の表情がこわばるのが分かる。
「たとえ犯人じゃなくても、疑われているかもしれない」本当はかもしれないどころではないのだが、そこはぼかしておいた。「様子を見てくるよ」
「私も行きます」
「何言ってるんだよ。隠れた方がいいぐらいなのに」
「真さんじゃ戦力になりません」
 壁に手をついて「いたた……」と言いながら凍月は立ち上がる。手にはもうナイフ。
「真さんだけ足音を立ててください。私は先に行きます。合図で、呼びかけて」
 そう言って、すり足で廊下に向かう。緊張ゆえか、足取りは健康な頃に戻っていた。従って僕も歩き出す。
 ドアの壁まで寄ると、もう一度チャイム。逃がすつもりはなさそうだ。
 手を上げて、合図。応じて呼びかける。
「どちらさまですか」
 アパートのドアは薄い。ここからでも声は届くだろう。
 ……短い沈黙のあとで、ついに声がした。
「伊澄くんですか? 補習の件で、呼び出しがかかってて――」
 弓良さん。
 ドア越しでも間違いない。聞き違えようがなかった。
 しかし武者震いのせいか、瞬間、凍月は憑りつかれたようにノブに手をかけていた。
「凍月やめろ! 怪しいやつじゃない――」
 だが間に合わなかった。凍月はそのまま飛び出し、そのままナイフを突き出して、
 咄嗟に向こうが避けた。
 そして、凍月に飛びつく。揉み合いになって、玄関にもつれ込んで、ついに凍月は突き飛ばされ、倒れた。そして――
「いずみくん」弓良さんは言った。「わたし、人を殺したんだ」
 弓良さんは、拳銃を手に、凍月に銃口を向けながら、そう僕に言った。

 

9 醜いやつらを皆殺し

 

 弓良扇への虐待は、ある意味で生まれた瞬間から始まっていた。
 この街の名家である某家の三世代が暮らす閉鎖的な屋敷、彼女は当主が使用人を姦通して生まれた存在だったため、最初から誰かに蔑まれる理由があった。
 まだ一〇代だった母親は彼女を生んだ直後に首を吊った。生物学上の親が人間として扱われなかったのだから、娘もそうして然るべきだというのが一族の見解だった。
 こうして本家の人間は彼女を奴隷とみなし、あらゆる暴力を向けた。毎日のように犯され、嬲られるうちに、このまま行けば母親と同じ運命が待っているのだと、彼女は確信して疑わなかった。どうすればこの状況を壊せるか考えた。四六時中考えた。
 一八年目、彼女は復讐を成し遂げた。

 

 「……二人とも、ごめん。自分でカタをつけたかったのに、最後に会いたくなっちゃって」
 銃を下ろした弓良さんは、僕に会いたくてここにやって来たことを説明した。本当ならすべてが終わった後には自分も死ぬつもりだったが、補習の伝言を思い出したのがきっかけだったと。律儀というか、この人らしいというか。
「それに、死ぬのが怖くなっちゃったから」と弓良さんは自嘲した。「でも、きっと捕まれば、それはそれで二度と会えなくなるし。死刑かな? 少年法って中学生までだよね」
「そんなに殺したの?」
 弓良さんは指を折って数え始めた。
「えーっと、おじいちゃんおばあちゃんと、当主のお父さんと今結婚してるお母さん、おじさんおばさん、これで六。でその子供、いとこのお姉ちゃん一人とお兄さん二人。執事さん夫婦で二。これで一一かな? あ、あと運転手で一二。すごい。ぴったり一ダースだ。……あれ、死刑って二人以上? だとしたら六倍も殺してるじゃん。ヤバすぎ」「死刑も六倍になるね」「クアドラブル……? いや、ヘキサなんとか死刑ってこと? やだなー、六回も首絞められるの」「電気椅子なら電流を六倍にすればよさそうだけど」「六倍もビリビリするのもなぁ。骨とか外から見えそうで恥ずかしいよー」
「……二人っていつもこんな感じで話すんですか?」
 すごい、凍月がちょっと引いているぞ。
「ほんと、真さんと仲いいんですね、ほんっっっとに」
 あれ? 機嫌悪い? と思ったら、弓良さんもなんとなく刺々しい目。
「それにしても『真さん』ってすごい呼び方だね。本妻面っていうか。でも親戚だったっけ。ふぅん、ずいぶんイノセントにインセストなんだね」
「そっちこそ突然現れて何ですか? 愛人アピールですか? まぁ、真さんに現地の女がいるぐらい許しますが、郷に入っては郷に従ってほしいです」
 ……訳が分からないが、相性が良くないみたいだ。
「二人とも、とりあえず落ち着こう」と仲裁に入ったら「伊澄くんに発言権はない」「真さんは黙ってて」と挟み撃ちにされてしまった。挟むつもりが挟まれた、なんつって。
 ……締まりがなくなってしまったが、とりあえず弓良さんに訊かないといけない。
「まだニュースになってないけど、本当に殺したんだよね?」
「そうだよ。確かに、これで」
 手元の拳銃。九ミリのオートマチック。カートリッジの銃弾まで見せてもらった。一ダースは人を殺しておいてまだ弾があるのだから、もっと持っているのだろう。
「どうやって手に入れたのか、訊いていいかな」
「えーっと、それは恥ずかしいんだけど……あれは先月か。死のうと思ってたんだ。首を吊る木を探して、うちの裏山の中をさ迷ってて、でもなかなか決心できなくて。いざ決めて、枝にロープを張って首を吊ったら、枝は折れて、そのまま頭打っちゃって。で――目が覚めたら、死体を見つけたんだ。なんか……スパイ? みたいな変な格好で、服を漁ったら銃と弾をいっぱい持っていた。見たくないものも見ちゃったけど……」
「死体、何かおかしなところがあった?」
「うん。胸から下が、何かにかじられたみたいにごっそりなくなってた。で、怖くなって。銃だけ持って逃げた」
 ……ここでも、食人鬼の陰か。
「まぁ、それは置いておいて。銃を見て、死ぬのを思いとどまったんだ。これなら、仕返しできるかもしれないって。思い立ってからは早かったよ。周りを伺っても人の気配はなかったし、そのまま持ち帰った。で、しばらくは様子を見てたんだけど、今まで従順だったぶん、ちょっと態度に出てたのかな。学校、休んだでしょ? ――あのとき、『反抗的だ』って閉じ込められて。今まででいちばんひどいことされて、頭の中が真っ白になって、それで、落ち着いたら、全部終わってた」
 なるほど。だから試験に来られなかったのか。
 遺体の件は当然気になるところだが、それは本筋とは関係ないか。
「殺した家族の方の遺体はどうしたの?」
「ああ、それは全部裏山に埋めた。さっき言ったとこ。一族の所有地で、めちゃくちゃ広いし、しばらくは見つからないはず。人と滅多に仲良くしない家族だったから、一週間ぐらいはバレないと思う」
 そこまで話し終えて、ようやく凍月が口を挟んだ。
「それで、あなたはこれからどうするんですか?」
「さぁね」
 引きつった笑い。平静を装っているが、やはり普段の彼女ではないことが伺える。
「自殺するか捕まるか、どうしよっか。だから言ったでしょ、お別れに来ただけ――」
「嘘ですね」
 しかし凍月は言い放った。
「真さんに助けを呼びに来た。そうじゃないですか?」
「……何を言ってるのかな」
「私がいなければ、真さんに助けを乞うたはずです。私という女がいなかったら」
 睨み合い。僕は言葉を失ってしまった。なにこの修羅場?
「……自分を買いかぶりすぎじゃない?」
「だったら今すぐ帰ってそこらへんで銃口でも一人しゃぶって死んでください」
 辛辣で、野卑な挑発。
 弓良さんは一瞬ぽかんとしたが、意味を理解した瞬間、銃口を凍月の鼻先に向けた。だが、凍月は怯まない。
「どうぞ、撃ってください。私を殺して真さんと愛の逃避行でも行っていいです。そして、男に泣きつかないと復讐ひとつできない馬鹿女なのを証明してくだされば」
 引鉄の指が、震えている。あとほんの少し後ろに引けば、目の前で凍月の顔は吹き飛ぶ。そこまでのダメージを受けて彼女が再生できるのか、僕はまだ知らない。
 はぁ、潮時か。私のために争わないで的戦闘能力なしヒロインとして物申すぞ。
「……ヤンデレ殺人容疑者×二に愛されすぎて眠れない音声作品、次のトラックでルート分岐」「……は?」「クラウドファンディングでハーレムボートラを付け、賛否両論に」
 二人の脱力した表情に、一安心。
「……なんでこんな奴、好きになったんだろ」
「ほんとそれ。めっちゃ分かります」
 共感意識が芽生えちゃったよ。
「凍月のやり方は極端だけど、ようは、助けてほしいなら協力できるって誘導したかったんだよね? ただし、ある条件を呑んでくれれば――合ってる?」
 そう訊くと、凍月は「……分かってるなら早く止めてくださいよ」と口を尖らせた。
「条件、って」
「僕たちに遺体を渡してほしい。――正確に言うと、おすそ分けしてほしい」
 いよいよ本気で、弓良さんは目を丸くした。

 

 凍月が自分を撃たせて人外証明をするつもりなのは読めていたので、なんとかして避けることができたはいいものの、自傷なしで信じてもらえるか不安はあった。
 しかし、弓良さんは説明を聞き終えて「……そうなんだ」と呑み込んでくれた。
「思ったより、驚かないんですね」
「……信じられない事件がいっぱい起きているし、私も起こしたし……もう驚けないよ」
 まぁ、受け入れてくれるならいいんだけど。
「で、私が殺した遺体を食べさせてほしい、その代わりに事件を食人鬼に押しつけられる――って理解でいいんだよね」
 凍月は頷いた。なるほど、確かに上手い取引だ。僕たちは人を殺さずに食料を手に入れられるし、(凍月がここまで考えているかは分からないが)これまでと違うパターンの事件になるので、変人刑事さんの僕たちへの嫌疑も再考を余儀なくされるだろう。
「一応訊くけど、本当に君が犯人じゃないんだよね?」
「んー、たぶんです」
「……深入りしないでおくよ」
 さて、あとは本人次第だ。
 手元の凶器を見つめ、弓良さんは何かを考えたようだった。
 そして言った。
「……二人とも、助けてほしい」
「やっと、言えましたね」
 凍月は初めて、弓良さんに向かって微笑んだ。

 

 目立たないよう、陽が沈んでから行動を始めた。
 街道を逸れ、某家所有の土地への道に入る。暗い二車線の車道で、車通りは滅多にない。こんな場所があったなんて、暮らしていて気づきもしなかった。
 足下をかすかに照らす街灯が長い間隔で立っているほかは光もなく、暗色の服を選んで着替えると、闇に紛れることができた。聞こえるのは鈴虫の声、それだけ。
 やがて目の前に林が現れる。道と隔てているのは、錆びた低いガードレールだけ。
「こっち」
 それを乗り越えて、弓良さんが手招く。
「迷わない?」
「広いし、暗いけど、ひどい目に遭ったらよくここに逃げてきたから、慣れてる」
 あまりにもヘビーな自負だった。
 しかし確かに足取りに迷いはなかったので、こちらも信じるしかない。石なのか木なのか、彼女なりの目印はあるようで、ときどき立ち止まってスマホのライトで地面を照らすと、方向を決めて進んでいく。
 夏だというのに、林の中はおそろしく涼しく、寒気がした。なのに汗は止まらない。
 ……どれだけ歩いただろう。弓良さんは足を止めた。
 そこはすこし開けた場所で、枝葉で空も見えないほどだった頭の上に夜空が広がった。地面には草もなく、剥き出しの土に白い線が何本か引いてあった。建設予定地だろうか?
 一歩進もうとして「気をつけて」と弓良さんが止める。
「ここ、あいつらが悪さのために何かを建てようと取っておいた場所なんだ。でも、地盤が不安定みたいで諦めたっぽいんだよね。で、ほら、あそこ」
 指さした暗闇、林のある窪んだ場所、木々に紛れるように黒い影がある。目が慣れてきたのか、見つめると輪郭が見えるようになった。……ショベルカーだ。傍の通れる幅のスペースも含め、巧妙に隠されている。
「重機で掘り返したの。で、上からビニールシートを張って、土をかけて、隠せばできあがり。この街であいつらに逆らえる奴なんていないから、タイヤの痕を見つけても怖がって近寄らない。……落ちないように、私の後ろから離れないで」
 言葉に従い、慎重に歩いていく。
 そして、ある場所で、ついに弓良さんが立ち止まった。
「この下。持ってくるの、死ぬほど大変だったよ」
 全員が息を呑む。ここに、一二の亡骸が。
 弓良さんは一度深呼吸をして、それから「行くよ」と言い、屈んだ。そして、ブルーシートの端を掘り起こし、僕に見せる。それからゆっくりと離れ、また反対の端を見つける。
「手伝って」
「分かった。ここ、持てばいい?」
「うん。私が向こうからシートをめくるから、伊澄くんはそっちからバランスを取って。落ちないように、いつきちゃんは気をつけてあげて」
 凍月も応じて、その場に膝立ちをする。さすがに緊張している声だ。
 二人で確認すると、準備ができたのを知らせる。
「それじゃ――行くよ」
 そして、ゆっくりと地面は捲られ――真っ暗な洞が現れた。どれくらいの深さなのか、中は見えない。地球の裏まで続いていると言われても疑わないほどだ。
「待って、今ライト点けるから」
 弓良さんがスマホで光を当てて、中を照らす。ぼんやりと浮かび上がる、闇の奥――
 遺体と思しき、ビニールシートにガムテープで巻かれた縦長の物体が、隅に現れた。
「……どうして」
 なのに、弓良さんはそう呟いた。
 僕たちも異常に気づく。
 大きな穴の中、遺体はそのひとつだけだった。

 

「なんで……嘘……嘘……」
 うつろな声のまま、照明を震えさせて、弓良さんは穴に近づく。
「弓良さん! 危ない! 落ちる!」
 呼びかけたが、聞こえていない。そのまま足を踏み外し、弓良さんは滑り落ちる。慌てて僕たちも穴に降りた。上から見るよりずっと深く、ぶつけた脚が嫌な痛みを発した。
 這いつくばって、弓良さんは遺体に近寄る。
 そして、ビニールに手をかけ強引に引き剥がす。荒い息で、憑りつかれたように乱暴に。
 中に人間の身体があった。
 身体を食いちぎられた少女の遺体だった。
 首にはロープで絞められた傷痕があった。
 その顔は、弓良さんと同じ姿をしていた。

 

 食べられた弓良さんの死体。縊死した弓良さんの死体。それを見つめている弓良さん。
「くっ、ふふ」
 痙攣のような震え。それが笑いだったことに、最初は気がつかなかった。
「あははははは! そうだったんだ! 私、あのとき死んでたんだ! じゃあ、私は誰? もう私は私じゃないの? 私、私――あ、そっか」
 その目。その声。その笑顔。
 弓良さんは何かに気づいた。
「……私、人食いだったんだ」
 人食いは顔を変える。
 彼女が首を吊ったのは先月。事件が起きたのも先月。
 弓良さんは、眠っても疲れが取れないと言っていた。事件が起きるのは深夜。
 多重人格? いや――乗っ取り。入れ替わり。
「やっと、気づいたか」
 弓良さんは言った。いや、弓良さんの身体が言った。きょとんとした顔。自分で言った言葉が、信じられないという顔。それを無視して、そいつは喋る。
「オレに普段気づかれないように、食う時に人格もコピーして残してあげたんだけど、もういらないよな。消えてもらうよ。ま、最初からお前は死んでるけどね」
 瞬間、恐怖に弓良さんの顔が歪んだ。
「やだ、やめて、こないで、わたし、たすけて、たすけて、なにもみえないよ、いずみくんどこ、いずみくんたすけて、いずみくんいずみくんいずみくん……」
 助けを求める、呪詛のような声。やがてそれは金切り声の錯乱に変わっていく。
 僕も凍月も、呆然と見ていることしかできない。
 その末に、絶叫。
「――いやあああああああ!」
 それを最後に、完全な虚無が弓良さんの顔に現れ――邪悪に口元が歪んだ。ようやく僕たちの存在に意識が向いたようだ。
「……で、そこの二人、まだちゃんと挨拶してなかったな。どうも、人食いでーす」
「弓良さんは」
「いま消したよ。まだちょっと混ざってるかもしれないけど。かわいそーに、最後まで男の名前呼んでたね。ばいばーい」
「……あなたが、事件を起こしていたんですね」
「んー、そうだよ。同類ちゃん」凍月に向かって笑う。「オレ以外にもうひとつ、逃げたのは最初から感じてたけど、見つけたときはマジで匂ったよね。オレと同じだって」
「私に気づいていたんですね」
「そーそー。男の家に転がり込んだのまでは知ってたが、まさかガッコにノコノコ出てくるとは思わんかったよ、チョーハツかと思った」
 あの時、弓良さんは『一緒に住んでいるなんて』と確かに言った。
 あの頃には、とうに成り代わっていたのだ。
「さんざん逃げたのにまた襲われてさ。こりゃないわ、ヒトを食うには入れ替わった方がええと思ったとき、目の前で死んでる奴がいた。で、食ってみたらわりと気に入って使えたんだ。五人食っても見つからない。こいつは殺した記憶がないから、人食いとして使うモノは持ち運びしないといけなかったけどな」
 それが、大きな荷物を持ち運んでいた理由か。
「しばらくはいい目くらましになったよ。……最後に酷い目にあったけどね。まさかあんなアブノーマルな家だとは思わんでしょ。普段はマズイとこ残すけど、ムカついて全部食っちまったわ。ゲーって感じ」
 そのゴタゴタがあったから、外でヒトを食わなかった。だから事件が止んだ。ちょうど凍月がうちに来たのと偶然一致していたというわけか。「……『逃げた』って、誰からですか」
「はぁ? オマエそんなことも分からないの? なんも知らないんだな。それとも途中で頭パァになったか。それでよく生きてきたな」
「意味が分かりません」
「教えてやる義理もねぇよ」退屈そうに目を細める。「なんだ。せっかく同類なのに、話してみたらつまんない奴だな。ま、ヒト食ってねぇとそんなもんか……で、どうするよ?」
 弓良さんは――いや、人食いは立ち上がって銃を弄ぶ。
「オマエ、このままだと死ぬよね。だとしたら、今ここで死ぬのと違わないよな。ってことで、オレに食われない? 同類の味、ちょっと気になるし」
 見逃してはくれないと思ったが、やはりこうなるか。
「断ります。少なくとも、あなたにだけは食べられたくないです。……気持ち悪い」
「なーに自己嫌悪してんだ。お互い様だろ。そーやって自分だけ綺麗なふりをしてるオマエの方がよっぽど気持ちわりーよ。それとも男の前でえーかっこか?」
「黙ってください」
「決裂だな」銃口が凍月に向けられる。「狩りだ」
 そのまま、軽い動きで、引き金に指が掛かった。
 咄嗟に庇い――銃弾が、僕の身体を貫いた。

 

 銃で撃たれる感覚は、不思議だった。
 左の肩か首元を鉄パイプで殴られたような衝撃のあと、そこから自分の服に血が流れ出すのをぼんやり見ている。まるで現実のことに思えない。
 しかしそれも一瞬のこと、すぐに激痛が襲い、その場に倒れこんだ。
「真さん!」
 遠い声。抱きかかえる手。
 人食いは、ぽかんとした表情を浮かべた。
 隙をついて、凍月は僕を背負い穴から這い出すと、林の中に駆け入っていく。 

 

「……真さん、大丈夫ですか!」
 太い木の陰に隠れ、凍月は僕を横にした。身体に僕から流れた血がべっとりついている。
「私、死なないのに、なんで助けるんですかっ」
「凍月が……苦しむのを……見たくない、から」
「ばか、ばかじゃないですか、信じられません」
 軽口を叩いてみせたはいいものの正直痛い。めちゃくちゃ痛い。あまりの痛みで、うがぁ、とか、ぐごっ、とか呻いてしまった。
「喋らないでください。すぐ治しますから」
 慌てて止めた。これだけの傷では、治すのにとても時間がかかるだろう。凍月の力が追いつくかも分からない。必死に声を出して止める。
「ダメだ、追いつかれる」
「でも! こんな傷、すぐ死んじゃいます!」
「僕を置いて逃げるんだ」
「そんなのできるわけないじゃないですか!」
 まずい。冷静さを失っている。言い争っている場合じゃないのに。
 何か、方法はないか。そう考えたところで、戒子さんのことを思い出した。
「……助けを、呼ぼう」
 痛みに耐え、必死に手で財布をポケットから引き出し、財布から名刺を取り出した。
「言ってなかったけど……警察の人と会ったんだ。電話すれば、いける」
「でも間に合わないかもしれません! それに、もし捕まったら……」
「その時はその時、だから」説得する余裕がない。受け入れてくれ。「……僕のこと、大事なら、聞いてほしい」
 その一言が効いたか、凍月は短い逡巡の後に「……分かりました」と従った。スマホを取り出して、確認する。
「電波、通じます。掛けますね」
 凍月は番号を入力し、スマホを耳に当てる。頼む、繋がってくれ。
「――もしもし!」
 遠ざかる意識の中、凍月の声がする。どうやら掛かったようだ。しばらく話し声がする。やがて会話が終わった。
「警察の人、来てくれるみたいです。場所が分からないんですけど、林って言ったら通じました。周りを囲ってくれるそうです」
「じゃあ、道路に出ればいいか……迷わないでいけるかな……」
 凍月が不安そうな顔をする。僕たちには地の利がない。人食いが弓良さんの人格を知っているなら、この土地を熟知しているはずだ。
 でも仕方がない。少なくとも、ここにいたら可能性はゼロだ。
 ナイフで服を裂き、血が止まるよう応急処置をしてもらう。凍月は肩を借し立ち上がり、僕を背負うようにして走る。すごい力だった。今まで見せなかったけれど、やはり身体能力も人間離れしているのか。
「真さんを、絶対に助けます」
 そんな呟きが、聞こえた気がした。

 

 だが、まもなく絶望的なものが目の前に現れた。
 行きの道で見た、ショベルカーだ。
「……そんな」
 まっすぐ進んだつもりだったのに、元の場所に戻ってしまったのだ。
 その場に座りこむと、凍月は荒い息で、泣きそうな顔をした。さすがに走るのも限界か。
「もう、ダメなんでしょうか」
 ……絶望的な表情を見ていると、こちらの心も折れそうになる。
 でも、落ち着いて考えれば、距離を稼いでも意味はないことに気づく。相手は拳銃を持っている。遠距離から直線攻撃できるのだ。それなら林の中にいても状況はさして変わらない。もちろん気休めではあるけれど。
 ふと地面を見ると、走行の痕。これで掘ったって言ってたな。
 ちょっと待てよ。
「ショベルカー、調べてみてくれ」
「……急にどうしたんですか」
「いいから、運転席を」
 困惑しながらも、凍月は運転席に登る。
「鍵、刺さってる……」ありがとう弓良さん。ズボラさに感謝。
「捻ってみて」
 かちゃり、と音がして――瞬間、車体が音を立てて震えた。動いた!
「それに乗って逃げよう。道をまっすぐ行けば道路に出られるはず」
「でも、動かし方が……」
 運転席には、隣り合って二本のレバーがある。
「右のレバーで右のキャタピラ、左のレバーで左のキャタピラ」
「えっ?」
「ゲームと同じだ!」
 僕の一言で凍月も思い出したようだ。動かすと、確かに間違っていなかった。運転席まで登らせてもらうと、ぎゅうぎゅう詰めになったがなんとか収まった。いざ、前進。
 めちゃくちゃ遅い。
「これ、歩くのと変わんないかもですね……しかも、音で場所を教えているんじゃ……」
 しかしその感想が、新しいひらめきをくれた。
「それでいい。……絶対に止まらないで」

 

 車道に近づいたのか、かすかな光が前方に開け――果たして、ついに影が目の前に現れた。人食い。鬼の形相で、銃を構えている。
 狙い通りだ。
「……やっぱり先回りしたな」
「真さん、撃ってきますよ!」
「伏せて!」
 操縦席めがけ、発砲してくる。ガラスに穴が開く。それでも凍月は言ったとおり、レバーを戻さない。ありがとう。……そして、ごめん。
 ぎりぎりまで位置を測ってから――僕は、移動する車の目の前に飛び降りた。
 レバーにしがみついているから、凍月には止めることができない。
 衝撃と痛みの中で、回転する輪がぐんぐんと近づいてきて――
 弓良さんは僕を突き飛ばした。
 そして、履帯はその身体を踏みつぶし、巻きこんで、停止した。

 

「いずみ、くん」
 弓良さんは、下半身を潰されたまま、まだ目を開けていた。
「助けてくれると思ったよ」
 サブリマトゥムの運動能力なら、僕を助けられるというのは、前提。
 そして僕に銃弾が当たった瞬間の表情で、まだ彼女は消えていないと信じていた。だから怖くはなかった。だって、友達だったから。
「ごめん、ね」
 口元から囁きがこぼれる。
「こちらこそ、助けられなくて、悪かった」
「……いい、んだ。さいしょから、たすからなかった、から。だから……おねがい」
 僕は頷く。そして、手元から銃を受け取った。血でグリップが滑り、両手で力を入れて持つ。その先を弓良さんの頭に向ける。力が出ないので、外さないように肘を固定する。
「弓良さん、仲良くしてくれてありがとう」
 最後に一言だけ、弓良さんは訊いた。
「いずみくん、さいきん……ねむれる?」
「うん」
「そっか」
 引き金を引いた。
 いつのまにか地面に降りた凍月は、黙ったまま、それを眺めていた。

 

 次の瞬間、動かなくなった弓良さんは、目の前で氷の塊に変わった。
 凍月の驚いた反応で、それが幻覚でないことを悟って――僕は、気絶した。

 

10 幻によろしく

 

 目が覚めると、傍に屈みこんだ凍月の顔があった。
「起きましたね」安堵の表情が浮かぶ。「無茶ばっかりして。このまま起きなかったら、どうしようかと……」
「立場、昨日までと逆になっちゃったね」
「まったくですよ」
 撃たれた傷口を手で探ってみる。服から出た首の下部、左の肩上を銃弾が掠めたようだった。あともう少しズレていたら首のド真ん中に入っていたのか。
 出血は収まり、傷も塞がっているらしい。そしてなんとあれほどべったりしていた血の跡も消えていた。そこまで巻き戻せるのか。凍月パワーすごい。
 驚いて凍月を見ると、反応で、彼女が治してくれたのだと悟る、
「ありがとう」
「どうやったと思います?」
 凍月は変なことを訊いた。目を逸らして、妙なしなを作っているのが不思議だった。
 言われてみて、包丁の傷を治したときを思い出す。
 あんな風に何か自分の粘膜ないし体液を接触させたのだろうか。しかしあの時と怪我が段違いだ。ものすごく大変だっただろうな。あと、服の血まで吸い取れるのは知らなかったが、きっとそれも似た方法か――などと考えていたら「……やっぱり想像しちゃダメです。センシティブすぎます」とストップが入った。自分で訊いてきたくせになんなんだ。
「……彼女、ほんとに死んじゃいましたね」
「死んだ、って言えるのかな。あんな姿になって」
「不思議なことばかりで、頭が追いつきません」同類が氷になったことは、凍月にとっても見当のつかない事態だったようだ。「私も、ああなっちゃうのかな」
 不穏な一言に、一瞬、お互い何も言えなくなる。
「……とにかく、ここから動こう。早く戒子さんたちに合流して、帰ろう」
「それなんですけど」凍月は困ったように笑った。「脚、動かなくなっちゃいました」
「……えっ?」
「真さんを運んだときに無茶しちゃったのかな……。急に力が抜けてしまって」
 そりゃそうだろう。ちょっと前まで寝込んでいたのに、突然馬鹿力で重い物体を持って走り回ったんだから。申し訳ないことをさせてしまった。
「なんか、困ったときに限って動かなくなっちゃうんですよね。真さんと出会ったときもそうでした。乙女の早疲れってやつですかね」
 冗談を言って情けなそうに笑う。そういえばそうだった。海からの帰りでも足下から倒れてしまったし、そんなに負荷がかかるのだろうか。
 ……いや、本当にそうだろうか?
「それ、何か原因があったりしないかな」
「……どういうことですか」
「脚、触らせてくれないか」と言ってみてからとんでもない失言をしたのに気づく。「いや変な意味じゃなくてですね触診っていうか」「それ変な意味を追加してますよ」「えーっと、じゃあマッサージだと思って」「さらに変態的になってます」逃げ場なしかよ。「死の淵でもリビドーに正直なところに免じて触らせてあげますが」瀕死の兵士にしてほしいことはあるかって訊く女上官みたいなこと言わないでほしい。
 凍月は生脚を僕の前に露にする。遠くの夜行灯か月の光か、薄明かりが死んだように白い皮膚を照らす。恐る恐る触ると「ひゃ」とか「わわっ」みたいな嬌声が上がる。
「どどど、どこ触ってるんですか!」「脚です」「そりゃそうですよ私が触らせてるんですから当たり前じゃないですか」いったい何にキレてるのか。
 しかし丁寧に押していくうち、こちらの真剣さに気づいたのか静かに応じてくれるようになった。熱心な変態だと思われている可能性もあるけれど。
 ……しばらくして、発見。
 しこりのような、硬い何かが腿の中に入っている触覚が、左右両方に見つかった。これまで本人も気づかなかったようで「よく気づきましたね」と驚いていた。
「なんだろう。身に覚えはない?」
「まったく分かりませんでした。これが原因なんですかね」
「かもしれない。ただ、これ以上調べる方法がないな……」
「あ、それなら問題ナッシングスです」なんで複数形。「ててててん! ナイフ!」
 どこぞの秘密道具みたいに凍月は凶器を持ち出した。
 ……嫌な予感がして、目を逸らす。
 ぐさっともみしっともつかぬ肉の裂ける音。くちゅくちゅと何かを漁る音。耐えきれなくなって耳まで塞ごうとして「あ、これだ!」と声がした。
「……これ」手のひらをこちらに見せる。小さな物体が乗っている。僕に配慮して服で拭き取ったのか、血は見えなかった。「銃弾、ですか?」
 それを見た瞬間、何かに気づく。慌ててあるものを探した。それは弓良さんの持っていた拳銃。放り出して地面に転がったそれからサブカル知識だけで弾倉を取り出す。そこには鉛玉がずらりと縦に挿入されている。
 凍月の身体から出てきたものと近づけ、比べてみる。
 結果は予想通り。間違いなく、同じ口径で同じ形をした銃弾だ。
「どういうことですか……これ……」
「弓良さんの言葉が正しいなら、この銃は食われた怪しい男の死体が持っていた。……ひょっとして、そいつが人食いが逃げていた相手なのかもしれない。そして、あいつは凍月もどこかから逃げてきたのではないかと仄めかしていた。……だとすれば」
「私も、記憶がないうちに同じ敵に撃たれたってことですか」
「そして、同じところから逃げてきたのかもしれない」
 ……しかし、推理できるのはここまでだ。真相に非常に近い手がかりなのは分かるけれど、その真相を僕たちは理解できず、素通りしてしまう、そんなもどかしさがある。
 とはいえ、弾丸を抜いたことは事態を好転させた。摘出した傷が癒えてみると(怖くて様子は見られなかったが)、凍月の脚の具合は確かに改善したからだ。
「さっきより、動けるようになりました」と、凍月は立ち上がった。
 まだふらついているところがあるが、それは衰弱ゆえか、どうしようもなさそうだ。
 こちらも肩を貸して、二人三脚のように歩き出す。

 

 しばらく歩くと、赤い光がカーブの角から漏れているのが見えた。
 一瞬、身体がこわばる。しかし意を決して近づいた。
 ランプを屋根に出した真っ赤な覆面パトカーが車道を遮るように斜めに停車してある。凄まじい通行の迷惑だ……。
 運転席にはサングラス姿の女性。暴力警官が様になっている。
「……戒子さん」
「ああ。真さんですか。こちらは夜の四番バッター、絶賛敬遠中です。で、この方は」
「知人女性です」
「大変つつましい呼び方ですね。しかしお二人にお伝えしなければならない喫緊の問題があります」
 サングラスを取って、こちらを一瞥。それから話を始める。
「出動した警官隊が、さきほどこの付近の林内で遺体を発見しました。まだ特定はされていませんが、一〇代の女性。首には絞められた痕があり、身体は獣のような何らかの動物に食い荒らされたように損壊していました」
「それは――」
「電話口の説明は正直よく理解できませんでしたが、とにかく言い分がおありになるのは分かっています。しかしこの状況では、私はお二方を事情聴取しなければなりません。それも、連続殺人事件に関する、非常に重要な参考人として」
 失敗した。
 僕の誤算は、相手を友好的な勢力だと甘く見積もったことだった。そこに助けを求めた結果、これでは僕たちは自分で自分が犯人だと証明してしまったようなものだ。
「私たちは、何もやってません」
「何をやったか、とはまだ訊いていませんよ」
 戒子さんはいつもの態度を崩さない。
「ただ、現在の状況から鑑みて、あなたたちは事件に大きな関連があると疑わざるをえないだけのことです」
「詭弁ですね」
「それが公権力なもので」
 それでも凍月は強気を崩さないが、虚勢であることも見え隠れしてしまっている。こちらに目配せをするが、僕は首を振った。抵抗すれば、今度こそ完全に終わりだ。
 ……ここまでか。
「それでは、異存がなければここで手錠を失敬いたします」
 戒子さんは鉄の輪を取り出し、僕たちの前に見せると――
 それを自分の手首にはめた。
「……はい?」
「ぎゃー、警官殺しー」
 まったく感情のない声でわざとらしく言うと、そのまま席を降り、道路に寝転がる。そして財布を取り出し、五桁のお札を次々と並べ始めた。……ほんとなんなんだこの人。
「わー、捕まった上に手錠を掛けられて車と金を奪われちゃいましたー、刑事生命の終わりですー、もう恥ずかしくて現場に出られませんー」
「……あの」
「ということで、今すぐ車とこのお金で逃げてください。真さんは運転できますよね?」
 そういうことか。いや、どうして彼女が僕たちの逃走を助けるんだ?
「僕たちを……疑っていたんじゃないんですか」
「もちろん容疑者でした」横になったまま答える。「しかし、いちお姉さんとしては少年少女の逃避行を助けるのが道理ではないでしょうか。ですからそんな警察ドラマめいた葛藤の弱みに付け込まれて捕えられ、車を奪われてしまったわけです。やられたー」
 あくまで芝居を崩さないつもりらしい。
 しかし遠回しにも助けてくれているなら乗らない手はない。恐縮しつつ運転席に乗り込む。大丈夫。なんとか運転できそうだ。それにしても、ひょっとして戒子さん、僕が免許を持っているのを知っていて車を渡したのだろうか。したたかすぎる。
「凍月、そっち乗って」
「……う、うん」
 状況に圧され気味だった凍月も、ここは素直に従って車内に入る。
「真さんを助けてくれて、ありがとうございます」
「いえいえ。きっと、犯人はお二人が倒してくれると確信していましたから」
「えっ?」
 戒子さんは疑問に答えず、手錠のついた手をこちらに振り、言った。
「逃げることです。ボーン・トゥ・ラン、ラン、ラン」
 振り返って、思う。
 僕が命に関わる怪我をしていたことを、電話で戒子さんは聞かされたはずだ。
 なのに彼女は、僕に運転ができると確信していた。
 まぁ……なんならそもそも、僕をいつでも尾行できるとして、何も考えず無神経に出歩く凍月を見つけられないはずがなかったな(閉じ込めるのはかわいそうだし、既にこいつはシロだと察していたから見つかってもそんときはそんときかと途中から思って許したけれども)。となると、わざわざ僕と接点を持ったのも、まさかこの展開を……なんつって、やっぱからかいたかっただけかもしれんこの人。
 ともかく、果たして彼女は、どこまで真相を知って、どこまで計算していたのだろうか。
 ……きっとこの人は「真相? 何の話ですか?」とすっとぼけるに違いない。

 

 パトランプを隠すのに手間取ったりおぼつかない運転で幾度となく事故を起こしかけて「殺すつもりですか! 私がやったほうがマシです!」と凍月が交代したがるのを必死に止めたりいろいろあったが、大きな道に出るととりあえず流れに乗ることができて一息。
 同時にしばらく会話もなくなって、黙ったままステアリングを保つ。
 それにしても、まさか映画のように警察に追われる身になるとはね。
「……真さん。これから、どうするんですか」
 おもむろに、呟きが聞こえた。
 車窓に映る、二重の幻。暗闇に溶けて消えてしまいそうな、銀色の髪。その前髪の下に、不安そうなまなざしが浮かんでいる。
 今が潮時だ、と思った。
 だから今度こそ、最後のカードを切る。
「死体が置かれた場所を、僕は知っている」
 凍月の目が見開かれた。
「……どういうことか、訊いていいですか」
「昔やってたバイト先で、見つけたんだ。そこにはたくさん死体が隠されていた。そのときは怖くなってやめたんだけど、まだ場所を覚えている」
 そう。それがあの、媛先生から紹介されたバイトだった。
「そこに忍び込めば、凍月の食料を確保できる」

 

 そのバイトを紹介されたとき、媛先生は『知り合いの研究所の管理・警備業務』というだけで、管理し警備するものが何なのか、まったく知らなかった。
 僕にしても、詳しく知る必要などないと思っていた。たしかに若干変だなとは思ったけれど、それほど長期でない仕事だったし、万一問題が起きても逃げ出せると踏んでいた。
 とにかく不安はなかった。

 

 最寄り駅から小さな山に入って一五分、大きな病院を改装したらしいその敷地は、地図を何度見ても迷子になるほど大きく、夜勤で真っ暗だったこともあって、採用されたばかりの頃は何度も迷った。おまけに自分でさえ立入禁止の区域が多いのも厄介だった。
 僕は警備員という扱いではなく、管理者の代行として点検、見回りをする。本当の警備員は別の詰所にいて。僕の入れない場所を担当する。顔は合わせないし無線で業務連絡する以外コミュニケーションもなかったから、何者かは知らない。記憶は、スピーカー越しの無感情な声だけ。
 いま考えてみれば非効率な上に不自然だ。名目上一般人を雇っているだけで、見せたくないところがあると、暗黙に示しているようなものだからだ。
 その夜も懐中電灯を持って、無邪気にも建物の外をうろついていた。
 僕に任された巡回経路を終え、あくびを何匹も狩っているうち、窓の一つがなぜか目に留まった。よく見ると建て付けが不自然だった。
 触れてみると、窓は建物の内側に倒れてしまった。割れこそしなかったが、大変なことになったと思った。
 無線機で助けを求めることもできたが、そんなことをすれば今後に響くのではないかという邪心が働いたし、今までのように今度だってなんとかなるという根拠なき冷静さが僕をなおさら惑わせたのは、すべてが終わったから振り返れる話。
 咄嗟に窓から建物に入ってしまったのだ。
 窓を持ち上げてみると、あっさりと元に戻った。
 ここはどこだろう?
 ……もし引き返せば、この物語は違う結末を迎えただろう。
 しかし僕はそうしなかった。見つかるのを恐れていたし、そもそも好奇心というものが欠如していたはずの、この僕が。
 なぜだ?
 その心理は思い出せない。
 気まぐれな偶然か、仕組まれた必然か。
 そんな詮索は無意味だと分かっている。

 

 無線機を切り、壁に手を当てっぱなしで歩く古典的な方法で廊下を移動しているうち、僕は迷ってしまった。慣れたつもりだったが、構内図を見てもさっぱり分からない。入り直したらダンジョンが変形してしまったような、そんな混乱状態。
 どれぐらい経っただろうか。行き止まりに突き当たった。
 そこは何も書かれていない、分厚いドアだった。『○○室』という表記も、お決まりの『関係者以外の立入禁止』ラベルもない。
 ドアはかすかに開いたまま、隙間から冷たい風を吹き出していた。
 僕は中に入った。

 

 そこは冷たい空気で満ちていた。
 一瞬なら熱気と錯覚しそうなほど鋭利で、しかし澱み沈んだ液体のように息の詰まる、霊廟のような、驚くほど広い空間は、霜のついた青白い照明が照らし、すべてを透かしている。
 床に整然と並べられた、ジッパー付きで不透明な無数の細長い袋。
 ドラマで見たことがある、鑑識が扱うような、袋詰めのヒトガタ。
 その一つに、爪先が当たる。
 その一体は、ジッパーが閉め切っておらず、隙間から中身がかすかに見えた。
 女性の脚だった。
 細長く、青白い肌の、見るからに冷たそうな、血の通わない脚。
 今にして思えば、それは――出会った少女の脚に、似ていた気がした。

 

 凍月は、僕の話を黙って聞くと「……そこまでして、生きる意味があるんでしょうか」と答えた。疲れが滲んでいた。
「だいたい、私を助けないって約束したじゃないですか」
「そう。これは助けるんじゃない。あえて言えば、罪滅ぼし。償い。そんなところ」
「……分かりません。真さんの言ってることは、いつも」
「そうだろうね」
 車はスピードを上げて、今も目的地に近づいている。しかし、引き返すこともできる。
「一つだけ、選んでほしいね。人を食べて生きるか、食べないで死ぬか」
 凍月は答えない。
「僕としては後者をおすすめしたいけどね。僕が選ばなかった道だから」
「真さん、あなたは――」
「しばらく時間をあげる。その時までに、決めてほしい」
 それだけ言うと、僕はフロントガラスに意識を戻した。
 何かを食べて生きるのは、それだけで罪深い。その上で狂わないでいられるのは、それだけ無神経か、逆に意識し続けているかのどちらかだ。
 少なくとも、僕は前者にはなれなかった。
 では、凍月は?

 

 高台にある研究所、そのふもとの位置に車を止めた。まだ夜で、照明のほとんど消えた建物は斜面の上に輪郭しか映らず、遠目では真っ黒な箱のように見えた。正門にはここから細い道を通らなければならない。
 弓良さん(ではなかったもの)と戦ってからまだ夜が明けていないことに驚く。しかし、これからすることは同じかそれ以上に危険な真似だった。
 結局、凍月は何も言わなかった。こちらもそれ以上は追及しなかった。一言でも嫌だと言えば中止したが、明確に止めてこなければ、僕はこの作戦を続けるつもりだった。
 そして、今や対象は目の前に近づいている。
「建物のつくりはだいたい頭に入っている。監視がいるのは正門横の詰所。そこで監視カメラの映像を確認して、問題があったら動く。異変があっても警察には通報するな、絶対にそっちに連絡しろと言われていたね。後ろ暗いことをしていたんだから、当然か」
 車から降り、後部のトランクを開けると、お目当てのものが見つかった。
 非常用の発煙筒だ。
「これをそこに投げ込む。で、その間に裏――今車を止めているここの斜面を登って、塀を越える。上には鉄条網があるけど……これを使うか」
 座席の上にかかったシートカバーを取り出す。こんなものをつけてくれて、血税の豪勢な使い方に感謝したい。後部座席にはないのがミソですかね、なんつって。
「これを上にかけてその上を通る。で、死体を運んだら今度は上から落とすと、勝手に斜面を滑ってくれる。ま、そこまで持っていくのに凍月にも手伝ってもらわないといけないけどね」
 凍月はまだ内心の整理がつきかねている様子だったが、それでも頷いた。……不安を隠さない表情を見て、僕は持ってきていた弓良さんの拳銃を取り出した。
「ま、いざとなればこれがあるから」
「お願いなんですけど、それは使わないでください」
 逆効果だった。
 仕方なく、僕は弾倉を取り出して渡した。
「分かったよ。こうすれば、僕一人じゃ撃てなくなる」
「……はい」
 やっと納得してくれたか。
「もし撃つなら、私を殺すときだけにしてください」
「これじゃ凍月は死なないよ」
「ですから、絶対使えなくなるってことです」
 久しぶりに凍月が笑う。それを見て、二人で暮らした時間が遠のいたのを実感した。

 

 凍月と手を引きあって、バランスを取りながら斜面を登る。壁伝いに建物を回り、裏に入る。さらに上の山との隙間にある、小さな空間だ。
 彼女には侵入するポイントに先に待機していてもらい、僕は発煙筒を投げ込んでから合流することにした。転んで落ちることだけには気をつけないといけない。
「じゃ、行くね」
 凍月と分かれ、敷地に沿うように正門に近づいていく。
 門の傍らで足を止めた。傍の壁には金属製の表札があるはずだが、暗くて見えない。
 投擲力に自信はないが、今晩は風がないので、ダメになっていなければ相当の煙が出るはずだ。侵入する方向に流れてこないのも都合がいい。
 発煙筒は使ったことがある。思い出せ、と言い聞かせて、都合のいい時だけトラウマの蓋を開ける自分が嫌になる。
 作動させようと手をかけて、胃液が喉元までこみあげてきた。ああ、記憶ってやっぱり紐づいているのか。傍に凍月がいなくてよかった、と意味もなく思った。もし明るかったら、ひどい幻を見たに違いない。
 振り払うように、狙いをつけ――投擲。
 敷地に入ったのを確認し、待つ。
 たちどころに煙が上がってきた。こちらの害になる前に慌てて去る。
 走りながら、まったく興奮していない自分に気づく。非日常になればなるほど、僕の心は冷静さを取り戻す。何か理性の塊のようなものが冒涜的に侵入し、それが生存のため僕を支配する。それまでが正気でなかったとでもいうように。
 罪深いことだ。

 

 合流すると、僕は凍月に頷いて成功を伝えた。
「登るのを助けてくれ。上に登ったらこっちが引っ張るから、怪我にだけ気を付けて」
「プールの時と一緒ですね」
 そういえばそうだった。
 シートを上に渡す。ちゃんと引っかかって、棘でも破けない。凍月に台代わりになってもらい、上に登る。足がついたところで、凍月に手を差し伸べ、引っ張り上げる。
 塀の上。ちょうど雲間から光が覗いた。曇りだと思っていたが、月が出ていたのだ。
 その光を受けて、銀髪が光を帯びる。
「……真さん、早く降りないと」
 そう言われてやっと、見とれてしまったことに気づいた。

 

 地面に降りるとシートを隠し、敷地の中を突っ切る。
 予想外だったのは、人の気配を感じなかったことだ。もっと騒ぎになるはずだったのに。
 好都合のはずなのに、胸騒ぎがする。
 それでもここまで来たら戻る選択肢はない。記憶を頼りに、あの窓を発見する。確かめてみると、やはり枠を外すことができた。今度は滑り落とさず、ゆっくりと廊下に置いて中に入る。記憶通り、重い荷物を持っても通れる高さと大きさだ。
 今回も警報は鳴らず、僕たちは光のない廊下を歩いていく。壁を伝い、角に来るたびに曲がる。心許ないが、同じ方法を取っているのだから同じ場所に着くはずだ。
 ……扉が現れた。
 しかし記憶と違う点があった。扉は閉じていて、横にはカメラのような穴と、いくつかボタンがあった。
 僕が忘れていたのか、辞めてから増設されたのか。いや、考えてみれば死体を置いてある場所が開きっぱなしなのはそもそもおかしい。
 初めて計画が狂い、さすがに驚いてしまった。鳥肌が立つ。たぶんまだ見つかっていないのが幸いだが、ここまで来て引き下がらないといけないとは――
「ここ、知ってます」
 唐突に凍月が言った。
「なんでだろう……すごく、見覚えがある……」
 そう言って、カメラに近づく。
 何か考える仕草のあと、指をかざし――チープな機械音とともに、錠の外れる音がした。
「……凍月?」
「そうだ、こうやって逃げたんだ」呆けたような声で呟き、扉に手をかける。僕が隣にいることを、一瞬でも忘れてしまったように。「指紋を変えて。それで――」
「どうしたんだ、ちょっと待ってくれ、おい!」
 僕が止めるのも聞かず、凍月は扉を開く。
 広がる隙間から、青白い光と冷気がこぼれる。そのまま足を進める凍月を、慌てて追いかける。
 そこには記憶と同じ、無数の袋。長さはヒトの身長ほど。
 新しく気づいたのは、その一つ一つの長さがまったく変わらないことだった。まるで、中に入っているのが同じ形のものであるかのように。
 おもむろに、凍月はその一つに近寄ると、屈みこむ。そして、ジッパーに手をかけ、開く。それから隣に移り、それを、ひとつひとつ冷気に晒した。
 それは銀髪の少女だった。
 全員が同じ顔をしていた。
「……やっぱり、そっか」
 凍月は、己と同じ顔の死体たちを前に、納得したように言った。記憶を思い出したのか。
「そう、人食い。アンタの正体はこれだよ」
 後ろから声がかかった。
 振り返ると、そこには媛先生がいた。
 彼女は銃を構えている。
「サブリマトゥム――やっと、戻ってきた」

 

 媛先生がこの場にいることに、驚きは少なかった。もちろん媛先生とこの場所に関係があることは、仕事を紹介されたときから分かっていた。でも、そういう論理的な理由だけではなく、もう何が起きてもこれ以上驚くことはないだろうという心境だった。
「……先生は、どこまでを知っているんですか」
「おおよそ、すべてと言っていいね。この少女の形をした生物が、サブリマトゥムが、何者なのか、それを私は知っている。なぜなら、その研究に噛んでいたからね」
 サブリマトゥム。初めて聞く言葉だった。
 それが凍月の正体だと、媛先生は言った。
「教えてください」
 銃口を睨んだまま、凍月は毅然と言った。
「あなたが誰なのか、真さんは知っているようですが、私は知りません。でも、もし私の研究者だというなら、私が何者なのか、どうして人を食べなければいけないのか、人間離れした力があるのか……あなたは教える義務があるはずです」
「なんで? 私にそんな義務があるとは思ってないけど。もし本当に義務があるとすれば、この場でアンタを殺すべきでしょ。……まぁ、それを説明することで、アンタの疑問に答えることになってしまうけれど」
「人食いは、逃げたと言っていました。あなたたちからですか?」
「そう」媛先生は退屈そうに頷く。「あれもアンタも同じ生物、私たちが管理していた研究対象。実験動物。ネズミやモルモットみたいなもの」
 実験動物、と凍月は呟いた。
「ただ、それらよりよっぽど狂暴だという違いはある……いや、本当はそうじゃないんだけど、結果的にアンタたちは人間を傷つける。殺す。食べる。そういうふうに、私たちからは見える。……でもね、『食べる』ってどういうことだと思う?」
 媛先生は、銃を持たない手でキャンディーを取り出すと、袋を破り、口に放り込んだ。そして、音を立てて噛み潰す。
「いま、私が食べたものは、糖分として身体に取り込まれて、生命を維持するために利用されるだろう。しかし一方で、舌には甘い味を感じた。これは情報。サブリマトゥムという生物が求めるのは、後者。学習のために取り込む」
「答えてください。サブリマトゥムって、何ですか」
「極地の氷河で発見された生物だよ」
 媛先生が凍月を見る目は、人間に向けたものではない。
「ほら、温暖化とか、気候変動ってあるでしょ? あれで、凍土の中に閉じ込められていたのが溶けて出てきたわけ。しかも、氷を学習し、擬態した状態だったからね。生物だと分かったのは、発見者の尊い犠牲があってこそだ」
「……発見者を、食べた」
「学習するつもりだったんだろうけど、結果としては、そうなってしまった。……でも最初は気づかれなかった。だって、殺した本人に擬態したからね」
 弓良さん。弓良さんと入れ替わったモノ。それと同じ。
「サブリマトゥムは、学習した対象を模倣できる。恐ろしいことに、一見するとミクロレベルの構造までね。それでいて、一度学習したら自在に変化させることができる。姿も変わるし、材質も変わる。見かけよりずっと頑丈にもなるし、強いエネルギーを持てる。損壊した一部を修復できる力もある」
 それが、凍月の異常な能力。
「だから、あるモノがサブリマトゥムか確かめるのは、かなり難しい。生物学者だけでなく、私のような精神科医――いや、薬物の専門家が呼ばれるくらいには」
「……そんな、できそこないのSFみたいな生き物が、私の正体なんですか」
「受け入れられないのも無理はないよ。そいつは記憶や人格まで模倣する。自分で自分の正体に気づかないのもいるよ。個体生物じゃないから、どこまでを一匹とカウントすればいいかは分からないけれど。……事件を起こした人食いも、アンタも、もとは一個の氷の塊だったんだよ。それが逃げた」
 そこで媛先生は一旦話すのをやめた。
 ふーむ。別に興味深い話でもなかったな。なんちゃら神話に出てきそうってぐらいで。
 だから僕はつまらないことを訊いた。
「先生たちが逃がしたんでしょ?」
「はい、正解」
 あっさりと認められ、拍子抜けした。
「どうして分かったの?」
「鎌をかけただけですよ」
 おお、さすが、と媛先生は現れてから初めて笑った。
「ここにある死体は、サブリマトゥムに姿を学習させるために、つまり食わせるために用意されていた、クローン。この国じゃ作れないから、どっかから輸入してきたんだろうけど。ここはその貯蔵庫だった。お偉方はそれが何かの役に立つと思ったんじゃないかな。女ばっかりなのは……なんか下世話な話になりそうだからやめやめ。とにかく私たちのグループは、それを利用した。でも大失敗した。自分で野に放ったのに自分で駆除しようとする。人間の傲慢だよね」
「……なんで、私たちを」
「サブリマトゥムを野放しにしてみたら、社会にどんな影響を及ぼすのか――それが見てみたかった、そんだけ。結果もつまらなかったね」
「殺人事件が起きた程度じゃ、確かにつまらないですね」
 僕の茶々に、媛先生は「……他人事じゃないのに、よく言えるねぇ」と呆れた。「うまくいくはずがないのは分かってたけど、私は木っ端なもんであいつら聞かないから。だから嫌がらせしてやった。接触させるサンプルに、アンタを推薦したんだ。この場所を教えたのも、何かの役に立つかと思ってね。結果、五人の死者が出たとはいえ、街を戦場にするよりよっぽど安全にアンタらがサブリマトゥムを自力で殺してくれたわけ。すべてが計算通り、さすが私」
 やりやがってと思ったが、『戦争』という比喩は冗談ではないのだろう。
 ほんとにこの人には敵わん、と内心で舌を巻く。
「……ま、ちょっと面白い考えもあったんだよね。どう? サブリマトゥムを拾ってから、幻は見る?」
 返答に窮したので、素直に首を振った。
「だろうね。アンタの症状を中和するんじゃないかと、私は予想していた。詳しいことは分からないけれど、サブリマトゥムと接触するうち、無意識に一部が脳に入りこんで、神経を修復、ないし正常に保護したんだと思うよ」
「私が、真さんを治していた……」
 僕の幻覚は、極度の寒冷下での、脳の損傷によって起きた。
 傷を治すように、凍月はその幻覚を治癒した。
「なんとも美しい依存関係だよ。ただ、私がちょっと危惧しているのはね、同時にアンタがあの幻覚を学習してしまったことかな。それはちょっとヤバい。サブリマトゥムは自己増殖するから。アンタを私が殺すべき理由のひとつだね」
 このマッドサイコロジスト、どこまで本気で言っているのか。
「……今までの話には、出てこなかったことがあります」
 凍月は、最後の疑問を口にした。
「どうして私は、ヒトを食べないと死ぬんですか」
「それは簡単。人間が好きだから」
 その答えは、さすがに予想外だった。
「学習って言ったでしょ? その中でも、サブリマトゥムは人間に異常な関心を持っている。人間を学びたがっている――いや、そうするようデザインされている。他の生物が分裂し、生殖し、増えることのように、それを目的にしているみたいでね。それを達成しないヤツには死んでもらうわけ」
「エネルギーが足りないから、じゃない……」
「それもなくはないけど、多少衰弱しても死に至るほどじゃない。傷の治りが遅くなったりはするけどね。だから基本的には、自己破壊」
 プールサイドで見た凍月の傷から、僕はあの時点で凍月の異変、さらに推測も含めれば嘘に気づくことができた。しかし、もっと大きなポイントでは勘違いをしていたことになる。それが結論の同じ勘違いだとしても。
「さて、だいたい話は終わったけど。アンタらどうすんの?」
 媛先生はようやく銃を下ろした。
「人食いの方はウチの息がかかった連中が追いかけてたみたいだけど、アンタはヒトを食べていない。だからじきに死ぬ。自滅する。そうすれば私が手を下す必要はないんだよね」
「あなたが私を殺せるとでも?」
「おー、怖い怖い。でもね、人間を舐めない方がいいよ。確かにこんなオモチャで一発や二発撃ったぐらいじゃ死なないけど」媛先生は銃を弄ぶ。「殺すことはできなくとも、一定以上のダメージを与えれば、生物である以上消滅には近づくよ。液体窒素で凍らせるとか、溶鉱炉に落とすとか、そんな必要はない」
「虚勢ですね」
「自分の不死性を過信しているのは、サブリマトゥムによくあること」
 睨み合いが、何秒か続いた。
 しかし終わらせたのは媛先生の方だった。
「とか言いつつ、正直、責任なんてどうでもいいんだけどね。私、そんな倫理持ってませーん。だから、この場は見逃してもいいっちゃいい。……ようは死体が欲しいんでしょ?」
 好きなだけ食っていいよ、と媛先生は床の死体たちを指さして言った。
「ただし、それをすれば今度こそアンタたちは命を狙われる。人類の敵になる。逃げ切れるとは思わないけど、がんばってね。で、もう一つの選択肢は」
「食べないで、死ぬ」
「シンプルな二択だね。ま、どっちにせよ似たようなものだし、私は知らん」
 知らん、と言いつつここを教えた時点で暗に僕たちを支援してくれていたことに、僕は触れないでおく。言ったら絶対嫌そうな顔するもん。
 ……しかし媛先生の言うとおり、確かにどちらにしても先行きは絶望的だ。
 ここでヒトを食べれば、僕たちは際限なく誰かを殺すしかなくなるだろう。今でさえ警察に追われているのだ。さらに人食いを追いかけていた連中まで、本気で敵に回る。逃げ切れるとは僕も思えない。
 それか、食べないで死を待つか。
 不治の病の治療みたいな話になってきたな。泣きゲーかよ。
 しかしなんにせよ、本質的にはここに来る前に問うたことと、さして変わらない。
「もう一度、改めて訊くけど――凍月、どうする?」
「やっぱり、私が選べってことですか」
「助けないって約束したからね。僕は正直どっちでもいい。そっちが決めることだ」
「……真さん、残酷なんですね」
 凍月は俯いたまま、言葉を紡いでいく。
「もし真さんが『生きろ』って言うなら、生きます。『死ね』って言うなら、死にます。……でも、どちらもしないから、困りましたね」
 それは、ここに来るときから、僕の計画に従属する姿で悟っていた。
「そうだなぁ……。悩みます、なんて言っても私だってどっちでもいいと思っているかもしれません。こんな訳の分からないバケモノに生まれて、死ぬだけだし、今更どっちでもいいじゃんって」
 でもね、と凍月は笑った。
「ヒトは食べません」
 はっきりと言った。
「それが私の答えです。……これで、いいですか?」
 凍月は媛先生を見据えて、そう告げた。
「……それは、あんまり予想してなかった」と言いつつ、媛先生の顔は驚いていなかった。代わりに呆れた、というか、驚きを表現しようとすると呆れてしまうのかもしれない。
 少しばかり悲しそうに見えたのは、錯覚ということにしよう。
「じゃあ、アンタは飢え死にするつもりってことね」
「……ええ」
「私にしては珍しく真面目に訊くけど」自覚あるんだ。「本当に、それでいい?」
「はい。大好きな人の傍で死にます」
 照れるじゃんよーってボケたかったがあんまりにも真顔で言うので黙っていた。
 凍月が言ったことは、僕に死ぬのを無力に見ていろというのと同じだ。
 こちらとしてはその決断を尊重するしかない。
 なぜなら、僕は凍月を助けないと決めたから。
「アンタもこっぱずかしいこと言うなぁ……」
 問うた本人さえこの反応。
「……ま、分かった」媛先生は両手を上げて、降参のポーズをした。「じゃあここからはアンタらの物語だ。私の出番はここまでってことで」
「先生」
「なんだい少年M」
「いろいろ語弊がありすぎる略なのでやめてください」こんなツッコミも最後になるのかな。「ええと、その……ありがとうございました」
「はて。私って人生で感謝されることしたっけ」
 最後まで、この人は僕にとって媛先生であることに徹した。
 だからこちらも、最後まで伊澄真でいることにする。
「先生。改めてもう一回、訊くんですが」
「なに? 水臭いんだけど」
「あのとき、僕はヒトを食べたと思いますか?」
 その言葉に、何も言わず、こちらに近づいてくる。
 そして頭の上に腕が延びる。凍月の抗議の目線を無視し、頭が撫でられ――
 る、直前で手のひらを丸めて、こつん、と力ない拳骨が頭に降ってきた。
「アンタの幻に、よろしく」
 媛先生は手を振って歩き出し、僕たちとすれ違って、そのまま去っていった。
 僕はそれを追いかけなかった。

 

11 氷の涯への旅

 

 媛先生がいなくなったのを見届けて、凍月に言う。
「僕たちも、行こう」
「……そうですね。ここにはもう、何もありませんから」
 二人して、扉の方に歩き出し、元きた道をたどる。守衛は現れなかった。どうせ媛先生の仕業だろう。結局ああ見えてそういうことをする人なのだ。
 立ち去りながら、凍月も僕も何も言わなかった。
 それはきっと、たったひとつの疑問を口に出したくなかったからだろう。
 行こう、だって?
 どこに行くというんだ?

 

 車の中に戻ってようやく一息つく……には、さすがに暑すぎる。ドアを開けた瞬間に立ち込める蒸し暑さが余計に今の自分をげんなりさせた。
 冷房をつけたところで凍月が意を決したように言った。
「ひとつ、訊いていいですか」
 何の話か予想はついていた。
「一〇年前、真さんに何が起きたんですか」
「何が、ってか。何も覚えてないんだけど」
「言葉遊びはやめてください」
「……手厳しいね」
「真さんがそれを話すことがどのように負担をかけるか、私には理解できません。なので、言いたくないことであれば、黙っていても嘘をついても構いません。どうせ私にはあずかり知らないことですから。その上で、傲慢に私は訊きます」
 なるほど。なかなか僕を熟知してきた物言いだ。……まぁ、今更ここまで来て隠すことでもないんだけれどね。
 とはいえ、明らかにすべきことなどあるのだろうか。
 生き延びた者が語れることなんてたかが知れている。言い伝える必要性をわざとらしく言い立てる連中は、語られるに値しないから黙っているのだというのが理解できない。そういうものだ。
 だから、これから話すことも、きっとむなしい徒労になるだろう。そんな諦めを綱のように張って、その上に一歩を踏み出す。踏み違えば奈落だ。
「警告。これから話すことはすべてフィクションであり、事実と類似点があったとしても他人の空似なのであしからず」
 モキュメンタリー風のそらぞらしい警告を入れてから、僕は話し始める。
 その、架空の物語を。

 

「昔々、ある家族がいた。一家はどこにでもいる平凡で傲慢で悪趣味な金持ちだった。外から見る限り、仲は悪くなかった。大柄で腕っぷしが強く、大酒飲みで自信家の父親。柔和で自己主張をせず、子供を一度だって叱らない、育ちのいい母親。スポーツ万能で女癖が悪く、コネで名門大学に入って遊び呆ける長男。わがままでプライドが高く、ヴァイオリンが弾けて、女学校でリーダー格の長女。発育不良で引きこもりの貧相な次男。五人は家事も商売も使用人に任せ、ごっこ遊びのように平和に暮らしていた。……目を惹くものがあるとすれば、毎年冬に雪山に建てた別荘に行き、スキーをするのが一家の伝統だったこと。母親と姉はいつも嫌がっていたけれど、結局することがないから毎年ついてきた」
 雪山を一日中滑って遊ぶ父と兄を無視し、暖房の効いたペンションの中で退屈そうにゲームをしている姉、そしてぼんやり外を眺めているその弟の少年の顔が目に浮かぶ。彼は父や兄ほど身体が丈夫ではなかったのだ。なんというか、妙に感情移入できるキャラクターですね。
「異変が起きたのはある日、陽が沈んだ直後だった。急に天候が悪化し、猛烈な吹雪が僕たちを襲った。突然電話もネットも不通になり、一家は雪山に閉じ込められた。不幸にも五人以外は出払っていて、助けを呼ぶ方法もなかった。燃料はまもなく底を尽き、彼らは肌を突き刺すような寒気に晒された」
 真っ暗の部屋。身体中を覆う防寒着や毛布。非常用のカンテラ。まずい缶詰とビスケット。終わりのない言い争い。
「でもそれは事件の始まりに過ぎなかった。彼らは最悪のミスを犯すことになる。……それは誰かが強硬に主張した、ペンションから出て、自力で下山するという選択だった。寒さにたまりかね、どんなことであれ現状を変化させることが改善に繋がるという、そんな誤りを彼らも起こしてしまった」
 朝なのか夜なのか、それさえも分からない灰と黒の世界。
「外に出てすぐに下山は不可能だと全員が察したけれど、もはや帰路は埋まり戻ることもできなくなった。なんとか下に降りようとしたけど、もちろん道なんて分からない。飢え。疲労。絶え間ない無益な議論はじきに無意味な諍いに変わり、ただでさえ鈍っている判断力を蒸発させてしまう。かろうじて風をしのぐ岩陰を伝って、脚を埋めながらひたすら歩いた。……事態が最悪の方向に向かったのは、かろうじてリーダーシップを取っていた父が高所から滑落してからだった」
 あれほど頑強だった父は、動けなくなってから罵詈雑言と呪詛をまき散らし、最後には惨めに泣きじゃくった。でも、間もなくそんな力さえ失った。
「あちこちの骨を折った彼は、動くこともままならなくなり、やがて意識を失った。もちろん運んで降りられるはずもない。ここに留まっていれば間違いなく死ぬが、動く体力はない。もう何日も何も口にしていなかったからだ」
 それがすべての引き金だった。
「その提案をしたのが誰だったか、思い出せない。ただ、父の持っていたナイフに目をつけた人がいたのだろう。気が狂ったのかと思ったが、信じがたいことに他の家族は反対せず、議論もほとんどないまま、あっさりと父をどうするかは決まった」
 誰かは言った。嫌なら飢えていればいい。それをするかどうかは、各人の自由だと。
「それから数日が経ち、吹雪が過ぎ去って太陽と青い空が戻ってきた。山のすそ野から煙が上がった。発煙筒だった。次男の少年が機転を利かせ、持ち主が荒天で忘れていたところを剥ぎ取って使ったものだった」
 それが誰だったのか、少年は記憶していない。
「行方不明に気づいたが天候のせいで打つ手がなかった救助隊が、ようやくそこに向かうと、生存者は一人、その少年だけだった。少年が来たと思われるルートを辿ると、ある崖の上に横たわった、何かに引き裂かれて荒らされたような死体があった。その下には、争って転落死した二名の死体が見つかった。さらにいくらか離れたところで、一人の死体が見つかった。こちらも損壊はひどいものだった」
 身体を刃物で切り裂かれ、臓器や肉をバラバラにされた死体。
「生き残った少年はただちにヘリで搬送された。凍傷などの重篤な怪我がなかったため、命に別状はなかった。ただ、彼はほとんど事故を思い出せなかった。喋ろうとしても話が支離滅裂になり、やがて会話も困難になり、一日中一言も話さないで窓や壁を見つめ続けたり、睡眠中に全身の震えが止まらなくなって叫んだりと、精神的に危険な兆候を見せ始めて、聞き取りは困難になってしまった」
 それから彼が人間として正常に機能するようになるまでに、数年がかかることになる。
「しかし、警察当局などは最初からこの事件を深く調べるつもりはないようだった。救助に当たったチームには厳重な緘口令が敷かれ、何も見なかったと誓約させられた。検死のデータも握り潰され、『金持ち一家の惨劇』に一度は群がった報道は、ある瞬間からピタリと止まった。そして、事件は風化していった。今となっては、時折インターネットで怪談怪事件の類として囁かれるのが関の山だ」
 あくびをしてから、話にオチをつけた。
「少年がどうしているかは、誰も知らない」

 

 凍月は僕が喋っている間、一言も口を挟まず、黙って聞いていた。
 話が終わった後も、しばらく会話はなく、冷房の音だけがアンビエントミュージックのように耳にこびりついた。
 沈黙が永遠に続くかと思われたとき、凍月がふいに口をついた。
「……それで、食べたんですか」
「少年として答えるならば、僕は、」
 救出直後に何百回と訊かれ、もう飽きた問い。
「食べなかった、と記憶している。家族の誰かは誰かを食べたと思うよ。ただ、もう確認する方法はない。証明するにも一人しか生き残らなかったし、欠席裁判になっちゃうから」
「みんな、死んじゃったんですね」
「そりゃそうだよね。一度タガが外れたんだ。もうコントロールできない」
 人間には、どれほど追いつめられても身を支えることができる、最後の一本の糸がある。つまらなく言い換えれば、理性とも、尊厳とも、倫理とも呼べるかもしれない。
 それが切れた瞬間、僕たちは際限なく落ちていく。特権を失い、壊れた欲求しか求めることができなくなる。
 それを、人間と呼べるのか。
「死ぬほど寒かったはずなのに、思い出すと感じないんだ。お腹が空いていたのは憶えているけど。でも、それもはっきりとは思い出せない。……他人の記憶みたいに、体験が自分から切り離されているみたいで」
「……だから、憶えてないって言ったんですね」
「別に煙に巻いてるんじゃないんだよ。ただ本当に、言うべきことがないんだよね」
 神様が記憶のその場所だけ消しゴムをかけてくれたような感覚。
 しかし、一度書かれたものを、完全に消し去ることはできない。だから、今の自分にもその影は残っている。僕の中にはその少年がまだいる。消化できず、切り離せずに、器官と一体化するように身体の中にいて、ときどき拒絶反応を起こしながらも共生している。
「でも、真さんは幻を見るんですよね」
「さぁ。関係あるかは知らないよ。さっきのお姉さんはそうだと思ってたみたいだけどね」
 媛先生。
 廃人同然の少年を半ば引き取り、彼を可能な限界まで人間に戻した、医者。
 壊れていた頭でも、初めて出会ったときのことはギリギリ思い出せる。
 彼女は出会うなり僕を抱き締めた。
 不思議だなと思った。
 どうしてこの見知らぬお姉さんは泣いているのだろう?
 はや幾星霜、昔話だ。
「物語は、これでおしまい」
 凍月に向き直り、話を締めくくった。こんなノスタルジーに興じている時間はないのだ。
「で、改めて。凍月、これからどうする?」
「私、行きたいところができました」
 その言葉に少々驚く。
 けれどもさらなる驚きは、その次にやって来た。
「真さんたちが過ごしたペンション、まだありますか?」

 

 マジかよ、と思いつつネット検索してみると、なんと建物はまだ解体されず残っているようだった。
 売出中の物件として某所に載っていたが、買い手はついていない。調べてみると何度か入居者(例に違わず金持ちだ)が入ったが、全員が短期間で逃げていったようで、その誰かがやったのか、口コミサイトには事故物件として登録されている。
 曰く『夜中に物音がして金縛りに遭いました! 朝起きたら台所が食い荒らされていました! 金返せ!』等々。霊になっても人のプリンを取るみたいに書かれるウチの者が浮かばれないぜ。
「行ってみたいです!」
 凍月はもう決定済みのようにはしゃぎ始めたが、正直今更もういいだろという気もした。でもこいつが言うなら価値はあるかも……と思ってしまう自分の甘さにため息。
 とはいえ、ここからだと結構あるんだよなぁ。
「凍月、こっちも一つ訊くんだけど」
「畏まってなんですか愛しの真さん」これを無視できるようになる慣れって怖い。
「あとどれぐらい持ちそう?」
 意趣返しも兼ねて言ってみたところ、凍月は思いのほか深刻な顔をしてしまった。
「……詳しくは分かりません。ただ、けっこう具合がよくないのは自覚してます」
「一日、二日は大丈夫かな」
「たぶん……」
 なんとも頼りないアバウトな返答。
 ま、途中で死んだらそれはそれか。『真夜中のカーボーイ』みたいで格好いいし。
「分かったよ。行ってみる」
 覚悟を決め、キーを捻って鉄塊に火を入れた。

 

 確かに凍月は徐々に、目に見えて分かるほど弱っていった。
 顔は青ざめ、口数は減り、車内では眠っていることが多くなった。
 ただでさえ万全でなかったのに、昨晩はバトルや潜入までやったのだ。媛先生はサブリマトゥムの飢餓の大半は自壊衝動だと言っていたが、それでもやっぱり食人にエネルギー摂取の面が少ないとは言えない気がした。
 まるで死体とドライブしている気分だったが、それでも車は進んでいく。僕もそれをことさら止めようとはしない。たまにコンビニに入り、(二人分の)必要品を買う程度だ。そのときも起こさない。戻ってくると、まだ生きてる、と思う。
 ときどき起きて何かを一口か二口食べ、そしてまた眠る。無為に夜は明けていく。
 僕にできることは何もない。おちおちしていたら警察に捕まってしまうかもしれないし。
 ヒトを食べないと決めているのだから、こいつは死を自分で選んだことになる。あとに残るのは、どこでどうやって死ぬかという問題だけ。
 だとすると、凍月はあのペンションで、僕が始まった場所で、死んでいくつもりなのかもしれない。
 なぜそこを選んだのか、僕には正直よく分からないけれど。

 

 一年中雪に覆われた山も、ふもとに降りると夏の朝には爽やかな高原だ。朝からもうちょっと気温も手加減してくれると避暑地らしくなるのだけれど。
 遠目に見えるケーブルは、スキー用のゴンドラだろう。草地の上で止まった姿にはなんとなく趣があるな、とか考えながら道を進む。
 高速を降りてから、はっきりと流れている空気が変わった気がした。懐かしい感覚。僕はこの時間を知っている。あれから一度も訪れていないというのに。
 激しくトラウマが甦らないかはちょっと心配だったが、季節のおかげか、弱っていても凍月のパワーか、幻覚は現れていない。考えてみると、こいつがいなくなったらまた僕は幻と付き合わなければいけなくなるのか。
 ……考えるな考えるな、と言い聞かせつつ、目を閉じた傍らの少女を運ぶ。
 それにしても、サブリマトゥムはどんな夢を見るのだろう。それも人間から学ぶのかもしれない。
 だとしたら、ヒトを食べない彼女は、夢を見られないことになるが……。
 そんな想いを馳せたとき、ペンションのある地区の標識が見えて、通り過ぎる手前で慌ててブレーキをかける。幸運にも車通りは皆無で、事故にはならなかった。
「……んっ……なんですか」
 衝撃で凍月は目を覚ましてしまったらしい。
「もうすぐ着くよ」
「……また、そんなに寝てたんですか」
 目を擦ってから、彼女は「涙だ」と呟いた。「私、泣いてたみたいです」
「夢を見た?」
「はい。よく憶えていないですけど……たぶん、氷の夢です」
 僕は何も言わず、ハンドルを回した。

 

 ペンションに近づくにつれ、勾配は増してきて、車道も舗装が途切れ、雑草を踏みつぶしながら進んだ。
 しかしそれも束の間で、まもなく車道の行き止まりに突き当たった。駐車場という扱いなのかもしれないが、草地にぽつりと土が露出した地面があるだけで、管理されているとは言い難かった。
 ここに来るまでに門のようなものも見かけなかったし、管理者は放置しているのかもしれないと疑っていたが、その推測が現実のものになりつつある。
 横には林とそこに入る階段があり、『○○荘歩道』と文字の掠れた小さな看板がある。見上げると、木々が連なる先に峰が見えた。ここが山の入り口だろうか。
 車を降り、寝ぼけまなこの凍月をしっかり起こして、ドアの外に連れ出す。足取りは不安定で、すぐに僕の身体によりかかってしまう。
 階段を指さして「……登れる?」と訊いてみる。
「登れる……かも」ですけど、とすぐ言い添える。「真さんの背中に乗車希望です」
 はぁ、そうですか。
 諦めて背中を貸すと、乗りがけに何度も警告される。
「変なとこ触ったら蹴ります。重いって言っても蹴ります。命が惜しければレディが乗っていることをお忘れなく」お前本当に体調悪いのか?
 ということで人間一名を担いだ厄介な登山行が始まった。
 栄養失調の死体みたいに軽かったのは言わないでおいた。

 

 息をつき、何度か途中で下ろして休憩。ペットボトルの中身はどんどんなくなるが、凍月に優先して飲ませなければいけない。間接キスだとか言い出さないのを見て、本当に弱っているんだなと改めて思った。
 森の中は日差しからこそ隠れられるが、それでも蒸されることには変わりがない。セミだかなんだか分からない虫が喚いて、頭が痛くなってくる。
 あの頃は別のスロープ状に蛇行した道があって、車が使えた。そこが雪で塞がって出られなくなったんだっけ。道路も崩落して、一〇年経っても修繕はあまり進んでいないとサイトに書いてあった。それもペンションの価値を落としているのだろう。
 ……少しずつ、記憶が鮮明になっていく。体験ではなく、知識としての風景。記憶どおり、川が出てくる。せせらぎに体感気温が下がる。そうだ、一度だけ夏に来たことがあって、ここで遊べたんだ。もう迷うことはないだろう。
 目の前が開けて、登山が終わる。
 朽ち果てた『私有地につき立入禁止』の立札と柵を跨ぐと、そこにそれはあった。
 色褪せ、ところどころ腐食が進んでいるけれど、それは確かに、あの頃の記憶の貯蔵庫。
 街を一望できる山の中腹に、その場所はあった。
「……本当に来たんだ」
 思わず呟いていた。
「どうですか」と、僕の背中から飛び降りた凍月が言う。「変わってないですか」
 呆けたように、頷くことしかできなかった。

 

 建物には監視カメラや警報装置のようなものはなく、やはり放置されているようだった。正面のドアには鍵がかかっていたが、裏口の戸は(やはり雪のせいか)一部崩壊しており、簡単に中に入ることができてしまった。
 部屋はどこもがらんとしていた。家具はすべて撤去され、電化製品も持ち去られ、入居者を偲ばせるものはほとんど残っていなかった。使えそうな設備といえば、リビングの暖炉くらいか。しかし残念ながら今は夏、日本に四季があってよかった。
 唯一人の痕跡がある物置から見つけたのは、備え付けのキャンプ・防災用具など。ビスケットや缶詰、毛布、寝袋、着火剤、薪、手回し式ラジオ、工具など、いろいろ。
 電線は切れていた。電気はあっても動かすものがもうほとんどなかったけど。照明も割れたりそもそも取り外されていたり。これでは買い手がつくはずもない。ここは廃墟に片足を突っ込みつつある。
 にもかかわらず、凍月は目を輝かせていた。
「気に入りました。……真さん、ここに住みましょう!」
「こんな廃墟に?」
「何が廃墟ですか。ここは真さんと私の逃避行の果て。つまり愛の巣です」
「……よく分かんないけど。どうやって住むの」
「それは考えてください」
 丸投げかよ。
 しかし、凍月は梃子でもここから動く気はなく、ここを終の住処に決めた様子だった。
「ここで、真さんと暮らします。えへへ、二人暮らし再開ですね」
 笑顔で今後の展望を喋る凍月を、僕はただ眺めていることしかできない。
 目に映るすべてが破滅の前触れに見えた。
 これから凍月は最期の時間を過ごすのだ。
 それを僕は、これから一方的に傍観する。

 

12 氷河が来るまでに

 

 というわけで、二人暮らしが再開されたわけですが。
 リビングと呼ぶであろう部屋を見渡す。
「何もないね」
「何もないですね……」
 この家で暮らすというのは、実質キャンプみたいなものであることが分かってきた。
「とりあえず、ご飯を食べましょう。子曰く、腹が減っては恋も革命もできません」「しかし数千年前にも恋と革命はあったかは一考に値する」「絶対あるでしょ。放っておいても人間は恋と革命をします。ついでに食料を与えなければ人間も食べます」「相手を食べないと出られない部屋に入れれば」「響きがいやらしいですね」どこがだよ。
 ということで、昼食としてビスケットを開ける。
 さすがに腐ってはおらず、普通に食べられた。何味とも形容しがたい味がした。
「ビスケットだね」
「間違いなくビスケットですね」
 ……やだやだやだーと凍月が声を上げる。
「こんなんじゃ味気なすぎて死んじゃいます。入院と死刑と出撃の前にはおいしい食べ物と決まっているのに」どれでもないが確かに結果は同じだ。
「……買い出しに行くしかないか」
 時間はちょうど正午。屋内は日陰で涼しかったので、この気温でまた外を歩くのは嫌だなぁ……。人目につきたくもないし、戒子さんの手助けがあったにしても金銭的余裕は保っておきたい。お金を下ろしたら足がつくからね。
 しかしアパートから何も持たずに出てきてしまったので、必要なものは多い。
 一般的な水道はなかったが、川の湧水が引いてあった。火を起こせば入浴もできる。確かに父に教えられてやったかも。
 最低限に絞って、火元と腐敗しない食品か。
 幸いここは山なので、ふもとに降りればアウトドアグッズはありそうだ。実際に車で通ったときもホームセンターがあった憶えがある。
 ……凍月は無理だよなぁ。僕一人で降りるか。
「凍月、待ってられる?」
「真さんが待てというなら私は電池切れまで放置されるたまごっちにもなれます」
 衰弱しても相変わらず比喩はおかしいままだった。
「大丈夫です。ちょっと暑いですが、戻ってくるのは分かってますから」
 凍月はそう言って備品の毛布を床に敷くと、靴を脱いで乗り、窓の光から日陰になった壁にもたれて座りこんだ。衰弱しているのにこんな格好をさせてしまい申し訳なくなるが、仕方ないか。
「すぐ戻る」と言い残して、山を下りた。

 

 ふもとでホームセンターや食品店、コンビニ等々を車で回り、衣類から歯磨きのブラシに至るまで、片っ端からモノを買う。店員からはアニメに触発されてキャンプに来たが何も持ってこなかったのに気づいた人みたいに思われていてほしいけれど。
 軽いものから重いもの、小さなものから大きなものまでいちいち持ってくるのに難儀したが、何回かに分けてなんとか荷物を運びきった。
「よく頑張りましたね、真さん」
「まぁね……」
 息を切らす。ひと段落はしたが、何か料理をする気力はなかった。
 しかしちゃんと想定済みである。
「はい、これ」
 ピザポテトの袋を渡す。菓子類も買っていたのだ。
「ポテチですか……」
「これはこれで豪勢」
 だが久しぶりのチーズとあって、凍月は待って消耗した元気もいくらかは戻ったようだ。
「さらにこれもある」
 トランプと簡易将棋盤、パズル本を次々に出す。土産物店で買ったものだ。
「なんですかこれ」
「暇潰し」
 思ったより反応はイマイチだった。現代っ子め(己を棚に上げる)。
「盗電でもしないと、スマホも使えなくなるから、なんかあったほうがいいかと」
「ルール分かんないんですが」
「覚える時間なら無限にある」
 どれだけ無限が残っているかは、こいつ次第だけどね。

 

 こうして、凍月最後の日々が始まった。

 

 朝、僕たちは並んで目を覚ました。
 凍月は今回もやはり、どうしても二人で眠りたいと言って聞かなかった。それはきっと、僕を枕代わりにしたかったからだろう。がっしり掴まれている。
 しかし凍月が目を開けるなり、それは瞬時に解除された。
「……起きてましたか」
「いや、寝てた」
「嘘ですね」間髪入れず見抜かれた。「狸寝入りスキルが足りません」
 ……はぁ。精進しますか。
「おはようございます。ところでお腹が空きました」
「……あー、はいはい。で」
「朝食を至急所望いたします。飢え死にしそうです」
 朝から笑えない冗談を言うなや。

 

 料理には買ってきたボンベ式の簡易コンロを使う。
 ライターで火を入れただけで凍月は目を輝かせた。
「すごい! 真さん、燃えてます!」
「そりゃ燃やしてますからね」
 お米を炊くのはめんどくさいのでパン食が早々に決定し、食パンをバーナーで焼く。ベーコンも焼く。凍月はもちろん焦がす。無理してかじる。諦める。僕が処理する。美しいシークエンス。
 チーズを焼いて溶かし、バターを塗ったパンの上にかける。ベーコンを乗せ、ケチャップをかけて、できあがり。何とも贅沢だが、焦げ付きが厄介ではある。
「すごい! トルコアイスならぬ、トルコチーズフォンデュじゃないですか……!」
 それでも喜んでくれたから、いいや。

 

 買ってきたテーブルゲームから凍月が興味を持ったのは、なんと将棋だった。
「これがまるで将棋みたいな将棋ですか」
 何が『まるで』なのか理解不能だが、紙にプリントアウトされた将棋盤を見て凍月は唸った。めんどくさいことになりそうだ。
「で、どうやって戦うんですか」
 僕は四角い箱に駒を詰め、型抜きのように盤に固めて置くと、指で駒を抜いた。
「崩した方が負けね」
「絶対そんな遊びじゃないでしょ! バカにしてますよね!」
 失敬な。由緒あるジャパニーズジェンガだぞ。
「ルール教えてください。すぐ覚えます」
 仕方なく、並べ方や駒の動き、成る、駒を取る、囲うなど、マジでゼロからルールを教える羽目になる。改めて説明するとめちゃくちゃめんどくさいゲームで嫌いになってきた。
 CPUとしかやったことがなかったのはぼっち煽りされそうなので隠しつつ、一戦。
「負けました……」
 さすがにこちらがほほぼすべての駒を取ってしまい、ワンサイドゲームに終わった。
「ってことで、難しいゲームなので簡単なやつにしよう」と駒を並べて指で弾き飛ばし始めたら「もう一戦! 今度こそ勝てます!」と闘争心に火をつけてしまった。
 ……しかし、驚いたのはその吸収速度。なんと僕は三戦目にして敗北した。
「どーですっ、こんなの余裕ですよ」
 こいつ、なんか筋がいい(僕が下手だという発想は意地でもしない)。
 六戦三勝、しかし二連敗でムムム……というところで、我に返る。
 集中して忘れていたが、そろそろお昼時のはずだ。
「凍月、何か食べないか?」
「嫌です。勝つまで続けましょう」
「じゃあこっちもそうする」
 ということを繰り返しているうち、昼飯抜き。
 凍月が食欲の欠如を隠していたのは、言うまでもない。

 

 午後、日差しが緩んできたところでちょっと遠出をしてみよう、と相成り、小川まで歩いてみた。
「ちょ、なんか虫です怖い怖い怖い」
 凍月は僕が気づかなかった虫をめちゃくちゃ怖がっていて、水辺に着くまでこちらにくっついて離れなかった。
 しかし川までくると警戒心も解け、すっかりはしゃいでいた。水がいっぱいあるから面白いのでしょう、きっと。とか思案していたら水をかけられた。
「きゃー、真さんのえっちー」
「お前が攻撃してきたんだぞ」
 やむを得ず専守防衛を行う。
 ばしゃばしゃばしゃばしゃ。
 むつまじいロマンスのはずがまもなくガチバトルになり、たちまち両者水浸し、無常を知る。行く川の流れは絶えず。完。
「……はぁ、疲れた」
「まったく、涼しかったのに、真さんのせいで暑くなっちゃいましたよ」
「どの口が言うんだか」
 二人して両足を水に入れ、休息。
「悠久の時間を感じますね」
「戦の虚しさも感じてくれ」
 しかし平和への訴えも空しく、セミの声が身体の芯まで沁みた頃に凍月は立ち上がった。
「……よし、十分休みましたね」
 足を払うと、いきなりこちらに飛沫が飛んでくる。
「休戦破棄です」
 ということで、ばしゃばしゃばしゃばしゃ。

 

 地球は回っている。当然である。
 だからどんな日にも、夜は来る。当然である。
 凍月が「またあれが食べたいです」と言ったので、夕食はグラタンになった。どうしても日本で海外食を食べたくてハヤシライスを作らせる帝国軍人みたいな無茶振りだった。具を買ってきた方も悪いですが。
「はぁ……もう一生分チーズを食べました……」
 飯盒をほぼまるまる平らげて、凍月は大満足のようだった。満足すぎてちょっと苦しそうに見えたが黙っておいた。
 分かっている。
 こいつは無理をしている。
 しかし今更そんなことを言っても何になるというのか。
 それを知っていて、僕は好きにさせておくことにした。
「……というわけで、これから二生ぶんをお願いします」
 あれ?

 

 食後は他のゲームに転戦したが、やがて自然に就寝の時間となり、こちらもようやくゆっくりできた。こいつといると一秒たりとも気が収まらない。
 冷房もなく、寝苦しい夏。
「ちゃんと水分取ってくださいね。これから激しい運動するんですから」「黙れ」
 どうでもいいやりとりがしばらく続いたあとで、こちらに身を寄せられる。
「……一日って終わっちゃうんですね」
「凍月って当たり前のことしか言わないよね」
「当たり前のことだから言うんですよ」
 そうなのかな。そういうものか。
「こんな毎日が永遠に続けば、いいんですけどね。永遠に二人っきりで、永遠に遊んで暮らすんです。で、一人目は」「分かったからもういいよ」
 でも。
「永遠に続いたら、それはそれで困るんだよ、きっと」
「……分かりません。楽しければ、それでいいじゃないですか」その声は、広い部屋に静かに響いた。「真さんは、難しいことばかり言います」
「難しい話は好きじゃないけどね」
「私もです。難しい話は分からないので」
 また、そういうことを。
 水を打ったような静寂。
 何も聞こえない、虫さえ死んだような、空虚な夏の夜。
「真さん」
 なんだ、まだ寝てなかったのか。
「真さん、おなかいっぱいです……つぎこそかちます……んにゃ」
 かわいこぶってんじゃねえぞと思ってたら猫の真似ではなく眠言だった。
 それはもう国民的アニメに出演できそうな速度で凍月は眠ってしまった。
 ……さすが、狸寝入りも早ければ、爆睡も早い。
 なんとなく、寝顔を見てみる。
 眠っていれば、顔貌は本当に人形のようだ。改めて認めると、可憐さに驚く。面と向かっては決して言えないけれど。
 ……今日は眠れない、かもな。

 

 このようにある一日が終わる。
 平均的な、いい一日。

 

 けれど、本当のことを言えば、それはちっとも平均的な一日ではなかった。平凡な日々ではなかった。それを知っていて目を逸らしている間にも、終わりは近づいていた。
 彼女に残された時間は、想像以上に短かった。

 

 七日目に、凍月はまず歩けなくなった。
 凍月は僕に身体を拭いてもらわなければいけなくなったことが不服だった。
 曰く「真さんならいいんです。でも、これじゃ介護みたいじゃないですか」とのこと。
 しかし結局目隠しはさせられ、「ひゃん」とか「んっ……」みたいな嬌声を聞かされながら変態の称号を押しつけられてしまった。
 その他いろいろな理由で凍月を動かさなければいけなくなる度に、凍月からのレッテルは深くなっていった。
 この頃には、彼女の身体を持ち上げるのにほとんど苦労しなくなっていた。

 

 その翌日には、腕を持ち上げることが難しくなった。
 食事も僕が食べさせなければいけなくなった。なぜか凍月はこれには喜んだ。
「あーん、っていいですね。まさにバカップルです」
「『ップル』はバカの接尾辞ってことですか」
「そうです私はバカですアホでーす。でも真さんはスケベでーす」はいはいクソガキが。
 ただ、スプーンを持てないから、僕にやり返せないのが悔しそうだった。

 

 さらに翌日には、食べ物を噛むのに難儀し始めた。
 食欲も減っていたからさほど困る話ではなかった。
 朝、僕はチーズを薄めておかゆに混ぜた。「毒見ですか。ついに食卓殺人ですか」と警戒していたが、結局ごくごくと飲んで、回想モードに入った。
「出会ったときも、こうやって飲ませてもらいましたっけ」
「あれから何日?」
「考えてみれば、まだ一ヶ月とちょっとじゃないですかね」
「信じられないね」
「あと九ヶ月と一〇日もたないとまずいですね」何がだよ。
 そんなわけで、祝杯として夜には味噌汁を作ってやった。

 
 最後には、トランプの紙切れも持ち上げられなくなった。
「真さん、暇です」
「喋ると疲れるよ」冗談でなく、口を動かすのにもエネルギーを使うはずなのだ。「羊を数えなさい。英語で」
「うわ、冷たいです。こういう振る舞いをする彼氏に限って見捨てられないタチなのを見透かしていますよね」
「それは彼氏が悪い」
「殴っても一〇〇〇円札はドロップしませんよ」
 この期に及んでも僕の扱いは変わらなかった。

 

 僕はこの数日の間、一睡もしていなかった。眠ってくださいと何度も言われたが、どうしても眠れなかった。
 不眠と暑さのせいか、頭がぼんやりして、既に今が夜なのか朝なのかも分からなくなってきていた。それでも僕は意識を繋いで、凍月の傍から離れなかった。
 その間、僕たちはいろんな話をしたけれど、ほとんど頭に入ってから抜けていって、すぐにほとんど思い出せなくなった。
 真さん、と横になったままの凍月が呟いたときも、そんな話の途中だった憶えがある。
「野良猫って、死に際になったら隠れちゃうらしいですね」
「急に死生観の話ですか」
「いや、いちおう死ぬんですからなんか深いことを言っとかないと。えーと」
 既に声はか細くなって、意識しなければ聞き取れなくなっていた。
「で、一方、俗説に反してウサギは寂しくても死なないそうですね」
「そこからどう深い話に繋げるの」
「……だから干支に猫とウサギは入れなかったのです」
「強引に締めたけどウサギは四番手につけていますね」
「私は猫の気持ちもウサギの気持ちも分かります」マジレスはガン無視された。「寂しくても死にませんが、死ぬときは寂しく死にたいって、前はそう思っていました」
 でも、今はそうでもないですね、と凍月は言う。
「看取られるっていいなぁって、思いました。看取られ音声が流行る気持ちも分かりましたね。ただ……生き残る方には、申し訳ないと思いますけど」
 その言葉で、ああ、こいつは死ぬんだなと思った。
 凍月はそれを悟ったから、この話をしたのだろう。
 そして僕は、なんてこともなく生き続けるだろう。
 リヴ・フォーエバー。死ぬのはいつも他人ばかり。
 お前は死ね。
 僕は生きる。
 それだけのことだ。
「凍月」
 名前を呼んでみて、他に言うことがないのに気づく。だから、また呼びかける。
「凍月」
「はい。真さんの凍月ですよ。なんですか?」
「……凍月」
「そういえば、真さんがつけてくれたんでしたっけ。凍る月。凍る星。きっと偶然だけど、氷と関係のある――いい名前ですね」
 い、つ、き、と凍月は口を動かしてみせた。
「ここは、寒いです」
 目が閉じられる。
「結局、真さんを食べられませんでした。どんな味だったのかなぁ」
「……凍月になら、食べられてもよかったよ」
 それはたぶん、本心からの言葉だったと思う。
 凍月はそれに答えず、笑った。あるいは、口元を曲げた。
「死ぬのって、寂しいですね」
 なんとなく手を握ってみた。おそろしいほど冷たかった。
 それで終わりだった。

 

 凍月が生命としての運動を停止したのを確認して、僕はペンションの外に出た。
 鼻先に、冷たいものが当たる。
 八月の空から雪が降っていた。
 手のひらを空に向けてみると、たくさんの欠片が灰のように降り積もった。
 地面に目を落とすと、一面が凍りついていた。
 地響きのような音とふるえが遠くから聞こえた。目を凝らすと、近くの山が動いているのが見えた。山はふもとから頂まで凍って、氷河の塊が連なっていた。それが木々をなぎ倒し、いたるところでゆっくり動いているのだ。
 この国の、この世界の光景とは思えなかった。
 寒いなと思った。
 寂しいと思った。

 

13 The End of Inter Ice Age 4

 

 凍月の死体を背負って外に出た。
 軽かった。
 あれからまだ一睡もしていなかったけれど、ずっと雪が降っていて時間が分からない。
 ただ、氷河がみるみるうちに眼下を侵食していったことで、時間の経過は理解できた。
 それはどんどん勢いを増して街に迫っていく。
 どうしようかと考える。街の人たちに警告しなければいけないのか。
 しかし見ている限り、街がパニックに陥っている様子は見られない。氷河に呑み込まれそうな今も、車道には車が通り、通行人と思しき点がかろうじて見えた。
 手遅れだ、と思った。
 氷河はついに街になだれ込んだ。こんな言い方が許されるとは思えないが、正直なことを言えば、壮観だった。
 建物は次々に押し流され、箱を潰すようにぐちゃぐちゃになり、千切れたり崩れたりしていく。ビルもマンションも一軒家も店舗も問わず、平等に偉大な破壊が振り下ろされていく。それを僕は、ただぼんやりと眺めていた。
 まだ氷河がこちらの標高に届いていないせいか、それとも凍月が死んで感覚が麻痺しているのか、何も感じられなかった。ただ、どこか遠い国の映像を真っ暗な部屋に座って見させられているようだった。それに感慨を抱けと言われても、無理がある。
 たとえ点のようなものが落ち、潰され、真っ赤な染みを作るのが見えたとしても。
 彼らはなぜ気づかなかったのだろう?
 ああ、そうか。
 これはすべて、僕の幻だったのだ。
 だとしたら何も恐れることはない。
 僕は凍月を背負って山道を降りて行った。その道のりが、一〇年前に一家が進んだのと同じことに、しばらく気づかなかった。

 

 雪道は足下を取られ、歩くのが疲れる。
 今も雪は頭上に降っている。早く場所を探さなければ、道が埋もれて動けなくなってしまう。そうしたら、それこそ一〇年前の二の舞だ。
 小川は凍っていたものの、まだ埋もれきっておらず、周囲から一段低いところにあった。これを頼りにすれば、下に降りても帰りは道に迷わないだろう。
 水面、いや氷面を踏むと鈍く軋んだが、落ちて溺れることはなかった。
 そのまま歩き出す。

 

 川はやがてある場所で切れ、先には空が広がっていた。
 近づくと、それは小さな崖であるのが分かった。なるほど、視界が悪くて分からなかったが、もしかしたら一〇年前に父はここから落ちたのかもしれない。
 迂回してゆっくり高度を下げ、ジグザグに降りていく。
 底まで到着し、見上げると、水は落ちてきた途中で凍り、崖の上と繋がったまま、空中に氷として留まっていた。
 近づいて、下をくぐる。
 水圧でえぐれたのか、滝の奥はくぼんで、小さな洞窟になっていた。そうだ、あの時はここに身を隠して父の死体の行く末を議論したのだろう。
 今更になって戻って来るとは、あまりにも因果な人生だったと思う。
 洞窟の中に入ると、当たり前だが中は真っ暗だった。懐中電灯がペンションの備品にあったはずだ。持ってくればよかったと後悔しつつ、進んでいく。
 洞はさほど深くなく、何歩だか歩いたところですぐに行き止まりに突き当たった。
 寒かったけれど外ほどではなかった。
 だからちょうどいい場所だと思った。
 凍月の死体を下ろし、地面に置く。安置する。
 長い髪が氷の床に広がり、外から入りこむ微量の光を反射して、暗闇の中で輝いていた。
 美しい、と思った。
 真っ暗で表情は伺えなかったけれど、おそらく凍月は満足することだろう。
 もちろん、死体は何も考えはしないと分かっている。だから奇妙な発想だ。
 それは死体がどんな味なのかを想像するのと同じくらい奇妙な発想だった。

 

 そんなふうに、埋葬は終わった。

 

 こうして僕は、すべての始まりになったペンションにひとり暮らしている。
 僕の語りは今、この現在に追いついてしまった。
 もう何も言うことなどない。
 すべては終わったのだから。
 この世界は終わるのだから。

 

 目が覚めると、寝袋から僕はおもむろに抜け出す。
 窓の外の空はいつでも仄暗く、いまが昼なのか夜なのかさえはっきりしない。僕はとうに今が何時かほとんど気にしなくなっていた。既に時間の概念を失っている。
 肌寒い。毛布を被って歩き出す。あれから急速に冷え込んでしまった。不格好だが、防寒着を用意していなかったのだから仕方がない。
 川はもう凍ってしまった。外で取ってきた雪を鍋に乗せ、バーナーで沸騰させ、溶かして水にする。
 湯気に手を当てて温まったあと、冷めないうちにインスタントのパックを持ってきて、味噌汁を作った。
 口にするものといえばそれくらいだ。
 身体に液体を流し込み、栄養補給が終わると、することがなくなる。
 ラジオをつけると、今日も氷河の話ばかりしていた。
 氷河が形成されるのには数千年だか数万年は必要のはずだとか、今までの気候からは地球が寒くなるとは考えられないとか、専門家たちは今日もニュースで口を揃えていた。政治家も学者も、この現実に太刀打ちできる者など誰もいないようだった。
 今日もたくさん人が死んだのが分かったので、満足してスイッチを切る。
 することがなくなる。
 トランプで遊んでみた。一人しかいないからソリティアしかできない。何度やっても手詰まりになる。呪われているみたいだ。腹が立ってやめた。
 将棋で遊んでみた。一人なので自分で自分と勝負してもつまらない。仕方なくひとりで詰将棋の問題を作ろうとしたが、僕の頭では無理だったし、だいたい作ったら答えが分かっているんだから面白くもなんともない。やめた。
 パズル本で遊んでみた。解けないので解答を見たら子供騙しの屁理屈みたいな答えばかりだった。これを作ったのはIQ何百かの秘密結社の会員らしい。もっと世のため人のために頭を使ってくれ。氷河を食い止める方法とか。やめた。
 することがなくなる。
 することがないので横になってみるが眠れた試しがない。
 一定以上の不眠は、もはや夢と現実の区別がつかなくなってくる。今が起きているのか眠っているのかさえ分からなくなるのだからある意味不眠は解決されたのかもしれない。いよいよ自分が何を言っているか分からなくなってきたぞ。
 そのうち一日が終わる。いつか終わっている。
 今日も平均的な、いい一日だった。
 今ならサソリの気持ちが分かった。
 こんなふうに生きるのなら、誰かに食べられた方がよっぽどマシだった、と思う。

 

 それからの世界のことは、ラジオでキャッチした断片的な情報しかよく知らない。
 猛烈な速度で気温は下がり、雪は太陽の光を覆うほど降り続き、熱を反射する星の冷えこみは止まらなくなった。
 たちまち燃料の価格が暴騰し、それはあらゆる製品に及び、またたく間に社会の秩序は崩壊した。人が一人殺され、二人殺され、そのうちどこかから流れた武器がやってきて、数えられなくなった。
 この国が無政府状態になるまで時間はかからなかった。
 世界は凍っていく。
 人々は急ピッチでシェルターを建設し始め、我先にと閉じこもっていった。その中に幸運にも入れた人間と、不幸にも入れなかった人間がいたようだ。よくあることだった。締め出された人々は極寒の中で次々と死んでいった。
 ……らしい。
 この国で最後のシェルターが閉鎖されたという放送を聞いて、どれほど経っただろう。たくさんの通信はある日から、ぷつりとすべて途切れた。
 どうなったのかは分からない。興味もない。人類は滅亡したのかもしれない。なんだっていいことだった。シェルターに入るつもりはなかった。
 あるいは、何度も考えたように、今もなおこの氷と雪のすべては僕の妄想の産物なのかもしれない。世界は終わっていなくて、僕は精神病棟かどこかにいて、毎日幻覚を見ているだけなのかもしれない。そう考えれば、こんな短期間で世界中が凍りついたことよりずっと現実的だ。いや、もしかしたら事故のあとずっと僕は気が狂っていて、凍月の存在自体が実在しなかったのかもしれない。
 それは愉快な発想だ。
 だって人食いなんているわけがないのだから。

 

 最近、ついに置かれていた薪がなくなってしまった。
 新たに木を伐り出すには相当の労力が必要だろうし、そもそも森林などとっくにほとんどが凍り付いてしまっているだろう。こうして暖を取る方法も失われた。
 買い込んでいた食料も心許なくなる。川で釣りでもしようにも、水面は凍っている。
 食べられるわけがないのに、気休めに猟でもしようと無茶な考えで、弓良さん(久しぶりに思い出した名前だ)の銃を持って外に出て動物を探してみたが、とうに生物は死に絶えたのか、動くものの姿はなかった。あるのは雪に吸い込まれる微かな風の音だけ。
 水は雪を使えば手に入っていたが、ガスが切れ、火を起こせなくなると溶かすのも難しくなった。
 凍月からいくらか遅れて、僕にも終わりが近づいていた。

 

 ペンションが雪に覆われ外に出られなくなる前に、もう一度、洞窟を訪れることにした。未練がましいといえばそうだが、それでも様子が知りたかった。
 付け足すなら、最後にもう一つ、やりたいことがあった。残っていた。
 最初は五人、次は二人、今度は一人の道を、氷の灰を踏みしめ急いだ。

 

 時が止まったようにあの日と同じ景色を進み、洞窟の果てに至る。当然宝箱はない。
 代わりに床には、大きな氷が鎮座していた。確か、凍月を置いた場所だったはずだ。
 ――墓標だ、と思った。
 弓良さんに成り代わったサブリマトゥムと同じように、凍月もまた、死んで氷になったのか。
 それで実感する。
 やはり間違いなく凍月は死んだのだ。
 だとしたら、僕の物語もここで終わるべきだろう。
 ポケットをまさぐって、薬のシートを取り出した。今日どこかから発見したのだ。媛先生に処方された睡眠薬だ。知っていたら使ったのに、いつ薬局に行ったんだっけ? まぁいいや。今役に立てばいい。
 すべてシートから取り外し、手のひらの上に乗せる。それから椀を一気飲みするように、口の中に放り込んだ。
 水なしで飲み込む。猛烈な吐気が襲ってくるが、無理やりに飲み崩した。
 これで準備できた。
 氷の隣に身を横たえる。狭いが、文句を言うならここに決めた自分に言うべきだった。
 ふいに最初に凍月と添い寝したときのことを思い出した。
 あーあ。どうして自分はこうもセンチメンタルなんだか。
 きっと親御さんが愛してくれなかったからだろう。うん。そうに違いない。
 大丈夫。もう頭が重たい。薬が効いてきたのだ。
 ようやくの眠りだ。天の恵みのようにさえ思う。
 目を閉じる。
 完了。
 カウント。スリー、ツー、ワン……ゼロ、ゼロ、ゼロ、いやこれは解除音声だった。最後に思いつくことがこれかよ。
 そうして、僕は最後の眠りに落ちた。

 

14 「    」

 

 ……。
 …………。
 ………………。
 なぜ、僕の意識は終わっていないのだろう。
 ひょっとして、ここが死後の世界だろうか。いや困るんだが。会いたくない身内がいっぱいいるんだが。具体的には母とか父とか兄とか姉とか。気まずいじゃん。
 しかし、それにしてはなんとなく、死という感じがしない。抽象的だけれど、僕を包んでいるのが、物理的な何かであることは間違いないように思われた。
 やがて、ある感覚に気づく。感覚? そう、なんと僕には身体があるのだ。すごい! だとしたらこれは何だ?
 温度だ。
 ゆっくりと、注意しなければ気づかないほどゆっくりと、しかし確実に僕の身体は温まり、重くなっていく。
 解凍。そんな言葉が浮かんだ。
 では、僕は凍らされていたのだろうか。まさかそんな、コールドスリープみたいな……そこで思い至る。そうだ。僕は氷の中で眠りに落ちたのだ。
 目が開かれる。
 なんと目の前が見える。まだぼんやりとしているが、そこが明るいことは分かる。
 しばらくすると、輪郭が見えてきた。
 誰かがいるのに気づいた。
 そこで聴覚が再起動する。
「ま――」
 誰だろう? 何を呼び掛けているのだろう。とても優しく、切実な響きに聞こえる。
「――と、さん」
 はっきりと聞こえる。聞いたことがある声。
 思い出す。僕があるひとにつけた、名前を。
「まこと、さん」
 なぜだろう、これは知っている誰かだという確信があった。そう、彼女だ。彼女? どうしてそれが女の人だと分かるのだろう。少女だと分かるのだろう。
 そこで、ふいにすべての疑問が解けた。
 世界の終わりは、すべてが幻覚ではなかったのだ。
 サブリマトゥムは、僕の幻を学習して、それを実行に移し、それはやがて具現化し、世界中を氷で覆いつくした。つまり、人間を含めた世界そのものを、彼女たちはすべて学習しようとしたのだろう、きっと。
 そしてそれは果たされたのだ。
 僕は思う。それがどれほど深く長くとも、眠りがあれば、目覚めもまた必ずやってくるのだと。世界が終わっても、また朝が来るのかもしれない。
 では、これから待っているのは、どんな世界だろうか? 氷の星は、いったいどんな姿なのだろうか? 人食いだったサブリマトゥムは、どんなふうに生きるのだろうか?
 分からない。
 でも、確かなことはある。
 きっと、懐かしい顔がそこにはある。
 そこで笑っている。僕を待っている。
 そして、目が覚めたとき、最初にかけられる言葉も知っている。
 だからその前に、その人に向かって、僕はこう言うことにした。

 

「ただいま」


 〈了〉